>>294 邪定聚の機には念仏を勧めない。ほとんど勧めない。その代わり定善・散善を勧める。
定善とは精神統一であり、散善とは廃悪修善である。邪定聚の機とは、タイプが様々であ
り、しかも念仏ではくくれない。だから念仏以外の様々な教えが含まれている。これは定
善(精神統一)又は散善(廃悪修善)という大きな枠組みでくくることができる。ただし
これらは、浄土の要に逢うことはできない(化身土)。
邪定聚の機に説かれている教えは、「浄土の要に逢うことはできない」ということは大
事なことだ。これは不定聚の機にいくら説いても、「浄土の要に逢うことはできない」。
当たり前のことだ。
熱心に勧められれば「それじゃ念仏を称えてみようか」という気を起こす人、つまり不
定聚の機には、不定聚の機に説かれている教えを示さないといけない。不定聚の機に説か
れている教えとは、阿弥陀経なのだ。そこでは、一心不乱に念仏を称えよと説いている。
熱心に勧められれば「それじゃ念仏を称えてみようか」という気を起こす人には、阿弥陀
経を中心に話をしなければならない。
不定聚の機というのは、真実の信心があるわけではない。勧められれば念仏を称えるが、
勧められなくなれば念仏は止まってしまう。定善や散善を説かれれば、その方に移ってい
く。実に可塑性に富んでいる。念仏を勧められなければむしろ定善が肌に合っているとい
う人、念仏を勧められなければむしろ散善が肌に合っているという人、がいる。そいうい
う人々がいるのだ。
定散自力の念仏は 果遂の誓いに帰してこそ おしえざれども 真如の門に転入する。
精神統一的に称える念仏でもいい。廃悪修善的に称える念仏でもいい。真実の信心がない
我流の念仏でいいんだ。念仏を称える者は決して捨てておかないぞという仏の誓いをたよ
ってずっと続けていけば、人は、続けていく中で、知らず知らずの内に真実の世界に入っ
ていくだろう。親鸞はそう教えている。
>>295 不定聚の機に説く教えを邪定聚の機に説いたらどうなるか。
「この上は念仏を採りて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなり」。自
分から去っていくだろう。
信謗共にあるべし。邪定聚の機は念仏の集まりから去っていく。これは追いかけてはい
けない。無宿善の機に至りては力およばず。邪定聚の機には、無闇に念仏の話をすべきで
ない。当流の他力信心の一通りを勧めんとおもわんには、まず宿善無宿善の機を沙汰すべ
し。仏法の話をしようと思えば、まず、相手が邪定聚の機か不定聚の機かを考えないとい
けない。相手は、念仏を勧めれば念仏を称えるような人か、念仏を勧めても念仏を称えな
いひとか、そこをよく考えるべきだ。
高森さんの大きな間違いは、邪定聚の機も不定聚の機も、見境無く誘うことだ。邪定聚
の機にも不定聚の機にも、見境無く声を掛け、邪定聚の機向けの仏法(観無量寿経)を説
き、極楽浄土に往生できますよと、大風呂敷を広げる。邪定聚の機向けの仏法を聞けば、
人は正定聚になるのか。そんなことはないんだ。
念仏嫌いの邪定聚の機の高森さんは、自分が邪定聚の機、無宿善の機であることを知ら
ない。それで宗教商売に手を出した。ここが間違い。邪定聚・不定聚・正定聚の関係が、無
茶苦茶なのだ。