1 :
無名武将@お腹せっぷく:
蜀の敗因って基本的に自滅だよね
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/21(火) 15:13:34
ネタスレにしては、センス無いし
終ってる
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/21(火) 16:19:44
>>1 もう一回三国志を読み直せ。
それでも同じ考えしか出てこなければ、頭が追いついてない証拠。
頭悪すぎだから幼稚園からやり直せ。
諸葛亮時代の曹真、姜維時代の郭淮やケ艾…
司馬懿以外でも成功していないのは事実だね。
ま、国力の差が大き過ぎですわな。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/21(火) 17:52:43
>>1 司馬「懿」と書けるようにしろ
話はそれからだ
>>4 張コウもいるではないか。
まっ張コウは司馬懿のミスで殉職したからな。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/22(水) 01:11:04
曹一族の重鎮である曹真と曹休が相次いで病死したときに司馬懿と唯一、
官位で対抗できたのは曹操の五将軍最後の生き残りである車騎将軍張合βであった。
司馬懿は、孔明の北伐を抑えるために張合βを指揮下に置き、わざと死なせる。
ライバルを同じ土俵に上がらせずに抹殺するのは司馬懿の得意技であった。
【明帝期】226-239 ●は明帝期に死亡
1:●曹休:(征東将軍→大司馬)
1:●曹真:(大将軍→大司馬)
4:≪司馬懿≫:ヒョウキ将軍→大将軍→太尉&大都督→都督中外&録尚書事)
1:【曹宇】:(大将軍)
4:●鐘ヨウ:(太尉)
2:●華キン:(太尉)
2:●王朗:(司徒)
4:●董昭:(司徒)
2:●陳矯:(尚書令&司徒)
3:●陳羣:(中護軍&鎮軍大将軍&司空&録尚書事)
4:衛※至秦:(司空→司徒)
2:崔林:(司空)
2:劉放(中書監)
2:孫資(中書令)
2:●張合β(征西将軍→車騎将軍)
4:●満寵(征東将軍)
5:●黄権(鎮南将軍)
1:≪曹爽≫(武衛将軍)
1【夏侯献】※夏侯覇の子?
1【秦朗】※特別扱い
1【曹 肇】※曹休の長男
8 :
捕捉:2009/04/22(水) 01:12:41
宗室派(曹家、夏侯家)1
北海派(華キン・王朗)2
頴川派(陳羣)3
司隷・(エン州)派(司馬懿・鐘ヨウ)4
その他5
【 】は皇帝が示した後見人
≪≫は、孫資と劉放が偽造した詔勅による後見人
数字は何?
10 :
捕捉:2009/04/22(水) 01:24:39
大将軍&大都督であった司馬懿が
諸葛亮死亡に伴い、太尉&都督中外に権力を縮小されたことからわかるように
曹叡は、司馬懿の持つ影響力が曹一族が支配する魏帝国を揺るがせることになることを
十分熟知していたと思われるのだが、北海派の重鎮である。華キンと王朗が死に、宗室から
嫌悪されていた孫資と劉放が自己保身のため皇帝を裏切ったことから曹魏の崩壊が始まるのである。
この後、孫資と劉放は車騎将軍とヒョウキ将軍の官位を得ることになる。
11 :
捕捉:2009/04/22(水) 01:45:22
孫資と劉放は249年の正始の変の曹爽誅殺後ほどなくして死去していることから、
司馬懿の要請で詔勅を偽造したのではなく、曹爽に抱きこまれたものと思われる。
ちなみに曹爽は曹真の長男である。
曹真は元々秦真と名乗っていたことからわかるように曹家とは関係の無い家柄であった。
12 :
捕捉:2009/04/22(水) 01:55:59
車騎将軍じゃなくて衛将軍だった。
孫資が衛将軍(後にヒョウキ将軍)で、劉放がヒョウキ将軍。
車騎将軍は姜維の上司であった郭淮。
13 :
捕捉:2009/04/22(水) 02:01:56
北海派は、曹魏の中枢である魏国(キ州の業βを中心とする河北)で勢力を張っていた派閥。
赤壁の戦い後の、魏公国成立の際に、漢王朝補佐を考えていた北海派閥の大多数は粛清されていた。
頴川派は曹操が地方勢力の時に助力したジュンイクを中心としたグループ
のちに司馬懿の司隷派に飲み込まれていく。
14 :
捕捉:2009/04/22(水) 02:28:03
地勢上からわかるように曹家1と、業βを中心とする北海派2は結託していて、司馬懿の司隷派4と対立する。
本来、司隷派閥の対抗馬であった頴川派3は、陳羣死後、求心力を失い、司馬懿の派閥に吸収。
正始の変後、主に北海派閥を中心とする司馬家打倒の反乱が鎮圧されると、
曹魏の本拠地である北海派閥2も司馬家に追従するものしか高位に登れなくなる。
こうして、司馬一族による魏帝国の侵食は達成されていくのである。
15 :
捕捉:2009/04/22(水) 02:28:44
【斉王期:正始の変★まで(曹芳)】239-249
4:司馬懿(太傅)
1:★曹爽(大将軍&都督中外&録尚書事)
4:●満寵(太尉)
5:●蒋済(太尉)
2:王凌(征東将軍→車騎将軍→司空)
4:●衛※至秦(司徒)
4:高柔(司空→司徒)
2:●崔林(司空)
2:●孫礼(司空)
4:司馬フ(司空&録尚書事)
4:鄭沖(司空)
2:劉放(中書監&ヒョウキ将軍)
2:孫資(中書令&衛将軍)
5:胡質(征東将軍)
2:王※永日(征南将軍)
1:夏侯玄(中護軍→征西将軍)※夏侯尚の子。曹真の妹の子
1:曹義(中領軍)※曹爽の弟
1:曹訓(武衛将軍)※曹爽の弟
16 :
捕捉:2009/04/22(水) 02:29:29
【斉王期:正始の変後】249-254
4:●司馬懿(太傅)
4:●司馬師(中護軍→衛将軍→撫軍大将軍→大将軍&都督中外→大都督&録尚書事)
2:●王凌(太尉)
4:司馬フ(太尉)
4:高柔(司徒)
4:鄭沖(司空)
2:●劉放(中書監)
2:●孫資(中書令&ヒョウキ将軍)
1:●夏侯玄(太常)
2:郭淮(征西将軍→車騎将軍)
4:司馬昭(衛将軍)
5:胡遵(征東将軍)
2:王永日(征南将軍)
2:諸葛誕(鎮東将軍→鎮南将軍)
4:カンキュウケン(鎮南将軍→鎮東将軍)
17 :
捕捉:2009/04/22(水) 02:29:47
【貴郷公期(曹ボウ)】254-260
4:司馬フ(太傅)
4:司馬昭(大将軍&大都督&録尚書事)
4:高柔(太尉)
4:鄭沖(司徒)
2:●蘆イク(司空)
2:●王永日(ヒョウキ将軍→司空)
5:●孫壱(車騎将軍)
5:●胡遵(衛将軍)
3:陳泰(征西将軍)
5:ケ艾(鎮西将軍→征西将軍)
3:何曾(征北将軍)
2:●カンキュウケン(鎮東将軍)
2:王基(鎮東将軍→征東将軍→征西将軍)
2:●諸葛誕(鎮東将軍→征東将軍)
18 :
捕捉:2009/04/22(水) 02:29:59
【陳留王期(曹カン)】260-265
4:●司馬昭(相国)
4:司馬炎(相国)
4:司馬フ(太傅)
5:●ケ艾(太尉)
2:王※示羊(司空→太尉)
4:司馬望(司徒&中護軍→護軍将軍→中領軍→征西将軍→ヒョウキ将軍)
3:●鐘会(司徒)
3:何曾(司徒&征北将軍)
3:荀ギ(司空)
3:●陳泰(太常)※征西将軍→太常?
4:衛カン(鎮東将軍)
2:王沈(鎮南将軍)
4:司馬亮(鎮西将軍)
4:羊※示古(中領軍)
4:カジュウ(中護軍)
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/22(水) 09:05:43
捕捉の人って1?
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/03(日) 13:24:01
諸葛亮にとって不運なのは、魏の二代目に曹叡になったことだ。
曹叡以外の曹家の一員が三代目だったらあるいは北伐は成功していたかも。
最後の一行
三代目→二代目ね。
北伐の成功とかありえないから
蜀の兵力で魏を打ち破るなんて無理
司馬懿がいなくても魏ががちがちに守りを固めている時点で蜀に勝ち目なし
あ
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/09(金) 13:54:47
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/10(木) 13:41:54
そもそも司馬懿が居たから北伐失敗したという理由kwsk
2〜3万の兵を率いて陳倉攻めた時にカク昭の3千の軍相手に撤退してるのがなあ…
それの何が問題?
ハイコスト、ローリターン
諸葛亮よえ〜
ここ枯れてんね
北伐の話題で使わせてもらって良いかな?
>432(元スレの)
勝たないように攻めたんじゃなくて、攻めても落とせないのを分かっていて攻めた
万一降伏してくれるようなら、城も傷つかないし矢も消費しない
兵糧も落城後呼んだ漢中から支援がくるまでもつだろう
降伏してくれるなら大変有り難いが、要地には良い人材を置いているだろうから
普通、要地レベルは根回しもなく寝返ったりしないだろう
落とす気がないのに囲むに足らず攻めたのは「それこそあり得ない」からだよ
時間が経てば援軍が来て不利になるのに囲んでいただけというのは「あり得ない」
攻めておきながら取る気がないというのは「あり得ない」
攻めてみせることで本気だと思わせることが出来る
逆に、攻めなければ本気ではなかったというのがバレバレで真意に気付かれる
>魏にそんな情報網があったのなら一次で疑軍にひっかかるはずがない
動員かけただけで他国に伝わるよ
蜀軍の漢中での駐屯地は沔陽
趙雲ら前軍は沔陽から東に行き褒斜道に入った
この動きは秦嶺の4道の何処からかすぐ伝わった
それに合わせて、斜谷に来ると前もって知っていた曹真も出た
諸葛亮本隊も数日後に趙雲に続く筈なんだが
諸葛亮本隊はいつまで経っても駐屯地から出てこなかった
駐屯地沔陽は陽平関の傍にある
こっそり関から西に出れば蜀軍の動きは東へ伝わらない
武都から祁山経由で関中に伝達されるのみ
いつまで経っても駐屯地から出てこないと見えた諸葛亮本隊は
密かに陽平関を出て西へ向かっていたのだった
てことだろう
>秦嶺の4道
訂正、3道
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/06(日) 19:34:14
引越しのため一度age
>>35 >攻めても落とせないのを分かっていて攻めた
あなたは諸葛亮が何のために陳倉に出たと思っているの?
(私は補給をある程度用意していたという前提で「陳倉の拠点化」と思うけど)
>兵糧も落城後呼んだ漢中から支援がくるまでもつだろう
落城後に漢中から呼んでいるようじゃ魏の救援が先に来てしまう
下手すりゃ退路を断たれるおそれすらある
>動員かけただけで他国に伝わるよ(以下略)
部隊の移動を察知するだけならその程度の情報網でも十分だろうけど
それで輜重の規模や後続部隊の有無まで把握した上に
方城〜河南城にいる時点での張郃に知らせるのは無理だろう
>>37 つまり、そちらは蜀軍の補給部隊は陳倉と漢中の間のどこかにいて待機していた
と考えているんだね?
それで 蜀国内に魏の密偵がいて、後続の有無などの情報が伝わる となると辻褄が合わない
と?
じゃまず、密偵から
輜重の規模は車両の数を数えれば大体分かる
後続部隊の有無も見ていれば分かる
張郃は十日ともたないと予想し、その通りだった
ということは張郃が河南城にいたのは攻城開始から十余日経っている日
諸葛亮が漢中を出てから大分経っている
時間的に情報伝達は全然可能 かなり余裕がある
で、後方からの補給があるか無いかが分からないと、懸軍かなんて判別できないじゃないか
陳倉の蜀軍だけを見ていても、その後方何日を補給部隊が進んでいる・いないかなんて知り得ない
張郃が懸軍って言ってるということは補給部隊が無いと知ってるということ
>漢中から支援
補給より先に魏援軍が先に陳倉に来ても構わない
蜀軍の兵糧が底をつく前に着けばOK
魏中央からの第一援軍は想定三〜四万
諸葛亮軍は実数不明だが数万
堅城を確保し陣を布けば対抗できる
対抗できるというより、有利に戦える
後方の補給路を断たれるようなことも無いだろう
補給が間に合えば敵の第二援軍が来ても大丈夫
これは初っ端降伏してくれた場合の話で
散々攻撃させられたあと降伏されるとちょっと困ったことになるのだが、
最初に郝昭が「死んでも降伏しない」と言ってくれたから一安心ってとこだろう
まぁでも援軍が迫っている状態で途中降伏は普通しないと思うけどね
力攻めによる陳倉落城の可能性もなかった
張郃が落ちる心配をしていないところを見ても
陳倉が短期で落ちるような事はなかったと分かる
>陳倉攻めの狙い
祁山の突破
>>38 部隊後方の輜重の規模や後続部隊の有無まで分かるということは
密偵は沔陽又はその付近にいて全容を確認したと言うことだよね
(>この動きは秦嶺の3道の何処からかすぐ伝わった とあったから
各道に配置していた偵察部隊が報告したと思ってた
これだと敵が来た時点で撤退して報告しないといけないから)
ただそこまで近くにいたなら一次で諸葛亮の動きが分からないはずがない
(小部隊ならともかく本隊だから数万〜10万くらいの大軍でしょ)
もちろん一次の後に魏が密偵を送り込んだとするならあり得るけど
>>39 >補給より先に魏援軍が先に陳倉に来ても構わない
>蜀軍の兵糧が底をつく前に着けばOK
もし底をついたら即全滅だが諸葛亮にはそんな危険な賭けはできないだろう
東からの援軍だけでなく西から郭淮が来ることも想定しないといけないし
後世の人間であれば蜀軍が魏軍相手に戦闘で強かったことを知っているけど
陳倉を攻める前の諸葛亮がそんな確信を持てるはずがない
だって一次では予定どおりの展開を進めながら戦闘では負けているのだから
>>40 ごめん意味が分からない
一次でも負けていない祁山が目標なら直接行けばいい
別に「勝てそうにない」と自ら判断するような陳倉に行く意味はない
何で陳倉を狙ったのかが分からないからなぁ。
魏の援軍がなかなか来れない西から時計回りに攻略しようとしたのが失敗して、
何で魏の援軍がすぐ来る北の陳倉を選んだのか。
重要な位置にあるのに城兵が1000人程度しか入らないような小城だから、思わず欲が出たのかな。
あと、何か輜重隊の話で揉めてるみたいだけど、
大軍を賄う物資ってのは最低でも数ヶ月前から集める必要があるからね。
商人の往来があるのでスパイは送り込み放題だし、事前情報で規模や時期ぐらいは分かるよ。
>>41 沔陽の基地周辺は哨戒が厳しくて密偵はおそらく近づけない
そこまでの危険を冒さなくても遠巻きに伏せて道を見張っていれば必要な情報は得られる
諸葛亮も陽動作戦だから察知されないよう細心の注意を当然払う
正確な位置は分からないが基地から陽平関まで5kmもない
街道沿いの哨戒を強めて人を近づけないようにし、夜陰にまぎれて進発すれば気付かれない
>>42 西は、渭水上流隴関あたり、山が狭まっている所で塞げばいい
兵糧が底をつくのは60日先ぐらい
第3次で陳式が率いる兵力が漢中に待機しているのでこれも使える
諸葛亮は自分が強いことは20代前半には分かってた
一次で戦闘に負けたのは馬謖
>ごめん意味が分からない
分からなくて当然
簡単に分かるようなら諸葛亮は大したことないってことだよ
諸葛亮は一次と四次の2度の機会に2度祁山を抜いた
あまりにあっさり抜いているので気付かないが、実はこれは凄いことなんだ
諸葛亮の軍事能力は異常
忘れがちだが忘れてならないのは、祁山が魏の重要防衛拠点であるということ
敵を通してしまうようなら防衛拠点とは言えない
防衛拠点は敵が通過出来ないようになっているからこそ、そう言える
何の仕掛けも無しに抜くのは不可能
第一次前・第二次前の状態を、初期状態と設定して
蜀軍が普通に漢中を出発し、西回りで進むとする
その報せはすぐに伝わり、長安から曹真が隴西へ向かう
隴西の兵は祁山に集結し蜀軍の進攻を阻む
蜀軍が祁山を攻めあぐんでいる間に曹真の大部隊が到着し合流する
こうなっては蜀が勝つのは難しい
諸葛亮は第一次の時、郿に魏の注意を集めさせ、陽動で曹真を箕谷に引き付けた
こうして祁山を突破した
同じ手が使えない次はどうするか、新たな策が必要だった
詳しくはこれでも読んで そっちのほうが説明が早い
他スレにあったやつの修正コピペだけど
(一次から五次まで一続きだから頭から読んでいかないと分からない)
四次では抜いてない。
それから、優れて理論的な計算に基づいて一般化しうるのが戦略的思考。
それが俯瞰的に見て明瞭に説明できないってのは、つまり現実を知らない無能が考えた役立たずってこと。
諸葛亮を馬鹿にすんな。
>>42 >一次でも負けていない祁山が目標なら直接行けばいい
上(
>>47-52)を踏まえ、
第二次のタイミングで本命の祁山に行かなかったのは、祁山も落ちないからだよ
一次・四次ともに祁山は落ちていない
囲んで無力化しただけ
第一次の時より魏の援軍は遅れるが、蜀も大戦直後で兵を郷許に帰したりして
第一次のような規模での進攻は準備できてなかったろう
祁山を得るのが不可能なことは明らかだし
その先へ軍を進めて戦を展開するには戦力不足
諸葛亮は臨機応変が苦手と言われているが、文官らの見当違い
いくら諸葛亮でもあのタイミングで関中が手薄になるのは計算できなかったはず
第一次の後、同じ手は使えないから次は如何にして祁山を突破するか思案したはずだけど
降って湧いた好機を活かし、咄嗟に深遠な計画を練り上げ、成功に繋げている
>>43 作戦の意図が明確な形で残っていないから
どう考えてみても憶測が入ってしまうんだよね
あと物資について事前準備の段階である程度推測できるのはそうだけど
連動していたかどうかは別として二次と三次は続けて行われたから
二次の開始前に蜀が用意していた物資は両作戦に耐えられる分あったことになる
この場合張郃は蜀の情報を得たとしてもむしろ過大に見積もったと思うんだけど
>>44 密偵は当然商人として入ってくるだろうし
沔陽や陽平関は成都に向かうルート上なのだから
夜間外出は禁止するとしても普段通行するのは禁止できないだろう
>>45 (前段)
あなたは諸葛亮を相当な自信家だと思っているようだね
私は慎重だったと考えるから同意しないけどその前提なら違和感はないな
>>46ほか
とりあえず別スレを読ませてもらうけど
>祁山が魏の重要防衛拠点であるということ
これの根拠があったら教えてほしい(別スレにあるならいいけど)
>>54 陳寿等が「応変の将略」が足りなかったとするのは実行段階の話であって
計画を立てる段階の話ではないと思うのだが
あと後半は>関中が手薄になるのは(以下略)とあるから二次の話だと思うけど
三次の陽動とする説以外では二次は失敗じゃないのか
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/08(火) 16:15:49
諸葛亮とか言う無能に国を任せた結果がこのざま
うむ、蜀は豊かで諸葛亮が有能であっても貧困で無能の魏を破れなかった
何なんだろうね?
この蜀補正はさ
答えは簡単。魏は蜀より豊かで、諸葛亮より曹真や司馬懿の方が有能だったから。
>>60 ま、それはそうだが
ラスボスが戦略の鬼才(奇才)、あの明帝だもんな
諸葛亮は戦術レベルでは物凄く強いんだが、
戦略レベルではいつも曹叡や曹真や司馬懿や張コウに一歩先を行かれてる。
というか、曹叡単体でもガチで凄まじすぎる。
あの判断の速さと鋭さは異常。
これに加えて、国力の差+司馬懿らが加わる。
普通に考えれば勝てるわけないわ。
こいつら相手に奮闘した諸葛亮も十分天下の奇才ではあるのだけれどね。
あと七十年ほど早く永嘉の乱が起きてたら長安以西は蜀の領土だった
超優秀な対呉要員の満寵が対蜀(対諸葛亮)やらせたら面白そうだよねぇ
満寵は戦術能力では司馬懿より上だと思う。
満寵は守勢に異常に強くてガチの野戦より伏兵や奇襲を得意としてるから、
ガチの野戦でしか強くない諸葛亮はボロ負けしそう。
表面だけ追うとそういう評価になるんだろうなぁ
68は62へ
>>55 商人が商取引量から見積もるなんて不可能だよ
商取引があったとしても支流の一つに過ぎないだろう?
兵糧は年貢が中心
蜀中からどのくらい集まって来ているか
外部の人間に知る由もない
民間人が軍事施設に出入り出来るとも思えない
兵站と軍隊は部署が違うんじゃないかな?
商人と会うのは兵站部の仕事だろう
商人と取引するにしてもそれは政庁のある城でやると思う
それを官兵が基地に運ぶ と
第一、百歩譲って兵糧の備蓄量を知り得たとしても
兵糧を残らず持って移動するでもない限り
遠征に出た1つの軍が何日分の食糧を持って出たかなんて計算のしようもない
>>56 非常時に関を閉じるのは常識的に行い得ること
禁止できない事ではないよ てかやるよ俺なら
慎重と自信は別に相反しない
自分が優れていることくらい分かるものだ
自分を楽毅に準えていた諸葛亮が戦に自信がないわけがない
>>57 うん 祁山は関山道(西回り道)上にあり、隴と蜀を線で結ぶとその喉元にあたる
関山道中に西漢水が通る細長い盆地が西北・東南に走る2つの山脈に挟まれて在り
その盆地の中ほど、幅約1.5kmの平野部に喉仏のような小さな山がある
高さ51m 上底1000平米、三面崖の山(丘)で頂上には堅城が建てられていた
それが祁山(祁山城)
地理条件、立地条件、城址、歴史 から見ても、ここが魏の防衛拠点であったのは間違いない
少なくとも曹丕の時代には既に祁山は魏の防衛拠点だった
明帝曰:「先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山」(明帝紀)
もう読んでくれたかな?
読んだのなら
>>57後半に答える必要ないと思うけど
訂正
×上底1000平米
○上底3000平米
上にある変なリンクのやつ妄想だらけの仮定で話し進めてるだけじゃん
糞の役にも立たねー
長安に近づけば近づくほど兵は増員されるだろうし北伐自体、無謀な計画だからな・・・・
だから、諸葛亮は関中は狙わなかった。
猫に小判、豚に真珠とも言うしなー
そこは読み手の知的レベルに依るんじゃね?
>>49-51は極めて論理的な推論だよ。
>>74,
>>77 妄想かはともかく論理的かといえばやっぱり違うだろうな
>>72 壮大な仮説としては認めるけど壮大なだけに粗が出ているような
(長くてまだ一次までしか読んでいないのでその範囲で疑問点を)
1.諸葛亮は魏側に降伏者が出るのを想定していなかったのだろうか
(そんなことすら想定していないのなら諸葛亮の考えが足りなかったということになるし
仮にも「漢室復興」を掲げて同調者を想定していないのなら別の意味で問題だろう)
2.以前から都督中外諸軍事だった曹真が「中央軍」ではなく「雍州防衛軍」を率いたとする根拠は何だろう
(魏側の史料である「魏略」が油断していたと認めているのだから
当時「エース」だった曹真を関中に置いていたとは考えられないのだが)
3.張郃が街亭に諸葛亮がいたかどうかを知らなかったとでも言うのだろうか
(現に街亭に到達して敵を破った後の張郃がそれを知らない訳はないし
街亭の戦いに係る情報が張郃以外からもたらされることはないだろう)
4.北伐とは関係ないけど「南方で叛乱が起きることは二度となかった」は明らかに嘘だろ
(あなたが言う「三戦板での議論」については知らないけど
劉冑の反乱でライ降都督張翼が更迭されたのは諸葛亮が死亡する前年だ
もちろん孟獲個人が叛かなかったという意味なら別だけど)
>>78 1.降伏者が出るというレベルじゃないだろう?
2.雍州軍ではなく雍州防衛軍 雍州防衛の任につく中軍だよ
>魏側の史料である「魏略」が油断していたと認めているのだから
“魏略”が「魏は油断していた」と言ったところで、それは“言い訳”でしかない
魏は油断なんてしてなかったよ
3.多分、張郃は 居た と思っているだろうね
4.南中って広いからそれだけじゃ劉冑の叛乱がどこで起きたか特定できないからね
前回叛乱を起こした地域か特定できないことにはこの逸話は否定できない
『故終亮之世,南方不敢復反。』
「南方」と一言で言っても、ニュアンス的には「一度背いて服した地域」だろう
粗は無いよ
論理的だ。
79は〜ではないと自分の考えを結論付けてるだけの様な・・・・
論理的には程遠いよ
>>79 二次と三次はまだ読んでる途中なので
1.作戦ってのはありえそうな事態も考慮に入れて立てるものじゃないの
(味方の裏切りはともかく敵の降伏すら考えてないことはないだろう)
2.魏が油断していなかったとしたら
なぜあなたが防御拠点とする祁山の守将の名すら残っていないの
それに特定個人ではなく魏そのものが油断していたとかいう話を
「言い訳」として捏造する必要があるの
3.街亭での捕虜に聞けば分かるだろ(総大将を知らないことはないだろうし)
それとも張郃は敵を大破しながら捕虜を全く取らなかったということなの
4.南征で討伐した場所に限定されていたのね
それなら分かる
>>78の疑問が論理的でないような気がしないでもないからなー
>>79がほぼ1行で答えている1〜3の解答が
>>78の非論理性にぴたりと蓋をしている。
最も論理的な解答だよ。
自作自演が臭すぎるスレだwwwwwwwwwwww
相手が良きライバルで良かったじゃん>諸葛亮
曹叡がガチ相手じゃ秒殺ぢゃね?
>>82 1.だからレベルが違うって
極早期での三郡寝返りなんてあり得そうな事ではない
見方の裏切りはともかく? どうしてともかくなの?
表裏一体だろうに
2.守将の名が残らないのは別に何でもないと思うよ
第2次で諸葛亮が陳倉を攻めてなかったり、
陳倉があっさり落ちてたり、主戦場が囲まれた陳倉城以外の所であったら
郝昭の名はきっと魏略にすら残らなかったろう
>魏略
捏造する必要があったとか、そんな高尚なものじゃない
言い訳は必要があるからするんじゃなく格好つけたいからする
敵の進攻を深くまで許し、郡に3つも寝返られ、朝廷が大騒ぎになったこの事態を
敵にやられたのではなく自らの過失が招いた事とすることで辛うじて面目を保とうとしたのだろう
よくいじめられっ子が殴られて出来たアザを「階段で転んだ」と親に嘘を言うがそれと似る
油断していなかった根拠
・諸葛亮は南蛮征伐を劉備の死の2年後に行っている
・時期は特定できないが、その前後に『正議』を著し、魏に対してやる気満々であることを伝えている
・『正議』からは諸葛亮の好戦的な性格が読み取れる
・南征から2年、北伐開始の前年の春に、反抗的で好戦的な敵の国家元首が
出師表なる宣戦を行い、大軍を率いて国境地帯に上ってきていた
・その上、元蜀臣の孟達が謀反するなど、蜀に活発な動きがあった
「にわかに諸葛亮が攻めてくるんだもん。みんなビックリしちゃった。」とかいう
魏略の言い訳は面白いw
・北伐前年初頭には夏侯楙が督関中だったのに、いつの間にか軍才も経験も豊富な曹真に交代していた
・なんと言っても魏の対応が早い
曹真が斜谷道途中の箕谷で趙雲と出会ったのもそうだが、張郃の動き
第一次はひと月ほどで終わっている
蜀軍の行動開始からひと月ほどの間に
荊州に居た左将軍張郃が右将軍となって西行し、街亭で馬謖を破っている事になるが、
開始から三郡寝返りまでの経過、その情報の伝達、兵の準備、移動、
街亭包囲、蜀軍撤退開始の見届けまで の日数を考えれば、ひと月ちょいではとても無理
曹真は長安、張郃は洛陽 各々兵の準備を整え、
蜀軍と時を合わせて よーい、ドン!で出なければ、ああは行かない
また、然るべきだろう
3.敵を騙すにはまず味方から
兵卒に「少し離れたところに丞相が控えておいでだ」ぐらいの説明はし得る
逆に、捕虜に確認したからこそ、と言えるかもしれないね
張郃が王平の撤退ぶりを許したのは
敵の眼前を、散り散りになった敗残兵を収集して回収しながらゆっくり後退するなんて
後ろ盾もなく出来ることじゃないだろうからね
襲い掛からなかった張郃の態度が不思議すぎるだろ?
>>89 いやあなたと私のレスがではなく
>>77や
>>79の擁護レスが自演を疑われているということでは
1.それだと劉備相手に「民が歓迎してくれるでしょう」と言っていた諸葛亮は
劉備がいない=自分が率いる漢では歓迎されないと思ってたということになるけど
2.最終的には勝っているのだから言い訳することもないだろう
別に相手の手際を誉めるだけの度量もない訳じゃないだろうし
あと夏侯楙が更迭されたのは太和二年の「明帝西征」の時だよ
(前年12月の孟達造反で蜀を警戒し始めた可能性は高いけど
翌月に攻められてるのに全域が準備するのは難しいのでは)
3.よくよく考えたら馬謖率いる大部分が山に籠っているのだから
張郃が偵察を出せば諸葛亮がいるかどうかなんて簡単に判るんだよね
蜀軍は街道を封鎖していないのだから偵察を阻止できないからね
ようやく続きを(まだ途中だけど)
二次1.結局曹操が桟道を焼いた件と諸葛亮がそれを修復した件の出典は何だったの
(三国志集解あたりをざっと見た範囲では分からなかったので)
二次2.三国志集解に引かれている魏略(寰宇記巻三十)には
「(前略)亮本聞陳倉城悪,及至,怪其整頓,聞知昭在其中,大驚愕。」とあるから
諸葛亮は陳倉に備えがあるとは思っていなかったのではないの
三次1.あなたは二郡攻略のための陽動が成功したと言うけど
結局諸葛亮自身が郭淮を牽制したのだから陽動としては「失敗」ではないの
三次2.諸葛亮の目的は別として二郡を奪われた以上魏は対策しないといけないのに
その後の四次でも郭淮等は祁山ではなくて上邽にいたと思われるから
魏はあなたが思う程には祁山を重視していなかったのではないの
曹真征蜀.3軍全てに侵入されていたら蜀が負ける可能性が高かっただろう
(駱谷だけから攻めた曹爽を防いだからといって3方面からの攻撃も防げるとは限らないし
少なくとも司令官3人は曹爽と比較するレベルではないだろう
もちろん漢中に入った後に大雨で退路を断たれれば別だけど)
曹叡>>>越えられない壁>>>諸葛亮≧司馬懿=陸遜=孫権>>>越えられない壁>>>劉禅
>>90 1.諸葛亮の言葉は、文字通り「歓迎してくれる」以上には読み取れないけど?
「濡れ手に粟で寝返るでしょう」みたいなことではなく
「百姓が食糧を持ち寄って進攻軍を歓待してくれるでしょう」
要するに、
「現地の百姓は“Welcome!”で迎えるでしょう」と言っている
2.魏略は他国讒謗・自国礼賛が激しい書物だからそんな度量はないし言い訳もするw
魏略をいい人だと信じていたらそこから出られないよ?
「言い訳することもないだろう」「 度量もない訳じゃないだろうし」
という全く根拠のない信望より、
>>87で挙げた事実が上に来る
>あと夏侯楙が更迭されたのは太和二年の「明帝西征」の時だよ
それ言ってるのは「油断していた」と言う魏略
明帝紀本紀に曹真が都督関右だった事が記されている
夏侯楙が都督関中だったのに対し曹真は都督関右だからその権力は拡大されている
これも魏が警戒を強めていた証となる
>(前年12月の孟達造反で蜀を警戒し始めた可能性は高いけど
翌月に攻められてるのに全域が準備するのは難しいのでは)
「警戒し始めた」とするならね
孟達の蜀との密通を申儀が密告しても尚、曹叡は孟達を信じたが、
これも魏略
3.偽兵計がそんなに簡単に見破れるなら誰も引っかからない
魏の斥候はもちろん出るさ そんなことは馬謖も承知 というか戦の常識
第一、敵が斥候出してくれないことには後ろに諸葛亮が来ていると知ってもらえないじゃないか
騙す以前に存在を知ってくれないんじゃ困っちゃうよ
斥候は敵の軍勢が本物かなんて確認しないよ
遠目に大凡の規模や配置を調べるだけ
敵も哨戒してるからいちいち確認に近づいていたら命がいくつあっても足りないって
はじめに魏の人間が街亭に諸葛亮が居たと思っている事実があってね
その話は本伝とも状況が符合する
そこからの推論なんだよ
>>91 二次1.何だったかなぁ 本の名前なんて覚えないからなぁ 土地に詳しい本だったよ
とりあえずこの話が世に存在することくらいは証明しておいた方がいいだろうね
「曹操在撤出漢中時,把棧道樓閣燒毀,又派兵築城防守。」でググってみて
二次2.魏略だっちゅーの
魏略は信じたらダメだよ あんなのは良い子しか信じないんだからね
三次1.陳倉に引き付けておかなかったら郭淮の抵抗に遭っている
三次2.説明丸無視の質問はよしてくれ
曹真征蜀.どう考えようと勝手だけど、
>駱谷だけから攻めた曹爽を防いだからといって3方面からの攻撃も防げる〜
1進路1危険として、魏軍の抱える危険が3つになる
ひとつでも突破できれば… というのも見方が甘い
漢中 対 関中 は漢中が有利
というのも、秦嶺越えのルートルートが扇のように放射状になっているからなんだ
三路を図にするとこうなる
関 中
| /
漢中 ― 荊州
漢中はルート出口の距離が近く、ひとつのルートの状況が悪くなっても容易にカバーに回れる
後詰の軍が少なく済むんだ
兵站の負担も軽い 三路の連絡も取れる
一方、攻める方が連絡を取り合うのは難しい
兵站も大変だ
>とは限らないし
もちろん絶対勝つとは言えないが
>少なくとも司令官3人は曹爽と比較するレベルではないだろう
蜀にも言える
>>93-95 つまり魏略や晋書宣帝紀は魏(や晋)に都合のよい書だから信用できない
漢晋春秋は蜀(や諸葛亮)に都合のよい書だから信用するということですね
まともな人なら各記事ごとに信憑性を確認して判断するものですけどね
(蜀記のように引用した裴松之すら全否定するような代物もあるけど)
1.要するに諸葛亮は民が歓迎してくれることは予想できても
簒奪者の配下であるはずの官や軍隊が寝返ってくることは予想できなかったと
それも徐州や幽州みたいな遥か彼方ならともかく攻め込んだ現地で
むしろ諸葛亮を馬鹿にしているのではないか
2.曹真は諸葛亮の侵攻に対して大将軍として派遣され「都督関右」したのだから
北伐が行われたことに対する対応策なのは明らかでしょ
(いくら魏略を信じたくなくたって夏侯楙の罷免記事まで信用しない理由があるのか)
3.「落とせないのを知っていて城を攻めた」とさえ主張するあなたが
危険だから斥候を出さないとでも言うのですか
実際に張郃は敵の水源を断って邪魔されなかったのだから
「諸葛亮の部隊」が虚構であることは見抜かれていたのでは
二次1.あのね議論なり意見を発表したりするときはね
最低限のマナーとして自説の根拠は自分で出すものですよ
それを相手にググれとは失礼というものですよ
(典拠が出なければ受けて側は根拠なしと判断するだけで)
これで最後かな
四次1.魏延等が羌中に行って費曜や郭淮を破ったのは230年とされるけど
翌年2月に出発した諸葛亮と合流するまでの間は何をしていたの
(東進して郭淮等を追ったとするなら時間がありすぎるのでは)
四次2.魏延等が東進して諸葛亮と合流したのなら郭淮が上邽に着いた直後だろうけど
そこまで有利な状況でなぜ上邽を落とせなかったのだろうか
(魏側に後将軍と雍州刺史以上の人間はいなかっただろうし
その二人が大敗して逃げ帰ってきたのによく持ちこたえたな)
四次3.会戦に勝った蜀軍が周辺地域を制したとすれば
なぜ周辺の各郡に動揺が起きなかったの
(魏軍陣地は蜀軍よりも東側にあっただろうから
東からの補給線は断たれていなかったのでは)
五次1.郿を始めとして渭水沿いの都市は北岸にあるようだけど
船も持たない大軍で南岸を進軍できるだけの道はあったの
五次2.諸葛亮が司馬懿に送りつけた女物の着物と髪飾りは
前回の戦利品ではなくて諸葛亮が用意したものだと思うけど
(挑発するつもりもなかった魏軍が用意していたとは思えない)
五次3.魏延が陳倉攻撃で手を抜いていたとするなら
なぜ諸葛亮は援軍を送るなどして督戦しなかったの
(晋書宣帝紀を信じないなら攻められて負けることもないし
兵を分けて陳倉攻撃に集中してもよかったのでは)
>>96 やれやれ
今や史書の記事の多くは反証可能性をもたない
各記事ごとに信憑性を確認するなんて誰にも不可能だよ まぁ誰もやってないだろうね
だからって反証できないことは全て信じるなんて事をやっちゃうと
作為的なものまで信じる事になってしまう
魏略や宣帝紀は反証されて黒判定うけた記事が多く、書の信憑性が疑問視されている
ウソ塗れの書に[反証不可能で好都合な独自記事]があってもそれは信用に価しない
それが常識的な考え方というものだ
誤解してるようだが、
漢晋春秋は後漢と晋を讃える書物 蜀漢を持ち上げているわけではないんだよ
習鑿歯が仕えた東晋の桓温が簒奪を考えるようになったので
それを諫める為に書かれたといわれている
簒奪を狙う桓温を諫める為に、後漢から帝位を簒奪した曹氏を傲慢であるように描き
東晋擁護の為に司馬氏を謙虚なふうに描いている
「蜀漢正統論」は蜀漢を万歳する目的で作られたのではなく、
簒奪の悪を説く『曹魏非正統論』の副作用として生まれたに過ぎない
「蜀漢正統」はただの筋目の話だ
習鑿歯は蜀を万歳していない 魏略や宣帝紀とは性質が異なる
蜀記といえば諸葛亮では郭沖五事か
あれは裴松之の否定が否定されて然るべきだろう
裴松之による郭沖五事の否定は既に論破されている
昔の人だから正しいということは全くない
1.能天気な楽天家でもない限りそうだろうね
2.曹真が北伐開始時に監督権をもって長安に居たのは明白だよ
既に夏侯楙は更迭されていたと考えるのが道理だろう
魏が油断していたことになっていないと、「油断していた」と主張する魏略にとって不都合だ
曹真が北伐開始時に都督関右であっては困るのだ
見え透いた辻褄合わせだよ
"孟達を信じた曹叡"も、そうしておいた方が油断してたっぽい
小細工を弄す動機がある と来れば信用に価しない
3.斥候を出したろうって言ってるじゃないか
偽兵も無人じゃないんだよ バレちゃ意味無いから哨戒はきっちりやるだろう
>「諸葛亮の部隊」が虚構であることは見抜かれていたのでは
そう言ってる ちゃんと読んでくれないかな
二次1.
>自説の根拠は自分で出すものですよ
出してるよ 「本にある」と
三国志に研究熱心な連中なら知っていてもおかしくないし話だし
まだ知らず興味があるのであれば自分で本を探すさ
そうでない連中はたとえ書名を聞いてもその本を探し出して確認したりはしないだろう
書名の明記に大した意味はない 書名も有るに越したことはないけどね
>それを相手にググれとは失礼というものですよ
失礼なのは君だよw
少し考えれば「曹操在撤出漢中時,把棧道樓閣燒毀,又派兵築城防守。」の文言だって
探し回った結果だと分かるだろう
俺が証明すると言ったのはこの話が世に存在していることだよ
URLを貼ることはできたが、恣意的に一つ選出するより
受け手が自分の目でいくつもあることを確認した方が、より納得いくに違いないだろう
そういう心遣いだよ
俺が何を証明すると言っているか、きちんと読んで言ってほしいね
>(典拠が出なければ受けて側は根拠なしと判断するだけで)
研究本だって逐一典拠は示してないはずだが…?
俺の読んだ本もこの話に典拠はなかった
典拠なければ根拠なしと判断するのは君の勝手だけどね
ところで君は>>49-
>>51を
>>78で
「妄想かはともかく論理的かといえばやっぱり違うだろうな」
と評してくれているが、
自分の疑問が非論理的なものだということに気付いているかい?
そろそろ気付いてもいい頃だよ
1.諸葛亮が草廬で「歓迎してくれるでしょう」と言ったのだから
三郡の寝返りは予想していたに違いない
2.最終的に魏が勝ったのだから魏略が言い訳することもないだろう
別に相手の手際を誉めるだけの度量もない訳じゃないだろう
だから魏略の記述は信用できる
3.
・斥候を出せば確実に偽兵を見抜けるに違いない
・「諸葛亮が落とせないのを知っていて城を攻めた」とさえ主張するなら
「張郃は斥候に無理をさせてまで調べさせた」と普通に考えないのはおかしい
言ってることが全然論理的じゃないだろう?
>>97 四次1.230年の曹真の蜀討伐が9月になってから終わっているので
魏延が漢中を発ったのは10月以降と見るのが妥当だろう
魏延は第四次に参加しているので2月までに漢中に戻っていなければならないが
漢中から羌中は直線で約550〜600km離れた所にあり
その区間は険しい山岳地帯なので当然直進することはできない
300〜400kmは多目に道程を数えていいだろう
帰りは少し寄り道して陽谿へ行っているので50kmプラスする
すると1750km〜2050kmの道程を4ヶ月で踏破したことになる
これは、休み無しの120日間ぶっ通しで一日あたり14.6km〜17.1kmを進む強行軍だった
という計算になる
あまり現実的でないのは言うまでもなく
大戦を控えながらそこまでのハードスケジュールを組んでまで何の為に羌中へ行ったのか疑問であるし、
また、帰ってくる必要があったのかという疑問もある
理解不能な行動だ
がしかし第四次と繋げると、
>>97が言うように時間が1〜2ヵ月空いている
俺も考察の初めの段階で噛み合わない事に気付いた
考察の結果、俺は陽谿の戦いは231年春だったと考えるに到った
ヒントは明帝紀注魏書
「初,亮出,議者以為亮軍無輜重,糧必不繼,不擊自破,無為勞兵」これね
第四次北伐軍は無輜重ではなかった
こんな一文は捏造しても何の得もない
曲筆する動機がないのでこれは信用に価する
これに該当しうる蜀軍の行動といえば魏延の羌中行しかない
魏書は魏延の羌中行と第四次北伐を一連と考えていたということだろう
各伝の「230年、魏延羌中に入り、費瑤・郭淮を陽谿で大いに破る」と同内容の記述は
230年に魏延が羌中に入ったことを伝え、その続きとして郭淮らを陽谿で破ったことを伝えている
そう考えれば全てがしっくり来る
無理な強行軍にならないし、時間も空きすぎない
これでよいはずだ ただし、後主伝を除けばね
後主伝は「(230年)是歳,魏延破魏雍州剌史於陽溪。」とし、
羌中入りに触れず陽谿の戦いのみを伝える
この書き方を見れば、陳寿はこの件に余り詳しくないと推測できる
陳寿は残された資料で
「230年、魏延羌中に入り、費瑤・郭淮を陽谿で大いに破る」
という内容の記述を見ただけなのだろう
そして"詳しく"書ける魏延伝にはそのまま伝えた
が、一国の流れを伝える後主伝には"詳しく"書くことができない
そこで出来事を縮約して大事な部分だけを手短に伝えた
「230年、魏延羌中に入り、費瑤・郭淮を陽谿で大いに破る」
この出来事で価値が重いのは、羌中に入った事ではなく
郭淮を大いに破った事だ
そこであのような記述になったと推測する
おそらくこれで合ってる
四次2.魏延軍は無輜重で羌中へ向かった
ということはそれ程大軍ではなかったということ
数万規模の軍勢で現地徴発に頼りながら人口の少ない地を長駆するのは多分無理
多くて8千 およそ5千〜7千くらいの規模だったんじゃないかと考える
上邽には4千居たとされる 守られたら落とせないだろうね
四次3.>会戦に勝った蜀軍が周辺地域を制したとすれば
周辺に司馬懿軍以外に蜀軍と戦えるようなまともな軍は存在しない
司馬懿軍が手足を引っ込め陣に籠もったのなら、
その瞬間から戦場としての周辺は蜀軍が制したことになる
>魏軍陣地は蜀軍よりも東側にあっただろうから
>東からの補給線は断たれていなかったのでは
関ではないのだからそんなに甘くない
>なぜ周辺の各郡に動揺が起きなかったの
確かなことは言えんけど、動揺したんじゃないかな
ただし、その動揺が寝返りという意味なら、なくてもおかしくない
第一次で、活性な不穏分子は滅ぼされている
まだ隴右に不穏分子が残っていたとしても先人の轍は踏むまいと慎重に構えただろう
五次1.守るべきは長安
船なんか用意してなくったって東へ進めるはずだよ
第一、渭水の支流も渡れないのに、どうやって渭水を北へ渡るって?
言ってることが論理破綻してないかい?
五次2.俺もそのつもりでいるけど?
ちゃんと読もう
五次3.
>(晋書宣帝紀を信じないなら攻められて負けることもないし
論理が成立していない
「さらに充分な兵を陳倉の為に割いても負けることはない」とどうしてなる?
言葉というか観念だね
>>107 両方戦利品のつもりかと思ってた
それは失礼しました
魏略の油断していたというのは言い訳ではなく本当だろう
劉備死後は蜀は大規模な軍事行動を起こしてないわけだし
それが行動起こすのだからね
魏の中枢部からすれば西はかなり僻地だしな。
蜀が多少領土をとっても、直接迎撃した郭准伝に記載があるぐらいで魏全体はあまり動揺した形跡が無いし。
いちいち中央から蜀が出てくるたびに援軍出すのは浪費だってことで長安周辺の運河整備や屯田を開始したのは、孔明北伐が本格化した後。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 19:21:19
まぁ曹操が官渡でやったぐらいの勝利を挙げて相手を政治的にも瓦解させるぐらいのショックが無いと、蜀勝てないよね。
>>111 数万の大軍を引き連れた皇帝親征があった時点で魏があまり動揺してないってのは間違いでは?
>>115 それは第一次でしょ。
蜀が多少でも領土を奪えたのは第三次以降。その話だろう。
>>1 マジレスすると、北伐が成功していた可能性は0。
少し考えれば誰でも分かる事。
第一次で、敵より数が多くても勝てないと嘆いて少数精鋭を指向したら、
その精鋭数万がわずか一千の魏軍を責めあぐねて食い物なくて撤退。
この辺りをみるとコント臭さすら……。
>>118 第四次で会戦したら勝てると気付いた時にはすでに遅く,
相手に防御を固めて長期戦に持ち込まれたら何もできなかったと。
>>116 第一次でも序盤で少々領土獲得してんだよ
各地の太守が降伏したりしてな
その後馬謖ショックで一気に取り戻されるけど
>>118 つまり諸葛亮には芸人の才能があったんだよ!
僅か一千という考え方が恣意的に過ぎると思う。
第二次の話なら諸説あるけど、(第三次の陽動だとか)
陳倉は(再整備が必要だったとはいえ)近しい時代である後漢末期にも活躍した堅城であることを考えれば、
抜けないことでコント呼ばわりをするほどではあるまい。
ゲームじゃないんだし、これで、カク昭>諸葛亮みたいな図式を作るのは馬鹿馬鹿しい。
これを軸にした諸葛亮無能論は、数年前にとっくに通り過ぎたものだしね。
第三次の陽動だとすれば、色々と腑に落ちる点は多い。
陳倉を取れたとしても、その後の魏の増援と戦わなければならないのに、
なぜ欠乏する程度の量しか食料を持っていかなかったのか、がすっきりする。
兵站の問題が本番で表面化した、と解釈できなくもないけど。
正史にははっきりと陽動でもなんでもなく、攻めあぐねて食糧尽きて退却した、と書いてあるのに?
無能論とやらが嫌いなようだが、だからって史書無視の贔屓の引き倒しもアレだろw
贔屓だのなんだのは全部蜀豊かスレで頼む
スレを変えて主張しても説得力ないものはない。
陽動ならわざわざ守将と同郷の奴を探し出して説得させたり、味方に損害が出る無理攻めをさせる理由は薄いし。
明帝紀集解でも諸葛亮は陳倉の防備は粗悪だと思いこんでおり、また守将がカク昭だと知って驚いたとあるしな。
>>123 第三次の陽動だとするなら,主目的は武都、陰平の奪取になるから,
本当なら陳倉よりも西にいる魏軍をおびき寄せないといけないのだが,
東から援軍が来るようじゃむしろ薮蛇になるのでは?
諸葛亮の攻勢が失敗したことはともかく、成功しても食料なさすぎて陳倉確保できねえ、となるから、
そこに整合性を求めたんだわ。
だから、兵站の問題が本番で表面化した、でも俺はいい。
その場合は諸葛亮の見通しの不足で簡単に説明がつく。分かりやすい。
ただ、期間の問題から、二次三次が連動していると考えるのは無理がないと思うけど。
カク昭が窮地に陥っているのに、郭淮なにやってんのって話になる。
諸葛亮の行動は第三次の為の陽動だと考えたが、兵站の問題が本番で露呈しただけだと考えれば、
むしろ陳式が本来諸葛亮の為の陽動だった、と考える方が自然かもしれん。
>>128の言う事もあるし、無理に整合性を考えるよりは、この方が納得がいく。
ただ、諸葛亮無能論に関しては肯んじがたいものがあるな。
普通に考えれば司令官として十分な能力があるといっていいのに、無能と断定するには恣意的に過ぎるよ。
かといって将帥として天才的とも思わないが。一時期の曹操信者じゃあるまいし。
>>130 まあ国力が劣る中であれだけやれたのだから無能じゃないだろうけど,
諸葛亮に関しては変な持ち上げ方が多いから,反動が来るのは仕方がない。
たとえば議題になってる第二次北伐が第三次の陽動だとする説についても,
提唱者の渡邉義浩氏は実は何の考察も引用もしないで陽動だと断定し,
第二次は失敗ではなかったかのように書いてたりする。
(『三国政権の構造と「名士」』179-180p,元は1989年の論文。)
渡邉氏は従来の説を覆す諸葛亮関係の文言が多いから
三戦の諸葛亮好きには嫌われてるっぽいが、かなりの諸葛亮贔屓だよな。
劉備は司馬徽グループの若きエースだった諸葛亮を迎えるために三顧「させられた」のだ、とか。
>>130 >兵站の問題が本番で表面化した
無能以下の問題だな
渡邉は諸葛亮贔屓の時点で信用できない
考察するなら贔屓しては駄目だ
というか諸葛亮好きなら諸葛亮贔屓の渡邉は好きなんじゃないの?
よく渡邉渡邉言ってるし
諸葛亮好きって渡邉っぽいのが多いと思う
気持ち悪さが似てる
>>130 ただ張コウの指摘によると諸葛亮は「縣軍無穀」であり、陳倉を確保しても維持できないとのことなので
兵站線が繋がってなかったというよりは諸葛亮の軍は輜重を切り離して
ハナから強行軍のような形で陳倉を攻めているっぽい
魏ではそれを知っているから、郭淮はカク昭をある程度放置プレイ粘らせて
張コウの援軍で陳倉を助けて貰うこととして自身は陳式に当たろうとしたんだろうけど
曹真伝によると諸葛亮の撤退は1月入ってからなのにも関わらず建威には3月中には到達してて
郭淮は撤退に追い込まれてる
たった2ヶ月で陳倉、漢中、建威を走り抜けるには輜重引いてたら難しいだろうし
陳倉攻めはハナから張コウ率いる軍勢を陳倉に釘付けにして
武都、陰平への援軍を出させない孔明の罠だろうと思う
>兵站の問題が本番で露呈しただけだと
第一次北伐も実は第二次北伐とそんな変わらん期間
第一次は馬謖敗戦によって撤退したものの兵糧の問題が出てないことを考えると
なおさらに第二次で何故諸葛亮が兵糧持たないままに突っ走ってるのは陳倉が囮と言えると思うよ
>>135 その張コウは関中諸軍を率いて荊州に駐屯して呉攻めの後詰に当たっていたのが、
急遽呼び戻されて洛陽南北軍を加えて三万の大軍で来援に来ている。
なのに陳式が武都攻撃に出るのが翌年では遅すぎる。
張コウがそのまま粘って二郡奪還に出たら最悪の薮蛇だ。
結果的に武都・陰平の防御に郭淮しか動かなかったのは、
それだけ魏にとって重要度が低い場所だということになるが、
それではつまり陳倉攻撃は無駄な陽動だということになる。
二次北伐が陳倉確保するような大規模な計画に基づくものではないというのには
賛同するとして、それが陽動だとしたら、「張コウを荊州から引き剥がすこと」が
目的と推定できるだろう。少なくとも結果から見るに、そちらは成功している。
単純に、関中戦力が手薄の間に防御設備の破壊、でもいいと思うけど。
(それだと失敗になるが)
「縣軍無穀」というのは、秦嶺山脈を越えて兵站を繋ぎ続けるだけの輜重の準備が
この時はまだ出来ていなかったということだろう。
五次北伐の屯田を見るに、この時代の技術的にそもそも不可能なことだったのかもしれないが。
続き。
郭淮が諸葛亮の陳倉攻めに対応したにしてもしないにしても、
諸葛亮が陳倉から戻って建威に出直すのが間に合うような遅さで陳式と郭淮が動いている時点で、
陽動は成立していないと言える。
そもそも当時の郭淮は将軍位を持たない刺史で、諸郡兵を統監するだけの立場だったと考えられる。
兵力は雍州各郡に散らばっているし、集めても諸葛亮の本隊が出張ってくれば初めから太刀打ちできない戦力でしかなかっただろう。
実際、諸葛亮が迫ったのを知って二郡奪回を諦めている。
二郡攻略は初めから陽動の必要が無い作戦だった。わざわざ魏の中軍を刺激する必要はない。
郭淮の反応が微妙なのは諸葛亮が物凄い速度で陳倉からダッシュして建威まで駆け抜けたという事かもしれない
張コウ伝によると陳倉攻めは急攻だったそうで、曹叡は結構バタ付いた動きで張コウを呼び寄せ自分も河南まで出ている
あと郭淮って建威将軍になってなかったっけ?
俺はてっきり街亭の記述の直後に色々あって建威将軍になったって書いてあるから
もう陳倉攻めの頃は建威将軍になってたもんだとばかり
>>139 郭淮が建威将軍になったのは第一次北伐の時、
諸葛亮の岐山進出を阻んだ功績だね。
陳倉攻めの頃は既に建威将軍だったよ。
>郭淮の反応が微妙なのは諸葛亮が物凄い速度で陳倉からダッシュして建威まで駆け抜けたという事かもしれない
かもしれないと言われてもどうしようもない。
そんなダッシュして秦嶺の南側から威圧を掛ける時点で、秦嶺の北へ進出したことが陽動になってないということは変わらないし。
建威将軍は自分も見落としていたが、これは隴西の羌族を破ったあとのことなので、
二次北伐の時点で郭淮が将軍に任じられていたとは断定できないだろう。任じられていないともいえないが。
諸葛亮の圧迫を受けて郭淮が二郡奪還を諦めたことには、これも変わらないだろうし。
>>137-138,
>>139 行軍の早い騎兵とはいえ王双は蜀軍に追いついたのだから,
魏の援軍は少なくとも陳倉の近くまで来ていたはずだけど,
その援軍が第三次に参加した形跡はない。
この時点の郭淮が使者も出せないほど孤立していた訳でもないから,
諸葛亮が陳倉から撤退した時点では二郡はまだ攻められていなかっただろう。
だから陳倉まで来た援軍が東に帰った後で第三次が行われたのだと思う。
陳倉からの撤退が1月で二郡攻略が3月なら時間的にも問題はないし。
>>142 そういう考え方をするなら、やはり陳倉は見事な陽動だったってことだねぇ
諸葛亮に釣られて陳倉まで援軍に来たけど諸葛亮は帰ったから援軍も引き上げたら
二郡攻略されてたでござるってな具合に
それが無駄無意味じゃないかって話の流れだけど。
先に武都攻略しておけば、魏軍は帰る必要もなく
南北軍は洛陽に、張コウは関中軍を率いて荊州にいたんだから。
陳倉を攻撃して諸軍を集結させて警戒水位を上げて、
それが収まる(帰還する)のを待ってから二郡攻略に移ることに
どんな意味がある?
ただ二郡だけ攻めたら魏はそっちまで足を伸ばすけど
先に陳倉を攻めておいて目標がそこにあると見せておけば
警戒はされても魏としては陳倉を保持するために援軍を長駆させて二郡に向かわせにくくなるんじゃない?
>>117 すこし考えるというか、考えが極浅だと、そう思う傾向にあるらしい
>>118 コメディーだからなぁ それ
後出師表が偽物と疑われているのは知ってるよね?
偽物であればそれを作った人間が諸葛亮の他にいるということだよね
当然その人物は何らかの目的をもって後出師表を捏造したはずなんだ
後出師表の作者は呉の人間で、
魏晋の国力の前に圧倒的不利にある呉を奮い立たせる為に
小国で果敢に魏に挑んだ諸葛亮の逸話を捏造して引いた
と考えられている
つまりその人物は、「呉よ、奮い立て! やれば出来る!」と英雄諸葛亮に代弁させたというわけ
祁山(街亭)・箕谷は魏軍の方が多かった
これは状況を考えれば明らかだ
漢晋春秋の諸葛亮の言葉は明らかにおかしい
実はこのくだりは後出師表の導入部
《漢晋春秋》
「大軍の祁山・箕谷に在りしとき〜」なんたらかんたら
〜謹んでその事を述べれば左の如し。
→『高帝 明かなること日月に並び〜、〜、趙雲〜、
〜臣の明かに能く逆にする所に非らざるなり。』(後出師表)
後出師表が偽物なら、導入部もまた偽物
つまり「第一次で、敵より数が多くても勝てないと嘆いて少数精鋭を指向した」という話はウソ
「数万がわずか一千の魏軍を責めあぐねて」
魏略だから一千というのはウソ
全然関わりのない別々な場所で、違う目的のために吐かれた2つのウソが
こうして真面目に組み合わされて笑い話になるなんてコメディーそのものだよ
>>145 陳倉は援軍なしで攻められても落ちなかったのだから,
援軍から一部を補充して残りが西に向かえばいいだろう。
>>147 偽作なら間違いなく呉人の手によるものだけど,
>魏晋の国力の前に圧倒的不利にある呉を奮い立たせる為に
>小国で果敢に魏に挑んだ諸葛亮の逸話を捏造して引いた
>と考えられている
「考えられている」って誰の説だよ?
魏に勝って調子に乗った諸葛恪が北伐を決行するために偽作したとか,
諸葛亮を擁護するためだったとかいう話は聞いたことはあるけど。
それに導入部は第一次が終わった後の話だから,
半年以上先の後出師表の真偽とは必ずしも連動しない。
(「民忘其敗矣」なんてのが嘘か大げさなのは確かだろうが。)
>>148 1ヶ月弱をなんとか耐えただけだし、本格的な攻めを少数で耐えられたかどうかは別でしょ
>>149 いやだから,実際に来た援軍の一部を割いて補えばいいだけの話でしょ。
蜀の再攻を気にするなら散関まで兵を出して故道を封鎖してもいいし。
少なくとも西で攻められているのを放置する意味はないでしょ。
そもそも敵の援軍が来た後に本格的に攻めて何の意味があるの?
だったら最初から全力で攻めて陳倉を奪った方がいいだろう。
(諸葛亮が食料を軽視してまで作戦を急いだのは,
魏軍が東に向かって手薄だったからではないのか?)
>>148 >誰の説だよ?
さぁ誰の説だろうね
>諸葛恪が北伐を決行するために偽作した
>諸葛亮を擁護するためだった
誰の説だよ?
俺は呉人説が正しいと思うね
>それに導入部は第一次が終わった後の話だから,
>半年以上先の後出師表の真偽とは必ずしも連動しない。
だ、か、ら、あのくだりは全部、呉を奮い立たせる為の作り話なんだよ
『少数精鋭で行こう』→呉も少数精鋭で行けばいいんじゃん
『危険を冒すのも先帝の為だ』→呉も孫権を思って頑張ろう
第二次北伐と第三次北伐の関連については、
『三国政権の構造と「名士」』が出版された当初は、
ネット上の三国志ファンの間で言及された事は無かった。
少なくとも俺の知る限りにおいてはね。
この事が言及されるようになったのは、論文とほぼ同じ文章が載った
『「三国志」軍師34選』の出版された2008年頃からだったと思う。
それを読んだ直後に書いた俺のblogの記事が
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/41491970.html これ。
俺と同様に、『「三国志」軍師34選』を受けて満田剛さんなんかもこの事に言及している。
んで、俺も両戦役を全く関係ないものとするのは地理や時間を考慮すると無理があると思う。
blogの記事を書いた時、閏月の関係で魏蜀の暦にずれがあったのではないかとも疑ったが、
結局、この年の月日については魏蜀ともに同じだったので、その線はなかったしね。
ただ、陳倉攻めを二郡攻略の陽動とし、そもそも勝つ気も食料を持っていく気もなかった、とするのは反対だね。
単なる陽動に数万の兵と無数の攻城兵器を使うのは余りにも不自然だろう。
「魏略がでたらめを書いているだけだ」とすれば簡単だし、
魏略の成立を考えるとある程度の誇張も推測し得るとは思うが、
費曜らに加えて張郃ら三万以上を援軍に派遣している魏の対応を考慮すると、
少なくとも魏は諸葛亮の軍を大軍と認識していたのだろう。
個人的には、この両戦役はどちらも主攻であり助攻であり、主作戦であり支作戦だったと考えた方が良いように思う。
>>151 諸葛恪については馬植傑氏の「三国史」,
諸葛亮擁護については「三国志集解」収録の袁牧の説がある。
結局「考えられている」といいながら根拠は示せないんだな。
異民族が跋扈して難地の二郡を奪った程度じゃ数万の大軍を動かしわずか一千に撃退されたダメージに比べて引き合うか微妙だしな。
第二次の敗北を糊塗するためにムキになったのが実情だろう。
魏側の記録だとこの戦いはろくに重視されておらず、回復する動きもない。
南方でやったように西の異民族を支配して物資や兵を差し出させる狙いがあったから、
魏からすればたいしたことない土地を奪って大喜びしたのかもしれない。
姜維時代にはそうした形跡があるし。
>>152 実際私もあなたのその記事でこの説を知ったんだけどねw
(渡邉氏の本は前から持っていたけどなぁ…ちゃんと読んでいないことは自省しないと。)
で
>>142で触れたとおり,魏の援軍は実際に陳倉近くまでは来ているはずだし,
一度撤退した諸葛亮が再び出てきた第三次に魏の援軍が動いてないのも間違いない。
だから第二次と第三次は,時間的に「それなりに離れていた」と言っていいだろう。
(少なくとも陳倉近くまで来た魏軍が帰ってしまうだけの時間は離れていたはずだ。)
仮にあなたの主張のとおり郭淮が陳倉包囲の時点で二郡進攻を察知していたのなら,
陳倉にいた諸葛亮が一度撤退して再び建威まで出てくるまでの間で,
郭淮と陳式が戦っていないのは時間的に不自然だし,
(これは魏略にある20日以上の攻防戦が誇張だとすればまだ説明はつくけど。)
郭淮には危急を知らせるだけの時間も手段もあったのだから,
近くまで来ていたはずの魏の援軍が何もしていないのは明らかにおかしい。
だから
>>142で触れたとおり,第三次は第二次が「終わった」後で行われたと思う。
正直第三次なんて攻略本体と牽制部隊さえあれば成り立つのだから,
敵軍の状況さえ見誤らなければ,立案も実行も比較的簡単にできるだろう。
(個人的には第二次失敗後すぐに第三次を決行できた諸葛亮は凄いと思うけど。)
>>126 >わざわざ守将と同郷の奴を探し出して
資料で確認してみ
「わざわざ探し出して」なんて何処にも書かれてない
君の認識はかなりバイアスが掛かっている
降伏を勧告したのは
万一それで陳倉が手には入ったら万々歳
武都どころじゃないからね だからだよ
>味方に損害が出る無理攻めをさせる理由は薄いし。
なかなか良いトコ突いてる
これは魏略の誇張が入っているとは言え、攻城したのは事実だろうね
武都・陰平の陽動としては攻城は不要
だから二次は単なる三次の陽動ではなかったと考えられる
二次はもっと大きな視点からの作戦だった
>>127 集解のネタ元は魏略で、あの裴松之でさえも採用しなかった話
>>128 陽動の主目的は他にあるのだが、それはおいといて
陳倉から西の魏軍も陳倉に引き付けられた
東から大部隊が来るのは分かり切っている事
>>130 >カク昭が窮地に陥っているのに、郭淮なにやってんのって話になる。
陳倉の救援に行っていたはずだよ
>むしろ陳式が本来諸葛亮の為の陽動だった、と考える方が自然かもしれん。
それはない
陳式が動いたのは年が明けてから
>ただ、諸葛亮無能論に関しては肯んじがたいものがあるな。
諸葛亮が2度の機会で2度魏の防衛拠点である祁山を抜いていることが全く無視されている
敵の防衛力を無効化するなんて普通出来る事じゃない
高く評価されて然るべきなんだよね
俺は諸葛亮を将帥としても天才だと思うよ
>>132 >諸葛亮を迎えるために三顧「させられた」のだ
それはおかしいよね
無理に魏略なんかの話をねじ込もうとするからそういう解釈になるんだよな
横レス
第二次・第三次の要点
第二次
●諸葛亮は補給のない軍で陳倉へ向かった(ある程度の物資は持って行った)
●諸葛亮は年内に撤退を開始
●年内に王双を斬る
●魏にとって第2次が終わったのは勝利宣言した翌年春(曹真伝)
第三次
●陳式が動いたのは年が替わってから
●諸葛亮は一端漢中に帰還している
●陳式が動いて、郭淮が動き、それから諸葛亮が動いた
●陳式と郭淮は交戦していない
●諸葛亮が建威に至って郭淮が退いた
●諸葛亮と郭淮も交戦していない
●春の内に二郡平定
以上の点から3つの疑問点が現れる
@ 諸葛亮が陳倉にいる時、郭淮は何処にいたか
A 陳式が動き出した時、郭淮は何処にいたか
A 諸葛亮が建威に至った時、郭淮は何処にいたか
西の諸郡からも魏軍が集結して来たとして。
東からの援軍が帰還した後のようなタイミングで武都を攻めたということは、
西からの援軍も帰還しているタイミングになるので、やはり陽動としてはお粗末。
二次が三次の陽動だとすれば、ね。
162の答え
@ 郭淮は陳倉の救援へ向かい、近くに居たはず
理由:当然そうすべきだから
A 冀城周辺に居なかったはず
理由:冀城・上邽に居たのなら、武都に辿り着き、陳式と交戦している
仮にギリギリ届いてなかったとしても、諸葛亮が建威に至る前に撤退している
B 建威より北にいたはず
理由:武都と建威は近く、その間に郭淮が居たのであれば必ず追撃を受けている
整理すると
○ 郭淮は陳倉の救援へ向かった
○ 第3次が開始されたとき、郭淮は冀城に居なかった
○ 郭淮の行軍は建威にも届かなかった
となる
この事から、
第三次は第二次直後、郭淮が陳倉から冀城に戻る前に開始されたと分かる
>>160 一次では防備が疎かだったことも大きく、祁山は落ちたが、
四次では落ちてない。だから魏にとっては「祁山救援」が戦役の戦略目標として随所で語られている。
>>163 張郃は初めから荊州に行っていなくても武都には来ない
どうせ間に合わないから
実際のところ張郃は洛陽に戻りかけたか
陳倉に留まって周辺の動揺を鎮めていたか
分からないが、陳倉より西へは来ない
諸葛亮がコースを変えて陳倉方面に来る可能性もあるからね
やってきてるっていうか、46が根拠無く主張して反論されたけど都合悪いので無視したこと。
>>165 >一次では防備が疎かだったことも大きく、祁山は落ちたが、
疎かだったと言っているのは魏略
実際の行動と矛盾する(
>>87)から、ただの言い訳であることははっきりしている
断定出来ないが、祁山は多分落ちてない
落とせていたら祁山は棄ててないよ
>四次では落ちてない。
落としたとは言ってない 無力化して抜いたと言っている
>だから魏にとっては「祁山救援」が戦役の戦略目標として随所で語られている。
祁山は文帝の頃から既に防衛拠点だった
防衛拠点を守るのが戦役の目標なのは当然
>46が根拠無く主張して反論されたけど都合悪いので無視したこと。
ちゃんとこれまで語られてきた事だよ?
>>161 あなたに理解できる話ではないと思うけど,
渡邉氏は劉備と諸葛亮(襄陽グループ)の駆け引きの結果,
三顧の礼をさせられたと主張しているのであって,
魏略の記事なんて話の中身には何も関係ない。
>>169 またそうやって造語遊びに逃げる。
「抜」は落とせていない城に対しては使わない。
また、進路上にある少数堅固な城を包囲して迂回前進するのは、やるだけなら簡単だ。
それは「無力化して抜いた」とは言わない。包囲戦力を拘束し、後方連絡を阻害し続けるのだから、
その存在は戦略的効力を維持し続ける。
また、一次で、関中や隴西は諸葛亮が攻めて来たときに恐慌に陥ったのではない。
「出たと聞いて」そうなったのだ。
諸葛亮が前年から既に漢中に「出て」きたのは知っていた。
しかし、魏の西方にはなんの防備もなかったから。
武都郡辺りは、漢中争奪戦時には馬超・張飛らといった最高幹部が投入されたが(曹洪らに撃破されたけど)、
その後は第三次北伐までまったく見向きもされてないんだよな。
魏側からすれば漢中が落ちて側面が無防備になった土地だから、防備を順次引き上げたとも考えられるけど。
蜀側もさして重視してなかった土地を第二次の敗北後奪って、王双という無名の相手を討ったことと合わせて政治的に大宣伝しているところを見ると、
敗北糊塗の善後策だったんだろうな。孔明もその後ここを別段利用してないし。
この地が重視されなおすのは、姜維が防備の厳しい秦嶺を避けて、涼州からの迂回攻撃を戦略の機軸にした後。
>>172 諸葛亮の四次北伐と姜維の北伐のほぼ全期間に掛けて、二郡は橋頭堡になり続けた。
魏の最後の攻撃を前にして姜維が漢中を留守にして防御し続けた場所もここ。
ケ艾と諸葛緒に突破されて敗北する要因となった道もここ。
>>170 どういう主張か知ってるよ
君に理解できる話ではないと思うけど
諸葛亮から劉備の方に近づいたとする魏略を肯定的に受け取っての発想だよ
魏略ありきなのさ
史料を味噌も糞も何でも加味したあげく整合性を取ろうとするからおかしな話になる
氏は「名士グループ」が好きでね、なんでもこれで説明づけようとする
「襄陽グループとの駆け引きの結果、三顧の礼をさせられた」というのは氏の妄想だ
この件で議論してもいいけど、するかい?
橋頭堡というか、援軍の到達が遅れる手薄な隴西にちょっかい出してただけだしな。
魏の最後の攻撃を前にってのも、その直前に攻勢に出たもののケ艾に破れ、
進む事も退く事もできずに沓中に留まってただけ。
諸葛緒が祁山から武都方面へ進出したのも、ケ艾に追われて沓中から逃げてくる姜維の退路を断つため。
蜀討伐の主力は鍾会に率いられ(姜維の頭の中では万全な筈の)漢中を抜けてやって来た。
>>171 いやいや、造語遊びをしてるのはそっちだよ
「抜城」なんて言葉はない
>また、進路上にある少数堅固な城を包囲して迂回前進するのは、やるだけなら簡単だ。
あー、地理知らないんだな?
幅約1500mの細長い盆地の中に祁山城は在る
その脇を無事通り抜けるなんて通常不可能だ
通り抜けるだけならまだしも、補給線も退路も確保しなければならない
祁山は迂回も前進も出来ない場所なんだ
それに祁山は「少数」ではないんだよ 通常ならね
少数なままの状況を諸葛亮が上手く作り出しただけであってね
>また、一次で、関中や隴西は〜
言ってる意味がよく分からない
もっと分かり易く頼む
>幅約1500mの細長い盆地の中に祁山城は在る
>その脇を無事通り抜けるなんて通常不可能だ
>通り抜けるだけならまだしも、補給線も退路も確保しなければならない
>祁山は迂回も前進も出来ない場所なんだ
まったく同じことを言っているはずだが。
そんな苦労をしなければならない地点を迂回している労力を無視して、
「無力化」と言う能天気に異議を唱えただけだよ。
落とさない限り祁山は隴西という磐上に「地」を効かせ続ける。
祁山は合肥などより遥かに駐屯が難しい場所。
関中都督や涼雍都督の援軍が間に合うような速度で諸葛亮が行軍しない限り、
祁山は少数での篭城を強いられる場所にある。
勿論、天水まで大軍を運んで行ける諸葛亮の統率力はずば抜けたもので、
それが蜀の北伐の基幹だが、それはまた別の話だ。
>「抜城」なんて言葉はない
あるよ? 新体字で検索しちゃった?
「城」をどこかの固有名詞で置き換えれば無数に出てくるよ。
現代日本語の「抜く」だって、ただ「通過する」みたいな意味は無いよ?
>もっと分かり易く頼む
諸葛亮の北伐への魏の対処は前年から始まっていた。
「蜀の大軍が漢中に来て、攻めて来るらしい」と知れ渡っての恐慌だってことだよ。
曹丕以来、魏は雍州の軍備を大幅に縮小し、関中都督しかいない状態だったのだから、
今更数万の大軍相手に持ち堪えるような準備をしようにも不可能だ、という恐慌であって、
諸葛亮が祁山に現れて初めて驚いた、なんてのではないよ。
>>156 そうなのかい?
まぁ、俺もこの話が広まった背景に、
俺のblogの影響もある程度あるのではないかとは思ってたが。
本題だけど、これに関しては、1月に撤退を開始して漢中に帰還した諸葛亮が、
改めて陳式を派遣し、それに反応した郭淮の動きを見つつ建威に出て、
且つ二郡の攻略を完了する、という行動を、遅くとも3月末までにできるか、というのが問題。
現在の道路で考えれば、勉県より略陽県、徽県を経て宝鶏市に至る行程は約330kmとなる。
1日15kmの行軍でも休み無しで20日は掛かる。
ましてや高低差のある山道で、しかも大軍なのだから、1ヶ月以上掛かった可能性も大きい。
攻城兵器を放棄せずに帰還したとしたら、更に時間が掛かったろう。
そして、勉県から建威、すなわち今の西和県の辺りに出る道も300km弱ある。
行軍だけで最低2ヶ月程度は見積もるべき距離を踏破しなければ、作戦は完了しない。
撤退も前進も理想的な状態で進み、且つ準備に割く時間を殆ど見積もらないという事で無ければ、
時間的な整合性をとるのは困難だろう。
魏の援軍で陳倉近傍まで到達し得たのは恐らく費曜のみなので、
陳式の陰平侵入を知っても対処できたかは怪しい。
張郃が洛陽より陳倉に向けて進んだとしたら500km以上の距離があり、
昼夜兼行の1日50kmの強行軍を10日間続けてやっと到達し得る。
そんな馬鹿げた行軍は不可能だろうし、できたとしてもその時に軍は使い物にならない。
隴西に駐屯するだけで当時の魏軍は食料が不足してしまうくらいなのに、
準備もなしに、大軍でそこから更に武都や陰平まで行けるかというそもそもの問題もあるしね。
スレ違いはお詫びしつつ。
>>174 やっぱり分かっていないじゃないか。
渡邉氏は劉備が諸葛亮に三顧の礼をしたことを全く疑っていないし,
諸葛亮から訪問したとする魏略の説を信じている形跡も全くない。
ただ自説の「名士グループの力」や「三顧の礼が過剰であること」を裏付けるために,
背景事情として使っているだけだ。
だいたい「蜀中毒」の氏が魏略ありきな訳がないだろう。
>>173 後主伝なんかだと、第四次はむしろ第一次に沿ったルートに戻っているわけだが。
姜維の場合は政争絡みで引いた地で、
しかも魏軍の主力はやはり正攻法の漢中ルート。
結果としてそっちから攻め込んだ軍が勝因になった、といってもそれまで重視されていなかった状況が変わるわけじゃない。
そんなに要地なら第一次でも奪って維持しようとているよ。
魏だって奪われてもほとんど相手にしてないし。
>>178 第二次北伐を229年の事とするのは曹真伝しかないし,
他に時期の記載がある明帝紀、後主伝、諸葛亮伝、華陽國志は全て228年の事とする。
だから本当なら撤退時期を229年1月と断定することもできない。
(個人的には陳倉が包囲されたのが228年で,撤退したのは229年だと思うけど。)
それに,同じ理屈で言えば,第三次で229年春の事とされるのは陳式の2郡進攻だから,
その後の郭淮や諸葛亮の行軍、2郡攻略の完了は4月以降でもいいことになる。
(でなきゃ,第二次が228年中に終わったことも認めなきゃいけない。
曹真伝が正しくて,諸葛亮伝その他が間違っていることを証明しない限り。)
そこまで時間が開いてしまえば,別作戦でも何の問題もない。
もちろん,一体の作戦だとしても問題はないけど。
ただ両作戦を一体のものと考える場合,
「陳倉で陣頭指揮を執っていた諸葛亮が建威まで牽制に出てきた。」
ことを説明しなければならない。
だって,陳倉攻撃と2郡攻撃が両方主目的であるのなら,
両作戦が同時に行われることは当然想定しなきゃいけないから,
陳倉にいる諸葛亮が2郡方面に出てくるなんてこと予定していたはずがない。
やっぱり別の作戦だったと思う。
>>177 >そんな苦労をしなければならない地点を迂回している労力を無視して、
迂回してないんだよ 包囲して脇を通り抜けた
>関中都督や涼雍都督の援軍が間に合うような速度で諸葛亮が行軍しない限り、
>祁山は少数での篭城を強いられる場所にある。
間に合うように出来ている いや、出来ていたはずだ
>あるよ?
城は落とす物で抜く物じゃない
「抜く」には「先へ進む」というニュアンスが含まれる
普通、敵の城より先へ進むときは城を攻撃して落城せしめる
だから「城を抜く」という表現は多分に城を落としている事を含意するが
城を抜く=落城ではない
城が抜かれるとき、その城は大抵落ちているというだけで
城が落ちることが抜かれる事ではない
「抜く」とは「すり抜ける」「通り抜ける」など、前進と通過点の存在とを示す言葉だよ
>>もっと分かり易く頼む
それ魏略
>>179 やっぱり理解できなかったな
魏略が引き金になっているのは明白だ
試しに本人に訊いてみ
>「三顧の礼が過剰であること」
氏の主観だろ
俺は同意しない
自社を大企業にすることを本気で夢見る、
昔中堅だったが今は倒産の危機に瀕している零細企業の田舎社長が
ハーバード卒の天才経営学博士が近くに住んでいると聞けば
訪ねていっても不思議はない 年齢も関係ない
諸葛亮に劉備を助ける義理はない
劉備が本気で悲惨な現状を何とかしたいと思ったら、礼を尽くして会いに行くのは当然だ
>迂回してないんだよ 包囲して脇を通り抜けた
>通り抜けるだけならまだしも、補給線も退路も確保しなければならない
これは諸葛亮の足を大きく引っ張る障害だ。
魏軍にとっては、一隊を祁山に差し向ければ解囲を迫ることができ、諸葛亮はこれに対処せねばならない。
これが、一次と四次の大きく異なるところだ。陥落したかしないかにはそれだけの差がある。
それをなぜ一緒くたに「無力化」といえるのかって話しだけど?
>間に合うように出来ている いや、出来ていたはずだ
四次の時点ではね。だから落ちなかった。一次では落ちた。
>「抜く」には「先へ進む」というニュアンスが含まれる 以下略
現代の交通社会で「追い抜く」と「追い越す」を混同している人がなんとなく思ってるだけ。
辞書引いてみなさい。
こことかお勧め。
ttp://www.nlcsearch.moe.gov.tw/EDMS/admin/dict3/
>それ魏略
魏略の逸話が諸史料と矛盾していないという話をしたんだよ。
>>184 >現代の交通社会で「追い抜く」と「追い越す」を混同している人がなんとなく思ってるだけ。
笑 何が辞書引いてみなさいだよw
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%B6%8A%E3%81%99&stype=0&dtype=0 「追い抜く」は平行線上で後ろから先へ行く 「追い越す」は抜いて正面に出る事だな
「追い抜く」と「追い越す」の混同 は城と関係ないね
「抜く」の語意は
>>182の通り
>魏軍にとっては、一隊を祁山に差し向ければ解囲を迫ることができ、諸葛亮はこれに対処せねばならない。
祁山の北西・東南には山脈が走っていて、
蜀軍を迂回して一隊を祁山に差し向けるなんて事は出来ないよ
>それをなぜ一緒くたに「無力化」といえるのかって話しだけど?
正常であれば、祁山に魏軍が拠って蜀軍を通せんぼする
そうなれば蜀軍はそれ以上北へ進めない
それが出来ているということは祁山が機能していないということだ
>四次の時点ではね。だから落ちなかった。一次では落ちた。
いや、四次も間に合っていないのは周知の通り
一次でも祁山はおそらく落ちていない
落ちたという記述はないし、落とせていたとしたら放棄する道理がない
>>185 矛盾してるよ
魏略曰:始,國家以蜀中惟有劉備。備既死,數歲寂然無聲,是以略無備預;
而卒聞亮出,朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮。
備既死,數歲寂然無聲,
・諸葛亮は南蛮征伐を劉備の死の2年後に行っている
・時期は特定できないが、その前後に『正議』を著し、魏に対してやる気満々であることを伝えている
・『正議』からは諸葛亮の好戦的な性格が読み取れる
・南征から2年、北伐開始の前年の春に、反抗的で好戦的な敵の国家元首が
出師表なる宣戦を行い、大軍を率いて国境地帯に上ってきていた
・その上、元蜀臣の孟達が謀反するなど、蜀に活発な動きがあった
是以略無備預;而卒聞亮出
・北伐前年初頭には夏侯楙が督関中だったのに、いつの間にか軍才も経験も豊富な曹真に交代していた
・なんと言っても魏の対応が早い
曹真が斜谷道途中の箕谷で趙雲と出会ったのもそうだが、張郃の動き
第一次はひと月ほどで終わっている
蜀軍の行動開始からひと月ほどの間に
荊州に居た左将軍張郃が右将軍となって西行し、街亭で馬謖を破っている事になるが、
開始から三郡寝返りまでの経過、その情報の伝達、兵の準備、移動、
街亭包囲、蜀軍撤退開始の見届けまで の日数を考えれば、ひと月ちょいではとても無理
曹真は長安、張郃は洛陽 各々兵の準備を整え、
蜀軍と時を合わせて よーい、ドン!で出なければ、ああは行かない
また、然るべきだろう
朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮。
諸葛亮伝
亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、永安三郡叛魏應亮,關中響震。
とは異なる
>>171で言ってるのは魏略の話だろ
朝野恐懼の理由が嘘なのは明白なのでこのくだりが信用に価しないのは言うまでもない
>>186 なんで「越す」の意味を手間掛けて引用しておきながら
肝心の「抜く」は脳内ソースなのよw
>一次でも祁山はおそらく落ちていない
>落ちたという記述はないし、落とせていたとしたら放棄する道理がない
へえ、祁山での諸葛亮軍の戦いぶりがすごかったからそれに慄いた三郡が降服したという
話はなくなったんだな。それはよかった。
でも、前線基地の祁山も落ちていない、蜀漢の侵攻に対する警戒・準備が十分だったはずの
隴西諸縣が、なぜほとんど戦いもせずに蜀漢に靡いたんだい?
>>188 追い越す・追い抜くなんて何の関係もないからだよ
それの否定さ
で、「抜く」の意味の引用は?
>>189 いや、寝返ったのは諸葛亮軍の戦いぶりが凄かったからだよ
動きがキビピシャでね
城が落ちる落ちないは関係ない
>蜀漢の侵攻に対する警戒・準備が十分だったはずの
>隴西諸縣が、なぜほとんど戦いもせずに蜀漢に靡いたんだい?
皆、郿に来ると思っていた
逆方向の隴西は心に余裕があった
蜀軍が郿に向けて動き出したという一報が届いたであろうし
曹真が対応に出たという報せも届いたろう
それで裏を掻かれて後手に回り、祁山に隴右の兵力が充分集まる前に蜀軍に祁山を囲まれた
こうなった後では中途半端な隴右の兵力ではどうしようもなかった
三郡の豪族達は諸葛亮軍の唯ならぬ統制力を伝え聞きいて蜀軍が強い事を確信し、蜀が勝つと信じた
ということだろう
>>191 シンプルな概念に引用など要らんだろ
追い越す・追い抜くの違い比べを辞書で要求してきたから返したまでの事
「城を抜く」は
「DFを抜く」と同じ用法だ
>>192 つまり、魏の国防政策、特に隴西では諸葛亮のような攻勢を考慮した
体制を取ってなかったと言う訳だね。
>>194 諸葛亮の陽動作戦に引っかかったというわけ
「魏は蜀が攻めてくるなんて思ってなかった」というのが嘘なわけで
準備はしてたがしてやられたということだよ
時期が違うよ。
「魏は蜀が攻めてくるなんて思ってなかった」というのは諸葛亮が祁山に出てきて初めて驚いたのではない。
そんなのは嘘、というか君の解釈の間違い。
魏は、劉備死後の数年間国境が静まり返っていたから油断していたんだよ。
それが、諸葛亮が出兵したと聞いて驚いたわけだ。つまり成都を出た時点か、漢中に出てきた時点で、その知らせを聞いて、ね。
>>196 成都から漢中へ移って出征開始まで約1年だよ
そうだよ。その間、司馬懿の孟達攻めなど行われているだろう?
ただ、諸葛亮がいつの時点で大軍を動員し、北伐する体制を明らかにしたかはわからないが。
魏の危機感が高まったことが判るのは、12月の司馬懿の孟達攻めくらいになる。
・数年来、長安以西の軍備は、関中都督を除けば治安維持や異民族の叛乱対応程度の規模であり、
数万の正規軍に対応できるような人員と経費が置かれていなかった。
・そこへさらに、趙雲を陽動として諸葛亮はもっとも手薄な隴西へ攻め込んだ。
軍事戦略での不備と作戦術での奇襲の二段構えによって、三郡が一挙に降伏したわけだ。
戦後、魏の防備不足を解決する策のもっとも代表的なものとして、陳倉の修復がある。
蜀が攻めて来た時、最前線になる可能性が最も高いのが陳倉なのだが、
ここですら、本格的な攻城軍に対して篭城するに十分な防備や備蓄が失われていたわけだ。
>>198 >ただ、諸葛亮がいつの時点で大軍を動員し、北伐する体制を明らかにしたかはわからないが。
だからその時だよ
「五年春,丞相亮出屯漢中」後主伝
「五年,率諸軍北駐漢中,臨發,上疏曰:〜(出師表)〜
六年春,揚聲由斜穀道取郿,使趙雲、ケ芝為疑軍,據箕谷,魏大將軍曹真舉眾拒之。」諸葛亮伝
五年春→六年春と約一年猶予があったわけ
>陳倉ですら、本格的な攻城軍に対して篭城するに十分な防備や備蓄が失われていたわけだ。
桟道が焼け落ちていて陳倉に蜀軍が来れるわけもなかった
それと陳倉はそんなに壊れてもいなかった
過去レスそんなにないから読んでみて
>>181 二つの戦役が近接している事を以って両戦役の関連性を述べているので、
「二つの戦役は近接していない」と言うのなら、これ以上話す事はないな。
ただ、通常は行動の開始と終了との間に大きな期間が空くのなら、
史書にはちゃんと別の時期の事として記述してあるだろう。
後主伝だけを見てもそうなっている。
だから、たとえ二郡の攻略が三月までに終わっていなかったとしても、
ずれこんで4月が限界だろう。
しかし、「陳倉にいた諸葛亮が建威に出てきた事が理解できない」という事が理解できない。
陳倉か或いは更に東を目標にしていたからと言って、西方の建威に出ないという事は無い。
戦略は常に代替案と、それに付随する代替目標を持って行われるべきで、
諸葛亮が建威に出たのは、陳倉攻略に失敗して二郡攻略に主力を投入する事にしただけ。
「諸葛亮は陳倉攻略に失敗した時の事など初めから考えていなかった」と言うのなら、別に構わないがね。
>>200 なぜ議論でコテつけてんの? 三戦では珍しいね
>>201 この方が意見が分かりやすいし、自分のblogの引用も気兼ねなく出来るから。
もともとは後期スレ限定で付けてたが、面倒くさいので今はどこでもこのまま。
なるほど 名無しで議論することもある?
ベストチョイス
>>199 >桟道が焼け落ちていて陳倉に蜀軍が来れるわけもなかった
>それと陳倉はそんなに壊れてもいなかった
桟道は褒斜道の話であって、陳倉-散関-陽平関の道とは別だね。
とはいえ陳倉は右扶風の一県であり、一県としての防御は普通に整えられていただろう。
しかし、「そんなに壊れてもいなかった」と、「本格的な攻城軍に対して篭城するに十分な防備や備蓄」
との間には雲泥の差があるわけだよ。曹操時代には張コウ・楊秋・郭淮という専任の軍官が置かれて、
彼らによって「戦争専門」の兵と防備が管理されただろうが、彼らの後任の記述はない以上、
軍備は相当に削減されたと考えれ、ここからも魏略の正しさが裏付けられる。
また、これまた魏略の話になるが、
諸葛亮が漢中に駐屯して警戒推移が上がっていた時、天水内を刺史郭淮、太守馬遵、郡参軍姜維らが巡察している。
刺史・太守とそれに付く参軍によって郡の防衛が主導され、刺史と太守が逃げ腰だったために
天水防衛は機能不全に陥ったわけだ。
魏略が「魏の油断」をでっち上げるために将軍などの軍官の存在を抹消したというのだろうか?
郭淮の存在や天水太守の名を書かない陳寿より、魏略の魚豢は一面では魏に厳しい記述がある。
このように、諸葛亮は前年春に漢中に出て来るが、数ヶ月間、魏雍州はそれに対してまともな対策を取っていない。
単なる丞相の漢中鎮撫と思ったのか、大規模な攻撃は不可能と考えていたのか、荊州を主要目標だと見たのか。
ともあれ陳倉という最重要防御施設へ将軍が派遣し直されたのさえ、戦後のこと。
これを油断と言ってなんの問題があるのだろう?
>>200 まあ第二次が228年冬で第三次が229年春だから別でも問題はないと言うだけで,
時期については「どっちでもありえる」と思うので打ち切りましょう。
あと,私は「陳倉にいた諸葛亮が建威に出てきた事が理解できない」とは言ってないよ。
両作戦が連動だとする場合,諸葛亮が陳倉にいる状態での2郡攻略があり得るから,
2郡防御に出てくる魏軍の牽制役は別に用意されていただろうと思っているだけで。
だから「陳倉攻略に失敗して二郡攻略に主力を投入する事にしただけ」
というあなたの意見に異議はない。
>>206 >桟道は褒斜道の話であって、陳倉-散関-陽平関の道とは別だね。
いや、故道の話だよ
http://www.hksan.net/maltzXD/San9/maltz/maltz_appendix_09.htm 他にも「曹操在撤出漢中時,把棧道樓閣燒毀,又派兵築城防守。」でググってもらえれば
同じ事が書かれてあるブログが見つかる
>本格的な攻城軍に対して篭城するに十分な防備や備蓄
陳倉城は元から堅城で「本格的な攻城軍に対して篭城するに十分な防備」が備わっている
曹操の漢中撤退時に城の機能が損なわれていれば修復しているはずなので
風化程度の損傷しかなかったはずだ それでも「治」になる
>彼らの後任の記述はない以上、軍備は相当に削減されたと考えれ、
>ここからも魏略の正しさが裏付けられる。
陳倉じゃなくて関右の事だよね?
後任も何も郭淮が現役じゃないか
それに後任の記述がないということも何も裏付けはしない
後任が歴史の表舞台に立っていないだけ
>また、これまた魏略の話になるが、
> 中略
>これを油断と言ってなんの問題があるのだろう?
問題ないんじゃないかな
魏略が油断していたと言うのだから、
魏略がそれに矛盾しないストーリーを語るのは当たり前
要は「三国志」と「魏略」の信用度の問題で
圧倒的信用を誇る三国志と異なった場合にどちらが信用されるかという話
一般的には
三国志>>越えられない壁>>>魏略
だけど
んで、
>>206は魏略の方を三国志より信用する と なるほど
>>207 うーん。
そもそも、俺は陳式の戦力を単独で郭淮に抗し得ないほど寡兵だと思っていないんだよね。
この時期の郭淮が率いる事ができる戦力なんて精々数千なんだから、
1万も率いれば陳式単独で抗し得る。
二郡の郡治その他の攻略については、それこそ郭淮を破ってからでも構わないので、
諸葛亮としては陳倉攻略と魏軍撃破が上手くいけば陳式を援護する必要すらない。
関中に動揺が走れば当然隴西も動揺するので、それだけで陳式を援護する事になる。
だから、陳式の援護に軍を派遣するという事自体、陳倉攻略が失敗した時にしか存在しないプランだったと思う。
>>208 根本的に勘違いしている。
「魏略の当該記事が、他史料と比較して矛盾せず、むしろ状況の推移をよく説明しているので信じる」
だ。
>陳倉城は元から堅城で「本格的な攻城軍に対して篭城するに十分な防備」が備わっている
否。
必要なのはハードウェアとしての城壁の修復だけではない。防戦を戦うための備蓄と兵士の駐屯が必要になる。
篭城にどのような備蓄が必要になるかは、劉馥伝に詳しい。
そのような準備が必要だったからこそ、二次の事前にそれを指示していた曹真とカク昭の事績が功績と評価され得るわけだ。
>後任も何も郭淮が現役じゃないか
それも否。
郭淮は護軍から刺史へと転任した。軍部ではなく太守の監督を任務とし、下部に将官も軍兵も持たない。
少なくとも郭淮の視野に入る軍事力は大幅に削減されており、護軍と将軍の代役は確認されない。
しかも、刺史治は隴西から遠い長安。諸葛亮の侵攻直前には刺史は天水にいたが、同行していたのは太守と郡参軍。
雍州の防御力は、対劉備時代と比べて著しく弱体化していた。
>それに後任の記述がないということも何も裏付けはしない
一点だけならそうだね。
しかし、右扶風、天水、武都、陰平、隴西刺史部、関中都督、と広大な範囲に渡って、
対蜀防備や軍官の記述が無かったり、撤退の記述があってその後音沙汰無かったり、
そもそも太守が置かれた記録が無かったり、夏侯楙のような皇族人事だったりの記述で埋め尽くされているのは、
当時の状況について確度の高い推論を導き出してくれるわけだ。
その場限りで裏付けの無い解釈弄りや数字弄りと違ってね。
>魏略がそれに矛盾しないストーリーを語るのは当たり前
その魏略は誰をかばっていると君は想定するわけ? 魏国人ではないのか。
「魏は関西に十分な防備を敷いていたが負けた」という「事実」を隠蔽するために、
郭淮らの失態を赤裸々に描写する本末転倒を犯すような人間は、そうはいないよ。
>んで、
>>206は魏略の方を三国志より信用する と なるほど
最初に答えた。
>>209 まあ兵力的に陳式軍>郭淮軍だったとしても確かに変ではないけど,
陳式が支援なしで郭淮に勝てると事前に断言するのは無理だろう。
(東方で勝てばそれでいいというのもありだろうけど。)
またあなたの考えが正しいとしたら,
陳式は郭淮が来た時点ですぐに攻撃に向かうはずなのに,
両軍は諸葛亮が牽制に出てくるまで交戦していない上に,
諸葛亮の牽制を知ってから撤退した郭淮が破られた記録もない。
2郡を攻められた郭淮がすぐに迎撃に向かわない理由はないから,
両者が2郡に入ったのは諸葛亮が牽制に動く少し前だったのだろう。
地理的に同時進行が可能だったのにこれだけ時間がずれているから,
もともと1つの作戦ではなかったと思う。
(第二段として用意していたのかも知れないけど。)
>>208 そのリンク先,あなたが言いたい文が書いてあるのはいいとして,
>諸葛亮派陳式(陳壽之父)佔領了漢中西方陰平、武都兩郡。
なんてこと当たり前のように書いているのだが,
陳式が陳寿の父だなんて根拠がどこにあるの?
というより,第一次で馬謖に連座して処罰されたとされる陳寿の父が,
わずか1年後の第三次で主力を率いるなんて事あり得ないだろう。
(いや陳寿が父の処罰を恨んだとする説を嘘だというなら問題ないけど。)
>>210 郝昭は当然として、曹真が評価されたのは対蜀方面の責任者だったからだろう
史料には「治」とあるだけで、そのようなソフトウェアがあったとも無かったとも書かれてない
合肥の場合は空城だったので劉馥が全てした事になるが、
陳倉の場合「無かったのを郝昭が準備した」と言う事は出来ない
陳倉がソフト込みで、もともとそれなりの防衛力を持っていたという事はない とは言えないんだ
結局、蓋然性の問題で、魏略の影響抜きに陳倉を考えなければならない
矢や兵糧は攻撃の為にある程度移す事があるとして、
木石まで守備機能が失われるまで移動させるか?っていう話だね
>郭淮は下部に将官も軍兵も持たない。
いやいやいや、叛乱鎮圧などや第一次で依然軍人として活躍してるよ
>広大な範囲に渡って、対蜀防備や軍官の記述が無かったり、〜
>〜当時の状況について確度の高い推論を導き出してくれるわけだ。
曹操の漢中撤退から諸葛亮の第一次まで関右は何も起きていないじゃないか?
大きな活躍をした人間も失敗した人間も居ないんだよ(郭淮ぐらいだろう) だからだ
曹丕が祁山を固めていたのは確かだが、城将が誰だったとかは一切分かってない
記録が無いのを防備を縮小していた証とするならば、これは矛盾するだろう
証にならないということだよ
>「魏略の当該記事が、他史料と比較して矛盾せず、むしろ状況の推移をよく説明しているので信じる」
「油断していた」という理由が既に矛盾している
>>87 だから何と言おうと没
納得行かないなら
その「当該記事の無矛盾」が例文でどういうものか説明しよう
三国志「先週の金曜日、A子さんと○○町へ行った。」
魏略「先週の金曜日、A子と○○町へ行き、一緒に買い物をして彼女にスカートをプレゼントした。
その後ランチを食べて、映画を観て、夕食を共にし、楽しい時を過ごした。」
二書は矛盾してはいない
しかし三国志が"仕事で一緒に行った"と考えて書かれたものであっても
魏略はデートになっていて、内容が全く異なっている
魏略が、「ぼく」と「A子」さんが付き合っていることにしたい のであれば
大きな事実に矛盾する事なく、そのようなストーリーを構築することは可能なのだ
「先週の金曜日、A子さんと○○町へ行った。」という大筋が一致しているからと言って、
"他史料と比較して矛盾せず、むしろ状況の推移をよく説明しているので信じるに足る"と言えるかな?
史料の審査に入ると、
姜維伝本伝と注の魏略は記述が異なっている
魏略は本伝と異なる記述のひと続きの内に、姜維の母妻子も共に蜀に去ったと言い
本伝は離れ離れになったという
孫盛の雜記は姜維と母は別れたという
三国志と魏略どちらかが嘘を言っています
どちらが信用できるでしょうか?
魏略の方が嘘を言っている場合、登場する郭淮の存在も当然疑わしくなる
本当に郭淮も一緒にいたのか、姜維ら一行が居たのは本当に西の洛門だったのか までね
郭淮のようなビッグネームが居たのなら一行の代表として本伝に書かれるはずだ
陳寿に郭淮を隠す理由は何もない
魏略が作り話をしている場合、郭淮を登場させる理由はある
もちろん油断していた風に見せる為だ
原文の「案行」(両書共通)は辞書によると、その意味は@調べ歩く。A調べる。B隊列を整える。
魏略では天水の西に居たので「案行」を「巡察」の意味に感じるが、
実際の所、これが上邽周辺や南方に居たのだったなら「戦の準備をしていた」と感じられる
そういう意味で「西の洛門」というのも疑いの余地がある
いや、「巡察していた」というのも、と言った方がいいかな
>その魏略は誰をかばっていると君は想定するわけ?
魏国だよ
郭淮の面子と“大魏帝国の威信”を
天秤に掛ける理由はないだろう
偉大なる魏国は圧倒的に中華に君臨し
当代、対抗し得る国など無かった
蜀などという小国は卑しく無能で、魏国の敵ではない
諸葛なんとかという虚名を馳せた男が昔蜀に居たが
実際の所大したことはなかった
偉大なる魏国が、偉大なるが故に、油断を招き
諸葛なんとかの不意打ちに驚かされてしまっただけで
決して我が魏国が敵にやられたわけではないのである
という物を後世に残そうとしたのだろう
>>212 >陳式(陳壽之父)
へぇ、そんな説があるんだぁ
可能性結構ありそうだね
街亭派遣軍の参軍ならそれなりの人物だろうし
他の人がクビになっている中、"坊主"で済んでいる
という事は、罪が比較的軽いといううことで
軍命に忠実な方だったという事が分かる
責任は責任で、関係なく、そういう人物ならば諸葛亮は買うだろう
>(いや陳寿が父の処罰を恨んだとする説を嘘だというなら問題ないけど。)
「恨む」のニュアンスが現代日本人とは異なる
解釈は「心にあって」ぐらいでいいと思う
俺は別にこの説を支持しているわけではないが
>陳倉の場合「無かったのを?昭が準備した」と言う事は出来ない
「使將軍カク昭築陳倉城」
これも魏略だから信じないって? 凄いね、陳倉に一次北伐前から十分な守備力があったことを
誤魔化すために「築」の字を改竄したわけだ?
失敗をぼかして書く程度ならともかく、そこまで徹底した執筆の方向性を魚豢個人が意識していたと
強烈に信じる史料的根拠は一体なんなの? 「信憑性が低いと評されているから」ではもはや説明できない。
しかも、後述するが、その態度は全く魏を庇う性質のものでは無い。
>いやいやいや、叛乱鎮圧などや第一次で依然軍人として活躍してるよ
それは郡兵を使うからだよ。刺史には制度上、兵士もそれを束ねる士官や部局も存在し無いんだ。
ただ郡将たる太守を使うことができる。
>曹操の漢中撤退から諸葛亮の第一次まで関右は何も起きていないじゃないか?
一次北伐が起きたよ。で、三郡が寝返ったために大きな後始末が残った。
鎮圧・戦闘が起こり、功績を挙げた者が何人もいる。
中央派遣官と涼州刺史護羌校尉の徐バクを除いては、皆、太守や郡吏だ。
>その「当該記事の無矛盾」が例文でどういうものか説明しよう
駄文は読まないからいらないよ。
>三国志と魏略どちらかが嘘を言っています
>どちらが信用できるでしょうか?
その記事に限っては、本文。
伝達の誤りや、曲筆というのは当然ありうる。そのような検討を個々に行うのが史料考証であって、
「ある記事で誤りを書いているから全て信用できない」とは言わないんだ。
>偉大なる魏国は圧倒的に中華に君臨し(略)決して我が魏国が敵にやられたわけではないのである
小国の丞相如きに対して「朝野」「恐懼」と書いちゃった時点で威信丸つぶれだね。
敵にしてやられたことについて威信を保ちたいなら、黙殺すればいいんだよ。
この場合なら、隴西の民間には不埒者が跋扈していたと書く手もある。
国が油断して戦略配備を誤ったとか、大吏たる郭淮の失敗を捏造詳述するなど、
百害あって一利無しというわけだ。
>陳寿に郭淮を隠す理由は何もない
郭家は晉諸公贊に載る魏晋の名族となった。
魏志後半をなぞって見れば、列伝されている者の子孫が晋の高官である確率が非常に高いことがわかる。
陳寿は魏に遠慮する必要はあまりなかったが、司馬氏と晋高官に遠慮する必要が大いにあった。
特に、対蜀で活躍した諸都督の本伝を見るといい。
蜀将らが北伐で成功していた時期の彼らの行動が綺麗に抜け落ちているから。これこそ正しく優れた隠蔽工作だ。
陳寿は蜀の立派さを大いに喧伝したかったが、司馬懿をはじめとする晋朝関係者の失敗を直接的には書けない立場だった。
郭淮らは確かに北伐を防いで大きな功績を挙げた人物だが、窮地に立たされることもあった。
それは単純に本伝を追うだけでは解明しきれないんだよ。
そこで裴松之の注釈が大きな価値を持つ。魏略もその一つだ。
>>217 >これも魏略だから信じないって? 凄いね、陳倉に一次北伐前から十分な守備力があったことを
>誤魔化すために「築」の字を改竄したわけだ?
! 君は天才かもしれないな
考えもしなかったが、郝昭が築いた陳倉下城なんて存在しなかったかもしれないね
嘘は大きいほどいいと言うが、それ本当かもね
陳寿はなぜ、乃使將軍郝昭、王生守陳倉,「治其城。」と書いたのか
裴松之は、「下城と上城を連結させた」という大変意義のあるはずの話を、なぜ採用しなかったのか
考えればそうだ
>「信憑性が低いと評されているから」ではもはや説明できない。
嘘が多く、方向性が一貫しているからだよ
>ただ郡将たる太守を使うことができる。
そういう書かれ方ではないね 「知識」に害されているんじゃないのかな?
>一次北伐が起きたよ。
"曹操の漢中撤退から諸葛亮の第一次まで"と言ってるんだけど?
「油断していた」のは、一次が起きるまでの事だろう
だから三郡が寝返ったという話を魏略はしている
>駄文は読まないからいらないよ。
嫌な事から目を背けてはいけないよ
>「ある記事で誤りを書いているから全て信用できない」とは言わないんだ。
誤りではなく、意図的な嘘を書いているんだよ
嘘つきの言う事は信用できない
>敵にしてやられたことについて威信を保ちたいなら、黙殺すればいいんだよ。
黙殺すればどうなるか?
他の書が三郡寝返りの事を書くので、魏略は受け入れる事になる
弁明しておいた方がよい
>この場合なら、隴西の民間には不埒者が跋扈していたと書く手もある。
それにはそのような事前のエピソードを作る必要がある
しかも三郡という広範囲なので、印象として隴西周辺は相当荒れていた感じになる
魏領になって18年も経つのに魏は何をやっていたんだ と
大魏帝国の統治能力をかなり疑われることになるね
>蜀将らが北伐で成功していた時期の彼らの行動が綺麗に抜け落ちているから。
>これこそ正しく優れた隠蔽工作だ。
伝には主人公が不利になる事は書かれない
どの伝も
>そこで裴松之の注釈が大きな価値を持つ。魏略もその一つだ。
性質が善ならね
しかしそんな魏略も、無いよりはあった方がいいのは間違いない
真偽はともかく、三国志の世界を肉厚にする
おかげで三国志の立体感が増し、どういう世界だったのかというものをより掴めるようになっている
三国志が新聞なら魏略は週刊誌だ
後世の人間が失われた現代を残された文書で学ぶとする
新聞は肉感のなさで現実とはちょっと離れている気がするが
そこへ低俗な週刊誌なんかが加わると世界観にぐっと深みが出る
そういう感じ
もう反論は一つでいいな。
>嘘が多く、方向性が一貫しているからだよ
うん、魏略の性質として、魏を称えるという方向性は一貫している。
「嘘」(他史との食い違い)は、他の史料もほとんどがそうであるように、多々見られる。
しかし、魏略の、『嘘(食い違い)の方向性が一貫している』のでは、ありえない。
そう見えるのはただの君の願望だったわけだよ。。
色々詭弁を使って解釈しようとしても、郭淮・馬遵らの失敗や、「朝野恐懼」など、
魏国を称えるなんの役にも立っていない、むしろ逆のものだ。
結局のところ、魏略の統一的な歴史捏造など、
君の魏略否定願望が見せた幻に過ぎなかったんだよ。
ごめん、もう一つあった。
「治城」は、「城をおさめる」ではなく「城をなおす」の意味だね。
用例を検索すると、
梁伯好土功,治城溝,民力罷怨
罪人無告劾,繋治城旦舂以上十四人
天竺在崑崙山南,大國也.治城臨恆水. ?
城旦者,旦起行治城
無告劾繋治城旦以上
治城郭,收賦租, ?
援所過輒為郡縣治城郭,穿渠灌漑,以利其民.
杜預曰即是衡雍.又今縣所治城 ?
寇令上部與融相拒,兩翼徑渉水,直到所治城. ?
乃聚斂吏民,治城郭,為守禦之備
泰慰勞將士,前後遣還,更差軍守,並治城壘,還屯上ケイ
其王所治城周回百餘里,有官曹文書. ×
繕治城郭,夷種男女莫不致力
詔諸郡縣治城郭,起?樓,穿塹發渠,以備盜賊.
多作舟船,繕治城郭
呉景帝時,戍將於廣陵掘諸?,取版以治城,所壞甚多.
脩治城圍,
史記から晋書までの「治城」18例のうち、単体ではどちらか判断が付かない四例(甘めに判断したが)
と、「その王の治むるところ城の周回百余里」という「治城」の熟語をなしていない一例を除いて、
全てが城の修復や増築に関わる事績だとわかった。
陳寿もカク昭が「陳倉をなおした」と書いた。これは魏略との一致点だね。
ちなみに「城旦舂」とは築城や修繕を行う懲役のこと。
>>221-222 >「治城」
「治城」は「城をなおす」でいいと思う
が、「築く」は含まれない
「城旦舂」は築城や修繕を行う懲役・その懲役囚のことであって
例文のを言い換えれば「作業員」に過ぎないだろう
「城旦舂」でもって、「治」に「築城」の意味がある と結ぶ事は出来ないんじゃないかな
>陳寿もカク昭が「陳倉をなおした」と書いた。これは魏略との一致点だね。
魏略に「治」ってあるの?
>「治其城」
見るべきは「治城」ではなく「其」
陳寿は魏略も読んで三国志を書いている
その陳寿が「郝昭・王生に陳倉を守らせ、"その"城を治させた」と書いたのは、
魏略の記述を暗に否定する為だろう
「治其城」という表現は、二十五史中でも他に例を見ない
「その城を」とわざわざ指定したのは魏略の郝昭の下城を打ち消す狙いだと思われる
>色々詭弁を使って解釈しようとしても、郭淮・馬遵らの失敗や、「朝野恐懼」など、
>魏国を称えるなんの役にも立っていない、むしろ逆のものだ。
称えるだけではなく、失態のカバーもまた魏を揚げることに繋がる
>「朝野恐懼」
これは魏略の創作ではなく、実際にあった事なのだろう
陳寿が書かなかったのは、
諸葛亮伝に蜀視点では見えない敵国の内側を書くことは出来ないし
明帝紀に自国側の醜態を書く事は出来ないからだ それにそれを書けば
諸葛亮の存在感がただでさえ小さくないのに、更に大きくなる(妥当)
それは諸葛亮の事で晋に対して気を遣っている陳寿の限界を超えることだったろう
魏を持ち上げる魏略が「朝野恐懼」を創作するわけはない
従ってこれは事実だろう
・三郡寝返り
・諸葛亮出陣
・朝野恐懼
(順不同)の三件は事実としてあった
>>87で挙げた諸件から魏が備えていたのは明白
備えていた魏が諸葛亮出陣で朝野恐懼するはずがない
従って、朝野恐懼したのは三郡寝返りを受けての事と分かる
魏は備えていたにも拘わらず、対応に失敗し、諸葛亮の進攻の威力に朝野は恐懼させられた
ココが原点
魏略は
魏が油断していた事にして、三郡寝返り・朝野恐懼の理由を作り
戦術で裏を掻かれた事・それにより三郡を失った事を覆い隠して
「諸葛亮の進攻の威力」を打ち消した
「諸葛亮の進攻の威力」を打ち消した事により、
"諸葛亮の進攻の威力に朝野は恐懼させられた"という最も不名誉な事実を隠蔽した
原点の
「魏は備えていたにも拘わらず、対応に失敗し、諸葛亮の進攻の威力に朝野は恐懼させられた」より
大分マシな出来事に書き換えたというわけだ
>馬遵
三国志に馬遵は登場しない
魏略を読んでいるのに陳寿が馬遵の名を書かなかったのは
天水太守の名前の裏が取れなかったからだろう
>郭淮
言うほど郭淮の失敗ではない
なにせ、魏略の世界に沿ってのストーリーなのだから
魏は油断していた 油断していたのは郭淮の失敗ではなく
名前がないもっと上の人間の失敗だ
天水太守も同様だよ
>魏略の、『嘘(食い違い)の方向性が一貫している』のでは、ありえない。
>
>そう見えるのはただの君の願望だったわけだよ。。
そんな事言ってないわけだが…
読点を打っているように、嘘の多さと揚魏貶蜀の方向性は分けているつもり。
そう見えるのはただの君の願望だったわけだよ。。
結局のところ、魏略の正当性など、
君の魏略肯定願望が見せた幻に過ぎなかったんだよ
乃使將軍カク昭、王生守陳倉,治其城.
「カク昭、王生に陳倉を守らせ」で、現地赴任の意味を果たす。
「治其城」と別に表記したのは、「其の城郭部分を治した」、という特記になる。
別に暗黙の意味を想定する必要はない。
論点が摩り替わっているよ。
問題は、「陳倉城に数万の攻撃に耐える防備が北伐前から用意されていたか」。
「無かった。」が二書の共通点だ。
上城下城については問題外。北伐時代の生存者がまだいた頃にそんな大法螺吹いても笑われるだけだよ。
魏略は問題があっても有力史書として認められ続けたものだ。特に傾注されている関中の記事で
そんな大嘘を書いて、当の魏晋人が認めると? そもそも裴松之が注に採用すると?
裴松之の時代まで届かずに風化して消えてなくなるよ。
>>87で挙げられているうち、魏が起こした反応は、全て諸葛亮が漢中に出て以後の話。
南征などに魏が警戒シフトを取り防備を増強したという話を示さなければ駄目。
北伐の前年春に諸葛亮は漢中に到着するのだが、それに魏がなんらかの対処を行ったという話はないと前にも書いた。
司馬懿が動くのは歳の暮れ。
「蜀軍と時を合わせて よーい、ドン!」と進発したのは別に疑わない(だから趙雲が囮になり得る)。
しかしその行動もせいぜい12月ごろの話であり、司馬懿と同時期。
諸葛亮の行動に対して、魏がいつから警戒を取り始めたかわからない。
が、半年以上の猶予があるにも拘らず、魏の具体的な最初の対応が敵の調略・侵攻に対応した
荊州・関中主力軍による対応というのは、はっきりと遅い。普通は先発隊を置いて布陣を固めるなどするものだ。
油断していたとしか言いようがない。
史料から伺う限り、諸葛亮の「本気」を察した最初の魏幹部は、司馬懿となるだろう。
新城は襄陽郡の隣り、荊州のまさに喉元に位置する。逆に、単独では孟達が新城を維持するなど不可能。
その孟達を調略するということは、諸葛亮に大規模な戦略構想が存在せねばならないが、
これを当初曹叡も信じず、司馬懿は勅命を待たずに太守を斬るという強硬手段を取らざるを得なかった。
陳倉に将軍が派遣されるのは北伐後、また、北伐の掃討戦である隴西の戦いに参加した將軍も
張コウなど以外にいないことから、関西の軍備はかなり手薄だったことになる。
>魏は備えていたにも拘わらず、対応に失敗し、諸葛亮の進攻の威力に朝野は恐懼させられた
順序を替えるには魏略以外の根拠を提示しなさい。
>名前がないもっと上の人間の失敗だ
たとえば、皇帝とか? 責任を上にかぶせるほど威信が消し飛ぶね。
また、当時の朝廷に子孫の高官が存在する大物でそんな捏造記事を作って、なんの意味がある?
失敗を糊塗するなら責任を下に向ければいいんだよ。
「備えが十分にあったのに祁山の守将が高を括っていたため一気に戦線が崩壊した」。
それで済む。朝廷も高官も誰も傷つかない。
君の魏略像は君自身と同じだ。多弁と多くの欺瞞で糊塗しているつもりで、傷口ばかり広げている。
多少の真実や内部だけで整合するもっともらしさがあっても、他者からは滑稽さばかりが注目される。
権威が笑われることを防ぐ力であるならば、君の手法は決して権威を得ることはできない。
>>226 >「カク昭、王生に陳倉を守らせ」で、現地赴任の意味を果たす。
>「治其城」と別に表記したのは、「其の城郭部分を治した」、という特記になる。
それなら、乃使將軍カク昭、王生守陳倉治城.でいい
指定の「其」は要らない
>上城下城については問題外。北伐時代の生存者がまだいた頃にそんな大法螺吹いても笑われるだけだよ。
出版されるわけじゃないから読める者は極少数
陳倉の最高現場責任者で大殊勲を挙げた郝昭でさえ中枢の人間ではない
陳倉攻防戦の体験者が魏略を読める可能性は低いだろう
つまりは読者の全ては伝聞情報でしか陳倉戦を知っていない
ここに確信は生まれない
大抵の者は「そうだったんだぁ」と思うに留まる
疑念を持った人間が居たとしても、陳倉戦から30年経っており、
放棄された下城が無に帰している可能性が充分あるので、
現在その防衛要塞跡がどこにあるのか質す事も出来ない
しかも魏略が書かれた当時、劉表と面識があった著者の魚豢は相当な高齢であり
数年で亡くなった事だろうから、数年という短期の内に読めた者だけが可能な事なのでその数は僅かだろう
魏略が世に出たとき魚豢が既に死んでいた可能性だってある
質すのはほぼ不可能
第一、穏やかなサラリーマン世界でさえ、同僚の上司へのあからさまなお世辞を
「お世辞だ」と公然と指摘することなんて出来ないのに
リアル封建世界でそれが出来るわけないだろう
>そもそも裴松之が注に採用すると?
採用してないじゃないかw
「先是,使將軍郝昭築陳倉城;」は郝昭紹介及び籠城戦の単なる前セツ
裴松之はこれを採用したかったのではない
「築陳倉城」を採用したいのなら、これに関する記事を載せたろう
しかし捨てている
>裴松之の時代まで届かずに風化して消えてなくなるよ。
王国文書の類が歴代王朝の書庫に継がれていくというのは不思議な事ではない
信憑性の問題ではない
>問題は、「陳倉城に数万の攻撃に耐える防備が北伐前から用意されていたか」。
>「無かった。」が二書の共通点だ。
完全とまでは行かないが、ある程度あった というのが俺の意見
>
>>87で挙げられているうち、魏が起こした反応は、全て諸葛亮が漢中に出て以後の話。
>南征などに魏が警戒シフトを取り防備を増強したという話を示さなければ駄目。
曹丕時代、祁山を核にした防衛戦略があった
それが解かれたと言っているのは魏略だけで、そんな事実は存在しない
変動したという虚構に合わせて「警戒レベルが低から高へ移行した話を示せ」と言われてもね…
ずーっとだろと言う他ない
>それに魏がなんらかの対処を行ったという話はないと前にも書いた。
>>93で書いたが、諸葛亮が漢中に上って一段と警戒を強めたという話なら
都督関中が夏侯楙から曹真に替わって、隴右をも含んで"都督関右"となり
その権力が拡大されたことが挙げられる
>史料から伺う限り、諸葛亮の「本気」を察した最初の魏幹部は、司馬懿となるだろう。
これまた嘘の多い宣帝紀由来のお話か
>これを当初曹叡も信じず、司馬懿は勅命を待たずに太守を斬るという強硬手段を取らざるを得なかった。
魏略
同書によると魏は油断してたらしいから「曹叡も信じなかった」というのは尤もらしい話だね
こうする事で「油断していた」という無理のある話を補強している
>北伐の掃討戦である隴西の戦いに参加した將軍も張コウなど以外にいないことから、
曹真、張郃の軍勢がいれば余裕で片付く また郭淮が唐蹏を破ったのもこの時かもしれないね
>関西の軍備はかなり手薄だったことになる。
三郡が寝返っているのだからまともな兵力が残っているはずもない
>順序を替えるには魏略以外の根拠を提示しなさい。
論理が苦手? それともそれだけ追い込まれてるってことかな?
>たとえば、皇帝とか? 責任を上にかぶせるほど威信が消し飛ぶね。
>また、当時の朝廷に子孫の高官が存在する大物でそんな捏造記事を作って、なんの意味がある?
笑 それは魚豢に訊きなよ 俺に訊くのは筋違い
>失敗を糊塗するなら責任を下に向ければいいんだよ。
>「備えが十分にあったのに祁山の守将が高を括っていたため一気に戦線が崩壊した」。
魚豢は君ほど嘘が下手ではないってことだよ
>それで済む。朝廷も高官も誰も傷つかない。
済まない
どこの前線でもそうだが、辺鄙なところに大きな兵力は置いてない
祁山の守将ひとりが油断していてもあっさり崩れることはない
なぜなら祁山の兵力だけでは端から蜀軍は止められないからだ
周辺の郡県がサポートして初めて防衛が成り立つ
従って、周辺の郡県も高を括っていなければならない
ということは、そこを統括する郭淮も高を括っていなければならない
君自身が言うように「郭家は晉諸公贊に載る魏晋の名族」なんだろ?
マズイじゃないか
或いは常に反して、蜀軍の漢中進駐に合わせて大兵を祁山に駐屯させていたとする
であるならば、それは中央軍で、それなりの人物が率いているだろう
名前を書かないわけにはいかないし、罪もない人間の名誉を完全捏造で酷く傷つける事になる
また、第四次のあと、兵が置けないという隴右の弱点を改善して強化した司馬孚の功績に
捏造でケチをつけることになる 司馬家の反感を買うこと間違いなし
マズくないかな
>権威が笑われることを防ぐ力であるならば、君の手法は決して権威を得ることはできない。
「まだマシ」という概念が君には理解できないらしいね
しかし、魏をとにかく持ち上げる魏略が「朝野恐懼」だなんて恥を晒すような事を
書くわけはないのだから、魏略にそのような性質があるわけがない
と思ってしまうのは分からないでもない
それほどに「朝野恐懼」は強烈だ
強烈ゆえに…、ってところだろうな
強烈な出来事とは言え、わざわざ自国の史書に書き残す必要はない
魏略は必要のないことを書いてしまった これは魚豢のミスだろう
公正に書くという姿勢があれば、視野を広く保て
魏側が「朝野恐懼」を書く必要なんてないことは分かる筈だが
魏を持ち上げる事に心魂を傾けていた魚豢は当然のように視野狭窄に陥り
墓穴を掘った
「朝野恐懼」の記述は、魏略が公正であるどころか
異常なほどに魏に偏っている事を示している
魏略と魏略を擁護する君は同じだ 多弁と多くの欺瞞で糊塗しているつもりで、傷口ばかり広げている
多少の真実や内部だけで整合するもっともらしさもなく、見る目ある者が見れば滑稽さばかりが目立つ
魏が笑われるのを防ごうとする働きのつもりであるならば、その手法は決して誉められたものではない
その論説が正当性をもつのは不可能な事であろう
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/10(日) 20:11:03
age
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/10(日) 20:16:19
>順序を替えるには魏略以外の根拠を提示しなさい。
論理が苦手? それともそれだけ追い込まれてるってことかな?
>たとえば、皇帝とか? 責任を上にかぶせるほど威信が消し飛ぶね。
>また、当時の朝廷に子孫の高官が存在する大物でそんな捏造記事を作って、なんの意味がある?
笑 それは魚豢に訊きなよ 俺に訊くのは筋違い
>失敗を糊塗するなら責任を下に向ければいいんだよ。
>「備えが十分にあったのに祁山の守将が高を括っていたため一気に戦線が崩壊した」。
魚豢は君ほど嘘が下手ではないってことだよ
>それで済む。朝廷も高官も誰も傷つかない。
済まない
どこの前線でもそうだが、辺鄙なところに大きな兵力は置いてない
祁山の守将ひとりが油断していてもあっさり崩れることはない
なぜなら祁山の兵力だけでは端から蜀軍は止められないからだ
周辺の郡県がサポートして初めて防衛が成り立つ
従って、周辺の郡県も高を括っていなければならない
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/10(日) 22:12:34
司馬懿の変換もできんのか
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 18:14:47
司馬懿をたおせば
北伐もお司馬懿だ
最初っから司馬懿が防いだわけでもないからな
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/06(土) 10:31:33
曹真・張郃・司馬懿をたおして
ようやく北伐はお司馬懿だ
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/08(火) 08:44:34
司馬懿をしばいたる
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 01:33:19
司馬懿がいない場合、曹叡が以外に名君のままがんばる可能性があるんでは?
安心して暴君になったフシがあるから
ところが曹叡は北伐真っ最中の頃からガンガン宮殿造営しちゃってる。
やはり魏延の策を用いていれば・・・
魏と蜀の差なんて太平洋戦争のときのアメリカと日本の差に比べたらたいしたこてはない。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 19:05:20
そういえば昔、蜀豊っていうの居たなw
今も蜀は豊かだ論をどこかで熱弁してるのかなw
>>243 でも、ほらっ
第二次大戦中のアメリカは、戦時中にもかかわらずブロードウェーや映画とか盛んで
魏は呉蜀と戦しながら宮殿造営やお忍び旅行し優雅だったじゃん
>>244 いたいたw
君、曹丕の10倍才あるよー
だからどうにかしてね
(漢中+益州+南中)×10≦魏の国力
これは酷い
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/09(木) 22:47:33.63
無理ですよねー
>>246 なにがどう酷いのかよく分からんが
魏の国力は蜀の土地の十倍だなんて誰も言ってないぞ?
なぜそうなる
所詮は諸葛亮ごときの人物じゃ成功は無理ってこった
呉も遼東の公孫淵弄るなら後5年早くやればよかったのにね
あれが最後のチャンスだったかも
遼東も荒れてりゃ勝率3%位Upしてたのに
まあ揚州刺史が満寵だったような気がするから
孫権じゃ勝てないけど
結論、やっぱり無理
孔明の性格が問題だった
孔明は頭が良くて慎重だから被害を考えない戦なんかできなかった
孔明の戦いは蜀軍にほとんど損害出してないけど大きく勝てない
劉備のように、ボロ負けするときはするけど勝つ時はとことん行けるような
バクチ張っていける司令官が必要だったと思う
だって慎重にやってたらジリ賓だし
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/14(火) 20:06:45.51
結局は、劉備も諸葛亮も姜維も同じってこった
魏には何ら影響力ナシ
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/09(水) 15:28:37.38
ユウソみたいな隠れた名将が居るからな・・・
五丈原で、魏が攻撃してたらどうなってたかな〜?
写真見たけど、あんな崖の上にいる敵を攻撃したくないけどな
八戸と俺
↓
● ハァハァ…い、挿入るよ///…
う、うん///や、優しくしてね/// ● /\
_/ ̄.ヒ|_
孔明の性格が問題だった
孔明は頭が良くて慎重だから被害を考えない戦なんかできなかった
孔明の戦いは蜀軍にほとんど損害出してないけど大きく勝てない
劉備のように、ボロ負けするときはするけど勝つ時はとことん行けるような
バクチ張っていける司令官が必要だったと思う
だって慎重にやってたらジリ賓だし
実際、司馬懿は第四次北伐でボロ負けしただけだしな。
夷陵の敗戦からせっかく立て直したのに、また大敗して国を危うくするのはどうかと思うが
>>257 迎撃は蜀軍の方が強いよね
>>256 国力差が開き切ってしまった20年後になってから
その精神を実現に移したトンデモ人、それが姜伯約w
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/12(土) 00:28:13.16
>>258 「迎撃は蜀軍の方が強い」じゃなく「蜀軍は迎撃のほうが強い」だと思われる
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/12(土) 01:09:15.11
【三戦板 御三家】
婿家 ・・・ムコーニン将軍を祖とする婿家。ムコーニン没落以後停滞してたが、
婿家を称すコテが出てそこそこ繁栄する。
当主婿太郎(ムコーニンの遺児)の他、婿ビンゴ、婿ころっけなどがいる
ロコ家・・・自治新党でも中々の名門。日本民族の集団心理からまずここに入って
コテ活動をする者が多かった。活動は自演で成り立ってる部分が大きい
ロコ三郎とロコモティブ(クマッタ)が最終的にやりあったが共に停滞
アンジェがロコふる〜ちぇだった時代があるが、クマッタやととのえと対立するように
なりロコ家を去る。中々実力もありおもしろいコテであるロコドールもいる
ロコ康三郎が党首になるが原爆を用いたキビシーラップ><や出席率が悪かったので
「史上最低の党首」と評された。今は新規のコテらが支える情勢になる。
当主ロコ三郎の元、親学徒派・家コテ派・守旧派に分類される。
聖臣家・・・党首排出数は優秀である。閣下に唯一「新姓」を認められた家でもある。
アクをもつコテが多い。特に聖臣宰陽は謀略家で粗暴、長らく一人で
ロコ家や可児家と対立してきた。まあcは宰陽の忠臣で自治スレを他板に
追いやったたため「中興の祖」ともてはやされた。聖臣永常は可児の禍や
ロコモティブ退治で手腕を見せるが出席率の悪さで失脚。
常陸四郎はロコ家で勢力をふるい一時は天下を争った。
学徒出国が臣籍降下に伴い聖臣家当主となる。
当主聖臣出国の元、聖臣常緑、聖臣宰天、聖臣常敬、聖臣永常、
聖臣永國などがいる。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/12(土) 11:42:51.87
どーだか
>>258 北伐前の魏の警戒は呉に向いていて、蜀はスルーしていた
バクチを打たずに弱小が至強に敵うはずもないのに、わざわざ薮蛇をつつくことに
どんな異議があったのだろう?
仮想脅威、敵国がいなければ国内をまとめることもできない程度の政治力だったのだろうか
孔明は・・・
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/24(木) 04:55:22.04
これはアメリカのゲームです。1度やってみてください。
これは、たった3分でできるゲームです。試してみてください。 驚く結果をご覧いただけます。
このゲームを考えた本人は、メールを読んでからたった10分で願い事が
かなったそうです。このゲームは、おもしろく、かつ、あっと驚く結果を 貴方にもたらすでしょう。
約束してください。絶対に先を読まず、1行ずつ進む事。 たった3分ですから、ためす価値ありです。
まず、ペンと、紙をご用意下さい。 先を読むと、願い事が叶わなくなります。
@まず、1番から、11番まで、縦に数字を書いてください。
A1番と2番の横に好きな3〜7の数字をそれぞれお書き下さい。
B3番と7番の横に知っている人の名前をお書き下さい。(必ず、興味の
ある性別名前を書く事。男なら女の人、女なら男の人、ゲイなら同姓の名
前をかく)
必ず、1行ずつ進んでください。先を読むと、なにもかもなくなります。
C4,5,6番の横それぞれに、自分の知っている人の名前をお書き下さ
い。これは、家族の人でも知り合いや、友人、誰でも結構です。
まだ、先を見てはいけませんよ!!
D8、9、10、11番の横に、歌のタイトルをお書き下さい。
E最後にお願い事をして下さい。さて、ゲームの解説です。
1)このゲームの事を、2番に書いた数字の人に伝えて下さい。
2)3番に書いた人は貴方の愛する人です。
3)7番に書いた人は、好きだけれど叶わぬ恋の相手です。
4)4番に書いた人は、貴方がとても大切に思う人です。
5)5番に書いた人は、貴方の事をとても良く理解してくれる相手です。
6)6番に書いた人は、貴方に幸運をもたらしてくれる人です。
7)8番に書いた歌は、3番に書いた人を表す歌。
8)9番に書いた歌は、7番に書いた人を表す歌。
9)10番に書いた歌は、貴方の心の中を表す歌。
10)そして、11番に書いた歌は、貴方の人生を表す歌です。
この書き込みを読んでから、1時間以内に10個の掲示板にこの書き込みをコピーして貼って下さい。
そうすれば、あなたの願い事は叶うでしょう。もし、貼らなければ、願い事を逆のことが起こるでしょう。とても奇妙ですが当たってませんか
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/24(木) 07:58:41.57
で?
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/20(火) 23:12:43.46
ユウソの事が載ってる三国志の本って出ないかな〜。
出てるじゃん
あれ?そう?
登山家が街亭で負けたから、全軍撤退〜で出てこないのが多いよ
ちくま文庫の正史三国志って本に載ってるよ
諸葛亮が雑魚だからな
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 04:14:37.36
五条原で雨降って司馬懿が命辛々助かったってのは創作?それとも史実?
273 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/22(木) 08:10:30.19
司馬懿がいなかったら少なくとも長安は蜀の手に落ちてた
そこから先へ進めたかはわからんが
>>272 あのコロ谷で焼き殺されそうになった話?
演義のみの創作だったはず
ステマ
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/28(土) 13:41:45.34
諸葛亮があと何人かいたら、魏は負けていたかもしれない
ナイナイ
魏延の策を孔明が採用していたらどうなったの?
成功したかもしれないし失敗したかもしれないしわからない
失敗確率は高いだろうけど絶対はないから
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/26(土) 10:22:03.76
長安を取れてもな〜。どっか迎撃できる要衝ってあったっけ?
コロウカンって近いっけ?
>>281 破壊されたとは言え函谷関のあった場所なら相当守れる
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/27(日) 10:32:12.45
>>282 守りに強い蜀軍なら、きっとなんとかしてくれるかもしれない
長安の軍需物資をせしめたとして、長安領民が大人しくしているかどうか怪しいか
漢中〜長安の道の険しさは異常。日本だとどこをイメージすればいいんだ?
天城越えの何倍?
実際は北伐は小競り合いで官渡や赤壁の戦と比べたら鼻くそ
夷陵の戦いの方が戦らしい駆け引きあったと思う
孔明が本当に戦上手なら夷陵の戦には呼ばれていたはず
>>285 国政の最高責任者と第二責任者が同時に遠征したら国が回らんだろが
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/11/24(土) 15:38:05.20
曹真さん(ナイスガイ)がいる限り、北伐はキツイでしょう
この前旅行で四川省の北の方行ってきたけど山の険しさ半端ねえな
あんな山脈超えて5回も孔明の北伐に付き合わされた蜀の兵士たちが気の毒になった
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/11/25(日) 08:29:37.01
そんな険しいとこだからパンダがチャイニーズどもに食い尽くされずに生き延びることできたんだろ
gf
てs
d
d
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/30(土) 12:36:57.26
曹真で十分よ
y
諸葛亮弱すぎ
俺なら成功していた
五丈原に引き籠もり自爆
死んだ振りして誘き寄せるとかすればよかったのに><
諸葛亮、政治家としては素晴らしいだけ
軍事は二流三流
軍の掌握とか迎撃戦は優れていたと思うけどな
守りを固めて動かない敵に対して、勝てる人ってどれほどいるのか・・・
満寵の守備は鉄壁
満寵は過小評価されてるな
守りを固めた審配に勝った曹操
司馬懿じゃなくて満寵だったら諸葛亮をフルボッコ
te
308 :
ジャイアニズム:2013/09/06(金) 14:42:29.80
蜀は発糞車を発明し、密偵の投糞攻撃で魏を滅ぼすチャンスがあった
くさそう><
おマンチョ大将軍
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/09/05(金) 14:02:23.41
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司馬懿が死んでも北伐失敗してるし(姜維)
段谷の失敗さえ無かったら・・・
諸葛亮と比べてたら無謀な動きが多すぎ!?
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