>>327 「わしゃ絶対に念仏を称えるんじゃ」というところにはらわたが固まってくるのには多少は時
間がかかる。最初に、さあ、念仏を称えようじゃないかという、第三者からの誘いがあり、最初
は色々抵抗がある中で、やがて誘いに負ける。最初は、誘われたときだけ一時的に恥ずかしそう
に称えだす。称えていく中でその素晴らしさを体験し、やがて面白くなってきてやみつきになる。
そういう経過をたどるのだ。スポーツの練習と同じだ。「定散自力の念仏は 果遂の誓いに帰して
こそ おしえざれども 自然に真如の門に転入する」とは、そう言う意味である。
浄土の要に逢うことはできない。定善は観を顕す縁なり。散善は行を顕す縁なり。そんな定善
(息慮凝心)、散善(廃悪修善)の教えを聞いて、「わしゃ絶対に念仏を称えるんじゃ。矢でも
鉄砲でも飛んでこい。わしゃ称えるんじゃ」、などとそんなはらわたができるわけない。
邪定聚の機(無宿善の機)に説かれていて、浄土の要に逢うことはできない教えを聞いていれ
ば、正定聚の機に至る。極楽浄土に往生する。こんな馬鹿な話があるわけない。誰が考えても分
かるだろう。
これが高森仏教の大変な勘違いである。