1 :
人間七七四年:
徳川勢:伊達、福島、蜂須賀
前田勢:宇喜多、毛利、上杉、細川、浅野、加藤
どうなってた?
2 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 00:51:43 ID:C2hNcz9W
そういうのは志茂田景樹にでも書いてもらえ
3 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 01:08:17 ID:C3jABo36
反徳川の圧勝
九州は黒田しかいない。
中国は細川しかいない。
四国は影響なし。
北陸は敵なし。
関東は佐竹、上杉、前田、真田
東北が上杉しか戦力ないのに不安だが相手が伊達最上南部だから互角は期待。
4 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 01:08:54 ID:z9A+jnp5
家康も利家も戦なんかには持ち込まないでFA
5 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 04:22:15 ID:W5M/3d4Q
>>1 利家VS家康の時点で福島、蜂須賀が家康つかないだろw
6 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 07:33:05 ID:TXw4hU3R
利家が何歳まで生きるかによるけど結局家康の勝ちになると思うよ
光成と武断派の対立は抑えてるだけで解決出来てないし
7 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 19:36:18 ID:ih2Mpx+T
家康の天下を阻止するだけなら十分だけど
利家が天下を取るのは到底無理、行動に移した時点でついてくる武将は皆無
8 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 19:41:33 ID:ih2Mpx+T
>>3 >四国は影響なし。
高虎さんが居るじゃないか
9 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 20:58:43 ID:hsgYSh23
伊達は有利な利家の方につくだろ
10 :
人間七七四年:2009/10/20(火) 21:57:19 ID:ih2Mpx+T
あの場面は家康に非があったから利家についた大名の方が多かったけど
それでも家康についた大名も結構居たし
仕切り直しでどうゆう行動を取るかによるかな
無条件で家康につくのは藤堂、黒田、最上、池田
利家は宇喜田、石田、小西、立花かな、他は状況次第でどうなるか解らん
11 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 01:15:07 ID:dtgUHOJV
福島って徳川家と婚姻関係結んだのに、徳川、前田に分かれて戦争直前までいったとき
なんで前田についたんだ?
12 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 01:56:32 ID:cXYWWPUv
福島は徳川についてるんじゃね?
13 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 01:59:29 ID:cXYWWPUv
>>8 いや、四国ってやっぱ影響力ないしね。
蜂須賀や藤堂がいても対岸には毛利、内には長宗我部もいるし。
14 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 03:12:55 ID:CgMSa8hh
利長が家康、利政が利家で分かれる
いくら寿命が伸びても家康には適わないよ
15 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 06:49:30 ID:fTUc6nQb
>>11 前田に行ったのは清正だね、あと秀次事件で家康に借りがある細川も前田側
16 :
人間七七四年:2009/10/21(水) 11:41:34 ID:KDVFF1iz
利家が家康くらい健康なら家康に味方する大名などいない
17 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 01:39:43 ID:6NrAddW3
鍵は秀頼の信頼をどちらがより多く得られるか、じゃないかな?
そういう意味では家康に分があるような気がする。
それより、秀頼が成人するまで利家が生きていたら、っていうのは
ちょっと考えるね。
18 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 16:13:17 ID:o3jWVLZB
どう考えても利家が有利だろ
いや、家康と利家なら家康の方が凄いんだろうけど
毛利や宇喜田、上杉が前田側ってだけで、戦力的には大きく違う
特に毛利は一族が結託してしまえば、徳川に匹敵するほど動員できるし
19 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 18:15:04 ID:y2ZieIwb
どうゆうIFなんだろ、利家が勝てる状況はこのまま決戦に持ち込みつつ
寿命が延びる以外有り得ないよね、あの時で既に病気持ちだったし
20 :
人間七七四年:2009/10/22(木) 23:07:46 ID:JPlKHUPL
個人の比較なら家康>利家だが
単純に秀吉死後の姻戚問題でモメてそのまま決戦って条件なら利家の勝ち
実際の関ヶ原じゃ会戦前に寝返った奴がいたり合戦時の日和見、裏切り続出だったが
秀頼のもり役で四大老五奉行揃ってる状態の前田側に対してそれは出来んよ
21 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 11:23:09 ID:rzvKsQKU
利家がいるのに家康につけば逆賊扱いだからな。
家康にしても部が悪すぎで関ヶ原のような戦はなかっただろ。
22 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 14:33:49 ID:f3naV5cP
>>20 その条件ならそうなるな。
実際あの姻戚問題で自分の不利を悟ったからこそ誓書交換してすぐ引いた訳だしな。
多分最初は「朝鮮の件での豊臣家分裂&秀吉の死の直後の混乱&利家死にかけ」だけで十分いけると思ったんだろう。
しかし思いのほか死にかけの利家に与する大名が多くてビックリしたってのが本音じゃないだろうか。
結構議論されるIFだけど、
>>4の言うように
家康VS利家だと関ヶ原のような合戦は起こらないってのが答えな気がする。
23 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 14:36:55 ID:JSydDwXp
>>4だと議論にならんので強引に戦争したと仮定したいけど
その状況を考えるのも難しいしな。
大名に人望のある利家と家康に匹敵する勢力の毛利が組んだ時点で
戦争で家康が勝つ可能性は低いだろうな
24 :
人間七七四年:2009/10/23(金) 16:23:18 ID:yLPC2lUD
利家は秀頼の後見人。
一応織田時代からの老兵で武将としての戦歴(本人の能力活躍とは別に)は充分。
諸大名率いるだけの肩書きも充分(器どうこは抜きとして)
清正などの支持も揺るぎなく四国、関東、東北を除けばほぼ敵なし。
北条と伊達が同盟して秀吉に対抗するってのと同じくらい徳川に分がないな。
25 :
仙台藩百姓:2009/10/23(金) 18:44:31 ID:pjcFHPBF
関東東北も上杉佐竹が前田陣営に加わっていたから五分五分と言ったところだお( ^ω^)
つまり前田方が圧倒的有利
にもかかわらず現実には利家はヘタレて降伏したわけだお┐ (´ω`) ┌
・利家はただのイエスマンで自分の采配で動いた事がない
・常に誰かの庇護の下にしか戦をした事がない
・槍働き程度しか武功がなく、家臣団も雑魚ばかり
・切羽詰まると保身の事だけで頭がいっぱいになってしまう
という利家の行動パターンからいって、諸将を率いて采配を振るうなど100%不可能
危ない事はしたくない利家が煮え切らないから武功にはやる諸将は独断専攻し
三成のような仕切屋連中が確執を産む
そうして雲行きが怪しくなると利家の保身の虫が騒ぎだし
いてもたってもいられず家康の本陣に駆け込んで勝手に和睦してしまうという算段だお( ^ω^)
つまり利家が長生きしようと結果は同じだお( ^ω^)
26 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/10/24(土) 00:14:43 ID:99Zw70Ur
>>3 細川は中国地方じゃないぞ。丹後宮津は畿内のはず。
利家と家康が同じ条件なら利家が勝つだろな。
オレは徳川派だが家康が勝つとは思えない。
27 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 00:21:56 ID:w/W9FaAm
利家って個人の武功は強いって聞くけど
大軍ひきつれてはどうなの?
28 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 00:49:48 ID:eJ8tbhSS
賤ヶ岳での動きを見る限り、案外ヘタレかも、という気もしなくもない。
29 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 00:59:45 ID:ovVfKW4q
へたれも何も大軍率いて戦った事無いから
そういった組織じゃないというか優秀な家臣を雇っていなくて妻に怒られたんだから
戦えば弱いだろうけど何時もギリギリで回避するのが前田の凄さ
30 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/10/24(土) 01:01:43 ID:99Zw70Ur
石田三成よりマシ。と書いたら歴女に恨まれるかな?
31 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 01:25:50 ID:ovVfKW4q
三成も同じくそう言った経験はないが家臣には大軍に属した経験者が多い
自分に足りない部分を家臣に求めたのだろう
これは本気で戦に踏み切る武将と回避する武将の違い
でなければ関ヶ原の福島が無能すぎとなるww
利家からみれば槍働き家臣にかける金は無駄なんだよ
32 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 02:11:32 ID:eJ8tbhSS
そういえば前田家中で特に名前の売れた名将っていないような
33 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 02:43:43 ID:qL8dJouK
ヘッドハンティングする方法もあるが
家康みたいに戦いまくれば
勝手に家臣の名が売れる
利家の下じゃ無理だわな
赤ぼろの時はエリート選抜だから下とかそれほど無いだろうし
柴田の与力時代どうだったんだろ
最後はほんと情けないが、途中まではなんかやったはずなのに
あとは北条攻めで大軍率いたことはあるんだっけ
まあ万の軍勢使ったことあるかどうかで
実際どうだったか知らんが、気持ちの持ちようも違うだろうし
34 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 02:55:52 ID:iCrMFGP0
唯一村井又兵衛さんってのがいるよ
兵の規模と言い活躍の度合いといい俺の中では劣化槍の可児さん
35 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 04:29:52 ID:M9ofWsX9
>>34 「利家とまつ」で的場浩司が演じてた役だよね。
36 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 13:12:26 ID:gIVmISZP
つーか
>>18や
>>20が言うように個人の力量を語るなら圧倒的に家康>利家
利家云々の前にそもそもあの時代に家康に勝てる奴なんていない
IFってのは当時の状況を考慮して考えるもんで
武将個人の能力を比較するもんじゃないだろ
37 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 18:11:04 ID:RnSPlyYV
だからその個人の力量で家康に劣る利家が何処まで引率出来るかって事でしょ
信長包囲網みたく個々が勝手な事して分解した所を
家康に各個撃破される事も十分有り得る
石高が上の毛利や上杉が素直に従うとは思えないし
三成と武断派が連携するとも思えない
38 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 18:14:37 ID:Kxk+1Yey
最上最高
39 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 18:44:26 ID:6f8S8WnE
>32
本多政重は?
関ヶ原の西軍で武功があったとか
40 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 21:58:52 ID:sONyWHGw
>>37 なんで三成と武断派が連携する必要があるのよ?
関ヶ原のイメージから抜け出せてないんじゃないの?
秀頼の後見の利家が家康と対決する構図は言いかえれば豊臣家vs徳川家の争いになる(上杉討伐の構図に置きかえればわかりやすい)
毛利も上杉も豊臣家の家臣であって従わない理由がない
まあ遠方の毛利が参陣しなくとも十分な兵が集まるとは思うがw
41 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 01:11:52 ID:Z8O+U9jR
家康の大老筆頭職をとりあげる事が出来なかった利家、三成の甘さがあるね。
家康が豊臣重臣でなくなることは大きく力関係を変えることになったのでは?
秀吉の遺訓を破った家康に対して、利家や他の大老、奉行の総意による詰問が
ありながら何も出来なかった。
この時点で体制は決定的に家康に傾いたわけですね。関ヶ原は追認に過ぎない。
42 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 01:58:11 ID:NdaPhiLT
いい脚だ
43 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 03:26:51 ID:B2QgSeBa
>>40 彼らは秀吉に従っただけであって、秀頼に従う道理は無いんだけどね
実際に家康と戦う事になったら率先して戦う大名は半分も居ないよ
そして互いに不信感を持って内部分裂
44 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 21:23:11 ID:fz/ewRwO
関ヶ原で利家が総大将だったらまた違う結果に成ったろうな。
45 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 21:34:41 ID:/gLb5HL3
戦国の覇者である家康公に利家ごときが勝てるわけ無いだろ!
46 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 21:36:57 ID:8XTn+Ezf
47 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 21:37:51 ID:JYWpuFcI
大軍ひきつけると家康のほうが強そうだけど
1日で決着しなかっただろうな
48 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 23:18:45 ID:plWPiOYt
>>44 総大将が寝返る前代未聞の合戦になりそうだな
49 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 23:44:07 ID:8qfs4ato
50 :
人間七七四年:2009/10/25(日) 23:46:40 ID:4fv3e7XS
豊臣への絶対の忠誠心を持つ大名がそれほどいたのかが疑問だよなぁ。
秀次や利休達の切腹の時点で既に豊臣から心が離れてる大名も結構いただろうし。
51 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:01:38 ID:6fYApT9k
52 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:05:27 ID:IHRxJy7B
53 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:19:53 ID:4fw96jn8
>>50 利家対家康の関ヶ原と強引に仮定したとして
兵力では確実に利家側が勝っているし、主家への忠誠心を更に捨ててまで
徳川側に走る大名は少ないだろう。豊臣家対徳川家の戦争だとしたらの話だけど
54 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:50:26 ID:6fYApT9k
>>53 兵力が多ければ多いほどその分大変やりにくい。長引けば最悪。
家康がそれを利用して相手の自滅により降伏させたのがあったと思うけど家康は戦わないと思う。
てか利家が大軍をまとめると強いのかどうなのかわからん。
今やってるドラマじゃないんだから当時の人は忠誠心よりも生き残るほうにつくしょ
55 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:54:02 ID:jxh3FLfx
利家が総大将なんて引き受けるわけ無いじゃん
いざと言う時引っ込みつかなくなるような事は断じてしない
56 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:54:11 ID:6fYApT9k
57 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 00:58:10 ID:H1M+weOY
家康が仕掛けるなら家康が勝つ
やらなくて済むなら負ける戦なんてする訳ないし
利家は勝てる見込みがあるかどうか以前に
仕掛ける気概も無いだろ、実力的にも晩年の気力的にも
58 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 01:21:01 ID:4fw96jn8
家康が不利だとさとれば戦は仕掛けないだろうし
そうすれば利家も自分から仕掛けることはないからねえ
だから強引に利家対家康を想像するしかないけど
どういう仮定で戦になるかが想像できない
59 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 02:05:24 ID:nIXLLUi+
賤ヶ岳は利家は苦しい立場でしょ。敢えて中立に立って義理と礼節をたてた。
この戦の後に勝家も秀吉も利家に感状を送り、この期の前田家の有り様を心配し、またアドバイスしてるからね。
60 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 02:08:02 ID:jxh3FLfx
北の庄攻めの先鋒していたのしらないの?
61 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 02:52:16 ID:IHRxJy7B
中立なわけないでしょw
勝家側の陣立ての中に入っていながら、実戦に参加しなかったのだから、
明白に裏切りだよ。
中立を保ちたいなら自領から出てこなければいいだけ。
62 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 02:54:47 ID:IHRxJy7B
たとえば日本代表のキーパーのユニフォームを着てピッチに立ちながら、
相手のシュートを一切取ろうとしなかったら、それは中立というだろうか?
ピッチに立たない(欠場する)というのなら中立といえるだろうが、
わざわざメンバーとして参加しておいてサボタージュするのは、積極的な
利敵行為ということにほかならない。
63 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 13:35:16 ID:OSIb6Gsb
関が原を戦ったらという意味か?だったら西軍の勝ち。
64 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 14:07:22 ID:nIXLLUi+
利家存命で関ヶ原したら、やはり西軍だな。
65 :
人間七七四年:2009/10/26(月) 20:37:05 ID:4fw96jn8
利家の肩書きと毛利の兵力があれば
さすがに家康も苦しいしな
66 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/10/27(火) 12:07:28 ID:O5tYHCC/
67 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 12:17:13 ID:myqFqHBh
でもどうやって家康を関ヶ原に挙兵させるか
負け戦には動かないだろうし
68 :
仙台藩百姓:2009/10/27(火) 14:01:05 ID:0VbALEGv
むしろ利家を動かすのが難しいお( ^ω^)
天下分け目の総大将など責任のある立場を間違っても引き受けるとは思えないお┐ (´ω`) ┌
なんだかんだ言って逃げ回り、担ぎ上げられて逃げられなくなったら
単身抜け出して勝手に和睦して責任回避するのは100%疑いようがないお( ^ω^)
それに連合を組む場合は核になる国が抜きん出て強くないと主導権を握り難く
統制が取れず霧散するのは常道であるお( ^ω^)
前田方は毛利、上杉、佐竹、宇喜多と力が拮抗し
毛利、上杉、佐竹などは前田などより遥か古い大名で
自力で家運を切り開いて来た自負と誇りを持っているお( ^ω^)
内心前田など笑止に思っているのは間違いなく
利家の命令一下に進退するなど有り得るわけがないお( ^ω^)
指揮系統がまとまらず核の徳川と前田では確実に前田が当たり負けする
ともすれば勝敗は誰の目にも明らかだおね( ^ω^)
69 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 14:08:18 ID:hUbygesv
利家存命なら家康も戦の大義名分立たんよね。
秀頼の傅役である利家がしっかり豊臣恩顧の大名まとめるだろうし、三成も利家の言うこと聞くでしょ。
三成が秀頼君を頭に頂いて政を思うようにしようとしているって言い掛かりも付けれんて。
70 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 18:24:17 ID:LDxCx+YE
>>69 家康も秀頼の後見人として秀吉に懇願されてるよ
更に秀頼の許婚は家康の孫である千姫、これも頼んだのは秀吉
これらを武器にいくらでも名分は作れるよ
71 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 18:35:00 ID:hUbygesv
72 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 18:43:59 ID:s1seGZac
>>68 宇喜田と佐竹は上杉、毛利とは拮抗してるとはいいがたいのではないだろうか
上杉も毛利と違って配置転換があったし、毛利一族ほどではないかと
まあ、毛利も毛利で一族が割れてるんだけどさ
73 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 19:34:10 ID:mN6tw4Bf
74 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 19:35:50 ID:36u5xCAK
【結論】三成で勝てる戦、利家が負けるわけがない
75 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 20:14:47 ID:hUbygesv
76 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 20:36:21 ID:hUbygesv
傅役と後見人じゃ意味合い違うし千姫を秀頼に出すって言ったのは徳川側で豊臣家の方が話し受けた形。
それを武器に何が戦の理由に出来んだ?
77 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 20:38:22 ID:d2UpbAgI
その前に前田が背後にいる状態で戦う武将なんぞ誰一人居ない
78 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 20:53:57 ID:mN6tw4Bf
79 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 20:59:21 ID:mN6tw4Bf
ただただ、
>>71からは知性が感じられん、と述べただけだ
バカにされた→反対意見の持ち主!!
と直結思考するところを見る限り、俺の見立ては間違っていなかったようだな
80 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 21:05:06 ID:fKzvg9B5
ID:hUbygesvは低学歴丸出しの馬鹿
ID:mN6tw4Bfはその低学歴を煽って喜んでる馬鹿
馬鹿同士仲良く喧嘩するのは結構だが、上げんなクソ共
81 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 21:14:48 ID:hUbygesv
うわ〜このスレ読解力無いアホばっか…、どうしようもねぇな。 自分の解釈と違うならスルーしとけよ。
したり顔して意見してアホ丸出し、漫画やドラマで覚えた知識はあてにならんぞ。
82 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 22:11:41 ID:fKzvg9B5
>>81 う〜ん…
いや、だからさ
家康や利家の話じゃないんだよ
君の話をしているんだよ…
絶望的に読解力が無いのは君だよ…
君の
>は? 何が? 意味わかんね。
ってレスはバカ丸出しだよねw
ってだけであって、漫画やドラマ?自分の解釈?何それ?
別の角度から聞いてみよう
>は? 何が? 意味わかんね。
このレス、頭良さそうに見える?
要は、
>>70なんて書かずに、最初から
>>76を書いていれば誰からもバカにされなくてすんだんだけど、わからないかなぁ?
83 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 22:46:07 ID:e5494Nll
対立したとき
前田陣営で「徳川と戦じゃ〜」と吠えてた立花宗茂と毛利秀元
この二人はやる気満々だったらしい
84 :
人間七七四年:2009/10/27(火) 23:08:45 ID:hUbygesv
>>82 〉〜ってレスはバカ丸出しだよねw
〉このレス頭良さそうに見える?
>>80の様なレスしといてさ良く上記の様なカキコ出来るなw
スレの主旨と違うし、流れ止めるからもうヤメようぜ。
85 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 06:10:02 ID:zPPkrBCD
光成クラスでも、寝返りや日和見がなければ
互角レベルだったのに、光成なんかより求心力が高い利家がいたら、
家康は仕掛けなかっただろうな
わざわざみんな死ぬの待ってたのにw
86 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 09:53:15 ID:lclApiBP
西軍が総出でハナッから戦ってたら、やはり数に勝る西軍が勝ったろう。
87 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 14:59:11 ID:c+dU/BLG
>>85 三成クラスでもじゃなくて、三成クラスだったから
寝返りや日和見があって互角レベルどころか史上稀に見る大惨敗だったんだろw
前田は前田でやるにしても、三成同様主導権争いとか体調不良とか大変だけどな
それ以前にそろばん大名の利家が家康にけんか売るなんて
分が悪いことやらないと思うけど
利家存命中にも家康は動いてんだから
叩けるなら叩けばいいのに
結局は利家派というより
バトルロワイヤルの鉄則として、まず初めに一番強い奴をたたくという
反家康派でしかなかった
圧倒的な差が付いて、有力大名が天辺を諦めれば
長い物に巻かれて利家どころか秀頼にだって弓を引く
88 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 17:23:25 ID:lclApiBP
得意気に語ってる奴がいるな。友達居なそうだなお前。
89 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 19:17:00 ID:hUZWVbmE
キリッ
90 :
人間七七四年:2009/10/28(水) 21:29:59 ID:X+zHmmRH
>>83 利家が存命なら加藤清正や浅野父子は少なくとも前田側につくだろう
利家には恩があるからな
91 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 20:43:29 ID:QqMwKsN7
IF話じゃなくて妄想なので建設的な話をしたい人は読まんでおくれ
利家には家康を出し抜こうという気持ちこそはあったが、
その手段は戦ではなく相手が自然に死ぬのを待つ形でだったと
俺は思っている
結果としては、利家は家康よりも先に死に、
さらに関ヶ原は早々に決着したので
利長・利常を含めた二代戦略でもダメだったけど
92 :
人間七七四年:2010/01/13(水) 22:13:39 ID:CrxIPJrO
93 :
人間七七四年:2010/01/14(木) 08:17:27 ID:Cb4aCQ4X
つうか息子があっさり軍門に下った時点で前田はどのみち徳川に道を譲るんじゃね?
風見鶏で100万石にたどり着いた家だもん。
94 :
人間七七四年:2010/03/24(水) 07:36:44 ID:UaINIzW0
利家の実際のところはよくわからんな
賤ヶ岳合戦の後に柴田が城に寄った話とか、
明らかに金沢藩が先祖の名誉のために作った話だろうし…
ただ、秀吉死んだ後は確かに求心力あったんだろな
利家>輝元>景勝って感じで
95 :
仙台藩百姓:2010/03/24(水) 10:09:53 ID:IK8NtXh1
利家がとうこうより次席大老と傅役という家康に匹敵する肩書に集まって来たのだお( ^ω^)
担ぎあげる人物に一番重要なのは肩書
どちらかというと能力は無い方が好まれるお( ^ω^)
96 :
人間七七四年:2010/03/25(木) 08:44:58 ID:ibGI5juE
実際対立した時も、結局利家の方が折れて、
伏見に和解に行ってるし、関ヶ原前の利長の対応の仕方や
幕末あれだけの大藩なのに何も活躍していなかったりと、
いざという時に動かない家風、他人からすれば当てにならない家だな。
97 :
月孔雀:2010/03/25(木) 09:39:49 ID:8z5ikWg/
加賀藩士は、戦いたかったが、薩長が戦わせなかった。
そのため、薩長は、長岡で負けた。で、東北、新潟連合。
最後、大久保を暗殺したのは、加賀藩士。
98 :
仙台藩百姓:2010/03/26(金) 11:13:36 ID:mkP9Is0N
殺人犯が英雄とか朝鮮みたいな国だお( ^ω^)
99 :
人間七七四年:2010/03/26(金) 21:01:57 ID:inKJGI4w
百姓の利家への喰らいつきっぷりは異常
多分信者
100 :
月孔雀:2010/03/26(金) 22:17:50 ID:rciOxJaZ
淀君とられて、怒ってるんでしょう。
101 :
仙台藩百姓:2010/03/26(金) 23:31:05 ID:mkP9Is0N
102 :
す@死:2010/04/10(土) 15:11:52 ID:t7OUv74k
派閥のボスとしては求心力はあると思うけど
実際戦になったら利家は家康には勝てないでしょう
実力が違う
豊臣恩顧の大名が、三成嫌いなら嫌いでいいんだけど
三成排除した後、自分が先頭に立って豊臣守らないで家康になびいたのが
ヘタレ過ぎて笑えるわ、
黒田か福島辺りなら恩顧の大名まとめて先頭に立てただろ、タヌキ相手にしょんべんちびりやがってさ
103 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 15:20:35 ID:KyJmGDlT
104 :
人間七七四年:2010/04/10(土) 16:13:31 ID:6lG5aINT
>>102 利家厨は本気で家康に勝てると思ってます
武将としても家康より上だと思ってます
105 :
す@死:2010/04/11(日) 01:58:09 ID:qPBBab0Y
利家消えたらみんなタヌキになびきやがってな
戦ったのは三成だけ
やはり三成は勇敢だわ
恩顧の大名まとめてタヌキと戦おうと何故しなかった???
106 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 06:16:45 ID:LT1CEpk3
↑腐女子乙
107 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 07:20:44 ID:4LWoJTL3
>>105 実は三成が家康派だった(時期があった)ことを知らないんだぁ
108 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 10:08:31 ID:vxhHDFH0
109 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 12:46:04 ID:NXQkqaIJ
でも利家じゃ家康に勝てません利家厨
110 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 13:47:07 ID:e7VVbOMe
利家が家康より勝っているのは人望だけ
如水が利家側についていれば・・・
111 :
す@死:2010/04/11(日) 21:44:09 ID:+izu/g+8
恩顧の大名まとめる奴誰もいなかなったのかね?
福島か黒田辺りなら適任だと思うんだが
112 :
人間七七四年:2010/04/11(日) 22:14:49 ID:N7f+yyDK
ほお
113 :
仙台藩百姓:2010/04/11(日) 23:14:49 ID:8q9lJWbf
>>110 人望?
単に上司におべっか使って取り立てて貰うタイプじゃんお( ^ω^)
114 :
人間七七四年:2010/04/12(月) 14:37:41 ID:7y+tyyAG
>>105 三成が家康派のままだったら
へそ曲がりの福島も案外面白い事をしたかもな
利家・正則 VS 家康・三成ならどうだったろう
115 :
す@死:2010/04/12(月) 16:14:43 ID:QnHEwO1M
三成が家康につく訳ねーだろ
あれはあくまでも豊臣LOVEの男だよ
116 :
人間七七四年:2010/04/12(月) 18:49:12 ID:4C7zSDEO
腐女子うぜーよ死ね
117 :
人間七七四年:2010/04/12(月) 18:53:34 ID:NCNZwZ+B
三成は豊臣家や秀吉への忠義というより
豊臣政権の骨格を自分が作り上げたという自負から
豊臣政権を崩そうとする家康に、反抗したんじゃないかと思う
もしも家康が、新たに政権を作るから三成に手伝って欲しいと願えば
三成はどういう態度を取ったのかな?
上杉征伐も上杉が簡単に降参して、関ヶ原もおこらず
少しづつ豊臣から徳川へと天下が転べば
三成は隠居したまま徳川へ出処せず、一大名になった豊臣へも関心見せず
佐和山で隠居生活していたんだろうか?
118 :
人間七七四年:2010/04/12(月) 19:36:37 ID:ueJ9SlU9
家康におもねると思う
三成は本当に忠義心があったかどうか疑わしいし
てか家康が関ヶ原で勝ってくれないと内部分裂起こして戦国に戻る
119 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 07:56:39 ID:JpEUMlS3
ところで家康と利家は個人的にはいろいろウマがあったという話しはご存知かな?
確かに晩年には秀頼を巡って対立することもあったろうけど、
二人が存命なうちは本格的な武力抗争にはならなかったと思われ。
120 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 09:14:14 ID:xpQGrOT+
家康暗殺企んだけど実は仲良しで関東に隠居領貰って一緒に囲碁やっていた浅野長吉みたいなものか。
121 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 16:16:47 ID:j3vw3YZy
今度はすやって利家を正当化か?利家厨
122 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 21:59:36 ID:+v/BxXx9
2度にわたる朝鮮の役によって諸大名は嫌気がさしていたと思うよ
特に晩年の秀吉は痴呆症の気(過度な信長の夢)があったかもしれんが、
人事権を持った秀吉に直接不満なんか言えないから、そういった諸大名の訴えは全部、利家に上訴してたんだろう。
家康はどうしたってハタからみても豊臣政権を支えるそぶりが無いのは諸大名が見てもかなり分っていたと思うしね。
秀吉の晩年を支えたのは天下の調整役利家であり諸大名の相談役(より所)であったんじゃないかな。
秀吉の足軽時代からの同僚だし、家康に相談するより利家の方がはるかに豊臣政権を親身に考えていたし
諸大名から人望という点で好感されていたと思うけどね
利家が家康より長生きをすると言う条件だけで家康は息子秀忠に隠居させられているか、徳川自体をつぶされていると思う。
123 :
人間七七四年:2010/04/17(土) 23:18:46 ID:j3vw3YZy
また利家厨が妄想で利家マンセーか
ないない
124 :
仙台藩百姓:2010/04/18(日) 06:03:43 ID:+rN30vFS
家康は政務を任され利家は子守を任された事が二人の立ち位置を如実に顕しているおね( ^ω^)
125 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 06:37:46 ID:NHYzRRgk
おいおい政治は合議だろ
だからもめたんだから
126 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 06:38:38 ID:odIkYpmV
はっきり言って利家と戦働きは結びつかないな
有名な戦いといえば賤ヶ岳時の裏崩れしか思い浮かばない
127 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 07:02:19 ID:/fKRorin
なんかよくわからないが、利家死ぬまでは狸もまだまだ大人しかったってだけで
利家がいる限り勝ち目ないと見てんだから戦にはならんだろ。普通に考えて。
別に利家が戦上手かとか関係ないし。晩年の痴呆猿が戦で強いと思うのかと。
大将が戦上手だから政権が保てる、とか言うなら猿が死ぬ前に豊臣滅んでるよ
128 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 08:19:59 ID:izT1xgPE
セッセ
. ∧ ∧ っ セッセ 俺が働くことで
( ;・ω・)っ
_と^:::y:::;〕フ□__ __ ガタン __ ゴトン
./| /|_ /| ./|_ .///|__ ///|___
|二二|/ |二二|/ |二二|/ |二二|///
○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◎/
| .( ( | |\
| ) ) ) | | .|
|________(__| .\| 俺の代わりに子供手当てと生活保護の誰かの家が
/― ∧ ∧ ――-\≒ 遊んで暮らす・・
/ ( ) \
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
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∧∧
( ・ω・)
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄
なんてこった・・・
<⌒/ヽ-、___
/<_/____/
129 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 08:26:38 ID:sMMsliCY
秀吉が三法師の傅役を引き受け織田家を支配したように
利家だって秀頼を使って徳川なんか潰すのは楽だろ?
130 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 09:39:42 ID:kx3SM31B
131 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 14:49:47 ID:/Y8TAK9u
利家厨はいくらなにをいっても利家が家康よりすごいにはならねーからなw
132 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 17:55:46 ID:00HtEDnP
>>130 でも内府ひがひの条々だと一人で決済したことが批判されてるぞ
133 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 17:57:14 ID:00HtEDnP
ひがひ→ちがひ
134 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 19:36:47 ID:kx3SM31B
>>132 多数決に従うというのは五大老、五奉行が誓った誓書にある条目
家康(そして利家)に特権的な役割を規定したのは秀吉の遺言
つまりは建前と本音(多数決では物事がうまく廻るはずも無い)の
どちらを優先させるかという話
で、当たり前だが自分達が優位な方を唱えたということになる
135 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 23:19:27 ID:00HtEDnP
徳川と前田が大老の中でも上位にあったのは事実だが、家康に一任
というのもどうなのかね。
136 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 23:28:25 ID:EQYHs1su
家康が伏見にいて利家が大坂にいたら電話もない時代に話し合いなんてできない
伏見が行政の中心地であることは秀吉時代から決まっているのだから
伏見にいる家康に政治の決済が一任されるのは当たり前だよ
137 :
人間七七四年:2010/04/18(日) 23:57:16 ID:00HtEDnP
家康が伏見城に入ったのは利家死後だな。
138 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 02:17:45 ID:r9fEug+B
伏見に伏見城しかないと考えるのはなぜ?
大名屋敷があるとは思いつかなかったの?
139 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 07:40:13 ID:CSkJf78N
家康に3年間在京を命じたことに「一任」という表現が適切か
どうか。秀吉が利家に期待した役割を軽視してるとしか思えない。
軽微な事務処理は伏見のみで行われていただろうが、大名との
婚姻については利家たちに詰問されて家康が謝罪した形だし、
利家死後の三成襲撃事件の時も毛利や上杉が解決に乗り出して
いる。毛利も秀吉死後に奉行衆と同盟して家康を牽制している。
主席ではあっても「政務を一任」されていた」とは思えないん
だがなあ。
140 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 11:08:34 ID:Rb1ruPTf
秀吉ならいかに幼児で当主につかなくてはいけなくなった場合
その傅役って役職が天下を取る為に重要か骨身にしみてたと思うよ。
周りの諸大名だって全員分っていたって、利家が大阪城の本丸に入城する意味なんかまさに権力の象徴。
141 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 12:13:03 ID:jgTjBioq
別に本丸には入っていない、いつでも天守に登らせて良いという話
ちなみに家康も伏見城の天守にいつでも登らせて良いとしている
142 :
人間七七四年:2010/04/19(月) 12:24:16 ID:jgTjBioq
>>139 利家の役割は秀頼の補佐
家康は政の執行
で、五大老に同心協力を求めつつ、家康・利家に財務の検閲と
最終の決断権をを与えている
実務的な一切は家康に任せつつも、制御役としての任を利家に
求めているのは事実
143 :
人間七七四年:2010/04/28(水) 07:23:09 ID:Ty653CJr
でもさ、清洲会議後に秀吉自身も実際織田家の政の執行役のひとりから
他の執行役や、三法師の傅役として岐阜に移った信孝とかをまとめて薙ぎ倒して地位を築き上げたから
そういうシステムの弱点や脆さも身に沁みてわかってるはずなのにね。
晩年は本当にボケちゃったんだな。
しかも(合議制ですらなく)家康一人に伏見での政権の政を一任するなんて、よっぽど家康を頼みにしてたんだな。
本能寺前後の頃の秀吉は関ヶ原前夜の家康すら霞む位神掛かってただけに、
豊臣政権の欠陥だらけの様は本当に無残だな。
144 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 06:01:58 ID:bVdKOu7E
>>143 オレは逆に家康追放と見るけどね。伏見転勤は。
諸大名の妻と子供が暮らす大阪屋敷に大名が住んでいる場所なわけで、
家康を大阪からはずす事により利家筆頭の4大老と5奉行及び三中老や
他の諸大名がその隙に家康をはずす組織を作り上げれるだろうと秀吉は考えたじゃない。
政治をまかせるから伏見に数年行ってくれは一応の栄転の様にに見えてもやっかいばらいの大義名分で
大名衆が集まる大阪には来るなっていう感じに見える。
145 :
人間七七四年:2010/05/02(日) 08:46:52 ID:2e2T+UWE
146 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 03:20:47 ID:vw775PNY
そもそも別に家康が政権運営全般を任された訳でも無いのに何でこんな流れになってんの?
伏見での「諸職御肝煎」って庶務の統括とか世話焼きって意味だろ。
重要な決定事項なんかはそれぞれ定められてるわけで。
147 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 20:10:19 ID:olc4KgJw
>>実務的な一切は家康に任せつつも、制御役としての任を利家に
求めているのは事実
といってる時点で、それは一任と言えるものだったのか疑問だけどね
148 :
人間七七四年:2010/05/03(月) 21:53:01 ID:buJ02uPS
>>146 きもいり0 【肝入(り)・肝▼煎】
[1] あれこれ世話や斡旋をすること。また、その人。取りもち。
[2] 江戸時代、名主・庄屋の異名。
[3] 江戸幕府の職制で高家(こうけ)や旗本の寄合の上席。高家肝煎・寄合肝煎など。
[4] 奉公人・遊女などを周旋すること。また、それを業とする人。
どれを意味するかで変わるな
後、大日本古文書では上段の説明文に
「家康ハ伏見ニ居テ政ヲ執ルベシ」
「利家ハ大坂ニ居リ秀頼ヲ補佐スベシ」
とある
149 :
人間七七四年:2010/05/05(水) 01:27:00 ID:joDXNRSQ
>>148 「御肝煎」の意味自体は別に問題じゃないけどね。秀家や利家にも使われてるし。
問題は「政務を執る」とか「政を行う」と言った訳し方をされたのを見て、
政治や政権運営全般の決定権があると捉えてしまっている人が居るという事。
重要な政治決定に関する取り決めは別途定められている訳で、
伏見で行っていた日常的な業務の責任者であっても特に危険な事は無いよ。
どちらかと言えば、利家の「惣廻御肝煎」の方が危険。
150 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 17:54:56 ID:iNsLYcfO
家康と利家が対立した時に集まった面子を比較してみる
【利家派】
(五大老クラス)
前田利家 上杉景勝 毛利輝元 宇喜多秀家
(五奉行クラス)
石田三成 浅野長政 長束正家 増田長盛 前田玄以(小西行長)
(武断派七将)
細川忠興 加藤清正 加藤嘉明
(外様)
佐竹義宣 立花宗茂 長宗我部盛親
151 :
人間七七四年:2010/05/10(月) 18:02:40 ID:iNsLYcfO
【家康派】
(五大老クラス)
徳川家康
(五奉行クラス)
なし
(武断派七将)
福島正則 池田輝政 黒田長政
(外様)
伊達政宗 藤堂高虎
あと徳川派になりそうなのは丹羽と最上くらいか・・・。
伊達は利家生きてたら日和そうだし、利家生きてたら家康が勝つのは厳しいな。
四大老・五奉行が全部敵に回って、武断派七将のうち四人が敵に回る。
152 :
人間七七四年:2010/05/11(火) 15:41:33 ID:FHWxRwmu
そもそも利家生きてたら家康は関ヶ原なんて誘発しないだろうから、戦ったらなんて
このIF自体が無意味。原因と結果を切り離したらいかんよw
利家がもう少し生きていたら、と考えると家康は利家の政治的失脚を策謀したんじゃないかな。
そもそも三成が利家派だったなんてのは後世の付会であって、奉行の上に立って重しになってる
大老なんて、三成にとっては全て邪魔者。
そういう意味では三成と家康が組んで利家を排斥するなんてこともあったかもしれん。
正直利家では、家康と天下を二分しての戦を起こす企画力さえ危うい。
強いの弱いの以前に器が違うと思うがな。
153 :
す:2010/05/11(火) 20:22:54 ID:APIHHR/w
上杉じゃやっぱり家康の抑えにはならなかったか
毛利はテルモとがゴミクズだから話にならんしな
前田も利家死んだらただの雑魚大名
上杉〜
154 :
人間七七四年:2010/05/11(火) 23:34:49 ID:RTnNNczO
そもそも利家ってたいした武将じゃないよね。
賤ヶ岳のときに小早川秀秋ばりの裏切りかまして大大名になっただけの。
155 :
人間七七四年:2010/05/12(水) 16:07:23 ID:u67N4hNh
両軍10万などという規模の戦いでは、主将の指揮能力など発揮しようがない。
一つの命令を各部隊に伝達するまでに戦況は刻々と変化するからな。
では主将の武将としての力量が全く関係ないかというと、そうではない。
「戦上手」の総大将を戴いてるという精神的な上乗せは計り知れないものがあるし
そもそも事前の作戦(ここしか軍事能力を発揮する機会が無い)を立てるに当たっての
発言力や統率に大きな影響がある。
ここで大事なのはその「能力」とは才能や秘めたる能力、また実際の指揮能力というより
「戦上手」という評判であり、大軍を指揮して勝利したという実績のことを言う。
ここまで言えば、利家が家康の相手になったかどうか、わかりそうなものだ。
利家には実績が無い。存外、利家を旗頭にしたとして三成以上の軍勢は集まらないのではないか。
毛利は総大将だから、ということで腰を上げたのだし、2番手で参軍したかね?
156 :
す:2010/05/13(木) 05:33:15 ID:Ufaj/PAw
上杉と毛利の位置が逆だったら面白かったな
上方に上杉がいたらちゃんと戦ってただろうし
直江&景勝と輝元チェンジでもよいが
157 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 07:27:47 ID:S5q6fvU/
そもそも毛利が上方にいなかったら三成に担がれることもなかっただろ。
158 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 09:01:30 ID:iC+F7HSW
蒲生が家康は吝嗇だから天下取れない、
とるのは利家だというのが、よく小説で
使われているが、その利家が気前がよかった話なんか
聞いたこと無いんだが。
159 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 15:27:57 ID:2trkPFb0
利家が天下とれるわけねーだろう利家厨が
頭おかしいんじゃね?死ね
160 :
人間七七四年:2010/05/13(木) 15:33:16 ID:2trkPFb0
ソースが小説ってまた馬鹿が来た死ね
161 :
す:2010/05/13(木) 16:43:03 ID:zRuogso2
>>157 バカ、毛利より上杉の方が担ぎやすいだろ
家康の越後征伐の釣りになってくれたくらいだし
上杉が上方にいたら本気で戦う関ヶ原が見れた筈〜
毛利の上方で腰砕けの関ヶ原になっちゃったからね
162 :
人間七七四年:2010/05/14(金) 21:06:01 ID:SaCpDVkf
>>152 利家厨は関ヶ原がおこって利家が勝つ=利家のほうが家康よりも優秀ってふうにいじでもしたいんだよw
163 :
人間七七四年:2010/05/16(日) 10:42:25 ID:Zm0TQcOT
>>161 上杉は同じ東国だから徳川と敵対している部分のあるから、
西国にいたら本当に家康と戦っていたか微妙なとこじゃないかね。
秀吉死後に婚姻話があって輝元がキレてるくらいだし。
164 :
人間七七四年:2010/05/18(火) 21:34:52 ID:E+f5+BTG
>>163 でも取り仕切ってるのがKYな直江さんですぜ?
家康は片っ端から他の大老の力削ぐ気満々だから、上杉はとりあえず喧嘩するだろう。
でも史実みたいにテキトーな所で腰砕けになって尻尾巻いて土下座すると思うな。
165 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 03:45:18 ID:n7krnYU/
上杉との婚姻は反徳川闘争での反徳川派の切り崩し工作ってだけで、
別に上杉が徳川寄りってわけじゃないんだけど。
166 :
人間七七四年:2010/05/19(水) 08:57:02 ID:mnM2U4Wu
>>164 直江状は別にKYなんじゃなく、家康の詰問に反論してるだけ。
>>165 徳川寄りではないけど別に敵対もしていない。
167 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 07:52:24 ID:VARh9tzg
いや、直江状だけじゃなく(史実かどうかもぁゃしぃし)
直江はいっつもKYでしょ。
168 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 08:32:11 ID:x+h6J8Pl
ほんとにビジャくんのか。
年齢がちょっと不安だけど、きてくれるんならなんだかんだで楽しみな選手だ。
169 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 08:34:23 ID:x+h6J8Pl
誤爆
170 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/20(木) 23:37:48 ID:vmu/0bi2
オレ徳川派だけど前田利家は大好きだ。
健康体だったら前田の勝ちだろう。
利家だったら天下取られても惜しくない。
171 :
人間七七四年:2010/05/20(木) 23:58:41 ID:8obproHt
>>167 直江状偽書説は弱くなってきてるけどな。
172 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 00:47:01 ID:/c9G3Mn+
173 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/21(金) 04:57:54 ID:SuhHszp8
>>172 何で前田厨になるんだ?
徳川厨じゃ!ワシは!知らんのか?
ウンコでも食うとれ!
「死ね」じゃなくて「殺すぞ」と書けない所がイマイチやね(笑)
174 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 07:57:42 ID:/c9G3Mn+
うせろ馬鹿死ねクソコテ
175 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/21(金) 10:10:48 ID:SuhHszp8
「殺すぞ」と書けない所がイマイチ(冷笑)
176 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 10:33:09 ID:/c9G3Mn+
うせろ馬鹿死ねクソコテ
177 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 10:37:38 ID:2VtedLO8
よぼよぼ爺の利家でも、家康の抑止力としてはある程度機能していたわけだから、
利家が望外に長生きしてたら、政権内部での冷戦は続いたろうが、熱戦には至らなかった筈。
だが足利幕府同様、政権の組織や基盤が脆弱な豊臣政権では、いずれ戦になったことだけは間違いない
178 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 10:43:40 ID:MniWoZ4p
家康の抑止になんて最初から全くなってないわなww
179 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 11:06:01 ID:2VtedLO8
君の頭の中だけではな
世間の誰一人賛同してないけどな
180 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/21(金) 11:07:43 ID:SuhHszp8
>>176 こんなバカがいるのかと思ったら生きる気力がわいてきた(爆笑)
逆効果だ。たわけうつけまぬけ。
181 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 11:42:49 ID:2VtedLO8
>>155 >利家を旗頭にしたとして三成以上の軍勢は集まらないのではないか
利家の死の直後、七将による三成襲撃事件が起きてるのだから、
利家には武断派の抑えとしての重みはあったと実証済み。
武将としてのキャリアは、家康には劣るが輝元よりは上。
利家存命中の前田家は、彼の死後家康の圧伏の前に腰砕けになって屈服した利長とは別物。
反徳川の中核。
よって君の私見は当たらない。
182 :
155:2010/05/21(金) 12:03:43 ID:9k0myzfS
集まらないのではないか、と書いたのは私見ではなく疑念。可能性は高いと思う。
その程度の読解力はつけてから反論したまえ。
>反徳川の中核
これも小説ベースだな。そもそも利家存命中に「反徳川」なぞ顕在化していない。
中核とかw脳内で勝手に状況を創作するな。
ただ三成以上に集まらない可能性について少し言葉が足りなかったかもしれない。
そもそも大老レベルの外様大名(そういう意味では前田も外様)が、豊臣家に忠などを
持ってたと想定するのが間違っている。それは江戸期以降の概念だ。
前田も毛利もどこまでも自家の立場で行動しているに過ぎない。
奉行衆にしても豊臣政権がその権勢を担保しているから「忠」に近い行動原理を持ってるだけで
それは大封の武断派(この概念も怪しいが)の行動が独立大名にむしろ近いことからも証明される。
利家が家康に及ばないにしても名望があったのは事実。しかしだからこそ、なのだ。
利家存命の前田家が西軍につけば間違いなく旗頭は前田家で、毛利や上杉は一段下にならざるを得ない。
つまり戦後の果実配分として前田、上杉にあまり「旨味」がない。
同じ格下なら家康側についたほうが、「革新勢力」である分、取り分が多い。
しかも総大将の能力はこちらが上なんだし。
そのように処したのが伊達政宗。西軍に組したとしても島津とどっこいの扱いが関の山。
だから島津も最初東軍入りを希望したのだから。
183 :
155:2010/05/21(金) 12:11:54 ID:9k0myzfS
失礼。間違い
>つまり戦後の果実配分として前田、上杉にあまり「旨味」がない。
毛利、上杉に〜の誤り。
184 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 12:38:44 ID:2VtedLO8
>>182 些末な議論は避けたいのだが、君が言及したのでこちらも言い添えておこう。
「疑念」を抱いたのは誰か。君だ。よって君の「私見」。
「疑念」も「私見」に相当することくらいの学力をつけてから反論したまえ。
>利家存命中に「反徳川」なぞ顕在化していない
まぁ、これ見てくれ。
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/seki-nen1.htm 利家存命中に「反徳川」が厳然と顕在化しているではないか。
脳内で勝手に状況を創作するな。
>大老レベルの外様大名(そういう意味では前田も外様)が、豊臣家に忠などを
持ってたと想定するのが間違っている。それは江戸期以降の概念だ。
前田も毛利もどこまでも自家の立場で行動しているに過ぎない。
同じく見てくれ。よ〜くな。
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/seki-nen1.htm >奉行衆にしても豊臣政権がその権勢を担保しているから「忠」に近い行動原理を持ってるだけ
秀吉死後、誰が政権の権勢を担保してたんだ。教えてくれないか。
>大封の武断派(この概念も怪しいが)の行動が独立大名にむしろ近い
具体的に誰だ。
>同じ格下なら家康側についたほうが、「革新勢力」である分、取り分が多い
政治理念が違うのに家康に加勢するわけがないし、家康が諸侯を糾合できないなら、そもそも加勢しない。
185 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 12:43:00 ID:2VtedLO8
186 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 13:00:54 ID:dNwwCdgg
おいおい利家中心に史料をあさるからそういう解釈しか出来なくなる典型だろw
合戦の経験乏しい前田が反徳川の中心とか単純にわろす
そのHPにも書いてある通り一言でいうと口だけ武将
187 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 13:16:29 ID:2VtedLO8
ちゃんと利家方家康方双方の関連事項が載ってるんだがな
事実歪曲のペテンぶりは、三宅雪子の真っ青ってか
188 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 13:22:54 ID:2VtedLO8
>合戦の経験乏しい前田
単純にわろす。少壮の頃から戦場に出ており、経験豊富。
>利家中心に史料をあさる
史実に基づいた単なる客観史料なんだがな。
君の解釈にこそ、どこにも根拠ないだろ。
>口だけ武将
前田に暗殺計画の濡れ衣を着せた家康こそ、そうなんだが。
189 :
155:2010/05/21(金) 14:16:31 ID:9k0myzfS
>「疑念」も「私見」に相当することくらいの学力
は?どこ国の広辞苑にでてるのw
疑念というのは誰か1人が抱くものではなく、疑う事象そのもの。
既に利家存命の場合の西軍の総数に対する疑義はなく俺のレスが初見ではない。
私見というのは、その字義通り「私の見方」であり、他の誰かの意見を参考にしないということ。
既存の疑念に対して「私見」などと矮小化し印象をミスリードするような卑劣な行為にケチをつけたまで。
そんな言い方をすればあらゆる意見が「私見」だ。
>反徳川
前田側から見れば、だ。この時点では二頭体制の主導権争いに過ぎない。
徳川側から見れば「反前田」ということになるが、無論そんな意識は無い。
むしろ伏見派、大坂派とすべきで徳川一家が除外の対象となるような状況ではない。
>秀吉死後、誰が政権の権勢を担保してたんだ。教えてくれないか
少しあきれた。本気で聞いてるならこれ以上の議論は無駄な相手だが。
政権の権勢?アフォか。その時点で別の政権があったのか?
奉行派は今の政権形態あっての「権勢」だから現政体を死守する方向へ向かうといったまで。
>具体的に誰だ
とりあえず教科書でも読めば?アホ臭くなってきたw
>政治理念が違うのに家康に加勢するわけがないし、家康が諸侯を糾合できないなら、そもそも加勢しない
はあああああ?政治理念????もうだめだ。やっぱアホだこいつ。
中世〜近世の大名勢力に「自家の繁栄と存続」以外の理念なんてあると思ってんのか?
そしてその時点ではそれは「正しい」政治の道だ。
190 :
人間七七四年:2010/05/21(金) 22:42:58 ID:e3oMzBBS
>>180うぜーよ馬鹿死ね
まだ本気で家康より利家のほうが武将としてうえとか思ってる馬かいるのか?
頭おかしいんじゃね?
191 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/21(金) 23:46:58 ID:SuhHszp8
>>190 アホか。
家康と利家なら家康の側なんだよ。オレは。
ただ、敵ながらアッパレだと言ったまでの事。
徳川方にお前みたいなアホはいらん。
ただ、死ねとは言わん。
アホの相手は楽しいのでね。
前田利政並みの仕事して改易されてしまえ。
192 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 00:55:31 ID:ZR2FQL5F
まぁ、でもあれだな。
利家が家康と対峙した際。あれだけの武将を集めて、決断出来なかったとこが限界だよな。
その辺、三成の方が迷いなし。
結局、先に膝を折ったの利家だし。利家は自分の実力を良く理解してたんじゃないか?
193 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 02:37:33 ID:+pOfrHjK
194 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 04:01:14 ID:LH5TaFu/
うんどっちかっていうとこの手のIFは秀長が長生きしたらの方がおもしろいね。
まあ結論から言うと利家じゃむりっぽい。
そもそもあの婚姻騒動時のあの玉虫色の決着をみてもわかる。
当時主家の許可なく勝手に家臣同士が婚姻を結ぶなんてのは相当な
法令違反。とりつぶされても文句は言えないレベル。
しかもあの時点でまだ秀吉が死んで1年しか発ってない。
さらに豊臣家中はまだ表面上は一枚岩。
政権の最高幹部である四大老及び五奉行が結託している。
いくら病気だったといっても明らかに家康側に非があり重ねてこんだけの
好条件が揃っているにも拘らずあの程度の決着しかつけれなかった
(そもそもこの二人の力が拮抗していたのなら家康の隠居ぐらいなら
持ち込めてもおかしくない。)時点で利家単独で家康に対抗するのは
難しい。何が言いたいかというと豊臣政権ががっちり結束する必要が
あるということ。しかしそうすると鍵になるのは三成だ。
上の方で利家が死んだでからすぐに武断派が三成排斥に動き出しているから
利家は武断派を抑えていたという意見があるがこれは事実でしょう。
しかしよく考えるとこんなのはある意味当然だ。
全員が全員当て嵌まるというというわけではないが武断派というのは
秀吉の身分がまだ低い時期から仕えていた濃尾平野出身者で
文治派というのは秀吉の身分がある程度高くなってから仕えだした
西国出身者が多い。利家が立場的にどっちに近いかなんて明白じゃん。
加えて三成が利家派だなんていうのは完全に根拠のないイメージ。
むしろ利家が長生きして大阪で権力を伸ばしたらそれはそれで
三成が面白いわけがない。利家政権なんて先述の理由から武断派が
勢力伸ばすのなんてわかりきってんだし。そのとき家康と三成が手を組む
可能性なんて十分ありうるというか結構高いと思う。
そこでもし豊臣が割れたら結局加藤、福島が石田、小西に置き換わってた
だけで結局家康が天下取るのは変わらんだろう。
195 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/22(土) 04:04:09 ID:IvpNb+CI
>>192 体調が良くなかったんじゃなかったっけ?まあ、そこを考慮してくれ。
三成が忠節を尽くした点は評価できるがね。
>>193 ニワカの徳川信者が!
虫も殺せんくせに(冷笑)
早く殺しに来い。待ってるぞ(大人の余裕)
196 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 04:12:40 ID:eV+Uk7ms
うせろ死ね
197 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/22(土) 04:39:05 ID:IvpNb+CI
>>194 なるほど(感嘆)
>>196 バカいじんのが楽しいから死ねないな〜(爆笑)
お前みたいなニワカとは徳川に対する思い入れが違うんじゃ!
他の徳川スレにも遊びに来いよ。
思いっきりいじってやるからさ!かっかっか!
198 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/22(土) 05:17:00 ID:IvpNb+CI
あ〜あ。アホがいねえとつまんねえな。
199 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 10:52:01 ID:2nWrQku9
>>194 法令違反がそこまで重きをなしてるかは疑問だけどね。
所詮当時の実権者(豊臣・徳川等)は法を超越してる存在だし。
法治国家でない以上、法令違反を現代の感覚で重罪扱いするのは無理がある。
まだまだ強者の実力がモノをいう時代でしょ。
法令違反云々ではなく、単純に徳川の専横に対する対抗措置。
じゃなきゃ、利家派の武将は青臭過ぎる甘チャンの集合だよ。
200 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 11:49:40 ID:Ws/PHZej
徳川派と前田派に分かれたとき
前田陣営で毛利秀元と立花宗茂が打倒徳川と吠えていたらしい
この二人を先鋒にして攻めかかれば良かったのにw勝っただろw
201 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 18:58:29 ID:dMjKH13W
法度違反が重要じゃないわけがないだろ。
物事には「大儀」「名目」というのが必要だ。
元々法度違反を犯した者は誰であろうと切り捨てて良いと奉行に命じられていた。
そういった根拠があり、尚且つ二頭の一人である利家と奉行衆の決定という
正式な形を取る事で、二頭のもう一人の処分という重要な決定を下す事が可能になる。
忠義・忠誠がどうのこうの言ってたのもいるけど、名目と本心っていうのが理解できないのか?
202 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 19:36:57 ID:2nWrQku9
名目としては重要だと思うよ。その事は否定しない。
でも、実の部分では殆ど意味がない。
事実、重要でないと判断したからこそ、家康は行動を起こしたわけで。
結果もご存じのとおり、理がある側が腰砕け。法度は機能していないわな。
原因と結果に因果関係がキチンとあるから、結果論じゃないよ。
ハナから政権を簒奪しようとしている家康に対し、法度違反だ云々かんぬん
言っても、意味なんて全くないでしょ。まだまだ力が全てなんだってば。
203 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 20:21:18 ID:dMjKH13W
へ?実の部分って何?ルールを守りましょうって意識って事?
そんな馬鹿な事誰も言ってないと思うけど。
ルールや法令なんてものはそれを行使する側・される側の状況によって全く違ってくるもの。
そこを考えずに法令単体に関する重要性を説くだなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
204 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 20:37:06 ID:2nWrQku9
実=法度違反を糾弾する事。
ルールや法令というのは、誰にでも普遍的に適用されるためにあるんだけど。
んで、君のしてる話は各論。
本論はそんなトコじゃないよ。それともワザと話を逸らしてるのかな?w
205 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 20:40:33 ID:2nWrQku9
↑修正
実=法度違反を糾弾する事で家康に及ぶ影響
206 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 21:12:45 ID:dMjKH13W
名目ってのをそういう風に理解しちゃってたのか。
あのね、「大儀」だの「名目」だのってのは別に飾りでも何でもないんだよ。
「法度違反」「豊臣政権」という正当性があったからこそ、
家康は自らの不利を悟り、非を認めて誓詞を交換しているわけだ。
ルールなんてのは行使する側される側の力関係に大きく依存する物だ。
行使する側の力が圧倒的に強ければ何の問題も無い。
表立って違反する者は少ないだろう。
行使される側の力が圧倒的に強くなってしまえばルールなんてものは殆ど意味を成さない。
力関係が微妙な時はまた違った意味を持ってくる。
207 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 21:22:27 ID:2nWrQku9
何が言いたいのかサッパリわからん。
名目:@表向きの名称A表向きの理由、口実 (大辞泉)
ルールの適用が力の強弱で変更されるなら、それは既にルールとしての意味
をなしていない。
つまり、力の強い者にとってはルールを守る事は重要じゃない。
>>199は別にオカシな事を言ってないでしょ。
208 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 22:39:10 ID:LH5TaFu/
194だけど確かに当時は戦国。強者の理屈がものをいう時代ではある。
ただだからこそ誰かが法を犯した時の対応によって取り締まる側と
法を犯した側の力関係がわかるんじゃないの?
209 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 22:45:11 ID:IbgI+2m/
誓詞の中身見れば法令違反は実としても重要だと思うよ。
利家たちは強硬な態度に出れなかったけど、家康が井伊に
兵を率いさせて呼んでいたことが大きい。でも起請文を見
れば家康方が譲歩した形。
210 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 22:45:34 ID:LH5TaFu/
そしてあの時は形の上では法を犯した側が家康でそれを取り締まるのが
利家を中心とする四大老及び五奉行だった。そしてその結果が現在でいう
始末書、反省文程度の罰しか与えることができなかった。その事実から
とても利家単独では家康を止めるのは無理だと思うんだけど。
211 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 22:50:26 ID:dMjKH13W
>>207 「名目」って言葉自体の意味じゃねーよwまぁいいや。
お前が重要じゃないという法度違反の糾弾に対して、
家康は何で自らの非を認め、今後遺恨に思わないだなんて誓詞を書いたんだと思う?
四大老・五奉行という豊臣政権の正当な権力行使者が法度違反という正当な理由によって
家康を討伐するとなれば、それでも家康に味方する家康と深く結びついた大名もいただろうが、
多くの大名は正当性のある利家らに味方するだろう。
上で言った微妙な力関係というのはそういう事。
212 :
人間七七四年:2010/05/22(土) 23:31:53 ID:2nWrQku9
>>208、
>>210 家康の法度違反が起こした影響を考えれば、事象としての意義は大きい。
君の言う通り、力関係が明確になったわけだから。ただし、法度違反そのもの
に大きな意味はない。ここまでのレスで述べている。
>>209 その後の家康の専横が収まっていれば、確かに誓詞・起請文の持つ意味は大きい
と言える。だが、これらは全てカラ手形に過ぎない。
>>211 言葉自体の意味が違うのに、そこから生ずるものは一体何なんだろう?w
で、君は一体何が言いたいの?
>>201を読む限り、法度違反は重大だという事が言いたいんじゃないの?
それは、
>>211のどこから読み取れるの?妄想だけ並べたてられても困るんだけど。
213 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:04:34 ID:Zwoy2HPh
逆に法度に背いたことが明らかにされたため正当性もなく、
家康は反対派を退けるための軍事行動に移れなかったという
見方もできると思うけどね。
家康と利家が戦えば利家が勝つなんて言うつもりはないけど、
私婚問題だけを見れば利家たち四大老の家康制御機能はちゃん
と働いてる。そのあと利家が死ぬまでの間、専横が収まらなか
ったって例えばどんなことしたんだっけ。
214 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:20:26 ID:vbiA6F5M
明らかにされるも何も、周知でしょ。
家康は確信犯。表面上はさておき、正当性等どうでも良し。
糾弾されてる側が先制パンチを喰らわすわけにはいかんでしょ?
機能してたら、あのようなショボイ結末にはならない。
なぜ、利家が死ぬまでの間に限定?誓書には期間設定があったっけ?
215 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:20:36 ID:Px9/2J6n
>>212 あのね、「名目」として必要だって言ったでしょ?
で、それ自体が重要なんじゃないんだよ。
大儀・名目を掲げて行動する事が出来るって事が重要なの。
そういう意味で「そういう風に理解しちゃってたのか」って言ってるんだよ。
名目自体の意味を言ってるんじゃないの。理解できるかな?
あと、「法度違反が重大」っていうのが何を言ってるのか分からないけど、
法度違反を犯した事で、家康討伐の名分が立つ。だから重要だって言ってるの。
216 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:29:01 ID:Zwoy2HPh
>>214 利家VS家康の話してるんじゃないの?
家康の専横が目立つのは利家死後、利長が加賀に帰ったことが
大きいんじゃないのかね。
正当性どうでもいいなら軍事力で利家らほかの大老やっつければ
よかったのにな。上方での軍事力は圧倒的に家康>利家ら だった
んだから。
217 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:42:03 ID:vbiA6F5M
>>215 であれば、「名目」については、
>>202で何の問題もないよね。
>法度違反を犯した事で、家康討伐の名分が立つ。だから重要だって言ってるの。
つまり、法度違反そのものではなく、家康討伐が可能になる事が重要なんでしょ?
こちらも、それに近しい事には触れているのだが。
>>199を読み直してくれない?
>>216 そんな話はしてませんので。
よろしければ、
>>194くらいから読んで見てください。
「表面上はさておき」ね。
218 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 00:51:17 ID:Px9/2J6n
>>217 問題無いわけないだろ、どんだけ理解力無いんだよ。
お前は、実の部分=法度違反を糾弾する事で家康に及ぶ影響
に対して重要じゃないって言ってんだろ?
俺は名目として利用する事で非常に重要だって言ってんの。
219 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 01:03:47 ID:Zwoy2HPh
「名目」とか「表面上はさておき」とか使いつつ、一方で
「正当性はどうでもいい」「法度そのものに大きな意味は
ない」とか言うから、法度をどう評価してるのか分かりに
くい(突っ込まれたらどうにでも答えられる)文章になっ
てるよね。よそのスレでもだけど。
220 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 01:08:42 ID:vbiA6F5M
>>218 え〜と。なんとなく気付いてたけど、お馬鹿さん?
>>202、
>>204(
>>205)をよく読み返してもらえる?
お馬鹿さんだからわかりやすく復習してあげるね。
>名目(法度違反で糾弾する事)としては重要だと思うよ。その事は否定しない。
>でも、実の部分(法度違反を糾弾する事で家康に及ぶ影響)では殆ど意味がない。
>事実、重要でないと判断したからこそ、家康は行動を起こしたわけで。
>結果もご存じのとおり、理がある側が腰砕け。法度は機能していないわな。
最後のとこが重要です。わかりましたか?
221 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 01:13:00 ID:vbiA6F5M
>>219 言いたい事は一貫してますけど。
「名目」を使ってるのはこちらではない。
「表面上は正当性を重視しながらも、内実はどうでもいい」
⇒何かおかしいかな?
「法度」は重要視してません。
222 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 01:14:37 ID:Zwoy2HPh
くどい論争になってきたね。
とりあえず自分の論が通じないとバカ呼ばわりとかはたがいにやめようや。
みっともない。
223 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 01:28:58 ID:Px9/2J6n
>>220 「名目」って言ってる意味はやっと理解出来たみたいだね。安心した。
で、法度違反が重要だったかどうかだが、
少なくとも利家在世時には法度違反を理由に家康の行動を抑止する事が出来たわけだ。
で、次に法度違反を理由に家康討伐を掲げるのは利家が死に、利長・浅野・石田らが
逼塞の身となった後の二大老・三奉行の家康弾劾状及び内府ちがひに条々だ。
利家在世時に比べ大幅にパワーバランスが崩れた後の話。
ある程度力関係が拮抗していなければ、大儀だの名目だのは意味を成さないが、
利家在世時のような力関係の状況では非常に大きな意味を持つ。
そしてこのスレは家康VS利家スレだ。
224 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 01:46:41 ID:vbiA6F5M
>>223 「名目」は、最初から各論でしかなかった事がようやく理解できたみたいだね。安心した。
>>201がそもそもの始まりなわけだが、次々と要旨が変遷していき、
>>223で着地したわけだ。
もう少し頭を整理して、話を一貫させた方がいいな。
225 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 01:57:27 ID:Px9/2J6n
>>224 そう。名目として使う事に意味があるって言ってるのを
君がずっと理解できなかったからその説明を延々としてたわけだ。
要旨が変わっているように思えるのはお前の理解力の問題。
>>201で言っているのは権力を正当に行使出来る者が正当な理由で
討伐するという事が重要だという事。
それに対して「理がある側が腰砕け〜」を理由に意味を成していないと
主張しているので、それに対する答えが
>>223だ。分かる?
まともなレスも出来ず、
>>224みたいな煽りだけのレスだけするのは恥ずかしいよ。
226 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 02:08:41 ID:vbiA6F5M
>>225 何を言おうと、読み返せばわかる事。同じ事を繰り返すのも疲れるし、
君の稚拙な展開にはもうウンザリなんだ。
>>202の反論を
>>223で行うこと自体、論が整理されてない事の証左だと気付かないと。
そういいうのは、203でやらないとダメだよ。
227 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 02:17:28 ID:Px9/2J6n
>>226 君が「名目として使う事として重要」という意味をずっと理解していなくて
やっと
>>220で理解出来て、それに対する反論をしてきたんで、
>>223で答えてるんだよ。
何言ってんの?
228 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 02:25:04 ID:vbiA6F5M
>>227 >>220で理解出来たと思ってるのが、君の思い込み。
そもそも君の妄想を理解する必要はないわけだし。
各論に付き合ってあげていた事に気付かないと。
もう後付の言い訳はやめた方がいい。
229 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 03:04:16 ID:Px9/2J6n
>>228 あのね、
>>202のレスが明らかに勘違いしているから、そういう意味じゃないんだよって言ってたわけ。
少なくとも
>>220ではお馬鹿さんだとか煽りながらも、
名目として利用する事に意味があるというレスに対して結果的に法度は機能していない、
という一応の返答にはなっている。
ただ、その内容自体は全く不適切なので、
>>223で今までのレスを踏まえた上で説明してるんだよ。
下らない煽り合いがしたいのなら別だが、そうでないのならきちんとしたレスをしたらどうだ?
230 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 03:38:41 ID:vbiA6F5M
>>229 それならば。
そもそも、
>>194を見て欲しい。
>当時主家の許可なく勝手に家臣同士が婚姻を結ぶなんてのは相当な
>法令違反。とりつぶされても文句は言えないレベル。
に対し、
>>199にて、
>法令違反がそこまで重きをなしてるかは疑問だけどね。
で、君の
>>201だ。
>法度違反が重要じゃないわけがないだろ。
>物事には「大儀」「名目」というのが必要だ。
>元々法度違反を犯した者は誰であろうと切り捨てて良いと奉行に命じられていた。
>そういった根拠があり、尚且つ二頭の一人である利家と奉行衆の決定という
>正式な形を取る事で、二頭のもう一人の処分という重要な決定を下す事が可能になる。
>忠義・忠誠がどうのこうの言ってたのもいるけど、名目と本心っていうのが理解できないのか?
>>199までは、法度違反自体の罪の重さについて論じられている。
>>201で雲行きが怪しくなる。法度違反から派生する手続きの重要性にすり替わっている。
こちらはそれを理解出来ず、
>>202では当初の流れのまま回答をしている。
で、
>>203に至って、もう何が何やら。そう思わない?
231 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 03:53:00 ID:vbiA6F5M
>>229 次。法度違反の重要性を論点にしている事を踏まえ、
もし君が、自分の要旨に変遷がないと言い切れるならば、
>>215の時点で結論は一旦出されている。
が、この内容については、こちらは既に
>>199で述べている。
如何?
232 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 04:39:57 ID:Px9/2J6n
>>230 >>194の主旨はどう見ても「法度違反は重罪だ!」っていう事じゃないだろ。
法度違反を犯しているという事を理由に家康を隠居させるくらいの事は出来たはずだって言ってるわけだ。
>>201と
>>215で言ってる内容はほとんど同じ事。
家康討伐の正当な理由として使えるからって事ね。
で、君の意見は「正当な理由として使えたって意味が無い。実際に利家側が腰砕けになったじゃないか」
というものだと思ったから、
>>223で、実際に家康の行動に対する抑止効果はあったでしょって言ってるの。
じゃあ何で正当な立場や理由があるって事が重要なのかと言うとそれは
>>211で言ってる。
233 :
人間七七四年:2010/05/23(日) 07:25:16 ID:qseTRqDW
利家ヲタはバカしかいないからな
234 :
人間七七四年:2010/05/24(月) 00:19:57 ID:0PKj4Xt8
また利家ヲタが妄想ブッこいてんのかw
入り方を間違えて後に引けなくなった感じ?
恥ずかしいレスが延々と続いているなwww
235 :
人間七七四年:2010/05/24(月) 00:52:25 ID:IpgpnHjN
>>189 全く外部の情報や他人の意見に影響を受けていない「私見」など存在しない。
それが当てはまるのは、生まれてこの方誰とも接触せず、いかなる教育も受けていない場合だけ。
つまり君は小学校さえ行ってないってことか(笑)
その割には、自分の歴史観の根拠として他者の著作物や史料名を挙げているが、この矛盾をどう説明するんだ。
もろ『他の誰かの意見を参考』にしとるやないけ(侮)
「疑念」に基づく開陳も立派な「私見」。「私見」以外の何物でも無い。もう一回小一からやり直せ。
あ、ごめんごめん。君は小学校にさえ行ってないんだっけ、プッ。
そもそも利家に徳川と私的理由で争う意志など無い。ただ家康の露骨な法令違反を咎めただけ。
無論二頭体制の主導権争いをする意志も利家には無い。
あるならその具体的事例出せ。これであっさり撃沈。
>徳川一家が除外の対象となるような状況ではない
意味不明。説明求む。単なる脳内妄想の思いつきだから無理か。よってスルー(笑)
>政権の権勢?
言いだしっぺが君だろ。
根拠の無い妄言つつかれて、必死の逃げ口上で涙目(笑)
>奉行派は今の政権形態あっての「権勢」だから現政体を死守する方向へ向かうといったまで
だから秀吉死後、家康の専横に対して豊臣政権の権勢を「担保」する役割を担っていなのは誰よ。
前田利家だろ。
これであっさり
>>178が与太話だと立証されてるぞ(笑)
>>182の
>大封の武断派
答えられないので存在しないことが判明。脳内妄想なので当然の帰結(笑)
加えて『豊臣政権がその権勢を担保しているから「忠」に近い行動原理』と
『大封の武断派の行動が独立大名にむしろ近い』の因果関係を証明してくれ。
ま、言ってる本人自体も分かってないから無理か(笑)
>中世〜近世の大名勢力に「自家の繁栄と存続」以外の理念なんてあると思ってんのか?
観応の擾乱知ってるか。
この対立の構図がが政治理念の対立ではなくて何なんだ(侮)
流石は小学校さえ行っておらず、生まれてから誰とも会話さえしていない御方だけはある。
散々他人の著作や史料名「だけ」を引用しといて、
『私見というのは、その字義通り「私の見方」であり、他の誰かの意見を参考にしないということ』だとさ(笑)
236 :
人間七七四年:2010/05/24(月) 11:40:21 ID:llRhFN5N
軍事力っても、徳川の領国は関東で
あのまま大阪付近で戦闘になれば利家側が勝つんじゃない?
伊達も最上も東北、福島でも尾張
対して前田は北陸、毛利は中国、宇喜多なんて岡山
家康が軍を連れてくる間に近畿地方(と秀頼)は利家側が押さえるんじゃ
237 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/24(月) 11:54:26 ID:q7Sla6n5
>>233 利家側がバカというより
家康公が偉大すぎるのだ。
オレは敵に塩送ったまでの事。
そうでもせんと釣り合いがとれんからな。
それでも徳川家康公>前田利家殿の図式は逆転しないがな。
238 :
人間七七四年:2010/05/25(火) 18:43:58 ID:zP/ubn0y
やっぱりさ秀吉が死んでからまだ1年しか発ってないのにあそこまでの
弱腰ってのに利家の限界を感じるよな。
239 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 05:31:45 ID:LYpYIyoy
利家が信長や秀吉、あるいは家康が利家の立場でも
もっと謀略巡らせて強引にでも相手を追い詰めにいっただろうね。
いったん和解しても次の策を打ちにいっただろうけど、利家は、じゃあ俺もう死ぬわ、だもんな。
いくら人材不足だったからって利家はな。
武功で成り上がって来た奴で政権担当能力の適正が元々あったとは思えないのにね。
所詮織田家では地方司令官(柴田)の目付程度の武将だったし
当時の働きだって佐々や佐久間以下だし。
240 :
人間七七四年:2010/05/26(水) 21:08:23 ID:T3tp5FPg
無理無理やっぱり250万石と100万石では立場が違いすぎる。
241 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/05/29(土) 01:09:40 ID:wa5G3OVx
正確には利家の頃の所領は84万石。
関ヶ原の論功行賞で103万石になった。
・・・と思う。
242 :
人間七七四年:2010/05/31(月) 02:45:54 ID:q3buNHne
一応前田一族としては100万ありましたよ。
243 :
人間七七四年:2010/05/31(月) 11:51:09 ID:ee+/JP5h
すぐ一族含めて100万あった主張w利家厨は
利家本人は100万なかったのに
さも利家があったかのようにいうwwwwwww
244 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 02:40:43 ID:PPSl9NG6
そんな事言ったら250万石だって全部が家康個人の取り分じゃないぞ。
利家に80万石は過大評価だったし、家康に対抗できる器じゃないのは確かだが。
でも当時他に人材がいなかったしな。
政権中枢にいる奉行とかに大封やるのは家康以上に危険だし。
245 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 03:37:07 ID:4E/run5R
>そんな事言ったら250万石だって全部が家康個人の取り分じゃないぞ。
>利家に80万石は過大評価だったし、家康に対抗できる器じゃないのは確かだが。
わかってるならいわなくていいよ
そのとおりだし
246 :
だぅ:2010/06/04(金) 10:58:19 ID:9YbLx0y9
100万石の利家が200万石の豊臣・大阪城に入城すれば無敵だと思うがな
人望もあるし、ちょっとやそっとじゃ崩せないぞ
247 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 11:10:34 ID:X0lWf3BO
そうだなもう歳だし途中で寝返る元気も無いだろうしな
248 :
人間七七四年:2010/06/04(金) 14:22:54 ID:ATB0VUNO
249 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/06/05(土) 00:23:23 ID:yonxTEqj
250 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 00:33:09 ID:rK4V0cJf
>>246 そんな守備的姿勢で無敵とか言われてる事自体、利家評価のタカが知れる。
負けないだけで、勝てもしない。
251 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 04:44:20 ID:FPn6Vbgt
利家厨は馬鹿しかいないからなw
252 :
だぅ:2010/06/05(土) 11:11:59 ID:R/Y+YT4h
利長が間抜け過ぎるんだよ
大阪方もあっさり前田手放したしさ
家臣の面倒みないくせに天下の権力だけ欲しがる
淀は間抜け
253 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 11:57:40 ID:Prj5urZi
けど同じ人間にそこまで違いはないしな
利家が全力でつっかかったら慎重な家康は動かないだろうし
やっぱり利家死ぬまで待って家康の勝ちだ
254 :
人間七七四年:2010/06/05(土) 18:48:28 ID:YMq18Uug
確かに同じ人間に違いないが婚礼騒動時は秀吉が死んでまだ間もない時期
だぞ。これで後3年も経たらどうなっていたかわからんと思うが。
255 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/06/06(日) 03:34:52 ID:i2csSRhI
>>251 敵に塩送ったれよ(笑)これぞ大人の余裕ってやつだ。
256 :
人間七七四年:2010/06/09(水) 00:45:38 ID:gwfjfd4H
257 :
人間七七四年:2010/06/25(金) 20:50:53 ID:oHK6CFhV
クソコテくるといつもスレ止まるなw
258 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2010/06/28(月) 23:40:56 ID:8wgU8YiE
オレの名前にいちゃもんつけられても困る(笑)
259 :
人間七七四年:2010/06/30(水) 22:27:34 ID:XWtSQE6b
確かに利家は戦や知略では家康にかなわないかもしれないが人望がある
260 :
人間七七四年:2010/07/01(木) 06:13:39 ID:dqiUmL4P
だから?自分あるのなんか誰でも知ってることだ
だから家康に勝てるとでも?
261 :
人間七七四年:2010/07/01(木) 07:18:58 ID:JC/WTudo
逆に家康が利家に勝てる根拠もないがな
262 :
人間七七四年:2010/07/01(木) 08:15:50 ID:gNctjqYK
利家なんかまったく勝てねーよ
263 :
人間七七四年:2010/07/01(木) 08:16:45 ID:gNctjqYK
すぐ人望アピールでいかにも勝てるようなこと言ってる利家ヲタw
264 :
人間七七四年:2010/07/01(木) 11:26:41 ID:24oHElgo
利家に人望?家康に対抗できる奴がいなくて
ただ古いってだけで選ばれた、家康へのカウンターバランスとして
秀吉が無理やり上げた官位しかないんだが・・・
人が集まるときも基本的に親家康か反家康でしかない
親利家なんてものは端からない
もちろん親家康も反家康も政治的な立ち位置や野心による
265 :
人間七七四年:2010/07/01(木) 22:56:20 ID:UnL18g0R
266 :
人間七七四年:2010/07/02(金) 12:22:45 ID:dOspzMwl
一本独鈷で勢力を広げた大名で関が原で生き残ってたのは家康しかいないだろ。
規模を縮小すれば最上とか真田とかいるけど。
あとは2代目3代目か潰されずに生き残ったというやつしかいない。
それ以外は全員織田政権下のサラリーマンだろ。
へたれがいくら寄り集まったって所詮はへたれ。
前田は自分がリーマンだってことを自覚してたんだよ。そこが賢いところ。
家康は信長、秀吉、信玄、謙信、氏康、元就、元親あたりと比較されるべき人物で
自分とは格が違う人物だと前田自身認識してたと思うけどね。
267 :
人間七七四年:2010/07/02(金) 13:16:28 ID:QWefCYf+
利家厨はそんなこと思ってません
268 :
人間七七四年:2010/07/02(金) 23:45:11 ID:75icAsvD
流石アンチ前田
捏造妄想批判はお得意のようで
前田厨も利家に人望があると捏造しまくりのマンセーお疲れ様です
269 :
人間七七四年:2010/07/03(土) 02:39:59 ID:CiL/8Kcx
>前田厨も利家に人望があると捏造しまくりのマンセーお疲れ様です
利家が家康よりすべてにおいて優れていて関ヶ原がおこって利家が勝と思い込んでます
柴田のことも裏切ったとおもってません
利家厨は
270 :
人間七七四年:2010/07/03(土) 14:09:37 ID:szKlOFex
271 :
人間七七四年:2010/07/03(土) 14:19:17 ID:pZjTxR/M
272 :
人間七七四年:2010/07/03(土) 17:02:54 ID:lKUJolTj
秀吉だって家康の認可がなかったら織田家の乗っ取りはならなかったからな。
小牧で戦して和睦しか出来なかったわけだし。
秀吉の九州や関東平定は家康の認可があってのこと。
そのために人質まで差し出してるからね。
前田にしろ秀長にしろ差しで家康と戦したら勝てないことははっきりしてるのよ。
なにしろ秀吉が勝ててないわけだから。
つうことは後の金魚の糞をいっぱい連れて俺は強いぞといってもいっしょなのよ。
金魚の糞には糞の利害関係があるだけだから。
結局、戦国に逆戻りするだけ。
273 :
人間七七四年:2010/07/03(土) 17:12:08 ID:b5XpVnzH
反家康と親家康しかないってのは違うと思うけど
豊臣政権内にはいわゆる奉行派や武断派のほかにも
徳川派、毛利派、前田派やら色々あるよ
関ヶ原の対立軸は徳川派VS毛利派
秀吉死亡時での主流派は前田派で徳川派は非主流だよ
急速にヘタっていったけど
274 :
人間七七四年:2010/07/03(土) 17:28:00 ID:lKUJolTj
反家康だろうが親家康だろうが関係ないよ。
豊臣政権に日本をまとめる力があるかないかが問題なだけだから。
徳川の認可がなかったら、秀吉でさえ日本をまとめるのは無理だった。
で、徳川を打倒するのははっきり言って前田じゃ無理だから。
箱根、上野あたりで1ヶ月我慢したら豊臣の権威なんか即瓦解だから。
豊臣の大名なんかも自領を切り盛りするのが忙しくてそんなことにかかわっていられなくなる。
あとは甲信駿遠三を併呑すれば対抗できるやつはいなくなる。
それだけのこと
275 :
人間七七四年:2010/07/03(土) 18:02:02 ID:1HYwpAyX
ちょっw家康の認可?一体何の妄想?
小牧・長久手は家康側から人質出してるんだけど。
もちろん九州征伐は関係無い。
臣従時に母親を出したのは家康上洛に際しての命の保障として。
それも徳川・北条・伊達同盟に対しての切り崩し工作の一環。
上洛時には「どのようにでも関白様次第」と言上し、秀吉の事を「殿下」と呼ぶ。
それまで同盟関係だった北条に対して、豊臣家の使いとなり
豊臣家へ出仕しないのなら家康の娘を返せと手のひらを返す。
一体家康が秀吉の何に認可を与えていたのかw
276 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 01:19:48 ID:O6yqyURA
だからといって前田がすごいだから前田が徳川よりすべて勝ってるないはならん
277 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 02:19:14 ID:zWzUXwYR
>>275は木の股から生まれたんだろうなw
自分の母親と妹を差し出した時点で秀吉の負けよ。
世間一般は家康を認めるわな。
それでやっとこせ豊臣政権を認めてもらったということが理解できないんだからな。
認めてもらえない場合は西の毛利や四国もうごめいてにっちもさっちも行かなくなるのよ。
2正面作戦はれるほど人材いないわけだからな。
なんせ45過ぎてガキの独りもいないんだから秀吉は。
上洛以降は豊臣政権を認めてるんだから臣下の礼をとるのは当然だな。
で、潰すことも出来ずに関八州に移動させたわけだ。
上司を裏切って100万石そこそこのリーマン専務とは格が違うことに気づけw
278 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 02:28:05 ID:vcRjWzvc
>>274 反家康だよ、秀吉が急造した家康の対抗馬
そもそも秀吉死亡時から急速にへたれたって
秀吉と利家亡くなったの一年ぐらいしか差が無いよ
実際はたった数時間の戦闘で東軍が圧勝だったのに
関が原は序盤西軍が押してたみたいに意味無い表現だな
279 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 02:44:24 ID:zWzUXwYR
そもそも秀吉と利家は=じゃないわけよ。
で、豊臣家自体の家督相続を受けるだけの力は秀頼には無いわけよ。
認める認めないは各大名個々にあるわけ。
豊臣恩顧のリーマン大名もいれば独立オーナー大名もいるわけよ。
家康が認めないと言って、それを征伐するだけの力が前田にあるかないかの話。
1,2ヶ月粘ったら、瓦解するのは早いだろうね。
関が原で家康が負けた場合と同じ。戦国時代に戻るだけ。
で、関八州に甲信駿遠三加えた家康に勝てる奴はどこにもいません。
それだけのことです。
280 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 03:05:03 ID:TUo1v6cj
>>277 えーとね、時系列滅茶苦茶。もうちょっとくらい歴史勉強しようよ。
小牧・長久手の時は家康が息子を人質として差し出してるわけ。
大政所を送ったのは紀伊・四国・越中・九州平定後の話。
もちろん、家康が秀吉の家臣になった後は大政所は帰ってる。
> 潰すことも出来ずに関八州に移動させたわけだ。
こんな事未だに本気で思ってるのか?
小田原征伐戦前戦後の働きに対する知行だよ。家臣に対して行う通常の行為。
281 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 03:30:00 ID:zWzUXwYR
>>280 だからお前は木の股から生まれたんだなw
時系列なんかかんケーねーよw
母親送っただけで力を認めてるつー話じゃん馬鹿じゃね?
お前がどう見るかじゃなくて世間様がどう見るかだよボケw
九州平定が終わったら西は感ケーねーだろw
その時点で母親送るってことは徳川と正面切って勝負できねーって言ってる様なもんジャンw
想像力の無い奴はこれだからなw
親は作ることは出来んが、子は作れるんだわw
282 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 03:59:26 ID:TUo1v6cj
>>281 これだけ無知を曝け出してるのに大した元気だな。さすがは徳川厨。
徳川・北条・伊達の同盟に対し、前面にある徳川を調略出来れば
非常に有利に戦いを進める事が出来るわけだ。
味方の被害を最小限にし、戦いを迅速に進められる調略は合戦の基本。
その調略は見事成功し、徳川は豊臣の尖兵となって良く働いてくれた。
徳川だから戦いを避けただとか、そんな話じゃないの。分かったかな?
283 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 04:04:24 ID:zWzUXwYR
だから福島辺りが徳川と太閤の遺言を無視して姻戚関係結んでるわけだ。
豊臣の力をそもそも子飼いの福島辺りが認めてないわけ。
秀吉にしても、母親を送ってようやく徳川に認めてもらったわけよ。
西は統一できても東は統一できなかったわけだ。
で、前田が豊臣政権を認めさせるには家康を屈服させなきゃならんわけだが?
秀吉でさえ屈服させきれなかった家康を前田ごときが屈服させられるのかねえw
284 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 04:12:15 ID:zWzUXwYR
>>282 母親送って調略って言うその心がさもしいなw
光秀が丹波攻めで信長から叱責されたかわかんないんだろ。
親を送るってことは相手に対して二心ありませんって言う意思表示名わけ。
武力で屈服させることを秀吉自身が放棄したわけよ。
相手を滅ぼすか認めてもらわなかったら政権そのものが成り立たないことがわからないんだからなw
馬鹿につける薬は無いわw
んで、徳川と対抗するのは秀吉じゃないからw
285 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 04:24:16 ID:FTNQRl2A
前田ヲタってホント頭おかしいな
286 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 04:27:43 ID:TUo1v6cj
>>284 家康は上洛する際に、自らの身の安全について非常に心配したわけだ。
そこでその保障として一時的に大政所を送ったっつーこと。
当然その後、大政所は無事に帰ってる。
豊臣政権認めてもらう為に母親差し出したんなら、その後も人質になってなきゃね。
残る大国である徳川・北条・伊達の一角が崩れれば、東国平定の大きな足がかりになる。
事実、その後伊達も屈服し、見事天下統一は果たされるわけだ。
あと、ちなみに
> 光秀が丹波攻めで信長から叱責されたかわかんないんだろ。
これ、創作だから。
287 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 04:39:10 ID:zWzUXwYR
>>286 お前は物知りだけど馬鹿だな。
家康が上洛すればそれだけで豊臣政権を認めることになるだろ。
そのあとで大政所を人質に取る必要があるのか?馬鹿じゃねw
徳川は秀吉の武力には屈しませんでしたけど、秀吉が大政所を送って保障してくれたから上洛しますよって話。
大政所を送らなかったら豊臣は対外的には家康を屈服させたと認めてもらえなかったわけよ。
288 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 04:42:16 ID:zWzUXwYR
>>286 で、秀吉でさえ武力で屈服させきれなかった徳川をどうやって屈服させるんだって話なんだが?w
政権てのは相手が認めて初めて成り立つもんで、認めてない相手には通用しないんだが?
289 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 04:51:59 ID:TUo1v6cj
>>287 同盟相手がやられた後にやっぱり次はお前だって言われたらどうすんだよ。
「豊臣政権を認める」という立場に立って人質を取ったのなら
返しちゃったんじゃあ何の意味も無い。
つまり、家康自身が上洛する時の一時的な身の安全の保証ってだけの事。
武力に屈していないっていうなら、北条・伊達という強力な同盟者がいるのに
わざわざ秀吉の家臣になる必要はないわな。
三家揃っても敵わないと思ったから屈服して家臣になったんだよ。
290 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 05:06:58 ID:zWzUXwYR
>>289 言うと思ったwだからお前は物知ってても馬鹿なの。
母親まで送って、認めてもらった相手を同盟相手が潰れた事を理由に攻めるような奴を
天下の主と誰が認めるんだ?w
それを信用せずに人質として獲るようなまねしたら家康の顔が潰れるんだよ。
そういう奴は何時潰されても取って代わられても文句は言えない時代。
今の選挙でもそうだろ?公約と違うとか重箱のすみつついてでも認めたくないものなんだよ。
他の大名にだけ認められれば良いとかいう底の浅い話と違うからな。
民衆に自分の家臣に如何に認められるかという話。
291 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 05:16:47 ID:TUo1v6cj
>>290 その徳川は同じように娘を氏直の嫁に出したけど完璧に裏切ったね。
誓詞血判の上、忠誠を誓って娘を嫁に出した秀頼も裏切ったね。
それでも天下取ったんだよ。
292 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 05:19:35 ID:TUo1v6cj
失礼、秀頼の嫁は孫娘な。
293 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 06:17:47 ID:zWzUXwYR
>>291 それも言うと思ったw
徳川は上洛しないなら嫁返せとまで言ってなかったか?
上洛してたら惣無事令を出してる秀吉には北条を潰す理由はなくなるんだわ。
豊臣政権を認めた以上はそれに習うのが筋だわな。
婚姻関係は私事、政権を認めた以上豊臣の行為は公になるからな。
秀頼の場合は徳川のほうが力量的に上に立ってるからな。
徳川が幕府を開いた時点で逆らうものがいなかった時点で、政権の移動を豊臣以外の人間が認めちゃってる。
徳川が上洛しろというのも、淀を江戸に住まわせろというのも全部公事。
それを守らなかったら滅ぼさなかったら自分の政権運営を周りが認めなくなる。
物を知ってても何でそれが成り立つかに頭が行かなかったらダメだぞw
294 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 06:45:27 ID:zWzUXwYR
少なくとも姻戚関係を結んだ段階で福島以下姻戚関係を結んだ大名を取り潰さないと、
その時点で太閤の遺言を誰も認めなくなるわな。
前田にチャンスがあったとしたらそれぐらいだわ。
そこで有名無実化させちゃった以上、大義名分を支える力があると認めてくれないわな。
前田の力は所詮その程度ということ。
295 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 09:32:18 ID:EMEIot7x
一人アボンしただけですっきりしたな
296 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 10:15:56 ID:U36kmsP0
前田ヲタ必死wwwww
297 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 11:03:38 ID:13YjRDVD
>>279 もう一度戦国時代に戻ったら、
史実で秀吉政権の地盤掻っ攫った家康が
寿命15年で全平定し直すのに間に合わんだろ
秀忠と官僚陣で天下統一できるのか?
298 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 11:07:55 ID:TUo1v6cj
>>293 天下取った後に難癖つけて徳川を潰したら信用を失って豊臣政権が崩壊するとでも?
そんなわけ無いわな。
秀吉に従ったからにはそういったリスクを負う必要性があったわけで、
それでも同盟を裏切って臣従したってのは、秀吉に敵わないと思ったから。
主家を裏切っても実力的に敵わない家康に従った連中と一緒。
299 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 12:08:15 ID:ZfGkZ/TG
300 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 14:26:17 ID:PC3WUeH6
>>299 それマジつまんねーからもうリンク貼んなよ。
お前が作ったサイトの宣伝か?
島津スレにも貼ってただろ。
301 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 16:28:57 ID:zWzUXwYR
>>297 天下は早いか遅いかの違いだけで、官僚も武将もそっくり引き継いだ奴が天下を掌握すると思う。
人質状態の家康に背かなかった家臣団が継承者に背くとは考えづらいからな。
福島見てもわかるけど前田では豊臣家を掌握できると考えづらいからな。
豊臣領まで併呑すれば済むだけだから15年もかかるとはむしろ考えづらいな。
>>298 悪いが、秀吉がお前が言うような人でなしなら天下取れないわw
母親使って謀するような人間とお前は付き合いが出来るのか?w
良くて本能寺の2番煎じだろw
信長は佐久間でやっちゃったけどなw
どこのゲーム脳か知らんけど他所様はそんなに甘くねーぞw
302 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 17:38:01 ID:TUo1v6cj
>>301 そう。世の中そんなに甘いもんじゃないの。
信用させて裏切るだなんてのは別に珍しくも無い。
だから信用の証として人質を取るんだよ。
家康が秀吉の元に行っている間は大政所が徳川の元に行く。
これは正に命の保障で、それ以上でもそれ以下でもない。
傘下についた武将を理不尽に取り潰すような事が何度も起これば信用を失うだろうが、
そこに母親が絡んだからどうだというものじゃない。
取りあえずどうしても何か特別な意味を持たせたいみたいだけど。残念だね。
303 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 18:10:21 ID:vcRjWzvc
304 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 18:30:25 ID:zWzUXwYR
>>301 秀吉も家康も前田辺りの木っ端武将とは格が違うということが理解できないんだなw
裏切りもいいが他人様の上に立つ立場になれば道義がいるということが理解できないんだろ?
あと、主家を乗っ取ったり人様を裏切るような奴は信用されないんだよw
秀吉が家康に信用してもらうために母親を送る前に妹を離婚までさせて嫁に差し出してるの知らないのか?w
お前の言うような奴ならその妹が死んだ時点で難癖つけて戦争しかけてるわw
そこまでやったら自分の臣下も離反すること疑いないけどなw
>>303 前田と家康とじゃ格そのものが違うからね。
前田は上司も同僚も差し出して地位と領土を得た、リーマン上がりの中企業の社長。
徳川は自分の事業も省みず業務提携した相手を助けた大会社のオーナー社長
どっちが信用できるのか火を見るより明らかだもんw
305 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 18:37:30 ID:zWzUXwYR
306 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 18:54:02 ID:KD5Mm9DE
sageない方が何を仰る
とりあえず利家が長生きしてたとしたら家康は何て言って戦うつもりなんだ
謀反の疑いとかは通じないだろうに
307 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 22:35:58 ID:TUo1v6cj
>>304 へ?前田?いつ俺が前田の話したんだ?頭大丈夫?
人の上に立つ人物が他人を裏切らないとでも思ってる?
道理・道義という物が戦国時代に全く無かったとは言わない。
ただな、そんな事をまともに信じてたんじゃ生き残っていけないわけよ。
だから調略に際してはほとんどの場合人質が使われるんだよ。理解出来る?
まぁ、小牧長久手で人質出したのが秀吉の方だったとかっていう
アホな認識のまま自論を押し通そうとしてるんだから滅茶苦茶になるのは仕方ないけど。
あと朝日も直ぐ帰ってるんだけどね。
308 :
人間七七四年:2010/07/04(日) 23:13:46 ID:hRc0Rw2f
交換人質の大政所も既に亡くなってることだし、
それこそ君臣豊楽並みの難癖を付けて圧殺する事も可能だったろうね。
朝鮮出兵2回分に使う分の国力でね。
309 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 05:17:17 ID:2xCD9M+z
道理、道義がない大将には誰もついていかない
乱世だからこそ道理、道義が大切になるんだけど、
道理、道義否定している人は、
学校やテレビが言ってるような漠然とした、人に優しくしましょうとか人を傷つけてはいけませんとか、
そういう類いのものと勘違いしてるんだろう
310 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 06:39:45 ID:c1q3bEde
んなこと言っても
天下第一人者の信長が道理無視しまくってるからなぁ
311 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 07:59:02 ID:nYoXB0ya
>乱世だからこそ道理、道義が大切になるんだけど
下克上とかどう説明するんだろうこの人
312 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 10:03:20 ID:Of27G/Mu
家康と利家の個人同士じゃ確かに格が違うから
家康VS利家+尾張出身+豊臣の外様取次ぎ役+秀吉が仕組んだ家康対策
で考えればなんとか・・・
313 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 13:23:48 ID:2xCD9M+z
>>311 無能な上に実力のある下が取って変わるのは乱世の道理だろ
弱い上のままなら国が滅びるし
314 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 13:48:27 ID:nYoXB0ya
315 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 13:56:52 ID:2xCD9M+z
>>314 国や下の者に対しての道義ならあるでしょ
上の者から見たら裏切り者だが、
一門の者や領民からしたら無能な上の安定しない統治より、
下剋上により安定した統治得られる場合は下剋上が好ましくなるだろうし。
上を裏切らないことだけが重要なわけでもあるまい。
道義というものは多面的に見なければいけない。
316 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 14:05:50 ID:nYoXB0ya
>>315 詭弁だねぇ
そういうこと言い出したら結局何でもありだわ
自分の書き込み正当化するために無茶苦茶な事言ってるって分かってる?
317 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 14:22:36 ID:2xCD9M+z
>>316 こっちはアンタが自分の思う道義の定義を固定化させるために詭弁使ってると感じてるよ
道義は個人から国まで幅広い概念だから議論や話し合いで答えだせるとも思ってないし、
グタグタ長く議論する気もないからここまでにしとくよ
318 :
仙台藩百姓:2010/07/05(月) 14:23:52 ID:ep5kPwEU
領民からしたら武士がいない事が最も好ましいものね( ^ω^)
だいたい安定云々なんて結果論であって先の事など神のみぞ知る事だお( ^ω^)
封建社会の領民にしてみれば誰が上になろうと関係ないし下剋上などは迷惑この上ない事だお┐ (´ω`) ┌
武士の争いなんてものはヤクザの抗争と同じなのだお( ^ω^)
319 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 14:29:34 ID:2xCD9M+z
>>318 農民だけが集まってもそこに上下関係は発生するぞ
ヤクザだって麻薬がシノギの組と土木業の組なら後者のほうが被害が少ない。
どんな社会体制でも、上が誰であろうが関係ないなんてのはありえない
320 :
人間七七四年:2010/07/05(月) 14:47:14 ID:Mi5hLMQF
893 が あらわれた !
321 :
仙台藩百姓:2010/07/05(月) 21:32:40 ID:ep5kPwEU
本職降臨かお( ^ω^)
322 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 03:53:22 ID:wKBLqBzj
>>307 やっぱり馬鹿だな。
上のものは下のものに対してルールを作ることが出来るが、ルールを守ってるものに対しては安全と生活の保障をしなきゃいかんのよ。
仕事をしたら報酬を与えなきゃいかん。
そういうのが出来ない君主に対しては下克上がおきるんだよ。
信長でさえ本能寺で殺されてるからな。
家康が秀吉に対して問題を起こしたならともかく問題を起こしてない相手にどうやって難癖をつけるんだ?
付けられるならつけてるだろうよ。小牧で一戦交えて勝てなかったからな。
千利休当りも木像を門の上に飾っただけで切腹させられてるしな。
お前は豊臣が難癖つけられて潰されたぐらいに思ってるんだろうが、難癖付けさせることさえ家康はさせてないんだな。
そうじゃなきゃ潰されてるだろうよ。朝鮮二回分だからなw
323 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 04:02:01 ID:wKBLqBzj
>>307 そういうのは道義であり道理といわんのかね?w
裏切りとかそういうのはしてもかまわんが、問答無用で母親まで人質に差し出して、
それを返してくれた相手を相手を理由も無しに討とうとする奴に付き従う人間がいるのかね?w
あと、勝てればいいけどな。長びいたら威信は地に堕ちるからなw
秀吉がそういうギャンブルしたかったら朝鮮に家康は渡ってるだろうよ。
一番先に戦力を削ぎたいだろうからな
324 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 04:04:26 ID:wKBLqBzj
>>318 お前は自分の家に盗人が入ったらどうするんだ?
警察に頼むんじゃないのか?w
325 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 06:29:20 ID:f0J4clPS
裏切りはOKだけど、母親絡んだら駄目ってwそりゃ無理あるだろw
326 :
仙台藩百姓:2010/07/06(火) 08:10:00 ID:uw/tIlgd
>>324 日本国の司法によって定められているのだから当然だお( ^ω^)
漏れが日本国籍を持った日本国民である以上、例え盗人相手でも私刑を加える事は許されないお( ^ω^)
逆もまた然りだお( ^ω^)
327 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 12:46:17 ID:5bH1KZGZ
>>322 本能寺は一番取り立てられてるやつが起こしたものだから
それにはあてはまらないだろうに。
当時の明智の権限て織田の中でトップだろ。
328 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 13:14:10 ID:9p1REBEs
> 当時の明智の権限て織田の中でトップだろ。
その根拠を出せ!!
329 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 13:19:02 ID:OFTVuPlZ
見てきたもん
330 :
仙台藩百姓:2010/07/06(火) 15:17:39 ID:uw/tIlgd
なんという確証( ^ω^)
331 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 15:49:13 ID:5bH1KZGZ
>>328 近畿の大名の指揮権。
京の隣国である丹波一国も治めていた。
筒井も細川も光秀の与力。
一門ナンバー4か5の津田信澄が娘婿。
これだけの権限をもってたのは明智だけだろうに。
羽柴、柴田、滝川もそれぞれの地方での指揮権もってたけど
中央でもってるのは全然ちがうだろ。
本能寺の原因は待遇面の不満ではないはず。
332 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 16:23:00 ID:QxQzAW8u
いろいろ話が跳んだりしてごっちゃになってきたので、
初心?に返り利家の寿命が家康より長かったら(を妄想してみる)
家康は
1.徳川家に伊達や黒田などで利家連合に戦を吹っかける
2.秀頼を家康側に取り込む努力をしてから、戦を吹っかける
3.加藤、福島、浅野、蜂須賀などを切り崩して、戦を吹っかける
4.利家を懐柔して、徳川+前田vs毛利+上杉+石田その他の形を作る
5.仕方がないので、秀信を懐柔し、豊臣vs織田の混沌とした世界を楽しむ
6.豊臣政権家の最有力大名として権力を振るう
ぐらいが選択肢か。
1はダメ、2・3は無理そう、5はカオスとすると、現実的には4か6だよね。
333 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 19:26:23 ID:hRdZcIbi
>>331 光秀が織田家筆頭なら、なんで秀吉の応援なんか命じられるの。
秀吉に代わって光秀が総大将になるってんならわかるが。
334 :
人間七七四年:2010/07/06(火) 19:29:41 ID:64ig0d+l
目付けって事じゃない?
現代軍も
ド田舎の現地司令に、都会からの派遣幕僚が従ってる訳だし。
335 :
仙台藩百姓:2010/07/06(火) 22:49:38 ID:uw/tIlgd
目付け役は側近であっても身分は低いお( ^ω^)
336 :
人間七七四年:2010/07/07(水) 08:35:45 ID:u3NsjA8h
光秀VS家康
337 :
人間七七四年:2010/07/07(水) 13:29:20 ID:GFq30RQU
>>333 光秀は権限はもってたけど
家中筆頭ではないだろ。
丹羽や柴田のが上。
羽柴と明智だと明智のほうが上だとは思うけど。
338 :
人間七七四年:2010/07/07(水) 19:12:22 ID:P4gH76oR
丹羽長秀は信長政権末期には没落しつつあって、柴田羽柴明智滝川佐久間のワンランク下。
(佐久間信盛は1580年に追放)
池田とか森とか川尻とかと同程度。
光秀は丹波攻略を任されながらも、信長の命であちこちの援軍に駆り出されていて
他の軍団長と比べるとなんか軽い感じ。そのせいもあって丹波を攻略するまでに
相当長い時間をかけてしまっている。
織田家内部では信長から信忠への権限委譲がすでに進んでいて、次代の織田家中枢を
担うのは村井、森、川尻、滝川といった信忠に近い面々であることが予想されており、
そこに光秀が食い込む可能性はあまりなかった。そもそも天下統一が成れば外様の
武功派家臣が邪魔者扱いされることくらい、光秀もよくわかってたろう。
その上に、重臣筆頭の佐久間信盛の追放が光秀の焦りに拍車をかけたんじゃないかな。
本能寺の前の光秀は、織田家から切り捨てられる恐怖と戦ってたんじゃないかと推測する。
339 :
人間七七四年:2010/07/08(木) 00:06:21 ID:mkgotASy
>>326 その警官がお前の嫁さんレイプして盗人が正義だと抜かしたらどうするんだ?w
だって俺鉄砲持ってるから強いもーんと抜かしたらどうするんだよw
お前も馬鹿だな。
お前が警官を信じられるのは、日本国がルールを守ってる以上警官が法に外れたことをしないという根っこがあるからだろ。
それが崩れるようなまねをしたら誰も信用してはくれんのだよ。
340 :
仙台藩百姓:2010/07/08(木) 14:02:59 ID:E77J0uc7
もまえは何の話しをしているのだお( ^ω^)…
341 :
人間七七四年:2010/07/08(木) 16:24:42 ID:1TwaztpU
引っ込み付かなくなっただけだろ。
ほっとけよ。
342 :
だぅ:2010/07/08(木) 20:41:14 ID:AlGB/Qeh
信長の手紙の中でも光秀の戦功第一って書いてあるじゃん、
佐久間信森への折檻状だっけ?あれにさ
秀吉は2番目
信長は光秀を一番気に入ってたんだよ
343 :
人間七七四年:2010/07/08(木) 20:54:53 ID:+bllJsAy
だよな、気に入ってるからこそ
自分が寡勢な時に大軍の接近を許したんだろうな
明智>柴田>羽柴で妥当だろう
344 :
だぅ:2010/07/08(木) 21:06:08 ID:ksr56uTd
でも会わなかっただろうな人間のタイプ的には
DQN(信長)と優等生(光秀)だもんね
絶対同じ派閥には属さないと思う、本能寺は起こるべきして起こったものだと思うな
345 :
だぅ:2010/07/08(木) 21:09:04 ID:ksr56uTd
一、明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこし、羽柴秀吉の功労も比類なし。池田恒興は少禄の身であるが摂津花隈を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て奮起を発し一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した
1、光秀
2、秀吉
池田も頑張ってるし、柴田も身分に応じた働きしてるとノブは言っている
一番は光秀なんだよやっぱり
346 :
だぅ:2010/07/08(木) 21:10:29 ID:ksr56uTd
でも佐久間追放当時
秀吉の方が派手な活躍してなかったか?
素人目には秀吉>光秀に思えるけど
ノブは光秀がお気に入りだったんだよ
347 :
人間七七四年:2010/07/08(木) 22:25:57 ID:mkgotASy
>>340 >>318に対する回答なんだが?
都合が悪くなるとそういう逃げしか打てないんだなw
お前が領民にとっては上なんかどうでも良いといってるからそういってやっただけのことだ。
上が獣みたいな人間だったら下は安心して生活できないからな。
で、お前は盗人に入られて警察に頼んだら、警官に銃突きつけられてお前のかみさんレイプするような中でも
安心して生活できるのかよwこの糞百姓w
と、そういう話だ。
348 :
人間七七四年:2010/07/08(木) 23:56:33 ID:4n+LBGaI
スレタイも読めねーのか
馬鹿な名無し一人に無知のだぅに政宗マンセー百姓は
そんなに光秀や警察の話したかったら別のスレたてろや
349 :
人間七七四年:2010/07/10(土) 00:20:38 ID:C6yXy5Tm
戦国バサラ弐でも見てなさいって。
350 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 10:34:33 ID:PFLLqOLO
351 :
人間七七四年:2010/07/12(月) 18:37:18 ID:ZiHGfqpb
>>348 そいつらあちこちのスレを荒らして
迷惑をかけてる自演キチガイだよ。
352 :
人間七七四年:2010/07/12(月) 21:26:11 ID:S8f2sGxG
>>351 1番キチガイな荒らしのお前がいうなw
つーかSubてまだいたのかw
353 :
人間七七四年:2010/07/15(木) 16:49:03 ID:jNjv16tO
利家厨が1番始末悪いクソ
354 :
人間七七四年:2010/07/15(木) 22:13:43 ID:rLWQvooi
利家の息子と淀殿がマンマンしていた件
355 :
人間七七四年:2010/07/24(土) 18:18:08 ID:Hiw19eHk
age
356 :
月孔雀:2010/08/20(金) 02:49:37 ID:BdJxTCjG
利家が家康より長生きしていたら、豊臣政権は倒れなかったと思う。
357 :
人間七七四年:2010/08/21(土) 02:44:56 ID:qF9UDk4Z
利家が長生きしてれば戦いにはならなかったと思う。強引に家康が戦を仕掛けてきても、長引く戦になっただろうから家康が不利だと思う。
家康が先に死ねば、何かと因縁つけて関東の所領を大幅に減らされたと思う。
358 :
人間七七四年:2010/08/21(土) 14:23:38 ID:/QSabSfJ
また利家厨とくいのそれか何度も同じこと言うなそれしかいえないのか?
そなっても利家が家康よりすごいってふうにはならないのになw
359 :
人間七七四年:2010/08/21(土) 15:52:09 ID:q7KXDYA3
火事場泥棒の二大巨頭
360 :
人間七七四年:2010/08/21(土) 16:23:06 ID:SGel/zR1
家康の場合は曲り形にも自分が行動した結果だけど利家の場合には何もしてないからなぁ。
火事場泥棒と物乞いって感じ。
361 :
人間七七四年:2010/08/21(土) 17:15:58 ID:H0sRjLYh
丹羽、滝川、佐々のどれかが前田の代わりに豊臣家内で生き残ってたら如何
362 :
月孔雀:2010/08/21(土) 18:50:33 ID:VQK5yvKc
丹羽家は生き残ってたよ。加賀南部治めてたし。
関が原で、前田に取られてしまったけれど。
363 :
人間七七四年:2010/08/23(月) 20:14:02 ID:APABLhi8
家ではなく、織田家古参の本人がそれなりに元気に生き残ってないと意味ないだろうな。
丹羽長秀、滝川一益クラスはもちろん、池田恒興、稲葉一鉄、堀久太郎、蒲生氏郷クラスが複数生き残っているだけでも、
豊臣家中においてかなり重きをなしたのではないか。
ただ、丹羽、滝川クラス未満だと真っ先に家康に取り込まれそうな気もする。
364 :
人間七七四年:2010/08/23(月) 21:51:27 ID:45BpEr/O
丹羽も強いやつになびきそうだがなw
365 :
人間七七四年:2010/08/23(月) 23:13:00 ID:hUX4BVtW
滝川、丹羽クラスだと秀吉からみれば鬱陶しいだけだろ
前田クラスだから丁度よかったんだよ
秀吉は、自分が幼児の後見人という立場で天下とったのに
同じ幼児の後見人に前田を指名したのは、前田の能力も格も自分に及ばない
というこっちゃねーの。兵力は婚姻結んでる宇喜多とさらに地の利を合わせれば
目論み的には豊政権乗っ取りは有り得ずに政権が維持できるラインだったんだろ
366 :
人間七七四年:2010/09/16(木) 20:04:39 ID:N7glkpAS
367 :
人間七七四年:2010/09/16(木) 23:03:02 ID:IqrDL6ck
家康は前田側武将を全員暗殺して終わり。
タヌキ爺のやりそうなこと。
368 :
人間七七四年:2010/09/17(金) 00:55:53 ID:k4CxUOLl
>>363 別に織田古参の連中が豊臣の味方をしなければいけない理由はないだろ
利家は秀吉と昔から親交があったがその他の連中は別に秀吉とは縁もないし
369 :
人間七七四年:2010/09/17(金) 01:12:46 ID:FYZ0fCwz
そもそも豊臣家中の話をしてるのに豊臣家に味方云々とか頭が悪いにも程がある。
370 :
人間七七四年:2010/09/18(土) 10:05:16 ID:N+1OYDJE
黒田長政や藤堂高虎みたいな中大名や、
元から秀吉に煮え湯を飲まされてた伊達政宗は
将来への投資として東軍に貢献したが
丹羽長秀や滝川一益が大老として残ってた場合は、
徳川が天下を取れば、いずれ自分達の地位も下がるのは明白で
三成に着かざるを得なかっただろう
その理が分からない吉川の子倅はまんまと騙されたけどな
371 :
人間七七四年:2010/09/18(土) 10:07:57 ID:XtdDGpqQ
長秀はともかく、一益が長命していたとしても大老になってる姿は想像できないな。
372 :
人間七七四年:2010/09/18(土) 10:38:28 ID:/5cOd0E3
373 :
人間七七四年:2010/09/18(土) 17:38:03 ID:AMPb+zAT
>>371 利家は大老に入れなかっただろう
家康、輝元、秀家、隆景、長秀
こうなってたんじゃね?
374 :
人間七七四年:2010/09/19(日) 08:20:49 ID:wFTfLban
>>373 そんな扱いだと前田の豊臣への忠誠心が薄くなるだけ。
秀吉死後に真っ先に徳川に付くだろう。
375 :
人間七七四年:2010/09/19(日) 08:21:20 ID:3AjYWCxm
なんの話だかよくわからん
利家が秀吉時代晩期に抜擢されたのは旧織田家中にあって
大身で秀吉と昵懇である者が全くいなかったため
長秀はあくまで織田信雄を立てるという秀吉の言葉を信じ
信孝、柴田排除に手を貸しただけ
例え大老制がしかれたとしても長秀は老齢などを口実に大老登用を辞退するだろう
家康が早くに秀吉を破り天下を納めたとしても没後の五大老制のような集団指導体制を構築するとは思えん
あくまで一族による専制的支配にこだわるだろう
それにそれを可能にする程に一族や家中の結束力が秀吉とは段違いに強い
376 :
人間七七四年:2010/09/19(日) 09:24:19 ID:12Tbxf3f
こうやって見てると、家康の婚姻政策は、
利家の反応と勢力図を推し量るために投じた一石だったように思える。
377 :
人間七七四年:2010/09/19(日) 17:45:26 ID:XTjF7503
>>374 そんなんことしなくてもすぐ寝返るよ利家はw
>>375 まあ、利家が能力で抜擢されるわけじゃないなw
378 :
人間七七四年:2010/09/19(日) 18:09:23 ID:KIGZR0Ap
本当は利家は徳川に付きたくて仕方なかったんだよ。
でも首に調教師三成の首輪が填っていえて、淀君が舌の鞭で叱咤するから
やむを得ず家康に牙をむいたんであって、本心じゃない。
大阪会談の後、とるものもとりあえず、伏見に駆けつけ土下座外交を展開したのが
良い例だ。本当の反家康派は利長だよ。
利家の臨終の戦略遺言もねつ造だろう。関ヶ原前のあの時までは、前田家は豊臣家
に忠節を誓っていましたって言い訳だよ。
お松さんは馬鹿息子の正義妄想に頭を痛めていたから、家康からの人質カモーンの
要請に従順に従ったってわけさ。
その証拠に家康からお松さんに気を遣う手紙を出してるほどだ。
379 :
人間七七四年:2010/09/27(月) 20:01:18 ID:CJNbaMVn
380 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 04:26:05 ID:QVO8u0Yy
長秀は織田政権末期には完全に秀吉より格下だし、かといってそこまで差が
あるわけではないから使いにくいと思う。
微妙な話があって景勝と利家は凄い仲悪かったらしい。それに秀頼の後見
という事で利家が増長すれば三成とも微妙な関係になるだろうし。
この手のIFはどっちかって言うと利家というより秀長じゃねえ?
381 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 18:25:49 ID:Ch2+sF1H
利家ヲタは利家が絶対勝者の妄想しか考えてません
382 :
月孔雀:2010/10/25(月) 19:12:22 ID:Nb72bcB/
>381
なんで、いちいち、話の腰を折るかな。
松平の変わりに前田が天下を取った可能性ある?
383 :
月孔雀:2010/10/25(月) 19:16:29 ID:Nb72bcB/
382
その時、豊臣家は存在し、
秀頼関白、利長太政大臣、利政、征夷大将軍でいかん?
384 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 20:01:26 ID:4pVzt4we
利家が元気なら負ける要素なし
秀頼+大阪城+多数の利家信者たち+豊臣派の武将たち
だからな
家康も動けんわな
385 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 23:12:51 ID:/oc8wZPb
利家は自分で大勝負をやらかすタイプではないし
俺なら勝てるんだぞという振りだけ見せてそのまま死にそう
386 :
人間七七四年:2010/10/25(月) 23:33:43 ID:Ch2+sF1H
利家ヲタはそんなこと思ってません
関ヶ原が起こって実力で利家が勝てると思ってるw
387 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 02:13:22 ID:ilpMm1g2
どうせまた戦わずに逃げちゃうでしょ
388 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 02:55:27 ID:XAQRYWdq
利家は身長180以上で生涯で40戦以上してる漢だから、タイマンでも勝ちまくり、戦の経験豊富だよ
戦い方は信長直伝で劣勢になった時は前に出て味方を鼓舞して戦うやり方
あの加藤清正も認める戦の達人だよ
しずがたけは親父殿と親友との板挟みからどちらにも加勢せずに引いただけ
佐々が相手のときには少数で城奪ってるし
堅実に見えて実は臨機応変に動く それが前田利家よ
389 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 03:00:26 ID:ZauK38AD
で?だから家康に勝てるとでも?
大軍率いた経験ない奴が
390 :
月孔雀:2010/10/26(火) 06:52:25 ID:JOdqGKHX
利家に天下への野心は感じられないな・・・
>389
北陸で、勝家が3万くらいで上杉を攻めてた時の与力では、
経験不足か・・・
391 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 10:56:39 ID:eHehx285
利家に対しては自分で動くというイメージが湧かない
もちろん織田の家臣という立場が長く他人の命令で動いて当たり前なんだが
最期も三成につつかれてという側面が大きくどこまで自分の意思で行動しているのか怪しい
家康の婚姻も結局は取り消さずに認めているわけだしやる気があるのか疑わしいな
392 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 14:43:41 ID:VBYO46ck
強い奴に媚びるだけだもんな
393 :
人間七七四年:2010/10/26(火) 15:46:05 ID:MrqSkjDq
忠勝に恫喝され逃げていくよ
394 :
月孔雀:2010/10/28(木) 18:05:51 ID:2joSbrCn
利長が利政の助言どうり、上杉のように決戦を挑んだら、
どんな戦になっただろう?
395 :
月孔雀:2010/10/28(木) 18:14:10 ID:2joSbrCn
家康は10万の軍で、北陸を包囲戦。
家康本隊は、越前で留まる。
石田が、近江で決起。
しづがたけ当たりで、決戦か・・・
396 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 19:23:13 ID:TkkCpLZE
近江で決起は近場すぎて無理だろ
397 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 00:32:31 ID:1DjkRCLw
北陸で、勝家が3万くらいで上杉を攻めてた時の与力では、
経験不足か・
与力って馬鹿なの?
398 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 17:13:44 ID:cCsBvYs9
age
399 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 16:54:04 ID:IyYcUXot
前田の強気に家康も激怒
囲碁仲間の浅野に愚痴りまくるも「私の前で前田様の悪口は言わないでもらいたい」と
一喝され悶絶
400 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 17:02:44 ID:IyYcUXot
家康弾劾状の1条に「江戸に帰り隠居すべし」というのがあり家康もこれを承諾
秀吉の一周忌が済んだら江戸に帰り隠居し、秀忠を大阪に住まわせるという約束をした
前田が生きていたら普通にこうなっただろうというのが予想できる
このとき石田は家康を切腹させろと言い、宇喜多は合戦だと言っていた
前田はこの二人を抑えてなんとか穏便に済ませようとしたのだ。
401 :
人間七七四年:2010/11/09(火) 23:33:44 ID:IWxRq1KH
予想できねぇよ、バカw
402 :
人間七七四年:2010/11/13(土) 12:55:15 ID:esFQsoFo
久世但馬に手玉に取らて遊ばれたのって利家だっけ?
403 :
人間七七四年:2010/12/03(金) 19:34:54 ID:Kay/UbzR
へ
404 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 15:44:05 ID:uM9c5TyY
戦国時代に180cmで今で言う190以上でしょ
でけええ
405 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 19:41:32 ID:kUhZnSYq
利家が勝ったら前田幕府が誕生?
406 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 13:20:37 ID:a906Nh87
ないな
織田系が「もし天下に何かあったら前田殿の天下だよ」ってのは
結局のところ徳川と前田じゃ前田の方が自分たちがブイブイ言わせられる政権になるからであって
利家本人の実力を買った訳じゃないだろ。
単純に二人の実力比べれば徳川が上だけど、そういう連中が力貸せば前田が上
そういうバランスだから力貸せば恩も売れる。
前田が勝者になったら、そういう連中のご機嫌を伺わなきゃならんだろ。
御家人を処分できなかった場合の北条執権みたいな立場で落ち着くだろうさ
407 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 23:00:10 ID:GD4DYl/L
利家が死んで、その後関東を任された上杉が力を付けるかもしれないし、
毛利が台頭してくるかも知れない。
突出した力を持った大名が居ないまま秀頼が成人し、豊臣政権が安定するかもしれない。
徳川派の大名の粛清がうまくいかずに豊臣政権が内部崩壊するかもしれない。
単純に「利家が勝ったら」ってだけじゃ予想のしようがない。
408 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 01:51:53.96 ID:ov28I0qc
>>405 とっしーは寿命が短いからぽっくりいって豊臣じゃない?
409 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 14:01:30.42 ID:IBC0OLpg
利家みたいな黒砂糖に何の魅力があるというのか
しろむちぽよ家康たんの大勝利に決まってる
410 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 14:27:30.56 ID:tq2IEbdM
利家が天下取れたとかまだくだらんこと思ってる馬鹿がいるのか
411 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 14:58:00.20 ID:EnxEjtAA
前田幕府
412 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 09:34:49.89 ID:0mttrNmW
頭おかしいんじゃね?wwwwwww
413 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 15:21:06.87 ID:WC6hhR0g
下記の出典ソースを探してるんだがわからんので教えてくれないか?
家康による加賀征伐に対し前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、
初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて
豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため
414 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 17:00:36.25 ID:CZLsCpgP
面白そうな話ですね。
415 :
人間七七四年:2011/05/19(木) 23:29:36.82 ID:dVjHLHI1
なんかの講談話か大河捏造ネタじゃね?
416 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 20:07:51.48 ID:IRacuP4C
自己弁護で家譜にでも捏造話をねじ込んだんじゃね。
417 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 00:21:57.34 ID:ot7Xt+l/
>>405,411
この頃既に菅原氏を公言してるのに征夷大将軍にどうやって就くのだろうか。
418 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 05:49:28.85 ID:GtxX8I5W
>>413 >>初め交戦派であった利長
完全にウソ。そもそも利家から3年は大坂城から離れるなと遺命があったが
秀頼補佐の遺命を破棄して帰国した謀反人だったのが利長。
この役目放棄を「御運これ末か」と宿老筆頭の村井長頼や奥村永福らが嘆いてる。
家康の謀反者利長討伐宣言を宇喜多(一説に細川)から聞かされただけの話。
419 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 00:30:13.47 ID:zOI32kem
>>413 織田関連でwikiに書いてあるのはウソばっかりだから信じるな。
420 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 15:37:47.54 ID:cyAevLkM
>>418 遺命に背いて秀頼を見捨てて
領国に勝手に帰っておきながら
秀頼を補佐していた大老家康が討伐するって宣言すると
豊臣に助けてなどと言い出したのが事実なら利長ってマジ基地害だな。
421 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 16:24:32.65 ID:SlybyYnH
利長が帰国したのは家康の勧めで他の大老もこの時期に帰国。
418は史実に沿った書き方をしてるのに420のように勝手というのは事実ではない。
煽りにしても知識がない奴がすると恥をかくという典型例やな
422 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 16:42:19.78 ID:WkOrys1b
家康の勧めで帰国したと記述してるのは
三壺聞書(三壺記)という
加賀藩の足軽山田四郎右衛門が書いた
前田家擁護の書にしか出てこないデタラメだから。
明らかに利長が勝手に帰っただけ。
黒田文書に書かれているのは大名達が次々と帰国したとは書いてるが
大老が勝手に帰ってOK!なんて書いてないし
だからこそ景勝が「太閤様から帰国の許可を頂いていた」と反論していたわけだ。
しかし前田家が帰ってよいなどと許可は出していない。
だいたい利家は柴田を見捨てただけでなく
親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
423 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 16:54:11.87 ID:WkOrys1b
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり
秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
しかも
秀次が死んだ後に宇喜多と前田は常時在京してお拾いに奉公し
自分勝手に領国へ帰国しない。
徳川と毛利の2家はいずれかが必ず在京する。
この約定が決められており利長の帰国は謀反以外のなにものでもない。
424 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 21:20:11.20 ID:cyAevLkM
>>421 wikiだけの知識でしったかすんじゃねぇよ
425 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 15:12:55.46 ID:zfmXacZH
>>420 前田がバカやった挙げ句に家康に土下座して人質出して屈したから
家康は調子こいて上杉を恫喝した。
そもそも利家からして家康の約定破りを許して親しいアピールやって
五奉行から見事にハシゴを外す暴挙をやってるから親子揃ってヘタレ馬鹿。
愚主利長と違い次男は反家康だったからこいつを当主にすれば良かった。
426 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 19:14:33.35 ID:AP8yNi08
427 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 04:03:19.98 ID:NPtiouIP
実質、豊臣家を滅亡に追い込んだのは前田家
428 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 08:07:44.54 ID:muZ0mCIN
家康が前田領に侵攻している最中に上杉に挙兵させれば良かったのにね
で、上杉侵攻中に三成挙兵
429 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 13:50:38.14 ID:hydu0wK1
どうだろうね
上杉は家康からケンカを売られたから
武士のメンツでケンカを買っただけだからね。
それ以前の家康を上杉が嫌っていたとも思えない
430 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 20:44:28.03 ID:o2Fx/AYK
>>429 ではなぜ、関ヶ原敗戦後もメンツを守り通さず、
恥ずかしげもなく、速攻で詫びを入れたんだろうね?
431 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 21:20:38.19 ID:hydu0wK1
>>430 上杉は決戦する覚悟満々だったが
家康側から和睦を申し出てきたので
メンツは守れたから和睦しただけ。
432 :
人間七七四年:2011/05/27(金) 22:41:01.63 ID:4cjvaRRn
え?
433 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 13:50:28.72 ID:nYO6fUp6
434 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 15:02:23.42 ID:diNnGCEh
>>430 スレ違いの議論だろうけど、
上杉が関ヶ原の戦い後も決戦する覚悟満々だったかは不明だが、会津征伐に
至る経緯は感情的にはだいたい
>>429の言う通りだと思う。
家康も知っていたはずの神指城築城などを理由に謀反の疑いをかけられ、上
杉は逆心がないので上洛を決めたが、延期も讒言人の取り調べも認められな
いので結局上洛を拒否した。家康側は何がなんても上洛させて疑惑を追及し
ようとした。
これが関ヶ原後になると、景勝の処遇をどうするか議論した際、結城秀康が
「景勝の謀逆実否ならず」と謀反疑惑自体をあやふやにした。
ソースは『上杉家御年譜』。
435 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 17:21:42.35 ID:q+eCuPkK
10/23直江書状から
家康から和睦の申し出があって
佐竹口から攻めあがる計画が中止になったのが確認できるよ。
20日の会議で抗戦か和睦かで激論が交わされていたのが
26日安田能元書状でわかる。
たとえ御滅亡に候とも御名は不朽などと和睦反対意見を書いてる。
上杉方で和睦への意思決定が確定するのが11月に入ってから。
436 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 20:57:41.42 ID:B6jRQogp
素朴な疑問。
それだけ家康から低頭で和睦の申しがあったのに、
米沢30万石の減俸を受け入れたの?
437 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:18:40.19 ID:XoK7FCtk
徳川家康でなく、豊臣秀頼に謝罪すべきではなかったのか?
438 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:26:12.21 ID:yOLlpo5h
徳川が石高で圧倒しているのは事実だが、前田・上杉・黒田がとりあえず打倒徳川で一致しておれば
良かったのに 一番最悪な結果に終わってしまったね。
まさか関ヶ原がたった1日で終わるほど 調略の余地や自分を高く売ることができないとは思わなったのだろうが。
439 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:29:19.13 ID:yOLlpo5h
>>431 あれ和睦「せざる」を得なかったんだろ。
メンツを保つ形で引き下がらないとどうしょうもない
だって輝元があっさり大阪城を退去するんだもの。
会津に徳川を惹きつけている間に大阪を退去せず後背から
徳川方の大名共を攻撃していけばまだまだどうにもなれたけど。
440 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:40:10.98 ID:+xvihDYU
>>436 戦になったら100%上杉が滅びるからw
441 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:46:36.77 ID:B6jRQogp
それって、実質降伏じゃないの?
言葉遊びをしてるとしか思えないんだけど。
442 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 22:07:08.90 ID:GIFlIxTU
歴史では大老と争ったけど病気内に仲直りさせて病死。そして7将三成討幕
って感じ。病死したのは前田利家だ。
443 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 23:01:13.94 ID:ohv8dobf
>>438 なんで黒田が打倒徳川で一致しなければいけないの?
徳川に媚びて豊臣時代よりも遥かに待遇がよくなったのに
黒田にとっては最良の結果だろ
徳川を倒せば如水が天下人なんて妄想を抱いているのか?
444 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 23:10:35.29 ID:hMYB8oZ2
>>441 一次史料からそれは窺えない。
実際に和睦がまとまり景勝や直江が家康に会うのはだいぶ先の話だし
最初に秀頼に挨拶した後に家康と会談した際に家康は直江を褒め称えたと言うし
最上も直江を誉めたと言う。
島津は上杉主従は何ら悪びれなく堂々としていたと伝聞してる。
会津陣物語だと景勝が「我が身は家康に任せるから煮るなり焼くなり勝手にしてくれ」と言うと
家康は「謀反するつもりがなかったのは承知しており本来は減封する必要はないのだが、他の者への示しがつかないから」
と言ってる。
実際、上杉はのちに幕府から10万石の役儀を免除されたり
大量に集めていたのか?なぜか永楽銭が上杉にはたんまりあって
困ってるからと幕府が高く買上げてくれてボロ儲けし「景勝以下上下は加増されたのと同じくらい喜んでいる」と感謝するなど
直江を通じて家康は上杉をやたら厚遇している。
445 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 23:36:42.02 ID:cUQfVJhj
>>444 史料至上は理解出来るんだが、
であれば、君の証明も全て一次史料に基づいているのかい?
会津陣物語は、上杉家の軍記だよね。
そりゃ上杉をageて当然だと思うが。
446 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 00:11:01.05 ID:Yq75Z6TL
一次史料に依る事なく、関ヶ原不変の事実。
・西軍敗北
・上杉謝罪
・上杉大幅減俸
この流れを普通に考えれば上杉は降伏。
一次史料で証明すべき立ち場が逆。
降伏ではないと主張する側が、一次史料を以て証明すべき。
447 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 01:37:21.06 ID:rFEKsUTK
なぜ上杉の話になっているのかしらんが、
島津家家臣の日記には「景勝はまず大坂で秀頼様に拝謁した。これは内府様
がそうするようにしたのか、景勝自身の判断なのか、話題になった」とある。
普通は実質天下人になった家康に先に謝罪すべきなんじゃないかという見方
をされていたということ。景勝はそれをしなかった。
実質的に降伏だろと言われればその通りだが、プライドにかけて上洛などで
きなかった会津征伐前とはだいぶ事情が変わっている。関ヶ原後に降伏する
なら最初から抵抗するなというような意見は的外れ。
448 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 01:45:15.35 ID:dt4nCmzY
ではまぁ一次史料を元にしたら下記のような状況だね。
実際の上杉に対する処分は元々元凶を糾せば
関が原戦役を引き起こした張本人のくせに大甘。
例えば毛利輝元と島津義久は責任を追及され現当主更迭及び強制出家。
改めて家康は毛利秀就・島津忠恒を御取り立てくだされて
新たな主従関係を結んでいるが
上杉主従はなんのお咎めもなしで誰1人責任を取ってない。
しかも上杉主従は8月に上洛して家康と面談してるが
大坂城を明け渡してさっさと降伏していた毛利の方は難航していて
9/28になってやっと書状において国司元蔵が秀就の江戸下向に随従し奉公をすると誓っており
10/20に毛利秀元が輝元に対して改めて輝元親子への忠節を誓っている書状を出しているので
家康と面談して何とか主従関係を結べ毛利安泰を得たのは10月になってからだろう。
あきらかに家康は上杉と毛利との間に待遇の差を付けている。
449 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 06:23:37.44 ID:a7hunTbv
家康は上杉主従に対して
弓矢を取るのは武門ゆえ当たり前だと言ったって話だからな。
家康は佐竹みたいに態度をハッキリさせなかった者を卑怯者と怒って
しばらく処分の沙汰を発表せずに放置し石高明示もしなかった。
家康は毛利に対しては大坂開城してから
秀忠を広島へ派遣して島津攻めをするから毛利は先陣やれ。
毛利家臣らも妻子を人質に出せって要求してるし。
もう毛利を何でも言うことを聞くパシリ奴隷扱いしちゃってるし。
まあ黒田如水と加藤清正らが関ヶ原の敗報を聞いて九州西軍の開城を促しまくったから一気に大勢力になり危険視し
逆に彼らの島津攻めを慌てて止めさせたが。
450 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 07:04:19.77 ID:6SQOYle9
>>448 毛利は西軍の総大将である以上は責任ゼロで済ますわけにはいかないだろ
それと上杉は西軍と思われがちだが公式に西軍というわけではなく
建前上は独立した立場で縄張り拡張にいそしんでいただけだ
上杉の罪状はあくまで上洛を拒んだことであって三成に協力したことではない
実際に共謀があったかは別にして公式には三成と無関係な上杉と総大将として名前を貸した毛利に待遇の差があって当たり前
451 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 07:52:45.68 ID:nw40FRnX
島津家と比べれば、上杉は過酷な処置だろ。
島津家は一切領土が削減していないのに、上杉は120万石の
大大名から30万石の中小大名に転落したわけだから。
452 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 15:19:18.87 ID:a7hunTbv
>>450 三成挙兵後の上杉は無関係ではなく
明らかに奥羽での西軍責任者として活動してる。
毛利は関ヶ原で内通して家康の勝利に貢献してるし
大坂城を明け渡すために奉行どもを説得しますって言って家康の完勝に貢献し
家康側も輝元の罪は問わない・毛利領安堵と言っていた。
>>451 江戸から遠い最果ての貧しい薩摩に家康は興味が無かったから放置しただけ
その気になったら如水や清正に島津を滅ぼさせることは可能だったし
毛利を先鋒に秀忠に攻め込めさせるのも可能だった
むしろ豊臣恩顧大名を大量に西国転封させたので島津に恩を売ってやっただけ
実際、年賀にやって来なかった島津と佐竹を家康はことの重大さに恐れをなして領国に引きこもってる臆病者と嘲笑してる。
453 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 17:08:04.30 ID:rFEKsUTK
西軍は豊臣政権内での反家康勢力
上杉は結果的には豊臣政権への反逆者
ここの比較は難しいな。
上杉は西軍挙兵によって反逆者の汚名をすすぎ、逆に、サブのいうように
東日本のリーダーとして行動している。直江が「天下への御奉公のために
白石城を伊達に奪われたことは忘れて、和睦を続けるべきだ」としている。
上杉は豊臣政権の東日本のリーダーとして、最上・伊達を従えて反逆者家
康の本拠・関東へ侵略する計画を立てていたので、自身の縄張りを広げる
ための行動でもないんだよ。
454 :
人間七七四年:2011/05/30(月) 19:21:18.93 ID:fyWs4frX
>>726 三成はあくまで秀頼が成人するまでのつなぎだから。その後の話は秀頼の力量。
毛利を大幅加増して九州に飛ばし、その跡を宇喜多に治めさせ、関東を上杉にくれてやっても構わない。
毛利を家康がそれほど脅威と思っていなかったということだろう。
そもそも1万5000といってもいきなりその大軍がやってきて包囲してくるのではないので
下山ルートの道を塞ぐように備えを置いて池田4500が防備し、浅野6500が後詰めすれば
狭い下山道では500対500くらいなもんでしかない。
さらに蜂須賀や山内や有馬がやってきて、家康の増援がくれば無問題。
それは秀秋勢が下山した際も苦戦して一度は押し返されたことからもわかる。
455 :
人間七七四年:2011/05/30(月) 19:37:23.65 ID:fyWs4frX
456 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 03:55:57.81 ID:qkm+4aWu
>>117 それはあったと思う。
もちろん三成は豊臣への忠誠心はあっただろうけど、
政権中枢部で腕をふるうことへの欲望も強かったと思う。
権力は好きだったんじゃないかなあ。
家康がうまく三成を抱きこんでいたら、
また違ったんじゃないかなあ。
457 :
月孔雀:2011/06/14(火) 11:07:04.33 ID:gLKEDKb9
落ちそうなので、上げ。
458 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 22:42:27.75 ID:FjYJJSkD
age...
459 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 16:23:21.87 ID:a+iSm9do
利家が家康を殺しておけばよかった。それが日本のため。
460 :
人間七七四年:2011/07/12(火) 16:04:30.59 ID:AK1UEBx5
だな
海外植民地争奪戦に加わらずに鎖国などと言う馬鹿げた事をやらかした超絶ドアホだからな
461 :
人間七七四年:2011/07/12(火) 16:24:03.43 ID:Pzfe9+k2
日本の領域をほぼ確定させたバカが徳川家。
462 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 22:16:32.98 ID:9zcmEpyB
双方が調略を駆使して
相手家中の内応者を作り突き崩す戦いになる。
家臣団の団結力の強さが問われる。
463 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 12:58:50.29 ID:kURujalb
家康なんて火事場泥棒でのし上がった爺だから
前線指揮してきた利家に勝てるわけが無い。
蒲生・浅野・前田玄以・細川・毛利秀頼・村上・堀・清正
・嘉明・佐竹・立花・秀包・小西・長宗我部・上杉・毛利らは利家側になるし。
家康に付くであろう福島・池田・森・黒田・藤堂・有馬・金森
こんなの大した敵じゃない。つかむしろザコキャラ。
464 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 14:30:19.18 ID:P/Yl3HFk
福島はただのバカで朝鮮出兵でも大した活躍してねーし
池田・森は小牧長久手で軍が壊滅してるし
藤堂は大和大納言家が改易後に家中を解体して高野山に籠もったから
再建した軍隊なんて以前ほど強くないだろ。
有馬・金森も大した仕事できんな。
465 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 10:27:15.65 ID:39kboqp6
まあ家康はウンコ漏らすよ…
466 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 11:56:44.68 ID:247PXhTP
利家は織田系大名に絶大な人気があったからね
467 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2011/07/25(月) 11:25:17.84 ID:TTRRp6WH
まあ、前田利家が西軍総帥だったらいいとこいくよ。
ただ、それでも家康公が最後には勝つがね。
468 :
人間七七四年:2011/07/25(月) 12:55:44.00 ID:lhlQhXOd
利家が西軍総帥になったら
誰が家康の味方するの?
469 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2011/07/25(月) 13:03:17.49 ID:TTRRp6WH
470 :
人間七七四年:2011/07/25(月) 15:42:54.92 ID:0EyPyist
利家は織田系大名にむちゃくちゃ人気あったし
戦闘経験などを考えれば徳川より利家に集まる織田系人材の方がはるかに戦闘力あるな
家康なんて大した戦歴があるわけでもない
471 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2011/07/25(月) 16:46:29.44 ID:TTRRp6WH
何言おうが最後は家康公が勝って終わり。
前田利家は名将だけどもね。
残念でした。
472 :
人間七七四年:2011/07/27(水) 01:06:22.69 ID:aeaSivGm
利家は負け戦はしないタイプ 常に勝つ方に身を置くタイプ
家康も同じタイプだから、この二人が天下を二分して争うっていうのが
なんとなく想像できないなー
473 :
人間七七四年:2011/07/27(水) 02:19:38.43 ID:ti07AVoX
利家が元気なままなら
充分に勝算はあるよ。
家康なんて小牧長久手の局地戦で秀次相手にポイント取っただけだし
474 :
人間七七四年:2011/07/27(水) 08:51:03.18 ID:NxYdGaEM
それより長久手ではどうやったら勝てただろうか?
475 :
人間七七四年:2011/07/27(水) 12:29:47.12 ID:1F4uHtCH
小牧長久手で家康が秀吉に勝てる見込みは無かった。
秀次に勝ったところで状況の根本的解決はできてない
476 :
人間七七四年:2011/07/27(水) 13:01:13.03 ID:r9Rner+1
違うって
長久手で秀次がどうやったら勝てたかなんだよ
そこで勝って、岡崎を攻めておればそれで戦は終わりだろ
477 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2011/07/27(水) 13:16:01.29 ID:LvkHG8Ne
478 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 02:06:12.47 ID:/XNyDaiN
本来利家と家康では個人の能力のスペックが違い過ぎないかな?
家康は能力主義の信長が自分の片腕として重用した人物だし
秀吉も自身の政権において彼を最も重用した位の極めて有能な人物。
利家が無能とは言わんが秀吉の友人という事でかなり過大評価された
だけの人のように思える。本当に有能なら秀吉は家康ではなく利家を重用
しただろうし。
利家は信長の幼馴染で彼に絶対服従だったけど、それでも信長は利家を
柴田勝家の与力としての地位に留めている。この辺りが正当な評価だと思うけど。
479 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 11:39:40.72 ID:kuQGljFr
>>478 信長が能力主義で家康を片腕にしたなんてどこの小説ネタだよ?
そもそも柴田は織田家家老であり
利家こそ能力主義で評価されて一度は信長の怒りを勝って追放されたのに信長直参の母衣衆になってる。
しかも利家は柴田の監視役の目付けだから単純な与力とは違うし
信長の娘と息子の婚姻まで結ばれたくらい信長から認められてる。
家康なんかよりよっぽど死にそうになったりと実戦経験もある。
480 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 15:14:23.06 ID:1xicTOBL
利家と佐々成政を柴田につけたのは見張り役としてじゃね?監察官ってかんじかな
なんせ柴田勝家はあの広大な旧朝倉領を支配し、さらに北陸を攻め上がって領土を増やしていく役目
独立すると言い出したら簡単には滅殺は不可能 信長親衛隊あがりの利家と成政は
柴田勝家の動向をちくいち信長公に知らせ、もし謀反の疑いがあれば暗殺する役目だったのでは・・・
481 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 16:11:59.10 ID:4JUOH6vW
利家はヘタレだけど家康レベル如きに負けるような戦下手ではないな。
482 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 16:24:43.05 ID:D+77ttI8
ガチの戦なら利家にとって家康など物の数ではないでしょう。
白山林では秀次は桶狭間状態だし、森、堀等各隊は伸びきり
やってくださいと言わんばかり。
家康がまさか追ってくるとは夢にも思わなかった
大油断が招いた大失態。
こんなもん相手に勝って誇られてもね。
483 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 17:46:56.12 ID:zR/r/PIO
お前ら前田を持ち上げすぎ、単に家康が嫌いなだけか?
484 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 18:01:48.89 ID:3J1Rm0L4
監視役って・・
勝家が軍事指揮権だけ影響力を及ぼせる単なる寄騎衆じゃないの
勝家が国主になった越前は信長が家臣に与えた初めての大所領だから寄騎として府内に置いたんでしょ
勝家の家臣団も急速な所領拡大に対応できないのがわかっていたから信長が付けさせたのだと思う
前田や佐々は荒木や別所の謀反など信長によって抽出されるなど
遊軍的役割があったから監視なんてできないでしょ
数年すれば前田が能登国主になり、佐々が越中国主となった
加賀は勝家の一門衆に等しい佐久間盛政だから勝家に対する監視役はまず無理
485 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 18:34:53.82 ID:/R58OcOF
勝家は信長と初め敵対していた。信用できませんよ。
486 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 18:42:53.97 ID:UVpfHbH0
別に勝家と対立してたわけじゃないけどな
487 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 18:53:10.31 ID:4JUOH6vW
いやいや利家は監視役だよ。
そもそも勝家に領地を信長は与えてない。
預け置いただけ。
それに利家が能登に行った時、
越前府中は利長が信長の娘と婚姻して与えられている。
これは勝家を処分する時に能登と府中から挟撃できることを
信長が示して圧力を勝家に加えていることを意味する。
しかも利家に能登を預け置くと同時に
利長夫妻は本能寺へ呼ばれており
人質扱いされているのが実態。
本能寺へ向かう途中に変が起きたので安土城へ逃げ込んだようだが。
488 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 19:32:51.71 ID:cesvpDw0
ようは監軍的な役割なんだろ
489 :
人間七七四年:2011/07/28(木) 20:56:32.53 ID:kuQGljFr
信長は柴田や前田をあれだけ疑って謀反防止策で固めたのに
なぜか信長は光秀や秀吉らだけは完全ノーマークな間抜けぶりが痛い。
490 :
人間七七四年:2011/07/29(金) 01:57:46.07 ID:H1y6X7Q4
細川、筒井あたりがそういうポジションになるんじゃないの?
491 :
人間七七四年:2011/07/29(金) 02:03:33.95 ID:TLyR0KRS
信さんは自分が気に入った人間には甘くなる傾向がある。
492 :
人間七七四年:2011/07/29(金) 08:11:49.08 ID:e3IjYT6u
柴田と前田は前科があるから警戒して当然
493 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 01:45:42.61 ID:9yLf8i/m
羽柴だって人のこと言えんだろ
加賀での無断撤収
信長に播磨一国のみの国主許されたにも関わらず但馬、因幡の自領化
信長の裁可なしの与力や降将の家臣団化、宇喜多に対する無断和睦
別所に対する対応が悪く謀反を起こさせる
羽柴の常軌を逸した大量の米の買い占めで窮乏した山名家家臣たちを反乱に追い込むとか
だいたい播磨を信長の勢力化に入れたのは羽柴の功績でなく荒木村重の調略によるもんなんだったけど
柴田は上洛戦までは謹慎だったのか動きが見れないが
謹慎が開けたのか再び動き始めた上洛戦以降の功績はかなりのもんだし
494 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 01:46:30.63 ID:gBBFJLSR
柴田を前科者にするのは流石にかわいそうだろ
495 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 14:27:40.72 ID:JN9nLbkm
>>491 そういう依怙贔屓するから家臣に謀反起こされたんだよ
496 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 14:31:56.20 ID:e3xMQ/Pe
明智光秀は秀吉と並ぶ出世頭だったけど、リストラされかけてキレたって説があるよね
497 :
人間七七四年:2011/07/30(土) 17:31:53.15 ID:9yLf8i/m
秀吉が出世頭という俗説はほんとか?
1567年 出自不明の滝川一益、北伊勢桑名・員弁・朝明三郡領する
(秀吉が江北三郡を領するのは1573年)
1575年 父の名も不明で槍働きで先代信秀時代にのし上がったと思われる柴田勝家、越前国守護に
(秀吉が播磨国守護になるのは1577年、三木城陥れ完全平定は1580年)
1574年 馬廻から抜擢された原田直政、山城国守護
次いで
1575年 大和国守護兼務
(秀吉が播磨に次いで但馬に支配権を確立するのは1578年)
498 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 03:01:24.22 ID:/YFHZq1h
俗説に噛みついても仕方ないんじゃね
というか秀吉が天下取るまでによりドラマ性持たせただけなんだし
もともと明智等は前半なにしてたかわからないけど武士扱いなのに対して秀吉は農民っていう明確なスタートライン作られてしまってるから農民→大名は一般人からしたら武士→大名より凄いと思えるからだろ
499 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 03:08:50.78 ID:W6q7lEFB
500 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 08:35:33.02 ID:1RZsXh1V
>>498 明智の場合も信長に仕えるまでは京都で足軽をしていたという記録のみ
それなら明智も農民出身の可能性が大
現に美濃の明智一族との血縁関係を示す史料など皆無であるしな
501 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 12:51:57.02 ID:SJiYqzQu
明智は途中入社にも関わらず実力主義の織田家臣団の中でも出世頭だったんだよね。
それだけの実力があるなら信長に使える前にどこかでブレイクしなかったんだろうか?
502 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 13:52:35.94 ID:yEyRHuqz
農民?
専業武士化する前の武士は半農半武でしょ?
尾張のような豊かな石高出せるところの農民は他に比し貧農は少なそうだ
そこで足軽稼業に手を出すのは相当性格悪るいワルか村八分にされた奴らじゃないの?
秀吉もその一人か
503 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 15:36:12.00 ID:/YFHZq1h
俗説でって言ってるんだから農民扱いでいいんじゃ
実際は秀吉の父は足軽頭だったとか言われてるけど俗説の中では農民じゃない
実際、あの四人は元々よくわからない地位から大名にまで登り詰めたんだから織田政権内では誰を出世頭にしてもいいと思う
504 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 16:00:08.15 ID:LsK+32Id
>>503 > 実際は秀吉の父は足軽頭だったとか言われてる
そんな説どこにも無いよ。
太閤素性記に秀吉の父親は「信長公親父信秀鉄炮足軽也」ってあるだけ。
そもそも信秀の頃に鉄砲足軽なんてあったのかって話で、信憑性が無い。
妻方の木下姓を名乗ってる事から、「名字の百姓」と呼ばれる有力農民の出である
可能性も極めて低く、出生地の中村を名乗る事も出来ない最下層民であった可能性が高い。
505 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 17:44:25.82 ID:Xyv6cBgZ
木下というと木下祐久と何か関係あるのかしらん
506 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 09:44:09.53 ID:p9qSTrsV
本によっては秀吉と同一人物のように書かれている不思議!
507 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 20:59:36.63 ID:6jRPTPga
NHK大河で、大出 俊が利家役で登場するみたいやね。
若い頃は別の人が演じていたみたいやけど。
508 :
死:2011/12/01(木) 13:59:47.62 ID:inwP19DK
毛利が前田派と言っても史実と同じでまともに戦う保障は無いんだぜ?
利家派が有利とはいえないと思うんだけどな
509 :
人間七七四年:2011/12/01(木) 14:18:28.89 ID:dlOeFMC+
毛利が総大将と前田が総大将じゃ意味合いが全然違うから関ヶ原よりはましな動きするんじゃない?
一応秀頼守り役だし肩書きも十分で毛利や石田より御輿になる。
無論しないかもしれないけど。答えはないわな
510 :
死:2011/12/01(木) 14:27:15.04 ID:inwP19DK
史実でも徳川についた連中は死にもの狂いで戦ったのに
(先陣争いまでして)
豊臣についた連中は島津も毛利も中途半端な戦いばかり
皮肉なモンだよな
利家が健在でもまともに戦ったか疑問だわ毛利は
511 :
死:2011/12/01(木) 14:28:34.78 ID:inwP19DK
家康の為に必死に戦っても最後は改易されて終わりなのにな
あの糞狸、ほんとに詐欺師の資質あるわ
512 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 16:22:05.33 ID:AEWVoasI
513 :
人間七七四年:2012/02/03(金) 15:49:31.60 ID:88QoQ99t
利家なんか織田を裏切って柴田も背後から襲う最悪の裏切りをして
サルに尻尾ふったまさに犬だろ
おまけに嫁からは金の亡者って言われるし司馬関ヶ原の影響か知らんがそんなにたいした人物でもない
ただの生き残り年寄り
最終的に戦国レースを制し天下を取った人間と比較になるか
514 :
人間七七四年:2012/02/04(土) 07:31:54.95 ID:7K+1iSck
> 利家なんか織田を裏切って柴田も背後から襲う最悪の裏切りをして
軍記違反の撤退をしただけなんだが・・・
515 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 07:45:55.71 ID:/whCwY1v
>織田を裏切って柴田も背後から襲う最悪の裏切りをして
織田を裏切ってっていうのは初耳だな、どこ出展?
そもそも利家の主君は勝家じゃなくて信長=織田家。勝家は上司に過ぎない。
つまり賤ヶ岳では勝家にも秀吉にもつく義理はない。地理的に勝家につかざるを得なかったが。
だからこそ裏切りではなく「戦線離脱」した。背後からも襲ってない。
理想を言えばその後秀吉が完全に勝利するまで戦闘不参加がベストだけど
それを言うなら跡目争いを始める秀吉と勝家は織田家にとってベストどころかワーストだ。
なぜ利家にだけ万全を求めるのかがわからんね。
家康のほうが圧倒的に上という点には同意だが。
516 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 07:56:38.77 ID:DxCXzFKK
まあ裏切りだよ
江戸時代の物語で必死の作り話で言い訳している事からも皆同じ認識だったのだろう
517 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 10:13:10.64 ID:nXpFcZIU
適当に能力評価
武勇 家康<<<利家
統率 家康 ≒ 利家
政治力家康 > 利家
智謀 家康>>>利家
野望 家康>>>利家 こんな感じかな。謀略と野心で家康が上かな。
518 :
人間七七四年:2012/02/05(日) 12:18:55.06 ID:Sx8/a5Bh
自身の出自も分からないゲーム脳が申しておりますw
519 :
人間七七四年:2012/02/09(木) 23:21:11.38 ID:n66Y2wHQ
前田利家って戦国大名としてはほとんど上の命令にしたがってただけで自分で主導したいくさっ
てほとんどないんだよなあ。百戦練磨の家康の相手は無理
520 :
人間七七四年:2012/02/10(金) 22:21:26.45 ID:EmH1pgKn
秀吉の父親は
木下弥右衛門なので、
木下姓であり、
木下は織田の親類
521 :
人間七七四年:2012/02/11(土) 11:37:36.48 ID:9LNdKG2z
利家はリスクを冒してまで、天下を二分する事はないと思う。
確実に生き残ろうとするタイプ
522 :
人間七七四年:2012/02/13(月) 12:16:32.12 ID:UVhkCSzY
>>515 結果的に柴田を裏切り秀吉についた時点で織田を裏切ってるんじゃないの?
その後は秀吉の政権護る犬になってて豊臣最後の砦みたいにもちあげられてるし
523 :
人間七七四年:2012/02/15(水) 23:42:11.28 ID:nJAssoJ+
じゃあ柴田じゃなく秀吉方に付いた丹羽も堀も蒲生もみんな織田を裏切ったという事か
ありえねえw
524 :
人間七七四年:2012/02/15(水) 23:53:44.33 ID:ZbG+TMnT
>>522 なんで柴田=織田なん?
勝家VS秀吉は織田政権内の内輪もめじゃん
どっちについても織田を裏切ったことにはならんよ
525 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 00:06:27.47 ID:LGWjUM0V
つ秀吉VS信孝の戦い
526 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 00:49:02.94 ID:48gAZO3j
兄の信雄(と三法師)は秀吉側じゃん
527 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 01:01:14.52 ID:LGWjUM0V
秀吉側の信雄と信孝側の勝家○
信雄側の秀吉と信孝側の勝家×
秀吉側の信雄と勝家側の信孝×
528 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 01:34:06.13 ID:48gAZO3j
勝家側は信孝主体、秀吉側は秀吉主体って言いたいの?
織田を裏切ったことにしたい結論ありきの理論組み立てにしか見えんなあ
それを採用したとしても信雄の長幼の序と三法師の嫡孫で相殺じゃね?
529 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 02:27:39.17 ID:LGWjUM0V
それは山崎の戦いが光秀VS秀吉だったと言ってるのと同じだよ
あなたの理屈で言うと佐久間VS秀吉になるんじゃない?
530 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 04:11:52.87 ID:48gAZO3j
う〜〜んなんで佐久間が出てくるのかよくわからんが…
名目上は清洲会議で三法師が後継者に決定したわけだから
三法師に背かない限り織田を裏切ったことにはならん。
名目上は秀吉or信孝のどっちかが織田家主筋かということはない。
じゃあ名目でなく、実質的には信孝が織田の主筋だったかというと
そんなことないんじゃないの?俺も知識が深いわけじゃないから間違ってたらすまんが。
利家が個人的に信孝信雄三法師の誰かと親しかったわけでもないだろう。
信孝目線ならそりゃ自分が織田家主筋という意思はあっただろうけどさ。
531 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 05:07:55.81 ID:LGWjUM0V
見せ掛けだろうが名目上のみだろうが誰かが総大将になるには意味があるんです
この頃の秀吉は非常に上手く情報を誤魔化してはいたのだけど秀吉を総大将としているのは誰かの文章にある
対して勝家には大将と言う言葉が無く信孝にはある
522の人は戦術的には柴田対羽柴で間違いないのだけど合戦的(戦略)には信孝対羽柴って解釈かと
俺は羽柴の配下武将が織田を裏切った感覚を持った時期は丹羽さんを除いて蒲生が氏郷に改名した頃だと思うけどね
利家は織田の譜代でもなければ家老格でもないので信長死後は羽柴柴田佐久間と立場が違い織田家に対する縛りが
無いんだと思うよ
532 :
人間七七四年:2012/02/16(木) 17:31:30.13 ID:gG6idrcU
銭を使わない前田に決戦は無理
533 :
人間七七四年:2012/02/22(水) 21:56:51.94 ID:cV0c9zgP
諸将「催促来ないけど返さなくてもいいのだろうか(ドキドキ)」
534 :
人間七七四年:2012/03/05(月) 23:20:52.57 ID:zmb6kqre
「清華成」は遅かったけれど、家康を封じるため、秀吉がその後重用した(出世させた)。
矢部健太郎氏の論考はいいね。
535 :
人間七七四年:2012/03/31(土) 04:02:01.01 ID:EJLU6R0Q
家康と利家では個人スペックが違い過ぎるだろう。
家康は戦国大名として周囲の強敵と渡り続けた信長の有能な同盟者。
利家は信長の駒の一つに過ぎず、単に人柄の良さと秀吉の友人で出世
しただけだし。
536 :
人間七七四年:2012/04/19(木) 07:34:35.89 ID:3Ldja7Sr
前田ヲタは馬鹿
537 :
月孔雀:2012/04/19(木) 07:51:04.78 ID:z1hAUU+G
俺、馬鹿だわ
538 :
人間七七四年:2012/04/20(金) 09:13:53.45 ID:PmQ/LIIL
徳川家康vs小早川隆景なら勝負は分からないな
539 :
人間七七四年:2012/04/21(土) 15:30:46.12 ID:4hij8c7v
家康は長く国主として頑張ってきた戦国大名
利家は槍一筋で戦場往来して出世した戦国武将だから比べにくいんだよな
540 :
人間七七四年:2012/04/23(月) 23:39:50.43 ID:HerypruU
秀吉は単なる農民出身かもしれないが明智光秀は当代比類のない文化・教養人であることは忘れてはならない。
541 :
人間七七四年:2012/05/11(金) 16:38:47.79 ID:8nxsIi/e
利家の祖父は、平民だったらしい。だから、秀吉と仲が良かったらしい。
542 :
人間七七四年:2012/06/02(土) 23:34:09.29 ID:4ynoTn2B
三成「あのご老人(利家)なら人は集まる」
543 :
人間七七四年:2012/06/03(日) 12:29:10.29 ID:DlwbZWNw
集まりそうだけど纏まりそうではないな
544 :
人間七七四年:2012/06/03(日) 14:37:03.90 ID:v9ux0lHg
仮に関ヶ原が利家対家康にあっても
ずる賢い家康には到底敵わなかったと思う
545 :
人間七七四年:2012/06/06(水) 04:03:02.72 ID:th4ouwFa
546 :
人間七七四年:2012/06/06(水) 12:31:25.24 ID:mK4X+OOW
547 :
人間七七四年:2012/06/07(木) 08:32:45.37 ID:D0RVFoNw
前田ヲタは痛いなwwwwwwwwww
548 :
人間七七四年:2012/06/07(木) 18:58:28.72 ID:OO1uiFtl
前田VS家康のとき大谷は家康側
もともと家康と親しかった大名だし
549 :
人間七七四年:2012/06/10(日) 23:47:53.85 ID:+wQHPgqX
前田が長生きしても結局天下は徳川だと思う
550 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 09:43:40.17 ID:t+ks8lkz
まかり間違って家康が死ぬ年まで生きてれば
秀忠VS成人秀頼の構図になるから豊臣の勝ちじゃね
逆に家康が利家の死ぬ年で早死にしたほうが
秀忠VS三成の構図になるからワンチャンありそう。
551 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 19:04:05.67 ID:HQJypom6
>まかり間違って家康が死ぬ年まで生きてれば秀忠VS成人秀頼の構図になるから
ならないだろ。利家がいようといまいと、家康は余命短いんだから勝負に出てくるのは間違いない。
秀吉が死ぬのを待っていたのに、さらにその上利家が死ぬのまで待つわけない。天下を望むつもりなら。
552 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 19:35:09.02 ID:sT8a1P8t
利家が元気で徳川征伐に出たら
上杉勢3万が先鋒として関東を目指し
それに伊達佐竹も呼応し数万の軍勢で南下
大阪城には毛利勢5万が入り
西から宇喜多石田などが軍勢を関東に動かすだろう
最後に利家率いる北陸連合軍6万が出陣だ
家康についてた武将も軒並み利家に寝返るだろう
それでも家康と256万石は手ごわい
簡単には負けないだろう
秀頼による停戦が現実的か
553 :
人間七七四年:2012/06/11(月) 19:49:13.84 ID:HQJypom6
>利家が元気で徳川征伐に出たら
まず元気な利家は、打算が働くから徳川征伐なんて博打には出ないよ。
死期を悟った状態なら分からんけど。
554 :
人間七七四年:2012/06/13(水) 01:55:20.85 ID:vQpNanRp
三成VS家康よりも利家VS家康なら、もっと長い戦いになった
どのみち家康の勝ちだろうけど
555 :
人間七七四年:2012/06/13(水) 20:21:16.45 ID:H3UGpznq
気がついたら家康&利家VS別の誰か
の構図になってそう。
556 :
人間七七四年:2012/06/14(木) 15:09:39.19 ID:BQ1uAtf3
利家は勝負に出るタイプに見えないが
557 :
人間七七四年:2012/06/15(金) 06:00:13.04 ID:c21WH0nX
勝負に出た人に上手にのっかるタイプ
558 :
人間七七四年:2012/06/17(日) 01:55:26.80 ID:DQEUyld3
小早川隆景はどうよ?
559 :
人間七七四年:2012/06/17(日) 02:43:29.50 ID:bmWslaIi
陪臣あがりだから無理
560 :
人間七七四年:2012/06/21(木) 14:41:27.60 ID:yxbWDmb/
>>557 有利な方に真っ先にこびて
勝ち馬に乗るタイプだよな
561 :
人間七七四年:2012/06/21(木) 15:32:53.24 ID:V0gk3B4T
それってとても大事なことよね
勝ち組になる第一条件
562 :
人間七七四年:2012/06/21(木) 21:49:48.15 ID:q7ji6xMu
前田ヲタは馬鹿しかいない
563 :
人間七七四年:2012/06/21(木) 22:52:24.50 ID:9uL1S39e
『利家とまつ』の観過ぎだからな
564 :
人間七七四年:2012/06/23(土) 15:08:42.07 ID:HLuFZSoz
戦国大名として荒波を乗り越えてきた家康に、信長、秀吉の下で言われた
通りに行動していた利家が敵うわけないわな。
仮に利家があの時死ななくても遅かれ早かれ時流は徳川家になったと思うけどね。
ただそれまで上から言われた通りにやるだけだった利家がどうやって家康
と対抗したかは物凄く興味がある。
565 :
人間七七四年:2012/06/23(土) 16:38:38.74 ID:/+X/9Qmh
秀吉からのあつい信頼
566 :
人間七七四年:2012/06/23(土) 17:35:31.35 ID:8Fj1KCDi
利家が家康並みの長命保ってたなら、七将の三成襲撃もないし、よって三成失脚もない。
だから関ヶ原も起こらない。
567 :
人間七七四年:2012/06/23(土) 17:51:45.12 ID:etv+EFSH
前田と徳川が戦になったら立花宗茂の軍勢数万が飛んでくるよ
宗茂は強いぜ、家康はどう抑える?
568 :
人間七七四年:2012/06/23(土) 18:10:39.91 ID:DetEqKdx
その宗茂がいて西軍は大敗北だったんだが・・・
569 :
人間七七四年:2012/06/23(土) 19:07:39.78 ID:+hgIWYDv
570 :
人間七七四年:2012/06/24(日) 01:08:15.54 ID:j8FKfB/k
立花は1万以上は軽くいるでしょう
それよりも石田の工作が怖いよ
人望のある前田を前面に押し出して自分は必死に裏方として動くだろうから
おそらく石田は徳川方だった福島に先鋒をやらせると思うよ
福島だってそうなったらもう嫌とは言えないよ
福島も認めてもらおうと必死に働くだろうね
571 :
人間七七四年:2012/06/24(日) 03:19:56.06 ID:OROVb2IJ
>>566 どうしても利家が家康に対抗出来る図式が想像出来ん。
彼はあくまでも誰かの下でOKなお人。
572 :
人間七七四年:2012/06/24(日) 06:52:35.52 ID:FkUM2CMx
573 :
人間七七四年:2012/06/24(日) 08:07:40.09 ID:NLYeFQ/0
>人望のある前田を前面に押し出して自分は必死に裏方として動くだろうから
これが出来ないのが三成という男だろうが。
四大老五奉行(利家は病のため欠席してたが意志表明はしていた)が結束して家康を
詰問した時も大きなチャンスだったのに、三成がしゃしゃり出て結束を乱し、ぶち壊しに
したわけで。
574 :
人間七七四年:2012/06/26(火) 01:28:33.28 ID:a/QT9cP6
宗茂や真田や宇喜多明石や石田島が数万で攻めてくるとか
どうやって家康勝つんだろ
この相手だけでもきついだろ家康3万じゃ
そのほかに前田毛利上杉浅野細川加藤島津福島伊達佐竹・・・
そりゃ家康も動かんわな
575 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 01:58:29.50 ID:1ec/Kf+6
まあここまで形勢が出来てれば小早川15000も裏切らんだろうね
家康は駿府城で秀忠は江戸城で籠城かな、かなりやっかいだね
でも蜂須賀などの親豊臣も前田につきそうだからやっぱ前田勝利かな
576 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 05:32:18.63 ID:XWgQiV2j
家康が動かない以上に、前田がまず動かないから大丈夫
577 :
人間七七四年:2012/06/28(木) 21:06:51.20 ID:0DIyMovL
それ言ったらそもそも戦ったら?ってこのお題目の意味ないじゃん
まあ実際にあのままぶつかってたら家康が負けてたのは確かだろう
全員手持ちの兵でやりあったとしても味方の大名の多い前田の方が有利だし
途中で江戸に逃げようにも伊賀越え以上の難易度だし、だからこそあそこで
強気でごねた上に加増された家康が輝くんだろ。頭下げてたら具体的に言うと
三成とか何をふっかけてくるか判らんし
578 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 21:21:44.13 ID:Yth2spQw
このスレは金沢人立てたんだろうなw 利家なんか小早川秀秋と並び
戦の土壇場で裏切った二大裏切り者だろ、小早川は滅亡したが前田家は
継続したから後ろめたい子孫が捏造したマンセイ前田家の馬鹿話を加賀の
人間は信じてしまったんだろうな可哀想に
利家なんか家康に対抗できる訳ないだろw
579 :
人間七七四年:2012/06/30(土) 21:38:32.38 ID:X8rr/Trl
などと血統が途絶えたところで別に歴史上なんの影響もない土百姓の子孫が僻み根性丸出しでお送りしました
580 :
人間七七四年:2012/07/01(日) 14:09:15.15 ID:5NMFv01H
確かに前田利長に嫡男がいたら歴史は違っただろな
581 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 03:14:12.14 ID:Q/hxq5AO
前田ヲタは痛いなwwwwwwwwww
582 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 10:16:05.43 ID:Y2e09dZt
織田系大名には武辺者として慕われていたから
利家が生前なら家康に勝てた可能性はあるね。
細川忠興とかも利家が生きている時は家康には付かないだろうし。
583 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 13:16:17.37 ID:LFhRBpRT
家康に真正面から苦言を言えるのは、もはや老獪な利家しか残っていなかった
しかしその利家もいつ死ぬかわからない状態
体が動かない以上、天下のかじ取りを実力者の家康に任せるのは当然の流れで
豊臣家と秀頼を家康に託した利家の選択はしごくまっとうなものだった
まさか家康が豊臣を潰すとは利家も夢にも思わなかったのでは
たとえ天下が家康の物になっても豊臣の家は残ると考えたはずだ
584 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 13:41:07.56 ID:Y2e09dZt
戦国期の後期で実績を上げた世代がどんどん死んで
次の世代が御家をいかに守り続けていくかになって小粒化してたから
いつのまにやら棚ボタ老人家康が野戦の達人なんて虚像ができてたからね。
輝元は歴戦経験あり、ちょうど油が乗ったよい年齢だったので対抗馬としては
まさに打って付けだったのにヘタレだし。
家康への対抗馬としてはたたき上げで有望株の堀秀政や蒲生氏郷の早死には勿体無かった。
585 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 16:13:57.49 ID:WdNteMJv
前田ヲタは痛いなwwwwwwwwww
586 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 16:34:16.99 ID:WtMjeSm8
あそこまで統一が進んでると結局は人望勝負になるんだから
利家&幼年秀頼>家康>>>>>三成>秀忠 て感じで
戦になったらさすがに利家(豊臣)側が有利なのでは
>>583 どこまで史実かわかんないけど
そもそも利家の忠節は最後まで豊臣でなく織田にあったらしいからなー
徳川が豊臣にとって変わろうとも(豊臣が織田にしたように、)滅ぼすまではいかないと
考えるかも知れないし、実際淀殿が強硬に出なければ一大名として存続したかも。
ダチの息子くらいの感覚だと、お家を捨ててまで勝負に出ることはないだろうね
あまり野心もないわけだし天下を乱すこともないと考えるかも。
587 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 16:54:07.54 ID:oxb8asI+
利家が反徳川に回ると決まってるわけではないと思うの
588 :
人間七七四年:2012/07/05(木) 17:17:59.49 ID:v0g6WzMX
それって利家派に家康が組み込まれたって事でしょ
589 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 19:25:57.88 ID:5jSThTaL
>>586 >あそこまで統一が進んでると結局は人望勝負になるんだから
利家&幼年秀頼>家康>>>>>三成>秀忠 て感じで
笑わせるなよw ここで馬鹿みたいに利家をヨイショしてる奴らは
前田家の捏造話を未だに信じている加賀の人間かその関係者だろうな
賤ヶ岳では息子の利長にまで裏切りを嗜められてるのに他人に人望
なんかある訳ないわな、その利長にしたってあのザマだ・・・・・?
まぁ〜そんな一族てことだわなw
590 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 19:50:59.74 ID:3UxDmiNs
>>589 関ヶ原前の時点での利家の人望は前田家の記述とかじゃなくね?
アンチってなんか馬鹿のひとつ覚えにシズガタケガーって喚くよなw
591 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 22:58:45.43 ID:MZwYYH5F
なんつ〜か、利家は薄いんだよな秀吉や家康に比べると。
天下獲った二人ほどのギラギラした野心もないし、かといって我が身を捨てて豊臣家に滅私奉公し尽くすような
すごみも感じさせない。
そういったところが、ここぞという大一番で他の人がついてくるか来ないかの差になってきそうだ。
たとえ日頃人望があったとしてもね。
592 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 02:58:46.92 ID:x6VS2Zm8
前田ヲタは痛いなwwwwwwwwww
593 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 08:23:51.33 ID:pPMzIIJI
看羊録には利長が挙兵した場合
密かに同盟している
景勝や伊達や佐竹が関東を襲い
関東へ行った家康の隙を狙い
清正らが京を奪取して
家康を滅ぼすことになるだろうと書いている。
家康は前田を恐れて三成に北陸路を固めさせて
警戒していたと書いている。
594 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 08:55:03.82 ID:YPwlKif/
そんな事は書いてないな。
デタラメはやめとけ。
595 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 10:47:58.00 ID:Iq/iWLzA
利家の死によって一気に関ヶ原に向かったという歴史的事実があるんだから
前田家の捏造がどうのこうのは少なくともこのスレでは見当違いすぎるな
まあ捏造がなんだと言い出したら歴史的勝者の徳川のほうが激しそうだが
>>591 利家が薄いのは同意だなあ。ケチで保守的な、人のいい元DQNという感じ。(だがそこがいい
忠義の対象は秀吉でも織田家でもなく信長個人にあったような気もする
人望を集めたのもカリスマ性とはまた違う部分なんだろうなと思う
596 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 11:53:39.77 ID:pPMzIIJI
597 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 11:58:19.56 ID:YPwlKif/
>>597 看羊録のどこに書いてるのか教えてもらえるか?
登場人物は同じだが、内容が全く違うものは知ってるけどなw
598 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 11:59:00.94 ID:YPwlKif/
599 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 12:28:06.86 ID:pPMzIIJI
>>597 持ってるなら
該当箇所をここに書きこんでみろよw
俺が添削してやるからw
600 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 12:34:49.24 ID:YPwlKif/
では、こちらが書いたら、キミの該当箇所を教えてもらえるんだな?
それを約束してもらえたら書き込むぞw
601 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 12:43:32.89 ID:pPMzIIJI
じゃ早く書けよカス
602 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 12:47:21.27 ID:YPwlKif/
まぁ、落ちつけよ。まずは約束してもらわないとw
後で約束してない、とか逃げるだろ?
603 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 13:09:57.87 ID:YPwlKif/
ID:pPMzIIJI
あちこちのスレで偉そうな事言ってる割には、ソースは都合よく改竄するんだよなw
604 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 17:05:39.98 ID:pPMzIIJI
プっw書けないのかよwww
605 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 18:27:05.74 ID:YPwlKif/
おいおいw
約束してくれたら、いくらでも書くぞ。
というか、そもそもこちらが書く書かないより、
キミの訳がどこに書いてあるのかが先なんだがww(
>>593-603)
606 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 19:16:14.51 ID:pPMzIIJI
意味不明な約束を強要して誤魔化しに必死www
言い換えの屁理屈を排除し簡略に結論を書くと
「結局、お前は一切書けない」ってことのみがわかるwww
607 :
人間七七四年:2012/07/07(土) 19:33:42.46 ID:YPwlKif/
は?w
キミが自分の訳について、看羊録の箇所を教えれば全て終わるけど?(
>>593-603)
簡単な話。キミが何と言おうと、スレ見返せば誰でもわかる。
看羊録をソースにする人は、いつもムニャムニャ逃げるな。
つかSubだけどw
608 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 01:28:35.72 ID:kVD+bL+M
>>606 約束すりゃいいじゃん。なんで出来ないの?w
609 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 01:34:19.85 ID:aP6jJEQ0
いつまでやってんだw
まあどうでもいいけど、「書いてない」事を証明するのは難しいから
「書いてある」と主張するほうが証拠を提示するべきだと思うよ
610 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 06:12:40.52 ID:9Imv7AyT
利家は天下分け目の戦に参戦しながら日和見で劣勢になった途端一戦も交える
事なくトンズラするような金玉の小さい卑怯な奴だ、比べるのはあまりにも
家康に対して失礼すぎる!
611 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 10:51:26.52 ID:9Imv7AyT
天下分け目の大勝負に参戦しながらちょっと劣勢になったら一戦交える事無く
敵前トンズラする様な利家が百戦錬磨の家康と勝負出来る訳ないだろ
バカバカしい
612 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 12:43:45.19 ID:ga78vRnd
>>609 それ実際に前田利長の項と上杉景勝の項に書いてあるよ。
書いてないと主張してる人がキチガイなだけ。
613 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 13:54:33.22 ID:kVD+bL+M
>>612 勿論、そんな事は知ってるよ。
その内容が
>>593とは全然違うって言ってるんだよ。
どこに書かれてるか知ってる以上、確信犯だな。
約束出来ない事が、嘘を付いてる事を自ら証明してる。
もう改竄はいい加減にしたら?
Subちゃん、ホント見っともないよw
614 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 16:18:43.98 ID:ga78vRnd
>>613は
>>597で自分にレスしてるキチガイ君だね。。。
知っているようなそぶりをしてるが
いろいろと屁理屈を並べ一切、内容を書けずに逃げ回ってて
実際に書かれてる場所を指摘すると
「俺も知ってた」などと馬鹿馬鹿しい後出しジャンケンぶりを晒す
完全に狂ってますね。
前田利長
彼は水面下のうちに景勝・政宗・佐竹・宇喜多・加藤・細川らと会談し
家康を攻め滅ぼし彼の領土を分配しようと話し合いをして血盟して帰国したのであった。
三成は佐和山で蟄居していたのだが、それを知り家康に注進した。
中略
家康は利長が京へ上る路をふさぐため諸将に防備を命じ
三成にも近江への要害を固めさせた。
上杉景勝
日本の者達が皆一様に口を揃えて指摘しているのが
景勝がもし利長に同調して家康を攻めるなら
家康は関東へ戻るだろうし、さすれば清正らが
一度に挙兵して京を奪うだろう。
家康は関東を救援しなければ地盤を失い
背後にも敵を迎えることになる。
確実に勝利は約束されているが
残念なことに景勝は野心への強い決意に欠けている。
これでは自ら動くようなことはないだろう。
615 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 16:35:58.55 ID:CSPT+7tf
これだけの大名が前田に付いてたんだから
勝負かけて家康と戦えば良かったのにな。勝ち戦決定なのでわ。
616 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 16:56:35.53 ID:kVD+bL+M
>>614 そのレスの訳文は概ね正しい。若干違うとすれば、
>家康は利長が京へ上る路をふさぐため諸将に防備を命じ
この諸将は『関東諸将』。
で、
>>593と比較してみなよ。
>看羊録には利長が挙兵した場合
>密かに同盟している
>景勝や伊達や佐竹が関東を襲い (伊達や佐竹など書いていない)
>関東へ行った家康の隙を狙い
>清正らが京を奪取して
>家康を滅ぼすことになるだろうと書いている。 (家康を滅ぼすなど書いていない)
>家康は前田を恐れて三成に北陸路を固めさせて (北陸路を固めたのは関東諸将)
>警戒していたと書いている。
利長項の記載は看羊録著者の主観だが、景勝項は『倭人の発言』を著者が転載
したもの。これを混在させた
>>593はミスリードでしょ?w
617 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 17:28:49.66 ID:ga78vRnd
はいはいへ理屈を弄するキチガイ君らしいですね。
そもそも「主観」だとか非常に気持ち悪い独自基準まで持ち出して気持ち悪いわw
利長のすぐ次ぎに紹介されているのが景勝で
連続して読んでいけば、利長と景勝の軍事同盟と言う
同じ事柄についての各人ごとの説明をしているのでそういう解釈になる。
そもそも「北陸路」を「関東諸将に固めるように」なんて書いてない。
近江は北陸路と中山道の分岐点でここの要害を固めるように言ってるのは
あくまで三成に対してだ。
利長の項では家康を殺して土地を分けようと書いてあり
景勝の項では関東へ帰らないと拠点を失い、背後に敵を迎える。
景勝らが成功するのは疑いない。
などと書いてあるのだから、明らかに家康を滅ぼすと言う解釈は間違いではないし。
この時点で三成は家康と協調して前田排除に動いてるわけだ。
618 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 17:46:48.12 ID:kVD+bL+M
>>617 >>614で自分でも書いてるじゃないかw
>日本の者達が皆一様に口を揃えて指摘しているのが
繰り返すけど、
>>614の利長項は著者の主観。景勝項は『倭人の発言』を転載
したもの。それぞれが独立して項を形成している。
『北陸路』はキミが使ったから流用しただけ。正確には、
「関東の諸将に(命)令して、『肥前(利長)が倭京に上ってくる道』を塞ぎ、
また石田治部少輔に(命)令して近江州の要害を防備させた。」
関東諸将が主体で、三成は主体ではないよ。
研究者や著者の主張・発言を流用するなら、正確にすべき。
その上で、キミ個人が主張するなら、いかようにアレンジしても構わない。
>>593のキミの書き方は明らかに読み手をミスリードしている。
毛利首謀者スレで懲りただろ?いい加減改竄はやめようよw
619 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 18:12:39.03 ID:ga78vRnd
>>618 キチガイ君のお前が毎回の如く歪曲してんだろ。
著者の主観なんて判断できるところはまったくない
お前は一次史料の書状すら
筆者の主観とか喚く火病持ちの織田厨君ですねw
基本的に全部、朝鮮への敵情報告のために聞いた話であり
主観の時は「私が思いますのに」などと書いてる。
内容を分けるために分けたのではなく
利長と景勝で人物紹介も兼ねて分けているだけ。
触れている内容は同じ事柄について。
順を追って読んでいけばそういう解釈になる。
景勝の項で前田と上杉が越後を攻めようとしたと言及しており
利長の項における関東諸将ってのは家康配下の者を指しており
利長が京へ進むために越後で上杉との合流の上で
中仙道などを西進し京へ上ることを視野にいれて、
関東について詳しい家康配下諸将に防衛させることにしたと言うことであり
どこにも関東諸将が北陸路の防衛主体なんてトンデモなことは書いてない。
あくまで三成が主体。
じゃなければ関東諸将と三成をわざわざ分けて書く必要性すらないし
関東諸将を北陸路に回して、空っぽになった江戸を襲われたらどうすんだよwww
620 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 20:08:20.17 ID:kVD+bL+M
>>619 キミから毛利厨とはよく言われたが、織田厨は初めてだw
一次史料と言っても、同時代史料ということで史料価値が高いという話。
史料の正確性を問うものではないからね。
中身に整合性がなくても、家康本人が書いた史料なら当然一次史料になる。
普通に順を読めば誰でもわかる。利長項と景勝項がそれぞれ独立している事に。
繰り返すが、
>>614の利長項は著者の主観。景勝項は『倭人の発言』を転載したもの。
それぞれが独立して項を形成している。
第三者が看羊録を読み始めたらまた恥かくぞ。光成氏の『関ヶ原前夜』の時みたいにw
家康配下でも何でも、著者が『北陸路を関東諸将で塞いだ』と示しているのは事実だろ?
関東諸将が誰を指すか、ということには全くこだわっていません。
>>593の『北陸路を固めたのは三成』が虚偽記載である事を証明しただけ。
>関東諸将を北陸路に回して、空っぽになった江戸を襲われたらどうすんだよwww
看羊録の記載内容について、その史実性は横に置いてるから。
例えば、利長項の以下トンデモ内容を、史実だなんて全く思っていないし。
『(利長は)密かに、景勝・政宗・佐竹・秀家・清正・越中守(細川忠興)らと、家康を殺して
その土地を分けようと謀り、血をすすって同盟し、盟約が定まってから越中に帰った。』
621 :
人間七七四年:2012/07/08(日) 21:08:50.15 ID:8ltQuQ6Z
前田ヲタは痛いなwwwwwwwwww
622 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 18:02:02.01 ID:FD0ll4W0
天下分け目の戦に参戦しながら日和見でちょっと劣勢になった途端
一戦も交えることなくトンズラする様な利家が百戦錬磨の家康に
対抗出来る訳ないだろ!利家なんかまともな戦してないだろーに
誰だよこんな糞スレ立てたのは!
623 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 22:31:06.29 ID:0jfnjYUw
むしろ劣勢なのに無理して戦うような奴ならとっくに死んでるだろう
624 :
人間七七四年:2012/07/09(月) 22:59:40.92 ID:mzbbl52t
625 :
人間七七四年:2012/07/12(木) 16:31:18.59 ID:iy3oEqB/
また在日のアンチ秀吉・三成の屑が歪曲捏造してるのか。
懲りないヤツだな・・・・不都合な事実はすべて「史実性は横に置いてる」とか言い出す時点で狂人。
明らかに事実誤認な点がいくつか見られるものの、
(例えば三河守を死んでいる信康と書くなどがあるが、これは訳者が間違いてるだけかも知れん)
その記載内容は極めて信頼性が高いのに。
626 :
人間七七四年:2012/07/12(木) 23:33:07.71 ID:i6AoVlsn
ポイントは看羊録自体の信頼性ではなく、
看羊録の内容を改竄・歪曲したことだろ。(
>>593>>616)
627 :
人間七七四年:2012/07/20(金) 15:37:20.65 ID:we6XbcIa
織田チョン相変わらずだなw
豊臣政権が嫌いな余り執拗に改竄・歪曲の連続っぷりw
628 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 07:02:07.49 ID:ZBm8sG/F
>>622 天下分け目の戦に参戦しながら敵の日和見頼りで
ちょっと劣勢になった途端焦りまくった挙句
小早川に向けてヤケクソで射撃したら
運良く小早川が裏切ってくれて棚ボタで勝ってしまった家康が
百戦錬磨の利家に対抗出切る訳ないだろ!
家康なんかまともな戦してないだろーに
誰だよこんな糞スレ立てたのは!
629 :
人間七七四年:2012/08/03(金) 22:56:57.19 ID:tImEWrhM
孫子に言う。
『百戦百勝は善の善なるものにあらず。
戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり。』
戦わずに勝利する事は最上なのだよ。
630 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 08:32:26.77 ID:50RTxYqi
実際、家康は過大評価武将だからなあ。
神君とか権現様とかマンセーされまくり。
631 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 08:48:45.93 ID:475DW9QP
万世武将だけど、関ヶ原のどっちに転んでもおかしくない状況で勝ち抜いたのは凄い。
あの老獪さは信玄をほうふつさせる。
632 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 09:19:26.19 ID:pOGLRTFL
>>630 ちょい前までは、ただ運が良いだけという評価もザラだった
633 :
人間七七四年:2012/08/04(土) 10:02:19.65 ID:mTxuNpeA
成功した人間は、必ずと言っていいほど
『運が良い』と言われるものさ。
宝くじが当たるのとは意味が違う。
634 :
人間七七四年:2012/08/05(日) 19:35:05.38 ID:KFVkr7TJ
ただ運がいいだけなのは、むしろ、利家。
たまたま信長に気に入られて家督を継ぎ、
たまたま秀吉の友人だったから、家康への牽制目的で
重用された。
強いて言えば、秀吉に”安パイ”と思わせたのと、
信長好みの男前だったことが、この人の手柄。
ま、ウチは加賀の一向衆の生き残りの家系なんで、
視点がバイアス掛かってるかもしれないけど。
635 :
人間七七四年:2012/08/06(月) 18:39:07.20 ID:11q4pEyY
信長配下時代の数多くの武功は認めてやりなよ。
636 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 01:18:04.48 ID:JgmiQl20
家康は特別な戦上手ではない。
家康の戦いの実績は正直家臣に支えられた部分がかなりあると思う。
ただ政治家としては間違いなく超一流だろう。
637 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 09:23:16.99 ID:/npErirt
長久手の戦いでの機動戦を見ればそんなことは言えないと思うが
638 :
人間七七四年:2012/08/08(水) 23:58:03.21 ID:/BHcFh/N
確かにあの戦は見事なもんだったな
あの一戦で秀吉は武力による家康服従を完全に諦めたし
639 :
人間七七四年:2012/08/11(土) 19:25:47.50 ID:zRvksA+P
又左さんが確実に勝っているのは
身長
嫁さんの若さ
はまず間違いない
640 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 18:59:00.71 ID:yMRF56UQ
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り加茂郡(豊田市)に土着
・季兼は、加茂郡(豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、額田郡(岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする
・季兼は、設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹(三位尼)の息(高橋惟康(伊勢新二郎大夫))を領主にし養育する(遺構 不動堂館跡)
・平治の乱で平家に没収され、恩賞として義朝を暗殺した長田忠致が荘官となる(遺構 長田館跡)
・高橋一族は駿河に移住し、初代大森氏・初代葛山氏に、子孫の大森頼春は小田原城を築城した
・長田忠致一族が処刑されると、小野成綱(頼朝とは妾の子(貞暁)の乳母父を依頼される関係)が地頭になる
・小野成綱の代官である高橋頼之(藤原南家、相良氏)は、軍功により頼朝から高橋荘8000貫地の地頭目代となる(遺構 高橋館跡)
・その後、小野氏に代わり中条氏(八田知家(実父は源義朝、妹が寒河尼(頼朝乳母)の猶子)が、鎌倉〜南北朝時代通じで地頭になる
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から源頼家に室を出し、息に実朝を暗殺した公暁(母は足助重長と源為朝の娘の娘)
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が母の実父(藤原範忠)から相伝したもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
641 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 18:59:47.28 ID:yMRF56UQ
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(のちに三河守護)と丹後内侍(比企尼の長女)の娘)
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍の妹(比企尼の三女)、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼の兄)←範の字は藤姓熱田大宮司家が関係か?
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟、室は河越尼(比企尼の次女)の娘)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
642 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 19:00:39.55 ID:yMRF56UQ
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
643 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 19:01:35.03 ID:yMRF56UQ
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
【岡崎市東部地区/岡崎市中心部地区より東に6キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/岡崎市中心部地区より西に5キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【岡崎市南部地区/岡崎市中心部地区より南に8キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/岡崎市中心部地区より北に20キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市幡豆郡地区/岡崎市中心部地区より南に20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
644 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 19:02:44.31 ID:yMRF56UQ
室町幕府 支配層
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・今川氏(三河国幡豆郡今川) )
・渋川氏(上野国群馬郡渋川) 、初代義顕は、同母兄の家氏と共に三河(滝山寺)で出家(板倉右衛門入道)
【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良(三河国幡豆郡吉良)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)、初代義顕は、同母兄の家氏と共に三河(滝山寺)で出家(板倉右衛門入道)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄)
・細川氏(三河国額田郡細川)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作) 、初代家氏は碧海郡を、祖父の義氏から相伝し本拠とした、三河(滝山寺)で出家(蓮阿)
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家の有力諸侯)
・一色氏(四職)(三河国幡豆郡一色)
・山名氏(四職)(上野国多胡郡山名)、初代の義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田)の矢田義清(足利義兼の兄)
・京極氏(四職)(山城国葛野郡京極)
・赤松氏(四職)(播磨国赤穂郡赤松)
・土岐氏(五職)(美濃国土岐郡)
・上杉氏(関東管領)(丹波国何鹿郡上杉)
・伊勢氏(政所執事)
645 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 19:08:10.32 ID:yMRF56UQ
室町幕府(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造
■守護職
【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:畠山国清、高師泰、細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏、高師泰、畠山国清
【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長、高師冬
・伊勢国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長、高師泰
・三河国守護:高師兼、仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房、上杉重能
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:高重茂、高師冬、高師直、上杉憲顕、仁木義章
・安房国守護:斯波家長
・上総国守護:高師直
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経
【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・上野国守護:上杉憲房、上杉憲顕
・下野国守護:高師直、仁木頼兼
646 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 19:08:48.73 ID:yMRF56UQ
室町幕府(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造
■守護職
【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、高師詮
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上杉朝定、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼兼、高師泰、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義
【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春
【南海道】
・紀伊国守護:畠山国清、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏
647 :
人間七七四年:2012/08/12(日) 19:10:50.42 ID:yMRF56UQ
室町幕府 西三河の日本支配構造
■奉公衆
・奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏
二番番頭 桃井氏
三番番頭 上野氏
四番番頭 石垣氏(畠山氏)
五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全53家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎氏流)、一色、伊奈(戸賀崎氏流)、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田(畠山氏流)
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和
648 :
人間七七四年:2012/08/14(火) 14:01:05.15 ID:foCtGmQ5
室町幕府 支配層
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・今川氏(三河国幡豆郡今川) )
・渋川氏(上野国群馬郡渋川) 、初代義顕は、同母兄の家氏と共に三河(滝山寺)で出家(板倉右衛門入道)
【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良(三河国幡豆郡吉良)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)、初代義顕は、同母兄の家氏と共に三河(滝山寺)で出家(板倉右衛門入道)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄)
幕府執事(管領の前身)
・高氏、没落後、屋敷跡に総持寺(三河国額田郡菅生)が建てられる
・仁木氏(三河国額田郡仁木)
・細川氏(三河国額田郡細川)
管領
・細川氏(三河国額田郡細川)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作) 、初代家氏は、碧海郡を祖父の義氏から相伝し本拠とした、三河(滝山寺)で出家(蓮阿)
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家の有力諸侯)
・一色氏(四職)(三河国幡豆郡一色)
・山名氏(四職)(上野国多胡郡山名)、初代の義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田)の矢田義清(足利義兼の兄)
・京極氏(四職)(山城国葛野郡京極)
・赤松氏(四職)(播磨国赤穂郡赤松)
・土岐氏(五職)(美濃国土岐郡)
・上杉氏(関東管領)(丹波国何鹿郡上杉)
・伊勢氏(政所執事)
649 :
人間七七四年:2012/12/26(水) 07:35:20.46 ID:mFOIniPK
650 :
人間七七四年:2012/12/26(水) 10:47:41.11 ID:2WxWYcF3
家康と利家が衝突しそうになったとき
武断派はこぞって家康側についたみたいな感じだったようだけど
それじゃ関ヶ原とほとんど変んないじゃんw
加藤清正だけは利家側だったらしいけど
前田利家が西軍にいったとしてどれだけの戦力になったんだろうか
石高からすると3万くらいだろうけど彼が戦で活躍したって話は
きかないしな
651 :
人間七七四年:2013/01/15(火) 12:51:58.14 ID:p0nlMG+s
利家には人望だけしかない
故に神輿となって頂き、景勝あたりに采配を任せるべきだ
あ、三成はロジスティックス担当な
652 :
人間七七四年:2013/01/15(火) 13:51:57.14 ID:SySalk98
景勝も采配に関しては微妙やん
653 :
人間七七四年:2013/01/15(火) 15:03:35.11 ID:v6ssVafL
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
景勝>>>>>>柴田
滝川も三国峠で上杉に撃退されてると三国誌に書いてある
信濃・北陸・出羽・会津・下越・上野全方面から攻め込んで5000そこそこの上杉も瞬殺できないどころか
ろくな防備もない魚津に大苦戦し松倉でも手も足も出ず信濃でも長沼攻防に破れ敗北
これでは正直何年かかるかって感じだな
御館の乱で天正8年まで国内で武田北条伊達蘆名を敵に回しての家中2分の内戦で争ってる間に
圧倒的大軍と地元諸将の調略で火事場泥棒しただけだし
内戦終結する天正8年半ばから2年ろくに進めてないのが実情
ちなみに柴田軍は前田の史料とかだと45000もの大軍で上杉は5000程度。
どうみても景勝>>>>>>>>>柴田(織田家トップ格)
しかも下越で新発田も敵で伊達・蘆名もそれを後援。いかに上杉が圧倒的不利な状況にもかかわらず
敢闘していたかがわかる
普通なら1か月くらいで滅んでおかしくない兵力比と状況だからな
654 :
人間七七四年:2013/01/15(火) 15:05:06.33 ID:v6ssVafL
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。
ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
景勝>>>>>>柴田
655 :
人間七七四年:2013/01/18(金) 00:05:23.31 ID:50oE1ymu
「上杉景勝の采配が微妙」と言われてしまうのはそこじゃないかと
関ヶ原前哨戦で、家康・秀忠計6万もの大軍を足止めさせられずに西に向かわせてしまった事、
兵力で5倍以上もの差があった最上を攻略できないうちに関ヶ原の敗戦を迎えた事、ここに尽きる
スレ的に追記するなら、そんなに必死に上杉を持ちあげなくても、
そもそも一般的に柴田にも前田にも戦巧者的なイメージはないと思う
656 :
人間七七四年:2013/01/31(木) 02:15:37.99 ID:+O+4cgI5
>>634 金銭面で色々世話して徳川との婚姻関係無視して味方が多くついた事とかも認めてやれよ
一向宗的に考えて家康の方がお前らの宗教に酷い事したからな、ノブの手先として働いたトシよりもさ
>>651 みっちゃん結構頑張ったぞ。CCO様っぽい外見の人とかも秀吉子飼いだけあって頑張ってた
657 :
人間七七四年:2013/02/03(日) 14:07:12.78 ID:U6TpDHhC
同族派閥組織グル共謀利益他人支配多勢に無勢企策計謀根回し癒着濡衣詐欺詐偽虚偽欺き騙し離間計策引抜き削弱弱体計策
個々潰移権謀術数偽計詭計奸計人間言動意図目的狙い心理言動術踏み台出し抜き裏切り蹴落とし奴隷鉄砲玉人間操作コントロール
口裏合わせ情報掌握的確攻撃邪魔妨害自己中利己主義私利私欲独占欲殺し成り済まし略奪虐殺資産乗っ取り漁夫の利同士討ち
何事も巧者勝ち
658 :
死:2013/02/05(火) 14:41:11.25 ID:ByHxdUXq
一時対抗馬に上がったけど
やっぱり実力が全然違うと思う
659 :
人間七七四年:2013/02/05(火) 21:50:54.81 ID:tYJ9Vr6A
>>655 最上に苦戦したのは直江さんのせいですしお寿司。
ていうか実質みっちゃんと大差ない直江さんが名将扱いな風潮が納得いかない。
660 :
人間七七四年:2013/02/05(火) 22:08:08.32 ID:1qKhVckz
最上って瞬殺されてるんだけど
661 :
人間七七四年:2013/02/06(水) 13:25:58.18 ID:hpiHJPSU
前田利家と小早川隆景が生きていれば
家康でも容易に天下を奪うことも無理だった思う
隆景がいない毛利家は家康は全然怖くない
五奉行で家康の次に優秀なのは隆景
関ヶ原合戦後に減封され輝元は亡き隆景を惜しんだ
家康と利家は朝鮮の役で散々苦労したけど
二人は親交が深くなった経緯もある
両家で戦争にならず心底安堵してたと思う
豊臣家の扱いは利家はどうしたのか興味がある…
662 :
人間七七四年:2013/02/08(金) 20:27:27.92 ID:gdtcwe/g
利家が西軍の総大将なら、秀吉子飼いの武将も西軍についたんじゃない?
663 :
人間七七四年:2013/02/13(水) 06:55:39.02 ID:rbrjQCdx
前田が死ぬまでは実際そうだったろ
市松の馬鹿以外は
664 :
人間七七四年:2013/02/13(水) 12:48:44.00 ID:jT+1SDyg
前田利家に期待しすぎ
忠義は厚いが野望ないでしょ。家康と利家じゃ部下の質が違いすぎる
665 :
人間七七四年:2013/02/14(木) 22:22:26.84 ID:HKgtpOXC
そもそも利家は豊臣家に対して忠誠心があったのか疑問だな
秀吉個人に対しては義理や情はあっただろうけど
666 :
人間七七四年:2013/02/15(金) 00:18:14.87 ID:glYwSaem
家康はかなり前田家に気を使ってる
秀忠の長女は豊臣家に次女は前田家に嫁いだ
この二人は家光の姉だからな
667 :
人間七七四年:2013/02/16(土) 22:13:28.27 ID:z4cjBfiV
さて、万年不況、万年パシリ、尾張の田舎猿
さっさと尾張名古屋共和国(笑)で独立しろよ
ノロノロするな
ご自慢の金のシャチホコ(笑)は、常にトゥルントゥルンにしておけ
みゃ〜みゃ〜無駄口叩かず、全身全霊感謝の気持ちを込めて、シッカリ磨けよ
668 :
人間七七四年:2013/06/02(日) 10:50:10.30 ID:T7IilMEl
>>662 そもそもみっちゃん嫌われてたし関ヶ原前哨戦で大名の妻子を人質にしようとするわ
ガラシャを自決させちゃうわで無駄に敵を増やしてたしな、他の奴が主導してたら毛利の
若様のやる気と味方の数も違ってたろ。
てか後で鳥居を襲うぐらいなら最初から少数の手勢で東進してた家康を襲えよ
669 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 14:26:12.08 ID:YIH7x0Tm
普通に考えて、戦う訳ないだろ。
670 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 11:02:35.08 ID:KqAPAkmb
秀吉って、利家の寿命を考えなかったんかな。いい歳だし。
家康もいつ死んでもおかしくない歳だけさ。
671 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 23:06:10.18 ID:Fwa/XsQ7
>>670 1.そういうのも分からんくらい秀吉が衰えてた
2.秀吉が生きてる間は偶然利家も元気だった
3.利家は既に調子悪かったけど、秀吉のために無理して頑張ってた
1が一番ありそうだけど、3も一見考えた行動のようで実はあとあとヤバイという事に気づかない
読みの甘さが利家っぽいかも
672 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 20:17:50.70 ID:q29D/b0w
五大老云々の前に利家は結構重くなってきた腹の病気を理由に隠居したのに
無理やり戻されてるんだよね
673 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 10:59:16.12 ID:OqBaIJE9
秀吉は利家の寿命がきても、秀頼と千姫との間に子供が生まれるかもとは思っていたかも。
じゃあ誰に秀頼を託せば良かったんだといえば、
秀頼が物心つく前にねねの養子にして、三法師2号として育てれば命と身分の保障はできたと思う。
674 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 17:56:47.17 ID:aMh3fTaq
675 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 18:00:48.63 ID:aMh3fTaq
そもそもさ秀吉が秀頼を認知せずに秀秋以外の杉原家の子供をもう一人養子に
貰ってきて後を継がせたうえで北政所の養子にして自分の死後は北政所に
女大名やらせれば全て解決した気がするんだけどな。
彼女なら能力的に後見や政務の代行くらいお手の物だし北条政子ほど野心家ってわけでもない。
自分の子供かわからない秀頼に跡を継がすより絶対そっちの方が良かったと思う。
676 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 18:12:21.07 ID:FwdfsopK
秀頼が自分の子かわからんとかまだ妄想垂れ流してる馬鹿がいるのか。
677 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 18:16:48.26 ID:FwdfsopK
6才で死んだ実子の羽柴秀勝 (石松丸)もいるから種無しってことはないし
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
678 :
月孔雀:2013/08/20(火) 18:52:13.26 ID:oPhhjJEy
利家の生まれ変わりがまだ生きてるんですけど??
家康の生まれ変わりも生きている。
光成の生まれ変わりもいきている・・・
14年の大坂の陣はどうなるんでしょうね?>オール
679 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 19:31:27.08 ID:aMh3fTaq
>>676 677 石松丸なんて実在したかわからん人を例に出されてもな。
そもそも鶴松の時点で大政所が「秀吉の子の訳がない。」と卒倒したと言うし
秀頼の時は秀吉本人がどこまで本気かわからんが北政所に
秀頼に対する疑念を書状にしてる。
680 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 20:35:29.85 ID:rPz34Zwt
>>679 >>石松丸なんて実在したかわからん
竹生島奉加帳にちゃんと記されてる
>>そもそも鶴松の時点で大政所が「秀吉の子の訳がない。」と卒倒したと言うし
何それ?講談ですか???????
>>秀頼の時は秀吉本人がどこまで本気かわからんが北政所に秀頼に対する疑念を書状にしてる
そんな史料ない。
681 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 20:37:47.42 ID:2rvsEK6r
また河原ノ者・非人・秀吉に毒された馬鹿が暴れまわってるなw
ろくに史料も出さず講談軍記妄想だけで埋め尽くそうとしたり秀勝が実在じゃないとか
鶴松や秀頼が実子じゃないとか妄想デッチ上げてるアホ学者の意見をそのまま書写とか馬鹿すぎる
682 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 20:39:08.08 ID:LHoVUv9M
三人もちゃんと子供がいるのに全員偽者扱いして種なしとか
信長や家康を種なし扱いするのと同じくらいのアホな意見だな
683 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 18:08:21.34 ID:+lllnVzm
>>675 北条政子をイメージしてるようだけど無理だって。
北の政所は政子や富子と違って政治的権威と政治力は抜群だけど
生まれが下級武士だから実家がしょぼいせいで領地も経済力も軍事力も
持ってないもの。実際北条政子だって弟の義時が死んで甥の泰時に
北条家が代替わりしたら以降は半ば無視されてるしさ。
自前で家康とやりあうだけの力は持ってない。
これについては利家も似たようなもんな気がするけど。
684 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 18:31:21.68 ID:bDSe+Nd9
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
685 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 18:33:13.43 ID:bDSe+Nd9
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
686 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 14:58:26.77 ID:z0RC7QFJ
最初は志しは一緒だった。利家はいつしか豊臣家を守る事に固執してしまった。
家康は最初から志しは天下泰平。
687 :
人間七七四年:2013/09/06(金) 15:33:24.68 ID:WhpHWXGf
利家って、世渡り上手に見えるから、
自分の家は守っても、他の家に忠義を尽くすというイメージは無いな。
688 :
人間七七四年:2013/09/06(金) 19:38:53.16 ID:Xq6Hox8l
信長>自分の家≧織田家>秀吉>豊臣家
くらいじゃないの
家康の目的も自分の家を守ることが
イコール天下泰平に繋がっただけのようにも思える
689 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 17:43:09.93 ID:7+lrpT14
690 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 08:18:41.89 ID:ce+DhQju
691 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 13:58:12.44 ID:R5KPLGMh
人材も含めた国力で考えると前田が勝つには無理がありすぎる
一方は地方をほぼ完全に収め官僚組織らしき物まで完備するいわば国家そのもの
前田はせいぜい北陸での覇権を維持するのがせい一杯の地力
鼻から勝負にすらならんだろ
小競り合いでは良い勝負するかもしれんが最後は必ず負ける
692 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 16:01:34.33 ID:QaPK4+QS
家康→武田型軍制統治システム
利家→織田型軍制統治システム
まぁ利家では勝てないな。。
693 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 16:22:56.32 ID:ugE4dC1p
>>692 そう書かれると家康に勝ち目無い様に見えてくる不思議w
こと軍統制上は織田型のが当時優れて居た
武田型は所詮半農だからね
ただ兵個人の強さが半端では無かった
問題は軍事行動を続けられる期間が武田型だと限界があるが織田型だと実質無限にもできるという点
指揮官が有能であれば織田型だと負けない
694 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 17:15:16.28 ID:QaPK4+QS
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
従って武篇道と戦果が問題となる。
池上裕子→武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 →信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
この限界の壁と突破できるのが内政軍制改革の結果であり、
圧倒的大軍による威信を背景にした「位攻め」戦略であり、
これが達成できない限り全国支配など夢のまた夢。
結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322744022/l50
695 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 17:31:37.48 ID:PFLkTG8o
>>694 何を言いたいのか長すぎて把握しきれんが、要するに大軍を揃える能力は武田が上で織田がお粗末って事を言いたいのかな?
織田家の経営方針ってのがさ
基本が美濃・尾張を中心とした経済圏を軸に各方面に軍を張り付かせるって方針だと思うんだよね
んで賦役を排除してるのは兵農分離をある程度成し遂げられているから
4方面くらいに2〜3万程度張り付かせる事が可能って凄い事じゃない?
武田が1戦場に6万揃えて凄いと言うが、その6万の兵站を支え織田家の中枢を破壊するまで運動させる事が可能なのかって話になる
織田家としては最悪の場合でも田植えや収穫の時期まで持久すれば戦争目的は達成できる
武田は時間かければかける程国力が落ち織田は自国の重要経済圏が無事な限り国力はさほど落ちない
戦争する次元が違うと思うけど
696 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 17:46:23.23 ID:QaPK4+QS
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていてその際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
信長は神仏の使いである鹿の大量虐殺による寺社への挑発・荘園の略奪・惣村強制没収略奪・京での略奪放火恐喝大虐殺・強制労働と相次ぐ臨時の税賦課
上限の設けられない軍役・軍役がない時は軍道作りを強制される。また子供が遊ぶことも禁止された。
これらに従わない場合は弾圧で村や都市ごと焦土にする(信長のこのやりかたを一国亡国と呼ばれ批判された)
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それに家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
697 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 18:01:32.44 ID:QaPK4+QS
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。
武田や上杉や北条とは違い、貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。 よって国力の単純比較は成立しない。
信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
それをやったと思われるのは最末期の光秀だけである。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように
兵を消耗させる意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の日程を理由に帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨。
むしろ長篠の戦い後に、兵糧がないから追撃できなかったと謙信に返答して呆れられた信長こそ
農業日程にあしを引っ張られてるし、越前一揆の時も秀吉が何とか集めた兵糧を
長浜城で受け取ってから進軍するなど、まったく兵站奉行が存在しないのが露呈してる。
698 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 18:10:05.12 ID:wZoGqA5t
>>696 途中から秀吉と信長比べてねーか?
武田型と織田型の違いを比べてた筈なんだが・・・
信長公記によると、信長は部下に兵を貸してたって記述がある
ここから兵農分離がある程度出来てた事の証明になる
急速に領土が広がったので法で縛るより方面軍の裁量で各種問題を解決させた方が現実的
信長に取って一番大事なのが美濃・尾張の確保と防衛であり、次点で山城の確保
織田家に取って致命的だったのは本能寺で後継者と官僚団を同時に失った事
それにより広大な領土を切り盛りする事が出来ず算術に長けた近江者を抱える秀吉の台頭を許した
基礎は信長が作って居たので、秀吉はより大規模かつ徹底的に行動するだけで天下を取れた
699 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 18:14:54.28 ID:wZoGqA5t
ついでに、何のかんの言っても天下統一に一番最初に王手を掛けたのが信長
この一点だけ取っても信長が無能であると断ずるのは早計かと思うけど
700 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:24:08.31 ID:hDmDUhe4
どこの学者さんか知らんけど要点をまとめる能力はゼロだな
701 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:24:35.15 ID:sv0WWshR
>>693 デタラメ乙
>>695 妄想乙
>>698 願望乙
>>699 王手どころか備前の秀吉の足を引っ張って家臣に下克上されたアホじゃん。
下克上ブームは一世代前にあったもので、
すでにまっとうに経営してる大名家ではすでに起き無いようになってるのにダメ過ぎじゃん。
702 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:53:26.70 ID:0oxfI4FZ
池上の妄想論文を史実と思い込んでる馬鹿に人を罵倒する能力はない
703 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 20:54:55.83 ID:7YZuf0c/
704 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 21:08:17.59 ID:sv0WWshR
織田厨「池上はだがニダ!信長はソースは一切出せないが最強ニダ!」
705 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 21:21:28.00 ID:wZoGqA5t
>>701 下克上起こされた事で天下統一に王手かけてた事実は覆らんと思うけど?
ついでに、備前表の秀吉の足引っ張ったという根拠がわからない
援軍求めたのは秀吉だろ?
むしろ秀吉が援軍要請しなかったら本能寺自体起きなかった
結果的に足引っ張ったのどっちになるの?
706 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 21:24:50.44 ID:wZoGqA5t
というか、信長のマイナス面のみあげつらって彼の先進性や成し遂げた事を意図的に無視してるよね?
も少し日本人らしく正当に評価してみたら?
707 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 21:36:34.57 ID:xN1IZN/Y
池上の論文だけでは織田の政策や動員体制が遅れてる根拠にはならんだろ。
池上の論文って佐久間譴責状くらいしかソース元にしてないし
それだけでは推論元として弱過ぎるだろ。最近の権力構造の論文とかみても
織田の軍役体制は遅れてるどころかある程度先進的だったとされてるし
708 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 00:20:47.86 ID:QT24Mw0q
本能寺の変起こしたかったから秀吉が援軍呼んだ。秀吉が謀反起こしたんだよ。
709 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 11:31:28.83 ID:vxfJzo51
>>701 織田厨って自分の主張をする際に一切、根拠を出さずに自慰レスするし、
根拠を否定する際にすら、一次史料による根拠を出さずに願望妄想を書くアホだよねw
>>702 自分に不都合な書籍はすべて排除するキチガイ脳織田厨wwww
>>703 煽りトンデモ論の井沢wwwwwさすが織田厨ご用達www
>>704 結局、誰彼構わず気に食わない意見はすべてだが認定して回ってるだけのキチガイだよな。反日左翼脳まんまwww
>>705 どこが王手だよw美濃の隣国信濃への侵攻でも兵数調整しておっかなびっくり進軍で、武田滅亡したら、すぐに軍を解いて、
各武将は急いで逃げるように領国へ帰っていくほどの弱兵站ぶりで、甲斐や信濃駐屯兵すらロクに置けずに簡単に一揆にフルボッコされた織田のくせにwww
謙信死んで、御館の乱やら新発田の乱が起きて越後内乱弱体化してたのに、どんだけ北陸進軍スピード遅いんだよwww
秀吉が備前攻略寸前のタイミングで家臣に謀反で殺され、備前攻略の足を引っ張ったのが信長だろ。
>>706 先進性とやらをここに根拠付きで具体的に箇条書きしてみろよw
>>707 はいはい、否定するなら具体的な根拠を提示してくださいねw
ついでに織田の軍役体制が先進的だった具体的証拠っも書いてくださいね。
ここは織田厨が「思った」願望妄想を自演で書き連ねて多数派工作する低脳がいてはいけない板ですよw
否定するなら具体的根拠による反論を、意見するなら具体的根拠を出してください。
710 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 12:25:28.33 ID:96OalJDY
わぁすごい・・・
711 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 13:53:54.77 ID:SZcTTMmB
織田厨「具体的根拠提出?黙殺するニダ。とにかくウソも連呼すれば事実になるニダ」
712 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 14:14:57.32 ID:awu5x8bT
信長が死んだ時点で生き残ってた主な大名
上杉、北条、毛利、長宗我部、島津、伊達
もはや各個撃破の対象でしかない訳だが
人をあげつらう前に上記の勢力が本能寺寸前の時点で、どう天下を取るプランが取れるのか言ってみれば良い
勿論本能寺が起こらずってのが前提
織田大嫌い君なら言えるよね^^
是非妄想とやらに頼らない綿密かつ説得力のある話しを聞かせて欲しい
713 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 14:51:57.30 ID:vxfJzo51
えっ?経験浅い北条氏直にフルボッコされた織田軍なのにwww無理すぎじゃんwww
上杉にしたって本国の一部すら占領できてないじゃんwww親不知の険を通過することはまず無理だしwwww
そもそも弱兵站ではこれ以上の侵攻は無理だろw完全に攻勢限界点を超えたじゃん。
明らかに織田本国から離れれば離れるほど大規模謀反頻発で織田の進軍速度が劇的に落ちてるじゃん。
714 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 14:58:13.37 ID:HCTHrI7D
日本語通じてる?
その氏直さんが、どう天下取るのって聞いてんだけど?
715 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 16:49:37.01 ID:bWpbXo0o
あれ?お逃げあそばしたの?
716 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 16:53:12.86 ID:vxfJzo51
はっ?誰が氏直が天下を取る妄想なんてしたんだ?勝手に話を作り替えるなよw
れはif話をするようなゲーム脳じゃねーぞ。
北条が関八州制覇が目標なのも知らんとか無知にもほどがあるぞwww腹いてぇwwww
717 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 17:07:53.02 ID:bWpbXo0o
つまり関東制覇程度の器だったって言いたいの?
織田との比較してんじゃなかった?
その言い方だと、そもそもの土俵が違うから比べる事すら不可能だって分からないの?
織田家が現に天下まで後一歩の所まで迫ってたのは資料漁るまでもなく脳みそあったら捻くれて無い限り否定しようの無い事じゃないの?
君がいくら大好きな資料集めて重箱の隅突つく様な真似しても、そこまで否定できないよね?
戦略目標が違うと言いたいのなら、せめて本能寺が無かった場合、北条が関東を制覇し守り切れる根拠なり示さないと単なる戯言でしか無いんじゃない?
方や天下取り目指して戦って
方や地方程度で満足しようとしてる
能力以前の話しじゃないか
君他のスレで武田マンセーしてたみたいだけど、君の言う超無能の織田に結局の所滅ぼされたってのは、どう説明するの?
718 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 17:16:19.27 ID:vxfJzo51
信長公記だと織田って長篠の戦いの時点で徳川と合わせてやっと3万だよね。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月でウンコ充満になって開城したしな。
秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ
実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
織田とは違い、武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので季節により軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨。
719 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 17:21:33.32 ID:bWpbXo0o
それは秀吉と信長の違いであって北条と信長の違いの説明にはなってないんじゃない?
その完璧な領土支配していた今川武田がどんな末路だった?
思ったよりはまともな事言ってるから感心する部分多いけど結構話しすり替えてないか?
720 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 21:41:39.12 ID:NvexBOM0
721 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 22:09:45.50 ID:HCTHrI7D
722 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 22:28:20.16 ID:Uv26+N7W
朝鮮の役が勃発して驚く家康と利家
利家は命がけで秀吉に朝鮮の役の無意味なことを解こうとするが
秀吉の逆鱗に触れ家が改易になることを恐れた家康はそう言って利家を説得する
次第に耄碌する秀吉に家康と利家は苦労するが
家康と利家は出来のあまりよくない息子たちのことも話すうちに意気投合したらしい
だから秀吉の死後ふたりは対立することもあったけど
コ川家と前田家で戦争にならずにすんだことは良かったことだとは思う…
723 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 22:59:01.97 ID:KN/Ka1R1
>>722 くだらねー妄想小説を披露すんじゃねぇよ…
724 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 06:59:06.02 ID:l+pxmdyx
>>723 この時代の歴史の中身なんてこの程度だろ
725 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 12:30:30.47 ID:rE7IfGhM
726 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 10:48:01.20 ID:I/xYE/wc
>>688 賎ヶ岳を考えると、信長≧自分の家>>>その他、のような。
信長さまはもういないし、秀吉についたほうが前田家の為になるし、
織田家は実権のない幼児でも血筋さえ残ればそれでいいやみたいな。
727 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 08:42:54.87 ID:FqlobQfq
利家は徳川と戦う際には、
北条など旧関東の滅亡者たちを関東で挙兵させるつもりだった。
728 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 19:03:39.43 ID:eDIEdssR
アスペルガーだが ってまだいたんだ
何年も武田擁護と織田批判
を全レスでやり続けるとはある意味たいしたもんだw
729 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 16:53:27.45 ID:sllwJW3k
730 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 03:16:31.38 ID:D35/cPc1
家康の圧勝。家康の相手が秀吉ならまだしも利家w
731 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 16:34:53.89 ID:d1768vTN
>>730 まあ、比べる方に無理があるよね
曲がりなりにも
織田信長の盟友である徳川家康と
織田信長麾下の一大名たる前田利家じゃ
まあ、豊臣秀吉の限界なんだろうけど。
732 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 16:38:04.57 ID:T8huy7eS
家康には武田旧臣が付いてたからな。
733 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 22:48:05.63 ID:lmQi0mb/
今川旧臣もいまっせ
734 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 22:48:44.64 ID:4HxBycJ5
家康と利家も京極家の京極竜子が
秀吉の側室になったことだけは羨ましかったらしい
竜子は美人で有名な人だった…
秀吉自慢の側室のひとり
735 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 01:03:59.61 ID:KQc1JUVR
スレチ
736 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 10:07:26.17 ID:WnZCFme0
全盛期の秀吉が大軍をもってしても勝てなかった家康に、利家ごときが勝てるわけがない。
737 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 10:46:21.48 ID:bL8LoQbn
秀吉が負けたのは家康ではなく信雄。
織田家でもっとも無能な信雄軍団が84年の攻防の主力であり、家康はたかだか8000連れてきただけなのは当代記などに書かれてる。
松ヶ島、木造、加賀の井方面で大敗して結局尾張ライン超える事は挫折
夏の攻防の際にもやはり砦間の攻防で苦戦して退却
弱いにも程があると思う
738 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 10:49:12.40 ID:g82hMHPO
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、上杉景勝の川中島侵攻やそれに次ぐ譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
739 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 10:53:08.89 ID:zqej9s5h
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
740 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 10:54:40.12 ID:/3W1CsUF
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
741 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 11:00:50.49 ID:jSz78wVI
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
742 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 11:50:11.95 ID:g82hMHPO
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は
>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
743 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:08:48.67 ID:g82hMHPO
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
744 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:12:46.64 ID:/3W1CsUF
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717 >>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
745 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:22:33.21 ID:TCaJP4Au
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
746 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:32:51.94 ID:dVoVpmBD
北条や毛利を叩きまくり、その最弱な北条や毛利に負けた秀吉っていう
デタラメ捏造歪曲ロジックを よくもまあ、飽きずに続けられるな朝鮮人くんって。
しかも関が原の議論ではアホ輝元は被害者とか、
清廉潔白で誠実な家康などと喚いて全力捏造擁護して
三成を貶すなど豊臣政権をひたすら貶し朝鮮出兵での秀吉の敗北を主張。
だいたい
>>看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
>>大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
などと発言して無茶くちゃ粘着しながら、秀吉を貶す時には、
>>フロイス日本史22章より。
などと普通に外人の記述を持ってくるんだからキチガイを通り越して池沼そのものなんだよな・・・
しかも武田厨のフリを装い、SABのレスを盗用して爆撃荒らしをやる時は、
三河物語の記述をソースに志賀の陣で信長は敗北したとする論調をそのまま利用しておきながら
近江戦線での秀吉を貶す時に独自に自分で作ったレスでは
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、
>>無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
などと正反対の信長擁護のレスをして見事に、その正体が織田チョンである馬脚を現しているほど低脳在日ぶりを示すw
そもそも昔のSABレスのコピペ盗用爆撃荒らしを歴史ゲーム板で開始し、
だがスレを建てて自己正当化を主張し、だがwikiまで作り発信する工作大好きキチガイはこの在日なのはバレてるし。
不等号が大好きで、不等号で大名間序列をつけたがる幼稚な習性と、
24時間自宅ネット警備員ぶりからして、就職にも失敗してんだろうなぁ。
747 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:35:49.88 ID:zqej9s5h
北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書やもう一点の史料から、
北条方は兵力の大部分を上野・下総・下野・北武蔵などに割いてて逆に小田原や韮山や忍城など
豊臣方が攻めたポイントにはほとんど兵がいなかったのがわかる。
それらを上杉・真田・依田・宇都宮・結城・佐竹・皆川・佐野・那須ら反北条勢らが陥落させてくれたおかげで
北条方は士気がガタガタになって重臣らの離反まで繋がっただけ(フロイスの日本史にも小田原以外の諸城陥落により
北条方は戦意がなくなったと書いてる。)
逆に豊臣方が攻めた韮山ではわずか500の兵力ながら苦戦しまくり山中城攻防では重臣一柳が戦死し
忍城では現地でいた石田らの反対押し切って秀吉が馬鹿な水攻めを決行したため大敗してる。
小田原も全く手も足も出ていない。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
伊達が奥州から駆けつけたら間違いなく豊臣軍は瞬殺されてたよ。現に兵糧までなくなりかけてたし。
北条は天正壬午でも2万程度だったろうが。
しかも早期から会戦準備すすめ過ぎてあちこちで村落が欠落しまくるなど疲弊しまくってたからな。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国
常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。
フロイスの日本史によると豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれてたしね
政宗が北条に味方してたら100%勝ってたのは間違いない
748 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:38:25.41 ID:g82hMHPO
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前。
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差の戦闘で豊臣方は
一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし
小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
北条征伐で伊達が北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に
氏家負傷とアホっぷりを晒してたし
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。
5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと
12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
749 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:38:45.80 ID:jSz78wVI
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。 ちなみに小田原城は1000人しかいない。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前。
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差の戦闘で豊臣方は
一柳や堀尾の子や平岩弟や依田や前田の重臣が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000に大苦戦し小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
山中城とやらも内通者がいたから落ちただけだし
小田原篭城が4ヶ月で開城したのも内通者がいたからってだけだしね
北条征伐で伊達が北条に味方してりゃ間違いなく勝てただろ
わずか34500の寡兵に29万の大軍がありながら全く自力では手も足も出ず一柳堀尾嫡男前だ重臣平岩弟依田戦死に
氏家負傷とアホっぷりを晒してたし
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料に小田原城兵1000とある。
5万とか書いてるのは豊臣軍記のデッチあげだし、当時の豊臣と北条の国力からいうと
12倍くらいは兵力差ないとおかしいからな。北条は会戦そうそう皆川などが寝返ってるし
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
750 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:41:32.82 ID:zqej9s5h
秀吉厨の嘘を一つ一つ張ってやるよ
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
751 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 12:44:09.39 ID:zqej9s5h
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
752 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 05:34:56.43 ID:JECkt4Ba
徳川家康の勝ち。
家康は神
以上
753 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 13:58:16.25 ID:WlGhKTf2
当時80万石程度の死ぬ寸前の老いぼれ利家にビビって妥協した家康w
754 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 18:14:33.28 ID:F70kVk0/
これが だが って奴か?
755 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 18:34:01.43 ID:OaILB2aA
756 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 04:24:55.68 ID:qkizjI0T
尾張出身
源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、前田利家、柴田勝家、丹羽長秀、佐々成政、
加藤清正、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊、浅野長政、池田輝政、堀尾吉晴など
三河出身
足利氏、徳川家康、本多正信、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政など
すべて愛知ケンミンだ
愛知県はお寺の数、城・城跡・武家屋敷の数が全国1位
「三河家康vs尾張利家」
757 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 05:19:43.54 ID:iI8RAqyq
>>756 足利「氏」w
ノブヤボで覚えたんだろうからノブヤボに出てきそうに無い範囲なんて書かなきゃ良いのに
758 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 22:21:36.16 ID:XShPwHVm
関が原以降幕末まで外様の前田家がなぜ大藩のまま無事なの?
家康もその後の幕府も前田家に甘くないですか?
759 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 09:03:48.73 ID:f+9wisLQ
親戚化したからだろ
760 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 10:52:38.34 ID:mRs8pq2S
義理人情があり過ぎる利家は寝返るタイミングが悪過ぎた。
丹羽長秀なんて腹が痛くて我慢出来ずに切腹したらデカイ尿路結石が出たようだが、
その死に方を勝家の祟りと噂されていた。
長秀みたいに柴田を裏切ってハッキリ秀吉に付いていたら、
利家も後世になって糾弾されて評判が下がることは無かった。
しかし能登と言う場所に孤立し、
入口が越前の柴田に制せられていたので孤立していた以上、
冬期になると若狭が封鎖されてしまうので柴田に従うしかなかったのであろう。
しかし戦に関しては金をケチり少ない手勢で大きな軍功を上げており、家康よりは強いし、
ソロバンと金が大好きな利家には浅草寺遂行のための補給を含めた戦時経済のロジェスティックも理解していただろう。
また伊達や堀などに金を貸していたので、
借金チャラ取引する裏技も持っていた。
761 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 12:29:06.36 ID:9NF1dq2C
戦争の最中に寝返るなんて卑怯者もいい所じゃん。
前田が義理人情とかネタかと。
762 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 12:33:31.06 ID:nGhnwW9O
>>戦に関しては金をケチり少ない手勢で大きな軍功を上げており
そんな事全くやってねーよ。
前田なんて織田豊臣の金魚の糞で、ハエのようにつきまとうだけだった雑魚が
自力であげた軍功なんてねーだろ。
>>家康よりは強い
家康を強いとは全く思わんが、前田は徳川家内でいえば柴田康忠、保科正直、岡部長盛レベルの雑魚だろ。
織田家中でいえば、無能な信雄よりも直接対決の結果から遥かに戦下手の秀吉より遥かに格下なんだから。
763 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 12:40:31.09 ID:nGhnwW9O
信長の火事場泥棒で織田家の領土が増えたので前田みたいな雑魚の領土も相対的に広がっただけ
信長の火事場泥棒の恩恵で川尻や森や毛利秀頼みたいな雑魚でものし上がってるしな
764 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 12:46:55.44 ID:LHFmAveR
信長の火事場泥棒のおこぼれに預かっただけのたいした戦功もない雑魚が家康より上になるんだ?
しかも信長が弱りきった斉藤やら北畠やら六角領やら火事場泥棒したり完全にお膳立てされた状宅でもって版図が広がったおかげで
家臣の領土も相対的に大きくなっただけじゃねぇかw
そもそも佐々の兵力が利家の数倍なんて常山紀談とか講談の類じゃねぇかw
佐々軍は奥村の城攻めに手こずって疲弊した所を背後から利家が新手で入場しただけでほとんど篭城戦だし奥村のおかげみたいなもんだろうがw
末森合戦て佐々が末森攻撃→落城寸前で利家到着・佐々の背後を襲撃して入城
→長連龍が援軍として到着したため佐々は越中に退却せざるをえなくなったというだけだしほとんど利家は関係ないし
篭城戦じゃねぇかw篭城戦での撃退含めるなら信長はどんだけ敗戦が増えるんだよ
765 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 13:40:32.57 ID:7UPu7rHM
信長の火事場泥棒のおこぼれに預かっただけのたいした戦功もない雑魚家康www
766 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 15:06:00.60 ID:9NF1dq2C
家康は最強武田軍相手にほとんど援軍も得られない状況で長年敢闘してきたじゃん。
姉川や滋賀の陣や上洛戦や金ヶ崎合戦でも活躍してるし
信長から見捨てられても、信長を見捨てず、武田に寝返らず、よく戦ったと思うわ
767 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 15:55:21.17 ID:tFETHIqT
武田が最強?菅沼遼太理論かな?
768 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 12:26:05.46 ID:cN8hx+yf
>>767 実際最強じゃね?
まさにあちこちで戦争してる信長
加賀、能登の征服と庄内の征服と北信濃の安定と関東の引っ掻き回しでパンクしてる謙信
小田原の引きこもり
戦争をやらかす勢力としては武田一強だろ
769 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 12:53:33.12 ID:U4peuoPk
越前にいた柴田と違い、
一向宗の巣窟加賀の先に領地ある
能登の利家と越中の佐々成政はかなり苦労してると思う。
石山本願寺が勅命和睦を認めた際に、
石山本願寺から加賀へ武装解除命令が出て、
織田に従うことになった際に、
柴田らは降伏した一向宗を騙し討ちして加賀を平定したから、
加賀の平定は楽だったとは言え、
欺いて殺戮しただけに能登と越中の一向宗は激怒しただろうからね。
謙信死去後の内乱で弱体化した上杉が北陸戦線に派兵する余裕が喪失したとは言え、
地元ではかなりの抵抗があったようだし。
国を維持することはかなり厳しかったと思う。
三河一向一揆なんて北陸一向一揆に比べたら比較にならんくらいヌルかったろう。
770 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 15:02:54.02 ID:RpaBft7Q
柴田軍団の一角として、御館の乱や新発田の乱で上杉の介入がなくなり
長連龍・神保長縄・神保長住ら地元の諸侯や斉藤ら飛騨口別働隊の奮戦で
御館の乱終結後の天正8年くらいまでには越中や能登の国人は大半が織田方に帰順する有様だし
北陸戦線ほどヌルゲーだったのはなかっただろ。
何せ上杉の内乱が終結した後も、揚北の黒川清実らが延々と景勝に抗戦し
それを討伐したと思ったら新発田が挙兵する有様。
おまけに飛騨口からも続々援軍くるし、織田家からは長や神保や佐々長縄らが派遣されてきて
彼らの活躍で越中能登は織田が火事場ドロできただけ。前田なんて何もやってねーじゃん。
家康が凄いとは全く思わんけど、大国・強敵である武田相手にわずかな国力で織田の援軍もろくに得られない中長年敢闘してきたんだし
前田みたいな雑魚と比較されるとか、ありえんわ。
771 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 23:37:37.32 ID:c1AjIWrn
おまけに飛騨口からも続々援軍くるし、
おいおいw続々とやってきた援軍ってどいつらだよ一次史料で続々と教えてくれ。
だいたい越中は柴田らが魚津城包囲などで兵力集中させたりもしてるが、
能登はほとんど支援受けてないだろよ。
772 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 02:30:24.57 ID:Mu/YUtsS
ソースは知らんけど富山県史とか郷土史の類に金森やら佐々長縄やら斉藤やらが送られてきたって書かれてるぞ。
あと信長公記でも月岡野合戦が起こっているように(合戦の詳細や結果は捏造くさいが)越中方面に飛騨口ルートで援軍が送られてきたんだろ。
ついでに能登なんて長連龍らが孤軍奮闘で活躍したおかげで御館の乱や其の後の内乱終結後に国人が続々織田方に帰参するようになっただけで
前田なんて何もやってねーよ。
773 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 02:32:56.11 ID:7xtZr54e
前田の活躍とやらをさっさと一次資料で示してみろよ。
そんなもんねーだろうが。
774 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 02:36:08.51 ID:cODYHGzL
前田は典型的な棚ボタ他力本願大名だからなあ
家康も似た所あるかもしれないけど、前田に比べりゃ遥かに苦労させられてるし
同情したくなるわ
775 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 02:46:39.45 ID:Gad2yoUH
>>772 そういえば谷口克弘氏も似たような事書いてた気がするわ
776 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 15:46:15.78 ID:+HrKN6Hi
長連龍って誰だよ?軍記話のネタ武将の話してんのか?
長好連のことを指してるのか?
好連なんて天正8年5月に鹿島郡菱脇で敵を排除した功績で、
信長から鹿島半国を与えられたと長家家譜に書いてマンセーしてるくらいしかめぼしい武功無いんだがw
だいたい前田配下の長連竜だから、
前田が連竜を指揮して苦労して頑張っていたことと変わらん。
むしろ前田は魚津城包囲に参加中に、
背後で長景連が一揆を率いて能登棚木城を占拠した際の5/22に完全鎮圧の即反応ぶりや、
信長死亡を知り上杉が遊佐や三宅や温井らに援軍を与えて船で能登上陸して、
天平寺衆の荒山・石動山と呼応した際の、
荒山と石動山の間の芝峠進出による合流阻止の分断戦略など辣腕ぶりを発揮してんじゃん。
石動山大行院を攻めて利家は天平寺大伽藍を焼き尽くし、僧を大虐殺して回ったので、
比叡山壊滅させた信長の再来と民衆から恐怖され、
この見せしめを最後に能登は安定している。
なにせ天平寺の信仰圏は加賀、能登、越中、飛騨、信濃の山岳信仰の権威だったからね。
この大虐殺は加賀藩が歴史から隠蔽していたくらいの加賀能登越中の人々への超虐殺大会。
777 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 15:56:02.18 ID:+HrKN6Hi
あぁそうだ出典史料は、
中谷藤作氏所蔵文書や、
長氏古文書類簒や、
加能越古文業だな。
778 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 18:27:20.35 ID:Mu/YUtsS
>>好連なんて天正8年5月に鹿島郡菱脇で敵を排除した功績で、
>>信長から鹿島半国を与えられたと長家家譜に書いてマンセーしてるくらいしかめぼしい武功無い
能登平定で一番大変なのが能登に足がかり作ることだから能登で大暴れして
確かな地盤作った長の功責はでかいだろ。利家ははっきり言って何もやってない。
>>前田配下の長連竜だから前田が連竜を指揮して苦労して頑張っていたことと変わらん。
だから利家の奮戦とやらを資料つきで書いてみろよ。
利家と関係ない所で長が敵地のど真ん中で苦労して七尾城で遊佐や小島など上杉方国人相手に孤軍奮闘してただけじゃん。
>>背後で長景連が一揆を率いて能登棚木城を占拠した際の5/22に完全鎮圧の即反応ぶりや、
ソースは?
>>信長死亡を知り上杉が遊佐や三宅や温井らに援軍を与えて船で能登上陸して天平寺衆の荒山・石動山と呼応
ソースは?上杉なんてその時期信濃方面に出兵してたし阿賀北に出兵したり陸路で佐々とやりあったり
葦名と戦ってたり忙し過ぎて、能登上陸に兵力さけるわけねーだろ。
>>荒山と石動山の間の芝峠進出による合流阻止の分断戦略
そんな事やってない。つか能登は一時的に一揆軍が所どころおきただけで基本本能寺の変前で治まっている。
前田の功責と関係なく上杉が極度に弱体化した後織田の侵攻や天正壬午の出兵やら御館の乱の後始末やらでクタクタに弱ってたからな。
>>天平寺の信仰圏は加賀、能登、越中、飛騨、信濃の山岳信仰の権威
それで能登の混乱っぷりや、利家の辣腕ぶりがわかる史料とそれを確認できる本は?
加能史料とか漁っても利家の活躍なんて全く出てこないんだがw
779 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 18:33:00.21 ID:i3wHOWgJ
加賀と違って能登や越中は信長がキレまくって本能寺前に三宅・小島・寺崎・石黒・温井といった国人連中を安土に呼び出しまくって
騙まし討ち粛清と、城割り(城破却)政策やりまくって、国人の力を極端に削いでたから
利家からすれば、敵方がこもるべき拠点もろくになく、平定は楽勝だっただろう。何せ前線では佐々が対上杉で頑張ってて
上杉は信濃方面最優先で下越にも敵がいたから侵攻の恐れが全くなかったしね。
利家もこの辺をうまく利用して、末森合戦のあっと天正12年とか、上杉や丹羽らとうまく連携取りながら
奥村の奮戦のおかげで、末森城で超寡兵にもかかわらず佐々を釘付けにできたし
利家は背後から末森攻めで疲弊しきった成政を強襲できたので、何とか末森防衛に成功しただけ。
780 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 18:38:43.25 ID:Mu/YUtsS
敵との前線では佐々が奮戦して敵を食い止め、その佐々にすら上杉は中々侵攻してこない。
しかも国内は城破却政策と国人粛清で国人の力0。柴田勝家が総動員すれば45000も集まり
利家はその中での一角。
超絶ラクな位置にいたんだな利家。利家の人生ほどヌルゲーな物はないよな。
781 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 20:16:27.65 ID:7uk578ev
こんな所でアンチ秀吉のキチガイが家康マンセー自演してやがるw
北条貶しの他にも前田貶しもやってるのかお前w
つか越中国人の寺崎と石黒は信長公記で信長に呼び出されて殺されたと書いてるが、
越中国人の小島や能登国人々の三宅・温井は、
呼び出されてさえいないだろ。
なんで平然と嘘を書くんだキチガイ。
782 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 20:39:52.56 ID:Mu/YUtsS
確か小島・温井・三宅らは信長に騙まし討ちさそうになってにげたんじゃなかったっけ?
783 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 22:47:03.62 ID:McJzrADr
i3wHOWgJの大ウソレスの言い訳をするMu/YUtsS
あからさまに同一人物なのがバレバレw
低脳過ぎてワロタw
784 :
人間七七四年:2013/12/30(月) 23:15:36.42 ID:Mu/YUtsS
いや信長と消えた家臣達だったと思うが他の国人連中も、信長の行動にビビリまくって城を放棄して逃げ出したとか
書いてたと思うが
785 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 01:34:35.57 ID:LL6y3W6p
そんなこと一切書かれてないわ。
また歴史コリエイトか。
786 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 08:58:24.04 ID:QqqdQG+p
>>781 この基地害は日本史板の石田三成襲撃事件レスでも論破された挙句に、
火病爆撃コピペで誤魔化しているぞwww
まじ醜い姿が拝めるwww
全て極悪人三成が悪い説を論破され、
続いて秀吉と家康が戦った天正12年戦役でも論破されてるwww
787 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 09:11:29.61 ID:PCWD06r+
788 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 09:14:56.83 ID:Gv7qchwB
>>787 秀吉マンセー馬鹿の余りに酷い蹴散らされっぷりにワロタw
789 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 11:36:07.23 ID:QqqdQG+p
キチガイが釣れてるwww
単発ID自演24時間自宅警備員さすがw
790 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 14:27:49.11 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
791 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 15:03:20.53 ID:2Q3S9Txl
うわあ...
792 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 15:18:21.51 ID:PCWD06r+
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
793 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 18:14:40.02 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
794 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 18:54:44.22 ID:Gv7qchwB
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
795 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 21:11:16.77 ID:Gv7qchwB
>>家康は追い詰められてた
それは完全に秀吉の方だな
何せ長久手合戦後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
796 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 21:29:30.03 ID:Gv7qchwB
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717 >>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
797 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 09:55:58.70 ID:U7hNo7uX
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
蟹江城を取り尾張への
中入り戦略なんて、
太閤記には、
「滝川思ふやう、蟹江之城を調略し尾州に至て中入をし、家康卿などおびやかし見むと謀て」
などと滝川が勝手に妄想して行動し自爆した話に出てくるだけで、
太閤記でさえ、秀吉の了解していた話じゃないし、
三河物語でも滝川が秀吉と連携していたなんて全く書いてないのになwww
一次史料どころか、三河物語や太閤記にすら秀吉が事前に知っていた戦略なんて書いてない。
だから秀吉は尾張にいる滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つとさっさと伊勢に陣替えしてる。
秀吉了解での蟹江中入り策など完全なまでに妄想。
6/10秀吉→石川
これ偽書状で有名じゃん。
秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、
多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
もしくは、
顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレ
などを読んで、6/10に落城した竹鼻城を秀吉自ら請取ったと誤読して偽書状を作製しただけ。
実際の秀吉は美濃にいて、
6/9に美濃墨俣で戦勝の茶会を宗無、宗二、宗及を呼んで楽しんでから、
6/11もしくは6/12に美濃大垣へ入馬したのが秀吉と同道していた秀包書状でわかる。
三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は、
大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
大久保がリアルタイムで石川の心読出来る異能者なんて主張すんなよw
798 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 11:21:46.75 ID:AoWLDdn1
>>6/10秀吉→石川 これ偽書状で有名じゃん。秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
>>もしくは、 顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレなどを読んで、秀吉が6/10に竹鼻城を落城させたと誤読して偽書状を作製した
誰がそんな事書いてるわけ?
時分の脳内設定には興味ないんで、論文か史料をあげてくれ。
>>三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
同上。大久保の回顧録に当たる三河物語が、適当だという論拠を出せ。
つかお前金が崎では三河物語を直接ソースに持ち出してただろうが。
>>尾張への 中入り戦略
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
799 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 11:25:30.71 ID:9ZJMkYEW
7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
・滝川家臣でもない九鬼が滝川と一緒に行動してる
同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら九鬼と同時に九鬼が兵出すわけない
・秀吉は滝川の蟹江奪取に対して兵糧を搬入しようとしてる(顕如日記)
・滝川と秀吉は同盟関係ではなく、れっきとした主従関係。滝川の独断行動なんてできるわけがない。
・滝川の退城につき、秀吉は出兵日を7月から8月改めてる(滝川の行動が秀吉の戦略と無関係ならわざわざそんな必要は全くなく
無視して予定通り攻め込めばいいだけ。)
・蟹江は信雄と家康を分断できる丁度よい位置にあり伊勢方面に侵攻かける場合も尾張方面に侵攻かける場合にも超重要な拠点になる
蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいい
・秀吉は滝川の行動当時6/16蟹江から眼前にある大垣にいた。その後もしばらく大垣におり、佐和山に移った後帰ってる
・史料読む限り秀吉の侵攻目標は一貫して三河・遠江方面なので、小牧山の家康を手薄にする意味でも
蟹江は超重要な拠点になる
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高
800 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 12:12:57.35 ID:U7hNo7uX
在日基地外理論
家康に秀吉は旭姫を人質として出して婚姻した。
へぇ、じゃあ義元は家康に瀬名姫を人質に出したのかね?
家康は多却姫を保科正直
家康は亀姫を奥平信昌
家康は督姫を北条氏直や池田輝政
家康は振姫を蒲生秀行
家康は氏姫を蜂須賀至鎮
家康は栄姫を黒田長政
家康はかな姫を加藤清正
家康は上記の人々などに相次いで人質を出していたのかね?
婚姻を結び正室を出し縁者になると、
正室を出した方は人質を出したことを意味するなら、
大名たちは姫を出そうとは思わないだろうね。
でも実際は逆で、
ふつうは正妻と一緒に家臣もやってきて政治に口を出し、
正室の父は外戚として権力を振るう側だから、
正妻選びでは妻の実家が乗っ取りを謀るような野心家であるのを避けようとするよね。
朝日姫は家康に嫁いだ時はまだ43歳以下だったとされているから、
まだガキが出来る可能性あったんだよね。
ガキが出来てたら間違いなく徳川を継ぐことになったよな。
そもそも瀬名姫を殺した後も、
家康はガキ作りまくってるし全く正室がいなかったわけないし、
泣き泣き止むを得ず正室から側室に格下げになったやついただろうね。
801 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 12:36:51.43 ID:MUjBk8jU
6/10秀吉→石川
って三鬼清一郎氏の豊臣秀吉文書目録でもしっかり一次資料認定されてるんだが。
秀吉からすれば、貴重な血縁者の1人を家康に差し出す事になり、大損。
家康からいえば豊臣政権簒奪のチャンスの大義名分を得る事になり、大得。
朝日姫は、豊臣政権に忠義者である石田増田など近江組や福島加藤らの尾張組など
秀吉の子飼いに与える方が遥かに望ましい。
外様中の外様にやっても家を簒奪させる名分ができて、豊臣政権として危険なだけ。
その危険な政策をやらざるをえないほど追い込まれてたのが秀吉。
家康は娘が一杯いるけど、秀吉は娘0で血縁者も少ない
意味合いが全く違うわな
802 :
人間七七四年:2014/01/01(水) 12:40:49.22 ID:9ZJMkYEW
>>秀吉は尾張にいる滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つとさっさと伊勢に陣替え
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>>秀吉は6/8に墨俣で茶会
東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
803 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 10:37:59.31 ID:WOB/W9tr
軍記太閤記の中で滝川が中入りについて思ったことを参考に、
すげー拡大妄想を広げて、
秀吉による中入り戦略に飛躍する馬鹿馬鹿しさから判断するに、
軍記大好きな老人世代なんかな。
804 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 11:03:07.70 ID:WOB/W9tr
秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣
上記のすげーいい加減な発言がまた痛すぎるwww
秀吉が長島へ向けて南下戦略をとった結果、
秀吉にとっての最前線が地図で言えば、
一宮市の西方に位置する加賀野井城の水攻め最中。
それなのにどうやって信雄のいる長島と家康のいる清州のちょうど中間点の蟹江なんて敵中深くに侵攻出来んだよwww
蟹江なんて志摩から九鬼水軍が入れる程でもう海に近い場所なのにw
そもそも吉村氏吉の松ノ木城が邪魔で蟹江に向けての南下は不可能なのも分からんとか無知過ぐるwwwww
そんな現時点で実現出来ない計画をするわけねーだろwww
805 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:20:54.52 ID:fhJET2F8
大垣から蟹江は間違いなく半日で行軍可能。
秀吉は近江の土山〜伊勢楠本(松坂市)をわずか1日
伊勢楠本〜同国神戸をわずか半日
神戸〜土山をわずか一日
坂本〜大坂もわずか1日の時間で行軍してる
大垣蟹江間はわずか20キロ程度で、当時の平均的な一日の行軍速度はおよそ50キロだから
半日あれば余裕で行軍可能。
蟹江合戦当時加賀野井城・竹鼻城・奥城と木曽川筋の3城は落城済みで邪魔な敵の拠点もないし
九鬼は秀吉方だから制海権もしっかり握ってる。
>>吉村氏吉の松ノ木城が邪魔
吉村のいたのは尾張海西郡の中で、今尾の地に隣接した現海津市近辺と考えられるが
滝川が使った西周りルートで行軍するか、あるいは稲沢市などを経由した東周りルートで行軍すればいいだけじゃん。
すでに松ノ木城近辺の諸侯は3月時点せ秀吉方についてるし祖父江氏も両毛利氏も秀吉方だし。
竹鼻〜稲沢市ルートなら途中邪魔な拠点もろくにないし。
806 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:25:37.59 ID:fhJET2F8
蟹江合戦が滝川の単独行動というのは絶対にありえない。
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
807 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:25:52.36 ID:TBh/4L9x
・滝川家臣でもない九鬼が滝川と一緒に行動してる
同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら九鬼と同時に九鬼が兵出すわけない
・秀吉は滝川の蟹江奪取に対して兵糧を搬入しようとしてる(顕如日記)
・滝川と秀吉は同盟関係ではなく、れっきとした主従関係。滝川の独断行動なんてできるわけがない。
・滝川の退城につき、秀吉は出兵日を7月から8月改めてる(滝川の行動が秀吉の戦略と無関係ならわざわざそんな必要は全くなく
無視して予定通り攻め込めばいいだけ。)
・蟹江は信雄と家康を分断できる丁度よい位置にあり伊勢方面に侵攻かける場合も尾張方面に侵攻かける場合にも超重要な拠点になる
蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいい
・秀吉は滝川の行動当時6/16蟹江から眼前にある大垣にいた。その後もしばらく大垣におり、佐和山に移った後帰ってる
・史料読む限り秀吉の侵攻目標は一貫して三河・遠江方面なので、小牧山の家康を手薄にする意味でも
蟹江は超重要な拠点になる
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
808 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:26:47.28 ID:3wyLikkH
>>蟹江城を取り尾張への 中入り戦略
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
809 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:28:34.51 ID:3wyLikkH
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
810 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:46:28.94 ID:K6UN9TNF
加賀野井城から蟹江までかなり距離がある上に
その間に城郭や砦がまったく存在してないわけもなく、
しかも無理に進もうとすれば、松ノ木城方が背後を扼してしまうから
現実的に実行不可能だわな。
ただでさえ、野戦決戦を望んで家康らを引き出す目的で、
危険を冒して木曽川を渡河して挑発しているのが秀吉だからな。
それ以上、深く進攻するなんて馬鹿はやらないわな。
伊勢長島へ向けて木曽川の西岸を南下するのが本来の戦略で、
加賀野井城は対岸にあるから側面を襲われ邪魔されないように落しただけだからな。
加賀野井城・竹鼻城・奥城へ援軍にこないで悔し涙で引き篭もりを続ける家康を完全に小ばかにして臆病者って挑発してる。
811 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:47:52.63 ID:xkZNdeSb
吉村氏吉なんて3000貫そこそこの雑魚領主なのにそんなとこもさっさと落せない秀吉が悪いだけだろ。
兵力でいってもたかがしれてて無視できる規模でしかないんだし
留守居部隊6000〜8000くらい貼り付けて動けなくした上で
自分は竹鼻→加賀野井→稲沢市と東周りルートで大軍で滝川の後詰に向かい
蟹江を東西から包みこむように兵を展開すれば家康なんて簡単に瞬殺可能だろ。
それと同時に楽田に残してある留守居部隊に小牧山やその周辺の砦襲わせれば
その周囲は簡単に陥落するだろうし、秀吉軍は規格外の兵力があるから兵の3分の1くらいをそっちに割いてもいいし。
いくらでも戦略の幅はあるし、尾張での情勢を一気に変化できる大チャンスを滝川が作ったのにむざむざ無駄にして前田・下市場・蟹江3城を奪回され、
三河侵攻計画を延期して、神戸などに在番衆をおいて大坂にヘタレ敗走するアホっぷり。
無能すぎて涙が出てくるな。
812 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:54:40.15 ID:xkZNdeSb
加賀野井城から蟹江はわずか20キロ程度。
その間に目立った信雄方拠点はなく、吉村は勢力規模的に秀吉から無視できる距離
また、秀吉の奥城や加賀野井城攻略は全くといっていいほど危険を冒していないどころか、
家康を罠にはめようとしてるだけの攻略。
>>伊勢長島へ向けて木曽川の西岸を南下するのが本来の戦略
秀吉の戦略は一貫して三河・遠江方面への侵攻。これは
>>808-809でわかる。
>>加賀野井城・竹鼻城・奥城へ援軍にこないで悔し涙で引き篭もりを続ける家康
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
813 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 13:57:28.37 ID:3wyLikkH
家康が蟹江・前田などを攻めてるんだから野戦決戦を行うにはこれとないチャンスじゃん。
蟹江方面に東西から侵攻すれば、家康は背後を絶たれて退却不可能になる。
信雄が出てきたら両者とも一度に叩き潰せばいいだけだし、蟹江や前田や下市場が顕在なら
信雄と家康は分断されてて、連携も困難。連携しても兵力差が規格外だから勝負にすらならない。
814 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 14:06:02.20 ID:xkZNdeSb
秀吉方の大浦城から至近距離にある奥・加賀野井・竹鼻攻めを「危険を冒した渡河での城攻め」などとは言わん。
進退の自由の効かないデルタ地帯での戦闘になれば100%危険なのは寡兵の徳川方だし
家康のいた清洲や小牧山からの方が遥かに距離は長いし、尾張北西部や美濃に領地のない家康は地理にも不案内。
だからこそ秀吉は『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わっただけだし。
815 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 14:13:43.11 ID:wt5MB6FY
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
816 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 16:09:58.66 ID:xkZNdeSb
20キロ程度の行程なら、途中で拠点や砦を堅固に普請させたり放火や苅田や城攻めを行いながらの行軍でも
2〜3日程度もあれば余裕で行軍可能。
4/6に楽田を出発してから、小幡城や岩崎城を攻めたりあたりを放火させたり
柏井や大草、龍泉寺山城などを根城にして堅固に普請させながらの行軍で、
4/9朝で岩崎城より大分南の地点まで行軍完了してる。
急行軍なら、4/9の正午頃に敗報に接してから楽田を進発した秀吉が、その日の夜にもならないうちに
小幡城近辺まで達したように、半日どころか4時間程度で行軍可能だと思われる。
817 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 18:28:52.96 ID:Vy7Dw6e7
秀吉にとって自軍の城が周囲に全くない家康らの勢力圏内であるにも関わらず、
秀吉はさらにリスクある木曽川を背後に背負う背水の陣で加賀野井などを攻めている。
それは家康と野戦決戦したいからリスクを取ってる。
なぜなら城や砦をいちいち攻略して行くのは、
時間がかかるし、兵力の消耗するからである。
しかしそれをやれば年内に確実に長島へ着くことは可能であった。
一方、家康らには全く展望がなく、ひたすら引きこもりを続けるだけで何ら策がない。
家康が戦局打開するには野戦で勝つしかなく、
秀吉はそのチャンスを与えるリスクを取り、
家康が来るのを待っている状態。
一気に秀吉は勝敗をつけたがった。
しかしヘタレ家康は味方を見捨て続けるだけで終わり、
なにか奇跡が起きることを寝返った。
しかし、ついに長島に至った秀吉に信雄は降伏する。
家康はなんら信雄が降伏しないように支えることが出来ず、
無策のままに天正12年は終わった。
結局、家康は堀を深くし、土塀を高く積み上げ普請を続けただけだった。
818 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 18:44:56.45 ID:fhJET2F8
>>秀吉にとって自軍の城が周囲に全くない家康らの勢力圏内
秀吉方の大浦城から至近距離にある奥・加賀野井・竹鼻攻めを「危険を冒した渡河での城攻め」などとは言わん。
進退の自由の効かないデルタ地帯での戦闘になれば100%危険なのは寡兵の徳川方だし
家康のいた清洲や小牧山からの方が遥かに距離は長いし、尾張北西部や美濃に領地のない家康は地理にも不案内。
だからこそ秀吉は『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わっただけだし。
ついでに徳川方は小牧山周辺の砦に秀吉方留守居部隊2万人以上残された状態だから放っておいても動けない状態。
徳川方からすれば8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>さらにリスクある木曽川を背後に背負う背水の陣で加賀野井などを攻め
大浦城から加賀野井城は木曽川なんて超える必要のない位置であり眼前の距離
また、徳川方は遥かに遠い小牧山や清洲にいる上に、木曽川筋の後詰を行うとなれば
小牧山周辺の砦を放棄するも同じだから、ほとんど自殺行為。
>>城や砦をいちいち攻略して行くのは時間がかかるし、兵力の消耗
それは城や砦に巨大な兵力がいる時に限った話であり、加賀野井・竹鼻や松ノ木みたいな
数千貫そこそこの雑魚領主やよくて3000そこそこしかいない雑魚城を瞬殺する場合には話は別。
819 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 18:45:03.52 ID:OtgvOVSA
>>それをやれば年内に確実に長島へ着くことは可能であった
松ノ木城や戸木城みたいな雑魚領主や500そこそこの寡兵しか篭もってない所すらまともに攻撃しても落せてないのに
そんな妄想言われても。秀吉方は尾張国内で赤見・島東・奈良・小折・河波など派手に暴れまわっていたが
全くといっていいほど自力では切り取れていないじゃん。
会戦早々から伊勢でも尾張でも美濃でも離反の連鎖で信雄領国なんて崩壊状態だし
家康もただでさえ少ない兵力のうち半分を夏には領国に返すほど規格外の兵力差があったのにな。
>>一方、家康らには全く展望がなく、ひたすら引きこもりを続けるだけで何ら策がない。
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
820 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 18:55:18.00 ID:Vy7Dw6e7
大浦って城じゃねーだろカスw
美濃大羅にあった寺で、
戸島東蔵坊の寺内を借りて臨時に陣を構えただけのものだろが。
お前はそうやってチョコチョコとウソを吐くな。
821 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 18:56:07.36 ID:fhJET2F8
>>家康が戦局打開するには野戦で勝つしかなく
家康が戦局打開なんて家康や信雄が秀吉より遥かに戦上手でも到底無理。
野戦になれば城攻め以上に兵力差がモロに出るし、武器性能差も直接的に影響するから
それこそ秀吉の指揮能力が信雄の1000分の1くらいの実力じゃなきゃ無理。
>>秀吉はそのチャンスを与えるリスクを取り
木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯での野戦になれば有利になるのは100%秀吉の方。
退路を絶たれて徳川方は全滅の危険すら出てくる。家康がいた小牧山やその周辺の砦には2万以上留守居部隊がいた上に
家康は尾張北西部や美濃に領地がなく、地理不案内だし。
>>一気に秀吉は勝敗をつけたがった。
それなら自分から小牧山やその周辺の砦に攻め込んで、直接対決を行えば済む話。
小幡・森山・比良あたりを落した上で、信雄方拠点の小折・宇多津・田楽・蟹清水・北外山などを一つ一つ兵力を集中して
葬っていけば、家康は周囲の拠点が全くない状態になっていき、自然と孤立して立ち枯れる。
それができずに、家康を小牧山周辺の砦に大量に兵力残して動けなくした上に、
家康が絶対出てくる事のできない木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所を
ダラダラ攻めて家康に100%勝てる状態で罠を張って待ち構えてたが、家康は「馬鹿か。そんなとこいかねーよ」
とばかりに無視してそのまま清洲や楽田に居座り続けたり、蟹江・前田・下市場など秀吉方拠点を逆に奪回してただけ。
>>ヘタレ家康は味方を見捨て続けるだけで
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
822 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 18:59:59.79 ID:fhJET2F8
>>820 ハイハイ、無知乙。
4/11秀吉→田中・石川・谷・伊藤や同日秀吉→河合でも読んで来てから出なおしな。
823 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:00:24.85 ID:Vy7Dw6e7
デルタ地帯も何も、
木曽川はまだ大氾濫で東に位置がズレてないんですがwww
824 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:01:57.33 ID:fhJET2F8
>>長島に至った秀吉に信雄は降伏
信雄はそもそも停戦しただけで降伏なんてしてねーよクズ
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
825 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:02:52.30 ID:OtgvOVSA
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
826 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:03:47.28 ID:6EPYehsT
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
827 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:06:38.32 ID:wt5MB6FY
>>823 小牧長久手の戦いの構造の論文やそれに載ってる当時の木曽川筋の地図などを参照してるんだが、
お前は当時の木曽川筋の城郭や大河との位置関係をどうだったと主張してるわけ?
ソース元の史料と一緒に提示してくれ。
828 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:07:41.62 ID:OtgvOVSA
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
829 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:11:42.48 ID:Vy7Dw6e7
>>822 そんなの知ってるわアホ
臨時に陣を構えただけのもんだから、羽柴秀勝勢のうち、
たかが300しか入れ置けないレベルじゃんw
だから翌日の4/12には伊藤牛介だけを在番させることに替えたじゃんよ。
830 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:13:18.66 ID:xkZNdeSb
831 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:22:51.38 ID:xkZNdeSb
>>829 >>臨時に陣を構えただけ
根拠なし。史料に城と書いてるからちゃんと城とみるのが妥当。
>>たかが300しか入れ置けない
大浦城は「境目」に属するのでこの時期「馳走が寛容」と秀吉が言ってるほど重要かつ
4/12秀吉→秀勝では「大浦城があるので他所の普請は不要」とまで言ってる。
つか大浦城に巨大な兵力を駐屯させられないなら、城を築けばいいだけだろ。
楽田近辺に陣取った時も拠点を短期間で築きまくったし
楽田〜岩崎方面に中入りした部隊も次々に秀吉方拠点を堅固に拵えていったじゃんよ。
832 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 19:30:10.14 ID:xkZNdeSb
つか加賀の井城の周辺には大浦に加えて墨俣・太閤山・狐穴・富田・長池・矢上・福束・今尾・高洲と
秀吉方の城郭や陣城が馬鹿みたいに並んでて敵地の中で自軍の城が周囲に全くない家康らの勢力圏内とかないわ。
木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯での野戦になれば有利になるのは100%秀吉の方。
退路を絶たれて徳川方は全滅の危険すら出てくる。家康がいた小牧山やその周辺の砦には2万以上留守居部隊がいた上に
家康は尾張北西部や美濃に領地がなく、地理不案内だし。
徳川方からすれば8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
大浦城から加賀野井城は木曽川なんて超える必要のない位置であり眼前の距離
また、徳川方は遥かに遠い小牧山や清洲にいる上に、木曽川筋の後詰を行うとなれば
小牧山周辺の砦を放棄するも同じだから、ほとんど自殺行為。
833 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 20:48:10.37 ID:wt5MB6FY
短期間で普請した小口・楽田・羽黒の3城にすら、2万の兵入れておけるんだし
大浦だけに大軍の召集が不可能というならその周辺に拠点を構築すればいいだけ。
実際楽田に布陣した時の秀吉はそうやって大軍を置いてるし
城攻めの時とか敵城の周辺に砦や根城を普請しまくって大軍で囲って敵が逃げられないようにしてる
834 :
人間七七四年:2014/01/02(木) 23:52:28.93 ID:6EPYehsT
2万どころか10万くらい尾張楽田近辺にいたほどだしねえ。楽田近辺に築いた即席の拠点でもこれだけ大軍収容可能なんだし
大浦城近辺だけなら収容不可能とかないわな。大浦城近辺に拠点を築けばいいだけ。
秀吉は伊勢から北尾張に陣替する際、留守居を除く全軍を北尾張に結集させてる
4/7秀吉→八重羽・富田・津川
陣立書一、3/28秀長→長秀書状
4/8秀吉→一柳や4/10筒井順慶書状
3/22渡辺清忠書状などでわかる。勿論甲賀方面の一柳らも一緒に尾張に行軍してる。
つか、そもそも瀬田や甲賀みたいな中途半端なところに軍置いたままにしておいて何の意味があるのかと。
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
835 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 00:15:57.98 ID:GaPyKQex
結局、助ける助ける詐欺で信雄を助けず、
引きこもり続けた家康は一方的に秀吉に押されまくって、
家康独立以来の譜代筆頭の酒井や石川や本多らの嫡男を人質に出して臣従を余儀なくされたんだろ。
そして人質取られたから、
高野山や長曾我部や佐々らを見捨てたんだよね。
最後は娘婿の北条まで見捨てるヘタレっぷりの家康。
島津や伊達も家康のヘタレっぷりにはかなり失望しただろうね。
戦国を終わらせたのは超ヘタレ家康が秀吉に対抗していた仲間を次々と見捨てたからだからね。
836 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 02:12:49.35 ID:ZnDYvD2I
利家とかザコすぎてw
せめて家康VS家康以外の四大老くらいでちょうどいい塩梅でないかい?
837 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 02:40:06.62 ID:i5LPmDkn
>>823 そうだよな。
当時はまだ木曽川東岸にあったと言えども、
西よりにあった竹鼻城はデルタ地帯だから、
水攻めが出来たが、
東よりにある加賀野井城は水攻めには向かなかったことからも、
当時の加賀野井城は現在と違い木曽川からだいぶ離れていたのがわかる。
838 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 07:42:39.13 ID:QXYzGwKV
無策なまま秀吉に戦いを挑んだ無責任バカ低脳家康。
839 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:13:13.54 ID:eJc+kPtZ
>>837 加賀野井城は池田らのとむらい合戦と位置づけてて、力攻めで皆殺しにする事を命じたから水攻めにしなかっただけじゃん。
国土地理院の「木曽川戦線概略図」でも「小牧長久手の戦いと在地社会の動向」でも
「天正12年の東海戦役における秀吉・信雄・家康の城郭戦略」でも加賀野井は木曽川の側の城と地図に書かれてる
840 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:18:51.58 ID:uDsza6CN
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
841 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:30:02.34 ID:eJc+kPtZ
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
842 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:31:24.81 ID:elVFrF44
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
843 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:32:36.58 ID:LzdZVXYV
>>835 信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
844 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:34:54.93 ID:LzdZVXYV
>>引きこもり続けた家康は一方的に秀吉に押されまく
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
845 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:35:49.97 ID:cEDHry0U
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
846 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:36:14.06 ID:eJc+kPtZ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
847 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:37:02.01 ID:vHJcxlsL
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
848 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:38:28.10 ID:vHJcxlsL
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
849 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:39:29.31 ID:cEDHry0U
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
850 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:41:06.65 ID:elVFrF44
秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
851 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:47:12.96 ID:elVFrF44
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
852 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:48:30.94 ID:elVFrF44
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は
>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦で戦術的勝利、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
853 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:52:40.28 ID:WE1dyRQD
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
854 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:54:38.37 ID:WE1dyRQD
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
855 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 11:58:11.13 ID:LzdZVXYV
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
家康はおろか織田家で最も無能な信雄相手に135000で挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木城・松ノ木城・河波城・東駒野城・二重掘砦では散々敗戦し
浜田城・長久保城・蟹江城・前田城・下市場城は秀吉方陣地のほど近くなのに見事に奪回されるアホっぷり。
雑魚すぎて涙が出てくるわw
結局会戦早々から三重臣、池田・森、尾張毛利氏はじめ離反の嵐だった信雄方に対して1年つかって自力では尾張半国すら切り取れないとかw
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
856 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 12:00:40.73 ID:WE1dyRQD
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
857 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 12:58:56.91 ID:eJc+kPtZ
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
858 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 12:59:39.01 ID:LzdZVXYV
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
859 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 13:55:22.16 ID:LzdZVXYV
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
>>天正12年の戦いで敗北した信雄
雑魚の信雄に、秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉の配下として、秀吉の意志を伝達する役割を与えられていて実質的に信雄が東国取次役
秀吉が、「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座する際の、取り成し役をやれやれと思ってやってただけ。
佐々攻めの際とか、家康の上洛要請の際とか、秀吉はギリギリまで家康討伐を考えていて、各大名に宛てて出兵計画立てまくってたが
直前になるとビビリまくって信雄に取り成し頼んだり、母や妹を差し出したりして家康に土下座してるのが秀吉。
860 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 13:56:31.65 ID:LzdZVXYV
>>親家康勢力はすべて屈服し、助け舟も出せず見殺しにした家康
なんで前の年に秀吉の顕如に必死に土下座してに和議に応じてやった後なのに
秀吉に自分から寡兵で攻め込まなきゃ無能になるんだよタコ
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>秀吉への取次窓口の信雄に切り捨てられることは滅亡を意味
史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
861 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 13:57:21.69 ID:cEDHry0U
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
862 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 13:58:57.35 ID:cEDHry0U
>>秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させ
全く屈服してねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
863 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 16:42:17.50 ID:cEDHry0U
>>人質秀康 家康と徳川家臣から人質を取った
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
864 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 16:43:49.20 ID:cEDHry0U
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
865 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 16:45:59.19 ID:jrZqe2y9
>>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
866 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 16:48:16.21 ID:jrZqe2y9
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
867 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 16:58:38.93 ID:R3gBKNWI
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
868 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:00:05.81 ID:R3gBKNWI
柴田滅亡後、丹羽長秀は123万石の大名になったが、
秀吉が天正11年9月に大坂城をとりあえずの完成になるや、
臣従の証として大坂登城の招きがあった。
丹羽長秀はそれに応じなかったので、
秀吉から上洛延引し在国していることを咎めれた。
そこで村上義明が秀吉へ弁明の使者として派遣され、
秀吉の怒りを解いている。
秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており、
天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させたとは言え、
臣従の証として家康の上洛を要求していた。
自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており、
何とか誤魔化していたが、それも限界がきて秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込まれるだけだった。
佐々を攻略した秀吉は、佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付け、
家康は家臣を浜松に集め人質提出の相談所をし、
秀吉も東美濃の軍備を強化し圧力をかけた。
それでも重臣が人質提出を拒否し、
家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走った。
と言うのも秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたからで、
丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に、
家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖でいっぱいだっただろう。
続いて小笠原も家康を見限り、
これを受けて秀吉は1/28には出陣準備を始めるが、
家康が再度、言い訳をしたので2/8に出陣を赦免している。
そして2/26に家康は北条に釈明に駿河へ行き、
どうしても死にたくない家康は、
命欲しさに上洛するから、殺されない保証として婚姻して縁戚になり、
上洛している最中だけ秀吉の母を預かる条件で、
上洛することを承諾するという、
命欲しさの家康は武将としては最悪な生き汚さを発揮。
ひたすら家康は死にたくないので、上洛を先延ばしし、
戦を背景に問い詰められると、言い訳をして表裏して誤魔化していた日本一恥ずかしい武将。
信雄もあからさまに家康を見限っていた程のビビり。
869 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:01:01.34 ID:R3gBKNWI
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。
870 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:02:34.24 ID:R3gBKNWI
在日基地外理論
家康に秀吉は旭姫を人質として出して婚姻した。
へぇ、じゃあ義元は家康に瀬名姫を人質に出したのかね?
家康は多却姫を保科正直
家康は亀姫を奥平信昌
家康は督姫を北条氏直や池田輝政
家康は振姫を蒲生秀行
家康は氏姫を蜂須賀至鎮
家康は栄姫を黒田長政
家康はかな姫を加藤清正
家康は上記の人々などに相次いで人質を出していたのかね?
婚姻を結び正室を出し縁者になると、
正室を出した方は人質を出したことを意味するなら、
大名たちは姫を出そうとは思わないだろうね。
でも実際は逆で、
ふつうは正妻と一緒に家臣もやってきて政治に口を出し、
正室の父は外戚として権力を振るう側だから、
正妻選びでは妻の実家が乗っ取りを謀るような野心家であるのを避けようとするよね。
朝日姫は家康に嫁いだ時はまだ43歳以下だったとされているから、
まだガキが出来る可能性あったんだよね。
ガキが出来てたら間違いなく徳川を継ぐことになったよな。
そもそも瀬名姫を殺した後も、
家康はガキ作りまくってるし全く正室がいなかったわけないし、
泣き泣き止むを得ず正室から側室に格下げになったやついただろうね。
実際、天正7年45歳で秀吉の姉の日秀が秀保を生んでるから、
朝日姫が家康の子を生む可能性が充分にあった。
秀吉は外戚として徳川家を操るつもりだったのは明らか
871 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:29:53.73 ID:cEDHry0U
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
872 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:31:02.66 ID:cEDHry0U
6/10秀吉→石川
って三鬼清一郎氏の豊臣秀吉文書目録でもしっかり一次資料認定されてるんだが。
秀吉からすれば、貴重な血縁者の1人を家康に差し出す事になり、大損。
家康からいえば豊臣政権簒奪のチャンスの大義名分を得る事になり、大得。
朝日姫は、豊臣政権に忠義者である石田増田など近江組や福島加藤らの尾張組など
秀吉の子飼いに与える方が遥かに望ましい。
外様中の外様にやっても家を簒奪させる名分ができて、豊臣政権として危険なだけ。
その危険な政策をやらざるをえないほど追い込まれてたのが秀吉。
家康は娘が一杯いるけど、秀吉は娘0で血縁者も少ない
意味合いが全く違うわな
873 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:32:28.70 ID:eJc+kPtZ
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
874 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:33:31.55 ID:eJc+kPtZ
>>秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させた
家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし
875 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:33:35.44 ID:w+MnDETL
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
876 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:34:31.61 ID:w+MnDETL
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込
表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
877 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:36:40.72 ID:vHJcxlsL
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
878 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:37:50.58 ID:vHJcxlsL
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
879 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:40:20.65 ID:vHJcxlsL
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込
表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
880 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:41:30.86 ID:LzdZVXYV
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。
史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
881 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:43:09.64 ID:LzdZVXYV
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
882 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:44:09.61 ID:LzdZVXYV
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
883 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:49:33.59 ID:5wQQOybj
>>秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)
>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。
884 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:52:03.54 ID:w+MnDETL
秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
885 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:55:06.72 ID:cEDHry0U
>>5/28の祝言日にも酒井忠次や本多忠勝や榊原康政がそっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した
それだけ家中では秀吉への臣従を拒む風潮があったが、家康が義理固く慈悲深い性格だったから、秀吉との盟約を重んじただけだろ。
>>謀反を恐れた家康
なぜ婚姻への反対=謀反になるのか意味が分からん。
>>いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れ
そんな事やってない。
>>信雄の面目が失われ、秀吉立腹
秀吉立腹も糞も、最初から秀吉としては規格外の兵力と、徳川領国の崩壊状態に付け込んで出兵するはずだったのが
直前になってビビリまくって信雄に仲介やってもらって母や妹を出しだして土下座したんだから、家康がそれに応じるも否かも家康次第。
土下座した秀吉が、一々腹を立てる筋合いなんぞない。
>>ビビった家康
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
886 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:56:29.96 ID:cEDHry0U
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
887 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:57:47.69 ID:uDsza6CN
>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込
表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
888 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:58:28.66 ID:elVFrF44
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
889 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 17:59:09.03 ID:LzdZVXYV
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
890 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 18:00:27.34 ID:LzdZVXYV
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
891 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 18:59:31.68 ID:R3gBKNWI
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
892 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:10:12.30 ID:LzdZVXYV
>>引きこもり続けた家康
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>一方的に秀吉に押されまくって
秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
893 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:11:58.67 ID:LzdZVXYV
>>家康独立以来の譜代筆頭の酒井や石川や本多らの嫡男を人質に出して臣従
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
>>人質取られた
人質なんて取られてねーよアホ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
894 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:13:47.10 ID:eJc+kPtZ
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
895 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:22:38.03 ID:LzdZVXYV
>>高野山や長曾我部や佐々らを見捨
なんで前の年に秀吉が顕如に必死に土下座して取り成しやってもらっての和議に家康が応じてやった後なのに
和睦を反故にして自国の14倍位の国力の秀吉に自分から寡兵で攻め込まなきゃ無能になるんだよタコ
>>最後は娘婿の北条まで見捨てるヘタレっぷりの家康。
秀吉が北条徳川同盟にビビリまくって、「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに母や妹を差し出したり
顕如や信雄に必死に土下座して取り成しやってもらって、やれやれと思った家康がしょうがねえなとばかりに応じただけじゃん。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
家康が弱りまくった隙をついて着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>島津や伊達も家康のヘタレっぷりには失望
ハイハイ、ソースなし。
896 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:29:36.69 ID:w+MnDETL
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み
ビビッてないし、そんな事やってない。
897 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 19:32:53.49 ID:vHJcxlsL
>>5/28の祝言日にも酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が露骨な反抗姿勢
それだけ家中では秀吉への臣従を拒む風潮があったが、家康が義理固く慈悲深い性格だったから、秀吉との盟約を重んじただけだろ。
>>謀反を恐れた家康
なぜ婚姻への反対=謀反になるのか意味が分からん。
>>いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れ
そんな事やってない。
>>信雄の面目が失われ、秀吉立腹
秀吉立腹も糞も、最初から秀吉としては規格外の兵力と、徳川領国の崩壊状態に付け込んで出兵するはずだったのが
直前になってビビリまくって信雄に仲介やってもらって母や妹を出しだして土下座したんだから、家康がそれに応じるも否かも家康次第。
土下座した秀吉が、一々腹を立てる筋合いなんぞない。
>>ビビった家康
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
898 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 23:06:21.16 ID:ZnDYvD2I
だが発狂wwwwwww
899 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 23:47:52.45 ID:cEDHry0U
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
900 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 23:48:57.46 ID:cEDHry0U
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
901 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 08:26:00.77 ID:D7pjMA1U
浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野での城攻めで、
秀吉本人が撃退されていたとする一次史料を教えてください。
お願いします。
902 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 09:11:49.31 ID:2aMJmR1B
まあ戦歴から考えて前田のようなどっかの陪臣雑魚武将より
国持大名で若い頃から武功をあげまくっていた家康とでは比べるべくもない格の違いがあるわな
903 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 09:20:52.02 ID:/ZBQbIXP
陪臣とか下積みが長いやつの方が苦労して、
下々の武士たちの心がわかるよな。
秀吉もそうだけど、人心がわかる名大将に弱兵なしだよね。
利家は部下からの裏切りもなかったどころか
武辺者の鏡として、旧織田家臣団から、
絶大な支持を得ていたからね。
利家の鶴の一声で、武辺者はみんな前田陣営に付く。
当時、もっとも勇敢として名をあげていた
清正と忠興が、もうものすごい利家信者だったし。
904 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 10:22:13.31 ID:toxCja/v
冬に水風呂入って心臓麻痺おこした利家爺さんがそんなに凄いとは思えないな
905 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 10:45:15.52 ID:F1/6T5ZJ
>>901 そんなのありません。
またいつものように、
それらしい曲解コピペ爆撃で誤魔化すだけですw
906 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 11:58:39.11 ID:SN1tkWAv
907 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:00:50.32 ID:RgNql4f4
信長の火事場泥棒で織田家の領土が増えたので前田みたいな雑魚の領土も相対的に広がっただけ
信長の火事場泥棒の恩恵で川尻や森や毛利秀頼みたいな雑魚でものし上がってるしな
信長の火事場泥棒のおこぼれに預かっただけのたいした戦功もない雑魚が家康より上になるんだ?
しかも信長が弱りきった斉藤やら北畠やら六角領やら火事場泥棒したり完全にお膳立てされた状宅でもって版図が広がったおかげで
家臣の領土も相対的に大きくなっただけじゃねぇかw
そもそも佐々の兵力が利家の数倍なんて常山紀談とか講談の類じゃねぇかw
佐々軍は奥村の城攻めに手こずって疲弊した所を背後から利家が新手で入場しただけでほとんど篭城戦だし奥村のおかげみたいなもんだろうがw
末森合戦て佐々が末森攻撃→落城寸前で利家到着・佐々の背後を襲撃して入城
→長連龍が援軍として到着したため佐々は越中に退却せざるをえなくなったというだけだしほとんど利家は関係ないし
篭城戦じゃねぇかw篭城戦での撃退含めるなら信長はどんだけ敗戦が増えるんだよ
908 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:02:41.87 ID:RrGSfhUo
尾張の河波城も秀吉は攻めるとか家臣に宣言してたが、結局落ちずに終わってる事からして
秀吉が敗れてるくさいからな。東駒野城でも戦闘があったようだが、結局落ちずに終わってるし。
909 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:04:17.34 ID:RrGSfhUo
●二重掘合戦 細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
910 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:05:38.09 ID:u0aiMORl
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
911 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:08:35.85 ID:SN1tkWAv
家康を強いとは全く思わんが、前田は徳川家内でいえば柴田康忠、保科正直、岡部長盛レベルの雑魚だろ。
織田家中でいえば、無能な信雄よりも直接対決の結果から遥かに戦下手の秀吉より遥かに格下なんだから。
912 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:10:58.51 ID:u1J3jkeK
家康は最強武田軍相手にほとんど援軍も得られない状況で長年敢闘してきたじゃん。
姉川や滋賀の陣や上洛戦や金ヶ崎合戦でも活躍してるし
信長から見捨てられても、信長を見捨てず、武田に寝返らず、よく戦ったと思うわ
913 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:15:19.25 ID:dhmFcOuX
>>901 秀吉が指揮した合戦なんて大半は後方の離れた場所から悠々と命令出してただけだから
上記合戦が秀吉の敗戦じゃないというなら、三木城や鳥取城やら高松城やら加賀野井城やら大半の攻略戦は
秀吉の功責じゃなくなるだろバーカ
九州征伐や小田原征伐に至っては、100%秀吉とは関係なくなるなw
914 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:26:31.18 ID:/ZBQbIXP
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称武功捏造。お前があるある詐欺してる家忠日記にも当然書いてない。いつなのか日付提示しろよw無理だろうけどw
それに二重掘で背走したので改易した神子田ってストーリーはあきらかに2種類存在する講談話ネタからの流用解釈だろ。
1.秀吉が陣替えで移動開始したので、その後ろを噛み付こうとした徳川軍らをながめていた秀吉が
神子田の才覚なら撃退するだろうと思ってたら忠興が撃退したので、秀吉が嫌味を言ったら秀吉批判を神子田がしたので失脚
2.撤退する時に神子田が首級を挙げていて、秀吉がさすが!と褒めたら神子田が嫌味を言ったので失脚
じゃあ史実はどうなんだと言えば、信純=信張(同じ左兵衛佐だから)なのは有名だから知ってるよな。
んで、信張の名前で花押付きのものを5/7に香曽我部に書状出してる。
そこには二重堀なんて出てこないぞ。しかも秀吉は同月朔日にはすでに陣を
払っていることを報じているので秀吉自体もいない。
(信張は撤退理由として秀吉が敗北の体にてなどと自称してるが)
それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
5/9の家康書状にも二重堀で勝ったなど書いてないし、5/9の信雄書状も秀吉が小牧から引き払って
濃州の境目に逗留してるから喰い留め置くべく一戦、是非手合わせ油断べからずと書いてて
二重堀で勝ったなんて書いてない。むしろ家康が消極的でビビっている反面、
信雄の方が秀吉にビビってない。
だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
キチガイ織田チョンは「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
しかも秀吉は大坂へ納馬する時もきっちり手を打っていて、上杉の新発田攻め計画を止めさせて
8/2に上杉景勝が家康与党攻撃で北信濃出兵してるし(6/25の段階では新発田を討つため近日越後下郡出馬予定だったが)
続いて10/26には佐々を攻撃して越中宮崎城を攻略してる(来春には必ず下郡出陣したいと10/10には述べてる)
また中国四国戦線では毛利軍が四国へ上陸開始し
8/21には毛利軍の杉原就良が大筒を使って伊予の新居郡御代島の構を落として
そのまま伊予に駐留開始し、長宗我部は毛利への対応を余儀なくされ讃岐攻略作戦どころではなくなったw
そんな状況も知らない情報諜報能力の皆無な家康・信雄は長宗我部に三カ国を宛がうからと
執拗に執拗に上陸して秀吉の背後を襲ってくれ書状の連投(淡路すら長宗我部のものでないにも関わらず)
家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
915 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:27:42.27 ID:/ZBQbIXP
>>二重堀合戦は家忠日記にある
お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ
細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
5月朔日たる5/1には秀吉が小牧表から移動したと家忠が書いてる。
4/26時点ですでに秀吉は美濃鵜沼へ陣替済なのを家康は知っている。
ちなみに5/2付けで秀吉は犬山に加藤、羽黒に山内、楽田から小牧原は堀、
尾口西南は稲葉に守備を任せていると書いてる。
同じ5/2で秀勝らが竹鼻城攻めを開始いてるのが信雄書状でわかるし、
5/3に信雄も長島へ帰ってるのが家忠日記でわかる。
5/4に羽柴勢が加賀野井城の包囲をしてるのが家忠日記でわかる。
5/5の秀吉書状でも5/3に竹鼻・祖父江を放火しまくり
加賀野井城の外構を乗り崩し5、60討ち取り堀一重に押し寄せ陣取りと書いてる。
それに対して家康や信雄は救援すると口約束をするだけで見殺しにしてるだけ。
あぁ?家忠日記のどこに二重堀合戦の記述があんだよ?嘘ついてんじゃねーよw日付明示してみろよw
俺の質問には一切回答しないでコピペしてるだけじゃねぇかwww
俺は回答待ちして待ってるのにそのまま誤魔化す気満々だなw
そもそも家康の擁護に 〜だったから 〜のおかげ 地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
とかひたすら言い訳しないと成り立たない無理くり秀吉批判が笑えるw
つか読む気が失せる垂れ流し駄文で、
論点を曖昧に誤魔化してるだけだし。
916 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:34:15.54 ID:u1J3jkeK
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
917 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:36:38.31 ID:u1J3jkeK
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。
918 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:39:11.11 ID:dhmFcOuX
>>秀吉は体調が悪く出陣日が確定できない
いやいや秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣7/29大坂
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
病人とは思えない程の機敏さだなw
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
一週間程度で直るような嘘病で出兵取りやめたとか帰陣したとかグダグダ言い訳してんじゃねぇよクズ
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
919 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 12:51:58.30 ID:u1J3jkeK
>>秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこない
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってたのにこのタイミングで普請とか妄想乙
いかにこの書状が秀吉の垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり載ってるかわかる文章だなw
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
加賀野井城なんて尾張の隅っこにある300程度しか城兵がいない雑魚城。
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
920 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 13:02:40.92 ID:dhmFcOuX
>>秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
>>明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
秀吉の方が小牧長久手で1万人ぶち殺されて楽田から大敗走し、8倍も兵力差ある状況で
家康や信雄から逃げ回って、家康が絶対に出てこれない木曽川筋を攻めまくってたのを
秀吉が家康が小牧に引きこもってるから会戦できないとか捏造をデッチあげてるだけじゃん。
つうか兵力差から言っても普通に城攻めするには十分すぎるし、小牧山周辺の砦を一つ一つ落していけば家康は自然孤立する
のは目に見えてるのに、家康や信雄にビビリまくって二重掘合戦に大敗して楽田から大敗走したのが秀吉じゃん。
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
921 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 13:03:41.27 ID:dhmFcOuX
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
922 :
人間七七四年:2014/01/04(土) 13:05:02.23 ID:QI7kt4uT
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み
ビビッてないし、そんな事やってない。
923 :
人間七七四年:
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)