馬謖と街亭の戦い
馬謖は諸葛亮の指示に背いて兵法書通りに山に登り、水を断たれて敗れた。
劉備は臨終に「馬謖の言葉は実態から離れているから大事は任せられぬ」と言っていた。
諸葛亮は人を見る目がない。明らかな人選ミスだ。
などとよく言われる。
果たしてそうだろうか?
街亭の戦いの時、諸葛亮はどうしていたか? と合わせて考えてみよう。
馬謖は天才だった。無能だなんてとんでもない。
諸葛亮は馬謖と深く付き合い、その才器が他とは異なることを知っていた。
劉備は…、叩き上げの戦人で苦労人だった。学問を好まず、馬で戦場を駆けることを好んだ。
劉備は基本的に学士が好きではない。
?統は名があったにもかかわらず、初め軽んじられた。
諸葛亮は名もあり、寸土も持たなかった劉備勢力に天下取りの構想を示し、
孫権との同盟を成立させて滅亡の危機から救い、荊州南部の領土経営を成功させて
劉備の今(益州牧)の全ての土台を作った。
それでも、益州平定後の人事で、法正・麋竺・孫乾・簡雍・伊籍よりも位階が下だった。
劉備は、頭で考え口で言うだけの行動をあまり評価しない。
その手で何事かを為した行動・目に見える物を評価する性格なのだ。
学問・理論を軽んじ、実地・実労を重んじる。ある程度当然だが、苦労人劉備は偏っていた。
夷陵で"書生あがりの若造"陸遜に敗けたのは、きっと劉備のそういう性格の所為でもあったろう。
劉備を完璧に破った陸遜の作戦は、結果を収めるまで呉陣営で理解されなかった。
歴戦の武将というのは、理論というものを軽んじる傾向にあるのかもしれない。
劉備は戦人ゆえに、自分の道である戦争に関して学者の意見に耳を傾けない。
法正は特別だった。性格的に劉備との相性が良かった。
蜀攻略で行動を共にし、実際に"行動"を見て戦人として認められた。
だから法正は軍事に関しても信頼された。
夷陵の大敗を受け、諸葛亮は「もし法正が生きていたら東征を止められたろう。
仮に東征したとしても、必ず大敗は避けられたに違いない。」と言った。
これは、戦に関し劉備が法正以外の学士の言うことを聞かないということを示している。
諸葛亮は劉備のそういう性格を知っていた。
だから呉征伐の討議で敢えて反対することをしなかった。無駄だと分かっていたのだ。
諸葛亮の南征に際し、馬謖は
「心を攻めるが上策。城を攻めるは下策。なんたらかんたら、心服させられませ。」
と助言した。これは馬謖を評価する材料となっているが※
もし劉備が聞いたなら体が痒くなったことだろう。
「こいつは戦というものが分かっておらん。現実はそんなに綺麗なものではないのだ。
学者風情が知った風な口を利きおって…。」と思ったに違いない。
劉備の馬謖に対する評価は、街亭で大敗したから取りざたされているが、
叩き上げの年配からの高学歴若輩に対する評価として
世を問わず非常に多く見られるありふれたものだ。
街亭の大敗があるから、劉備の評価が史書にある。
街亭の戦いがなければ、劉備の評価は史書にない。
劉備の評価を以て、街亭の戦いの内容まで推測するのは道理に合わないのではないかな。
※「南方で叛乱が起きることは二度となかった」に関しては三戦で議論になったことがあるが
必ずしも誤りとは言えないということで決着した。
では、街亭の戦いはどうであったのか考えてみよう。
諸葛亮伝注袁子「諸葛亮は街亭に居た。数里しか離れていなかったが馬謖を救わなかった。」
とある。ここに着目して考える。
街亭の戦いの時、実際に諸葛亮は何処にいて何をしていたかは不明。
諸葛亮本伝では諸葛亮は街亭に居ないことになっている。
おそらく袁子の言葉は真実ではないだろう。
一里=500m。“数里”とは“数里”× 1/2 qで、1〜5キロしか離れていない。
敗れれば総退却する状況で自軍の危機を看過するはずはない。
袁子の言葉の内容が真実とは思えないが、敢えて依って考える。
「諸葛亮は街亭に居た。」魏に伝わっている話は真実である。とする。
〜 街亭の戦い 〜
街亭に到着した馬謖は現地を見分して名案を思い付いた。
事前に受けていた指示(内容は不明だが山に登ることではないらしい)に違えることになるが
その案の方が上策に思えた。要は張?を足止めすればよいのだ。
その案とは兵書にある「高所に拠れば有利」といった単純なものではない。
敵軍から見て手前の山に堅陣を築いて一軍を置き、前衛とする。
2〜3q離れた後方の高台に本陣を布く。
前衛が馬謖軍で、本陣が諸葛亮本隊だ。
左手を前に突き出し構えている武闘家と向き合っているところを想像してほしい。
懐に飛び込んで打撃を加えようとしても、突き出された左手が邪魔になる。
左手に打撃を加えても大したダメージを与えられないし、こちらも痛い。
左手を掴もうとすれば右の拳や蹴りが飛んでくる。
左手は馬謖軍。諸葛亮本隊を突こうとすれば、馬謖軍が横っ腹を突く。
山に籠もる馬謖軍を力攻めにすれば、大きな被害が予想される。
馬謖軍は耐えきれなくなったら退却して本隊に合流するだけなので、
攻めても敵兵力を大きく削ることには繋がらない。
その上、苦労の末、山一つ取っても、諸葛亮を抜いて涼州に行くことなど出来はしない。
馬謖の山を囲もうとしても、本隊からの攻撃に遭って退けられる。
決戦をしても、有利な地に陣取る蜀軍の前に張?軍は圧倒的不利。
打つ手のない張コウは大迂回するか、自軍も陣を張って睨み合いをするか しかない。
張コウが撤退すれば追撃して大打撃を与えることも可能だろう。
いずれにせよ目標は達成される。
馬謖は山に陣取れば水を断たれる事くらい分かっていた。
が、水を断たれる心配はなかったのだ。敵が山を囲む筈はなかったのだから。
偽兵を使って後方の高台に諸葛亮の大軍が陣を張っていると見せ掛け
自軍は山に登って守りを固めた。
作戦は完璧だった。
が、王平だ。
街亭の真の戦犯は王平だと言っていい。
やはり劉備・夷陵の呉将よろしく"叩き上げ"中の叩き上げ、王平もまた理論が苦手だった。
馬謖の考えが理解出来ず、水に固執して反対した。
結局、物別れに終わり王平は諸葛亮の指示通り山に登らなかった。
王平伝に「敗戦後、踏み止まって太古を打ち鳴らし伏兵を思わせた」とあるので
史実の王平も演義のように麓に陣を張ったのだろう。
王平は学士の馬謖を信頼しなかったのだ。
>>353 だがちょっと待って欲しい。
劉備の対呉戦については、戦人であり、関張に次ぐ長い付き合いである趙雲も停めたではないかと、
重隅をしてやろうw
街亭に到着した張コウは蜀軍の万全の布陣を見て困窮した。
馬謖の作戦は上手く行ったのだ。
が、すぐに或る一隊に目が止まった。
万全の態勢を整え、来るなら来いと言わんばかりの構えを取っている蜀軍にあって
その一隊の布陣位置は不自然だった。王平隊だ。
王平の布陣した位置は不明。道を遮るように陣を張ったのか、
はたまた馬謖軍の弱点である水道を庇う位置に陣を張ったのか、定かでないが、
王平の布陣は張コウの目に「来られたら困る」と言っているように映った。
王平隊の位置に蜀軍の不自然さを感じた張コウは馬謖の策を見破り、山を攻めた。
左手の向こうの武闘家は消え、左手だけが中空に浮かんでいた。
その手を片付けるのは容易かった。
こうして馬謖は敗れた。敗走する馬謖軍の中、王平だけは落ち着き、
太古を打ち鳴らして伏兵を思わせた。
突如鳴り響く太鼓の音を聞いて張コウは
「やはり諸葛亮は本当に来ていたのか!」と驚き、追撃するのを止まった。
王平は敗残兵を拾い集めながら帰還した。
馬謖は天才だったが、理論家と叩き上げの相性は良くなく、
ガチガチの叩き上げ王平に足を引っ張られて敗れたのだった。
諸葛亮の指示を守ろうとした王平が悪いわけではない。
天才の敵は時に味方の常人であるのだ。ただそれだけだ。
馬謖は敗戦の責任を取らされ斬られた。
責任の所在を王平に在りとして王平を処罰すると
誰も上の指示に従わなくなる。
敗戦の重い責任と事前の指示に従わなかった事実の前に
馬謖は斬らざるを得なかった。
惜しいかな馬謖
馬謖を斬らざるを得なかった諸葛亮の心痛は如何ばかりのものだったろう
これが馬謖と街亭の敗戦の真相である。
指示を守り手柄を立てた王平を称揚することは規に照らして当然であり、
馬謖の処罰と対を為し必要だった。たとえ王平が足を引っ張ったのだとしても。
繰り返しになるが、敗戦の原因であるとしても王平が悪いわけではない。
王平が優秀であることに間違いはないだろう。
もし馬謖が名案を閃かなかったら、
王平の経験は馬謖のよき輔けとなったのではないだろうか。
魏のひと袁準(袁子)は嘘を吐いたのではなく、
魏では諸葛亮が街亭に居たという話が伝わっていたのだろう。
袁準はその話を信じているのだ。
蜀のひと陳寿は諸葛亮は街亭に居なかったと考えている。
蜀では街亭に居なかったという話が伝わっていたのだろう。
他国より諸葛亮の属した国に伝わる話の方が正確だろうと思う。
陳寿もそう判断したのではないだろうか。
ではなぜ魏は諸葛亮が居たというふうに思っているのか
袁子の話を振り返る。
諸葛亮伝注袁子「諸葛亮は街亭に居た。前軍が大破するのに
数里しか離れていない諸葛亮は救わなかった。(軍を出さなかった)
(引き揚げるとき)、官軍(魏軍)が接近してるのに、ゆっくりと行軍した。」
王平は敗残兵を拾い集めながら帰還した。
であれば、きっと速やかな退却ではなかったに違いない。
何をか況わんや。
いや、ちょっとだけ言おう。袁子の話と王平の行動は符合する。
あとは想像してほしい。
魏は街亭に諸葛亮を見た。これは魏にとって事実なのだ。
その"諸葛亮"は、蜀にとって実在しなかった。
つまり、偽兵である。
『馬氏の五常、白眉もっともよし』なのだから
もし馬謖が天才なら、馬良はそれ以上の天才でないとおかしい。
と、言われそうなので、このことに触れておこうと思う。
人物評価というものは、頭脳の一点を以て下されるわけではなく、
知識・知能は勿論だが、人品・風貌・儒教精神などの総合で評価される。
事績から見て、馬良の対人能力はおそらく高かった。
対人能力が人物評価に与える影響は小さくない。
穿った見方抜きにしても、対人能力の高い人間は実際使える。
対人能力は人材としての能力のひとつであり、評価の対照となる。
一方、馬謖の対人能力はおそらく高くなかったろう。
豊富な知識、明晰な頭脳の持ち主で、人付き合いも上手な人と
頭は良いが、人付き合いが下手な人
どちらが人材として評価できるかと問えば、前者だろう。
『馬氏の五常、白眉もっともよし』に矛盾しない。