(表向きに)魏打倒の名目を掲げて意味不明の戦をしようとする軍権保持者を
周囲は誰も止めなかったのだろうか
それとも止めたけど諸葛亮が強行したのかな
兵站を持ってないというのは、大規模な馬車で輸送とかみたいのじゃないの?
それは地形的に無理だろうし
兵站無いとかいったら木牛とかどうなっちゃうのよ
秦嶺山脈の入り口に大規模な糧秣倉庫とかも作ってるよね
兵站問題を生産力に求めるのは間違いではないが、それは輸送に使う馬匹の重用が難しいのであって、
食料の生産そのものには関係無いお
だいたい三国時代から生産高数十倍になってる20世紀ですら前線の物資不足は解消されてないんだもの
>>376 木牛の使用は四次からだね。
そのような準備が足りない状況で秦嶺越えをしたのはなぜか、と言うのが今の問題だろう。
>>377 もし、「二次北伐の撤退は、全体的な政府備蓄の枯渇が理由ではない」と結論するならば、
益州の生産力と朝廷財政は、再三の北伐の連続に十分に耐えうる強靭さを持っていたことになる。
実は諸葛亮時代の統治を讃える記述はあっても、
連年の北伐で民が苦しんだとか、国が疲弊したとかいう記述はないんだよね。
蜀は財政的には相当な余力を残して北伐に臨んだと思われる。
完全にスレタイとずれるのはお詫びしますが…
>>372 >そのテキトーな理由で北伐できるほど諸葛亮が絶大な権限を握っていたのなら、
>わざわざ半年ほどで失地回復の征伐を起こす理由は消滅する。
だから諸葛亮が丞相に復帰する功績が欲しかったと考えて
諸葛亮が形式上とはいえ降格したままだと都合が悪い理由も書いたのだが
(もちろん私見に過ぎないからこれが正しいとは言わないが)
>>374 張郃のその発言は河南城での曹叡の問いに対する答えだから
もし本当なら蜀軍の食糧問題は相当広く伝わっていたことになる
でも第一次北伐では食糧問題を起こした記録はないのだから
第二次北伐の最初の時点でそれを知っていたとは考えにくいのだが
(「勝てそうにないから撤退した」と「食料がなくなったから撤退した」とでは
どちらがより不名誉なのかは分からないけど)
正史の記述を否定するのがありならどんな説でもとなえられるよね・・
>>376,
>>378 木牛は従前の輸送道具と比べて人手を省けるような構造らしいから
実際に北伐で輸送に苦労した経験を基に開発したのかもね
>>379 呂乂伝には諸郡からの徴発がうまくいっていなかった旨の記載があるから
(その呂乂は無事に送ったということで記事になっている)
記録よりも蜀の負担は大きかった可能性はあるけどね
頭の中から「懸軍は食糧が足りなかったから」というのを消せ
話にならん
北伐スレと化しつつあるが、元がスレ立て主のアホな偏見で立てられたクソスレだから、
まあ有意義に使われてて良いことだ。
>>380 >諸葛亮が形式上とはいえ降格したままだと都合が悪い理由も書いたのだが
僅か半年で再戦をする主たる動機とするには弱すぎる。
臣下達も自分が功績を挙げなければ昇進できないわけなので、
実権力が盤若な諸葛亮が、名目の官位に短期日で戻ろうとする理由が無い。
むしろ自らを罰して降格した政治的配慮を自ら溝に捨てたことになる。
>第二次北伐の最初の時点でそれを知っていたとは考えにくいのだが
既に陳倉で交戦しているのだから、援軍総司令官予定の張コウには
蜀漢軍の陣容が伝えられていたということだろう。輜重車が少ない、など。
別に不思議ではない。
>>354 曹操漢中撤退時にもし陳倉城の防御力が落ちていたのであれば
必ず修繕したはずだ
その時点で堅城陳倉城は健在
それ以降に風化によりぼろくなったというのは考えられる
それを郝昭が修繕したと考えるのが自然
風化程度の崩れはありふれたもので
城の防御力を著しく損なうようなことはないはずだ
諸葛亮の頭に「堅城陳倉城」のイメージがなかったとは思えない
「短期で落とせるつもりだった」というのは考えにくい
>大前提として、攻めたからには、落とす参段だった、とまずは推測するのは当然のことだろう。
それ以前の大前提として、要地陳倉を落とせたら維持しようとするのが当然だろう
維持する準備がないというのは落とす気がないからに他ならない
>「もしそうでないとしたら」
>>侵攻されている呉を助けて魏の戦力を分散させるために陽動するだけという計画だったか
呉を助けるための陽動なら、武都・陰平を取る必要はなくないか?
陽動成功、呉を助けて任務達成 諸葛亮よくやった! ってとこだろう
武都・陰平をついでに取ったのなら始めから同時進行すればいい
しかししていない
>実績が欲しかった
実績が欲しいというのは曹爽陣営の本音であったかも知れないが
戦の名目にはなり得ないだろ
>>356と
>>359は名目の話をしてるのに、反論は本音の邪推話になっている
反論になっていない
しかも曹爽には取った漢中を維持する気がなかったのか?
ありえないだろ
第一、リリースしたら手柄にならない
それどころか返って非難される
パチンコや競馬で途中勝っていても意味はない
最終的にいくら持ち帰るかだ
第一次北伐で諸葛亮は三郡を得た
しかし一瞬のことで最終的には失った
陳倉を得てそのまま失うのはこれと同じ
諸葛亮が讃えられるのは陳倉をそのまま維持できた場合のみだよ
維持できないようなずさんな計画を立てたことを非難され、無能扱いされるだろうさ
>>358 大きなコストを掛けてキャッチ&リリースとか
そんな遊びをやる余裕が劣勢の蜀にあるものか
返って不満が出るよ
>>387 そうだよな
>>380は功績が欲しかったからと書いているがそもそも功績になりえない最初から
スレタイに繋げると莫大なコストをかけて戦略的に全く意味の無いキャッチアンドリリース遊びをできるくらい
蜀には余裕があり、豊かだったってことだろうけど
不思議なのは周囲がそんなバカバカしい計画を止めなかったのだろうかってこと
どうやって出兵の賛同を得たんだろうか、それを聞きたい
陳倉って、後漢末期にも八十日余の攻囲を耐え抜いているんだよな
>>386 2次と3次を連続のものだと考えるのが問題。
2次は関中を攻撃することで張コウを誘引し、呉を助けるのが戦略目的。
それが一段落ついた後、3次で蜀漢の必争の地である二郡と取りにいくのが目的。
で良い。
蜀漢にはそれを同時に行う與猶はなかったが、魏が対蜀警戒の水位を急上昇させた以上、
二郡の確保は早急に行わなければならなかった。
>>386-389 だったら「諸葛亮は陳倉を攻略して拠点にしたかった」でいいじゃないか
むしろ何で落とすつもりもないのにわざわざ城がある方に攻め込んだのか
>>385 >既に陳倉で交戦しているのだから、援軍総司令官予定の張コウには
>蜀漢軍の陣容が伝えられていたということだろう。輜重車が少ない、など。
>別に不思議ではない。
陳倉の魏軍は蜀軍に包囲されていたのだし
その蜀軍は散関経由で山道を通って陳倉に来たのだから
魏軍には蜀軍の輜重が少ないなんて事は分からないのでは
蜀は皇帝名乗った以上は、漢から禅譲受けたという建前の魏との妥協はないからね。
せいぜい蒋エンのように現状維持第一に転換するのがせいぜいで、しかも孔明存命中は建言さえできなかった。
どの道最後は戦って破滅しかない。
出て滅びるか、座して滅びるか。
>>392 渭水盆地は、最盛期よりかなり寂れたとはいえ一端の穀倉地帯で、渭南にも農地と集落が広がっていた。
陳倉城がぽつんと取り残されてるような僻地じゃないよ。
情報収集と連絡が可能なのは陳倉軍だけじゃない。
陳倉は大軍の通り道として有用だし、むしろ栄えてる土地だわな
大軍に拘らなけりゃ他の道はあるけども
>>389 中原侵攻を計る蜀が、喉から手が出るほど欲しいであろう陳倉を
関中が手薄になるという百年にあるか無いかの僥倖に巡り会ってあっさり手に入れ、
キャッチ&リリース。
アンタ、どんだけバカですか?って話をやるわけがないから
「そういう戦略です」っていう説明だけは1000%ない
それだけは確か
名目なんて特別要らんのじゃ?
魏を倒して漢の再興を果たすのが建国以来の国家目標
国を預かった諸葛亮の意思は既に第一次前の出師表で明らかにしてもいる
北伐に関しては要らないはず
国家目標にない、たとえば呉を攻めるなんて時には
説明して理解を得る必要があると思うけど
今問題なっているのは、大戦略上の名目ではなく
軍事戦略上の名目だろ。
二次北伐で、いかなる戦略目的・期間の見通しを立て
敵軍の数量を見積もり、
どのような目標を達成すれば成功と看做して帰還するのか。
を、のように諸葛亮は群臣に説明したのか。
「陳倉が落とせて魏軍が来なかったらいけるところまで前進」
とか?
出師の表を出してあるから名目なんて特別要らん、なんて兵法を舐めすぎ。
>>391 時間的にみて、2つの戦役は連動している
一段落つけたような時間はない
それに武都・陰平なんていつでも簡単に取れるし
必争というなら第一次で放棄していない
陳倉との同時進行も全然可能だった(史実より多少攻略に手間取るだろうが)
呉を救うのが目的なら陳倉城を激しく攻める必要はない
囲むだけでいい
それで不充分なら長安へ向かう素振りをすれば済む
作戦内容はもちろんトップシークレットだ
>>399 諸葛亮が二次北伐を起こした主目的は自分の丞相復帰だった、なんていう人がいるから、
それに合わせて便宜上「戦略的な名目」と言ってるだけで、当然本来は「戦略目標」と言うべきだよ。
諸葛亮の「本心」と同時に戦略の「名目」が並立して存在しなければ、軍は動かせないわけでね。
>>398 諸葛亮が帰還してから陳式が動いているわけだから、連動だとしたら随分下手だね。
張コウが急遽呼び戻され、三万もの洛陽中軍が派遣される事態を呼び起こすには、
陳倉攻めには漢中軍の残った兵力をかなりつぎ込まなければならなかったってことだろう。
下手に分散して攻めて、魏の危機感が少なかったら、本末転倒になる。
二郡は確かにいつでも取れる。魏の中枢からの距離を考えれば、まともな大軍は送れない。
そもそも二郡を失っても魏には大した痛手ではない。洛陽から主力が増援に来るかも怪しい。
だからこそ、蜀は一次の撤収で一旦放棄することもできたし、二次の陳倉攻めを優先するくらいの余裕はあった。
しかし、魏にとっては辺境でも、蜀にとってのは二郡は漢中を迂回して四川に進入可能な「脇腹」に位置する。
遅かれ早かれ、隴西-祁山の西回りルートは、魏蜀の第二戦線として大きな価値を占めることになる。
険しい秦嶺を挟む隴東よりはるかに流動性が高い難地だ。
228年一連の三国の軍事活動が一段落して、蜀漢の北伐の意思を改めて認識した魏が雍州軍備を最構築にかかる前に、
二郡を抑えて防備兼隴西への橋頭堡を築く必要があった。というところだね。
曹真に完全に読まれ、こんなに防備固めているとは・食糧足りないぞ、みたいになっている以上。
孔明の目的が如何であれ、もくろみ外れの失敗なんだけどね。陳倉方面でいえば。
>>401 第一次失敗で落ちた権威を回復するという政略上の目的も含まれていた、とするほうが自然だけどね。
当時の軍隊は別に行動の合理性なんて説明されなかったし。
政軍の大権を握っていた諸葛亮が主観的に必要さ、と判断すれば動かせた。
健在な間は、守備思考のショウエンらさえ文句言えなかったわけで(演義だと後ろで非戦派が策動したことになっているが)
>>401 名目は名目だよ 「表向きどういう理由で軍を興すか」ね
目標は達成水準 「その行動後にどういう状態に行き着いているかの事前設定」ね
読み返すと確かに
>>356は戦略目標
が、
>>359で台詞にしたことで半ば名目に変化し
レスの
>>370で完全に名目になっているようだ
俺のレス
>>396は名目
陳倉攻めの「戦略目標」は陽動だろう
しかし説明は不要
陳倉攻めは、食糧はすぐ尽きているけど攻城兵器はふんだんに持ち込んでるぜ。
輸送力を兵器にあて、しかしそれが防がれた結果が食糧にしわ寄せになった程度じゃないの?
陽動ならわざわざ孔明が出る必要も薄いし、攻城兵器大量投入する必要もまた同じ。
>>404 「も含まれていた」なら、構わないだろうよ。政治的都合と軍事的理由は、むしろ並立しなければならない。
両者は必ずしも一致する必要はない。
でも「丞相復帰が主な動機」「軍を動かすには名目なんていらない。主観的に必要だといえばそれでいい」
と、片方だけ強調する人がいるから反論しているんだ。
「主観的に必要さ」といえば北伐可能な絶大な権威を維持していた諸葛亮が、一次の失敗で落ちた権威の
回復を目指して軍を起こしたというのも妙な話だしね。
戦を発動する機を図る戦略思考というのは、中華の兵法の三つの根幹の一つ。「天の時」という。
蜀漢内に北伐消極派は当然いただろうが、だからこそ、丞相に過ぎない諸葛亮には、
政治から軍事に至るまでの一貫した施政の論理性が求められた。
それによって、賞罰に厳政だとか、私欲に走らなかった、という評判が付いてきた──彼個人の本心は別としてね。
諸葛亮の大きな権威は、無条件で維持されたものではない。自分の一極体制に隙を作らないためにも、
「主観的に必要さ」なんて理由で何事かを始めるような真似は決して出来なかっただろう。
>>392 >だったら「諸葛亮は陳倉を攻略して拠点にしたかった」でいいじゃないか
答えは簡単、陳倉は落ちないからだよ
陳倉の守りは堅く、始めから落とせる状況ではなかった
遠征の為に魏が陳倉のような要地をそれほど簡単に落とされるほどに無防備にするわけがないだろう
ちゃんと援軍が間に合うように出来ている
良くて援軍到着までに落とせるか落とせないかギリギリのラインを争う博打だったろう
諸葛亮が落とせる事に賭けて出征したのなら補給部隊も後に続かせる
これがないということは、落とせないと踏んで
その上で何らかの意図をもって出征したという事だ
>むしろ何で落とすつもりもないのにわざわざ城がある方に攻め込んだのか
深い考えがあってのことだろ
>魏軍には蜀軍の輜重が少ないなんて事は分からないのでは
横レスだが
第一次、郿を取ると宣伝したらその通りに魏が対応した
この件でも明らかなように、蜀国内にも当然魏の密偵が入り込んでいる
大将は誰か、兵員・物資はどのくらいか、進路はどれか、補給部隊の用意があるか、など
簡単な情報はお互いすぐ伝わる
でなきゃ国防は成り立たない
>>407 別に皇帝でもない孔明が権力を保つにはそういう要素は不可欠だぜ。
所詮、水掛け論だが、それが主眼でも別に不自然ではないが。
第二次の失敗から第三次までの発動は短いが、それで地位復帰後は次まで一年以上の期間を置いている。
この辺りの時間差からそう考えても。
後段にいたっては論理性なんていってるが、当時は説明責任なんてないし。
自己の権限を強くすることが戦略上有利だ、ということなら私欲なんぞでもないだろ。
>>402 諸葛亮が帰還してから陳式が動いているわけではない
諸葛亮の帰還途中に陳式は動いている
それに武都攻略軍はそれ程大きくないだろう
>魏にとっては辺境でも、蜀にとってのは二郡は漢中を迂回して四川に進入可能な「脇腹」に位置する。
その「脇腹」の肋骨が非常に堅くてね、巴蜀の防備に武都は必要ない
陰平道の出口を成都周辺の兵で固めたら守れるんだよ
それに魏が動いてから武都に迎撃に向かっても充分間に合う(必要ないと思うが)
それに魏が雍州軍備を最構築したとしても、二郡はいつでも取れる
それにが多かったな
二次三次と四次は性質が全く違う。
どう転んでも短期間の、前線固め程度の戦略目標の二次三次と違い、
四次は一次・五次と同じ長距離大規模侵攻。時間を置くのは当然。
戦略目標というのは、現代的な説明責任なんてもんじゃない。
組織が動くために不可欠な指針。兵卒はなにも知らずに付いていけばいいが、
高位の武将や後方の皇帝以下高官に戦略を伝えなければ、
将は自分の判断を下しようがない。後方支援も戦時徴発もしようがない。
そんな目隠し状態の戦争など、人の心として当然納得しない。
諸葛亮がゼロ時間で全ての命令を全ての部署に発令することが出来なければ、
組織として機能しない。
>>407 >一次の失敗で落ちた権威の回復を目指して軍を起こしたというのも妙な話だしね
俺はそうは思ってないから
>「主観的に必要さ」なんて理由で何事かを始めるような真似は決して出来なかっただろう。
諸葛亮って独裁が認められているんじゃなかったっけ?
>>412 なってるが。現地調達で手間のかかる攻城兵器を作るつもりなら、それこそ20日足らずで逃げないといけない程度の準備で出張った事自体戦下手ってことじゃ……。
>>410 武都から四川盆地に入られたら、陽平関の西を封鎖されて漢中との連絡が途絶。
巴三郡へなだれ込めるぞ。
そりゃ成都はそう簡単には落ちないよ。フや剣閣・綿竹の要衝が連なるから。
蜀郡が守れればそれで言いってんなら放置だけど。
>>413 「これから陳倉攻めます」で充分じゃないかな?
狙いまで説明させられるようじゃ信頼されてない
それでは丞相も総帥も務まらない
>>414 >俺はそうは思ってないから
最初の人じゃなかったのか。横レスなら横レスって言ってくれw
武都から四川盆地へも簡単には入れないだろ
どうとでも解釈できる話なのに、なんとか自分の意見を押し付けようって言うカリカリした手合いが多すぎるな。
>>420 史書のどこにも書かれてないことを「解釈」して主張しようとすれば、そりゃ厳しいツッコミが入る。
古代史では特に、「どこにも書かれてないから間違っている」とは必ずしも言えないけどね。
ただ、それをやるには相当強力に論理立てて実証する必要がある。
>>420 論理的矛盾や無理のある解釈は正しくないからね
>>415 知恵袋あたりで孔明は戦下手だと言えばみーんな同意してくれるから安心しろ
ここは戦下手だの上手だの評価するスレじゃない
>>425 入れないね。陽平関があるから。
でも逆に陽平関の出入り口を封鎖すれば、漢中戦力は無力化できるわけだ。
なにしろ他にまともな出入り口がない。
で、魏軍は悠々と四川、特に東部を荒らし回ることができる。
もちろん、これをやるには相当な兵力差が必要だが、
武都を放置するということは、こういう危険に備えずに放置するってことなんだ。
さすがにこれ以上は他のスレでやってくれ
重要なのは経済規模の話なので
>>427 四川盆地の入り口には葭萌関があるじゃないの
>>428 すまん
ここではもうやめておこう
じゃあ、蜀の経済規模の話。
蜀が降伏した時、国庫にはほとんど穀物も金銀もなかったのに、
なぜ錦だけが異様に大量に貯蔵されてたのか?
俺としては、蜀の末期は貨幣経済が機能しなくなりつつあり、
錦などの現物を貨幣代わりに使う物々交換経済に退化していたと思ってるんだが。
この前BSで成都の観光地をめぐる番組やってたんだけど
その番組内で「蜀の収入源は錦によるのみ」と諸葛亮が発言したと紹介されてた
諸葛亮のこの発言の出典ってなんでしょーか。知りたいのだけれど。
>>428 ごめん、1レスだけ返させてもらう
>>408 (前段)
わざわざ敵領に攻め込んで自軍に損害まで出しながら勝たないように攻めたとでも?
それこそあり得ない(大体敵が降伏する可能性だってあるのに)
(後段)
魏にそんな情報網があったのなら一次で疑軍にひっかかるはずがない
(諸葛亮の本隊が別方面に出て行ったことに気づかない訳がないから)
スレの本題に戻って
>>430 魏軍の圧力が西方に広がっていくにつれて
魏や西域の商人を相手にした交易が難しくなり
呉や西南方面との交易があっても在庫が増えていったのでは
>>432 魏の建国当初から既に雍州と涼州の郡県で蓋がされているのに、
「圧力が西方に広がっていくにつれて」ってのは無いだろう。
まともな統治がされてなかった可能性があるのは武都・陰平だけ。
いくら防備は手薄だったとはいえ、その手薄な防備を軍事力で
こじ開けなければ西方との道は開かない。
蜀錦には高い関税でもかけたんじゃね?
魏もダメージはあるだろうけど、それ以上に蜀は痛いだろうし