952 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:14:54
>>950 「棟梁」とは現場総監督の事で卑弥呼時代の九州だと伊都国
平安時代だと大宰府、半島南部カラクニ地方の現場総監督が
「任那」だと言う事で棟梁、親方様、的な意味じゃ無いかな。
953 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:37:57
>>952 なるほど。しかし、欽明がこれを言った時点では、欽明が指した「狭義の
任那」(すなわち金官)はすでに新羅に乗っ取られている。つまり、欽明
が「任那を立てよ」と言うときは、「金官を再建(あるいは奪還)せよ」と
いう意味である。
そうすると、「棟梁」とは新羅に乗っ取られる前の金官の地位を表している
わけだな。
954 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 17:09:46
どうして新羅を倭人達は志良岐「シラキ」と言ってたか、其れはね表意文字で表すと
「白着」なんだよ、此の国の住民は穢れを嫌い身の潔白を表わす為に白い服を着てたんだよ、
日本の神官や花嫁衣裳の白無垢と同意、でも王の様な尊敬される者は特別に錦の服を着てた
だから志羅紀の王を「尼師今=ニシキ」錦の御旗のニシキって言うんだよ。
ちなみに渡沙寐錦の「寐錦」はミカ(甕、神酒などを入れる瓶の事、高貴な人を埋葬する甕棺
高貴な人をミカヒト、帝ミカドと同意)ミキ(神酒、神に供える神聖なの意味)
御ニシキ、ミニシキも有りかも。?
955 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:47:21
なんで新羅や高麗の神社が日本にあるんだ
だから神社の発祥は韓国とか言われるんだよ
956 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 22:22:21
■百済で作られた青銅菩薩立像が出土、熊本の「鞠智城跡」で (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/story/20081103_yol_oyt1t00497/ 4世紀中頃、朝鮮半島南西部に興った百済は大和朝廷と友好関係にあり、百済から
多くの渡来人が文化を運んだ。大和朝廷は663年、百済を支援した白村江の戦いで、
中国・唐と朝鮮半島の国家・新羅の連合軍に敗れ、逆襲に備えて7世紀後半に鞠智城を
築いたとされるが、菩薩像の年代は鞠智城の築造時期とも符合するため、築城に携わった
身分の高い百済人が持ち込み、仏堂に安置したか、携帯していたとみられる。
>百済から多くの渡来人が文化を運んだ。
>百済から多くの渡来人が文化を運んだ。
>百済から多くの渡来人が文化を運んだ。
>百済から多くの渡来人が文化を運んだ。
日本人が認めてんじゃんwwww
正しくは「漢文化」
>>955 そういうのは厄払いだとか病気にきくだとか言うのでそう名前のついたんだって
960 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 02:43:20
>>956 >4世紀中頃、朝鮮半島南西部に興った百済
百済が4世紀中頃建国と言ったら韓国人は歪曲歪曲と騒いでファビョるよ。
紀元前の建国と言わないと気がすまないらしい。
それと朝鮮半島南西部に興ったというのは誤りで
当初百済は現在の京畿道付近、即ち半島中部に興った国。
興ったというか、北方から侵入してきた勢力なのではなかったっけ?
馬韓ではなく扶余系だったよね。
半島中部に扶余系が南下して国を興したでいいでしょ。
全羅道方面については百済の支配下に入るのは
5世紀末の百済一時滅亡後、南遷再興以降のこと。
>>962 百済が再興した5世紀半ば〜末頃に全裸南道の栄山江流域に前方後円墳が築造されるのでしたね。
百済の影響力の南下に対抗するため和国の傘下に入った馬韓人領主が被葬者だとする説と、東城王を擁立した九州の
倭人豪族が被葬者だとする説があるようですね。
964 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:10:11
>>963 埴輪があったり、石室にベンガラ朱が使われてたり、
間違いなく倭人でしょう。
韓国側は、被葬者が倭人だと言ったなら、
それは任那日本府を認めることになるので、
意地でも言わないでしょう。
965 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 20:51:40
百済の王を意味する「コンキシ、コニキシ、コキシ」は
「ニニギの命」の別名「アメニキシ天邇岐志,クニニキシ国邇岐志...」
の「クニニキシ」が変化し「クニキシ、クンキシ」に訛ったと思われる
志羅紀のニシキ、久多良のコニキシ、伊都国の官,爾岐ニキ、ニニギ、ニギハヤヒ
等々のニギ、ニギシは(賑わし処,国村)から古代の倭人語と思われる。
この意味からの発生で後、良き人能力の有る人文官などを「吉師」キシ、キッシ
と呼ばれる様に成る。例、王仁吉師
966 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 21:53:19
967 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:11:33
どうして新羅を倭人達は志良岐「シラキ」と言ってたか、其れはね表意文字で表すと
「白着」なんだよ、此の国の住民は穢れを嫌い身の潔白を表わす為に白い服を着てたんだよ、
日本の神官や花嫁衣裳の白無垢と同意、でも王の様な尊敬される者は特別に錦の服を着てた
だから志羅紀の王を「尼師今=ニシキ」錦の御旗のニシキって言うんだよ。
ちなみに渡沙寐錦の「寐錦」はミカ(甕、神酒などを入れる瓶の事、高貴な人を埋葬する甕棺
高貴な人をミカヒト、帝ミカドと同意)ミキ(神酒、神に供える神聖なの意味)
御ニシキ、ミニシキも有りかも。?
968 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 08:42:33
漢籍にあるように5世紀後半百済から亡命してきた百済貴族が
新羅王になったことを事実とすると、それ以前の新羅王はどうなったんだろう?
969 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 10:52:26
<ヽ`Д´>…九州の倭人豪族の墓だと?
いや…九州へ移り住んで九州を支配していた韓民族の豪族が
故郷に墓を作って欲しいと韓半島に前方後円墳を建設したに違い無いニダ!
970 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 20:33:33
■倭の王(天皇)は古墳時代に韓国人に乗っ取られている
『古事記』によれば、天日槍は応神天皇の時代に、逃げた女房・阿加留姫
(あかるひめ)を追いかけて来日したとされている(『日本書紀』では崇神天皇の時代)。
天日槍とは新羅の王子で阿加留姫とは倭国に渡って仲哀天皇の王妃となった
神功皇后のことである
つまり天日槍は逃げた自分の妻を追って倭国にやって来たら、大和王権の仲哀天皇と
結婚し神功皇后となっていた元妻を取り返すべく立ちあがり各地の豪族達を纏め上げ
勢力を拡大して有力豪族となり、後に新羅征伐で対立した仲哀天皇を暗殺し
阿加留姫(神功皇后)を取り戻した、そして生まれたのが応神天皇
つまり天日槍も阿加留姫もどっちも新羅王族だったわけで倭人ではない
倭人の天皇は仲哀天皇で途絶え応神天皇以降は新羅人の血が入っている
新羅人は今の朝鮮民族である韓国人の先祖
971 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:52:54
>勢力を拡大して有力豪族となり、後に新羅征伐で対立した仲哀天皇を暗殺し
>阿加留姫(神功皇后)を取り戻した、そして生まれたのが応神天皇
天日槍は但馬国の出石に行っただけ。
以上。
972 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:09:02
■「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張
日本の大阪市内の百済駅。貨物を専門に扱うこの駅の漢字名は百済駅だ。
辺りには百済高校まである。日本列島に現在まで残る百済の痕跡だ。
日本王室の宝を収蔵している奈良市にある東大寺の正倉院。朝鮮半島から渡来した先進文物が
相当数保存されているこの場所は、まず建物の姿形からして高句麗民家に良く見られる
桴京(プギョン)とまったく同じだ。
日本列島のあちこちに残っている朝鮮半島の文明の跡を見付ける度に歴史学者らは興奮する。
朝鮮半島からの移住民たちが日本に渡り先進文明を伝えたことのみならず、日本王室の根を
形成したという主張は、実は韓国内ではこれまで少なからず出されてきた。
歴史学者らが韓-日古代関係史を疎かにしている間、これらの主張は古代史の世界を興味津々に
伝逹し、相当の大衆的な認識を構築してきた。
明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781〜806年)の母が百済系という程度のみを認めたが、これらの
主眼は400年以上さかのぼる。15代応神日王が百済系という主張がそれだ。
82年に『沸流百済説』を提起した金聖昊(キム・ソンホ)韓国農村経済研究院顧問は、広開土大王碑から
出てきたように396年、沸流百済最後の応神が日本に渡り15代日王となったという。
金顧問は沸流百済は本来中国にいた呉族が朝鮮半島に渡り発展した倭族が作った国であり、したがって
応神日王は朝鮮半島南部に居住した倭族だったと主張する。
http://www.chosunonline.com/article/20011224000021 >明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781〜806年)の母が百済系という程度のみを認めたが
>明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781〜806年)の母が百済系という程度のみを認めたが
>明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781〜806年)の母が百済系という程度のみを認めたが
>明仁日王は8世紀後半桓武日王(在位781〜806年)の母が百済系という程度のみを認めたが
天皇自身が認めてんじゃんwww
>>972 こういうの読むと、向こうにまともな学者って居るの?
いないよ
妄想だけだから
>>644 逆にこれだけの割合で日本で韓式土器が出ることってあるの?
94%てもうそこ倭じゃん。
976 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 03:56:27
北九州が朝鮮の一部でした。
今でも。
逆だろチョン公w
>>968 >それ以前の新羅王はどうなったんだろう?
脱解王から続く倭系王が日本に帰ってきたとしたら、
スサノオの話と辻褄が合うね。
製鉄技術を持ってきたのならなおさらだ。
「クダラ」の語源は日本語の「降る」
つまり倭から見て下国(属国)という意味。
>>973 いると思う
しかし、公の場でまともなことがなかなか言えない国でもある
あの国でトップクラスの歴史家が李泰陣だと言うことは憶えておくべき
981 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 17:28:39
>>975 逆にこれだけの割合で日本で韓式土器が出ることってあるの?
須恵器は朝鮮半島起源と言われているから、それだけ出る所なら
100%だ。
982 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 17:42:19
983 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 22:35:34
>>981 須恵器はもともと中国の高温土器生産が起源だから、その理屈だと朝鮮半島
全域は中国の領土だ(当たらずとも遠からずだが)。
須恵器と違うからこそ「韓式」土器だろうに。
屁理屈はもうやめな。
984 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:27:30
半島南部と九州北部から同じ遺物が出るのは当たり前だろ
これらは皆「辰王家」の領土なんだから、墓制が同じ甕棺墓と支石墓
混交文化だろ後に北から中国人が侵入して来るが、甕棺墓なんて半島
北部からは僅かしか出てこないだろ。
985 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:34:23
>半島南部と九州北部から同じ遺物が出るのは当たり前だろこれらは皆「辰王家」の領土なんだから、
なるほどなるほど。
じゃあ、ヤマトと同じ遺物が出土する朝鮮半島南部にヤマト王権の支配が及んでいたと。
納得。
>>975 逆にこれだけの割合で日本で韓式土器が出ることってあるの?
大阪の長原遺跡で伽耶の土器がかなり出るみたい。
5世紀初めと後半のもので、
ちょうど高句麗の好太王の南下時期と一致してるみたい。
伽耶からの避難民のものでしょう。
987 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 00:04:41
辰王家の一族の墓は甕棺墓で甕の事を「ミカ」って言うんだ
王家の者は特別にヒト(現在でも名前にヒトを付ける一族有)の敬称を
付けて「ミカヒト、後にミカド」と民の者達は呼ぶ様に成ったんだよ。
吉野ヶ里では甕棺墓から鏡、剣、勾玉、のセットが良く出でた。
須恵器の話が出てるが、
伽耶の地下式墳墓と秦氏が関連してるのではないかという説の、
根拠の1つに須恵器がある。
少し前、日本最古の須恵器が京都の宇治から出た。
宇治って秦氏の本拠・山城国だよね。
やはり関連あるのではないか。
>>987 辰王家って何だ?
あいまいな呼称を出すな。
990 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 00:31:51
>>989 高句麗や百済の建国より前、BC2世紀頃より古いかも?
馬韓地域に有った中国史に出て来る王国だが。
991 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 00:41:15
>>990 任那日本府はだいたいが4世紀以降の話だ。
時代をずらさないでくれ。
993 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 00:54:06
辰王家の王墓ってのを見てみたいもんだw
995 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 01:26:44
>付けて「ミカヒト、後にミカド」と民の者達は呼ぶ様に成ったんだよ。
ミカドの語源は「御門」。
御所の門を言い、天皇自らを指し示すことを避けた言い回し。
もちろん古代には出てこない。
いい加減なことは言わない方が良いぞ?
B層しか騙される子はいないと思うけど
998 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:02:02
うめ
999 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:04:30
うめ
1000 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 11:06:55
うめ
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