【親鸞聖人が】浄土真宗親鸞会【泣いている】

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218渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
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> 仏法である以上はそういう精神は「自力・他力」「信前・信後」を問わず大切なことでしょう。

 仏教は対機説法なんだ。親鸞は、正定聚の機に説かれている教えと、不定聚機に説かれ
ている教えと、邪定聚機に説かれている教えとに分け、自分に説かれている教えは何かを
きちんと分別していくことを勧めてくれている。

 「念仏なんかいやだ。おれはおれで好きな道を行くんだぁ」と、人の話にろくすっぽ聞く耳を
持たず、腹が邪(よこしま)に定まってしまったいる人には、釈迦は観無量寿経、あるいは聖道
門などの多彩な教えをいろいろ説いたんだ。布施行なども含まれる六波羅密などの行も、「念仏
なんかいやだ」と言っている邪定聚に向かって説かれている。定善・散善は邪定聚に向かって説
かれたている。だから、定善・散善の行は浄土の要逢いがたしなんだ。

 念仏に腹が固まっているんわけじゃないが、ブッダの言葉を素直に聞こうといって、心に自由
さのある人、つまり不定の人には念仏だけを説いている。外はしなくていいから、念仏だけしなさ
いよと教えている。一心不乱の念仏(阿弥陀経)は真実に至る門なんだ。

 「この上は念仏を念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」
「念仏を称えたらどうですか」と言えば、「そんなのは嫌だ」と頑固に抵抗する人、つまり念仏宗
から見れば邪に腹が固まっている人は、観無量寿経のような教えに進むといいでしょう。しかし、
そこでは浄土の要逢いがたし。
 念仏を称えましょうと、素直に聞く耳のある不定聚機には、阿弥陀経を学ぶといいですよと言って
いる。

 親鸞は、腹は固まって無くても、聞く耳のある人には念仏を勧める。邪定聚機の高森流の自己
解釈を真似るのはやめたいものだ。