269 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
>>250 > 真宗はどんな教えなのですか。
真宗とはどんな教えなのか。真宗の教えを知ろうとするなら、その前に釈迦の教えとは何だっ
たのか。そこから考えていくべきだろう。真宗は仏教であり、仏教は釈迦に始まったのだ。
>256
>貧乏で生まれた人は、前世が金持ちだったから?金持ちで生まれた人は前世は貧乏だったから?
ある者は貧しい家に生まれ、貧しいまま細く短い人生を終えていく人もいる。富の豊かな家に
生まれ、一生、遊んで笑って長く楽しい人生を過ごしていく人もいる。これはなぜなのか。多く
の人が素朴に持つ疑問を釈迦も抱いたようだ。
釈迦は僕らにある仮説を提起してくれた。仏教とは、釈迦が提起してくれたその仮説に共鳴し、
賛同し、それを学ぼうとする人々の営みであると僕は考える。だからこそ、仏教者とは、困難な
自らの様々な問題解決に、釈迦の仮説を道標として挑戦してみようとする人々の集まりなんだろ
うと僕は考える。釈迦の仮説とは、全ての迷いの根本には無明があるというものだ。仏教には四
万八千の法門があると言われている。仏教には様々な法が説かれている。しかしその根本は一つ
の仮説から生まれている。迷いの根本原因は無明にあったということだ。
人には様々な可能性がある。明るい可能性もあれば、暗い可能性もある。可能性というのは、
肉体の誕生以後に生じたものばかりではない。可能性は、肉体の誕生以前から将来の様々な
結果を潜在的に孕んでいる。
270 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/10/26(金) 10:13:34 ID:HSADX0Pt
ある者は富みのある家に生まれた。なぜ富みのある家に生まれたのか。それは、たまたまその
ような家に生まれただけだろう。富みのある家に生まれたからと言って、富のある家に生まれよ
うとしてそのような家に生まれた者など一人もいない。貧しい家に生まれようとして貧しい家に
生まれた者も一人もいない。まさに、偶々あるものは富みのある家に生まれ、別の者は、偶々貧
しい家に生まれた。偶々富のある家に生まれた者も、貧しい家に生まれる可能性があった。偶々
貧しい家に生まれた者も、富のある家に生まれる可能性があったのだ。人々は、可能性の幅とば
らつきの中で、あるものは富のある家に生まれ、ある者は貧しい家に生まれる。
世の中には富のある者がいる。富を持たない者もいる。そうであれば、たまたま富のある家に
生まれる者もいる。たまたま富のない家に生まれる者もいる。それは当たり前のことではないだ
ろうか。
富があるということ。あるいは富がないと言うこと。そのことは必ずしも、人間にとって、あ
るいは社会にとって直接大きな問題ではないだろう。富のある者は、富みのある暮らしをすれば
よい。富のないものは、富のないそれなりの生き方をすればよい。人々が解決すべき問題はもっ
と外にある。
ある者は富みのある家に生まれ、ある者は貧しい家に生まれたように、可能性には常に幅があ
る。ばらつきがある。顕在化している可能性もあれば、潜在的可能性もある。実体的可能性もあ
れば、妄想的可能性もあるだろう。可能性に対しては、取捨可能な選択肢もあり、取捨不可能な
選択肢もある。取捨可能な選択肢はほとんどの場合圧倒的に数が少なく、取捨不可能な選択肢は
膨大である。人々はその中で、一瞬一瞬に誤りのない舵取りが必要となる。この現実に、我々は
どう立ち向かっていくのか。
僕ら仏教者は、釈迦が立てた問題意識に共鳴し、賛同し、釈迦が立てた仮設を生き方の道標と
して選択する道を選んだ。 釈迦の問題意識とは何だったのか。もう少しこれを考えていこう。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人_____,,)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
ノ|/ ∴ ノ 3 ノ、
/ \__ /"lヽノ ヽ
/ ,ィ -っ ( ,人) ヽ
| / 、__ う | | ・,.y i
| / | ⊂llll |
 ̄T ̄ | ⊂llll /
| ノ ノ 彡イ
| ヽ、(__人_)_,ノ|
| 人 |
ヽ、__ノ__ノヽ_
ヽ ̄ ̄ノ^ | ̄ ̄ i
273 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/10/27(土) 10:22:17 ID:gqTRZ9Gr
釈迦の問題意識をもう少し考えてみる。釈迦は、人として解決すべき問題を苦という言葉で表
し、それが解決した状態を楽という言葉で表現している。釈迦が言う苦とはなにか。楽とは何か。
貧/富
解決すべき問題を苦、解決した状態を楽といえば、人は通常何を思うだろうか。解決すべき問
題は貧であり、解決した状態は富である。もし、そう言えば釈迦は何と言うだろうか。釈迦は決
して否定しないだろうと僕は思う。貧を苦と言い、富を楽と言っても決して間違いではない。こ
れらは、人々にとってこれは常に実に大きな深刻な問題だ。しかし貧の状態を富の状態に変える
方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈迦はこれを自分のライフワー
クとして選んだわけではない。むしろ、現代の経済学の方が比較にならない程大きな解決策を持っている。
病気/健康
解決すべき問題は病気であり、解決した状態は健康である。もし、そう言えば釈迦は何と言う
だろうか。釈迦は決して否定しないだろうと僕は思う。病気を苦と言い、健康を楽と言っても決
して間違いではない。これらは、人々にとってこれは常に実に大きな深刻な問題だ。しかし病気
の状態を健康の状態に変える方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈
迦はこれを自分のライフワークとして選んだわけではない。むしろ、現代の医学の方が比較にな
らない程大きな解決策を持っている。
274 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/10/27(土) 10:23:00 ID:gqTRZ9Gr
圧政/自由
解決すべき問題は圧政であり、解決した状態は自由である。もし、そう言えば釈迦は何と言う
だろうか。釈迦は決して否定しないだろうと僕は思う。圧政を苦と言い、自由を楽と言っても決
して間違いではない。これらは、人々にとってこれは常に実に大きな深刻な問題だ。しかし圧政
の状態を自由の状態に変える方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈
迦はこれを自分のライフワークとして選んだわけではない。むしろ、現代の自由民主主義政治学
の方が比較にならない程大きな解決策を持っている。
戦争・飢餓・天災・政情不安/平和
人が解決すべき問題は戦争・飢餓・天災・政情不安であり、解決した状態は平和である。もし、
そう言えば釈迦は何と言うだろうか。釈迦は決して否定しないだろうと僕は思う。飢餓・天災・
政情不安を苦と言い、平和を楽と言っても決して間違いではない。これらは、人々にとってこれ
は常に実に大きな深刻な問題だ。しかし戦争・飢餓・天災・政情不安の状態を平和の状態に変え
る方法を知ろうすれば、仏教は余り大きな力にはならないだろう。釈迦はこれを自分のライフワ
ークとして選んだわけではない。むしろ、現代の科学・政治学の方が比較にならない程大きな解
決策を持っている。
輪廻/涅槃
解決すべき問題として釈迦は何をテーマとしたのか。釈迦はそれを輪廻と称し、解決した状態
を涅槃とよんだ。輪廻を苦と考え、涅槃を楽と考え、輪廻の解決を図ろう。釈迦はそう提案して
いる。輪廻の原因は無明である。釈迦はそのような仮説を建てた。無明を破れば涅槃に至る。仏
教は、釈迦のこの提案に賛同し、それを実践してみようという人々の運動体を原点とする。親鸞
が提唱した浄土真宗も、この枠組みを一歩、半歩として逸脱するものではない。僕はそのように
考える。輪廻・無明・涅槃とはなにか、これを説明する。
275 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/10/27(土) 10:26:05 ID:gqTRZ9Gr
> 273-274
× これらは、人々にとってこれは
○ これらは、人々にとって
_,,t-‐‐-、,-‐‐-、
三'::::::............... .....::::::`y,.
ナ::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::ヾ
| ̄| V::::::::::::::::_{{ ({∫∬ノノjヾ:::::{
| ̄| | ̄| ナ::::::::::::::i`__,,,,,,,ァ_ _,,,,,_ t;;:ヌ
| | | | イヘ::::::(ヾ~!,ャt、 !'''i ィtン )=f }f
| | | | i {t)テ" ヘ' '___,イ ヽ_/ 介'
| | | | _,rヘ_,j|!' /ー--''! |'
|,.ィ―'''' ̄ /| | /二ク !
/;;:::'';;::''::;;:/ { ! 、 ヾニン ノ\
/'''::::;r|''':::;;;| | ! \ _,,./|::;;'''\
/:;;/ |;;;''::;;| 丶\ `__>-ー´ !;;;:'''::iヽ、
i/ |'::;;;;''| 三 ―''" !''::;;;;| /ヽ
/⌒ヽ |;;''':::;| \ !;;::''|/ i
/ \{'';;;::''}  ̄二ニ= !::;;| |
/ヘ |;;:::::;{ ‐- !/ |
/ i |:::;;;''! ー ! / |
/ l |;;'';イ } {、
〉、 ∧テ{ ヽ _ _,,,,;;;;;:::-==ニ;;;_ ノ __,イ´
/ \_ //レ!  ̄  ̄ { ̄ |
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i / ̄ | | i、 |
i / || ヽ |
277 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/10/28(日) 11:04:50 ID:hlxupyRW
人には意思がある。行動がある。
けだものの心でけだものの行為をする者をけだものという。けだものは、欲はあっても全く知
恵がない。知恵のない愚かな欲望に促され、実に知恵のない行動を行う者、これをけだものとい
う。
ライオンでも、満腹になる一瞬がある。その瞬間は行動が止まる。けだものにも休息がある。
行動を停止するときがある。しかし、知恵のない行動に止まることがない愚か者もいる。こうい
う愚か者は、欲望が満たされることがなく、際限なく愚かな行動を連続していく。これを餓鬼と
いう。餓鬼とは、飢えた鬼、飢えた化け物という意味だ。
飢えた鬼にもやがて行動が止まることがある。知恵のない欲望は、紅蓮の炎のように燃えさか
り、その炎は全体が厚い南極の氷に封印され、身動き一つできなくなっている。これを地の獄舎、
地獄という。
人はしばしばけだものとなり、餓鬼となり、地獄にも堕ち、また有頂天となって舞い上がる。
有頂天の時は、全ての物事が期待通りに進行する。有頂天の意思には知恵があり、有頂天の意思
は、実現する行動に妨げがない。意思の知恵はほとんど完璧に実現されていく。しかし、その意
思はなお欲を孕んでおり、やがて欲は知恵の判断を狂わせていく。知恵は現実との狂いを拡大し、
有頂天は必ず持続不可能な時期を迎える。
昨日まで有頂天でいたものが、今日はけだものとなり、あるいは地獄の底で塗炭の苦しみを受
けることもある。馬鹿だっだった。馬鹿だった。自らの行為を心底悔い、真人間になって生まれ
変わることを固く誓った人物が、舌の根も乾かない内に再び餓鬼の手先となり、地獄の底に舞い
戻ることも決して少なくない。
278 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/10/28(日) 11:08:02 ID:hlxupyRW
意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変わればその節々で古い人格が死に、新たな人格
が誕生する。挫折(死)があり、再起(生)がある。
中途半端に再起(生)すれば、意思は持続していても行動は再起の時の意思の実現に向かわな
くなる。人は彷徨う(病)。行動は惰性で持続していても、再起の時の意思は放棄される。人は
疲弊(老)する。人が、意思も放棄し、行動も放棄すれば、人は挫折する(死)。人はこのよう
にして、生(再起)・老(疲弊)・病(彷徨)・死(挫折)を経験する。中途半端に再起し、中
途半端に挫折する。生(再起)・死(挫折)・生・死を繰り返す。これを迷いという。人は、地
獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つの世界を巡っていく。
今日の私の生老病死は、私の肉体の誕生で始めて発生したものではない。私の肉体の消滅で修
了するものではない。今日の私の生老病死は、過去、無数の人々が繰り返し繰り返し経験してき
た無数の生老病死といささかの相違もない。今日の私の生老病死は、今後も無数の人々が繰り返
していくだろう無数の生老病死といささかの相違もない。実に全く同一の生老病死が、無限の過
去から無限の未来に向かって連続している。今日の私の生老病死は、その無限の過去から無限の
未来に向かって連続している生老病死の単なる一つに過ぎない。これを輪廻という。
釈迦は、このように無限の過去(前世)から、無限の未来(来世)へと、三世に連続する輪廻
の連続を断とうと提案している。輪廻は、現在(現世)でいまここで断てば再び連続することは
ないだろう。釈迦はそう言う。輪廻を断ち、二度と輪廻しなくなったときのことを、釈迦は滅と
呼ぶ。ろうそくの火を吹き消せば、再びどこからか新たな火を持ってこない限り、蝋燭は自力で
火をともすことがない。滅とはろうそくを吹き消した状態であり、これを涅槃という。
輪廻を断とう。仏教とは釈迦のこの提案に賛同し、釈迦がライフワークとして提案した仮説を実践
することを決意した運動体である。
// ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
彳丿; \,,,,,,,,/ u lヽ
入丿 -◎─◎- ヽミ
| u:.::(●:.:.●)u:.::|
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ヽ、 ,___,. u .ノ
⌒ヽ:.___;;;;;;;;;;___.ノ⌒
280 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/02(金) 11:03:41 ID:au9bB8nk
釈迦は少年期、自分が居住する自我の城を抜け出した。すると、そこで赤ん坊の誕生を目撃し
た(再生)。自我の城に戻り、その後また城を抜け出した。そこで病人を目撃した(疲弊)。三
回目に城を抜け出したとき、釈迦は老人を目撃した(彷徨)。四回目に城を抜け出したとき、死
者を目撃した(挫折)。
自我の城で城壁に囲まれている状態の中では全てが平和に見える。そこでは何も真実が見えな
い。自我の城を出よう。自我の城を出れば真実が見えてくる。人は生老病死を免れることができな
い。人は生死生死を繰り返している。
有頂天になったかと思ったら、次の瞬間には畜生・餓鬼・地獄の世界を彷徨う。実に悲しいこ
とではないか。大変なことではないか。輪廻を断とうじゃないか。輪廻転生を苦と考え、輪廻転
生の束縛から離れた状態を楽という。釈迦は、自我の城を抜け出したとき、生老病死の現実を目
の当たりに見、出家を決意した。
苦のような境遇からはなんとか離れたい。そのように思った人は釈迦以前にもいたようだ。城
を出て出家した釈迦は、先人の下を尋ねる。釈迦はまず、阿羅邏迦蘭(アーラーラ・カーラー
マ)仙人の門を叩いた。アーラーラ・カーラーマは無所有処という境地を教えていた。釈迦は、
速やかにその師の教えを体得してその場を去る。
釈迦はその次に鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマ・プッタ)仙人の門を叩いた。ウッダカ・ラーマ
・プッタは非想非非想処という境地を教えていた。釈迦はこの教えに飽きたらずそこを去り、や
がて一人で坐禅瞑想に向かった。
281 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/02(金) 11:04:15 ID:au9bB8nk
中村元さんのゴータマ・ブッダを読むと、無所有処も非想非非想処も、共に無色界という境地
に属するという。無所有処とは、所有品も道具も持たないということであるという。中村元さん
といえば、既に故人となったが、自他共に認める原始仏教の大家であり、その主張に非を挟むつ
もりはない。無所有処は無色界であるという考えも古典にきちんと根拠のある定着した考えなの
だろう。ただ、僕は在野の批評家として独自の主張をさせて貰いたい。素人の譫言と思う人は無
視すればいい。
人はなぜ輪廻するのか。迷いを起こすのか。それは欲望があるからではないか。欲を捨てれば
いい。欲望を捨てれば間違いを起こすことはない。人はしばしば欲を捨てた理想主義を掲げる。
理想主義は、一気にバラ色の世界を描く。しかし、絵に描いた餅(色界)は腹の足しにならない。
欲を捨てただけでは何の解決もない。
絵に描いた餅(色界)じゃ解決がない。形があることそれが悪である。こういう主張は理想を
否定する破壊主義(無政府主義)に向かう。形あるものは崩れていく(無色界)。しかし、形あ
るものを崩しても、それだけでは何ら解決がない。
輪廻(欲)を断とうすればどうすればいいか。理想主義(色界)と破壊主義(無色界)という
二つの主張が生まれるのではないか。アーラーラ・カーラーマは理想主義、ウッダカ・ラーマは
破壊主義を主張していたのではないか。僕はそのように思うのである。
282 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/02(金) 11:14:27 ID:au9bB8nk
アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマ・プッタの考えは、大乗仏典・ブッダチャリタ
(中央公論社)13巻の方が僕には理解しやすかった。アーラーラ・カーラーマは次から次
へと捨離していく。一切を捨離しなければ完全に目的を達したことにならない(258頁5行目)。
欲を捨てていく理想主義の境地を主張している。
ウッダカ・ラーマ・プッタは、一切を捨離する無一物の状態を脱し、その彼方にある想念あり、
想念なしの議論を超越していく(259頁4行目)。非想非非想処は想念を持たないことも想念
を持つことも無い。理想主義にはビジョンがある。計画がある。餅を描いた絵がある。これに対
し、非想非非想処は、想念を持たないのではないようだ。つまり、絵に描いただけではだめという
思いはあるようだ。その上で、想念を持つことも無い。想念を持たなければ、実体どころか、絵す
ら描けない。実体(欲)もなく、ビジョン・観念(理想)をもつことすら放棄すれば、人は真空となる。
まさに無政府状態となるのではないだろうか。
餅を絵に描くだけの理想主義では解決がない。しかし、その絵さえ否定しても解決はない。釈
迦はやがて、輪廻の根本に無明があることを発見し、十二因縁の仮説と、四諦八正道を見いだし
ていく。 (2,3日カキコ不能)
|| !| │
|| !| │
=||=!| │
|| !| │
|| !| │
Ξ||Ξ!| │ …ああ先生ぇ……
─.─.┤ | …/lァ/lァ/lァ/lァ……ぅ!
| .! :.,;;;;;;;;;;;、ニニニニニニ.、
| .! {;;;;;;;;;;;;;;}  ̄ ̄!| |.!
||`ー|. ̄ 丁 ̄|\ :'::;;;;;;;;;::' __」.! !.!
__||二二二]|__ || | ,r''''"~ ""''ヽ.:l─´. !.!
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.!l `ヽ !、 :.i' 'i,=コ|.|
|| l三三l || ,_」___: | 'i,'丑丑|ニl___,'ニヽ___
||.==========!l '‐┬┬‐─ ! i'> }. ─────┬┌′
|| l三三l || | /丁,.` ! ; _ノ _,...、 ̄ ̄ ̄丁ヽ、|
||==========:!| | !.| 'i, `'i'''―--―''''i'ニ-'" ノ . .! | |
|| l三三l !l .| !.! ヽ.i' "' '''"'; _/ _,,..i'"':, . ! ! !_
||----------|.! ___,| !.|_メ´丶ゝ_,.i、_ _,;..-'" |\`、: i'、.`ー'
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ー'"  ̄ \\`_',..-i
. \|_,..-┘
こうして、今日もパソコンの前で一日中座禅念仏をする渡海難であった。。。
285 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/09(金) 09:48:42 ID:sl0Nxim5
再起・挫折・再起・挫折を繰り返すことは確かに大問題だが、貧困は大問題ではないのか。病
気は大問題ではないのか。圧政・戦争・飢餓・天災・政情不安は大問題ではないのか。こういう
反論は当然あるだろう。貧困・病気・圧政等も、人類が立ち向かわなければならない問題であり、
再起・挫折を繰り返す輪廻も立ち向かわなければならない問題である。いずれも大事な問題だと
いうべきだろう。貧困や病気や圧政などについては、その解決に向け、社会的には様々な提案が
なされている。我々は、こうしたそれぞれの提案に、適宜耳を傾けながら取捨選択し、必要に応
じ、立場立場で必要があれば逆提案をすることもある。
輪廻の問題もそうした発想と決して矛盾するものではない。我々仏教徒は、輪廻の問題につい
ては釈迦の仮説的提案に耳を傾け、釈迦が提案した方法論を、自分の生き方の中で試験的に、
あるいは継続的に実践してみようと選択した人々である。僕はそう考えている。
十二因縁の仮説とは何か。十二因縁の仮説は十二個の単語が続いている。無明・行・識・名色
・六処・触・受・愛執・有・生・老病・死、である。十二個の単語は経典間によって若干の揺れ
があるが本質的な相違ではない。
286 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/09(金) 09:49:28 ID:sl0Nxim5
本源(過去因)
ああ、俺は馬鹿だった。俺は本当に馬鹿だったんだよ(無明《根本原因》)。馬鹿だったから
あんな衝動が涌いた(行)。
現状分析(反省)
馬鹿だったからあんなことを考えたんだ(識)。知恵も分別もなく衝動が涌いた。そんな考え
が涌いたからこそ、あんな事物を意識した(名色)。あんな意識が涌けば、ものごとはみんなそ
っちの方に見えてきた。耳に心が宿って聞こえてきた。目に心が宿って見えてきた。感情に心が
宿って感情が動いてきた(六処)。耳に不快なものは避け(触)、耳に快い方に心は向かった
(受)。
現状分析(束縛)
そうなれば物事に執着が現れる(愛執)。執着は積み重なっていく(有)。
未来分析
執着すれば繰り返し繰り返し再起しなければならない(生)。繰り返し繰り返し再起すれば繰
り返し繰り返し彷徨・疲弊する(老病)。愚かな行為は、今後も繰り返し繰り返し挫折するだろ
う(死)。
287 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/09(金) 09:51:35 ID:sl0Nxim5
釈迦の主張と従来説の違いは、無明という概念を出したことだ。それ以前には、輪廻の根元は
欲望にあると考えられていたようだ。欲を断てばいい。理想主義(色界主義)はそう主張する。
欲さえなければ人は迷うことがない。そう考えられていた。しかし、欲を断ってもなかなか迷い
は尽きない。これに対し、欲を断っただけでは駄目なんだという主張もあった(無色界)。それ
じゃ何が原因なんだというところで、行き詰まった。釈迦は無明という概念を提案したのである。
迷いの根元は無明にある。この仮説は、大乗仏教・小乗仏教の全てを貫徹する共同認識であり、
この仮説を否定する思想は仏教ではない。では無明とは何か。無明とは、方法論が無いという現
実である。これを考えていこう。
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(::::::::::/:::ハ):::ノ::::ノ ) ノノヾ::::::::::::丶::::ヽ
(:::::::::/ 彡 ノ ノ :: 彡:/)) ::::::::::)
(::::::::::/彡彡彡彡彡 ミミミミミミミ :::::::::::)
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| ::: -=・=- -=・=- ::: :::)
|:/ ノ ヽ ヽ|ヽ
|/ U .⌒ ` U ..| |
( U (● ●) U )
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( U// ̄ ̄ ̄ ̄\:\.U .)
/\ U )::::( ( ̄ ̄ ̄ ̄) )::::(: U /
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/ ' "'' 、 \: _- ,,_ ̄ ̄ ノ` ゙ /:::::::::/
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/ ヽ | / ノ
,, 、 / ヾ ヾ ヽ-' 、 ,/
- '' ヾ ( ヽ 丶 ! '' ,, ゝ" |
''" \/ヽ ヽ ヽ _ 'i / ヽ
289 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/09(金) 20:07:22 ID:sl0Nxim5
ちょっと脱線します。僕の説明が悪かったかも知れない。
あるお寺の報恩講で今年始めて五会念仏をしましたという報告を受けました。門徒方には大変
評判が良かったそうです。来年のリクエストにも入ったそうです。
ただ、その方のメールの中で、座禅念仏という単語が出できました。2ちゃんねるの荒らし坊
主が「座禅念仏」という言葉を使用するのは僕の知ったこっちゃないけど、真面目に念仏を考え
ている方が座禅念仏という表現を使うとすれば、これは気になる。親鸞教学に無用の混乱が起こ
らないよう、用語についてここで再度確認しておきたい。これまでの僕の説明が悪ければ、説明
が変わってと思ってくれてもいい。親鸞の真意と思えるところをできるだけ正確に公表しておき
たい。
宗祖は座禅念仏という言葉は使っていない。五会法事讃略抄を見て欲しい。五会法事讃略抄で
宗祖は、「念仏三昧は、真の無上の禅門なり」といいながら、教行信証では、全く同じ箇所を引
用して「念仏三昧は、真の無上の門なり」と言い、教行信証では敢えて禅という文字を落として
いる。絵画には、額絵画と非額絵画とがあるんじゃない。額があっても額がなくても絵画なんだ。
念仏にも、座禅のある念仏と座禅のない念仏とがあるんじゃない。座禅があっても、無くても、
それは念仏なんだ。
290 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/09(金) 20:09:10 ID:sl0Nxim5
念仏は、行住座臥、不問時節久近というのが原則である。何かを行動しながら称えてもいい。
止まって称えてもいい。座りながら称えてもいい。寝ながら称えてもいい。長い間称えてもいい。
短い時間で称えてもいい。時間を決めて称えてもいい。時間を決めないで称えてもいいんだ。だ
からといって、動きながら念仏・止まりながら念仏・着座しながら念仏・仰臥しながら念仏、と
いう四種の念仏があるというわけではない。
念仏は、座りながら称えてもいいなら、正座して称えてもいいんだ。あぐらして称えてもいい
んだ。それなら座禅して称えても一向に悪くないだろう。時間を決めないで称えてもいいんなら、
一定時間、外に何もしないで念仏だけに集中して称えるという念仏方法があってもいいだろう。
行住座臥、不問時節久近の念仏にはそのスタイルは自由かつ多様なんだ。多様な念仏スタイルの
一つの選択肢に、念仏三昧という念仏方法が歴史的に存在してきた。
念仏三昧をしようとする者は座禅して称えるといい(教行信証)。親鸞はそう勧めてくれてい
る。観無量寿経を読む分かるが、座禅こそが極楽浄土の正式な着座スタイルだ。念仏は、座
りながら称えてもいいんだから、当然、座禅して称えてもいいわけだ。座禅が極楽浄土の正式な
着座スタイルであれば、念仏三昧をしようとする者は、座禅して称えるといいだろう。親鸞はそ
う言っている。これは極、当たり前の提案だ。
念仏三昧で、念仏を座禅して称えるなら、その中で特に五会念仏という方法が一番いい(法事
讃略抄)。親鸞はそう教えてくれている。
教行信証を読むと一般的な念仏の意義や目的が色々書いてある。とりわけ念仏三昧の効果につ
いて特筆している。教行信証は、座禅して念仏を称えるこの五会念仏の効果を念仏三昧の効果と
して特筆している。
宗祖の書き物は、その真意を正確に読んでいきたい。
292 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/10(土) 08:28:20 ID:dPlOSCo5
>289
誤 座禅があっても、無くても、それは念仏なんだ。
正 座禅があっても、無くても、それは同一念仏なんだ。
二種類の念仏があるんじゃない。同一念仏無別道故
という大原則をはみ出るんじゃないんだ。
293 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/10(土) 10:47:31 ID:dPlOSCo5
釈迦仏教論に戻ります。
無明とは何か。知恵がないということだろう。言い換えれば、知恵があれば人は迷わない。再
起・挫折・再起・挫折を繰り返すことはない。
このように言うと、それはおかしいという意見も出る。六道の内、地獄界・餓鬼界・畜生界には
確かに知恵がない。これを三悪道という。しかし、少なくとも人界には知恵がある。十分とは言
えないが、あるか、ないかと言えば知恵はある。人は、知恵を失うと三悪道に転落する。だから
こそ、人は知恵を持たないといけない。三悪道の人が真人間に戻るというのは、知恵があって
始めて可能となる。輪廻の人界に知恵がないというのは言い過ぎではないか。人界だけではな
い、天界にも知恵がある。むしろ天界は圧倒的に豊富な知恵で溢れている。天界は、圧倒的に
豊富な知恵と行動力を持ち、他が真似できない実力で自らの意思を実現する。問題だったのは、
天界・人界さえ輪廻から免れられないという事実ではなかったか。
仏伝によれば、釈迦が悟りを開くと、帝釈天・梵天が直ちに天から下りてきて釈迦に教えを請
う。帝釈天・梵天ともなると、ずば抜けた能力を持つ。帝釈天・梵天などは、どこかで誰かが悟
りを開いたということは、直ちに察知できる。
帝釈天や梵天は、釈迦から何を学ぼうというのか。一介の僧より、帝釈天や梵天の方が遙かに
様々なことを知っている。ずば抜けた行動力もある。その帝釈天や梵天が、釈迦から何を学ぼう
というのか。
294 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/10(土) 10:49:10 ID:dPlOSCo5
帝釈天・梵天は釈迦にあらゆる点で勝っていたはずだ。ただし、一点を除いてである。帝釈天
・梵天は、圧倒的に釈迦に勝っていた。しかし一点において釈迦に叶わなかった。この一点によ
って、帝釈天・梵天は釈迦に完全に敗北していた。帝釈天・梵天は釈迦に圧倒的に勝っていたが、
一点において叶わないことがあったため、地にひれ伏して教えを請うことになる。その一点とは
何か。自分は何一つ分かっていないという一点である。
帝釈天・梵天はあらゆることを知っていた。他と比べものにならない圧倒的な実力を持ってい
る。その帝釈天・梵天が、唯一釈迦に叶わなかった点、それは、自分は何も分かってないという
そのことを知らなかったと言うことだろう。この一点で帝釈天・梵天は、釈迦に対し、教えを請
うた。あらゆることを知り、圧倒的な実力を持っているものが持っていない唯一の知、それは無
知の知である。それが釈迦の悟りだったと思う。無知の知が無い。それが無明ということだろう。
釈迦から無知の知を教わった帝釈天・梵天は、その後眷属を引き連れて釈迦の守護神となった。
釈迦の無知の知は、分析論と方法論とを切り分けたということだろうと思う。分析論を悪因悪
果という。方法論を善因善果という。釈迦以前にも知恵はあった。しかし現状分析論と方法論と
の切り分けがない。両者は渾然一体化し、まだら模様化している。これではうまく行くときは成
功するが、やがて必ず行き詰まる。
295 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/10(土) 10:52:10 ID:dPlOSCo5
分析論だけではだめであり、相応しい正しい方法論が備わっていなければならない。方法論は、
正しい分析論を合わせよう。釈迦はそういう提案をしている。こういう知恵は、東洋では釈迦が
最初に抱いた。世界にはもう一人いると僕は考えている。それはソクラテスだ。
釈迦とソクラテスは洋の東西でほとんど同時期に誕生し、両者は全く出会うことはなかった。
しかし二人は人類の発展に不可欠の要素をもたらした。釈迦は祇園精舎を建設し、ソクラテスか
らはその弟子であるプラトンが、アカデミヤを建設し、世界の学校の原点になった。二人の共通
点は、教育ということだ。
議論を教育論に飛ばす前に、もう少し釈迦の悟りを考えてみる。ここは親鸞仏教の重要な原点
だからだ。
|\__/ハ__
{_____」
\\ ∧_∧
◎ ≫〃vミー‐w へ (´<_` ) くせえんだよ
\ 彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
{_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
◎-○一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ:: -=_二__ ̄ . \_ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
( ) 渡 ≡ ;;; ) ) .\__/_丿
|__|. 海 ≡ ;;; )_l .| |
_| | 難 ≡ ;;;; ) ( | |
| \.._\. 入 \, | |
|ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv) \ ヽ
|___||:::::::::::::/::::::::::/ \ |
.|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/ / ノ
(___|)__|)
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| ___OO___OO キモいぜ! i⌒i__ ┌─┐...|
|(_____)(___ )_l⌒l(⌒( ̄ ___)│12│...|
|(__ __) ノ ノ(_ ヾノ~| .(__)└─┘...|
| ノ / / ./( O ,-, )ノ ノ__ 三|三|- |
| ( _ ノ ( __ ノ \__ノ ( _ ノ(___(___)ノ| ̄| .|
| 「激闘!東京ビックサイト」の巻  ̄~ .|
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| ┃ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;( 人____)::::::::::. ┃ |
| ┃ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|ミ/ ー◎-◎-) __ :::: ┃ |
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| ┃ /;:;:;:;:;:;:;:;:;:| ∴ ノ 3 ノ : :::::: ┃ |
| ┃トヽ:;:;:;:;:;:;:;//\_____ノ⌒ヽ, ( ,--、_ ┃ |
| ┃i!`ー、_,、{;;l`ヽく_oー―=''''"||:;:;:;:;:;ヽ, ┃ |
| ┃ヽ l/;;;:`ー-;川♀'┴-、|j;:;:;:;:;:;:;:;ヽ,._,-'ニ二┃ |
| ┃ |ヾ、 i;;;:::::;;;;;(0:::)ヽ;;;-::"フ;:;:;:;:;:;:;:;:;:::il ヽ┃ |
| ┃ 1ヽニフヽ;.-''"/ 7'、;;;;;;;:::;;;;i'ニニ、ヽ___j.ヾニニ ┃ |
| ┃,,┴フ;:{ ,.∨ |L ゝ;;;;;ノi , __,..-'" ;;;;;;;;;;;;;;;;┃ |
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 応援ヨロシク!./ ̄ ̄ ̄ ̄\ ア ニ メ 化 決 定!|
| / ̄\( 人____)テレビ東京系列 |
| , .┤ ト|ミ/ ー◎-◎-) 深夜0時25分〜 |
| | \_/ ヽ (_ _) ) .|
| | __( ̄ |∴ノ 3 .ノ ファンの要望に応えて |
| | __)_ノ ヽ ノ | ̄| あの デブおた君が |
| ヽ___) ノ )) ヽ.|∩| アニメで登場だ! .|
|______________________|
|三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三|
298 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/11(日) 12:58:05 ID:bmQxy78H
原始佛教スレで、このスレが紹介されてましたので、とりあえずロムってみました。
さすがに渡海氏は親鸞については詳しいですね。
で、
>>76氏の問いで渡海氏の
>>96の答えを拝しました。
知的障害というのは、そもそも現実的に腹式呼吸は無理なんじゃ〜ないか?
これは丹田呼吸法と同じですか?
ある程度の精神集中は必要ですし。
で、これは私の自論(持論)なんですが、
そもそも知的障害というのは、程度の差はあるかと思いますが
俗世間的には悟ってますね。
悟ってる御仁というのは、そもそも阿弥陀如来に帰依せんでもいいかと思うのですが、
このてんどうでしょう?
自然法爾で調えば宜しいんじゃ〜ないかと、
かように思うのですが。
あと私が伺いたいのは、真宗で悟った瞬間というのがあるらしい。
これは阿弥陀仏からの手綱を離した瞬間らしいのですが・・・
その後の境涯について伺ってみたいですね。
299 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/11(日) 14:04:06 ID:RG66Z1ir
>298
>知的障害というのは、そもそも現実的に腹式呼吸は無理なんじゃ〜ないか?
うん。まあそうかもしれないね。
> これは丹田呼吸法と同じですか?
禅の時の腹式呼吸は同じだと思っています。
> ある程度の精神集中は必要ですし。
なるほど。
> そもそも知的障害というのは、程度の差はあるかと思いますが
> 俗世間的には悟ってますね。
なるほど。僕も、昔はよくボランティア活動で施設に行ったんだけど
知的障害者だって、苦しんでたよ。それは健常者のぼくらと同じか、
それ以上だった
> 悟ってる御仁というのは、そもそも阿弥陀如来に帰依せんでもいいかと思うのですが、
悟ってない人だって、別に帰依しなくてもいいんじゃないのか?。
> 自然法爾で調えば宜しいんじゃ〜ないかと、
何か、自然法爾が必要ですか?
> あと私が伺いたいのは、真宗で悟った瞬間というのがあるらしい。
> これは阿弥陀仏からの手綱を離した瞬間らしいのですが・・・
念仏は禅と密接不可分の関係にあります。真宗では悟ったとは言わない。多分、これは
北宗禅と南宗禅の対立と分裂に遡る考え方だろうと思う。
いずれ、釈迦仏教論から大乗仏教論、大無量寿経の起源、念仏の救いとは何かという
問題に絡めて、多いに議論すると思います。
真宗とは何かというのは、実に大きな問題で、一口で言えることではないんです。
' ,; `, ; ` ; ,
ボォオオオオオオオオオ ; y"'(,;r_ソi,; ,
ノ;";;',,,u`゙;,゙`,,;;.´`r;
/  ̄ ̄ ̄\ ´; (,,'_;、;_;;',;人;;';`:;)
/ \ ,,/丶 ヽ(;,◎-◎一;;u:ヽミ/
/ (●_ (● ´,,;)(";;(。。;;(´";゙,;;`9)
| ::⌒(__人_)) ; ゙、 ノ;,‘"ノ{、;ε`,;;,';;u゜,, "イ
. \ `ー'/ '′,; ;ソ′ノ},; ' ; "; ,',ヽ;;';_;;;;_;;_`,;イ二)
√/⌒\ーィ´l≒ーaQ___ハ,,''",_,,'′;⌒",⌒'"~`,,,´ ,"彡"从;;:´'';´~゙゙;((´⌒:)~ヘ
_|\ ir─┴!ー─,=ァ───‐';y、〜〜、, '' ≠ ル'";; " ;|___| }
|___| `ー─┬'ーtョ' ′ `゙ーヾン,," ,; ; ,, 从"‘ 渡海 | | ロ
. VII| ー──‐l ' `゙ヾ;;;;ン,,,ノ;Y;≒;;,',`_____| ,人_}
| / / ,´ ;,ヾ、 、, (_,,ソ
|__/,__/ ; |__,|____,|
└一ー一 ノ'__}("___}
301 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/11(日) 15:32:50 ID:bmQxy78H
>>299 >念仏の救いとは何かという
昔NHKかで放映されてましたのが記憶にありまして、
阿弥陀如来から数本の綱が出てまして、その綱を持った僧が念仏を唱えながら
如来仏の周囲を旋回する。
(これは浄土宗のどの宗派かは分かりません)
この姿は、母(如来)が子(僧)の手を取るところに似てますね。
(帰依するとか、帰命するとかの体現でしょうか?)
まあ、いつかは子供は母から離れませんといけませんから、
他力の本願といふのは、まさにこの手綱を離した瞬間かと、
そのように思うたもんです。
> 念仏は禅と密接不可分の関係にあります。真宗では悟ったとは言わない。多分、これは
>北宗禅と南宗禅の対立と分裂に遡る考え方だろうと思う。
なるほど、そぉでしたか。
ならば真宗は北禅に近いやもしれませんですね。
ここは熟考せななりませんです。
どうも参考になりました。
302 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/11(日) 15:44:18 ID:bmQxy78H
>知的障害者だって、苦しんでたよ。それは健常者のぼくらと同じか、
> それ以上だった
知的障害じゃ〜なくても、脳性麻痺などは知的には問題がなくても身体が麻痺してることもありますからね。
これは健常者には想像もつきません。
手が麻痺しているために自慰行為というのが出来ない。
というのは、あまり健常者には知られていない。
>悟ってない人だって、別に帰依しなくてもいいんじゃないのか?。
知的障害でも、幕末の仙台四郎などは、私は悟ってる御仁かと思いますがね。
>何か、自然法爾が必要ですか?
いやいや、なにもせんでいいかと。
かように思ったしだいです。
<かしこ>
渡海 「!/7
↓ /ふ(⌒r_-_、_
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ .l'、そrィ(_,,},}ニ)
( 人____) l ` ''ー<´..... __゙!
|ミ/ ー◎-◎-) ゝ.,,______ |
,r (6 (_ _) ) |ミ/ ー◎-◎-)
,/ヾ<|/ ∴ ノ 3 ノ (6 (_ _) )←机龍之介
,.、‐'":ヽ::::\ __ __ノ |/ ∴ ノ 3 ノ
/::::::::::::::::ヽ::::::ヽ `/)乙二ス、 ,rニ ̄`ヽ __ノ
/:::::::::::::::::::::::::::ヽ::::;/ ーンノハヾ,!} /- ... `ヽ、 ,! ! ヽ
/::::::::::::::::::::::::::::::/^i´ /(_, イヽ' :.. \,! : ',
. i:::::::::::::::::::(⌒/:::::::::::l,r‐ァ''";!/:i, |:::::::゙! :.. \: ',
!:::::::::::::;:、-'":::::::::::::::::::|::/::::;:':{;::::i, |:::::::::} :. i :.. ヽ :. ',
}::::::;:::'::::::::::::::::::::::::::::::::|'::::;:':__:i;::::::i, l;::::::::| ヽ _,,..、、-‐ 'i ゝ,
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304 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/12(月) 09:40:37 ID:cMH0NawS
>北宗禅と南宗禅の対立と分裂に遡る考え方だろうと思う。
始祖から五祖に到る過程において、
その象徴的なものが神秀に法灯(法衣)を継承しなかった五祖・弘忍だろう。
慧能の去った後の東禅院は、既に蛻の殻だったそうですから、
いかにこの事変がインパクトのあるもんだったか推測される。
この段階において、五祖の評価は高い。
(ここに関心のある御仁は少ないが・・・)
既存の価値観に依存しない。
親鸞の戒律破壊とか、それによって旧態が果たして何だったのか?
それに疑を向けることによってしか抽出されない
「宗教的な命題は本当かどうかなんか言えるはずが無く、
信じるか信じないかしかない」。
歎異抄には、こんなことが書かれてますけど、
これなんかは非常に禅的?ですね。
305 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/12(月) 10:36:15 ID:dMGuGNyU
>304
>慧能の去った後の東禅院は、既に蛻の殻だった
南の主張でしょう。 (w
兄弟子に反発し、喧嘩状態で分派した弟弟子集団が、「あいつの所には
もうカス以外には何も残ってねぇーぜ。ざまぁー見ろ。さあ、笑ってやろう
じゃないか」と、こんな風に分派側が毒づくという話は、いつのどこの世界
にもあることだ。
>これなんかは非常に禅的?ですね。
禅の話はもっと後にしたいと思う。歎異抄の評価については、見解が相
違します。南と北とが、同じ価値観、見解なら、分裂などは無かったでしょ
う。親鸞は、仏心宗を聖道門と呼んで批判する。これは栄西の臨済宗を批
判しているものだ。親鸞は、北から見た南批判を承継している。
もともと、禅のない仏教などは存在しない。禅的でなければ、それは
仏教ではないんだと思う。しかしそれは、南の考えを支持しているという
ことではない。
そのまえに、釈迦の悟りをもっと考えていく。
306 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/12(月) 11:14:10 ID:cMH0NawS
>>305 >こんな風に分派側が毒づくという話は、
いやぁ〜そうでしたか?
私はそんなふうには思ってなかったですね。
文献において考察したまでのことですが・・・
神秀は長身でハンサム、また秀才でもあった。→五祖の一番弟子
慧能は背が低くてブ男、また無学。→新人(米搗き役)
両者は非常に対照的であり、腕力からしても神秀が上手。
東禅院を抜けるときも、慧能は逃げるようにして出て逝く。
>親鸞は、北から見た南批判を承継している。
なるほど、そうでしたか。
親鸞の人間性が出てますね。
まあ、慧能というのは見方によれば異端であったわけですから。
これは納得が逝く話です。
(真宗という脈絡からすれば北禅に近いでしょうね)
>もともと、禅のない仏教などは存在しない。
またいずれ、坐禅念仏のことでも御教示願えれば幸甚でありまふ。
307 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 12:39:44 ID:VdHHLuUW
>306
>私はそんなふうには思ってなかったですね。文献において考察したまでのことですが・・・
これは失礼申し上げた。「東禅院は、既に蛻の殻だった」というのは、このように書いてある
古文書があると言うのではなく、机龍之介さんがそのように考察したということだったんですね。
それなら、>> 305の記述はお門違いだったですね。机龍之介さんがどう考察してもそれは自由だ。
失礼しました。
ただ、神秀は唐の皇帝に仏教を教え、北宗禅は、唐朝廷の公式の仏教となりました。遣唐使の
ような国家間の留学生はこれを学びに海を渡りました。蛻の殻ならそういうことにはならなかっ
たと思いますよ。なお、少林寺拳法の少林寺は、現代では数少ない北宗禅を名乗っているそうで
す。
延暦寺の僧兵もこの北宗禅を学んでいたはずなんで、僧兵・一向一揆などとの関連で、北宗禅
は武闘派、南宗禅は農耕派なんじゃないかというイメージを僕は持っている。見当違いかもしれ
ないけどね。
>真宗という脈絡からすれば北禅に近いでしょう
善導禅師→法照禅師→円仁大師→親鸞という流れがあります。
法照禅師は唐の皇帝に五会念仏を教えている。中国仏教全盛時代、全盛の中国仏教の最高指導
者だったようです。
308 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 12:41:59 ID:VdHHLuUW
釈迦は十二因縁の法理を悟ったとき、同時に四諦の法を悟った。四諦とは、苦諦・集諦・滅諦
・道諦の四つを指す。
釈迦は、菩提樹の下で十二因縁の法理を悟ると、五人の比丘に法を説いた。中村元さんのゴー
タマ・ブッダを読むと、後代の人が尾ひれを付けたり省略したりして、いろんな説があるようだ。
その一つ漢訳増阿含経を中村元さんの著作から孫引きする。
「四つの聖なる真理がある。四つとは何か。曰く、苦という聖なる真理。苦の集起という聖な
る真理。苦の止滅という聖なる真理。苦の止滅に導く道という聖なる真理である。仏は、この経
を説きおわって、諸々の修行僧は仏の諸説を聞いて喜び奉じ行った」。
釈迦は最初に何を説いたのか。十二因縁、中道、四諦、八正道など、いろいろ経典によって異
なるそうだ。歴史的には正確なところがよく分からないようだが、十二因縁、中道、四諦、八正
道など、何かこの辺の教えを説いたのだろう。仏教発足の非常に早い時期、仏弟子達は、十二因
縁・中道・四諦を仏教の原点として認識するようになっていった。
考察する。十二因縁と四諦とは釈迦の悟りの裏と表である。裏と表を合わさったものが中道、
中道を実践する道が八正道、結局、十二因縁と中道と四諦と八正道とは釈迦の一つの悟りを立場
を変えて表明している。仏弟子達は釈迦からそのように教わったんだろうと僕は思う。
十二因縁を語れば、裏には必ず四諦がある。四諦を語れば、裏には十二因縁がある。十二因縁
のない四諦は存在しない、四諦のない十二因縁は存在しない。四諦と十二因縁が合わされば中道
になる。中道は、八正道で具現する。八正道を実践するということは、四諦を実践することであ
る。四諦を実践することは、十二因縁の業を断つこと。涅槃を得ることである。
十二因縁は悪因(無明)・悪果(生死)を教えている。悪因・悪果の裏には善因(道諦)善果
(滅諦)がある。悪因悪果・善因善果、因果の理法が正しく併存するところに中道が具現する。
中道はいかにして具現するのか。それは八正道による。正見・正思・正語・正業・正命・正精進
・正念・正定を実践せよ。これが涅槃の道である。ここで大事なことは、釈迦には方法論がある
ということだと僕は思う。
309 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 12:44:48 ID:VdHHLuUW
十二因縁とは分析論である。十二因縁は現状を分析している。多くの論者は分析で話が止まる。
釈迦は方法論を明らかにした。四諦と八正道は方法論である。四諦は、方法論の総論である。八
正道は具体論である。
こう議論を進めてくると、十二因縁がいう無明の本質が見えてくる。色界には方法論がない。
夢のようなことを言うが、実現方法に具体性がない。それが色界だ。無色界には分析論がない。
行き当たりばったりの方法論はあるが、行き当たりばったりで何をしたいのかが分からない。分
析論が無い。釈迦は方法論(四諦)と分析論(十二因縁)をセットにした。釈迦は、分析論と方
法論とをセットにし、方法論を総論(四諦)と具体論(八正道)で説明している。
無明とは何か。無明とは、分析論も方法論もない、欲の赴くまま(欲界)、分析論はあるが方
法論がない(色界)、方法論はあっても分析論がない(無色界)。無明とは、何がどうなってい
るのか分からない、何をどうしたらいいのかがわからないという状況である。何をどうしたらい
いのかがわからないから人は迷う。生死生死を繰り返す。分かったつもりでいても、実際には何
も分かっていない。
十二因縁、中道、四諦、八正道が釈迦の悟りの全体である。仏教の原点である。中核である。
これ以外の教えは仏教ではない。親鸞の教えであっても、決してその例外ではない。浄土真宗と
は、まさに釈迦のこの悟りを中核としていることを決して忘れてはならない。
もし、釈迦の悟りと親鸞の思想との間に相違があれば、それは時間というファクターが加わっ
ているだけである。釈迦の悟りは、紀元前四世紀ころのインドの思想である。親鸞は紀元十二世
紀の日本に誕生している。時間ファクターがどのように加わっていったかを議論する。
悟りを開いた釈迦はその後何をしたか。それを考えていこう。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 彼女ができたにょ〜
\___ ______________
V
___ _ / ̄ ̄ ̄ ̄\
r'⌒';=〔X〕=:、 / ̄ ̄ ̄ ̄\ (((((^)))))))) .|
川_ノ从仆从)) ( 人____) | = \ミ|
| |_」O Oy |ミ/ ー◎-◎-) [¬]-[¬]一 6)
| .人ひ − ノ| (6 (_ _) ) < 「、 > | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`⌒ニ| 匸⌒' _| ∴ ノ 3 ノ .| (一) ||| ./ < 等身大フィギュアじゃねーか。
f´\〔X〕フ、 (__/\_____ノ \___/\ \_________
!__j_》、___,》_) / (__)) )) (( ((\|/|⊃
〔>ヽヽっ./ /〕 []_ | | 渡海 難ヽ .|机 |\/
ム/i\_)_∧j |[] | |______) |龍之介|ノ
/\i i∧ \_(___)三三三[□]三) .(三□三三)
/:::/::`ー一ヘ::::ヽ /(_)\:::::::::::::::::::::::/ |::::::|:::::::::::|
く::/:::/:::l::::lヘ:::ゝ::::ゝ| Sofmap|::::::::/:::::::/ .|::::::|:::::::::::|
`´^ト‐iー'i_´ー ^´ (_____);;;;;/;;;;;;;/ |;;;;;;|;;;;;;;;;;|
f`f⌒if⌒i (___|)_|) (|__(|__)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
311 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/17(土) 15:03:16 ID:JuAqXImw
>北宗禅 は武闘派、南宗禅は農耕派なんじゃないかというイメージを僕は持っている。
>見当違いかもしれないけどね。
なるほど、なかなか示唆に富んでいる書込みですね。
例えば、
剣術などを習うと、ごく自然に精神世界に関心が向くようになる。
剣の勝敗というのは殆ど一発で勝敗が決しますから、
当然の如く精神修養に関心が向くんでしょうね。
鹿島流などは、相手の切り込むその刹那に・・・相手のコテに剣を入れるのを得意とする。
コテを入れた時点で相手は戦意を消失しますから、それで殆ど勝敗は決まる。
まあ、重い剣をいつまでも振り回す訳にいかんから、
この奥義は長年、秘儀として伝えられたもんでしょう。
(つづく)
312 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/17(土) 15:04:00 ID:JuAqXImw
相手に先手を打って切り込むには、恐怖心があっては出来ませんから、
先ず平常心をもつ。
そこから精神を集中させる。そして相手の動向を即座に観察する。
これだと本来無一物の南禅では無理ですね。
南禅の象徴的な人物というのは場祖かとおもいますね。
馬祖の風貌というのは、今でいうホームレス的なものっだったでしょうから、
これは農耕的な・・・どこにでも居るオッちゃんタイプですね。
南禅だと、こういうタイプに憧れる。
法燈国師とか盤珪はルンペンになってますから。
誰でもこういうのは一度はやってみたいんでしょうね。
坊主と乞食は一度やったら辞められない。
ともいう。
私もそういう時期がありましたw
獅子文六の「自由学校」を読んでから・・・
まあ、リアルではシビアなんでしょうけどw
313 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/17(土) 15:20:25 ID:JuAqXImw
鹿島流で有名なのが塚原卜伝ですね。
武蔵の剣を鍋蓋でかわしたのが有名。
これはたぶん、相手の気配を即座に読みとるんでしょう?
蛇足ですが、
全盲の方は、気配を強く感じる人と・・・そうでない人がいるらしい。
これも私には分からんですね。
全盲ではないから。
だけど考えさせる命題です。
314 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/11/18(日) 10:59:28 ID:CJPNumqT
× 場祖
>>312 ○ 馬祖
>善導禅師→法照禅師→円仁大師→親鸞という流れがあります。
なるほど、そうでしたか。
念仏と禅の双修というのは、現在でも中国にあるらしいですね。
日本では黄檗宗などでせうか?
私は中国禅の開花期というのは、慧能→南岳→馬祖あたりが頂点を極めた時代かと思ってます。
それ以降も勿論この流れはありましたが・・・次第に形骸化されていった。
日本においては、これより更に日本ナイズされた禅文化を形成していったのかと思います。
南禅と特徴というのは、いわゆる南岳の「瓦を磨いても鏡にならない」。
かとおもいますね。
これは禅定の否定であります。否定というか・・・
テーゼにおけるアンチテーゼにおいてのテーゼですね。
弁証法的には「正反合」になりますが、
ここに北禅とは一線をなす、慧能から引き継いでいた脈絡はあったわけです。
(北禅は、鏡をよく払拭せよ。ですから)
禅が日本に入ってきますと、勤勉な日本人にはどうも南禅は合わない。
勤勉・努力の日本人は、鏡を払拭せにゃ〜気がすまん。
という流れになってきます。
禅定は禅堂の必須ですから。
つまり、北禅にうまくナイズされた日本禅が育ってきたことと思います。
(中国禅(南禅)とは随分違うものになってる)
机龍之介
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彡川三三三ミ
川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
川川::::::::ー◎-◎-)
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渡海 難
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317 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/23(金) 10:25:19 ID:9SypLsBm
>念仏と禅の双修というのは、現在でも中国にあるらしいですね。日本では黄檗宗などでせうか?
親鸞は「一心に弥陀の名号を専念」すると言っており、禅と念仏とを双修せよとは、一言も言
ってない。念仏者は念仏に集中する。
美術館に行ったら絵画が額に嵌め込んであった。館長さんに「お宅の美術館は額と絵画の双方
展示場なんですね。こういう美術館は、確かに中国にもありますよね」と言えば、これは失礼な
話ではないか。中国に限らず、額を嵌めている美術館などは世界中にあるだろう。額を使わない
美術館の方が珍しい。
習字教室に出かけたら、子供達がみな正座して字を書いていた。「ここの教室は、正座と習字
の双修教室なんですね。双修と言えば、これは黄檗宗の影響でしょうか」と言えば、聞いた相手
はビックリするだろう。
習字教室の先生は黄檗宗など聞いたこともない。正座をしていても、正座をしているわけでな
い。あくまで習字をしているのだ。先生は子供達に、「さあ、正座して字を書きましょう」と言
うが、「正座をしよう」と言っているわけではない。ちゃんとした字を書こうと言っているのだ。
別に難しい理屈ではないと思う。
318 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/23(金) 10:27:56 ID:9SypLsBm
釈迦は分析論と方法論とを示した。釈迦のすごさは、単に分析論と方法論とを示したことだけ
ではない。釈迦にとって分析論と方法論とを示すと言うことは、それを実践すると言うことだっ
た。苦の止滅という目標に向かい、苦の止滅の道を実践する。釈迦は、戒定慧という三学を提示
し、互いに教え合おう、学び合おうと呼びかけた。
祇園精舎という学校を建設した。釈迦の下には多くの若者が参集した。彼らは、釈迦が提示し
たルールつまり戒律を守ることを誓うと、弟子入りが許された。有形の真理は、言葉(文字)、
絵画・彫刻・建築物などの形で示され、それを学んだ。有形の真理を知恵という。無形の真理は、
直接それを提示できないことから、それを体得する方法論が示された。禅定という。釈迦は、そ
れまで王宮が独占していた最先端知識を、惜しげもなく多くの人々に公開した。これは画期的な
ことだった。
それまで、九九が分からず、いつも釣り銭を間違え、顧客から文句を言われていた商人には九
九を教え、釣り銭勘定を間違えないようにしてやった。これによって、商人は永続的に商売がで
きるようになった。種まきの時期を間違えていつも失敗をしていた農民には、星の運行、太陽の
位置に基づく暦を教え、季節の循環と種まきの時期を教え、正しい農業をできるようにしてやっ
た。釈迦は、分析論・方法論・実践論を下に教育手法を合理的に組織化し、算術・暦・薬学・文
字・測量などを人々に智慧として教え、さらに禅定を実践させ、優れた多くの人材を育ってた。
まさにこれが、生老病死という苦を止滅するという目標に向かい、苦の止滅の道を実践するとい
うことだった。釈迦の悟りの中身そのものだった。
これはまさに、浄土真宗の原点である。
319 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/23(金) 10:30:22 ID:9SypLsBm
>318
誤 戒定慧という三学
正 戒定慧という三学(実践論)
320 :
紅炉上一点の雪:2007/11/23(金) 22:51:11 ID:pge70CD1
阿弥陀仏とはデウスなりや?
321 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/25(日) 21:48:51 ID:y5sfJwbQ
2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
集合場所、東京・新宿駅
近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会
12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。
これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。
集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
集合者がゼロなら中止。
なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
[email protected]
322 :
神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 08:23:14 ID:KQ4lA87c
↑?
323 :
神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 11:54:00 ID:60oBcP54
スレタイと内容が違うやん!
親鸞と違うやん。
>>322-323 ここは世間では誰からも相手にされないキモヲタ親父の妄想オナニースレなのでageないでください。
325 :
神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 12:18:58 ID:k4g4YpJQ
京都の常楽台で親鸞聖人の骨が出てきたので、檀家から10万円の割り当てが来ていますがみなさん払いましたか?
326 :
神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 12:20:45 ID:ukFzvLs+
327 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/03(月) 20:22:00 ID:+hFSfBnq
釈迦の下からは多くの賢人・哲人達が育っていった。やがて、その中からある種の疑問を持つ
者が出現してきた。自分たちは、教わるだけでいいのだろうか。自分たちが認識していれば、そ
れで十分なんだろうか。認識したことは、より多くの人々に拡散していくことこそ、人として実
は最も重要なことではないのか。自分たちが認識したことを、他の人々に幅広く伝えていくこと
こそ、あの釈尊先生の本当の精神ではなかったか。
釈尊先生は生涯を教育に捧げられた。自分たちも、あの釈尊先生のそんな生き方に倣おうじゃ
ないか。釈尊先生は我々に大事なことを教えてくれた。我々も自分たちが認識したことを、後の
世に伝えていこうじゃないか。自分たちが知り得たことを、多くの人々と共に共鳴的・共感的に
その共通の財産として享受し合おうじゃないか。自分たちが分かっただけではなく、多くの人々
と共に共感的に享受し合えるようになったとき、始めて我々は正しい認識を得たと、そのように
受け止めることにしようじゃないか。大乗仏教は、このように考える人々から発生してきた。
アフガニスタン・パキスタン・カザフスタンなど、現代ではイスラム圏となり、激しい戦火を
交えている地域で、仏教者達は始めて「教育学」に目覚めた。彼らは、学習と教育に最高の価値
を認める考え方を大乗仏教とよび、それいがいの仏教を小乗仏教と呼んだ。大乗仏教は、学習と
教育に最高の価値を認める教育学をその本質とする。
328 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/03(月) 20:22:52 ID:+hFSfBnq
大乗仏教の祖師達が教育学の重要性に目覚める前、教育というものがはかったということでは
ない。教育はそれ以前にもあった。しかし、教育というものを、他から独立した行為として認識
に、そこに隔絶的絶対的圧倒的な最高の価値観を認めるということは、この大乗仏教から始まる。
自らが孤高の道を究めて行き、そこに入門者が門を叩いてくれば入門を認めるが、自らが積極
的に弟子達を求めていくと言うことは、恐らく釈迦以後は大乗仏教の発生までしばらく無かった
ことだったろう。
かつては日本でも、大工も左官も料理も、後継者達は徒弟制度の中で先輩の技術を盗んで学ん
でいった。こうした職業を専門に教える学校ができたのは、戦後であり、すくなくとも明治以前
にまでは遡らない。教育というものはあくまで従属的なものであり、付属的な行為と考えられて
いた。そうした現実を考えれば、大乗仏教の祖師達が、西暦紀元前後、教育という活動に絶対的
圧倒的な最高の価値を認めたということは驚異的な事だろう。大乗仏典とは、人類最古の教育学
の書と言って間違いない。
教育・学習こそ、人間にとってもっとも崇高で、絶対的価値を有する行為である。浄土真宗と
は、まさにこうした価値観を核心部に持った大乗仏教を母胎にしていることを忘れてはならない。
輪廻とは何でしょうかね ?
一般には、人間にはそれぞれ「自我」だの「霊魂」だのと呼ばれる肉体の死後も残る永遠不滅の
実体があって、それが六道等と呼ばれる様々な世界に生まれ変わっているというのが輪廻転生と
いう考え方であり、浄土教とは念仏を唱えればその六道の輪廻を断ち切って「極楽浄土」と呼ば
れる天国のような所に転生できるという教えであるという認識だと思うのですが。
だが例えば
>>278のレスを読む限りでは個々人にそれぞれ輪廻転生する主体たる不滅の実体があ
るという認識とは思えない。
また
>>97他のレスを読む限りでは極楽浄土や六道という世界も死後にその人間の実体が転生する
客観的実在世界などではなく、生きている人間の心が彷徨する主観的世界であるという考え方と
読み取れますが、そういう認識でよろしいのでしょうか。
330 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/09(日) 00:54:16 ID:B3n9kAmR
> 329
> 輪廻とは何でしょうかね ?
> 278で「これを輪廻という」という言葉を書きました。今はこれ以上最適な表現はないと思っ
ています。この説明で御理解いただけないなら、これ以上の説明は私には重すぎます。
人は時に天になり、阿修羅となり、地獄・餓鬼・畜生にもなる。これを輪廻という。私はその
ような説明をしております。念仏はこの輪廻を分断します。
> だが例えば
>>278のレスを読む限りでは個々人にそれぞれ輪廻転生する主体たる不滅の実体が
あるという認識とは思えない。
何か不滅の主体があるかどうか、それは私には分かりません。しかし、浄土教の輪廻論は、不
滅の主体があれば肯定され、不滅の主体がなければ否定されたり、逆に、不滅の主体があれば否
定され、不滅の主体がなければ肯定されるというような、不滅の主体の客観的存否で左右される
ようなものではないと思っています。
>生きている人間の心が彷徨する主観的世界であるという考え方と読み取れますが、そういう認
識でよろしいのでしょうか。
主観的世界と思いますが、「人間の心が彷徨する」という言い方に引っ掛かるものを感じます。
歌謡界は人間の心が彷徨する世界でしょうか。政界は人間の心が彷徨する世界でしょうか。文
壇界は人間の心が彷徨する世界でしょうか。
これらは、そこに所属する人々にとっては紛れもなく厳然として存在する世界でしょう。その
中で彷徨する人もいますが、不動の地位を確保している人もいます。極楽とは、仏道者にとって
のそのような世界だと思っています。
331 :
神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 01:48:24 ID:uC6mJV6P
>>渡海氏
すごい勉強量ですね。独学のみであれば尊敬に値しますよ。
しかし、同じく親鸞の教えを学ぶものとして、了解に何か違和感を覚えます。
そこで今後の勉強の為に質問させてください。
どのような本によって勉強したのでしょうか?
あと、『教行信証講義集成』か山辺習学・赤沼智善の『教行信証講義』は読んだことありますか?
332 :
南無大師遍照金剛:2007/12/09(日) 02:09:23 ID:/hJQHw/S
>>331 ヽ(´∇`)ノないにょん♪
つか
嵐に北にょん♪
333 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/09(日) 10:57:48 ID:B3n9kAmR
>>331 >すごい勉強量ですね。
気に入った考え方があったら盗んでいってください。ただ、余所で公表する場合、インターネ
ット2ちゃんねるで渡海が主張していたと、出所だけは明らかにして欲しいと思います。できる
だけ、URLと月・日・時刻も表示してほしいものです。情報源に対する礼儀だと思います。僕は、
大量の書き込みをしていますが、著作権を放棄しているつもりはありません。
>独学のみであれば尊敬に値しますよ。
独学とは言いません。しかし、思想はほとんどオリジナルです。
念仏を称えるということは、人から教わりました。どう称えるかは、親鸞聖人から直接教わり
ました。
>了解に何か違和感を覚えます。
どんな出会いでも、もし違和感がなければおそらくそこには嘘があるでしょう。
貴方が違和感を覚える思想に始めて出会ったということなら、これまで貴方は全て自分を偽る
嘘の道を歩んできたということかも知れません。
始めて違和感を持ったというなら、2ちゃんねるの渡海難とは始めて真の出会い方をしたとい
うことかもしれません。
>どのような本によって勉強したのでしょうか?
2ちゃんねるだけでも渡海難は膨大な量の書き込みをしています。その中で、ほとんど出典を明
らかにしています。出典範囲は比較的限られています。
>山辺習学・赤沼智善の『教行信証講義』は読んだことありますか?
僕の教行信証論は、『教行信証講義』批判を原点としている部分があります。教行信証論で、
ある考えを「通説」という指定の仕方で表示し、それを批判する批判説を渡海説として提示して
いる場合があります。その場合の通説とは、ほとんど『教行信証講義』を指しています。
>332
まあ、嵐はどっちでもいいけど、それより飲みにきませんか。
東京からは遠方に当たる所にお住まいですか。
>>321に新年会の予定を書きました。都合がつけば、
いらっしゃいませんか。掲示板ではできない接触もできそうです。
/::::::::::::::::::::::::::\〜プーン
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\〜プーン
|:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|〜プーン
|;;;;;;;;;;ノ − −ヽ〜
|::( 6 ー─◎─◎ )〜
|ノ (∵∴ ( o o)∴)〜
| < ∵∵ 3 ∵>
\ ⌒ ノ_____
\_____/ | | ̄ ̄\ \
___/ \ | | | ̄ ̄| カタカタ カタカタ
|:::::::/ \___ | \| | |__|
|:::::::| \____|つ⊂|__|__/ /
|:::::/ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
>336
どうぞご自由にご判断下さい。
す オ 意
る ロ な 味
わ オ く も
は ロ
/
c ,. -─-、
c /´ ̄ ̄`丶、 / r、lゝ、ヽ、っ
けレ^ヽイゝ、 ト、 // ノ^′─┴t,ゝ っ
A-─ ‐-、 Y l l /#! k' / _ l | __l__
_,l__ レヽ T'j u メ./#j 〈##〈 ヘ u 〈_`j ,ハ /|
/| ⊂ニ`ー--‐ム'-'′ ` ̄V ゝ‐-=-‐'´スヽ ┌┐
┌┐ ヾ(ン'⊂ニ , ヽ、 〜⊂ニ、 マ ニ⊃)) └┘
└┘ ヾ(ンヽマ __ゝ − どイ マ‘マ_」
`´Uヽ) 〜 `(フ ̄U
:::::::::::/ ヽ::::::::::::
:::::::::::| キ じ き i::::::::::::
:::::::::::.ゝ モ つ み ノ:::::::::::
:::::::::::/ イ に は イ:::::::::::::
::::: | な。 ゙i ::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 .. / ̄ ̄ ̄ ̄
/. ` ' ● ' ニ 、 (____人
ニ __l___ノ (-◎-◎一
/ ̄ _ | i ( (_ _)
|( ̄`' )/ / ,.. ( ε (∴
`ー---―' / '(__ ) ヽ____
====( i)==::::/ ,/ニ渡海 難
:/ ヽ:::i /;;;;;;;;;;;;;;;;
大乗仏教は、西暦1世紀前後に中央アジアで発生する。釈迦が生存していた時代は、諸説ある
が、恐らく西暦紀元前4,5世紀だろうと思う。大乗仏教の思想というのは、その間、ゆっくり
と時間をかけて熟成してきた。
釈迦が北インドに創建した祇園精舎は、それ自体が大きくなると同時に、各地に分校が広がっ
ていった。大乗仏教とは、中央アジアに拡大していったそのような分校集団の中で発生していっ
た極めて進歩的な思想である。彼らは大量の経典を排出した。その中の一つに「極楽の美しいあ
りさま」という経典がある。中国語には「大無量寿経」という名で翻訳された。
仏教の経典は全て阿難尊者が著したということが、仏教上の約束になっている。当然、「極楽
の美しいありさま」も阿難尊者が書いたということになっている。阿難尊者とは、釈迦教団の第
三代の最高指導者である。彼は釈迦の直弟子の一人であり、釈迦とは三十歳程度年齢が離れてい
た最も若い弟子の一人だった。釈迦晩年の25年間は常に釈迦の最も近くにあっという。釈迦の
直弟子であれば、やはり紀元前4,5世紀の人だろう。非常に長生きをされ、非常に長期間釈迦
教団を指導したそうだが、大乗経典の発生は、阿難の死後、さらに数百年後のことである。阿難
尊者が著したというのはあくまで仏教教団の約束上の話であり、当然、実際の著者は他にいると
言わざるを得ない。
341 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/11(火) 09:57:56 ID:axDpLY39
西暦紀元一世紀頃になると、中央アジアから南インドにかけ、インド各地には、粗密の程度は
あっても、地理的に多数の分派教団が散在していたと思われる。その頂点には祇園精舎があった
が、中央の統制は緩やかで、むしろ地理的に近在する分派教団同士は類似の考えで相互に緩やか
にまとまり、緩やかな連合体を形成していたと思われる。
経典類は、そのような分派教団の構成員が独立的に提案し、全体の合議の下で共通テキストと
して必要に応じて承認していったものではないだろうか。「極楽の美しいありさま」もそのよう
にして分派教団の緩やかな連合体の中で、一構成員から提案され、全体の公式の承認を受けた経
典なのだろう。承認を受けた経典は、阿難尊者の著作という評価を受け、承認した分派教団全体
に配布されていった。承認を受けられなかった経典は、ニセモノという評価をされ、連合体から
排除されていった。
「極楽の美しいありさま」とは、人々に学校の建設を勧めるテキストである。分校を建設せよ。
分校を建設して近在の人々に学問を教えよ。学校はどのような価値観をもって運用していくのか。
大無量寿経は、祇園精舎建設の精神をベースとして、学校というものあり方を説明する人類最古
の教育論である。
_./ ̄ ̄ ̄ ̄\
/( 人____)
/ .|ミ/ ◎ ◎ )
,/ (6 (_ _) )\
`、 `,| ∴ ノ 3 ノ‐'`ノ モワ〜
キタ━━━━━ \ ヽ,._____ノ ノ━━━━━━!!!!
豸. ``Y" 拜."..::.::.::.::.::・・'゚。.・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.:
;": :: i. 、 ¥ ノ ・'゚。.:・・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.・:(;´Д`)オエーッ
; .;: :∴:(. ` -‐´;`ー ) ・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・・'゚。.::。.::・''・'゚。.::。.::
. ': .;".;": ( 彡 ミ ) モワ〜
: .;"∵;": ::″: ; ゝ '´ ̄"`ヽ
: .;".;":: :.;".;": / ■_,,,,,、 ノ
´ ..‘ :´ ;` :. ~. ;. / /`' ( ノ
:´ `: .``:. ;' ~ヾ ( ノ | (_,,-,,,
: : .~.. :´; ` :` , `: \ `ヽ / __ノ
;`: ,´ ;: ;` : :. .~.. \ \  ̄
; : ..‘:´ ;`:. ~.. ; :,´ : ノ _)
` ;..``:. ; ' ;.~ ;ヾ (.,,_/~
343 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/15(土) 10:29:30 ID:+ddnqU9x
学校教育の原点は何か。大乗仏教の先人達は、これを祇園精舎を建設した釈迦に学んだ。漢文
大無量寿経の阿弥陀仏は、学校運営の基本原理を四八箇条に列挙している。梵文は四九箇条(異
本では四七箇条)である。内容に多少の異同はあるが、根本原理である第一条はほとんど共通し
ている。
第一条 世尊(世自在王仏)よ、もしもかの私の仏国土(極楽浄土)に、地獄に堕ちる者や、
動物界に生まれる者や、餓鬼の境地に陥る者や、阿修羅の種類となるものがあるようであったら、
その間は私はこの上ない正しい悟りを現に悟ることがありませんように〈岩波梵文大無量寿経〉。
学校を建てるということ。それは建築会社が建物を物理的に組み立てることではない。地獄界
・餓鬼界・畜生界・阿修羅界に転落していく者がなくなりますように。学校建設とは、この祈り
の実現に他ならない。
畜生の心で畜生の行為を実行する者を畜生と言う。餓鬼の心で餓鬼の行為をする者を餓鬼とい
う。人は無明を原因として地獄界から天界を巡る。六道を巡る。その中でもっとも悲惨なのが。
地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界である。そこには知恵がない。漢文大無量寿経では阿修羅界
が削除してある。この問題は、今ここでは議論しない。地獄界・餓鬼界・畜生界は、知恵をもた
らせば霧散霧消する。学校教育の目的とはそのようにして、知恵のない世界に知恵をもたらせ、
三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)又は四悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界)を無くす
ことなのだ。西暦紀元一世紀ころの中央アジアの先人達は、釈迦の姿勢の中から教育というもの
の基本的原理をそのように認識し、それを次の時代の教育者を目指す学生に提示した。
344 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/15(土) 10:30:07 ID:+ddnqU9x
第三条 世尊よ、もしもかの私の仏国土に、生まれた生ける者どものが、悉く一色、すなわ
ち金色でないようであったら、その間は私は、この上ない正しい覚りを現に悟ることがありませ
んように〈岩波梵文大無量寿経〉。
人々は正しい認識を持つようになると全身がまぶしく輝いてくる。祇園精舎の生徒達はみなま
ぶしく輝いていた。生徒を輝くように導け。大乗仏教の先人達は、次の時代の教育者を目指す学
生に、教育の目標をそのように示した。
第四条 世尊よ、かの私の仏国土において、ただ世俗の言いならわしで天人とか人間とか呼ん
で仮に表示するのを除いて、もしも、天人たちと人間たちとを区別することがあるならば、その
間は私は、この上ない正しい覚りを現に悟ることがありませんように〈岩波梵文大無量寿経〉。
学校には多数の生徒が集合してくる。そこには、覚えの速い子も遅い子もいる。この子は秀才、
この子は劣等というそういう表示は、あくまで通俗的に必要な場合に限るのであり、それ以外の
ときに差別を設けてはいけない。大乗仏教の先人達は、次の時代の教育者を目指す学生に、教育
の理念をそのように示した。
知識→使う→知恵
@良い知恵(世の中の為)
A悪い知恵(利己的な目的、騙す)
(°∀°)
知恵も猿知恵だと無明へと…(ノ_<。)
347 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/19(水) 10:08:04 ID:3v7jN1t7
大無量寿経は浄土教系の経典である。浄土教系仏教では、阿弥陀仏が登場し、極楽浄土が説かれ
る。阿弥陀仏とは何か。極楽浄土とは何か。これを考えよう。
釈迦から様々なことがらを教わった仏弟子達にとって、釈迦はどんな存在だったのか。釈迦は、
苦しみや悲しさを克服してくれる医師だった。未来に希望を与えてくれる教師だった。新たな価値、
あるいは必要資財の生産をもたらす生産者だった。人々に安らぎを与える休息所であった。釈迦は
仏弟子達にとってこの四つの全てを満たす総体だったと考えられる。
太陽は、東から上り西に沈む。古代インドには時計がなかった。人々は時間を太陽の位置で知っ
た。時は東から西に進む。東を過去、西は未来を象徴する。太陽が南にあるとき、人々は生産活動
を行う。北にあるとき、太陽は地球の陰に隠れ、人々は休息する。南は生産、北は休息を象徴する。
過去・未来・生産・休息、この四つは常に政治社会における基本的な重要な主張である。過去を
忘れるな、過去を鏡とせよ、戦前の我が国の侵略に苦しんだアジア諸国は、しばしば過去の剣をも
って現代の我が国に様々な要求を突きつける。
過去に縛られてばかりではいけない。未来志向でなければならない。過去を振り切って新たな人
生を歩まなければならない。肉親を亡くして苦しんでいる者は、しばしば未来の刃をもって過去と
の決別を迫られる。過去を重んじる勢力と、未来を重視する勢力とは激しい衝突を起こす。
過去も未来も大事かも知れないが、今大事なことは生産することだ。働くことだ。活動すること
だ。これが最も大事なことだ。目下の生産を重視する勢力は、過去派、あるいは未来派と意見が衝
突する。あるいは、過去派と連合することもある。過去派との連合は未来派と衝突する。未来派と
連合すれば過去派と衝突する。
生産派が強い主張をすれば、休息派が反対する。我々は今、疲れ切っている。少し休もうじゃな
いか。休息派の意見は生産派と衝突する。
348 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/19(水) 10:08:55 ID:3v7jN1t7
政治は、過去・未来・生産・休息、この四つの勢力の均衡を保つことを忘れてはならない。梵天
の支配を受ける帝釈天は、東方(過去派)の反乱に持国天、西方(未来派)の反乱に広目天、南方
(生産派)の反乱に増長天、北方(休息派)の反乱に多聞天を配して全世界の安定を図る。
バラモン教のこのような影響を受け、釈迦の弟子達は釈迦の人格を四つに分けた。それぞれ独立
した意思と行動の存在を認識し、独立した仏を創造した。東に阿しゅく仏、西に阿弥陀仏、南に宝
生如来、北に不空成就仏を配した。
阿しゅく仏とは何か。反対説もあるようだが、薬師如来であると考えると話がとおりやすい。薬
師如来は医師である。医者は、病気の真因を過去に求める。医者が求める真理は過去にある。医師
を象徴する薬師如来は東方の瑠璃浄土で説法をしている。宝生如来は実業家である。宝生如来は社
会に富をもたらす。生産は社会の基礎である。阿弥陀仏は教師である。教師は、人々に未来に向か
えと教える。教育は、人々の未来を信じて活動する。教師阿弥陀仏は、西方で極楽浄土という学校
を開いている。不空成就仏は涅槃に入った釈迦である。釈迦は、八十年の全生涯をもって、自らが
なすべき一切の活動を余すことなく完璧に成し遂げ(無余涅槃)、今は安らぎの世界にいる。東西
南北の中心には太陽を象徴する大日如来を据える。
浄土教は、西方に配置した教師仏に対し、釈迦をモデルに理想の教師像を付与した。釈迦が祇園
精舎を建設して人々を教育指導したように、阿弥陀仏は極楽浄土を建設し、そこで人々を教育指導
している。極楽浄土は祇園精舎をモデルにしている。
阿弥陀仏を自らの理想とし、阿弥陀仏を目標とし、自らが阿弥陀仏の化身となり、阿弥陀仏の理
想(法身)を実現せよ。極楽浄土を理想とし、釈迦が建設した祇園精舎の理念を中核とした学校を
建設せよ。各地に極楽浄土を建設せよ。祇園精舎の分校を作れ。パキスタン・アフガニスタン・タ
ジキスタンなど、中央アジアで活動したいた浄土教の先人達は、大無量寿経(極楽の美しいありさ
ま)という書を通じ、次の時代を担う若者にそのように指導している。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( /=\ )
|;;;;; ー◎-◎- )
(6 (_ _) )
| ∴ ノ 3 ノ
/⌒\ ____ ノ、
/ , ヽ
| r 、_ ・ 人 ・ ,.y i
| |  ̄  ̄ | |
| \ ノ ノ
\ 6 x 9 /
しμゞ 、_;;;;;;;;;;;;_,ノ彡イ
| ;;;;(:υ:);;; |
( 人 )
再掲します。
2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
集合場所、東京・新宿駅
近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会
12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。
これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。
集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
集合者がゼロなら中止。
なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
詳細は後日
[email protected]
351 :
南無大師遍照金剛:2007/12/23(日) 22:19:50 ID:G2WVSQq7
(°∀°)つか今何人ょ♪
>351
僕自身も加えて3人プラス1人、遍照金剛さんが加わると4人プラス1になる。
プラス1人というのは、参加するかも知れない、参加できないかもしれないと
言っている人です。
まあ、9人以下、多分5人くらいになると思っているんで、遍照金剛さんが加わっ
てくれると、人数的にはちょうどいい。
353 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 10:47:20 ID:ZM1iCuvS
学校を作ろう。「極楽の美しいありさま(大無量寿経)」は次の時代の学生にそう提案する。
学校を作るには何が必要か。外部から見たとき、そこが魅力あるところに映ることが必要だ。魅
力あるところでも、そこに入学しようとする人にはそれぞれ一人一人が様々な問題を抱えている。
それらの問題も解決しないと入学して貰えない。学校側として可能な範囲のことを行うことは必
要ではないか。「極楽の美しいありさま」は、学生達にそのような提案をしている。
世尊よ、もしもわたくしが覚りを得た後、無量の諸仏国土における無量・無数の世尊・目ざめ
た人たちが、わたくしの称号を唱えたり、ほめ讃えたりせず、賞讃もせず、ほめことばを宣揚し
たり弘めたりもしないようであったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚る
ことがありませんように(岩波文庫 大無量寿経)。
岩波文庫の浄土三部経を読むと、本文では「わたしの名」と書いてある。注釈を見ると「称
号」と書いてある。称号の方が意味として適切だろうと思うので、ここでは注釈を優先して「称
号」と書いてみた。漢訳仏典では「名号」となっているが、「名号」よりは「称号」が適切だろ
う。
354 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 10:47:47 ID:ZM1iCuvS
ローケーシヴァラ・ラージャ如来よ。私ダルマカーラは誓います。小乗の覚りを得、小乗仏教
の段階を終了して人々に法を説く資格を得たなら、私は「幸いあるところ」という学校を建設し
ます。そこは、多くの人にとって魅力のある場所にしたいと思います。世界中の多くの賢人達か
ら認められ、多くの人がこぞって賞讃してくれるような場所にしたいと思います。それによって
私も、教育者、聖職者として多くの人から賞讃され、先生とよばれるようになろうと思います。
ほとんどの人が、あるいは一人からも賞讃を受けるようなこともなければ、その間は、たとえ小
乗の覚りを得た賢人であると言われたとしても、自分はまだ小乗に留まっていると考えようと思
います。私の理想はその上を求めます。正しい価値観を多くの人々と共有の財産として共感的に
享受するそんな大乗仏教の理想、認識を実現することを求めます。聖職者として大乗の覚りを求
めます。多くの賢人達から賞讃がない限り、自分はなお、小乗の覚りに留まっていると考えます。
大乗の覚りを得ることに成功していないと考えます。私はあくまでも教育者つまり大乗の覚りを
得ていこうと思います。
ダルマカーラ(法蔵菩薩)はローケーシヴァラ・ラージャ(世自在王)如来にそのように誓う。
学校というものを運用しようと思えば、これは重要な理念ではないか。西暦紀元1世紀の中央ア
ジアでは、次の時代に教育者になろうとする者に、教育者としての理想の姿をこのように説いて
いる。
355 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/01(火) 21:17:18 ID:CdlWR+05
謹 賀 新 年
世尊よ、もしも私が覚りを得た後に、他の諸の世界の生ける者どもが、この上ない正しい覚り
を得たいという心をおこし、私の名を聞いて、きよく澄んだ心(信じる心)を以てわたくしを念
じていたとして、かれらの臨終の時節がやって来たときに、その心が散乱しないように、わたく
しが修行僧達に囲まれて尊敬され、その前に立つということがないようであったなら、その間は
わたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように(岩波文庫 大無量寿
経)。
教師というものは学校に入りたいと思っている若者の情報を常に把握していなければならない。
本人からの申し出を単に待っているだけでなく、自分の方から絶えずそのような情報を探し回っ
ているべきである。入学希望者を囲む環境が大きく好転し、入学できるようになったら、多くの
人々からも尊敬を受けるような一人となってその人の元を直ちに訪問すべきである。もしそのよ
うなことがなければ、小乗の覚りに留まっているに過ぎない。大乗の覚りを得ることに成功して
いない。大乗の修行者は、あくまでも教育者つまり大乗の覚りを得ていこうとしなけれならない。
そのように考えているのだ。
356 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/01(火) 21:17:50 ID:CdlWR+05
世尊よ、もしも私が覚りを得た後に、無量・無数の仏国土におけるいける者どもが、わたくし
の名を聞き、その仏国土に生まれたいという心をおこし、いろいろな善の根が熟するようにした
として、そのかれらが(無間業を造った者どもと、正しい法を誹謗するという障碍をなした者ど
もとを除いて)、たとえ心を起こすことが十返に過ぎなかったとしても、その仏国土に生まれな
いようなことがあったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありま
せんように。
学校に魅力を持ってくれて、是非入学したいと思ってくれる者は必ず入学させよう。これが大
乗の教育者達のポリシーだった。インドでは、この考えを巡って大きな対立が起きたようだ。仏
弟子とは何か。議論はその概念を巡る対立だった。仏弟子とはどこまでか。抽象的・精神的な弟
子を弟子と認めるか否か。論争に破れた人々は新天地に中国に渡った。その後、浄土教を継承し
たのは、インドで敗北して中国に渡った一派だった。その思想が唯一の浄土教として形を変えて
中国で発展し、やがて日本に伝わった。
|\__/ハ__
{_____」
\\ ∧_∧
◎ ≫〃vミー‐w へ (´<_` ) 糞スレあげるな、氏ねやハゲ渡海
\ 彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
{_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
◎-○一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ:: -=_二__ ̄ . \_ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
( ) 渡 ≡ ;;; ) ) .\__/_丿
|__|. 海 ≡ ;;; )_l .| |
_| | 難 ≡ ;;;; ) ( | |
| \.._\. 入 \, | |
|ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv) \ ヽ
|___||:::::::::::::/::::::::::/ \ |
.|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/ / ノ
(___|)__|)
358 :
神も仏も名無しさん:2008/01/01(火) 23:11:29 ID:bnISR5vk
\(^O^)/あけましておめでとーー!!
世尊よ、もしもわたくしが覚りを得た後に、無量・無数の仏国土における生ける者どもが、わ
たくしの名を聞き、その仏国土に生まれたいという心を起こし、いろいろな善の根が熟するよう
にしたとして、そのかれらが、−−無間業を造った者どもと、正しい法を誹謗するという障碍を
なした者どもとを除いて、−−たとえ、心を起こすことが十返に過ぎなかったとしても、その仏
国土に生まれないようなことがあったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚
ることがありませんように。
「極楽の美しいありさま(梵文大無量寿経)」は言う。
ローケーシヴァラ・ラージャ如来よ。私ダルマカーラは誓います。小乗の覚りを得、小乗仏教
の段階を終了して人々に法を説く資格を得たなら、私は「幸いあるところ」という学校を建設し
ます。世界中の多くの人々が、私の噂を聞き、是非、あの「幸いあるところ」という学校に入学
したいというそんな思いを持って貰えるようにしたいと思います。間断のない苦しみを受けるよ
うな罪を冒したり、正しい法を誹謗するようなことをするような人を除き、「幸いあるところ」
という学校に入学しようと思ってくれるような人であれば、一人残らず必ず迎えたいと思います。
入学を希望してくれた人が、自分なりに様々な手だてを尽くしたなら、必ず入学できるように
しようと思います。入学したいと思う気持ちが、わずか十回程度であったとしても、その人なり
に真剣に手だてを尽くしたなら、必ず入学できるようにさせたいと思います。私自身も、一人の
教育者として、そのような理想が実現するよう、社会に真剣に働きかけていくつもりです。
入学希望者が、それでもなお入学できないようなことがあれば、入学できない内は、私は自分
がまだまだ未熟な教師であると考えます。たとえ小乗の覚りを得た賢人であると言われたとして
も、自分はまだ小乗に留まっていると考えようと思います。私の理想はその上を求めます。正し
い価値観を多くの人々と共有の財産として共感的に享受するそんな大乗仏教の理想、認識を
実現することを求めます。
361 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/10(木) 14:01:41 ID:yCL1wrqg
聖職者として大乗の覚りを求めます。わたくしの学校に、一人でも入学できなかったような人が
いれば、自分はなお、小乗の覚りに留まっていると考えます。大乗の覚りを得ることに成功して
いないと考えます。私はあくまでも教育者つまり大乗の覚りを得ていこうと思います。
漢文大無量寿経における法蔵菩薩の誓願第十八条は、梵文大無量寿経におけるダルマカーラ
(法蔵)の誓願十九条に該当する。梵文大無量寿経の法蔵菩薩は、極楽浄土学校へ入学を希望す
る者は、原則として全て受け入れるという誓いを立てる。
学問を教えてくれる所があるから、是非そこで真理を教わってきたい。人々がそう思っても、
西暦紀元前後であれば、なかなか環境がそれを許さないということがあったろう。現代の日本で
こそ義務教育の普及率はほとんど100%に近い。しかし、そうなったのは先人の大変な苦労があ
ったためである。
開発途上国などになると、現代でも自体は悲惨である。学齢に達しても、なかなか学校に行け
ない。現代から二千年も昔であれば、学校があってもなかなか学校に行けないという人はいくら
でもいただろう。学校に入学しようと思えば、本人が様々に努力しなければならない。努力して
も努力しても、環境が改善しなければ、やがてその入学も諦めなければならなくなる。多くの人
々が、学校に行きたいと思っては挫折し、思っては挫折したことだろう。
入学したいという気持ちで、様々に十回も挑戦をしたような人々は、真っ先に何とか手だてを
尽くして入学できる環境にしてやらなければならない。入学希望者の環境に働きかけることは、
学校運営者の大きな責任である。それを怠るようでは、真の教育者とは言えない。梵文大無量寿
経は、法蔵菩薩の口を借り、将来の教育者を目指す若者に、教育の本質をそのように説いている
のである。
古代インドで教育を巡ってある論争が起きる。「いろいろな善の根が熟する」とはどういうこ
とか。精神的潜在的な生徒という存在を認めるのか、認めないのか。ここが論点になる
362 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/17(木) 00:29:16 ID:CURxQ91C
全国には入学志望校の合格を目指して頑張っている受験生は多い。東大、京大、早稲田、慶応
などの名門大学となると、受験生の数は夥しい数になるだろう。合格を目指して頑張っている受
験生は、志望校の学生であるか否か。まあ、こんな質問を発すれば、現代では馬鹿にされるだろ
う。受験生というのは、高校生又は浪人生である。彼らは大学生ではない。大学生ではないから
受験するのであり、その受験に合格したいから努力をしているのである。大学生になるのは、合
格した年の四月からである。この考えの立場は、潜在的な生徒というものの存在を認めない考え
方である。
これに対し、浄土教では潜在的な生徒というものの存在を認める立場に立ってきた。自分の学
校に入学しようと必死になって頑張っている学生は、既にそれだけで自分たちに学校の生徒であ
る。顔を合わせなくとも、既に精神的には心ではつながっているのだ。教師は、自らの認識を伝
えようと思っている。生徒の方は先生からその認識を受けたいと思っている。そうであれば、既
にその時点で共通の価値観に立って師弟関係が成立するではないか。入学しようと必死になって
頑張っている学生は、既に入学した生徒と差別してはならない。入学している生徒に対して砕く
のと同じように、入学を希望している生徒にも教師は心を砕こうじゃないか。大乗仏教の先人達
は、次の時代の教育界を支える若者に、教育の原理をそのように教えた。この考え方は、特にイ
ンドから中国にもたらされ、中国で大きく発展していく。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんとうて、乃至十念せん。
もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
363 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/17(木) 00:29:51 ID:CURxQ91C
漢訳大無量寿経では、法蔵菩薩は世自在王如来に対し、このように誓う。ローケーシヴァラ・
ラージャ如来(世自在王如来)よ。私ダルマカーラ(法蔵菩薩)は誓います。小乗の覚りを得、
小乗仏教の段階を終了して人々に法を説く資格を得たなら、私は小乗の仏として、「幸いあると
ころ(極楽浄土)」という学校を建設します。そこは、多くの人にとって魅力のある場所にした
いと思います。多くの人々が、心からあの極楽浄土学校に是非入学したいと思って貰えるような
そんな学校を建設します。私は、生徒が真剣な心で「入学したい」という思いを持ってくれたら、
特別な場合を除き、「入学したい」というその思いだけで、その生徒は既に自分たちの学校の仲
間であると、そのように認識しようと思います。「入学したい」という思いを持っただけでは自
分たちの生徒ではないと、そのようにもし思ってしまうようなことがあれば、私はたとえ小乗の
覚りを得た賢人であると言われたとしても、自分はまだ小乗に留まっていると考えようと思いま
す。私は、正しい価値観を多くの人々と共有の財産として共感的に享受するそんな大乗仏教の理
想、大乗仏教の認識を実現することを求めます。私は聖職者として大乗の覚りを求めます。私は
あくまでも教育者つまり大乗の覚りを得ていこうと思います。
原文では、至心信楽欲生我国という。阿弥陀仏の極楽学校に真剣な心をもって入学したいと思
うということである。そうすれば、その者は、もうそれだけで自分たちの極楽学校の生徒である、
自分たちと共通の価値観を共有してくれている仲間である、そのように認識しよう。そういう考
えを述べているのである。
梵文大無量寿経とニュアンスが違っていることが分かるだろう。ここをもう少し考えてみる。
2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
集合場所、東京・新宿駅
近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会
参加予定者はメールください。
これはネタじゃない。煽りでもない。何か意見・提案のある方は、この掲
示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。
なお、参加者名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
詳細はメールでお知らせしています。
[email protected]
2010年、親鸞会は崩壊して、漫画家太田寿さんも就職活動をすることに…
面接官「特技はネット工作とありますが?」
太田寿「はい。ネット工作です。」
面接官「ネット工作とは何のことですか?」
太田寿「いやがらせです。」
面接官「え、いやがらせ?」
太田寿「はい。いやがらせです。掲示板を荒らし、地獄行きのアンチに精神的ダメージを与えます。」
面接官「・・・で、そのネット工作は当社において働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?」
太田寿「はい。本願寺の陰謀から真実を守れます。」
面接官「いや、当社に対して陰謀を持った輩はいません。それに掲示板荒らしは犯罪ですよね。」
太田寿「でも、ウィルコムだからアクセスの度にIDが変わるんで、ばれませんよ」
面接官「いや、ばれないとかそういう問題じゃなくてですね・・・」
太田寿「アンチの偽装メール事件とかでっちあげるんですよ。」
面接官「ふざけないでください。それに偽装メールって何ですか。だいたい・・・」
太田寿「うさぎの偽装メールです。IPアドレスもでっちあげました。IPアドレスというのは・・・」
面接官「聞いてません。帰って下さい。」
太田寿「あれあれ?怒らせていいんですか?やりますよ。ネット工作。」
面接官「いいですよ。やって下さい。ネット工作とやらを。それで満足したら帰って下さい。」
太田寿「運がよかったな。ここはウィルコムが圏外みたいだ。」
面接官「帰れよ。」
教育者にとって生徒とは何か。インドでは恐らく激しい論争があったのだろう。梵文大無量寿
経は法蔵菩薩の誓願で、抽象的な存在としての生徒を否定する立場を採っている。しかし、別の
場所では、これを肯定する立場も記載しているのだ。
「たとえ一念をおこしたにすぎないとしてもかの如来を思惟し、かの仏国土に対して渇望の心
をおこす者どもがあったら、かれらもまた眠りの中にあって無量光如来を見、幸いあるところ
(極楽浄土)という世界に生まれる」という。
現実に会うことが無くても、眠りの中で無量光如来を見るものは、極楽浄土という世界に生ま
れるとは、抽象的存在を肯定する立場だろう。
仏典は、インドで恐らく複数の人が合議の中で編纂していたものだろうと僕は思う。抽象的な
存在の生徒という者を肯定する考えと否定する考えが、一つの経典の中で併記してあるというこ
とは、一人の人の中で揺れ動いていたものか、複数の人の妥協の産物かは分からない。しかし、
西暦紀元一世紀ころのインドで、抽象的な存在の生徒という者を肯定する考えと否定する考えが
既に存在していたことに僕は驚く。
漢訳大無量寿経は、康居国、現在のカザフスタン地方出身の天竺つまりインド僧であり、中国
つまり三国志の曹操が建国した魏に在住していた中国名が鎧という人物(通称、康曹鎧)が翻訳
した経典である。康曹鎧は、徹底して抽象的な存在の生徒という存在を肯定する考えを採用した。
367 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/25(金) 20:29:27 ID:91BNcF6Z
真剣な心で「入学したい」という思いを持ってくれたら、「入学したい」というその思いだけ
で、その入学希望者は既に自分たちの学校の仲間である。それだけで既にかけがえのない自分の
生徒である(十八願)。
だからこそ、あの学校で是非学びたいと様々な努力を重ねている生徒の下には、環境が激変し、
学校に入学できるようになったとき、一目散に迎えに行こう(十九願)。
環境が激変し、客観的には学校に入学できそうな条件が揃ったからと言って、必ず入学できる
場合ばかりではない。入学したいという思いが必ずやきっと成就するよう、学校側も、そのよう
な生徒のためには、様々に環境に働きかけていこう(二十願)。
康曹鎧はこのような教育原理を中国に伝えた。こうした教育原理から、その後、実に破天荒の
教育論を展開する高僧が出現する。名を善導という。
彡川三三三ミ
川出 ::::::⌒ ⌒ヽ 俺は渡海 難(四捨五入60歳)だ!!
出川::::::::ー◎-◎-)
..川(6|:::::::: ( 。。)) 体重120キロ以上のピザだぞ!悪いか!!
出川;;;::∴ ノ 3 ノ
ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ ライバルは親鸞会の高森顕徹だ!!
( * ヽー--'ヽ )
(∵ ;) ゚ ノヽ ゚ ):) チンポは極小で包茎だぞ!!ちなみに童貞だ!!
(: ・ )--―'⌒ー--`,_)
(___)ーニ三三ニ-)
(∴ ー' ̄⌒ヽωニЗ 好きなものは座禅念仏と萌えアニメとエロゲーとスレ荒らしだ!!
`l ・ . /メ /
ヽ ∵ /~- /. 今日も本願寺スレと親鸞会スレを荒らしてやるぜ!!
(__)))))_)))))
369 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 23:26:26 ID:oUfNxPId
宗教に詳しくないのですが親鸞の願った仏道とはどのようなものなんでしょうか?
>>369 精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。
▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)
※以下の文を10回暗誦して反省してください。
荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
371 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/29(火) 11:18:12 ID:MOcFhc++
>>369 脱線して先にこれに回答しておきます。
>>269以降、真宗の本質について、釈迦を原点に長い議論をしています。>> 371-373以上の詳しい
議論は、その後にしたいと思います。
親鸞の願った仏道は、危機管理仏教だというのが僕の主張です。法律問題で困れば弁護士に相
談すればいい。健康問題で困れば医者に相談する。経済的に困窮すれば、行政窓口に相談する。
進学問題は学校の先生に相談する。ところが、人にはどこにも相談できない問題というのがある。
相談できないときはどうするか。現代は非常に便利になった。インターネットがある。しかし、
そのインターネットで検索してもいい回答がない。そんなときはどうしますか。悶々と頭を抱え
ていれば解決の道が見つかりますか。
悶々と頭を抱えていて、そのうちフッと気がつくこともあるでしょう。そう言う場合は、まぁ
ラッキーなんでしょうが、頭を抱えても抱えても糸口がない。前進どころか、右折も左折も後退
もできない。そんなところに長く停止していられることもない。そんなときどうしますか。何か
自分だけ消えてしまう方法があるでしょうか。
王いま座禅してただ当に念仏すべしと。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を
求めんや(行の巻)。
親鸞は僕らに座禅して念仏することを教えてくれた。これを念仏三昧という
念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって、ここに仏、願力
を事として衆生を度したまう(行の巻)。
372 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/29(火) 11:20:00 ID:MOcFhc++
今「大無量寿経」によって五会に仏を念ず。 〜 諸三昧の母と名づく、また、諸三昧王と名
づく、また、諸仏、共所印可定と名づく。(五会法事儀讃略抄 親鸞真筆)
親鸞は念仏三昧の方法を教えてくれています。それは五会念仏という方法です。
大きな逆境に見舞われれば、人は、持っている能力がしばしば、半分、あるいは一割程度にま
で萎縮してしまうことがある。そんなときは、悩めば悩む程解決の道が見えなくなる。そんな場
合でも、日頃からこまめに五会念仏を実践していれば、きっと何かが見つかるだろう。能力が二
割、一割程度にまで萎縮してしまうような場合でも、それが三割、四割の萎縮で留まれば、能力
は二倍、三倍になっていることを意味するのだ。
逆境の中で、必ず最善の道が見つかるという保証はない。最悪の選択肢しか頭に浮かばなかっ
たような場合、もし次善、三善の方法論が見つかれば幸福だと思いなさい。
あとからふり返れば、もっといい方法があったと思えることもあるだろうが、逆境の中では、
常にそんなに都合良くはいかない。逆境の中には突入しないのが一番いいが、逆境の中に転落し
ても、脱出の道があることが必要なのだ。最善の道ではなくても、少なくとも最悪の選択肢の選
択だけは免れたいものだ。
五会念仏は、腹での呼吸を誘導する。大量の空気を脳に送り込む。眠っていた細胞を一気に活
性化する。やってみるといい。危機に臨んだとき、五会念仏は全身の神経を目覚ましてくる。
釈迦は、人々に智慧と禅定と戒律の三学を教育の三本柱にした。五会法事儀讃略抄で親鸞は言
う。念仏三昧(五会念仏)はこれ真の無上深妙の禅門なり。如来禅と名づく、二乗外道等の禅に
あらず。まことに知るべし。
373 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/01/29(火) 11:25:54 ID:MOcFhc++
如来禅とは、達磨大師が中国伝えた禅という意味だ。二乗外道等の禅とは、声聞・縁覚が実践
する見よう見まねの禅という意味だ。如来禅は禅の本道である。親鸞の禅は、中国の法照禅師が
提唱し、延暦寺第三代座主の円仁大師が遣唐使として日本に持ち帰った北宗禅の正当派だ。法
照禅師は、中国仏教最盛期、唐の時代、唐仏教の頂点に立って中国仏教を牽引し、唐の皇帝に
仏教を指南していた。善導大師の再来と仰がれ、中国の唐仏教の本流を作った人だ。法然・親鸞
はこれを日本で大衆に開放した。
釈迦は、人々に智慧と禅定と戒律の三学を説いた。
灼熱の太陽の照りつける国で、二千年も三千年も昔に妥当した価値観が、二千年も三千年も経
た雪降る北方の国で必ずしも妥当とするとは限らない。パン屋さん、ラーメン屋さんに教えるよ
うな善悪の基準が仏教にあると言えるような、現代はそんな時代でない。パン屋さん、ラーメン
屋さんは、パン屋さん学校、ラーメン屋さん学校で、現代の基準に合った善悪を教わればいい。
パン屋さんやラーメン屋さんが仏教の戒律に教わるものは何もない。
釈迦の時代、釈迦の教えが世界の最先端知識だった。しかし、何千何万という経典を開いても、
そこにはインターネットに関する記事どころか、簿記に関すること、店のインテリアに関するこ
とさえ何一つ書いてない。経・論・釈にパン屋さんやラーメン屋さんが学ぶことは何一つない。
仏教がパン屋さんやラーメン屋さんに知って欲しい智慧は何一つない。
パン屋さんやラーメン屋さんは、禅定だけ教わればいい。禅定と言っても難しいことはない。
脚を結跏趺坐あるは半跏趺坐に組み、座禅の姿勢で腹式呼吸しながら南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
と称えてごらん。椅子禅というのもある。座禅の姿勢は椅子でもいい。座禅して念仏すれば、何
一つ脱出の道が無いときでも、忘れていた何か解決の道がきっと見つかるだろう。
親鸞聖人は危機脱出の道をそう教えてくれている。これが親鸞仏教の核心だ。
>>371-373 渡海が過去にパン屋で万引きをしてラーメン屋で食い逃げをした
まで読んだ。
375 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 20:34:20 ID:N43vR9+E
「唯信抄」「一念多念之事」「後世物語聞書」なども熟読したほうがよいでしょうか?
「一念多念之事」は間違いでした
「一念多念分別事」に訂正します。
377 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/05(火) 00:41:06 ID:Dzrw4/X2
>375
>375
>>「唯信抄」「一念多念之事」「後世物語聞書」なども熟読したほうがよいでしょうか?
結論を先に言うと、回答不能です。理由は簡単です。僕には貴方という人がどういう人か解ら
ない。
唯信抄などは、親鸞は消息集の中でしきりに読んでくれと言っています。親鸞の時代、親鸞に
は是非よんでほしいと思う人がいたのでしょう。
ものを読むということについて、蓮如などは非常に芥子の利いたことを言っている箇所があり
ます。聞き書き215番です。実にもっともです。
歎異抄は、十二章で学問が往生の要ではないといいながら、やはり学問の重要性はわきまえて
いる。
実にさまざまな考えがあります。知識は豊富な方がいい場合が多いですが、正しい認識を知識
が邪魔していると思われる人もいます。そういうことで、この問いには回答不能です。
ところで、唯信抄や一念多念分別事を読んだ方がいいかと聞いてくるところを考えると、恐ら
く歎異抄は読んだ方なんでしょう。
歎異抄自体には間違いはないんだけど、その読み方でどうも誤解していると思われる人がいま
す。そこで僕は歎異抄を読んだ人には、最近、親鸞の消息集を読むように勧めることがあります。
特に消息集の広本を読んで欲しいということがある。消息集は、歎異抄で間違いやすい誤解を解
いてくれる毒消しになると思っています。もっとも、消息集は古文だから、読みにくいという人
はいるでしょう。消息集には、まとまった解説本が無いのが残念です。
古典を読んだ方がいいか、読む必要はないか。この辺は、仏教を学ぶ目的とも関係してきます。
何のために読むのか。
真宗の古典は、自分に「称名念仏を勧めているんだ」という狙いを忘れてはいかんでしょう。
称名念仏しないで文字だけ読めば信心が得られるんじゃないか、そんなことを思っていれば、古
典を読もうか読むまいか考える前に、親鸞とさっさと縁を切ることを勧めます。
378 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/06(水) 13:15:41 ID:siiTi64I
善導大師(613〜681年)は、日本で言えば天智天皇(626〜672年)の時代に重な
る。隋が滅んだのが619年、唐を建国しても隋の残党は各地に残り、戦いはその後も長期に続
いたようだ。
善導は、隋から唐に代わっていく時代の嵐を目撃している。戦争の時代には、子供達は、箸を
もつことよりも先に刀や弓矢を持つことを教えられる。嘘のない正直な心より、人を騙すことを
教わる。親を捕縛して敵に売り、血肉を分けた兄を騙して弟を殺す。腹が減れば、隣の戦友を騙
して殺し、その肉を剥いで食うこともあったろう。平和な時代には、みんな平和な生活を築いて
いかなければならない。人を騙す方法は知っていても、文字は一つも知らない。自分の名前もか
けない。血を吸った刀の研ぎ方は知っているが、足し算も引き算も知らない。そんな大人がたく
さんいた。教育を受ける機会のなかった人がたくさんいた。
人を殺すことは悪いことである。寺院に放火して供物を強奪することは、とてもとても悪いこ
とである。しかし過去の行為を理由に、もし人々が初等教育の機会すら奪われたなら、それはそ
の人だけでなく、社会全体にとってはさらに大きな損失である。嘘をつくな、ものを盗むな、人
を殺すな、放火するな。仏教はそう教える。それらを冒した人には激しい弾劾を加える。教団か
ら追放する。しかし、これまで初等教育の機会が無かった人は、過去の行為にかかわらず、初等
教育の機会だけは与えられなければならない。善導はそのように考えたようだ。
379 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/06(水) 13:16:13 ID:siiTi64I
善導は、観念法門という著作の中でいう。「(大無量寿経で、阿弥陀仏は)四八の願を説いて
いる。(その中の十八願で阿弥陀)仏は言う。仮に(自分が小乗仏教でいう仏すなわち辟支仏と
いう)仏になったとしても、(東西南北の四方さらに八方、これに上下を加えた)十方の人々が、
私の(極楽)学校に入学したいと願い、(阿弥陀仏という)私の名を仮に十回でも称えたとする。
(そうすれば、その人は私の意思をもって極楽学校に入学させよう。)もし入学したことになら
なければ、(自分は大乗仏教で言う)正しい悟りを得たことにはならないとしよう」。
阿弥陀仏の行動原理第十八条はいう。「たとい我、仏となるを得んとき、十方の衆生、至心に
信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん。もし、生まれずんば、正覚を取らじ。ただ、
五逆(の罪を犯す者)と正法を誹謗するものを除かん」
善導は大無量寿経の第十八願を書き直している。書き直しの意味を更に考えよう。
380 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/07(木) 11:16:33 ID:96/KcxOq
漢文大無量寿経は康僧鎧が翻訳した。形の上では翻訳となっているが、梵文大無量寿経と漢文
大無量寿経とでは思想的立場が大きく異なる。事実上は、康僧鎧の著作であるとも言える。さらに
漢文大無量寿経を詳細に読むと、一人の著作とも思えない雰囲気がある。康僧鎧がオリジナルと
して書いた上で、その後に何者かがさらに大幅に書き足し、改変を加えていると思われる部分も
ある。なお、今、その問題には深く触れない。少なくとも、阿弥陀仏の第十八願は康僧鎧の手で
書かれたものと考える。その康僧鎧の思想と善導の思想を比較する。
康僧鎧の思想と善導の思想との相違は歴然としている。康僧鎧は極楽浄土往生の必須要件とし
て、至心・信楽・欲生という心理的な面を挙げた。さらに阻却要件として、五逆と正法誹謗を掲
げた。善導は極楽浄土往生に当たり、称我名字下至十声という身体的挙動行為を挙げた。しかも、
阻却要件を排除している。善導は、康僧鎧が提唱した往生概念を完全に否定したと行っていいだ
ろう。親鸞は、そのような善導を賞讃する。親鸞は言う。善導独明仏正意(正信偈)。善導一人
が釈迦の真意を明らかにした、と。
381 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/07(木) 11:17:27 ID:96/KcxOq
父を殺し、母を殺してきた人民達に申し上げる。僧を殺戮し、寺を焼却してきた兵士達に申し
上げる。戦争は終わった。仏教界はあなた方を決して見捨てない。過去の行為を理由に弾劾しな
い。戦争は終わったのだ。勉学の意思のある者は仏門で学べ。近くに寺が無いものは、仲間を募
ってグループ学習を行え。そこで互いに学びあえ。過去の行為への悔恨に苦しむ者は念仏を称え
よ。
称えても称えても悔恨や悲しさは容易に癒えることは無いかも知れない。しかし、念仏を称えて少
しでも心が和らげば、あるいは忘れることができたなら、進んで勉学の場に参加せよ。
善導は、自らは厳格に戒律を守りつつ、初等教育の専門家として中国仏教界の最高権威者とな
った。隋から唐へ変遷していく中で、仏教の戒律が既に時代の要請に合わなくなってきたことを
悟ると、戒律を仏教入門の必須の条件から後退させた。その代わり、戒律を基準とする限り、仏
教つまり勉学の場に参加できない者には、称名念仏を勧めたのだ。さらに、寺の無い地区、指導
僧のいない地区でのグループ学習のため、核となる旗印として、全国に極楽浄土図を配布した。
文字学習の教材として大量の阿弥陀経を配布した。善導はこうして、戦乱で荒廃した社会に初等
教育の復活を促進した。
382 :
泡般若:2008/02/10(日) 19:26:52 ID:KAmnsBF9
以前書き込みをした法然・親鸞を読書している者です。
近頃やっと無量寿経(岩波)を読み終え、また里村専精先生の
「大無量寿経を読む」を読みました。
巻末の里村先生のお言葉
「信心を言わない宗教はありませんが、その信心の大切さを言いながら、
信心とは何か、あるいは信心の内容を的確に語り得る宗教は少ないのです。
これは驚いてよい事柄だと思います。
しかし、浄土真宗は、堂々と『信心の智慧』の秘密を説き明かし、
その偉大な内容を語り継いで来ました。」
真宗の門徒に生まれたことに感謝、感動しました。
南無阿弥陀仏。
383 :
神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 08:46:04 ID:cCAe0nAT
親鸞角筆:教行信証への書き入れ、直筆で700カ所
浄土真宗の開祖、親鸞(1173〜1262)の主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の自筆本「坂東本(ばんどうぼん)」(国宝)の修復に伴う調査で見つかった角筆(かくひつ)
(紙面をへこませて文字や印を記す筆記具)による書き入れの具体的な個所が明らかになった。
http://mainichi.jp/kansai/news/20080209k0000m040162000c.html 坂東本は6巻からなる冊子本で、全文が漢文で書かれている。所蔵する真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の内部の会議で配布された写真によると「行」の意味などを
説いた「行巻」に出てくる「計也」という漢字の右に角筆で「ハカラフ」と振り仮名を付け、朱筆でも「ハカラフ」と記してある。
角筆による書き入れは、顕微鏡写真によって親鸞自筆とされている朱筆よりも先であることが確認でき、親鸞自身による可能性が高い。
小刀や竹べらなどを用いたとみられ、全体では約700カ所。本文のわきに振り仮名や注記、重要な個所に注意をうながす合点(がってん)(約400カ所)などを加えていた。
ほとんどは、親鸞が60歳ごろの筆跡とされる1ページ8行書きの部分に残っている。角筆による片仮名などには、同じ時期である鎌倉時代中期の特徴がみられ、
角筆が親鸞自筆との見方を裏付けている。
毎日新聞 2008年2月9日 2時30分
384 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/11(月) 12:50:28 ID:R1WH9uxN
善導の考えは彼の在世中(613年- 681年)からも大きな支持を受けたようだ。親鸞はこの善導
を入出二門偈頌文で善導禅師と尊称している。法然も善導禅師と尊称している。禅と念仏とは中
国では非常に早い時期から一体で考えられていた。
禅は達磨大師(382年-532年)が中国に伝えている。達磨大師の生没年を計算すると、150
年生きたことになる。150年というのは何かの間違いだろう。達磨大師が中国に入ったの52
0年頃だそうだ。これは善導が誕生する約100年前である。
中国禅は、達磨大師以降、慧可に引き継がれる。善導の時代には道信(580- 651年)が東山法
門という大きな禅集団を作り、この禅集団を指導していた。道綽あるいは善導などは、道信又は、
その周辺者に禅を教わっていたと考える。
道信の中国禅はその後、弘忍へと継承されていく。弘忍の弟子に、神秀と慧能がいる。慧能の
弟子に荷沢神会がいる。神秀の流れと慧能との流れで中国禅は大きく二派に別れる。弘忍の下で
は神秀が兄弟子、慧能は弟弟子である。
神秀はその後、武則天に招かれ唐王朝の中心に入った。武則天は、唐の三代目皇帝である高宗
の皇后である。神秀の流れを北宗禅という。慧能の流れを南宗禅という。神秀は、武則天に禅を
教え、四代目皇帝の中宗、五代目皇帝の睿宗に禅を指導し、北宗禅は唐王朝の公式仏教として保
護を受け、中国仏教の最盛期を支えた。現代日本の禅宗、つまり臨済宗・曹洞宗は南宗禅である。
385 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/11(月) 12:51:20 ID:R1WH9uxN
現代の日本では、南宗禅こそが道信の東山法門を継承している正当派と言われている。しかし、
唐の時代には北宗禅こそ、国家公認の正当派だった。日本に最初に入ってきた禅宗も北宗禅だっ
た。日本政府が中国政府に派遣した遣唐留学生は、全てこの北宗禅を学んで帰国した。例えば最
澄などはそんな一人であり、最澄は日本で座禅を行った最初期の一人である。南宗禅が国家公認
の正当禅として認定を受けた歴史はない。
日本に浄土教を伝えたのは円仁大師である。彼は日本政府が中国政府に派遣した最後の遣唐留
学生である。彼は、唐仏教最盛期、北宗禅の法照禅師が提唱していた五会念仏を中国の五台山で
学び、日本に伝えた。源信・法然・親鸞は、円仁大師が日本にもたらしたこの五会念仏を学んで
いる。
中国北宗禅は、唐王朝の崩壊と共に運命を共にした。ただし、少林寺拳法の少林寺は、現代で
数少ない北宗禅を名乗る宗派だそうだ。日本北宗禅は、信長による比叡山焼き討ちにより延暦寺
が大打撃を受けた。比叡山では、現代では曹洞宗(南宗禅)の僧を招いて座禅していると聞く。
念仏三昧とは五会念仏である(親鸞著 五会法事讃略抄)。しかし、浄土真宗の五会念仏(北
宗禅)は、一向一揆のエネルギーを恐れた徳川幕府の力によって停止させられたものと考える。
事実上現代でも半永久的に休止状態である。
北宗禅と南宗禅とは何が違うのか。弘忍の前で神秀と慧能が互いに詩を競ったいう。この詩か
ら、考え方の一部が見えてくる。
神秀は言う「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かし
むること勿れ」
慧能は言う「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来清浄、何れの処にか塵埃を惹かん」
神秀が主張する北宗禅の思想は支配層の思想である。慧能が主張する南宗禅の思想は農民層の
思想である。支配層に好かれた北宗禅の思想と、農民層に好かれた南宗禅との思想の違いが、こ
の二つの詩で見事に言い表されている僕は思う。浄土真宗は北宗禅の思想の影響を受けている。
親鸞の思想に入る前に、この南北の違いを考えてみたい。
386 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/11(月) 13:06:39 ID:R1WH9uxN
>383
興味深い。でも、疑問が出てくる。
新聞は、「朱筆よりも先である」というが、この鑑定の精度は何%なんだろう。
確率99%と51%では偉い違いだ。合点は筆跡鑑定が可能なのだろうか。宗
祖が、本気で後世に残そうとしたなら、墨で書いただろう。新聞が騒ぐほどの問
題ではないような気もする。
念仏研修のお知らせ
念仏研修会を予定しています。しばらくの間は試行的行ってみて、可能なら試行結果を参考に
本式に近い念仏研修を考えています。つまり、親鸞聖人から蓮如上人の時代にかけて行われて
いた中世の念仏道場に近いものを、現代にできるだけ復活させてみたいと願っています。
親鸞聖人は、五会法事讃略抄を著し、法照禅師の五会念仏を念仏三昧法として勧めています。
また、蓮如上人は、ものを言え、ものを言えと言っています。従いまして、五会念仏と座談の組
み合わせを基本構造と考えます。
五会念仏は、1回で20〜30分程度(線香1本、又はその半分が燃え尽きる時間程度)、座
禅しながら無心になって称えていきたいと思います。
座談では、原則として真宗教義の話は脇に置き、自分が念仏を称え、実際に称えた中で生身の
自分に今起きた気づき、心理的・生理的変化、あるいは他の人に起きた気づき、心理的・生理的
変化、そこに真剣に耳を傾けていくことに心がけたいと思います。何か変化が起きるはずです。
一回目の試験的実施は、来月、愛知県のあるお寺で予定しています。半日から一日程度です。
参加希望の方は、渡海難にメールをください。詳細をお知らせします。なお、あくまで試験的実施
ですから、参加希望があれば必ずそれに応じられるという体制を保証しているものではありません。
ご了解ください。また、次回の研修(時期未定)にお誘いをする場合もあります。
今後は、他県のお寺でも考えています。しばらくは試行錯誤の試験的実施になると思います。
将来は、東京・大阪でなどでも行いたいものです。自分のお寺の本堂を貸してくださるという方
がいらっしゃって下さると幸いです。
[email protected]
388 :
南無大師遍照金剛:2008/02/16(土) 15:23:42 ID:TT/kxglg
>>387 オフ会でそんな話でたのかえ?
其とも前から考えてたの?
オフ会でそんな話がでたなら辞めとき
あんた利用されるよ
389 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/16(土) 15:38:19 ID:TA9iySnH
>388
利用?
あなたは何を想像しているんだい?
390 :
南無大師遍照金剛:2008/02/16(土) 16:03:22 ID:TT/kxglg
>>389 前にある人が神輿乗せられて
話持ちあかけた人が集めた人殆ど全部連れて出ちゃった被害有ったから
海さんが自発的なら良いけど
余計なお節介ですまそん(>д<)
>>388 >オフ会でそんな話でたのかえ?
31 :神も仏も名無しさん:2008/02/05(火) 11:10:29 ID:IDB+qj+7
>>26 新年会はあったの?
行った人いる?
32 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/05(火) 11:25:43 ID:Dzrw4/X2
>27
>根拠はこれ? 徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん (教行信証 行巻 両重因縁)
僕の理解ではそうだ。
>31
> 行った人いる?
関東地方は大雪の中で、名古屋から来た人が1名、鎌倉から来た人1名、僕を加えて
3人で飲んだよ。最初はエロゲーの話から入りそれから涼宮ハルヒの話題で盛り上がり、
最後はAKB48のことで議論が白熱した。ちなみに僕はハロプロ派だ。
日曜日にアルツハイマー病が悪化してドクターストップがかかりキャンセルの電話を
してきた人がいた。遠方の人だ。
もしよかったら、次回(時期未定)にいらしてください。
2008/02/03 飲み会参加者
彡川川川三三三ミ
川|川/ \|
‖|‖ ◎---◎|
川川‖ 3 ヽ
川川 ∴)д(∴) ←名古屋から
川川 /
川川‖ /
川川川川___/‖
______
/:::::::::::::::::::::\
/::::::::::::::::::::::::::::::::\
|:::::::::::::::: |
|::::::::::::::: ∪ \,, ,,/)
|::( 6::ー──◎─◎|
ノ::: (∵∴∪ ( ・ ・)) ←鎌倉から
/ ∵ 3 丿
/\ U ___ノ
/ .\ ____ノ\
\______ノ .\
____
/:::::::::::::::::::::\
/ ::::::::::::::::::::::::::::::::\
|:::::::::::|_|_|_|_|_|
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴∪( o o)∴) ←渡海(幹事)
| < ∵ 3 ∵)
/\ └ ___ ノ
.\\U ___ノ\
393 :
南無大師遍照金剛:2008/02/16(土) 17:19:53 ID:TT/kxglg
次のオフ会は4月2日なんてどう?
>390
他人が利用して喜ぶような甘い汁など僕には無いよ。
最初に五会念仏やろうと言ったのは、僕です。
そういえば前のスレでもレスしてた気がする
(;^_^A頑張って下さいね
397 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 10:02:07 ID:YeZTlHy9
慧能の詩と詩とを比べると、これは後世の創作ではないかと思える部分がある。後世の創作と
いうのは、特に僕に証拠があって言っているわけではない。ただ、内容が少し巧すぎる。仏教が
支配層に向かっていくときには、確かに神秀の詩のようなこういう考えを採るだろう。被農民層
に向かっていくときには慧能の詩のようなこういう考えを採るだろう。対比が非常に巧い。
神秀の考えと慧能の考えの対立点はどこか。神秀は言う。時時に勤めて払拭せよ。常に絶えず
努力を怠るなという。これは王道の思想だ。慧能は言う。塵埃などは取り付くところがない。破
天荒の思想である。
神秀はもともと王道を歩む秀才だったようだ。師の弘忍に愛され、弘忍は自分が継承してきた
東山法門を、実際には神秀に承継させている。釈迦は戒・定・慧という三学をもって仏道を開い
た。釈迦は、ルールを定め、そのルールを守ることを誓った者に真理を教えた。有形の真理を智
慧という。無形の真理は、禅定という形で、容易に手に取れるようにした。
人々を指導していく教育者になるには、禅定だけでは足りないのだ。これは、国家を動かす支
配層にとっても同じことだ。無形の真理だけでなく、有形の真理も正しく認識していなければな
らない。禅定の認識力は、ある程度の修行を積めば飛躍的に延びる瞬間がくる。一度、飛躍的に
延びる瞬間を経験すれば、その後の持続は決して難しいことはない。これを不退転地という。も
のごとの本質は、本来は清浄であり、迷いなどは空の空の空なのだろう。死も空、生も空、空も
空というべきなのだろう。
しかし、こうして禅定力だけ飛躍的に成長すれば、人はもうそれで十分というわけではない。
398 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/19(火) 10:02:53 ID:YeZTlHy9
「福田総理。年金問題などはですね、そんなものは空の空ですよ。何の意味ありません。菩提
本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来清浄。何れの処にか塵埃を惹かん。ほったらかしておけば、
なるようになるだけですよ。あっ、はっ、はぁ」。
「福田総理。道路特定財源問題などはですね、そんなものは空の空なんですよ。何の意味あり
ません。菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来清浄。何れの処にか塵埃を惹かん。ほったらか
しておけば、なるようになるだけですよ。あっ、はっ、はぁ」。
もし、こんなことをいう奴がいれば、そいつは社会から袋だたきに遭うだろう。もしそれが福
田総理や舛添厚生労働大臣、冬柴国土交通大臣その人であれば、内閣は半日と持たないだろう。
国政を担当している人にはしっかりと問題の本質を研究し、国政の正しい方向づけをしてもらわ
なければならない。そのために、無形の真理、禅定だけではたりない。過去の膨大な試料がある
はずだから、そういう有形のものをこつとこつ勉強して真実を認識して貰わないとこまる。この
勉強は、一朝一夕ではできない。
現代では、政治家は原則として在任中だけ責任を負う。退職すれば一応は責任がない。しかし、
昔は違う。終身だった。やはり彼らは、死ぬまで研鑽を積んで貰わなければならない。「菩提本
樹に非ず、明鏡亦台に非ず」では困るのだ。「時時に勤めて払拭し、塵埃を惹か」ないようにし
なければならない。絶え間ない努力が必要だ。神秀は、釈迦が説いて仏教の本道を、社会の支配
者にとってもっとも重要な王道として提示した。
努力精進が大切ですね
ああ先生ぇ♪ 渡海難が400ゲットー!!ブヒヒッ♪
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
(____人 )
(-◎-◎一 ヽミ|
( (_ _) 9)
( ε (∴ |_ ズ・・・・ザ・・ザァ
____ヽ______/ヽ___)( ̄( ̄ ̄ ̄|)
(ミ_|__( (ミ_|____) ヽ. ヽ:::::ヽ:::::::ヽ
( ⌒ヽ:/::::::::丿
ヽ | ‖:::::::丿 (´⌒(´⌒
\ | ‖::::ノ (´⌒ (´⌒
ゝ____丿__‖ノ_(´⌒ (´⌒
401 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/20(水) 12:07:41 ID:28Q+dWvs
支配者は権力を持っている。支配者が間違ったことを行えば、これに対してものを言える人は
少ない。常に努力せよ。常に研鑽に励め。上に立つ者にそのように言うことは、宗教者にとって
とても必要なことだろう。
それでは、大衆に対して仏教は何を語るべきだろうか。常に努力せよ。常に研鑽に励め。確か
にそのように言うことは大切なことだろう。しかし、大衆は、自らの努力を放棄すれば、直ちに
生活が成り立たなくなる。腐敗しても腐敗しても我が身は安全であるという支配者と、直ちに生
活が成り立たなくなる大衆とは、立場が異なるだろう。
常に努力せよ。常に研鑽に励め。これは、常に支配者が大衆に命令している。それなら、大衆
に向かってそのように説くことは、支配者の仕事とすればよい。宗教はその背後で、人々にルー
ル(戒律)を守ることを教えればよい。ルールは、日常的なルールで十分だろう。煩瑣なことは
必要がない。
宗教は大衆に向かって何ができるのか。農民に向かって種の撒き方を教えることができるか。
種の撒き方であれば、農民の方が遙かによく知っている。漁民に漁の仕方を教えることができる
か。漁の仕方などは、漁民の方が遙かによく知っている。仏教は、簿記の方法も、インターネ
ットの接続方法も教えてない。有形の真理については、宗教が大衆にことさら教えるようなこと
はない。
大衆は、いくら努力を積んでも、いくら研鑽を積んでも、苦労が絶えない。大衆に必要なもの
は禅定である。文字に書いてない、文書も、口伝もない真理を、少しでも自力で掴めるようにす
ることが大切だ。ある程度禅定を積めばものの理解力は飛躍的に延びるときが来る。膨大な量の
仏教の智慧をこつこつと学んでいく必要はない。禅定だけを教えよう。菩提本樹に非ず、明鏡亦台
に非ず、本来清浄、何れの処にか塵埃を惹かん。
大衆の中に仏道を建てようとすれば、およそこのような考えになるだろう。師匠の弘忍が死ぬ
と東山法門は神秀が継承した。慧能にとっては神秀が継承した旧来の東山法門に用がなかった。
慧能が東山法門を飛び出したとき、慧能の考えに賛成した多くの門人達が彼の後を追った。大衆
に禅を広めようという主張は、多くの賛同者を得た。
釈迦は三学を説いた。釈迦の教育論で考えれば、持戒と禅定と智慧とは優劣の差無く三者は最
も重要な柱である。一つでも欠ければ教育と学習はその基盤を失う。北宗禅は、釈迦の本来の教
育論を守る。従って北宗禅は禅だけで独立することがない。律と共に天台・真言・華厳・法相など
の学習を行っていく。完成までには時間がかかる。
一方、南宗禅は禅定を大きくクローズアップした。特に智慧の学習の比重を後退させた。持戒
の厳しさも緩和した。禅定を行っていけばもの理解力・洞察力が飛躍的に向上するときがくる。
南宗禅はその時点を開悟と考える。
かつて釈迦は、菩提樹の下で禅定を続け、ある満月の夜、理解力・洞察力が飛躍的に向上した
瞬間がきた。釈迦はその後もしばらくは禅定の姿勢を続け十二因縁の法則を明確化した。古来、
仏教はその時点を釈迦の開悟の瞬間と考えた。南宗禅は、理解が飛躍的に向上する瞬間を悟りと
考える。確かに、釈迦の開悟の瞬間はものの理解が飛躍的に向上した瞬間であるとしても、北宗
禅はその前の学習も重視する。釈迦は禅定をもって十二因縁の法則に気づく前、王宮では多くの
学問知識を積んでいる。祇園精舎で人々に教えたのは、禅定だけではない。王宮で学んできたそ
のような当時最新の知識も含まれている。ものの理解が飛躍的に向上して入れ物ができても、中
身が空っぽでは話にならない。悟りは、禅定だけでなく、智慧も戒律も学んで開悟に至る。
404 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/25(月) 10:54:31 ID:N/mi5eQQ
南宗禅は、禅を単独でクローズアップすることから、禅だけで教育体系を作ることができ、禅
だけで宗派を作る。南宗禅は、その後中国で多くの宗派が生まれ、それぞれ独自に大衆に向か
って禅定の重要性を説いた。
北宗禅は唐王室を支える唐仏教の重要な柱の一つとして学習され、中国仏教全盛時代を支えた。
留学僧として中国に渡った円仁は、多くの学問とともに、当時全盛を誇っていた北宗禅の五会念
仏を学んで帰国した。
南宗禅は自分たちこそ達磨大師以来の禅の本流であると自認する。北宗禅は南宗禅を、釈迦以
来の三学を否定する異端であると批判する。南宗禅は改革仏教であり、これを積極的に支持する
経典はない。南宗禅は、異端という攻撃に対し、教外別伝・以心伝心の教えという反撃を行う。
両者は互いに緊張関係を持ちながら併存した。やがて北宗禅は唐王朝と運命を共にし、唐王朝の
崩壊後、廃仏の嵐の中で中国の表舞台から消えていった。
________________
| ノ ( |
| 彡彡⌒⌒⌒ ミ 彡" ⌒⌒⌒ミミ
| 彡彡ノ. 三 ヽ / ヽ ||!
| ‖|‖ '。 。` | | || ! l l| l||
| 川川‖U ' ω` ヽ / U |川川 !! l |l|||ル
| 川6 ∴)д(∴) (∴ 9川| l| |川 l||l
| 川川 〜 / ヽ 川 | lルリ
| / ヽ ___/ \__ ヽ
| / \ / ヽ
| | | ト ヽ / Y | !
| / . | | ヽ / | | !
| | | | α) | | | !
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | !
406 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/03(月) 13:15:17 ID:oBGfj9um
奈良・平安時代、日本政府は中国に留学生を送り、盛んに先進文化を吸収した。支配者層の初
等教育を盤石なものとし、国家の安泰を図る鎮護国家の思想に基づいていた。やがて、武士団の
台頭によって、我が国でも支配者層だけでなく、一般大衆にも初等教育を広めようと言う考えが
出てくる。法然・親鸞・栄西・道元などはそうした考えを持った人々である。
関東で平将門が乱を起こし、瀬戸内海で藤原純友が乱を起こす(承平・天慶の乱〔940年
頃〕)。将門・純友は共に貴族出身だったが、地方の多くの武装集団が反乱軍に味方した。やが
て京都で保元の乱〔1156年〕・平治の乱〔1159年〕が起き、源平の合戦〔1180〜1
185年〕は日本各地で続いた。これにより、武士団による事実上の国家支配が始まった。
武士とはもともと貴族の傭兵だ。棟梁は名門貴族の分家出身者が就任し、そこに平民が参集し
た。平民には教育がなかった。木曽で蜂起して京都から平氏を追い払った源義仲は、都の治安の
平定に失敗している。天台僧の中に、平民に学問を教えようという機運が広まったのは、武士団
の台頭という社会的な動きと密接に関連している。
当時、中国では唐が滅び、五代十国時代を経、宋の時代に入っていた。五代十国時代には激し
い廃仏運動があり、多くの寺院が破壊されている。宋の時代、特に南宋の時代には北宗禅はほと
んど力を失い、大衆に直接禅を説く南宗禅が多くの支持を受けていた。栄西・道元などは、大衆
に禅を説く南宗禅を求めて中国に渡った。一方、法然・親鸞などは円仁以来の北宗禅を直接大衆
に説く道を選択した。
北宗禅を直接大衆に説くに当たって、法然・親鸞にはかつて慧能が直面した同じ問題と直面し
た。大衆に必要なものは何か。それは禅定である。彼らは、慧能と同じように、智慧と戒律とを
学習の対象から後退させるという選択をした。二人は、禅定の中でも、最も易しい称名念仏とい
う形体の禅法を選んだ。
407 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/03(月) 13:17:59 ID:oBGfj9um
親鸞は教行信証で言う。念仏三昧は座禅して行えと。教行信証では、盛んに念仏三昧の効果を
紹介するとともに、五会法事讃略抄で念仏三昧は五会念仏をもって行えと言う。五会念仏は如来
禅である。如来禅とは達磨大師が中国にもたらした禅法の中核であり、二乗(声聞・縁覚)の行
う禅とは本質的に異なる。親鸞はそう教える。
栄西・道元などが中国から学んできた南宗禅という形の大衆仏教と、法然・親鸞が北宗禅から
導いた大衆仏教とは類似点と相違点がある。考えてみよう。
一般大衆を布教の対象としているという点では共通している。戒・定・慧の三学の内、戒・慧
を後退させる点でも共通している。
戒・慧を後退させる説明手法には相違があるようだ。南宗禅は教外別伝・不立文字・面授嗣法
という直接的説明をする。釈迦の教えには、釈迦が直接説いた教えの外に真実の教えがあるとい
う。文字では示されない。師弟間は対面によって法が伝えられるというのだ。
北宗禅では教外別伝という説明はできない。あくまで経に基づく。法然・親鸞、特に親鸞にあ
っては、これを釈迦の直接の教えではなく、阿弥陀仏という釈迦と同格の別の仏の教えであると
いう説明手法を取った。これによって、釈迦に基づく戒・定・慧という三学の縛りを外した。
南宗禅は学校教育学である。原則として人々に出家を勧める。寺という特別な施設の中で専門
的に修行することを勧める。教育の対象は平民であっても、その中に仏教の専門家を配置しよう
とする。これと異なり、法然・親鸞は社会教育という舞台を選んだ。社会教育は、寺という特別
な施設を必要としない。出家を原則とするという考えを採らない。
408 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/03(月) 13:19:36 ID:oBGfj9um
禅定を積んでいくと、理解力・直感力が飛躍的に成長する瞬間が不定期的に生じる。南宗禅は
この時を悟りと呼び、そこまで到達することを当初の目標とする。親鸞の場合には、目標はずっ
と低い。称名念仏・如来禅のおもしろさが分かればいい。おもしろさが分かれば、その後は自分
一人で実践を行っていくだろう(正定聚)。仲間を作って自主的に行っていってもいい。当初の
目標は、称名念仏の素晴らしさが分かってくれればいい。親鸞はこれを信心と呼び、在家仏教を
提唱した。
こうした主張は、それぞれの考え方が国内に定着する過程で、思わぬ方向に変質していった。
>>406-408 ∧_∧
◎ へ (´<_` )
\ ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
彡____人 )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ) 糞スレあげてる暇があったら仕事探せやキモヲタデブ親父
◎-●一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ-=_二__ ̄ \ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
(__)) ヽ .\__/_丿
| | ヽ .| |
| |______) | |
| 〉三三三[□]三) | |
ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/ \ ヽ
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410 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/11(火) 23:41:05 ID:mrodDwOr
念仏研修会 第2回目
3月31日 午後の部(念仏・座談) 11時から16時
教行信証講読 16時から19時
夜の部(念仏・座談) 19時から23時
午後の部と夜の部と選択可。両方参加も可能。途中退席も可。なお、プログラムは多少の変更
の可能性もあります。
場所 愛知県 (名古屋地区)
五会念仏法事讃略抄(親鸞真筆)・至道抄(存覚著)・御文(蓮如著)を骨格ベースに、鎌倉・室
町期の真宗の念仏道場のスタイルを復活させ、座禅しながら五会念仏(念仏三昧)を勤修します。
問い合わせ先
[email protected] 渡海 難
1回目の後、すぐに2回目をしたいという反響に応えるものです。なお、今後定期的に行っていく
かどうかは、全て未定です。
|\__/ハ__
{_____」
\\ ∧_∧
◎ ≫〃vミー‐w へ (´<_` ) 「1回目の後、すぐに2回目をしたいという反響に応えるものです」だと?
\ 彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \ 嘘を書くんじゃねーよ、本当は誰も来なかったから中止になったんだろ?
{_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
◎-○一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ:: -=_二__ ̄ . \_ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
( ) 渡 ≡ ;;; ) ) .\__/_丿
|__|. 海 ≡ ;;; )_l .| |
_| | 難 ≡ ;;;; ) ( | |
| \.._\. 入 \, | |
|ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv) \ ヽ
|___||:::::::::::::/::::::::::/ \ |
.|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/ / ノ
(___|)__|)
412 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/12(水) 00:04:00 ID:mrodDwOr
>411
>嘘を書くんじゃねーよ、本当は誰も来なかったから中止になったんだろ?
そんなことないよ。僕を入れて七人で約5時間やったんだよ。
複数の人が一箇所に集まって本尊に向かい、五会念仏をとなえるなんて、
浄土真宗史上400年ぶりの大事件だよ。
天下を統一した徳川幕府が一向一揆の再発を恐れ、浄土真宗の五会念
仏を標的とし、集団的布教と集合を禁じ、浄土真宗のエネルギーを削いでか
らから400年、歴史的復活の瞬間はささやかでも、非常に充実した一瞬だっ
たよ。
413 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/12(水) 12:13:16 ID:XpORbc8g
浄土真宗は変質した。当初は、寺院(学校)という枠を越え、在野の人々に草の根で称名念仏
という形の如来禅仏教(五会法事讃略抄)を伝えることを目指したものではなかったのか。至道
抄(存覚著)は言う。「私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛をつとむる會座
とするなり」、と。少なくともこの伝統は、蓮如以後、少なくとも安土・桃山時代まではあった
と思う。
しかし、現代の既成仏教の中で、寺院数が最も多いのは浄土真宗ではないか。東西本願寺を始
めとし、親鸞を宗祖と仰ぐ宗派全体の合計で考えればその数は非常に多い。まさに浄土真宗は寺
院仏教と化している。しかしその寺院には念佛をつとむる會座を設けるという伝統はほとんど皆
無である。
念佛をつとむる會座の無い浄土真宗の聞法道場が果たして浄土真宗の道場なのだろうか。聞法
道場という言葉は、いつ頃できた言葉なのだろう。聞法と道場とを組み合わせた聞法道場という
奇妙ないびつな言葉は、明治時代にできた明治の新語ではないか。僕はそんな風に思っている。
少なくとも宗派としての浄土真宗寺院仏教は、事実上、称名念仏を忘れ、称名念仏の無い聞法外
道と化しているというべきだろう。
南宗禅は、臨済宗・曹洞宗という形で日本に根付いている。南宗禅は教外別伝・以心伝心とい
う概念を立てている。しかし、臨済宗・曹洞宗は膨大な数の書籍を社会に放出していることも事
実であろう。もっとも、臨済宗・曹洞宗には、坐るという禅定の中核の伝統は失ってないようだ。
座禅しながら念仏を称え如来禅という伝統を忘れた浄土真宗とは大きな違いである。
現代の浄土真宗は壊れている宗教である。念仏道場が聞法道場と言われ出したとき、浄土真宗
は事実上音もなく崩壊し、真実は、人々を寄せ付けない竜宮に籠もった。最近、ぼくはそんな感
想をもっているのだ。
>>269 から始まった議論「浄土真宗とはなにか」については、これをもって終わります。
414 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/13(木) 13:37:01 ID:qxgLcTA/
浄土教は男尊女卑、性差別の宗教なんじゃないか。こんな質問を貰った。根拠は阿弥陀仏の第
三十五願だと言う。
たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を聞きて、
歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りての後、また女像とならば、正覚を取ら
じ(岩波文庫)。
仮に自分は仏になっても、私の名声を聞いた女性が歓喜・信楽し、仏道を求めようと言う真剣
な心を起こし、自分が女性でなかったならどれほど良かっただろうかと、自分が女性の身である
ことを残念に思ったとする。その人が、死んで生まれ変わった後、再び女性となって生まれたな
ら、自分は正覚をとらない。第三十五願で阿弥陀仏はそう誓っている。この考えが女性蔑視の性
差別だという。
阿弥陀仏の誓願を性差別に絡めて問題にする人が少なくないことは前から承知していた。しか
し、僕はこれまでこれを真正面から考えたことがなかった。性差別と言えば、阿弥陀仏の第三十五
願だけではない。思い出すのは例えば、蓮如には次のような言葉がある。
女人の身は、五障・三従とて、男に勝りてかかる深き罪のあるなり。(第五帖)
三従とは、女性の従属性を言う。幼にしてはその父に、若い時は夫に、夫死したる時はその子
息に従うべしという。五障とは、女性がなれないものを言う。梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王
・仏、この五つの地位にはなれないという。
これをどう考えるかというのが問題になる。五障・三従の問題と阿弥陀仏の誓願とは別の問題
と考えた方がいいだろう。蓮如の言葉は、応仁の乱から戦国の時代という時代背景を抜きにして
考えることはできない。
先に第三十五願を考えてみたい。
,. へ、___
r' \
| ,>
/‐、__ i´
___,――´エ_、  ̄`ー l
`ー―、__、 ー‐、____iニヽ、
/  ̄`ー、_ ,`>
i'´ r‐ゝヽ、ー―フ<´´ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
, ―‐´ ̄` ‐、 | iニ!、ヽ‐―´ ,> | あばよ……渡海!
/ / 、 ヽ. ヽ,、_ヽ.ヽ (,、 . < ここは終了だ
/ \ ト‐;/イ \\ / ,i、__/レ,i. |
∧ \ | ヽ. , へ.ヽ ヽ、__、 / ーノ \________ ァ'⌒; ,ξノ),'´
ヽ. 、ヽ| i `v、  ̄ヽ、 <ノ r__、_ ,‐ァ从 \8`';,: ,'´゙、<ノ)
ヽ. Y b/ /ヽ/ ヽト、_、k―´ ,、 ,_,.―'/ニニニl‐¬' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)≡≡`'※ζ;'´'``≡ = ─
i i l./ iく >;´,,‐――‐、ニハ rf―‐―――´Wヽ ,'´ミ三彡`:'
| i´`i―〈 ト、 ,‐、_ ,,,‐'''´´ ニニi、‐ ) r‐´ BAAN!! と:;*;O
|/ / ./| ヽ. ̄`ー、__,;;:――´´ `ヽ `<´ ``` ` ニニ`Y´ | ̄ ̄ ̄: ̄
_」,, ヽ‐'''''´ ,,ノ| `i | `` ``,、_ `ヽ | :゚
__,,,/ ト‐‐'´L/ヽー―r'''' ̄ `;L/ | ゚.。
‐'''´ _,,, ‐―'´ .L___,,,ノ
416 :
神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 14:24:47 ID:sfPcEQA4
念仏研修、また参加します。
>>415 いつもオツカレ
∧_∧
◎ へ (´<_` )
\ ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
彡____人 )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ )
>>416=渡海難 ID変えてまで自作自演乙
◎-●一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ-=_二__ ̄ \ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
(__)) ヽ .\__/_丿
| | ヽ .| |
| |______) | |
| 〉三三三[□]三) | |
ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/ \ ヽ
~~~|::::::::::::::::::/:::::::/ \ |
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418 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/19(水) 12:00:30 ID:UOIzh5G2
どんな書物でも読み方がある。経典も一つの書物である以上、書物の読み方の作法に従わなけ
ればならない。書物には必ず作者がいる。読み手は作者が何を伝えようとしているのか、作者か
らのメッセージに注目して読んでいくのが原則である。
しかし、経典の場合には特異的な読み方をする必要がある。例えば大無量寿経の場合、親鸞に
教えを学ぼうとする者は、親鸞はこれをどのように読んでいたかということも、常に考えていか
なければならない。これを僕は親鸞フィルターと呼んでいる。
親鸞はしばしば先人の書き物について、その趣旨を換骨奪胎して読んでいる。換骨奪胎する読
み方には、彼には彼独特の論理がある。親鸞に教えを学ぼうとする者には、親鸞のその論理が非
常に重要となる。しかし、我々は親鸞フィルターを外して原典を読むことも重要である。なぜな
ら、親鸞は当時、親鸞フィルターを付けてない人々に向かって自らの論理を説明しているからだ。
親鸞フィルターを外すことを知らなければ、親鸞が本当に言おうとしていることが見えなくなる。
また、親鸞フィルターを外すことは、親鸞に批判的な人々と話をするときにも極めて重要にな
る。なぜなら、親鸞に批判的な人々は親鸞フィルターを付けていないからだ。親鸞に対し批判的
な人と話をするとき、親鸞フィルターを外さなければ、話の土俵が設定できない。客観的合理的
な話が不可能になる。親鸞を全く知らない人と話をする場合も親鸞フィルターを外して話をしな
ければならない。親鸞フィルターが外せなくなっている人は、「教条主義者」という。そういう
人は歪んだ精神構造のいわば人造人間である。親鸞フィルターを外すということは、当然のこと
ながら経典作者からのメッセージに注目して読んでいくということである。
419 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/19(水) 12:01:28 ID:UOIzh5G2
大無量寿経の阿弥陀仏第三十五願は、通常、女人往生の願と呼ばれている。女人往生の願につ
いては、親鸞による直接の論述はほとんど無い。僕が確認しているのは、「四十八誓願」という
記録である。これは専修寺に真筆があるそうだ。恐らく文化財の指定を受けているだろう。この
記録は、四十八箇条の誓願全てを述べ書きしてあるだけの内容である。言い換えれば、親鸞は、
女人往生の願についてほとんど関心がなかったと考えていいだろう。そうであれば、僕らは女人
往生の願について親鸞から学ぶものはほとんどない。大無量寿経の作者のメッセージだけを考え
ていきたいと思う。
釈迦は北インドに祇園精舎を建設した。釈迦の弟子達は、教育こそが社会にとって最も重要な
問題であると考え、各地に祇園精舎の分校を建設した。世界中に広まっている寺院は、東大寺も
薬師寺も金剛峰寺も、全て本来は祇園精舎の分校である。大無量寿経は、仏弟子達に、阿弥陀仏
を理想とし、阿弥陀仏の化身となって釈迦のような教育者になり、極楽浄土を理想として祇園精
舎の分校を造ることを勧めている。女人往生の願とは、このような著者のメッセージの論筋の中
で提起されてきている問題である。そのように読んでいくことが必要だろうと考える。(続く)
420 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 13:09:19 ID:/D05J4Lo
弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらわして 変成男子の願をたて 女人成仏ちかいたり
弥陀の名願によらざれば 百千万劫すぐれども いつつのさわりはなれねば 女身をいかでか転ずべき
葬式でおなじみ和讃
421 :
298:2008/03/20(木) 01:29:42 ID:2ncFABYu
>>420 帖外和讃も。
◎六八の弘誓のそのなかに
第三十五の願に
彌陀はことに女人を
引接せんとちかいしか
422 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/20(木) 11:16:34 ID:rXVEMMiD
>420-421
なるほど。僕が見落としていた部分を教えて下さったことを感謝します。宗祖も女人成仏とい
う問題についてはかなり注目していたことが改めて分かりました。
この和讃を読んでみると、親鸞思想全体の中で、女人成仏は基礎的な重要部分を占めているよ
うです。実は、僕には前々から教行信証でどうもおかしいと思っていた部分があった。どうもお
かしいと思っていたその部分が、今回のこの和讃で埋まるような感じがしています。蓮如の女性
観も、親鸞からのその論筋で考えていかなければならない。
親鸞の女人成仏論は親鸞に始まる議論ではないようです。法然上人自身が女人往生に非常に注
目され、親鸞はその流れを汲んでいる。女人往生・女人成仏は法然流浄土門の重要な原点の一つ
であるようだ。女人往生・女人成仏の考えは、浄土教ではかなり相当重要な思想であることが分かり
ました。
法然流浄土門の考え方はひとまず保留し、大無量寿経の著者が伝えているメッセージを先に考
え、そこから親鸞の考えを追ってみたい。
423 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/24(月) 10:05:17 ID:hXIeq1+Q
岩波文庫の浄土三部経で読むと、女人往生の願は、梵文では第三十六願に出ている。
世尊よ、わたしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限の諸仏国土の
女人達がわたしの名を聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の性を厭
うたとして、その女人たちが生を脱してから再び女人の性を受けるようなことがあったら、その
間はわたしは、この上ない正しい悟りを現に覚ることがありませんように。
梵文大無量寿経の女人往生の願は、漢文の女人往生の願と内容は実質的にほとんど変わってな
い。すなわち、女人往生の願の思想は、康僧鎧が中国に大無量寿経をもたらす前、既にインドに
おいて発生していたと考える。
経典の著者の真意を考える場合、古代インドで、当時、この思想が社会からどのように受け止
められたかを考えたい。重要な資料がある。それは法華経だ。
薬王菩薩本事品はいう。 〜 若し如来の滅後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞
いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処
に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。 〜 。
法華経の薬王菩薩本は言う。もし釈迦如来が入滅後五百年以内であれば、女性にとって、妙法
蓮華経は大いに救いになるだろう。この妙法蓮華経、特に薬王菩薩本事品の教えを聞き、ここに
書いてあるように修行を行えば、命終後、安楽世界、極楽浄土に往生することになるだろう。
薬王菩薩本は仏への供養の方法を説いている。薬王菩薩本では、喜見菩薩と日月浄明徳仏とが
登場する。喜見菩薩は、自らの身体をもって供養することが重要である言い、喜見菩薩は日月浄
明徳仏の前で自らの体を燃し、八十億恒河沙の世界を照らしたいう。その後、日月浄明徳仏は滅
度に入る。喜見菩薩は、日月浄明徳仏の仏身を焼き、舎利を供養する。釈迦はここで、自らの手
の指、足の指を燃やして仏塔を供養することを勧める。
424 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/24(月) 10:07:39 ID:hXIeq1+Q
もし女性がこの薬王菩薩本事品を聞き、それを実践すれば命終後、安楽世界に生まれるだろう
と説く。
僕は法華経の解釈を議論するつもりはない。実力もない。女人往生の問題に注目する。大無量
寿経では、女人往生の願は四八願の中で後ろの方にある。願全体の扱いでは決して派手ではな
い。比較的地味な扱いだ。しかし、法華経のこの記載から見ると、浄土教グループ以外の例えば
法華経グループなどからは、浄土教グループの重要な特徴として尊敬を持って注目されていたと
いうことがうかがえる。
薬王菩薩本事品はいう。「(日月浄明徳仏)の国には女人・地獄・餓鬼・畜生・阿修羅等及び
諸難あることなし」。一般に浄土には女性はいない。例えば優填王経はいう。女人もっとも悪難
をなすこと一なり。縛著してひとをひいて罪門にいる」。
古代においては、男性の教育こそ焦眉の課題だったことは想像に難くない。女は家にいて家を
守り、子供を育てる。男は外に出て生活の糧を得てくる。こういう性による役割分担は、古代で
はどこでも自然な考えだったろう。かつて祇園精舎、竹林精舎は共に男子校としてスタートして
いる。女子の入学を認めるときにはいろいろ問題があったようだ。
女性にも男性と劣らないだけの教育をすることは必要であることは、識者であれば誰でも認め
ることだったろうと思う。しかし、男女を共に教え、それによって男性の教育に困難が生じ、共
倒れになって仕舞えば元も子もない。古代における社会的な教育の基盤は、現代と比べれば比較
にならない程脆弱だったことだろう。結局、古代の学校では男子優先の原則の下で、女子教育は
犠牲にせざるを得ないというのが常識ではなかったか。
阿弥陀仏の女人往生の願とは、古代においてその常識に挑戦し、女子教育の重要性を明文を持
って宣言した考えであり、古代インドでは恐らく特筆的な主張だったろうと考える。(続く)
425 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/01(火) 16:52:44 ID:HSM+pn8i
かつては男性の教育こそ焦眉の課題だった。そういう社会の中で、女人の往生の願は、
敢えて女子教育の必要性を訴えている。女人の往生の願はそういうことを言っているのだ。
こうした仮説が経典の文字面において正当性を持ちうるか。ここを考えてみたい。
たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を
聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りての後、また女像となら
ば、正覚を取らじ。
「十方無量不可思議の諸仏世界」とは、どのような世界にある女性であってもという意
味だろう。「女人」とは女性という意味だ。年齢は問題にしていない。名字を聞きて、歓
喜信楽し、菩提心を発してとは、先生の名声を聞いて自分も先生の下で学習したいという
思いを持った場合ということだろう。「女身を厭悪せん」とは、女性である身を悲しむと
いうことだろう。「寿終りての後、また女像とならば」とはどういう意味か。例えば、死
んで生まれ変わり、また女性となればという意味であると考えると、上記の仮説は成り立
たない。
「寿終えて後」を親鸞は「いのちおえてのち」とかなをふっている。いのちおえるとは、
意思と行動において、従来のあり方が大きく変わるいう意味だろう。従来の意思・従来の
行動が通用しなくなるということだ。従来の価値観が当てはまらなくなること、つまり、環
境が激変するということだろう。
426 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/01(火) 16:53:18 ID:HSM+pn8i
女像であるとは、学習の世界に参加できない身と言う意味だろう。つまり、学校という
ものは、当初は男性教育を優先する。しかし、やがて学校業務も軌道に乗ってくれば、開
校当初とは環境が大きく変わってくる。いつまでも開校当初と同じではない。女性であっ
ても入学がさせられるような環境が揃ってくるだろう。しかし、もしそれにも関わらず、
相変わらず女性は入学できない身のままに取り残されているような状況が続くなら、その
間は大乗仏教が理想とする真の教育者になったことにはならない。阿弥陀仏の三五願はそ
ういう意味ではないのか。
確かに、もしこういう推論を立てるなら、文理にやや無理があると言われるかも知れな
い。「また、女像となる」という表現とは、意味に距離がある。文理が通じにくいと言わ
れるかもしない。しかし、大きく環境が代わった後、再度入学をやりなおしても、「女性
であることを理由に、二度目も拒否せざるを得ない」。そういう意味であると考えれば、
意味は通じるのではないか。法華経の文面を援用すれば、当時の浄土教の哲人達の真
意は、まさにそのようにうかがえてくる。
427 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/01(火) 23:22:41 ID:HSM+pn8i
>426
誤 再度入学をやりなおしても、
正 再度申請入学をやりなおしても、
>427
ドジってしまった(苦笑)。 訂正の訂正だ。 ┐('д')┌
誤 正 再度申請入学をやりなおしても、
正 正 再度入学申請をやりなおしても、
女人往生の問題について、法然・親鸞はどう考えていたのか。これを考えてみたい。
法然・親鸞の時代、全国の国分尼寺は全てほとんどが消滅していた。比叡山も高野山も女人禁
制であり、恐らく、奈良のごく一部の寺をのぞけば、京都・奈良の大寺院はほとんど女人禁制、
男性僧だけの社会だった。女性は、事実上、戒律さえ授かる場所がなかった。尼僧になろうとす
れば、女性は事実上、自分で勝手に髪を短く切り、勝手に僧を宣言をする以外、正式に僧となる
手続きはなかった。いわば日陰者の存在だった。
法然は天台の戒師である。戒師は、仏道入門者に戒律を与え、相手がその戒律を守ることを誓
えば、仏道への入門を許可する。法然は、極めて重要な資格を持っていた。女性にも正式な仏道
への参加の道が開かれなければならない。法然は恐らくそう考えていたのだろうと思う。しかし、
男子禁制の比叡山延暦寺を背景とする法然には、女性に授戒することはできなかったはずである。
法然は、流罪で讃岐に渡るに当たり、港である女性に、念仏によって極楽浄土に往生できるこ
とを説いたと、法然の絵伝は伝えている。この他にも、存覚の女人往生聞書きは、法然が多くの
女性に念仏往生を説いたという。女性が尼となるに当たり、後ろ暗い思いを持つ必要はない。法
然は、大無量寿経に基づいて、日陰ではない正式な仏道参加の道を明示したいうことだろう。
430 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/02(水) 13:14:47 ID:Aog3qGmn
比叡山も高野山も、その他の奈良・京都の寺院(学校)も、鎮護国家の目的のためには、男子
教育こそ優先しなければならない。男子を教育している場に女性が加わってくれば、生徒は一気に
誘惑の渦に巻き込まれる。勉学に集中できなくなる。男子を対象とした教育の場からは女性は遠
ざけなければならない。しかし、女性にも教育が与えられなければならないということは当然の
ことだ。法然は、称名念仏という形で戒・定・慧の内の定を行うことを教え、正式な仏道者とし
ての自覚を促したのだろうと考える。
法然の女人往生論は、大無量寿経から直接導くスタンダードな論議だろうと思う。しかし、親
鸞の女人往生論では善導大師が絡んでいる。善導大師を絡めたこのような女人往生の扱い方に僕
は注目したい。
親鸞は言う。
「弥陀の名願によらざれば 百千万劫すぐれども いつつのさわりはなれねば
女身をいかでか転ずべき」。
親鸞のこの和讃は、善導大師を紹介している和讃の一部なのだ。名
願は、善導が使っている言葉である。これは一体何を意味するのか、これを考えてみたい。
(続く)
O
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(:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ と
(:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::) 思
(:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::) う
ヽノヽノヽノノヽノヽノノヽノヽノノヽノヽ、::::::::::::::::) キ
| ,,;;;;;;;;;;;;;;,,,,,, )) ( ,,,,;;;;;;;;;;;;;,,,, `ヽ、;;;;;;;;::) モ
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|| ((((○)))) 0⌒0 (((((○))) | ̄´ ´~) );;::) タ
|\___/ノ ミ\___/ヽ つ, ノ;;;:ノ で
| ´ ./ 、´ ` (_ノ;;;ノ あ
< (。、 。) >;;;;::ノ っ
\ ノ`∪´ ヽ、 ●、 /|;;;;ノ た
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| ( ̄ ̄~~~ ̄ ̄) | イ
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432 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/05(土) 10:34:34 ID:Ua9n4pae
親鸞の女人往生観を考える場合、教行信証の前序文に注目したい。
釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、
世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。
親鸞は、釈迦が浄土教を開教したときの由来を説明している。浄土教の開教には、釈迦在世時代、
釈迦が相談役を勤めていた王家で生じた親殺し事件が密接に絡んでいる。かつてインドには摩訶陀
国という国があり、王舎城という城があった。王の名を頻婆娑羅と言い、王妃の名を韋提希という。
一人息子の王子がいた。名を阿闍世という。阿闍世は、提婆達多に騙され、父を殺して母を幽閉す
る。提婆達多は釈迦の従兄弟である。韋提希は釈迦に筋違いな恨み言をぶつけながら、また泣きな
がら釈迦に救いを求める。このとき韋提希は釈迦に阿弥陀仏の極楽浄土に行きたい訴える。釈迦は
韋提希に、阿弥陀仏の極楽浄土に往生する方法を説く。
王舎城事件には登場人物が多い。釈迦・頻婆娑羅・韋提希・阿闍世・提婆達多、その外にも大臣
・門番・目連・阿難、等々がいる。ここで問題になるのは、「権化の仁」という言葉である。権化
の仁とは、遠くにいるはずの偉大な聖者が、仮の姿で身を落とし、我々の前に現れてきて下さった
方という意味である。権化の仁は、誰を指しているのか。ここが問題になる。韋提希を親鸞は権化
の仁と呼んでいるのは間違いがない。それでは韋提希だけが権化の仁なのか、韋提希は例示であり、
王舎城物語の登場人物は全て権化の仁なのか、その解釈で意味が大きく変わってくる。
韋提希だけなのか、王舎城物語の登場人物は全てなのか。この問題は、過去に二転三転している
難しい問題なのだ。
阿闍世を唆した提婆達多について、法華経は言う。「提婆達多却って後無量劫を過ぎて当に成仏
することを得べし。天王如来 〜 世界を天道と名けん」。遠い将来であるが、提婆達多はやがて
仏になる。天王如来と名乗り、天道という名の浄土を作るだろう。
433 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/05(土) 10:35:07 ID:Ua9n4pae
父を殺した阿闍世について、普超三昧経は言う。「文殊に従って懺悔して柔順忍を得、 〜 の
ち、当に作仏して浄界如来と号く」。文殊菩薩に従って懺悔し、やがて浄界如来という仏になるだ
ろう。
釈迦に筋違いな恨み言をぶつけた韋提希について、心地観経は言う。「衆生を度せんがために女
身を示現す、 〜 無縁の大慈、無碍の大悲、衆生を憐慈し、猶赤子の如し」。人々を救うため、
女性の姿を示し、母親が自分の赤ん坊に注ぐような心で人々に大慈大悲を寄せているという。
天台宗の実質的開祖である天台智(538〜597年)などは、韋提希を偉大な仮の菩薩と評価し
た。
ここまでの先人達は、王舎城物語の登場人物を、浄土教という重要な教えを開くため大事な役割
を果たした重要な人々として、最大限の尊敬を寄せているということがわかる。
これに対して異議を述べたのが善導大師(613〜681年)である。善導は観無量寿経の一節を引
用する。観無量寿経の中で釈迦は韋提希に言う。「汝はこれ凡夫なり。心想羸劣(るいれつ)にし
て未だ天眼を得ず、遠く観ることあたわず」。善導大師は、観無量寿経の「凡夫なり」という言葉
に注目する。
善導大師は、観経疏の「序分義」でいう。「韋提は現にこれ菩薩の仮に凡身を示し給いしもの、
我等罪人比及するに由し無しと。この疑を断ぜんがための故に、如是凡夫と言うと明すなり」。
善導大師は、観経疏の「序分義」でいう。「韋提希は、本来は菩薩であるが、仮に身を落とし、
あたかも凡夫のような姿を取ってきた方である。我々のような罪人とは、本質は比べ者にならな
い」と。このような考えがある。しかしこの考えは間違えだろう。このような間違った疑いが起こ
らないように、観無量寿経では敢えて『汝はこれ凡夫なり』という言葉が加わっている。
434 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/05(土) 10:40:24 ID:Ua9n4pae
この問題について、教行信証講義「赤沼智善・山辺習学」は言う。
もし聖道門の諸師(天台大師など)のように、韋提希夫人等が智徳円満の聖者であるとするなら
ば、『観経』一部はこれら聖者のために説かれた教であって、真実の凡夫の救わるる教ではなくな
る。弥陀の本願は悪人凡夫のために起して下された大慈悲の結晶〈かたまり〉でなく、凡夫救済の
道がここに全く途絶えて仕舞うことになるのである。こうなっては、本為凡夫、兼為聖者という弥
陀如来の本願の覚召に乖く許りでなく、全く釈迦如来のこの世へ出現し給うた本意が隠れて仕舞う
ことになる。善導大師は、自分のお心に頂かれた領解から、古今の諸師を揩足して、大師独り、韋
提希夫人等を真実の凡夫と見込れたのである。こうなって初めて、本為凡夫の浄土教が生きて来る
ので、我々のやうな愚痴な者でも救臍せられるという大希望が各〈おのおの〉の胸に湧いて来るの
である。
確かに、教行信証講義の説明は分からないではない。問題はその次である。教行信証講義「赤沼
智善・山辺習学」は言う。
処が、不思議なるかな、一代全く善導大師の念仏を祖述し給うた親鸞聖人は、更に善導大師のこ
の見方に反して、これら韋提希夫人等を大権の聖者と拝まれたのである。このことは、今の「総序
の文」に見ゆる許りでなく、『浄土和讃』の中には明に、
弥陀釈迦方便して 阿難目蓮富楼那韋提 達多闍王頻娑婆羅 耆婆月光行雨等
大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみひとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり
と示し給うてある。親鸞聖人の御思召から頂くと、これら韋提等の人々は皆、本地は、果上の大菩
薩であって、その本地の大菩薩が仮に人間と顕われて心想羸劣の凡夫の姿を示し私共を浄土へ誘引
せんがために、一場の芝居を演じて、いかに悪逆の凡夫でも、女人でも、ひとしく、弥陀如来の救
済に預るということを身を以て教えて下されたのであると窺われたのである。
435 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/05(土) 10:51:42 ID:Ua9n4pae
前置きが長くなった。「韋提希夫人等を大権の聖者と拝まれた」という「等」が問題になる。阿
難・目蓮・富楼那・韋提・達多・闍王・頻娑婆羅・耆婆・月光・行雨はすべて王舎城物語の登場人
物である。その全てを権化の仁といっているのだろうか。教行信証講義の提起しているここを問題
にする。
436 :
神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 10:55:10 ID:3agRU7lw
437 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 09:42:04 ID:N6UEwWOI
僕は、教行信証講義「赤沼智善・山辺習学」を従来説と呼ぶ。教行信証講義を従来説と呼ぶこ
とが本当に正しいかどうか、その辺はよくわからないが、おそらく現代の教行信証論は、ほとん
どがこの本を参照しているだろう。その意味でこの本は現代の浄土真宗界では古典と呼んでいい
と思う。
教行信証講義は、「韋提希夫人等を大権の聖者と拝まれた」という。その根拠を検討しよう。
従来説の教行信証講義が言う根拠は親鸞の和讃だ。もう一度引用する。
弥陀釈迦方便して 阿難目蓮富楼那韋提 達多闍王頻娑婆羅 耆婆月光行雨等 大聖おのおの
もろともに 凡愚底下の罪人を 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり
阿弥陀仏と釈迦仏は、巧みな方法を使った。阿難・目蓮・富楼那・韋提・達多・闍王・韋提・
耆婆・月光・行雨等、こうした人々に対し、大聖つまりお釈迦様は全てを包含された。平凡で愚
かな罪人を、阿弥陀仏の誓願の中に巧みに誘い込まれたのである。親鸞はそんな風に歌っている。
韋提は韋提希という意味である。達多は提婆達多、闍王は阿闍世である。王舎城物語の登場人
物はこれだけではない。親鸞は主な登場人物を列記しているだけである。
この和讃で誰かを権化の仁と呼んでいるだろうか。阿難から行雨等は全て方便の客体である。
方便の主体は弥陀釈迦である。大聖とは釈迦を指す。釈迦を大聖と呼んでいる他、誰かを権化の
仁と呼んでいる事実はない。
阿難や目蓮も含め、親鸞は、富楼那や韋提もすべて凡愚底下の罪人とよんでいる。罪人とは犯
罪者という意味ではない。自分たちだけでは救いを得られない人という意味だろう。
438 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 09:42:34 ID:N6UEwWOI
ここでは韋提を富楼那・達多・闍王と同列に扱っている。しかし、教行信証講義が引用してい
ないもう一つの大事な和讃がある。そこでは親鸞の主張が明確に現れていると思う。
釈迦韋提方便して 浄土の機縁熟すれば 雨行大臣証として 闍王逆悪興ぜしむ
浄土教を開く機縁が熟してきたことを見計らい、浄土教を開く証として、雨行大臣を使い、釈
迦と韋提希は巧みな方法で闍王に逆悪を興させた。親鸞はそのように言っている。
少し解説が必要だ。阿闍世は提婆達多からある唆しを受けた。不安になった阿闍世は、部下で
ある雨行大臣に相談する。雨行大臣は提婆達多の言葉に間違いがないことを告げ、阿闍世は父を
つかまえる。阿闍世は父(頻娑婆羅)を殺し、父を庇おうとした母(韋提希)を幽閉する。
この和讃で注目すべきことは、韋提希は雨行大臣や阿闍世と同列ではないということである。
韋提希は釈迦と共に方便行為の主体になっている。雨行大臣と阿闍世は方便行為の客体である。
そうであれば、教行信証の前序の言葉も、この文脈で読むべきだろう。
教行信証の前序は言う。
釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済
し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。
権化の仁とは韋提(韋提希)だけをさし、権化の仁には、王舎城事件の登場人物であっても韋
提希以外は含まないと考えるべきだろう。「韋提希夫人を大権の聖者と拝まれた」というべきで
あり、「韋提希夫人等を大権の聖者と拝まれた」という教行信証講義(従来説)は誤りであると
僕は考える。
阿弥陀仏・釈迦仏を別格とすれば、親鸞の考えでは韋提希だけが権化の仁である。これはどう
いうことを意味するのか。ここから親鸞の女人往生・女人成仏観を考えてみたい。
439 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/10(木) 19:47:15 ID:N6UEwWOI
遅れています。続きは近日中に書きます。 m(_ _)m
親鸞の意識を考えよう。韋提希は釈迦と並んで方便の主体である。雨行大臣・阿闍世などは方
便の客体である。教行信証の前序が言う「権化の仁」もこの文脈で考えるべきである。親鸞は、
在家で女性である韋提希を、阿弥陀や釈迦と同等の存在としてこれを浄土教の創設者に加えたと
いうことである。
これは、従来の仏教の考えにはなかった考えである。法華経は言う。「女人の身には猶お五障
あり、一には梵天王となることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身
なり。云何ぞ女身速かに成仏することを得ん」。法華経では、最後は龍女が男子に変成して仏に
なるという話になっているが、女性が、女性のまま、まして在家のままで仏になるという発想は
ない。
仏とは教育者だ。古代では、基礎学習について男子を女子よりも優先的に教育し、より早く社
会に輩出しなければならないと考えていた。女子にも教育の需要は当然あったろうが、男子に対
する需要の方が圧倒的に高かった。男子教育を優先しなければ、社会の需要を満たせない。教育
は命がけの仕事であり、教師は生徒と、肉体的にも精神的にも命がけで格闘する。仮に、女性教
員であっても、男子生徒に対しては男勝りの戦いが要求される。仏教は、仏つまり教育者は、原
則的に男子に限ろうと言う古代の考えは納得できるだろう。
しかし、親鸞は、人々を教え導く教育者、つまり実質的な仏としての働きを女性の中に認め、
その具体例を韋提希の中に認めた。
親鸞は、浄土教に新たな視点を持ち込んだというべきだろう。浄土教とは何か。それは、他の
仏教の教えが、実質的に男子中心の仏教であるのに対し、これは女性が中心となる仏教である。
現代の日本にも多くの女子校・女子大学というのがある。現代日本の女子校・女子大学は男子の
入学を認めない。学校という形を取れば、僧寺は女人禁制、尼僧寺は男子禁制が原則となる。親
鸞は浄土教を学校教育という舞台から社会教育という舞台に移した。社会教育には男子・女子の
区別はない。しかし親鸞は、浄土教創設者の一人に韋提希を配置した。浄土教による教育の主眼
は女子教育にある。そのように考えたのだろうと思うのである。
女人往生論・女人成仏論を終わります。
443 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/21(月) 12:10:58 ID:GJmtLQ9b
あげ
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( )
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
|/ ∴ ノ 3 ノ
\_______ノ
/⌒∨⌒〉
ミ二二ミ/
/ /
( ⌒ε= ⌒ )
| ) |il ̄( |
| / |‖ | / | l| ブーッ!!
彡ヽ | l| ノミ ||
‖l | || l
| | 丿ヽヾ、
| (⌒ 丶⌒ヽ
(´⌒ ⌒ ⌒ヾ
('⌒ ; ⌒ ::⌒ )
(´ ) ::: )
(´⌒;: ::⌒`) :; )
(⌒:: :: ::⌒ )
( ゝ ヾ 丶 ソ
ヽ ヾ ノノ ノ
無評判無節操無力無知無駄無能無法無策無情無理無頓着無機脳無用無益無智無恥
馬鹿死ネクタバレ消エロ失セロ潰レロ,-――――――-.アホ間抜ケドジ怠ケ者無縁仏無効無役無視無駄骨
最低以下下劣下等種族クズ /排泄物人間之屑 |ポンコツトンチキガラクタカスゴミアメーバ無防備無縁
外道ウジ虫ガン細胞無慈悲/ 蛆虫悪魔性格障害|劣等種族下衆野郎腐レ外道邪道害虫
疫病神病原体有毒物質 / 極悪非道腐臭精神 |ウィルスバイ菌汚染源公害ダイオキシン
アメーバダニゴキブリ渡海難 l" 宇宙一之精神障害者渡海難発ガン物質猛毒毒物シデムシ
糞虫野郎ホラ吹キ糞,、_lー-―――――‐--、/l毛虫ボウフラ芋虫掃溜汚物ゲロ
基地外デタラメ渡海難 i ト、ミミ ,r‐- 、``'ニ=‐、.彡リ穀潰ロクデナシゴロツキヤクザ者
犯罪者反乱者痴漢ヾ,iパ,.ィ^'''‐、 _,,.. 彡'i)社会ノ敵前科者インチキ渡海難
道化師危険分子痴呆 `、j,' `‐-‐ノ^{" `j-.ハン ゴミ虫毒虫便所コオロギ詐欺師
魔物妖怪悪霊怨霊死神 i, ` ,、/ i`~~~ ,r'貧乏神奇天烈奇人変人毒ガス
野郎畜生鬼畜悪鬼クソブタ 'i ,r'ヽ、 _,〉 /ソマンマスタードガス渡海難ブタペテン師白痴
カビ腐敗膿下劣下等生物 i, ミ=_‐_-, 'i /邪気邪鬼ストーカークレイジーファッキンチシット
小便便所ノ落書渡海難 ハ;;ヾ、‐‐-、 ノ´障害物邪魔者除ケ者渡海難カビ腐ミカン
土左衛門腐乱落伍者/ ` ;`‐---‐'i':/ \腐臭犯人ナラズ者チンカス膿垢フケ渡海難
446 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/04/23(水) 14:41:49 ID:dekAveB5
浄土真宗の基盤は五会念仏にある。僕はそう信じている。鎌倉期から室町期にかけ、浄土真宗
の先人達は、篤志家の家に集まり、仏像・名号を安置し、そこを道場として、仏前で三十分なり、
一時間なり五会念仏を一緒に称えあったんだろう。五会念仏の後は、座談をしたんだろうと思っ
ている。蓮如上人がいう「物を言え、物を言え」というのは、その座談の時のことだろうと思う。
禅寺でも、座禅をした後、座談をする。座談は非常に重要だ。かつての念仏道場でも、座談の
時、互いに感じたこと、思ったことをその場で言葉にし、その思いを人々が互いに共感しあい、苦
しみや悲しみを互いに共有し合ったことだろう。僕も五会念仏の後の座談を重視し、今年の三月
に行わせて貰えた念仏研修でも座談の実施を提唱した。
複数の人が一緒になって五会念仏を称えたなら、是非、その直後に座談を行って欲しい。念仏
はただ称えても助からない。称えっぱなしではもったいない。五会念仏からは様々な気づきが生
まれる。生まれた気づきは、放っておくと忘れてしまう。気づきは、気づいたというその事実に
も気づいていくことが必要なのだ。これが自然にできる人とできない人がいる。気づいたという
その事実に気づいていくという作業は、座談を行うと回りから援助して貰える。座談は、五会念
仏で生まれた気づきに気づいていく作業を援助する。座談を重ねていけば、やがて座談がなくて
も、一人で五会念仏を称え、一人で自力で気づきに気づいていけるようにもなるだろう。
座談は無駄話ではなく、効果的に行っていく必要がある。それはどの様におこなうのか。ぼく
は一つのスタイル候補として、カウンセリング方式を念頭に置いている。これは、米国心理学者
の故ロジャーズ博士が提唱した方式だ。グループカウンセリング、エンカウンターグループ(出
会いグループ)などとも言われ、特にベトナム戦争で傷ついた米兵の心の科学的な治療法として
絶大な効果を発揮したと聞いている。ロジャーズ流は、故友田博士などが日本で普及させ、日本
でも多くのカウンセラーがこれを勉強している。この方式は、カトリックとともに、かなり日本
の禅宗の影響を受けていると聞いている。
五会念仏に賛同してくれて、自分も五会念仏を内容とした念仏道場を主宰してみたいと思う人
がいれば、現代であれば、是非カウンセリングを勉強してほしいと思う。無論、カウンセリングは
ロジャーズ流だけでなく、世界的にはさまざまな技術が研究されている。僕は、ロジャーズ流し
か知らず、ロジャーズ流が一番いいと思っている。
カウンセリングの学習会は各地で開かれている。無論、大学に入って勉強するというのも選択
肢の一つだ。大学以外でも開かれている。僕が尊敬していて、僕がかつてカウンセリングを教わ
っていた先生も、いまなお健在で盛んに学習会を行っている。近いうちにその先生を囲んだ数日
間の泊まり込み学習会もあるようだ。僕は、多忙で参加する予定はないけど、参加してみたいと
思う方には案内のURLなら紹介できる(
[email protected])。
(2ちゃんねるでの直接掲示は憚る)。
僕には他人にカウンセリングを教える力はない。五会念仏に心動かされ、その後の座談も主宰
してみたいと思う方、心動かされる方は、そんな心理学の門も叩いてみてほしい。
数日間、カキコ不能
448 :
神も仏も名無しさん:2008/04/27(日) 09:39:03 ID:MQASBshV
はじめまして。いつも先生のスレ未熟ながら拝読させていただいてます。
私は26歳の予備校生の男です。実は先生にご相談があり、見当違いな書き込みさせていただいたのですが、私は来年大学へ行って四年間仏教を学びながら、
自分は何をして生きていくのか、どういう人間になりたいのか、ということをしっかり考えたいと思っております。
しかし、特に宗派的な信仰もなく人間的にもかなり未熟で浅はかな今の私には、どの宗派の大学で学ぶことが最もよいのか日々悩んでいます。何か良いアドバイスいただけないでしょうか?
お願いします。
449 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2008/04/27(日) 10:39:50 ID:U5v62+P8
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>448 大学へは行かないほうがいいよ〜ん。
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 親鸞会に勧誘されちゃうから。
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄) それより僕と一緒に座禅念仏やらない?。
(__/
念仏研修を3月上旬と3月下旬の計2回ほど、愛知県で行なわせて貰えました。恐らく徳川幕
府が天下を統一し、念仏道場が事実上、強制的に終息させられてからおよそ四百年ぶりの念仏道
場の復活の一瞬だったと思っています。平成の念仏道場はどのように再開したか。報告しておき
たいと思います。
お寺の一間を使わせてもらいました。いずれも、参加者は十人足らず。坊さんもいれば、在家
の人も来てくれました。念仏道場の提案・場所提供・呼びかけ・接待してくれたお寺には心から
の敬意と感謝を表したいと思います。
オリエンテーション・聖教拝読・称名・座談というスケジュールで行いました。オリエンテー
ションは、実際には一時間程度かかりました。ほとんど僕とは初対面だったので、僕は、プリン
トを渡して経歴を説明し、自己紹介しました。
鎌倉時代から室町・戦国時代にかけての念仏道場をできるだけ文献に忠実に復活してみたい。
僕は、そのように言い、文献としては、教行信証・五会法事讃略抄・至道抄・蓮如上人聞き書き
を挙げました。
念仏道場は聖教拝読から始めました。かつて、人々は篤志家の一間に集合し、文字を読める者
が、宗祖あるいは蓮如上人からの手紙を代読したことでしょう。あるいは、文字を読める者がリ
ードしながら阿弥陀経・正信偈・和讃などを読んだのだろうと思います。一番最初の時には、聖
徳太子和讃を読みました。親鸞の時代の念仏道場の初期の精神を、源流に戻って体験したいと考
え、念仏道場は、関東の太子堂で行われたという予想を立てたからです。また、阿弥陀経和讃を
読みました。比較的短いと言うことと、念仏道場の経典上の根拠は、阿弥陀経にあると考えたか
らです。
一度の称名は三十分間行いました。仏壇用の蝋燭が燃え尽きるのに約三十分、線香が燃え尽き
るのに45分かかります。この時間は、かつての先人達が仏道修行の最小の時間単位として考え
た長さだろうと考えます。線香の燃焼時間、あるいは蝋燭の燃焼時間をいつ統一したか、それは
分かりませんが、恐らく先人達の称名念仏の最小単位もおそらくそのようなものだろうと思いま
す。 (つづく)
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人_____,,)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
ノ|/ ∴ ノ 3 ノ、
/ \_____.ノ ヽ
/ ,ィ -っ、 ヽ
| / 、__ う 人 ・ ,.y i
| /  ̄ | |
 ̄T ̄ x 9 /
| ヽ、_ _,ノ 彡イ
| (U) |
453 :
神も仏も名無しさん:2008/04/29(火) 20:15:02 ID:rJGepC9d
親鸞聖人 蓮如聖人
阿弥陀如来様 ますます御開運がありますように
454 :
神も仏も名無しさん:2008/04/30(水) 04:19:27 ID:6gQwOkDy
昔お寺に行ったとき、「きーりょーむーりょーじゅーにょーらいかーわーむーかしーぎーこー」で全てが言い尽くされると聞いた記憶があります
どういう意味ですか?
(漢字分からないし、間違ってるかもしれません。ごめんなさい)
>454
> 昔お寺に行ったとき、「きーりょーむーりょーじゅーにょーらいかーわーむーかしーぎーこー」
で全てが言い尽くされると聞いた記憶があります
> どういう意味ですか?
帰命無量寿如来(きーみょうーむーりょうーじゅーにょーらーいー)
南無不可思議光(なーむーふーかーしーぎーこー)
「お寺に行ったとき、 〜 聞いた」。
そのお寺さんに聞きに行くといいと思いますよ。そこのお寺さんには、そこのお寺さんの話の文
脈があるでしょう。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
( )
|ミ/ー――◎―◎-)
(6 (_ _) )
|/ ∴ ノ 3 ノ
_ \________ノ、,
_,、、-‐'´ l `.: 、_、. '´ .l ~`'‐ 、
,、 '´ `' -、
,' ヽ ,__.. ゙'.、
i ` - ‐' ~ }
l 、 i
゙、 ヽ; / /
゙, Y ヽ/ '. /
゙, ," l '、 /
゙, .i .l . /
',. {. :| i /
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,、 '´ ', '、 ;:: ノ /
,イ .i ` 、 ,ノ'\.. ,、 ゙ /
/:::゙, i `i'‐---‐''" ,:アツ''''"~ /
/:::::::\ i l : ; ;、.イ /: : ./
457 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/01(木) 12:12:39 ID:YPd2OUxZ
聖教拝読の時は、節を付けなかった。なるべく原点に戻ろうという考えだった。原点というの
は、通常、ほとんど飾りがない。本質だけをわしづかみにする。装飾を排するという意味で節は
いらないと思っていたが、果たしてそれでよかったかどうか。一抹の疑問もある。
宗祖の実弟は尋有僧都と仰る。僧都といえば、源信僧都と同格で、天台宗の中では法然上人よ
り上位に立つ方だ。帰洛後の宗祖は、この尋有僧都の僧坊に寄宿していた。尋有僧都は、天台声
明の正統な伝承者で、『魚山声明相承血脈譜』という、師子相伝の声明の系図の中に載っている
という。大原には『引声念仏相承血脈譜』という系図もあるという。引声念仏とは、『阿弥陀経
』の一字一字に長大な旋律を付けて唱えられる声明曲で、天台では、声明に相当熟練した者に伝
授される声明曲だそうだ。その血脈譜の中に、「善信・本願寺開基」という名があるという。(
http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/34731171.html)
親鸞は、多数の和讃を残している。念仏道場で一度は親鸞の原点に戻ろうとするなら、やはり
声明として、節もきちんと付けて拝読すべきだったのかも知れない。装飾は排するという考えは
重要だと思うが、それが全てでは無いかも知れない。
称名念仏では五会念仏を称えた。座禅して称えるということに抵抗を示す人はいなかった。女
性には予めスカートではなく、ズボンをはいてくることをお願いしていた。
結跏趺坐又は半跏趺坐を原則とした。女性は、結跏趺坐や半跏趺坐にこだわらず、正座でもい
いだろう。足が曲がりにくければ、胡座でも、椅子座でもいいと思う。
臨済・曹洞などで使用している坐蒲の代わりに座布団を二枚重ねした。坐蒲とは、禅僧が坐禅
の時に使うクッションだ。親鸞の時代、はたして坐蒲を使用していたかどうかは疑問が残る。現
代の禅堂では、常識のように坐蒲を使用しているが、鎌倉時代には坐蒲は無かったという話を聞
いたことがある。事実、鎌倉の大仏も平等院の阿弥陀像も、坐蒲を使用していない。しかし、こ
れがあると無いとでは体の負担が大きく違う。これは、現代の禅寺の作法に従った。
458 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/01(木) 12:13:12 ID:YPd2OUxZ
警策は使用しない。警策は、禅寺で修行中、修行僧の目を覚まさせるために使用する肩叩き棒
だ。五会念仏では声を出すことからこれが眠気を払う。従って警策は必要がないと考える。ただ
し、座禅の時の姿勢をチェックする人がいてもいいかも知れない。
自分でいろんな問題点を抱えながら五会念仏を始めると、いろいろなことが起きる。例えば、
問題がどうでもよくなって、あれほど考えていた問題がすぐに消えてしまう場合がある。消えて
しまえばそれでいい。顕在意識では重大な問題だと思っていたが、自分にとって大きな問題では
なかったと気づかされた証拠である。
大きな問題を抱えて称えだすと、自分の声がうるさくて邪魔になることがある。そんな場合に
は、敢えて声を出す必要もない。黙って座禅の姿勢で坐っていればいい。こうすると、様々な雑
念が生まれてくる。雑念が生まれてくることは、人間の生理として自然なことだ。しかし、生ま
れた雑念を意識的に追いかけるようなことは止めた方がいい。雑念を追うと妄想が膨らむ。オリ
エンテーションの時には、二心は追わないでほしいということだけは言った。二心は、五会念仏
で意識的に声を出すと消えていく。
改邪鈔は言う。「まったく聖人の仰せとして、音曲を定めて称名せよという御沙汰なし」。こ
れを根拠に五会念仏を批判する人がいる。インターネットを検索すると、五会念仏が声明と関連
して記載してある。五会念仏は声明ではない。音曲ではない。五会念仏は真の禅門であり、これ
は如来禅である(五会法事讃略抄)。如来禅は音曲ではない。如来禅は音色を作曲することでは
ない。これは、達磨大師の禅を継承した法照禅師が、唐の時代に提唱し、円仁大師が招来した称
名法である。親鸞が提唱した念仏三昧法である。呼吸の出入りに合わせれば、誰でも一気に禅定
に入る。これを声明の一つと主張することは、宗祖の考えに反し、真宗の念仏三昧の本質を破壊
する行為に等しいだろう。
459 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/01(木) 12:13:52 ID:YPd2OUxZ
五会念仏は、5回の念仏を1サイクルとし、30分では約60サイクル称えた。回りの外の人
の称名念仏の声も聞きながら、それに合わせながら自分も称える。ここに全員の、無意識の共同
作業が行われ、心が通い合う。
存覚は至道抄で言う。「観念法門には般舟経」によりて入道場念佛三昧の法をあかせり。この
ゆへに穢土をもて淨土に准じ、私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛をつとむ
る會座とするなり。」
善導の観念法門では、般舟経に基づき、道場に入って念仏三昧を実践する法を明にしている。
善導の教えに基づき、淨土に準じた形を穢土に形成し、個人の家を極楽浄土の道場になぞらえ、
本尊を安置し、極楽浄土の道場として称名念仏を称える会合を行う。このとき、四百年ぶりに今
生に極楽浄土が出現したのだと僕は思っている。
460 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/01(木) 12:38:03 ID:YPd2OUxZ
「五会法事讃略抄」について、僕が書いた記事をそのままコピーペース
トして自分のホームページに使用している人がいる。
2ちゃんねるの中でのコピペは覚悟の上だが、それ以外の場所でコピーさ
れることは、嬉しいものではない。自分の分身が人質に取られている気分で
ある。
インターネットでは、著作権をがみがみ言ってもしょうがないのかもしれない
が、文章をホームページで引用するなら、事前に連絡してほしいものだ。僕は、
メールアドレスを公開している。連絡あれば、僕は敢えて拒否することもしない
だろう。その代わり引用元をきちんと示して欲しい。
無断で引用するだけではなく、どうも僕の主張を曲解して自分の主張を書い
ているようだ。
「宗祖 親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、ご本尊 南無阿弥陀仏 を念じさせていただ
き、仏のおはからいのまま行に仕え、信を崇めさせていただきます。」と言いな
がら、曽我量深、安田理深を引用している。
宗祖 親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、ご本尊 南無阿弥陀仏 を念じさせていただい
ていると格好いいことを言うなら、現代社会の最低の常識は守ってほしいものだ。
曽我先生は立派だ、安田先生は立派だと言っているどこのだれとも分からない
人に、遠慮会釈無く自説の踏み台にされるのは、気持ちのいいものではい。
○
O
o と
。 ,. -ー冖'⌒'ー-、 思
,ノ \ う
/ ,r‐へへく⌒'¬、 ヽ キ
{ノ へ.._、 ,,/~` 〉 } ,r=-、 モ
/プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く /,ミ=/ ヲ
ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐' リ,イ} 〃 / タ
/ _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ 〃 / で
,/ └' ノ \ こ¨` ノ{ー--、〃__/ あ
人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\ っ
. / |/ |::::::|、 〃 /:::::/ ヽ た
/ | |::::::|\、_________/' /:::::/〃
462 :
神も仏も名無しさん:2008/05/02(金) 22:28:24 ID:eNL1EZIm
お久しぶりです。
長野から念仏研修会に参加させて頂いた在家の者です。
五会念仏、続けております!
発声と呼吸法がミソですね。
勤行も大谷派のものに変えました。
26日、長野へ聖火リレーが参りましたが
私は善光寺の追悼集会に参列
その後駅までチベット旗を手に行進いたしました。
またの研修会、楽しみにしております。
463 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2008/05/02(金) 23:17:06 ID:IqkZNwDW
。ρ。
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mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>462 五会念仏オナニー続けてくれてありがとう。
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| フリーチベットの次はフリーセックスだよ。
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
464 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 05:47:46 ID:8i6PiAym
渡海 難様へ。
はじめて書き込みさせて頂きます。
突然の書き込みが、レスの流れを絶つようで大変恐縮ですが、相談にのって頂けませんでしょうか。
私には親鸞会に入会している友人がいます。信心決定を目指して富山に通い、4年になるみたいです。
彼は実家暮しで月曜から金曜までアルバイトをしています。アルバイトで稼いだお金は、ほぼ全て親鸞会に布施しています。そして毎週土日に富山に行くという生活をしています。今までに何百万という大金を布施しています。
なんとなく怪しく感じ、私なりに親鸞会について又高森氏について調べてみました。親鸞会に否定的な意見もありましたが、同時に肯定的な意見もあり、正直私には結論が出せませんでした。
しかし、やはり何かおかしいのではないのか、という印象が強いです。なにより、布施が大事とは言っても、お金がかかりすぎているように思います。
そこで、ここ2ヶ月間、私なりに調べた親鸞会と高森氏の矛盾や問題点を指摘しながら説得を重ねました。仏教や親鸞や釈迦について勉強するのは賛成だが、親鸞会はやめた方が良いのではないのか、と。
465 :
464:2008/05/03(土) 05:53:20 ID:8i6PiAym
続きです…。
しかし全く聴き入れてはもらえず、仮に高森氏が人を危めるような事があろうと逮捕されるような事があろうと高森氏を信じている、との事でした。
君はこのままでは地獄行きになるよ、とも言われました。
もうこれ以上説得しても無理だと考えるようになりました。なんとか彼を説得する方法はないのでしょうか?
渡海 難様が考える、彼を説得出来るだけの、親鸞会、高森氏の問題点を教えて頂けないでしょうか。
彼には基本的に、論理や理屈が通じず、高森氏が正しいのは絶対だ、というような類の主張をします。
一見相手の論理が正しく見えても、仏教が正しいのは絶対なのだから、その論理は実は間違っている、という感じです。
私は、仏教が間違ってるとは言ってないよ、高森氏に問題があると感じるんだよ、とも主張しましたが、高森氏も絶対だと言います。
冒頭書きましたように、突然このような書き込みをしまして恐縮ですが、お時間ある時で構いませんので、教えて頂ければうれしいです。
なお、これは携帯から書き込んでいますので、改行等見にくい箇所があると思います。その際はご容赦下さい。
失礼致します。
466 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2008/05/03(土) 10:18:49 ID:Vo3BHW+I
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mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>464-465 親鸞会?。そんなの知(ん)らんかい。
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| そんなことより、僕と一緒に五会オナニーしようよ。
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄) 友達も誘って僕のところへおいで。
(__/
467 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2008/05/03(土) 10:21:34 ID:Vo3BHW+I
。ρ。
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mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) ゴールデンウィークにつき数日間カキコ不能
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| と言いながらどこかでカキコしてます。
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄) だって渡海難は2ちゃんねる中毒なんだもん。
(__/
468 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/03(土) 10:23:53 ID:56mccbYh
>>462 こんにちは。
>長野から念仏研修会に参加させて頂いた在家の者です。
その節は、長野は季節外れの大雪の中、午前中からご参加ありがとうございました。
>五会念仏、続けております!
そうですか。それは何より嬉しいたよりです。
>発声と呼吸法がミソですね
全くそうですね。しかも、五会念仏は呼吸法とぴたりと合致する。
あれは先人が経験の中から見つけ出した紛れもない大変深い知恵だと感心しています。
> 勤行も大谷派のものに変えました。 なるほど。そうでしたか。
>チベット旗を手に行進いたしました。 なるほど。そうでしたか。
469 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/03(土) 10:24:41 ID:56mccbYh
>またの研修会、楽しみにしております。
そうですね。近いうちに、先だってのお寺で、多分、また呼んでくれるでしょう。
例のお寺では、僕を呼んでくれたのは二回だけど、その外にも五会念仏称名会は時々やってい
るそうです。
プログラムは極めて単純ですから、真剣に信心を求める人々の中では、今後は、全国でも復活
していくと思います。そう言う意味で、僕は非常に楽しみにしています。
北陸地方に、親鸞聖人が一泊しただけでその後、数百年にわたって浄土真宗のお寺として今日
に続いているお寺があるそうです。一泊の中で何を伝えたのか。多分、この五会念仏なんだろう
と思っています。親鸞が一泊しただけの時間で、そこのご亭主が、お釈迦様や弘法大師などが開
いたような凄い悟りなどを開けるわけはない。難しい理屈抜きで、おそらく貴方のように「おお
これいいじゃんか。おもしろいじゃんか」と、ポンと膝を叩き、胸の支えが下り、それ以後、念
仏が絶えなくなったということだろうと思います。
僕は他人に対し「お前には信心などはない」と冗談めいて毒づくこともありますが、基本的に
は、相手の信心の見定めなどはできる資格はない。その能力もない。でも、「五会念仏を続けて
います」と言う貴方の言葉を親鸞聖人が聞けば、恐らくにっこりすることでしょう。拈華微笑。
親鸞聖人のそんな顔が、今、浮かんできました。
470 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/03(土) 11:14:12 ID:56mccbYh
>>464 >今までに何百万という大金を布施しています。 ウーム。大分、深刻ですね。
>親鸞会はやめた方が良いのではないのか、と。 全くそうですね。
>なんとか彼を説得する方法はないのでしょうか? ウーム。
>彼を説得出来るだけの、親鸞会、高森氏の問題点を教えて頂けないでしょうか。
親鸞会の問題点の指摘だけなら決して難しいことではない。貴方もご指摘のように、莫大な布
施を吸い取るなどというのは、まさにその典型ですよね。でも「説得できる」という条件が付く
と、頭を抱えてしまう。嵌り込んだ人は、理屈がほとんど通らない世界に渡っている。
>なにより、布施が大事とは言っても、お金がかかりすぎているように思います。
まさに、仰るとおりです。人には信教の自由があるから、何を信じるのもいい。それに伴って
信者に布施を求め、常識的範囲でそれに応じるというのであれば、何も問題はない。しかし、人
生が破壊されるような非常識な布施を求められ、信者がそれを断れない心理になっていれば、こ
れは別の問題だ。しかし、この解決は容易なことではない。
471 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/03(土) 11:17:08 ID:56mccbYh
その方は、インターネットは見ない方なんでしょうか。2ちゃんねるを含め、アンチ親鸞会系
のインターネットのホームページは、脱会運動にかなりインパクトがあるようです。
親鸞会では信者にインターネットを見ないように指導しているそうですから、確かにその効果
は限定的であることは事実でしょう。しかし、インターネットを見ない人には、インターネット
の一部の記事をプリントして相手に渡すというのも、一つの方法でしょう。
決め手になるという保証はありませんが、高森氏の盗作問題を扱っている記事は、脱会運動で
インパクトがあるようです。
●宗教法人浄土真宗親鸞会 被害家族の会 (
http://homepage2.nifty.com/nonsect/)とは、コンタク
トをとったことはありますか?
このURLは、約10年間、一貫して使用されています。親鸞会批判の声は、ペンネーム「デ
カルト」さんの、「カルト被害者の会」「ハトの会」のホームページ・掲示板が事実上の原点だ
ろうと思っています。その後、「イーグルヘッド」・「2ちゃんねる」と続いていきました。ペ
ンネーム「ノンセクト」さんは、「カルト被害者の会」「ハトの会」のころからのアンチ親鸞会
の論客の一人です。僕は、ずっと注目してきました。
今、ノンセクトさんは「カルト被害者の会」にどういう形で参加されているのか、よく分かり
ませんが、被害家族の会は大きく充実してきていると思います。最初はメールか何かで接触する
のもいいでしょう。法律的なことは、弁護士もいるようです。
机上の理屈だけであればいくらでも発言できますが、脱会となると、机上の理屈では手に負え
ません。万能薬はどこにもないということは覚悟した上で、しかし、どこかに解決のかぎはある
はずです。希望を捨てないで、最初はインターネットから始めて相談先を探すのもいいでしょう。
>>464さんへ
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。
▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)
※以下の文を10回暗誦して反省してください。
荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
∞〜プーン 〜
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ 〜 プゥーン
( 人____) 〜
〜∞ |ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
プーン (6 (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
|/ ∴ ノ 3 ノ \_________
\_____ノ,, ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
\ |  ̄ ̄ ̄ | プーン〜∞
⊂|______|
|l_l i l_l |
| ┬ |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏(五会念仏)
そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者
渡海難のカキコパターン
1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
もう渡海難の話題はうんざりだろうけど、まだまだ出現するかもしれないので、
特定するためプロファイリングしてみますね。
渡海 難 とはこんな人物
●年齢は60歳くらい
●浄土真宗、真宗の僧侶、親鸞会に深く怨みを持っている
●来世を否定して、現世を肯定
●阿弥陀仏は架空の存在と主張
●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと
「十劫安心」まがいのことを言う
●カウンセリング、自律訓練法など、いろいろな事を経験したらしい
●正規の宗教教育は受けておらず、すべて独学のようだ
●座禅して念仏せよと主張するが、その目的は不明
ココロが癒されて身体に良いのかな?
477 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 17:57:37 ID:8i6PiAym
渡海 難様へ。
早速の、また丁寧なレス、誠にありがとうございました。実は、私はパソコンを持っておりません。先程の書き込みを携帯で行いましたのは、その為です。
しかし、渡海 難様が言われるようなインターネット上の高森氏の問題点につきましては、パケット定額制の携帯を使ってアドレスを調べ、彼のパソコンに送るという方法で今まで行ってきました。
おそらく、ネット上に存在する親鸞会と高森氏に関する問題点の殆どを彼に送っています。
又、携帯でも見れるようにと思い、こちらで要点をまとめてメールにして送ったりもしました。しかしながら、まるで効果がありません。
盗作の箇所についても、比較出来るようにまとめて送りましたが、それは盗作ではなくて引用だ、と彼は主張します。
御本尊問題、高森氏自身の信心決定にいたる過程や贅沢な生活、マインドコントロールの疑い、集金システムの構築、親鸞会内に信心決定した信者が殆どいない、などなど、その他の問題点についても指摘しましたが、効果はありませんでした。
とにかく終始、ああ言えばこう言う、という感じの反応です。私としては屁理屈にしか聞こえないのですが、彼は自信を持っているようです。
478 :
477:2008/05/03(土) 18:00:30 ID:8i6PiAym
…続きです。
もちろん、どんな宗教を信仰しようが、自分のお金や財産を誰に使おうが、その個人の自由なのは承知しています。
でも私は思うのです。遠い将来、彼が莫大なお金と時間を間違った事の為に消費してしまったと、後悔する日が来るのではないかと。
彼とは中学時代からの付き合いです。出来る事なら早く気付いて欲しいと願っています。
以上、長々と読みづらい文章を書いてまいりましたが、もし何かアドバイスやヒントのような事、またなにより、高森氏の致命的な問題点等ありましたら、教えて下さればうれしいです。
彼は、親鸞証人の教えを100%過不足なく現代に伝えて下さっているのが高森氏であると、よく主張します。
ですので、親鸞証人と高森氏の考えと行動の違いを渡海 難様に教えて頂き、それを突破口に出来ないかと考えております。
渡海 難様がお忙しいかも知れないのは、重々承知しておりますので、お時間ある時で全くかまいません。
それでは失礼します。丁寧なレス本当にありがとうございました。
479 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 18:11:42 ID:8i6PiAym
>>472 渡海 難様を批判することが、悪い事とは思いません。しかし、あなたの様な批判の仕方は、良くないと思います。
おそらく、あなたにはあなたの考えがあるのだと思います。であれば、なおさら正しく批判するべきだと思います。
あなたが行ったこれらの批判が、逆にあなたの価値をおとしめているように感じます。
あなた自身の為にも、正しい批判をして、有意義なスレにして欲しいと願います。批判自体は悪いものではないと思うからです。
渡海 難
↓
彡川三三三ミ
川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
川川::::::::ー◎-◎-)
川(6|:::::::: ( 。。))
._川川;;;::∴ ノ 3 ノ 彡川三三三ミ
/;;;:::::::::::::::\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ . 川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
/:::: /:::::::::::: |::::| 川川::::::::ー◎-◎-)
(:::::::: (ミ: ・ ノ:::・/:::| 川(6|:::::::: ( 。。)) <ああ渡海 難様ぁ〜
\::::: \::::::: (::: | ,.:':'゙'゙'゙:゙'゙':';., 川川;;;::∴ ノ 3 ノ
/:::\::::: \::: ヽ| r゙ ,.: :;;;:: : : : :; \_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ
/:::: \::::: \::: ヽ ) | : ::::~';::--ー'ー-----ーー;;:'゙ .: :` ‐- 、 |
|::: \::  ̄ ̄⊇) ,i ::::::::::::::::::::::::::::::: ::: :ヾ i
|::::::: \;;;;;;;;;;;(_r' ::::::::::::::::: : : :::::: ::::: ::::. . / ←渡海教信者ID:8i6PiAym
\:::::::::: ミ(;;; );; ) | :::::::::: : : : : ::: :: :: イ
\:::::::::::: ) ) i : : ::::::::::: : : ::::::: : |
):::::: / / | ,.;イ-- ., ,... -' i
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(;;;;;;;;;;;__っ)))つ)) r':: イ:::::i゙ | | i |
|:: | ヽ '-., ヽ 〈 ヽ ヽ.,
i, , '-, ゙'ー'ー' ヽ、`,ー、 `'ー'ー'
481 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 17:30:47 ID:WHucgwqT
お前ら、本当にくだらないな
くだらなすぎて、涙が出てきそうだよ
せめて「歎異抄」を読んで、出直して来い
何をしたところで、所詮人間なんて煩悩まみれの愚か者に過ぎないから
浅智恵を働かせて、ばかばかしい論争をするようなことは止め
ひたすら阿弥陀仏にすがって念仏を唱えろってこと
真実はその一点しかない
クソスレたてるなよ 終了
482 :
神も仏も名無しさん:2008/05/05(月) 22:19:15 ID:hncItJh8
>>481 歎異抄?くだらないな
くだらなすぎて、涙が出てきそうだよ
せめて「教行信証」を読んで、出直して来い
>>念仏を唱えろってこと
これはそのとおりだな
483 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2008/05/05(月) 22:33:58 ID:FfxclYh4
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>481-482 おまいら坊さんか?。本当にくだらないな。
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| くだらなすぎて、涙とザーメンが出てきそうだよ。
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄) 「歎異抄」「教行信証」を読む前に、2人とも馬のションベンで顔洗って出直して来い。
(__/
484 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/08(木) 14:08:18 ID:QryzDHvn
>459
念仏三昧(五会念仏)のとき、携行している人は数珠を手にしてもらった。持つ手の形は、鎌倉
の大仏、あるいは平等院の阿弥陀仏の組み手に習った。いずれも、数珠を持っている手である。お
そらく、鎌倉の大仏も平等院の阿弥陀仏も、五会念仏を行っている姿勢だろうと思う。先人達は、
仏像から、五会念仏の方法を教わったんだろうと思う。
「もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり、と。(行の巻)」念
仏のビギナーは称える念仏の数を数えていくのもいいでしょう。聖教に書いてある。親鸞のこの教
えに習い、念仏五回を一サイクルとし、一サイクル称えたら数珠玉を一つ一つ移動していった。こ
うすると手の雑念が消えていく。珠の数が二十個の場合、ほぼ十分で一周する
座禅の時の目は開いても閉じてもいいと言った。鎌倉の大仏は閉眼している。平等院の阿弥陀仏
は開眼している。僕は、禅寺では眼を開けるのがいいと言われた。口から念仏の声を発しないとき
には開眼の方がいいだろう。しかし、念仏の声を出すときには、閉眼でも開眼でもいい思う。
五会念仏から座談に移るにあたって、ワンポイントを置いた。深い禅定の中からいきなり覚醒の
世界に移ると体が疲れる。禅寺でも、長い坐禅の後、経行(きんひん)といういわば歩行禅を行う。
念仏もこれに習うといい。いわば歩行念仏を行う。経行の例にならって、足を踏み出すたびに南無
阿弥陀仏と称えながら、ゆっくり室内を歩行した。
恵信尼公の手紙には、親鸞の息子の栗沢信蓮房が不断念仏を行いに山寺に入ったという記述があ
る。不断念仏とは、堂内の阿弥陀仏像の周囲を、口に阿弥陀仏の名をとなえ、阿弥陀仏を念じなが
ら九十日の間歩き回る行である。いわば歩行念仏である。歩行念仏は、親鸞も行っていたと思うの
で、九十日間ではなく、長時間座ったときの疲れを取る意味で、五会念仏の最後に部屋の中を一周
した。
485 :
神も仏も名無しさん:2008/05/08(木) 21:29:51 ID:+XrneOmn
長野のEです。
念仏研修のときは左回りに歩きましたが
後から思うに、右遶、右回りが正しいのではと。
486 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/11(日) 13:03:18 ID:0Kp2ZmXg
>485
>後から思うに、右遶、右回りが正しいのではと。
そうかも知れませんね。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| そうかも知れませんね。
\___ ______________
V
___ _ / ̄ ̄ ̄ ̄\
r'⌒';=〔X〕=:、 / ̄ ̄ ̄ ̄\ (((((^)))))))) .|
川_ノ从仆从)) ( 人____) | = \ミ|
| |_」O Oy |ミ/ ー◎-◎-) [¬]-[¬]一 6)
| .人ひ − ノ| (6 (_ _) ) < 「、 > | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`⌒ニ| 匸⌒' _| ∴ ノ 3 ノ .| (一) ||| ./ < 後から思うに、右遶、右回りが正しいのではと。
f´\〔X〕フ、 (__/\_____ノ \___/\ \_________
!__j_》、___,》_) / (__)) )) (( ((\|/|⊃
〔>ヽヽっ./ /〕 []_ | | 渡海 難ヽ .|長野の|\/
ム/i\_)_∧j |[] | |______) | E|ノ
/\i i∧ \_(___)三三三[□]三) .(三□三三)
/:::/::`ー一ヘ::::ヽ /(_)\:::::::::::::::::::::::/ |::::::|:::::::::::|
く::/:::/:::l::::lヘ:::ゝ::::ゝ| Sofmap|::::::::/:::::::/ .|::::::|:::::::::::|
`´^ト‐iー'i_´ー ^´ (_____);;;;;/;;;;;;;/ |;;;;;;|;;;;;;;;;;|
f`f⌒if⌒i (___|)_|) (|__(|__)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
488 :
神も仏も名無しさん:2008/05/12(月) 11:10:31 ID:S/s7zt2G
念仏研修会 第3回目
6月14日 午後 念仏と座談
時間割の詳細は未定です。
場所 愛知県 (名古屋地区)
五会法事讃略抄(親鸞真筆)・至道抄(存覚著)・御文(蓮如著)などを骨格ベースに、
鎌倉・室町期の真宗の念仏道場のスタイルを復活させ、座禅しながら五会念仏(念仏
三昧)を勤修します。
問い合わせ先
[email protected] 渡海 難
>>489 マルチポスト荒らしはやめろ
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ パー───ン / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
< (☆) 〉 / \
\ =======,/ (__i|__i|__リ ; |
/~`ー=、=,=ィ. ( ;; ∪ |
/ (●)ヾ'(●) \ ,◎─ 〃⌒) |
| "⌒(__人__)⌒" | _'そ (o,;(´ ´_'ノ ,; ′;| ´ ; '
. \ `ヾ┬ノ´ ,/〔ニ二【@】 ゝ u. ゞ ,●";`‘,`・ ;
/⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y ` `i ーーーーrーゝ
ヾ 、__゙__il、_,ジ,イ ヾ、__ ____-‐ー‐\
| o| = |_ノ /´ ̄ ̄ ヽ
. | | | / ゙ヽ 渡海 難 |
. | o| .| / | |
| === | ==| / | |
念仏研修では、歩行念仏で室内を一周した後、念仏していた元の場所に全員が戻った。
念仏中、帰宅以外は原則として退席禁止とした。座談の時は、トイレなどに行くことは自由と
し、茶菓子なども出してもらった。姿勢も、互いに自由な姿勢を取ろうと言った。
座談では、できれば仏教教義の話はしない。その瞬間、その瞬間に自分の中で湧いてきたこと、
それを語ってほしい。オリエンテーションの時にはそう話しておいた。自分に起きたこと、自分
に感じられたもの、それに気づいていこう。座談は、自分の気づきに気づくというのが最大の目
的である。僕は、世話人という名称で座談に参加した。世話人の役割は、鏡になることである。
念仏するだけで自分の気づきに気づければ一番いい。仮に念仏がなくても、日常の中で様々に
気づければ、それに越したことはない。しかし、人生の中で身動きができなくなるというのは、
日常の生活の中で必要なことに自分で気づけなくなることだ。要するに、何をしていいのか、何
をしていけないのかが分からない。これが人生の危機である。念仏三昧は、その大事な気づきを
促進してくる。
念仏三昧(五会念仏)だけで気づけるようになればそれは理想だろう。しかし、気づけても、
気づいたということを自分で気づけないと、人はそれをすぐに忘れていってしまう。忘れてもい
いような気づきであれば問題はないが、自分の人生にとって、重大な気づきがそのまま記憶から
流れてしまえば、残念なことである。
494 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/05/17(土) 14:03:20 ID:Bwlt0J5U
気づきは、他人に話すことで自覚されてくることが多い。「自分はこんなことを感じたんだ」
ということ、これを他人に話ができると、それは、自分の自覚となって定着する。話す相手がいな
ければ、忘れてしまうことがおおい。
鏡とは聞き役である。自分は何を気づいたのか。何を感じたのか。参加者は鏡になってくれる
人に向かって話をする。そうすると、自分の姿が見えてくる。自分はこんなことを思っていた。
感じていた。それに気づく。鏡は、鏡の前の形状を相手に映すが、鏡の前から移動すると、それ
までの映像を一瞬に消してしまう。つまり、後に残さない。鏡はそういう役割をする。
鏡役と言っても、他の参加者と本質的に何かが違うと言うことではない。座談では、お互いが
お互いの鏡になることが必要だ。鏡は論争をしない。鏡役が一人もいないところでは、話は平行
線で言い合うだけになる。結局、やかましいばかりの無駄話になり、疲労感だけがたまる。そん
な中で、鏡役が一人でもいると、話し手は気づきを気づくことができるようになる。これが大事なこ
となのだ。僕はそう思っている。
鏡役は固定的である必要はない。しかし、互いに言いたいことを言っているだけで、だれも鏡
役にならなくなったとき、自分はかならず鏡役を果たそうと心に決めている人が座談では必要な
のだ。世話人とはそういう役回りである。
(続く)
_,. -‐1 ,. - ‐:‐:‐:‐:‐- 、
_,. -‐:'´: : : : : | , :'´::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.丶
,.イ ,.-:'´: : : : : : : : : : : ! /::.::.::.;.ィ::; ヘ::.::.::.::.::.::.::.::.::.:\
/: ∨: : : : : : : : : : : : : : :l'/l:/::./ ,':/ i::.:ト、::.l、::.:!::.::.::.::.',
,. -:' : : : : : : : : : : : : : : : : : : : -┴-'.._l/ l:| i::| i::l::.::.::.::.::i
ー‐ァ: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :`ーァ l| l| l:|::.::.::.::.::|
/: : : : : : : : : :
>>1: : : : : : : : : : : : : : : :/ ー‐‐---、!ヘ::.::.::.::|
,': : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :/ ┬--、 }::.:/::.!
! : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ;.イj {辷リ ′/::/!::/
>>1 ここはテメエの日記帳じゃねえんだよ。
ノ: : : : : : : : : : : : : : : : : : :.:.:.:.:.. : :、/ ; /〃ノ:/
´. .:.:.:.:.:.:.:.: : : .:.: : : .:.:.:.. : : :.:.:.:.:.:.:__:.:.ヽ r―-, /-:'´::;′ チラシの裏にでも書いてろや。
`ー---;.:.:.:..:.:.:.:.:..:.:.:.:.:.:.:.:...:.:.:.:.:.:.:.V ̄`ヽ、 `ー‐' ィ;、:::∧:{
/:.:.:.:._:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|'´ヽ rく` ト、. -‐'´ | `:く `
厶-‐'´ |:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ト、:.:.:.| _,.-‐! \ __,,. -‐''´ }‐:、
_l;.ィ´ヽ:./ヽ:|'´ ,>‐'´: : く ∨ > \
_,r{`7  ̄{ ̄} ̄¨`‐く__ヽ_;,: -‐; :\ _,.-:'´: : : : : :>、
,.イ | 〉´ ̄ ̄ ̄:  ̄`ー‘v'´>‐_く : : : \___,,. -‐:'´: : :ト-、_;,.-'´ ヽ
r'l ! ,し′: : : : : : : : :}_ノ/ __,,.ヽ: : : : : : : : : : : : : : V l
,Jー'´: : : : : : : : : : :`辷'_,,、 '; : : ∧: : : : : :_; -'´ |
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