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渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
親鸞会・除名の真相2で、法礼の案内が消えているという記述がある。法礼の案内があったと
いうことは、僕は見落としていた。何か書いてあったんだろう。
今回、渡部弘宣部長と清森義行さんとのやりとりをみたが、法礼を受け取ることの教学的な根
拠の説明が清森義行さんはまずいと思う。
法施を受けるという考えは、恐らく華光会から流れてきているんだろうと思う。ただ、親鸞会
が法施という言葉を使用し、そこに込めている意味は、まさに外道の標本のようなものだ。
親鸞は法施など受けていない。親鸞は供養を勧めている。法施と供養とはどう違うのか。両者
はとんでもなく意味が違う。葬式仏教では教義上の矛盾など問題にならないが、聞法を重視する
集まりでは、教義上の矛盾は致命傷となる。法施を受けると言えば、親鸞などは目の色を変えて
ビックリするだろう。法施と供養とは概念が全く違う。
清森さんグループは、お粗末極まりない高森流二枚舌教学の殻を破れないからどうしようもな
いんだが、法礼は自分たちの生命線だろう。親鸞がこの件についてどのように考えていたかとい
うことぐらいは、二枚舌の高森さんに頼らず、自分たちで親鸞の文書をきちんと読み、どこの誰に
でも恥ずかしくなく自分たちの見解を述べられるようにしておくことは大事だろう。
鎌倉時代の人の考えをストレートに現代に適用しろなどと、僕はそんな教条主義を主張するつ
もりは毛頭ないが、親鸞会を飛び出しても、もともと破綻している二枚舌教学をそのまま背負い、
二枚舌教学の延命策に肩入れしているんじゃ、清森さんも高森転覆道と同じ道を歩むだけだ。あ
まりに能がない。