219 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
>>152 詭弁を弄する298を相手にしてもしょうがない。六字のいわれに秘密などはない。六字のい
われとは何か。298の大好きな御文に聞いていこう。 御文三帳目二通である。
>217
> 298様以外に、信心を獲得されたと思われる方は、ここにおられ
ますでしょうか。
信謗共にあるべし。宗教では看板嘘にまみれたものはない。
それ諸宗の心まちまちにして、いずれも釈迦一代の説教なれば、真にこれ殊勝の法なり。
仏教には大乗仏教と小乗仏教がある。大乗仏教にも聖道門と浄土門がある。聖道門にも様々な
教えがあり、浄土門にも様々な教えがある。釈迦一代の教えは、一説では八万四千の法門がある
と言われている。これらはいずれも素晴らしい法である。
もっとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑いなし。
いずれの教えであっても、これらを丁寧に修行していけば、必ずや仏に至る道を得る。このこ
とはいささかの疑いもない。
220 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:28:53 ID:uH1T15bS
>219
しかるに、末代このごろの衆生は、機根最劣にして、如説に修行せんひとまれなる時節なり。
しかし、これらの教えの全てが、現代という時代に生きる人々にとって最適であるという訳で
はない。実に我々は、時間に追われ、諸事に追われている。仏道を歩もうとすれば、我々を取り
巻く環境条件は最悪である。教えの通りに仏道を修行する人は極めて少なくなった。まさに現代
はそういう時代である。
ここに弥陀如来の他力本願というは、いまの世において、かかるときの衆生をむねとたすけ救
くわんがために、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、造悪不善の衆生を仏になさ
ずは我も正覚ならじとちかごとをたてましまして、その願すでに成就して、阿弥陀とならせたま
えるほとけなり。
阿弥陀如来というのは、現代において、このような人々を主眼として救おうと、五劫という長
い時間思惟を続け、非常に長期間修行を積んだ。造悪の人々を仏にさせないかぎりは、自分も仏
にならんと誓いを立てたのである。
かつて、祇園精舎を創建した釈迦は、戒・定・慧という三学を柱にし、教育者として教壇に立
ち、多くの人々を育てた。自分の得ている認識を、人々との共有の財産として、共感的に享受で
きるようにならなければ、真の教育者になったことにならない。大乗の仏になったとはいえない。
そう信じて、教育活動をライフワークとして取り組まれた。
釈迦から教えを受けた弟子達は、自らも釈迦の後を追い、教壇に立って多くの人々を育てなけ
ればならないと考えた。これが大乗仏教である。
221 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:29:42 ID:uH1T15bS
>220
大乗仏教の先人達は、釈迦をモデルにして一人の理想の教育者像を創作した。それが阿弥陀仏
である。阿弥陀仏というのは宇宙のどこかにいる神でもなければ、梵天でもない。釈迦をモデル
に描いた架空の教育者である。阿弥陀仏は、釈迦が祇園精舎を建設したように極楽浄土を建設し
た。極楽浄土は、祇園精舎をモデルにした架空の学校である。
大無量寿経は阿弥陀物語を語る。阿弥陀物語で、大乗仏教の先人は、学校教育の基本原理を説
く。阿弥陀仏は、非常に長い間、修行を積んだという。阿弥陀仏を理想とし、釈迦のような教育
者になれ。大無量寿経は若者にそう説いている。極楽浄土を理想とし、祇園精舎のような学校を
建設せよ。若者にそう説いている。
極楽学校には、多くの人々を入学させよ。大無量寿経十八願は、基本的教育原理の一つをその
ように説く。どのような場所、地域にいるものでも、自分の名声を聞きつけ、自分を先生と仰ぎ、
あの先生の下で学習を積みたい。そのように思う者は必ず招き入れよ。
善導は、隋から唐に移り変わっていった戦乱の時代に生きた。荒廃した教育環境の中で、若者
に勉学を説いた。親兄弟、他人まで騙し、傷つけ、あるいは殺し、自らも心身共に傷ついた者で
あっても、身と心を癒しながら勉学に志せ。心の傷は一朝一夕には癒えるものではない。傷の癒
えない者は念仏を称えよ。善導はそう教えた。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏と称える者を、必ず自
分の学舎に招くと誓っている。阿弥陀の言葉を信じ、念仏を称え、心を癒しながら勉学に励め。
善導はそう説いたのだ。
末代いまのときの衆生においては、このほとけの本願にすがりて、弥陀をふかくたのみたてま
つらずんば、成仏するということあるべからざるなり。 (続く)