「2倍念暦」の真実

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922日本@名無史さん:2007/08/01(水) 06:06:01
太国さん、1・・貴殿は金印が国内で発見される可能性が有ると思うか。
2・・仮に金印が九州で発見されたとしたら九州は邪馬台国と考えるか。
3・・同上   畿内    同上    畿内  同上      。
4・・蘇我家滅亡の折に、朝廷側が運良く運び出して火災消失を免れたと記されている書物があるが
直後に行方不明になってしまった。それが見つかったら何らかの手がかりになると思うか。
邪馬台国研究に役に立つと考えるか。
「国記?(紀)」だか「帝紀?(記)」だかと言う書物を指す。蘇我家滅亡時に殆どが火災で失われたが
一つだけ火災消失を免れた書物が有るらしい(ウィキペディアで読んだ)。
5・・邪馬台国(やまたいこく)が倭(やまと)を経て大和(やまと)と呼び名が変化したと考えるか。
邪馬台国の「台」を「と」と読めば(やま「たい」こく)でなく(やま「と」こく)とも読める。
6・・中国古代の上古音では、邪馬台国、卑弥呼、台与を「やまたいこく・ひみこ・とよ?(いよ?)」
と発音するのか。上古音をそのまま中国文字に当てはめたと聞いているが。
7・・そもそも倭人の倭ってそんなに悪い漢字なの?
「倭」の偏は「人偏」だよね。未開人種に使用する割には「人」は良い待遇だと思う。
蛮族の「蛮」は「虫」だが、倭は「人」だよ。日本でも蘇我「海豚」「馬子」「蝦夷」は
滅亡した後の書き方で本来は違ったと聞く。又、宇佐八幡宮の御信託事件で配流された人達も
それまでの漢字の書き方を剥奪されて「虫」とか「汚い」だとかの漢字の書き方に改められたと聞く。
だから倭人の「倭」は「人偏」だから良い待遇だと思う。当時の超先進国である中国から見れば
日本は東夷の蛮族で遅れた未開人種との認識でも無理は無いから。
923日本@名無史さん:2007/08/01(水) 06:30:48
続き
8・・神武天皇も真っ青の長生き人物の竹内宿禰の正体は如何に考えるか。
宿禰は役職名なのか、一人の人物なのか、伝説なのか。
9・・上記の4番に書いた書物が存在するならば、紙に書かれているのか木簡に書かれているのか。
10・・神宮皇后に当てはまるとされる人物は誰か。又、三韓征伐を行ったのか。
11・・現在学会では邪馬台国の所在地はどちらが有力なのか。又、金印が発見されたとしたら
発見された場所を持って多勢・無勢を覆せる程の力を持てるのか。
どういう事かと言えば、学会有力地域で発見されればその地域が邪馬台国だが、
学会で無勢となっている地域で発見されたとする。その場合は学会有力地域勢力を覆せる程の
世紀の大発見になるのか。つまり、此れで持って邪馬台国所在地論争の終焉を意味するのか。
12・・予知スレで古代出雲大社の現存する柱を使用して、復元がなされると予知した人物がいたがそれは可能か。
古代出雲大社に使われた柱が現在に残っているから、その柱から古代出雲大社の規模を計算出来るので復元されると
予知した人物がいるので質問した。
924太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/01(水) 10:47:28
>>922
1 金印の国内の発見? それはありうるだろう。現に1個出てるしね。
2,3 どっちで出ようと女王国は九州だよ。金印は可動性のものだから
    発見場所が女王国だとは必ずしも云えない。
4 出た文書によりますよ。うまく当たれば手がかりとかになるわね。
5 そういう変化での国名ではないと思うな。ただ京都と東京都の都市名の
  酷似性からして、場合によっては何らかの関連までは否めないがな。
6 中国読みは余のテリトリーデはないので回答の立場ではないが、そこん
  ところが分からなくても女王国が九州か畿内かの判別はできうる。
7 余は悪いとかの主張はしたことはない。だから回答するまでもない内容。

もっと暦法に関係のあることを書きこんでもらいたい。ここはそういうスレだ。
925太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/01(水) 15:01:47
>>923
8 5代の天皇と神功に仕え寿命は記紀では倍暦計算で最長の111歳だ。
  エジプトのラメシスU世は92歳だったそうだし、半島にも長寿王がいたね。
  関連スレ(日本書紀紀年法がついに解明されました Part5 >594)
  でも唐松山氏が魏本紀第一で104歳の例を出している。
  紀の仁徳50年の条に宿禰のことを  汝こそは国の長人  とあり、
  彼の長寿の記述がある。大臣が役職名であり宿禰は違うだろう。
  一人の人物よ。
9 紙か木か? そういうことは分からんがね。w 
10 神功は神功だよ。w 三韓征伐はあったろう。デタラメを書いても大した
  メリットはない。雄略武烈の悪業が書かれてるんだから虚偽を書く必要は
  あるまいが。
11 臥海はだいたい畿内説だという話だな。だがそれは間違いさ。金印は先述
  した通り可動性あるから、出土地が女王国とは断定できない。現に江田船山
  の鉄刀の雄略の銘文が畿内でなく九州から出ている。刀剣も可動性の物よ。
  終焉? どうなるかね?w
12 復元したときの絵があったじゃないかい? だから可能だろうね。
926太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/02(木) 23:04:38
倉西さんは

1 臥海が倍暦の可能性を気づかずに古代史の編年をしていた欠陥となりうる
  不備を、もしやと思わず鵜呑みにして確定紀年を作ったから失敗した。
2 勝手に卑弥呼の女王国の畿内説を決めこみ、有力なる九州説を無視して
  論を組み立てて行ったから、宝塚男装ギャルのような結論をして失敗した。
3 倭の五王を当時の各天皇と結論して、もしや天皇ではなかった場合の過ち
  に対して点検もせずに編年して言ったので失敗した。
4 紀の120年の差を黄金の数字とぬか喜びし、舎人らが神武即位等の年代を引き
  伸ばして、その年数を基としたの紀の年代の創作構想があったと思いこんで
  しまい、120年の断層等とは舎人らの編年調整に苦しんだため、干支60年の
  倍数が年代あわせに使用した数字だということに気つかずに論を重ねて
  しまい、それで失敗をした。
927太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/03(金) 22:43:53
「西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日」(大橋蛍火著 新風舎)
を読んだが、論の核心の記述が少なく得るところはあまりなかったな。
題名に恥じない記述でやってもらいたいね。
臥海とか学者らが読んで、骨がちょっとでいいから無いとお話にならないね。
928日本@名無史さん:2007/08/04(土) 02:48:05
>6・・中国古代の上古音では、邪馬台国、卑弥呼、台与を「やまたいこく・ひみこ・とよ?(いよ?)」
>と発音するのか。上古音をそのまま中国文字に当てはめたと聞いているが。


邪馬台国は 「ヤマドゥコク」と呼ぶそうです。
929太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/04(土) 22:00:42
卑弥呼の女王国名は「邪馬壹国」が正解。古神道のウラゴト(卜事)に於て、
神武以前が数字の1の時代であり、綏からは2の時代に入り、時代区間の
区分けがある。「邪馬壹国」の『壹』とは、1の時代が過ぎてしまったが、
ぶりかえして特別に1の時代を行使する、その意味を強めるための数字の国名。
「邪馬臺国」は倭の五王朝の国名。
930太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/05(日) 08:35:27
>>915
あれからいろいろ考察したが、14年間の嶋王時代の倍暦の使用は一見して矛盾
があるのが分かった。百済の通常暦と当時の繼體世の2倍暦との兼用での古文献
に何らかの誤記が存在したことから、相違が出るのはそういう暦年比定の結果
ではあるまいかと想定している。嶋王は日本人だからあるときは日本の2倍暦
をあるときは半島の通常暦を使い分けしていたのかも知れない。古田先生も墓誌
を現地へ行って見て碑の干支の1年改竄を見つけ、百済には二種の暦を使って
いたと説明しているそうである。これは拙者と見解、性質は違うが、拙者も
二種類を使っていたとの考えを捨て切れていない。

自説が矛盾に見えるのは、>>370>>372>>379の見解から紀の百済太子の死の
記述で百済が通常暦を行使していたのが否定できないためである。そこで嶋王
が日本人とも云えることからの兼用あるいは年代比定の学者らの過ちがあったの
ではないかと考えるようになった。

倉西氏は臥海の説におんぶして疑う気持ちがからきし無く、應神元年を390年
と確定したが、それでも拙者の疑念は捨て切れない。彼女も強調するとおり、
紀の記述で應神即位元年は干支が『庚寅』だと主張し、拙者の376年「丙子」と
相反しているわけだが、繼體即位は通常暦計算だと「丁亥」で2倍暦では
「辛丑」年になる。ところが真に倍暦があったして古文献の誤認があったと
為し、繼體即位を「丁亥」でなく倍暦での「辛丑」と取り替えて通常暦での
507年の干支として時代を逆算して行くと、376年での應神即位元年はやはり
『庚寅』なり、これでも紀の應神即位元年の記述と一致するのである。つまり
拙者の疑念のとおりで、紀の編者らは半島古文献、原書から拙者の計算のほうで
記述した有可能性が説明できている。
931太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/05(日) 10:20:59
>>930
倉西氏の臥海の定説で確定だとか言う年数では繼體即位のほうは507年であり、
殆んどの研究家学者連はこの説に依処してより古い年代を定めて論を張って
いるわけであるが、これは>>370表からの考察からまず、間違っているようだ。

507年即位は2倍暦では521年であり、前者は「丁亥」年であるが後者の計算
だと「辛丑」年になる。紀の應神即位元年は『庚寅』であり彼女は半島の古文献
を信用して390年年を確定紀年として安心したように論を進展させてはいるが、
拙者の倍暦計算での應神即位元年は376年で「丙子」と出て紀の記述に違えて
いるようだが、先述のとおり繼體以降に2倍暦が存在したとして繼體即位507年
の干支「丁亥」を同即位の2倍暦での干支「辛丑」へ学者らの誤認と観て取替
え、507年を「辛丑」として武烈崩御以前を総て通常暦で逆算して行くとどう
なるか? 拙者主張の應神即位元年376年の算出干支は紀の記述と同様『庚寅』年
に一致したのである。やはり應神即位元年376年説は崩れないのである。
932太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/06(月) 09:11:54
うちらが真の年代はどれなのか? 神武即位の真の年はいつか?
原書の各天皇の年代のいずれが本物なのか? 実に倭の女王はいつの時代か?
などとそれぞれ現代の各人が迷妄状態で考察しているのと同様、舎人親王とその
取り巻きは紀を編纂するときに各天皇の大半が超長寿なことと半島大陸の
古文献と原書との年代の不一致、断層が格段に目立つことにて困惑していたのが
真相だと思ってよい。那珂博士らは年代の引き伸ばしがあったと主張しているが、
そのようにならざるを得なかったということであり、故意に大陸の古い歴史に
負けないために引き伸ばしたものではないし、そういう年代拡張の構想を持って
いたものではなく、各古文献の年代調整が完璧に出来難いために間に合わせの
小康状態で紀を編纂したものである。その調整の典型的なものが120年という
干支60の倍数であり、各断層を整合させるため干支が一致できる60の倍数で
終止符を打ったということである。

舎人らが混迷していたのは、現代のうちら研究者とほぼ同じ精神状態だったと
考えるべきで、引き伸ばしの構想というものは無く、年代の調整のために
時代が拡張したようになってしまったというのが事の真相なのである。
933太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/06(月) 22:50:28
Wikiの「日本書紀」の項目の「紀年論」の解説には

2倍暦説は紀の相当個所全部の時代において通用せず合理性がない旨の論述で
この説を遺棄しているが、全部が通用しなくたって一部の時代で暦法変更して
これを行使していた可能性はあるわけだから、上っ面の矛盾とかを見てこれを
門前払い的に否定するのは、判断の誤謬と観てよい。

さらに120年のズレとかは朝鮮関係の文献のみの適用のもので他には通用しない
旨の解説のようででこれを軽視しているのか、先の遺棄否定は全部において会わ
ないから2倍暦は駄目だと大幅に視角を拡げての否定で、ここの120年のズレは
古文献を狭小視覚の制限からの否定のようで、結局は恣意的な取捨選択をして
の論評としか思えない。

アマチュアを舐めているのか? 2倍暦と干支の段差を、齧った程度での幼稚で
ズサンな判断からの解説に想えてならない。
934太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/06(月) 22:52:48
訂正

× 会わないから    ○ 合わないから
935日本@名無史さん :2007/08/09(木) 05:13:47
太国さん、ちょっと教えて下さい。

| 507年即位は2倍暦では521年であり、前者は「丁亥」年であるが後者の計算
| だと「辛丑」年になる

「辛酉」年じゃないのでしょうか? 初歩的な質問ですみませんですが...
936太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 07:35:50
>>935
そのころは繼體のみが2倍暦行使の時代ではないということです。その後代の
安閑宣化までが2倍暦でして、以後欽明世から恒久的通常暦の時代になるわけ
です。貴殿は繼體世のみを2倍暦として干支を当てはめたからそうなったんでは
ないですか?
937太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 08:08:01
逆算ですから、倍暦の数字干支は下からとって下さい。

540 庚申   540 庚申  欽明元年 用明誕生 石姫立后
539 己未   539 己未  欽明即位 宣化崩御
538 戊午   538 戊午  佛伝 敏達誕生
537 丁巳   537 丁巳
536 丙辰   536 丙辰  宣化元年 橘仲皇女立后
535 乙卯
534 甲寅   535 乙卯  宣化即位 安閑崩御 春日山田皇女立后
533 癸丑   534 甲寅  
832 壬子
531 辛亥   533 癸丑  安閑即位 繼體崩御

   ・・・・・・・
507 丁亥   521 辛丑  繼體即位 手白香皇女立后
938太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 21:38:41
他スレで云いすぎたいうだが、倉西さんは確か限定的2倍暦肯定論者だと
思ったが〜? 彼女に同スレで今文句が出たが、前ありうると云ってたよな??
939太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/09(木) 21:43:40
サガミハラハラさん。このごろ長コテハンでわずらわしい感がしますが、
なにか、うかれておられるようで・・・? 何かあったんですか?w

それはいいとして、次スレの容易を願います。
940日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:15:39
この方の文章、どう思われますか↓
ttp://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-313.html#more
941オージョニー ただ嬉しくて 実はサガミハラハラ:2007/08/09(木) 22:32:12
別にうかれておりませんが、あったことといえば、今度今はやりの熟年離婚をすることになったことと、
東京の日野に引っ越すことですか。
引越したらHNかえることになりますか。
日野市民の歌になにか言い文句あるかどうか。

次スレ、どなたか作ってください。
942日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:31:02
フトクニの日常

朝起きて前日書き込んだスレをチェック
943日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:31:46
フトクニの日常

朝起きて前日書き込んだスレをチェック
944935:2007/08/10(金) 01:24:21
太国さん。レスありがとうございます。

>>936 貴殿は繼體世のみを2倍暦として干支を当てはめたからそうなったんでは

いや、違うのです。単に、継体紀に「元年春正月辛酉朔甲子」とあったので、
何でかなあと思ったのです(なので "初歩的な質問" と書いたのです)。

あの、継体紀のあたりっていろいろややこしいとこですよね。私のレベルでは
まったくちんぷんかんぷんですが、気長に確認してみます...
945太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/10(金) 10:04:16
>>944
あのぅ・・・説明不足の点があったのでちょっと書きこみますと、宣化の時代は
2倍暦は途中で途切れて暫定的通常暦法を行使していると観ています。
即位のときは2倍暦でしたが、宣化元年でそれになります。その後そのまま
恒久的通常暦となったようです。理由は完璧ではなくちょっとらくな説明は
できにくいですが、佛伝の影響が恒久的通常暦になった因でしょうが、
2倍暦をやっていたのをいったん取りやめ、経過した1〜2年分の2倍暦法を
取りやめて、その分の2倍暦を通常暦に戻して元年時から修正運用して行き戻し
たのではあるまいかと推察しているところです。いったん2倍暦をやていたのを
期間がそんなに経過していないので、すでにしていたこの暦法は抹消と為し、
1〜2年前の元年時から通常暦にみなし改変し施行して行ったかと考えます。
だからこの短期間二つの暦法が行ったり来たりで重複した状態だったかと
考える次第であります。

倉西さんは地域時代限定的2倍暦肯定論者か優柔不断の2倍暦あったかも知れ
ない肯定論者兼無かったかも知れない否定論者なる両論の境界線上をさまよって
いたかの想いでして、全体的には狭小不確定性の肯定兼否定論をぶらさげながら
の強い否定論舎だということが彼女の脳の実態ではなかったでしょうか?

まぁ何を言おうと、メインの主張は±120年有構想は確かでして、拙者としては
そういう舎人親王らの構想などは無いとする立場にあり、先述しておきましたが
彼らもうちら研究者と同様迷妄状態で、彼らは原書と取り組み、年代の大幅な
ズレでの調整に良作がなく、誤を避け真を取る為には次善である小康状態の
間に合わせで終止符を打ったものであり、年干支の誤修正は60年にて同一干支
での一致ができうることから60倍数での最も合いそうだと思われる120年修正を
して真に接近させようとしたとするのがそれがしの主張であり、残念ながら
紀からその接近は果たされてはいなかったと想うものです。
946太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/10(金) 10:07:40
訂正  × 良作がなく     ○ 良策がなく
947935:2007/08/11(土) 02:41:27
えー、太国さん。

>>937 の表を書いて頂いたおかげで私のようなアホにも何となーくですが
2倍暦のイミがわかったような気がしてきました(あくまで感覚として
わかっただけで、本当に理解するにはずっと遡って検証しないといけない
ですが...)。

お手をわずらわせてしまいまして申し訳ないです...
948太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/11(土) 14:04:48
「住吉大社神代記」に

 崇神天皇没年戊寅の年 在位年数六十八年

とあるが、みどもの倍暦計算から没年は1年違いの259年 己卯 と出だ。

同計算から在位年数は即位 237年から

 259−236=23年  であるが、3倍暦のことから

 23×3=69年  となり、同文献の記述とやはり1年差となる。文献のほう

は通常年としての計上なのだろう。とにかくかなり一致しているね。
949花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/08/11(土) 14:28:22
太国さん

>>932などを読む限り、日本書紀の編纂事情の考察に関しては
私と太国さんは類似した意見のようですね。
私の場合はやや倉西さんに好意的な視点ですが。

で、話はかわりますが、
日本書紀における「一書にいわく」の注釈ですが
歴史に埋もれがちな古代ほど多数の注釈がつくのは理解できますが
なぜか神功皇后などのあたりにも多数あるんですよね。

その、注釈の多寡なども編纂事情を推理する傍証になり得ませんか?
私はそんな気がしてなりません。
950太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/11(土) 14:46:26
ああそうですか? 
前後の天皇の条よりありますか? とにかく仲哀あたりからそろそろ
外国古文献の資料が在庫だったんではないでしょうか? それともその
注釈条は日本限定の文ですかね? もっと古代よりも原書が多くなって
来たということでしょうか? いずれにしろ貴殿のおっしゃる推理の傍証
にはなりうると思いますね。

年代引きのばしの件ですが、神武の即位年の正確な(干支?)原書を
しっかり持っていて、そこのみはキチンと曲げずに固定して皇紀元年を
固めて記録したようです。ところが倍暦だからものすごく伸びて、
より上代年に行ってしまったことになったのだと考えます。
951太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/11(土) 15:51:39
>>948 続き
通常暦計算の崇神の在位年数において、

 69−23×2=69−46=23年  から、計算では 23×2=46年 の3倍暦で

の追加になっている。

「住吉大社神代記」では

垂仁天皇没年辛未の年 在位年数五十三年

とある。みどもの倍暦計算では、垂仁即位元年=260年 同崩御=292年 を
算出している。辛未年との差は19年で一致してないが、この天皇世も崇神と
同様3倍暦法であることからして、在位年数は

 292−259=33年 であり、3倍暦から通常暦では 33×3=99年 になる。

ここで住吉大社神代記の在位年数 53年 との差は

 99−53=46年

となり、崇神世の3倍暦でのはみ出し年数と一致する。

これは何を物語っているものなのか? 同神代記の記録者側が崇神か垂仁の
在位年数が大きすぎるとかそのへんの不自然さに疑問を持っていたので、
この46年分を動かしたか変更したとかで減らしたようで、そのへん
が真であろうと感じている。
952唐松山:2007/08/11(土) 21:01:26
951を 読んで

19年と 46年 この差に注目
私は、現在 朔日 で 計算しているのですが
19年は、 暦法の19年7閏 で良いのでは と思いますが
46年−19*2=8年
この8年が 実は、景行と成務の間に 暦の閏の廻しで 丁度8年有るんです。

景行43年 皇暦773年から 閏年43、46、49、52、54、57、60年に成ります
成務3年から 閏年3、5、8、11、13、16、19年なんですが 一見なんの異常も見られないが

19年7閏法からすると ここに8年分の 空白、齟齬が生じてしまうのです
この8年を無視すると良さそうなもんですが そうすると 私の 歴年推測に合わない
8年を入れると 丁度に成るんです。

953唐松山:2007/08/11(土) 21:03:00
参考

成務天皇からの 閏の廻し
神武から同じだと 閏年は、2,5,8,11,13,16,19年目ですが
3,5,8,11,13,16,19年目 の方が良く合う
神武からの廻しで 丸8年の空白と同じに成ります。
仁徳、履仲の空白は、私の間違い ごめんなさい。

まず 以前 発表した 暦日の式
暦日=INT(INT((G2*365.25+100)/29.5306+0.3)*29.5306)+8305  G2=皇暦 神武元年1月朔=8777日
狂いは、1日か30日 皇暦(年)を打ち込んでください。

成務天皇元年より皇極天皇元年まで 511年186634日 増しは、152年55517日 と見ます
皇極天皇元年1月朔=西暦623年とすると (合わせ場所 舒明天皇9年三月,乙酉朔丙戌,日蝕之=西暦618年4月10日と見ます。)
垂仁天皇元年=623−(511−152)=西暦264年 に成ります

景行の増し 38年13880日 そうすると 治世22年
垂仁の増し 76年27759日 同じく   治世23年
崇神の増し 43年15710日 同じく   治世25年 (崇神と開化で増し95年 開化治世8年)
これに西暦を合わせる ただし 先の8年を“実”とみて成務に加える。
成務=西暦256年より
景行=西暦234年より
垂仁=西暦211年より
崇神=西暦186年より
以上のように成りました。
なお 神武元年は、西暦34年と見ています。

954唐松山:2007/08/11(土) 21:30:40
訂正
×垂仁天皇元年=623−(511−152)=西暦264年 

○ 成務天皇元年=623−(511−152)=西暦264年−8年=西暦256年
 
955日本@名無史さん:2007/08/11(土) 21:43:50
>西俣さんはこう語る。
>「生野周辺も、古代から農耕や機織、土木建築、漢字、仏教など先進技術や文化を
>伝えた渡来人によって築かれた土地です。ところが、約1500年後の1910年から
>日本の朝鮮半島支配が始まり、多くの朝鮮人が出稼ぎに来て、過酷な労働に携わる。
>その後も創氏改名や強制連行、戦後もひどい差別が続きます。
>お世話になった民族にこの仕打ち。ヨン様もいいですが、歴史と現状を広く知ってもらい、
>大阪から本当の国際化を目指していきたいですな」

日本人が古代・中世に、朝鮮人のお世話になったことは一度も無いんだよね。
誤解してる人が多いんだけど、古代日本に移住した渡来人は、朝鮮人じゃあないんだよね。
ぜんぜん無関係な別種の民族なんだよ。
半島南部の韓人(からびと)と呼ばれた倭人系民族と、楽浪郡が滅びた後、難民として日本に来た
漢人たち、それが渡来人なんだよ。
いわゆる「百済系渡来人」とか、「コマ系渡来人」と呼ばれている帰化人は、
そのほとんどが楽浪郡系の漢人なんだよ。朝鮮人は一人もいないんだ。
楽浪郡の漢人や半島南部の倭人系民族、日本列島の倭人と対立していたワイ族こそが
朝鮮人の先祖なのであり、とうぜん、ワイ族は古代日本には移住していない。
「朝鮮人にお世話になった」という主張は、歴史認識の誤りから生まれる意見だ。

956日本@名無史さん:2007/08/11(土) 22:44:25
>>955
だから、ソースをしめさんか?あほうか?
957日本@名無史さん:2007/08/12(日) 00:41:03
二倍暦を主張する人たちって
フェルマーの大定理を証明しようとしたアマチュアにそっくり
伝説時代の天皇のありえない長寿を合理的に説明したいという情熱からくるんだろうけど
958日本@名無史さん:2007/08/12(日) 01:52:12
2倍暦って、田植えの年と稲刈りの年が交互にやってくるわけ?
アフォくさ
959日本@名無史さん:2007/08/12(日) 07:12:44
もともと2倍年暦は中国から(殷時代)来たようです。
中国では春に麦の収穫、秋に高粱や粟、稲の収穫と年二度の収穫があります。
ですから春収、秋収となるのですが、日本では麦作が発達せず、結果、魏志倭人伝に記されたように、
春耕秋収となったわけです。
960唐松山:2007/08/12(日) 12:32:43
殷時代の暦が引き伸ばされている事は 其のとうりだと思いますが
単純に 2倍 と見るのはどうか
月齢 太陰暦との相性がよくない

私は、19年7閏 を 適せん差し込んだ と見ています
これだと 暦として非常に相性が良く繋ぎ目が判りません。
961日本@名無史さん:2007/08/12(日) 12:33:58
>>959
魏志倭人伝???
魏略逸文じゃなかったか
それにそういうのは単なる日読みで暦とはいわん
962日本@名無史さん:2007/08/12(日) 12:52:30
>>960
>適せん差し込んだ
意味がよくわからい
963唐松山:2007/08/12(日) 13:44:09
朔を 基本として見ると
全て元年1月朔として、判らない所は推定

西暦   治世   治世日  歴日元   増し
神武天皇  36年  19年間  8033日  8777日  57年
空白(タギシミミミコ) 3年  1093日間  神武の治世日に含む
綏靖天皇  58年 14年間   5108日 37629日 19年
安寧天皇  72年 5年間   1830日 49677日 33年
懿徳天皇  77年 11年間   4017日 63556日 24年
孝昭天皇  88年 26年間   9480日 76343日 57年
孝安天皇 114年 26年間   9509日 106642日 76年
孝霊天皇 140年  19年間   6939日 143909日 57年
孝元天皇 159年 19年間 6940日 171668日 38年
開化天皇 178年 8年間    2923日 192487日 52年
崇神天皇 186年  25年間 9125日 214399日 43年
垂仁天皇 211年 23年間 8417日 239234日 76年
景行天皇 234年 22年間 8032日 275409日 38年
朔の廻し8年 この8年暦日に含まず
成務天皇 264年 4年間   1447日  297321日 57年
仲哀天皇 268年 3年間  1093日  319587日 5年
神功皇后 271年 37年間  13524日 322510日  33年
応神天皇 308年 24年間  8771日 348084日  19年
空白  2年  応神の治世日に含む
仁徳天皇 332年 87年間    31776日 363794日
履中天皇 419年 6年間    2184日  395570日

増し は、19年7閏を基本とし 6940日か6939日
安寧、懿徳は 2人で3回 57年
開化、崇神 及び仲哀、神功も 同様

成務 以下は、これから 再度検討します
964唐松山:2007/08/12(日) 13:45:18

世継ぎを検討する
先の書き込みより 天皇の世継ぎを検討すると
誕生日が最も妥当だと思われる処 孝昭天皇は安寧天皇の子供であり懿徳天皇元年誕生が想定されます
そうすると 孝昭天皇誕生は、西暦77年と言う事で 

天皇名  誕生西暦 即位才 生世継ぎ  死亡才
孝昭天皇 西暦77年 12才  18才   33才
孝安天皇  94年  21才 22才   47才
孝霊天皇  115年  26才  34才  45才 孝元は 孫
孝元天皇  148年  12才  18才  31才
開化天皇  165年  14才  18才  22才
崇神天皇  182年  5才  20才  30才
垂仁天皇  201年  11才  18才  34才
景行天皇  218年  17才  21才  39才

書紀の記事にあまり対応させていませんが 世継ぎは、 可能


ついでに ほつま伝の作者 たたねこ の年齢を推定すると

崇神元年 西暦186年頃の生まれ 
成務元年 西暦256年頃まで活躍
256−186+1=71歳
可能な年齢

965日本@名無史さん:2007/08/12(日) 14:06:29
965
966日本@名無史さん:2007/08/12(日) 14:07:38
 
967日本@名無史さん:2007/08/12(日) 14:10:06
 
968日本@名無史さん:2007/08/12(日) 14:11:15

安倍総理は歴史上誰に似てるの??
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1170081674/
969日本@名無史さん:2007/08/12(日) 14:17:21
 
970日本@名無史さん:2007/08/12(日) 16:09:02
970
971太国 ◆yVAs7uaYlY
>>930 >>931 >>937 >>945前半
繼體即位は通説では507年(丁亥)のところ、2倍暦の行使があるのなら即位は
521年(辛丑)になる。いままでの学者らからこういう通説が成ったのであろう
が、2倍暦の考慮を不用意にも忘れ編年したのであろうからさらに上代は無理
なる突合せでの年代確定が行われたのやも知れない?

そこで先述にて507年を2倍暦での干支(辛丑)に取り替えて、そこから上代は
全部通常暦式で干支を当てはめて行ったとするとき、これでも紀の應神即位元年
が『庚寅』(376年)に一致したわけであるが、(376年のほうは倍暦のである)
この逆算遡りを続けて行くと、みどもの倍暦計算での 成務崩御 342年 は
「丙辰」 と出たが、これは古事記の崩年干支 『乙卯』に、これまた倍暦での
崇神崩御1年違いだったのと同様、ここでも1年違いの結果が出たのである。
(342年も倍暦のである。『乙卯』は341年となる)

だから稗田阿礼はこのカラクリを自ら知っていたか、当時伝わっていたこの
カラクリを知っていた者からの中継ぎでの記憶の吐露の内容なのであろう?
これから、阿礼の記憶の崇神の崩年干支と成務の崩年干支の入手経路が双方
別々であったのかと推定している。ただ両者のカラクリをどちらも知って共有
いた情報とかであれば、別々ではなくなるが・・・?