【正史】三国志を軍事分析【演義】

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411名無し三等兵
>>406
う〜ん、それは済まんが個人的には「戦略企図」と「作戦企図」を
取り違えて居る気がするんだ。飽くまで個人的意見だが。

漏れの考える二次北伐での諸葛亮の「戦略企図」は「魏の西方領(具体
的には涼州等の西方)の魏の政治的影響力の遮断」であって、その為
に作戦企図として「陰平、武都の攻略による魏中心部から涼州への連絡
線の遮断」と「陳倉攻略による蜀前線補給拠点の確保及び魏中心部から
涼州への連絡線の遮断」と「主攻」と「助攻」として準備していた、と言う
判断な訳なのだ。
(この辺、諸葛亮の手堅い部分では有ると思う)

尚、諸葛亮が何故涼州への魏の政治的影響力遮断を考えたか、と言うと、
それは偏に蜀の地の生産力の問題に尽きると思っている(涼州諸族の蜀
への帰属を促す、と言う事ね)。

で、此処からが本題になるが、「どちらが主攻と助攻となるか」と言う話に
なるんだが、やはり飽くまで諸葛亮にとっての主攻は陳倉だったと漏れは
判断してる。と言うのは、基本的に手堅い手法で軍事行動を行う諸葛亮が
陳倉に関しては速戦主義で行動してる。これを刺して貴方は陽動と判断
している訳だが、漏れは逆で、「諸葛亮でも速戦で陳倉を抜ければ陳倉
に大部隊を置いて占領を既成事実化出来る」と判断したから「兵は拙速
を尊ぶ」の原則に従って行動を開始したんだろうと思ってる。

だが、陳倉の地は蜀にとって重要であるのと同じくらい、魏にとっても重要
な拠点なのだな。その辺、魏にとっての武都、陰平とは違う。その上カク昭
によって作られた出城で、唯でさえ攻め難い陳倉の戦闘正面がより極限
されてしまった。こうなると大部隊で来ている事が逆に不利に作用した。

その辺を見切って損害を極限して整然と撤退させた諸葛亮の指揮能力と
判断力は中々のものだとおもうけど。