771 :
298:2008/02/21(木) 01:55:28 ID:MxMdHy2j
>>744 >いずれにせよ、もうどう読もうとも自力であることは間違いないので、開き直って
>そのまま読ませて頂こうと、苦心しています(この中に既に矛盾があるのですけどね!)
読んで他力の信をいただこうとするなら矛盾があるでしょうが、
他力を知らぬから、まずは自力を進むのだと、
それで矛盾はありません。
自力が往生の役に立たないからと言って、
自力に意味がないのではないのです。
自力の信が否定されるのは、それで満足すると、
他力信まで進めずに、止まってしまうからで、
自力で求めることは、大切です。
わかるまでは、自力で求めることが大切。
否定されるのは、自力であるのに、他力信を獲ているという態度です。
772 :
298:2008/02/21(木) 01:57:02 ID:MxMdHy2j
>>744 >つまり、あなた様は、獲信者から教わっていないということです。
>ですから、理解がずれるのです。
>まったくそのまま、お言葉を返してしまいます…
お聖教には、善知識の性質が書いてありますよ。
よくよく、お読みすることだと思います。
今の時代、全文検索もかけられます。
773 :
298:2008/02/21(木) 02:01:01 ID:MxMdHy2j
>>742 >貴方はよく「自分はこう信じている」という旨を言われますが、これが、
>広く妙好人といわれている方のお姿と、違うと思われませんか?
「広く妙好人といわれている方のお姿」に、あえて合わせようとしていない面が
あります。
それは、フリをするなら、学べばできることだから。
本当に求めている方は、違いがあるからこそ、逆に何かを感じる面があるのです。
これまでは、他力の救いそのものが語られることが多かった。
あるいは、信心の味わいが多かった。
それで、そういう話はたくさん聞いたけれども、
「では、どうやって信を獲たら?」という方の、助けにはあまりならなかった。
それでも、まわりの人に聞いてゆけば、
御同行もいたのです。
このスレでも、私は尋ねることを勧めていますが、
地域によっては、おそらく絶対数が少ないのが現状です。
昔でも、妙好人を遠くから尋ねた方々がいました。
そのような方々の一部は、信をいただいたはずです。
774 :
298:2008/02/21(木) 02:08:09 ID:MxMdHy2j
「たづねる」については、
>>89で引きましたが、再度引きます。
◎そもそも、当流において、その名ばかりをかけん輩も、
またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、
あひかまへて、今日よりして、
他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)
このように書いてありながら、否定する方が多いです。
御文様を読んでいるとのことでも、否定する方が多いです。
775 :
298:2008/02/21(木) 02:15:34 ID:MxMdHy2j
>>751 >そもそも、浄土真宗には、七祖以来、仏に帰依する心を授かることのほか、
>口伝口決などと称して他の見聞を加えることを嫌う
◎近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、
外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、
あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、
しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ(御文3-11)
この「相伝」とは、口伝ではないのでしょうか。
◎このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等、おのおの好
を慕ひ、路を尋ねて参集したまひけり(御伝鈔)
「口決」「面受」と出ています。
◎わたくしにいはく、源空聖人、勢至菩薩の化現として本師弥陀の教文を和国
に弘興しまします。親鸞上人、観世音菩薩の垂迹として、ともにおなじく無碍
光如来の智炬を本朝にかがやかさんために師弟となりて、口決相承しまします
こと、あきらかなり。仰ぐべし、たふとむべし(口伝鈔)
「口決相承」とあります。
◎かつは一流口伝の宗旨に依りて、かつは一分短慮の領解に就きて、
聊か以てこれを記す(六要鈔)
「口伝」と出ています。
776 :
298:2008/02/21(木) 02:18:30 ID:MxMdHy2j
>>751 ◎まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、
自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、
今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ(改邪鈔)
「今師御相承の口伝」とあります。
お聖教をあげても、無視し続ける方もいます。
有縁の方のために、あげました。
口伝について述べている箇所は、他にもあります。
みなさまご自身でお聖教を調べれば、わかることです。
南无阿彌陀佛
777 :
298:2008/02/21(木) 02:57:06 ID:MxMdHy2j
>>744 >「そのままじゃ」のそのままがわからずに苦しんだ経験が、おありではないのですか。
「そのまま」がわからない、ということは、あまりありませんでした。
「そのまま」は「そのまま」ですから、「なるほど」とわかる。
私の場合は、「この『そのまま』で、本当に良いのか?」のような疑問でした。
しかし、それは苦しみというよりは、気後れ、遠慮に近いでしょう。
あとは、「そのまま」について言えば、
「そのまま・・・なんだけれども、救われていないよ?」のような
感じの疑問です。
私が苦しんだのは、そもそも、私に苦しみがあったということ。
そして、「弥陀をたのむ」がわからなかったこと。
「他力、他力というけれど、何をやっても、自力じゃないか!」と
思ったこと。
他力を求めて何もしないよりも、修行した方がいいんじゃないかと
考えたりもしました。
「信決定ができない」ことが、苦しかったですね。
自分ではわからなかったことを、教わってわかり、
弥陀をたのんで、信決定した。
だから、私は感謝しています。
778 :
298:2008/02/21(木) 03:13:19 ID:MxMdHy2j
>>744 >仏法聞く耳のないのがこの機と教えていただきます。それをこそ、
>阿弥陀仏一仏が救ってくださる、だからこそ真宗が尊いのですよね?
>でも「仏法聞く耳ない」は、聞こうとしてみて初めてわかる体験です。
「聞こうとしてみて」は、ちょっと弱いと思います。
私にとっては、「聞いてみて」の方がわかりやすいです。
つまり、私には、次のような言い方のほうがわかりやすいです。
信をいただいてから、お聖教を読みますと、「なるほど、書いてあった」とわかる。
ここで、「聞く耳もない」「読めども読めずだった」とわかります。
私が繰り返し書く事も、多くの方に、幾度も否定されていますからね、
同じことです。
もし、誰かが気が変わって信をいただいて、
それから私の書き込みをみたら、「なるほど」とわかる箇所が、
かなりあると思います。
(私は、個人的な感想も書いていますから、そこはずれるでしょうけれども、
それでも、教えに関するところは、かなりの部分が「なるほど」とわかり、
「読めども読めていなかった」とわかるはずです。そのときには、
掟の意味もわかっていることでしょう。)
蓮師は、「掟が有る」と領解文にしっかりと書きました。
これは、やはり尋ねてほしかったからだと思います。
「掟がある」と書かずに、掟によって語られないなら、探しにくいと思います。
779 :
298:2008/02/21(木) 03:21:00 ID:MxMdHy2j
>>744 >真宗聖典で教えていただくこと、
>阿弥陀様のこころを、私の心で掬おうとせずに、私の心を
>そのなかにつけることができれば、もう言うことはないです。
「真宗聖典で教えていただくこと」については、よくわかりませんが、
下の二行につきましては、私が言う「弥陀をたのむ」ができれば、
実現します。
それが易行だから、真宗はすごいのです。
「言うことはない」というのが嘘でなければ、
大きな感慨もいただけるであろうと思います。
弥陀から、ひたすら逃げていた事もわかるでしょう。
南无阿彌陀佛
780 :
298:2008/02/21(木) 03:24:50 ID:MxMdHy2j
>>742 >どうしてこうなるのですか。
>「方法を善知識から聞くことができる」これは、自力ですよ。
それが自力なのも、その通りです。
方法を聞いただけでは、もちろん自力のままです。
方法を聞いて、実行しても、もちろん自力ではじまります。
しかし、他力に至り、自力に戻る。
他力そのものは、私たちには実行できません。
行者にとっては、非行です。
しかし、非行をどうやって為すのですか。
非行を自分ではやりようが無いでしょう。
ですから、非行に至る行があるのです。
781 :
298:2008/02/21(木) 03:52:21 ID:MxMdHy2j
他力と思うが自力であって、
自力と思うて他力知る。
ほんに尊い南無阿弥陀仏。
自力が他力の南無阿弥陀仏。
機法一体機が自力。
機法一体法が弥陀。
弥陀と自力に隙間無く、
自力が阿弥陀の法になる。
他力の弥陀に救われて、
自力戻れば弥陀といる。
南無と信ずる機となって、
阿弥陀の法に感謝する。
行者のすること何も無し。
尊い知識に御同行。
機法一体南無阿弥陀仏。
御恩報謝の南無阿弥陀仏。
782 :
298:2008/02/21(木) 03:57:00 ID:MxMdHy2j
自力すたれとがんばる自力。
すたるどころか疲れるばかり。
弥陀の救いは自力が他力。
他力本願真宗念仏。
783 :
298:2008/02/21(木) 04:07:11 ID:MxMdHy2j
>>713 ◎コノ名號イカナル亂想ノ中ニモ稱スヘシ。
稱スレハ、法藏菩薩ノ昔ノ願ニ、心ヲカケムトセサレトモ、
自然ニコレコソ本願ヨトオホユヘキハ、コノ名號ナリ。
シカレハ別ニ因位ノ本願ヲ緑セムトオモフヘキニアラス(法然聖人)
784 :
298:2008/02/21(木) 04:16:52 ID:MxMdHy2j
朝の方が、私が書いた御恩報謝の念仏の自力について、
疑問に思ったことも、わかるのです。
なぜなら、私は意識的に書いているからです。
なぜ意識的に書いているかと言えば、
単語がひとり歩きしているからと思うからです。
◎たゝ一念二念をとなふとも、自力の心ならん人は、自力の念佛とすへし。
千遍、萬遍をとなふとも、百日、千日、よるひるはけみつとむとも、
ひとへに願力をたのみ、他力をあふきたらん人の念佛は、
聲々念々しかしなから他力の念佛にてあるへし。
されは三心をおこしたる人の念佛は、日々夜々、時々剋々にとなふれとも、
しかしなから願力をあふき、他力をたのみたる心にてとなへゐたれは、
かけてもふれても、自力の念佛とはいふへからす(法然聖人)
「自力の念佛とはいふへからす」とありますが、
それでも意識的には、自力にて、一生懸命に称えているのです。
(もちろん、すべてがではありません。
習慣化しているかのように、自然と口からでてくることも、
またもちろんです。)
これを、「自力の念仏だから、むなしいと批難してはいけない」ということです。
朝の方は、自力だと批難しているのです。
他力をいただいている方のお念仏は、自分でとなえても、
他力の念仏なのです。
「他力のお念仏だから、自力ではとなえないのだ」とばかりに、
その実際は自力のお念仏を、ほんの少ししか称えない方のことを、
「それは違う」と言っていると思います。
785 :
298:2008/02/21(木) 04:31:55 ID:MxMdHy2j
少し長いですが、三心具足のお念仏について。
◎問ていはく、これ程にやすく往生せは、念佛するほとの人は、みな往生すへきに、
ねかふ物もおほく、念する物もおほき中に、往生する物のまれなるは、
なにのゆへとか思ひ候へき。
答ていはく、人の心はほかにあらはるゝ事なけれは、その邪正さためかたしといへとも、
經には三心を具して往生すと見へて候めり。この心を具せさるかゆへに、
念佛すれとも往生をえさる也。三心と申すは、一には至誠心、二には深心、
三には廻向發願心也。はしめに至誠心といふは眞實心也と釋するは、
内外とゝのほれる心也。何事をするにも、ま事しき心なくては成する事なし。
人なみなみの心をもちて、穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、
淨土のねかはしからぬをねかふ氣色をして、内外ととのほらぬをきらひて、
ま事の心さしをもて、穢土をもいとひ淨土をもねかへとおしふる也。
次に深心といふは佛の本願を信する心也。われは惡業煩惱の身なれとも、
ほとけの願力にて、かならす往生するなりといふ道理をきゝて、
ふかく信して、つゆちりはかりもうたかはぬ心也。人おほくさまたけんとして、
これをにくみ、これをさへきれとも、これによりて心のはたらかさるを、
ふかき信とは申也。次に迥向發願心といふは、わか修するところの行を迥向して、
極樂にむまれんとねかふ心也。わか行のちから、わか心のいみしくて往生すへしとはおもはす、
ほとけの願力のいみしくおはしますによりて、むまるへくもなき物もむまるへしと信して、
いのちおはらは佛かならすきたりてむかへ給へと思ふ心を、
金剛の一切の物にやふられさるかことく、この心をふかく信して、
臨終まても、とおりぬれは、十人は十人なからむまれ、百人は百人なからむまるゝ也。
されはこの心なき物は佛を念すれとも順次の往生をはとけす、
遠縁とはなるへし。この心のおこりたる事は、わか身にしるへし、人はしるへからす(法然聖人)
そしてさらに、一枚起請文によれば、
◎ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して
南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに篭り候ふなり
786 :
298:2008/02/21(木) 04:48:44 ID:MxMdHy2j
◎若シ心ヲトヽノヘ身ヲ愼テ、念佛シテ生ルトナラハ、ヤハ疾雨ノ如クハ生ルヘキ。
又カヽル願ナレハトテ、ワレトフテカヽリテ、ワロカレトニハアラス。
本願ノ手ヒロク不思議ニマシマス樣ヲ申斗ナリ。念佛往生ノ義ヲカタクフカク申サン人ヲハ、
ツヤツヤ本願ヲシラサル人ト心得ヘシ(法然聖人)
三心を説き、心をととのえなくて良いと説く。
矛盾しているようですが、これを会わせていただくべきであると思います。
心整えずして、本願念仏をすれば、自ずから三心を具す。
私は、そのように考えます。
南无阿彌陀佛
787 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 08:24:42 ID:1swj2Qx9
>>761 その善知識の皮を被って
間違った教え(例えば自力の念仏とか)を説く人が
、
出てきたらどうするんですか?
偽の善知識を防ぐために、
正しい知識をもった善知識を育成するわけです。
788 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 08:29:09 ID:1swj2Qx9
>>764 念仏往生には学問は不要。
しかし、そのことを明かすためには学問が必要。
教論を正しく解説できる学僧がいたからこそ、
学問がなくても往生できることがわかったのです。
789 :
はかりごと:2008/02/21(木) 08:40:20 ID:d1NUW5gf
298さん、自力他力を判別する主体が自力なのだから、
いくら判別しても自力ですよね。言うなれば、らっきょの皮剥きみたいなもの。
他力信を得たと言って憚らない人は、らっきょの皮をある程度まで剥いで、
ここで全てなし尽くした。南無阿弥陀仏と一体となった、
と自己満足しているだけなのではないかなあ。
どこまでいっても皮は皮。凡夫は死ぬまで嘘の皮ならば、
体験も善知識も当てにはならない。第一、それを認識している私自身が、
何といっても当てにならない張本人なのですから。
覚如上人は、本願寺中央集権を目指した人だから、
自分が法然・親鸞・如信と続く者、口伝血脈を主張するけれど、
もしこの血脈だけに限ると主張してしまったら、
弥陀の本願を凡夫の分際で、限定してしまうことになる。
298さんは、覚如さんの本願寺教団中心主義を裏付ける為に主張された血脈相承を
信心の条件と考えている故に、真実信心と言う何人たりとも介在できない仏心即ち信心を、
凡夫の境涯に引き落としてしまっているのではないかなあ。
自分の経験体験にすがるのを止めてみるといいんだろうけど、
凝り固まっている人には難しい相談かもね。
業繋に束縛された、各々大した差異もない凡夫の麁なる体験を
後生大事にする必要があるのかな?
摂取不捨の仏さまは、凡夫に注文されない。
注文しても答えられないと見て取った故の摂取不捨。
こうでなければいけない、ああでなければいけない、と
自分の経験になぞらえて、注文造って、壁こしらえて、
無碍の光明のお仕事を邪魔しているようにしか見えないんだよね。
摂取不捨の真言に言い訳は無用だよ。
南無阿弥陀仏
790 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 08:52:28 ID:IjNsaWGm
791 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 09:34:36 ID:dUwtItR7
そろそろこのスレ終わりだな
渡海難と298の長文オナニー合戦もそろそろ決着が
>>789 そうすると、真宗聖典を読むときには、そのまま全部真に受けるんじゃなくて、
要点を取捨選択しなきゃならないってことでしょうか。
793 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 10:14:50 ID:nIBM4E7J
>778
> 蓮師は、「掟が有る」と領解文にしっかりと書きました。
298さんが推薦している領解文の掟を読んでみよう。原文と僕の解釈を併記します。
領解文
諸々の雑行・雑修、自力の心をふり捨てて、一心に阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御
助け候えと頼み申して候。
極楽浄土往生のためには称名念仏以外はいらない。極楽浄土往生を目的とし、称名念仏以外の
様々なことをしようと思えば、これは愚かなことである。
極楽浄土往生を目的とし、称名念仏以外の様々なことを選択していこうとする心、我流で分別
判断するそのような自力の心、こういうものは振り捨てようではありませんか。 「阿弥陀如来、
今後の我等を待ち受ける予測を超える困難に対し、どうか援助をください」。そのような祈る思
いを抱き、念仏申す者を救わんというその本願を自分の水先案内、つまり頼みとし、拠り所とし
て念仏をお称えなされませ。
頼む一念のとき、往生一定・御助け治定と存知、この上の称名は、御恩報謝と喜びもうし候う。
阿弥陀仏の本願を頼みとし、つまり拠り所とし、本願をしっかりと我が水先案内として南無阿
弥陀仏と称えて行くんだ。これが大事なんだと分かれば、そう分かった瞬間、将来の極楽浄土往
生が確定的に定まる。本願を頼みとし、拠り所として称える念仏の意味が分かったとき、救いが
具体的に確定的に定まる。
予測を超える困難にあたっても必ず道が開けるだろう。将来の救いが確定する。そのように確
信しようじゃないか。そうすれば、その後は、さらに念仏を重ね、確定に対する御恩報謝の念仏
を称えていこうではありませんか。
794 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 10:16:22 ID:nIBM4E7J
自分の確信は実に粗末なものでしかない。恥ずかしくなるようなそのような信力、そのような
信力しか自分にはない。そのような信力でさえ御助けあり。かたじけない。その報謝をもって、
本願を頼みとし、本願を水先案内とし、死ぬまで念仏を称えていきましょう。(一帳目三通、趣旨挿入)
この御ことわり聴聞申し訳候こと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識の浅からざる
御勧化の御恩と、有り難く存知候う。
これだけの内容の道理をしっかりと聴聞したいと思います。これだけのことが分かれば、「あ
あ、御開山聖人が自分のライフワークとして、生涯を賭けて伝えようとしていたことはこのこと
だったのかと思い、そのご苦労を偲ぼうではありませんか。その後の代々の善知識達は、何を伝
えようとしてきたのか。まさに親鸞聖人のこの思いだったわけです。いま、それだけのことが分
からせてもらえた。これは、親鸞聖人を始めとする多くの先人達の実に深い働きであったと、そ
のように有り難く思いたいと思います。
この上は定め御おきて、一期を限り守り申すべく候う。
念仏申せ。念仏申せ。親鸞聖人がライフワークとして、生涯を賭けて伝えてくださった念仏申
せというこの掟、念仏申せというこの掟を、自分の座右の銘として、死ぬまで守り続け、念仏を
重ねていきたいとい思います。
>>784 >朝の方は、自力だと批難しているのです。
>「他力のお念仏だから、自力ではとなえないのだ」とばかりに、
>その実際は自力のお念仏を、ほんの少ししか称えない方のことを、
>「それは違う」と言っていると思います。
違います。他力のかたのお念仏を非難なんてしてません…
ただ、他力を得ていないのに他力を得たといい、その方法は「口伝」によってのみ
伝えられるのだからそれを聞かなければ信心頂けないぞ、と、
誤った導きを書き込むのはよろしくないのではないか、と言っています。
非難されていると感じられる、その姿こそ自力です。
信心頂いた方はみな、非難を徳と受け取られる。妙好人のことばをみるにあきらかです。
あなたは、人の意見を非難と受け取られる。哀しいです。
>>762 >秘事法門は、私たちだけが真実を伝えていると言う。
>大体、凡夫が真実を伝えられるわけがないのに、まことしやかに、
>あれこれと飾りをつけては人を欺く。人は胡散臭いのが実は大好きで、
>必ず救うと弥陀が誓ったことよりも、そっちの方が大好きなんです。
まさにこれと思います。
凡夫が信心を伝えられるわけがない(聞くほうも聞けるわけがないのですが)
まことしやかに、「保つ」ということが、どうしてもおかしい。
真宗の教えは、ひとりひとりが、阿弥陀仏から直接に信心を頂くのであり、
だからこそ他の宗教から際立って尊いのだと思います。
298さんは確かに何かの信心を誰かから得ておられるのでしょう。
でもそれは、真宗の信心ではないです。
>>795 真実を信心と言い換えてしまっていました。同じ意味と読んで頂ければ幸いです。
凡夫が真実を伝えられるわけがない、聞くほうも聞けるわけがない。
それでも、妙好人のかたの言葉からは、なにか太陽のように輝く力を感じます。
その人の身体を貫いて、包み照らすなにかの力というようなもの。
だからこそこういうスレもあるのでしょう。
298さんの書き込みは、私にとって残念ながら妙好人のおことばではないです。
でも、最後の最後、信心頂くと言うことについて(一番大事なところですが)異なるだけで、
その前の部分については、やはり真宗の道を歩む御同行のお姿と見えますので、
大切なご縁として、聞かせて頂きたいと思います。
797 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 10:37:04 ID:nIBM4E7J
>>775-776 > この「相伝」とは、口伝ではないのでしょうか。
そうでん【相伝】(広辞苑)
代々うけつぐこと。つたえつぐこと。「父子―」
くでん【口伝】(広辞苑)
口頭で伝えること。奥義などの秘密を口伝えに教え授けること。口授。また、それを記した書。
相伝≠口伝
> (御伝鈔) 「口決」「面受」と出ています。
>(口伝鈔) 「口決相承」とあります。
>(改邪鈔) 「今師御相承の口伝」とあります。
御伝鈔・口伝鈔・改邪鈔は覚如が書いたものだ。京都では鎌倉から上ってきた新興鎮西派と布
教戦線で劣勢に立ちながら戦い、関東の高田派の切り崩しを図って本願寺の独立を図った人だ。
教派主義・派閥主義が強い。覚如の書き物は、立場を考えて解釈する必要がある。
親鸞は弟子一人も持たず候(歎異抄)。覚如の思想は親鸞の考えと対立するところがある。
798 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 10:39:02 ID:/p5QSVHL
法然の口決面授の秘伝は、八百年の歳月を経て、現代の次第相承の善知識に伝わる。
次第相承の善知識から、相伝を受けずば、往生は叶わず。
次第相承の善知識から、相伝を受ければ、十人が十人、百人が百人、往生決定する!
一人の例外もない故に、
全国に数名といわれる善知識様を知らぬ他力門徒並びに他力僧侶、親鸞学徒の信心は、偽物である!
>>298 >そして、これらが、「なるほど」と領解できる救いがあるのです。
「なるほど」は、自力ではないですか。
おそらくですが、信後のかたは、「これこそわたしであった」と喜ぶのではないのですか。
言葉一つ、言い方一つで、信心を装うことはいくらでもできますが、
ずーっと貫いて芯がぶれないということ、これが妙好人のおすがたと思います。
やはり、ずーっとお話を聞いていくと、おかしなところがでてきます。
>>632 >阿弥陀様も、よろこんでおられることでしょう。
これも、我が身をただいま現在、阿弥陀仏に包まれているおかたのお言葉としては、
どうもよそよそしい。
型にはまった言い方をしたくない、と書かれていますが、
その心が自力ではないですか。こう書けば私らしいかな、という。
それにしても、私にとっては、いま298さんと「他力だ」「他力でない」と
やりとりさせて頂くのは、真っ暗闇のなかにいるもの同士が、
「見えるとはこういうことだと思う」「いやわたしの知っている光はこうです」と、
言い合うようなものだと思います。
ただいま488k、もうすぐ500kでこのスレも書き込みできなくなります。
無明を苦しみながらも、どこかで楽しんでるのでは。
802 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 11:37:18 ID:F9jNbgzd
803 :
7:2008/02/21(木) 11:40:14 ID:UwutXE5L
書き込んでくださった皆様、本当に有難うございます。
妙好人と学ぶスレ、浄土真宗における信心獲得をされた方と、求める方のための、スレでございます。
「信心の沙汰をせよ」との蓮如上人のお言葉に従っていきたいと思います。
私も先ずは他力の信心を獲得し、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」の身にさせていただきたいと願います。
獲信された皆様、求めておられる皆様、どうかよろしくお願い申し上げます。
>>802 わかりません。ちょっとそんな気がしただけです。
見当はずれの書き込み、ご容赦くださいませ。
>792
>要点を取捨選択しなきゃならないってことでしょうか。
どんな書物でも、著者が生きていた時代背景、その社会を
念頭に置きながら読まなければ、真意が分からないというの
は当たり前のことだろう。
常識じゃないのか?
806 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 13:00:40 ID:1swj2Qx9
>>801 おっしゃるとおり。
生きることを楽しみだと勘違いさせるのが無明です。
一切(眼耳鼻舌身意・色声香味触法)は苦痛なのです。
我々は苦痛があるから生きているのであり、
苦痛がなければ生きる必要がなくなります。
生きているということは、苦痛があるからです。
>>805 真宗聖典にかぎっては、私にとってそれは常識ではないです。
808 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 13:05:38 ID:F9jNbgzd
取捨選択はともかく優先順位はあるんじゃないですか
その優先順位が、信心が先だというほかは私には判断できないのです。
810 :
298:2008/02/21(木) 13:39:26 ID:MxMdHy2j
>>799 >おそらくですが、信後のかたは、「これこそわたしであった」と喜ぶのではないのですか。
それは、妙好人像を決めつけていると思いますが・・・
別に「なるほど」で、全然良いと思います。
人によっては、「なるほど」とも思わないかもしれない。
そういう方は、説明を聞いて、「なるほど」と思えれば十分ですし、
「なるほど」と思えなくても、信決定、極楽往生治定には、変わりがありません。
如来の方より定めたまう信心です。
妙好人と言えど、怒ったり、妬んだりもするのです。
それは、同じく凡夫であるからです。
何が違うかと言えば、他力の信心をいただいていることです。
たとえ信後であろうとも、私が何かを表現すれば、そこに自力が入るのは、
当たり前のことです。
私を見て、「あんなの嘘だろう」と思う方は、
あくまでも、その方の道を行けば良いこと。
自力ばかりの凡夫でありますが、その自力を捨てる道があり、
その道は凡夫直入であり、捷径です。
811 :
298:2008/02/21(木) 13:40:38 ID:MxMdHy2j
>>807 もちろん、私にとっても、そうです。
「聖典」というのは、時を超える書物だと思います。
もちろん、時代背景を含む記述も無いわけではありませんが、
そのほとんどには、普遍的な内容が書いてあると思います。
812 :
298:2008/02/21(木) 13:43:01 ID:MxMdHy2j
>>803 私も、いろいろな方の意見が聞けて、とても感謝しています。
このようなスレがあることが、うれしいです。
813 :
298:2008/02/21(木) 13:49:46 ID:MxMdHy2j
>>799 >型にはまった言い方をしたくない、と書かれていますが、
>その心が自力ではないですか。こう書けば私らしいかな、という。
信後の方が何を言おうとも、それもまた自力ですよ。
しかし、以前ご指摘ありましたが、これは「自力」「他力」の定義にもよるのです。
「あとは余韻で生きるだけ。
如来につつまれて、自力のもとも壊されて、
あとは死ぬまで生きるだけ」
説明すれば、私はこんな感じですね。「自力は無い」ということには、
抵抗があります。
それを指して、「他力信を獲ていない」という方がいらっしゃるのも、
うなずけることです。
私が言えるのは、私が獲ている信心は、易行にて獲ることができ、
お聖教とも割符が合うということです。
814 :
298:2008/02/21(木) 13:56:47 ID:MxMdHy2j
>>813 >信後の方が何を言おうとも、それもまた自力ですよ。
それに、こう書くのにも、確かに語弊があります。
如来に生かされているのですから、他力に生かされていると言えます。
信をいただいても、煩悩残る凡夫。
極楽往生に、自力は何の役にも立たない。
役に立つと思っていたのは、この世の欲をかなえる範囲のことです。
私は、体失往生でかまいませんでした。
信をいただいて、そのまま死ねば、すぐに極楽で、ラクだと思いました。
だけど、そうはなりませんでした。
生かされていて、如来と共に、何かが違う自分を味わいながら、
こうしてスレに書き込んだり、日常生活を送っております。
ことばには限界がありますね。ことばのすき間から、
もれてくる何かが大切だと思います。
私の書き込みは、他力の信心がきちんと書けているような、
そのようなものではありません。
そんなものでも、ご参考にしてくださる方がいるのは、うれしいことです。
815 :
298:2008/02/21(木) 14:01:30 ID:MxMdHy2j
>>795 >凡夫が信心を伝えられるわけがない(聞くほうも聞けるわけがないのですが)
>まことしやかに、「保つ」ということが、どうしてもおかしい。
もちろん、善知識様が信心くださるわけではありませんよ。
信心くださるのは如来様です。
しかし、矛盾されているように、感じるのでしょうね。
私たちに、他力信心をどうこうできるはずがありません。
如来の御はたらきが、どうしても必要です。
816 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 14:05:40 ID:/p5QSVHL
いくら経典を勉強しようが、お坊さんの説教を聞こうが、坐禅念仏をしようが全て無意味である!
真宗の奥義を知りたければ、次第相承の善知識を探し出し、遇い奉らねばいたずらごとなり。
善知識様から聞いた話は、口外してはならない。
信心を獲ることと引き換えにこの掟は守らねばならないのだ!
ただし、一度この法門に入った以上、抜忍することは許されない。
817 :
298:2008/02/21(木) 14:09:20 ID:MxMdHy2j
>>795 >ただ、他力を得ていないのに他力を得たといい、その方法は「口伝」によってのみ
>伝えられるのだからそれを聞かなければ信心頂けないぞ、と、
>誤った導きを書き込むのはよろしくないのではないか、と言っています。
実語についても、六字のいわれについても、お聖教に書いてあるのに、
どうして受け付けられないのか、そういうご自身を観察されたら、
いかがでしょうか。
私の言うことを受け付けないのは仕方ないにしても、
御文様にも、「六字のいわれを聞き開くように」ということが、
書いてあるように思うのです。
◎さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、
この南無阿弥陀佛の六字の名号の体は、
阿弥陀佛のわれらをたすけたまへるいはれを、
この南無阿弥陀佛の名号にあらはしましましたる御すがたぞと
くはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり(御文3-5)
私は、これもよくわかります。
凡夫の心に用は無く、信心の体が南無阿弥陀仏だからこそ、尊いのです。
南无阿彌陀佛
818 :
298:2008/02/21(木) 14:16:07 ID:MxMdHy2j
>>816 >ただし、一度この法門に入った以上、抜忍することは許されない。
そんなものでは、ありませんよ。
如来に信心いただいて、それで信心治定です。
いただいたことをよろこんで行くのが信後のすがた。
そして、ゆらいだ信心を、お聖教や御同行と確認し、
「もったいないことだ」と感謝してゆくのが信後のすがた。
他力の信心は揺らがねど、凡夫の信は揺らぎます。
凡夫の信を揺らがぬようにしてゆくには、
後念相続がいるのです。
その中で一番大切なことは、御恩報謝のお念仏であると思います。
自然と人が集うから、そこにも如来のはたらきを、感じることができると
思います。
おそらく、一時に比べれば、妙好人の数は減ったのでしょう。
(これは私の推測で、数えたわけではありません。)
では、真宗が衰退したのかと言えば、そういうことでは、無いと思います。
あくまでも、獲信者の数は如来の意図によるのであって、
そういう時期が来ていたというだけだと思います。
そして、これからは、また増える時期に来ているように、
私は感じるのです。
宿善の機が多く生まれていなければ、助けようがありません。
819 :
298:2008/02/21(木) 14:29:39 ID:MxMdHy2j
>>789 >298さん、自力他力を判別する主体が自力なのだから、
>いくら判別しても自力ですよね。言うなれば、らっきょの皮剥きみたいなもの。
>他力信を得たと言って憚らない人は、らっきょの皮をある程度まで剥いで、
>ここで全てなし尽くした。南無阿弥陀仏と一体となった、
>と自己満足しているだけなのではないかなあ。
聖道はそうですけれど、横超ですからね・・・
ただ、信を獲たと言ってもおわりではなく、そこからも、
まだ生きていますしね、歩んでゆくわけです。
全てなし尽くすのは、生まれてきて、私になせる最上の善は、
既に為したということですね。
自己満足もできていないのが、凡夫たる証です。
南無阿弥陀仏と一体になり、如来から信をいただいても、
それでも「満足」とも行かないのが、凡夫ですけれども、
「感謝しなければ救わない」というような、如来ではありません。
私も、如来に感謝して、お念仏を称えます。
法然聖人は、第二十願のお念仏を、たくさんおすすめになっています。
たしかに第十八願は易行ですけれども、これは、すすめても、すすめにくい。
第十九願、第二十願も、受け付けない人もいるでしょうけれども、
より多くの方が、わかってくださると思います。
298さんの書き込みから、
>念仏して信をいただいた場合、さらに信後のすがたがわかれます。
(中略)
>疑問に思い、尋ねに行ったところ、「念仏したのですから、それで良いのです」と
お答えをいただいたのです。
疑問に思ってたずねて、人から「それでよい」と言われて納得というのは、
それは信前の姿です。
>信をいただいても、すぐには、何の価値があるのか、
>そして、それが正統のものであるのか、わからないかもしれません。
それは、真宗の信心ではありませんね。
>いただいたことをよろこんで行くのが信後のすがた。
>そして、ゆらいだ信心を、お聖教や御同行と確認し、
>「もったいないことだ」と感謝してゆくのが信後のすがた。
ゆらぎません。揺らぐのは自力です。
「揺らいでも、頂いているのだ」と、「自分で」信じているのです。
御文様にしがみついておられるように見えます…
真宗聖典すべてが真宗で、その教えに従って
一心一向に弥陀をたのみたてまつる、それが真宗の信心ですよね。
ともあれ、このように話をさせて頂くのは有難いことです。
真っ暗闇しかない中で、光について話すだけでも凄いことですから。