親鸞仏教の正当性を問う(パート2)

このエントリーをはてなブックマークに追加
1渡海 難 p55-dnb06karaga.tokyo.ocn.ne.jp
 親鸞仏教の土台を問う批判・反論が交錯することを期待します。これが、宗教宗派の枠を超えた論議となり、結果的には宗教の本質を社会に問う問題提起として各地で新たな飛び火的議論を巻き起こす一石となれば幸いです。

 <先のスレッドが書き込み不能になりましたのでパート2を立てます。>

 http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/2cha.htm
 
2渡海 難 p083-dnb31karaga.tokyo.ocn.ne.jp:2000/11/28(火) 22:30
 親鸞は言う。極楽浄土には門がある。これはおかしくないか。門があるということは何を意味するのか。極楽浄土には、入山が許される者と許されない者とがいるのか。これは極楽浄土の本質を問う問題である。
 浄土教に門という概念を始めて持ち込んだのは、恐らく世親菩薩だろう。素人の僕には文献を調査する力がない。専門家の方で調査したことのある方がいれば教えて欲しい。世親以前に門という概念を立てている先人はいるのか。大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経、いずれにも門という概念はない。五念門という形で浄土教に門という概念を立てたのは、古代インドの高僧、世親菩薩である。
 極楽浄土に門はない。こう考えた方が経典の記述には合致する。釈迦の考えにもなじみやすい。思想の原理を考えていこう。
 大無量寿経は次のように言う。極楽浄土にはたくさんの樹木が茂っている。その中にひときわ高い木がある。道場樹(菩提樹)である。講堂、精舎、宮殿、楼観があり、池がある。観無量寿経は次のように言う。極楽浄土には宝樹(菩提樹)が茂っている。池がある。蓮の花が咲き乱れ、たくさんの楼閣がある。阿弥陀経は次のように言う。極楽浄土にはたくさんの樹木が茂り、池がある。無数の鳥がさえずっている。楼閣が建っている。
 極楽浄土のモデルは、おそらく西暦1世紀ころの祇園精舎だろう。全盛期の祇園精舎を描写しているのだと思う。特徴的なのは、菩提樹があること。たくさんの建物があること。門はなく、塀もないこと。ここには釈迦の思想が反映されているようだ。極楽浄土に配置されているものから、釈迦の考えを探り、そこから極楽浄土の意味を考えたい。
 仏所行讃は言う。釈迦は菩提樹の下で悟りを開いた、と。釈迦がどこで悟りを開いたかという事は、実は、大きな問題ではない。滝に打たれて悟りを開こうが、砂浜で開こうが、どうでもいい話だ。それ以上に、釈迦は菩提樹の下で悟りと伝えられているということ、そう伝えられている事実の方に僕は興味がある。仏教は菩提樹にこだわる。その意味から祇園精舎と極楽浄を考えていきたい。
3名無しさん@1周年:2000/11/28(火) 22:44
ここは現代の善知識中根先生のすばらしさを分かってもらうためのスレです。
電波スレなどではありません。

五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそひて
念仏信ずる人をみて
疑謗破滅さかりなり
4名無しさん@1周年:2000/11/28(火) 22:53
                           _____
      彡ノ川 リ||)                  /     \
     C ○-○                    / / ' ⌒ \ \ 
      人 ∇ ノ              _____|__/_|_|||_|||_||_||ヽ )
   /⌒  - - ⌒\          |◎ |   |〕   ⌒ | | |_/
  /  人 。   。丿〃 ーヽへ      | 〓| 「 ̄| ´_ ⌒ ノ |)|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  /  /|    亠  |∝ハ ハハ /ヘ\∽ [(L゚___|_|__|ヽ__ イ ノ | < 次は私もお願いしますね
 / / |  /干\| (/ /へレルレ 一 (( ))   )__/ ) )__|―(__ノ __ノ   \___________
 \ \ |      | (( | 一 ー | |)ハ    | =| ( (\\/ ( ( )
   \  V_⌒v⌒\__ゝ~ `o ~丿ノル   |   | ヽ)   ▽/ ν/
     \__ξ  丶/⌒ - - ヽ
    / \    |  |     / |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    /  ノ\__|  |___@`_ノ| | < 渡海難せんせぇ♪
   /  /パンパン|  | ゚   ゚  |  |   \_____
  /  /      |  |_     |  |_
           ヽ_ξ    ヽ_ξ

5善知識:2000/11/29(水) 17:51
              / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
            < オー。タタネーヨ。      _____
      彡ノ川 リ||)   \何とかならんか    /     \       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     C ○-○      \_____    / / ' ⌒ \ \    / 筆下ろしって、
      人 ∇ ノ              _____|__/_|_|||_|||_||_||ヽ )  /世話が焼けるのね
   /⌒  - - ⌒\          |◎ |   |〕   ⌒ | | |_/ <あしたは少年院。
  /  人 。   。丿〃 ーヽへ      | 〓| 「 ̄| ´_ ⌒ ノ |)|    \ 一生一度のやり修め。
  /  /|    亠  |∝ハ ハハ /ヘ\∽ [(L゚___|_|__|ヽ__ イ ノ |      \ 頑張りなさいよ。
 / / |  /干\| (/ /へレルレ 一 (( ))   )__/ ) )__|―(__ノ __ノ       \_______
 \ \ |      | (( | 一 ー | |)ハ    | =| ( (\\/ ( ( )
   \  V_⌒v⌒\__ゝ~ `o ~丿ノル   |   | ヽ)   ▽/ ν/
     \__ξ  丶/⌒ - - ヽ                 
    / \    |  |     / |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄       
    /  ノ\__|  |___@`_ノ| | < 四番さんって、へたねー。
   /  /パンパン|  | ゚   ゚  |  |   \漏れちゃったり。立たなかったり
  /  /      |  |_     |  |_    \_____
           ヽ_ξ    ヽ_ξ

6一の会の一会員:2000/11/29(水) 20:53
 4番さん。早漏・遅漏だったんですね。包茎役立たずは、中根先生が一発で直してくださいますよ。
7渡海 難 p68-dnb05karaga.tokyo.ocn.ne.jp:2000/11/29(水) 23:36
 今日のカキコは休みます。御期待に感謝します。
8渡海 難 p108-dnb05karaga.tokyo.ocn.ne.jp:2000/11/30(木) 21:11
 菩提樹は、南伝仏教寺院では必ず植えられるようだ。菩提樹は、釈迦の悟りを象徴する。菩提樹を植えるのは、祇園精舎以来の伝統である。
 釈迦は、インド・ネパール国境、熱帯サバナ地域に誕生している。熱帯サバナ地域は、草原の間に樹木が点々と散在している。インド菩提樹はそのような中で巨木化する。人々は遠くから菩提樹を見て現在地を知り、菩提樹を目印に往来する。乾期は、雨が少なく日照りが強い。人々は菩提樹の下で休み、瞑想する。
 釈迦は、自らの迷いの根元に自らの底知れぬ愚かさの存在を認識した。自らの底知れぬ愚かさは、画家にも、科学者にも、スポーツマンにも見える。画家は、絵画の道を究めようとするとき、必ずや自らの未熟さに直面する。釈迦は、画家が自らの未熟さに直面すると、歩んでいる道の正しさを保証した。科学者が自らの未熟さに直面すると、釈迦は科学者に歩んでいる道の正しさを保証した。
 人は、しばしば、自らの才能に驕り高ぶる。自らの才能に驕り高ぶる者に、釈迦は、歩んでいる方向の誤りを指摘した。菩提樹の方向に向かって歩め。自らの愚かさが見える方向に向かって歩め。菩提樹を背にして歩んではいけない。釈迦はお弟子さん達にそのように説き、祇園精舎には菩提樹を植えた。
 画家が、科学者が、スポーツマンが歩みに疲れると、歩みを止めて休むことを釈迦は勧めた。歩みに疲れた彼らは、驕り高ぶることなく、自らの愚かさの事実に戻って心を休め、瞑想した。
 祇園精舎には、菩提樹とともに、講堂、精舎、宮殿、楼観が配置されていた。講堂は教場、精舎は学生寮、宮殿は職員寮などを意味するのだろう。楼観があったというのは面白い。釈迦の悟りは、単に自らの愚かさに目覚めるだけではない。愚かさに目覚めるところは目標であるとともに、出発点でもある。愚かさに目覚めるところから、多くのものが見えてくる。楼観のようである。先生も生徒も泊まりがけで、共同生活しながら学び合い、様々な新たな認識を共有し合った。真実を見極めてくると視野が広がり幅広く多くのものが見えてくる。楼観も釈迦の悟りを意味するものだろう。祇園精舎は、全体が釈迦の悟り、教育観を表現していた。それがそのまま極楽浄土に継承されている。
9渡海 難 p100-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/01(金) 21:50
 極楽浄土には門がある。この主張は、いつごろからあるのだろう。世親は五念門という概念を立てている。しかし、世親の門という概念は、我々が考える門という概念とはかなり違うようだ。
 世親は浄土論という書物を残している。最初は梵語で書かれていたと思うが、梵語の浄土論は発見されてないらしい。浄土論については中国の曇鸞という高僧が解説書を書いている。我々は、その解説書の中から漢文訳の浄土論を推測して抽出する。推測できるのはそこまでだ。曇鸞は中国語訳の浄土論を、訳が悪いと批判している箇所がある。世親は浄土論を原語でどのように書いていたかは全く類推できない。
 漢文浄土論を読むと、五念門の門という言葉はどうも門という概念とはかけ離れているようだ。門と言うより、修行僧の修行段階という意味に近いだろう。しかし、浄土論の翻訳者はこれを門と訳した。中国仏教はインド仏教の誤訳から独自の思想を発展させてきた面があるようだ。
 善導は言う。「娑婆の化主、その請に因るがゆえに、すなわち広く浄土の要門を開く。安楽の能人、別意の弘願を顕彰す。それ要門とは、すなわちこの『観経』の定散二門これなり。」
 善導は、観無量寿経をベースに、浄土教に独自の門という概念を立てる。観無量寿経は、父王を殺して皇太子がクーデターを起こした事件を扱っている。悲しみに泣き叫ぶ母后のため、釈迦は極楽浄土の法を説く。極楽浄土に至るための方法として、定善と呼ばれる方法論と散善と呼ばれる方法論とを説く。この二種の方法論を善導は定散二門と呼び、要門と呼ぶ。この門は、修行方法を取捨選択する仕分けの働きをしている。
 善導の時代、仏道と呼ばれる修行方法論は極めて種類が多かったようだ。仏教を一口に四万八千の法門と言う。修行方法には四万八千種もあるというのだ。四万八千種もあるなら、仏教ビギナーは何から始めたらいいのか。善導はこの問題に向かう。善導は仏教初等学を専門とする。善導は仏教初等学の立場から、仏教初心者の必須履修科目を限定する。定散二門である。仏教ビギナーは要門から入れ。善導はそう教える。現代の我々は「専門」という熟語を使う。専門という言葉は明治に生まれた言葉だと思うが、遠くはこうした極楽浄土の門に発する発想法だろう。
 中国の極楽浄土観は、平城京、平安京を振り返ると少しわかる。平城京、平安京は中国の長安をモデルにしているというが、そのモデルは多分極楽浄土だろう。内裏には塀があっても、平城京、平安京全体には塀がない。都の正面には羅城門がある。塀はなくても地方から上京してきた人は、羅城門から都に入った。
 親鸞の門も、修行方法を取捨選択する仕訳の意味がある。しかし、善導にとって要門は通過すべき門である。親鸞は要門を選び捨てる対象に含めるため、さらに新たに門という言葉を使いだす。
10明間 均:2000/12/02(土) 21:01
 私は、浄土真宗一の会の会員で、メンタルヘルス友の会の指導員を
している明間均と申します。最近、当掲示板上にて本会会員と名乗る
人物が、スレッド荒しや悪質な行為、ひどい書きこみを繰り返して
おりますが、かの人物は本会会員などではありません。本会には一切
関係はないことを明言させていただきたいと思います。

 また以前から、様々な立場を名乗る人物が、この掲示板上にて
本会の誹謗中傷をしていることは知っておりましたが、今までは
無視する方針をとってまいりました。事実無根の誹謗中傷にいち
いち取り合う必要性を感じなかったからです。放置するのが一番
だと判断致し今日に至りました。しかしながら、最近、あまりに
もひどい書きこみが続き、しかも、本会会員と名乗る人物が、
非常識な行為を度々行っているのを見るにおよんで、一言コメント
をさせて頂きたいと思った次第です。

 あたかも本会の会員であるかのように装って書き込みをしている
人物は本会会員ではありません。この人物の書いていることは事実
に反しております。また、元一の会の会員と名乗る方も、どなたか
から曲解した話をまた聞きし、あたかも知っているかのように書き
こみをされたのでしょうが、とにかく悪意に満ちております。

 自作自演してでも、どうしても本会の評判を落としたいのでしょう
が、やっておられる方は、こんな卑怯極まりないことをして、心やま
しくは無いのでしょうか。まあおそらく、その方ご自身は、正義感に
駆られるような気持ちでやっておられるのでしょう。「悪を滅ぼす為
だから何をやってもいいのだ」という理念でもお持ちなのかもしれま
せん。ただ、本当のことを知らないで、無闇に人を貶めることは止め
ていただきたいと思います。

 今後も本会は、掲示板上の論争等に口を差しはさむ気はありません。

 私達は、私達が正しいと信ずる道を誰に恥ずることなく進んでゆく
だけです。

 何が真実かは阿弥陀仏がご存知です。

 ですが、、一言だけ述べさせていただきたいのは、しつこいよう
ですが、本会会員及び本会に関係があったと名乗って、非常識な
書きこみをしている人物は、本会とは一切関係はないということです。
そのことだけは、ここに明言させていただきます。

 掲示板上で身元を証明することは、なかなか難しいことですが、
この書きこみが、本物の「一の会会員・明間均」の書き込みである証拠
として、メンタルヘルス友の会、および、親鸞大學のホームページ上に
これと同じ文面を掲載致します。よろしければ、そちらもご覧下さい。

浄土真宗一の会・明間 均

メンタル http://www.get5.net/2ch.htm
親鸞大學 http://www3.tok2.com/home/sinrandaigaku/2ch-2.htm
11渡海 難 p79-dna32yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/03(日) 08:50
明間 均 様
 御主張を理解しました。「浄土真宗一の会」には誤った認識を持っていたようです。
 私は、貴会に対する認識を意識の中で白紙に戻します。
12渡海 難 p87-dna32yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/04(月) 12:38
 善導は要門という概念を立てている。要門とは、重要な門と言う意味だ。現代の我々で言えば、要は必須、門は科目という意味だと思えばいい。必須科目は通常、選択科目と対になる。必須科目、選択科目以外は、不要科目となる。選択科目は、選択してもいいし、選択しなくてもいい。善導は入門者に向けて必須科目を指定した。選択科目は余力の中で選択すればいい。選択科目を必須科目に優先させてはいけない。
 親鸞は真門という概念を立てる。親鸞が真という概念を立ててきたのは、善導仏教の否定を意味する。真は要に優先するからだ。しかし、親鸞は善導の要門を表向き完全否定はしていない。仮という概念を被せて事実上、棚上げした。
 親鸞が善導仏教を否定した根拠は、善導仏教が時代遅れであるということだ。ただ、否定しきってないのは、二つの理由がある。当時、善導仏教は日本仏教の根幹に関わっていた。興福寺、東大寺、延暦寺などで、善導仏教は盛んに学習されていた。鎮護国家という標語でも分かるように、古代の日本で仏教は国家づくり、人づくりの重要な柱だった。当時、我が国の教育レベルは極めて低かった。日本語の文化的成熟度は低く、公的な文は漢文で書かなければ意味が通じなかった。高位高官のといえども、漢文を操れる人は少なかった。教育レベルが低い場合は国家的には初等教育が重要な課題になる。善導仏教は、初等教育学の重要な柱として国を挙げて学習されていたようだ。そうした国家社会の中で、善導仏教をまともに否定することは死を意味した。
 親鸞も善導仏教で教育されてきた人物だろう。親鸞にとって善導仏教は自己のアイデンティティーに関係していたようだ。
 親鸞は、僧侶という職業に非常に高い誇りを持っていたようだ。僧の仕事は人づくり、教育事業である。少なくとも大乗仏教はそう考えている。仏教は教育ための多くの優れた手法をもっている。僧は、釈迦の代理として釈迦の仕事を継承し、人々を教え育てる。だからこそ、仏・法・僧の三法の一つとして尊敬される。僧は尊敬を基礎として人を教え育てるのである。
 僧は、戒律を守ってこそ僧としてアイデンティティーを保つ。教育の基本は、教育者自身が相手から尊敬を受けること。尊敬の基盤は、戒律を厳格に保持していることにある。頭が良くて物知りでも、放縦の限りを尽くせば尊敬は受けられないだろう。尊敬を受けることがなければ、人を教え育てることはできない。教育者を目指す者は、戒律をその道の先生から受ける。学生が我流で決めた決めごとを守っても、、他人を教え育てる基礎となりうる尊敬を得ることはできない。仏教は、釈迦に始まる戒律を代々弟子に伝えてきた。
13名無しさん:2000/12/05(火) 00:42
寂しいね〜。
誰も相手にしてくれない。ん?俺は?
14渡海 難 p65-dna30yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/06(水) 10:25
 僧は、戒律を守ってこそ僧としての基礎を保つ。教育の基本は、教育者自身が相手から尊敬を受けること。尊敬の基盤は、戒律を厳格に保持していることにある。
 釈迦は三学を教える。三学とは、戒と定と恵の三つをいう。定とは精神統一だ。恵とは知識と考えればいい。釈迦は真理を悟った。真理そのもの、なまの真理そのものを真如という。真如が認識の客体になって認識者の人格の一部になると、真理と呼ばれる。悟るとは真理を認識することをいう。認識された真理には、文字・絵画・音などで有形的に表現できるものと、有形的には表現できないものがある。有形的に表現できるものは、有形的に表現することで伝達できる。伝達できれば、他の人とその認識を共有できる。有形的に表現されたものを法という。法はしばしば言葉で表現される。真理が法の形で人に結びつくと知識になる。これが恵である。真理には有形的に表現できないものがある。有形的に表現できないものは、それを容易に認識できるようになる方法論を明らかにしておけば他の人と共有できる。釈迦は、方法論を明らかにすることで誰もが容易に手に届くところにおいた。釈迦はこれによって、有形的に表現できない真理も大衆の共有財産化した。認識するための方法論が定である。定は禅定とも言う。禅定には、座禅、観仏、称名などの方法がある。座禅、観仏、称名などの原点は一つである。起源は瑜伽<yoga>に発する。
 三学の内、どれがもっとも大事か。知識の学習には生来の能力も必要だろう。同じことを学ぶのに、進歩の早い人もいる。遅い人もいる。進歩の遅い人が、遅いことを理由に責められる必要はない。定も同じだ。気持ちが散漫であればなかなか精神統一などはできない。落ち着いて精神統一できないからと言って、それを理由に責められる必要はない。
 「私は先生の定めた決まりを守ります」と釈迦に誓った人が、手の平を裏返すように先生を裏切った場合はどうだろう。そういう人はお釈迦様の弟子とは言えないだろう。定も大切、恵も大切。しかし僧にとってもっとも大事なことは、釈迦の戒律を守ることにある。
 僧の基本的要件は、釈迦の戒律を守ることにある。僧の戒律は、寺院内生活を前提に体系化されている。親鸞は、三五歳で僧籍を剥奪され、仏教界を追放された。流罪となって在俗の生活を余儀なくされた。親鸞は形式的にも、実質的にも僧としての基盤がない。親鸞には僧としての基盤がない。僧でない者は、釈迦を代理する資格がない。親鸞には仏教を語る資格がない。親鸞仏教は、本質的に仏教としての正当性がないのである。 
15提案:2000/12/06(水) 19:49
つまらない荒らしは暫くやめにして
渡海 難氏に一段落するまで
投稿してもらってはどうでしょうか。

しかるのちに
議論したいかたは参加していただくと
いうことで。このまま荒れるにまかせるのも
惜しいような気がします。

16渡海 難 p119-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/07(木) 09:44
申し訳ありません。数日間、しばらくカキコできません。
17名無しさん@1周年:2000/12/08(金) 08:28
age
18渡海 難 p42-dna31yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/09(土) 20:12
 僧の根拠は戒律の保持に基盤がある。戒律は何に依拠するのか。戒律の本質は価値観である。仏教の戒律は、釈迦在世中のインド社会の価値観に基づく。釈迦在世中のインド社会では妥当した価値観が、二千数百年後の北方の国々で妥当するとは限らない。時代や社会が変われば、古代インド社会の価値観では間尺に合わない。
 時代が変わり、価値観が変われば規則は変えなければいけない。それなら戒律は臨機応変に変更していいものだろうか。法律や条例なら変更することはできるだろう。学校の規則ならどうだろう。学校の基本的な規則を先生が変える。先生ではなく、生徒が勝手に変えたらどうだろうか。これはおかしい。学生が自主的に決まりを作りそれを守るというの結構なことだ。しかし、学生が自主的に決まりを作りそれを守れば、他人を教育する基盤としての尊敬を得られるだろうか。自主的に決まりを作って守れば、PTAからはいい子だねと誉めて貰えるかも知れない。しかし、お釈迦様を代理して私に真実を説いて欲しいという、そういう内容の尊敬は得られないだろう。
 学校の規則は先生が決める。先生には誰がなるのか。先生だって、昔は学生だった。先生がきちんと育つには、学則がきちんとしていなければいけない。先生が育つ時代に、既に学校の規則が時代遅れだったら、先生はどうやって育つのか。
 仏教は釈迦以後の時代を、正法・像法・末法・法滅という時代に区分する。真理は不変でも、人の価値観は変わって行く。釈迦以後五百年間は正法の時代という。この時代は、優れた多くの賢人哲人が育つ。五百年目の区切りを経過すると像法の時代に入る。像法の時代は、正法の時代に行われた修行方法は堅持されるが、それによって賢人哲人が育つことは極めてまれである。釈迦以後、千五百年目の区切りを経過する頃になると、正法の時代に行われた修行方法はほとんど行われなくなる。仏教から優れた賢人や哲人が育つことはありえなくなる。釈迦以後、一万年目の区切りを経過する頃になると、教えそのものを振り返る人がいなくなる。仏教は完全に消滅する。戒律が社会的妥当性を失っていくレベルに合わせ、戒律を基盤にした仏教は崩れていく。これが仏教の末法観である。
 社会的価値観の変貌と共に仏教はやがて崩れていく。釈迦の教えは、五百年、千五百年あるいは高々一万年を限度とした一時的な思想だったということか。始めがあるものは終わりがある。始めがあり終わりがあるものは、生老病死するものだ。生老病死するものは無明を本質とする。釈迦の事業と釈迦の教えは、無明を本質とした迷いの論理構造だったということになるのか。悟りは迷いを断つのではないのか。生老病死を超えていたのではなかったのか。釈迦は悟りを開いたというのは嘘だったのか。
 仏教は、必ずしも戒律を本質とする思想ではない。親鸞の主張はそんなところにあるようだ。親鸞は善導の思想に吸い込まれて行く。
19名無しさん@1周年:2000/12/09(土) 21:24
渡海 難という人の、ネット上(例えばこの2ch)での言動をあまり見ないで、ここを読んでいる人へ。

この人の書いていることは、思い込みがほとんどです。
さらに、他人からの客観的な批判を受けつけません。
要するに、この人がこの掲示板に文章を書く目的は、自分の主観にもとづいた仏教解釈を他人に押し付けること、それだけのようです。(これまでの言動を見ているとそう判断せざるを得ません)

仏教解釈というか、これは一つの思想といえるかも知れません。
しかし渡海 難という人のネット上での言動を見るにつけ(現実世界では知らないので)、人格形成上、あまりいい影響を及ぼす思想ではないようですので、どうぞご注意を。

渡海 難さん、この書き込みにレスは不要です。
貴方が他人の言葉に耳を傾けないように、私もこのスレッドにおける貴方の書き込みは読みませんので。
20渡海 難 p90-dna32yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/10(日) 10:54
>これまでの言動を見ている
>私もこのスレッドにおける貴方の書き込みは読みません
    しっかりお読みくださっていることは敬意を表しますよ(笑)。

>他人からの客観的な批判を受けつけません。
    どのような批判を受け付けてほしいのですか?
    えっ!? 何?  人生の目的?必堕無間? あちゃちゃ! (>_<@`)

 
21名無しさん:2000/12/12(火) 22:46
久し振りのカキコでうれしそう>渡海 難。
22名無しさん@1周年:2000/12/13(水) 00:54
23渡海 難 p32-dna34yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/13(水) 23:33
 善導という人は、随の時代に生まれ、唐の時代に亡くなっている。中国式の算定法では、像法の時代から末法の時代に切り替わる時期に当たる。
 善導自身は、厳格に釈迦の戒律を保持し、生涯、禅定と知恵を究める。唐の高宗皇帝の尊敬を受け、人々からは阿弥陀の化身と仰がれ、自他共に認める中国仏教界の頂点を究めたようだ。善導の専攻は、初等仏教教育学である。戒律が崩壊していく時代にあって、戒律に代わる仏教の入門方法を開く。
 仏教は、釈迦に戒律の保持を誓って入門する。戒律を破れば放逐される。学校の規則を破れば退学になるのと同じ理屈だ。しかし、末法の時代に入れば、戒律そのものに意味が無くなる。戒律の保持を誓わなければ仏教の学習ができないのか。もしそうなら、仏教そのものが今後消滅する。善導はそう考えたようだ。戒律以外に仏教の入門方法を開かなければならない。善導は、念仏に白羽の矢を立てる。
 「善導は戒律を破る者でも、念仏を称えるものは仏教界の仲間として認めるぞ」。善導は仏教の頂点に立つと、自らの権威をもってそう宣言した。像法時代の最後の高僧となって釈迦を代理し、自らの権威をもって経典を書き替えている。
 善導は言う。「称仏一口即在仏道中摂<一言でも仏を称すれば、仏道の中に収まる>」。「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業<ひたすら念仏の名を念ぜよ。動いているとき、止まっているとき、座っているとき、時間の長短は問わない。決して念仏を忘れてはいけない。念仏こそが仏教の中心である>
 釈迦は仏法を誹謗してはいけないと説いた。大罪を犯してはいけないと説いた。大無量寿経は言う。「五逆と誹謗正法とを除く」、と。釈迦のこの教えはどうなったか。善導は大無量寿経のこの言葉を、自らの権威をもって削除した。「若我得仏 十方衆生、称我名号、願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚<観経疏>」「心を至し信楽して我が国に生まれたいと思い、少なくとも十回の念仏を称えたとしよう。その人がもし極楽浄土に生まれることがなければ、自分はまだ最終の悟りを得たとは言えないと考えよう。」
「心を至し信楽して我が国に生まれんと欲う」を、「乃至十念せん」と書き直している。五逆の大罪を犯す者、正法を誹謗する者でも、仏の名を称える者であれば、自分は仏道修行の仲間と認識すると言うのだ。
 世親・曇鸞の伝統的な考えはどうだったか。極楽浄土に至るとは小乗の段階を終えて大乗の修行段階に入ることを意味したのだ。大乗の修行段階に入るとは、いずれは学校を開き、教壇に立って人々を教育指導する人になることを意味した。しかし善導は言う。「今時願往生者、並是一切投化衆生<現代で往生を願うとは、極楽浄土の主になるのはなく、極楽浄土の仲間に加わることを意味する。>」「並」とは並民つまり平民という意味だ。作家の集まりを文壇という。画家の集まりを画壇という。善導は、極楽浄土の概念を変更した。極楽浄土は、抽象化した仏教界である定義する。念仏を称える者は極楽浄土の一人になる。仏教界の仲間に加わることを意味するというのだ。
 念仏を称える者は、それだけで仏教界の仲間である。善導はこのようにして、戒律が無効になっていく時代に向け、念仏をもって戒律に代わる仏教の入り口を宣言した。 
24名無しさん@1周年:2000/12/13(水) 23:50
渡海 難という人の、ネット上(例えばこの2ch)での言動をあまり見ないで、ここを読んでいる人へ。

この人の書いていることは、思い込みがほとんどです。
さらに、他人からの客観的な批判を受けつけません。
要するに、この人がこの掲示板に文章を書く目的は、自分の主観にもとづいた仏教解釈を他人に押し付けること、それだけのようです。(これまでの言動を見ているとそう判断せざるを得ません)

仏教解釈というか、これは一つの思想といえるかも知れません。
しかし渡海 難という人のネット上での言動を見るにつけ(現実世界では知らないので)、人格形成上、あまりいい影響を及ぼす思想ではないようですので、どうぞご注意を。

渡海 難さん、この書き込みにレスは不要です。
貴方が他人の言葉に耳を傾けないように、私もこのスレッドにおける貴方の書き込みは読みませんので。


25渡海 難 p66-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/16(土) 22:07
 親鸞は仏教界の人である。戒律を保持しているわけでもない。無名無冠の前科者である。それが、何故に仏教界の人であるのか。親鸞は念仏者である。念仏者は極楽浄土の並である(観経疏)。像法最後の高僧善導が末法の時代向けて開いたがこの門によって、親鸞は仏教界の人なった。
 しかし、親鸞は言う。「定善は観を示す縁なり。散善は行を示す縁なり。浄土の要逢いがたし」、と。「定善は観を明らかにするものである。散善は行を明らかにするものである。浄土往生の因となるものじゃない。<定善や散善では、浄土には行けない>」という。
善導は言う。書を読め(読誦)。観察せよ(思索)。挨拶をせよ(礼拝)。称名せよ。喜んで経済的支援をせよ(讃歎供養)。仏教は、仏教界の仲間に加わればそれで万々歳ではない。未就学児にとっては、勉強する人々の仲間、生徒の仲間に加わることに大きな価値がある。しかし、学校に入ればそれで十分ということじゃない。極楽浄土に至れば、そこで仏道を学ぶということがないといけない。規則を破っても、抽象的な存在である仏教界からの脱落はない。それでも、一部の必須書物は読みなさい。自分で考えなさい。挨拶はしなさい。正しく名を呼び合いなさい。そして学校維持のために応分の経済的な負担を負いなさい。善導はこれは、五正行と名付けた。
 親鸞は、善導のこうした考えを時代遅れだと批判する。
26ななし:2000/12/17(日) 22:02
あげあげ
27渡海 難 p07-dna34yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/18(月) 21:25
 親鸞は結論を言う。結論に至る論理を親鸞の言葉で追っていくと、筋道はわからなくなる。当時、親鸞の思想は御禁制の思想だった。親鸞は、警察に捕まえられないように細心の注意を払っている。結論に至る論理で親鸞は、実に持って回った歯がゆい言い方をしている。親鸞が煙幕に使っている論理は、まず排除した方がいい。煙幕に使っている論理をカットしても、結論さえ分かれば論旨は見当がつく。それが親鸞の論理だ。
 警察の目を気にしている論理はいくつもある。例えば仮仏仮土論がある。仮仏仮土論というのは、表向いては批判できない思想を、批判的な言葉を使うことなく実質的に批判していく親鸞流の論法だ。そう考えれば、仮土論は結論だけつかめばいい。結論の理由は読み手が補っていかなければいけない。
 親鸞は何故善導仏教を時代遅れと言ったのか。善導仏教は、依然として戒律を重要な柱としている。善導は戒律を仏教入門の条件にしなくなったが、入門後の条件にはなっている。善導、親鸞の時代は、現代のようにインターネットが発達している訳ではない。街に書物が溢れているわけでもない。ハイウエーを車で一晩走れば、京都や奈良の寺に行けるということでもない。
 善導は、戒律を仏教入門の条件にしないと言った。しかし、戒律を無視していいとは言ってない。書籍はほとんど寺院が独占している。学問は寺で学ぶものだ。寺は、小学校であり、中学校であり、高等学校であり、大学である。いつの時代も学校には学校のルールがある。学校のルールを破れば退学になる。例えば、早稲田大学の学生が早稲田大学のルールを破れば、早稲田大学からは退学処分を受けるだろう。善導大師は、ルール違反をしても仏教の最高権威としては学生として認識するぞと言う。しかしそのことと、早稲田大学には学生処分権も無いということとは話が違う。早稲田大学には早稲田大学固有の秩序がある。大学固有の秩序は、仏教の最高権威者が学生として認識上で排除しないぞと言う話とは無関係である。仏教の最高権威者が、最高権威者として学生として認識するぞと言うのは、抽象的観念的な話である。大学に所属しなければ学生とは言えないのか、それとも、大学に所属しなくても学生と言えるのか。大学に所属しなくても、学生のつもりで勉学に励んでもおかしなことじゃない。念仏だけは称えなさい。善導はそういうのだ。念仏を称える者は、学生として善導は認識するぞと言う話と、学校には学校の秩序があるというのとは、別の次元である。
28渡海 難 p07-dna34yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/18(月) 21:27
 実際に、現実に仏教を学ぶには書を読む。思索を行う。善導はそういう(五正行)。こういう行為が必要なら、仏教を学ぶには寺院という舞台が必須となる。書は寺院が独占している。思索活動といっても、善導の思索は単なる瞑想ではない。極彩色の絵画を見て、目をつぶりその情景を瞼の裏で復元する。極彩色の絵画も寺院が独占している。善導仏教はやはり戒律が条件となる。
 戒律が条件となるなら、戒律が社会の間尺に合わなくなった時代にはどうなるのか。法然のような戒律の権威者でさえ流罪となる時代である。まして親鸞は、二度と仏教界には戻れない前科者となった。親鸞は、善導によって、善導流の抽象的観念的世界では辛うじて仏教者として残っても、善導が言う五正行は実質的にできない。親鸞にできることは念仏だけである。念仏だけではだめなのか。だめと言えば何がだめなのか。念仏だけでいいと言えば、何がいいということになるのか。親鸞はそんなことを考えている。念仏だけではだめだといえば、仏教は、千年、一万年を限度とした一時的な寿命の中にある迷いの論理ということになるではないか。所詮、気安めの世界ではないか。親鸞はそんな疑問を突きつける。
29渡海 難 p105-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/19(火) 11:45
数日間、カキコできません。
30名無しさん@1周年:2000/12/21(木) 09:02
あげ
31渡海 難 p07-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/22(金) 18:18
 釈迦には二通りの仮説が成り立つ。釈迦は、何ら真実を悟ってないという仮説。釈迦は、揺るぎない真実を悟っていたという仮説。釈迦に対しては、この二つを睨みながら思索を重ねていく必要がある。
 仏道の修行に五正行が必要であれば、仏道の修行は戒律保持が必須の要件となる。戒律は価値観を背景とする。価値観は時代や社会で変化する。釈迦在世中の戒律を保持しなければ仏道修行ができないとすれば、仏道は滅んでいく。正像末滅の道をたどる。千年あるいは一万年を限度とした有限の命である。始めがあり、終わりがある。これは生老病死するものだ。生老病死するものは無明を因とする。迷いの因果にある。いくら釈迦は偉かったと言っても、真実の道を歩んだ人とは言えない。
 揺るぎない真実を悟っていたと仮定すればどうなるか。真実に無明はない。仏道は永遠のものであり、生老病死するものではない。生老病死するものではないとすれば、戒律が必須の要件となるものではないなずだ。
 釈迦の教えの原点に戻って考えてみよう。釈迦は弟子にいつの時点で戒律を与えたのか。祇園精舎に入門してきた生徒に釈迦は最初に自己紹介し、自分を先生と呼びなさいと言ったはずである。ここで人々は始めて先生に会い、先生を「先生」とよぶべきことを教わった。
 釈迦を「先生」と呼称することを教わると、生徒は先生から学校の規則を渡された。生徒は、渡された規則を守ることを先生に誓い、授業が始まった。規則を破れば生徒は退学となる。しかし、規則を破っても、先生を心から「ああ先生」と呼ぶ人は、先生は退学させなかっただろう。先生は、警察官でも裁判官でもなかったはずだからである。それなら、先生を先生と呼ぶ行為は規則に優る。戒律を前提にしない唯一の行である。仏教の修行は称名念仏から始まる。戒律を前提にするする全ての修行法は、文字通り称名念仏が原点にある。戒律を破った弟子達も、称名念仏だけは許された。称名念仏は、戒律を前提にしない唯一の修行方法である。
 仏道の修行は、称名念仏を原点として次に戒律がある。戒律を前提にして仏道入門者は善導の五正行を修行する。善導の五正行を満たすと小乗段階を終える。善導の五正行は大乗段階に進むことを前提に組まれている。小乗段階を終えた生徒は、大乗段階で曇鸞と世親の五念門を学ぶ。礼拝・讃歎・作願・観察・回向という段階を経て仏になる。
 善導は、称名念仏を正定の業と呼ぶ。念仏を称える者は極楽浄土の並となる。極楽浄土すなわち仏道界に入る条件はなにか。それは称名念仏である。称名念仏があれば仏道界に入る。仏道界に入るだけなら他の五正行はいらない。
 龍樹はいう。念仏を称える者は、必ずや歓喜地に至る。歓喜地とは大乗段階である。念仏を称える者はそれだけで必ずや大乗段階に至る。
32渡海 難 p07-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/22(金) 18:20
 像法時代の高僧曇鸞はその著書で言う。南無阿弥陀仏は五念門の内、礼拝・讃歎・作願の三つを満たす。回向は往相の回向と還相の回向とがある。往相の回向は、南無阿弥陀仏によって極楽浄土に入るということで満たされてくる。南無阿弥陀仏によって礼拝・讃歎・作願・往相の回向までが満たされてる(行の巻)。
 釈迦如来隠れましまして 二千余年になり給う 正像の二時は終わりにき 釈迦の遺弟悲泣せよ 末法五濁の有情 行証叶わぬ時なれば 釈迦の遺法尽く 竜宮に入りたまいにき(正像末和讃)。
 全ての修行方法が崩壊した時代。この時代にあって、なお称名念仏は唯一有効である。釈迦は真理を悟った。そして真実の修行方法を説いた。しかし、一つを除いて全ては時代とともに意味を失っていった。全て生老病死した。そう考えれば、他の修行方法は、残った唯一の修行方法を最終的に選択させるための手段であったとは言えないだろうか。残された一つが、紛れもない真実の修行方法だったのではないか。
 称名念仏は、確かに仏道修行の入り口の入り口である。しかし、他の全ての修行方法が無効になった現代では、その入り口が尊い。なぜなら、入り口であっても紛れもなく真実だからだ。称名念仏は、釈迦が間違いなく弟子達に教えた真実の修行方法である。確かに在世中は入り口の修行方法として説かれたかもしれない。しかし、他の全ての修行方法が崩れた今となって分かることは、真実の修行方法だからこそ、最初に説かれたのではなかったか。
 善導は言う。念仏だけで仏道修行界に入る。龍樹は言う。念仏だけで大乗段階に至る。曇鸞は言う。仏となる修行の内、礼拝・讃歎・作願が念仏だけで満たされる。往相の回向も満たされると思っていいだろう。残るは、観察と還相の回向である。
 称名念仏は仏になるための修行方法の内、観察と還相の回向以外の全てを満たす。よく考えて欲しい。時の流れと共に一切の修行方法が崩壊し、称名念仏だけが残った。称名念仏だけが残ったという称名念仏の尊さに注目してほしい。その尊さは絶対の尊さだろう。生老病死のない尊さだ。そう考えれば、念仏を称えているというその尊さは、不完全なものじゃない。不完全なものじゃなければ、自ずから観察と還相の回向もあったものとして評価として満たされるはずだ。末法、法滅の時代にはそう観念できるだろう。釈迦は真理を悟った。釈迦は真理の道を説いた。真理の道は決して生老病死するものじゃない。千年一万年で消えるものじゃない。そう考えれば、釈迦は、観察と還相の回向が残っていても、他の全てを満たす修行者には観察と還相の回向も満たしたものと評価できるものだろう。
 観察と還相の回向は、末法・法滅の世には尊さによって満たされる。そう観念できるだろう。そう観念できるなら、南無阿弥陀仏は五念門の全てを満たす。南無阿弥陀仏で全てが満たされれば、人は大乗の仏になる。そう評価できる。観念できる。
33渡海 難 p07-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/22(金) 18:21
 末法の世に、仏道の入り口だけでも修行する人、南無阿弥陀仏を称える人は、釈迦の時代に釈迦の正法を修行して賢人哲人となっていった人と尊さで等価である。そう観念できる。この現代において、南無阿弥陀仏は真実の修行方法である。親鸞はこのような主張を展開していく。
 観無量寿経で釈迦はいう。「一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。」原義は、そのように観察念仏を行えと言う意味だろう。善導は観無量寿経のこの念仏を、称名念仏として引用してくる。親鸞は善導を踏まえてさらに発展させて言う。「いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず」。念仏を行信する者は、必ず極楽浄土に転入する。必ず仏になる。そういう意味で議論してくるのだ。
 善導は、大乗の教育者として学習課目には、人々を指導していくような人々に育つカリキュラムを組んだ。しかし、極楽浄土に至ることは必ずしも他人を指導する人になることを保証するものではなかった。小学校一年生に入ると言うことは、必ずしも他人を指導する人になることを意味するものではない。学習生徒の一人になるに過ぎない。しかし、曇鸞では、極楽浄土に至ることは大乗教育課程に進学することであり、将来必ず教師になることを意味していた。
 親鸞は、仏になることを評価論として捉えてこれを観念化した。親鸞は、善導の概念と曇鸞の概念を重ねる。概念を重ねて観念する。念仏を称えることは極楽浄土に至り、人々を指導していく人になることに等しい。そのように評価論的に観念する。そこに摂取して捨てたまわずという言葉を更に重ねるのである。
34渡海 難 p05-dna31yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/22(金) 18:24
(-_-;) フー疲れた。
 いささか多忙です。しばらく休みます。
35名無しさん@1周年:2000/12/22(金) 23:28
渡海 難という人の、ネット上(例えばこの2ch)での言動をあまり見ないで、ここを読んでいる人へ。

この人の書いていることは、思い込みがほとんどです。
さらに、他人からの客観的な批判を受けつけません。
要するに、この人がこの掲示板に文章を書く目的は、自分の主観にもとづいた仏教解釈を他人に押し付けること、それだけのようです。(これまでの言動を見ているとそう判断せざるを得ません)

仏教解釈というか、これは一つの思想といえるかも知れません。
しかし渡海 難という人のネット上での言動を見るにつけ(現実世界では知らないので)、人格形成上、あまりいい影響を及ぼす思想ではないようですので、どうぞご注意を。

渡海 難さん、この書き込みにレスは不要です。
貴方が他人の言葉に耳を傾けないように、私もこのスレッドにおける貴方の書き込みは読みませんので。
36名無しさん@1周年:2000/12/24(日) 08:29
あげ
37渡海 難 p09-dna30yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/25(月) 16:50
 超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

「正法」とは何か。親鸞は行の巻きで平等覚経を引用する。平等覚経とは大無量寿経の異訳本だ。平等覚経は言う。「ただ清浄に戒を有てる者、いまし還りてこの正法を聞く」、と。
 正法は、戒を正しく保つところで実現する。正法は、釈迦入滅後、五百年間続く。五百年程度は、大きな価値観の変動は無いと考えられ、釈迦の時代の正義は自ずからその正当性を主張できると考えられていた。大きな価値観の変動が無い限り、仏教本来の教も行も証もある。
 価値観にズレが起きてくると仏教は像法の時代に入る。像とは、かたち、すがたという意味だ。ここに実体は伴わない。戒律を守る人には形ばかりの尊敬を払う。教と行はあるが、人々と心を共通にし、正しく人々を導ける真の指導者の登場は極めてまれになる。
 末法の世になると、社会の価値観は釈迦の時代の価値観と大きく異なる。釈迦の世の戒律を守る人はいない。釈迦の世の戒律を守る人に人々は見向きもしない。戒師とよばれた法然上人でさえ流罪となる。教はあるが行も証もない。
 超世希有の正法とはどういうことか。本来、正法は超世でありえない。親鸞は何を考えているのか。この場合の正法とは、戒律と運命を共にする意味の正法ではないだろう。仏になる道を時代を超えて人々に明らかにしている真実の教えという意味だ。念仏の法という意味だろう。念仏の法は、実に世を超えて人々に真実を明らかにする法である。親鸞は言う。どうかそのような正法に真剣に耳を傾けて欲しいと。
 聞とは聞き遂げるという意味だろう。思とは考えるという意味だ。聞くだけではいけない。思だけでもいけない。どうか、心から頷けるまで聞いて欲しい。心から頷けるまで考えてみて欲しい。そういっている。遅慮することなかれとは、怠りなくという意味だ。
38名無しさん@1周年:2000/12/27(水) 10:56
あげ
39渡海 難 p01-dna31yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/28(木) 09:39
 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。

 西蕃の聖典とは、インドの哲人つまり龍樹の易行品を指す。経典も含んでいるのかも知れない。西蕃とはインドを指す。月支の聖典とは、世親の浄土論を指す。月支とは、アフガニスタンパキスタン国境付近を指す。東夏の師釈とは、曇鸞・道綽・善導などを指す。東夏とは中国である。日域の師釈とは、源信と源空を指すのだろう。
 ここにとはどこか。今遇うことを得たりの今とはいつか。これが問題になる。口伝鈔は親鸞が関東時代、一切経の校合(きょうごう)に参加していたことを記している。校合とはいわば間違い探しだ。一切経とは経典ひとそろいをいう。当時、関東武士は京都に対抗して一大文化圏の構築を目指していたのか、修理亮時氏という人が一切経を集めている。一切経は書写によって収集する。書写には間違いが多いことから、その間違い探しをする必要がある。高い学僧が検査委員に当たる。親鸞はその一人として呼ばれている。親鸞は袈裟を着て出かけている。関東の親鸞は、妻帯していても僧として扱われたらしい。関東では妻帯僧も認められていたのだろう。親鸞は、身寄りの無い子を引き取る児童福祉施設のようなことをしていたのではないかと想像する。
 流罪を経験した親鸞はここで、読むことを永久に諦めていた仏典と出会う。教行信証はこうして関東で書かれたものなのである。
40心乱:2000/12/28(木) 18:25
結論まあさてあらん
41渡海 難 p07-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp:2000/12/30(土) 09:34
ここに愚禿釈の親鸞

 親鸞という人の名乗りを確認しておきたい。「禿 親鸞」これが正式名。愚とは謙譲語だろう。釈とは釈氏つまり仏弟子という意味だ。

真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって聞くところを慶び獲るところを嘆ずるなり。

 信の対象は教行証である。これが親鸞仏教の構造である。親鸞仏教の構造は、信じて行じるという構造ではない。親鸞仏教は、行も含め教行証が敬信の対象となる。本願を信じて念仏申すというのは、歎異抄に始まる歎異抄仏教である。
 信の対象は、真宗の教と真宗の行と真宗の証である。真宗の教とは大無量寿経である。大無量寿経には、釈迦をモデルに画いた架空の仏が登場する。架空の仏が、祇園精舎をモデルにした架空の極楽浄土を創建するという話が展開している。
 親鸞は、真理を人格として捉える。真理は人格として認識できる。人格的に躍動する真理の心、真理の理念を、大無量寿経に描かれた架空の仏と架空の極楽浄土とを通じて親鸞は学ぶ。真理は何と言っているのか。真理は、自分を真理と呼べと教えてくれているのだ(教)。真理を「真理」と称え、「真理」と念じれば(行)、真理と認識を共通にする。真理の認識界に転入する(証)。親鸞は、大無量寿経からそのような仮説を立てる。親鸞は、仮説から見えてくる釈迦の心、真理そのものの心を見つめ、彼らの認識の素晴らしさを称讃する。我々に念仏行を推薦してくる。

 教行信証総序に関する提唱は、これをもっていったん終りまできました。
 ご静聴ありがとうございました。
42名無しさん@1周年:2000/12/31(日) 14:14
あげ
43あげ:2001/01/06(土) 16:55
あげ
44名無しさん@1周年:2001/01/06(土) 18:27
45名無しさん@1周年:2001/01/06(土) 23:26
渡海 難という人の、ネット上(例えばこの2ch)での言動をあまり見ないで、ここを読んでいる人へ。

この人の書いていることは、思い込みがほとんどです。
さらに、他人からの客観的な批判を受けつけません。
要するに、この人がこの掲示板に文章を書く目的は、自分の主観にもとづいた仏教解釈を他人に押し付けること、それだけのようです。(これまでの言動を見ているとそう判断せざるを得ません)

仏教解釈というか、これは一つの思想といえるかも知れません。
しかし渡海 難という人のネット上での言動を見るにつけ(現実世界では知らないので)、人格形成上、あまりいい影響を及ぼす思想ではないようですので、どうぞご注意を。

渡海 難さん、この書き込みにレスは不要です。
貴方が他人の言葉に耳を傾けないように、私もこのスレッドにおける貴方の書き込みは読みませんので。

っていうか、いいかげんこのスレほっときなよ。うざったい。
46渡海 難 p59-dna33yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp
「45 名前:名無しさん@1周年」のカキコはこのスレッドの風物詩になっているみたいね。ご愛読を感謝します。
 これだけ愛されるなら、教の巻も続けないといけないのかしら?歎異抄もいい。大無量寿経の議論もいいね。
 それにしても、お坊さん達はおとなしいね。
 お坊さんというのは、外車の話、スキーの話、海外旅行の話が一般に大好きみたいだね。インドに行き、中国にも行って来ましたなんてことを得意気に話す人がいる。最近はデジカメの話も好きみたいだ。お葬式の話も喜ぶ。ただし、お葬式の対価の話は葬儀屋さんを介さないと不機嫌になる。これ以外の話題は失礼なんだ。
 教行信証の話をすると不機嫌になる人が多い。もちろん不機嫌にならない人もいる。不機嫌にならない人は、声を出さない。口も利かないようだ。そんな話には関心もないんだろう。
 教行信証は大切な本だから、仏壇に丁重にしまってあるという坊さんがいた。浄土真宗では、死んだ人を懇ろに仏様にしてくれる呪術的小道具のひとつらしい。