難兜
烏to 西 難兜接=パミール西部〜アフガニスタン北部
難兜 北 休循接=パミール北部〜アフガニスタン北部
南 [女若]羌接=?
西南 kei賓三百三十里=?
西 無雷三百四十里=パミール東部〜タクラマカン
西 大月氏接=パミール西部もしくはアフガニスタン北部
kei賓 東北 難兜國九日行=?
休循は捐毒西方のパミール高原の国でおそらく
現在キルギスタン領になっている高原地帯。
これから考えると、情報は錯綜しているけれども、
カシュミールに持っていくのはどう考えても無理そうだ。
で、ワハーン回廊を抜けてすぐにあるクンドゥズ付近ではないかと推定してみる。
多くの場合、難兜国はカシュミール北部のギルギットだと言われるが、
そこは縣度の地である。
西域伝ではこの縣度は烏to国条の最後に付け加えられているだけで、
まわりがどんな国に接しているともその先に何があるとも書いていない。
縣度からガンダーラへ抜けるルートが後の時代にあったことは確かなようだが、
西域伝では
縣度者、石山也、谿谷不通、以繩索相引而度云。
と書かれているのみである。
この記述から見ると、この縣度からガンダーラへというルートが
漢書が書かれるまでの時代に開かれていたとはとうてい思えない。
烏弋山離
順番が入れ代わるが先に烏弋山離。
烏弋山離はヒンドゥークシュ南側。一説にガズニからカンダハルにかけての回廊というが、『大國也。烏弋地暑熱莽平。至烏弋山離、南道極矣。』という記述から考えると、
ガズニ〜カンダハルの高原地帯よりはむしろカンダハルの西側、レギスタン砂漠北側の低地平野部の方がよりふさわしく感じる。
カブールから続く回廊はわずかにイラン領に入り込んだヘルマンド湖付近でどん詰まりになり、アレクサンダーの遠征路も北からここに来て東に折れている。
これは、『絶遠、漢使希至。自玉門,陽關出南道、歴zen善而南行、至烏弋山離、南道極矣。』という西域伝の記述とも符合する。
いずれにしても拠点はカンダハルだろう。
kei賓 西南 烏弋山離接
安息 東 烏弋山離接
烏弋山離 北 撲挑接
東 kei賓接
西 犂[革干]
西 條支接。行可百餘日
安息はイランで正しく西側に有る。
撲挑は不明。北側ならもう一つのアレキサンドリア、ヘラート周辺かもしれないが全くの憶測の域をでない。(ヘラート 34.34544034434768,62.16443105341213)
犂[革干]は、魏略西戎傳によれば大秦国=ローマ。
條支はシリア。
長安から 都護へ
西域伝(里) 萬二千二百里 東北六十日行
西域伝(km) 6100km
実測(km) 4220km 東北2220km
比 1.45
位置が長安のほぼ西にあたるため、タクラマカン経由だと北側に膨らむ分、直線距離が短くなり、その結果距離比が小さくなっているがそれほどおかしな数値ではない。
都護への方向は正しい
kei賓
漢書西域伝には
kei賓地平、温和。糞治園田。
地下濕、生稻、冬食生菜。
出封牛,水牛,象,大狗,沐猴,孔爵,珠[王幾],珊瑚,虎魄,璧流離。
とあり、地平、温和であること、水牛,象などを産することなどからカシミールではなくその南のパンジャブとした。
ただし、kei賓はパンジャブだけでなくカイバル峠を越えてカブールあたりまでを支配下においていたとみている。
というのは、kei賓国は大月氏・烏弋山離と接しているが、烏弋山離はkei賓国のみと接し大月氏とは接しているとは書かれていない。したがって、kei賓国は大月氏と烏弋山離のあいだに割って入っている必要がある。
カブール周辺もkei賓国なら確かに西南に烏弋山離と接していることになるし、大月氏も西北にあたる。
kei賓 東北 難兜國九日行
東 烏to國二千二百五十里
西南 烏弋山離接
西北 大月氏接
国都循鮮城がどこにあるかわからないのでとりあえずラホール付近においてあるが、どこにあったとしても難兜國の上の推定地は北西になり方位があわない。
といって、一般に言われるように難兜國をギルギットとし、kei賓国をスリナガルとしてみてもやっぱり方位はあわない。ギルギットはスリナガルの北やや西であるし、
そもそも、縣度を南にとったところから方位は90度ずれている。漢書西域伝では、縣度は烏toの西であり、難兜國も烏toの西である。
のみならず、魏略西戎傳には
從玉門關西出、經[女若]羌轉西、越葱領、經縣度、入大月氏、爲南道。
とあり、パミールから大月氏に向かうルートの途中に縣度はある。このルートは大月氏に直接向かうルートなのでガンダーラなど経由していないのは言うまでもない。
これら史料の記載事項を優先するならば、縣度とは、タシュクルガン付近からワハーン回廊に入るために越える山間部、もしくは、パミール高原西部の山岳部と見るのが普通であろう。
にもかかわらず、縣度〜kei賓がパミールの南に当てられているのはどうも法顕の影響が大きいようである。法顕はたしかに苦労しながらパミールからギルギットを経由してガンダーラへ抜けたようである。
いつのころからか、法顕がたどったルートが西域南道と混同され、本来はパミールにあった縣度がコンロン山中に移動してしまったのではないだろうか?けわしい山岳部にはにたような場所はいくらでもあるだろうから。
ということでkei賓をカシュミール地方と見る通説には、全くもって同意できない。
kei賓がカシュミールだと力説していた人の考えを聞きたいものである。
長安から 都護へ 烏to國
西域伝(里) 萬二千二百里 東北六千八百四十里 東二千二百五十里
西域伝(km) 6100km 東北3420km 東1125km
実測(km) 3240km 東北1480km 北630km
比 0.94 2.31 1.79
ちなみに推定経路沿いに距離を測ると
ラホール−カブール−クンドゥズ−烏to 1400km 比0.80
ラホール−カブール−クンドゥズ−南道−楼蘭−都護府 3260km 比1.05
と、こんどは比が小さくなりすぎる。
どこかでかなり無理をしないとkei賓国はおさまらないようだ。
烏弋山離とkei賓の道がカブールで分かれるとすると、カブール−カンダハル、カブール−ラホールはさほど差がないので、長安からの距離が同じ萬二千二百里は当然。
ところで、この萬二千二百里が架空の数値であるとする件について、漢書張騫傳には武帝からの問に張騫が次のように答えているという記述がある。
以騫度之,[五]大夏去漢萬二千里,居西南.
これは、苦労して大月氏から漢にもどってきた張騫が西域に対する計画を策定するさいの重要な問答に答えている場面であり、いいかげんな数字すまされなない。
(実際この問答の後、蜀から南に進みインド経由で中央アジアを目指すルートの構築が試みられている。結局失敗するのだが。)
したがってこれにより、萬二千里という遠距離であっても何がしかの根拠によって見積もられた距離であることがわかる。
萬二千里を越えたらはるか遠方を示す架空の距離であるなどという愚説は
いいかげんで葬り去るべきであろう。
安息 アケメネス朝ペルシア
首都はヘカトンピロスにおかれていたがBC1世紀にクテシフォンに都を移している。西域伝に書かれている番兜城とはどちらかということが問題になるが、
張騫が戻った後、孝武帝は安息国に使節を送っている事からその時の都である可能性が高い。よってここでは、ヘカトンピロスと考えることにする。語感的にもその方が近い。
ただし、ヘカトンピロスは位置が不明のままであるらしいので、なんらかの方法で推定する必要がある。
漢書西域伝には、『其屬小大數百城、地方數千里、最大國也。臨[女爲]水、商賈車船行旁國。』とその都城が[女爲]水(アムダリア)に臨んでいると書かれており、
また『東界去王都數千里、行比至、過數十城、人民相屬。』とも書かれているので、位置としてはその一番奥近く、つまり、アムダリア下流域ではないかという推定が立つ。
ただし、アムダリアは現在と違ってかつては西に流路をとりカスピ海にそそいでいた。
これを知ったうえでGEでカラクムを見るとその中央部を東西に水たまりらしきものが点々と続いているのが見える。これがかつての流路だとすると、その西の端、
カスピ海近くに推定地をおいても大過ないのではないかと思われる。
実際の距離は、現在のトルクメニスタン東端あたりからカスピ海まで1000km=2000里ほどの直線距離である。
大月氏との境界がもう少し西であっても『東界去王都數千里』という記述とはそう矛盾することにはならないだろう。
推定地 39.91438911604359,55.74632026701136
長安まで萬一千六百里=5800km
推定値から実測4700km、距離比1.23
北 康居接
東 烏弋山離接
則大月氏
西南 條支接
康居はおそらくカラクムからキジルクムの東側にかけてと思われるので確かに北に接している。
現在のイラン全域が安息国に含まれると思われるのでバクトラ周辺の大月氏もカンダハル近くの烏弋山離も東側でよい。
條支がシリアだとすると、クテシフォンからならほぼ真西だが、上の推定地からなら西やや南。
>>45 いきなり間違えてる
×安息 アケメネス朝ペルシア
○安息 アルサケス朝パルティア
47 :
震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/27(金) 21:20:50
すごく熱心にかきこまれたわりには後がつづきませんですね。
しかし、西域伝の里数と東夷伝の比較、大事ですね。
48 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:04:41
だね
49 :
1:
急に仕事が忙しくなって、ほったらかしてる間にすっかり忘れてしまった。
大事だと思うなら後は任せた。