第二次北伐
諸葛亮は曹真に手を読まれ、陳倉の防備を固められた。
魏軍は千人余なのに、数万を率いていながら城を落とすことが出来なかった。
これを受け
孔明ショボイな。手を読んで阻んだ曹真カッコえぇ。
演義の天才軍師ぶりに引き替え、史実の諸葛亮はヘボ過ぎる。
などと思われがちだ。
果たしてそうだろうか
では第二次を考えてみよう。
まず、漢中と陳倉を結ぶ故道の説明を少し。
故道の途中には散関がある。
故道は漢中と関中を結ぶ街道の中で最も距離が短い上、
関山道除く4道の内、最も道が平坦である。
それ故、平時は使い易いが、戦時は真っ先に塞がれる。
必争の地だけにかえって最も危険なルートとなる。
曹真は諸葛亮が陳倉に来ると読んだ。
これは実は大したことではない。誰にだって読めたはずなのだから。
蜀軍が陳倉に来るなんて、まず誰も予想しないだろう。曹真でも。
蜀軍は陳倉には絶対来ない。いや、来れない。
何故なら、
曹操が劉備に敗れて漢中を捨てるとき、散関以南の桟道をすべて焼いたのだから。
空でも飛んでこない限り、蜀軍はやって来ないのだ。
がしかし、実際に諸葛亮はやって来て、曹真はそれを読んだ。
どうして来れたのか? またどうして読めたのか?
諸葛亮は桟道の一部を修復している。(仮説ではない)
修復距離次第だが、おそらく数ヶ月は掛かったろう。
諸葛亮が桟道を修復している情報を掴めば
誰でも攻めてくる気かもしれないと思うだろう。
諸葛亮の桟道修復を知れば、来るだろうと思うし
桟道修復を知らねば、来ると予想することはない。
曹真の予測はそういうこと。
陳倉攻めは読まれて当然、読んで当然の話なのだ。
(桟道を焼いた・直したの話は、本の名は失念したが資料に載っている。
他にこの話を知っている人はいるだろう。
ちなみに演義にこの話はない。なので演義由来の情報ではない。)
そして、何と言っても、
諸葛亮は初めから陳倉を落とす気がなかったのだ。
陳倉城は堅城として知られていた。後漢末、涼州で叛乱を起こした王国(人名)が
数万の軍勢で陳倉城を囲んだ。王国軍は強かったが、孤立無援の陳倉城を80余日かけても
落とすことが出来ず撤退した。
陳倉の救援に派遣された董卓は「急いで救援しなければ城が落ちてしまう」と言った。
これは城兵と王国軍の兵力差がそれ程大きかったという事だろう。
董卓の言葉を受けて皇甫嵩は「陳倉城は小さいが守りが堅く、王国軍は強いが陳倉城を落とすことは
出来ないだろう。」と言って救援せずに見守り、敵が疲れて退却するのを待って追撃し大勝を収めた。
普通の城ならばすぐに落とされてしまう程の兵力差でもって攻められていても
あの城は落ちないと予想させる程の堅固さを、陳倉城は備えている。ということ。
そんな城を攻めるのに、諸葛亮はどうして20余日分しか兵糧を持って行かなかったのか?
相手が千人余りの寡兵と知って、落とせると踏んだのか。
しかし仮にそうだとしても、漢中を発って陳倉に着くまでの間に
兵が2〜3千人に増えていたら、たったそれだけで計画は破綻してしまう。
無謀というものだ。
また、仮に落とせたとしても、その後必ずやって来る魏の救援軍と
兵糧もないのにどうやって戦うというのだろうか。
結局、城を捨てて撤退するしかない。
陳倉城に蓄えてある兵糧を使えばいい。そんな考えもありそうだが
陳倉という字面からイメージしてしまう大量の物資は多分なかったのではないか。
雍州軍は対呉戦線へ行っていて手薄…、ではなかったか。
雍州軍は軍需物資を持たずに荊州へ行ったのだろうか?
大量の物資を兵がいくらも居ない前線の小城に残して?
蜀軍が来る兆しが見えているのに?
あり得ない。
陳倉に数万の蜀軍を持久させるだけの兵糧はきっとなかったろう。
諸葛亮がそんな薄い期待を頼みに軍事行動を起こすなどあり得ないはずだ。
攻め落とすのが困難、且つ城を落としても守れない条件で戦を始めるというのは
どう考えても真っ当じゃない。裏がある。
第三次北伐 武都・陰平攻略
これが面白い。
武都取りの意図をめぐって様々な解釈が生まれている。
それが諸葛亮の北伐そのものの意図まで解釈を分けてしまう。
つまり、第三次が北伐考察における最も重要なキーなのだ。
・諸葛亮は本気で漢朝復興を目指していた。
・いや魏打倒ではなく攻勢防御だ。
・いや北伐は益州閥を納得させる為の建前に過ぎない。
・いや防衛の為の領土拡張だ。
おまけに
武都を取ったのは
・第一次・二次の失敗を埋める為に功績が欲しかったからだ。
・威信回復の為だ。
など言われる。
では武都・陰平攻略について考えよう。
まず武都の説明を少し。
武都郡は蜀漢国に接し、蜀の戦力が集中する地から近く、魏の中央から遠い。
故にひとたび蜀が軍を起こせば武都を守るのは不可能。蜀による占領は免れない。
その為曹操は武都の住民を大規模に内地へ移した。武都に残っている民は少なく、
曹叡・諸葛亮時代、人口の少ない武都に経済的価値はあまりない。
陳倉攻めと武都攻めの時期は極めて近い。行軍に費やされる日数を考えると、
二つの戦役は一連のものであったと考えられる。
陳倉攻めは武都・陰平攻略の為の陽動だったのだ。
持久の出来ない縣軍(補給線なしで侵攻する軍)で陳倉を攻めたのは
落とすつもりがなかったからであり、
陳倉近くに引きつけた隴右軍を置き去って速やかに漢中へ引き返し、
武都攻略を有利に運ぶ為だった。
陽動は成功し、そのおかげで侵攻は有利に進み、大いくさをすることなく
武都・陰平を切り取ることが出来た。
諸葛亮は武都が欲しかったのだ。
陳倉城は攻めても時間内に落とすことは出来ないが
万一あっさりと降伏してくれたなら、それはそれでもっと良かった。
兵糧は陳倉のものと攻囲20余日分と帰路分を合わせれば、
本国からの輸送が到着するまでもつかもしれない。
が、そんな敵の降伏に全てを賭けるような僥倖頼みの軍事行動などするわけもない。
狙いはやはり陽動だっただろう。
諸葛亮は武都が欲しかった。
経済的価値のない武都をどうしてそんなに欲しがるのか。
始めの
>>345を読み返してほしい。
>>345の「その地」は“祁山”。
正確には祁山ではなく、その先天水郡の何処か。
武都を抜けると、秦嶺・岷山(びんざん)ふたつの山脈に挟まれて高原が広がっている。
その高原の中心に小高い山がある。その山が祁山。山上には堅城が築かれていた。
防衛側は一方的に敵を俯瞰しながら戦える上、不利になれば堅固な山城に籠ればいい。
関山道ルート上の魏の防衛拠点で、蜀軍はそこを抜かないと先へ進めない。
纏った敵兵力が祁山に拠れば蜀軍の侵攻は阻まれる。
祁山を攻め倦ねている内に敵主力が駆けつけ、
蜀は勝地を占めて迎え撃つどころか
不利な地で大軍と戦う羽目になる。
即ち北伐を成功させるには、速やかに祁山を抜け、
その先の勝地で会戦の準備を整える必要がある。
作戦を成功させる上で最も重要なのは「時間」ということになる。
蜀軍は漢中を発し、祁山の先の勝地を目指す。
一方、魏では「蜀軍、関山道を北上す」の報を受け、
長安駐屯の雍州防衛軍(主力)は蜀軍を撃つべく西へ向かう。
同時に隴右の兵は防衛拠点の祁山を目指す。
蜀軍が武都を突き進んでいる間に隴右の兵が祁山に集結しはじめ、
徐々にそれなりの戦力となってゆく。
蜀軍は祁山まで至ったものの、そこから先へ進むことは出来ない。
そこへ魏の主力である雍州防衛軍が到着し、蜀軍は不利な状況に陥る。
これが魏国の関山道ルート防衛戦略だった。
諸葛亮は第一次の時、進発前にビ(眉β)を攻めると宣伝し、敵の目を斜谷出口に集めた。
そして疑兵を使い雍州防衛軍を箕谷に引き付けた。
こうして祁山を抜いた。
もう同じ手は通用しない。
ならば、どうすれば祁山を抜くことが出来るのか。
武都を取ることだ。
武都を自領にしてしまえばスムーズに進軍できる。
速やかな行軍が出来れば、祁山に至るまでの時間を短縮でき
まだ兵が充分に集まっていない祁山を抜くことが出来る。
しかし、そう簡単ではないのだ。
大軍を挙げれば武都を取ることは難しくない。
がしかし、経済的価値の低い武都を攻め取れば、魏はどう思うだろう?
何の為に取ったのか、当然考える。
そして隴右を狙っていると考え至るに違いない。
関山道を強く警戒し、前線となった祁山、隴右に兵を置くだろう。
そうなればやはり祁山を抜くことは出来ない。
ところが諸葛亮が武都を取っても魏はさほど警戒しなかった。
諸葛亮は大軍を二度も挙げて遠征しておきながら、街亭・陳倉と立て続けに失敗したので
その穴を埋める為に仕方なく武都でも取って面目をギリギリ保った
ぐらいに思ったのかも知れない。
魏にとって武都は捨てている地で、取られてもそれ自体は痛くも何ともない。
それも手伝ってか、魏は武都の持つ意味に着目しなかった。
諸葛亮は陳倉取りを失敗したという失策を演出することで
戦略上重要な武都の概念を魏から盗み取り、
真意に気付かれることなくその地を取ったのだ。
こうして祁山を抜く手立てを創り出した。
陳倉攻めは、武都・陰平攻略戦の為の陽動であり、更にその上の
「魏の防衛戦略を掻いくぐる為の陽動」であったのだ。