蜀の北伐が文字通りの北ではなく西方へ伸びたのは、
異民族を懐柔して国力の底上げを図りたかったからだろうね。
戸籍に載らない異民族の数は相当なものだったろうし。
近場の陳倉に進出した際は兵糧不足で早々に撤退したのに、
遠い西方で長期間行動できているのは、そういった異民族から食料や物資を得ていたからじゃないかな。
そこらのことは楊戯伝に記されてるな
諸葛亮の陳倉攻めがあっさり兵糧切れで終わったのは不思議だよな。
短期決戦を挑むつもりで国家の総力挙げて動員できるだけの大軍を動員して、
食料あまり用意しなかったから、陳倉城で粘られて予定が狂って、
撤退せざるを得なかったんじゃないかな?
諸葛亮の北伐は総力戦、姜維の北伐は総力戦では無い気がする。
姜維が動員した兵力も諸葛亮ほど多くなかったと思う。
それでも国が破たんしたのは、食料を大量に用意して長期戦の構えで戦い、
国庫に多大な負担を強いたのと、
諸葛亮体制の時代ほど後方支援体制がしっかりしてなかったのに、
連年出兵を続けたからじゃないかと。
>>277 近年の説や時系列的にも、陳倉城攻めは武都・陰平攻略と連動しているというのが
有力じゃなかったか?
>>278 確かに陳倉攻めの直後に、武都・陰平侵攻してるしな。
陳倉攻めは大規模な陽動だったのかも知れんな。
撤退が不自然なまでに早すぎるし。
FA宣言が流行ってるようだな
>>265 野球で言うところの「振り逃げ」っぽいがまあヨシとしよう
しょうがないから
しかし「漢の涼州(魏の雍州西部)」を対象にしても無意味なことに変わりはないよ?
そもそも雍州西部を係争地とカテゴライズしてもよいのものか疑わしいだろ
魏と蜀は戦争する理由がある それだけの事じゃないか
雍州西部の覇権を巡って2国が戦争しているわけではなく
戦争している2国の前線に雍州西部が位置している
前者なら係争地と言えるが後者は言えんだろう
「係争地」としたことは、それ自体誤りだが
更にそれが戦争の方向性を勝手に定めている
これは間違ったことだよ
しかも涼州は国力的には魅力がないと思い込みで勝手に決めつけて排除しているし
考察はまったく誤った方向に行ってしまうだろうね
>>280 ごねてるだけで何も言ってないよ、あんた
戦争している2国の前線に位置しているのは雍州東部、隴東だ。
>>280 涼州が国力的に魅力のある土地じゃない事は、
さんざん言われてきた事だと思うが。
涼州豊か論はことごとく論破されてきたし。
>>282 こりゃまた変わった意見だね
>>281 係争地じゃないのだからそこから仕切り直さなきゃいけないよって言ってんの
>>283 涼州豊かじゃない論がことごとく論破されてきたようだけど?
>>284 >>285 いや、俺前スレからいるけど、涼州豊か論は無理な史書解釈や推論が多くて、
突っ込まれまくってた気がする。
あれは突っ込む奴がバカだった
>>284 なあ、根本的なことを聞いてしまうが…
隴山がどこにあるかしらなかったのか?
笑 いいのか? そんなこと言って
どこにあるか言ってみなよw
今度は全レスさんがきたか
結局涼州豊じゃないとか言ってるのはDQNってことでFA
これはスレをわざと混乱させたい人間の手口だ
>>278,
>>279 ただ陳倉で陣頭指揮を執っていた諸葛亮本人が建威まで牽制に出ている
陽動だったら両方が戦場になる可能性もあるからどちらかは別の将を使うだろう
また魏の援軍は武都、陰平のある西方からではなく東方から来ているから
下手すれば敵軍を増やすことになりかねない
陳倉攻略は失敗したけど軍の損耗が少なかったから
魏の援軍が戻る頃合を見て急遽2郡攻略を行ったのではないかと思う
なんにせよ、このふたつの戦役を別個のものとして捉えては見えてこない部分が
あるのはたしかだろうな
臨機応変の才に優れていたんですね
>陳倉
たった二十日余の攻防なのに、攻略諦めた理由に兵糧不足があったりと。
孔明は大群で簡単に落とせる算段が普通に狂っただけのような。
これ以後、手を出さないようにしているし。
つまり諸葛亮にはテレポーテーション能力があったんだよ!
テレポーテーションで陳式軍をまるごと瞬間移動させたのさ
そう考えれば別個の戦役と見なすことも不可能ではないというかなんというか無理
陳式って、一軍を率いて二郡を平定すると言う、
魏延以上に重要な役割を任されて大功を立てている有力な将軍なのに、
官位も事跡も分からず、季漢輔臣賛にも華陽国志にも記録のない不思議な人物。
漢中攻めで徐晃に敗北
夷陵の戦いでは呉班と共に水軍を率いる
北伐では二郡攻略
分かる事績はこれぐらいか
共通点は、本隊ではなく、別働隊を率いている事だ
劉備・諸葛亮時代を通じて常に別動隊を委ねられている点をみる限りでは、
陳式はそれなりの信頼を得ていた将官だったと判断してもあながち誤りではない
のかもしれないな
任務に忠実でそつなくこなせ、ある程度の独自の判断もでき、それでいて
余計な自己主張をしないというのは時代や指導者を問わず重宝されるし
王平あたりもそんな感じか
実は陳式は四方将軍クラスで趙雲より格上だったのかもね。
李厳弾劾の上奏の時には名前が無いから、
この時はもう死んでいたんだろうね。
李厳弾劾の前に四方将軍っていうのは、李厳と同格かそれ以上ってことだぞ
陳式は名を到と改名しました とかいうオチは無いよな
>>296 兵糧不足も何も第一次で数万動かしといて半年でさらに同規模の数万動かして
さらにそこから1ヶ月くらいでまた別に数万動かしてるんだが糧秣不足って何?マジで何?
陳寿の曲筆じゃねーの?
陳寿は官渡でも同じようなことやらかしてるよね
「袁紹は結局動かなかった」とか
袁紹のは官渡のかなり前の話だろ。
「小子」の病という理由が本当かどうかは別として、袁紹は曹操不在に対して動いてない。支軍を派遣しただけ。
劉備が駆逐された後にやっと郡県に檄文を飛ばして大動員を掛け、自ら出陣して渡河を行った。
一次・二次と三次を同規模に設定するのもおかしい。
一次は三百キロ以上の長距離を行軍して隴西を全土を掌握、
二次は二百キロの秦嶺山脈を縦断する計画の作戦。
しかも、上手くいけば洛陽から到来する魏の主力との交戦が視野に入るもの。
当然、後方を含めた動員人数は莫大なものになる。
三次はそれに比べて距離も短く、攻略予定地域にまとまった軍団は確認されず、
魏の救援は一次よりさらに長駆を強いられる。
実際、雍州刺史の郭淮さえ間に合わなかった。
始めに丞相軍主力ではない陳式が動いて二軍の制圧に成功し、
やってきた郭淮に応じて諸葛亮が動いた、という規模のもの。
備蓄の安全ラインは大幅に下がる。
DQNちゃんはもうちょっとよく考えた方がいいな
それにスレ違いだろ
北伐スレでやれ
蜀漢の兵站事情の話はスレ違いなのか? じゃあ切り上げるわ
>>305 ところがどっこい、わずか1、2ヶ月の出来事
劉備の徐州造反は199年末、敗走という逃走は200年1月、袁紹の南下はほぼ同時期
劉備は曹操が自ら来たと聞くや即座に逃走しているので
曹操が劉備を攻撃したのとほぼ同時に袁紹は南下しているということがわかる
2月には犠牲を出しながらも白馬を落としてる
数万規模の軍団の動きとしては袁紹の軍事行動は遅いどころか実に的確
時系列を整理すると陳寿は何らかの目的があって「袁紹は動かなかった」と
愚鈍な印象を付与してると言わんばかりの曲筆と言ってもいいレベル
>>306 それらは全て僅か1年程度の間に行われた軍事活動だからなぁ
魏延の陽トウ合戦を挟んで4次がそれから3年後にならないと行えないと言うことは
1〜3次である程度備蓄を使い果たしたと考えてもいいだろうが、
少なくとも2次の時は3次を行うだけの余力があったわけで2次で兵糧不足による撤退というのは
明らかに3次を見越してるから、足りない、というだけで、とことん足りないというわけではなかったと見ていいのでは?
スレの主題に立ち返ると、蜀の経済規模というか丞相府の権限で賄える兵糧を
これらの諸葛亮の軍事行動間隔からある程度はじき出せるかもしれない
追記
諸葛亮は北伐以前に南征も行ってるけどこちらも北伐の3年前であることを考えると
諸葛亮は3年分の備蓄があると軍事行動をするのかもしれん
>>309 袁紹が鄴から100kmもない黎陽に2月に着いているのだから
曹操が東に行っていた1月には何もしてないって事でしょ
それに後漢書でも劉備が袁紹の所に逃げた後に進軍したとあるし
>>310 諸葛亮が自ら動いたのが225年、228〜9年、231年、234年だから可能性はあるね
ただそれだと蜀の食料生産能力は3年かけて備蓄しないと
大軍を動かせなかったということになるけど
現代戦じゃあるまいし…そんな即応が可能なものかよ
>>312 袁紹側が準備をしていなかったとでも?
じゃあ曹操は何のために官渡まで来ていたのかと
>>309 袁紹と曹操は既に前年の前半から交戦を始めているんだよ。主に黄河の北で。
曹操は并州に手を出すなど積極的に北方への取り込みを行ったが、失敗する。
曹操自身も黄河北岸の黎陽まで進出している。
主力同士の交戦がいつ行われるか、というところだっただろう。
で、袁紹が物量に任せた本格的な動員を行い、白馬に先鋒を派遣したのが二月。一ヶ月はロスがある。
田豐「今の隙に動かせる全力で攻めろ」袁紹「まだ俺が動く時期じゃない」という応酬を否定することはできない。
勿論、病云々は田豊を引き立てるためによく付与される類の伝説で、
実際には単に大動員が間に合わなかっただけかもしれないけどね。
>>312 100kmもあったら移動だけでも1週間は見ないといけない
大軍になればなるほど行軍に時間がかかる
不勉強なもんで黎陽とギョウの直線距離は知らんが黎陽は白馬の対岸
つまり1月に曹操が動いて2月に白馬の拠点落とされているということは
拠点が即座に落ちたのでもなければ1月中にはもう行動始まってると見るのが自然で
袁紹は曹操の動きに呼応してきっちり攻め込んでると考えるのが妥当では?
>>315 前年、まだ袁紹が公孫サン囲んでる頃から曹操が突っ掛けてったこと考えると
そこから大軍を維持したまま反転させて攻勢に出るまで僅か半年程しかかかってないわけで
袁紹の機動は大軍を率いたままの状態としては速いって程でもないが遅くもないだろ
しかも田豊の言動って上記の袁紹の行動含めて考えると滅茶苦茶だよ
もう行動開始してるのに行動開始してなかったかのような進言はいくらなんでもありえない
>>304 だから簡単に落とせるつもりで食糧を大して持ち込んでなかったってことじゃないの?
制圧できない以上、現地調達も苦しいだろうし。
軍隊は右から左に動かすにも大変。
戦場を変えるにはそれこそ兵糧の蓄積等の準備期間が必要だろう。
遠征した兵士への休養や、対北戦の戦後処理を考えるとそちらを優先した可能性は別段不思議なことじゃない。
>>317 諸葛亮が陳倉落としてたら魏から曹真辺りが軍勢を率いて奪還に来るのはほぼ確定だと思うんだが
にも関わらずちょっとだけしか食料持ち込んでないとしたら諸葛亮は陳倉何のために攻めてんの?
落とすだけ落として維持せずトンズラ?
>>319 孫子の時代からあるように、敵に食む=敵産を奪って兵站負担軽減と速攻を両立させよう、というのは珍しくない。
効果が大きいだけに、失敗するとアレだけど。
現地調達するにしても、数万の大軍を食わせるだけの生産力が、
当時の生産力が底辺まで落ち込んでる関中にあったんだろうか?
それに陳倉の先には関中諸軍がいるわけだから、
そいつらに勝って関中を占領できなければ、現地調達も無理。
こんなギャンブルを諸葛亮がするとも思えんが、
第二次北伐は他の北伐と比べても計画性が無さ過ぎて困る。
その戦略自体を否定する気はないが、直前まで改修されてる要塞に備蓄を期待してるものか?
諸葛亮は陳倉を維持する気がないとかでない限りは自分で数ヶ月食える分くらいは持参するだろ
食料がなくなったからとあるのは蜀側の史料(蜀志と華陽國志)だから
単に「落とせそうにない上に援軍も来るから撤退した」のを
食糧問題に転嫁しただけかもしれないけど
陳倉を落として拠点にできれば
散関経由で補給するのも比較的楽だったと思うけどね
たまにはスレタイを思い出して下さい
いずれにせよ、蜀はいつも兵站で苦労してるね。
補給も大変だし、食料や物資の用意も大変だ。
これで経済が破綻しなかったんだから、
やはり益州は豊かなんだな、ってことで本題に戻そう。
益州はひきこもる分には豊かだけど、外に出ようと思うと苦労が多いね。
でも、魏より豊かだったということは無いね。
魏より豊かなら、もっと大軍を動員できて兵站にも苦労せずに勝てたと思う。
>>316 鄴と黎陽は「中国歴史地図集第三冊」によれば直線距離で約70km
(だから道が曲がっていたとしても100kmもないと表現した)
公孫瓚の敗死が199年の春とされているから
200年の春に南に向かう準備ができていなかったとは考えにくい
あと私も不勉強で申し訳ないんだけど
白馬が「落とされた」記録ってあるの?
曹操は4月になって劉延を救援しに行っているから
劉延はそれまで白馬を死守していたのではないの?
(関羽が顔良を斬ったのはこのときだよね)
>>325 まあ面積当たりの豊かさでは勝っていたかもしれないけど
さすがに国全体としては劣っていたとしか言いようがないでしょ
で局地的には優勢に立てるだけの経済力を持っていたとしても
中原から自立できる条件であった地の利が逆に災いしたと
>>327 話が何度も脇道にそれまくったけど、結論としてはそうだよね。
ようやくまっとうな結論が聞けた。
>>326 直線距離で70kmだと少し曲がるだけで100km簡単に越えるぞ
1.4倍程度の倍率なら本当に簡単
直線距離の2倍が移動距離なんてのが昔はザラ
今と違って地形にも左右されるしな
地形を無視して直線で移動できるのって今のテクノロジーで道路整備とかしたり航空機とか使ったりするからだよ
あと白馬に関しては2月に攻撃→そのまま落ちたと勘違い
2月には袁紹が白馬を攻撃させただけだな
どっちにしても2月に攻撃が出来るってことは1月中に行動開始してないとありえないけどな
>>327 官渡での曹操って1万は嘘にしても袁紹より数少ない上に
防衛戦で兵糧残り1ヶ月とか、どんだけ生産力ないんだよって感じだな
それと冀州のチート生産力もどうかと思うが後漢書のスペックだけ見ると
益州が冀州を100万ほど上回って最多人口州だった
>>329 仮に道程が直線距離の倍だったとしてもせいぜい150km
今のGoogle Mapで見る限り山地の東側を通るから
いくらなんでも1ヶ月以上かかるとは思えない
(スレタイに沿えば北伐だってそこまでゆっくり進まないだろう)
だから2月に攻撃したことをもって1月に行動開始したとは断言できない
それに記録上では三国志も後漢書も後漢紀も資治通鑑も
袁紹は劉備が曹操に敗れて逃亡した「後に」出発している
何を根拠に袁紹が「先に」動いたと主張するの?
>>331 先にとは言ってない
袁紹は劉備の行動に対応して行動した、と言ってる
陳寿の言う「袁紹は動かなかった」が間違ってるということ
>>330 当時の中原は戦乱で疲弊の極みにあった。
おそらく、生産力と治安と人口が最低まで落ち込んだ時代。
魏の時代になると、だいぶ復興が進んでるから、
官渡の頃の中原を例に出して、
魏の時代も中原は生産力なかったというのは間違い。
益州は人口が多くて広大なものの、人口密度が薄く、未開地域が多い。
冀州の方が人口密度が高く開発が進んでいる先進地域な分、
人口が益州より少なくても、生産力ではいい勝負できると思う。
丁度アバドン閣下が大暴れしてたしな
陳倉は始めから補給なしの計画でやっている
第4次も兵糧自体がなかったわけではない
蜀漢国が兵糧に欠乏した事実はないんだよね
>3年間の備蓄
第1次の前年に軍を興して漢中に入っているし
第4次の前年に攻め入ってきた曹真と防衛戦をやっている
おまけに第3次から曹真侵攻の間に漢・楽2城を築いている
兵士に一年の休養を与える事を考えれば、ほぼ間断なく軍事行動をしている
第5次は魏のシフト変化への対応と呉との調整の為に
遠征の間隔が2〜3年というのは必然的なもの
ここから生産力を測るのは不可能
>>323 陳倉は知られた名城で簡単には落とせない
仮に頑張って落とせたとしても、城は自軍の攻撃でボロボロ
修繕する暇もなく防衛戦に突入し、城を頼ることが出来ない
輜重が無いということは、兵糧は勿論、矢、鎧、矛などの武器防具の補充もない
城攻めで矢を大量に消費したあとでどうやって新たにやって来る大軍と戦えるのか
輜重部隊の歩みは遅く陳倉を落としたあと伝令を遣って送って寄越しても間に合いやしない
>食糧問題に転嫁しただけかもしれないけど
敵国側の張コウ伝に「輜重連れてないからすぐ帰るっしょ」って書かれてあるくらいだよ
撤退は食糧問題じゃないんだ
>>335 無理、とは言わないまでもある程度上限が見えなくはないかね
投了時の兵士10万と合わせて考えると
少なくとも「10万を維持しつつ毎年戦役を起こす」ということは出来ないしさ
>>337 いや無理だろう
穀類生産力の問題ではなく人間の問題だから
このスレのテーマ
この場合の豊かさとは「ゆとり」
ひとに置き換えれば「エンゲル係数が低い」ということ
「自由に使えるお金がある」ってことだ
自由に使えるお金が多いと、人はよりアクティブに行動出来る
単位あたりで蜀の方が魏より豊かということは
蜀の方がアクティブに行動できるということ
これを決闘に置き換えると
魏さんは巨体だが動きが鈍い、
蜀さんは体は大きくないが動きが機敏
動きの鈍い魏さんは自分の大きな体を活かすことが出来ない
ナイフで肉を切り取られ、徐々に小さくなっていく
始めの体格差は縮まり勝負の行方は分からなくなっていく
魏さんが蜀さんと対等以上に戦うには
蜀さんの機敏さに合わさなくてはならない
同じスピードで動けるまでシェイプアップする必要がある
従って魏と蜀の戦争は、総人口ではなく、総ゆとりの勝負となる
“考えられているほど”には魏と蜀に開きはない
で、魏にどのくらいゆとりがあったかというと
蜀の2倍程度
補足
対蜀では
>>338 生産力が高ければ人口増加も早いわけだし、理屈の上では生産力の高さが人口増加率の高さにもつながるでしょ
>>336 >敵国側の張コウ伝に「輜重連れてないからすぐ帰るっしょ」って書かれてあるくらいだよ
書かれてないよ。「無穀」では、漢中に十分な備蓄があったけど置いてきたのか、長期戦をする
まあ補給問題ではないとすると、短期で落とせるつもりだった陳倉を落とせない状況で
三万の張コウ軍を迎撃するのは無理だ、という純粋な戦力的計算になるだろう。
陳倉は後漢末の戦乱以来放置されていて、一次北伐の迎撃の帰りに曹真が整備を命じている。
或いははじめから、侵攻されている呉を助けて魏の戦力を分散させるために陽動するだけという計画だったか。
これなら「輜重を連れていない」という解釈でも筋はとおる。
なんか切れた
>敵国側の張コウ伝に「輜重連れてないからすぐ帰るっしょ」って書かれてあるくらいだよ
書かれてないよ。「無穀」では、漢中に十分な備蓄があったけど置いてきたのか、長期戦をする
備蓄がすでに無かったのか、は判断できない。
>>341 その分税金で持ってかれるだろうから、民にゆとりがあったかどうかなんて言えない
>>339 >>340 そりゃ、魏は幽州と幷州で鮮卑と、
荊州と揚州で呉と対峙してるから、
対蜀だけにはリソースつぎ込めんわな。
魏の方がはるかに蜀よりも戦線が長いことを忘れるな。
魏にとって、対蜀戦は総力戦では無くて、一戦線に過ぎない。
縣軍って、懸け離れた軍ってことだろうが、それが「敢えて輜重を置いてきた」を示す言葉になるの?
兵站確保が困難な場合にも使われる。
「諸葛亮の軍は輜重を(十分には)持っていない」ということしか判らないよ。
>>346 ああそうだよ
蜀は2倍程度の敵に勝てば次のステージに進めるってことだ
なんか意味の無い細部の応酬になってしまったな。
「諸葛亮は、二次北伐で、陳倉を短期で落とせたとしてもそれ以上の長期戦は出来ない程度の兵站しか
用意せずに出戦した。なぜか?」
これが合意できる議題ってことでいい?
>>347 無論そうさ
兵士が携帯出来る量なんて高が知れてる
荷車はあるだろうよ
そういう話じゃなくてね
>>348 二倍は言い過ぎ。少なくとも戦場で対面する実兵力で比べればね
>>347 縣軍とは後方との連絡線を持たない軍のことだよ
>>342 漢中から引き揚げる曹操が陳倉に張郃を残し守備させている
名将を残していったということはそれだけ警戒していたということだ
城を荒れたまま放置していたとは思えないな
曹真伝には「治」とはあるが、どの程度壊れていたかは書かれていない
「後漢末の戦乱で荒れていたのを」とどうして言える?
「短期で落とせるつもりだった」
これはおそらく諸葛亮が陳倉の備えに驚いたエピソードが頭にあるからなんだと思うが
このエピソードは裴注にさえ載ってない
>>353 張コウらのことは失念していたが、その後、戦力は撤収しているわけだ。
護軍の郭淮が刺史に転属して以来、対蜀方面には軍備が確認できない。勿論陳倉県自身の防備は別として。
篭城するのに必要なのは城壁だけじゃないし、城壁だって当時は土壁だからメンテナンスが必要だった。
それを再生させたのがカク昭の数ヶ月の仕事。
>これはおそらく諸葛亮が陳倉の備えに驚いたエピソードが頭にあるからなんだと思うが
なんのことを言っているのかよくわからないが、
魏略のカク昭の伝記には、誘降から雲梯まで使って城を落とそうとする蜀軍の攻撃が描写されている。
大前提として、攻めたからには、落とす参段だった、とまずは推測するのは当然のことだろう。
「もしそうでないとしたら」
>侵攻されている呉を助けて魏の戦力を分散させるために陽動するだけという計画だったか
と俺は推測したけど。
>>349 それだと魏の領内に拠点を作るつもりはなかったことになるから
諸葛亮は「魏に勝ったという実績」だけが欲しかったのでは
それに何の意味があるのかと言われれば…本人の丞相復帰だな
(実際三次で2郡を奪回した後にやったことはそれだし)
実績がほしかったからといって、出征に戦略目標が無いことは正当化できないよ。
どうやって皇帝や諸将に計画を説明したのか。
「とりあえず攻撃します。勝ったら勝ちってことで」って?
>>355 諸葛亮は戦下手だって固定観念があるから
諸葛亮みたいな戦下手がまともな戦略立てるわけがないという前提で思考してないか?
だからそんな不自然に不自然を重ねて理由をつけるような推測になるのでは
戦略が政略と斬っても斬れない関係だから、国内向け宣伝が理由であってもおかしくはないと思うけど。
つーか、ただでさえ複雑な派閥雑居状態の蜀を纏めて戦うにはむしろ不可欠な要素のような。
軍を出すってのは多大なるリスクを背負うもの
行軍だけでも大変な出費なのに交戦して不利な追撃までされて
もし自軍に被害が出ていたら宣伝どころか権威も地に落ちるだろうに
そんなリスクをおかしてまで
「なんの意味もありませんけど実績が欲しいからとりあえず出兵します」
成功失敗以前にそんな事言われた時点で自分が皇帝なら宰相職解雇するな
実績欲しい、という意味があるじゃないかw
外征を国内引き締めに使うのは、むしろ古典的手段だし。
ふーん。つまり諸葛亮は自分の権力欲のためだけに
兵や国庫の金を犠牲にする最低の権力者だったってわけだ。
実像は董卓とかわらんな。
>>362 そんなレスはついてないじゃん。
国内取りまとめなきゃ、弱小の蜀は滅ぼされるだけ。
だから四苦八苦してたんだろう。
出師の表でも、宮廷と行政の争いに苦言を呈しているし。
自分の意に沿う意見がないからって、悪意で決め付けるのは空気悪くなるだけじゃ。
しかし、5回も大軍で魏に攻め込んだのに、
あまり兵を損なわず、国も疲弊させず、
戦果が少ないのに蜀の支配体制も
自らの権力も揺らぐこともなかった諸葛亮の手腕は、
かなり恐るべきものがあるな。
普通ならどこかで破綻をきたしてる。
>>363 悪意とか善意じゃなくて普通に最低だと思う
犠牲になった兵や税を納めた国民がかわいそうだと同情した
個人の権威のためだけに意味のない犠牲を払わされたとは
というか悪意とか言われても困るんだが
>>365 だからその捉え方でも意味はあるだろう。
孔明一人に政軍の大権があった以上、そういう要素も国運に直結するんだから。
完全悪意じゃねーかw
>>365 どこをどうすれば、国内の引き締めと個人の権威が結びつくんだ?
国内をまとめるために外征するのは、歴史上よくあること。
外敵がいないと国は容易に内紛起こす。
為政者個人の権威を守るための外征と、
国をまとめるための外征は訳が違う。
諸葛亮の人物評価なんてどうでもいい、ピンポンダッシュ外征はよくある説だ
で、その外征からどんな魏と蜀の国力の豊かさの関係が推測されるんだ?
二次三次北伐の戦略意図と蜀軍の兵站問題を探ることは
蜀漢の軍事動員力や財政的余裕を探ることになる。
>>356,
>>359 いくら諸葛亮でも出征するのに「実績が欲しいだけ」なんてこと公言するわけがない
表向きの理由はもちろん「魏の打倒」に決まっているだろう
>>357 私は
>>349氏のいう「議題」に対して思ったことを答えただけだが
あなたがもっと相応しい考えをお持ちなら披露してみればどうだ
大体陳寿の評にあるとおり諸葛亮に足りなかったのは「応変の将略」であって
別に戦略を立てる時点で「戦下手」だったわけではないと思うが
(予定どおりにいかなかった場合に融通が利かなかったということだろう)
また全権を握る諸葛亮が右将軍に止まっていたら他者はそれ以上の官位に就けないのだから
あなたが考える以上に諸葛亮の丞相復帰は蜀にとって重大な問題だと思うが
>>369 個人的には
>>323で書いたとおり本当は食料的な余裕はまだあったと思う
(両北伐に対する意見は
>>293で書いたとおり)
なにこの頭の悪い流れ
>>37 >表向きの理由はもちろん「魏の打倒」に決まっているだろう
そんなテキトーな理由で動く軍隊は無いよ。
ましてやいくら諸葛亮が強大な権力を持つ(行)丞相とはいえ、臣下の身分だから。
そのテキトーな理由で北伐できるほど諸葛亮が絶大な権限を握っていたのなら、
わざわざ半年ほどで失地回復の征伐を起こす理由は消滅する。
曹爽でさえ、本心はともかくとして、少なくとも漢中攻略くらいは目標に入れて大軍を準備し戦略を
立案しただろう。
敵国の首都から主力が来援するまでに所定の目標(例えば呉の合肥攻略とか)に届かなければ、
前後に敵を抱える危険を避けるために早期に撤退するという選択は当然あり得るが、
諸葛亮の二次北伐は、作戦可能時間が一ヶ月に満たないだろう、と明確に指摘される珍しいケース。
兵糧が枯渇していたのか、兵站に人員を割かなかっただけなのかは別問題として、
この強行軍には当然理由があることになる。
諸葛亮の本心が仮に一身上の都合だったとしても、明確な戦略目標がないのにも関わらず
一次の失敗の同じ年にわざわざ秦嶺越えを強行したとすれば、国内での名分が立たない。
名分が立たずに軍を起こせば、普通は立場が悪くなるもの。
手軽に功績を挙げたいだけならそれこそ武都攻略で良い。当時の魏は、対呉の攻撃を仕掛けていて、
西方へ避ける兵力は少なく、まとめる将もいない状態だった。だから張コウがわざわざ荊州から
召還されたわけだ。
この外交情勢で兵站が貧弱な状態でわざわざ魏の迎撃が有利な隴東へ出征したのなら、
かえってそれに純軍事的意図を読まざるを得ない。
372もズレてるな
諸葛亮軍が兵站を持っていなかったことは、張コウ伝にもあるよ。
魏蜀両方の史料から伺える以上、
諸葛亮は洛陽からの主力の応援(張コウ)と本格的に対峙する余裕を
初めから持たなかったことは史料上確定として良いだろう。
ならば、「陳倉を落とせなかった理由を食糧不足に転嫁した」は有り得ない。
というか、当時の軍事思想的に「攻め込んだけど食料がないので撤退した」は
不名誉なことで、敗戦の言い訳の潤色には使いようがないと思うけど。
(表向きに)魏打倒の名目を掲げて意味不明の戦をしようとする軍権保持者を
周囲は誰も止めなかったのだろうか
それとも止めたけど諸葛亮が強行したのかな