【浄土真宗】妙好人と学ぶ5【信心獲得(決定)】

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231渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
>228
 釈迦は、祇園精舎に生徒が入学してくると、自分から先生と名乗り、生徒に先生と呼ばせた。
自分を「あほ・ばか・あんぽんたん」という人間には、ものごとを教える責任はないと考えた。
しかし、自分を「先生」と呼ぶ者には、全力で真実を教えた。祇園精舎の外であっても、自分を
先生と呼ぶ者には全力で真実を教えた。だからこそ、人々は釈迦を無量寿仏、無量光仏、つまり
先生と呼んだのだ。
 阿弥陀仏を阿弥陀仏と呼ぶ者、南無阿弥陀仏と称える者は阿弥陀仏の仏弟子となる。必ず智慧
の光の中に摂取される。祇園精舎の生徒は、先生の心が分からなくなると、一人静かに結跏趺坐
し禅定に入った。念仏は座禅しながら行うのが原則である(行の巻)。座禅しながら南無阿弥陀
仏・南無阿弥陀仏と称えてみるがいい。繰り返し、繰り返し称えるといい。人生の困難にあって
見えなかったものが、そのとききっと見えるようになるだろう。念仏を称えよ。念仏を称えよと
いう言葉の中には、人生の危機に望んでそこを脱する仏の智慧が溢れている。光に溢れている。
 称名念仏する者は必ずや極楽浄土、阿弥陀仏の学舎に至る。阿弥陀仏の第十八願はそう説く。
第十八願は、死をその条件としてない。極楽浄土に到達することは死をその要件としない。しか
しその時期は、肉体の死の前にあることを保証するものではない。ある者は、肉体の死の前にあ
るだろう(不体失往生)。必ず死の前にあるということまでは意味しない。
 念仏を称える者(正定聚)になるということは、必ずや極楽浄土に至る者となるということで
ある。必ずや極楽浄土に至る者となるということはどういうことか。正定聚として生涯、死ぬま
で念仏を称えた者は、そのひたむきな素晴らしい人生全体について、賞讃されるということであ
る。それは、死の瞬間をもって極楽浄土に到達したと、釈迦を始めとして全ての仏道者からその
ように評価されるということである。これが阿弥陀仏の意味である。
232渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:51:47 ID:uH1T15bS
>231
 されば、世間に沙汰するところの念仏というは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなうれば、
助かるように皆人の思えり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさよ
うに沙汰するかたもあり。是非すべからず。

 世間の人が議論している念仏では、いたずらに口先だけで南無阿弥陀仏を称えていれば助かる
というような意味のことを言い、人々はそのように信じている。これでは心許ない。確かに、法
然上人の流れを汲んでいる浄土宗一門の中でそのようなことを言っている人もいる。そういう人
とは特に議論すべきではない。

 これはわが一宗の開山のすすめたまえるところの、一流の安心の通りを申すばかりなり。
 親鸞聖人の開いた浄土真宗が推進する浄土真宗の教えは以上の通りである。

 宿縁のあらんひとは、これをききて、すみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
 たまたま浄土真宗に興味を持った人は、この話で速やかに今の生き方の中で、回り道無く極楽
往生を遂げるべきである。

 かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなえて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまえ
る御恩を、雨山にこうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。

 このように分かれば、南無阿弥陀仏を称えようではありませんか。阿弥陀如来は、本願に基づ
き、阿弥陀仏を水先案内として念仏を称えようとそう思う者を簡単にお救い下さる。このご恩に
報いるために、持続的に称名念仏をつづけるべきである。

 あなかしこ、あなかしこ。  文明六年八月五日書之