【正史】三国志を軍事分析【演義】

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346三戦から出張 ◆BO6way2NcQ

第一次北伐

諸葛亮は斜谷道から?を奪うと宣伝し、偽兵を用いて長安駐留の雍州防衛軍を箕谷に引きつけ
諸葛亮率いる本隊は馬謖を先鋒に関山道を進み、武都を抜いて祁山を攻めた。 
諸葛亮の率いる軍の兵士はよく統御され、戦列は整って乱れず、指揮官の手足のように動いた。
南安・天水・安定の三郡は蜀軍の勝利を信じ
魏に叛いて諸葛亮に呼応したので関中に激震が走った。
曹叡は張?に軍を率いさせ涼州へ向かわせると共に、自身も長安へ出向いた。

張?軍の目的は涼州の安堵。
則ち涼州への敵軍の侵攻を許さず、郡県の叛乱を未然に防ぐこと だった。
隴右の残り二郡広魏・隴西もいつ蜀軍に降ってもおかしくない状況だった。
もし広魏・隴西が蜀の手に落ちれば、涼州は本国から完全に分断される。
そうなれば涼州もまた蜀に靡くだろう。
諸葛亮に降った三郡は蜀の先兵として広魏・隴西を侵食していたので
そうなるのは時間の問題だった。
張?が諸葛亮軍に向かえば、手こずっている間に広魏・隴西は落ち、涼州を失う。
張?が広魏に留まり守ろうとも、軍の散開は不利を招くだけなので叶わず、
張?軍の周囲を残して蜀の手に落ちる。そうなればやはり涼州を失う。
最善の手は、広魏を素通りして涼州に入ること。
威を以て叛乱を防ぎ、州を掌握。関中の曹真あるいは曹叡が率いる大軍と時を合わせて
隴右へ取って返せば、蜀軍を東西から大軍で挟撃出来る。
そうなっては、仮にその時蜀が隴右を完全掌握していたとしても、諸葛亮はまず勝てないだろう。
張?軍は涼州へ向かった。
347三戦から出張 ◆BO6way2NcQ :2010/02/02(火) 21:36:20 ID:???
(「張コウ」字が出ないんだね )
348三戦から出張 ◆BO6way2NcQ :2010/02/02(火) 21:37:46 ID:???
>諸葛亮は斜谷道から?を
「?」は「ビ」
349三戦から出張 ◆BO6way2NcQ :2010/02/02(火) 21:40:53 ID:???
はじめ、諸葛亮は雍州防衛軍を箕谷に引きつけ、その間に西進して防衛拠点である祁山を落とし、
祁山で魏の中央軍を待ち受けて撃破し、余勢を駆って関中へ進撃。
陽動で引きつけておいた雍州防衛軍を打ち破り長安を奪取。
或いは、雍州防衛軍が退いて何処かへ立て籠もれば、そこに防衛線を築き、
その地から西を切り取るという算段だった。
ところが、諸葛亮軍の強さを前に三郡が戦わずに帰服した為、
危機を感じた魏の中央軍を涼州へ向かわせる事にってなってしまった。
完全に計算が狂ってしまったのである。
思わぬ三郡の帰服を受け、諸葛亮は戦略を切り替えた。
隴右平定を急ぐと共に、新たに防衛線を構築し、東進より先に涼州を分断させて併呑することにした。
張コウが北上したので馬謖を街亭に遣わし、これを防がせた。
長期戦に持ち込めばその間に隴右平定が完了し、涼州も降る。
が、なぜ諸葛亮が自ら行かなかったのか?
諸葛亮は全軍の総指揮と、いずれやって来る曹真との決戦に向けての準備をしていた。
諸葛亮は張コウが街亭への北路を取ったのを知ると、馬謖を街亭に差し向けこれを塞がせると共に、
魏延あたりを密かに渭水に沿って下らせ張コウ軍の背後に出し、補給路を断とうとした。
張コウ軍が脇を通って来た六盤山(山脈)の東は蜀に寝返った安定郡。
そこからの補給はない。関中からの兵站線を断ちさえすればよいのだ。
そうなれば張コウは持久出来ず撤退せざるを得ない。
これで隴右・涼州を手に入れることが出来る。
馬謖に懸かっていた。

しかし、馬謖が敗けてしまったので、張コウの涼州行きを阻止出来なくなり、
あとは先述の通り、必敗が待つのみとなった。よって撤退した。


※断定口調で書いたが
>曹叡は張コウに軍を率いさせ涼州へ向かわせると共に、自身も長安へ出向いた。
以下は推論。