【正史】三国志を軍事分析【演義】

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406 ◆BO6way2NcQ

もう少し第二次の説明を

陳倉の価値は武都なんかとは比べものにならない
まわりくどく関山道から攻める必要もなくなるし
蜀にとって陳倉は喉から手が出るほど欲しい土地に違いない
それは魏も分かってるから簡単に取らせてくれない

第二次のとき、兵站線繋ぎながら攻めていても
おそらく蜀は陳倉を落とせていない
魏は呉を討伐する為に荊州に軍勢を集めていた
関中諸軍も張コウに率いられて荊州へ行っていた
隙があるといえばあるが、蜀にあっさり攻め取られるほど無防備にして
外征に出るわけがない
蜀が攻め込んできても、援軍の到着が間に合うくらいの防備はしていたはず
そして実際に間に合っている

諸葛亮が陳倉を攻めたとき、張コウは蜀軍の持久日数を計算して到着までに帰っていると言い当てた
逆に言えば、諸葛亮は魏の援軍到着日を予想し、それに合わせた軍事計画を立てていた
ということになる
これは、諸葛亮が"援軍が到着したら陳倉を落とすのは無理"と判断していたということ
当時関中がそういう状況だったということを表してる
だから兵站線を繋いで来ても陳倉は落とせなかったはず
援軍到着までに陳倉城を落とせばいいのだが
陳倉城は堅く、短期間で落とすのは困難。 その上カク昭がもう一つ城を建てて備えていた

陳倉は欲しくても取れない
諸葛亮は取れないのを計算の上で、陳倉を攻めた
それが縣軍であった事に表れている
407 ◆BO6way2NcQ :2010/02/04(木) 21:01:56 ID:???
食糧備蓄の話は
仮に諸葛亮が陳倉を落とせたとして、どうやって魏の援軍と戦うのか?
という陳倉攻防の延長戦での話

城なんとか取りました  魏の援軍が来ました  兵糧ないんで逃げます

じゃ話にならない
縣軍で攻めてきて、その後どんな展望があったのか

陳倉を取るつもりで来たのなら、勿論展望があったはずだが
秦嶺越えの大軍の縣軍というのはそれを感じさせない