魏は第四次の反省から雍州の防備を強化した。
司馬孚の献策で、中央軍から歩騎2万を移して二つの部隊を作り、
新たに関中に配備した。
また、冀州から農丁五千人を上ケイに移して屯田させ、
秋冬は軍事訓練をし、春夏は田畑を耕した。
更に魏は扶風を東西に貫く水路を整備し始め、
長安と隴右を水運で直結させて兵員・兵糧物資を素早く西へ送り込めるよう図った。
(第五次の前年完成する)
諸葛亮は魏の強力な諸葛亮対策の前に、北伐戦略の練り直しを迫られることとなった。
先の大戦で、曹叡から「君を措いて任せられる者はいない」と言われて赴いた司馬懿であったが、
敵が退いてくれたから良かったものの完全に敗北した。
そのうえ反対を押し切って追撃した結果、張コウまで死なせてしまった。
結果の上では防衛に成功し、形の上では賞されもしたが
曹叡の信頼と王朝の期待に背いたことは間違いなかった。
出ては敵を恐れて戦わず、戦えば大敗し、
敵が退けば挽回しようと無理に追撃して古参の名将を失った。
これまでの功績は霞み、司馬懿は立場を失いつつあった。
先の大戦で自身の名誉に傷を付けた司馬懿は
転落を回避しようと蜀攻めを何度も求めた。
転落を避けるには、勇んで見せて"負け犬"でないことを示す他ない。
もちろん曹叡が却下するのは計算に入れている。
後に司馬懿自身も反対する蜀攻めを司馬懿が本気で計画するわけもない。
かつて曹叡は二度も曹真の提案を退け、三路から同時に大軍で攻める案にやっと首肯した。
司馬懿が蜀攻めを求めた時期は呉との緊張も高まり
西方の遠征に大軍を投入できるような状況ではなかった。
また、成国渠(水路)・臨晋陂(堤防)という大工事を行っているさなかの関中に
遠征できるだけの余力などなかったはずだ。
工事が終わったら終わったで、水路の一早い有効活用の為に
投機的な遠征より大規模な灌漑および開拓を優先すべきなのは明らかだった。
曹叡が出征を許可する筈はないのだ。それを分からない司馬懿ではないだろう。
先の大戦から2年7ヵ月、諸葛亮は三度目の北伐を開始する。
第五次 五丈原の戦い
今度の遠征は呉との共同作戦だ。
蜀が西から、呉が南と東から、大軍で同時に魏領へ侵攻するかつてない大規模な作戦だった。
諸葛亮は兵十万を率いて褒斜道を北へ向かった。
今回の目標は洛陽。
呉が東方・南方で魏を破れば、一気に首都攻略戦へもつれ込むだろう。
蜀も遅れをとるわけにはいかない。呉に先んじて洛陽を陥れてしまいたいものだ。
もし呉に洛陽を取られれば後々不利になる。
そんな事は分かりきっているので、洛陽を目標と設定した作戦をとった。
他国との共同作戦は難しい。
魏の防衛線の一角が崩れればその影響は他方にも及ぶ。
蜀としては呉が東で魏を破ってくれて、その影響で崩れた敵を
労少なく破り、一気に進撃したいところだ。
逆に、他国との共同作戦で、自国が苦労のすえ敵を破ったおかげで、他国が快進撃をし、
自軍は傷つき疲れているのに他国は無傷、その上首都を落とされる
というのは頂けない。
他国との共同作戦は駆け引きが必要なのだ。
諸葛亮は呉と駆け引きしながら借刀殺人を狙った。
つまり呉が魏軍を破ったら、その動揺に乗じて関中の敵を片づけ、一気に東進する作戦だ。
魏はもとより、呉よりも兵力に措いて劣る蜀は
戦力を温存しながら機会を待たなければならない。
が、他国に期待はしても宛てにするようではいけない。
ましてや軍を起こすなどあってはならない。諸葛亮がそんなことをするはずもなかった。
諸葛亮は蜀単独でも遠征を成立させるだけの戦略をもっていた。
諸葛亮は褒斜道を進むと、前軍を使って斜谷の途中から陳倉へと抜ける小道を開通し、
軍を二手に分けた。
主力が五丈原で敵の主力を抑え、その間にもう一軍で陳倉以西を攻略するという戦略だ。
そうしている内にもし呉が東で魏を破れば、東進を開始すればよいのだ。
呉が敗れても、蜀は陳倉以西を獲得して遠征に区切りを打つことができる。
これが三度目の北伐の戦略だった。
褒斜道にいるとき、諸葛亮は兄の瑾に手紙を送っている。(水経注亮集)
その手紙には、陳倉へ軍を出して囮とし、主戦場である東の敵戦力を減らすつもりである
と書いてあった。諸葛瑾は兄とはいえ呉の臣。諸葛亮はその辺をきちんとわきまえている。
「主力を東で抑え、陳倉以西を取るつもりです。」と正直に言うわけはない。
呉が望んでいるのは蜀軍が西でいち早く魏軍を破ること。
「積極的に攻めない。東に進まず領土を切り取る。」と聞かされて
共闘している呉が喜ぶ筈はないのだから。
五丈原にいるとき、呉の歩シツに手紙を送っている。(水経注亮集)
その手紙には、20余里東の有利な地に魏軍が陣取ってて簡単に進めない。
仕方ないので五丈原に留まるのを良しとするのみ と書いてあった。
これは東進しないの事の非難を避けるための方便だろう。
諸葛亮は呉を操りながら戦を進め、丞相としてきちんと自国の利を図った戦い方をしているのだ。
諸葛亮と司馬懿は共に渭水を北にし、東西に向かい合って陣を張った。
宣帝紀を信じ切っている司馬懿ファンには申し訳ないが、
あれはかなりの脚色と見ていい。
宣帝紀では、諸将が北岸に陣を張って諸葛亮を待ち受けるべきと言ったのを
司馬懿は否定して南岸に陣を張ったとなっている。
現代地図(google maps)を見ると分かるが、守るべき長安は渭水南岸にあり、
五丈原から真っ直ぐ東に120キロ行った地点にある。
北岸に大軍を置いてどうする?というような位置関係にあるのだ。
「北岸で待ち受けるべきだ」という将がいるとは到底思えない。
普通に、敵の進路を妨害すべく渭水の南側に陣を布いた。
川を背にもしていない。どれも司馬懿を格好良く見せるため潤色して伝えたもの。
司馬懿の本営は、亮集に残った歩シツへの手紙にある「‘武功’の東十余里に在る"馬冢"」と思われる。
ちなみに五丈原は‘武功’の西十里にあるという。
従って、宣帝紀の司馬懿は
「諸葛亮がもし勇者であるならば、武功に出てきて山にそって東に進むであろう。」
→ 勇者ならば司馬懿の所へ攻めてくる。
「もし西に進み五丈原に出たのであれば、我々の軍は事なきを得るであろう。」
→ 五丈原へ行ったのであれば、会戦は起きない。
と言っているのである。
曹叡の命令が「戦うな」なのだから、諸葛亮が五丈原へ行ったのならひとまず安心だ
ということなのだろう。別段格好いいことは言ってない。
宣帝紀は"諸葛亮が手を誤って司馬懿の術中に落ちた"と読者に錯覚させているだけなのだ。
さらに諸葛亮が渭水を北に渡ろうとしたと続くが
諸葛亮が北に行くことのメリットが見当たらない。
宣帝紀では渭水北岸が本来守るべき場所のように書かれているので話が通るが、
長安は南岸にあり、北岸に渡って進んでも長安へすんなり入る事はできない。
北岸を行けば遠回りなうえに兵站を断たれるだけだろう。
諸葛亮と司馬懿は共に渭水を北にし、‘武功’を挟んで東西に向かい合って対陣した。
五丈原のすぐ東に武功水が流れている。諸葛亮は武功水の東岸に陣を築き孟エンに守らせた。
郭淮は諸葛亮が必ず北原(渭水の北にある広大な丘陵)に出て来るだろうと予想した。
多くの者が否定したが司馬懿は従い、郭淮を派遣して北原を守らせた。
まだ要塞が完成しない内に蜀の大軍が攻め寄せたが、郭淮はこれを撃退した。
数日後、諸葛亮は西へ向かう動きを示し、西囲を攻めると見せて陽遂を襲ったが
郭淮が見抜いていて備えていたので、落とすことができなかった。
司馬懿に援軍が届く。
渭水が増水(武功水も当然増水)し、諸葛亮軍は武功水を渡れなくなった。
司馬懿は騎兵一万で武功水東岸の孟エンの陣を攻めた。
諸葛亮は竹を組んで橋を作らせるとともに、川越しに矢を射掛けた。
魏軍は橋が完成しそうになったのを見てすぐに逃げた。
呉が撤退した。
とまぁ、大体こんな流れだろう。
諸葛亮は司馬懿に何度も戦いを挑んだ。が司馬懿は応じない。
そこで諸葛亮は先の大戦の戦利品を持ち出す。
諸葛亮は司馬懿に女物の着物と髪飾りを贈りつけた。
「こうまで戦を恐れて戦おうとしないお前は、男子ではない。女だ!」というメッセージだ。
『や〜い! 女野郎。』 『 オ・ン・ナ! オ・ン・ナ! 』
司馬懿を嘲る声が脳裏に浮かんだかも知れない。
名門に生まれ、若い頃から司馬の八達ともてはやされ、
帝王の師となり、数々の功を為して今の地位まで登りつめた司馬懿さまが
女と呼ばれ笑われている。
司馬懿はその人生で自分が女呼ばわりされるなど思いもしなかったろう。
丈夫にとってこれ以上の侮辱はない。
魏将たちも司馬懿と諸葛亮の贈り物の成り行きを見守っている。
魏将たちも思っているはずだ。
「男なら絶対我慢できない」と。
義憤に駆られた者も数多いるだろう。
司馬懿の脳裏にもう一つ言葉が浮かんだ。
それが諸葛亮が先の大戦で得た戦利品だ。
“ 負け犬 ”司馬懿
出ては恐れて戦わず、戦っては大敗し、
追撃すれば宿将を失わせた
その男が、今、敵から女物の衣装を贈られ
戦いを挑まれている。
拒めるはずもない。
拒めば求心力を失い、魏での立場は危うくなる。
先の敗北から2年8ヵ月、司馬懿が腐心してきたイメージの回復が
女の衣装ひとつであっさり剥ぎ取られ
敗残者の司馬懿に引き戻されてしまった。
朝廷で求心力が大事なのは勿論だが、
目の前の将兵も無視できない。
戦士は皆男。男としての自負が戦場に男を立たせている。
大将を女呼ばわりされて黙っていられる男は居ないだろう。
ところが当の大将が恥を知らず、軍命で下を縛って統制しようとすれば
軍は瓦解しかねない。
戦場での求心力を総大将が失えば、まともな戦は出来ないのだ。
それで敗れてもやはり戦を預かる司馬懿の責任。
戦いを拒めば司馬懿に先はない。
戦えばかなりの確率で敗ける。敗ければ君命に背いた罪で命すら危うい。
司馬懿は追い込まれた。
そして、やはり、戦いを選択せざるを得ないのだ。
戦う以外の選択肢はなかった。
司馬懿は心の内で諸葛亮の策謀に感服し、苦笑いを浮かべたに違いない。
司馬懿は冷静を取り戻し、素早く頭を回らせた。
"怒ってないフリ"を使者と魏将たちに"して見せ"た。
使者を帰すと魏将たちの前で怒り狂って見せ、
決戦を宣言した。
そして言う。
「今すぐにでも攻め寄せ、諸葛亮めを斬り伏せたいところだが、
生憎、我らは国家の大事を任されて此処におる。
敵に辱められたからと言って君命に背くようでは臣とは言えまい。
諸君らは胸を張って戦うことが出来るか?
今しばし堪え忍び、陛下にお許しを頂こうではないか。
そして堂々と胸を張り、生意気な山猿どもを討ち果してくれようではないか!」
と。(創作)
司馬懿は雌雄を決したいと使者を遣わして上表した。
無論、曹叡が許す筈はない。
曹叡は辛ピを勅使として遣わし、諸将の前で司馬懿をなだめ、改めて戦を禁じた。
こうして司馬懿は面目を守りながら諸葛亮の挑発を巧みに躱すという難技をやってのけた。
さすがである。
戦を挑んでも敵は乗らず、こちらから無理に攻めても大きな被害を出す
これでは諸葛亮も戦にならなかった。
膠着状態に陥り、睨み合いを続けた。
そして
諸葛亮は病没した。
蜀軍は漢中に引きあげた。
住民がその事を告げに来たので、司馬懿は蜀軍を追撃した。
ところが、追いついたところで蜀軍が軍旗を返し、太鼓を打ち鳴らして向かってきたので、
司馬懿は追撃を止めて撤退し、迫ろうとしなかった。
数日経って司馬懿は蜀軍の陣営跡を見て回った。
検分を終えた司馬懿は諸葛亮を偲び、「まこと天下の奇才であった。」と評した。
そののち斜谷周辺の百姓が司馬懿の追撃のことを論って
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」 と諺を作って言うようになった。
或る者が百姓らを誅罰しようと司馬懿にこの事を告げた。
司馬懿は怒らず笑って
「私は生きている者なら上手く処理することが出来るが、死んだ者には手も足も出ない。」
と言って上手く返した。
五丈原で諸葛亮を完封した司馬懿に
もう負け犬の影はなかった。
〜 諸葛亮の死について 〜
よく過労死だと言われる。
が、そう決めつけるのは早計だろう。
多忙+病死=過労死
とはならない。
司馬懿は使者に諸葛亮の生活をつぶさに尋ね健康状態を量った。
どうしてそんな不可思議なことをする?
まるで諸葛亮が健康を病んでいると前もって知っていたみたいではないか。
そう、知っていたのだと思う。
対峙している敵の総大将が病んでいれば、その進行具合を探りたいのが人情だろう。
そうでないというのなら、健康状態に問題のない50男の生活を聞いてどうするというのだ。
諸葛亮は病を押して不帰の覚悟で3度目の北伐へ赴いたと考えるべきだろう。
不治の病を患い死期が迫りつつあった諸葛亮には遣り残したことが沢山あった。
諸葛亮の願いは漢王朝復興。
腐った後漢ではなく、大漢帝国の皇統という天を引き継ぐ新たな漢をしっかりと建て
良き世を作ること。それが願いだろう。
出師表を読めば諸葛亮の思いが痛いほど伝わってくる。
ただ国を建てればいい、ただ天下を取ればいい のではない。
その帝国が世を照らし、民を安寧へと導かねばならないのだ。
後漢末、国が腐り、世が乱れた。その争乱を通して人が多く死に
人口は百分の1と言われる程にまで減っていた。
野には人骨が散らばり、町を離れれば人を見ることはなく
蕭々とした風景が広がっていた。
これは紛うことなく天下国家の責任だ。
諸葛亮は、永きに渡って世を照らし、民を安寧へと導き続ける統一国家の建設を目指した。
理想実現のためには何よりその王朝が健全である必要がある。
人が私利私欲に塗みれていれば国家の健全は保てない。
諸葛亮が愛した者たちは皆、公正無私で清廉だった。
反対に、対立したりトラブルを起こした者たちは皆、我欲が強かった。
清廉さばかりを人に求めていては、有能な人材を逃し、国は強くならない。
それでは天下は取れない。
諸葛亮は現実をしっかり見、妥協してその者たちを容れた。
が、あくまで国の中枢は清廉な人間で占めなければならず
緩やかに私欲人間を閉め出していった。
魏晋そして蜀の終焉を見ればその重要さが分かるだろう。
諸葛亮が志し半ばに不治の病に冒されたとき
蜀はまだまだ未熟だった。
先の短い諸葛亮に寝ている暇はなかったのだ。
善き世を作るには、乱世を経た俗人たちの下々に至るまで、
何より重要な「公正」の概念を浸透させる必要があったが
出来ていなかっただろう。簡単であろうはずはないのだから。
役人は未だ私縁私情で賞罰を加減する裁きを当然のようにやっていたのだろう。
諸葛亮は裁きの手本を示すために、軽い罪まで自分で裁いた。
そして、所謂判例を作り上げ、規範として遺した。
蒋エン・費偉の代に諸葛亮の作った"慣習として人々が了解している事柄や、新たにきめられた事柄を
文章として書き表して成した、行動や判断のよりどころとなる基準"は引き継がれ、
その成規に沿って物事は判断された。諸葛亮の作った成規は革められる事がなく、
皆そのままこれに従った。
諸葛亮の才能・精神・努力は
その死後も蜀を支え続けたのだった。
病身を押して働いた諸葛亮に
「諸葛亮は人に任せられない性格でそのために早死にした。」
などと言うのは冒涜だろう。
さて、第五次の考察に戻ろう。
むしろここからが本番。
諸葛亮の3度目の北伐は成功することなく終わった。
どうして上手く行かなかったのか?
諸葛亮が死んだ
それもある。
呉が早々に撤退した
それもある。
が、何もないまま諸葛亮と司馬懿の戦いが膠着した
これが大きいだろう。
その理由を考えていく。
何もないまま諸葛亮と司馬懿の戦いが膠着したのは
何と言っても、"郭淮に北原を押さえられ、奪うことに失敗したから。" ではないだろうか。
それに陳倉方面はどうなった?という疑問も残る。
郭淮曰く「もし諸葛亮が渭水を跨いで北原に登り、北の山に兵を連ねて隴道を隔絶すれば
民・異民族は揺れ動き、我が国は困ったことになるでしょう。」
ここでお手数ながら地図を見てもらいたい。
http://ditu.google.com/ 右下に地図があり、左下に省や区の一覧がある。
その一覧の右上の「くく」ボタンをクリックすると一覧が消え地図が横長になる。
そしたら西安(長安)を何度かWクリック。すると西安の左(西)に「宝鶏市」が見えてくる。
表記は簡体字なので字体が多少崩れている。「宝鶏市」これが昔の陳倉。
宝鶏市を何度かWクリックすると、西安との中間あたり、道の上に「眉県」が見えてくる。
「眉県」がビ(眉β)。「県」の字も崩れて「具」のような形になっている。
眉県を2度Wクリックすると、眉県の左下に「落星幺」のような表記の場所が出てくる。
ここが五丈原の戦いのとき隕石が落ちたと言われる場所。
地図上を東西に川(青線)が流れているが、これが渭水。
もう一度Wクリックすると「五丈原鎮」が見えてくる。
五丈原鎮をWクリックすると「諸葛亮宙」のような表記の場所が出てくる。
そしたら、地図画面右上「地形」ボタンを、「諸葛亮宙」を見ながらクリック。
地図が地形図に切り替わり、「諸葛亮宙」のあった場所に
親指のような、はたまたラムチョップのような形の台地が現れる。
その台地が五丈原。
台地の南端が狭まっていて、5丈(12〜15m)しかないのでその名が付いた。
地図画面左上に「手のマーク」とその上下左右に「く」がある。
これで地図をスクロール(移動)する。
スクロールボタンの下に「人のマーク」と「+」「−」がある。
「+」「−」で地図を拡大縮小する。
画面を縮小すると、渭水の北に広大な台地が広がっている。
これが北原と言われる。
以下は地図を参照しながら読んで欲しい。
もう一度、郭淮の言葉を。
郭淮曰く「もし諸葛亮が渭水を跨いで北原に登り、北の山に兵を連ねて、隴道を隔絶すれば
民・異民族は揺れ動き、我が国は困ったことになるでしょう。」
諸葛亮は何の為に北原へ登ろうとしたのだろうか。
郭淮の言葉の通りなのか。
「渭水を跨ぎ、北原に登り、北の山に兵を連ね(連兵北山)、隴道を隔絶する」
隴道を隔絶して、以西の民・異民族を蜀に帰服させる と。
距離を測った。
五丈原は南北に5q
渭水の走る平野の幅が6q
北の広大な台地、南から北辺の山脈までの距離が15q
諸葛亮が以西を隔絶するには、封鎖の為に26qに渡り点々と陣を布く必要がある。
するだろうか?
陣が無駄に伸びる。
北の広大な台地は平坦で、守りに適しているとは言えない。
おまけに中ほどを東西に渓谷が走り、南北は分断されていて連携がとれない。
平野もそうだ。
魏軍が遊撃すればきっと対処できないだろう。
兵站線はどうする?
幅6qの平野、渭水付近で遮られたら、以北の軍は補給を断たれてしまう。
下手な戦略にしか思えない。
諸葛亮がこんな戦略を取るとは思えないのだ。
そこで大胆な仮説が浮かんだ。
郭淮の言う北原とは、五丈原の北の広大な台地のことではなく、
もっと西の、鋭く尖った形をした如何にも堅そうな台地のことではないのか。
地図見てどこだか分かるかな。
広大な台地の左の方に、斜めを向いた長方形の湖があり、
その左横に少し色の違う鋭角の台地があると思う。
それ。
そこならば守り易く、東側は崖のようだから陣を縦に連ねて東西を遮断する必要はない。
敵の遊撃に晒されることもなく、台地上の連携も断たれず、
兵を散らばらせる必要もない。
北の山の谷に陣を築き、台地の軍と連携して守れば
隴道を封鎖することが出来る。
どうだろうか?
その台地は宝鶏市にある。そう、陳倉だ。
諸葛亮は褒斜道の途中で軍を二つに分け、
自らは主力を率いて東へ進み五丈原に布陣して、敵主力を食い止めた。
もう一軍を陳倉へ行かせ、以西を攻略しようとした。
が、陳倉方面軍は郭淮に阻まれた。
こうではないだろうか。
その陳倉方面軍の指揮官は誰か?
魏延だろう。
陳倉攻略は3度目の北伐(第五次北伐)の戦略の肝であり
非常に重要な任務だった。
数万もの大軍を預けられる将器と職位があり、実力を信頼して重要な任務を任せることが出来る人物…
誰がいいだろう?
魏延ではないだろうか。
諸葛亮陣没後、楊儀らは魏延を置いて帰った。
魏延は先回りをして桟道を焼いた。
どうやって先回りしたのだろう?
撤退する蜀軍を司馬懿が追撃したが、迎えたのは楊儀。
置いて行かれた魏延はどこいった?
楊儀は司馬懿を追い返せるほどの大兵力を従えていたのに
魏延は自分の部隊数千ほどの兵力で、よく戦いを挑もうと思えたな
という疑問が
もし魏延が陳倉方面軍として別軍を率いていたとしたら
すべて解ける。
つまり、諸葛亮の3度目の北伐(第五次)が
暗礁に乗り上げ何の成果も挙げないまま終わったのは
方面軍を任されていた魏延が陳倉を攻略しなかったからなのではないのか。
諸葛亮が没すと、魏延は総指揮を自分が執って戦争を継続すると言いだした。
名将諸葛亮をして攻め手がなく、膠着してしまった戦の指揮を引き継いで
戦いを続けるというのは貧乏くじだ。
魏延には何か秘策でもあったのだろうか。
あったのだろう。
陳倉を攻略して、以西を手に入れるというとっておきの策が。
驍勇を誇る魏延が数万の軍を率いておきながら
防塁がまだ完成してないにもかかわらず北原を取れなかった。
"取らなかった"のではないか?
魏延は諸葛亮の命が短いことを知っていた。
魏延が陳倉を攻略しても、遠征の功績は戦略を立てた総大将諸葛亮が持って行く。
魏延も当然賞されるが、それは陳倉攻略という戦果に限るだろう。
以降おこる西方の帰服までは魏延の功にはならない。
諸葛亮が死んだらその後継者は楊儀だろう。(魏延の目から見て)
楊儀が後釜に座れば魏延に未来はない。
楊儀は酷く魏延を憎んでいるので、魏延はいずれ謀殺される運命にある。
魏延が一発逆転して未来を切り開く為には
無理矢理にでも総指揮を引き継ぎ、それから陳倉を攻略し、
以西を手に入れるという諸葛亮でも為し得なかった大功績を挙げるしか
ないのではないか?
諸葛亮が生きている間に陳倉をとれば遠征の成功は諸葛亮のもの。
たとえ陳倉だけを得たタイミングで諸葛亮が亡くなっても変わらない。
魏延は諸葛亮存命中に(自分が総指揮を執らない内に)陳倉を取れば大損をするのだ。
軍内での魏延の地位は諸葛亮に次いで2位。
陣中で総大将に何かあったら
普通、指揮権はナンバー2に移行する。
魏延が総指揮を引き継げる可能性は充分過ぎるほどにあった。
普通なら魏延が継ぐことになるのは確定的。
さ、どうする魏延?
今すぐ陳倉を取るか?
それとも後で取るか?
ということではないだろうか。
こうして諸葛亮最後の北伐も失敗に終わった。
失敗の原因であるであろう魏延が、二心を抱き保身に走ったのは
諸葛亮の死が遠からず訪れるということで後継問題が浮上したからだ。
結局のところ諸葛亮の寿命が第五次北伐の失敗の原因ということになる。