【正史】三国志を軍事分析【演義】

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431 ◆BO6way2NcQ



そろそろあれが起こる頃だった。

三度も侵攻したのだから、無い方がおかしいのである。

大国 魏 の反撃だ。

432 ◆BO6way2NcQ :2010/02/06(土) 00:53:04 ID:???

曹真の反攻


武都攻略の翌年、遂に魏は討伐軍を興し、
大司馬曹真・大将軍司馬懿が褒斜道・子午道・漢水の三路から一斉に漢中を目指した。
が、進軍中長雨に遭い川は溢れ桟道は断絶し、進める状況ではなくなったので引き返した。

もし雨が降らなかったら、
おそらく魏は敗けていた。


諸葛亮は魏の反攻に備えて二つの堅固な城 漢城・楽城 を築き、防衛戦略を構築していた。


諸葛亮亡き後、蒋エン(王+宛)の時代
大将軍曹爽が歩騎10余万(蜀書)、6〜7万(魏書)で漢中に攻め込んできた。
その時漢中の兵は3万にも満たなかった。
それでも曹爽は山を固めて守る蜀軍に勝つことが出来ず、輸送にも苦しみ、
蜀の援軍が到着したので何の功も挙げられないまま撤退した。
費偉(偉「へん」は示)は兵を進め天嶮に拠って曹爽の退路を断った。
そのため曹爽は危機に陥り、苦戦のすえに何とか帰ることが出来た。
無理な徴発をした上での出征だったので敗戦で関右は大変衰耗した。
この興勢の戦いで魏は大きな被害を出したと言える。
ちなみに司馬懿は出征に反対した。
433 ◆BO6way2NcQ :2010/02/06(土) 00:54:24 ID:???

今回の蜀討伐は曹真の提案だが、それ以前に曹真は二度提案し、
二度とも陳羣に反対され却下された。

秦嶺越えは進退が難しい。
そのうえ敵を捕捉しがたく、輜重の護衛に多くの兵を割く必要がある。
攻撃に充てられる戦力は低下し、攻めあぐねて撤退ともなれば退くのも難しい
とくれば攻め込むべきではない。

諸葛亮の再三の侵攻が癇に障った魏は禁忌を冒し、遂に秦嶺越えに踏み切った。
曹真は二度蜀を退けたことに気を大きくしていたのだろう。


曹真は大勝できると豪語したが、元より魏を倒したいと思っていた諸葛亮にとって
これは絶好のチャンスだったと言える。


もし雨が降らなかったら、魏はおそらく敗けていた。

もし出征がもっと早ければ、或いはもし雨が降るのがもっと遅ければ
魏軍は漢中に入っており、雨の為に兵站と退路を断たれていた。
魏は大敗北を喫していたに違いない。