1 :
日本@名無史さん:
\
お そ .い ヽ
か の や |
し り ` ,. - 、
い .く / /⌒ i'⌒iヽ、
つ / ,.-'ゝ__,.・・_ノ-、ヽ
は i ‐'''ナ''ー-- ● =''''''リ _,....:- ‐-.、
l -‐i''''~ニ-‐,....!....、ー`ナ `r'=、-、、:::::::ヽr_箸墓古墳は3世紀後半の建設だから・・・
 ̄ \ヽー' !. t´ r''"´、_,::、::::} ノ` ,.i'・ ,!_`,!::::::::::::ヽ
ヾ、 ゝゝ、,,ニ=====ニ/r'⌒; rー`ー' ,! リ::::::::::::ノ
i`''''y--- (,iテ‐,'i~´,ゝ'´  ̄ ̄ヽ` :::::::::::ノ
.| !、,............, i }'´ _ 、ー_',,...`::::ィ'
●、_!,ヽ-r⌒i-、ノ-''‐、 ゝ`ーt---''ヽ'''''''|`ーt-'つ
( `ーイ ゙i 丿 ;'-,' ,ノー''''{`' !゙ヽノ ,ヽ,
`ー--' --'` ̄ `ー't,´`ヽ;;;、,,,,,,___,) ヽ'-゙'"
(`ー':;;;;;;;;;;;;;;;ノ
``''''''``'''''´
九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 17
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175407596/
2 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:23:53
3 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:25:23
4 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:28:13
記念の2ゲット
いつも携帯から見てるんだけど、AASが見れない…
>>1乙
6 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:49:26
邪馬台国は7万戸という最大の人口を抱えていたから
倭国を支配する事ができた
しかし奈良にはそんな人口を抱えるだけの米の生産力は無かった
1000 :日本@名無史さん :2007/04/20(金) 22:36:18
みんな、熱くなっているなww
自分はここ最近、いろいろ考古学の講演とか
見に行くようになったんだけど、
全体的な印象として、あと数年たてば、おそらく
邪馬台国畿内で決着するような雰囲気みたいです。
というのは、学会のほうでは、もう100%近くが畿内で
中国人で邪馬台国を研究している学者も殆ど畿内に傾いていて
そういう雰囲気らしいです。これは日本全国的に見てもそう見たいです。
たまにテレビで九州説を主張している学者さんも居ますが
テレビでは、畿内と九州で対に出ますが、
実際は、ほとんど異端扱いになりつつあり、孤軍奮闘という感じらしいです。
8 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:56:56
奈良の古墳がいくら古くなろうと邪馬台国は奈良とは関係ない事は明白なんだから
いい加減諦めて古墳の年代を古く捏造するのはやめて欲しいよね
こんなバレバレの捏造を平気でやってるようじゃ
有能な若手の研究者のなり手も居なくなると心配するよ
9 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 00:07:26
北部九州説をとる場合は、伊都国より短里1500に邪馬台国があるとの
ことになり、その場合には、帯方郡より、水行10日、陸行1月となる。
恐らく、末盧国に到達してから、邪馬台国までが、陸行1月ということ
になり、郡から末盧国までは水行10日ということだろう。
では、郡から九州北部まで、水行10日は妥当な日数なのでしょうか。
もし、妥当であれば、まんざらこの解釈もOKかもしれません。
10 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 00:13:12
弥生時代の終わりか古墳時代の初めに、何にも無い奈良によそから人がやって
来て、都市を作り、大和朝廷の礎になったということについては疑問の余地は
なさそう。
11 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 00:25:22
>>9 郡より10日はダメでしょう。
ヒント!
1596に秀吉との手打ち式に、朝鮮の釜山から、往路44日、復路73日をかけた
行程で堺を訪れている。釜山〜北部九州〜瀬戸内海〜堺
実際に稼働している日数だという反論が予想されるが・・
12 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 00:33:21
>>10 奈良は米の取れない未開の辺境地でほとんど住人も居なかったんだろうね
だからよそ者の九州勢がやってきても奈良にだけ割り込む余地があった
奈良には、てゆうか日本各地には何万年も前から
人が住んでるんですけど‥‥
15 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 01:13:00
>>1 乙
|┃三 ∩___∩
|┃ | ノ ヽ
|┃ ≡ / ● ● | <話は聞かせてもらったクマー!
____.|ミ\___| ( _●_) ミ
|┃=___ |∪| \
|┃ ≡ ) ヽノ 人 \ ガラッ
>>9 1万2千里という里数は当てにはならんのと違うか?
というのは、魏志の記述は、倭人伝以外でも
かなりイイカゲンみたいです。
1万2千里というのは適当だと思います。
また、あなたの解釈が正しいのなら、
奴国から邪馬台国までは直ぐそこの至近距離になり、
なぜ、わざわざ、水行○日みたいな書き方をしたのか分かりません。
普通に、北九州の伊都国・奴国と、投馬国・邪馬台国は
かなり離れあっていたのではないでしょうか?
17 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 02:10:22
>>9 古田説では、
(帶方郡→韓國)+(狗邪韓國→末盧國)=水行10日
となり、
(歴韓国→狗邪韓國)+(末盧國→邪馬壹國)=陸行1月
となる。
18 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 03:36:47
>>17 そんなふうに水行を前後に2回、陸行も半島と倭国内でそれぞれ2回するのであれば、
なぜそれを合計してしまって記載するのだッ!
ここが古田説に対する根本の疑念。
たとえばだが、「水行3日陸行25日、而して水行7日陸行3日」、と内訳を書くのならワカル。
それだと記録としての意味が大いにあり、軍事的な目的にもかなう。
軍事的な目的とは、もしこっち方面に緊張が生じても、晋の軍・官は適切に行動が取れるということ。
しかし合計してしまって「水行10日陸行1月」では、最初の下船の場所さえ大間違いする。
晋の官船は半島西岸でウロウロ、海賊にでも襲われてオダブツ、となるだろう。
「水行10日陸行1月」は、投馬国〜邪馬台国の行程とする昔からの解釈でいい。
それが最もすなおな読み方。
19 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 06:05:47
>>8 邪馬台国の比定地が不明確だから300年来の論争になっているのでは?
どこかが明白になっているのであれば、「どこが」「どのような理由で」
明白がお示しください。
>>16 九州説の松本清張氏も、萬二千余里を絶遠の地を示す数値と書き示してい
たので、私もそのように思う。鮮卑の東西も萬二千余里だから。
>>17 こんなのは、畿内説論者が、「南」は「東南」の誤りとする以上に暴論かと。
20 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 07:42:38
<<<!!!!!中国人の地球の果ては12000里だった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
21 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 08:15:56
>>9 同じ北部九州説を取っていても僕はルートに関してはそうは思わないのどっせ。
倭人は日数で距離を表す、ということに基づいて考えるに、倭人伝中にも里で表す部分と
距離で表す部分があることから日数の方を倭人の物言いと考えた場合辻褄が合う。
「帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って水行しながら韓国を通り・・・」
から始まるところがが魏使の謂いであり、通るルートである。
それに対し「彼らは、中国にやってきたりする時」とあるように
倭人側の物言いが水行十日陸行一月、なのであってルートはクヤ韓国あたりに上陸し
後は帯方郡まで陸行したと考えられる。中国船のほうが性能がよく又海岸線の地形に詳しいので
海岸に沿って水行出来たが、倭船は無難にマツラから壱岐、対馬など島々を結びつつ最短の水行ルートを
辿ったと考えて不思議ではない。
22 :
SOY:2007/04/21(土) 08:21:36
>>19 >九州説の松本清張氏も、萬二千余里を絶遠の地を示す数値と書き示してい
>たので、私もそのように思う。鮮卑の東西も萬二千余里だから。
○○氏が言っていたからという理由は論議では通用しないです。
>鮮卑の東西
魏志の注釈で萬二千余里。
後漢書では同じ部分が萬四千餘里と記述されていたかと思います。
確かにこの部分の記事には混乱が見受けられます。
しかし、この一例をもって萬二千余里の記述が全て絶遠とするのは少し荒い論理です。
例えば、漢書の西域伝では六千〜萬二千余里までの国々が地続きで記述されており、
どこまでが虚構でどこまでが虚構でないといったことが言えないことからも分かるように
必ずしも萬二千余里を虚構とすることはできません。
魏志倭人伝の萬二千余里が正しいかどうかについては、
以下のような他の部分の地理記事(これ以上にあると思います)や
日本の地理との整合性から検討されるべき問題であると私は考えます。
『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』
『又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里』
私は九州説であり、萬二千余里で大きな矛盾があるわけではないので、
わざわざこれを虚構とはしませんが、もし、これを虚構とするには
やはり、それなりの理由が必要かと思われます。
因みに畿内説に合わないからといった理由は理由にはなりません。
23 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 08:36:46
>>16「奴国から邪馬台国までは直ぐそこの至近距離になり、
なぜ、わざわざ、水行○日みたいな書き方をしたのか分かりません」
この水行二十日も又倭人の物言いです。倭人が船を使って投馬国へ行く場合水行二十日かかる、ということで
そのあとの女王の都がさらにその又南にあるという事ではないのです。
考え方としては
>>21参照。
倭人伝の時代の旅の実情はどうだったのだろう?
もちろん、整備された街道も宿場などあろうはずもないから
水行10日陸行一月といっても案外距離は進めなかったのでは?
25 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 09:19:43
>>22 同じ九州論者の清張氏はそのような見解であり、あなたはそうではない。
だから、一概には言えない。
いろんな解釈があるということなんですね。
26 :
SOY:2007/04/21(土) 09:49:14
>>25 >同じ九州論者の清張氏はそのような見解であり、あなたはそうではない。
>だから、一概には言えない。
>いろんな解釈があるということなんですね。
松本清張氏、九州説論者、畿内説論者に限らず、萬二千余里について
私と見解が異なる方は多くおられるかと思います。
文献全般に言えることですが、多くの場合、いろんな解釈があります。
慎重論を採るなら『一概には言えない』は模範解答かも知れません。
『○○といった理由で一概には言えない』とするなら、なお良しです。
それはとにかく、萬二千余里については、これからも意見が出され、
おそらく多くの方によって検証されていくことになると思います。
その中で私には思いつかないような意見をこのスレで得られれば幸いと考えています。
少なくとも私の論は完全ではありませんので… 多くの意見で補強する必要があります。
九州の東海岸の地図をみましょう。
水行に多くの時間が費やされたのは一目瞭然
28 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 11:41:13
>>19 壱岐国、対馬国、マツラ国、伊都国、奴国、フミ国などは女王国の北にあると考えられる。
自女三國以北其戸敷道里可得略載「女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できる」とはこれらのクニグニ、
ならびに「次有斯馬國次有己百支國次有伊邪國次有都國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國・・奴国がある。ここが、女王国の境となる所である」となって
ここまでが自女三國以北其戸敷道里可得略載「女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できる」のクニグニに当たり北部九州に納まる。
其餘旁國遠絶不可得詳 「女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、
それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない」
とは、女王国の南にあるクナ国ではあり得ず、今まで羅列したクニグニより
遠くにあるクニグニである。ということはさらに北、そして東に広がった地方と言えよう。
要するに万二千里と遠絶とは何ら関係が無く「北、そして東に広がった地方」がいわゆる遠絶であり、
>>21でも行ったように倭人の謂いで帯方郡までの道程を万二千里というのである。
29 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 12:28:32
>>28 読解力が低いので意味がわからない。ごめんなさい。
30 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 14:37:36
>>29 [萬二千余里の記述が全て絶遠とする] に対する反論です。
遠絶とは倭人伝の「それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない」ことを意味し
壱岐国、対馬国、マツラ国、伊都国、奴国、フミ国などは詳しく述べられているので違います。
また「次有斯馬國次有己百支國次有伊邪國次有都國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國・・
の30カ国も「奴国がある。ここが、女王国の境となる所である」とある事から邪馬台国連合30カ国であり
これも遠絶には当たらない。女王国の南にはクナ国があり、他に書かれていないことから南ではなく
女王国の北30カ国以外につまり本州に入ると遠絶のクニに当たると思うわけである。
「萬二千余里」が「絶遠」を表しているというのは全く違っていてそうではないことは
倭人伝の文脈からも明らか。これは
>>21を参照してくださいと、そのような事でいいでしょうか?
倭人が帯方郡に行く場合に消費した日数が書かれてあるだけのことである。
31 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 15:41:15
あくまで邪馬台国にかかる記述は、魏志の外国伝のなかの、烏丸・鮮卑・
東夷伝の最後の倭人条に書かれているものです。
比定地を推論するのも大切ですが、それがまずありきで、里数や方位に
ついてそれぞれ根拠付けしている現状は、九州説・畿内説ともに見受け
られます。
やはり、もう一度、魏志東夷伝のなかの倭人条という視点で考えていく
必要があると考えています。
過去の書き込みにもありましたが、邪馬台国に興味のない、第三者とし
ての古代中国の書籍の研究家に素直な見解を求めていくのが、一番かと
思います。
32 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 15:59:11
松本清張によると、「漢書地理誌西域伝」には次のように書かれている。
烏戈山離国(アレキサンドリア)…万二千里
安息国(ペルシア)…万一千六百里
大月氏国(中央アジア)…万一千六百里
康居国(中央アジア・アム)…万一千六百里
けい賓国(カシミール)…万二千二百里
これらを見ると、実際の距離をあらわしているとは思えないので、
感覚的な距離感を表しているのではないかと言う事らしい。
一万里を越える距離にあるとされる国は、直接的な支配をしていない朝貢する
だけの国ということらしい。
33 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:13:22
>>32 しかし、北部九州論諸氏は、この点を指摘すると、漢書は長里であって、
魏志は短里であると解釈できると反論します。
確かに、端数は付いているものの、これらの表示をみる限り、萬二千余里
の信憑性は??としか言いようがない。
陳寿は漢書を参考にして書いている節がふるため。ちなみに、大月氏国に
対し、魏国は宿敵の匈奴を挟み撃ちすべく、軍事依頼を申し出ている。
大月氏国は、広大な匈奴のまだ西の国なんです。
34 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:17:39
>>31 邪馬台国論争で、九州説といえば、明治時代から北九州との先入観があった。
だから、いろんな解釈が出てきた。これは北九州に邪馬台国を導くための
解釈といってもいいかもしれない。
畿内説の場合は、「南」を「東」に変えればいいわけだが。
九州にたどり着いたあと、陸行五百里で伊都国。あと、百里、百里で不弥国。
そのあと、南に水行二十日。さらに水行十日、陸行一月。
これで邪馬台国を北九州に納めるのは無理がある。
やはり、倭人伝の記述からは南九州が一番妥当と考えるほうが自然だと思う。
北九州にするためには、帯方郡の使いは邪馬台国まで行っていない、
卑弥呼は、魏の軍事力を恐れていて、本拠地をわざと教えなかった、
つまり、本拠地を隠すために、わざと遠くにあるように見せかけた、
というような解釈しかないと思われる。
>>34 いや、だからこそ、畿内なんだろう?邪馬台国は。
37 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:53:09
そんなワ畿内
38 :
猫厨改:2007/04/21(土) 16:55:26
延喜式と東国の地政学を徹底的に研究してみ。
方角の間違いを訂正するだけで何の矛盾も無く倭人伝なんか簡単に解けるぞ。
倭人伝を解くには主眼を東国に置いて考える事が非常に重要なんだよ。
過去の研究者諸氏達が倭人伝を解く事が出来なかったのは
主眼を西国に置き、東国を軽視していた為なんだ。
40 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 18:21:47
◇使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より以北に一大率を置いて諸国を監察し畏怖した。
北部九州に邪馬台国を比定する場合は、一大率の意味がわからない。
少なくとも、宮崎日向あたりを比定すると理解できる。
>>38 :猫厨改 :2007/04/21(土) 16:55:26
>延喜式と東国の地政学を徹底的に研究してみ。
これについて詳しく聞きたい。
>>42 言い忘れたけど、前漢代の一里はおよそ0.5km。
手持ちの資料だと1里=300歩=498m。
>>38 :猫厨改 :2007/04/21(土) 16:55:26
>延喜式と東国の地政学を徹底的に研究してみ。
捨て台詞はいて逃げないで、もっと詳しく。
去る者は追わず、来る者拒まず
延喜式と東国の地政学の話は面白そうだ。
48 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:53:05
>>41 薩摩を除く南九州一円(中心地を宮崎日向)を比定地にすれば問題なし。
50 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:02:41
帯方郡から邪馬台国までの距離が12000里であって、
この距離を水行10日、陸行1月で行くということですか。
当時の水行は、40−50里が一日の走行距離と何かで読んだことがある。
帯方郡から10日で北部九州までこれますか。
おそらく、潮待ち日数は含めないとする意見が出てきそうだが。
51 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:03:59
>>51 ヒントにすらなっていない。お前の説は完全に終了。
終了したか、おつかれ
54 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:26:24
>>51 40〜50里が水行? これは恐らく長里でのことだな。
あと、10日間で帯方郡から九州沿岸部も無理っぽいけど
末盧国から北部九州に邪馬台国を考えた場合。1月の陸行はもっと
無理っぽいっしょ〜
長里の事だったのかーーっ
56 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:35:41
>>52 北部九州説よりは現実性があるよ。
単に大陸の窓口で古くから交易があって栄えていただじゃん。
だからといって、イコール邪馬台国とは限らない。
倭国の30ケ国の一員であったのには間違いないから、それでいいじゃん!
57 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 21:36:30
>>50帯方郡から10日で北部九州までこれますか。
何度も言う様に魏使と倭人は航路が違うと思う。
魏使は帯方郡から船に乗ったが、倭人はマツラ国から壱岐、対馬を経て
プサンあたりを目指したのではないかと思う。
最短で行かないと航海には多少無理があったのでは。
いちいち持衰などを立てたくらいだし。
プさんといえば・・・倭人伝スレによくいるよね!
59 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:44:49
畿内で完全に決まりだろ。
そもそも、卑弥呼が登場する900年前に神武天皇が畿内を平定してる。
卑弥呼の時代にはすでに日本列島の大半は畿内の傘下だ。
すなわち、卑弥呼=神功皇后
900年って西暦ですか?
61 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 21:54:31
>>58そうそう。彼とは意見は違うところもあるけど
邪馬台国常連中の常連だから
最近入ってきてくれないので少し寂しい。
62 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/21(土) 21:54:33
>>59 卑弥呼は神功皇后にあらず。
イコールだというなら、後代の應神、仁徳天皇の寿命がそれぞれ
111歳、143歳となる超長寿を肯定しなければならない。
239年が神功39年を認容しているから、後代にそういう生物学的に
考えにくい不合理が生じてくる。
だから、卑弥呼が神功皇后にはなりえない。
64 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:04:05
*郡から10日でーーー
韓国内陸行ですから、水行は10日で十分です。
65 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:07:33
>>57 航路が違うのは勝手だけど、三国志の記述であって、魏国からみた傍国の列伝
だよ。魏国側からの記載にしなければ不自然です。
66 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 22:14:35
>>57 だから魏使側の航路と距離は最初から詳しく書いてあるでしょう。
水行十日陸行一月の方がむしろポツンと補足のような形で書かれてあるように見える。
これこそ倭人の航海日数も一応参考までに載せた証左である。
67 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 22:17:49
68 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:20:11
◇從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
古代中国の書籍研究家の方で、これをもって、陸行の解釈が可能と言われて
いる人がいるのですか?
69 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:27:09
>>66 三国志のなかで、烏丸国、鮮卑国、東夷諸国のなかで、朝貢する側からの
記載の例が他にあるなら、有力な考えとなるかもしれませんね。
でなければ、比定地ありきの辻褄あわせに思われて仕方がない。
70 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 22:28:58
71 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/21(土) 22:45:35
>>69 だから魏使側の航路と距離は最初から詳しく書いてあるでしょう。
倭人は距離を日数で表す、とあるように 倭人側の謂いとして水行十日陸行一月を載せてある。
だから「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 」
の記述とは水行と陸行が食い違っているわけです。
水陸両用ザク
73 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 00:04:48
あいや、お尋ね申す。
魏志倭人伝を読むと倭の使いが魏国へ渡り、また魏の国の使いも
倭の地へ数度ばかり来ておるようじゃな。
この魏側の使節団、総勢何人であったか、何処かに書いてはござらぬか。
浅学ゆえ識り申さぬ。研究書等こ示教賜わりますなら大慶至極。
74 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 00:55:33
>>73 たぶん書いてないと思う。
正始元年の場合は、梯儁等となっているし、正始八年のときは、張政等と
なっていて、人数は書いてないよう。
でも、どうしてそんなことを聞く?
75 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/22(日) 01:59:42
>>68 古田武彦
古田氏は自説の修正変更はしているのか?
著書「邪馬台国はなかった」では「歴韓國乍南乍東」を階段(鋸刃)状陸行としている。
>>73 「三国志烏桓鮮卑東夷傳」には派遣団規模が推測できるような表現はない。
>>38 :猫厨改 :2007/04/21(土) 16:55:26
>延喜式と東国の地政学を徹底的に研究してみ。
>方角の間違いを訂正するだけで何の矛盾も無く倭人伝なんか簡単に解けるぞ。
>倭人伝を解くには主眼を東国に置いて考える事が非常に重要なんだよ。
>過去の研究者諸氏達が倭人伝を解く事が出来なかったのは
>主眼を西国に置き、東国を軽視していた為なんだ。
この説を詳しく聞きたい。面白そうだ。
だから九州の東海岸の地図みろってW 水行の多さは十分理解できる。
そこから熊襲を避けるため水行を止めて反対側まで山を越えれば陸行の長さもわかる。その場合畿内説の陸行よりはるかに長く険しい。長さだけでなく平野だらけの畿内と違ってな。
日向の人数が少ないといっているのは九州の中・南部の考古学を知らないやつだな。しかも内陸部と北部の山間部も、海辺から南部に広がる広大な平野部も面積は十分にあるうえ、稲作の盛んさを考えれば古代ははるかに人が多かったはず。
>>38 その説を書いてみろよ。
広辞苑には普通に短里だと書いてあるんで短里の計算で十分。
>>38 :猫厨改 :2007/04/21(土) 16:55:26
>延喜式と東国の地政学を徹底的に研究してみ。
マジでその説を知りたい。
言い出しただけで終わるのは、こちらをイライラさせる。
朝からイライラしてるの?
牛乳飲んで気長に待て
81 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 07:33:29
魏志鮮卑伝(抜粋)
『東卻夫餘、西撃烏孫、盡據匈奴故地、東西萬二千餘里、南北七千餘里』
倭人条は、匈奴鮮卑東夷伝に引き続き書かれている。そのなかで、現在の
モンゴルあたりを有していた、鮮卑の東西を12000里としている。
当然、短理(約75m)で試算すると、75m×12000m=900km となり、広大な
鮮卑国の東西の里数と異なってします。やはり、この場合は、魏国の単位
である、長里(約0.5m)をイメージして掲載したであろう。
この場合、遊牧民族であった、鮮卑の状況が不明確なので、凡そで記載した
のではと以前のスレに出ていたが、鮮卑の前族の匈奴には、秦・漢は、よほ
ど手痛くやられていた。
匈奴の西側の大月氏国にも、使者を派遣している。よって、そんな宿敵匈奴(鮮卑)
のことをよく知らなかったとは絶対にありえない。
つまり、倭人条は、三国志の中で統一的に書かれた書物であり、よって、
『12000里』については、魏国の単位である、「長里」であらわしていると
理解すべきである。
ただし、個々の里数では、現実としての「短里」で記載された数値が採用
されていることは言うまでもない。
82 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/22(日) 08:30:27
>>81 確かに壇石槐は鮮卑を統一したけどそれは2世紀中ごろの事で壇石槐が死ぬと
再び鮮卑は部族ごとに分裂してしまう。そして二度と統一していないから
「鮮卑東西万二千里」とは三国志が表された時代にどの時点でどの部族を言ったものか不明なのでは?
83 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/22(日) 08:42:13
話は違うけど、壇石槐は広大な烏侯秦水を見た時、魚はいるがそれを捕れる人がなかったので、倭人がよく網で魚を捕ると聞き、
「東して倭人国を撃ち、千余家をえて、秦水のほとりに移住させ、魚を捕らせて糧食を助けた」という。
『後漢書』ではこの事件を一七八(光和元)年のこととしているがこの時期は倭国大乱と重なっており
吉野ヶ里遺跡が海岸から押し寄せる敵に対し防御態勢を敷いた造りになっているのはその為でなないだろうか。
呉の奴隷狩りもあっていたとは思うが。
84 :
日本史@名無しさん:2007/04/22(日) 08:44:49
まあ三国志が正史じゃない事も問題を複雑にしているのは確かだな。
国史なら里程の統一なども当然やる事なんだが。
正史だよ
86 :
SOY:2007/04/22(日) 10:30:32
>>81 >つまり、倭人条は、三国志の中で統一的に書かれた書物であり、よって、
>『12000里』については、魏国の単位である、「長里」であらわしていると
>理解すべきである。
倭人伝の中の記述において12000里だけを長里とする意見には反対です。
末廬國 10000里(帯方郡から)
伊都國 10500里(帯方郡から)
奴國 10600里(帯方郡から)
不彌國 10700里(帯方郡から)
10700里までは短里で計算できるのにそれに+1300里した値だけは
長里で解釈しなければならないという理由がよく分かりません。
魏志倭人伝の12000里だけを特別に長里と解釈する先には
以下のような論法が待っていると思われるので危惧します。
1.12000里は短里では解釈できない (九州説なら解釈可能)
2.12000里は長里では解釈できない (九州説、畿内説ともに解釈不能)
3.12000里はデタラメな数値である
4.12000里を恣意的に解釈してよい
5.12000里先にある邪馬台国は纏向である
>ただし、個々の里数では、現実としての「短里」で記載された数値が採用
>されていることは言うまでもない。
この意見には賛成です。
>>81 >魏国の単位
>である、長里(約0.5m)をイメージして掲載したであろう
自分もそう思う。そして帯方郡から長里で12000里として
上海辺りから東としてクロスさせたら(少々東北気味になるが)
大体で日向の北部辺りになるぞ・・・つまり西臼杵郡辺り。
結果、もし邪馬台国が北部日向辺りだったとしたら、倭国の中枢である女王国の
位置を完全把握していたというわけだ。
>>83の話もあるし、さすが紀元前20世紀からの歴史、恐るべし中国WWW
畿内だったとしたら方位も距離も何もかも完全に間違いだらけ、女王国がどこかも
全く掌握できてない。 さすが紀元前20世紀からの質より量の馬鹿大国、哀れな中華の歴史WWW
88 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 10:35:41
後漢書を意識して陳寿が書いているのは確か。鮮卑の内部国家がどのよう
に分裂しようと、鮮卑伝として掲載している以上は、ALL鮮卑でしかありえない。
89 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 10:45:58
>>81 その長里で計算した長さを帯方郡から見てみると、丁度九州中部辺りになるな。
だから必死で距離を意味のないことにしようとしている奴がいるのか。
そして大体上海辺りから東を見ると、少々東北気味になるが、日向の北部辺りで
クロスするね。
つまり、一説である邪馬台国が西臼杵郡が正しかったとすると、中国は邪馬台国、つまり倭国の
連合国の中核である女王国の位置を完全に掌握していたことになるな。
>>83の、倭の漁民誘拐の話もあるし、さすが紀元前20世紀からの歴史、恐るべしWWW
もし畿内なら方角も距離も描写も完全に滅茶苦茶の嘘だらけ。天皇無視、不完全どころか、偽書と
言っていいレベル。さすが質より量、侵略されまくりの、哀れな紀元前20世紀から始まる
中華の歴史・・・・。
90 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 10:50:44
おおっと・・・・2重連投になってしまった!!!これは恥ずかしい!www
おかしいな、
>>87が出てこないので
>>89で少し書き直してあげたんだ。
そしたら2重連投だWW 消せないのが困るなあ。
>>75 > 古田氏は自説の修正変更はしているのか?
> 著書「邪馬台国はなかった」では「歴韓國乍南乍東」を階段(鋸刃)状陸行としている。
「循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」は、どう見ても水行でしょう。
途中で陸行させるなら「東南陸行五百里到伊都國」のように書かなければ読み手には
伝わらない。
92 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/22(日) 11:32:16
>>90 ときどきあるよ操作間違いで。連続レスですかって聞いてくるけど。
93 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/22(日) 12:26:33
>>91 僕も郡から末盧國は水行と思います。
古田氏は以前の著書の内容を部分的に小さく修正されていると思われますので。
>>93 >僕も郡から末盧國は水行と思います。
>古田氏は以前の著書の内容を部分的に小さく修正されていると思われますので。
よくいうよ、
古田の邪馬壱国=博多=九州王朝説のキモは、九州説だと解釈が
難しかった「陸行一月」を韓半島内の陸行として読み替えたことだろ。
それを修正しちまったら元も子もなくなるんじゃない?
それよかキミの「南至邪馬壹國・・・・水行十日陸行一月」の解釈をハッ
キリさせなよ。起点は郡から? それとも投馬国から?
>「小さく修正されていると思われ」
って自信のない書き方だな。ww
95 :
91:2007/04/22(日) 13:24:12
>>93 > 僕も郡から末盧國は水行と思います。
> 古田氏は以前の著書の内容を部分的に小さく修正されていると思われますので。
じゃ、末盧から奴か不彌までの6〜700短里に1月を要したわけですか?
それとも伊都での通過儀礼に1月を要するとかですか?
一番分かりやすいのは、「1月」は「1日」の誤りですけどね。
>>73 >この魏側の使節団、総勢何人であったか、何処かに書いてはござらぬか。
書いてないけど100人ぐらいと違う? 想像だけど
10人では少ないし、1000人じゃ多すぎると思う
ただし船の操船の要員は除外
それも合計するんなら総勢200〜300人ぐらいかなあ
97 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 15:27:16
とりあえず畿内でも九州でもどっちでもいいから仲良くしようね。
>>88 :日本@名無史さん :2007/04/22(日) 10:35:41
>後漢書を意識して陳寿が書いているのは確か。鮮卑の内部国家がどのよう
>に分裂しようと、鮮卑伝として掲載している以上は、ALL鮮卑でしかありえない。
そんなことないw 後漢書が書かれたのは4世紀ですw
陳寿が魏書を書いたのは西暦280年代。
99 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 15:50:06
100 :
九州出身:2007/04/22(日) 16:55:37
邇邇芸命か〜こんど宮崎いってみるしかないかな
GW使ってどこにいこういか迷い中〜
101 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 20:56:10
このスレは読む限りでは、九州説>畿内説だな
102 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:26:02
3世紀中期から4世紀初期の大規模な墳墓は、被葬者の死後に築造されたので
しょうか。それとも、生前から造られていたのでしょうか。
古墳から殉死100体分の骨がみつかれば、きめてになるかもしれません。
しかし、殉死者100名が入る古墳なので、やはり相当な大きさであったに違い
ない。
103 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:35:35
3世紀後期の九州には径100mを超える大きな墳墓はあるのではないでしょうか。
104 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:44:30
>>95 >一番分かりやすいのは、「1月」は「1日」の誤りですけどね。
これは自分の解釈次第でテキストを変えてしまうということになり、
文献史学の正当な方法とは見なされない。
・邪馬壱と邪馬台のように、テキストによってそうした別表記があれば校勘の対象とはなる。
・明らかな誤記と判断できるものはあり得る。たとえば「大正三十四年」、「文部化学省」とか。
そのどちらでもないので、原文を勝手に変更するのはよくない。
だいいち、水行十日して上陸後、一泊もせずその日のうちに到着できるのであれば、
わざわざ「水行十日陸行一日」とは書かないだろう。
省略して「水行十日」だけにするのが普通の感覚。
遣随使は命懸けの旅だったと伺った事がありますが(生存確率50から70%程度か?)
卑弥呼の時代の使者も、命懸けだったんだろうなー!
そうゆう意味では、長政おつだよな!
張政の間違いすまんです
108 :
SOY:2007/04/22(日) 22:51:40
>>105 >遣随使は命懸けの旅だったと伺った事がありますが(生存確率50から70%程度か?)
記憶違いでなければ、遣隋使は海難事故には遭わなかったはず。
もっと別の危険はありましたが… (百済で手紙をなくすなど)
一方、北ルート以外も使用する遣唐使の方は想像を絶する危険があったようです。
あの構造の船ですから…
そなの、なんで遣唐使は危険なルートを選んだん?
近道か?
>>109 新羅と険悪になったから泣く泣く危険なルートを取ったらしい
111 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 23:16:49
箸墓って殉死者100人見つかって無いんだよね?
じゃあダメじゃん
112 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/22(日) 23:21:40
箸墓もそろそろ封印も解けて解禁になるらしいといってた人がいたけど
本当だろうか?
113 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/22(日) 23:34:18
僕の落書きに反応出過ぎ。
古田アレルギーは相変わらずですね。
古田氏が自説の修正変更をどの程度されたのかは僕は知りません。
僕の倭人伝の解釈については下記について後程書きます。
「水行十日陸行一月・水行二十日・東南陸行」
>>111 宇佐の亀山傍の百体神社が怪しいといわれている。
もともとは神功の熊襲征伐の霊を祭ったものといわれているが、ひょっとして・・・
という話。
115 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:14:10
妄想学会厨が何をいいだすかわからんが、専門も違うけど
大学の先生って学会の大筋以外いわないね。口を閉ざす。
変わりものあつかいされたり攻撃されるのが怖いんちゃう?職失ったり。
分野は違うけどさ、そういうの知ってるから学会厨見ると笑ってしまう。
116 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:16:09
>>113 正直に言う。おれ古田アレルギーある。
昔はそうでもなかった。
多元とか言うようになってから、しだいに受けつけなくなった。
東日流で決定的になった。
新著が出ても、もう書店で手に取ることもない。
反古田派との論争や、関連訴訟にも、まるっきり興味が持てなくなった。
この人は歴史学の方法を誤っているとしか思えない。
多くのプロフィル紹介に、「歴史学者」や「古代史家」とある。
しかし俺は、古田は歴史学者でも古代史家でもない、と思っている。
アレルギーなら、具合悪くなるから近づくな!
118 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 03:16:58
>>110 >新羅と険悪になったから泣く泣く危険なルートを取ったらしい
いや、元々あの辺りで安全で楽なルートなんてない。
古田や安本は、歴史家ではなくて
歴史愛好家でしょう?
学会の権威を振りかざすのは良くないが
所詮、古田や安本は、在野の歴史愛好家でしかない。
歴史小説家などと大差がない。
ただし、この歴史愛好家が好き放題にするのは、他の
資本主義国家ではよくあること。
121 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/23(月) 06:42:05
>120「学会の権威を振りかざすのは良くない 」どころか
>115大学の先生って学会の大筋以外いわないね。口を閉ざす。
変わりものあつかいされたり攻撃されるのが怖いんちゃう?職失ったり」
って言うのは深刻で致命的じゃないの。
ガリレオが宗教の権威を恐れて地動説を取り下げたような、
有能だが悪徳な弁護士が詭弁を弄して黒を白にしてしまうような・・。
それじゃ何が真実か解らなくなってしまう。もし自分の生活や地位が大事で
歴史の真実に口を閉ざすような学者がいるとしたら
歴史の真実を捻じ曲げた学者の罪は甚だ重いといわざるを得ない。
122 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/23(月) 06:54:35
>120所詮、古田や安本は、在野の歴史愛好家でしかない
肩持つわけじゃないが人間そのものに光を当てる職業の人は
歴史に真実に迫る事もあるんじゃない?インスピレーションも大事だと思うが。
これはどうなんだろう、みんなの意見が聞きたい。
よく古代史本や邪馬台国の解説書に、魏の使者は伊都国までは行ったが、
そのさき邪馬台国までは行ってないとする説が紹介されてるんだが、
ぼくはそんなことない、行ってると思う、梯シュンも張政も。
張政は生前の卑弥呼に会えたかどうかは微妙だけど
その後何年も倭国に滞在しつづけているんだから
とうぜん都のある邪馬台国まで行ってなきゃおかしい。
台与にも何度も会ってると思うし、いろいろアドバイスしたんだと思う。
張政は卑弥呼に会って、死を諭したとゆう説を唱えてる人もいましたよ!
故人ですけど
125 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 07:23:53
>>114 亀山百体神社
大隈日向国の隼人の霊を祀る。
養老4年(720)に八幡大神は隼人征伐に行幸になり養老7年に
ご帰還のとき百個の隼人の首を持ち帰って、松隈(宇佐神宮西400m)
に埋められたがこれを凶首塚といい批処の裏の丘に有る。
その後、隼人の霊を慰め悪を更生させるために放生会を行い、この神社
を創祀した。
百人の霊であるから百体神社という。
126 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 07:48:46
>>123 実際に行ったかどうかはともかく、
詔勅は直接言い渡したうに書いてある。
官僚的な建前論で書かれただけかもしれんが、
王位混乱期に到着してしまった張政のときなどは、
やむなく一度は難升米に告諭したりして、
これはこれでリアルな記録にも見える。
127 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/23(月) 13:02:43
昨日の魏志倭人伝の「水行十日陸行一月・水行二十日・東南陸行」 について簡単に書きます。
「水行十日陸行一月」は倭人の邪馬壱国と帯方郡間の距離表現。
邪馬壹國から郡に行く場合で、海峡水行(有明海岸から?)と狗邪韓國帯方郡間陸行。
魏側のその距離表現は12000余里。
「水行二十日」は投馬國帯方郡間水行を倭人の距離表現でしたもの。
つまり、有明海北部海岸から帯方郡まで水行直行。
投馬國と邪馬壹國が有明海北部海岸沿いにあることの説明。
末盧國から東南陸行五百里で伊都國、つまり伊都國は佐賀平野北部(背振山麓)になる。
不彌國の南側が投馬國になり有明海北部岸になる。
又邪馬壹國も筑後川左岸及びその南側となる。
狗奴國は邪馬壹國の南(菊池?)になる。
128 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 15:27:39
>>127 九州王朝説の古田さんとだいぶ比定地が異なるのでびっくり。、
勝手ながらちょっと御説をまとめた一覧を作らせてもらった。
【九州王朝大好き氏による諸国の比定地】
・末盧國=
・伊都國=佐賀平野北部(背振山麓)
・奴國=
・不彌國=
・投馬國=有明海北部海岸沿い、有明海北部岸
・邪馬壹國=有明海北部海岸沿い、筑後川左岸及びその南側
・狗奴國=菊池?
では末盧國、奴國、不彌國はどこに比定?
>>127ではよく判らなかったので回答よろしく。
129 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 16:12:16
暇だからなんか言わせてくれ。
邪馬台国は畿内。
130 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 16:19:07
神武天皇が紀元前〜1世紀に大和を平定している。
そして、大和王権ができたわけで、3世紀の邪馬台国も当然畿内。
みんな中国人の書物ばっかり信じて、
日本人の書物を信じないって、どういう了見なんだろう?
そんなに中国の書物が好きなら中国人になりやがれだ。
131 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 16:22:04
古田や安本みたいな学会の権威におもねって、真実を自分の目で見ようとしないのはおかしい。
記紀をよめば、大和王権が3世紀以前から大和にあったことは確実なのに。
通説に逆らって畿内説を主張するのがそんなに異端なのか?
132 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 16:35:40
記紀のどこを読んでも、
鉄器が欲しいだの、鉄器を有難いと感じてるような記述はどこにも無い。
神武の頃は、むしろ、「土」が欲しいとか言ってるくらいだ。
神武東征は、鉄器がほとんど無いような時代につくられた物語だということ。
それに、奈良に海が迫っていたことを示す記述もある。
3世紀よりずっと昔に神武が東征してきた証にもなる。
結論として、3世紀にはとっくに大和王権の地盤が出来ており、
邪馬台国も畿内ということになる。
133 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 16:43:13
みんな、もっと日本神話を大事にしたらどうよ?
邪馬台国よりもずっと古代に、
神武が遠い九州からはるばる畿内にやってきたという、
天皇家に伝えられた壮大な物語じゃないか。
それをデタラメだの、邪馬台国より後だのと、日本を作った故人に対して無礼にもほどがある。
>>131 :日本@名無史さん :2007/04/23(月) 16:22:04
>古田や安本みたいな学会の権威におもねって、真実を自分の目で見ようとしないのはおかしい。
古田や安本は、学界の権威ではないw
在野のアマチュア歴史愛好家。歴史小説家と殆ど同じ。
>>130 中国人の書物を読んでも、邪馬台国は畿内。
135 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 17:25:38
古田や安本には、何万人もの支持者がいる。
本を出せば飛ぶように売れる。
一方、畿内説の人には支持者はほとんどいない。
本なんか出してもちっとも売れない。
学会の権威が大きさは、九州説の方が大きい。
>>135 そうか、そういう捉え方もあるんだな、ナルホド
でも畿内説の本が売れないのはちょと可哀想
CMつーか、戦略的にヘタなんじゃない?畿内説のセンセはさ
もっとうまくやれば本売れるよ、真実どうこうじゃなく乗せるのが大切
>>129 >暇だからなんか言わせてくれ。
>
>邪馬台国は畿内。
あのな、言うのはたったそれだけ?
暇じゃなくてもそれぐらいはだれでも言える
ほんとうに暇なんだったら論証をびちっと書かなきゃ
宮崎、西都原で決まりだろ。
139 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 18:56:45
>>137 論証したでそ?
神武東征が紀元前〜1世紀にあれば、
魏志倭人伝の時代には、大和王権が奈良に出来てる。
140 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 19:05:24
141 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/23(月) 19:18:46
今日の会話はなるほどと思うのが多い。
「水行二十日」は投馬國帯方郡間水行を倭人の距離表現でしたもの」
「そんなに中国の書物が好きなら中国人になりやがれだ。」
「古田や安本には、何万人もの支持者がいる。 本を出せば飛ぶように売れる」
「一方、畿内説の人には支持者はほとんどいない。 本なんか出してもちっとも売れない」
「 畿内説のセンセはさ もっとうまくやれば本売れるよ、真実どうこうじゃなく乗せるのが大切 」
なるほどねー。教訓含んでるって感じ。
142 :
91:2007/04/23(月) 19:21:07
>>127 突っ込みどころ満載で、ちょっと苦し過ぎじゃないですか?
第二案に期待させてもらいます。
143 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 19:23:13
>>141 ぷ。
どういう教訓得たんだろうねこの子は。
144 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/23(月) 19:32:30
>>143 読んで字の如くよ。
>141を上から順に読んでいって漠然と広がる余韻が私の今日一日の仕事の疲れを癒してくれるというか。
まあもっとうまくやろうよ。みたいな。
145 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/23(月) 19:38:58
馬鹿話はさておき、
>>127「「水行二十日」は投馬國帯方郡間水行を倭人の距離表現でしたもの」
っていう発想はなかなかだと思うが「では末盧國、奴國、不彌國はどこに比定?」
僕もこれがちょっと知りたいかなー。
146 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 19:47:34
>>144 つまり、おまえが商業主義の九州説に踊らされてるってことだな?
ぷ。
147 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/23(月) 20:03:01
>>146 商業主義?
「畿内説のセンセはさ もっとうまくやれば本売れるよ、真実どうこうじゃなく乗せるのが大切」
これは既にやってるんじゃないの?と言ってんの。やっててこの程度ならよっぽど考古学って人気無い
のか畿内説が人気無いのかのいずれかでしょう。
九州説って儲かるの。
まぁ、機内説よりはロマンがあるのかな・・・
儲けの柱は、書物?観光?いずれにしろ結構な事だね。
機内も、あらたな切口でビジネスがんがれ
ですがタン・・・余韻を楽しんでますか。
よきかな、よきかな。
機内説の歴史小説や漫画ってあるの?
151 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:29:12
>>150 まず、無いと思うよ。
出版社側が渋ると思う。畿内説より九州説の方が人気あるからね。
152 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/23(月) 20:37:59
>>149 サンキュー。やっぱり>148がいうように九州っていうのは
古代文化発祥の地の雰囲気があるのでしょうね。大陸の文化が真っ先に入ってきたのが九州。
韓国人も九州人には親近感があるんだそうで、韓国人の日本語を聞いてると
「全然」を「じぇんじぇん」と発音する。先生を「しぇんしぇい」といったり、九州とおんなじ。
古代から九州は帯方郡、楽浪郡、扶余などとゆかりが深かったんじゃないかな。
まあ民族は北方系の鮮卑などの血を受け継ぐツングースだと思うけどね。
153 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:41:17
というか、九州が朝鮮の植民地だったんだけどね。
154 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:54:04
博多は東京より上海のほうが距離的に近いからな
155 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:56:00
>>142 >突っ込みどころ満載で、ちょっと苦し過ぎじゃないですか?
再説明をまってられないので、もう突っ込んじゃうぞ俺は
>>127 >投馬國と邪馬壹國が有明海北部海岸沿いにある
そんなに接近してる両国が、なんで帯方郡へは別々のコースになるんだ?
投馬国は20日で、しかも船だけでいけるんだろ、経済的で楽チンだよな。
じゃあなぜ盟主たる邪馬台(壹)国がそれをやらんのだ! 所要日数かかり過ぎ!
間をあけて突っ込んでも、返事があるとは限らんぞ。
間を空けなくても、無いときはないし。
通りすがりかもしれんしな
157 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 21:08:21
あ〜あ、苦内庁が古墳発掘させてくれたら、一発なのになあ。
>>157 それは文部科学省に向けて言うべき。
苦内庁にいくら言っても同じ答え。
159 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/23(月) 21:17:52
>>128 >>145 末盧國:唐津
奴 國:佐賀平野
不彌國:筑後川右岸、佐賀平野の北東部
3世紀の有明海海岸線がまだ比定できていませんので、
上記程度のおおまかな比定しかできません。
160 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 21:18:01
北部九州にはその後、大宰府や鎮西探題なども置かれ、大陸との交易
上は押さえておかなければならない土地である。
よって、昔より常に他国からの干渉があり、国益を肥やして強力国家
をつくることができず、その意味では邪馬台国や大和朝廷の出先機関
であったと思われます。
161 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 21:31:20
彼が期待しているものわかるの?すごいね!
俺の予想は、埴輪だけどね。
164 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 23:46:41
>>159 再説乙。一覧表が埋まったね。
【九州王朝大好き氏による諸国の比定地】
・末盧國=唐津
・伊都國=佐賀平野北部(背振山麓)
・奴國=佐賀平野
・不彌國=筑後川右岸、佐賀平野の北東部
・投馬國=有明海北部海岸沿い、有明海北部岸
・邪馬壹國=有明海北部海岸沿い、筑後川左岸及びその南側
・狗奴國=菊池?
そしたら投馬國も佐賀平野かな?
九州王朝大好き氏はきっと佐賀県大好き氏バイ!!!
>>162 そういや、仁徳天皇陵も地元のおばちゃんが言ってたけど泥棒やらに
入りまくられて盗まれまくってるらしい・・・・
夏には肝試しに使われたりしてたんだとかも言ってたw。本当かどうか
しらんが、そのおばちゃんは、仁徳天皇陵のすぐ側に住んでいる。
166 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 23:56:16
>>165 たしかアメリカの博物館に「伝」仁徳天皇稜出土の鏡があったはず。
終戦直後に米兵がトラック横付けして、色々な古墳を盗掘しまくったときに
強奪されたものではないかと思う。
168 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:35:23
>>166 ボストンの奴なら、明治初期の改修工事の際にこっそり横流しされたものだろう。
状況証拠からして一番怪しいのは当時の堺知事なんだけどね。
宮崎の西都原も昭和初期に地元民による集団盗掘事件があった。
明日香村などはそれで生計を立てていた時期もある。
ほとんどの大型古墳はすでに鎌倉時代には盗掘されているのだから
いまさらって感じだけどね。
>>135 :日本@名無史さん :2007/04/23(月) 17:25:38
>古田や安本には、何万人もの支持者がいる。
>本を出せば飛ぶように売れる。
あのーね、古田や安本は、専門の学者じゃないよ。
彼らはあくまでも愛好家にしかすぎない。
彼らの出す本は、学術書ではなくて、歴史読み物w
一般的に、畿内説を主張する人は、高貴な学者の権威。
九州説を主張する人は、歴史愛好家、歴史小説家。
よって、本が売れるのは、圧倒的に九州説のほう。
邪馬台国九州説というは、唯一史観の代名詞なんだよ。
畿内説の場合、考古学の重鎮が多く唱えるだけあって
極端で面白い話は語りたがらない。
彼らは立場があるから慎重で、極端なことは発表しない。
また、一般人にロマンをあたえる文献史学(記紀との関連性)からは
一切、語りたがらない。(実際は、彼らも記紀を意識しているのだが)
そんなわけだから、テレビ向けが良いのは、九州説のほうで
九州は日本の辺境だから、観光などのビジネスと関連付ける傾向が強い。
歴史読み物は、九州説のほうがよく売れる。
しかし、それとは真逆で、学術書、学会のほうでは
畿内説が圧倒しつつある。
>>163 「埴輪」なら陵域外の周辺調査や修陵、保全工事時の立入りなどでかなりの部分が確認されている。
江戸期以前の記録などから埋葬主体部の内容がわかっているものも多い。
天武・持統合葬陵の盗掘状況を記録した「阿不幾乃山陵記」のような文献資料もある。
もっとも天武・持統合葬陵の場合、江戸時代には「観光施設」化されていて、
墓室内にまで見物客が入れたそうだが・・・
誰かが言っていたが、邪馬台国の痕跡なんてものは
古墳のような長期間に渡って目立つような場所ではなくて
普通の住宅地や田畑の下から、それらしき痕跡が出てくるのでは?
と言われているな。
>>170 うわーーこれはW
学会基地外がが3日間寝ずにやっと考えついた究極の畿内学会説ですな
「奥さん、これは高貴な学会の先生たちが一番って一致してるんですよ!!!」
畿内ではこういった安いキャッチフレーズが今日も飛び回っているのであろうw
でも、まじで、あういう学会は
どこもかしこも畿内説が圧倒している。
176 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 10:50:32
森浩一は発掘について新聞からコメントを求められても、「彼らの批判をすることで
彼らと同レベルで学問をしていると思われたくない。」として断っている。
たぶん年代遡上やスプリング8などのことだろうけど。
>>176 森先生は、つらい立場に立たされているよな。
178 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 13:35:44
>>173-174 こういうのはアンチ畿内説のやらせ書き込みだと気づかないのかな?
>>176 森さんがそういう発言をしたというのは初耳だが?ソースは?
てか、逆にそれは森さんに対して相当失礼な話だな。
そんな卑屈な人じゃないから。
179 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 16:48:48
スプリング8の計測値とそれから導き出される仮説は人それぞれ、
畿内説、九州諸説で色分けができるもんでもないでしょうに。
ただ、漢鏡研究者以外のものと専門研究者の間で
論争が起きるようなレベルの違いはない。
専門家同士なら細かいところで色々あると思うけど。
181 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 18:33:12
>>164 伊都国は旧怡土郡すなわち現在の前原市であり、奴国は那ノ津すなわち現在の福岡市近辺。春日市も含む。
この両地は弥生時代の先進地域であり後期まで一貫して朝鮮半島や中国大陸と交流し栄えている。
韓式土器、楽浪の土器が出る、漢鏡を何十枚も副葬した王墓がある、「奴國王」と刻印のある金印も出ている・・・。
地名の一致だけでなく考古学的圧倒的事実が、伊都国=前原市、奴国=福岡市近辺、を証左している。
この両地域を無視しての勝手な倭人伝解釈は九州説畿内説如何にかかわらず愚かとしか言いようがない。
182 :
サガミハラハラ:2007/04/24(火) 19:02:15
似た地名は方々にある。奴は当時ト、ドと発音しナとは発音しない。
考古学的圧倒的事実は、伊都国=前原市、奴国=福岡市近辺に弥生時代の遺跡遺物が
豊かなことを示しているが、それがかならずしも、伊都国、奴国を証左しているわけではない。
両国が倭人伝中の国であると考古学的に証明するには、もっと確実で実際的な遺物が必要である。
王仲殊さん、三角縁神獣鏡は日本国産説を出した人なだんだよね。
この人、中国の考古学会の中でも偉い人。
中国社会科学院の考古学部門の所長だった人。
彼は、俺たち九州説論者の味方だと思って喜んでいたんだけど...
最近、聞いた講演だとかなどの発言だと
おもいっきり邪馬台国大和説論者じゃん。
発言には凄い慎重にしているんだけど...
でも、私は邪馬台国大和説が優位だろうと思っているみたいな感じ。
184 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/24(火) 21:35:13
>>181 サガミハラハラ氏に同意。
前原市、福岡市近辺に、弥生時代の遺跡遺物が豊かなことを示しているが、
それがかならずしも、伊都国、奴国を証左しているわけではない。
両国が倭人伝中の国であると考古学的に証明するには、もっと確実で実際的な遺物が必要である。
韓式土器、楽浪の土器が出る、漢鏡を何十枚も副葬した王墓がある、「奴國王」と刻印のある金印も出ている・・・
だからといって2世紀の混乱の後も前原福岡近辺地域が先進地域であり続けたことを保証しない。
蛮族が武力で先進文化地域を滅ぼすことは歴史の常。
185 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/24(火) 22:00:08
>>181 又、福岡市近辺地域に、二萬餘戸七萬餘戸の経済規模を求めるには無理がある。
その経済規模を求めるには、筑後平野佐賀平野の食料生産力と、
静かで浅く良好な漁場である有明海からの豊富な蛋白質供給が必要。
186 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 22:00:12
187 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/24(火) 22:12:22
>>181 もうひとつ、2世紀前後は弥生の温暖期、西日本特に九州は旱魃に悩まされていた。
食料生産にはより広い土地と農業用水が必要。
九萬餘戸以上の人口を支えるには広大で水の豊富な筑後平野佐賀平野が必要。
>>185 >又、福岡市近辺地域に、二萬餘戸七萬餘戸の経済規模を求めるには無理がある。
これ古田に対する大反逆だな ww
古田も内心いくらかは考古学のこと考慮して博多に邪馬壱国を持ってきたと思うんだが
189 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/24(火) 22:32:43
>>186 陳寿はn音で読んだと思うが、
陳寿が資料とした魏の記録を書いた人はd音ではないのかな?
魏朝の言葉は漢音(黄河中流域言語)なのか呉音(長江下流域言語)なのか。
黄河中流域言語ならd音、長江下流域言語ならn音だけれど。
190 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/24(火) 22:40:19
>>186 古田氏に対する大反逆のつもりは全くないですよ。
単に自分なりの論理に従って出てきた終着点です。
191 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 22:51:13
奈良派が政治的に中国の学者達を取り込んだんじゃないの?
>>181 >伊都国は旧怡土郡すなわち現在の前原市であり、奴国は那ノ津すなわち現在の福岡市近辺。春日市も含む。
禿しく同意!
つーか、そりゃ定説だわな
193 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 23:03:41
>>192 倭人伝の記述から行くとおかしい。
伊都国は、末盧国から「東南陸行五百里」だから。
伊都国が前原だったら、末盧国から「東北水行○○里」となる。
あるいは、一支国から末盧国を経ないで、直接、伊都国に行く、
ということになりそうな気がする。
学会基地外を批判するとアンチ畿内だという被害妄想WW
マジでどうにかしてほしい。学会のいうこと鵜呑みにするなら2chも何もかも辞めて
学会のいうことだけ信じて暮らせ。大体、人が意見を交換しているときに「学会で」
これで説得力があると思い込んでいて狂ったように繰り返す馬鹿。
学会で学会で学会で じゃなく、その中身で説きなさい。うぜーー
まあ、権威に言いなりの日本人の典型なんだろうな・・・とりあえずw
195 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 02:14:26
196 :
91:2007/04/25(水) 05:54:28
>>184 > だからといって2世紀の混乱の後も前原福岡近辺地域が先進地域であり続けたことを保証しない。
> 蛮族が武力で先進文化地域を滅ぼすことは歴史の常。
糸島や博多湾は3世紀以降でも「先進地域」ですよ。
那珂・比恵遺跡群や湾岸部の西新遺跡などは多少の変動はあっても地域全体では
後世まで継続します。
早期の前方後円墳も有りますし、九州庄内の生産地でもあります。
つい最近も那珂で古墳時代の計画道路跡の調査結果が話題になったし、
西新などは、対半島貿易の窓口として繁栄しています。
古墳築造や庄内式土器の生産は外部からの影響でしょうが、
誰が考えても筑後平野方面からのものとはなりえません。
197 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/25(水) 13:45:43
>>196 「『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳」の倭人の条であることの認識。
ここで書かれていることは、倭地についてであり、
その範囲は「參問倭地・・・・周旋可五千餘里」である。
またその倭地で魏と「今使譯所通三十國」である。
その三十國は女王に屬している。
その女王に属している三十國の内訳は「其北岸狗邪韓國」から「次有奴國」までである。
これら三十國が倭の女王國である。
「其南有狗奴國」は「不屬女王」であるから、狗奴國は「今使譯所三十國」に入っていない。
また、その女王卑弥呼は共立して王となっている。
女王卑弥呼のいる邪馬壹國が前原福岡市近辺地域を武力で殲滅したのでないから、
彼らはその先進文化を失ってはいない。
その後壹與に至るまで邪馬壹國は圧倒的な勢力には至ってはいない。
前原福岡市近辺地域は、倭国でのNo1の勢力は失ってもその先進文化は維持し続けることはできた。
邪馬壹國と帯方郡の距離が「水行十日陸行一月」で、投馬國と帯方郡の距離は「水行二十日」なのか?
女王卑弥呼は三十國の盟主の立場上、狗邪韓國を窓口に半島陸行せざるをえない。
倭第二の大国である投馬國は共立以前の様に、独自に帶方郡に使譯を通じていたので、
直接水行の距離を魏側が知っていた。
以上のように理解すれば、「水行十日陸行一月」と「水行二十日」の2種類の表記に疑念は起きない。
説明が面倒なのでいろいろ端折っていますが、僕の魏志倭人伝解釈に基づき上記説明をしました。
198 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/25(水) 14:09:38
>>196 魏使の上陸地点は3箇所考えられますが、
女王卑弥呼は、邪馬壹國の意向で、魏使の上陸地点として有力な国家のある博多湾を避け、
敢て唐津湾にしたのではないかと想像します。
あと魏使を受け入れる港として伊万里湾も考えられのですが、
奴國から邪馬壹國までの4ヶ国が有明海に水没することになるので没。
魏使の通過地は、有力国家の無いルートに敢てしたのではないかとも思います。
199 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 14:22:55
>>182、
>>184 金印が出たのは博多湾の志賀島。
奴国は福岡で決まり!!!
−−−−−(引用開始)−−−−−
金印が偽物ではないかという説は近年までありましたが、1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印は、58年に光武帝の子「劉荊(りゅうけい)」に下賜されたものでした。
この印は亀の鈕ですが、円い鏨の表現や字体が奴国王の金印と似通っていることから、同じ工房で製作された可能性がたかいものです。
この兄弟印の発見によって金印贋作説に終止符が打たれ、中国の史書『後漢書』倭伝にある、建武中元2年(57)光武帝が奴国の王に与えた「印綬」に相当することは確実になりました。
http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr3_02.html
200 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/25(水) 14:31:12
>>199 その「奴國」は、「其餘旁國遠絶不可得詳」の最後に出てくる「奴國」と思います。
201 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/25(水) 14:36:24
>>199 でも、その「奴國」は「委奴國」であって「倭の奴國」ではないと思います。
202 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 17:48:49
金印を貰った奴国は、那国だろうね。
203 :
カナカナボウシ:2007/04/25(水) 18:47:56
漢の委奴国王ーカンのイトコクオウとよみます。カンのワのナのコクオウ
ではありません。イト国(伊都国ではない)はヤマイ国となり、最後はヤマタイ国と変化します。
204 :
91:2007/04/25(水) 22:57:12
>>197-198 ちょっとだけツッコミます。
「御覧魏志」だと次のような書き方になるんですよね。
「又」東南至奴國百里
置官曰先馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸
「又」東行百里至不彌國
戸千餘官多模副曰卑奴母離
「又」南水行二十日至投馬國
戸五萬置官曰彌彌副曰彌彌那利
「又」南水行十日陸行一月
至邪馬臺國戸七萬女王之所都
先ず、方位+距離+国名の順で記されいる点が、
「紹熙本」の方位+国名+距離とは異なります。
そして、各国ごとに「又」の文字が使われ
「奴」「不彌」と「投馬」「邪馬臺」は一連の記事であることが、
明確化されています。
こちらとの整合性について大好きさんは如何お考えですか?
205 :
SOY:2007/04/26(木) 00:29:05
207 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 05:43:25
>>196 古代のことを現在の県名で言うのもへんだが、古墳時代の福岡県の場合は、
玄界灘沿岸よりも、八女付近のほうが栄えていたという感じがする。
古墳といえば、九州では質量共に宮崎県が突出している感じがあるが、
どういうわけか、日向の君なんていうのが出てこない。
筑紫の君、肥の君、豊の君はいるのだが。
208 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 07:35:23
209 :
カナカナボウシ:2007/04/26(木) 08:06:51
音韻についてはちょとしかやっていませんが、それでもこのくらいは
わかりましたです。
210 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/26(木) 11:07:52
>>204 太平御覧は700年前の魏志や魏略の現代語翻訳本ですから、
そこには著者独自の解釈が入っています。
1700年後の我々と同じ立場ですね。
でも、まじで学会って
圧倒的に畿内説なんだよな。
学会の言うことを別に信じなくても良いけど
明らかに九州説は、歴史を商売にする
唯一史観がメインだったりする。
九州説を主導しているのは、在野の歴史愛好家・歴史小説家
九州の観光行政派だったりする。
212 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 13:21:22
畿内の巨大古墳群を見るに、邪馬台国が存在した3世紀当時、
畿内大和にそれなりの大きな政権が有ったことは間違いないんだろうな。
それが、邪馬台国であるかが問題なわけで。
今の所、九州にある古墳よりも、畿内の古墳のほうが巨大で副葬品も豪華、
九州よりもはるかに大きな政権があったに違いない、
当時倭国の30国以上を統括、魏から倭国王の称号すら受けた
王はここにいた、ということなのだろうな。
逆に、九州でも30カ国を統括する王にふさわしい墳墓や遺跡が発掘されればこれは覆されるが、
現時点では畿内の大和に軍配ということかな。
倭人伝の記事はなんともいえん。
どの説をとっても、邪馬台国は結局海の中。
213 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/26(木) 15:24:39
>>212 軍配があがるなら、記紀にしっかり女王国のことが載ってるよ。
無いんだから畿内に女王国は存在しない。畿内から遠方にして、大陸に近い
九州にあったわけだ。だから記紀に記載が殆どなくとも、大陸の倭人伝の
記述に詳細の情報が行ったわけだ。
同意。
250年前後、畿内に大型政権が存在しそれが天皇家の祖となった可能性はある。
しかし記紀に記述がない以上は邪馬台国は畿内ではない。
本居宣長の偽僭説はまだ死んでない。
215 :
日本@名無史さん :2007/04/26(木) 17:20:50
畿内の前方後円墳は4世紀以降のもので、
明らかに、畿内の部族は九州からの部族に
席巻され、滅亡させられている。
古墳には、銅鐸は埋葬されずに、大量に
どうでもいい場所に捨てられていている。
銅鐸の発掘場所は、古代でもゴミ捨て場
のようなところから発掘されている。
216 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 17:30:23
魏書に書かれてる頃の中国が大和の国々と接触してないのかというのは
どうだろう
大和に巨大政権があったのは確実だろうに九州の国々としか接触してないの
かな?
217 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 18:08:22
のちの天皇家に続く事がほぼ確実なのは、継体天皇ぐらいからじゃね?
ならば、滅ぼした過去の大和にあった王朝の逸話が日本書紀、古事記に
残らないことだってありうる。
大和王権=邪馬台国ではなくても、
畿内に邪馬台国があった可能性は十分ある。
218 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:01:27
畿内の前方後円墳は340〜350年ころから始まったと見るべき。
早く見るとしてもせいぜい320年ころ。
纒向の古墳を遡上させている連中は、あの狭い地域に数10年〜100年近くの
期間を割り当てるが、崇神稜以降の100年間の墓域のほんの数%の広さである
ことからは、とんでもない異端説としか思えない。
遡上派は本気であの年代観が正しいと考えているのだろうか?
219 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/26(木) 19:27:30
>>217 だったら、繼體の先帝武烈以前の天皇も記紀に載ってないことにならねば
おかしいではないか?
君の主張は
武烈以前の天皇は記紀に載っていても不確実で畿内に実在したとは云えない。
卑弥呼女王は記紀に載ってなくても畿内にいた可能性は充分あると云える。
ということになり、その反論は滅茶苦茶に好き勝手であると云える。
220 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:38:03
マキムクなんて戴した問題じゃない
221 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 20:00:22
>>219 君は、日本書紀の神話と実在の境目はどのあたりだと考えているのですか?
継体天皇の前も、倭の五王に比定される仁徳あたりからは実在していたのでしょうねえ、
でもこれらの大王は5世紀の大王。
3世紀前半に存在した卑弥呼とは200年もの差がある。
日本書紀に、3世紀に存在した王国のことがかかれているとは思えないのですがねえ。
ちなみに、旧畿内王権には、継体天皇を支援した人物、大伴金村がいた。
実際、雄略紀には、大伴氏をさして家臣が「吾が君」と読んでいる記載があり、
大伴氏を通じて前王権の伝承が伝わった可能性がある。
前王権とは仁徳あたりからの伝承。
その前の三輪王権についても実在の可能性はあるが、いずれも卑弥呼の時代より後の大王なので、
特にあげない。
222 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/26(木) 20:17:25
崇神記の崩年干支設定年がAD258年なのだから
しかしもかかしもなく巨大前方後円墳造営開始は3世紀でしょう
そして、日本書紀崇神十年の倭迹迹日百襲姫命没の実年代こそは正に
正始八年の卑弥呼没のAD247年
記紀の設計上は
この年代観を記紀の考古学的見地から
記紀の設計者達の年代観は間違いだったんですかね
3世紀の手頃な古墳がなかったとか
>>221 何で5世紀の天皇は実在して、3世紀の200年ばかりも古い卑弥呼の実在は
信ずるのか?
>>219のとおり、
>>217は甚だしく恣意的だね。
何故記紀の記述が信用おけず、倭人伝のは信用がおけるのか?
コテハン恵也もそんなことを主張していたな。
君はだいぶ津田病に冒されているのか? だいたい繼體までというのは
おかしい。稲荷山鉄兼に繼體以前の雄略天皇の御名があるのに、繼體までと
いうのはどう考えても紀が狂ったのかと問いたくなるぞ。w
倍暦で、崇神は237年即位だよ。この年が景初元年だ。つまり3世紀だ。
>>223 再度 訂正
× 何で5世紀の天皇は実在して
○ 何で4世紀手前の天皇は非実在で
226 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 20:41:51
>>223 祟神が仮に存在したとして、祟神ー応神まで大王6人。
仁徳は五世紀の大王であると考えられているから、
親子の年齢差を20歳程度と仮定して、
六人の大王で200年をリレーするのは無理だ。
祟神は三輪王権の始祖とされているが、
卑弥呼は邪馬台国の創立者ではなく、さらに古い王権。
日本書紀に3世紀前半の王国がかかれているとは考えられない。
227 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/26(木) 20:49:33
親子の年齢差は約30年ですよ
228 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 20:51:17
>>197 >>198 魏志倭人伝に、
「又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。
草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、
皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。」
とあります。この「伊都國」は現在の糸島半島あたりでほぼ合意がえられていると聞きます。
また、
「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。
常に伊都國に治す。」
という記述がその後にあります。
この2つをあわせると、女王国は糸島半島の南にある、ということになりませんか?
(女王国の北に一大率を置き、それが糸島半島にあったというのだから。)
ついでですが、
「その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。」
とあります。この「狗古智卑狗」は、菊池彦だと思うのですが、
そうすると、女王国(=邪馬台国)は、「糸島半島の南、菊池の北」というのが、
魏志倭人伝の伝えるところではないでしょうか?
九州ですがさんもいかがでしょう?
229 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 20:56:10
実在されるとされる仁徳以降の王権が、倭の五王伝承も含め、
兄弟相続がかなり多いのに比べ、それ以前の大王が親子相続の例しかないのは、
かなり不自然な感じがする。
仁徳以前の大王については実在したかどうかは、諸説有るため、なんともいえん。
九州説を採る人間は親子相続のみを認める王権があったと
強く実在を唱えるということなんだな。
230 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 21:14:11
>>227 それは現代でしょお〜?
当時は15才〜18才でいいのでは?
231 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 21:21:11
>>218 >畿内の前方後円墳は340〜350年ころから始まったと見るべき。
あなたはどうやってその年代を割り出したか。その論証の過程を示せ。
「340〜350年」という年代は、何に基づくのか。
それが書いてない。
>>226 勝手に過小をされては困りますなぁ。崇神から應神までは年数を数えるときは、神功が摂政をやってるので6人というよりまず7人分でしょうがね。
倍暦の計上で在位を調べれば
崇神即位=237年 應神崩御=389年
ゆえに (389−237)÷7=152/7=21.7・・・ で、
総在位は 152年 で平均在位は 21年強。君の云う無理はない。
それに君はより古い卑弥呼の実在のほうを理由なく肯定していて、おかしいではないか? 要するに、君の理屈は非常に恣意的である以外の何物でもないね。
>>229 菊花弁の十六菊の数字はうるさいので、16代までは兄弟継承は
排除されています。それ故、17代以降で初めて同継承が許されます。
なので不審はありません、
234 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:30:07
>>228 邪馬台国が北部九州にあると仮定すると、一大卒が同じく北部九州に
置かれる意味がわからない。
監察目的で置く以上、平素は女王国の役人の目が届かないから、置か
れる意味があると素直に読めるんだが。
235 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:48:57
>>234 置かれる意味もなにも、「常に伊都國に治す。」と魏志倭人伝に書かれているのですよ。
236 :
91:2007/04/26(木) 22:57:30
>>210 > 太平御覧は700年前の魏志や魏略の現代語翻訳本ですから、
> そこには著者独自の解釈が入っています。
> 1700年後の我々と同じ立場ですね。
「太平御覧」は個別事象の解説本(類書)ですので「著者独自」の文章もありますが、
それは「説明部分」についてのこと。
説明のために使用された原資料は基本的には「引用」です。
その部分を宋代の「翻訳」であるとするのは誤りといえます。
「700年」と言う時の経過を問題とするのであれば、「紹興本」「紹煕本」等の刊本は
更に20〜100年も後の成立となります。
また、これらの宋刊本の後継である「汲古閣本」「宮内庁本」「武英殿本」なども
既に各本間で異同が生じていることから「オリジナル」などとは言えないですね。
今日、よく引用される「百衲本」「中華書局本」などは20世紀、まさに我々と同じ対場です。
237 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/26(木) 23:24:47
>>228はい。僕もそのように思います。
終止符スレの
>>634に関連レスしてますので良かったら読んでくださいねっ。
最近、出版された欧米の日本皇室研究では
邪馬台国=大和王権
卑弥呼=天皇家の女性
って記載されていたよ。
あと、蘇我氏は300年間、権力を保持していたと書いてあるから
武内宿禰からカウントしてということだな。
最近、出版された欧米の日本皇室研究では
邪馬台国=大和王権
卑弥呼=天皇家の女性
って記載されていたよ。
あと、蘇我氏は300年間、権力を保持していたと書いてあるから
武内宿禰からカウントしてということだな。
僕もそう思うよ!
>>233 菊の御門については一年位前にレスしたはずだが……
242 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 01:02:06
>>238 欧米の本は例え素人からの情報でもホントみたいに書くからね。
こっちじゃ高級紙でさえ、皇室は2600年の歴史があり男の天皇しか居なかった
というのが定説みたいに書いてるのを何十回も読んだ。
243 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 01:06:11
>>242 >欧米の本は例え素人からの情報でもホントみたいに書くからね。
ほお?
すると、欧米の本には、九州説が溢れてるはずだが?
↑
大丈夫か? 九州説では皇室の祖だと断言しなければ、天皇とつなげないだろ。
しかも、あたかも事実のように嘯かなければ信用して書きもしない。
>>239を書いた人間は誰かから、卑弥呼が天皇家の女性だったと信用させられたんだろ。
皇室が2600年と同じレベル。
>>212 こいつ馬鹿?あとで指摘されてるが、時代考証が滅茶苦茶。
後の大和政権の豪華な古墳と、それ以前の規模を比べて畿内が上だという論理。
詭弁のつもりか、本当に信じているのか知らんが、
もし本気で信じているなら いつも畿内説が稚拙なのはこういった時代考証が順番に
できてないせいだな。つまり中学生並み、恐れいるw
246 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 01:25:57
>>244 何を言ってるのか、さっぱりわからんね。
欧米の本で、九州説がいっぱい出版されてるわけ?
↑なんだ本当に馬鹿だったんだWWW
卑弥呼は天皇家かどーか完全に不明だろ・・・
畿内説の罪は重いな。
嘘でも言いつづけたら本当になると思っている朝鮮人と同じレベルだ、こりゃ
学会厨と同じレベル。
「〜〜が畿内と言っている」のが凄いことなんだろうな、こいつには。
おまえら、中学生やチョンに失礼だぞ!
せめて『一部のを』つけろ
しかし九州説を唱える学者がもうほとんどいないのも、また事実
みんな高齢だったからねー!
やむなし
機内説を唱える、スイス人が、ほとんどいないのもまた事実
凄いなあ、学会厨は・・・
凄いなー・・・
その欧米の本は
九州から東征したのは
卑弥呼が誕生するよりも前みたいな
書き方だった。
あと、蘇我氏が皇室の近くで権力を握ったのは
約300年間と書いていた。
つまり、応神天皇時代の武内宿禰のころからだな。
欧米か!
日本の考古学者さんのえらいさんは
科学的な調査方法を
わざわざ欧州や米国の研究者まで巻き込んで
やっているのが大きいな。
あと、中国の権威とかとも交流が激しい。
その結果、邪馬台国=大和国
卑弥呼=モモソ媛
が、急速に支持を集めつつある。
九州説論者が多い安本らの在野の歴史愛好家が
世間に本を売って騒いでいる間に
そんなのを無視して、考古学者の権威は
世界中で学会で発表しまくっているということか?
259 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 05:07:33
偉い考古学者は、考古学的に邪馬台国は存在しないと言っている。
たとえば、黒塚古墳でもホケノヤマ古墳でもいいが、誰の墓かわかるかな?
わからないだろう。遺跡が出てきても同じ。どんな国なのかはわからない。
だから、偉い考古学者は、考古学が邪馬台国問題に口を突っ込みすぎるのは
越権行為だとわかっている。
>>258 学会厨がついに基地害レベル
凄いな、スレ読み返してもさ、こいつ畿内説の中身もソースも何もなく
高貴な学者さんとか えらいさんとか 権威とか、そんなことの繰り返し。
権威のレベル上げて書けば書くほど墓穴掘ってるのに気づいてない。
そしてまた中身もなく学会とか欧米とかでスレが消費される。
結局いいたいのは卑弥呼=モモ もう滅茶苦茶だ
>>259 いや、欧米の学会では黒塚古墳に「ひ み モ モ 皇 后」って
薄〜く書いてあったというのが定説だから。
261 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 06:08:18
>>259 300年の論争があって未だ決着していないこの問題について、だから、いろ
いろな見地・角度から検証しようとしている。考古学的な検証は大切だよ。
黒塚やホケノ山の被葬者がわからないからと言って、考古学的な解釈が先行
しすぎるのは越権行為というのは、暴論じゃないの。
平行して、考古学的な研究・調査が進められていくのだから。
マスコミなんかが、遺跡が発見されれば、直ぐに史実に結び付けようと記事に
してしまうのは事実かもしれんが。
262 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 06:41:54
邪馬台国がどこにあれ、北九州は半島の窓口だから、連合30ケ国の
一つであることに違いない。
論争に入れない地域(関東以北)の方も多数いるので、高望みするな!
263 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 07:04:43
>>261 弥生時代後期とか、あるいは古墳時代の始め頃の様子を考古学で検証する
というのはありえることだけど、邪馬台国の問題に直接関わらせることには
慎重でなければならないと思う。
たとえば、吉野ヶ里遺跡とか平塚川添遺跡とか大規模な環濠集落が
見つかっているけれども、これが卑弥呼時代のどこ国に該当するかは
わからない。考古学的に、何を持って邪馬台国と決定されるのかがわからな
い以上、考古学的に邪馬台国は存在しないというのも無理がないと思う。
邪馬台国は大きいはずだといっても、倭人伝に登場しない国で邪馬台国より
大きな国がないとは言い切れない。考古学的に邪馬台国は決定できないと
思う。
親魏倭王の金印や、率善中郎将あるいは率善校尉の銀印は唯一ともいえる
有力な物証だが、これも移動するものだから、決定的とはいえない。
264 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/27(金) 07:09:34
モモソが孝霊天皇の皇女=トヨだとすると、どう考えても古代天皇の系譜に女王卑弥呼の入る余地がない。
畿内説では卑弥呼をこの中のどこにどう位置づけるつもりだろうか。
日本書記の記述が邪馬台国から大和朝廷へと連続せず、断絶している感が否めない。
神武以前は神代でSF小説まがいの信じがたい展開になっているがこれは不明だからであり誤魔化しともいえる。
邪馬台国と大和政権との連続性が無い。例えば伊都国にいたとされる一大率。これが大和朝廷に受け継がれている様子が無い。
伊都国には代々王がいる、となっているが、邪馬台国自体が世情不安定で男王が立つと国が乱れ、女王が立つと良くクニが治まる。
などという体たらく。それで畿内から北部九州までの広い範囲を統治していたというのだから畿内説は説得力が薄い。
大陸からの倭人攻撃による千世帯を越える大量拉致連れ去り事件などをきっかけに
北部九州では小さな国がまとまって対抗する事を余儀なくされた。その苦肉の策が邪馬台国連合だったのではあるまいか。
265 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/27(金) 07:15:55
>>264自分で読んで笑っちゃう感じ。
でもおおよそ言ってることは伝わるでしょ。
では仕事なのでゴメンなんしょ。
266 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/27(金) 10:50:25
>>236 >「太平御覧」は個別事象の解説本(類書)ですので「著者独自」の文章もありますが、
>それは「説明部分」についてのこと。
>説明のために使用された原資料は基本的には「引用」です。
>その部分を宋代の「翻訳」であるとするのは誤りといえます。
原資料文をカーボンコピーで引用しているのではなく、
晋代の言語で書かれた源資料を、宋代の言語に翻訳して引用しているのではないでしょうか。
現代の我々が、晋代中国語を、現代日本語に翻訳して引用しているのと同じです。
翻訳には著者の解釈が入ります。
「紹興本」や「紹煕本」が、源資料からできるだけ忠実にコピーしたものか、
それとも翻訳部分を数多く取り入れたものかの問題もあります。
原資料が「邪馬壹國」か「邪馬臺國」かもその例になります。
267 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 10:52:44
邪馬台国畿内説を取る人でも、
邪馬台国=大和朝廷だとは思っていない。
群臣から推挙されて即位した卑弥呼やイヨを、
世襲前提の大和朝廷と同列におくことはできない。
九州説を取る人は、
なぜ畿内説ならば邪馬台国=大和朝廷でなければならないというのか?
畿内にあった邪馬台国が滅び、そののち大和王権が成立したとも考えられるのだが。
その昔には、大和朝廷は九州から東征した邪馬台国である、といっている人もいたが。
268 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/27(金) 12:33:28
>>228 邪馬壱国の位置についてそれほど関心のない最近まで、228さんと同じ様な見方をしていました。
ところがそれでは違和感を持ち始めたので洗いなおしをしたのです。
洗い直しに関連する要素は以下のものです。
@從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東
A又渡一海千餘里至末盧國
B東南陸行五百里到伊都國
C南至投馬國水行二十日
D南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
E人口の問題(有二萬餘戸・可五萬餘戸・可七萬餘戸)
E現代音に似ている地名でそのまま比定してよいのか。(参考傍証にはなりますが)
F遺蹟があるからといって原文(東南陸行五百里)を捻じ曲げて比定もよいのか
以上の理由から狗古智卑狗=菊池彦にまだ疑問符を投げかけています。(否定はしていない)
また、女王之所都は小高い場所のある筑後市・広川・八女・瀬高のあたりと思います。(吉野ヶ里や安徳台の様な)
269 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 13:34:16
あのね、ちゃんと教えてあげるからよく聞けよ。
当時の北九州と南九州は文化が断絶していたの。
北九州と南九州は抗争関係にあって、それが倭国大乱などと言われた。
南九州がクマソ=クナ国なのは言うまでも無い。
それならば、北九州が邪馬台国であることに、どんな疑問があると言うわけ?
270 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 14:03:09
日向が邪馬台国でないという根拠は?
271 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 14:18:54
>>263 結局、当時の中国が大和の国と接触していたかどうかだよね
邪馬台国が九州なら九州圏としか接触してないことになる
投馬国が出雲なら畿内の国と接触していたことになるし
でも漢の時代は奴国としか接触してないようだ
272 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 14:34:20
>>269 下図のあたりには女王国はない。北九州もないと観る。
大陸 半島
↓
対馬等
↓
北九州−−−−−−−−−−→畿内
この路線上に女王国があればその情報は畿内に流れやすいことが一目瞭然
であり、記紀に女王国の詳細が記載されるはずである。が、しかしその記載
が殆どない。ということはこの路線上は女王国の位置とはなり難い。
さらに遠方の百済等の朝貢の記事も記紀に結構あることから、より近い女王国が
路線上にあれば倭人伝以上に卑弥呼の詳細が書かれて然るべきはずである。
ということで、書かれてないということは、ここの路線上から一寸外れて、
倭人伝に書かれる情報が大陸へ行きやすくなる畿内より九州にあったと観るの
が至当である。となれば北九州より離れていて交易の路線上の上図でない処
に女王国があったということになる。だから北九州より奥まった以南の九州
の某位置にあったと考えるのが合理的であるのだ。
私は宮崎説を主張します。
難しい論理は持ち合わせてない初心者ですが。
宮崎の女王ヒミコが、南のクマソと戦い死亡し、
跡目をついだイヨとその一族はクマソを恐れ東のかた畿内へ移った。
その歴史はイザナミやアマテラスなどの伝承にかすかな形骸を残し
畿内政権は報復としてクマソを征伐し、
ヤマトタケル、景行天皇などの英雄譚を伝えた。
こう考えれば蓋然性があるように思いますがいかがでしょうか?
274 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 15:16:00
>>273 畿内に移ったのは神武であって、女王ではありません。
275 :
273:2007/04/27(金) 15:56:35
>>274 神武東征を「事実」とするならそうなりますね。
ですが、神武の実在が疑わしい以上は他の可能性も考慮すべきではないでしょうか?
ヒミコは夫がいない巫女です。イヨもまた生涯独身だったかも知れません。
必然的に、首長は別人物によって継承され、
その人物が神武のモデルとなったのではないでしょうか?
ろくに文字もない時代、口伝伝承が正確に伝えられたとは思えません。
記紀の記述を参照しつつ、最大公約数的に考慮すべきかと。
いや、だからさ、卑弥呼は
モモソ媛なんだろう?
277 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 16:26:53
>>275 神武が創作で、東征が史実だとする根拠は?
イワレヒコという初代大王が大和にいたことが事実で、東征が創作とも考えられますが?
278 :
275:2007/04/27(金) 16:36:56
>>277 私は東征も創作だと考えてます。
実態は日向から畿内への逃避行だったのではないでしょうか?
279 :
日本@名無史さん :2007/04/27(金) 16:47:56
>>276 ホトを箸でつかれたなどという、世迷言を信じてるのか?
280 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 17:00:09
>>279 それこそ、創作。
ハシは箸ではなく、土器のことだろう。
281 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 17:52:14
土器をバイブがわりかよw
282 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/27(金) 18:49:04
>>230 うーん、そう云う事ではなくて
千数百年分の平均値を取れば一世三十年弱になります
もっと短く、任意の十数世代平均を取っても30年±3年程度で収束する筈です
(ま、これも起点に選んだ天皇が平均値から大きく逸脱してればもっとズレますが)
辞書的な意味では一世三十年だそうですし
記紀の設計者はサンプリングして居た訳じゃないでしょうから
感覚的にか辞書的な意味で、三十年で設計していれば
記紀の編年が史実の年代と乖離する事はそれ程ない訳ですよ
こう云う訳ですから記紀は最大誤差30年程度で復元可能です
考古学の編年より精度が高いでしょう
まぁ、記紀の設計が史実を反映しているかは別の問題ですが
因みに、今の検証段階では
天孫降臨の実年代は1世紀で、神武東征の実年代も1世紀で良い筈です。
設計上は
283 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:13:19
284 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:26:43
>>283 なんだ?そのデンパサイトは。
おはなしにならん。
285 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/27(金) 19:27:10
>>267 別物なら別物で又違った問題が浮上するんじゃない?
286 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:52:32
>>285 何の問題が?
畿内にあった邪馬台国が、
九州(クナ国)からの侵攻によって卑弥呼が失脚、
その後、クナ国王(神武)によって大和王権が出来たと考えてもおかしくない。
クナ国が「日本」を名乗れば、倭国が小国日本に併合されたという中国の史書にも一致する。
287 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 20:53:34
288 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/27(金) 21:06:04
>>286 大和朝廷と邪馬台国が畿内に同時期に別々に存在していたと考えるわけでしょう?
289 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 21:12:37
290 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 21:33:35
>>288 違うよ。バカか?
3世紀まで畿内にあったのが邪馬台国。
3世紀末に九州からクナ国が東遷して「日本」を名乗り、大和朝廷を作ったの!
291 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 21:51:14
292 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 21:57:29
>>291 じゃ、小国日本が倭国を併合したって記述はウソか?
>>289 ざっと読んだ。宇佐説だね。いろいろ無理な解釈を重ねてるよ。
いちばん気になったのは「水行十日陸行一月」のとこ。
これ「水行十日、または陸行一月」なんだって! 博多辺から邪馬台国まで。
漢文読解としてはぜったい誤りだよ。とうぜん「水行十日プラス陸行一月」が正しい解釈。
中国人がもし「または」と読ませたいんだったら、なんかそれ相当の字句を入れた筈。
294 :
サガミハラハラ:2007/04/27(金) 22:05:24
3世紀まで九州にあったのが邪馬台国。
3世紀末に畿内から大和王権が西征して「日本」を名乗り、統一王朝を作ったの!
>>292 3世紀ごろ、九州某所にあったのが女王国。そのころ畿内は崇神天皇世前後の
大和朝廷。
296 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:16:18
>>294 同意。
常識的にいって、それが一番正解に近い。
>>293 しかし確か東大教授だったと思うが、「水行十日または陸行一月」と解釈した先生もいたんじゃない?
九州にあった、邪馬台国が大和へ移動(東遷)、大和朝廷となった。
299 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:22:18
>>298 じゃ、小国日本が倭国を併合したって記述はウソか?
300 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:22:25
狗奴は東海だ
301 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 22:22:54
もう二度と来な!(狗奴)
正解だね
304 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:28:24
>>294 畿内の勢力が、征西して来たことを示すような伝説は残っていない。
逆に、九州の勢力が東征したことを示すものとして神武東征がある。
大和朝廷は、神武天皇を初代の天皇としているわけで、征西の根拠は
薄いと思う。
今夜が議論のヤマたい!(邪馬台)
306 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:34:43
307 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:40:52
308 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:48:01
神武東遷は280〜300年頃でしょ?
まだ、そんなこと言っているのか、ここのスレは...
諦めが悪いんだな、九州説論者は。
310 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:55:13
643 :日本@名無史さん :2007/04/27(金) 07:35:44
邪馬台国が畿内か九州かどうかは分からんが
少なくとも、こういう状況だと思う。
畿内説・・考古学会の大多数・・世界中の学会で発表
九州説・・在野の歴史愛好家・・世間で歴史読み物系の本を売ったり
観光行政とタイアップして世間に宣伝
641 :日本@名無史さん :2007/04/27(金) 04:23:51
日本の考古学者さんのえらいさんは
科学的な調査方法を
わざわざ欧州や米国の研究者まで巻き込んで
やっているのが大きいな。
あと、中国の権威とかとも交流が激しい。
その結果、邪馬台国=大和国
卑弥呼=モモソ媛
が、急速に支持を集めつつある。
九州説論者が多い安本らの在野の歴史愛好家が
世間に本を売って騒いでいる間に
そんなのを無視して、考古学者の権威は
世界中で学会で発表しまくっているということか?
人生あきらめなければ、そのうち良いことがあるって婆ちゃんが・・・
ちなみに、今の教科書はどこになってるんだ。
この議論は終わらないな!
みんな楽しんでるもんね。
怒り役の人も、トンでも説役の人も、そこそこキャラが立つてるしさ。
良スレ
315 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/27(金) 23:10:16
神武は1世紀、崇神が3世紀だ
だから邪馬台国「東遷」説の為に、神武東征を持ち出す事は出来ない
実は崇神が東征したとでも言わない限り、出来ない相談だ
神武天皇の征服神話、つまり『神武東征』の物語は、実際にあった邪馬台国の東遷を神話化したものである。
317 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 23:16:06
正解
320 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 23:24:09
>>319 卑弥呼の女王国は3世紀頃であり、神武は1世紀頃だから時代が違う
ため
>>316は間違いである。
神武は実在しないんですよって正解
322 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:37:10
323 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:37:38
「九州ですが」が黙ってるな。
あいつは邪馬台国東遷説だから、
太国の兄貴と喧嘩したくなくて、自分の主張を通せないんだあいつは。
教科書がすべてではないが、学会でほぼ定説とゆわれても教科書にのらないもんなんだね。
文部省慎重だな。
ですがは連休でやすんでるんじゃないか。
たまには、休ませてやれ
326 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:45:13
>>324 >文部省慎重だな。
でも、発掘費用は国が出してる。
発掘してる学会は、ほぼ畿内説できまり。
九州説は、九州説を認めるように陳情する有様。
>>323 それではまるで、巷間言われるところの
「学界のボス教授と、逆らえない子分研究者たち」
の構図と一緒ではないか
328 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:49:22
>>315 口伝によって語り継がれたものを500年以上も後で書かれたのをもとに
完全に信じきって年代まで決定して、そこをすべて前提に
話を進めるんだね。
いや、おめでたいけど学問向きじゃないね。
329 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:51:12
>>320 奈良盆地の1世紀に、神武東征をうかがわせるようなものは何もない。
畿内考古学の意見を入れたとしても、3世紀にならないと、それらしき
変化は出てこない。
330 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:51:25
↑
神武は1世紀だよ。
それくらいは認めたら?
331 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:53:52
唐子・鍵遺跡で、堀が埋められたのは、
神武に占領されたからだろうね。
332 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:54:26
畿内に天皇がいながら卑弥呼が30数国も統合している女王国の主で
倭王の金印をもらっていたわけない。畿内説めちゃくちゃ。
が、ひとつ思いついた。男王のクナ国がひょっとして天皇の国だったのかな?
そして後で邪馬台国を滅ぼして大和王権誕生。これならありえないことも
ないかもね。
神武はレジェンド、モデルになった人は、だいぶ後の人だと思います。
334 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 23:58:15
>>330 そういう絶対的な思い込みで人を説得できると思っているところからして
こういう奴の説があっているとは思えない。馬鹿ほど頑固だというからね。
典型
335 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:02:17
>>334 思い込みと決め付けるのはなぜ?
こっちは何年も検証作業を続けて、
神武は1世紀の人物と結論だしたんだぜ?
336 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:03:33
>>335 何十年かけても報われないこともある。可哀想になw
何説の人が多かろうが、お金はだすだろう。
そして、仮に自説に不利な出土があっても、捏造はないだろう。
よく知らないけど、吉野ケ里の発掘費用もだしたんでしょ?
338 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:05:21
>>336 どういう状態を指して、報われるとか報われないとか言うわけ?
個人の気持ちは、個人の自由だよ!
あなたが、自分を信じれば問題ないから
340 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:26:31
レベル低すぎる
341 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:29:34
神武〜崇神間すべて実在を認めたとしても、崇神を5世紀と思ってる人は、まずいないだろう。
大国といっしょで俺は崇神は3世紀と思うが、仮に一歩譲って4世紀の天皇とし計算してみよう。
神武〜崇神間はすべて父子相続で10代だ。一世代20年と常識的にみればこの間約200年。
崇神をムリに390年ごろの天皇とし、神武〜崇神間を180年間・・・と、大甘に甘く見積もっても、
神武は210年ごろの天皇となり、卑弥呼活躍中の邪馬台国時代とかちあってしまう。
「台与以後に邪馬台国が東遷、それが神武東征」・・・などというのがいかに不合理か解るだろう。
神武は、邪馬台国の台与や卑弥呼よりも、もっともっと前の時代に活躍した人なのだ。
342 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 00:32:15
神武東征は文献上の記録なんだから
文献的根拠を逸脱して、年代を考古学側に合わせて
「神武東征」が3世紀に在ったとするのは出来ないと言ってるんだよ
343 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:34:35
≪定義≫]
○帯方郡〜邪馬台国 12000里(約900km)
○帯方郡〜狗邪韓国 7000里(約525km)
○帯方郡〜末盧国 10000里(約750km)
○末盧国〜伊都国 500里(約 38km)
○伊都国〜邪馬台国 1500里(約112km)
ケース1
◇帯方郡〜邪馬台国までを水行10日陸行1月とした場合、
帯方郡〜末盧国の 10000里(約750km)=水行10日
末盧国〜邪馬台国の 2000里(約150km)=陸行1月
ケース2
◇伊都国〜邪馬台国までを水行10日陸行1月とした場合、
伊都国〜邪馬台国の 1500里(約112km)=水行10日陸行1月
ケース3
◇伊都国〜邪馬台国までを水行10日とした場合、
伊都国〜邪馬台国の 1500里(約112km)=水行10日
ケース4
◇伊都国〜邪馬台国までを陸行1月とした場合、
伊都国〜邪馬台国の 1500里(約112km)=陸行1月
※可能性としては、ケース4でしょうか?
2chにあったレベルだろうよ!
345 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 00:48:36
千数百年平均で天皇の一世代あたり(つまり親子の年齢差)が約30年程度だと云う事が解る
倭迹迹日百襲姫命の没記事がある崇神十年AD88年を、
卑弥呼が死んだと思われる正始八年AD247と設定し
神武即位の神武元年BC660までの紀年数を求めて1/3として逆算すれば
日本書紀の神武元年がAD57年だと解る
この計算には1年の狂いも無い
日本書紀は神武を1世紀の天皇として「設計」している。『AD57年』と云う特別な年に即位した天皇として
勿論、倭迹迹日百襲姫命の事も卑弥呼として「設計」している。
書紀を設計した彼らの立場からこの設定を考えれば、
神武元年の側を基準に倭迹迹日百襲姫命→卑弥呼の年代を決め打ちしたんだろう
こう云う訳だから古事記の側の崇神崩年干支設定年は当然AD258年だ。318年説は誤りだ
AD57年〜AD258年までの累積202年間に、記紀の天皇の世代数は十世代
この間の全て直系継承として天皇の即位年齢没年齢を標準化して考えると
一世一代約20年。最初に書いた理論値より10年も短い
理論値が正しいとすると、崇神から逆算すれば、神武元年はBC1世紀になる筈だ
では千数百年平均の理論値を用いる事が不当で、AD57が妥当なのか?
或いは、AD57年が不当で、一世約30年説が妥当なのか?或いは両方不当か?
違う、一世約30年説も神武元年AD57年説も両方妥当だ
不当なのは、「記紀」が遺した直系十世十代の上位天皇系譜の側だから。
記紀の天皇系譜は凡そ直系三世代分の水増しがある
記紀は、当時の天皇や藤原氏に都合がいい様に、捏造された節が伺われる。
欠史八代など歴史を古くしょうという意図が見え隠れしています。
神武またはそのモデルが1世紀だったかは疑わしいと考えました。
設計って、捏造とか年代調整じゃないんですか?
帝記と旧辞が、まったくのこっていないのも、捏造を隠す意図があったんではないでしょうか?
348 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 01:08:38
記紀の検証は先代旧事本紀で可能だ
先代旧事本紀での氏族伝承の神武〜崇神に相当する合計世代数は7世代分しかない
他の現存の氏族伝承の殆ども神武〜崇神に相当する合計世代数は7世代分か6世代分程度しかないそうだ
この事からこう云う推理が出来る。
記紀が出来上がる以前の段階で
一端全氏族の伝承/系譜を合わせた時期があったんじゃないか?
或いは、合わせるまでも無く、真伝が全ての氏族に伝承され続けていたのか?
神武〜崇神の天皇系譜自体も本来は7世代分しかないのではないか?
単純に202年を7で割れば約28.8年でほぼ理論値通り
記紀の天皇系譜より
他の氏族伝承の方が正しい世代数のまま遺しているのは明らかだ
他のあらゆる氏族伝承が7世代や6世代で、
天皇系譜だけが10世代等と云う事は許されない。天皇系譜も本来7世代だった筈だ
紀年延長操作をするまでは。
こう云う事からも神武1世紀を肯定できる
349 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 01:27:13
>>329 >奈良盆地の1世紀に、神武東征をうかがわせるようなものは何もない。
>畿内考古学の意見を入れたとしても、3世紀にならないと、それらしき変化は出てこない。
神武東征については不勉強なので、わたしはなにも申すことはありません。
しかし、「変化」ということで言えば、必ずしも3世紀を待たずとも、畿内の弥生社会にはそれ以前から、
何らかの変化があったことが考古学的に示されるのではないでしょうか。予兆的変化、と言ってもいいと思います。
1.畿内第W様式から第X様式へ、と土器型式の際立った変化。(1世紀)
2.纏向遺跡の造営開始。庄内式土器の製作開始。(2世紀後半?)
3.銅鐸祭祀の完全な終焉。(2世紀末?)
1.で言うX様式(=唐古第五様式)から、畿内の日常の土器は装飾をやめ、著しく無文様化してしまいました。
考古学では以前からこのW→Xの変化こそ、弥生中期→後期を分かつ画期ととらえ、時期区分しています。
350 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 01:41:48
日本書紀の設計者は、倭迹迹日百襲姫命の没記事のある崇神十年を
1年の狂いも無く卑弥呼没の正始八年に設計している訳ですから
彼等は、邪馬台国畿内説だったんじゃないんですかね
基準年の側の神武元年を建武中元二年にしている訳ですから
彼等は、倭奴國も畿内説だったんじゃないでしょうか?
「倭國之極『南』界」が東方の大和なら
「『南』至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月」が東方の大和でも
筋は通ってるじゃないですか
彼らの解釈がどうだったかの立場で考えれば。
ま、彼等は金印なんか出て来るとは思ってなかったと思いますけど
後漢書には「金印」をやったとは書いてなかったですよね?
金印にも「倭奴國」とは書いてないですよね?
それに「倭奴國」が如何して、極『南』界と云う位置付けなのか
通説では説明仕切れてないですよね?
でも日本書紀の設計者は取り敢えず説明していますよ。
神武元年をAD57年に設計する事で。
>>347 えぇ、帝記や旧辞には真の年代や真の世代数に関する事は割と史料性を持ってそのまま残っていた筈ですよね
でなきゃ、記紀を設計する事も出来ない訳ですし
それどころか朝鮮半島側にも神武の真の年代が残っていた可能性がありますよ
351 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 02:20:43
三国史記新羅本紀に記録される第四代の王の脱解は
倭國の東北一千里にある多婆那國で生まれた事になってるじゃないですか
この脱解の即位年は『AD57年』ですよね
新撰姓氏録に記録される皇別氏族の新良貴氏の出自が異常な事が書いていますよね
彼は神武以降の血筋じゃない訳ですよ
新良貴氏に付いては「稲飯命」の後裔で新羅で王になったような旨が書いてますよね
書紀では無意味に死んだり、古事記では『海原』に入ったりというように処理をされていますが
「稲飯命」は神武の兄ですから
神武の即位年がAD57だとすると三国史記と新撰姓氏録が全部リンクして話が繋がるじゃないですか
書紀より四百年以上遅く成立した三国史記の側が
倭國の東北一千里にある多婆那國出身の王が如何してAD57年に「設計」する事が可能だったのか
日本側の誰かが何かを教えたのか、或いは半島側の伝承として残っていたのか?イロイロありますが
これらも神武一世紀を補強しますよ
352 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 03:13:37
>>341 >神武〜崇神間はすべて父子相続で10代だ
それがちょっと考えにくい。
歴代天皇でそのような父子継承の例はない。
現代でも危ないようだしね。
江戸時代でも、徳川将軍の中には、20数人の子供が出来たが、成人したのは
一人だけという例もあるくらいだから、古代の父子継承の連続は考えにくい。
だから、兄弟の継承が混じっていると考えるべきだと思う。
日本書紀などが出来たころには、それが記憶に残っていなかったのだろう。
記録の確かな31代用明天皇(西暦585年9月5日即位)から40代天武天皇(西暦
686年10月1日没)までの10代で、ちょうど100年くらいになる。
これくらいが妥当だろう。時代が下るにつれて天皇の在位期間は長くなる
傾向があるから、始めの頃はもっと短かったと考えても良いと思う。
つまり、用明天皇から一代10年で遡ると、神武天皇は西暦300年頃即位と
考えてもおかしくない。
>>346 :日本@名無史さん :2007/04/28(土) 00:58:18
>記紀は、当時の天皇や藤原氏に都合がいい様に、捏造された節が伺われる。
>欠史八代など歴史を古くしょうという意図が見え隠れしています。
>神武またはそのモデルが1世紀だったかは疑わしいと考えました。
いやいや、確かに、日本書紀なんかは特に
天皇家と藤原氏に都合が良いのはそうだが
だからといって、全く出鱈目には書けないんだわな。
まだまだ、藤原氏なんかは、中央で力があっても
全国的には物部氏の一族のほうが強いわけだし。
神武天皇の生存時期に関しては
日本書紀の崇神天皇10年を247年ぐらいに計算して
古事記の天皇の没年齢から計算して
だいたい、神武天皇がどのへんの人物なのか推定したら
神武天皇が生まれたのは50年ころで
神武天皇が東征したのは70年代ぐらい、
神武天皇が死んだのは120年前後と出た。
これは、日本書紀の欠史八代の天皇を二倍年暦×2と計算して
初代の神武天皇のところは逆に短くしたら、そうなる。
どうよ?
>>352 ただ、天皇家は、他の氏族よりも
婚姻が早くて、さっさと子供を作っていたとも考えられる。
徳川家なんかでも、兄貴と弟の家系で
代数の世代が全く異なっていたこともある。
長男の信康にもし男系の子孫があったのなら、
11男の頼房の男系子孫との間だと、ものすごく代数と世代に
ギャップができていたはず。
357 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 06:25:14
>>355 >日本書紀の崇神天皇10年を247年ぐらいに計算して
という、考えの出発点に根拠が乏しい。
>>357 いやいや、今の考古学の
トレンドを根拠にしただけのことです。
359 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/28(土) 06:49:19
>>323そうではないのです。
>>290の答えがあまりにも奇想天外なので何と答えていいやら
戸惑っているうち、TVのニュース報道に目がいき、そのまま寝入ってしまったというのが真相でしょう。
>>325どうも御親切に。まだ連休の過ごし方はプランを立てていません!{ここでショックを受けてください}
どうしたものでしょう。
仁徳以前に兄弟継承があったんじゃぁないのかという疑問は間違い。
16代までは皇位の継承は最も厳格であり、菊花弁の数、十六菊が満ちるまでは
兄弟への継承の横滑りは認容されない。16数が過ぎて始めて兄弟継承が許容
される。仁徳以前に兄弟継承があったとか欠史八代の代数が少ないはずだとか
言う主張は間違い。記紀の神代の巻の神々の羅列も一部の例外はあるも、8神
づつとなっており、欠史八代はそれにならって即位したので、8より少ない数
の代だったというのは誤りである。
361 :
日本史@名無しさん:2007/04/28(土) 08:14:42
>>360 お前の言ってること意味わかんねーんだよ。
学問板からうせろよ。
だいたい魏志倭人伝というのが三国志の一節に過ぎない
そんなものを真に受けて議論するのはバカげてる
科学的研究を優先すべきだな
363 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 09:13:31
>>360 欠史8代が実在したと言うなら、
せめてその遺跡が出てきてから言ってくれ。
宮内庁否定の陵墓は年代と一致しないものも多いし。
364 :
91:2007/04/28(土) 10:26:27
>>266 > 原資料文をカーボンコピーで引用しているのではなく、
> 晋代の言語で書かれた源資料を、宋代の言語に翻訳して引用しているのではないでしょうか。
> 現代の我々が、晋代中国語を、現代日本語に翻訳して引用しているのと同じです。
> 翻訳には著者の解釈が入ります。
「翻訳」の意味、解りかねます。
御覧引用部の文体は漢代〜南北朝期のものと取り分けて異なるところは無いと思いますが?
著者による「翻案」と言うような意味でしょうかね?
だとしたら、他人の文章を断りなく改変し、「引用」と称する行為で、
それは「類書」や「字典」に限らず文章の書き方としてルール違反ですね。
デマゴギーを意図して書いているなら別ですけど、余り行われてはいないと思いますよ。
それに倭人伝の行程記事に「又」が有っても無くても天下の趨勢に影響はないはず。
そんな些細な部分を改変してまでして、皇帝に奉勅しますかね?
> 「紹興本」や「紹煕本」が、源資料からできるだけ忠実にコピーしたものか、
> それとも翻訳部分を数多く取り入れたものかの問題もあります。
> 原資料が「邪馬壹國」か「邪馬臺國」かもその例になります。
まあ、太平御覧自体も宋刊本しか伝わっていないわけですし、
中身も先行書である「通典」や「芸文類聚」からの孫引きが多いようですがね。
365 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 10:55:57
366 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 10:56:07
日本書紀上から崇神十年=247年には根拠があり私も認めるところですが
2倍*2倍には根拠がありません。ソレはサガミハラハラさんが言っているだけです。
貴方の計算で純粋に計算すれば神武元年は104年程度になる筈なので
東征を70年頃とする事には更に根拠がありません。
>>352 一代十年説で遡るのは安本さんなんかが根幹にされていますがこれもナンセンスです。
天皇一代当たりの年数とは、一世あたりに何人の天皇が認められるかに依存しているだけです
一代十年説では古事記の崩年干支を都合よく無視しなければならないじゃないですか
例えば安本さんは、天皇の誰と誰が同期だと言及しているんですか?
安本さんの立場に立っていないのであれば貴方の考えでも結構ですが。
一代十年説では天皇系譜で一世代当たり三代の重複を認めて特定しなければなりません
それだけではなく、天皇以外の他のあらゆる氏族伝承でも直系系譜を全て否定して
重複世代を特定しなければならない筈ですよ
でも彼自身はそんな事はやっていないですよ
他の氏族伝承の場合は直系系譜を認めているようです
でも一代十年説と他の氏族伝承の直系系譜を認める事は両立しないんです
彼は自説の限界に正直ではないのです
勿論、邪馬台国が九州だと云う前提でも
「神武東征」を持ち出して邪馬台国東遷説肯定する事は出来ないです
>>361 じゃぁ仁徳以前に兄弟継承があったという記述の文証を持って来い。
それがなければお前の妄想だ。
>>363 それは当時の文献で欠史八代はなかったというのをもって来い。
さもないでそんなことを抜かしているお前は津田病患者だな。w
稲荷山鉄剣でオオヒコがあるところを見ると、記紀のそこんところは
出鱈目ではないな。石橋を叩いて渡るのは結構だが、お前のやり方では
水道水の塩素がこわいからその水は飲むに信用で畿内wと主張して飲まないと
言ってるようなもので、お前は死ぬまで古代史は上っ面までで把握でき
ないだろう。w
370 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 13:04:39
>>366 平均在位年数で、たとえば神武天皇がいつの人かを正確に推定ことは出来な
い。でも、傾向を探ることは出来る。
記紀に書かれている年数が明らかに間違いである以上、何らかの法則で修正
しようとするわけだが、没年干支説とか○倍暦とかが果たして正しいと
言えるのか。正しかったら、正確な年数が出るが、間違っていたらとんでも
ないことになってしまう。それよりも、傾向を探ったほうが正確ではなくて
も、大きく外れることはないと思う。
一代十年説というが、これはそういう説ではなくて、そういう傾向と考え
たほうが良い。
現代は、平均寿命80才と言われるが、古墳時代の寿命は30才程度とされる。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/3863/tyouzyu.html 30才というのは、現在の平均寿命とは異なり、15才を越えて生存した人の
平均値とされる。
実際に古墳から出土する人骨もかなり若くしてなくなったことを示している。
たとえば、熊本県宇土市の向野田古墳の人骨は30才代といわれるし、阿蘇の
長目塚古墳の人骨も35才前後とされる。
平均寿命三十歳の時代に果たして連続して父子継承が可能かとなると、疑問
と考えざるを得ない。
初期の天皇の在位年数は、平均すると10年かそれよりも短かったのではないか
と考えるのは十分に根拠があると思う。
そうそう、散歩してて与太を思いついた。
二倍暦、三倍暦なんじゃなくて、八日暦、十六日暦なんじゃね?>太国氏
>>365 >籠神社にも、ヒコホホデミが渡来してきた伝承があるし、
>天孫降臨神話が、若狭湾で生まれたことは確実だろう。
>それが、日本書記編纂時までに、九州に変更された。
んな〜こたない。
籠神社にそんな伝承は無い。
籠神社は海部氏の伝承だろう?
>>365 昔からそんな伝承は存在しない。
籠神社のは、海部氏の先祖は、神武の先祖と繋がっていて
神武東征時に、畿内の本家筋の跡取りが居なくて
誰を後継者にするという話になって
日向に居た分家の神武が婿養子に入ったという話だろう?
374 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 14:09:15
南極にあるというのが現代の定説
376 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 14:22:26
そう云う事ではなくて
どうやら海部氏伝承では日向三代の下二代に付いての神話の主人公が
記紀とは入れ替わっているようなんです
入れ替わっていると言うか、海部氏伝承の方がオリジナルかもしれませんよね
378 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 14:32:16
>>365 >>375 えぇ、三国史記や三国遺事でも海を越えたような書き方をしていますし
古事記の『海原』も、『海原』姓が新羅系渡来氏族が後に使う事から
列島側から半島側へ、「稲飯命」が渡った事を補強出来そうです
それに海部氏の話の絡みで、面白い事があります
三国遺事では脱解の出自について、「龍城国」としています
これは日向三代の下二台の海神/龍宮神話を踏んでいる筈なんですよ
新羅にこの神話のプロットを持ち込んだ倭人が居た筈です
当然この渡海勢力は、日本海側の海人勢力であり
皇孫と血を分けた事になっている天孫の海部/尾張氏と見るのが妥当でしょう
他にも海部氏伝承や先代旧事本紀から、神武以前、
神代の実年代に付いても解る事があります
>>370 武内宿禰はどうなるのか? 古代エジプトのラメシスU世は92歳だそうだ。
宮中だから全国からうまい物が朝貢してくるようだから栄養充分、一概に短命
だとは言えぬだろう?当時は現今のように排気ガスはなく空気は綺麗だったし、
エイズもなく暴走族等の騒音も少ない。癌もいまほどでもなかろう?
>>377 菊花弁については以前にも指摘したとおり、ずっと後世の天皇の個人的趣味が発端だから無意味。
それはそれとして、八及びその倍数を聖数として捉えており、一月=八日あるいは十六日としていたのではないかということ。
まあ月の運行というのもあるだろうけど、一つのお遊びとしてね、そんな与太を思いついたの。
>>380 発端とかは表沙汰ではそのとおりだが、裏はそうとは限らんだろう。
>>381 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AF > 一般にキクといえば栽培されているものを指すが、これは和名をキク(またはイエギク Dendranthema grandiflorum (Ramatuelle) Kitam.)という。
> 野生品は存在せず、中国で1500年ほど前に交配によって生まれたとされている。
> 万葉集には全く現われないが、古今集あたりから盛んに歌にも詠まれるようになった。
これらはwikiからの引用なんで間違いもあるかもしれないが、菊と日本古代史を関連付けるのは無意味。
>>382 まだまだそのくらいで無意味だとかそんなことを言うのは1000年早い。
>>383 神武が紀元前後の人だとしたら菊の誕生は500年くらい遅いんだが……
8,16という数字はともかく菊そのものは忘れた方が良いぞ。
>>384 忘れらなどとんでもない奴だ。8は古神道でもうんと現れる数字であり、
忘れるどころか今後も論に載るべきだ。『菊』の字だって中部分は8方世界
を『米』字で表現している。
>>385 > 忘れらなどとんでもない奴だ。8は古神道でもうんと現れる数字であり、
> 忘れるどころか今後も論に載るべきだ。
それがどこまで遡れるものなのかはオレは浅学なので知らんが、それは大いに論じれば良い。
ただ、仮に、
> 『菊』の字だって中部分は8方世界を『米』字で表現している。
だとしても、それは中世以降の思想の問題。古代史とは無関係。
「菊」と8,16という「数字」は分けて考えれ。
387 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/28(土) 15:34:44
>>364 91さん
>「翻訳」の意味、解りかねます。
翻訳:ある言語で表現されている文を他の言語になおして表現すること。
翻して訳すこと。
書き言葉で文字を変えてわかりやすく書き換えること。
翻訳が必要なのは、外国語間・異地域言語間・異文化言語間・異時代言語間 等。
transliterationはtraslationの一部。
388 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 15:40:56
古代の貴族の寿命については私も一概に短命とはいえないと思います。
まず、現代の我々とは比べものにならないくらい頑強な体だったと思います。
そこら中不衛生な環境で生活してますので抵抗力はハンパじゃないでしょう。
ただ医療知識などが乏しいため、ひとたび発病すれば致命的だったのでしょう。
逆に言えば、食事に困らず住居も立派な天皇などは、
発病さえしなければかなり長寿だったのかも知れませんね。
百歳は無理としても、八十歳ぐらいなら不自然ではありません。
ここに馬鹿がいるから教えておくが
日本の皇室が菊を家紋にしたのは
鎌倉時代の後鳥羽上皇のころだったはず。
390 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 16:36:40
議論を元に戻してほしい。
スレの主題である邪馬台国問題に大きく関わってくるのは
邪馬台国の卑弥呼(や壱与)と、神武・崇神両天皇の時系列をどう捉えるかだ。
いま古い方から新しい方へ書き並べたとして
@…卑弥呼……神武……崇神…
A…神武……卑弥呼……崇神…
B…神武……崇神……卑弥呼…
のいずれがベターなのか、そこが議論になっている。
俺はAだと思う。
391 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 16:47:32
>>390 群臣から押された卑弥呼や壱与と、世襲前提の大和王権は相容れないと思う。
上の三択では@が近いかな。
ただし、神武は実在せず、実在は祟神あたりからだと思うが。
>>391 そんなもん、解釈しだいで
何とでもとれるわな。
モモソ媛が権威として祭り上げられたのも
卑弥呼と似ていると思えるわけだし。
393 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:25:45
邪馬台国は畿内だよ
日本は創世記から畿内がつくってきたの
394 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:26:03
>>378 >列島側から半島側へ、「稲飯命」が渡った事を補強出来そうです
倭人が朝鮮半島に行ったと考えているようですが、
どうして、朝鮮側から倭国に来たとは考えないわけですか?
貴方も新羅系渡来氏族が多くいたことを認めているではないですか?
なぜ、天皇家が、渡来系では無いと言えるわけですか?
397 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 17:57:10
「稲飯命」は古事記では『海原』≒新羅に行ったと読めるんですよ
「稲飯命」を始祖とする新良貴氏の先祖は新羅で王になったと言ってるんですよ
新羅4代王の「脱解」も、海を越えて半島に渡っている訳ですから
「稲飯命」=「脱解王」なら
半島側の文献と列島側の文献で記述内容が一致するじゃないですか
新羅本紀は二代王の時には倭人が船百餘で海を渡って侵攻している様子が掛かれていますし
初代王の時代から居る瓢公と呼ばれる倭人の宰相が関わっていますし
瓢公に付いては倭人と明確に書いているだけじゃなくて、「渡海」して来たと書いている訳ですから
これなんかは決定的ですよね
列島側から海を越えて倭人が新羅建国の初期に強く関わっているのは疑いないでしょう
ま、倭人自体は弥生人の集団ですから、彼らも船に乗って大陸から半島沿いに進んで
船に乗って筑紫に来た筈ですけどね
でも、新羅本紀では倭人を倭人として区別しているので、彼等は我々ではないですし、
我々も彼等ではない筈なんです。
脱解の末裔の新羅王統昔氏は「稲飯命」の後裔と考えると倭人なり倭種でしょうけどね
こう云う訳ですから、「稲飯命」と「脱解王」の話に関する限り、列島側から半島側へ〜と云うのは
何処にも無理が無い話です。
高天原の物理的位置が、弁韓や楽浪なんかにあったとか云うなら、天孫/皇孫も渡来人ですけど
その場合でも、列島に着いてから、半島に行かなきゃ行っている訳ですよ
「稲飯命」や「脱解」は、列島側から半島側へ渡ったと、日鮮両文献で読める訳ですから
398 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:58:25
>>395 第四代新羅王は倭国生まれとしても、
その両親は第三代新羅王であって、倭人では無いでしょう?
すると、第四代新羅王が倭国で生まれたというだけであって、
第四代新羅王は、倭人では無いことになりますよ?
399 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:59:38
天皇家は渡来系だよ。
高床式建物に住んでいらっしゃる。
ただし朝鮮半島ではなくアムールからやって来たヴァイキングの王族だがね。
半島からの進入だと先ず九州を固めるよな、で、人種的に対極な
ハヤトの野放しとその関係は普通ありえん。
401 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:02:23
>>397 第四代新羅王「脱解」=「稲飯命」ならば、
神武もまた、第三代新羅王の子というだけのことでは?
すると、初代新羅王=最初に天孫降臨したニニギあたりになるわけではないですか?
402 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:03:07
403 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:04:46
やっぱその当時の一族の政治的立場みたいなものが
渡来系と書かれるか書かれないかに影響している
渡来系であることを一族の売りにしてアピールしてる秦氏みたいな立場なのも居れば
百済系なのを隠して中臣氏のフリをしている藤原氏みたいなのも居る
404 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:09:37
>>402 新羅王家の系図が手元にありません。
三代新羅王と、四代新羅王は、血縁では無いのですか?
>>404 血縁はありません。
初期の新羅というのは、
一統が王位を継承したわけではないのですよ。
その倭人が、前の新羅の王家の婿養子に入っているのです。
その後、新羅王位は、3つの王統が持ち回りし、
最終的には金氏というのが王位を継承したみたいです。
>>403 いやいや、トンでも史観で語るな。
藤原氏は、日本人だw
407 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:17:25
マキムクから韓式土器がどっさり出ているわけじゃないし。
天皇家は渡来系といっても、弥生時代の渡来だろう。
409 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:20:53
日本人がいつ成立したかによる。
弥生時代に渡来した人は日本人ではなく渡来人なのか?
その前の縄文時代に渡来した人は渡来人なのか?
日本に人類が入ってきたのは氷河期だが、そもそも日本人て、渡来人。
蘇我氏や藤原氏が渡来系という説は
いわゆるトンデモ史観の類だよ。
たしか、在野のアマチュア歴史愛好家が出した本に
韓国の民族主義者たちが飛びついたと思われw
その説を出した人たちは、コンビニ歴史家と言われている。
とにかく、世界の学会で
文献勝負になれば、韓国側は勝ち目が無いよ。
何故なら、韓国側の新羅時代の史書にはっきりと
倭から半島へ渡海したというのが出てくるから。
また、中国の史料にもそのことが明解に出てくる。
412 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:28:05
>>411 >また、中国の史料にもそのことが明解に出てくる。
どの史料ですか?
413 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:29:31
>>409 縄文人は陸分岐以前に陸伝いでやって来ているから、
渡来はできないんだよ。
分かったかね坊や。
「渡来人」の定義がアイマイ。
「渡来人系」なんてのはもっとアイマイ。
日本列島以外のところで生まれた人が海を渡ってやって来たのなら
たしかに「渡来人」と言っていいかもね。
でもね、その息子や娘は「渡来人」なの?
ハーフの子はどっちに入れるの?
>>403 無茶苦茶な論理だww
中臣氏は日本人。秦氏は中国系w
当時の日本では、渡来系だからといって差別なんかされない。
よって、渡来系の場合は、来日した時期にかかわらず
渡来系と表記されるわけで。
その中臣氏の渡来説は、
藤原不比等が編纂した日本書紀に、父親の中臣鎌足の記載が少ないことを理由に
在野の素人歴史愛好家が本で提唱した説だよw
でも、それは明らかなトンデモ説。
藤原不比等が、父親の中臣鎌足の若いころの記載を消した最大の理由は
中臣氏自体が神道関係の家であり、若いころの鎌足は
大化の改新のような律令体制に反対していたのが大きな要因。
律令体制推進派になった藤原不比等にとって、
父親の鎌足が当初、律令体制に反対して、蘇我入鹿を暗殺したなんて
絶対に隠しておきたい事実。
日本書紀の上では、中臣鎌足と天智天皇は、律令体制への改革派であって、
断じて、当初は神権政治守旧派だったなんて、隠しておきたい事実だからね。
416 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:37:22
鎌足は百済人だけど中臣氏に養子に入って中臣氏になってから
藤原氏を立ち上げたのは明白
これは藤原氏に養子に入ってから豊臣氏を立ち上げた秀吉と同じパターン
おそらく藤原氏には鎌足が藤原氏を立ち上げた経緯が伝わっていて
それを秀吉に入れ知恵したものと思われる
>>409 それをいうなら百済人、新羅人などが成立したのはいつか?という話にもなるんだけどね。
419 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:40:25
秀吉の朝鮮出兵の裏には百済人の鎌足が始祖の藤原氏の暗躍があるのかもしれないな
420 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:41:44
邪馬台国は日本
天皇家も日本
こんな常識もないのかこのスレは
421 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:41:49
くだらねえ
>>416 >これは藤原氏に養子に入ってから豊臣氏を立ち上げた秀吉と同じパターン
>おそらく藤原氏には鎌足が藤原氏を立ち上げた経緯が伝わっていて
>それを秀吉に入れ知恵したものと思われる
アホかw そんな幼稚なことを言ったら、歴史学会で馬鹿にされるぞw
>>386 分けて考えても一緒に考えるときがあっても、それはかまわないの。
>>389 そんなことはお前が言わずとも知ってることさ。家紋ではない。
黄門様じゃあないが、公紋だ。でかいツラをするんじゃねぇ。
仁徳前に兄弟継承は絶対ないんだよ。お前が逆立ちができてもそいつは無理
ってことさ。w
どうでもよいけど、ここのスレに
在日の嵐がやってきて、スレのレベルが急速に落ちているわな。
これを指摘されたのが、かなりの御立腹だったんじゃないのかな?
だって、新羅人が書いた歴史書に明解に書いてあるわけだし。
このことは、中国社会科学院の先生も指摘していたよ。
(中国の大学・学会の教材では、任那日本府が書いてあるわけだから)
彼らは漢文は自国語だから、ネットでもそこらでも
そのまま原文を読むからなw 隠しようが無い。
↓
第四代新羅王は日本人か(オロモルフ) 『三国史記』 朝鮮最古の史書
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tabana=tango.htm
>>423 > 仁徳前に兄弟継承は絶対ないんだよ。
強いて言えば五瀬命→神武かな?
426 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/28(土) 18:54:11
>>426 書紀の建前上はね。
どっちにしろ実証できる類のもんではないんで断言はしない。
まあそんな見方もあるよ程度で収めてくれ。
>>428 まぁ、ウガヤ朝もありますからね。それを肯定したりすれば、そういうこと
も言えると云えばそうなりますな・・・?
後鳥羽にて菊のご紋ができたとしても、この構想は以前からあったと充分
云えるわけです。16スポークの車輪があっても。設計時には16スポークは
設計図に書かれているわけであり、さらにそれ以前には16スポークの車輪
を製造しようとする企画会議、製作会議があるわけで、それを製品発売日
で16スポークそこからだなどと言い出す単純な野郎は失せろと言いたいです。
貴殿は冷静沈着で頭脳明晰な方のようですな。
430 :
91:2007/04/28(土) 20:20:25
>>387 >翻訳:ある言語で表現されている文を他の言語になおして表現すること。
じゃ、「晋」語「南至投馬國水行二十日」を
「趙宋」語に訳したから「又南水行二十日至投馬國」になったと主張されるんですか?
どちらも晋代でも宋代でも普通に使われる表現ですけどねえ。
3世紀の方位+地名+距離と言う表現を12世紀には方位+距離+地名と言い換えなければ
いけなかったんですか?
3世紀には方位+距離+地名と言う表現は一般的では無かったんですか?
そんなことは無いと思いますよ。
431 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:34:30
432 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:55:54
朝鮮半島から北九州に渡るにしても、
ちょっと海流に流されれば、出雲や若狭湾まで行ってしまうだろう。
そのまま山陰に居ついた渡来人が、日本文化を形成していったということはありえる。
433 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:58:42
逆に、若狭湾から朝鮮半島に渡るためには、
海流に逆らって風を読んで帆掛け舟での航海術が必要となる。
構造船の登場を待たなければならないだろう。
434 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 21:32:25
よく伊都国を境にして国名・方位・里程の記載が変化していることや、
投馬国、邪馬台国については日数表記であることをとらえて、
「水行二十日や水行十日陸行一月は倭人からの伝聞によるもので、
魏使は実際は伊都国までしか行ってない」
と主張する説があるが、おれはまったく逆だと思う。
伊都国は「郡使往来常所駐」と記されているように、しょっちゅう
郡の使いや半島の民間交易業者がやって来るところだった。
だから郡の政庁に蓄積された知識として、伊都国までの行程があった。
奴国、不彌國も、伊都国と近い距離にあり、郡政庁は里数を知っていた。
しかし投馬国や、女王の都がある邪馬台国までは遥かに遠く、
そこまで足を踏み入れる魏側の人間は、めったにはいなかった。
ただ正始元年の梯シュンと正始八年の張政は、魏側の正式な使者として
邪馬台国まで行った。(そのときに投馬国も通過した)
このどちらかのとき、かかった実際の行程日数が帰国後に魏本国に報告され
それが魏志記載の「水行二十日」や「水行十日陸行一月」になったのだと思う。
435 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 21:34:01
対馬海峡は対岸を遠望できる。
よほどのヘタレ船乗りでもない限り、若狭湾まで流されたりはせんだろ。
436 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 21:54:51
もっとあとの飛鳥時代、中国や朝鮮からの使者は、関門海峡を通って
瀬戸内海を抜け、直接難波に船をつけていた。
邪馬台国が畿内にある場合、難波に船をつけていた可能性は
ないんだろうか?
遅くとも飛鳥時代には、難波に迎賓館まで建てていたんだが。
水行二十日が難波ルートで、
北九州で船を降りて陸行するルートもあったと。
437 :
91:2007/04/28(土) 22:26:14
>>436 難波津から大和までなら今も昔も1日の路程です。
日本海ルートの丹後方面からなら1月くらいかかっても妥当かな。
でも、その説をとると北部九州・出雲・畿内連合と吉備・瀬戸内連合は
魏使一行を遠回りさせるほどの対立関係でないといけないんだけどね。
実際はそうじゃない、逆に3世紀には融合化が進んでいる。
438 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 22:39:45
>>436 三韓土器が出て無いので、直接の往来はありません。
魏の使いは九州で船を乗り換えて、倭人の舟で難波に来ていたはずです。
439 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 22:45:13
昔、野生号というのがあったなあ。
あの船はどれくらいのスピードで進んだんだろう。
ところで、野生号は、宮崎の西都原古墳群で見つかった舟形埴輪を元に
作られた。のちに、たぶん畿内説の人達だろうが、宮崎の埴輪に対抗して
大阪で見つかった舟形埴輪にそっくりな船を作った。
しかし、この船、専門家の、構造的に船ではない、の言葉通り、全く
進まなかった。
いかにも意地っ張りな関西人らしい話だと思う。
440 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 23:00:02
>>439 つづき。
今、調べてみたら、野生号は、帯方郡から博多まで47日かかったらしい。
441 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 23:08:32
>>437 >日本海ルートの丹後方面からなら1月くらいかかっても妥当かな。
>でも、その説をとると北部九州・出雲・畿内連合と吉備・瀬戸内連合は
>魏使一行を遠回りさせるほどの対立関係でないといけないんだけどね。
そんなに難しいことを考えなくても、日本海ルートは魏側にしてみれば妥当性があると思う。
おそらく魏船には倭人の船乗りも同船して、文字通り水先案内しただろう。
関門海峡の入口では、「こちらを行かれた方が、波もおだやかですし・・・」と、
瀬戸内海ルートを勧め、指差ししたかもしれない。
だが、魏使や魏船の船頭は、ためらったのではないか。
「他国の内海に入り込んで、もし万一不測の事態が起こった場合、逃げ場がないなあ」、と。
日本海ルートなら、海は大陸へつながっているから、いつでも逃げ帰れる。
われわれ日本人の感覚と、初めて異地に赴こうとする魏使の感覚は、違っていたと思う。
http://yamatonokuni.up.seesaa.net/image/urachizu04.jpg
442 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 23:57:33
属国に使いする大国の使者が多少の危険を気にするものか。
他国に使いして君命を辱めずとは、自己の命を省みない事を基となす。
443 :
91:2007/04/29(日) 00:27:24
>>438 >
>>436 > 三韓土器が出て無いので、直接の往来はありません。
それっぽいのは出雲や瀬戸内でも出てるはずだよ。
ただ、郡使様の遺物なら楽浪系じゃないと合わない。
そっちは、やはり玄海灘沿岸からしか出て無いよね。
444 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 01:07:39
飛鳥時代って・・・百年、2百年後が
どんなに凄いことかわかってないようだね。22世紀には
どんなことになってるかも想像できないというのに。
しかも飛鳥の遺跡みてみ?凄くない。
またこんなの見てるひとが! どうせモモ説の奴だろ、きもいんだよ!!
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
【皇太子夫妻にまつわる怖い話】 第三十七話 [オカルト]
>>444 飛鳥時代って言ったら卑弥呼の時代から見て300〜400年後だよ。
200年後のことなら普通に古墳時代って言えば?
447 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 01:47:26
>>446 だって
>>436が邪馬台国時代と飛鳥時代をまるでたいして
変わりないような時代みたいに書いている。
昔の200年と今の200年じゃ全然歴史の進むスピードが違う
建築技術も航海技術も300〜400年後が大して変わらんと?
そんな頭で考えるのか。
450 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 08:19:16
>>437 日本海に船をつけ丹後方面から畿内へ行くなんてありえないだろうな
あんな険しい山中を行くよりも瀬戸内を通って難波に船を着けるほうが
常識的なルートだ
451 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 09:59:29
>>450 >丹後方面から畿内へ行くなんてありえないだろうな
だから、陸行一ヶ月なんだよ。
>>450 >あんな険しい山中
日本の地理をぜんぜん勉強してないんだろうね。
丹波は本州の中で最もなだらかで、一番険しくない所だよ。
もし地球温暖化なんかで海面が少しずつ上昇していくと
水位わずか95メートルで本州は真っ二つに切れちゃうんだけど
どこで切れるか知ってる?
由良川と加古川を結んで海峡が出来るんだよ。
「石生の水分かれ」でぐぐってみなよ。戦国時代なんか興味ないのかな。
邪馬台国ばっかりじゃなく、広く日本史全体にも興味持った方がいいよ。
鯖街道は山の中を通っていて、小浜から花背峠を越えて鞍馬にでる。
これが何本かある鯖街道の中で一番古いらしいぞ。古代まで遡る。
454 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 10:41:32
>>452 うわぁ!それは知らなかった!
由良川から加古川ということは、
宮津(籠神社)から播磨灘に抜けられるってことじゃん。
俺はてっきり琵琶湖を通過するものだと思ってたけど、そうじゃないんだな。
加古川流域に、遺跡か神社か何かある?
>>453 鉄道が出来るまでは「水運」が主流でしょう。
由良川、加古川ともに感潮域が河口から十何キロも遡り、
る日本屈指の緩流だから河床が浅いので大型船は無理だが、
明治までは高瀬舟が現役だった。
海進期の弥生時代なら、もう少し大型船も入れたかもしれない。
でも陸行って書いてるからね・・・
457 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 11:06:22
>>453 鞍馬山のふもとには、賀茂別雷神社があるな。
祭神の賀茂別雷神の両親は、大山咋神と玉依姫(賀茂建角身命の娘)。
賀茂建角身命は、神日本磐余彦天皇の東征のとき、
山に迷ったときに道案内したヤタガラス。
山歩きに強い神様ということか。
458 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 11:20:01
水行20日、古代の手漕ぎ船でどれくらい行けるか想像してみよう
459 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 11:21:12
若狭湾までは外洋船だったろうね。
何か日本海ルートで決まり!みたいな流れだなw
461 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 12:38:15
>>460 >何か日本海ルートで決まり!みたいな流れだなw
この際だからそう決めようや。キミもこっち流れに乗りなよ。ww
しかしマジ思うんだが、北近畿の丹後は侮れんぞ、鉄に関して。
確実に弥生へ遡る遺跡から、ザクザクと鉄器の出土が続出してる。
北部九州を通じたかどうかは俺もまだよく分からんが、
畿内が大陸と接する拠点の一つがこの北近畿だったのは間違いなかろう。
「和鉄の道」っていう労作サイトがあるんだが、ここで「古代鉄の王国丹後」や、
「丹後国もうひとつの邪馬台国」のとこ、よーく読んでみてくれ。
http://www.ne.jp/asahi/mutsuo/nakanishi/mokuzi01.htm
462 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 12:48:09
仲哀天皇、神功皇后の伝説でも、筑紫までは山陽道ルート。
日本書紀には、畿内から九州までのルートはすべて山陽道(瀬戸内海)を通っていて、
日本海経由ルートは一度も開拓されていない。
邪馬台国からの水先案内人が同乗して道案内していたとすれば、
邪馬台国の官僚が遣使したのと同じルートを通って案内したと見るべきで、
道になれない日本海側を経由したとはとても思えないが。
>>462 日本海ルートも瀬戸内海ルートも、両方とも開拓されていたと思うよ。
だって、出雲も吉備も両方とも巨大な勢力があるわけだから
当然、自分たちの国の沿岸部の航路の開拓には真剣だろうし。
特に、帯方郡から日本へ行く場合は、対馬海流にのったほうが速いから
往きは日本海ルートだと思う。
この場合、出雲や丹波が重要な中継地点になったのは容易に想像がつく。
安全面も、岸の全く見えないような海の中の航行ではないだろうし、
山陰の沿岸部の近いところを水行したら大丈夫でしょう?
しかし、日本から帯方郡への帰りは、対馬海流の流れが邪魔するから
瀬戸内海ルートのほうが効率がよく安全のような気がする。
また、日本国内の人が、畿内と九州の間を往き来する場合は
瀬戸内海がメインのような気がする。
464 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 13:28:05
加古川流域の遺跡と言うと、加古郡播磨町の大中遺跡がある。
465 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 13:33:57
高地性集落は瀬戸内海ルートの見張り番だろ
466 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 14:14:47
★竹島は日本領土だ!!★
竹島(旧竹島=磯竹島)は、もともと日本領土である。
古代では宇流麻島(ウルマ島)、または宇流島(ウルシマ)の国と呼ばれ、日本人が住む島だったのである。
ウルマという地名の意味は、「潤う山(ウルヤマ)」という説、「ボンヤリと見える島」という説など、
いろいろある。
ウルマという地名は、現在も日本人の苗字として残っている。
漆間、宇留間、宇流島、宇留島、宇留嶋、など。
いずれも「ウルマ」「ウルシマ」と読む。
ウルマ島は現在、韓国に支配されており、鬱陵島(ウルルン島)と呼ばれているが、
ウルルンの語源は明らかにウルマである。
三国史記=新羅本記の記録によると、西暦512年にワイ新羅がウルマ国(于山島)を侵略し
併合したとある。
ワイ族:朝鮮民族の先祖
ワイ新羅:ワイ族が日本領=志羅紀北部を侵略して建てた国
467 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/29(日) 17:44:53
468 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 17:53:12
>>461 それでも九州の鉄製品の出土数は近畿の4倍にも達している
北九州は進んだ地域であったことに変わりはないんじゃない?
469 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 18:10:29
山の中なんて普通とおらねえだろ
海沿いだよ海沿い
>>469 それだね。陸行一月が通りやすい海岸沿いということも考えられるわけだ
472 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 19:41:23
>>471 実際何の根拠もないデタラメだから書きたくとも書けないよな
下手につたない考古学知識を語ると
それこそ詳しい連中からおもちゃにされるのがオチだし
473 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:13:07
>>468 一つの遺跡から出土した鉄の量を見れば、丹後や越のほうが多い。
黄金週間だから忙しいんじゃまいか、しばし待たれよ!
475 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:28:34
476 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:43:55
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-3hakazaiseki.htm おもしろいことに、この袴狭遺跡のある出石町は、神功皇后と浅からぬ因縁がある。
出石から少し離れるが、同じ山陰地方の福井県美浜町菅浜は、
神功皇后新羅出兵、と幼少の応神が禊(みそぎ)をしたという、伝承を残す場所である。
また神功皇后の祖母とする、菅竃由良度美(すがまゆらとみ)を祀る須可麻(すかま)神社がある。
この由良度美は天日槍(あめのひぼこ)の子孫とする。
天日槍は垂仁の時代、新羅から渡来した人物とされ、出石町の但馬一宮出石神社に祀られる。
船団を描いた板は、この出石町からの出土である。
神功皇后の新羅出兵に際し、神功の祖母に繋がる、
この出石や美浜地方の人々が、神功の出兵要請に応じた可能性は充分考えられる。
477 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 21:14:12
≪定義≫
○帯方郡〜邪馬台国 12000里(約900km)
○帯方郡〜狗邪韓国 7000里(約525km)
○帯方郡〜末盧国 10000里(約750km)
○末盧国〜伊都国 500里(約 38km)
○伊都国〜邪馬台国 1500里(約112km)
ケース1
◇帯方郡〜邪馬台国までを水行10日陸行1月とした場合、
帯方郡〜末盧国の 10000里(約750km)=水行10日
末盧国〜邪馬台国の 2000里(約150km)=陸行1月
ケース2
◇伊都国〜邪馬台国までを水行10日陸行1月とした場合、
伊都国〜邪馬台国の 1500里(約112km)=水行10日陸行1月
ケース3
◇伊都国〜邪馬台国までを水行10日とした場合、
伊都国〜邪馬台国の 1500里(約112km)=水行10日
ケース4
◇伊都国〜邪馬台国までを陸行1月とした場合、
伊都国〜邪馬台国の 1500里(約112km)=陸行1月
どれも、さまよって、行かなければなりませんね。
478 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 22:56:46
>>473 鉄器はやはり北部九州のほうが優勢。丹後については、
弥生時代の鉄器生産は、全体としては質、量ともに北部九州が優勢であるが、
丹後地域も侮りがたい存在として急浮上してきたのである。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/sfuku239/sfuku/tango.htm という程度だろう。
特に熊本が優勢で、最古の鉄斧も出ているし、西弥護免遺跡では、一つの
遺跡だけで、当時、日本全体で出土していた鉄器全部に匹敵する量の
鉄器が出土している。
福岡県の八女で、大規模な鉄加工跡が見つかったとき、福岡県の関係者が
熊本は膨大な鉄の出土量を誇ると言っていた。
479 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 23:11:14
>>478 だから何?
鉄器があるだけでは、何も起こりませんよ?
480 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 00:16:34
とりあえず
卑弥呼の本名が知りたいなぁ
481 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 00:25:33
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)
宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
482 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 00:26:23
宝来mtDNAデータのトリックとその欠陥を簡単に説明してやると、
朝鮮半島にしろ中国大陸にしろ、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない
地域であったのにもかかわらず、データの中に北方アジア人に関するタイプの
データが一切出てこない。
しかも、調査サンプルにも北方アジア人のサンプルが一つも無い。
つまり、宝来mtDNAデータは、北方アジア抜きの偏向調査で出された単なる
偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと
錯覚させるだけの非常に悪質極まりない欠陥データに過ぎないのである。
483 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 01:10:23
日本海ルートはありえんWW 馬鹿すぎる
484 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 01:21:45
まあ いろんな説があるとして・・
日本海側だと東北に北上コースだな。これで南至女王国などと書くわけがない
さらに左に朝鮮半島もみるわけで。
なんや凄くおかしなことになるけど、まあ畿内説だとこれは全部無視になる。
信じられんよ・・
485 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 01:38:04
>>484 「陸行一月」をひねり出すために苦労しているんだろう。
486 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 05:39:39
畿内説だと陸行一月は九州説よりありえん。
だだっぴろい平野だらけで・・・。大体畿内全部の面積自体、九州より狭い。
ちゃんと標高付きの地図みろ! 四国のほうが余ほど説得力あるはw
>>485 方角は南を北にしてもかまわず、南国風の記述はおろか、東に千里の海もなくてよいのに
陸行一月は苦労して合わせようとしているのか・・・
よくさ、北九州には鉄器が多いというけどさ
そういうのは比較の問題じゃん。
畿内にだって、鉄器は当たり前のように出てくる。
畿内のほうが鉄器が少なかったというのは
ただ単に畿内のほうは中央部で安定していて
紛争が少なかっただけじゃないのか?
逆に北九州のほうは、南九州の熊襲との紛争や対外窓口だったために
畿内中央王権が北九州に軍隊を派遣して、戦闘が奮発していたから
鉄器が多かっただけかもしれないし。
488 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 10:18:09
>>487 おまえも、だまされるなよ。
鉄器=鉄器の武器じゃないぞ。
489 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/30(月) 10:49:23
>>477 ≪定義≫がハナから違うから論議にならない。
490 :
日本@名無史さん :2007/04/30(月) 11:04:57
>>487 畿内勢力?が九州の紛争地区に派遣していたと
すれば、畿内からは、大量の鉄器と高炉跡が
発掘されなければならない。
当時の畿内は、マクムク遺跡でさえも、二上山の
黒曜石の石器の類か、せいぜい青銅器くらいの痕跡
しかない。
農耕用具も木製の鍬や鋤の類しか出土していない。
畿内に温和な農耕部族は居住していたと思われるが、
畿内王権?と呼べるような集団ではない。
まして、九州に軍団を派遣するには、大量の軍船と
食料補給が必要だし、その補給路が確保されなければ
ならないのだから、漫画の延長でないかぎり、畿内王権
などは存在しない。
>>486の脳内イメージがわからん
> だだっぴろい平野だらけで・・・。大体畿内全部の面積自体、九州より狭い。
> ちゃんと標高付きの地図みろ! 四国のほうが余ほど説得力あるはw
つーか、何が言いたいのか・・・
>>487 > 畿内のほうが鉄器が少なかったというのは
> ただ単に畿内のほうは中央部で安定していて
> 紛争が少なかっただけじゃないのか?
鉄製品で一番利用価値が高かったのは包丁だったりする。
>>490 > 高炉跡が
笑すな。
> 畿内に温和な農耕部族は居住していたと思われるが、
> 畿内王権?と呼べるような集団ではない。
石塚や矢塚など100m級の個人墓が建造される組織は「王権」と呼べる。
たった一人のために膨大な人的資源は費やされることを考えてみたまえ。
494 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 11:46:47
>>490 その理論だと当時の日本に王権は存在しなかったてことになるぞ
495 :
日本@名無史さん :2007/04/30(月) 12:04:30
>>494 何故王権にこだわるのか良く理解できないが、少なくとも
魏志に登場する倭国は、せいぜい特定地域のみの国程度と
解釈されていると思う。
国内の山間部や平野部は当時は荒れ放題の状況で、せいぜい
船が接岸できる地域が徐々に内陸部に開拓され始められた程度
の理解で充分で、河川に橋を架ける技術は当時は存在しない。
745 :日本@名無史さん :2007/04/30(月) 13:27:58
外国の日本考古学研究サイトを調べたら
これは、完全に
邪馬台国=大和説が圧倒的な感じだわな。
ここで九州説が自己満足していても
かなり厳しいように思う。
畿内説が多い考古学の権威が
九州説の多い在野の歴史愛好家の必死な在野での宣伝活動を
無視しているのがよく分かった。
>>495 > せいぜい特定地域のみの国程度と
抽象的過ぎた表現なので貴方が想う「せいぜい」が伝わらない。
貴方の日記じゃないんだから、「北部九州」とか「西日本」とか、
もう少し他人に判るような文章にしないと掲示板に書く意味がない。
> 国内の山間部や平野部は当時は荒れ放題の状況で、せいぜい
> 船が接岸できる地域が徐々に内陸部に開拓され始められた程度
> の理解で充分で、河川に橋を架ける技術は当時は存在しない。
いつの時代の話ですかw
内陸部ってどう言うところのこと?
吉野ヶ里とか舟が接岸できるところですか?
思いつきじゃなくて、もうちょっと考えた結果を書こうね。
499 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 15:12:09
北九州に鉄器が多いからといって、北九州=邪馬台国ではない。
北九州は朝鮮半島から地理的に近いため、独自の公益で文化が発展していたかも知れないが、
それと邪馬台国は別。
当時の中国は九州のみを指して倭国といっていたなど、お話にならない。
それならば、のちに畿内政権である倭の五王が中国に使者を送ったとき、
当然、九州王の別称である倭国王ではない、別の名称を求めただろう。
倭王武に比定される雄略天皇は、多くの国王の称号を羅列して求めたが、
倭国以外はすべて朝鮮半島の地名である。
倭の五王が卑弥呼と同じ倭国王の称号を求めたこと自体、
邪馬台国時代の中国が、九州、四国、近畿を含む関東以南の本州あたりまでを認識
していた証拠である。
500 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 15:17:58
倭の五王は当時の各天皇にあらず。
501 :
日本@名無史さん :2007/04/30(月) 15:36:24
>>499 畿内厨は、苦しくなるといつも大和朝廷と
邪馬台国時代を混同して弁解するから、話
に一貫性がない。
502 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:34:09
>>500 天皇の呼び名は後の話し
大王であったのは事実であろう
503 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:44:11
>>500 武が宋の皇帝に送った上表文を見れば明らか。
倭の五王は、九州の王ではなく、畿内の大王。
504 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 16:47:30
明らかではな〜い。五王は九州王朝の王。
506 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:10:43
太国 ◆yVAs7uaYlY
畿内大王はいつから発生したと思ってんの?
君かい?
ここのスレ荒しは。
507 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 17:14:07
>>506 そういうことはお前から思ってることを言え。
スレ荒しだと? そんなつもりはない。 五王=天皇 だと云うから
そうでないと言ったまでよ。
508 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:16:28
つーか、倭国=九州だったら、当然、
四国や本州には別の国名つけるはず。
魏の時代は倭とは九州のみだったが、
五世紀には範囲が広がったとでもいってんの?
漢の時代ですら「奴国王」の金印しかもらえなかったんだぞ?
卑弥呼が九州の一部地域しか支配していなかったと言うなら、
「邪馬台国王」で十分。
「倭国王」の称号なんか与えなくていい。
ここ九州説の連中、まともに議論できないやつばっかりw
509 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:18:39
>>507 雄略天皇の名は、教科書及び日本書紀によったまで。
倭の五王は畿内王だったと思っているよ。
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 17:19:59
511 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:58:03
太国 ◆yVAs7uaYlY :
おまえが思ったって、倭の五王は畿内王。
ぷっ。
512 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:59:11
∧∧ ∩
( ´∀`)/ 片瀬雪希とぽけっとチュッチュ♪
⊂ ノ
(つ ノ
(ノ
513 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 19:15:37
>>510 封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國
九州の西に66ケ国をどこに比定するの?
514 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 19:22:27
>>511 お前がいくら畿内の天皇だとほざこうが、事実はそうではない。
五王は九州王朝の王。お前の天脳説はお前のあま〜い妄想だ。ww
>>513 それは五王でも畿内のおおっぱな情報が少々入っているだろうが、それに
そうでない可能性もある。この場合は神武以前情報の貴重な記録になる。たかが
そんな文で天皇にしちゃうのがお前らの単純な豆脳のデキ。ww
515 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 19:45:21
>>514 …お前らの単純な豆脳のデキ。ww…
まっ、何を言われようが我慢するが、じゃ、『 西服衆夷六十六國』を
どう解釈するの??
516 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/30(月) 19:54:59
>>508 「倭国=九州だったら、当然、 四国や本州には別の国名つけるはず」
邪馬台国連合30カ国域は当然九州からははみ出ないと考えているが、だからといって倭と呼ばなかったかというと呼んだと思う。
「九州からはみ出ない」根拠は、壱岐国、対馬国、マツラ国、伊都国、奴国ここまでもう既に5カ国通過している事で当時のクニの規模がおおよそ想定できる事や
「やまくに」を中心とした耶馬渓一帯が邪馬国。杷木町が巴利国、など有力なクニの比定地が九州北部に存在している事など。
又、九州以外も倭と呼んだという根拠は倭人伝の「女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。みな倭と同じ人種である」
など、海を渡って倭の地があるという記述がある事、などがあげられる。
時代は下るが伊達政宗も日本国王と名乗っていたことから、狭い範囲の国主程度であっても全体を代表しての倭王の名を冠したと考えられる。
それでは魏は倭国の範囲を把握していたかというと必ずしもそうではなく、倭人伝に
「女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない」
とあるように本州、畿内のことはよく解っていなかったと考えられる。
しかし畿内は畿内で日本海ルートなどでの大陸との結びつきが無かったとはいえず、
たまたま魏使らが邪馬台国とのクニの連続という観点で畿内を捉えることが出来なかったのか、
はたまた交易する相手同士の交流が無かったのかのいずれかではないかと思われる。
517 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 19:56:33
>>515 お前はどうしようもない男だな。その解釈はとりわけ九州王朝の存否とは
無関係だ。いいか、この王朝は神功か應神の時代に九州に立ったものだ。
それの一定の祖先から王の手前あたりまではその日暮らしで一般人民の身分
だったが、さらに遠い祖先は神武以前に遡る名あるコゴトムスビ尊の系だ。
そのころの倭の国々の情勢を言ったまでのことよ。神武以前の国勢が簡単に
どこがどこだとか、文献が少ないのに言えるわけがなかろう。
518 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/30(月) 19:59:29
>>516訂正
「だからといって倭と呼ばなかったかというと呼んだと思う」 が
「だからといって本州を指して倭と呼ばなかったかというと呼んだと思う」
となります。
ですが おかえり、意外に早い復帰だったな!
520 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 20:08:12
>>518 九州さんよ。
小国日本が倭国を併合したという記述についてはどう考えるんでやすか?
倭の五王の話盛り上がってるみたいだけど。
教科書みたら、有力説として讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=有略でした
異説として、讃=応神・履中、弥(梁書)=仁徳
となっていました。
自由書房の本でした。
ご参考迄ですのであしからず
おまえらの五人おせーろ
理由はまんどくさいからかくなよ!あくまでご参考だかんな
522 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 20:26:47
>>514 広開土王碑の銘文、「百殘新羅…新羅以爲臣民」は、「そもそも新羅・百済
は高句麗の属民であり朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済
・新羅を破り、臣民となしてしまった。 」として、倭国の状況が記載されて
いる。
昔は旧満州軍の捏造説なども言われていたが、今では日本国内の考古学界で
はそのように解されている。
辛卯年(391年)に少なくとも、新羅・百済に相当数の兵を送るほどの兵力
があったということであり、少なくとも4世紀中期以降に九州勢力でそのよう
な、強力な国があったのか疑問。九州王朝はそんなに強力な国家であったのか。
台与の時代からまだ、50年しか経ていない時代なのである。
讃は履中天皇と思われ
524 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/30(月) 20:38:47
>>520 この記述には詳しくないんですが、日本という呼び名がでてくるのは大分後の事だと思います。
僕の考えによるとそれまで周辺諸国に「倭国」として通用していたのが「日本」という呼び名になった事への
他国の戸惑いを表してるのではないでしょうか。
倭人伝にも倭というのは多数の島々からなるとされていますから、
日本という聞きなれない新国名に反発した地域もあったかもしれません。
それが大和朝廷の国家統一などのイメージと重なってあたかも日本という限られた地域の小国が
倭国全体を飲み込んでいくような印象を他国人に与えたのかもしれません。
江戸時代に日本では中国人の事を唐人と呼んでいましたが、
日本に対して「倭人」「倭国」というイメージは周辺諸国は長い時代に亘り引きずっていたと思われます。
>>519 潮干狩りに行ってきました。また連休のうちにプラっと出かけたいと思います。
525 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 20:39:04
>>517 太国さん
このスレのトップにある「良識ある言動をしましょう。」は無視ですか?
◇それの一定の祖先から王の手前あたりまではその日暮らしで一般人民の
身分で…
↑
プゥ!
だったが、
526 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 20:39:55
>>522 倭の侵攻は、
神功69年(西暦389年)ってことでいいのかな?
527 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 20:43:07
まぁ、ここの良識はこんな感じですよ!
慣れてもらうか、もう来ないかはあなた次第
>>529は応神3年が392年ならという前提でね。
531 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/30(月) 20:59:06
「九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに! 」
色んな説が出ていいんじゃないですか?
ここのキャッチフレーズがこれですから。
でもやりとりがマータリで紳士的で
そっちの方が人間として最も大事なことではないでしょうか。
僕も自説を唱えるのに遠慮なんかしません。論を戦わせるのが本来の姿ですし。
おおーですが、やっと大人になったか、もうあんま興奮すんなよ。
よしよし
533 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 21:03:11
>>522 倭の五王の当時、九州にはこの五王朝と、卑弥呼の後系の本筋の九州王朝
の並立があり、二つもあればそういうことは可能であろうが。
>>525 お前のような奴が、、倭人伝から、あ〜卑弥呼の国は畿内にあったとか
上の文とやらから倭の五王が畿内の各天皇だとか、す〜ぐ畿内に豆脳を
単純に進めてしまう哀れさに余が泣き屋になってやるよ〜。ww
五王は九州王朝の王であり、当時の各天皇にあらず。
>>522 > 台与の時代からまだ、50年しか経ていない時代なのである。
100年くらいは経ってるんじゃない?
太国、泣き屋おつ。
最近は炒飯くってないのか?
536 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 21:10:02
>>529 紀での應神即位2年=376年(應神元年も倍暦の関係で376年)
通常年での應神即位2年=377年
あっ、4c半ばの時点でか。
仁徳即位元年=391年
おそらく仁徳だろうね。
大国だかんな、勘違いして太国こたえんなよ
履中即位2年=421年
2年とは紀での2年の意味でなく等倍計算での2年目の意味です。
同天皇の時代は2倍暦です。
すまそ。訂正。変換ミスだわな。許せ許せ。
>>539 (誤)大国氏 → (正)太国氏
544 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 21:54:38
七支刀の銘文の年号は、現在では「泰和四年(369年)説」が有力となってい
る。少なくとも、百済王と倭国王の上下関係は別として、その刀が、石上神社
から発見されている。やはり倭の五王は、畿内の大王とする方が素直だと
思いますが・・
>>544 その七支刀に倭の五王の一人が應神だとか書いてあるんかい?
神功のときでは天皇はいないよ。それに以下のとおり日本版
シルクロードがあってストレートに百済の物は畿内に流入しやすい。
大陸 半島
↓
対馬等
↓
北九州−−−−−−−−−→畿内
この矢印が逆に向かえば、畿内の物も半島、大陸に行きやすい。
だから当時畿内の天皇の名もあっちへ行くのは、名は重量がないから噂
は朝貢とともにあっちへ行けるが?(行きやすいが逆に九州より遠方なので行く数はめっきり少ないことにもなろうが・・・。)
そこで、讃だとか珍だとか以上に名があっちの文献に載るのに支障はないはずだな。ところが王の号は中国名のようであり、名のホムダワケとかでない。つまり五王は九州の王だからだ。
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・
宋書には、478年倭王武が皇帝に送った上表が記載されています。
その冒頭には、武の父祖、つまり讃や珍、済にあたる人物が国土征服に乗り出し倭国内の平定を成し遂げたとある(広域支配の確立を達成したことを表しているんかな?)
まぁ、ご参考迄ですのであしからず
547 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 00:06:26
このスレの
>>1には確かな包容力を感じる
エジプトも、って・・・・・
548 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 00:39:46
>>508 別の国名ついてるし。九州以外に倭国があるのは百も承知のうえ
30数カ国統治している国だから称号与えたんだろ。
つーか、こんな幼稚な脳内でまともに議論できてないのはおまえだろW
549 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 01:30:25
>>499 >当時の中国は九州のみを指して倭国といっていたなど、お話にならない
いや、なるんだけどw 旧唐書みてみ?
>それならば、のちに畿内政権である倭の五王
のちの畿内政権とか倭の五王は 時代がぜんぜん違うんで同じ話題にもってくんな。いい?w
>倭の五王が卑弥呼と同じ倭国王の称号を求めたこと自体
だって倭だもん。そんとき。そりゃ倭国王の称号ほしいわw
>邪馬台国時代の中国が、九州、四国、近畿を含む関東以南の本州あたりまでを認識
>していた証拠である。
ちゃうちゃうwww 全然してないw 証拠もないw
四国なんか書いてないじゃん。倭人伝では倭国の一部しか認識してない。
それで十分倭王渡してんのw
550 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 03:05:03
どこをとっても穴だらけの畿内説
なんという低レベルなスレなんだ。
考古学会の最先端から逸脱した内容になっている。
2chに期待しすぎ、おまえもスレできるのに・・・レベル上がるわけない
553 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 06:33:18
このスレは「♪邪馬台国 ドンと来い♪」だから、九州王朝説を展開する
荒らしには反応しないでください。反応する方も荒らしとなります。
ご注意ください。
ドンと来られるのはちょっと勘弁しろ的な事ね
了解!
555 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 06:41:56
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■九州王朝説
九州王朝説とは、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に王朝があり、大宰府がその首都であったとする説である。
本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智元年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。
邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から、戦後では長沼賢海らがいるが、古田により7世紀まで、敷衍され、体系的なものに整備された。
ただし現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においては記載されずに『無視されている説』であることに留意する必要がある。
556 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/01(火) 06:45:19
>>553は、意味不明。
論理の飛躍か論理性が無い為と思われる。
557 :
日本史@名無しさん:2007/05/01(火) 06:47:30
>>490 二上山の黒曜石って・・・。
いや、俺も九州説なんでアシストしたいけど・・・・・。
黒曜石の容積をもとめたのは何曜日だったかなー
559 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 07:19:25
>>555 邪馬台国九州説は、大きく分けると、東遷説系と、九州王朝説系に分かれる。
九州王朝説は、意外に畿内説と相性が良かったりする。
特に、年代の遡上については同じような考えじゃなかったかな。
逆に東遷説と九州王朝説は仲が悪かったりする。
井上光貞、榎一雄は確か東遷説だったと思うが。
仲が悪いって・・・
どんまいでさ、九州のどこにあったかでも、別れてない?
もともと九州にいた人が、機内に移動して邪馬台国をつくったと唱えたとしたら何説になるん?おせーろ
562 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/01(火) 07:46:40
>>551 [ 考古学会の最先端から逸脱した内容になっている]
考古学といっても後追い学問。「最近の調査でここまで解ってきました」という類のもの。
だから今現在の研究成果の範疇を越えて違った事が言えないのが当然。
宇宙科学もつい最近まで冥王星の大きさ一つまともに解らなかった。今も全宇宙の実態はよく解っていない。
ごく最近地球と同じく人の住める可能性がある星が始めて見つかった。
しかし例えば仏教では大宇宙には人が住んでいる世界が宇宙に百万は散らばっているとされるし、
UFOや宇宙人がいるかどうか肯定するアメリカ人は100%近い。
でも科学者ははっきりした証拠が出てこない限り、肯定できない。
考古学も同じで新たな証拠の積み重ねによってやっと一歩ずつ進むことが出来る学問に過ぎず、
最新の研究ではそうであるだけであって、イコール真実なのではない。まだまだ途中の段階なのである。
したがい、考古学至上主義は危険。
>>553 卑弥呼の女王国は九州王朝の始まりなので、このスレに関係おおあり。
564 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 08:30:31
違う違う。
卑弥呼の女王国は九州王朝の最末期です。
このあと、壱与、男王?をもって九州王朝及び諸国は大和朝廷と
連衡することになります。
565 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 08:35:54
>>560 分かれてるよ。候補地はいっぱいある。鹿児島と長崎はあまり聞かないが、
そのほかはだいたいある。前原という人もいるし、甘木、八女付近、佐賀、
宇佐もファンが多い、熊本や宮崎もある。
>>561 それは畿内説。
566 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:19:15
日本書紀には仁徳〜雄略まで、中国へ遣使したり、
朝鮮半島と関わったりする記事が頻繁に現れる。
太国君は倭の五王は九州王で、近畿にいた大王とは別物だというが、
それでは、近畿王と九州王は別々に遣使し、
中国がそれぞれに倭国王の称号を与えていた事になる。
ところが現実的には、中国の史書には、
倭の五王は血縁関係にあり、同族であることが書かれてある。
遣使したのは九州王のみで、
日本書紀に記録が残る近畿王は遣使していなかったとでも?
5世紀の九州にそれほど勢力があった王がいたのに、
日本書紀に触れることがないのはまず持って不思議。
遣使の妨げになる勢力が九州にいたとしたら、
近畿王は朝鮮半島に勢力を伸ばす事を考えずに、
まずそっちをどうにかしただろう。
この頃には近畿王の支配下にあった筑紫国造なんかを九州王に想定してんの?
567 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:27:46
>>561 原田大六説。
原田大六 1954 『日本古墳文化─奴国王の環境─』 東京大学出版会
原田大六 1966 『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』 学生社
原田大六 1969 『邪馬台国論争』 三一書房
原田大六 1975-6 『日本国家の起原』〈上下〉 三一書房
原田大六 1977 『卑弥呼の墓』 六興出版
>>564 九州王朝の末期は文武の時代の前後だ。卑弥呼がその時代の人物なら君の
言うとおりだが、そんな主張をするのは君くらいだろう。古田先生だって
九州王朝の末期はそのころだと言うはずだ。
卑弥呼の女王国は崇神の時代のあたりで、九州王朝の始まりだよ。倍暦計上で
崇神即位元年=237年=景初元年
569 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:45:50
>>566 不思議でもないだろう。その典型的な例が卑弥呼ではないか。
だから大陸から畿内へ行く日本版シルコロードからいささか外れた地域に
卑弥呼の女王国とそれとは別に倭の五王の国があったということだ。
日本版シルクロード近隣に五王の国があれば記紀に別王朝の記述が容易に
載るから、記述がない以上そのあたりに五王の国はなかったのは確かだ。
筑紫国造か否かは定かではない。今後の研究になろう。
以下の図のところに五王の国はない。そこから一寸外れた地域に違いない。
大陸 半島
↓
対馬等
↓
北九州−−−−−−−−−−→畿内
571 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:15:35
>>570 太国君、質問に答えてないね?
日本書紀に記録が残る近畿王たちは、中国に遣使しなかったの?
倭の五王の記事は、中国側、日本側、両方に記事が残ってるんだよ?
日本書紀の記録をどう解釈すんの?
>>571 紀の記録か?そこをを出してくれ。どこの五王の記事があるんかい?
近畿側も大陸流通はあると思うよ。
573 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:27:08
>>572 おいおい、日本書紀など、君の必須分野だろ?
とぼけんなよ。
例えば、日本書紀の、雄略12年4月4日、
雄略天皇(呼称は日本書紀の記載に従う)は、
身狭村主青、檜隈民使博徳を宋へ遣わしている。
これらの記事をどう解釈するのかってきいてんの。
とぼけてなんかいないよ。それがどうして五王の一人になるんだよ?
雄略が武王だと思っているのか? 幼武尊の『武』をとって肯定するなら
他の四王にも一字ずつ名が合うはずだろうが。
武烈にも神武にも文武天皇にも日本武尊にも『武』の字は多用されている。
これを見ても別人だとわかる。記紀の古代史でイコールは全部間違いと
みれば正解。
>>570の図から見ても畿内と半島の交流はあったろう。現に鏡、刀が畿内
から出土してるんだから間違いはない。ただ君は雄略の記事を五王と即断
するから失敗してるわけさ。畿内も九州もあちらと交流はあるさ。
575 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:51:15
>>574 @同じように遣使しながら、九州王の記録だけが中国の記録に残り、
近畿王の記録は一切残らないとする、君のご都合主義、破綻。
Aそもそも、九州王の存在自体、日本書紀、古事記に残ってない、破綻。
ということで、君の脳内九州王説はすでに破綻しているよ。
史料よりも、君の脳内王国のほうがすばらしいというのだから、
つける薬はない。
>575
九州は畿内より大陸に近い。九州の記録が遠い畿内より多くなるのは物理的に
おかしくはない。卑弥呼の女王国だって記紀に記述が殆どないのを見ても
大陸に近い九州にあったのは合理性がある。ただし
>>570の図から見ても
北九州にはある可能性は女王国であれ五王国であれ、その可能性は薄い。
ロード上にあるなら、記紀に情報が行く割合が強くなって来るから、詳細が
書かれてないことからそのへんにはないと言える。
君の豆脳はすぐにイコールにしてしまいたいようだ。ww 重ねて言うが
以下の等式は総て間違い。
神武=崇神=應神
天照大御神=卑弥呼=神功皇后
倭の五王=当時の各天皇
卑弥呼=比売大神
577 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 12:31:33
>>576 君が勘違いをしているね?
私は君の倭の五王の見解について反論をのべているのであって、
卑弥呼は神功皇后だなどと一度も言ったことはない。
畿内説なら必ずそう思うはずだ、と他人の意見とごちゃ混ぜにして
論じるのはやめてもらおうか。
まず、雄略の記事だが、どこの研究者が雄略の名が「武」と一致するから、
というだけの理由で雄略を武に比定している?君の説はちょっとかじりのとんちんかん。
年代があうこと、江田船山古墳の鉄剣などからその頃の大王と一致するからだよ。
わざわざ、中国の首都まで出かけている畿内王の遣使を、
中国側が記載しないはずがない。
逆に、九州王など、君の妄想の中にしかない。
以上の問いに答えてご覧?
記載しないはずねぇ〜? へぇ〜そうですか〜?
だったらホムダワケとか書かないわけがない。名前っていうのは本人と別人と
を分けるためにあるんだよ。すなら記紀に讃だとか珍だとか名前を付けて
もらったっかの記述があるはづだろうが? 別人だからないわけ。
君の出した記紀の文に一文字のそんな名前はないではないか?
記載しないわけがないとはこっちの言い分にもなるぜ。
断じて五王は天皇にあらず。五王はコゴトムスビ尊の系の者で、九州に
いた者ら。
579 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:29:16
昔、日本の首相が外国訪問したとき、ロンとかヤスとかって呼び合ってたな。
580 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:31:12
で、日本の公文書に、ロンとかヤスとかってアダ名は記載されてないと思う。
581 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:32:37
一方、外人は、日本名をニックネームで呼んだりする。
582 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:48:58
583 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 15:02:01
倭の五王は九州王といっても
ぼくは末盧の王じゃないかと思うんだよね
だって松浦のトノサマって
一文字の名前の人が多いじゃん?
584 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 15:33:33
太国 ◆yVAs7uaYlY
馬鹿か?君は。
卑弥呼は、邪馬台国女王の本名です、なんてマジ、思ってんの?
お前は、倭の五王と全く同じ漢字一文字の名を持つ、
九州王がいたというんだな。
5世紀の九州に、「珍」とか、「武」とかいう王がいたわけだ。
史料の裏づけがないからって、話をそらすなよ。
九州王朝そのものが、君の脳内にしかないのに。
自分で言ってる事、破綻してるよ、完全に。
脳内君。
>>584 九州王朝は古田先生らも主張している。なにも余だけではない。
君の豆脳は古田先生の記憶を亡失してるようだ。w
お前は5個もイコールにしていて飛鳥さん顔負けだぞ。ww
586 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 15:40:30
ちなみに、中国は、推古朝のときも、
倭国王の名を、推古の名「炊屋大王」もしくは「額田部大王」とはよんでないよな。
これも、「タラシヒコ」という九州王による遣使です、とかいいかねん。
太国君なら。
587 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 15:42:26
あいにく、君の愛する古田先生の論は、
多くの古代史学者によって論破されているよ。
残念だね、太国君。
>>587 フフン、論破だって? 青森君じゃぁないんだよ。
江戸時代、京都と江戸にそれぞれ朝廷と徳川幕府があって並立していたように、
当時も九州王朝側と畿内の朝廷とは並立関係にあったんだよ。
論破はされていないゼ。君は臥海の飼い犬か〜?
以前もここらへんのスレで論戦やったよなぁ?
589 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 15:49:36
>>584 5個もイコール?
誰と誰をイコールにした?
お前は他人の意見とごちゃまぜにしすぎ。
倭の五王はいずれも血縁関係にあり、
いずれも畿内王だとはいったが、
誰と誰をイコールなどと言ったか?
馬鹿者。
史料の裏づけの一切とれない九州王説、不利とみて逃げるか?
590 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 15:53:41
太国君、君がいくら頑張っても、
九州王は史料的裏付けが一切ないんだよ。
畿内王が遣使した当時、当然、
山陽道を含む本州の西側、北九州が大和政権の支配下にあって、
それ以外の王が遣使しようと思ったら、
大和王権軍と戦って打ち破り、海路を征服しなければならない。
どれだけ無謀な話かわかってんのかい?
わかってりゃ、コレだけ叩かれてまだ書きこみしようなどとは思わんだろうがなw
>>589 まぁまぁそう怒るな。 君じゃぁ失礼だから貴殿と呼ばせてもらうが、
他の
>>576の等号主張者も俺に限って間違いないとか言いだすと思うぜ。だが
等号は間違いなんだよ。
貴殿は学者のようだからプライドが高く、非常によく古文献等を研究して
いて、そっちのほうはからきし余はまだまだだが、こちらは貴殿はまあ
いいとして、他の連中には6枚落ちで『史容疑』を指している。古文献に通じて
いなくても古神道を充分正覚しておれば、結構古代史の論戦で太刀打ちでき
るのさ。つまり貴殿と研究方式がまるで違うのさ。坂田名人など駒の文字
一つしか読めないのに無類の強さを発揮して名人号をもらった。同様に
古文献に暗くとも強う奴は強うなる。
よく考えて再吟味検討をしたほうがいいよ。五王は神代の昔、コゴトムスビ尊
の系の者で、没落して神功、應神の時代まで来たが、ここで再興して五王朝を
築き上げたのさ。それは九州での短期王朝で終わった。
592 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 17:28:40
590君、君がいくら頑張っても、
畿内王の史料的裏付けには信頼性が一切ないんだよ。
九州王が遣使した当時、当然、
山陽道を含む本州の東側、畿内が九州政権の支配下にあって、
それ以外の王が遣使しようと思ったら、
九州王権軍と戦って打ち破り、海路を征服しなければならない。
どれだけ無謀な話かわかってんのかい?
わかってりゃ、コレだけ叩かれてまだ書きこみしようなどとは思わんだろうがなw
593 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 18:09:55
北九州沿岸の主要古墳からは三角縁が出てるし、
それらの古墳の規模でさえ殆どが100m以下。
同時期に300m級の古墳をポンポン造ってる畿内王だったら、
九州王権軍とやらと戦ってこれを打ち破り、海路を征服するというのは、
それほど無謀な話ではあるまい。
594 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 19:06:32
古墳のでかさなんて意味無いでしょ
バカみたいにでかい古墳作ってる畿内はそれだけ文化が遅れてたって事
文明が進化するにつれて古墳なんか作るバカさに気付き作られなくなっていく
古墳がバカみたいにでかいのは畿内が後進地域だったことの表れ
595 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/01(火) 19:15:13
畿内王権陸戦軍なら、百歩譲って九州王権軍に勝てるかもしれない、
しかし、海峡を常時往来しており海の利に長けている九州海戦軍に勝てるかね。
海戦の経験の少ない、畿内王権海戦軍が、海路を征服し、確保し続けると考えられるとはね。
畿内王権を中世の大内氏と同列に考えるなんて、君はどうかしていると思うよ。
>>594 前方後円墳が全くつくられなかった北海道こそ
最先進地域だった・・・・・と言ってるみたいだ罠
597 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 19:28:40
九州王朝は半島に出向いてしょっちゅう戦争してたからな
海軍も当然強力
まず海軍で蹴散らされるだろうね畿内軍は
今日の太国は、負けかぁ
どんまい、明日がんがれ
>>592 >畿内王の史料的裏付けには信頼性が一切ないんだよ。
九州説論者で神武東征を史実と考えている諸君に尋ねたい
上記
>>592の主張に同意かね?
機内説の資料的裏付けのすべてを知らないのに聞かれてもなー。
601 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 19:35:24
九州王朝と畿内王権は別の系統、別の国なので
両者を古墳の大きさで比べても意味無い
当時の中国だってでかい古墳なんか作ってないけど
全然国力は上だし文化も進んでる
中国との交流が深く中華風を取り入れてた九州王朝は
当然巨大古墳なんかには関心が無い
時代遅れの無意味な巨大古墳で悦に入ってる畿内王権は
やっぱ遅れてたと言わざるを得ない
古墳じゃなくても、始皇帝の墓でかいし・・・
ピラミットもでかいし、まぁでかい墓が流行るとゆうか作りたい時期ってあんじゃまいか?
603 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 19:47:52
>>594 >古墳のでかさなんて意味無いでしょ
多くの人の労力がないと、でかい古墳は造れないと考える。
古墳の規模の大小には何らかの意味があると思う。
604 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/01(火) 19:54:29
>>599 >上記
>>592の主張に同意かね?
神武と称した人物に該当する人物がいたことは明白である。
605 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/01(火) 20:00:28
>>598 負け? 負けちゃぁいないよ。あの学者の出した紀の文には「五王が天皇です」
とはかかれちゃいない。困りましたなぁ〜あの文には書かれてないんですよ〜。
かの学者が両者をくつけているだけのこと。
太国、勝敗は見てる人がジャッチするんだから、判定に意義をとなえても遅いよ
まぁ、全勝はどだい無理なんだから、切り替えて明日またガンガレ
607 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/01(火) 20:11:44
>>606 何を言ってるんだね。w あの学者の強行な言動は奴の権威がゆらぐ防戦
なんだよ。ギャッギャッギャッギャッとわめいているだけ。
紀の出したあの文見てもわかるだろうが。どこにも「五王は天皇なり」
とは書かれてな〜い。書かれてないんだから五王は各天皇ではな〜い。
608 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 20:27:18
609 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 20:39:55
>>576 重ねて言うが
以下の等式は総て間違い。
神武=崇神=應神
天照大御神=卑弥呼=神功皇后
倭の五王=当時の各天皇
卑弥呼=比売大神
って井沢説とやらなの?
>>576
610 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/01(火) 20:44:01
>>609 井沢さん関連小説は数冊か、読んだことがありますが、とりわけそれ以外は
読んでないから、その件分からんですな。
五王は天皇って書いてなーいは理解したけど。
九州王っても書いてなーいじゃないのか?
よって、今回の太国はキレもないしエンターテイメント性も弱いんだよなー!
まぁ、明日も応援するからそう気にするなよー
612 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 21:15:30
三重に住んでいるんだが
神宮が墓でないという感覚はわかる。
三重・中南部で古墳が見つかったというのはあまりきかないしね
神宮の裏山崩せば、いろんなことが判明するような気がする
みたところ太国の劣勢って感じだなw
みたところ太国劣勢って感じだなw
井沢説は
天照大神=卑弥呼・台与
さらに
比売大神=卑弥呼です
616 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/01(火) 21:42:54
>>613 あいつは以前余と1〜2回論争したことのある者で、かなり研究が熟達して
いるのを感知していた。今回のあの威勢と高度の学的知識から、どこかの
大学かなんかの学者か教授連とにらんでいた。
彼はそういう人物だから余を一介の青二才的おっさんとしか考えていないから、
余に負けたら面子が潰れることになる。教授クラスがそこらのかじりに負けて
たまるかという気迫が文に滲みでているね。
負ければ面子丸つぶれだし、後々まで余の論をどんな方法の論でもいいから
持って来て押し倒そうとしてくるだろう。学者でも感情の動物だ。学者同士
なら負けても苦にはならんが、2ちゃんのありきたりのアマチュアに負ける
ことは彼は絶対許せないんだよ。彼の文を読んで感じないか?
こっちもそれを次第にわかって来たから相手を立てているんだ。彼の感情を
大事にせにゃぁならん。五王が天皇でないことは時間はかかるが分かるとき
が来るのと祈る。そういうわけで、かわしているわけさ。だが古神道の最高権威
は日本の王朝の盛衰を『卜』事でしっかり把握しているから、今日は荒立て
ないでおわるが、一つも動じることはない。最高権威にも面子はある。臥海
は絶対にこちらを潰すことは不可能だろう。
617 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/01(火) 21:45:28
感知したんなら、適当なとこで、卑弥呼スレに行っとけ・・・つうか、意識しすぎだって!
炒飯くって寝ろ
619 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:21:45
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■九州王朝説
九州王朝説とは、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に王朝があり、大宰府がその首都であったとする説である。
本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智元年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。
邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から、戦後では長沼賢海らがいるが、古田により7世紀まで、敷衍され、体系的なものに整備された。
ただし現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においては記載されずに『無視されている説』であることに留意する必要がある。
>>616 >五王が天皇でないことは時間はかかるが分かるとき
>が来るのと祈る。
祈りの九州王!?
ワロタ www
621 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:42:25
井沢説は
<大和朝廷> <邪馬台国>
天照大神=卑弥呼・台与=比売大神
(伊勢) (宇佐)
か、すごい説だな。
ヤマトタケルについては何っていってんの?
622 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:43:28
井沢説は
<大和朝廷> <邪馬台国>
天照大神=卑弥呼・台与=比売大神
(伊勢) (宇佐)
か、すごい説だな。
ヤマトタケルについては何っていってんの?
623 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 00:51:04
>>622 天照は伊勢の地主神じゃありませんから。
それは無理がありすぎる。
624 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:01:00
畿内における伊勢神宮は九州における大宰府と同じでしょ。
伊勢や大宰府が大きくて立派だからといってそこが祭られている神の
発祥とは限らないし。
地元の人間なら少しわかるよね。例えば比売大神は宇佐の御許山から降りた
地主神で、宇佐の豪族が神宮にもちこんだと誰もがはっきり知ってるし、ちゃんとあちこちに
かかれている。出雲だってそうでしょ。
それにくらべて天照の発祥が伊勢ってどこにあんの?
日向には天岩戸や霧島神宮とともに神話も風土記もあちこちにあるよ。どうみても
どこからきたか結構明瞭だと思うけどね。
625 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:05:48
天照は伊勢の地主神です。
ただし、卑弥呼ではありません。
626 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:12:44
ちょっと待った、畿内説っつーのは結局、紀元前の東遷説?
その紀元前っつーのは結局神武の東征話のことだろ?
天孫降臨も神武東遷も地名や人物とともにあれだけ詳しく書かれているというのに
いきなり欠史八代。欠史八代は数字とともに怪しすぎるW
627 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:13:45
>>625 >天照は伊勢の地主神です。
ソースきぼん。伊勢の社伝にもかいてないし。
628 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:15:52
神武東征は1世紀です。
629 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:19:04
>>628 理由書けよ。欠史八代はなんなんだよ。怪しいねえw
630 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:26:36
>>629 記紀では、紀元前660年だそうだが。
おまえは、神武東征は何年だと思ってるんだ?
記紀に書いてあることが嘘だというなら、まず根拠を言えよ。
631 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:29:37
日本書紀に記載されている崇神天皇10年の武埴安彦命の謀反が
魏志に記載されている247年の狗奴国王との戦いなら
日本書紀と古事記を複合的にみたら
だいたい、可能性がある神武天皇の生存時期は
西暦50年前後〜西暦120年前後です。
633 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 06:49:59
>>632 もうWWW こんなのWW
勝手に倭人伝の戦いも狗奴国王との戦いに脳内しちゃって、それから
崇神天皇10年の武埴安彦命の謀反にダブルで脳内
↑まずここで根拠が脳内=説得力ゼロですが。
>日本書紀と古事記を複合的にみたら
書いてる人達が複合させてるに決まってるでしょ!馬鹿? 編纂させたの同じ組織だよ?!
複合させないわけにはいかないでしょ! 馬鹿?(呆然・・・
卑弥呼=モモソヒメ説って
日に日に高まっているんだよな。
635 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 09:42:53
>>634 マジレスしとくか・・・
まったく高まってない。
箸中山そのものが本当は誰の墓なのか不明だし、モモソの実在性も証明されていない。
学会で討論されるような畿内説では、そういうものは一切考えていない。
モモソだとか神武東征とかと絡める畿内説など、学問の場では存在しない。
もちろん九州説などはすでに論外だが
ここにいる妄想畿内説も考古学成果を勝手に神話にこじつけているだけで、同じ穴の狢みたいなものさ。
636 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 10:14:35
>>635 いや、神武東征はいいんだよ。
九州説+東遷説は、邪馬台国東遷の根拠にすぐ神武東征を持ってくるから、
神武東征は紀元前〜1世紀ですよと言えば、それで論破できる。
637 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 10:57:10
>>636 >神武東征は紀元前〜1世紀ですよと言えば、それで論破できる
その時代に何らかの勢力が、10年少々の短期間に東進したとの考古学的事実はない。
また弥生中期後半から後期前半にかけての畿内、特に奈良盆地東南部は
河内や丹後と並んで山陰、吉備、三遠の影響が強く、北部九州の文化的影響はほとんど見られない。
要するにどの時代に持ってきても、神武東征は成立しない。
638 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 11:04:42
>>637 神武東征といっても、その規模は100人未満の部族が移住してきた程度のものだろ。
神武東征による大和王権成立とはならない。
ムキになって否定することか?
639 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 11:12:31
神武以後の紀の記述の年数字は、倍暦により前660年よりも後代へ移動するのが
適正な論である。
奈良の東大寺山古墳の鉄刀には
「中平□□五月丙午造作支刀・・・・・」
の銘文があり、倍暦の計上だと中国側の靈帝の中平年間は実年代では孝靈天皇
の時の欠史八代間に相当しており、鉄刀が畿内出土のことから記紀の文面は
ウソだとは到底思えない。孝靈か次代の孝元世頃に鉄刀を埋めたのと考察でき
うるから八代間の実在は信用でき、紀の文証たる神武東征を疑う必要はない。
640 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 11:23:35
>>639 続き
しかし鉄剣は出たとしても別に孝靈天皇の御名が銘文にはないから、欠史八代
が実在したとは言い難いと思うかもしれないと言うだろうが、
稲荷山鉄剣には欠史八代関係のオオビコの名があるし、ワカタケル(雄略)の
代数遡りの合理性から八代間にオオビコが対応することで紀の記述にウソは
みられないし、八代の実在の否定は考えすぎの論だということが云える。
641 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 11:41:42
>>638 それはすでに東征でも東遷でもないじゃん。
単なる移民を後の世に大層な話に仕立て上げたって説なんだろ、君は。
だったら東征との用語を使用すべきじゃないな。
だいたい100人未満の部族が「紀元前〜1世紀」に移民してきたとの根拠は何だ?
それを示すような遺跡も出土物もなく、さらには文献史料もない。
そういうのは仮説とすら呼ばれない、ただの妄想。
642 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:23:47
>>641 ふむ。君は神武東征そのものを否定してるわけだね?
それなら何も言うことはないよ。
俺は、邪馬台国東遷説の根拠として神武東征を言ってくるヤツに対する反論として、
神武東征は紀元前〜1世紀だと指摘したまでで、
神武東征が事実でも創作でも、俺にとってはどうでもいい。
誰かさんが言っていたけど
ニニギと神武天皇の間が、創作だとか言う説があるらしい。
むりに山幸彦とかみたいな神話を作ったと。
その理由が、日本書紀だと、
ニニギの子供(神武の祖父)と神武が同じ名前だから。
これだと、
畿内で迎えたニギハヤヒと神武天皇は、伯父と甥の関係になる。
また、他の氏族と皇室の世代数もしっくりくると。
とにかく、記紀では、皇室と物部氏の家系図を引き離さそうとしている
ことが、よく分かる。
645 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 18:39:32
戦前は邪馬台国は教科書には一切記載されなかった。
戦後になって、皇国史観が見直され、邪馬台国論争
も見直され、一般庶民も加わって、論争ブームが起こる。
ここで、九州説・畿内説の論議をするのは良いことです。
しかしながら、『畿内説は定説で、権威ある学者は大半が
畿内説』などいうのは、昔の皇国史観の連中としか思えない
ので、出現したら無視するか排除すべきでしょう。
>>645 皇国史観は、九州説のほうだ。
何故なら、畿内説でいくと
皇室が、卑弥呼の時代に、中国に朝貢していたことになるから。
それは、皇国史観にとっては認められないことだ。
だから、本居宣長が邪馬台国を九州へ移動させたんだろう?
本居宣長は、皇国史観の原型を作った人だから。
神武東征とかいっても
実際に戦闘をしたのは、河内と紀伊あたりだけ。
それまでは、実に平穏に戦闘無しに
数年かかって、東へ移動しているんだわな。
しかも、畿内に入ったら、神武の親戚のおっちゃんのニギハヤヒが
出迎えてくれるし。
648 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 19:38:08
>>645 その『権威ある学者』とやらが誰を指すのかは知らないが
考古学における畿内説は、神武と欠史八代などはまったく認めていない。
崇神、景行や仁徳などしても実在性を疑っている。
つまり記紀が6世紀以前と見ている遺跡や墳墓に関しては、その記述に重大な瑕疵があると考えている。
また畿内勢力が他の地域を占領・統治したなどとも考えていない。
3世紀あたりに発足したとみられるヤマト連合が、ツクシ王権などと連合化し
それが後の大和朝廷の礎になったぐらいにしか考えていない。
それすらも王朝交代とまではいかずとも、権力主体の変遷は幾度となくあったとの見方が主流だ。
要するに、皇国史観からは最も遠いところにあるのだよ。
君が批判する皇国史観的畿内説は、今では誰も唱えていない。
649 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 19:45:17
>>648 >>640からしてオオビコは間違いない。すなわち記紀は信用がおける。
反面、考古学は古代の天皇も把握できないのかとの無力性を露出したとみなせる。
確かに陵の比定間違いはものによってはありうるだろう。
しかし臥海の否定は今後、古墳の出土が続きいよいよお陀仏の時がやってくる。
皇国史観的機内説の僕がきましたよー
>>648 それは少し違うな。
考古学者は、初期の天皇を完全に認めてないんではなくて
考古学の力だけでは、判断しようがナイト言っているだけだ。
つまり、否定も肯定も出来ないという解釈。
でも、内心は、記紀の文献上の話も意識している。
ただ、それを公には公言しない。それは当然のことだ。
考古学者は、あくまでも考古学の分野で語るべきだから。
この前の石野なんかでもそうだろう?
あの先生は、普段は明らかに記紀などの文献も意識しているのを匂わす
発言をしているが、より公の場では、そのことを一切、伏せていて
考古学中心に物事を語る。
この前のNHKなんかでもそうだっただろう?
そうだったっけか?
>>648 あと、石野先生なんか最近の畿内説は
前方後円墳3世紀中頃説だけど、
あの周辺から、日本全国からの遺物が出てくるから
3世紀中頃には、日本全国規模の連合政権が誕生したという解釈になっている。
よって、畿内説の中身も十分に変わってきている。
654 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 20:02:52
>651
でも東遷(東征)やその後の八代が実在したなどと考える学者はいないよね
あの9人に関しては、指定陵墓がすべて後世のものだと判明しているし
名前の不自然さなどから、津田以前からすでに文献サイドが実在を否定している
ツクシの影響については柳田などの主張が検討されているけど、それは東遷(東征)でも九州説でもない
柳田なんか「邪馬台国が九州にあったと考える考古学者など、九州には一人もいない」って言い切っている
>>651 いやいや、正確には
「否定も肯定も出来ない」
という言い方だよ。
656 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 20:13:10
>>655 つまり根拠にはなりえないという認識でおk?
657 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 20:15:35
>655
正確に言えばそうだね
記紀の記述を論拠にしての説は展開できないという意味にとってもらえたらいい
658 :
651:2007/05/02(水) 20:15:42
>>654 いやいや、なんと説明したら良いんだ?
そもそも、神武東征とは何なのか?という解釈から入るだろう?
神武東征を唱えている人でも、邪馬台国は畿内と考えている人は多い。
だいたい、神武東征の話をよく読んだら
あれって、九州から畿内へ首都を移転した話ではなくて
それまでも、ずっと畿内が首都なんだけど、九州に派遣されていたニニギの
子孫が、畿内の王として、婿養子として迎えられた話だから
政権としては、ずっと畿内だとも考えられる。
660 :
651:2007/05/02(水) 20:18:46
とにかく、崇神天皇以前の話は、
現時点では、「結論は保留」
という認識が正しいんだよ。
それよりも、崇神天皇の話まではどうか?というのが
まず先決だろうということ。
>651
その話、つまり神武の東征譚そのものが考えにくいというのが
最近の考古学成果から導き出されたという意味なのだが
それと畿内に3世紀以前に九州に派遣できるほどの政権があったとも考えにくいよ
>660
保留に同意しておくよ
というのはどうも最近「最新の考古学成果から記紀の正しさが証明されつつある」とかの
世迷い言をのたまう奴らが出没しているんでね、それだけは否定したかった
意外と記述内容が出土に合致するのは、7世紀以降の話であって
それ以前はまったく記述と合わないというのが正しい認識だからね
これが罪のない人名&地名の暗号パズルごっこに終始しているだけなら微笑ましいが
それにイデオロギーを絡めようとする、ある意味学問を冒涜する輩が息をするように嘘をつくので気になっただけだ
あなたに掲げる認識は、こちらの認識でもあるので異論はないよ
>>661 >それと畿内に3世紀以前に九州に派遣できるほどの政権があったとも考えにくいよ
いやいや、それすらも分からない。
結局、考古学の力だけでは、そんなこと判断しようが無いということだ。
たとえば、文献の豊富な時代でも、もし文献が存在しなかったら
その文献が書いてあるとおりの歴史なんて、全く判断しようが無いということだ。
664 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 20:42:14
>>637 神武東征を表す文証がある以上何らかの歴史的事実が隠されていると捉えるのが道理であり
考古学という学問がそれを証明出来ないだけのことである。
「奈良盆地では神武東征を表す北部九州の文化的影響はほとんど見られない」というが
中国の征服王朝のように征服者側が、被征服者の風俗文化に染まる事もあり
神武の場合それが無かったと証明する事も又出来ない。
東征による影響で吉備、出雲、畿内などの文化が融合して奈良盆地に集約され
少し後の巨大古墳文化の出現を見たのではないだろうか。
九州の文化より吉備、出雲、畿内などが文化的に優れていると神武側が見た場合
畿内文化に染まったとも考えられる。
665 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 20:45:18
>>662 世迷い言にはならんでしょう。
隅田八幡の画像鏡からの繼體の御名
稲荷山鉄剣からの雄略の御名と大彦の御名、しかも途中の系譜からの双方の
合理性も高く、これだけだって記紀と符合している。
これだけで欠史八代の後半までは記紀の記述が正であり信用がおける物証である。
ですがタンきたー♪
でも・・・
667 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 20:49:52
>>664 >神武の場合それが無かったと証明する事も又出来ない
それは悪魔の証明と言って、詭弁の基本。
あったことを証明するのが学問。
あったかなかったか解らないことは、すべて保留にして少なくとも根拠にはしない。
>>664 > 神武の場合それが無かったと証明する事も又出来ない。
文献上は被征服者にのっとられたとしか読み取れないです。
仮説を基に楽しいトークしたっていいじゃまいか。
670 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 20:53:48
>>646本居宣長が邪馬台国を九州へ移動させたんだろう?
邪馬台国ははじめから九州にあったと考えるのが普通であり、
無理やり畿内に移動させようと躍起になっているようにしか見えない。
>665
継体は7世紀以降だからある程度信用してもよいかもしれないが
ワカタケルとオオヒコはまだ保留
とりあえず実在の可能性が高まったとはいえるが、彼らが王であったかはまだ疑問符がつく。
ましてやそこから雄略紀あたりの内容の信用度を探ることすらも不可能
逆に稲荷山のしょぼさからも、ワカタケルの全国展開については異論が多い
オオヒコに至っては、それが真の家系なのか伝説や伝承の借り物なのか常套句なのか諸説ある
文献サイドは常套句のひとつだと見ているようだ
672 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 21:00:32
>>670 君の普通は世間の普通とはちと違うようだw
673 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:02:01
>>667それは悪魔の証明と言って、詭弁の基本。 あったことを証明するのが学問。
でしょう?だからそれが考古学という学問の限界ですよ、といってるわけ。
>>664「 中国の征服王朝のように征服者側が、被征服者の風俗文化に染まる事もあり」
なんてことは文字の無い時代には殆ど証明出来ないからね。
又随分後になって書かれたものも、あまりあてにはならないと思う。
何らかの歴史的事実を表しているとは思うが。
>>664 >神武東征を表す文証がある以上何らかの歴史的事実が隠されていると捉えるのが道理であり
文献史学の正当な歴史学者であれば決してそのような安易な捉え方はしない。
そのような捉え方をするのは宗教家に─それも偏狭な宗教家に─多く見られる。
675 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:03:12
ですがタンには、みんな豊かな愛を持って接してくだたい
677 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 21:05:28
>>670 そう?俺には文献史学や考古学の成果を一切無視するか
一部を恣意的に引用するか
捻じ曲げて解釈するか
挙句の果てには感情的になって涙目で叫び続けるか
それしか九州説には残っていないようにしか見えないが。
>>673 詭弁って意味知ってる?
あなたは嘘やごまかしで逃げようとしているだけだと言われているんですよ。
いじるとファビって面白いから、まだつきあってくれる奇特な人もいるみたいだけど
もうほとんどあなたの書き込みにレスつかなくなったでしょ?
そろそろ新ハンドルにすべきじゃないかなw
679 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:11:43
考古学といっても後追い学問。「最近の調査でここまで解ってきました」という類のもの。
だから今現在の研究成果の範疇を越えて違った事が言えないのが当然。
宇宙科学もつい最近まで冥王星の大きさ一つまともに解らなかった。今も全宇宙の実態はよく解っていない。
ごく最近地球と同じく人の住める可能性がある星が始めて見つかった。
しかし例えば仏教では大宇宙には人が住んでいる世界が宇宙に百万は散らばっているとされるし、
UFOや宇宙人がいるかどうか肯定するアメリカ人は100%近い。
でも科学者ははっきりした証拠が出てこない限り、肯定できない。
考古学も同じで新たな証拠の積み重ねによってやっと一歩ずつ進むことが出来る学問に過ぎず、
最新の研究ではそうであるだけであって、イコール真実なのではない。まだまだ途中の段階なのである。
したがい、考古学至上主義は危険。
僕もついこの前まで冥王星は地球より随分でっかいものだとばかり思ってきたが嘘ばっかり。
子供のころと今とでは歴史が違って教えられていたと感じる。今からも又そのようになるだろう。
どこの時点で真実だといえるのか、信じればいいのか、誰にも解らない。
681 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:20:56
そんな程度で考古学がすべてだと思うようなら先は見えているし、そんな人間には無駄な学問。日本の歴史家の邪魔になるだけ。
ほんの暫くの間決め付けては見たものの、やはり違っていましたと、こともなげに言ってのける。
それを詭弁といわずに考古学の進歩、という言葉を隠れ蓑にして言い訳にしているだけ。
考古学を少々かじっているかは知らないが、このようなところで遊んでいるようでは将来は無い。日本の邪魔だ。
682 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 21:23:00
>>679 ちょっと待てwwwwwww
突っ込みどころ満載だ
>僕もついこの前まで冥王星は地球より随分でっかいものだとばかり思ってきたが
発見当時から海王星よりずっと小さいことはすでに判明していた。
地球より大きいなどといった天文学者など一人もいないよ。
それは科学のせいでなく、単なる君の勘違いw
>UFOや宇宙人がいるかどうか肯定するアメリカ人は100%近い
UFOって意味知ってるか?空飛ぶ円盤や宇宙人の乗り物のことじゃないぞ。
宇宙人にしても、知的生命体同士が出会う確立などゼロに等しい。
他の天体にいるかどうかは、確率論だといる可能性があるというだけ。
しかも100%って・・・どこかで60%強という記事は呼んだことあるが、それ何て捏造?
あと信じることと科学は違うからねw
アメリカなどは宗教的に信じる人が多いからね、進化論否定やニューエイジなんかも本場だし
あまり馬鹿な例えを出さんほうがいいと思うw
683 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 21:23:18
>>671 雄略とか武烈は大悪的天皇との紀の説明で不利を率直に伝えているから
ゴマではないね。充分信用できる。そこから大彦の説明だから欠史八代の
後半頃まではウソとは云えない。それでも否定するなら君の否定の為の否定
であり、君に信用は行かないね。却下だよ。
記紀の文は文証。
鏡剣の銘文は物証からの文証。(現物だじゃら現証とも言える)
大彦と雄略の間の系譜の合理性は理証。
つまり文証現証理証の三証が具足している。問題なはい。
>>881 考古学つーか科学がお嫌いなようでw
よほどコンプレックスがあるのだろうね、可哀想に
685 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:29:15
>>680ゴミや虫けら
これがあんた達の本性。少々の学問を鼻にかけ、我賢しとばかりに人をゴミや虫けら呼ばわりする。
そんな人間が日本の歴史を云々しようとするとしたら怖い事だ。考古学界からも鼻つまみ者になる前に
大勢の人に迷惑をかける前に日本の歴史をいじくることを辞める事をお勧めする。
それが日本のためであるし、身のためでしょう。
>冥王星は地球より随分でっかいものだとばかり思ってきたが
不覚にも茶吹いてワロタ
嗚呼・・・予想以上に、ボコボコに・・・
688 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 21:33:23
>>685 いやそんなどこの誰が何の目的で書いたのかも解らん煽りレスに過剰反応して
あんた達と脳内で一括りにされてもなあ。
とりあえず謝罪を要求する。
ってか冥王星で俺も禿藁したから、もういいや
あのう・・・ですがタンをこれ以上いじめないでやってください
私も冥王星で吹き出しましたが・・・ごめんねですがタンw
690 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:37:31
冥王星の事を最近の事しか知らないとは・・。
無知さ加減に驚くのはこっちの方。バカの相手は長々する気はない。
久しぶりに現れたおおばか大会金メダル。
691 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:44:15
僕が子供の頃は、天王星、海王星、冥王星の事はよく解っていなかったので、
どの百科事典にも木星、土星、などとあまり変わらないくらいに大きく表されていたのだ。
つい最近までその記憶を事実だと思い込んでいたというわけだ。
しかし今は天体の話をしているわけでもないのに、はぐらかし工作。
ですがタンと太国がこのスレの2大スターさんなんだぞ!
おまいら、空気よめ!
正しければなんでも良いわけじゃないぞ。
693 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:52:44
>>692 だから言ってるだろうに。
この前冥王星の事が最近話題になったときの新聞にも、「数十年前には大きさがよく解っていなくて、
かなり大きなものとされていました。」と掲載されたのを読んだんだから。新聞くらい読みなさいよ。
実際に「大きな冥王星」と学校で教えられたんだから。嘘つき呼ばわりするもんじゃない。
>>693 > 実際に「大きな冥王星」と学校で教えられたんだから。
おいくつの方なんでしょうか?
私30代後半ですが、中学とか高校の理科の参考書などに既に太陽系の惑星の大きさの表とかありましたよ?
わかったよ!
ですがタン
なんくるないさぁー!
また、明日からがんがれ
696 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:04:05
>>693 >実際に「大きな冥王星」と学校で教えられたんだから。
いったい、どこの学校?
おまえ歳いくつなんだよ?
30年以上前の学研の宇宙の図鑑でさえ、冥王星は地球より小さいとされていたぞ。
おおばか大会金メダルって・・・
うーん、爺さんか小学生みたいな表現だな
もう誰も古代史の話をしていない件。
さすがスターだなー
701 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 22:14:34
>>694 君たちは経験ないかと想うが、うちらの1桁年齢のころだったか、銭札で
マーガリンをパン屋で買えたんだぞ。だから九州ですが氏の言う話も
今と数十年前とでは大きく違うということで相当なる論だよ。
太国も学校でならったのか?
703 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:21:58
>>701 そんなご高齢の方が匿名掲示板で罵詈雑言ですかw
おおばか大会金メダルにはわらかされますたw
こいつらに渡す年金もったいねーな
704 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 22:22:45
>>700しつこいなーしかし。ボイジャー、ガリレオなどの惑星探査計画など
夢にも無い頃から生きてんの!でもそんな無茶苦茶年でも無いよ。
昔は天王星、海王星、冥王星は土星と変わらないくらいでかく載ってたの!
俺は今の今まで太国もですがも、せいぜい20才そこそこのひきこもりニートだとばかり思っていたが
真の意味で未来がない年寄りだったとは驚きだ。
本当に老人福祉や年金制度は見直さねばならんな。
706 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 22:26:18
>>703 じゃぁお前は年食ったら年金辞退したらどうだ?www
>昔は天王星、海王星、冥王星は土星と変わらないくらいでかく載ってたの!
少なくとも20世紀の教科書や事典には、そうは載っていないです。
708 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 22:29:59
>>705 見直すだと? なるとお前の年金は半額以下だぞ。
「俺は損したいんだ」とお前は宣言しているようなもんで、PU!
お前は全部返上でもいいぞ。www
709 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:30:37
学校行っててもモノ習うと言う努力はせず、
己の怠惰が所以の知識不足は、安易な妄想で満足する。
向上心とかとは無縁、己に与えられた時間はただただ無為に消費するもの。
そんな人生なんだろうなあ。
711 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:32:12
>>705 嘘や無知がばれるととたんに怒りくるって
頑固に認めないのは老人特有のボケのせいだったんだねー
もういじめないから、お体大切にしてくださいな、ですが老。
712 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 22:32:29
>>706 太国さん、最近生まれた子供達相手というのも疲れますね。
学校で昨日今日習った事だけがすべてだと思い込んでる。
ついこないだまで中国人民の殆どが国民服を着ていて、高層ビルの一本も無く、
今と随分様子が違う事さえ知らないんじゃないのかね。
>>699 >もう誰も古代史の話をしていない件。
みんな飽いてきてるんじゃないかね。
ドン来いも18スレ目だが、同じことの繰り返し。
だからちょっと変わった話題<冥王星>が出ると
みんなワッと群がるんだろうな
>>701 銭札マーガリンは知らんが
逆のi意味で驚くことがある。
まさか腕時計や電卓やホッチキスが
105円で買えるようになるとはなww
714 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:34:43
>>712 それ何てYMO?
ってかあんたのついこないだって80年代かよ!
715 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/02(水) 22:37:45
九州ですがさん
こわっぱですよ。経験がない奴らばかりでカナリ キモオタ が
いるかも?ww
zzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
>>714 まあ、オレも90年代はついこないだって気がしてたまらんがw
まじ・・・ショッキングだわ
718 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:40:58
>>715 いや、無理して若者用語つかわんでいいから、ゆっくり休んでくださいな、おじいちゃん
>>716 俺もそうだね、変わったのは通信インフラぐらいか。
719 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:43:54
>>715 おじいちゃん、キモオタはもう古いよ。
今はきんも〜☆だよ。
720 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 22:45:28
>>707少なくとも20世紀の教科書や事典には、そうは載っていないです。
嘘を言うな嘘を!そうやってめまぐるしく変わり、今まで言ってきた事さえ
無かったかのように消してしまう。それが後追い学問の正体だ、ということを言ってるわけだ。
それ以上の枝葉にこだわるのは愚か者でしかない。
冥王星の事が嘘だと思うなら、図書館でもなんでも行って調べてみれば分かる事だ。
それもせず、頭から間違いだと決めてかかる事からしてもいかに狂った人格かがわかるというものだ。
寂しくて遊んで欲しいのなら、暫く一人でそうやってなさい。
こっちは今からご飯なんだからいつまでも相手していられない。
後は自分で調べればいいだろう。
どおりで目が悪いとかスレしてたのかぁー
ネタじゃなかったんだな。
もう、邪馬台国九州にするから安心してね
>>719 > おじいちゃん、キモオタはもう古いよ。
> 今はきんも〜☆だよ。
いやさ、最新は「きぃーまー」だよ、「きぃーまー」。
IT熟年の太国さんなら、きっと使いこなしてくれるよ。
723 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 22:50:04
>>715太国さん
もう無駄無駄、こんなのに何言っても。
こんなの相手にGW過ごすかと思うだけでぞっとするし。
NHKで面白いのやってるから。じゃこれで。
724 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 22:51:56
完全に九州説派にスレ潰されてるぅ〜
完全に九州説派にスレ潰されてるぅ〜
完全に九州説派にスレ潰されてるぅ〜
完全に九州説派にスレ潰されてるぅ〜
完全に九州説派にスレ潰されてるぅ〜
>>720 >こっちは今からご飯なんだから
遅い晩飯だなあw
2chやってて喰いそびれたのか?
それとも今日の4食目か?
いずれにしても、いい年こいてヨメは居らんようだなw
おじいちゃん、6日までくるんだ。
以外にタフだな。
くってらー
727 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 01:20:26
>戦前は邪馬台国は教科書には一切記載されなかった。
>戦後になって、皇国史観が見直され、邪馬台国論争
>も見直され、一般庶民も加わって、論争ブームが起こる。
戦前も学者の多くは、記紀の引用はあまりしていないよ。
当時も考古学ってのはそういうものだったから。
神武東征を初めとする記紀の記述と考古学を結びつけたのは九州の在野の
中山からだわな。これが今でも記紀の東征の史実性をある程度認める原田、
柳田につながる。そのほか、私大出身の森浩一なんかが邪馬台国東遷説で
この人は記紀の本まで書いているね。
>ここで、九州説・畿内説の論議をするのは良いことです。
>しかしながら、『畿内説は定説で、権威ある学者は大半が
>畿内説』などいうのは、昔の皇国史観の連中としか思えない
>ので、出現したら無視するか排除すべきでしょう。
前述の九州の学者以外は、特に国立大学の考古学者は、どちらかというと
記紀の記述を非常に軽視しているんだが。春成などは「神武東征なんか唱
えるのは私大文系の連中」というような言い方をしている。つまり馬鹿に
しているわけ。
こういう記紀無視が行き過ぎて文献の学者の「欠史八代は実在しなくて、
崇神から実在なので古墳時代は4世紀から」っていう主張を小林や杉原が
間に受けちゃって古墳時代の年代を100年以上間違って解釈しちゃう
とか、変な伝世鏡説とか唱えだすとか、近畿からはあいかわらずまとも
な遺跡が出てこないのに、九州や山陰から超弩級の遺跡が出てくるとか
いろいろあって、あんまり記紀無視ってのもなくなってるわな。
728 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 02:07:50
九州では九州説とらないと命の保証がない
NHKのその時歴史が動いたのアンケート見ておもた
729 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 07:39:41
>>727 近畿からはあいかわらずまとも な遺跡が出てこないのに
賛成です。考古学界では畿内説が有利だと謂いながら女王国の場所をどこに設定しているのやら、まともな場所さえない。
倭人伝の方向記述についても投馬国から南方向が間違っていると謂いながら、対馬国から壱岐国間では南方向で合っている事については触れていない。
これらの事など無視してむりやり畿内に方向を持っていこうとする事自体ゆゆしきことだ。
まあ夕べの無礼者プルート馬鹿はGWに免じて許してやってもよいが。
730 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 08:10:52
>>729続き
謎に包まれた古代の事ならともかく、こっちが子供の頃実際に体験した「でかい冥王星」についてまで
「ちがう」と言い張るその頭の悪さ、推理力の無さはどうしようもない。
ここ何十年かの明らかな歴史の事実にさえそのようなトンチンカンな物言いの数々。
現代の歴史も解らない者に古代の歴史を語る資格は無い。
731 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 08:21:46
>>730続き
それに
>>664のこちらの大事な質問レスにまともに答えてもおらず、冥王星の事の方に話が移り、
さらに「としはいくつなんだ」とこちらの年齢云々の話が始まって、
余談余談と話の本筋から外れて本来何の話をしていたか解らなくなるのは頭が悪い証拠。
>>664に反論してから初めて次の話を進めるのが筋だろう。
732 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 10:07:17
>>731=664
神武東征は、「事実だとしても」紀元前〜1世紀だっての。
おじいちゃんは、いつだと思ってるんだ?
733 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 10:43:15
紀元前660年だろ。
皇国史観的に考えて…
734 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 11:05:58
>>732 物のわからない胎児だこと。
神武東征が事実だとしても後世に書かれた記紀に数百年も前にあった出来事の正しい年代を提示する事が出来るわけ無いだろう。
「紀元前〜1世紀だっての。 」って。文字が無い時代にどうやって大昔の歴史の事実を伝えたのだ。
735 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 19:50:13
>>734 おじいちゃん、せっかくみんなが年寄りをいじめちゃいかんと思ってくれているのに
憎まれ口を叩いて自分から立場を悪くすることないと思うよ。
愛される年寄りにならなくちゃ、ね。
九州ですが ◆IhXqm1bg5cって何者なん?
なんで、こうも必死なんだ?
だったら、正規な学会で九州説が有利になるように
発言すればよいじゃん。
>>729 ちゃんと日本語を読め。
近畿からまともな遺跡が出てないというのは
古墳時代の始まりを4世紀にした場合のことを言っている。
マキムクの年代が3世紀なら話が違う。
738 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 20:14:48
>>735 誰がおじいちゃんだ。百科事典はどこの家庭にもあったのだ。
どんどん新事実が加わって古いものは次第に使われなくなっていくだろうが
残っている筈だ。30年以上前のものを調べればでている筈。
人を年寄りなどと勘違いする前に
>>734の問いかけに答えてみよ。
739 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 20:22:46
>>737マキムクの年代が3世紀ダァ?
巻向に弥生時代後期ののまともな集落跡でもあんのか?
>>739 あろうだろうが...
マキムクの直ぐそこに唐古・鍵遺跡が...
もう無限ループになるから面倒くさいんだけど...
九州説論者の多くが、マキムクには集落跡が無いと言って
すぎ近くの唐古・鍵遺跡とマキムクを分けて考えるんだよ。
あの距離の近さから考えたら、この両者は一体になっていたと考えて
自然だろうが...
モモソヒメの父親の孝霊天皇が宮を構えた場所が
唐古・鍵遺跡がある現在の田原本町だし、
マキムクのある桜井市とは隣接している。
ずっと前にマキムクから唐古・鍵遺跡まで、せいぜい5キロ程度なんだよ。
マキムクは祭祀施設の拠点で、集落は唐古・鍵遺跡とかそっちだろう。
741 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 20:31:13
>>738 おじいちゃんたら・・・自分で書いてたじゃん、最近の子供はとかさ
昨日のこともう忘れたの?
年取って嘘ばかりついてると、本当に誰にも相手してもらえなくなるよ。
>>736 たぶん今までの人生が学歴コンプレックスにさいなまれていたのと
どうやら関西が嫌いらしく、それだけの理由でにわか九州説を唱えているからだと
そういう意味ではかわいそうな独居老人なんだけど
人生の晩節を自ら汚すような行為はいかんよね。
おじいちゃん、本当にネットを老後の嗜みにするつもりなら
2chみたいな匿名掲示板で自作自演や罵詈雑言に明け暮れるのじゃなく
ミクシィとかで同志を募って楽しく建設的に議論したりオフ会とかしたほうがいいんじゃないかなあ。
正直かわいそうで見てらんないのよ。
742 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 20:32:17
>>738 30年以上前に百科事典で勉強してた世代か?
百科事典全集が子供へのプレゼントに流行った頃なんだろ?
子供のいる家庭の居間には、百科事典全集が飾ってあったという。
743 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 20:34:19
>>741 Mixiなら、安本直営の邪馬台国関連のコミュがあるから、
仲良くしてもらえると思うよ?
>>739 巻向は集落遺跡じゃないですよ。
おそらく日本列島に始めて登場した、通商と祭祀を目的とした新造都市です。
それまでの弥生遺跡とはまったく性格が異なります。
しかも過去のどの集落遺跡よりも広大な面積を持ち
それまでにない規模の広範囲から人材と文化が集合しています。
もちろん創設は布留、庄内の土器年代は言うに及ばず
墳墓建築技術の観点からも、2世紀末から3世紀初頭の間と見られています。
ちなみに巻向がその時期以外の創設だとすると、まず先に九州説が破綻しますよ。
遠賀川式の年代がまったく狂ってしまうためです。
なぜ、九州説論者って
マキムクと唐古・鍵遺跡を分けて考えるんだ?
あの二つは至近距離にあるんだから
ひとつの集合体をなしていたと考えて普通でしょうが...
746 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 20:52:56
マキムクで働いてた人たちの集落はどこにあるの?
>>740 一体というか、実際の労働力居住地域のひとつだよね。
巻向開発とほぼ同時に、衰退寸前だった唐古・鍵も再開発され
三つの地域に分かれて地元の土で作った外来式土器が多数出土するようになる。
おまけに長らく放置されていた環濠まで新たに設置されているからね。
布留1式以降はその重要性が薄れたのか、次第に過疎化していくのだけれど
古墳時代まで存続した、数少ない特殊な弥生集落遺跡であることは間違いない。
今のところ天理市近辺の集落調査が進んでいないから何ともいえないけど
古墳の築造位置が巻向を中心に円を描いて拡散していき
最後には北上することからも、そちらにも居住地域と宗教施設があった可能性は高いと見られている。
748 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 20:58:32
>>740 唐古・鍵遺跡はそんな大きな遺跡ではないだろう。
それに倭人伝の邪馬台国時代の遺跡という感じがしない。
749 :
SOY:2007/05/03(木) 21:01:55
>>744 >墳墓建築技術の観点からも、2世紀末から3世紀初頭の間と見られています。
>ちなみに巻向がその時期以外の創設だとすると、まず先に九州説が破綻しますよ。
>遠賀川式の年代がまったく狂ってしまうためです。
纏向遺跡を2世紀末から3世紀初頭にしなければ、
遠賀川式土器の年代が狂うとはどういうことでしょうか?
もし、デマでなければ、もう少し説明をお願いします。
750 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 21:14:57
SOYには、土器の話は早すぎる。
鉄鏃でも拝んでおけ。
751 :
SOY:2007/05/03(木) 21:46:54
纏向遺跡と遠賀川式土器を結びつけるのが今のここの畿内説。
なんか世も末ですね。
人ならば発言に間違いがあるでしょうし、不勉強な時もあります。
そういうのであればまだ私は可愛げがあると考えます。
しかし、デマはよくありません。
それでは誰も信じてくれなくなります。(狼少年のように…)
知らなくてこれほどのデマを流したのなら頭の病気。
知っていてこれほどのデマを流したのなら心の病気。
果たしてどちらだったのでしょう。
それはともかく、ここ最近の発言を見ると罵詈雑言の類が盛んすぎます。
そのうえにデマが横行とは嘆かわしい限りです。
罵詈雑言とデマによって説得力が水増しできるとでも思っているのでしょうか。
無礼千万の私が言うのも何ですが2chでもある程度の礼節が欲しいところ。
>鉄鏃でも拝んでおけ。
私は貴方と違って基本的に鉄鏃を実用武器と考えていますので、
拝むという発想には至りません。
752 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 22:20:41
>>749 私は畿内説だが>744の遠賀川式云々の発言は確かにまったく不可解で
SOY氏の疑問は至極当然だと思う。
>>744はいかにも俺は考古学を知ってるよと生半可な知識で他人を幻惑する厨か。
>>747も一見マキムク擁護派の畿内説厨みたいだが、
>古墳の築造位置が巻向を中心に円を描いて拡散していき
>最後には北上する
などと考古学者の誰一人考えていないようなことを平気で書く。
彼らは実際は、畿内説にケチをつけさせるのが目的かも、とも思ったりする。
ともかく、ここにはいい加減な考古学の知識でレスしたがる厨が居るようだ。要注意。
>>752 つーか、旧大和湖の対岸になると思われる唐古より、
大福の方が地域的には纏向に近いと思うが。
754 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 22:49:02
>>753 >つーか、旧大和湖の対岸に
3世紀の奈良盆地東南部にそのような湖があったとは初耳だ。
地質学者の論文にでも書いてあるのか?
ソースを出せ。
「旧」って書いてあるのに・・・
3世紀に湖があったって読んだのかw
>>752に同意する。
少し前からさも畿内説を装ったかのような、おかしな書き込みがある。
一部に考古事実を引用し、次に誰も聞いたことのないような発見や見識を
さも事実のように並列して書き込むのが特徴だ。
まさか九州説論者の工作とは思いたくないが、もしそうならば通用しないと忠告しておく。
実際のところ、考古学成果を一部利用するトンデモ畿内説や、主に安本などが未だに仮想敵視する昔の畿内説などの立場とみられるレスもあるので
それぞれの主張や立場とは関係なく、正しい知識を持ってもらいたい。
出来る事ならここに書き込む前に、先に専門書を読まれることをお勧めしたい。
757 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/03(木) 23:21:17
GW恒例いつもの五月病={おじいちゃん呼ばわりプルートばかとも言う}が
きのうから一匹入り込んでるんで、それが犯人だと思うよ。
ふ〜〜〜ん。
759 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:33:00
学会では、昔は白鳥庫吉のように九州説が主流だった。
それが時がすぎ、新事実が明らかになることで、
学会で幅をきかせていた九州説を唱える重鎮が死去していったこともあり、
畿内説が日の目を見ることができた。
もともと、学会の権威をカサにしてたのは、九州説のほうだった。
ただSOY氏が冷静な判断力を有する人物と見込んで、あえて苦言を呈しておく。
考古学的におかしな書き込みや、実在しないデータをさも事実のように書き込むものに対しては
あなたとともに
>>752氏のように、同じ畿内説からも疑義が呈される。
あなた自身が、畿内説否定ありきに凝り固まっているのでないなら
まったくおかしな九州説にも同様に疑義を呈するべきではないかと思うが、それは一切していない。
罵倒合戦に陥ってしまうのは匿名掲示板の宿命かも知れないし
コテハンをつけたところで内容に信憑性が増すわけでもない。
事実ここに張り付いて、何がしたいのか判らぬほど汚い言葉を書き連ねるコテハンも何人かいる。
そういった者達に対しても、苦言を呈していこうではないか。
あなたとこちらでは異なる説をお互いに有しているだろうが
それとは別にあなたの言われるように学問板である以上、礼節と自重は必要だと考えるので
その点については協力し合いたいが、いかがだろうか。
>>757 そうなのかどうかは知らないが
あなたが責められるのは至極当然の話であり
混乱を招いている張本人の一人であることは自覚していただきたい。
SOY氏の言われる罵詈雑言の類のなかに、あなたは確実に含まれている。
レスは不要、こちらもあなたには今後一切レスしない。
あなたが罵詈雑言を書き込むことが目的でないのなら、深く反省していただきたい。
762 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:03:22
>>761 貴方は、畿内説についてバランスのとれた考え方をお持ちのようですね。
そこで、意見交換をしたいのですが、
いわゆる九州説の主張に「鉄器の優位性」という問題があります。
もともと、鉄器の需要が大和王権を生んだという主張は、小林行雄(京都大学)らの説ですが、
以後の調査で、畿内の鉄器の乏しさが明らかになっています。
当方は、「鉄器の優位性」は王権とは直接結びつかないと考えていますが、
貴方はどうお考えですか?
つまり、畿内で交易の主体となった物資は、鉄器以外のもの、
穀物や塩などではないかと考えられるわけですが。
763 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 00:19:15
>>761 何が「レスは不要」なんだ。あんたいつからここに入ってきたか知らないが
今までの経緯を全く無視しているとしか言いようが無い。つまりこのスレの頭から
全く読んでないということだ。今までどれだけ真面目な人々と会話してきた事かしれない。
GWが始まる前まではマターリ進んでいた。GWになると変なのが入ってくる事を危惧していたが
つい最近入ってきてえらそうに言って欲しくない。あんたもこちらから言わせればそのうちの一人でしかない。
>>761に「レスは不要、こちらもあなたには今後一切レスしない。
あなたが罵詈雑言を書き込むことが目的でないのなら、深く反省していただきたい。」と書いてるが
あんたには物事の善悪の判断もつかんのかいな。何故このような会話になったか大元を調べた事があるのか?
それに言いたいことだけ勝手に書き連ね「レスは不要、こちらもあなたには今後一切レスしない」とは
何と思い上がった態度か。「専門書を読まれることをお勧めしたい」もあんただと思うが
トンチンカンな畿内説の専門書など取るに足りない。倭人伝に記されたクニの方角から変えねばならぬほど
恥も外聞も捨てたような説など一段目から崩れるのみ。
764 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 00:31:44
>>762「九州説の主張に「鉄器の優位性」という問題があります」?
あほらしい。今までこの事はこのスレでも散々出たわいね。
765 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:35:39
>>764 「あほらしい」ということは、
貴方は、「九州説の根拠に鉄器の優位性は主張しない」、という意味ですか?
それなら、それで結構なことですが。
766 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:36:48
>>759 >学会の権威をカサにしてたのは、九州説のほうだった
へ〜ww 学会の権威をカサにするという行為が見苦しいのは知ってるんだね。
で、そのころの「学会の権威をカサ」九州説者達はは2chに基地外みたいに書き込んで
頭がおかしいね、かわいそうにwなどと顰蹙かったりしてたのかな?
>>762 結論から言うと、畿内においては鉄器と王権の発生はさほど密接な関係はないと思う。
あなたもご存知だろうが、村上恭通氏らの一連の論文により
古墳時代前期に入っても九州における出土量はさほど低下せず、畿内やそれ以外の地域も急激には伸びない。
むしろ中部九州では弥生期以上の生産が行われた可能性すらある。
但しヤマト連合による纏向遺跡開設あたりから、徐々にではあるが畿内のみならず本州全土に加速度的に鉄器が拡散する。
それ以前は最低限必要な分は流通していたのだろうが、大掛かりな流通システムが整備された契機ではあったと考える。
その交易品のなかには穀物や塩も当然含まれるだろうし、装飾品の材料や庄内式などは土器そのものも商品として流通したと見られる。
纏向の役割とは物流拠点でもあり、取引のための見本市でもあると考える。
元から強力な畿内王権が存在し、そこが主体となって纏向を造ったのではなく
西国(九州、中国、四国)と東国(中部、関東、上越)を結ぶ流通中継地点及び取引場所が必要となったからこそ
わざわざ土壌改良や埋め立て、水路新設などの類を見ない大土木工事が各クニの共通利益として敢行されたのではないだろうか。
奈良盆地東南部に王権が発生したのは、物流及び宗教施設の集中、技術者とその技術の集積などが主原因で
倭人伝に記された頃は、実態としては幾多の首長国による通商連合程度のものではなかったかと思う。
中央政府として機能しはじめるのがいつなのかは、古く見ても百舌鳥・古市に古墳群が築かれるあたりで
厳密な意味では飛鳥以降と捉えてもいいと思う。
>>762 >>761じゃないけど横レス。
よく、「畿内は鉄が少ない」と言う主張に伴って弥生期の奈良県域での出土量(ほとんど0)が
引き合いにだされるけど、大阪や京都はそこまで極端に低くない。
九州より少ないのは当然であるが、一応「畿内」にも鉄器文化は及んでいる。
だから、鉄器に対する需要も他の地域とかわるものでは無いと思う。
ただ、鉄や銅器、翡翠、真珠等の流通量なんてたかが知れてるもの。
九州だろうが、畿内だろうが交易の主力は地域性の高い消費財です。
山間部では「塩」は取れないし、海浜部では「獣製品」が不足がちです。
現代だって石油や食料が交易品の大宗であることに違いはないでしょう。
769 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:50:49
>>767 どうもありがとう。
当方も、全面的に同意であります。
村上恭通氏の説のように、鉄器は吉備までは流通していましたが、畿内では乏しく、
古墳時代前期に入っても九州が優位だったことは事実だと思います。
ですので、鉄器だけを求めて王権が要請されたというより、
幅広い物品の、交易のハブとして畿内が発展したことは間違いないでしょう。
もちろん、九州からは、交易品として鉄器が持ち込まれただろうし、
東日本からは、おそらく穀物が持ち込まれ、交換されたでしょう。
阿讃の塩も主な交易品のひとつだったと思われます。
古墳時代以降、鉄器が急速に拡散したのも、
鉄器の需要が増えたというより、
物流体制が急速に整備された結果と見るべきではないでしょうか?
石包丁なども、後の時代まで使われていたようですし。
770 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:56:49
伊勢の天照が地主神でないのは確かだ。
ソースが皆無。
やはり伝承や関連神社が多数残る日向に決まりだね。神武の出発地でもあるし
間違いない。
771 :
SOY:2007/05/04(金) 00:58:02
>>760 >あなたとこちらでは異なる説をお互いに有しているだろうが
>それとは別にあなたの言われるように学問板である以上、礼節と自重は必要だと考えるので
>その点については協力し合いたいが、いかがだろうか。
悪質なデマを使って相手の意見を断言口調で封じる人に対しては、
諸派関係なく私のできる範囲で指摘するよう努めます。
ただ、ブレーン・ストーミング的な手法は好きなので、
その点で私がぬるいことについてはご容赦願います。
772 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:58:59
>>768 古代社会では、塩も貴重品であり、塩と鉄は等価交換だったと思います。
九州では鉄器は豊富ですが、古墳時代前の製塩土器は九州には全くありません。
製塩は阿讃で発展し、東海や丹後に広まりました。
木簡でも記録されていたように調として塩は重要でした。
ですので、「九州の鉄器の優位」を語るなら、
「阿讃の製塩の優位」も、同じように語られなくてはならないはずです。
773 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:59:12
諸国の物産が溢れるように集中しているところ(市)があれば
それは地方人の目に途方もない魅力として映ったのではないか。
もしその集中地近辺で労働力が必要とされ
かつその労働には対価が支払われるということであれば
地方からそちらへ移住を決意した人も多かったのではと思う。
最近の話みたいだが、古代でもあり得ることではないか。
どうだろう。
774 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 01:07:13
>>765 同じスレで何度も同じお題を繰リ返さずに、せめてスレが改まってからの方が
いいんじゃないかと問いただしてんの。あんたここのスレ最初から読んでないようだし。
まあ折角だから僕の考えをいうなら、九州説の根拠に鉄器の優位性を主張するとかしないとか
歴史の事実はそう簡単に割り切れるものではないという事だ。
その場所や、その時期によってある意味正解で、ある意味不正解。とでも言おうか。
鉄器の優位性といっても文化の違いによる鉄器の使用法の違いなども影響したろうし、
鉄で武器を作り、しかもそれを有効的に使用する為のノウハウを有し、さらに戦闘には時の運などの要素も絡む。
それらが一体となって始めて形のあるものが生まれる。
したがい九州の鉄の優位性は以上の事を加味し考慮に入れなければ必ずしも効果を発揮するものではなく、
鉄器の出土が多いから云々で決まるものではない。しかし鉄器の出土が多いことが九州勢力の優位を裏付ける一つの要素にはなりうる。
ってとこかな。
775 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:08:38
>>773 労働力として、東海の人々が畿内に流入したことは、
東海土器の多さでわかるところでしょう。
東海では、人口が多かったようです。
それはつまり、食料が足りていて、子供が飢えずに成長し、
人手が足りていたということで、農閑期に出稼ぎに行く人もいたのでしょう。
美濃あたりは、農業国として繁栄していたでしょう。
こちらこそありがとう。
倭人伝記述の中でも考古事実と最も食い違うのは
邪馬台国(卑弥呼)を頂点とした地域間ヒエラルキーがすでに形成されていたかのように書かれていることだね。
これを説明するのに宗教的権威などが用いられてきたが、どうやらそこまで強い結びつきはなかったのかの知れない。
これは広瀬氏や北條氏の主張に近いけれども、魏に朝貢した際に
誰が倭のキング・オフ・キングスなのかは、はっきり定まっていなかったのではないかとも考える。
下手すると卑弥呼を倭の女王と設定したのは、他ならぬ魏ではないかとも思える。
それが王権発生の大きな契機になったのかもしれない。
777 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:12:25
>>772 何を根拠に馬鹿なこと言ってるんだ? 頭おかしいんじゃねーの?
海だらけの九州で何で塩が必要なんだよ、腐るほどあるし。
>古代社会では、塩も貴重品であり、塩と鉄は等価交換だったと思います。
ソースきぼん ソースどこ?
778 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:18:52
塩は海水から取れると聞いただけで、誰でも作れる。
鉄はそんなわけにはいかない。
779 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:19:57
>>773 自分もそう思う。
もちろん各地のクニから派遣された技術者や労働力も多数いただろうが
弥生時代には考えられなかった速度で急速に畿内、特に奈良盆地が多重的に開発されるのは
そういった正規の労働力以外の、人的集中が不可欠だと思うから。
これはちょっと失礼な例えだけど、その中で東海あたりから食い詰めてきて奈良にやってきて成り上がった部族がいるとしよう。
彼らが格式を欲して九州から来た部族などと婚姻関係によって結びついたなどは、十分有り得るだろうし
その後の子孫たちが自らの先祖の出自を九州だと称することなども、自然に起こりうるだろうね。
神話や伝承などは、そういった権威付け目的に纏められることが多い。
なので記載が事実かどうか、判定する材料がないんだよな。
>>772>>777 価格は需要と供給のバランスで決まる。「等価交換」てのはどう意味かな。
海水でメシ炊けば、まるでおにぎり。けっこう美味いよ。
でもさ、海水と塩は、同じじゃないよね。
塩は調味だけでなく、加工や保存その他、いろんなことができる。
782 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 01:33:46
塩で困るのは内陸部じゃないの?。
倭人伝にも米を買出しに行くというのはあるけど塩のやりとりなど出てこないし。
中国は元の時代も塩を銀に変えていたけど、それは大陸で内陸が多いため。
岩塩の層があるところは内陸部でも塩水の井戸を掘るから困らないが。
日本では戦国時代の甲斐の国が戦略で塩を立たれた事以外あんまり聞いた事が無いねえ。
>>780 >東海あたりから食い詰めてきて奈良にやってきて成り上がった・・・
今は逆じゃ!
関西の食い詰め野郎がトヨタあたりにわんさか来ておる
>>782 >日本では戦国時代の甲斐の国が戦略で塩を立たれた
俗説を平気で書くとまた叩かれるよ
そんな事実はない、もちろん謙信が塩を送ったのも講談でのはなし
785 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:42:13
スーパーで一袋100円の袋入りのワカメ買ってくれば
ワカメにウザいくらい塩がまとわり付いてて
軽くはたけば簡単にまとまった量の塩が取れる
塩なんて海の近くなら誰でも簡単に取れるんじゃないの?
786 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:43:26
>>783 これは失礼w
畿内各地の食い詰めた部族でもいいよ。
788 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:48:33
古代ローマでは、兵士の給料は「塩」だった。
そこから、「サラリーマン」という言葉が生まれたのである。
終止符スレに終止符うたれたな!
漢書や後漢書には、倭人の朝見や遣使の記事があるよね。
長安や洛陽を目の当たりにして、きっと刺激を受けたんじゃないかな。
おお、こんな立派な都市というものが世の中にはあったのか、
わが倭国にも、ひとつ都市を創らんといかんぜよ、って
後期弥生人の上層部は考え始めていた・・・
792 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:52:46
んなわけねー
ワカメの塩は見た目は自然に結晶化したものっぽいし
普通に水切って乾燥させただけのものっぽいよ
塩漬けにしなくても海水乾かしただけで塩漬け状態ナわけで
そんな無駄な事するわけない
793 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 01:58:28
>>782日本では戦国時代の甲斐の国が戦略で塩を立たれた事以外あんまり聞いた事が無いねえ。
とこういう話なら聞いた事がある、と言ってるだけであって、誰がその信憑性まで云々してるか?
つまりそれさえ眉つばだと言うのなら
>>782の謂いはもっと的を得たものになる。ということがわからんのか?!
>>784「また叩かれるよ 」とは先日の冥王星の事を言ってるのかは知らんが
おまえみたいのがいるから最近は慎重になって確認できた事しか書かないようにしている。
冥王星が大きく言われていたのは事実で、冥王星が話題になった最近も新聞にその事が書かれてあった。
情けなくなるというかこんなレベル低いのかと驚いた。誰も知らないなんて馬鹿ばっかりとしか思えない。
図書館にでも行って調べろって。こっちは子供の頃から毎日図鑑とにらめっこしていたんだから。
おまえの父母が知らないと言うなら勉強しなかっただけの事だろう。
794 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 01:59:04
ごめん
やっぱあれ塩蔵ワカメとかいって湯どうしした後塩漬けにしてるっぽい
>>794 訂正されたんですね、間に合わなかった、ごめんなさい。
さすがに、眠くなってきた。
797 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 02:07:45
ですが、いいわけ苦しすぎwwwwwww
塩昆布のおにぎりも美味いな
ですがを虐めるなってw
>>795 >でももしワカメや岩塩などで塩が十分確保できたのなら、製塩土器が発明され、拡散する理由がないんだけど。
だから塩の機能はまず保存加工用
塩がないと、白菜もキュウリも漬物にならんだろ
塩鮭も塩サバも出来んだろ
岩塩は日本じゃ採れないし
801 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 02:15:34
>>770 >やはり伝承や関連神社が多数残る日向に決まりだね。
その日向にあるという、天照関係の伝承や神社をひとつでもいいから挙げてくれ。
802 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 02:19:31
塩の生産が始まったのが、阿讃の瀬戸内海。
吉備まで鉄器が流入していたのは、塩と交換からだろう。
九州では、塩が欲しくて、せっせと鉄を輸入して瀬戸内海商人に売っていたのだろう。
803 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 02:22:59
>>797>>799 と言う事はからかってるのかな? でも冥王星の事はほんとに知らなかったんだろう?
GWにはこんなのが入って来るから又面白いともいえる。
最近良い人ばっかりだったんで丁寧な受け答えはするが相手を傷つけるような事もいえないし。
このようなクズなら何とでもいえる。最近少々物足りなかったのでちょうど相手にするのもいいかも。
804 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 02:26:04
>>802九州では、塩が欲しくて、せっせと鉄を輸入して瀬戸内海商人に売っていたのだろう。
ばかかおまえは。弥生時代の塩田跡など証拠があるなら示してみろ。
805 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 02:28:04
>>795ここによると「塩わかめ…ボイルした後冷却し、塩を加えて脱水したもの。」とあるけど。
ばかかおまえは!そんなの常識だ。
806 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 02:29:40
807 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 02:50:29
すっげーなー畿内説は。 鉄の代わりに塩があるから畿内だとよw
基地害レベル
808 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 02:58:01
809 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 02:58:31
>>807 基地外どころか地球外に宇宙ステーションを造ろうとしたので
出てってもらうことにしました。代わりに電波、基地外でない良い人、
たくさん入ってきてくださいねっ。
810 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 02:59:49
天照が伊勢の地主神だといっている馬鹿発見。
たとえば伊勢神宮のホームページなど読んでみましょうね。どうやって
天照が持ち込まれてるか丁寧にかいていますよ。
811 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:00:45
盆地に海がないから必死で買っていただけだろ。馬鹿じゃねーか?こいつら
812 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:01:32
ああ・・・ですがが今夜も・・・予想以上にボコボコに・・・
しかもファビョってる・・・
814 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:09:43
>>813 おまえは入ってくんなって!ゴキブリの食べ遺した残飯でも食ってろつーの。
815 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:11:29
祟神天皇まで代々の天皇の結婚相手は地元の豪族の娘
これは当時の天皇が畿内でどれだけ小さな勢力だったか現している。
九州どころか吉備までさえも、「畿内王権」としての勢力では繋がってないのは確実。
816 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:13:23
後のヤマト政権となる畿内の勢力は、
少なくとも祟神あたりまで小国でしかなかった。
いったい、どうやったら瀬戸内海を越えて北部九州まで支配しているなどという
根拠がでてくるのか。根拠をしめせよ。
ひどいよ・・・おじいちゃん・・・
遅くまで自演しているから心配して見にきたのに・・・
もうおうちにかえりましょね・・・誰も待ってないけどw
818 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:19:22
弥生時代の畿内王権など世にも哀れな弱小王権。
古代中国からさえ全く相手されずじまい。
奴国王が中国から奴国王の金印をもらった事は有名だが
畿内のことは中国の書物に痕跡すら無い。
819 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:21:04
820 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:26:58
そしてなんなんだ。あの唐古鍵の漫画のような建物は。
殆ど土器の落書きとも言える建物の絵を真に受けて現実に作るとは夢にも
想像していなかった。他に造る材料によほど事欠いていたと見える。
821 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:29:56
>>817 おのれには待ってるものがいる。墓穴でゾンビ仲間が待っている。
822 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:29:57
>>804 塩田?
そんなのは知らないが、
>>789のリンク先くらいは読めば?
製塩土器ってのが、弥生時代終わりに瀬戸内海で多く造られている。
九州で塩が作られるようになったのは、古墳時代になってからだね。
>>807 煽ってるつもり?か知らないが、塩は鉄並みの貴重品なのは常識。
塩田以前の塩の大量生産に繋がる技術は大陸から九州経由で全国に広まってるみたいだけど
ここで日本の塩づくりの歴史を振り返ってみよう。四方を海でかこまれた日本では、遠い昔から塩は海水から作られてきた。
最も古い塩づくりの歴史は、縄文時代の後期にまでさかのぼる。その製塩法は海水を土器に入れ、火にかけて煮詰め、
塩の結晶を取るという単純素朴な「直煮法(ちょくしゃほう)」だった。弥生時代になると「藻塩焼(もしおや)き」
というユニークな方法がはじまる。これは海藻に海水をかけて乾燥させ、塩気のついた海藻を焼いて灰塩(はいじお)を作る。
これを海水で溶かして濃い塩水とし、土器で煮詰める方法である。一説によれば、この藻塩焼きを考案したのは大陸からの渡来人であり、
彼らが九州で開発した方法がやがて全国に広まったのだという。
志可(しか)の海人(あま)は 藻刈り塩焼き 暇(いとま)なき 髪すきの小櫛 取りも見なくに という歌が
「万葉集」に残されている。ここに「志可の海人」とあるのは、博多湾に浮かぶ志賀の島の漁師たちのことである
http://www.nishitetsu.co.jp/nnr/inf/news/backnumber/n0108/special_main.htm
825 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:36:17
>>822あんたはある程度真面目のようじゃのう。
製塩土器はよいのじゃ。誰でもどこででも作っていたのだから。
しかし塩で交易となるとそんな細々と作っていたのでは間尺に合わん。
まして鉄と交換となるとなおさらじゃ。その事を電波、基地外と呼んだのじゃ。
826 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:38:23
>>823 >塩田以前の塩の大量生産に繋がる技術は大陸から九州経由で全国に広まってるみたいだけど
それは、間違い。
古墳時代になるまで、九州からは、製塩土器は出ていない。
>>789の資料にあるとおり、むしろ東北から塩作りは始まっている。
827 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:39:51
>>825 塩が重要な交易品なのは、世界的に常識ですよ?
もうすこし、お調べになってください。
>>826 かんすいを作る元の灰塩の製法である藻塩焼(もしおや)きは東北が発祥なんですか?
829 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 03:44:25
830 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:52:01
>>827だから先ほどから申している通り、交易に塩を使用したとすれば
塩田で造るくらいの量で無いと不可能なのじゃ。
製塩土器でも一度に僅かな量しか出来なかったのではあるまいか。
外国の場合紀元前の塩田跡と言うのが2-3日前TVであっていたが
内陸国と倭のような海洋国とはわけが違う。
塩が取れずに困っている地域自体が無いのじゃ。だから交易品にはなり難いのじゃ。
>>829 土器の出土記録じゃ海藻を焼いて灰塩を作る技術の伝来がわかりませんが
土器で煮詰める以前は灰塩が最終製品として利用されてた時期もあったらしいのですが。
832 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 03:55:25
ううねむい。明日、いや今日はみんなで行楽地へお出かけなのじゃ。
一人居眠りこいてるわけにもいかんのでもう寝ることにするのじゃ。
833 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 04:13:38
九州ですが ◆IhXqm1bg5c ってひとは典型的なかまってちゃんだね。
わざと喧嘩吹っかけて、相手にしてもらうことだけが楽しみみたい。
834 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 04:26:53
>>830 それでは、畿内の人は何を交易品にしていたというのだろうね?
否定するばかりで、そこまで考えていないだろうが。
>>829 >>829のサイトを見るともっとも原始的な手法は海藻を焼いた灰(灰塩)と説明してるんですよ。
次に灰塩に海水混ぜて煮詰める藻塩焼という手法に発展する。
これに
>>823の解説も盛り込めば、
まず海水を土器に移して煮詰めるだけの直煮法というのが縄文後期に現れる
だがこれは塩を生産するというより一世帯が利用するだけの量を細々と家を預かる女性たちか誰かがこなしてた程度の代物で
その当時使用してた土器が
>>829のサイトの資料にある東北地方他から出土されてる古い土器なんじゃないですか?
やがて弥生時代になると塩の大量精製技術が大陸から九州に伝来されてきて灰塩作りがスタートする
九州に住み込んでる渡来人が灰塩に海水を混ぜてかん水を作りより大量の塩を精製する藻塩焼きをの技術を開発し
それが東に広まっていくそれ以降の藻塩焼き用の製塩土器が古墳時代あたりから九州や他からも一斉に出土されるようになる。
藻塩焼き製法が定着するまでは太平洋、瀬戸内海沿岸で直煮法も平行して行われてたと思いますけどね。
ただ直煮法では九州や畿内に影響を与えることはなく。
藻塩焼き製法が根付くまでの古い時代の九州は大陸との交易で塩を大量輸入してたと考えるのが納得できるな。
>>784 敵に塩を送るの故事はともかく今川氏真は武田の駿河侵攻に対して塩止めの処置を行ったりしてるよ。
837 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 05:10:04
>>835 >>789のサイトちゃんと読んだかい。
君の言うように確かに縄文後期の製塩土器では大量生産は難しい。
しかも使い捨てであり、破片も一緒に煮込んで塩分を得たと見られている。
また灰塩もそうだが、初期の藻塩焼にしても大量生産は不可能。
そして弥生前期中葉から瀬戸内海東部を中心に、縄文期とは違う耐久性に富む土器での製塩が始まる。
ここで初めて大量といえるかどうかは微妙だが、少なくとも恒久的な製塩が始まる。
九州ではこの製塩土器が古墳時代時代にならないと出現しない。
その間、実に500年近い差がある。
また
>>823で引用されているサイトだが、よく調べてみたら「にしてつニュース」とある。
これは西鉄こと西日本鉄道の広報誌のウェブサイトであり、学術目的のコラムではない。
残念だが、このサイトを根拠に自説を展開するのは無理がありすぎる。
他に藻塩焼きが九州から始まったと述べているサイトや論文があれば提示願いたい。
君の主張が正しければ、日本古代史はおろか世界文明史までひっくりかえる大発見なのだから。
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/04(金) 06:40:17
安寧天皇 片塩浮穴宮
839 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 08:47:09
815 :日本@名無史さん :2007/05/04(金) 03:11:29
祟神天皇まで代々の天皇の結婚相手は地元の豪族の娘
これは当時の天皇が畿内でどれだけ小さな勢力だったか現している。
九州どころか吉備までさえも、「畿内王権」としての勢力では繋がってないのは確実。
816 :日本@名無史さん :2007/05/04(金) 03:13:23
後のヤマト政権となる畿内の勢力は、
少なくとも祟神あたりまで小国でしかなかった。
いったい、どうやったら瀬戸内海を越えて北部九州まで支配しているなどという
根拠がでてくるのか。根拠をしめせよ。
840 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 08:59:18
瀬戸内海を越えて北部九州まで支配しているなどという畿内説など、聞いたことないがそれ何て妄想?
結婚相手だけでは、歴史なんて分かるか。
ただ、少なくとも、初期の天皇の時代の畿内王権は
その日本における支配力は極めて弱体だったといっても
過言ではないわな。
いわゆる神社伝承法でも、九州の神社の伝承では、
神武天皇の伝承はあるが、その後、全く無くなり
7代目の孝霊天皇(モモソヒメの父)の代まで、伝承が残っていない。
おそらく、孝霊天皇〜崇神天皇の間に
急速に日本の国家統一が強まってきたんだろう。
842 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 11:23:59
>>840のいうとおり、
マキムクあたりが北部九州まで支配しているなどという畿内説など存在しない。
そんな学術論文があるなら教えてくれ。
843 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 11:33:18
>>835 >やがて弥生時代になると塩の大量精製技術が大陸から九州に伝来されてきて灰塩作りがスタートする
弥生時代に中国大陸や朝鮮半島で、
瀬戸内海の製塩土器による製塩方法の原型になるような製塩技術があったの?
そういうソースがあるなら教えてくれ。
844 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 12:24:03
邪馬台国東遷説は、きわもののように思っている畿内説の人がいるようだが、
実は歴史も古く、支持者も多い。
白鳥庫吉、和辻哲郎など東大の学者を中心に発展してきたが、その後も
東大教授のみならず,栗山周一,黒板勝美,林家友次郎,飯島忠夫,和田清,
榎一雄,橋本増吉,植村清二,市村其三郎,坂本太郎,井上光貞,森浩一,
中川成夫,金子武雄,布目順郎,安本美典,奥野正男といった幅広い分野の
学者達がこの立場に立っている。(邪馬台国大研究参照)
>>840 あれ?
邪馬台国畿内説とは、当然北部九州(と壱岐対馬も)の支配に絡んでくる説だと
俺はずーっと思ってたんだけどな。いや九州説でも同じことだけど。
卑弥呼や台与は倭国王で、その国権の執行機関が一大率や諸国の官・副官じゃ
ないの? いかに連合と言ったって壱岐対馬の官・副官がもし卑弥呼女王に逆ら
って、魏や倭の使者が通過するのを妨害なんかしたら、即罷免、いや即処刑だろ。
>>843 俺も土器製塩や藻塩焼きは日本独自の製塩技術とばかり思ってたけどな。
846 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 14:05:13
>>845 >邪馬台国畿内説とは、当然北部九州(と壱岐対馬も)の支配に絡んでくる説だと
俺はずーっと思ってたんだけどな。
はぁ?
バカじゃねえの?
何十年前の畿内説だよ?
絡みはするが、支配はしない。
「絡む」と「支配」は違うものだ。
邪馬台国の候補地として佐賀、熊本の広大な平野地帯を挙げる
>>837 出土してる土器は藻塩焼き製法の土器と言いたいのではないの?
海藻焼いた灰塩を藻塩焼きと誤解してるのかな?
で、藻塩焼き手法は弥生時代以降にならないと登場しないんだが資料の出土期は縄文後期から見られる
これは藻塩焼きじゃなくそれ以前の初歩原始的な製法の土器と捉えるのが普通。
藻塩焼きもいきなり登場したわけではなく、その前に灰塩だけを利用してた時期があって
これが弥生時代の製塩の主力のように思える。
藻塩焼き用土器の出現は古墳時代から本格的になると考えたほうが筋が通るんだが。
>>789のサイトからも引用
>製塩土器とは
>文字通り塩を製造するための器です。
>製塩は多くの場合 採鹹(さいかん)・煎熬(せんごう)の2つの工程に分けることができます。
>製塩土器は煎熬、すなわち塩水を煮詰めるための容器です。
>縄文時代に発生。
>古墳、奈良時代に全盛期を向かえ、
>やがて鎌倉時代に土釜(しっくいで作った釜)や鋳鉄製の鉄釜の発生とともに消滅します。
古墳奈良時代に全盛期を迎えるということはこの時代に藻塩焼き製法が主力になったと捉えておかしくないね。
それと藻塩焼きが伝来した技術と証明するソースは
>>823以外探してないが
藻塩焼きが弥生時代から、またそれ以前から瀬戸内広域他だけで行われてたと 証明するソースもないようだけど?
>>789のサイトは製塩土器の出土時期のグラフとだけで 、藻塩焼き用の土器とは説明されてないよ。
邪馬台国畿内説というのは、基本的に
北九州も支配権に入れていた説もあるからな。
だって、魏志には、女王国が伊都国に一大卒を置いて
監視していたという説だから。
あと、巻向からは
北九州の遺物も出てきます。
851 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 17:03:24
852 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 17:09:16
>>848 >
>>789のサイトは製塩土器の出土時期のグラフとだけで 、藻塩焼き用の土器とは説明されてないよ。
まず、”製塩土器”というものが初めに知られており、
その製塩土器で、どのように具体的に塩を作っていたかは知られていなかったわけです。
後に、”藻塩焼き”という方法で塩が作れることが証明され、
”製塩土器”とは、”藻塩焼き用の土器”であると、言われるようになったのです。
>>849 その伊都国というのが女王国の北に位置するわけで
考古学云々より近畿内に女王国なんてありえないんだよなw
>>852 そもそも藻塩焼きを指してるような製法は、朝鮮から吉備?に伝わったと
>>789のサイトも言ってるじゃんか
この他に九州に伝わって広まったという説もあるらしいから、はっきりと解明されてない分野なんだよ。
なぜ九州じゃなく吉備に伝わったのか不可解なところだけど
極論付ければ邪馬台国は吉備だとでも言いたいのかな?
856 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 18:29:27
857 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 18:34:45
>>849 「邪馬台国畿内説というのは、基本的に 北九州も支配権に入れていた説もあるからな」
畿内説のいうところは結局そういうことになる。吉備も出雲も北部九州も畿内王権が支配していたというとを立証しなければ
邪馬台国畿内説は本来成り立たない筈だが畿内説ありきという結果のみ先行してそこへいたるプロセスの辻褄あわせさえ試みられていないような気がする。
畿内、吉備、出雲、北部九州は弥生時代お互いに連合していた形跡は無く、だからといって争っていたという形跡も無い。
倭人伝にクナ国との攻防が記されている事からも、関連するクニグニの名は倭人伝に記されているべきであり、それが無い事で関連は全く無かったといってよい。
858 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 18:37:31
859 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 18:39:13
>>857 >吉備も出雲も北部九州も畿内王権が支配していたというとを立証しなければ
「支配していない」と言ってるのに、どうして支配していたと立証せねばならんのだ?
むちゃくちゃだな。
860 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 18:44:19
>>859「支配していないといっているのに」
どこで?
861 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 18:47:30
>>854 そうそう。
糸島半島(伊都国)は畿内からみればどうみても「西」。
そのうち、畿内論者は、「西」を「北」と間違えたとか言い出しそうだな。w
佐賀県吉野ケ里遺跡
邪馬台国は佐賀か熊本の平野地帯の可能性大
>>856 貴方がなにを言いたいのかさっぱりわかりません。
塩でもなんでも、考えをまとめてから書き込んでください。
畿内論者は快楽守銭奴ばっか
真面目にやってるとは思えない
865 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 19:44:18
>>840 >>842 そんなんで畿内説成立すると思っている馬鹿。 笑わせやがる。
連合国30数国。倭王の金印。あ、畿内の小国だったんだy。
866 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:00:45
>>859 >「支配していない」と言ってるのに
その時点で畿内説など存在しない。おまえのいう女王国支配の30数各国に
吉備も北部九州も出雲も含まないっていうんだね。凄いな、どーゆー頭して
畿内説など説いているつもりなんだ。
867 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:01:54
塩があったから何?
塩が重要だからといって畿内説に何も関係ありませんが。
868 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:10:01
>>862 >邪馬台国は佐賀か熊本の平野地帯の可能性大
そこも普通に連合国に含んでいるんじゃねーの?
自分の意見では熊本は投馬のような気がする。
869 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:13:29
いやさ、
「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。 常に伊都國に治す。」
っていう記述はさ、一大率の南に女王国がある。かつ一大率は伊都国(糸島半島でほぼ合意ができている?)
要するに「女王国は糸島半島の南にある」となると思うんだけど、畿内論者はここんとこどう考えてるのかな?
マジレスたのむ。
吉野ヶ里、山門、西都、宇佐のどれかだな
871 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/04(金) 20:40:07
だいぶ的を絞って好ましい状況だね。
872 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/04(金) 20:44:17
>>844 前項で述べたように,明治期に,学問的にこの神武東征が何らかの史実を
反映しているのではないか,と示唆したのは,東京大学の白鳥庫吉である。
彼の見解は,同じく東京大学の哲学者和辻哲郎(1889〜1960)によって受け継がれた。
大正9年に著した『日本古代文化』の中で,彼は邪馬台国九州説を唱え,
古事記・日本書紀と魏志倭人伝の記述の一致を指摘している。
白鳥が述べた論旨とほぼ同じである。
更に和辻は,大和朝廷は邪馬台国の後継者であり,
日本を統一する勢力が九州から来たのであり,その伝承が大和朝廷に残っていたのだと主張した。
彼は伝承のみでなく,邪馬台国の突然の消滅と大和朝廷の突然の出現,銅矛銅剣文化圏
と神話との一致,即ち古事記日本書紀に銅鐸文化について全く記事がない事,
などにも言及し,神武東征を史実あるいは史実に近いものと考えたのである。
戦後は,歴史教育の場からこれらの日本神話は全く姿を消してしまったのであるが,
この説は,主に東京大学の学者を中心に支持され発展し続けた。
その後も東大教授のみならず,栗山周一,黒板勝美,林家友次郎,飯島忠夫,和田清,
榎一雄,橋本増吉,植村清二,市村其三郎,坂本太郎,井上光貞,森浩一,中川成夫,
金子武雄,布目順郎,安本美典,奥野正男といった幅広い分野の学者達がこの立場に立っている。
私自身も目下の所,この説が一番説得力があり客観性に富むものだと考えている。
http://inoues.net/kenkyu_si/waf.html 3世紀は神武東征の設定年代ではありませんので
邪馬台国東遷説の為に記紀を持ち出して直接「神武」東征を引用する論説は成り立ちません。
873 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:48:44
めんどいのでごく簡単に書く。
詳細を知りたければ3世紀について書かれた専門書を読まれたし。
3世紀の日本列島は、九州も四国も中国も近畿も、東海も中部も関東も
すべて独立した首長国家(クニ)が大同小異の通称連合化していたというのが畿内説なんだ。
もちろん面ではなく点と点のつながりであって、それに属さなかったであろうと見られるクニはいくつもある。
その中には2世紀まで玄界灘沿岸で栄えた奴国・伊都国などのツクシ連合も含まれている。
これは再三言われるように、機内王権がツクシ連合王権を支配下に置いたものではない。
当時は並列として存在していた可能性が高いとも考えられている。
もちろんキビ王権やサンエン王権の存在すら視野に入れている。
なぜ統一国家や支配といった考え方が廃れたのかは、とても書ききれないし
できれば専門書既読のうえで質問してほしいが、徐々にならば書けるかもしれない(それほど資料が膨大にある)
すごく大まかに言うと倭人伝の記述のうち、卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら
他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており
さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている。
これが畿内説(実際は並列連合政権説)の基本的な考え方。
ただし未だに機内王権が鉄ルートを簒奪し、九州を支配下に置いたとする畿内自生説(樋口、白石など)も確かに学会には存在する。
両氏とも古代史の権威ではあるが、ほとんどの考古学者は同意していない。
北部九州や吉備の連合への影響などは、柳田や寺澤が提示しているように相当密接なものであった可能性が高い。
倭人伝記事との齟齬については文献史学も未だ明快な回答を提示し切れていない。
だが少なくとも協力な中央集権が畿内に発生し、それが他地域を3世紀初頭に圧倒したとする畿内説は、もうほとんど唱えられていない。
874 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/04(金) 20:52:50
方角なんかが正しければ、女王國の東に渡るべき海が存在する筈ですよね
875 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:56:50
876 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:57:13
対馬国は対馬、一支国は壱岐、末盧国は唐津、伊都国は前原、奴国は博多、投馬国は熊本
と確実なところから消していく消去法でいけば邪馬台国の範囲が搾られる
>>876 >投馬国は熊本
どさくさに紛れて何を言うw
878 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 21:09:27
九州ですがさん。いかがでしょう?
879 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 21:16:14
>>875 悪い、だがこれでも主旨の100分の1も語れていない。
出土物とその状況という具体的根拠にも触れられなかったし。
しかし現在では、九州でも畿内でもどこでもいいが
どこかの勢力が武力で他地域を圧倒した、または急激に力関係が逆転したなどといった
単純な図式の古代王権論は、日本のみならず西洋史でも崩壊しつつある。
エジプトのピラミッド建設の労働力が被支配層の奴隷であったとする考えはもうないように。
なにがややこしいかと言って、快刀乱麻の武力革命が一切起きていないのに
畿内に主体政権が誕生するという、その一筋縄ではいかないプロセスを理解するが難しいのだ。
機内による強大な統一王権説や、昔の九州説のように九州内にで30ヶ国があったとの説は
さまざまな出土事実が補強するどころか、まったく相反する状況であることが疑いようもなくなったため、自然に淘汰されただけであって
そりゃあシンプルに考えるに越したことないのに、それが成り立たなくなっただけの話なんだわ。
880 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 21:23:12
>>873 文中に不可解な部分が数多くある。まず
「卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら
他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており 」
の部分。この共立と専制統一国家という言葉はけして相反しない。
むしろ共立した、にわか連合だからこそ専制統一国家としての基盤固めが急務だったのであり
一大率などによる各クニの監視もその地固めとしての布石の一といえるものである。
ですがタンキターwwwwwwww
脳内ピクニックは楽しかったですか?
882 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 21:36:12
>>880続き
>>873「さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、
倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている」
出土物は前後50年とって100年くらいの幅を持って論ずるのが正しい捉え方で、
きわめて短い期間に限定するには難がある。たとえ離れた場所で同じ種類の土器が出土しても
当時の文化の伝播速度は遅く、これまた100年ほどの幅を持って論ずるべきであることから、
「さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢」とは一概に決め付けられない。
883 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 21:45:28
>>873「北部九州や吉備の連合への影響などは、柳田や寺澤が提示しているように相当密接なものであった可能性」
出土物に関しては
>>882に述べたとおり。それを除ければ「北部九州や吉備の連合への影響が相当密接なものであった」
ということ自体成り立たなくなってしまうのではないか。
884 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 21:46:25
>出土物は前後50年とって100年くらいの幅を持って論ずるのが正しい捉え方で
SOYさぁん!
断定的口調で嘘をついてるけど、もちろん貴君はこれもきっちりと断罪するんだよね。
これは明らかにブレーンスーミングじゃないよね。
885 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 21:56:09
>>873「協力な中央集権が畿内に発生し、それが他地域を3世紀初頭に圧倒したとする畿内説は、もうほとんど唱えられていない」
であれば畿内から九州北部まで広大な地域に存在する邪馬台国連合約30カ国に対する畿内王権の吸引力は微弱で、
広大な国土をもてあまし分裂するだろう事は、古今東西の歴史が如実に示している通りである。
女王卑弥呼の鬼道を以ってしてもこれらを統合する事は出来なかったに違いない。
>>884 【とあるデムパ説】
> 出土物は前後50年とって100年くらいの幅を持って論ずるのが正しい捉え方で、
> きわめて短い期間に限定するには難がある。たとえ離れた場所で同じ種類の土器が出土しても
> 当時の文化の伝播速度は遅く、これまた100年ほどの幅を持って論ずるべきであることから、
> 「さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢」とは一概に決め付けられない。
九州説的には帯方郡から邪馬台国まで40日間の路程なんでしょう。
倭人には帯方まで「貢物」を連れてその間を通交する能力もあった。
西日本はおろか東日本にまで及ぶ交易ネットワークの存在も見えている。
そう言う社会で技術の伝播速度に「100年」の誤差だってさw
887 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 22:04:38
>>884 うそ?
出土物の年代をきわめて短い期間に限定する事こそ危険であり「断定的口調で嘘」ということになるのである。
期間に幅を持たせることこそ真実により近づく手立てであろう。
888 :
SOY:2007/05/04(金) 22:22:20
>>884 >SOYさぁん!
>断定的口調で嘘をついてるけど、もちろん貴君はこれもきっちりと断罪するんだよね。
私は自分の思うところを主張し、よほど変だと思うところを問うだけです。
私はここの一発言者であり、管理者ではないので『断罪』まではしません。
>出土物は前後50年とって100年くらいの幅を持って論ずるのが正しい捉え方で
ある程度の幅をもって論ずるのは正しい捉え方とするのは私も同じです。
前後50年という数字は確かに私の考え方とは異なりますが、前後何年が
妥当かについては
>>884が妥当と思う数値をもって論議すれば良ろしい
かと思われます。伝播速度についても…
私がその論議に参加するかは私の時間と興味との兼ね合いになります。
今、TVでルパンVを見ていますので…
>真実に近づく手立てであろう
いま、ですがさんがいい事いった!そのとおりだ!
あなたは知らないでしょうけど、このスレはうそつきが多いので困ってます。
NHKの番組をしっかり見ていたのに見てないって嘘つくやつとか
冥王星が地球より大きいと最近までは常識だったとかほざくやつとか
そんな馬鹿ちんに、ですがさんが喝をいれてやってください!
890 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 22:27:32
>>886「西日本はおろか東日本にまで及ぶ交易ネットワークの存在も見えている。
そう言う社会で技術の伝播速度に「100年」の誤差だってさw 」
この文には大きな瑕疵がある。倭人伝の記述について少し前レスに誰かが言ってる様に
「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。 常に伊都國に治す。」
伊都国に 一大率はいる。女王國より北には一大率を置く、とあることから必然的に女王国は伊都国の南になる。
又、倭人伝には邪馬台国連合30カ国を挙げた後、「奴国(な)がある。ここが、女王国の境となる所である」と
奴国を女王国の境としており、九州から出ない。そのうえで
「自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 」
女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、
それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。
とあり、女王国から見て本州のことはよく解っていなかった。
少なくとも北部九州からの「交易ネットワークの存在」の存在など無かったといえる。
また「社会で技術の伝播速度に「100年」の誤差」
な当然のことで、日ごろ使っている日用品などのいわゆる流行とも言うべき土器などが
伝播していく速度は当時非常に遅かったといえる。
「九州説的には帯方郡から邪馬台国まで40日間の路程なんでしょう。
倭人には帯方まで「貢物」を連れてその間を通交する能力」があろうと
文化としての物の伝播速度=流行速度は100年を見て差し支えない。
SOYは逃げたか…予想通りだな
892 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/04(金) 22:31:00
あの「おじいちゃん」とかよく言う奴はゾンビ云々なんですか?
そいつは古神道のスレで邪魔しに徘徊する ALUCARD の弟子?
とかでの大迷惑者なんですよ。
なんでここで急に九州ですがが消えて
とってつけたように太国が出てくるのだろうか?
ふ・し・ぎだなあ
894 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 22:41:24
>>893 それもこれも含めて俺たち楽しんでるんだからジャマスルナ
895 :
869ですが:2007/05/04(金) 22:47:44
畿内論者の皆さん。早くマジレスたのむ。
も〜、酔っぱらってるので寝てしまいそうだあ〜zzz
>>890 >文化としての物の伝播速度=流行速度は100年を見て差し支えない。
いつのまにか、誤差100年が、伝播速度100年に、すり替わっちゃった、みたいだ。
>>896 >
>>890 > >文化としての物の伝播速度=流行速度は100年を見て差し支えない。
> いつのまにか、誤差100年が、伝播速度100年に、すり替わっちゃった、みたいだ。
デムパ速度は秒速だからw
898 :
愛知県民:2007/05/04(金) 23:01:35
>>869 以北は以西の誤り。
日本列島は南に長く伸びていると考えられていたのでしょう。
899 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 23:02:48
>>892 僕もまともに取り合っていませんが、ソースを探すのが面倒ですよね。
「出土物は前後50年とって100年くらいの幅を持って論ずる」というのもちゃんと
ソースの引用先があるんですがルパン見ながらやってるもので身が入らなくって。
きちんとした畿内説ならこないだもそのソースを提示したら無言で引き下がりましたけど
今度のは狂ってるんじゃないでしょうか?
冥王星の事も30年以上前だし、覚えている人は覚えてるんでしょうが
自分で図書館とか息もせず嘘つき呼ばわりしかしないですからね。
全数十巻のエンサイクロペディアを持っていたので間違い無いんですが
その後段々冥王星などの大きさは小さくなり始め、いまにいたるんですよね。
帰省した弟達に聞いたら、これらの大きさは当時はっきり解っていなかったことは覚えていたんですが
やはり年長の僕だけが一番大きいプルートの絵を見ていたみたいでなかなか実証するのは難しそうです。
余計な労力が要って迷惑ですよね。
>>895 > 畿内論者の皆さん。早くマジレスたのむ。
> も〜、酔っぱらってるので寝てしまいそうだあ〜zzz
自分で過去レス見つけて読むか、さもなくば寝ろ!
>>898 >
>>869 > 以北は以西の誤り。
> 日本列島は南に長く伸びていると考えられていたのでしょう。
末羅、伊都、奴を通説どおりに比定しておきながら、
方位云々を言い出すような酔っ払いにマジレスしても無駄w
902 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:10:13
<<899
だからそういう風に息をするように嘘をつくのはヤメレって
引き下がったんじゃなくて「あなたにはつきあいきれません」ってレス返されたんでしょ?
確かその時はこの本を読んでみてくださいってご丁寧に参考文献までだしてくれてたじゃないですか、そのひと。
それもこれもあなたがいまだに無視して、妄想を垂れ流しているのを誰もが知っているから
突込みばかりはいってまともな答えが返ってこなくなったんでしょ。
全部自分のせいじゃないw
じじいかどうかはしらないけど、いい大人なんでしょうが、ほんとにみっともない。
903 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:11:51
だから言ってるだろ!箸墓を掘れば、出て来るんだって!!
各地の土器なんて全部、巻向の堀から出てくるんだって!!
何回言わせればわかるんだね。
904 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:13:25
>>895 つヒント
イキ、ツシマ、マツラ、イト、ナ
全部倭人伝に書かれたほうがくとは一致していない
>>902 まあ、弄くって遊ばれるのも楽しみのうちなんだろうねえ。
906 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 23:23:24
>>898「以北は以西の誤り。 日本列島は南に長く伸びていると考えられていたのでしょう」
そんな事は絶対に無い。当時の中国は紀元前から使っていた、必ず南を指すという司南という方位磁石が既に使われており、
さらに魏代には指南車というこれまた南を必ず指すというカラクリ車が開発されていた。
古代中国は天体観測もこの頃かなり進んでいて、北極星を観測して方角を調べていた、というのが常識であり
中国本土でも東西南北が正確に表されているように、なんども魏使が行き来している倭国でのみ方向を間違える事は考えられない。
907 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 23:32:05
>>884のばかへ おにょれは物事を固定観念で一辺倒にしか考えられないようだから
こちらの基本的な考え方を伝授して進ぜよう。
引用
「箸墓古墳について平成8年出版の拙著では、
古墳にせよ土器にせよ、製造の絶対年代を狭い範囲で特定するのは現代の考古学をもってしても非常に難しい。
たとえば、ある古墳・土器を3世紀後半と推定しても、実際には「3世紀後半を中心とする」という程度しか言えず、
今回の箸墓古墳も4世紀前半の築造の可能性は依然として否定できない。
今回出土した土師器(甕・壷・高坏など)の大量の破片は
260〜280年頃の「布留0式」と呼ばれる様式と判明しているが、
学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。
すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、
3世紀後半とは特定出来ない。墓誌・金石文・文献による特定、
例えば百済の武寧王陵は発掘された墓誌で523年の築造、
また高句麗好太王碑は刻まれた金石文で414年の建立と断定できる。
すなわち、出土土器による古墳の年代推定と墓誌・金石文・文献による年代断定とは、
精度に決定的落差がある。 古墳・土器の形式・様式は一種の流行のようなものだが、
古代では伝播のスピードは非常に遅い。同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。」
このように柔軟に思考すべきなのだ。又本文に
「こういう状況を踏まえると、箸墓は従来通説のように3世紀末〜4世紀前半の築造とするのが妥当です」とあり、
こちらの説は別に異常でもなんでも無い。取り立てて大騒ぎする方が異常なのだ。
ほれ。引用先だ。読んで勉強した方がいい。
http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper21.html
908 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/04(金) 23:35:26
景行即位=293年 同崩御=322年
909 :
17歳:2007/05/04(金) 23:41:58
素人の僕の意見ですが耶麻大国は九州で卑弥呼は近畿から派遣されたシャーマンじゃいけないんすか?考古学と文献の両面から推測するとそうかなと思うんですが。
910 :
愛知県民:2007/05/04(金) 23:44:18
>>906 なんども魏使が行き来したのは伊都国まで。
陳寿は「其の道里を計るに、当に会稽東冶の東に在るべし」
というトンデモ発言をしています。
こんな認識だったから、魏は倭を使って呉を牽制できると考えたのでしょう。
911 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/04(金) 23:45:18
投馬國まで里数表記でなく水行二十日と表記し、
邪馬壹國まで里数表記でなく水行十日、陸行一月と表記するのは何故なのか
渡/海の時は千餘里だ
狗邪韓國までは水行で七千餘里だ
彼等は一体如何やって距離計測をしたのだろうか?
彼等の距離の計測は本来は「陸行」でしか計測していない
郡から狗邪韓國までの七千餘里は、陸行で沿岸部を計測した距離そのものに他ならない。
では、投馬國や邪馬壹國は、如何して里数表記ではないのか?
彼等が実際に陸路を歩いて計測した事が無いからだ。
だから彼等は、書けなかった。
そして、指南車も陸行でしか意味が無い。
実際に陸路を歩いて計測した事が無く里数表記出来なかった彼等は、
当然この間に指南車も使って居ない。
つまり水行が里数表記で無く、日数表記である以上は、
距離が不確かと云うだけでなく、同時に方位も不確かと云う事だ
こう云う事だろう
耶麻大国はそれでもいんだけどさぁー、邪馬台国じゃないんだろ?
で・・・それ何の話だ、アニメか小説か?
913 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:48:50
>>907 >今回出土した土師器(甕・壷・高坏など)の大量の破片は
>260〜280年頃の「布留0式」と呼ばれる様式と判明しているが、
>学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。
>すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、
>3世紀後半とは特定出来ない。
非常に慎重な態度で、決して悪くないと思う。しかしそれなら
>「こういう状況を踏まえると、箸墓は従来通説のように3世紀末〜4世紀前半の築造とするのが妥当です」
は全くもっておかしい。
「こういう状況を踏まえると、箸墓は従来通説を見直し、3世紀〜4世紀前半の築造とするのが妥当です」
としないことには、論理的に辻褄が合わない。
914 :
17歳:2007/05/04(金) 23:52:08
日数で表記したのは単純に呉への牽制のために会けいの東にするためにつじつまをあわせただけでしょう。
915 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/04(金) 23:53:49
>>910「当に会稽東冶の東に在るべし」
会稽はその時代により広大な地域を指し、又狭い範囲を言った。
当時の会稽は上海あたりを指し、その東は九州の宮崎などに当たる。
まさに倭の地とは九州に当たる。
何かしらんけど、最近のですがは、無差別にあたりちらしてるなぁー!
ゆとりがまったく感じられず、可愛そうなくらいみっともない。
対応がまったく子供っぽいから、誤解されてたんだよ。
昔の、そぼくな時代がなつかしいなぁー
917 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 00:01:14
>>911「彼等の距離の計測は本来は「陸行」でしか計測していない
郡から狗邪韓國までの七千餘里は、陸行で沿岸部を計測した距離」
帯方郡から狗邪韓國間で陸行という記述などどこにも無い。「海岸水行」とあるのみ。
また、「倭人は日数で距離を表す」とあるように倭人の謂いであり、里で表した部分が魏使の謂いである。
918 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/05(土) 00:06:52
水行だけでどうやって里数計測をしたんだ言ってみろ
沿岸部に沿ってるんだから、この距離は沿岸部での陸行計測距離そのものだ
それになんだ、彼等が倭人の受け売りをそのまま掲載したと云う事を認めるのか?
つまり、彼等は投馬國や邪馬壹國まで行った事がなかったと、そう云う認識で良いんだな、>>九州ですが
919 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:09:21
>>916 ♪ですがの最近は誤ることいっぱ〜いw
ですが、最近また無差別にあたりちらしてるんで・す・Yo!
そしたら、SO!!
対応がまったく子供っぽ〜い!
あーいとぅいまて〜ん!!
920 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 00:11:00
>>911つまり水行が里数表記で無く、日数表記である以上は、 距離が不確か
帯方郡から狗邪韓國間で「海岸水行」といっても北極星によって距離を観測し、
また当然帯方郡から狗邪韓國までの陸行の距離を魏使は知っていただろうから
そのデータを加味して水行の距離を推定する事も出来うる。
921 :
愛知県民:2007/05/05(土) 00:11:06
>>915 言われる通り、会稽の東は九州ですが、東冶の東は?
今の地図では沖縄になりますが、陳寿は投馬・邪馬台と見ていたようです。
922 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/05(土) 00:19:04
そもそも北極星を使った天文測量で有効なのは緯度の差が解る南北方向だけじゃないのか
狗邪韓國までが天文測量とすれば、如何して投馬國や邪馬壹國は里数表記じゃないんだ
彼等が天文測量で算出していたのなら南にあるなら里数表記が可能な筈だろ
つまり、投馬國や邪馬壹國で里数表記をしていない以上、
・彼等は天文測量で算出していなかった
・投馬國や邪馬壹國は南にない
・投馬國や邪馬壹國まで行った事がない
このどれかか、二つか、全部だろう
923 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:19:24
873 :日本@名無史さん :2007/05/04(金) 20:48:44
めんどいのでごく簡単に書く。
詳細を知りたければ3世紀について書かれた専門書を読まれたし。
3世紀の日本列島は、九州も四国も中国も近畿も、東海も中部も関東も
すべて独立した首長国家(クニ)が大同小異の通称連合化していたというのが畿内説なんだ。
もちろん面ではなく点と点のつながりであって、それに属さなかったであろうと見られるクニはいくつもある。
その中には2世紀まで玄界灘沿岸で栄えた奴国・伊都国などのツクシ連合も含まれている。
これは再三言われるように、機内王権がツクシ連合王権を支配下に置いたものではない。
当時は並列として存在していた可能性が高いとも考えられている。
もちろんキビ王権やサンエン王権の存在すら視野に入れている。
なぜ統一国家や支配といった考え方が廃れたのかは、とても書ききれないし
できれば専門書既読のうえで質問してほしいが、徐々にならば書けるかもしれない(それほど資料が膨大にある)
すごく大まかに言うと倭人伝の記述のうち、卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら
他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており
さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている。
これが畿内説(実際は並列連合政権説)の基本的な考え方。
ただし未だに機内王権が鉄ルートを簒奪し、九州を支配下に置いたとする畿内自生説(樋口、白石など)も確かに学会には存在する。
両氏とも古代史の権威ではあるが、ほとんどの考古学者は同意していない。
北部九州や吉備の連合への影響などは、柳田や寺澤が提示しているように相当密接なものであった可能性が高い。
倭人伝記事との齟齬については文献史学も未だ明快な回答を提示し切れていない。
だが少なくとも協力な中央集権が畿内に発生し、それが他地域を3世紀初頭に圧倒したとする畿内説は、もうほとんど唱えられていない。
924 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:21:11
>>873は、実にすばらしい。
要約することの難しい畿内説を、丁寧に説明されている。
これで、畿内説への誤解がとければよろしいのだが。
畿内説って、ある意味完結した呼び名だよねw
現代からして奈良説もしくは関西説と言えばいいのにそれだけ自信がないんだな。
926 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 00:33:28
>>918倭人の受け売りをそのまま掲載
では無い。それまでかなり詳しく魏使の測定した里数などを述べているだろう。
水行十日陸行一月は帯方郡から女王国までの距離。これは倭人側のルートで
いちいち持衰などを立てるほど水行に難があり、倭人はマツラ国から壱岐国、対馬国を経て、
対岸が見える最短距離のプサン辺りを目指したのではないか。故に陸行のほうが水行より長い。
しかし航行に手馴れた魏使は陸行するより帯方郡からそのまま乗船し、水行でマツラ国まで来た。
故に9千里近く水行し、倭人側の水行十日陸行一月の記述とは異なり水行が長いのである。
927 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 00:36:38
>>922北極星を使った天文測量で有効なのは緯度の差が解る南北方向だけ
そんな事は無い。当時東南など八方が記されているという事はかなり詳しく
方位が調べられていた証拠なのである。
928 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 00:41:31
>>927続き
何故そのように方角が詳しく知られるようになったのかー。
それは当時に既に広く行われていた風水の為である。昔は黄巾といって初期道教なのだが。
その発展に伴って方角を正しく知る事が広く一般人にもに求められ始めたのだ。
>>926 >これは倭人側のルートで
>いちいち持衰などを立てるほど水行に難があり、倭人はマツラ国から壱岐国、対馬国を経て、
>対岸が見える最短距離のプサン辺りを目指したのではないか。故に陸行のほうが水行より長い。
そうすると、投馬国の「水行二十日」(陸行記載ナシ)は、九州ですが氏はどう解釈する?
>>906九州ですが氏へ
>中国本土でも東西南北が正確に表されているように、なんども魏使が行き来している倭国でのみ
>方向を間違える事は考えられない。
次の3ヶ国について、きみの比定地を聞かせてくれ。国の拡がりと中心も。
・末盧国
・伊都国
・奴国
ちなみにおれはこう考えている。通説と同じだが。
・末盧国=唐津市。松浦川河口付近。
・伊都国=前原市。平原遺跡・井原遺跡付近。
・奴国=福岡市。那珂川河口付近。
>>902 交差編年とか層位関係とか説明しても、きっと意味わかんないんだろうなあ。
932 :
愛知県民:2007/05/05(土) 01:24:00
畿内説も九州説も間違い。
陳寿その人が「東冶の東」と言っている以上、邪馬台国は琉球なのです。
陳寿は更に「有無する所は?耳・朱崖と同じ」と書いており、倭国は海南島に似ているという。
彼等の脳内では、倭国は遥か南に伸びていた。
933 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 01:24:17
>>922 「投馬國や邪馬壹國で里数表記をしていない」
のはなぜかというと、敢えて表さなかったのだと思う。その理由は、
後漢書の記述にあるこの事件。
「、壇石槐は広大な烏侯秦水を見た時、魚はいるがそれを捕れる人がなかったので、倭人がよく網で魚を捕ると聞き、
「東して倭人国を撃ち、千余家をえて、秦水のほとりに移住させ、魚を捕らせて糧食を助けた」という。
『後漢書』ではこの事件を一七八(光和元)年のこととしているがこの時期は倭国大乱と重なっており
吉野ヶ里遺跡が海岸から押し寄せる敵に対し防御態勢を敷いた造りになっているのはその為でなないだろうか。
呉の奴隷狩りもあっていたとは思うが。
このような不穏な社会情勢が人々の負の記憶としてまだあるうちに、卑弥呼は女王となったと考えられるから
魏国と友好関係を結ぶ事が邪馬台国の安寧に繋がると考えたとしても不思議ではなく、それ故に防衛の為
フミ国より先の女王国までの道順を敢えてはっきりとは記していないとも考えられる。
934 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 01:28:37
>>929 勿論倭人が舟を使い川を下って有明海を南下したのではないかと思うが
敢えて里数で表さなかった理由は、
>>933参照。
935 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 01:37:43
>>930 その前に前スレからのコピーだがまず基本的な考えだから頭に入れるためどうぞ。
「福岡県から見て佐賀県は西にあるといった認識だが、
福岡県から南下して熊本県に至る場合、当時の謂いで言えば
「福岡国から南至佐賀国、南至熊本国」となって西にあるはずの佐賀が南と記される。
このように当時の国の範囲が入り組んでいた場合、東、東南に女王国へ至る道がある場合、
その道すがら、通過したクニを記したのもであれば倭人伝の記述が間違っているとはいえない。
今発見されている遺跡同士を結んで方向の間違いと捉えるのはナンセンスである。
その遺跡を基点として方向を出したかどうか不明だ。
当時は北極星を見て方向を判断していたという。また司南という方位磁石もあった。
古代中国の進んだ技術で方向を出していたと思われる。
故に倭人伝記載の方向が間違っているという考え自体が間違い」
>>931 畿内産の庄内が在地系の西新式と同じ遺構から出たりするのに
伝播に何十年もかかることがあるつー一言で編年関係を否定できちゃうんだから「最強」ですな。
937 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 01:58:16
もう寝むーい。ので今夜はゴメンなんしょ。
>>934 投馬国人も倭人、邪馬台国人も倭人だ。
もし邪馬台国人がきみの言うように
「倭人側のルートでいちいち持衰などを立てるほど水行に難があり」(
>>926)
と言うのなら、投馬国人も同じく水行に難があるはずなのであって、
邪馬台国人と同様、できるかぎり行けるところは陸行で行ったと解釈しないと、
つまり有明海や九州西岸海域を舟で行くことはあり得ず、末盧国までは
投馬国人も必ず陸行した、と解釈しないと、論理の矛盾になる。
しかし投馬国は「水行二十日」で、陸行の記載がされていない。
これは、邪馬台国の「水行十日陸行一月」を解釈するのにきみが理由とした
「水行に難があり」などということが、いかにデタラメの思い付きかを示している。
939 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 02:13:48
>>938 有明海に来た事あるかどうか知らんけど、内海で遠浅で物凄く穏やかな海よ。
そら激しく海流の流れる外海とは全く違うという事を知ったほうが良い。
だから「船」で無く「舟」を使ってるでしょうが。海岸沿いに南下すれば安全度は高い。
外海に比べれば波の無いような海ともいえる。
「「水行に難があり」などということが、いかにデタラメの思い付き」これも嘘。
航行に失敗したら持衰として立てた者を殺すという風習まであるのに
水行に難が無いなどあり得ない。
>>935九州ですが氏へ
>まず基本的な考えだから頭に入れるためどうぞ。
読ませてもらった。
>>937 >もう寝むーい。ので今夜はゴメンなんしょ。
では明日中に
>>930に回答されたい。3行で済む。
>>930 >次の3ヶ国について、きみの比定地を聞かせてくれ。国の拡がりと中心も。
>・末盧国
>・伊都国
>・奴国
941 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:16:29
>日本列島は南に長く伸びていると考えられていたのでしょう
九州が南に長いと思われていたかもな。本州のほうはこのころの中国人には
興味なかったんじゃねーの?魏は中国南部だし。
まず本州列島は朝鮮半島から見えるし、出雲もある。馬鹿の方向音痴でも日本海を北上すれば
本州があるのはわかるだろ、しかも寒くなるしw
北東を北とか南西を南とかいったり、内陸部で角度がずれたりすることはあっても
北上するのを南下、東を西というほどの滅茶苦茶さではないはず。
942 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:20:56
有明海のような内海は、外海とは波の高さがぜんぜん違う。
古代の人は壱岐や対馬に行くような航海は命がけだったろうが、瀬戸内海は
それほどでもなかっただろう。まして、有明海は穏やかな海だし、仮に
転覆するようなことがあっても、命を失うほどではない。
内海の航海は、危険も少ないし、歩かなくても良いし、荷物を運ぶ必要も
ないので、むしろ好んだと思う。波の荒い外海とはぜんぜん事情が異なると
思う。
943 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:21:23
>>932 九州でも宮崎南部と鹿児島あたりは、他の九州と違って本当に暖かいよ。
あの、例の埴輪だらけの神宮なんかサボテン園に囲まれているしなww
海南島ににた植物や気候、衣食住があったとしてもぜんぜんおかしくない。
もし島というなら種子島や奄美大島なんかも怪しいんじゃねーの?
ちなみに九州島の中南部あたり、普通に「東冶の東」で通用するが。
944 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:24:05
>>939 942だが、939と、かぶってしまった。
945 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 02:25:56
>>936 当時土器商人がいて「今度はこんな商品出ました。」「今はやりの土器はこのタイプです。」
などと行商して回っていたわけじゃあるまいし、先祖から受け継いだ文化はそう易々と変化するのもではない。
弥生人が現代人のようにあたらし物好きなどと同じように考えないほうが良い。
新文化という変化を受け入れるだけでも相当な年月を費やした筈だ。
946 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:29:59
有明海っしょ?自分もずっと考えてたんだよ。
だから水行の多さは九州島の地図の西側海岸を見てみろって。
あの入組みまくった海岸線をみろ。畿内への直線距離よりずっと長くなるくらいだが?
それで普通に納得がいくんだが。結局南下だし。
あのあたりの佐賀や長崎、八女あたりも栄えた国があったはず。
九州島の西を水行で南下して、最南部の熊襲勢力をさけて上陸。
内陸部を横断して反対側へ。こんな感じ。
自分は日向西臼杵郡辺り説だな。つまり西都にしとこう。
947 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 02:30:42
>>940 あのー。ここに書いてることは最近のスレで散々レスしてきた事なんだけど。
面倒だからできるだけ見つけ出してレスしてるんだが見つからなかったりする。
ということは今まで僕がレスしたのは殆ど読んでいないわけかな?
948 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:32:17
八代だろ
949 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 02:33:32
ヨーロッパでは、同じような土器が出ても、場所が違えば年代が違うというのは
常識になっている。
たとえば、アルプスの北と南では、かなりの年代差があるらしい。
ずっと前は、同じような年代としていたらしいが。
950 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 02:50:52
>>949 方言なんかもそうだよね。もともと都で使われていた言葉が京都を中心に水輪状態に広がり、
何百年もかけて九州などに伝わり使い始められる頃には都では新たな方言が生まれる、
といった具合に、九州で先生を「しぇんしぇい」などというのはだいぶ昔は
都のある中央で使われていた言葉だったと聞いた事がある。
東北弁と九州弁の共通点も感じる。ばってんが東北でばってーというところがあったし、
どこ、も「どこさん」と「どこさ」とにてる。
それらと同じじゃないかと思うんだよね、弥生時代の土器などの広がり方も。
951 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 03:20:21
そういや詳しくは知らないんだけど沖縄の海で遺跡とかあったじゃん。
普通に考えて2千年位前に陸地もあったんじゃねーの?ひょっとして・・・
なんか海の底に亀の石とかなかったかい?
エジプトでも海の底からいっぱい暮らしの遺跡がでてきたじゃんよ・・・
952 :
SOY:2007/05/05(土) 05:41:28
>>924 >要約することの難しい畿内説を、丁寧に説明されている。
>>873を要約することは決して難しいことではないと思います。
私ならまず以下のように箇条書きにします。
1. 独立した首長国家(奴・伊都国含)が大同小異の通商連合化していた
2. 畿内王権が九州を支配下に置いたとする畿内自生説は同意されていない
3. 卑弥呼の共立以外の記述が専制統一国家を思わせるような記述となっている
4. 3世紀の列島情勢は倭人伝の政治体制とは一致していない
5. これが畿内説(実際は並列連合政権説)の基本的な考え方
そのうえでできる限り余分な文章を削り、個々について丁寧に説明を行います。
その方が主張が見えやすく、論議も行いやすいと考えるので…
・・・ですがは
>>930に・・・ズバッと答えないの・・・ですが・・・
954 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 07:31:33
いや、あのねw
>>873さんよw 「並列連合政権」説こそ九州説なんだが?
>>873の一段落目は九州の公立中学校の日本史の歴史の古代史で2,3時間で
普通に習った通り。だから目新しくも何もない。畿内も吉備も出雲もそして
九州もそれぞれ栄えた王権のあるクニがあって、それぞれに栄えていた。先生が言ってた通り
で、2段落目はさあ、畿内説として前提で、「もし」倭人伝の記述が本州列島も含む当時すべての
日本の体系を現していたのなら1段落目と比較して普通に納得できるね。(倭人伝の書かれている
ような専制君主の体系が日本全体にはなかった。)
しかし倭人伝の記述が本州を含まない、九州の邪馬台国連合30数国だけのことをいってるんなら、
女王以下の専制君主のクニと連合国で間違いないから、別におかしくない。
まあ↑は置いといて、ここで一番重要な疑問。
>>873さんよ。何を基準に畿内=女王国としてるわけ?
吉備も出雲も四国さえ強力な国々が共立していた通称連合。なんの根拠で奈良盆地が女王国なの?
祟神天皇が居た。女王国じゃないわな。天皇が中国から金印もらった話もないわな。
畿内どころか出雲とか吉備だって中国の皇帝から同時期に金印もらった話なんてねーよ。
強力な政権が「共立」してんのに、なんで中国が全部すっ飛ばして畿内へいくわけ?
まず方向無視、倭人伝の記述無視、邪馬台国の詳細すべて無視、の畿内説。
原文読み直せばわかるが、倭人伝では倭国ではなく、邪馬台国としての記述が羅列されてるが
それに畿内があてはまらないのを無理やり奈良盆地に設定していて矛盾炸裂。
しかも旧唐書であるとおり、当時の日本が「日本」と「倭国」に分かれて表記されている。
倭人伝は九州だけだろ。並列連合政権のね、日向にあった女王国なんだよ。
なんで並立連合政権内の一国の畿内の女王をまるで日本全部の専制君主のように書くわけ?
それが間違い。伊都をはじめとする九州だけの女王国連合のことが書かれているんだよ。そんだけ。
「東の大海の向こうにまた倭人が住む倭国ではない場所」なんて記述も納得。
だから
>>873を読んで ますます九州説ですな。だって畿内説の一番肝心な部分が抜けているWW
955 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 07:39:00
畿内説の矛盾は「記無い説」あるいは「紀無い説」と書けば分かりやすい。
956 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 07:44:02
957 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 07:45:00
>>954の焦点
1 独立した首長国家(奴・伊都国含)が大同小異の通商連合化していた説は
はじめから九州説に取り込まれている。
2 3世紀の列島情勢は倭人伝の政治体制とは一致していない、ことこそ
倭人伝に本州の列島情勢など初めから含まれてない証拠。
3
>>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
結びつける要素が全く書かれていない。
958 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 07:49:10
>>956 お前は記無い説か〜? 紀は神功39年だとか、そんな猫の額のほどの記載しか
書かれてはいない。朝廷の近隣に女王国があるんならもっと多大に遠国の倭人伝
以上に詳細な記述が紀に記述されて然るべきだ。その記述が雀の涙程度では、
女王国は九州にあったとするのが合理的なのである。アホなことは言ってないぞ。
959 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 07:51:55
>>957の3
特に重要だ。倍暦の計上で
崇神即位元年=237年=景初元年
九州ですがはもうトリップはずせよ
見苦しい
961 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 08:03:24
真の 201年 は孝元天皇の世の終りころ。
962 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 08:05:00
>以北は以西の誤り。
>日本列島は南に長く伸びていると考えられていたのでしょう
あの、馬鹿ですか? 北には北極星&北斗七星があり、海を越えてやってくる者が間違えるわけ無いでしょ?
963 :
愛知県民:2007/05/05(土) 08:21:04
>>943 >九州島の中南部あたり、普通に「東冶の東」で通用するが。
全然違う。東冶は福建省福州付近ですが、異説があるのですか?
964 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 08:57:50
965 :
愛知県民:2007/05/05(土) 09:00:35
>>962 魏使が来ていた伊都国より先の話ですよ。
隋書倭国伝でも魏志倭人伝を参照した上で、倭国の都・邪摩堆は魏志の邪馬台であるとしています。
>>954 >旧唐書であるとおり、当時の日本が「日本」と「倭国」に分かれて表記されている。
これは倭国が日本と改名しただけのこと。
続日本紀にもある通り、703年の遣唐使から「日本国」と名乗ったのです。
966 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:05:23
>>965 そうすると何かい? 伊都国より先は北極星は見えなくなるってーのかい?
反問の仕方ハシケ男そくリw
968 :
愛知県民:2007/05/05(土) 09:19:22
>>966 里程報告をした最初の魏使は伊都国より先には行っていませんから、北極星も何も関係ありません。
張政は邪馬台国まで行ったようですが、里程報告は任務外だったと考えられます。
969 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:25:39
>>968 そうですよね。そうすると、水行何日とか、陸行何日とかは、倭人側が適当に報告したものと
考えてよろしいですよね?
970 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:36:23
どんな馬鹿でも北上しながら南と思うわけない。
九州列島が南に長いとでも考えていた程度だろ。しかもこの地図は何百年もズレている。
>>963 東冶は福建省福州付近で十分 東(大体東南・東北含む)で九州島の中南部が通用するが?
平面図じゃなくアトラスで例えばEckert W Projection ぐらいで見てみろよ。
(すまないが日本語でなんと言うか不明。英語で検索してくれ)
しかも、「日本列島は南に伸びていると思い込んでいる」などとと言う
とんでもない間違いを前提としながら「東冶の東」だけは正しいと? その理論付けからして
おかし過ぎる。とりあえず地図と方位で畿内になることだけはない。琉球はあるけどなw
971 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:47:16
>>962 ここからして根本的に間違っている。
地図の作成技術の発展と、人間が方位を読む能力の発展は全くの別物。
地図の未熟さは地形把握・距離の測定・方位と地形の一致などがあり
とくにこの時代は地球をまっ平らなどと考えている時代なので当てにできない。
が、人間が方位を判断する能力・技術は全く別。北を指して南といったり
西を指して北といったりする馬鹿はおらんよ。すべてが徒歩か舟のこの時代は
尚更。人をあまり馬鹿にするんじゃない。
972 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:52:42
>>968 妄想で決め付けないようにw
原文読み直せ。倭国としてでなく、邪馬台国の記述があれほど
詳細にあるのに行ってないなどとよく言えるな。
しかも>里程報告は任務外 とか 別の >倭人側が適当に報告 とか
根拠のない都合よすぎる解釈でバンバンすすめながら悦にはまっている姿が
笑えるW
973 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:56:29
>>971 >以北は以西の誤り。
>日本列島は南に長く伸びていると考えられていたのでしょう
でしょ?「地図作成技術の発展」についてはふれてないんじゃないの?
それより、あなたも
>北を指して南といったり 西を指して北といったりする馬鹿はおらんよ。
ということであれば、魏志倭人伝で畿内論者がいう「東と南を間違えた」という主張は
まさに
>人をあまり馬鹿にするんじゃない。
って事で桶?
974 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:59:11
太国は寝たのか?
975 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:05:12
畿内説者からでさえ馬鹿にされていたモモ説=学会基地外が
やっと消えたと思ったら、勝手に妄想解釈しながら悦にはまる
愛知県民とやらが・・
976 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:07:13
横山光輝の「三国志」読んだ事ある?
あの中で、諸葛亮が占星術をつかうシーンとかでてくるでしょ?
「魏志倭人伝」て、あの頃の話でしょ?
ほんちゃんの魏人ならば、方向間違えるって(それも南を東とか、北を西とか90度も)
ありえんと思うのよ。いやマジで。
977 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 10:11:38
>>940 マツラ国から東南で伊都国、さらに東南で奴国、東でフミ国。となっているからその通りにいけば良いだけ。
マツラ国の名護屋浦辺りに上陸し、東南方向に行って前原市南部に至り、さらに東南へ春日辺りにいたる。
そこから東へフミ国。そして南へと方向を変える。つまりマツラ国から東南の方角に女王国があったのであり
その道すがら通過したクニを記しているのである。今の地名と古代の地名は必ずしも重なっているわけではなく
大体その付近の名称だったと思われる。国の勢力範囲は戦争などによって変化したであろうし、
元からある地名が変わってしまい、全く別の地方を指すようになる事もある。
古代の地名とそのクニの広がりを言い当てる事は不可能に近い。
978 :
愛知県民:2007/05/05(土) 10:11:50
>>971 >北を指して南といったり西を指して北といったりする馬鹿はおらんよ。
それがいるんですよ。
末盧国から東北を指して東南と言い、伊都国から東北を指して東南という馬鹿が。
魏使が実際に倭国に行ってから、陳寿が書くまでに数十年経っている。
さらに現代人が読むまで、何度も書写がされ、明らかな誤写もある。
人を馬鹿にしているのではなく、そういう要素を考慮すべきだということです。
979 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:13:15
とりあえず、畿内説の人間は下記の3を付け加えなければならないね。
>>954の焦点
1 独立した首長国家(奴・伊都国含)が大同小異の通商連合化していた説は
はじめから九州説に取り込まれている。
2 3世紀の列島情勢は倭人伝の政治体制とは一致していない、ことこそ
倭人伝に本州の列島情勢など初めから含まれてない証拠。
3
>>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
結びつける要素が全く書かれていない。
981 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 10:16:17
>>965 恐れく日本列島が南に延びている後世に書かれたおかしな地図を見た事があるが
それが脳裏にインプットされているのではないか。あの地図の信憑性は無い。
982 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:22:48
畿内の天皇が居る政権、北部九州とは通商連合の国が、なんで中国を貢ぎで
圧倒して他の首長国を飛ばして倭王の金印を「女王」がもらったんだ?
なんの伝承も記録もないな。
そんなことがあって、倭人伝も読みながら記紀にも日本書紀にも書かないとは
まるで畿内政権とは全く関係のないことのような事の済ませ方なんだが。
それなのに畿内に結びつけようとしている畿内説者は本当に馬鹿だな、と思う。
983 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 10:27:01
>>965「魏使が来ていた伊都国より先」
魏使が一度も女王国に足を踏み入れていない事は無い。
魏使が誰も一度も見た事も無いような本当に居るかどうか解らない女に親魏倭王の印を渡すほど
魏王は耄碌していない。魏の援助を受ける立場の女王が目上とも言うべき魏王の、その名代に
一度も会わず追い返す事などあり得ない。
984 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:29:10
「邪馬台国」の詳細が書かれている時点で、実際に行って記録した人間が
いて、そのレポートを項目にわけて付け加えているのは原文を読めばわかる。
しかもその部分は「伊都国辺りまでしか行ってない」と思える前半部分とは
全く別物。その辺りを巧妙というか詭弁のようにしてごまかそうとしている
人間がいるのには本当に笑える。まあ、南国の雰囲気アリアリだからな、
間違った地図のせいにはできないからかw
985 :
愛知県民:2007/05/05(土) 10:42:19
伊都国・奴国の方角について九州ですがさんが言っていることは、要するに
「正しいとも間違っているとも言えない」という範囲を出ないですね。
隋書倭国伝と日本書紀が共通して畿内説であるのは何故でしょう?
988 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 10:49:22
989 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:50:14
>>977 >マツラ国から東南で伊都国、さらに東南で奴国、東でフミ国。となっているからその通りにいけば良いだけ。
>マツラ国の名護屋浦辺りに上陸し、東南方向に行って前原市南部に至り、さらに東南へ春日辺りにいたる。
地図を見ていただきたい。
http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E130.13.24.4N33.32.8.6&ZM=4 秀吉の名護屋城で有名な唐津市鎮西町名護屋と、福岡県前原市南部を結ぶ線は、ほぼ緯線に平行する。
また福岡県前原市南部と福岡県春日市も、ほぼ緯線に平行する。
すなわち実際の地図上では
名護屋浦辺り→ 東 →前原市南部→ 東 →春日辺り
なのである。決して東南ではない。
よって、もしこの3箇所をそれぞれ末盧国・伊都国・奴国に比定するのであれば、倭人伝の
後2国に関する方位記載「東南」は実際の方位と異なり、誤っていることになる。
991 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 11:00:23
>>988続き
魏使はマツラ国に上陸し東南、東南、東、南へと・・。
東よりに弧を描くように南下し一貫した方向へと進んでいる。
これは何を意味するのか。各国の中心集落を結んだとしたらこうはいかない。
正確にあらわそうと思えばばその軌跡はジグザグにいびつになるだろう。
女王国への最短距離を通った為、各国の行政区とも言うべき土地を通過していると捉えるのが妥当。
992 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:13:45
993 :
黄金虫:2007/05/05(土) 11:22:41
>>979 > とりあえず、畿内説の人間は下記の3を付け加えなければならないね。
> 1 独立した首長国家(奴・伊都国含)が大同小異の通商連合化していた説は
> はじめから九州説に取り込まれている。
ちょっと違うと思いますよ。
「通商連合」と言っても市場規模の大きさに段階があるでしょう。
玄海灘の6カ国等については原ノ辻などを主な中継点とする地域ブロックと考えられ、
奴国王とか伊都国王と呼ばれる人物が時々の対外的な代表者なのでしょう。
この地域の官なり副なりの名称に共通性が認められることから政治的にもある程度
統合されているものとも考えられますし。
貴方の言う「通商連合」はこの段階の話しですね。
畿内説の説明で使われる交易連合と言うのは、そう言ったブロック連合がさらに集まって
もう一回り大きな連合(つまりは西日本レベル)だとイメージしてください。
村落共同体>水系単位の地域共同体>ブロックレベルの交易連合と進化し、
ヤマト政権と呼べるような他の地域より卓越する権力が生ずる段階の一つ前の姿だと
思っていただければ話しが整理しやすいと思いますよ。
994 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 11:23:42
>>992 当時の伊都国がどの範囲だったのかも詳しく解らないのにまして前原市と決め付けているようだが。
マツラ国で着いたのは名護屋浦、といった筈だ。壱岐からの最短で着く。
そこから東南へ行くと二丈町と前原市の境界辺り。しかし大昔にこのような現在の行政区分は全く無いわけだから
その辺り全部がが伊都国だったとも考えられる。古代の海岸線は今と大きく違っており、
今に地図とにらめっこして弥生時代を判断する事はナンセンスである。
995 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:30:59
もうすぐ1000
このスレの収穫は、魏志倭人伝の方角に関しては信用できないこと
政治体制もなぜだか正しく伝えていないことが分かったことだった
996 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 11:33:12
>>994続き
さらに奴国は人口も多い大国であり領土も大きかったと思われるので
大野城、大宰府、筑紫野市辺りも含んでいたと思われる。{このことは前スレにも書いている}
ただ、博多湾はかなり当時の海岸線は後退していたので、奴国の中心は春日辺りにあったというのが
こちらの考え方である。
997 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:35:48
998 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 11:36:51
>>995魏志倭人伝の方角に関しては信用できない
多少の誤差と、畿内説の言う南を西と読みかえる程の90度もの誤差とは根本的に話が違う。
同じではない。
999 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 11:38:24
細かい方向の違いを以ってだから90度とが宇野だというのは畿内説の詭弁。
1000 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:38:30
奇亡説死亡
1001 :
1001:
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