【親鸞聖人が】浄土真宗親鸞会【泣いている】

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327渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
高森仏教の間違い

 未信の邪定聚の機(無宿善の機)は、邪定聚の機に説かれている教え(一九願、観無量寿経)
を聴聞していけば、正定聚の機に至るという。これは間違い。
 
正定聚の機は、他人から念仏しなさいよと言われなくても、自分から自主的に念仏を称えてい
く。矢が飛んできても、鉄砲が飛んできても、「わしゃ絶対に念仏を称えるんじゃ」というとこ
ろにはらわたが固まっている。これを金剛の信心という。はらわたはダイヤモンドのように固く
なっている。

 邪定聚の機は、誰が何て言っていっても、抹香臭い念仏を称えるなんて絶対嫌じゃと、邪に腹
が固まっている。矢が飛んできても、鉄砲が飛んできても、「わしゃ念仏を称えるのはいやじ
ゃ」という。
 矢が飛んできても、鉄砲が飛んできても、「わしゃ念仏を称えるのはいやじゃ」といっている
人が、話を聞いただけで、ある日突然、昨日までの自分が嘘のように一念で「わしゃ絶対に念仏
を称えるんじゃ」というはらわたに変わるだろうか。変わるというのが高森理論だ。今まで念仏
を称えたことのなかった人が変わるわけないだろう。
 まして、聞かせている話は、信心ができるまで念仏はいらんぞと言っている話なのだ。
328渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/05(月) 00:37:34 ID:ynE3pnlv
>>327
 「わしゃ絶対に念仏を称えるんじゃ」というところにはらわたが固まってくるのには多少は時
間がかかる。最初に、さあ、念仏を称えようじゃないかという、第三者からの誘いがあり、最初
は色々抵抗がある中で、やがて誘いに負ける。最初は、誘われたときだけ一時的に恥ずかしそう
に称えだす。称えていく中でその素晴らしさを体験し、やがて面白くなってきてやみつきになる。
そういう経過をたどるのだ。スポーツの練習と同じだ。「定散自力の念仏は 果遂の誓いに帰して
こそ おしえざれども 自然に真如の門に転入する」とは、そう言う意味である。

 浄土の要に逢うことはできない。定善は観を顕す縁なり。散善は行を顕す縁なり。そんな定善
(息慮凝心)、散善(廃悪修善)の教えを聞いて、「わしゃ絶対に念仏を称えるんじゃ。矢でも
鉄砲でも飛んでこい。わしゃ称えるんじゃ」、などとそんなはらわたができるわけない。

 邪定聚の機(無宿善の機)に説かれていて、浄土の要に逢うことはできない教えを聞いていれ
ば、正定聚の機に至る。極楽浄土に往生する。こんな馬鹿な話があるわけない。誰が考えても分
かるだろう。

 これが高森仏教の大変な勘違いである。