※九州王朝はなかったのか?※ 11

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937日本@名無史さん:2007/07/09(月) 18:49:20
総合的に考えて、長州王朝という王朝は存在しませんね。
もちろん畿内にも、白鳳時代以前に王朝など存在しません。
九州だけですね。
938日本@名無史さん:2007/07/10(火) 08:37:56
>>936
都合の良いように捏造拝借する電波人間乙wwww
939日本@名無史さん:2007/07/10(火) 10:51:08
>>934
隋のことを大唐と記述するとは、日本書紀もずいぶん中途半端な潤色をするもんだねえ。
隋書では裴清という具合に名前の世の文字が省略されているのに、潤色するとき「北史」も参照して裴世清と正しく記述したとな。ご丁寧なこって。
あ〜珍し珍しwww

裴世清の帰国に同行した留学生の高向玄理とか南淵請安も潤色ねえ。
ほぼ同時期に、
a 裴清という名の使者が九州(竹斯国)経由で九州王朝へ来た
b 高向玄理や南淵請安らが留学生として大和から中国へ行った
で、aとbは別ものとな。
すんげえ偶然だねwww。

日本書紀を書くとき、隋書と北史を参照して、aとbを一つのできごとであるかのように潤色したとな。
すんげえ編集能力だねwww

机上の空論で馬鹿さらす前に、まじめに日本書紀とか読んでみたら。
940太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 11:06:10
今の人間も東京生まれは江戸っ子って言うぜ。大江戸線の地下鉄もあるし。
941日本@名無史さん:2007/07/10(火) 11:08:38
>>937
九州年号と呼ばれているものは、九州王朝が作ったと言う証拠は何もない。
どうせ証拠がないなら、  (←ここ重要!!!)
これらは、長州王朝が作ったものであり、長州年号と呼ぶべきものである。

くやしかったら反論してみな。
942日本@名無史さん:2007/07/10(火) 11:15:36
>>940
そのとおり、江戸を東京と記述したり、東京を江戸と記述したりすることを、厳密に突っ付きすぎても意味はない。

で、とりあえず >>927 をよく読んで。
一つの矛盾だけしつこく突付いて、1点突破を図ろうとするような(2流の口喧嘩のような)論法は、無意味。

例えば、
多利思北孤の身分が倭王であるという一つの矛盾だけしつこく突付いて、1点突破を図ろうとするような(2流の口喧嘩のような)論法は、無意味。
多利思北孤=聖徳太子でOK!
943イワンの馬鹿:2007/07/10(火) 11:19:13
>>941
長州年号と呼ぶものは、長州王朝が作ったと言う証拠は何もない。
どうせ証拠がないなら、  (←ここ重要!!!)
これらは、九州王朝が作ったものであり、九州年号と呼ぶべきものである。

くやしかったら反論してみな。
944日本@名無史さん:2007/07/10(火) 11:43:35
>>943
大爆笑ものだぞwww
九州王朝は、幼児みたいに幼稚なオウム返しのような反論しかできないと、証明した。

しかも、その内容が、九州王朝が認められるなら、長州王朝も認めざるを得ないと言う、オウム返し
(馬っ鹿でえ〜)

このレス、永久保存だな。【勝利宣言】
945日本@名無史さん:2007/07/10(火) 11:44:48
>>943
頭悪くて迷惑
946太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 12:43:31
>>944
その長州には王朝を作れるほどの平野とか盆地があるのか?

長州だと半島から畿内に行くに日本版シルクロードの上だから、もし長州王朝
があったというんなら記紀に論争が出ないくらいの明文がありそうだがね?
半島から来る連中が長州とやらの王朝を通常は通貨して畿内にたどり着くだろう
から、記紀にはぼけた文ではなく、しっかり存在したような記載が残る筈だが?
それともそんな明文があるかい?

北九州を外れた中九州、南九州だとシルクロードから外れ、畿内に王朝の
情報が停滞する処と観る。とりわけ奥九州だとなおさら孤立状態的地理にある。
こういう処だと畿内の古文書等に実態が掴みにくい場ということで、反動と
して論争が後世置きやすい位置と観ている。
947太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 12:48:12
>>646 訂正

× 通貨    ○ 通過
948日本@名無史さん:2007/07/10(火) 12:59:54
王朝とは、
連続した元号を持ち
連続した政体があり
しっかりとした首長の交代があり
広域に影響がおよぶような国だろう。

奈良時代以前に、本州には王朝が見当たらない。
九州王朝だけだな。
949日本@名無史さん:2007/07/10(火) 13:02:00
王朝とは、
連続した元号を持ち
連続した政体があり
しっかりとした首長の交代があり
広域に影響がおよぶような国だろう。

九州王朝の華麗なる歴史

委奴国王

卑弥呼

神武→ヤマト王朝作る(分家)

継体天皇

倭の五王

磐井

目多利思比孤(用明天皇)

筑紫君薩夜麻

大海人皇子(天武天皇)

蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
950日本@名無史さん:2007/07/10(火) 13:41:10
>>946
>その長州には王朝を作れるほどの平野とか盆地があるのか?
明日香の盆地より広い平地ならあるし、上町台地(難波宮)より広い丘陵地帯なら、いくらでもあるよ。
それで十分でしょ。

>長州だと半島から畿内に行くに日本版シルクロードの上
日本海や瀬戸内海が存在することををご存知ないのかな?
海路で長州をスルーするのはは簡単なこと

>記紀に論争が出ないくらいの明文がありそうだがね
神話の舞台である九州に王朝があるなら、記紀に論争が出ないくらいの明文がありそうだがね
散々捏造とケチ付けた記紀なんぞ今さら持ち出したところで、九州王朝でも長州王朝でも条件は変わらないでしょ。

九州王朝に有利な反論は何もありませんね。残念!
ゆえに、九州王朝はなかったが、長州王朝はあったで問題なし!!!
951日本@名無史さん:2007/07/10(火) 13:56:19
>>948 王朝とは、
>連続した元号を持ち
いわゆる九州年号を九州王朝が使ったという根拠なし。長州王朝が元号を作ったと言っても蓋然性同等。【長州元号】

>連続した政体があり
九州で政体の継続性を証明するもの、何もなし。長州に継続して王朝があったと言っても蓋然性同等。

>しっかりとした首長の交代があり
九州王朝で「しっかりとした首長の交代」と呼べるものなどない。
  卑弥呼:後を継いだ男王で内乱勃発 (壹与がすんなり後を継いだと勘違いする馬鹿が多くて困る)
  讃珍済興武:九州という根拠なし(倭の五王は、当然、長州の王だろ。違うと言うなら反論してみろ、事実を示してな)
  磐井:敗戦・戦死(処刑?)
  薩夜麻:捕虜(朝鮮半島で奴隷状態?)
お笑いです。長州王朝でしっかりとした首長の交代があったと言っても蓋然性同等。

>広域に影響がおよぶような国
長州年号(=いわゆる九州年号)の利用地域が長州王朝の影響範囲であり、そのうち長州と九州が長州王朝の領域と言っても蓋然性同等。
952太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 14:03:28
>>950
フ〜ン、そこに長州王朝があったというのか? その位で半島と畿内
へ方法の通行を考えたとき年がら年中、山陰道通行というわけがある
まい。山陽の瀬戸内海に面した通路を確率でいっても半分は交通
しただろう。百済等の半島からその交通路を通って畿内に半島の朝貢が
わりかし記載されてるのに、なぜ途中の長州王朝の朝貢記録がゼロww
ではお前のくぐりぬけたい言い訳もおかしいと皆から見破られる。

九州はさらに畿内より遠隔にあり、半島からの交通路から外れて交流の
停滞しやすい位置にある。だから記紀には物理的にも情報が多大に行く
ことはないため記述が無に近いわけで不自然ではない。条件は全然
違う。同じではない。それでもゴリ押しで同じだとぬかすなら、長州
王朝のほかに九州王朝も同じだで存在していたことになり、お前の論は
自語相違の矛盾を露呈したことになる。w

つまり長州王朝などこれこそありっこないこととなる。これにお前が
逆襲して九州王朝などありっこないと言うううなら、双方条件は変わら
ないと自信満々ぬかした言動が今のとおり自語相違の繰り返しとなる。
953日本@名無史さん:2007/07/10(火) 14:05:59
>>951 3行目を訂正
× いわゆる九州年号を九州王朝が使ったという根拠なし
○ いわゆる九州年号を九州王朝が作ったという根拠なし
954日本@名無史さん:2007/07/10(火) 14:37:19
>>952
長州では、萩など日本海側の都市や山口などやや内陸の都市も、王都の有力な候補地です。

太国さんの大好きな金印の出土地は志賀島で博多湾ですが、そこよりは長州のほうが「半島からの交通路から外れて」いるのではないでしょうか。(長州1勝)
久留米のあたりに都があったという説もあるようですが、そこと長州とでは同程度に「半島からの交通路から外れて」いるのではないでしょうか。(引き分け)
遅くとも7世紀には九州王朝の都は太宰府の都府楼の下だそうですが、そこよりは長州のほうが「半島からの交通路から外れて」いるのではないでしょうか。(長州1勝)

長州が2勝1分ですね。ゆえに、「九州王朝はなかったが、長州王朝はあった」と、またまた【太国さんの論理】で証明されてしまいました。

まじめな話としては、朝鮮半島から、越→近江→山城・河内・摂津・大和 or 越→近江→尾張 といったルートも無視しては困ります。
955日本@名無史さん:2007/07/10(火) 14:52:11

委奴国王

倭国王帥升

├神武→開化(断絶)→崇神→仲哀(断絶)

卑弥呼

倭の五王→応神→武烈(断絶)→継体→宣化(断絶)

磐井

├欽明→舒明

多利思北孤

筑紫君薩夜麻

├中大兄皇子(天智)
├大海人皇子(天武)
├文武(大和朝廷を始める)→・・・

蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ


956日本@名無史さん:2007/07/10(火) 15:16:48
阿蘇山と金印って、長州のいったいどこにあるのかと、小一時間(ry
957日本@名無史さん:2007/07/10(火) 15:50:43
>>956
博多湾からも太宰府からも久留米からも阿蘇山の噴火の様子が見えないのと同様、長州からも阿蘇山の噴火の様子は見えません。
阿蘇山が長州王朝の領域の中にあったというだけのことです。
(長州王朝とは、都が長州にあったの意味)
すなわち、九州王朝があるというのと、長州王朝があると言うのと、蓋然性同等。

2通りの仮説が可能です。
仮説1 金印出土地の志賀島は、阿蘇山と同様に、長州王朝の領域の中にあったというだけのことだ。
仮説2 金印の時代、「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」と魏志倭人伝にあり、この東の国が長州王国だ。
仮説1でも2でも、お好きなほうをどうぞ。
ここでの重要な結論は、九州王朝があったと言えるなら、長州王朝があったとも言える、ですので。

しかも、
邪馬台国が九州にあったとすると、卑弥呼のあと一度内乱がありますので、九州に継続した王朝は存在しないことになります。
ゆえに、九州に継続した王朝はなかったが長州王朝はあった、が論理的帰結となります。
958太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 16:01:32
>>954
君の言ってることからは同じで変わらないんだから、1勝1敗だとか2勝2敗
でなけりゃぁ自語相違だろうが?

だいたい、へんちくりんなルートを勝手にこさえて畿内との通行路を造作
したところで、そっちばかり行くというのは苦しい言い訳に想えるぞ。ww

途中幾回も半島から畿内に百済等から朝貢があったりすれば、長州じゃぁ大和
朝廷に長州王朝の情報が入る。君の説明は常に半島から畿内に行くのに長州
王朝の存在を朝廷に分からしめない進路を探ってその道を毎回選んでたという
ことになり、無理な論理としか想えない。w

つまり地勢の位置から、長州王朝というのは考えられないにつきる。
959日本@名無史さん:2007/07/10(火) 16:17:04
卑弥呼のころは、まだプレ王朝だろう。

極東の大部分を支配するような王朝は九州だけだな。
総合的に本州(長州も含む)には王朝があった証拠がひとつも無いな。
九州に王朝があった証拠は漢籍にたくさん出てくるな。

そもそも「九州」という語自体が天子さまの領域だ。
「玄海」って語もそうだろ。
九州元号も九州の影響のある土地に分布してる。
明らかなんだよ。

え?長州王朝?南極王朝と同じぐらい有り得ないな。プププ
960太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 16:21:29
>>958
「西遊記」でも三蔵一行が火焔山を通過しなければ西天へ行くこと
あたわずの話と似たようなものであり、毎度長州の都を経ずして百済が
畿内へ朝貢していたなどはスリ抜けのゴリ押し論であ〜る。

あるんだったら百済等の使いが

「途中長州王朝で世話になりあちらにも貢物をささげて来ました。長州
 は××王がいて王朝は十数代続き、××の風習があり、人民は礼儀
 正しく××の信仰での祭事をやっています。」

とかの答礼を朝廷にして、その状況が記紀に書かれるに違いない。

日本版シルクロード上にいる長州に王朝があるからこそであり、それ
よりも遠隔でその交通路から遺脱した奥九州じゃぁ軽くは畿内に情報
は多量に流入などしにくい。

お前の考えは、キントウンで火焔山をひとっ飛びして西天へ到達
する孫悟空の論理だな。w
961日本@名無史さん:2007/07/10(火) 16:42:03
なにか大きい平野がないと王朝が出来ないみたいなアホがいるね。
九州王朝は日韓にまたがる海洋王国だったんだよ。
農産物は日韓の支配地から貢納させれば足りる。
962太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 16:48:19
フ〜ン、当時は日韓併合の状態だったのか?
出来ないとは余は言ってないぞ。出来にくいん出は無いのか?ということだ。
お前も 早土地理 な野郎だな。ww

だいたいまたがってれば記紀になおさら九州王朝の状況が載って、論争など
起こることもあるまい。
963日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:43:49
>>958>>960
長州といっているところを九州と言い換えても、そのまま意味が通じる文章ですよ。
その理屈では、九州王朝が存在しうるなら、長州王朝も存在しうる。

>>959
ソースは? wwwのブブブ
ソースなしでOKなら、【九州王朝はなかったが長州王朝はあった】と主張しても、何ら矛盾がない。
964日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:46:55
754 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2007/06/27(水) 17:36:34
古代九州は当時数十国に分立していた時期が多々続いたろうから、江戸時代で
の大名的勢力の者は多かったろう。委奴国王はそういうクラスにの人物で王朝
とまでの上位の人物ではないな。

卑弥呼と委奴国王の線が継続の系かどうかは定かではないが、別系であろうと
そう考えている。卑弥呼は九州王朝の始点の女王であり、その祖の一人が
委奴国王かどうかは先述のとおりだが、卑弥呼の父あたりは先の大名級の一人で
あったろう? それが卑弥呼の代に至って勢力をつけ、彼女が王朝の始祖となっ
たと観ている。神武は卑弥呼と全く無関係ではないが、直接的王系の繋がりは
無いとしてよい。

倭の五王朝も同様に神武とも卑弥呼とも別系であり、短期の九州王朝である。
当時卑弥呼の子孫系と並行して二王朝存立の状態にあった。

磐井は朝廷のあらさんにやられたとしても、九州王朝は文武世までのウラゴト
だから、そこで滅亡にはならんわけで、勢力の消長を見るにまだ継続と出て
いるところから、どうも筑紫君は九州王朝の王ではないと観る。ここんところ、
他の九州王朝論者と考え、主張が違いがあろうかとも思うが、それがしは
そう観ている。
965日本@名無史さん:2007/07/10(火) 18:11:10
>>943
つまりね、その年号は証拠として使えないんだよw
966日本@名無史さん:2007/07/10(火) 18:20:32
>>963
そうだね。だから長州王朝と同じくらい九州王朝はありえないってことだね。
967日本@名無史さん:2007/07/10(火) 18:35:09
隋書イ妥国伝には、王朝が書いてある。
この王朝では、阿蘇山で国家の祷祭をおこなっている。

九州王朝以外にないんですよ。
え、長州王朝?北極王朝と同じぐらい、有り得ません プププ
968九州王朝派:2007/07/10(火) 18:51:57
日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号。)が多数散見される。
九州年号は鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。
古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。
史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。

九州王朝説ではこれらの年号(各地で現在500以上確認)を九州王朝が使用した「九州年号」であるとする。
九州王朝説では、この時期既に新羅等の朝鮮半島の諸国は独自の元号を建てており、半島の盟主を自認していた倭だけが独自の元号を建てることがなかったとは有り得ず、
また阿毎多利思北孤などは「日出處天子」と名乗っており「天子」と宣言している以上、元号の制定は当然であるとしている。
なお九州年号には仏教的な語句が見られることから、九州にはこの時期既に仏教が伝来していたとする。
969九州王朝派:2007/07/10(火) 18:56:47
大津宮は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)である。
大津宮への遷都は、敵の上陸に備えた大宰府から内陸部への疎開である
(瀬田の唐橋の瀬田は、大津町瀬田)。
970太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 19:21:23
>>963
意味が通じる?w というより、長州は交通路が通ずると言ったほうがいいぜ。
長州じゃぁ、半島から畿内への朝貢の途中の駅のような地域。九州と同一の考え
はうまくないぜ。

当然大和朝廷に百済等の情報ととも長州の情報が容易に来るべき位置にある。
朝貢のついでに長州王朝があれば記紀にそれも載る。だがそんなことは百済等
のほうだけで、ついぞそっちは書かれていることはまるでないだろうが?
つまり長州王朝のほうは妄想だな。w
971日本@名無史さん:2007/07/10(火) 19:23:17
>968
普段ROMしているものですが、質問よろしいでしょうか

>九州王朝説ではこれらの年号(各地で現在500以上確認)を九州王朝が使用した「九州年号」であるとする。

確認された年号で500以上というのは、比較的少数の年号が500以上文献で確認されていると解釈して
よろしいでしょうか。500種類の年号が存在するということではないですよね。
もし500種類なら、九州王朝統一の証ではなくて、それぞれの豪族が勝手に制定していたと思われますので

久留米に何か都市があったとしたら櫛原でしょうか。今でも街中で、時々何かが出てきているようです。
櫛原(くしわら)という地名も古いもののようです
ただし、地元民の感覚からすると、典型的な通り道なので、守るのはつらい地勢です。守りを固めるならば八女
甘木、朝倉のほうが守りやすいと思います。
972日本@名無史さん:2007/07/10(火) 20:54:56

卑弥呼の居城は久留米市市街地のど真ん中。
973日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:18:32
久留米は大国にはなりにくいと思うんですが...
熊襲が北上してはつぶされ、大和朝廷か九州王朝が通過しては
つぶされ、磐井が通過してはつぶされ、中立商業都市にしかならないのでは?

いまも似たようなものですが
974九州王朝派:2007/07/10(火) 22:10:35
九州年号
『襲国偽僣考』の考証を修正したもの(「二中歴」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。
二中歴以外の文献では、「継体」を欠いて二つ目の「善記(善化)」から始まる。)
517 継体 けいたい
522 善化(善記)
526 正和
531 発倒(教到)
536 僧聴
541 同要(明要)
552 貴楽
554 結清(法清)
558 兄弟
559 蔵和
564 師安
975九州王朝派:2007/07/10(火) 22:11:06
続き

565 和僧
570 金光
576 賢接(賢稱)
581 鏡當
585 勝照
589 端政
594 従貴(告貴)
601 煩転(願転)
605 光元
611 定居
618 倭京
623 仁王
629 聖徳 しょうとく
635 僧要
640 命長
647 常色
652 白雉 はくち
661 白鳳 はくほう
684 朱雀 すざく
686 朱鳥 しゅちょう・あかみとり
695 大和(大化) やまと・だいわ(たいか)
698 大長
976日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:13:55
977971:2007/07/10(火) 23:41:39
>>974,975
ありがとうございます。
九州年号はきちんと体系化されていたんですね
文献に時折、断片が表れる程度だと思っていました。
九州王朝並立はまだわかりませんが、ある程度の統一された
勢力があることは間違いなさそうですね。
978日本@名無史さん:2007/07/11(水) 03:02:59
王朝じゃなくて王国。
979日本@名無史さん:2007/07/11(水) 03:23:01
4世紀か5世紀までは王国といっていいかも。
980日本@名無史さん:2007/07/11(水) 09:10:15
980
981日本@名無史さん:2007/07/11(水) 11:45:38
>>977
だまされてはいけない。>>974-975は、「『襲国偽僣考』の考証を修正したもの」であり、「九州年号」の複数の体系の一つに過ぎない。
974にあるとおり、『襲国偽僣考』と『二中歴』が参照されることが多いようであるが、両者の内容には不一致があり、特に時代が新しくなるほど不一致がひどくなるという珍妙な矛盾を見せている。
参照:http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO01.htm

また、古田は『法隆寺の中の九州王朝』という本で、法隆寺の釈迦三尊像の光背の銘文に「法興」という年号があり、だからこの仏像は九州王朝のものだと主張した。
しかし、「法興」という年号は『襲国偽僣考』にも『二中歴』にもない。
そこで古田は、「二系列の年号群並立」(上掲書第4部第1章)なんぞと、その本の一番肝のところを珍妙な屁理屈でごまかした。

重要なことは、『襲国偽僣考』と『二中歴』さらに「法興」のある年号群といったように、九州年号は「きちんと体系化」などされておらず、都合のよいネタに行き当たりばったりに食いついた未消化のゲロのように乱立状態なのである。
982日本@名無史さん:2007/07/11(水) 11:48:02
>>978 (続き)
そもそも「九州年号」という呼び名は『襲国偽僣考』の著者の鶴峯戊申(1788-1859)が、「九州年号」と題する古写本を見たと記しているというだけの根拠しかない。
その古写本は確認されていない。(上掲書第1部第4章を参照)

鶴峯戊申が見た古写本が実在するかどうか疑わしい。
鶴峯戊申が見た古写本が実在するとしても、年号が九州で作られたという根拠は記されてはいないようである。
すなわち、これらの年号が九州の誰かが作ったという根拠はない。

「九州年号」という呼び名は便宜的なもの、あるいはせいぜい主たる使用地域を漠然と示すものであり、九州の人間が作った年号という意味ととらえる根拠はない。
ここを誤解してはいけない。
詐欺師はこういうところで読み手を誘導するために、わざと誤解しやすい記述をするので、賢い読み手は注意が必要である。
983日本@名無史さん:2007/07/11(水) 11:51:06
>>982 間違えちった
× >>978 (続き)
○ >>981 (続き)
984日本@名無史さん:2007/07/11(水) 11:53:12
>>982 (続き)
「九州年号」は、九州で使われるだけでなく、九州王朝説の主張によれば、上掲書の巻末資料のWのとおり、山口県でも盛んに使われていたらしい。
したがって、この年号は、九州で作られたと仮定することもできるし、長州で作られたと仮定することもできる。
長州で作られ、長州及び九州を中心に使われたと仮説を立てるのであれば、「長州年号」という呼び方も可能である。
この年号を作った政権を王朝と呼ぶのであれば、年号を根拠として「九州王朝はなかったが長州王朝はあった」と主張することもできるのである。

【長州王朝】は、ただのひやかしのオチャラケと見做して済むことはない。
985日本@名無史さん:2007/07/11(水) 12:00:33
>>981 【「法興」についての補足】
上掲書を注意深く読めば分かるが、この本は実際にはもっとひどい悪質な詐欺のような記述である。
本の中で『襲国偽僣考』の年号を紹介する表があるが、そこに『襲国偽僣考』と関係ない注を付して、その末尾に「法興」という文字を並べておく。
それは九州年号とは関係なく、ただ、同じような逸年号の例として、九州年号のどれと同時代かという参考のため、並べられているだけだ。
ずっと後の章で、この表を参照するときに、そこで「法興」という文字を見つけたかのような書き方をする。
自分で注を付けておきながら、隠れた事実を発見したかのような、ひどい自作自演のような書きっぷりなのだ。
こうした悪質な印象操作を通じて、「法興」が九州年号であるかのような錯覚を読者に持たせる。
そして、結論が、「法興という年号を持つ法隆寺の釈迦三尊像は九州王朝のものであり、『法隆寺の中の九州王朝』を古田が大発見した」となる。
詐欺だべ!!
私自身、最初に読んだときは若かったせいか、こうしたトリックに気がつかなかったので、信じている方々を責める気はないが、早く洗脳から目覚めることを期待します。
「法興は大和や伊予に実例がある逸年号である」、それ以上のことは言えない。
986日本@名無史さん
馬鹿だなあ。
法興は『茅窓漫録』にちゃんとでてくるだろ。
なんの問題も無い。