1 :
神も仏も名無しさん:
2 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 08:12:18 ID:3Rv7Lr8m
3 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 08:14:17 ID:3Rv7Lr8m
前スレ
>>891 >だからあなたの定義をもってしても、あなたは二元論に止まっているということになるわけです。
違いますか?
そのとおりであります。
法珠氏だけではなく、二元論に止まってるのは“その他大勢”います。
拙者が哲学的アプローチを掛けたりして、なんとか打開策を試みましたけど、
やはりこういうことは無理なようです。
で、二元論的考察ですけど・・・・
アートマンは果たしておるのか?
アートマンはおるか、さもなければ、アートマンはおらないか、
これはどちらかが正解ですね。
拙者は、二元論的にはアートマンはおらない。と思います。
アートマンがおったとしたら、それを拝見したいと思いますが、
今まで見たことはありません。
よって、アートマンはおらんのでしょう。
<机龍之介・花押>
4 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 08:41:20 ID:N/xi/tW2
机さん、スレ建てご苦労さまでしたm(__)m
エーと申し訳ありません。大変、遅れていますが、
もう間もなく「無我」関係についての資料をupできそうなので、どうかご了承願います。
たぶん、この13スレで最後になるでしょうかね??
私からの議題としては、
転生スレとこのアートマンスレの2シリーズで完結であり、その他に立てたいものは特にありません。
よって、このアートマンスレが終了しましたら、皆さんで好きにこの【最終決着】シリーズを更に続けられるか、
また終わりとするかはお任せします!
5 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 08:46:02 ID:N/xi/tW2
>>3 >今まで見たことはありません。
>よって、アートマンはおらんのでしょう。
アートマンというのは、元々からして現象界を超越した概念(存在)です。
従って、通常の五感で捉えられるようなものではありません。
しかしながら、修行が進んで常人の意識レベルを卒業しますと、
自体は異なるものとなります。
これはニルヴァーナについても同様です。
ニルヴァーナは現象界を超越したものであり、このことをウダーナ8:3は謳っている。
しかし、修行の成果によって最終的には、修行者は現象界を超越してニルヴァーナに至るのです。
凡人の状態と修行完成者とを同一視はできません。
これらは基本中の基本的理解です。
それから二元と一元とは視点の違いによるものです。
現象界から述べる場合には二元として現じますが、ニルヴァーナの視点からは一元であり、
自己と他者という垣根が消えて一つに融け合います。
尚、憑依現象だとか“見たとか見ない”とかいってる心霊(存在)はアートマンではありません。
それらは五蘊存在の一部が残存している状態に過ぎません
(必ずしも肉体死と同一ではなく、諸体<五蘊の構成要素>の分解には時間的なズレが生じる)。
6 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 09:01:15 ID:ZNUwuBC+
>>5 神智学による解釈はもうしないと言ったのでは?
なぜ、同じことを繰り返すのですか?
自分の言ったことに責任をもちましょう。
7 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 09:03:35 ID:zlCGCIgo
中論27章17詩「もしも一部分は神的で、一部分は人間的である
ならば、無常でもあり、常住でもあることになるであろう。
しかしそういうことは理に合わない。」
中論27章18詩「もしも無常と常住との両者が成立するならば、
<常住でもなく、無常でもない>ということが、欲するがままに、
成立するであろう。」
17詩の「理に合わない」内容が18詩になるのだが、
かりに18詩のようなことが成立するとしたら、
人間は自性と無自性の二重構造になる。
8 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 09:08:19 ID:zlCGCIgo
縁起の定義
1句 これがあるとき、かれがあり
2句 これが生ずることから、かれが生じ
3句 これがないとき、かれなく
4句 これが滅することから、かれが滅する
竜樹は縁起の破壊者だろう(~~)
中論1章10詩「それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には
有性(有ること一般)が存在しないがゆえに、
<このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。」
10 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 09:12:50 ID:3Rv7Lr8m
>>4 法珠氏
>よって、このアートマンスレが終了しましたら、皆さんで好きにこの【最終決着】シリーズを更に続けられるか、
>また終わりとするかはお任せします!
一応、拙者なりに総括してみます。
仏教は、輪廻転生とかアートマンとか、こういった命題が先ずアリキではなく、
初転法輪の基礎的なところから学ぶのが、
問題解決の一番近道の方法かと思います。
輪廻転生とかアートマンとか、こういった概念が生起する自体が悟ってない証左でありまて、
悟れば殆どこういった迷いも寂滅します。
で、出家しないと涅槃に到らないとか、在家では限界とか、
そういった書込みが見受けられますけど、そんなことはないです。
皆同じですよw
同じ人間なんですから、何方も涅槃に到達できます。
そうでなければ大乗の意味もありませんですし。
で、「善行の功徳を積む」。って、何処のカルトに騙されてるんでしょうかね?
こんなの積めるわけないし、
ましてや「積もう」とする心は卑しいものです。
そういう心こそ仏教にはそぐわない。
11 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 09:27:59 ID:3Rv7Lr8m
>>5 >しかしながら、修行が進んで常人の意識レベルを卒業しますと、
これはよく陥るのですが、
初歩の禅定でも陶酔状態になることがあります。
また、禅定後は周りの景色さえ一変するくらいの脳内ホルモンの分泌があります。
(止観なら、それがもっと顕著です)
これを「意識レベル」と勘違いするかもしれません。
(禅においては魔境とも逝っている)
のりPが吸ってたと言われる麻薬みたいなもんですね。
だからこれに留まっておった場合、禅病とかになる場合が多い。
これは神経衰弱が悪化したようになり、
下手すると自死とかもある。
人間が快楽に囚われますと、非常に危険であります。
つまり、イイ気持ちになるのは・・・それだけリスクもある。
ってことです。
(カルトは、これで人格崩壊に足を突っ込んでしまうのです)
あぉ、恐ろしや。
竜樹の非有非無の中道 中論15章10詩
生命が有りというのは常住に執著する偏見であり、
生命が無しというのは断滅を執する偏見である。
故に賢者は、生命が有りということと
生命が無しということに執著してはならない。
生命が有るのでもなく、生命が無いのでもない・・・
これが非有非無の中道である。
空の悟りは脳死状態に似ている(~~)
13 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 09:33:10 ID:XlzDiPPW
縁起、縁起って
なら、涅槃は何に依って縁起しているんだ?
これが悟りの基本である
<存在の大別> ・・・ 簡単な存在論
生物 ・・・ 物質 + 生命 → 生命活動 > 精神活動 > 識
無生物 ・・・ 物質 → 実体がある OR 実体がない ・・・ 審議中
<精神活動> ・・・ 簡単な認識論
現実 ← 認識 ・・・ 判断のない識 ・・・ 直接知覚
生物・無生物
判断 ・・・ 判断された識
判断基準 ・・・ 苦楽・善悪・愛憎など ← 縁起
15 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 09:44:14 ID:3Rv7Lr8m
>>13 涅槃というのは彼岸のことですね。
あらゆるものが寂滅する。
これを○(まる)と譬えて、完璧である。という意味で
円相の位相とか逝ったりする。
つまり、絶対否定的無は、絶対肯定的無である。
という相反は同義となる。
一如の法門の真髄であります。
悟りには二種類の区別がある。
1 ひとつは直接知覚である。外に向かった知的な体験である。
日ごろの思い込みや既成概念で拘束された心を解放することで生じる。
2 ひとつは忘我の境地である。内に向かった情的な体験である。
念仏などを唱え、自分を忘れたかのような状態になることをいう。
この状態にはふつう喜びが伴い、極まれば神的な恍惚感に達する。
17 :
一在家:2009/08/26(水) 09:55:38 ID:T9Au6rww
>>889 前スレ ken氏
>885 :一在家「ポッタパーダ経」では、アートマンや死後の世界には無記です。<
に対してですので、「ポッタパーダ経」の第四、五章です。
貴兄の手元の「ポッタパーダ経」は春秋社版ではないようですが、
本経では釈尊が「アートマン」を「乳製品」に譬えて説法された点を
重視しております。
もう一箇所の注目点は、異教のポッタパーダが釈尊の弟子だったら
アートマンのことはやがて分るだろうという主旨の説法です。
貴兄の手許版では、どういう訳になっているのかご教示願います。
18 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 09:59:28 ID:N/xi/tW2
>>6 アートマンは元々、凡人には知覚されないものであるから、
それを理由に“存在しないこと”にはならないということと、
アートマンではないものをアートマンとごちゃ混ぜにする傾向があるので、
それについて明確化すべく述べたこと。
〜話しができない(融通の利かない)人ですね!
>>10 在家も出家も同じだとか、
善行を積む必要なしとか、善行を積もうという心そのものが卑しい・・
といったことを、ゴータマはいつ教えましたか?
出典(何経のどこ?)をお願いします。
>>11 修行完成者は凡人とは異なります。
薬物反応の次元で論じるなど話しになりません。
現象界の超越は幻覚作用ではない。
何年?インド宗教を学んでるのです?
念仏などによって得られる<忘我の境地>について
この境地のレベルについては、
色界(清らかな物質によって構成される世界、肉体的・物質的要素あり)の
初禅三天・離生喜楽地、二禅三天・定生喜楽地あたりではないかと推測される。
欲界(日常の欲にまみれた世界)からそれほど隔たったものではない。
忘我の我は、社会に対峙している仮面の我である。
念仏などによって仮面の我がはずれ、抑圧されていた自分が解放されること、
それが喜びなのだろう。ストレス解消効果である。
20 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 10:06:58 ID:lZTxIwj6
>>18 >それらは五蘊存在の一部が残存している状態に過ぎません
(必ずしも肉体死と同一ではなく、諸体<五蘊の構成要素>の分解には時間的なズレが生じる)。
このようなことが、書いてある仏典は?
あなたの神智学による解釈でしょ?
21 :
法華の骨:2009/08/26(水) 10:22:49 ID:K/cEiqMJ
>17 :一在家:2009/08/26(水) 09:55:38 ID:T9Au6rww
>>889 前スレ ken氏
>885 :一在家「ポッタパーダ経」では、アートマンや死後の世界には無記です。<
に対してですので、「ポッタパーダ経」の第四、五章です。
>貴兄の手元の「ポッタパーダ経」は春秋社版ではないようですが、
本経では釈尊が「アートマン」を「乳製品」に譬えて説法された点を
重視しております。
>貴兄の手許版では、どういう訳になっているのかご教示願います。
参考までに
http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/pottapada5.htm >もう一箇所の注目点は、異教のポッタパーダが釈尊の弟子だったら
アートマンのことはやがて分るだろうという主旨の説法です。
分かりやすく言えば、釈迦は過去よりのアートマン説を否定した。
五陰という認識できる領域という条件下においての「無我説」であり、
知覚し経験できて変滅する世界にアートマンはないと説く。
だが、認識能力の届かない領域に対しては、無記との姿勢です。
22 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 10:36:27 ID:lZTxIwj6
他人には
>出典(何経のどこ?)をお願いします。
このように出典を求めるのに、自分が出典を問われるとスルーですか?
23 :
閻魔大王:2009/08/26(水) 10:42:09 ID:K46kw6/n
>>18 うんこ蠅の宝珠愚者 ◆9XuF3XEACkさん江
>アートマンは元々、凡人には知覚されないものであるから、(
>>18)
>この現象世界には二元対立があるので、我々には相成れない二元性として認知されるのです。
>しかし絶対の境地においては不二であり、分けられていない一元(勝義)なのです。(前スレ
>>853)
宝珠愚者さんは、超凡人の絶対の境地に到達した最終解脱者であって、
当然その立場からのご意見なのですね?
あなたには凡人には観えないコトもすべてお見通しなのですね?
うそや逃げ口上やりやがったら、おめーがくたばったときに
舌と粗チンを引き抜いた上、SM地獄逝きにしてやるからな。
24 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 10:48:34 ID:3Rv7Lr8m
>>18 法珠どの
>善行を積む必要なしとか、善行を積もうという心そのものが卑しい・・
>といったことを、ゴータマはいつ教えましたか?
善行を積もうといふ心は、ない方が宜しいかと思います。
これは四無量心と言いまして、
慈悲喜捨の「慈」は、「貪りのない心」を意味しております。
善行を貪るのは無量心から離れてしまいます。
(中道ですから偏することは迷いであります)
出典は法句経であります。
> 現象界の超越は幻覚作用ではない。
>何年?インド宗教を学んでるのです?
現象界の超越。つまり世界の超越は現象でありまして、
これを仏教では「心作用」と言います。
心作用も色作用も同じです。つまり「現象」。
幻覚作用も現象ですから、おなじ心作用に変わりはない。
薬害中毒などは神を見るそうです。
のりPなども、おそらくは異次元を楽しんだことでありましょう。
25 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 10:55:34 ID:N/xi/tW2
>>20 『また、このようにして心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は思考から成り立つ身体(意生身)
を化作することに、心を傾け、心を向けます。彼はその(物質的な)身体から、別の身体、(すなわち)形はあ
るが思考から成り立ち、四肢も完全にそなえ、(目や鼻の)感覚器官もそこなわれないままの身体をつくりだ
します。』(『ディーガ・ニカーヤ第2経/出家の功徳(沙門果経)85』)
『父母から生まれた肉身ではなく、意によってつくり出された身体。 形はあるが、物質的ではない。 死後
の中有の存在や、禅定にはいったときの身体がこれに相当する。 しかし、ここでは、恵学を完成することに
よって、思いのままに、随意に、自分の身体を物質的な肉体から離脱させることをいうのであろう。』
(長尾雅人訳註p533)
肉体とは異なる身体、思考から成り立つ「意生身」については仏典でも説かれています。死後にも残存する
これらが幽霊です。従って、これらはアートマンではなりません---という意味で述べたのです。何でもごちゃ
にすることなく、明確性を示すためです。
26 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 10:57:17 ID:N/xi/tW2
>>23 >宝珠愚者さんは、超凡人の絶対の境地に到達した最終解脱者であって、
>当然その立場からのご意見なのですね?
>あなたには凡人には観えないコトもすべてお見通しなのですね?
私はたったの1度たりとも
そんな大逸れた主張を展開したことはありません。
まったくご勘弁願いますよ。
私は、凡人の認識領域と修行完成者の認識領域との違いについて説明しているだけです。
インド思想の基本中の基本です。当たり前の話だかりです。
理解(力)の問題ですよ!!
---------------------------------
*くだらない投稿してるとスレを無駄に消費するので控えることにします。
27 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 11:04:52 ID:3Rv7Lr8m
>>26 >私は、凡人の認識領域と修行完成者の認識領域との違いについて説明しているだけです。
>インド思想の基本中の基本です。当たり前の話だかりです。
凡人も修行完成者も、認識することは同じですね。
老化で多少、認識が鈍くなるのも同じです。
人間ですから、そう違いはない。
ただ、凡人と覚者は「捉え方」が違う。
結局、捉える目ン玉の違い。
慧眼とか仏眼とかいって、眉間のチャクラが開く。
目が三つになる。
(見た目には判断はつかない)
28 :
一在家:2009/08/26(水) 11:18:11 ID:bPJeKFeW
>>21 法華の骨
>参考までに
http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/pottapada5.htm ご紹介の経典コピーを読んで唖然とし、以下インプレです。
・春秋社版の長部経典とは釈尊の回答が全く異なります。
・釈尊は「黙して答えません。」が回答でしたが、貴兄紹介版では釈尊の回答有り。
・釈尊は無記回答の後、乳製品の譬え話をされますが、貴兄紹介版では無し。
・春秋版ではポッタパーダが釈尊の弟子であればアートマンや死後の世界への
回答が分るというコメントがありますが、貴兄紹介版では無し。
どうやら同じ「ポッタパーダ経」でも、翻訳違いでなく、かなり説法の改竄
が何れか、もしくは両方になされたことのようです。
これが、正法が正しく伝わらず、末法の世を生じる縁起かと存じます。
29 :
一在家:2009/08/26(水) 11:20:02 ID:bPJeKFeW
本スレでも、「釈尊が形而上学的問題に黙して答えず。」という
説法が度々話題になります。
長部経典では第九経の「布藻g樓経(ポッタパーダ経)」に詳しく
記載されてますので、一部紹介します。
説法対象者:遍歴の行者ポッタパーダ、象使いチッタ(後に阿羅漢)
【アートマンの三種の分類】
釈尊、「ポッタパーダよ、次のような三種のアートマンの概念があります。
すなわち、物質的なアートマンの概念、意よりなるアートマンの概念、
非物質的なるアートマンの概念です。」
・物質的なアートマン:形態があり、四つの元素からなる
・意よりなるアートマン:形態があり、すべての感覚器官を備える
・非物質的なるアートマン:物質的でない、心理作用からなる
釈尊、「(象使い)チッタよ、たとえばそれは、牛から牛乳が出てきて、
その牛乳からヨーグルトができ、そのヨーグルトから生バターができ、
その生バターからバターができ、そのバターから醍醐が生じるようなものです。
牛乳が生じるとき、それはヨーグルト、生バター、バター、醍醐と呼ばれる
ことがなく、ただ牛乳と呼ばれます。」
※釈尊はアートマンを否定はせず、世の中の三つのアートマンの分類を
世間の単なる名称、言い表し方、概念に過ぎないと説かれております。
30 :
一在家:2009/08/26(水) 11:49:44 ID:M4XybzPF
「ポッタパーダは、異教の見解・忍耐・目的・実践・師によっているから
『心理作用とアートマンは異なる』ということを、知り難いのです。」
(※文脈から見て、釈尊を師とすれば悟れるという意味でしょう。)
【ポッタパーダの質問と釈尊の解答】
Q.世界は常住であるか否か? A.私は黙して答えません。
Q.世界は有限か無限か? A.黙して答えません。
Q.霊魂と身体は同じものか否か? A.黙して答えません。
Q.修行完成者は死後存在するか否か? A.黙して答えません。
31 :
法華の骨(ken改め):2009/08/26(水) 11:57:47 ID:K/cEiqMJ
25 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 10:55:34 ID:N/xi/tW2
>>20 『また、このようにして心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は思考から成り立つ身体(意生身)
を化作することに、心を傾け、心を向けます。彼はその(物質的な)身体から、別の身体、(すなわち)形はあ
るが思考から成り立ち、四肢も完全にそなえ、(目や鼻の)感覚器官もそこなわれないままの身体をつくりだ
します。』(『ディーガ・ニカーヤ第2経/出家の功徳(沙門果経)85』)
>肉体とは異なる身体、思考から成り立つ「意生身」については仏典でも説かれています。
死後にも残存するこれらが幽霊です。
釈尊は霊魂の有無について、捨置記、無記「答えない」のです。
無記なのに、わざわざ意生身という言葉を用いて、
霊的な存在について説くと思いますか。
「沙門果経」については、異訳4本のうち「意生身」という言葉が出てくるのは、
パーリ長部2の‘manomayaM kAyaM’だけであり、漢訳「寂志果経」では
「従三昧起。化無数身。譬如有人従鞘抜刀。」(大正1, p.275a)となっている。
「長阿含経」(27)と「増一阿含経」巻39には、ここに対応する箇所を欠きます。
つまり「意生身」は4本のうちパーリ本にしか出てこない点に留意すべきです。
32 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 12:13:10 ID:N/xi/tW2
>>24 >慈悲喜捨の「慈」は、「貪りのない心」を意味しております。
>善行を貪るのは無量心から離れてしまいます。
>
>出典は法句経であります。
誰もそんな貪りの話しなどはしていません。
もちろん、「もっと功徳が積みたい」といった貪りの心になってはいけないことは承知です。
それと、机さんはいつも根拠となる出典の【引用】が全然ありませんよ。
どこになんと書かれてあるからコレコレである・・という主張を希望します。
善行の推奨は基本的な理念です。
ただし、どんな行為も執着に成り得るのだということ。
『身体によって善いことをせよ。ことばによって大いに善いことをせよ。心によって善いことをせよ。
---汚れのさまたげの無い、無量の善いことを。
身体によって善いことを為し、ことばによっても心によっても善いことをするならば、その人はこの世
でも、またかの世でも幸せを得るであろう。』(ウダーナヴァルガ7:5-6)
33 :
法華の骨(ken改め):2009/08/26(水) 12:20:28 ID:K/cEiqMJ
>28 :一在家:2009/08/26(水) 11:18:11
どうやら同じ「ポッタパーダ経」でも、翻訳違いでなく、かなり説法の改竄
が何れか、もしくは両方になされたことのようです。
これが、正法が正しく伝わらず、末法の世を生じる縁起かと存じます。
あなたは、釈迦の教説にどこまでインスパイヤーされているか知らぬが、
釈迦金口の直言に触れる可能性が、あると考えるのか?
スッタニパータを「釈迦のことば」とした中村博士であっても、韻文形式の経蔵が
考古学的に古いからと、無批判に肯定したわけではありませんし、釈迦が韻文形式で
一般の衆生へ説法したなど、ありえないでしょう。
我々の探らねばならない姿勢は、釈迦の思想の統一性です。ことばではない。
何度も言うが、釈迦の無記は形而上に対してであり、認識可の諸法での無我説は
あきらかに存在している。
一般的に解釈するなら、アートマン説を釈迦は否定した。
この意味は、当時のインド社会を形成していた当時の思想を検証すれば分かるでしょう。
34 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 12:20:32 ID:N/xi/tW2
>>31 >釈尊は霊魂の有無について、捨置記、無記「答えない」のです。
>無記なのに、わざわざ意生身という言葉を用いて、
>霊的な存在について説くと思いますか。
「意生身」はアートマンではありませんよ。
無記だからといっても、何でもアートマン同様の無記で勝手に処理してしまうのは辞めるべきです。
明確に説かれたものは説いたということ。
神通力、人によっては転生(再生)のことなども・・
現代科学が未だ認めない神秘についてはすべて無記の筈であり、
仏典に記述があるならば、それらはすべて後代の勝手な附加である。
ゴータマの神格化を促す意図のものだ、と見なす人が沢山いるのです。
仏典を唯物論化するこれらの愚を侵すべからずです。
神通力、人によっては転生(再生)のことなども・・
現代科学が未だ認めない神秘については、
それらはすべて現代の科学水準ではまだ解明できていないだけであり、
仏典に記述があるならば、それらはすべて事実であるとし、
ゴータマの超能力を無批判に肯定する人が沢山いるのです。
仏典を電波ゆんゆんのオカルトにするこれらの愚を侵すべからずです。
36 :
法華の骨(ken改め):2009/08/26(水) 12:34:17 ID:K/cEiqMJ
>34 :宝珠愚者
無記だからといっても、何でもアートマン同様の無記で勝手に処理してしまうのは辞めるべきです。
あなたはかように断定しているのです。↓
>死後にも残存するこれらが幽霊です。
>明確に説かれたものは説いたということ。
死後残存する何かは、常見であり輪廻を作り出す何か、と誤解を与える。
ゆえに釈迦は、そのような因を説く思想は無いと考えるべきで、
その経訳にある誤謬、誤訳の可能性を
>>31で、併記例示してあります。
あなたも一在家さんと同じく、釈迦の思想の統一性に眼が向いていないようです。
37 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 12:42:09 ID:N/xi/tW2
>>36 >死後残存する何かは、常見であり輪廻を作り出す何か、と誤解を与える。
>ゆえに釈迦は、そのような因を説く思想は無いと考えるべきで、
それは違うでしょう!
死後に何も無くなるとする考え方を断滅論といい、断見という間違った見解であるといわれています。
心配せずとも、肉体死後に存続する意生身(心霊存在)なとばアートマンではなく、
時期に消滅し分解します。これも縁起の現象に過ぎません。肉体より存続期間が続くだけのこと。
転生する媒体などでもありません。
なんでも一緒にするべからずです。
無記は無記。アートマンはアートマン。意生身(心霊存在)は意生身です。
全部、違います。
>>34 > 明確に説かれたものは説いたということ。
仏典にあったからといっても、それは方便にすぎません。
そして、それが方便であるということが
経典に書かれるはずもないのです。
仏典の意味を正しく理解すれば、仏典が超常的なものなど信じるように促すはずがない
ゴータマがそんなことを説くはずがない、ということは基本中の基本なのです。
それともあなたは書いてあるものはなんでも正しいという伝統主義者ですか?
39 :
旧7:2009/08/26(水) 12:55:40 ID:Sij8ml9H
>>31 欲界 ・・・「煩悩」と「身体」と「意(識)或いは心」 の世界(『≒境地』)
色界 ・・・「身体」と「意(識)或いは心」 の世界(『≒境地』)
無色界・・・「意(識)或いは心」 の世界(『≒境地』)
三界を立てる以上、無色界に於ける「対象となる自己(“像”)」として、
意生身の出現は已むを得ないようにも思う。
※勿論、ここに於いて、三界も意生身も≪「意識内のこと≫であり、
≪この肉体と同じように『3次元的に』共存・併存する世界として、どこかの場所として≫
は捉えない、というスタンスはありだし、
私は、実際、まさにそのように見るべきだと思っている。
※※(→宝珠や在家は、まさに逆に、「個物と同様に現存する世界」、
「“この現象世界と別に”、だが“同様に”まさにありありと存在する”世界」と見ているだろう。
そして、「涅槃」もまた同様な位置付けで見ているのだろう。
そして、そのような場所・世界・境涯・境地に住するには「確固たる、堅固な、常住な主体」が必要になる、と・・・。)
※参:水野要語、p200
40 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 12:56:04 ID:N/xi/tW2
>>36 『物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、止滅を知らな
いので、再びこの世の生存にもどって来る。』(Sn.754)
ゴータマはこのように
“非物質的領域に住む諸々の生存者”の存在を認めています。
何でも無記で処理しないように。
『マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは
説くと了解せよ。』以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受
け入れた。』(マッジマ・ニカーヤ63/毒矢のたとえ)
説かないものは説かない。が、説くものは説くと。
41 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 12:59:34 ID:N/xi/tW2
>>38 またまた、唯物主義仏教者の登場。
話になりません。
仏教は「宗教」です。
宗教とは超自然(科学が認知しない事柄)を説く思想です。
>>40 > ゴータマはこのように
> “非物質的領域に住む諸々の生存者”の存在を認めています。
> 何でも無記で処理しないように。
無記とはいってない。そういう考え方は方便にすぎないといっているのです。
文学的表現というやつです。サンタのようなものなのです。
> 説かないものは説かない。が、説くものは説くと。
これだから言葉通りにしかとらない伝統主義者は困る・・・。
自分で考えることを放棄したらおしまいですよ?
43 :
法華の骨(ken改め):2009/08/26(水) 13:04:27 ID:K/cEiqMJ
>37 :宝珠愚者
心配せずとも、肉体死後に存続する意生身(心霊存在)なとばアートマンではなく、
時期に消滅し分解します。これも縁起の現象に過ぎません。肉体より存続期間が続くだけのこと。
その根拠は?
それで、あなたはどうして >死後にも残存するこれらが幽霊です。<
などと、パーリ本にしか出てこない意生身を持ち出したのですか?
>>41 > またまた、唯物主義仏教者の登場。
> 話になりません。
分ってませんね。あなたこそ、オカルト主義者なのですよ。
客観的に見てごらんなさい。霊だのなんだのということを
大まじめにいっていたら「この人ちょっとおかしい」といわれるのが関の山です。
いい年をして、そんな子供みたいなロマンスに陶酔してどうするのですか。
> 仏教は「宗教」です。
> 宗教とは超自然(科学が認知しない事柄)を説く思想です。
文学的表現をなんでもかんでも事実として受け取るから
「宗教」などというくだらないカテゴリーに入れられるのです。
表現と現実の区別くらいつかないものでしょうかね。
呆れ果てる・・・。
45 :
旧7:2009/08/26(水) 13:05:52 ID:Sij8ml9H
>>41 >仏教は「宗教」です。
違う。
後世の人間が、その(学問的・分野的、或いは概念として把握するための)分類上、
「宗教」という定義に、その多くが当てはまるので、仏教も宗教として扱う。
だから、資本主義も、貨幣経済も、科学・物理学原理主義(科学信仰)も、当然「宗教と呼び得る」。
だから、《 >超自然(科学が認知しない事柄)を説く 》なんてことは、宗教の必要条件ではない。
言ってる意味、解るよな?
46 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/26(水) 13:06:53 ID:3Rv7Lr8m
>>32 法珠どの
>善行の推奨は基本的な理念です。
慈悲喜捨と申しますのは、そもそも善行にはならないのであります。
自他不二ですから。
善行というのは世俗諦でして、ウダーナヴァルガに書かれた文言も世俗諦です。
善行・悪行を悟りますのは空性以後でして、
これは分別智と言いまして、いたった仏教では根幹をなす重要な位置にあります。
ここまで悟りますと完成に近いのでありますが、
これは殆ど凡人には難解です。
ですからこれは、拙者が板で書き上げるのは非常な誤解を生じやすい。
よって、今まで書いたことはごじゃらんせん。
まあ、今後スレを立ち上げるには、こういった善悪についてのテーマも宜しいかと思います。
これは輪廻転生やアートマンにも匹敵する重要な内容であります。
(これで輪廻とアートマンは解決するのですが・・・)
こんなことを掲示板で語ちていいのか?
非常に難しいのは必定。
47 :
旧7:2009/08/26(水) 13:07:46 ID:Sij8ml9H
しかし、相変わらず、神憑り的なスルースキルだな・・・w
「馬耳東風」とは、まさに、お前の為にある諺だよ・・・。
>>29
48 :
旧7:2009/08/26(水) 13:12:39 ID:Sij8ml9H
>>45補足。
俯瞰して全体像を眺めれば、宗教として括れるが、
決して「宗教として出発したのではない」ということは、押さえられていて良いと思う。
そして、宗教として括れる理由は、(仏教に限らず)、
《超自然的事柄を含むから》だけではないし、又、《それ》なくしても宗教として括り得る。
49 :
法華の骨(ken改め):2009/08/26(水) 13:16:40 ID:K/cEiqMJ
>40 :宝珠愚者ゴータマはこのように
“非物質的領域に住む諸々の生存者”の存在を認めています。
何でも無記で処理しないように。
ですから私は
>>21 で指摘している。
分かりやすく言えば、釈迦は過去よりのアートマン説を否定した。
五陰という認識できる領域という条件下においての「無我説」であり、
知覚し経験できて変滅する世界にアートマンはないと説く。
だが、認識能力の届かない領域に対しては、無記との姿勢です。
認知し経験できる諸法にはアートマンはない。
わたしたちの認知し経験できる諸法はすべては変滅するからである。
認知し経験できない世界に関しては沈黙すべきである。
そのような世界は人間の認識能力を越えており、真実として確立できるものではない。
仏教の無我の思想=アートマン説の否定とは、厳密にはこのように二つの側面に
分けて理解すべきなのです。
50 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 13:18:22 ID:N/xi/tW2
>>42 >これだから言葉通りにしかとらない伝統主義者は困る・・・。
>自分で考えることを放棄したらおしまいですよ?
ん?
コレって、最近のこの私の使うセリフですよぉw
困ったな(笑)
>>43 >その根拠は?
ですから、仏典では恒常のアートマンは説かないのですから、
ここに出てくる思考によって成り立つ肉体外の意識体とは、
人間の想念形態であり、これは修行者は生存中に意識的に作り出すこともできるし、
もし無意識的に起これば、世間では幽体離脱などと呼ばれているものです。
死後(肉体消滅後)であれば、心霊存在と呼ばれている。
これら、アートマンでないものは一時期の縁起存在です。
仏典を理解すればこれくらいは分るもの。
>それで、あなたはどうして >死後にも残存するこれらが幽霊です。<
>などと、パーリ本にしか出てこない意生身を持ち出したのですか?
すでに述べた通りです。
アートマンでないものをアートマンと同一視することなかれです。
明確さを記するためです。それだけのこと。
アートマンそのものは説かれなかったが、
これらのアートマンと混同されがちな存在については“仏典と説いた”と。
なんでも一緒にするなということ。
>>50 > ここに出てくる思考によって成り立つ肉体外の意識体とは、
> 人間の想念形態であり、これは修行者は生存中に意識的に作り出すこともできるし、
オカルト本の読み過ぎです。そういうトンデモソースからの内容を書く時は
ちゃんとそう書いてくれないと困りますね。
52 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 13:26:29 ID:N/xi/tW2
>>44 >文学的表現をなんでもかんでも事実として受け取るから
>「宗教」などというくだらないカテゴリーに入れられるのです。
ただの宗教否定論ならばスレ違いです。
どうぞ他で大いにやって下さいよ。
>>45 いいたいことは分りますが、
しかしそれは、本来の定義ではないでしょう。
仏教は定義にそのまま該当するものです。
『宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、
また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである[2][3]。
『世界宗教事典』では上記のリューバの分類・分析を踏まえ、また、宗教を成立させている基本要素
が超絶的ないし超越的存在(神、仏、法、原理、道、霊など)をみとめる特定の観念であることを踏ま
えつつ、宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、その観念体系に基づ
く教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団である[19]とまとめている。』
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
『しゅう‐きょう〔‐ケウ〕【宗教】
《 religion 》神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、
世界各地にさまざまな形態のものがみられる。
ぶっ‐きょう〔‐ケウ〕【仏教】
釈迦(しゃか)の説いた、仏となるための教え。キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。』
(Yahoo!百科事典)
53 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/26(水) 13:33:51 ID:N/xi/tW2
>>51 最大の無知は唯物論者。
次いで、あらゆる宗教者の中で最も無知なのが仏教徒です。
*睡眠を摂るのでこれで失礼します!
54 :
旧7:2009/08/26(水) 13:38:20 ID:Sij8ml9H
ちなみに、
>>39補足。
─────
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】5
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1245073306/744 747 宝珠愚者 2009/06/23(火) 19:20:45 ID:9vlidEZK
>> 744
当然、場所の移動のことではなく、意識の状態の変化/意識レベルの昇化のことです。
どこか違う処が在るということではありません。
今、この自分の中に“総てがある”ということ。
五蘊意識→ニルヴァーナ意識
表層(顕在)→深層(潜在)→集合的無意識、
アストラル意識→メンタル意識→魂意識(マナス/ブッディ/アートマ/モナッド)
意識の焦点の移行です。 そのためには修行/経験が必要だと。
865 旧7 sage 2009/06/24(水) 22:38:01 ID:z1oYzErm
>> 747
はい。 重要な発言ですね。
もし、 >意識の状態の変化 であるならば、
その時「色」は(或いは五蘊は)どうなっているのでしょう。
イシパタナに於いて、五比丘の眼根と和合した、色境としてのゴータマの身体(色)は如何なるものだったのでしょう。
やはり、この時点では完全なる悟り・涅槃ではなかった?80歳の入滅でもって初めて解脱が完了した、と?
五比丘と議論した時、ゴータマは未だ涅槃を見ていなかった、と?
端的に言うならば、《五蘊を離れて「意識状態の変化」云々などと言えるのか?》と。
だから、沙門果経77〜88節なのです。
この《85・86節をどう評価するか》は、
《各自の、仏教に対するスタンスの取り方、立ち位置の取り方》にとって重要なものとなります。
(だから、ちなみに、入滅は「涅槃」でなく「般涅槃」なのですw)
55 :
一在家:2009/08/26(水) 13:49:55 ID:bPJeKFeW
>>33 法華の骨氏
>我々の探らねばならない姿勢は、釈迦の思想の統一性です。ことばではない。
(目標)釈尊の思想の統一性を探す
(手順1)文献の調査ならびに文献間の記載内容の比較
私の質問は春秋社版のパーリ語「長部経典」訳と貴兄の手許訳との
比較に関するものでしたが、パスされたようですね。
>>47 旧7氏
>「馬耳東風」とは、まさに、お前の為にある諺だよ・・・。
>>29 やはり貴兄は思い込みが激しいようですね。
一杯、仕事が貯まっているマネージャーが休憩時間にしかかきこできない
というケースもあるとヒントを与えておりますのに。。
更に自宅にはパソコンが無い、またはよく壊れるとも。。
56 :
旧7:2009/08/26(水) 13:56:07 ID:Sij8ml9H
>>52 了解。
宗教の定義については、承諾しましょう。
>>45は、発展的語義でのことである、と。 「>違う」の発言も撤回しましょう。
が、≪『仏教が宗教だから』、『宗教が内包する「超自然的事柄」を欠いてはならない』≫
という言い方(構図)には、未だ疑問符が残る・・。順序が逆じゃないか?と・・・。
≪総合的に見て「宗教的」であったから、仏教も宗教として扱われた≫のではないか?と。
(どっちでも一緒と言えなくもないが・・・w)
(また、仮に上の条件を欠くことで宗教でなくなったとしても、さほど問題はないようにも思う。
『「宗教」という括り・ラベルの効用』がどれくらいあるのかは、
社会学的・人類学的(?)に調査してみないとわからんのだろうけど・・・。)
てか、余談過ぎるな・・・。 スマン。
>>55 馬鹿か?
他のレスには反応しておいて、特定のレスにだけ反応しない時、
それを「スルーしている」と言うんだよ。
しかも、内容が被っており、批判意見だけがスルーされている事態をみれば、
≪通常は、「意識的に無視している」と判断される≫のだよ。
そのような誤解が嫌なら、「○○については考察中です。作文中です」とか入れとけ。
≪お前の『スルーの仕方』は、パソコンに触れる時間の多少に拠るものとは見えない≫、
ということだ。 ぼけなす。
57 :
一在家:2009/08/26(水) 14:21:44 ID:M4XybzPF
他人のレスには反応しておいて、旧7氏のレスにだけ反応しない時、
それを「スルーしている」と言うんだよ。
この文章を読むと、反応しにくいレスがあるようで、それは仕方が
ないことでしょう。
以上、旧7氏から「氏ね」とか「ぼけなす」とか罵倒されてる一在家でした。
58 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 14:25:45 ID:dPrwZeJS
>>52 >宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中
>心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、
>組織などをそなえた社会集団のことである
宗教とは、「発生史的」には、生存を助ける、又は脅かす「自然現象そのもの」
に対する感謝又は憎悪。最も一般的な宗教としての「太陽崇拝」や、宗教の起源
とされる「アニミズム」を見よ。古代人にとっては、その生存の「手段」の一
部。現代の科学の代替品。従って、その定義は、「発生史的」には完全な誤り。
59 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 14:40:59 ID:dPrwZeJS
人間を初めとするすべての動物に共通する唯一・普遍の要素は、その
生存本能(生命)である。どんなに小さな動物でも、捕らえようとすると
必死で逃げるし、人間の自殺志望者でも、殺されそうになると必死で
抵抗することからも明らか。
そして、人間の精神(感情と理性、心、魂)の本来の機能は、生命が宿る
肉体の維持のための「手段」。
宗教が、生存の目的以外に「精神」を使うのは、倒錯による「目的外使
用」。従って、さまざまな弊害、狂気、争いが生じる。
>>52 >
>>44 > >文学的表現をなんでもかんでも事実として受け取るから
> >「宗教」などというくだらないカテゴリーに入れられるのです。
> ただの宗教否定論ならばスレ違いです。
> どうぞ他で大いにやって下さいよ。
バカな人ですね。仏教を「宗教というカテゴリーの中で」話したいというのは
あなたの個人的な願望でしかないのです。
そもそもインドにおいては仏教はダルシャナと言われているのであって
「あなたのいう宗教」というカテゴリーなど元々インドにはないのです。
ダルシャナとはドリシュという動詞からきていて、本義は見るということ
転じて観察すること、哲学することという意味にもなっているわけです。
そういうことも分らず「超自然を扱うのが宗教」だからという「今の宗教の概念」を
無理矢理、インドの仏教に適用しようとするのは愚の骨頂。
大乗仏教を信じているなら、それは「宗教」かもしれませんがね。
私は宗教を否定しているのではなく、仏教を「宗教」という
頓珍漢なカテゴリーに無理矢理おしこめての判断を強制するのが、理にかなっていない
と言っているのです。おわかりですか?
>>55 > 一杯、仕事が貯まっているマネージャーが休憩時間にしかかきこできない
> というケースもあるとヒントを与えておりますのに。。
> 更に自宅にはパソコンが無い、またはよく壊れるとも。。
そのうちレスしますとか言いながら、時間がないとか
パソコンがとか他のせいにして「結局、書かない」のは
アートマン論者の特徴なんでしょうかね。
遅くなりましたが、とかいいながらでも、ちゃんと書いている人でなければ
そんなこと言ってもムダだと思いますよ。
まー、宝珠愚者という人は論理的思考というのがほとんどできないんでしょうな。
1「仏教は宗教である」
2「宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念である」
3「仏教は人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念である」
旧7氏が指摘していますが、
3である→2である→よって1である。という論法なら正しいといえますが、
1である→2である→よって3である。というのはムチャクチャなわけです。
大前提、小前提、結論というものの配置がまぁ〜ったく、分っていない。
仏教についての定義(2)も、
宗教についての定義(3)もされないうちから、
仏教と宗教についての関係性についての結論が出ているわけです。
論理的破綻というのはこのことですよ。
ゆとりってこういうのを言うんですかね。まったくデタラメもいいところです。
こういうのをペテンという。
↑定義の番号間違えてるw けど、まぁ分るからいいですよね?
64 :
一在家:2009/08/26(水) 15:24:42 ID:M4XybzPF
>>61 >遅くなりましたが、とかいいながらでも、ちゃんと書いている人でなければ
>そんなこと言ってもムダだと思いますよ。
私は基本的には亀レスはしません。
メールのやりとりでは無いですし、スレッドの話題が変わってしまっている
場合が多いからです。
2chの過去ログは読めませんし、わざわざ宝珠氏スレまで行って読むほど
の時間も無いです。
よって1日以上レスができない場合は、何らかの理由でスルーしたと思って
いただいて結構です。>各位
>>64 だからスルーしまくりだと言われてるわけじゃあないですか。
自分に都合の悪いレスに関しては特に。
66 :
法華の骨(ken改め):2009/08/26(水) 15:56:31 ID:K/cEiqMJ
>55 :一在家:
私の質問は春秋社版のパーリ語「長部経典」訳と貴兄の手許訳との
比較に関するものでしたが、パスされたようですね。
違います、思想の統一性を探るべきと、すでにお答えした。
あなたは何を知りたいのだ?
無我を説くのは無我を解くこと、とあるように、
それは修道見道を伴った実践の解釈が欠けては、理解の外ですよ。
あなたの引用した牛乳の比ゆに見るように、それは縁起の実相であり、
牛乳はアートマン説の否定、醍醐となるのは無我を解くことに通じる。
あなたの言うとおり、経典の比較検証は大事ですね。
67 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 16:57:11 ID:aZ1QxtIo
本を読むより、ここの話を理解するのほうがよっぽど難しい。
本の場合は書き手が読者に理解してもらうために神経を使っている。
そうしないと売れないし評価されないし読んでもらえない。
それに書き手がひとりだから内容に統一性がある。
しかしここでは、読み手に神経を使っている書き手はほとんどいない。
だいたいが自分の性急な主張でしかない。あるいは他者への非難でしかない。
書き手が複数になれば読みづらいのに、そこへ名無しが乱入してくる。
そしてさらに、かき回しが目的だけの病的な書き手もいる。
68 :
一在家:2009/08/26(水) 17:39:56 ID:T9Au6rww
>>66 法華の骨氏
>あなたの引用した牛乳の比ゆに見るように、それは縁起の実相であり、
>牛乳はアートマン説の否定、醍醐となるのは無我を解くことに通じる。
>あなたの言うとおり、経典の比較検証は大事ですね。
現象世界では、牛乳がヨーグルト、バター、醍醐と縁起しますが、
その乳製品としての本質は変化していないという説法だと解釈
しております。
「乳製品としての本質」が「アートマン」の譬えなのか否かが議論の
対象だと思ってこの経を紹介した次第です。
貴兄の手許の本経ではカットされている説法なのか、それとも後の人が
パーリ語経典に追加したのかも議論の対象だと思います。
いつもならここで、パーリ語の原文を読める旧7氏が格好よく登場する
のですが、前スレでも「後日解説する」と宣言したままですね。
69 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 18:15:21 ID:du+tGuSD
>>29 >釈尊、「(象使い)チッタよ、たとえばそれは、牛から牛乳が出てきて、
>その牛乳からヨーグルトができ、そのヨーグルトから生バターができ、
>その生バターからバターができ、そのバターから醍醐が生じるようなものです。
>牛乳が生じるとき、それはヨーグルト、生バター、バター、醍醐と呼ばれる
>ことがなく、ただ牛乳と呼ばれます。」
牛乳が、その分子の相互依存性の変化により、さまざまな状態に変わり得る。
従って、牛乳には自性はなく「空」である。牛乳がアートマンなら、変化する
ことは出来ない。
70 :
旧7:2009/08/26(水) 19:14:40 ID:Sij8ml9H
>>68 ポイントは3点。
・3種の我の獲得に関し、貴方は
どのような記述を根拠に、そこにアートマンを見出しているのか?
また、どのような記述を根拠に、3種の説明がアートマンの相であると見るのか?
・牛乳の譬えが、「変わらない本質がある」ことを示す記述はどれか?
・双方を踏まえた上で、≪それが(この経が)、「人の本質」或いは「アートマン」(があること)を説いているもの≫
言い得るのはなぜか?
を提示してみてください。(できるものならね・・・w)
既に提示済み、或いはこれ以上提示するつもりはない、というなら、
以下の2レスを叩き台にすることになるが、宜しいか?
71 :
旧7:2009/08/26(水) 19:15:53 ID:Sij8ml9H
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1247232994/ 246 一在家 2009/07/12(日) 17:01:44 ID:i2xqDSIk
ポッタパーダ経では、世間の三つのアートマンの概念を釈尊は解説します。
たとえとして、乳製品の本質は変わらないのに、
牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐と
呼ばれるようなものだと説かれました。
また、ポッタパータは異教なので、心理作用とアートマンとの関係を知りがたいと説かれた点も要注意だと思います。
釈尊の修業が進んだ弟子には無記を通す必要もなく、修業完成者の弟子ならその関係を悟っているという意味になりますね。
342 一在家 2009/07/13(月) 09:36:03 ID:dfiaq+oF
ポッタパーダ経を読んだ私の見識です。
アートマンを乳製品(本質)とした場合、その相は無常であり、名称も変化します。
牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐
当時のバラモン達は「バターだ。」、「否、ヨーグルトだ。」と論争していたのでしょうが、
仏の眼で見れば本質は同じだと説かれたように存じます。
乳製品の本質は常住だとも読めます。
399 一在家 2009/07/13(月) 20:47:53 ID:H2frDst+
「仏陀はアートマンを説いたか?」というのが本スレのお題ですが、
ポッタパーダ経では、仏陀は当時のアートマン説の解説をされています。
譬え話として乳製品(牛乳、ヨーグルト、生バター、バター、醍醐)を使用されました。
乳という「本質」は変わらずに、名称が変わると。
人の変わらない「本質」がアートマンのようですが、他の方の検討結果をお待ちします。
72 :
旧7:2009/08/26(水) 19:16:59 ID:Sij8ml9H
>>71 >たとえとして、【乳製品の本質は変わらない】(1)のに、
>牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐と
>【呼ばれる】(2)ようなものだと説かれました。
>【アートマンを乳製品(本質)とした場合】(7)、【その相は無常であり、名称も変化】(3)します。
>当時のバラモン達は【「バターだ。」、「否、ヨーグルトだ。」と論争して】(4)いたのでしょうが、
>仏の眼で見れば【本質は同じ】(5)だと説かれたように存じます。
>乳製品の【本質は常住】(6)だとも読めます。
>【乳という「本質」は変わらず】(6)に、【名称が変わる】(3)と。
>【人の変わらない「本質」がアートマン】(7)のようですが、他の方の検討結果をお待ちします。
73 :
一在家:2009/08/26(水) 19:37:50 ID:bPJeKFeW
>>70 旧7氏
>・3種の我の獲得に関し、貴方は
> どのような記述を根拠に、そこにアートマンを見出しているのか?
> また、どのような記述を根拠に、3種の説明がアートマンの相であると見るのか?
3種類ともアートマンではないと釈尊が説かれたということは認識しております。
>>72 旧7氏
>当時のバラモン達は【「バターだ。」、「否、ヨーグルトだ。」と論争して】(4)いたのでしょうが、
>仏の眼で見れば【本質は同じ】(5)だと説かれたように存じます。
>乳製品の【本質は常住】(6)だとも読めます。
>【乳という「本質」は変わらず】(6)に、【名称が変わる】(3)と。
>【人の変わらない「本質」がアートマン】(7)のようですが、他の方の検討結果をお待ちします。
既にご回答済みであることを確認しました。
貴兄の【】の使用法がよく分らず、私の理解不足で大変失礼しました。
74 :
一在家:2009/08/26(水) 19:44:15 ID:bPJeKFeW
Buddha@ウィキでも、『ポッダパーダ経』でのアートマンに関わる
説法を取り上げていただきたいものです。
特に「乳製品の本質」はアートマンの譬えか否かという点が重要です。
また釈尊の弟子であればアートマンのことは分るという点も。
75 :
一在家:2009/08/26(水) 19:52:49 ID:bPJeKFeW
>>70 旧7氏
>以下の2レスを叩き台にすることになるが、宜しいか?
見解を宜しくお願いします。
76 :
旧7:2009/08/26(水) 20:01:59 ID:Sij8ml9H
>>75 了解した。
(が、誰か他の人がやってくれることを妨げるものではない。
いや寧ろ期待するw 引用文の打ち込みを思うと気が滅入る・・・ orz )
77 :
一在家:2009/08/26(水) 20:17:29 ID:bPJeKFeW
>法華の骨氏 または法華経帰依者各位
ハンドルから法華経に帰依されているという認識で宜しいか。
それとも「骨」はアンチ法華経の意味ですか。
もし、前者ならお伺いしますが、「如来寿量品」に「仏は常住」と
繰り返し記載されておりますが、原始仏典でもそのような記載の
ある経典はございますでしょうか?
78 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 20:20:54 ID:/Zeu0zRg
魂の人は、道教はどう考えてんの?
内丹術だと体をひとつの熔鉱炉として
丹田で不老長寿の薬を練るでしょ
丹というのは本来赤い水銀の化合物だから
辰砂に依存した外丹術のような方法では
限界があり、禅の思想をとりいれて
内丹術が生まれた。
丹田という言葉は東洋医学とも結び付いて
日本武道とも関連が深いがこの内丹術は
要は肉体と精神の不二の思想だ。
たとえば、人体にホルモンを注射するだけで
人はヒゲがはえなくなったりするし
誰かは極楽にいきたいなら極楽へいける薬を
作ればいいという。
これは人間の精神が完全に脳の物質の反応
に還元できるということだろう。
日本では健全な精神は健全な身体がつくるともいう。
魂の人は現実世界で魂とやらの本来の力を出せず
現実に順応できない人をどうとらえるの?
魂の段階の高い人が自白剤なんかを打たれて
ぐでんぐでんになってるのを見たとき
それは肉体のコントロールができなくなってる
ということですか?それとも魂の高みから
転落してるのですか?そもそも宗教が過度に
禁欲的になるのはこの肉体的な変化が
精神の変化であるからではないですか?
79 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 20:43:15 ID:VBDNX5/A
もう、アートマンは説かなかったで終了でいいじゃないか。
80 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 21:32:25 ID:B0ejh9fb
アートマンが存在することは世親などによりほぼ明らかである。
したがってスレ趣旨はつぎのように変化している。
1 釈迦はアートマンを説いた → 釈迦は正真正銘の仏陀である
2 釈迦はアートマンを説かなかった
ア 何らかの事情で説くことを控えた → 釈迦は仏陀である
イ アートマンのことを知らなかった → 釈迦は単なる普通人である
81 :
法華の骨:2009/08/26(水) 21:38:08 ID:trexc9hj
>>77 :一在家:2009/08/26(水) 20:17:29 ID:bPJeKFeW
>法華の骨氏 または法華経帰依者各位
ハンドルから法華経に帰依されているという認識で宜しいか。
一在家さん、私の主張の一連を見れば”法華経に帰依”などあり得ない、
と仏教の基本を正確に学ぶ者なら分かるはずですよ。
>それとも「骨」はアンチ法華経の意味ですか。
そのとおり、仏説に刺さった骨のごとき、世間を惑わせる元凶の意です。
別板を参照されたし、そこでの643が私の観点です。
法華経の創作性を指摘しております。
82 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 21:39:25 ID:B0ejh9fb
アートマンが存在することを前提にすれば、
仏教は無我だとか、釈迦はアートマンを説かなかったとか、
主張する人たちは、釈迦を単なる普通の人にしてしまうことになる。
かれらは知らずに自分の首を絞めている。
83 :
法華の骨:2009/08/26(水) 21:44:59 ID:trexc9hj
84 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 22:07:21 ID:2ZWvtyOd
>>83 >法華経の創作性を指摘しております。
小乗仏典も、釈迦自身が書いたわけではないから、「創作性」は大いにあり
うるね。
それから、小乗には、大乗仏教に見られるような、竜樹に代表される、多数の
人々の努力による、佛教理論の発展と確立はあるのでしょうか。あったとすれば、
どのような発展なのでしょうか。教えてください。
私見では、釈迦の偉大さは、その「縁起・空」のヒントの提示により、大乗仏教
の巨大な体系の発展と確立を可能にしたことだと思います。
85 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 22:13:10 ID:VBDNX5/A
>>84 縁起の理解があれば、大乗を創作だとは言わないだろう。
あちらのスレを見ればわかるが、歴史的背景との矛盾の上での「創作性」。
釈迦当時より貨幣制度が発達していたり、文字化(文書化)されてない時代なのに
経典として存在していて、護持して詠めと書いてあるところ。
他で例えると、昭和時代にインターネットがあったり、設定上は
平安時代なのに鎌倉時代になって出てくるものが現れることで露呈する「創作性」
神の場合だと「古代日本の神話」と言いつつ、ビリケンさんやエル・カンターレが出てくるのに相当する。
たぶん。
87 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 22:21:06 ID:B0ejh9fb
>>78 精神と肉体の相互作用は、2対3程度の力関係で存在すると思う。
これは肉体が24時間活動するのに対し、
精神が8時間の休息を必要とすることからの推測です。
ただし、精神と肉体ではなく、生命と物質という関係で眺めれば、
生命が物質に働きかけることで生物が存在している。
この生命が魂であり、魂は肉体に還元できない。
この魂が人間の根源であろうと思う。
魂とは『老子』のなかにある、9つの穴をあける前の球体です。
道教に詳しくないので参考程度の話でした。
88 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 22:22:17 ID:ZNUwuBC+
>>83 あなたは、確か、神通力および各種の超常現象的な記述も
釈尊の神格化を意図したものではなく
実際にあった事実であるとの見解をもっていたと思いますが?
そのあなたが、法華経を創作と断じるのは、理解に苦しみますね。
89 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 22:35:23 ID:B0ejh9fb
>>84 >・・・大乗仏教の巨大な体系の発展と確立を可能にした・・・
大乗に巨大とか、ジャンボジェットなどという形容は不適切だろう。
大乗は<牛の車>、小乗は<鹿の車>という程度の違い。
91 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 22:40:33 ID:B0ejh9fb
創作と言えば、梵網経も中国で5世紀ごろに作られたらしい。
92 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 22:43:13 ID:VBDNX5/A
93 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 22:44:48 ID:VBDNX5/A
>>91 パーリ梵網経と華厳系梵網経を混同する無知。
なんど繰り返されることかw
94 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 23:05:57 ID:B0ejh9fb
>>93 ありがとう。ひとつ利口になったw(~~)
>>87 <混沌>の話だったかもしれない。
95 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 23:19:55 ID:2ZWvtyOd
>>87 >この生命が魂であり、魂は肉体に還元できない。
>この魂が人間の根源であろうと思う。
それでは、順序が逆である。「魂(精神、即ち、感情と理性)」は、肉体
から発する。君の例で言えば、精神が働かない睡眠中にも、全身麻酔中にも、
心臓は鼓動している。その逆は真ではない。
心拍が停止し、脳に3分間血液の供給が停止すれば、精神中枢である脳の機能は
は不可逆的に障害される。
96 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 23:24:44 ID:B0ejh9fb
>>11 >これを「意識レベル」と勘違いするかもしれません。
>(禅においては魔境とも逝っている)
>のりPが吸ってたと言われる麻薬みたいなもんですね。
書かれた内容で、あなたのレベルがどの程度かが推測できる。
悟りには程遠いレベルだとお見受けしました。
夢の中にあっても意識が働いていないと悟ることは不可能でしょう。
97 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 23:32:48 ID:B0ejh9fb
>>95 君こそ順序が逆である。
君は見かけにだまされ、生死の謎がわかっていない。
切断された足はやがて腐る。魂の抜けた肉体には死が訪れる。
何を考えようが君の自由である。別に強制はしない。
死んで終わりだと思って死を迎えたらいい。
98 :
神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 23:52:53 ID:2ZWvtyOd
>>97 心臓の停止と共に脳の機能は停止し、魂(精神、即ち、感情と理性)の発生は
停止し、「全身」は腐敗する。
釈迦は、「生・老・病・死」は「一切皆苦」と説いた。君たち宗教者は、「永
遠の生命」を得て、「永遠の苦」を味合うことになる。
そしてここぞとばかりに数スレ前に出した脳死からの復活ネタを在家がまた貼り
新しいループが誕生。
100 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/26(水) 23:59:14 ID:B0ejh9fb
二元的思考については言葉の限界が盲点になっている。
言葉は平面的であり、立体を表現することができない構造になっている。
言葉が平面的だから、必然的に思考が平面的になってしまう。
それがわからないから二元的思考を非難する人がいる。
そうじゃないんだよね。
わたしもあなたも全員が二元的思考をしている。
そんな中で一在家氏は、言葉と現実を区別しているように思われる。
言葉を離れ、現実をストレートに見ることが悟りの始まり。
101 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 00:00:43 ID:LRS/QJiK
>>97 日本では、火葬が義務付けられているから、君は、死後、まず、火葬の
熱さに断末魔の苦しみを経験しなければならない。覚悟は出来てるのかね。
「永遠の生命」とは「地獄」の別名であることを、自覚すること。生に
対する執着への、過酷な罰則である。
102 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/27(木) 00:12:27 ID:dDHaNDGt
>>101 わたしはどうでもいいけど、
あなたにはよい夢を、グッドナイト(~~)
>>前スレ886
> 死後に無記というのは如来の死後であって凡人の死後ではありません。
片山一良先生は「パーリ仏教における涅槃」で、
> 伝統的註釈師たちは,この場合の“tathAgata”を「如来」と解さず,
> つねに“satta”(生けるもの),あるいは“attA”(我)という語をもって説明した
と、お書きになっています。
また、漢訳仏典を奉じる地域では、『大智度論』が、龍樹菩薩の著述として、きわめて大きな
権威をもって扱われてきましたが、そこでは、
> 是亦名如來。亦名如去。如十四置難中説。死後如去者爲有爲無。亦有亦無亦非有非無。(T25, p.454)
> 死後有如去者。・・・如去者如人來此間生。去至後世亦如是。(T25, p.547)
などと書かれていて、十四難の文脈におけるタターガタを、いわゆる「如来」とは明確に区別して、
「如去」と訳し分けており、意味も「“人”がこの間に生れ来るように・・・」と解しています。
これらの見解が、パーリ仏教と漢訳仏教の圏内では、伝統的に正統なものとされてきたのでしょう。
104 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 01:14:03 ID:LRS/QJiK
竜樹の論法(「竜樹と語れ!方便心論の言語戦略」(石飛道子著)より):
アートマン肯定者:「我はある。あなたが我を否定するのは、我があることを
前提とし、肯定している」。
竜樹:「あなたは、我にあらざるものを否定している。それは、我にあらざる
ものを前提とし、肯定している。あなたの論法は正しい。」
アートマン肯定者:「???」
105 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 03:11:25 ID:Cfk9+RlG
このように、竜樹の理論は、すべての宗教上の戯論を無力化する物凄い原理
なのです。そして、「我」はないのだから、「我」と「汝」、そして万物が
一体となる。イエスのように「敵を愛せよ」などという必要はない。神もいな
いのですから、神のために争う必要もない。そもそも、本当の「敵」は存在し
ないのですから。敵がいるとすれば、それは、無我であることを忘れて、自己
を主張し、相手を敵視する自分の心だということになります。
佛教では、「宗論は、どちらが勝っても釈迦の恥」なのです。
106 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 04:00:51 ID:nnYJo8EU
キリスト教でも後世の人間の主観や時の勢力により聖典というのが改竄されたり
都合の悪い福音書は省かれたりした。
同じことが仏典にも言える。
「無常・無我・縁起」 これに反する輪廻思想は釈迦の教えではない。
108 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 05:26:25 ID:nnYJo8EU
>>107 全く無かったとは言わないが、極めて異なる基盤に基づくものであり、
仏教では、あまり意味がない。
なぜなら、セム系宗教は唯一神の唯一絶対の命令と見るから、
真理は一つであり、必ず正邪・真偽があるという前提がある。
ところが、仏教では教えは縁起と見るから、人、時代、状況などに応じて
様々に現れる。地域・時代に応じて変化する。
その中で変化しない重要な核心が縁起である。
109 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/27(木) 06:57:52 ID:YxFF3e9M
>>104 >アートマン肯定者:「我はある。あなたが我を否定するのは、我があることを
>前提とし、肯定している」。
これは単なる、実有論の肯定
>竜樹:「あなたは、我にあらざるものを否定している。それは、我にあらざる
>ものを前提とし、肯定している。あなたの論法は正しい。」
実無論の否定。および実有論の否定。
つまり、実有でもなく実無でもない。
>アートマン肯定者:「???」
肯定はしてない。
110 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/27(木) 07:17:44 ID:YxFF3e9M
>>96 E4bNl5MIvU氏
>書かれた内容で、あなたのレベルがどの程度かが推測できる。
>悟りには程遠いレベルだとお見受けしました。
「意識レベル」が、どうの?こうの?など逝ってる段階はまだまだですねぇ。
これは瞑想の初歩でありんす。
こういったラリポップな精神状態が、ある日崩壊を迎えるのであります。
覚者は全てここを透過して逝きます。
(例外はありません)
これは「コペルニクス的大転換」と申せましょう。
ひとつのヤマ場です。
これで瞬時に「不死」の境地を会得します。
この段階を踏まねば、瞑想したことにはならんですね。
残念ですけど。
で、この段階になりますと、
レベル概念も一緒に崩壊しますから、
レベルがどうの、こうの、とか言わんよぉになりますね。
悟ればレベルは関係なしですよ。
(注意:これで完成したわけではないですけどね)
111 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 07:54:25 ID:nnYJo8EU
112 :
一在家:2009/08/27(木) 08:33:18 ID:DfFk6Zm1
>>100 >わたしもあなたも全員が二元的思考をしている。
>そんな中で一在家氏は、言葉と現実を区別しているように思われる。
>言葉を離れ、現実をストレートに見ることが悟りの始まり。
あれー、本人も気付いていなかったことです。 有難うございます。
都会の人中と比べて、大自然の中で一人瞑想をすれば、言葉が入って
来ない分悟り易いのでしょうか。
113 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 08:36:49 ID:+4hkhrWs
>>112 君は果たして現実をストレートに見ているのかね。神など信じていたら、
到底不可能だろう。神は、現実ではなく、妄想。
114 :
一在家:2009/08/27(木) 08:48:27 ID:6bTccmmH
>>101 >日本では、火葬が義務付けられているから、君は、死後、まず、火葬の
>熱さに断末魔の苦しみを経験しなければならない。覚悟は出来てるのかね。
古代の日本人には智慧があり、魂のこともよく知っていたのでしょう。
日本には「お通夜」があり、一日あれば魂(+幽体、霊体)が肉体から
離脱できるので、それ以降に肉体が焼かれても痛みは感じないそうです。
しかしこの状況だと、「臓器移植」は大変きついですね。
更に死んだ時の状態を死後の世界でも何十年も何百年も引きずることが多く、
「俺には臓器が無い!」と固執した念がご霊を苦しめます。
憑依霊でも「手足がない」、「首を落とされた」、「腹を切った」と訴える者が
非常に多く、本当は「手足がある」、「首もある」、「腹は切れていない」と
想念転換すればその状態に戻るのが(肉体と違って)霊なのですが、ここまで
憑依霊達を諭すには結構日数(回数)がかかる場合も多いです。
スレ違いですのでこの辺りで止めておきます。
115 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 08:55:05 ID:v7fMOyA4
>>107 >「無常・無我・縁起」 これに反する輪廻思想は釈迦の教えではない。
・・・と仏典を解釈するのもひとつの我見であろう。
116 :
一在家:2009/08/27(木) 08:57:13 ID:6bTccmmH
>>114 >想念転換すればその状態に戻るのが(肉体と違って)霊なのですが、ここまで
>憑依霊達を諭すには結構日数(回数)がかかる場合も多いです。
前スレで机氏は思い込みで「最大の除霊集団」だとのたまっておられましたが、
聖書のイエスのように神の権限にて除霊する訳ではございません。誤解なきよう。
憑依霊が固執・執着を説いて、自らあの世へ往かれるのです。
憑依霊を悪霊だとか悪魔だと勘違いして恐れる人も多いですが、縁起にて
肉体の死後に憑依するだけで、我々も皆なり得る可能性があります。
117 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 09:30:43 ID:nnYJo8EU
>>115 >
>>107 >>「無常・無我・縁起」 これに反する輪廻思想は釈迦の教えではない。
ただの誤淫嘘の妄想だから。
「無常・無我・縁起」だからこそ輪廻すると仏教は説きます。
118 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/27(木) 10:03:59 ID:sNHkodMP
>>87 タオイズムの中国版ヨーガが仙道ということではないでしょうか。
仙道の内容の殆どはインドヨーガで説明できます。
要するに、共通の事実を捉えて説いている。
>魂の人は現実世界で魂とやらの本来の力を出せず
>現実に順応できない人をどうとらえるの?--略--
>そもそも宗教が過度に禁欲的になるのは
>この肉体的な変化が精神の変化であるからではないですか?
魂はその次元においては完全ですが、
肉体人間(パーソナリティー)はそれを顕現できないのです。
何故なら、物質は波動が荒くて精妙なエネルギーには鈍感だからです。
魂、本来の特質を顕現するにはパーソナリティーを制御する必要が出てきます。
それが修行であり、自己意識(自我)の純化には禁欲的な方向性という訓練が必要です。
自我を静めないことには魂意識は発露できないのです。
このような自我から魂へ向けてのアプローチは、必然的に魂の側からの自我への関心をも高め、
相乗的な効果を生むのです。
(〜以上、質問に対する返答として投稿しました)
119 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/27(木) 10:04:47 ID:sNHkodMP
>>24 >現象界の超越。つまり世界の超越は現象でありまして、
>これを仏教では「心作用」と言います。
>心作用も色作用も同じです。つまり「現象」。
>
>幻覚作用も現象ですから、おなじ心作用に変わりはない。
>薬害中毒などは神を見るそうです。
>のりPなども、おそらくは異次元を楽しんだことでありましょう。
勘弁して下さいよ、机さん!
現象界を超越しているのがニルヴァーナですよ。
ですから、言葉による表現を超えているのです。
ウダーナ8:3のどこをどう読んでいるのか??
あなたの話は、まるでゴータマ仏陀を薬物中毒者にしています。
>>27 >慧眼とか仏眼とかいって、眉間のチャクラが開く。
>目が三つになる。(見た目には判断はつかない)
現象界を超越する話しは薬物のせいにする割りには、
チャクラのお話は随分とお気に入りのようですね?
チャクラの覚醒の話しは超自然能力の発現が付きものだというのに・・・。
120 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/27(木) 10:05:32 ID:sNHkodMP
>>39 >※勿論、ここに於いて、三界も意生身も≪「意識内のこと≫であり、
>≪この肉体と同じように『3次元的に』共存・併存する世界として、どこかの場所として≫
>は捉えない、というスタンスはありだし、私は、実際、まさにそのように見るべきだと思っている。
これらの超越的な存在や現象というものは、確かに通常では捉えられない。
しかし、ある時には偶発的(恩寵という場合もあり)に、
或いは修行レベルに応じては意識的に捉えることができるようになります。
その完成の究極がニルヴァーナであって、現象界を生じている根源に行き着くのです。
121 :
法華の骨(ken改め):2009/08/27(木) 10:08:40 ID:kxVUGtqN
>88 :神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 22:22:17 ID:ZNUwuBC+
>>83 あなたは、確か、神通力および各種の超常現象的な記述も
釈尊の神格化を意図したものではなく
実際にあった事実であるとの見解をもっていたと思いますが?
そのあなたが、法華経を創作と断じるのは、理解に苦しみますね。
あなたの大きな勘違いです。
神通力で涅槃獲得できるわけではなし、
修養の過程において得る者もいれば、無くて
涅槃へ赴いた弟子もいますよ。
空中説法の虚空会など、神話やおとぎ噺の類、
成文化されていない時代での経典や法華経の受持読誦の記述など、
どれをとっても創作された証拠が満載です。スレから離れるので
ここまでとします。
122 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 10:13:15 ID:v7fMOyA4
>>117 >「無常・無我・縁起」だからこそ輪廻すると仏教は説きます。
そんなこと説いてる仏典なんか見たこと無いよ。
縁起の法を見るなら輪廻から解脱すると説くのが仏法だろ。
123 :
閻魔大王:2009/08/27(木) 10:29:35 ID:Fh+k0ZVE
だるい議論が続くな。
検証不能の御都合主義的妄想ならいくらでも語れる。
安上がりのレジャーだな。
アートマン?
古代アーリア人のインチキ妄想にまだしがみついてるんか。
芸術(アート)家(マン)ならいくらでも地獄送りしてやったが、
順番待ちの奴が、そこでゴミ箱あさってるデw
124 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 11:22:24 ID:nnYJo8EU
>>122 縁起を見て無我を悟るなら輪廻を解脱する、それは確かにそう。
これは還滅門の縁起。これなくば、これなしの方。
しかし、そこに輪廻が前提になってるのが読めてない。
そして、輪廻していること自体が縁起だから。
これは流転門の縁起。これあらば、これありの方。
どこでも説かれてるぞ。例えば、『スッタニパータ』724-765
125 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/27(木) 11:41:56 ID:YxFF3e9M
>>119 法珠氏
>勘弁して下さいよ、机さん!
>現象界を超越しているのがニルヴァーナですよ。
>ですから、言葉による表現を超えているのです。
これはよく勘違いするんですよね。
拙者も勘違いしたから、貴殿の気持ちは分ります。
貴殿がいうニルバーナというのは、拙者は何回も経験してます。
目の前の世界はキラキラと輝きだすのです。
そしてそれはまるでスローモーションのようです。
映画のいちシーンのように、木の葉が華麗に舞い踊るのです。
まるで別世界。
実に美しい。
「山川草木悉有仏性」というのはこれだ!!!
と、自分なりに悟った気持ちになりましたけど・・・
後に「参禅帰りの白隠・見性体験」を読んでみると拙者と同じ体験をしている。
これは白隠が大悟する前ですから、ようは誰でもこういう体験をとおして〜〜
少しずつニルバーナに近づいていくんですね。
こういう現象というのは、心が浮ついてラリッてる状態なんです。
つまり恋愛でいいますと、彼女を想って胸が痛くなる状態。
(恋愛初期の精神的不安定な時期と思えばいい)
こういう体験を経まして、少しずつ心が安定期に入ります。
そして現象界が超越することもなく、
全てが無に帰す段階へと悟入して逝きます。
126 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 11:50:03 ID:v7fMOyA4
>>124 >どこでも説かれてるぞ。例えば、『スッタニパータ』724-765
だから、それらはすべて輪廻の解脱へいたる道をといてるだけだ。
縁起があるから輪廻が有るなどと説いてはいない。
127 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 12:03:20 ID:nnYJo8EU
>>126 違う。中村訳で二種の観察法と説いているだろう。
それから水野『要語』旧版163以下を読め。
それに「これあらば、これあり」という流転門が、
なぜ、縁起しているから輪廻であるにならないのだ?
「無明あらば、行あり」から始まって生老病死に至るまで、
ぐるぐると輪廻しているだろう。
理解不足。
128 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 12:08:14 ID:nnYJo8EU
>>126 >縁起があるから輪廻が有るなどと説いてはいない。
そうは言わない縁起・空だから無常に変化でき輪廻できる/輪廻すると言う。
129 :
一在家:2009/08/27(木) 12:08:15 ID:6bTccmmH
>>125 机氏
>貴殿がいうニルバーナというのは、拙者は何回も経験してます。
>目の前の世界はキラキラと輝きだすのです。
>そしてそれはまるでスローモーションのようです。
>映画のいちシーンのように、木の葉が華麗に舞い踊るのです。
>まるで別世界。
素晴らしい体験ではございませんか、机氏。
中論の言語世界を超えた世界が、マルチメディア「映画のいちシーン」
という表現からよく伝わって参ります。
ここで「キラキラと輝きつつあるものは、輝かず」では興ざめですね。
130 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 13:01:56 ID:SFGiyA/P
>>129 竜樹は、極めて高度の知性を持つ健常者だから、狂人を相手にしているのではない。
131 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 13:21:16 ID:SFGiyA/P
>>129 竜樹の卓越した理論は、きみたちすべての宗教者の妄想と狂気を打ち破る
力を持つ、いわば宗教撲滅のための理論である。
白隠も、禅によって禅病(精神病の一種)に罹ったが、内観法に基づく
「相互依存性と関係性の回復」によって、治癒した。
133 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 13:35:52 ID:v7fMOyA4
>>127 >「無明あらば、行あり」から始まって生老病死に至るまで、
>ぐるぐると輪廻しているだろう。
だから、それは縁起であって輪廻ではない。
134 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 13:49:15 ID:SFGiyA/P
>>132 すべてのカルトは、竜樹を異常に恐れる。己の狂気と妄想から目覚めさ
せられるのが、自己を否定されることになるという根拠の無い恐れに、
慄いているからである。
135 :
一在家:2009/08/27(木) 14:03:42 ID:DfFk6Zm1
>>131 >竜樹の卓越した理論は、きみたちすべての宗教者の妄想と狂気を打ち破る
>力を持つ、いわば宗教撲滅のための理論である。
龍樹の言語世界での理論は無害でしょうと書き込み済みです。
ただ彼が「現象世界でも証明した」というのは妄想でないのか
正見致しましょう。
中論の何章に縁起や空を「現象世界でも証明した」事例がありますか?
中論もスレ違いなのでこの辺で止めておきます。
136 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 14:13:56 ID:nnYJo8EU
>>133 縁起經 (No. 0124)
T0124_.02.0547b17: 佛言。云何名縁起初。謂依此有故彼有。此生
T0124_.02.0547b18: 故彼生所謂無明縁行。行縁識。識縁名色。名
T0124_.02.0547b19: 色縁六處。六處縁觸。觸縁受。受縁愛。愛縁
T0124_.02.0547b20: 取。取縁有。有縁生。生縁老死。起愁歎苦憂惱
T0124_.02.0547b21: 是名爲純大苦蘊集。如是名爲縁起初義」
上の定型句は色々な経典論書で引用される縁起です。
下の輪廻とどこが違うのでしょう?
毘婆尸佛經 (No. 0003)
T0003_.01.0155c27: 衆生愛著輪廻生死。苦蘊相
T0003_.01.0155c28: 續無有窮盡。又復思惟。此老死苦因。何縁
T0003_.01.0155c29: 所生而得老死。
仏教でいう輪廻は、上のような縁起して生まれ変わり死に変わって相続することを言うのであって他ではないでしょう。
さて、以上に反論するなら根拠を示して論証してください。
でなければ、ただの信仰表明で、間違った信仰は改めるべきですね。
>>134 ただの誘導に何を言っているのですか?
>>135 以降答える際は、あちらのスレに書き込んでから、
そのレスのurlをこちらに貼るなどして誘導して
もらうと助かります。
138 :
閻魔大王:2009/08/27(木) 14:23:29 ID:Fh+k0ZVE
だめだ、こりゃー!
ほんと、うっとうしいなあw
仏典にアートマンについてどう書いてあろうがなかろうが、
無我
無苦集滅道
これですべて調ってるやん。
なんにも案じることはない。
このあいだ、なみあみだぶ〜しかよー言わん婆ちゃんは天国送りにしたが、
ごちゃごちゃぬかす大宗教学者は不眠勉強地獄に送ったったw
139 :
閻魔大王:2009/08/27(木) 14:40:40 ID:Fh+k0ZVE
だいたいアートマン、アートマンって振り回してる奴は、
結局、「我執」から離れられんカモフラージュにしか過ぎんのや。
インテリはこれやからアカン。
そんな奴は地獄送りしかないやないか。
ここにも、そんなんがいっぱいいるな、楽しみやのーw
140 :
1/4 旧7:2009/08/27(木) 14:45:13 ID:V99cXnwl
使用したのは、原始仏教第5号(1993年4月発行/中山書房仏書林)。
例によって“【”“】”は引用者の挿入。
───────────────
乳製品のくだり。(上掲書p110)
*(直前には、3種の我の獲得が、それぞれの時にそれぞれのみしか該当しないことが、
同様の文章構成で述べられていることに注意。)
『(35節):チッタよ、たとえばそれは、
牛から牛乳が、牛乳からヨーグルトが、ヨーグルトから生バターが、
生バターからバターが、バターから醍醐味が生じるようなものです。
【牛乳が生じるとき】、それはけっしてヨーグルトと呼ばれることがないのです。
生バターと呼ばれることがないのです。バターと呼ばれることがないのです。醍醐味と呼ばれることがないのです。
【そのときはただ、牛乳とだけ呼ばれます】。』
(以下、単語を入れ替えて同様に続く。すなわち、
≪ Aがある時(生じている時)、それはBともCともDともEとも呼ばれることなく、ただAと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Bがある時(生じている時)、それはAともCともDともEとも呼ばれることなく、ただBと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Cがある時(生じている時)、それはAともBともDともEとも呼ばれることなく、ただCと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Dがある時(生じている時)、それはAともBともCともEとも呼ばれることなく、ただDと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Eがある時(生じている時)、それはAともBともCともDとも呼ばれることなく、ただEと(のみ)呼ばれる ≫ と。)
141 :
2/4 旧7:2009/08/27(木) 14:45:58 ID:V99cXnwl
ここで言われているのは、(実は「3種の我の獲得」もそうであるが)、
その時その時の「相(≒在り様)」によって「○○」と呼ばれているのみである、ということだ。
そして、経文のどこにも 《“相”によって名称は変化しているが、変化しない“乳製品としての本質”がある》
などと書かれてはいないし、文脈としてもその意味はない。
あくまでも 《今まさにどのような相(≒在り様)であるかによって、各名称が付されている》。
たとえ、(この場合なら乳製品としての)繋がり・関連性があったとしても、それは、時系列の上での関連性に過ぎない。
そこに、「なにかしら不変なるもの」を見出すことは、少なくとも、この経のこの部分からはできない。
「(乳製品(として)の)本質」には、一切触れられていない。それが“ある”などと言われてはいない。 よって、
>>72 >【乳製品の本質は変わらない】(1) などと言い得ないし、
>乳製品の【本質は常住】(6) とも言い得ない。
「本質」についてなどどこにも述べられていない。
ましてや、
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1247232994/635 >釈尊は牛乳、ヨーグルト、バターに【共通する】【乳製品の「本質」を解説】されておりますが、・・・・・・
など、誤読にも程がある。
ただただ >【その相は無常であり、名称も変化】(3) しているのみ。
(今ある)その相によって、 >牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐と >【呼ばれる】(2) のだ、と。
各名称で呼ばれ得るような相(の状態)であるから、その名称で呼ばれるのだ、と。
ここでは、このことだけが言われている。本質についての教えではない。
(→寧ろ「常住不変で固定的本質などない」という含みがある。)
142 :
3/4 旧7:2009/08/27(木) 14:46:52 ID:V99cXnwl
ここで、この35節冒頭のチッタへの呼びかけ部分の註を付しておく。
〈ここで簡略に説かれたことの意味は次の通りである。
――たとえば牛から牛乳が、また牛乳などからヨーグルトなどが生じるとする。
そのうち、【牛乳が生じるとき】、そのときは「ヨーグルト」とか「生バター」などのうちのどれかとか
称されたり、言われたり、名づけられたり、呼ばれたりすることがない。 なぜか。
もろもろの法によって【「ヨーグルト」などというもろもろの慣用語が生じる法はない】からである。
そこで、「牛乳」とだけ、そのとき呼ばれるのである。 なぜか。
もろもろの法によって【「牛乳」という名称、言辞、名前、慣用語が生じる法はある】からである、と。
この仕方はどの場合も同じである〉。
参補:
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】10
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1248609075/359後者註
143 :
4/4 旧7:2009/08/27(木) 14:57:56 ID:V99cXnwl
以上のことから、
>>72 >当時のバラモン達は【「バターだ。」、「否、ヨーグルトだ。」と論争して】(4)
>仏の眼で見れば【本質は同じ】(5)
は、前文(4)は、まさにその通りで、
≪諸縁によってバターの相であるからバターと呼ばれているだけのものを、
「これこそが絶対的バターだ!」「これこそが絶対的ヨーグルトだ!」等の論争≫であり、
後文(5)は、≪仏の眼で見ればそれらは顛倒妄想であり、縁により変化する相にその都度付された名称に過ぎず、
そこに絶対的恒常的本質を見るのは愚かな行為である≫ということならば言えるだろう。
けっして≪乳製品の本質を説いたわけではない≫≪「本質は同じである」と説かれたわけではない≫、
ことは留意されねばならない。併せて、
>【乳という「本質」は変わらず】(6)に、 >【名称が変わる】(3)
のではなく、≪諸縁により現じている相によって名称が付される≫のであり、
そこに≪絶対的恒常的本質が見られるわけではない≫。 (→寧ろ逆であろう。)
以上によって、 >【アートマンを乳製品(本質)とした場合】(7) といった比喩(思考実験)は、
この経に於いては成立しない。
また、≪ >【人の変わらない「本質」がアートマン】(7) ≫という前提は、
尚更、この経とは関係なく、別の形で主張され或いは反駁されるべきことであり、
「これ」を前提としてこの経を読み、乳製品のくだりと関連付けるのは、
荒唐無稽な茶番だと言わざるを得ない。
───────────────
きちんと出典(=文章)が提示されてないので、かなり支離滅裂な反論となってしまったが、
御容赦願いたい。併せて、諸賢の添削を乞う。
ノシ
144 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 15:13:57 ID:nnYJo8EU
>>143 検討したいので、原文か経典の所在、PTSとかVRIとかを示してください。
正に縁起ですね。
145 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/27(木) 15:30:47 ID:YxFF3e9M
>>129 在家どの
>素晴らしい体験ではございませんか、机氏。
>中論の言語世界を超えた世界が、マルチメディア「映画のいちシーン」
>という表現からよく伝わって参ります。
>ここで「キラキラと輝きつつあるものは、輝かず」では興ざめですね。
いやいや、よぉく考えてくらっしゃりませ。在家どの
「言語世界」と「映画のいちシーン」とは別もんですね。
言語といいますのは論理を構築するものでありますが、
「映画のいちシーン」といいますのは非言語であり、無意識であり、
直感的なものでございます。
つまり非常に情緒的なものでございまふ。
情緒的といいますのは、つまり自己投影ですね。
これは恋愛する男女が、ロマンスの世界に没頭するようなもんです。
理性ではなく、感性・感情の領域になるやに思ひます。
この段階では非常に精神的不安定があります。
この不安定な時期に、カルトのdでも概念を挿入されますと、
人間は簡単に墜ちます。
>ここで「キラキラと輝きつつあるものは、輝かず」では興ざめですね。
龍樹は、上記書込みの対極をなすものでして・・・
人間というのは、本能的な部分と、理性的な部分があり、
うまくバランスをとって生きておるのですが、
仏教といいますのは、この理性への探求なのであります。
これは情緒的な余分な「思い込み」を廃すのが前程であります。
この手法(方法)として、中論は位置づけられるやに思います。
キラキラ輝きつつあるもんは、そのまんま輝いております。
146 :
旧7:2009/08/27(木) 15:36:20 ID:V99cXnwl
蛇足を加えれば、
>>72(
>>143)
>【乳という「本質」は変わらず】(6)に、
という言辞すらも、既に「乳」という名称を使用しており、それもまた諸縁により、そう呼ばれる事象でしかない。
本来は「乳」と呼び得る限定的様相が、そこになければならない。
その「乳」もまた、牛乳やバター同様のものである、と見なければならない。
そのことを捨象し、もしそこに、イデア的に、公約数的に、全てに共通する形で『乳』という本質を探すなら、
それは妄想である、と。そのような『乳』は無い。
これが、乳製品のくだりで言われていることであろうと思う。
※そしてこれは、「アートマン」についても同様に言い得る。 (と思うw)
※ただ、ここに於いて、(牛乳等にしてもそうだが)、
≪「共通する性質がない」ということではない≫ことは留意されていいだろう。
共通する性質・要素等があるから、種々のカテゴライズが可能となるし、
地水火風等、或いは色として括られるもの(法)、受として括られるもの(法)、・・・・、
或いは苦として括られるもの(法)、(或いはニカーヤ等、経の分類も)、
といった認識・理解が可能となる。
ただ、それらは、「(所謂)アートマン」と並置され同義とされるようなものではない、ということになろう。
>>144 乳製品の一節?
PTS版は、DN.T.P.201(35節であることは変わらないと思う)。
ttp://www.tipitaka.org/romn/ ←ここならば440節。
フォントいじるのめんどいんで、原文コピペは勘弁w
てか、貴方なら長部第9経の一節ってだけで、探して特定できるでしょうが・・・w
147 :
閻魔大王:2009/08/27(木) 15:38:45 ID:Fh+k0ZVE
>>140-
>>143 ご苦労はん。あんたもよーやるなあ。
「一切行無常」
「一切法無我」ですむ。
名称と形態。
いずれ地獄逝きのあふぉインテリ相手は疲れる。
指先しか見よらんw
やるんやったら、自分の境涯を自分の言葉で語らんかい。
そして、無言になったとき、お悟りがくる。
148 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 16:02:54 ID:SFGiyA/P
>>135 >ただ彼が「現象世界でも証明した」というのは妄想でないのか
>正見致しましょう。
>中論の何章に縁起や空を「現象世界でも証明した」事例がありますか?
竜樹の「相互依存性・関係性」の原理は、現代の科学においても、すべて現象
世界において証明されるところが、竜樹の凄さです。むしろ、現実界の原理そ
のものではありませんか。これからの人類社会が向うべき方向を示した普遍の
一大原則です。一神教とは全く異なり、釈迦も竜樹も、現実から遊離した「妄
想患者」ではありません。「空想上の神や霊」を否定したのが、その証拠です。
その意味で、佛教は徹底的に「現実主義」の宗教です。そのことは、前レスで
「事典 哲学の木」からの文章を引用しました。
「佛教スレ」で、竜樹がスレ違い、などというのは、全く異常。日本は大乗仏教
の国です。小乗仏教のほうがよほどスレ違い。世界の人々が佛教に期待するのは、
その「空の思想」の故です。輪廻転生や神通力ではありません。輪廻転生は、
カースト制度の基盤として、忌み嫌われている要素に過ぎません。
原始仏典だけを何百年間論じても、どこにも行き着くところはないでしょう。
149 :
旧7:2009/08/27(木) 16:21:26 ID:V99cXnwl
>>148 >「佛教スレ」で、竜樹がスレ違い、などというのは、
あのな・・・w
中華料理屋に入って、(→その店は、中華料理を出す目的で建てられていることを忘れるな)、
「メニューにスパゲティが無い? 洋食屋としてそれはおかしいだろ?」
という発言と同じだというのがわからんか?
仏教という括りは、ここでの「客に料理を提供する施設」ということになる。
『全ての食材を使い、あらゆる調理法によるあらゆる料理を出す店』であるなら、
君の指摘は適合する。総合的に仏教を考察し議論するスレならな。
(→ >「佛教スレ」で、 と、先に自ら条件づけている所なんざ、見事な姑息さだなw)
だが、ここは違う。「メニューが限定されている」んだよ。
『「“所謂”初期仏教、原始仏教」と言われる範囲で考察しよう』というスレだ。
(しかも、どこまで釈尊に迫れるかという欲深い傲慢な面もあるw)。
経典として、その時代の思想が中心となっている、或いは含むものならば、
漢訳だろうが蔵訳だろうが引用しても構わん。だが、そこまでだ。
龍樹が(中論が)ここから外れることは解るよな?
「初期仏典の記述と、どう関連するか?」であるならば良い。
だが、中論の内容そのものを考察するならば完全に『スレ違い』だ。わかるよな?
それとも、君は、世の中に「メニューの傾向を限定した店は存在してはならない」とでも言うのかい?
さすがに発言が愚か過ぎるぞ。
150 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 16:43:34 ID:nnYJo8EU
>>146 どもです。
まさに一切法は生滅する性質のものである。ですね。
これあればこれあり、これなくばこれなし。
生 滅
しかも、生滅どちらも認識の問題で「これ」と認識される。
「これ」というのは
>>142「牛乳」という名称、言辞、名前、慣用語が生じる法はある
に他ならず、ただの習慣による記号・名称・概念です。
アートマンもただの習慣による記号・名称・概念に他ならず、
何か現象の基盤としての本質・実在のようなものはないと釈尊はハッキリ明言されているじゃないですか。
これでもう終了でいいんじゃないですか。
釈尊は恒常不変なアートマンは説かなかった、
ただの習慣による記号・名称・概念としてのアートマンは、世間の慣習とおり説かれたということで。
151 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 16:48:54 ID:nnYJo8EU
>>148 >「佛教スレ」で、竜樹がスレ違い、などというのは、全く異常。日本は大乗仏教
>の国です。小乗仏教のほうがよほどスレ違い。世界の人々が佛教に期待するのは、
>その「空の思想」の故です。輪廻転生や神通力ではありません。輪廻転生は、
>カースト制度の基盤として、忌み嫌われている要素に過ぎません。
龍樹菩薩はキッチリ輪廻とかれてますよ。それも何度も指摘されてますね。
誤淫嘘w まったく誤淫嘘、在家、カラス、机は話にならんは。
まさに縁起・空だから輪廻すると。
『中論』『因縁心論』『宝行王正論』『勧戒王頌』と、
そして中観の伝統でも、インドでも、チベットでも、シナでも日本でも、
輪廻して生まれ変わり死に変わるとキッチリ説いています。
もういいでしょ。嘘と誤読に淫するのはw
152 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 17:24:18 ID:SFGiyA/P
>>149 中華料理店やスパゲッティの例を出されてもw。
ここのスレタイは、「仏陀はアートマンを説いたか」です。竜樹も世親も、
すべての他の大乗仏教も「仏陀が説いたこと」に基づいています。その解釈
に、大乗を「除外する」のは片手落ちでは?
>>151 釈迦であろうと、竜樹菩薩であろうと、盲信はカルトである。
>>152 >ここのスレタイは、「仏陀はアートマンを説いたか」です。
テンプレも見ましょうね。
>その解釈に、大乗を「除外する」のは片手落ちでは?
「仏教史における『我』の扱い」というスレならそれは適合する。
しかし「仏陀はアートマンを説いたか」という事実関係を問うスレに
おいては不要だ。さらに時代の下る「大乗」をわざわざ使用する理由は無い。
>釈迦であろうと、竜樹菩薩であろうと、盲信はカルトである。
デタラメにいじったほうがマシというわけでも無いのだよ。
カルトだと否定するだけなら良かったのだが、
あさましくも都合よく歪めて利用する輩がいる。
>>151はその歪曲を指摘しただけのことだ。
154 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/27(木) 17:50:45 ID:YxFF3e9M
>>151 >輪廻して生まれ変わり死に変わるとキッチリ説いています。
これを現代的に解釈しますと、
男女和合において子供が生誕し、命の継承をしていく。
この命の流れを輪廻と言ってるもんで、
スレタイにある「輪廻転生」とは意味が違う。
命という大きな流れをガンジス河に譬えて、
古代インドでは、その両岸を此岸・彼岸というイメージをしたのだろう?
現代ならDNAの仕組みなど知識がありますから、
「因縁心論」における識の過去から未来への伝達、ってのは
まさに縁起に基づくのであればDNAの伝達、
ってことで誰でも納得がいく。
龍樹の言説を、当時の時代背景では誤読しやすいもんでも、
「縁起⇔輪廻」というコアな部分だけ抽出するだけでも、
明らかに現代でも通用する「生命継承」しかない。
引用元の文があらわす内容を曲げてまでやる付会ではないと思いますが。
156 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 18:05:29 ID:dpyj0z1E
>>150 >アートマンもただの習慣による記号・・・
>これでもう終了でいいんじゃないですか。
そう思うなら、このスレに参加しなければいいだろう。
157 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 18:12:03 ID:SFGiyA/P
>>153 >テンプレも見ましょうね。
テンプレには、原始仏典に限るという「限定」はない。「歓迎する」とは
書いてあるが。
> 仏陀はアートマンを説いたか」という事実関係を問うスレ
大昔の「事実関係」など、誰にも正確には判らない。原始仏典に書いて
ることが、「釈迦の真意であったか」などは、さらに分らない。
歴史とは、過去の事実の、「現代の視点からの解釈」であることを、
忘れてはならない。あくまで、「現代人の参考程度」以上のものでは
ない。
「講釈師、見てきたような嘘を言い」という諺もあるねw。
大昔の釈迦が言った、言わない、が、現代人にとってどんな意味がある
のかね。開祖盲信、仏典盲信のカルトに他ならないではないか。
158 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 18:18:05 ID:dpyj0z1E
竜樹も世親も、このスレの参加者など足元に及ばないほど、
原始仏教・その後の仏教を学び考えている。
そしてかれらはアートマンを真正面から論じているのだ。
ふたりをはずすわけにはいかない。
もっと謙虚になろう。
159 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 18:26:39 ID:dpyj0z1E
>>151 :神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 16:48:54 ID:nnYJo8EU
>龍樹菩薩はキッチリ輪廻とかれてますよ。
中論の何章の何詩で説いているのか。
あなたはコテつけて発言してほしい。名無し無責任な発言はやめよう。
>>157 >テンプレには、原始仏典に限るという「限定」はない。
資料は仏典だけじゃないだろ。これまで何度も諸学者の著書が引用された。
大乗仏典が資料的には劣ることは既に明らかになっている。
つか、隠居がいまやってる能書きを言っていいのは、大乗仏典の
ここには古い形が残っている、とか分析するつもりのある人間だけだろ。
思想闘争に利用するだけの、してきただけの人間がふりかざしていいものではない。
>大昔の「事実関係」など、誰にも正確には判らない。
それを言い訳にしか出来ないところが隠居の隠居たる所以なんだよ。
ここでは少なくともパーリ仏典は大乗よかマシという土台があり、そこから様々な
仏典を参照して割り出す作業がなされている。それに意義を感じないのなら参加しなければいいだけの話だ。
>>157の主張に則るのなら、そもそも大乗を資料として持ち出す理由も無くなるのだが。
もう一度書くがここは「仏教史における『我』の扱い」というスレではないのだしね。
>大昔の釈迦が言った、言わない、が、現代人にとってどんな意味があるのかね。
意義を感じないのなら(ry
>開祖盲信、仏典盲信のカルトに他ならないではないか。
デタラメにいじったほうがマシというわけでも無いのだよ(
>>153)。
以下同文。
161 :
旧7:2009/08/27(木) 18:37:53 ID:V99cXnwl
>>158 だからwww
お釈迦さんは、龍樹の言う空を説いていない、と言ってるんだよ。
少なくとも、初期の伝承者達は「空(空性)」ということに注目していないんだよ。
龍樹は発展系(それもかなり「トガッた」www)だってのが、何度言ったら解るのかな・・・。
ここにガノタがいるかどうかわからんがw、
1stガンダムの世界観を、∀の世界観で「確定」しようとするようなもんだ。
寧ろ、安彦の漫画版を参考にする方が、よっぽど適しているw
162 :
旧7:2009/08/27(木) 18:44:11 ID:V99cXnwl
>>161に少し補足すれば、
1stに関連付けるならまだしも、∀の世界観しか語らないならば、やはりスレ違いということだ。
わかるよな?
>>158 「中論がどういうものか」なんて話題になったらスレ違いだと言ってるんだ。
『初期仏典の記述を、龍樹はこのように捉え、解釈している、だから、
無我の伝統は龍樹へとしっかり継承されている』とでも論証してゆくなら別だが。
たびたび出てくる龍樹や中論の議論はそうじゃないだろ?中論自体についての議論になってるだろ?
だからスレ違いだと言ってるんだ。
わかったかい?坊やw (って、お前EOEだろ?w)
163 :
閻魔大王:2009/08/27(木) 18:45:28 ID:Fh+k0ZVE
>>152 >竜樹も世親も、
>すべての他の大乗仏教も「仏陀が説いたこと」に基づいています。
仏典に「書いてある」ことはわかっている。
しかしそれは超伝聞証拠にしかすぎない。そもそも証拠能力がないのだ。
僧侶の妄想によるでっち上げがいくらでも可能なのだ。
そもそも竜樹も世親も、すべての他の大乗仏教も、
「説いた」ことをどうして確認・検証したのかが問題なのだ。
先人が検証抜きで安易に伝聞文書を信じた愚かな態度を
我々が繰り返すのは愚かさの上塗りだというほかない。
164 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 18:46:56 ID:dpyj0z1E
>>125 机龍之介氏
>目の前の世界はキラキラと輝きだすのです。
>そしてそれはまるでスローモーションのようです。
>映画のいちシーンのように、木の葉が華麗に舞い踊るのです。
・・・略・・・
>「山川草木悉有仏性」というのはこれだ!!!
>と、自分なりに悟った気持ちになりましたけど・・・
・・・略・・・
>・・・ようは誰でもこういう体験をとおして〜〜
>少しずつニルバーナに近づいていくんですね。
・・・略・・・
>こういう体験を経まして、少しずつ心が安定期に入ります。
>そして現象界が超越することもなく、
>全てが無に帰す段階へと悟入して逝きます。
全てが無に帰す・・・最後の一行にあなたの境地が語られている。
あなたを、死んだら終わりの断滅、虚無主義者と理解した。
165 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 18:48:35 ID:nnYJo8EU
>>154 全く違う。貴方が読めもしないし、何の体験もないことを示してあまりある。
166 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 18:54:52 ID:nnYJo8EU
>>161 >お釈迦さんは、龍樹の言う空を説いていない、と言ってるんだよ。
>少なくとも、初期の伝承者達は「空(空性)」ということに注目していないんだよ。
>龍樹は発展系(それもかなり「トガッた」www)だってのが、何度言ったら解るのかな・・・。
確かに言葉は違うけど。苦・無常・無我に空を加えたのが、
どうも龍樹菩薩のようですが、内容は変わらないと私には思えます。
むしろ、部派的解釈が縁起を実体視していて釈尊の教えを損ねていると思います。
確かに語り口は釈尊に比べて先鋭的ですが、そこには慈悲が溢れている(^_^)b
167 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/27(木) 18:59:21 ID:YxFF3e9M
>>161 旧7氏どの
>お釈迦さんは、龍樹の言う空を説いていない、と言ってるんだよ。
貴殿にひとつヒントを提示しよう。
釈尊は中道を悟った。
こういうことでありますから、
おのずとそこに答を導きだすことがあるであらいはくせき。
168 :
閻魔大王:2009/08/27(木) 19:02:27 ID:Fh+k0ZVE
>>164 >全てが無に帰す・・死んだら終わりの断滅、虚無主義者
無は二項対立・相対の有無ではなく、「〜にあらず」の無=空=中道の謂だ。
「無」苦集滅道
◆/yQ8v8XK8Y という猿はやっぱりウンコしかよう投げ返さんわw
おまいもこのままだと迷妄地獄でフラダンスを踊るか?
169 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 19:04:20 ID:dpyj0z1E
とんちんかん旧7坊やに言っとくけど、
アートマンを否定し、無我を主張しているのは、
初期の経典からではなく、竜樹を信仰している大乗の空教徒である。
だから竜樹を批判する必要がある。
かれらの目を覚ますために、同じ大乗の世親が役に立つ。
170 :
旧7:2009/08/27(木) 19:07:17 ID:V99cXnwl
>>169 では、龍樹や大乗に拠らず、パーリのみよって
アートマンを否定し、無我を主張する者は、君にとってどこにカテゴライズされるんだい?
171 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 19:11:39 ID:dpyj0z1E
>>168 妄想大王はウィトゲンシュタインのウンコ壺に篭っておれ。
君は食事時に現れるので下品だな。
172 :
一在家:2009/08/27(木) 19:15:45 ID:6bTccmmH
>>140 〜
>>143 旧7氏
今回も経典の該当箇所の長文を入力していただきまして真に有難うございました。
>『(35節):チッタよ、たとえばそれは、
>牛から牛乳が、牛乳からヨーグルトが、ヨーグルトから生バターが、
>生バターからバターが、バターから醍醐味が生じるようなものです。
>【牛乳が生じるとき】、それはけっしてヨーグルトと呼ばれることがないのです。
>生バターと呼ばれることがないのです。バターと呼ばれることがないのです。醍醐味と呼>ばれることがないのです。
>【そのときはただ、牛乳とだけ呼ばれます】。』
これらの訳は前回の『自歓喜経』の時のように春秋社版の訳との差異は無いかと
存じます。
173 :
一在家:2009/08/27(木) 19:19:46 ID:6bTccmmH
>乳製品のくだり。(上掲書p110)
> *(直前には、3種の我の獲得が、それぞれの時にそれぞれのみしか該当しないことが、
> 同様の文章構成で述べられていることに注意。)
>>仏の眼で見れば【本質は同じ】(5)
>は、前文(4)は、まさにその通りで、
>≪諸縁によってバターの相であるからバターと呼ばれているだけのものを、
> 「これこそが絶対的バターだ!」「これこそが絶対的ヨーグルトだ!」等の論争≫であり、
>後文(5)は、≪仏の眼で見ればそれらは顛倒妄想であり、縁により変化する相にその都>度付された名称に過ぎず、
> そこに絶対的恒常的本質を見るのは愚かな行為である≫ということならば言えるだろう。
>けっして≪乳製品の本質を説いたわけではない≫≪「本質は同じである」と説かれたわけ>ではない≫、
縁により変化する相にその都度付けられた名称に過ぎない、でも全て「乳製品」ですね。
174 :
一在家:2009/08/27(木) 19:20:26 ID:6bTccmmH
>>29 一在家再提示
>【アートマンの三種の分類】
>釈尊、「ポッタパーダよ、次のような三種のアートマンの概念があります。
>すなわち、物質的なアートマンの概念、意よりなるアートマンの概念、
>非物質的なるアートマンの概念です。」
>・物質的なアートマン:形態があり、四つの元素からなる
>・意よりなるアートマン:形態があり、すべての感覚器官を備える
>・非物質的なるアートマン:物質的でない、心理作用からなる
縁により変化する相にその都度付けられた名称に過ぎない、でも全て「アートマン」ですね。
かなり乱暴ですが、アートマンが乳製品と同様の文章構成で述べられていることに注意
しました。
旧7氏ご紹介の5種類の乳製品と私が紹介の3種類のアートマンに関する説法への
他の方々の見識をお待ちしております。
Buddha@ウィキ各位もどうぞ宜しく。
175 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 19:20:53 ID:dpyj0z1E
>>170 それについては
>>158 で最初に話している。再アップしようか。
竜樹も世親も、このスレの参加者など足元に及ばないほど、
原始仏教・その後の仏教を学び考えている。
176 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 19:23:11 ID:v7fMOyA4
>>168 >「無」苦集滅道
・・・てのは無縁起すなわち「縁なき衆生は度しがたし」という
ことかな?
177 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 19:45:13 ID:dpyj0z1E
>>125 机龍之介氏
>目の前の世界はキラキラと輝きだすのです。
そしてそれはまるでスローモーションのようです。
映画のいちシーンのように、木の葉が華麗に舞い踊るのです。
>「山川草木悉有仏性」というのはこれだ!!!
と、自分なりに悟った気持ちになりましたけど・・・
>・・・ようは誰でもこういう体験をとおして〜〜
少しずつニルバーナに近づいていくんですね。
>こういう体験を経まして、少しずつ心が安定期に入ります。
そして現象界が超越することもなく、
全てが無に帰す段階へと悟入して逝きます。
★ 前のレス
>>164 が読みづらかったので再アップ
178 :
一在家:2009/08/27(木) 19:45:31 ID:DfFk6Zm1
>174
>縁により変化する相にその都度付けられた名称に過ぎない、でも全て「アートマン」ですね。
縁により変化する「アートマン」の相にその都度付けられた名称に過ぎない。
縁により変化する「乳製品」の相にその都度付けられた名称に過ぎない。
同様の文章構成に釈尊が説きたかった真意が伏せられているのでしょうか。
179 :
旧7:2009/08/27(木) 19:57:54 ID:V99cXnwl
>>175 だから何だと言うんだ?
現存パーリ仏典と龍樹の関係を述べてみろ。
180 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 20:00:37 ID:dpyj0z1E
>>177 机氏
この体験が、色メガネがはずれたことによる、直接知覚です。
色メガネがはずれることが空、(←これが空! これが空!)
目の前の世界がキラキラ輝きだすのが直接知覚。
しかしこの先がある。それが悟りのレベルである。
悟りの世界は奥深い。あなたの先にあなたの知らない世界がある。
181 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 20:04:37 ID:dpyj0z1E
>>179 竜樹の方が、とんちんかん旧7坊やより、パーリー語に堪能だった。
182 :
旧7:2009/08/27(木) 20:09:15 ID:V99cXnwl
>>175 頭沸いてんのか?
いいか、解り易い例を出すからな。よくよく考えろ。
100年前、児玉さんという一人のコックが居て、多くの弟子を育て、多くのレシピを残した。
或る者はそのまま彼の店を継ぎ、また或る者は外へ出る。レシピは出版され、誰でも参照できた。
さて、ある時、店は途絶え、その系譜のコックは他の店に雇われていたり、別の仕事についていたりもした。
そんな中、曾孫弟子でレシピも受け継いでいた上田さんは、新たにPという店を出した。
Pという店では、素朴な、おそらく児玉さんが出していたであろうメニューが並んでいる。
同じ頃、龍田さんというコックがいた。直接児玉さんや児玉さんの弟子に師事したわけではないが、
手に入るあらゆるレシピを見、身につけ、自分のモノとしていった。
さて、龍田さんがアレンジしたソースを批判する者がいた。
その元のソースレシピは上田さんの料理にもある。
(レシピ通りであれば)おそらく児玉さんのソースも同じであろう。
この時、龍田さんのアレンジされたソースの作り方を批判することで、児玉さんを批判しているのが今の構図だ。
そして、(龍田さんと無関係な)上田さんに対して、
『お前のソースが不味いのは龍田のソースのせいだ!』
と批判しているようなものだ。
この滑稽さが解るか?
>>181 だから何?それがどうしたの?
何か意味あるの?その台詞に・・・w
183 :
旧7:2009/08/27(木) 20:23:09 ID:V99cXnwl
>>182補。
批判するならな、児玉のレシピを批判すべきなんだよ。
そして、龍田と上田が、どの程度レシピを再現できているのか?を問うべきなんだよ。
龍田と上田に、系譜としての連続性が無い場合、個別に批判すべきなんだよ。
独自に発展したものなれば、
上田が現に使用中のレシピを以て龍田を批判はできないし、
龍田が現に使用中のレシピを以て上田を批判はできない。
二人のレシピを比べ、児玉に通ずる共通項を見出した時、
その時初めて、その点に於いて、二人を同時に(児玉批判としての意味も加味して)批判できる。
勿論、仏教史的には、厳密には独自に発展とはならないし、この例で言えば、
上田のレシピを参照した上で、龍田は自分のレシピを作成している。
だが、だとしたら余計に、(時系列を遡る形で)、
龍田のレシピでもって上田のレシピを批判することは、滑稽だと言わざるを得ない。
やはりこの鳥もNGワード行きだな・・・。
ノシ
184 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 20:30:51 ID:dpyj0z1E
>>182 旧7坊やはややこしく考えすぎ。
論者・竜樹はその当時のあらゆる文献を検討していたことだろう。
そして世親は説一切有部から大乗に転進した逸材である。
竜樹以上に、あらゆる文献に通じていたと思ってよいのではないか。
あらゆる流れが竜樹と世親に集まり、
このふたりのなかに釈迦の教えが大河のように流れている。
ふたりを無視するわけにはいかないだろう。
185 :
旧7:2009/08/27(木) 20:32:17 ID:V99cXnwl
いや、勢いに任せた雑な喩だな・・・。
見苦しいやりとりで申し訳ない。 >>ALL
彼の鳥はNGにした。以降はまたスルーに戻ります。 m(_ _)m
186 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 20:43:59 ID:nnYJo8EU
>>185 始めからスル〜すべき。
まあ、勢いとかキッカケでスル〜できない時もあらあなw
187 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 20:44:52 ID:vVzy2TI7
>>180 >しかしこの先がある。それが悟りのレベルである。
>悟りの世界は奥深い。あなたの先にあなたの知らない世界がある。
目の前の世界、自分が直接接する世界をあるがままに受け入れて、精神の安定
と平安を得ることは、「悟り」ではないのかね。
自分の任意で行う修行によっては、「悟り」は絶対に得られない。それは、単なる
「趣味」「娯楽」に過ぎない。その意味で、自分の任意にはならない生活の苦しみ
は、意図的な修行とは比べ物にならない大きな修行であり、本当の悟りは、
「生活」という「苦行」からしか得られないものである。
自分の心をいくら深く掘り下げても、他人の知ったことではない。結局は、自分
の主観から、一歩も踏み出すことはできない。それは、悟りではなく、釈迦が
戒めた「自己に対する執着」そのものではないか。焦燥感、不安、迷いが深まる
一方である。中村元氏は、「涅槃」を「安らぎ」と訳しているそうだ。
過度の内省心、罪悪感、自己意識は、鬱病という「精神病理」の症状の一つで
あることを、忘れてはならない。
他者との係わり合いの中でひたむきに生きている者は、自分の「心」など意識
しない。心が、生によって充足しているからである。自分の心など意識するの
は、充分に生きていないため、心が既に病んでいる証拠である。
心(即ち、精神、感情と理性、魂)は、生物的生命の維持のために身体に付属
する「手段」である。その逆ではない。宗教者は、本末転倒に陥っているので
はないかを、反省してみる必要がある。
188 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 20:50:51 ID:nnYJo8EU
>>187 >vVzy2TI7=誤淫嘘帰宅ID?スル〜推奨
189 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 21:07:31 ID:dpyj0z1E
>>188 君こそスルー推奨。いい加減で気がつきそうなものだけど鈍いね。
余計なレスはそろそろやめよう。
190 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 21:20:32 ID:dpyj0z1E
>>187 論点が多すぎて、論じることが困難になっている。
ひとつのレスにはひとつの論点でやり取りするのが理想に思う。
191 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/27(木) 21:30:14 ID:dpyj0z1E
>>185 旧7坊やは、自分の見苦しさを相手のせいにしてはいけない。
見苦しさの上塗りだろう。
192 :
旧7:2009/08/27(木) 21:58:22 ID:V99cXnwl
>>一在家
なあ、一度くらいは、(当然和訳でいいし)、
該当箇所をきっちり(→繋がりのある前後をぶった切ることなくw)提示して、その上で自説を展開したらどうだ?
どうしていつも、恣意的に捻じ曲げた文章に要約して書き込むんだ?
恥ずかしくないか?
ていうか、日本語が母語じゃない人なのか?そんなに文章を読むのが苦手か?
苦手なら尚のこと丁寧に文章を追って、全体を見て、理解すべきじゃないのか?
140-143及び146を、ホントに全文読んだか? 拾い読みなんじゃないのか?
で、相変わらずの姿は、
自分の間違いを認めず(それすらスルーし)、
そんなことなど無かったかのように、違う話題へとシフトしてゆく。論点は置き去りのまま。
旗色の悪い論点には二度と触れずに、新たな論点を提示してそれを誤魔化す。
そして、あたかも自分が正しかったかのように、最後の最後に強引にくっつけ、まとめる。
ああ、なんと姑息で、いやらしく、醜い行為だろうか・・・。
お前はホントに最低だよ。やっぱり人間の屑だ。
193 :
一在家:2009/08/27(木) 22:05:21 ID:DfFk6Zm1
>>184 >あらゆる流れが竜樹と世親に集まり、
>このふたりのなかに釈迦の教えが大河のように流れている。
横レスで失礼します。
「ふたりのなかに釈迦の教えが大河のように流れている」というのは
本当でしょうか。
世親のことは全く知りませんが、もし天才の龍樹に野心があれば
釈尊を超えようとしたのではないかという疑問が当初からあります。
旧7氏と同感ですが、長部経典では「空」や「縁起」はあまり説かれて
おらず、「四諦」や「輪廻」に関する説法が多いかと存じます。
まあ、それは私のフィルターがかかっているというご批判が起きるのは
当然でありますが。
釈尊も如来も菩薩も共通するのは衆生を苦しみから救うことでしょうか。
本来は「苦しみの原因は固執にある」と説くだけで十分であり、わざわざ
「空」の論理をとくとくと語る必要もないかと存じます。
天才哲学者には論理をとくとくと語る必要があるようにも思いますが。
死んで終わりだと諦めている衆生に、貧しさや病や差別に苦しむ衆生に
生まれ変わりがあることを説くのも方便でしょうか。真実ならなお更。
194 :
旧7:2009/08/27(木) 22:12:09 ID:V99cXnwl
>>193 初めてじゃねーか?まともな発言w
屑じゃなく、ちょっと狡賢い人にランクUPさせとくわwww
>本来は「苦しみの原因は固執にある」と説くだけで十分であり
いい一文だよ。これは褒めておく。
>釈尊も如来も菩薩も共通するのは衆生を苦しみから救うことでしょうか
これも、美しい一文だ。
195 :
閻魔大王:2009/08/27(木) 22:47:49 ID:Fh+k0ZVE
>>176 >>「無」苦集滅道 ・・・てのは無縁起すなわち「縁なき衆生は度しがたし」という ことかな?
般若心経 五蘊皆空 度一切苦厄 色即是空(⇒無苦集滅道)
『無縁起すなわち「縁なき衆生は度しがたし」』 そういふのって、ありゃせんぞな、もし。
『かの万法あらわとなれる』(ウダーナ冒頭)以前に覆われていた状態とはなにか。
覆われてあるものは、認識対象ではなく主体側の問題→己事究明が仏教。
ひたすら自己とは何かを問い、ただおのが心身を脱落せしめることに専心するとき、
存在はそのあるがままの相を顕現。『縁起の現観』であり、悟り。
生と死は分別できず、不生不滅、無常=無我=縁起=空=中道で調い、慶安に生き抜くこととなる。
多くが無明(このスレの大部分の連中)ゆえ、おいらが地獄へ送ってやるのさ。
最近はSM地獄が超人気で鞭打ち女王様が足りん、欝だ。
196 :
旧7:2009/08/27(木) 22:59:01 ID:V99cXnwl
ついでに、簡単に触れておくと、
「3種の我の獲得」は、そのような「蘊の生起」であると註されている。
そして、本文中、世尊によってそれらは捨て去られるべきものとされている。
(→3種だろうが何種だろうが、「我(執)」は捨置されるべきである、と。)
また、その一連の記述の中のどこにも、
『「我」が「人の本質」であり、「変化せず在り続ける」』などと書かれてはいない。
(※また、その3種の我が述べられる前には、
異教の者の「永遠なる我(がある、を知っている、を求める為に行ずべき)」という見解が否定されている。
そして、彼らの言辞は涅槃に資さない無益なものである、と。)
それら我の獲得もまた、その時その時に、自己として捉え認識することを可能とする諸縁によって、
そこに、都度都度「我(自己)」が見出されているに過ぎない。
そう、まさしく、牛乳やバターの喩えのように・・・。
>>173 >でも全て「乳製品」ですね
>>174 >でも全て「アートマン」ですね
「乳製品」とは、
>>146で触れたように、
(複数存在する)各々が(その時に)有している性質に於いて、その共通なるものに焦点を合わせ、
それぞれを総合して、まとめて呼ぶ時に要請され、名づけられる呼称である。
それは、決して≪『乳製品』という、何か固定的な、或る一つの性質や相のことを言うのではない≫。
≪『乳製品』という(固定的・個別的・不変的)何か(存在)があるのではない≫。
そしてこれは、『我』『自己』、そして『アートマン』についても同様に言い得るであろう、と・・・。
以上、丁寧に考察してはいないので雑感として。
おやすみ ノシ
197 :
神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 23:27:15 ID:vVzy2TI7
>>193 >世親のことは全く知りませんが、もし天才の龍樹に野心があれば
>釈尊を超えようとしたのではないかという疑問が当初からあります
優れた教師にとっては、弟子が自分を超えてくれることが最大の喜びである
はずである。君は、釈尊が「優れた教師」ではなかったというのか。
「竜樹の野心」などというが、彼こそ「自灯明・法灯明」の教えを実践した
最も優れた弟子ではないか。「自灯明・法灯明」の意味については、「岩波
佛教辞典」の該当項目を熟読されたし。その意味を誤解している者が、まだ
いるようだ。
竜樹は、釈迦の「縁起・空」の意味を初めて解明し、発展させたのである。
彼は、その本質が「相互依存性・関係性」であることを発見したのである。
釈迦自身は、「世界を空と観ぜよ」「これがあるから、あれがある」などと
説いたが、その本質の分析においては、極めて不十分であった。竜樹は、衆
生の苦しみが絶対(神)への執着であることを見出し、「相互依存性・関係性」
の原理の発見により、衆生をその苦しみから解放する「原理」を発見したので
ある。
竜樹を「野心家呼ばわり」するとは、「自灯明・法灯明」の教えに反し、
優れた教師としての釈迦を侮辱していることになる。それとも、開祖ゆえに
盲信し、思考停止することが、釈迦の意図に沿うとでも考えているのかね。
それは、恐らく、釈迦が最も嫌悪した「思考停止の愚鈍な弟子」に過ぎない。
原文の内容と項目の担当者の名前を誰か書いてくれ。
隠居は信用ならない。
>>106 > 片山先生は当然上の議論を承知の上で伝統解釈に従っているというだけの話。
>>103の
> 伝統的註釈師たちは,この場合の“tathAgata”を「如来」と解さず,
> つねに“satta”(生けるもの),あるいは“attA”(我)という語をもって説明した
は、パーリ仏教での伝統的註釈はこうだ、という“事実”を紹介なさった、ということでしょう。
また、“様々な場面”を対象としたものでなく、“十難無記に限定した”伝統的註釈です。
その伝統的註釈をどう捉えるか、には片山先生も言及されていません。
そうした、註釈の当否に関する判断とは別にして、
紹介自体は、スレを読む方への情報提供として、意義のあることと考えます。
200 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 00:47:58 ID:cGAJhKn7
>>193 >死んで終わりだと諦めている衆生に、貧しさや病や差別に苦しむ衆生に
>生まれ変わりがあることを説くのも方便でしょうか。真実ならなお更。
苦しんでいる衆生を、「欺瞞」することが「救い」かね。それは衆生に
対する「侮辱」であろう。人間の尊厳を踏みにじる行為ではないか。「貧しさ」
や「病」や「差別」による苦しみは、「自己欺瞞」によっては聊かも救われない。
人生には、そのような苦しみは付き物という「悟り」がまず大切。そして、
苦しみに対しては自ら真正面から立ち向かうことによって、苦しみは却って
和らぐ。宗教の自己欺瞞による苦しみの回避は、他者の苦しみを理解する
能力の向上、即ち「人間の成長」がその時点で停止する。
佛教とは、そんな「情けない救済宗教」ではないはずだ。苦しみの回避では
なく、苦しみに耐える力、生命力を養わない限り、苦しみは永遠に除去されない
ばかりか、却って悪化する。キリスト教について、ニーチェが厳しく批判する
所である。
苦しみにもいろいろある。病気や貧困による苦しみは、その原因を除去しない
限り、宗教によっては絶対に除去できない。純粋に精神的な苦しみは、自己中心
主義から生じているから、我への執着を去り、家族など身近な他者に心を移す
ことにより、軽減・除去される。人間界が、本質的に「共同体」である所以で
ある。
苦しむ者に、死後の世界などを植えつけて、死後も苦しめる積りなのか。
ヨーグルト以外で例えようとしても、強引にやれば何でも我論の根拠に出来てしまうな。
最終的にはティラノサウルスとセキセイインコでも同じあの個体(ティラノの)とこの個体(インコの)は
同じ原子があるから、その原子のところがアートマンに相当するお!という話になっちゃうやもしれん。
たとえ話って難しいね。
202 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 01:05:46 ID:cGAJhKn7
>>198 原文だの、ソースだの、釈迦だの、片山先生など、他にばかり依存しないで、
少しは、自分で考え、現実に立脚した、「借り物」でない「自分独自の
見解」を打ち立てる努力をしたらどうかね。見苦しく、情けない限り。
釈迦は、そんな「思考停止」を教えたのか。「現実に立脚して、自分
自身の頭で考える」ことは、一切教えなかったのか。
釈迦も、「自分の頭」で考えたのである。それにより、バラモン、ヒン
ドゥーを「改革」したのではないのかね。
↑人の言うことに耳を傾けないと「独善」に陥るという見本
なんて不毛なんだろう……
>原文だの、ソースだの、
これに返すべき言葉は既に既に過去スレで書いた。
ところで自分の頭で考えたところで岩波仏教辞典に書いてある内容をピタリと
当てられるものだろうか。隠居に曲解されそうな文面を考えるのも面白そうっちゃあ
面白そうだが、今は食指が動かない。
>現実に立脚して、
立脚するためにはまずは正しく把握しないとな。
205 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 03:25:17 ID:yI6A+koR
>>204 >立脚するためにはまずは正しく把握しないとな。
すべての動物は、生まれた瞬間から現実を正しく把握し、現実に従って生きよう
とする。大人になっても、現実と空想との区別ができないのは、宗教者だけ。
206 :
暁:2009/08/28(金) 03:44:07 ID:csGJCynL
鼻息の荒さでは保守的仏教に軍配だな。
まあ、カルトは頭が染まってる分鼻息も
荒くならないだろうけど。
カルトの飄々とした態度にいらつくのは
わかりますけどね。
207 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 04:18:47 ID:5tJNXLV4
>>199 >その伝統的註釈をどう捉えるか、には片山先生も言及されていません。
それら伝統をどう解釈するかを明解に示したのが水野先生の論文で、
あの解釈以外にありえないでしょう。
人、有情、衆生の輪廻に無記だというなら、
他の箇所と矛盾し過ぎです。
このような無理な解釈を横行させている理由は、
輪廻を仏教から排除したいという常識への阿諛、それだけです。
208 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 04:22:07 ID:5tJNXLV4
>>205 >すべての動物は、生まれた瞬間から現実を正しく把握し、現実に従って生きよう
>とする。大人になっても、現実と空想との区別ができないのは、宗教者だけ。
だったら動物のように喰う、寝る、やるだけしてればいいんじゃない。
縁起する幻を現実と執着してw
209 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 07:36:41 ID:eeIsyNpP
「すべての動物」に隠居が含まれていないのが問題だ。
反論もせずにいつも通りの「あいつらだって」レス。いい加減自分へのフォローになってないことに気付けよ。
そこには反省も進歩も無い。動物になれず人工無能のまま終わってもいいのかね。
210 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 07:48:07 ID:eeIsyNpP
隠居「なんだとこの野郎!あいつらだっておろそかにしてるだろうが。
俺もおこたって何が悪いのかね!」
なつかしい。これも前に出たなあ。
なぜ軽蔑する相手と同レベルであることを許容できるのか?
そんな根源的な問いに首をかしげた記憶がある。
211 :
一在家:2009/08/28(金) 08:30:00 ID:FRrlKR0u
>>193 一在家
>旧7氏と同感ですが、長部経典では「空」や「縁起」はあまり説かれて
>おらず、「四諦」や「輪廻」に関する説法が多いかと存じます。
>まあ、それは私のフィルターがかかっているというご批判が起きるのは
>当然でありますが。
以下は長部経典の34経の私としての読後感想です。
主題:四諦、八正道←衆生の救済に重要
副題:縁起、輪廻←主題を支える法
おまけ:神通力←事実だったので記載、魔術でも可能
龍樹が哲学化したのは副題でしょうか。
212 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 08:59:25 ID:a7qDX0Q5
>>195 >『無縁起すなわち「縁なき衆生は度しがたし」』 そういふのって、ありゃせんぞな、もし。
大パリニッバーナ経の第二章二十六にあるよ。
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、
自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころと
し、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらは
わが修行僧として最高の境地にあるであろう、---誰でも学ぼうと望む
人々は---。
解説するまでも無く「誰でも学ぼうとする人々」が「縁のある衆生」
であり「学ぼうと望まない人々」が「縁無き衆生」だね。
釈迦も「仏道を求めよ、さらば涅槃が与えられん」といってるわけだ。
213 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 09:04:26 ID:5tJNXLV4
>>210 まあ、誤淫嘘だから。中学教育を真に受けて、その次元で話されてもなあ。
批判するなら、それなりにいろいろがんばんないと。
それなしに常識を信じろって言われても、カルト教義を信じろってのと同じなんだが、
なんど叩かれてもゾンビのように這い上がってくるのは、
机、在家、カラス、EOE あたりと一緒。
214 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 09:42:02 ID:a7qDX0Q5
>>207 >輪廻を仏教から排除したいという常識への阿諛、それだけです。
仏教だけでなくすべてのインド宗教・思想・学問では輪廻からの
解脱を説く。輪廻は苦であり望ましいものではないから。
215 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/28(金) 09:52:50 ID:f0ZILkiM
>>211 在家氏
>主題:四諦、八正道←衆生の救済に重要
四諦、八正道、中道だから
「衆生救済」にはならんだろ?
(中道の意味を理解されたし)
「衆生救済」ってのは、カルトの常套句。
衆生救済は真光の教義なのですか?
とにかく、衆生救済はやらんでいいですから。
カルトが蔓延ると碌なことになりかねん。
216 :
一在家:2009/08/28(金) 10:09:16 ID:KEOIr+vF
>>213 >なんど叩かれてもゾンビのように這い上がってくるのは、
>机、在家、カラス、EOE あたりと一緒。
なにしろ「輪廻」の法に従っておりますから。
因みに菩薩も輪廻します。意味合いが異なりますが。
217 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 10:14:05 ID:5tJNXLV4
>>214 >>輪廻を仏教から排除したいという常識への阿諛、それだけです。
>仏教だけでなくすべてのインド宗教・思想・学問では輪廻からの
>解脱を説く。輪廻は苦であり望ましいものではないから。
当たり前。ただし、苦である輪廻からの解脱として見解や道を説いたインドの諸宗教と、
仏教には輪廻が縁起するものとしてあることを否定するとか
仏教は輪廻思想からの解脱を説いたなどと言うのが現代常識への阿諛だということ。
こんな簡単なことが分からなければ仏教についてほとんど何も分からないだろう。
218 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 10:18:38 ID:5tJNXLV4
>>216 賢いけど、動機が不純だよね。仏教を語るなら真光を措くか捨てるかして、
措くのも捨てるのもできないなら仏教を語らなければいいだけ。
これは在家さんだけでなく、ほとんどの人に当てはまる。
大抵、自分の偏見、見解を読み込んだり投影するものだから。
かくゆう私も一応、気をつけているつもりだが、もちろん怪しい。
悟ってないなら、何か偏見があるはずだからです。
219 :
一在家:2009/08/28(金) 10:19:09 ID:KEOIr+vF
>>215 机氏
>とにかく、衆生救済はやらんでいいですから。
真光と一緒に、「衆生済度」を発願する如来も菩薩も否定してますよ。
「衆生済度」を無視した「縁」にて中観派は、大乗仏教を代表するという
ことは「起」こらないでしょう。
220 :
旧7:2009/08/28(金) 10:24:25 ID:qQizoauN
221 :
一在家:2009/08/28(金) 10:26:36 ID:KEOIr+vF
>>215 机氏
>とにかく、衆生救済はやらんでいいですから。
釈尊が説法に立ち上がったのは、大梵天に頼まれたのはきっかけで、
「衆生救済」の発願だと、異教の私も思います。
PS
失礼かと存じますが、本かきこは破邪の論理を活用しております。
222 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 10:32:47 ID:5tJNXLV4
>>219 >「衆生済度」を無視した「縁」にて中観派は、大乗仏教を代表するという
>ことは「起」こらないでしょう。
「衆生済度」を説かない大乗などない。
それは小さいのに大きいといってるようなものだ。
菩提心、普賢行、廻向、六ハラミツ、全て「衆生済度」に向いている。
『中論』や『方便心論』から「衆生済度」を読み取るのは難しいが、
確かに説いている。
それらから「衆生済度」を読む程、智慧が熟して無くても、
『勧戒王頌』『宝行王正論』『四百論』『入中論』『入菩提行論』には
「衆生済度」がありありと説かれている。
机のいうことなんか相手にすんな。ほとんど根本的に妄想だ。
223 :
旧7:2009/08/28(金) 10:35:44 ID:qQizoauN
>>218 後段、禿々。
今、学部生の頃を振り返れば、「お前、それじゃ原理主義だよw」と肩を叩きたくなるw
そしておそらく、10年後の自分が今の自分を見れば、また違った何らかの言葉で肩を叩きたくなるのだろうw
皆、途上にある。
あの人も、この人も、そして自分も。
これを忘れないようにしなければならない。(だから、罵詈雑言など以ての外なわけだがwww)
で、やっぱり植木等なわけで・・・。
ノシ
224 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 10:36:14 ID:5tJNXLV4
>>220 >(私は、『(或いはそこを薄めて)《今生きている「苦なる」この世》とし』た方が良いと考えているが・・・。
括弧が多すぎ。よみずらい。
方便としてなら、ありだけど。本質的にそれでは外道です。
よく、禅宗で「今、ここ」っていうけど、それと輪廻は別でしょ。
「今、ここ」だけの知覚、現象をありのままに見ろってことと、
輪廻は何も矛盾しない。
225 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 10:47:42 ID:5tJNXLV4
>>223 >禿々
って納得とか、同意という意味?
ちょっと調べたけど何にも載ってなかった。(/_;)
226 :
旧7:2009/08/28(金) 11:02:30 ID:qQizoauN
>>225 ほぼ無変換で。
↓
激しく同意→ハゲドウ→激同→禿同。 → 禿々。
↑
普通はココ。↑変換記憶次第で。
>>224 >よく、禅宗で「今、ここ」っていうけど、それと輪廻は別でしょ。
そう。
別だから、無視しても、考えなくても良いわけです。(ここが禅宗の便利さの一つwww)
>輪廻は何も矛盾しない。
矛盾しないけど、「実際関係ないよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」ってこと。
227 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 11:16:56 ID:5tJNXLV4
>>226 >>よく、禅宗で「今、ここ」っていうけど、それと輪廻は別でしょ。
>そう。
>別だから、無視しても、考えなくても良いわけです。(ここが禅宗の便利さの一つwww)
>
>>輪廻は何も矛盾しない。
>矛盾しないけど、「実際関係ないよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」ってこと。
よく禅宗の人はそういうけど。忘れちゃったけど、禅宗の師家で、
輪廻は悟ればあると分かるとか言ってた人がいて、これは本物だと思った。
関係ないって言っちゃうと、空を体験した人が因果は関係ないねって言うのと同じだと思う。ここ重要だから、ちょっと考えてみて(^_-)-☆
いやなら、無理にとはいわんですが
>>221 人を救うのは結構だけど、まず自分が救われないとダメだね。
原始経典でも他人の畑を耕す前に、自分の畑を耕せとある。
自分が悟ってもいないのに、人を悟らせることなんてできない。
同じように、衆生済度とかいう気持ちがあるんだったら
まずそのことは忘れて、自分の言動の歪みを見直すことだね。
229 :
一在家:2009/08/28(金) 12:39:16 ID:PmuP2rwD
>>228 >同じように、衆生済度とかいう気持ちがあるんだったら
>まずそのことは忘れて、自分の言動の歪みを見直すことだね。
自分の歪みを客観的に見ることは容易ではございません。
本スレで「氏ね」、「ボケナス」、「屑」等のご批判をいただきながら
少しずつ反省しております次第です。
230 :
暁:2009/08/28(金) 12:55:06 ID:csGJCynL
仏教よりも被害者に目を向けるのが先だろ。
いくら学ぼうが今だ人を欺き続けてるわけだし。
231 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/28(金) 13:07:42 ID:f0ZILkiM
>>219 在家氏
>真光と一緒に、「衆生済度」を発願する如来も菩薩も否定してますよ。
これは非常に説明が難しい。
というのは、初禅から空性体得の後の階梯でありまして、
空即是色の解説をしなければならんからです。
興味ある話がございます。まあ聴いてください。
かつて「衆生済度」の名のもとに、林郁夫は地下鉄車両においてサリンを撒いたのでありますが、
その後、林は逮捕され警察の取調べ室からボンヤリ窓の外を眺めていた。
そこには、母とその子供が水遊びをしていた。
この光景を見て、林は悟ったのであります。
その後、林は「衆生済度は間違ってた」と警官に呟き、ゲロしまくりになる。
これは「衆生済度」というのが、いかに偏った考えかたなのか、
ということを直接知覚するものでして、
衆生平等一枚の空性を顕現する瞬間なのであります。
これはどういう意味なのかと言いますと、
「既に世界は悟っておった」ということであります。
無明によって人間だけ悟ってない。ってことになりますね。
悟ってない人間が迷いの「衆生救済」などしたら、あかん、ということであります。
如来・菩薩は、大慈・大悲であります。
中道ですから救済・被救済の分別は寂滅する。
232 :
法華の骨:2009/08/28(金) 13:10:55 ID:WOzZl2JC
>217 仏教は輪廻思想からの解脱を説いたなどと言うのが現代常識への阿諛だということ。
仏教の目的は煩悩を滅尽して解脱(輪廻の停止)することです、漏尽解脱。
逆観すれば、輪廻の停止→解脱→煩悩(無明)→老死→輪廻
つまり、煩悩があるから輪廻するのです。
233 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 13:23:39 ID:5tJNXLV4
>>232 何が問題なのか分かってませんね。
仏教が輪廻からの解脱を説く教えであることは正しい。
そして、それには現状で我々が輪廻の中にいるということを認識する、
あるいは信じる必要があるというのが伝統です。
ところが一部の仏教学者は仏教が輪廻を説くことを否定したいので、
仏教はバラモン教が説いた輪廻思想がただの思想であると
否定した、輪廻思想からの解放されることが仏教であると説くのです。
これは明らかに間違いだということです。
未だにこちらの考えを採る人が結構いるのは驚きです。
だったら、仏教は必要ないだろうと思うのですが、
どうもエゴを通すための根拠として用いているようです。
234 :
旧7:2009/08/28(金) 13:29:34 ID:qQizoauN
>>227(
>>233)
>いやなら、無理にとはいわんですが
( ‘∀‘) イヤ!
てのは冗談にしても、 >空を体験した人 てのが意味不明だし・・・。
「空」って体験するもんなの? 「それを体験する」ことと「因果を見る」ことは同じなの?
また、今の流れ(文脈)に於いて、《輪廻?関係ないねw》と《因果?関係ないねw》は同列に語り得ないと思うが?
(この輪廻が「三世に跨る輪廻」であれば尚更ね。(てか、輪廻と言えば普通そうかwww))
>>220で幾つかの意見を挙げたように、
「解脱した時」は勿論、「今を見据えた時」、そこに前世との「境」・来世との「境」は「無い」。それこそ無関係だ。
そこに、連綿と連なる業の積載や熟成を見るのは、当人に任される(当人の自覚による)。
そのように受け止め、糧やバネとしてゆくことはあるだろう。
だが、重要なのは、【その時】、「そこに」過去世も来世も無いということだ。そこにあるのは「今」(≒果)のみだ。
(まさにポッタパーダ経に言われる牛乳やバター、3種の我と同じい。)
そして、まさにその時為されること、為されねばならないことが、
《今まさにここにある(生じている)「因果」を見ること》ではないか?
《今ここにある自己を生じせしめている、今ここに感受されている苦の因果を(縁起を)見ること》ではないのか?
その意味で、「輪廻は無関係だが、因果は無関係ではない」。
だから私は、227のその併記に違和感と疑問を感じる。
(※また、個人的には「空思想」に興味無いし・・・w
そして、外道故の輪廻不要派として、もう一つの理由があったりもするがスレ違いなんで触れない。)
235 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 13:36:33 ID:TQ4Wexb5
>>231 >「既に世界は悟っておった」ということであります。
>無明によって人間だけ悟ってない。ってことになりますね。
>悟ってない人間が迷いの「衆生救済」などしたら、あかん、ということであ
>ります。
全く同意。「人為を加えない、このあるがままの世界」自体が、「悟りの境地」
なのである。人間も、他のすべての生物も、この世界以外では生存できない。
生存できなければ、宗教もへちまもない。圧倒的多数の生活者たちは、意識的・
無意識的にそのことを悟り、他者との係りの中で、ひたむきに「生きて」いる。
悟っていないのは、開祖・教祖から「人為的に」植え付けられた観念、即ち無
明によりそのことに気付かず、「あるがままの世界」という「悟りの境地」
から隔絶した「人為的悟り」を「意図的に」求める「宗教者」だけ、というこ
とになる。
236 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 13:39:04 ID:5tJNXLV4
>>234 じゃ、いいですは。これ以上はちゃんとした先生に信を持って聞いてもらうしかないでしょう。
私が言っても僭越だし、聞いてもらえないし。
237 :
旧7:2009/08/28(金) 13:42:56 ID:qQizoauN
>>236 この対立点は、前シリーズ初期から既に明らかになってるでしょw
そして、絶対に埋まらないだろうことも・・・w
今更ですな・・・。
238 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 13:58:40 ID:EaZeFOVZ
>>193 一在家氏
>「ふたりのなかに釈迦の教えが大河のように流れている」というのは
>本当でしょうか。
ふたりの論師が、仏教の流れと無関係だと考えられますか。
もちろん考えられない。時代を代表するような論師たちなのだから、
その当時のあらゆる仏教書に通じていたことは確実ではないでしょうか。
竜樹や世親には、現代人よりはるかに有利な事情があったと想像します。
1 幼い頃から仏教書やヴェーダーなどを思いっきり学んでいたはず。
現代人のように、興味のない学科を強制されることもなく。
2 学ぶ対象は、自分の国の宗教であり、言葉であり文字である。
ずいぶん学びやすかったにちがいない。
3 生活は信者の布施で支えられ、勉強し修行する時間は十分に確保できた。
4 学ぶための資料も整い、この頃が仏教の全盛期かもしれない。
5 テレビも映画もなく、気持ちが浮つくことなく、読書に集中できた。
239 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 14:07:21 ID:EaZeFOVZ
>>125 机龍之介氏
>目の前の世界はキラキラと輝きだすのです。
そしてそれはまるでスローモーションのようです。
映画のいちシーンのように、木の葉が華麗に舞い踊るのです。
>「山川草木悉有仏性」というのはこれだ!!!
と、自分なりに悟った気持ちになりましたけど・・・
>・・・ようは誰でもこういう体験をとおして〜〜
少しずつニルバーナに近づいていくんですね。
>こういう体験を経まして、少しずつ心が安定期に入ります。
そして現象界が超越することもなく、
全てが無に帰す段階へと悟入して逝きます。
★ 貴重なレスだと思うので再アップ
240 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 14:10:44 ID:EaZeFOVZ
>>177 机氏
この体験が、色メガネがはずれたことによる、直接知覚です。
色メガネがはずれることが空、(←これが空! これが空!)
目の前の世界がキラキラ輝きだすのが直接知覚。
しかしこの先がある。それが悟りのレベルである。
悟りの世界は奥深い。あなたの先にあなたの知らない世界がある。
241 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 14:22:19 ID:5tJNXLV4
>>237 そこを一歩踏み出すと仏教は輝き出すと確信するんだが、
無理矢理手を引くことはしないのが仏教的なのだ。
242 :
旧7:2009/08/28(金) 14:25:28 ID:qQizoauN
237が、ちょっと斜に構え過ぎたレスだったので、
>>234補足。
ガヤー山で、三カッサパ(比丘達)に対し、世尊は何と言ったか。
「(全ては)燃えている」と言った。
《(仮にその含みがあったとしても)「前世で燃えていた」「来世でも燃えるだろう」》ではなく、
「(今)燃えている」と言った。
私は、この重みは大きいと受け止めている・・・w
>>241
243 :
法華の骨:2009/08/28(金) 14:28:24 ID:WOzZl2JC
233 :神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 13:23:39 ID:5tJNXLV4
>>232 何が問題なのか分かってませんね。
仏教が輪廻からの解脱を説く教えであることは正しい。
輪廻からの解脱? 誰もそんなことは言っていない。
解脱とは煩悩から解放され、自由な心境となることです。(岩波仏教辞典)
釈迦は輪廻解脱など説いていない。あるならご教示ください。
輪廻の停止はあくまでも煩悩滅を果たした副次的効果です。
涅槃を得ることは次の生が生じないのだから、結果、苦から解放される。
244 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 14:28:52 ID:TQ4Wexb5
>>240 「あるがままの世界」という「悟りの境地」以外の世界があると考える
ことを「妄想」という。それは、「自我への執着」「自分探し」という
未熟な「精神病理」である。
245 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 14:40:39 ID:EaZeFOVZ
>>244 外の世界だけではなく内の世界(心)がある。
あなたは内の世界を知らないだけ。
日ごろの思い込みに気がつき、偏見やら既成概念という
色メガネをはずすことが空なのだけど、
これだって内の世界(心)の話であることを知ろう。
246 :
一在家:2009/08/28(金) 14:42:21 ID:FRrlKR0u
>>238 私の書き込みが言葉足らずで、意図がうまく伝わらなかったようで
失礼しました。 補足します。
>>193 >「ふたりのなかに釈迦の教えが大河のように流れている」というのは
>本当でしょうか。
>世親のことは全く知りませんが、もし天才の龍樹に野心があれば
>釈尊を超えようとしたのではないかという疑問が当初からあります。
龍樹は「釈尊の教えに帰依した人」と「釈尊を超えようとした人」との
何れだったのでしょうか?という問いかけでした。
「大河のように流れている」という表現には相手に対する敬意が含まれて
いるように思います。
釈尊の説法は不十分だと見なして、師を超えようとした人かも知れませんが
それはそのように認識すれば宜しいでしょう。
247 :
一在家:2009/08/28(金) 14:49:38 ID:FRrlKR0u
>>246 続き
その根拠は中論の帰敬序にも見られます。
「戯論(形而上学的議論)の消滅という
めでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、
もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。」
これから「縁起」を哲学化しますので、縁起も説かれた釈尊
に感謝致します、という意図にも読めます。
原始仏典では、釈尊が縁起ばかりに重点を置いて説かれた訳
ではないことからも、この帰敬序に伏せられた意図に違和感を
感じるのは異教の私ぐらいかも知れませんね。
248 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 15:03:29 ID:EaZeFOVZ
>>246 >龍樹は「釈尊の教えに帰依した人」と「釈尊を超えようとした人」との
>何れだったのでしょうか?という問いかけでした。
空という思想が持っている性質が関係しているように思います。
空の思想は、その人を押さえつけるものを持たないので、
まるで世界の支配者になったかのような錯覚を起こさせます。
世界の秘密を知ってしまった世界の支配者です。
竜樹がそういった思いにあったとするなら、
釈尊を真に理解したのは自分だという高ぶる気持ちがあった
のではないかと思います。
釈尊に帰依するという気持ちに、釈尊を<超えた>という気持ちが
重なっているような印象を受けています。
>>246 > 龍樹は「釈尊の教えに帰依した人」と「釈尊を超えようとした人」との
> 何れだったのでしょうか?という問いかけでした。
考えるだけムダだと思います。龍樹は天才的頭脳の持ち主でIQが高かった。
そういう人に見える世界がどういうものか、想像してみてもムダというものです。
帰依するとか超えようとするとか、そういう凡人の発想では届かないでしょう。
250 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/28(金) 15:12:16 ID:f0ZILkiM
>>247 >この帰敬序に伏せられた意図に違和感を
>感じるのは異教の私ぐらいかも知れませんね。
もともと龍樹というのは、今でいうイケイケのプレイボーイでして、
龍樹には、学識においては相当な自負があった人物です。
ですから一時期は釈尊を越えた、というような慢心があったのは確かですね。
「なんで拙者が坊主ごときにアタマを下げにゃ〜いかんのだ?」。
とか吹聴していたらしいですから。
で、そういった経過を経まして、
中論というのを書き上げるわけなんですが、
そこで改めて釈尊の偉大さに気づいて逝くのです。
>もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。」
これの意とするところは、
慢心の自己(龍樹)を恥じて、改めて釈尊に尊敬の改心をした
その内容であると理解されたし。
251 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 15:17:03 ID:EaZeFOVZ
>>247 わたしも帰敬序に違和感があります。
そこには、竜樹の気概というか、勢いというか、
若気の至りのような、気分の高揚が見え隠れしている。
252 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 15:24:25 ID:EaZeFOVZ
机氏の見性体験をアップするのは、
この体験に縁起・空・仮設・中道がどのように関係しているのかを
聞いてみたいから。縁起思想によって見性体験が生じたのか。
そうではなくて偶然に生じたのか。
253 :
法華の骨:2009/08/28(金) 15:58:01 ID:WOzZl2JC
>>246 > 龍樹は「釈尊の教えに帰依した人」と「釈尊を超えようとした人」との
> 何れだったのでしょうか?という問いかけでした。
竜樹は、釈迦の教えに戻ろうとしていた天才でしょう。
大乗の祖ではなく、大乗側が竜樹を格付けに利用したとの私見です。
竜樹の主張には、大乗に特徴的な「大乗対小乗」という図式が見られない。
竜樹の主張は、その前に存在した説一切有部などの空に対する否定に対し、
空の縁起による対偶律的な説明であり、釈迦の思想を引き継ぐ時代の要請に答えた人。
およそ、ものが縁起しているということを、われわれは空であると説くのである。
(中論 24:18)
254 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 16:56:56 ID:5tJNXLV4
>>243 T0125_.02.0670b22: 若有人習行者盡有漏
T0125_.02.0670b23: 成無漏心解脱智慧解脱。生死已盡梵行已
T0125_.02.0670b24: 立。所作已辨更不復受胎。
これが解脱した時の定型句です。「生死已盡」の生死とは輪廻の異訳です。
「不復受胎」という言葉もそれを裏付けるでしょう。
以下の中村訳『スッタニパータ』が上を補強して十分だと思いますが。
岩波仏教辞典を根拠に言われても困りますよ。
貴方は、盛んに大乗を誹謗しているが、それは縁起を理解してないだけなので、
そういった悪業を積むことは止めた方がいいですよ。
728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。
730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。
255 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 17:00:30 ID:KomVygWD
>>246 >釈尊の説法は不十分だと見なして、師を超えようとした人かも知れませんが
>それはそのように認識すれば宜しいでしょう。
優れた教師にとっては、弟子が教師を超えてくれることが、最大の喜びである。
教師の役目とは、弟子が、何時の日か教師を超えることができる能力を養成し、
ヒントを与えることである。「俺の教えるとおりにしろ。俺を超えてはならな
い」などと「教える」教師は、教師としての資格がないばかりか、人間として
も低劣な人格の持ち主であろう。
竜樹は、明らかに、教師である釈迦を超えている。原始仏典における釈迦の
「縁起・空」は、いまだ、極めて不完全である。しかし、竜樹は、その不完全
なヒントから、縁起・空の本質が「相互依存性・関係性」であるという、「普
遍的な原理」を見出したのである。
その意味で、釈迦は、極めて優れた教師であり、竜樹はその期待に答えること
ができたトップ弟子であったといえよう。教師(釈迦)の言葉にひたすらしが
みつき、それを批判し、超えようとする努力を怠っている原始仏教徒は、むしろ
「優れた教師」としての釈迦を否定し、ひたすらその教えの言葉をノートし、
丸暗記する、三流学生と同じである。それは、むしろ、「優れた教師」として
の釈迦に対する侮辱に他ならない。
256 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 17:07:12 ID:5tJNXLV4
>>242 それが机さんと同じなんですが。
もちろん、覚者から見れば輪廻も現世も幻に過ぎない。
瞬間的知覚が泡や映写機の映像のように連続しているだけ。
しかし、映画の映像が苦しみや喜びという感受を与えるように
輪廻も現世の現れも苦をもたらす。
そこで、なぜ、釈尊を始めとする古の聖者たちが輪廻を問題にしてきたかを
考えるべきだと思う。
輪廻は仏教の道に入る門として必ずくぐらなければならないものだと、
伝統の諸師が仰っている。
その一端を示せば、因果の基盤であり、慈悲・普賢行の対象であり、
精進を促す行者への鞭であり、境地を勘違いしないための地図でもあるからだと
先人は口を揃えて仰っているし、私も深く納得しているからです。
257 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 17:11:09 ID:5tJNXLV4
>>255 屁理屈だけのネラ・カキコ オツ 誤淫嘘!
258 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 17:28:35 ID:KomVygWD
>>257 君たち三流学生を否定しているのではないから、心配するなw。三流もいなけ
れば、一流が存在できないのだから。
259 :
法華の骨:2009/08/28(金) 17:32:36 ID:WOzZl2JC
>254 :神も仏も名無しさん
これが解脱した時の定型句です。「生死已盡」の生死とは輪廻の異訳です。
「不復受胎」という言葉もそれを裏付けるでしょう。
以下の中村訳『スッタニパータ』が上を補強して十分だと思いますが。
岩波仏教辞典を根拠に言われても困りますよ。
成道を果たしたときの定型句であって、修養の目玉では無い、目玉は煩悩滅。
ですから前述しています、
”輪廻の停止はあくまでも煩悩滅を果たした副次的効果です。
涅槃を得ることは次の生が生じないのだから、結果、苦から解放される。”
「二度この世に生を受けることは無い」 とは、涅槃を得たのだから当然ですよ。
釈迦は煩悩を滅しろと説いたのであって、輪廻を滅しろとも輪廻を解脱しろとも
言っておりません。
輪廻解脱などの仏教概念が無いのは涅槃を得たら当然、輪廻の停止がセットで付いてくるからです。
無明があるから老死がある、との意味を考えれば、釈迦の思想が分かります。
無明とは煩悩の根本ですから、あなたの引用した『スッタニパータ』は煩悩滅の根拠なのです。
260 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 17:40:44 ID:996UB99p
机氏からの回答がないのだが、輪廻という視点から見れば、
氏の見性体験はまだまだと言わざるをえないかも(~~)
空の視点から見ても、あなたの見性体験は説明ができない。
空であるならキラキラ輝いてはいけない。
261 :
一在家:2009/08/28(金) 17:43:59 ID:FRrlKR0u
248 : ◆/yQ8v8XK8Y氏
>空の思想は、その人を押さえつけるものを持たないので、
>まるで世界の支配者になったかのような錯覚を起こさせます。
>世界の秘密を知ってしまった世界の支配者です。
>釈尊に帰依するという気持ちに、釈尊を<超えた>という気持ちが
>重なっているような印象を受けています。
コメントを有難うございます。
私が当初いだいたインプレ(仮説)と近いかと存じます。
262 :
法華の骨:2009/08/28(金) 17:57:59 ID:WOzZl2JC
>254 以下の中村訳『スッタニパータ』が上を補強して十分だと思いますが。
岩波仏教辞典を根拠に言われても困りますよ。
多くの学者がまとめた辞典を根拠にして、何故困るのですか?
私は、「煩悩があるから輪廻する」 と説かれていると指摘した。
あなたは当に、その根拠を逆に示してくれたのです。
>>254 730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。<
このように私の指摘に矛盾が無いことをあなたが、根拠を以て証明してくれたのです。礼を言います。
>貴方は、盛んに大乗を誹謗しているが、それは縁起を理解してないだけなので、
そういった悪業を積むことは止めた方がいいですよ。
印象論ではなく、アンカーレスを示しご指摘ください、あるなら誹謗ではなく批判です。
また、あなたは縁起をどれほど理解しているのだ?
そして、大乗批判が悪業を積むなどとのあなたの断定的で迷信的説教は、
無信仰の私に役立たない。
263 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 18:06:17 ID:KomVygWD
248 : ◆/yQ8v8XK8Y氏
>空の思想は、その人を押さえつけるものを持たないので、
>まるで世界の支配者になったかのような錯覚を起こさせます。
>世界の秘密を知ってしまった世界の支配者です。
空の思想についての全くの誤解。竜樹の「空」とは、「相互依存性・
関係性」だから、それらによってぎっしりと制限されており、自由に動
くことは出来ない。そもそも、「世界の支配者になったような錯覚を起
こす『我』」が存在しない。
264 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 18:21:36 ID:996UB99p
>>263 竜樹の空はまったくの詭弁。
世界人口の65億人に、煩悩にまみれた我がしっかり存在している。
んっ、相互依存? みんな自己中の日々である。
265 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 18:46:03 ID:rkMspIZg
>>264 それは主として一神教の話。大乗仏教は、2500年間、殆ど人を殺していない。
これ以上の、巨大な相違はない。
266 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/28(金) 19:01:29 ID:f0ZILkiM
>>252 >縁起思想によって見性体験が生じたのか。
いや、違いますね。偶然に生じます。
なんら先入感などありません。
例えばですね、大病などしまして生死の境目をフラフラして・・・
そこから生還し、運良く生き長らえることができる環境になっったか、
こういった極限の精神状態を経験しますと、
経験論的に生死を超越してしまう、ということを無意識にしてしまうのです。
これはつまり仏教にいう「妄執から離れる」ということになりますね。
つまり仏教といいますのは、我執から解脱せんとニルバーナには届かんのですよ。
そのために修行者は禅定とか瞑想などして難儀するわけですからね。
禅というのは静中禅だけではないですよ、動中禅もありますから・・・
つまり作為的に非日常性を追体験するわけですね。
この日常というベクトルの切断された、その瞬時の刹那を体得するんでありんす。
これは偶然ですね。
なぜかと言いますと、作為ではなく無為でありますから。
善行しよう、とか、輪廻転生とか、民衆救済などの雑念がありましたら、
到底、この境地には到らんですね。
267 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 19:15:14 ID:996UB99p
>>265 この地上に極楽を建設しようという集団と、
死んでから極楽に行こうとする集団とではその行動が異なる。
あなたは一向一揆を非難していましたよね。
大乗教徒も殺し合いをする。
268 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 19:35:56 ID:996UB99p
>>266 偶然によって見性体験をしたのであれば、
竜樹の説く縁起・空・仮設・中道には関係なさそう。
そういえば公案も同じですね。
あなたの見性体験をストレートに受けとめれば、
現実がキラキラ輝いているわけだから、
少なくても<この現実は空ではない>と判定できるでしょう。
269 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 19:36:40 ID:p/TtIwnR
>>267 浄土真宗と日蓮宗は、一神教的で、仏教徒して異質。竜樹の「空の思想」
が徹底していないから、争いが多い。どこかで、キリスト教の影響を受けた
可能性がある。
270 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 19:53:35 ID:5tJNXLV4
>>262 私のレスはなかったことにしてください。
271 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 20:07:11 ID:a7qDX0Q5
>>243 >涅槃を得ることは次の生が生じないのだから、結果、苦から解放される。
「次の生が生じないこと」を輪廻からの解脱と言うんだろ。
ゴータマブッダが梵天に言った「耳有るものどもに不死の門は開かれた」
という初転法輪の宣言も輪廻から解脱する法を衆生に説こうという決意
表明だろ。涅槃とは輪廻からの解脱で何の問題もないだろ。
輪廻が実体であるかどうかなどこの際どうでもいいことだ。
所詮、涅槃もわが心の境地に過ぎないのだから。
272 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/28(金) 20:15:58 ID:f0ZILkiM
>>268 貴殿は文意が滅茶苦茶だから、
これ以上、拙者の話も進展しない。
うまく噛み合えば、いい話を書こうと思ったけど残念。
これで、この話はなかったことにします。
すまんですね。
273 :
法華の骨:2009/08/28(金) 20:36:36 ID:t5qrIJJ4
>>270 :神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 19:53:35 ID:5tJNXLV4
>>262 私のレスはなかったことにしてください。
承知しました、多分あなたも私も切り口の相違だけで理解は同じだと思います。
274 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 21:05:50 ID:996UB99p
>>269 比叡山焼き討ち以後、大乗仏教がおとなしくなったという。
それ以前は僧兵を抱え、戦国大名と争うほどの戦闘集団であった。
日蓮宗は日蓮の最初から攻撃的。
275 :
法華の骨:2009/08/28(金) 21:09:18 ID:t5qrIJJ4
>271 :神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 20:07:11 ID:a7qDX0Q5
>>243 >涅槃を得ることは次の生が生じないのだから、結果、苦から解放される。
「次の生が生じないこと」を輪廻からの解脱と言うんだろ。
あなたの個人的宗教観などどうでもよい、その根拠を示してください。
>ゴータマブッダが梵天に言った「耳有るものどもに不死の門は開かれた」
という初転法輪の宣言も輪廻から解脱する法を衆生に説こうという決意表明だろ。
ですから、輪廻から解脱する法 とは何ですか?
それを私は、煩悩滅の修養 と申し上げているのですが。
>涅槃とは輪廻からの解脱で何の問題もないだろ。
それがあるんですよね、修養の道を間違えてしまうという陥穽がね。
輪廻解脱せよ、と言う釈迦の思想や経典を示すことができるなら、
どうかご教示してください。
>輪廻が実体であるかどうかなどこの際どうでもいいことだ。
輪廻思想も解脱もブッダという概念も、釈迦以前からのインド精神的な根源思想ですけど。
>所詮、涅槃もわが心の境地に過ぎないのだから。
ほ〜ら言った先から陥穽に嵌った、我が心の境地 という自覚じたいが、
固定的真我、我執だと釈迦は危惧したのです。分かっていないようだ。
276 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 21:13:28 ID:LcSpHRmu
いっとくけど、仏陀の生まれ変わりは幸福の科学の、大川総裁らしい。
だから仏陀のことを知りたいなら、幸福の科学とかいいんじゃないw
277 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 21:19:01 ID:5tJNXLV4
>>276 それはないなw
あのマンガが信じられる理由を聞きたい。
オレには未だ謎だ。
278 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 21:37:36 ID:996UB99p
>>269 そういえば日蓮には、攻撃的な四箇格言、
念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊というのがあった。
>>272 了解です。わかりにくかったかもしれない。
確認したかったのは、空と直接知覚の区別あるいは違いです。
空・・・色メガネをはずすための道具
見性体験・・・現実の再発見
279 :
一在家:2009/08/28(金) 21:55:09 ID:S3pPaSd+
>>276 >いっとくけど、仏陀の生まれ変わりは幸福の科学の、大川総裁らしい。
そうですか。
私も以前、皆から釈尊の生まれ変わりだと信じられている人に会いました。
そこで、心の中で質問しましたが、まったく反応がございませんでした。
他の神通力は兎も角、これだけ経典に多数記載のある読心通を今世で忘れて
しまうでしょうか、というのが根拠です。
280 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 21:57:55 ID:996UB99p
信長の宗教が気になってウィキを眺めていたのだが、
戦国時代に生まれなくてよかったとつくづく思う。
戦い自体が殺し合いなのだが、戦いに負けるとほぼ皆殺しになる。
女性は3百人が磔、子供は串刺しなどという話がつづく。
外国へ売り払われた女性もいるのだろう。
肝心の信長の宗教は明瞭でない。法華とも唯物主義者とも。
281 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 22:02:19 ID:5tJNXLV4
>>279 そのテストで反応する人は神通があっても怪しい麻原タイプだな。
神通を自慢しちゃうおこちゃま。
もちろん大川さんは、怪しいではなく偽物だと確信できる。
なぜなら、著書があまりにもマンガで、仏教とは全く異なる安易な憑依宗教だから。
あれは酷い、酷すぎる。いったいなぜ信じられるのか理解できない。
創価なら互助会的機能、オウムなら神通やプラーナ体験から信じるのも理解可能な範囲だか、
大川さんとこは何を信じるのか?
282 :
1/7 旧7:2009/08/28(金) 22:06:43 ID:qQizoauN
こりゃ、或る種、信仰告白だなwww
けど、元ken氏と他数名でまだ続いてたようなので、参考までに赤裸々な吐露をどうぞw
気持ち悪いと予感した方にはスルー推奨。たいした内容はありません。
──────────────────────────────
>>256 > しかし、映画の映像が苦しみや喜びという感受を与えるように
> 輪廻も現世の現れも苦をもたらす。
そうではなく(「輪廻が」苦を「もたらす」のでなく)、この言い方で言えば『「輪廻」が「苦」』なのでしょう?
『そして、それはなぜか?(なぜ苦が感受されるのか、苦として感受されるのか?)』という問いが、
仏教の核(コア)であり、初(はじめ)ではありませんか?
映画の映像は「生滅する諸法」であり、輪廻ではない。
強いて言えば、そのような諸法の生滅が繰り返されるその在り方を輪廻と称するのではないか。
(※だから、前シリーズで「(河の)流れ」が原義だ、「暴流」という世の在り様だ、という意見が生じ得る。)
『「そのような(諸法の消滅の一端としてある私の)繰り返される生存」を輪廻と言い、それが苦である』
と言われているのではないか? だから、上にも出た受戒前の定型句になるのではないか?
≪「輪廻」が苦を「もたらす」(≒苦の因)≫のではなく、≪「輪廻(する)という生存」が「苦」≫なのだろう?
だから、「苦の滅」と同義の「後有を受けずという宣言」が出る。だから「解脱」なんだろ?
とまあ、これは揚げ足取りか・・・w すまん・・(^^;
283 :
2/7 旧7:2009/08/28(金) 22:08:06 ID:qQizoauN
>>256 > そこで、なぜ、釈尊を始めとする古の聖者たちが輪廻を問題にしてきたかを
> 考えるべきだと思う。
仰ることはよく解る。前シリーズでも弁解したが、
「気付き」「自覚」「内省」「懺悔」「倫理道徳の歯止め」「作善不作悪の根拠」足り得てきたし、
「因果・縁起の見本、モデル形」「業果の証明」であっただろう。そして、今後もその意義は消えていない、と。
それは解る。
だが、思うのだ。
上記を知り、理解し、納得するのに、《「輪廻」を用いるしかない》としたら、そのような事態とは如何なものか?と。
輪廻に拠らなければ、上記各項は知りえないのか?気付き得ないのか?と・・・。
「輪廻を否定すれば、それはアナーキーな思想だ」とでも言わんばかりの反論が多かったが、本当にそうなのか?と・・・。
貴方が、「輪廻を欠いたら仏教が成り立たない」と考えることの、まさにその鏡像のように、
(それは実際は「“《歴史的累積のある》仏教”(≒宗教学の分類上の仏教)が成り立たない」だけではないかと思うが・・・)、
「輪廻に頼らざるを得ないとしたら、それは“仏教”と言えるのだろうか・・・」と・・・。
伝統的教義体系(或いは修行体系)とは別に、「柱として欠かせない」と言い得るのかどうか?と・・・。
(※個人的には、四向四果でさえ、「ランク付けやめろよ・・・w」って感じてるのに・・・w
「それって修行の階梯とカンケーねーだろw」とね・・・。 もう戻らない(後有はない)は解った。
で、一度だけ戻る?二度以上戻る? ハァ?(゚д゚)?
「後有を受けるか、受けないか、二つに一つだろうが!ヽ(*`Д´)ノゴルァ!」って感じだw
※ いや、修行の励みなんだろうとは思うよ、うん。(剣道柔道の級や段みたいに・・・。))
284 :
3/7 旧7:2009/08/28(金) 22:10:22 ID:qQizoauN
>>256 > 輪廻は仏教の道に入る門として必ずくぐらなければならないものだと、
> 伝統の諸師が仰っている。
それはそうだろう。 伝統としては、
≪この「苦なる世(自身の生存)」に気付き、(懺悔し)、発心し、行じてゆく≫ のが「仏道」であろうから。
そして、≪「苦なる世(自身の生存)」⊆「輪廻」「輪廻する三界」≫なのだから。(記号合ってんかな?w)
> その一端を示せば、因果の基盤であり、慈悲・普賢行の対象であり、
> 精進を促す行者への鞭であり、境地を勘違いしないための地図でもあるからだと
そして、これもほぼその通りだろう。
>>283前段に記す通りだ。
ただ一点、>因果の基盤であり を除けば・・・。
「輪廻」が「因果の基盤」であるなどという言辞は到底認めることはできない。
>>282でも少し触れたように、
「輪廻」とはあくまでも、「我々の生き死にの“ありさま”」であり、
縁起の一端ではあるにせよ、全てではない。生滅の顕現の一つにすぎない。
けして、「輪廻(すること)」が「因果を繋いでいるのではない」。「縁りて起こることを担保しているわけではない」。
百歩譲って、「輪廻を見据えることが、因果に気付く・縁起を見るきっかけとなる」としても、
「輪廻」を見るだけでは、四諦にならない。きっかけにすぎない。(そして、きっかけは「それ」だけではない・・。)
自身の五蘊を、その在り様を観察して初めて、そこに苦の滅という道が開かれる。
律蔵大品では十二縁起だが、順逆に観察されて初めて、確認と理解と頷きとなる。
貴方も「還滅」の方向性・重要性を何度も述べていたと思う。
「輪廻」には(≒輪廻の観察には)、還滅を設け得ない。
還滅縁起と流転縁起が対比されるように、まさしく輪廻は流転(の事柄)であり、(水野さんによれば)苦諦と集諦にあたる。
(集諦が原因観察であることを考えれば、「輪廻」は「苦諦の一様相」でしかない。)
「輪廻」は、「苦の象徴足り得」ても、けっして「縁起の象徴足り得ない」と私は理解する。
そして、≪「苦の象徴」は「輪廻」でなければならないのか?≫ と・・・。
285 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 22:12:27 ID:996UB99p
先日、たまたま大川氏の政見放送をテレビで見てしまった。
小さな政府を訴えていたのが印象に残っている。
国家には国防と警察があればいいような主張だったような。
286 :
4/7 旧7:2009/08/28(金) 22:13:52 ID:qQizoauN
>>256 > それが机さんと同じなんですが。
私も何度か机批判をしているが、その矛先、批判対象が、
自分の中にも相似形としてあることには気付いている。
仲間内や親しい間柄のジョークや軽口ならともかく、そうでない場合でも、
勝義一辺倒な言い回しになることもある。(2chなど特にそうだ。)
気を付けてはいるが、なかなか・・。で、貴方の指摘は、まさにその部分だろうと思う。
≪勝義で(のみ)不問とされること(輪廻の有無)を、世俗に持ち込んでいる≫ と・・・。
確かにそうだろう。(この形で私と机を比較し批判したのは、たぶん貴方が最初だw)
ただ、私は、自分を振り返ってみた時に、
輪廻(という考え方)に依拠することなく仏典を読んできたし、学んできた。
考察する時も、語る時も、それを使わずに来た。(ついでに言えば、「空」も殆ど使っていない。)
けれども、『今のところw』不都合は生じていない。
そして、もし、たった今私が「輪廻(すること)を信じ、確かにその通りだ」と理解し信じたとしても、
私の語りは、おそらく今までと何も変わらないだろう。私にとっての輪廻はその程度のものだ。
「信じるか信じないかのニ択であり、語りに使用するつもりがない」のであれば、どちらでもいい。
あってもなくても、私には『関りが無い』。そう、「宇宙の果てがどうなっているか」という問いと同じように・・・。
銃を突き付けられて「信じろ!」と言われたら「じゃあ信じましょう」となる。その程度のもんだ。
この意味でも(私自身にとっての関わり・重要性からいっても)やはり不要なんですよ・・・。
必要性は、『伝統的仏教の一般的解説場面に於いては、否定しないようにする』ことくらいだろうか・・・。
(→もし、伝記絵本を描けと言われたら、おそらく「白象の夢、右脇からの出産、散華」等をしっかりと盛り込むだろうw
が、少し固く、中高生用ということであれば、省くか、註として「物語的には、こう伝えられている」として、
本文では、歴史的実在としての(w)釈尊を追うことになろう。)
287 :
5/7 旧7:2009/08/28(金) 22:17:05 ID:qQizoauN
>>284で、「きっかけ」という言い方をした。
貴方も
「 >入る門として必ずくぐらなければならないもの 」、
「
>>233 >輪廻の中にいるということを認識する、あるいは信じる必要がある」
と言うように、「気付き」「自覚」の側面を重視している。
私が問いたいのは、「輪廻のみが、仏教における“気付き”や“自覚”を啓発するのか?」
ということだ。 以下、フィクションを二つ。
田中さんが、医者となり、癌治療や末期医療の研究に血を注ぎ人生を捧げている時、
その理由は何だろうか。 その動機、きっかけ、理由は、
昔、恋人を癌でなくしたからかもしれない。最期、すごく苦しんだのかもしれない。
けど、彼がそれを言わない限り、それを知る人は無い。
また、別の理由かもしれない。 その動機、きっかけ、理由は、
給与待遇がよく、優秀な先輩陣や資料が豊富だったからかもしれない。第一人者となれるかもしれない。
けど、これもまた、それを知る人はいない。
知られるのは、そこにあるのは、田中さんが癌治療及び末期医療の研究をしている、ただそれだけだ。
理由が何であれ、彼が研究をしていることが重要なれば、(ましてや善業であるならば)、
ここで理由の是非を断罪する必要はあるまい。
「稼ぐことを目的とした研究に価値は無い、結果など出ない」などと批判する者はおるまい。
「恋人の死が理由でない所に、真摯な、結果の出る研究など成立しない」と批判する者もおるまい。
288 :
6/7 旧7:2009/08/28(金) 22:18:40 ID:qQizoauN
また、子供が夏休み始まってすぐ宿題を片付けた。
簡単で少なかったからかもしれない。友人と競争したのかもしれない。
先生から怒鳴られて、恐怖心でやったのかもしれない。
この時、親は、「恐怖心で宿題をするとは何事か!」と怒るべきか?
「どれくらいかかるかわからないから、先に確実に済ませておくことが適切だ。
この理由でもって宿題はされなければならない!」と怒るべきだろうか。
違うだろ。理由はともかく、宿題を先に片付けたこと、そのこと自体が、
子供にとって良きことであり、次への糧になっていくわけだ。
もし、輪廻のみをこの構図から外すならば、宝珠のように、
「輪廻を、信仰の領域を超えた絶対的事実として」人々が認識し受けとめねばならない。
もし、信仰、信心の領域に留め置くならば、「“きっかけ”の一亜種」に甘んじる度量が欲しい。
どちらの例も、畢竟、当人の問題であり、自覚の問題である。
他者がそれを知る知らないにかかわらず、
自身が、背中を押され、突き動かされ、理解・納得・決意・信念のもと行うのであれば、
『そうした自覚と決意と継続力を支え、善なるものとして成立する行為のきっかけ』
に優劣をつける必要はあるまい。
貴方は、意業の重要性を言うかもしれない。動機の不純さ不誠実さは、それなりの果をもたらすであろう、と。
上の田中さんの例は極端だが、難関校の受験勉強の理由が、「友達(恋人)と同じ学校に行きたい!」だった場合、
その動機は善か?悪か?純粋か?不純か? というのは俗に過ぎるがw、
意に於いて悪が無く、きっかけとして(≒因として縁として)作用している時、それを否定する道理もあるまい。
(律の罰則基準を見るまでもなかろう。)
「輪廻」だけが『きっかけ』としての地位を独占する必要はない・・・。
289 :
7/7 旧7:2009/08/28(金) 22:20:33 ID:qQizoauN
>>256 > 先人は口を揃えて仰っているし、私も深く納得しているからです。
それをとやかく言いはしません。
私もまさにそのように、自身の納得の上で、個人の見解を吐露しているのだから・・・。
(だから、(最初から訝しんではいたけどw)、宝珠にも多少は敬意を払ってきたし、
原始仏教スレの頃から、カラスのスタンスや理解や読み方の一部には敬意を表していた。
ま、だからこそ、宝珠の態度は、裏切りとかのレベルをはるかに超えてるわけです・・w
スレ最初から外道宣言・仏教中心じゃない宣言はしてあったとか、そういうことじゃないw)
(私と宝珠は、外道の自覚を持っていた点で共通していた。
だから余計に不誠実な態度に苛立ったのかもしれないな・・・w
──────────────────────────────
前シリーズの話題を蒸し返す形になるので気が引けたが、
元ken氏と ID:5tJNXLV4 氏のやりとりも面白かったので便乗した。
御目汚し失礼しました。 orz
※ 宝珠も書き込み減ったし、カラスは気紛れだし、在家は相変わらずだしで、
勢いで書いた。不備は承知。だが、気になる所があれば拳骨入れても桶w
貴方だけが、このスレの良心かもしれないので・・・www >> ID:5tJNXLV4
ノシ
290 :
閻魔大王:2009/08/28(金) 22:40:36 ID:KlTOrvAO
もう、クソカルトの巣と化したこのスレは終了したほうがいいのではないか。
カルト連中の地獄送りの準備はやっと、調ったぞw
輪廻転生が好きなカルトのために今までなかった新しいパビリオンの輪廻転生地獄を造ってた。
赤鬼アートマン役と青鬼ブラフマン役の合体場面の演出がオモロイ。
請う、ご期待。
やっぱり地獄もカルトのニーズに応えてアップ・ツウ・デイト化せんとな。
サラ金ヤクザの池田大作と司法試験万年落第生の大川隆法のアホには金満地獄が用意してある。
おめーら、地獄よいとこ一度はおいで、俺は待ってるぜ〜〜
291 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 23:21:22 ID:a7qDX0Q5
>>275 >あなたの個人的宗教観などどうでもよい、その根拠を示してください。
個人的宗教観ではなく単なる語句の解釈だね。
輪廻というのは生まれ変わるということだろ。それは次の生が主事無いことと同義だろ、
という確認だけだ。ここで宗教観は関係ないだろ。
>ですから、輪廻から解脱する法 とは何ですか?
>それを私は、煩悩滅の修養 と申し上げているのですが。
そうですね。初転法輪で説かれたことは苦集滅道の四諦と八正道だろ。
それは仏教の常識だね。
>輪廻思想も解脱もブッダという概念も、釈迦以前からのインド精神的な根源思想ですけど。
そうだね。説法によって相手を納得させるためには相手の知っている概念を使って
説明するのは当たり前だね。自分勝手な考えを語っても相手にされないだけだから。
>ほ〜ら言った先から陥穽に嵌った、我が心の境地 という自覚じたいが、
>固定的真我、我執だと釈迦は危惧したのです。分かっていないようだ。
わが心はアートマンの我ではないだろ。わが心の境地と自覚は同意語だけどね。
自己・吾・我は日本語として同じ意味を有するだろ。日本語の「我」には
「アートマン」という概念は無い。
292 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 23:23:25 ID:996UB99p
同じところをループしながら、仏教の核心にようやく迫ってきた。
あと一押しで神秘の扉が開きそうだww
293 :
神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 23:29:11 ID:a7qDX0Q5
>>291 >それは次の生が主事無いことと同義だろ、
>という確認だけだ。
次のとおり誤記の訂正および補遺。
>それは次の生が生じるということだろ、という確認だけだ。
だから次の生が生じないなら輪廻からの解脱といってよい。
294 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 23:38:54 ID:996UB99p
旧7坊やはだいぶ砕けてきた。
しかしまだまだピント外れで、日暮れて道遠しの感がある。
回りくどい話は止しにして、
生きている意味、生きている目的をストレートに問えばいいのに。
それを外して、仏教にしがみついていても悟れないだろう。
君には机氏のような見性体験があるか。
295 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/28(金) 23:57:18 ID:996UB99p
しかし机氏の場合、見性体験があっても、
キラキラ輝く直接知覚を空であると誤解しているところが痛い。
直接知覚の体験が強烈だから、縁起・空へのこだわりも強烈になる。
空が単なる道具でしかないことに気がつかない。
296 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 00:06:30 ID:TwlcFKKF
縁起・空なるものは、自分の人生が不幸だとか、
苦だとかという思いが、消えてしまえばそれでいいわけじゃないか。
それだけなら、善悪・正邪・苦楽などの価値基準が、
空であることが理解できればいい。
この現実を空や幻にしてしまう必要はまったくない。
297 :
閻魔大王:2009/08/29(土) 00:08:07 ID:lYEe6ric
>>294 >生きている意味、生きている目的
三流ウンコあほカルトでは、いまだにその段階でウロウロしているのか?w
『思い煩うことはない。人生は無意味なのだ!』(S・モーム「人間の絆(束縛)」)
だからこそ、既成の目的論や価値論(=世俗諦)を離れて慶安且つ自由(少なくとも擬制)でいられる。
これが勝義(彼岸、無分別)から還減される仏の教えだと掴める。
生に「価値」がなければ死なねばならないと考える人は、まだ価値の観念に呪縛(束縛)されている。
まったくの未達といわざるをえない。
人生には使命や意味、そして意義はない。それでいいのだ。
298 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 00:17:40 ID:TwlcFKKF
輪廻だとか、流転門だとか還滅門だとか、
仏教用語に酔わないほうがいい。
そんなことより早く悟れ。悟ってから論じよう。
ありのまま、直接知覚などは悟りの始まりにすぎない。
299 :
旧7:2009/08/29(土) 00:22:19 ID:B1c5/QcX
300 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 00:25:02 ID:TwlcFKKF
妄想大王は『人間の絆』を読んだか。
なつかしい書名が妄想大王から出てくるとは思わなかったww
モームは人間心理に通じており、『脂肪の塊』にもえらく感動した。
301 :
旧7:2009/08/29(土) 00:31:59 ID:B1c5/QcX
>>297 >人生には使命や意味、そして意義はない。それでいいのだ。
禿しく同意しておく。
そう。
生きる意味は、「初めからあるものでもなく」、「与えられるものでもなく」、
「自らが見つけ」、或いは「創り出す」ものだ。
もし、ここに於いて、最初から
「何か目的がある筈だ!」「何か意味がある筈だ!」と渇望するとしたら、
それは顛倒妄想であり、苦の因であると言わざるを得ないだろう・・・。
おやすみ ノシ
302 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 00:39:24 ID:TwlcFKKF
ふたりとも青いなあ。
それではドストエフスキーの『罪と罰』の主人公と同じだよ。
かれは後で後悔することになる。
>>207 「無理な解釈」と言われますが、それが、ブッダゴーサや龍樹菩薩(大智度論)の解釈、
ということになりますが・・・。というか、「人、有情、衆生の輪廻」の「有情」を
「ひと」の意味と受け取っておられるようですが、ブッダゴーサが、ここの註の
「サッタ」(有情)を「ひと」の意味で使っていたのかどうかは、再考すべきだと考えます。
片山先生が書かれているように、別に「アッター」(我)という註もあり、また、齋藤滋「初期
アビダルマ仏教における「我」の同義語について」に「ブッダゴーサが述べているように,
当時の仏教では,プドガラ・アートマン・サットヴァ・ジーヴァという語は,いずれも
人格の主体を表す術語として,承認されていた」とありますから、「サッタ(サットヴァ)」を
「アートマン」の同義語として註釈した可能性もあります。
なお、従来あまり触れられていないようですが、別訳雑阿含経(No.100)では、
この文脈で明瞭に「我」「衆生」などと訳出されている点も、もっと重視すべきかと思います。
(用例) 頗説於“我”死此生彼。/外道復言。“我”於此死。亦生於彼。/又問。“我”此死已。
亦受後有。/若有所問。皆稱順答説。“我”死此生彼。“我”死此不生彼。/
“衆生神我”。死此生彼。爲有爲無。/“我”死此生彼。死此不生彼。/佛終不説“衆生”死已
更不復有死此生彼。/外道問言。“我”死此生彼以不。阿難言。如來不説。など。
「他の箇所と矛盾」という点に関しては、これが『外教の視点に立った質問』であることに
留意すべきでしょう。「諸法無我の視点に立った質問」ではない、という点が重要です。
だから、無記の答え方をしたとしても不思議ではないと考えます。
出家修行者には、そういった問題に触れることなく、諸法無我や縁起(流転門・還滅門)を
説いたわけです。在家信徒に向かっては「施論・戒論・生天論の次第説法」をしたので、
在家信徒にとって「死後は天界に生まれたい」という願望が肯定されているわけです。
〔出家修行者には、「この世もかの世も望まない」(Sn.779)と、その願望は否定されています。〕
304 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 01:45:12 ID:UxazpC/w
>>280 >肝心の信長の宗教は明瞭でない。法華とも唯物主義者とも。
違う。彼は、キリシタンに少なくとも好意を持っていた。それを否定する
材料はない。
戦国時代は、日本におけるキリシタンの増加によって説明できるのではないか。
>>304 > 違う。彼は、キリシタンに少なくとも好意を持っていた。それを否定する
> 材料はない。
信長は、遂に洗礼を受けることは無かった。そればかりか
1578年摂津国主の主君荒木村重が信長に叛逆した時には、
信長はキリスト教徒の殺害と教会焼討ちを宣告するなど、
信長のキリスト教敵視の事実が歴史にはきっちりと刻まれている。
> 戦国時代は、日本におけるキリシタンの増加によって説明できるのではないか。
人から指摘されない限り「材料はない」などということを「根拠」にして
「妄想」を事実のように思いこむクセはどうにかならないものか。
信長はキリシタンだという妄想をベースに、戦国時代全体に対する妄想まで
積み上げてしまうとは、まさに「トンデモ」である。
恥ずかしくはないのだろうか?
「人が指摘してくれない限り」ただひたすらに精神に異常をきたした人間のような認識を
深めていく自分のことを。
306 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 05:50:47 ID:V789Ezfi
「業報思想とアートマンの考察」
(その1)
まず初めに業報思想とはどのようなものか、まとめておこう。一般的な業報思想
とは、『今世において殺人などの悪業を行えば、来世においてそれに比する
報いを受ける』 つまり悪因悪果ということだ。(勿論、その反対の善因善果
もある) 非常に単純化すれば、このような思想のことを言う。
今世におけるAさんが悪行をおこなった結果、来世においてその生まれ変わりで
あるaさんが報いを受ける。
この思想の前提として「個」の概念は必須のもである。すなわち悪行を行ったの
はAさんであってBさんではない。そして、その報いを受けるのはaさんであり、
bさんではありえない。Aさんの行った悪行の果を、全く関係ないbさんが受けた
のでは、たまったものではない。
ここには明らかに業をつむ行為の主体者とその果を受ける
主体者の概念がある。
その「主体者」の実体のあるなしは問題ではない。その「主体者」が、たとえ
五蘊の仮和合にすぎない仮設されたものであるとしても、「自と他の区別」が
可能である属性を有さなければ、この思想は根底から崩壊してしまう。
307 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 05:51:37 ID:V789Ezfi
(その2)
さて、ここで私が問題とするのは、この「業報思想」の真偽なのではない。
業報思想の基底をなす、この「自と他の識別を可能にする属性」が、
何らかの『基体』を設定することなしに可能であるのか?
言い換えれば、Aさん→aさん への1対1対応は、『基体』を設定しないので
あれば、どのように担保されるのか? こういうことなのである。
上記のように、Aさんの悪行の果は、必ずその生まれ変わりであるaさんが、受け
なければならない。関係のないbさんが受けるようなことが、あっては話になら
ない。ここでは、「aさん」が、「Aさん」の生まれ変わりであるという厳格な
1対1対応がなければならない。それでは、「aさんこそが、まさしくAさんの生まれ
代わりである」と、何故言えるのであろうか?
Aさんとaさんの「同一性」は、どのように担保されるのか?
Aさん→aさん への連鎖は、どのように行われているのか?
この問いに対する最もポピュラーな回答が「死後も存続する基体」の設定である。
「霊」「魂」「真我」「アートマン」 名称はなんでもよいが、
Aさんと他の人間を隔てるもの、すなわちAさん固有の何かがあり、それがaさん
へと引き継がれていく。これにより、「aさんがAさんの生まれ変わりである」と
言いえる。
これは非常に簡潔で分かりやすい概念である。(仏教以外の『生まれ変わり』思想は
全てこの論を採る)
しかし、仏教においてはこのような「死後も存続する不変の基体」を設定するわけには
いかない。いわゆる、「無我」の思想と矛盾してしまうからだ。そこで、どうするかと
いうと「基体」を設定しない生まれ変わりの説が色々、登場することになる。
308 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 05:52:25 ID:V789Ezfi
(その3)
それでは、その代表的な説のひとつである木村博士の説を見てみよう。
木村氏の説によれば輪廻の主体として第四次元に属する「生命の当体」があり、
それが妊娠出産によって空間的存在としての人間に実現する。そうして死の際にはこの「生命の当体」が
「性格づけられたる意志」として存続し、
その性格に応じて再び自らを特定の有情に実現し創造するのである。
そして、この輪廻の主体は、「我」あるいは「霊魂」と呼ばれぬにもせよ、特殊の性格を持ち特定の
人間に実現すべき自己同一的な個人的属性をもつものでなくてはならぬ。しかしこのような自己同一
を許せばそれは有我論になってしまう。
そこで無我思想と一致するために、特殊の性格そのものが『変化的である』との主張が付け加えられる
ことになる。そして、木村氏は実に様々な表現を用いて、自説を展開するが、要は「生命の当体」なるもの
があり、それによって「同一性」は確保されるが、それ自身は常に『変化的である』ため、「不変の
基体」ではなく、無我論とも矛盾しない。 と、まあこういうことだね。
木村氏はまた、おもしろい喩えをおこなっているので、あげておくと、
「幼虫より蛹になり蛹より蛾になる所、外見的に言えば、全く違ったもののようであるけれども
、所詮、同一虫の変化である。」
なんか、「乳製品」の話と似てるような気がするが、木村氏は、「同一虫」であることによって
輪廻の同一性を確保し、幼虫→蛹→蛾 と変化することにより、「不変常住の基体」ではない
と言おうとしている。木村氏の説は、読めばわかるが
「輪廻の同一性確保の問題」と「無我論」との整合性をつけるために非常に苦労してるのは
理解できるが、いわゆる「言葉遊び」にすぎない。
「蛾の喩え」でも、わかるように、たとえ外形変化を認めたとしても、その本質として「同一虫」
であることから輪廻の同一性を確保するのであれば、そこに「不変のもの」を見ていることに他
ならない。やはり有我論となってしまう。
309 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 05:56:43 ID:kxlW3rMl
、
310 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 06:07:01 ID:V789Ezfi
(その4)
その他に散見する説としては、「業のエネルギーが相続する」「心が引き継がれていく」
「縁起によって同一性が確保される」などの諸説があるが、いずれも、具体的詳細を
述べているものは全くなく、非常に抽象的表現に留まる。その最たるものは「それは
言語表現を超えている。悟ればわかる。」というものだ。
「生まれ変わりの同一性の確保」と「無我論」
この全く、相反する思想の整合性をどのようにつけるのか?
今のところ、「生まれ変わりの同一性の確保」を保障するためには、死後も存続する
何かしらの基体を設定する以外にはない。
そのような基体を否定した上で、「業報思想」を認める仏教徒諸氏。
あなた方は、この二律背反の思想をどのように自己解決しているのか、その詳細を
具体的に「非仏教徒にも理解できる」ように解説できますか?
311 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 07:02:29 ID:H06MI+vM
>>278 >確認したかったのは、空と直接知覚の区別あるいは違いです。
>空・・・色メガネをはずすための道具
>見性体験・・・現実の再発見
白隠の見性体験とか、拙者の神秘体験は、空とは一切関係はない。
見性体験とか神秘体験というのは、なにげにイメージ化されたものが・・・
現象として具現されてしまう。
つまり一種の幻覚作用であろう。
これは仏教の世界観というものを、情報流入において無意識的に構築しているのであろう。
軽いマインド・コントロールと思って差し支えない。
空の直覚というのは、こういった一連の世界観が崩壊することであります。
全てが“真っ白”な状態。
つまりなにも無い。ってことですね。
312 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/29(土) 08:04:18 ID:fpoqBW0r
>>306-310 そのような〜
無我論との整合性をつけるためにアレコレと苦心する・・。
というのはナンセンスなのですよ(喜劇)。
何故なら、その無我論それ自体が完全に誤解されているのだから。
無我の教えというのは、元々からして、
“アートマン(不変の自己存在)などない”
という教えではないからです。
これから私が提示する資料を読まれれば、
私たちが求めるべき自己(真実の)とは何か?
無我とは「アートマンはない」などいう教えではないことが分ってくるでしょう。
今はまだ、打ち込み作業の最中です。
どうも思った以上のボリュウムになってきてしまった・・(涙)
>>312 また根拠提示のない、ただの宣伝かよ。
いい加減にしろ。クズが!
>>310 > 「生まれ変わりの同一性の確保」と「無我論」
> この全く、相反する思想の整合性をどのようにつけるのか?
現在の310は無我である。
三年前の310は無我である。
三年後の310も無我である。
無我であるからといって、三年前の310と
現在の310が人物として同一であるということが否定されるという話は
聞いたことがないし、そのことと無我が矛盾するという事もない。
同様に現世の310は無我である。
前世の310も無我である。
来世の310も無我である。
315 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 09:18:58 ID:9yF3bLrH
>>282-284 >>286-289 だから、外道なんだよ。まあ禅宗はそういう傾向があるから禅宗的かもしれない。
しかし、そんなことをいうなら教えの始めに因果、昇天、輪廻を説いてきた
あらゆる伝統仏教を否定することになる。
輪廻という観念が伝統習慣としてなかったシナ、日本、西洋でも必ず説かれる。
その意味は、輪廻が現状だからだ。まあ、方便としてどうしても受け入れられない人のためには君のような説き方もありだろう。
しかしながら、方便にすぎない。
316 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 09:22:28 ID:9yF3bLrH
>>303 だから、その問題は水野先生が解決してます。
過去ログ参照。結構、面倒なので。
簡単にいうと如来という記号を外道でも使っているので、
外道の如来を完全解脱者と認められないので有情と解釈するようになったが、
本来は如来は完全解脱者という意味でしか用いられず、
十/十四無記はその意味でしかありえないということです。
317 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 09:34:42 ID:9yF3bLrH
>>306-310 まさにその答えは縁起ですね。
同一性とは縁起によって仮設された本質・実体・記号・名称以外のものではないということです。
輪廻は本来、諸行無常のなんだかわらないエネルギーの流動です。
それがただただ縁起によって何か同一性をもって仮設され認識されるだけのこと。
上の方で『ポッタパーダ経』に牛乳がヨーグルトやバターに変化する例がありましたが。
本来は、何かが無常の流動してるだけで、それを人間が過去の習慣に従って、
ある状態を牛乳、ヨーグルト、バターと呼んでいるだけのこと。
輪廻も同じ、エネルギーとでもいうべき諸行が輪廻しているだけのことを、
生まれてから死ぬまで人として同一性をもって認識するけど、
ほんとは同一でもなんでもなく無常なんです。
生まれる前も死んでからも同じこと、同一性は人間の習慣が必然的になくてはならないと誤って考えるから想定されるだけで、
本来、無我で、なんら実体も基盤もない、あるのは幻のような諸行から
縁起によって仮に認識される諸法のみ。
これが仏教の縁起で、これが理解できない中観以外の諸派はいろいろ実体概念を導入しているので見解が低いと言われるんです。
318 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 09:39:41 ID:H06MI+vM
>>310 例えばAという人間が、殺戮したり略奪したり強姦したり・・・
悪の限りを尽くし、ハッピー・ハッピーで死んで逝ったとする。
ここに誰でも不条理を感じるんじゃ〜ないでしょうか?
「何故、Aだけイイ思いをし、他の人間は犠牲にしかならんのだ?」。と
人間の不条理を、理性でもって死にもの狂いに追求したら・・・
そこに業報輪廻思想は樹立される。
つまり業報思想というのは、人間の理性が追求した結果なのである。
じゃあ、実際に業報輪廻というのはあるのか?と逝ったら、
その前程となすものは「世界は条理である」。ってことです。
まあ、よく考えたらいい。
世界は条理である必然性が果たしてあるのだろうか?
もしそうであるなら、
不条理など無いはずである。
そうであろう?
不条理である。ってことは、世界は条理ではない。ってことだよ。
これで悟ったであろう。
どうだ?
<机龍之介・花押>
319 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/29(土) 10:01:09 ID:fpoqBW0r
森羅万象の現象世界における流転変滅する性質/本質が「縁起」というものであって、
ニルヴァーナに到達したら、変滅はない。ニルヴァーナとは消滅した無の世界ではない。
そこから、大乗の如来(ホトケ)の久遠常住なる思想が出てくる。
320 :
一在家携帯:2009/08/29(土) 10:25:34 ID:ytLs6bGE
因果応報にコメントをば。世の中に大変苦労ばかりしている良い人と、何事もうまくいく悪人とがいて、そのままこの世を去ったとする。
輪廻を認めない縁起ではどう説明します?
輪廻とカルマを認めれば、悪人は死後の世界と来世できっちりと精算されるから皆さん平等です。
しかし私どもの神秘体験では、業、カルマの現世精算はより複雑です。
自身のカルマに先祖のカルマもプラスして精算され、カルマには悪業と善業、徳もあり結構複雑ですね。
一例ですが、医者の診断では異常がないのに刃物で斬られたような痛みを訴える男性Aがいました。
彼Aのひょうい霊が語るには、彼Aは前世で女性で自分はAの兄と試合をして斬られたと。
スレ違いなので、おあとはよろしいようで。
321 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 10:25:56 ID:V789Ezfi
>>317 あなたの言っていることは、非常にあいまいですね。
「aさんが、Aさんの生まれ変わりである」といえる論拠が具体的に
述べられていません。aさんはAさんの生まれ代わりであって、Bさんの
生まれ変わりではないといえる根拠は何ですか?
それが明確に示されなければ「業報思想」は成り立ちません。
Aさんから、aさんへの1対1対応が確保されなければ、Aさんの積んだ業の
果が、どうしてaさんに降りかかると言えるでしょうか?
>それがただただ縁起によって何か同一性をもって仮設され認識されるだけのこと。
あなたの言っていることは、抽象的な観念論にすぎず、「Aさんの生まれ変わりは
aさんであり、bさんではない」 このことを全く説明していません。
Aさんからの継承はaさんに引き継がれ、bさんには連鎖しない。
この差異は何によって担保されているのですか?
あなたのいう「エネルギー」というものですか?
>>319 久遠常住の最もわかりやすい例のひとつが
無量寿如来、つまり阿弥陀如来。
だが、それにしても「捏造」と散々悪態ついてきた大乗を
自分の都合次第で利用する浅ましさには反吐が出るね。
真我についてどれだけ言葉で理解していようと、
こういう人間は、何も理解してない人間よりも遙かに劣る。
324 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 10:34:49 ID:Py5f9wby
>>320 >輪廻を認めない縁起ではどう説明します?
日本の葬式仏教では死んだ人は平等に仏様になる。
死者を鎮魂することはあっても死者に鞭打たないのは
和の文化の優れた特徴だね。
325 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 10:38:56 ID:ytLs6bGE
明日は選挙ですね。
中川氏の師匠の高橋氏は釈尊の生まれ変わりだと言われた方で、前世を思い出させる霊道現象は凄かったですね。
いまじゃマホメットの生まれ変わりだと?
KKスレのネタかな。
326 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/29(土) 10:40:25 ID:fpoqBW0r
>>322 >だが、それにしても「捏造」と散々悪態ついてきた大乗を
>自分の都合次第で利用する浅ましさには反吐が出るね。
大乗思想のすべてが間違いではありませんね。
ゴータマの教説を元にし、自分で考えた結果として引き出した優れた考察部分もある。
当然、ゴータマの教説を無始した勝手デタラメな部分も多々ある。
私は、大乗の主張が全部ダメとはいったことはない。
ゴータマの思想を知るには原始経典に拠らざる得ないといってるのです。
327 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 10:44:06 ID:9yF3bLrH
>>321 業の連続性ですね。ただし、物理的連続性は、生死を起点として断たれてるので、
一般人には何も証拠はありません。業の連続性を認識できるかどうかにかかります。
釈尊など聖者は認識できた。それだけのことです。
縁起というのは認識の問題なんです。
それに何か物理的基盤を設定した時点で縁起ではなくなるんです。
抽象的と貴方がいうのは、あなたが実在論に立っている、
実在論的思考法に馴染んで、その枠でしか考えられないからでしょう。
328 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 11:12:13 ID:V789Ezfi
>>327 Aさんとaさんの同一性の担保は「業」ですか?
それでは、この「業」とは何ですか?
あなたが言っていることはAさんとaさんを繋ぐものは「業」であると
言っているにすぎませんね。それならば、「Aさんとaさんを繋ぐもの
は霊魂なのです。これは勿論、物質ではありませんから、実体はありません」
このように言っていることと、何らかわりませんね。
つまり「霊魂」という語を「業」という語に置き換えているだけです。
>抽象的と貴方がいうのは、あなたが実在論に立っている、
実在論的思考法に馴染んで、その枠でしか考えられないからでしょう。
このような、総論的批判は意味がありません。
単に相手への中傷にしかなりませんよ。
論点を整理しましょう。
あなたは「業」というものに「自と他を区別する属性を付与しました」
それによって、Aさん→aさん の流れを確保したわけですが、
この属性を認めた時点で「我」の存在を許容してしまったことになります。
(なぜならば、自と他を分ける属性を有するものを認知してしまったから
です。たとえ、「それは実体のないもの。あるいは変化するもの」との
条件付けを施しても同じことです)
あなたは自分の主張の矛盾が理解できますか?
>>326 大乗を否定したときは「捏造だから」ダメだと発言したのであって、
内容的な過ちを指摘したのではなかった。
今回は「捏造だから」の部分は「スルー」して、
内容的な部分に関してのみ問題にしている。
これが「自分の都合」でなくて何だというのか!
恥を知るがいい!
>>326 > 大乗思想のすべてが間違いではありませんね。
そうであるなら「捏造だからだめ」という言い方に対して
撤回し、反省する必要があるのに貴方はそれをしない。
> ゴータマの教説を元にし、自分で考えた結果として引き出した優れた考察部分もある。
> 当然、ゴータマの教説を無始した勝手デタラメな部分も多々ある。
そうであるなら、そのことだけを指摘すれば済む話であって
「後代に書かれたからダメ」という言い方をすべきではなかろう。
> 私は、大乗の主張が全部ダメとはいったことはない。
> ゴータマの思想を知るには原始経典に拠らざる得ないといってるのです。
結局、自分の主張を通すのに利用できる思想はそのまま通し、
そうでない思想に関しては後代の記述かどうかでフィルタリングする。
「その時ばかりは」
後代の記述だからゴータマの言動と同じではない、という理屈を持ち出すのと
同じことをしているのだ。
こういうのを破廉恥という。
331 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/29(土) 11:31:32 ID:fpoqBW0r
ID:9yF3bLrH vs ID:V789Ezfi
根本的な疑問部分ですから・・とても良い議論だと思います。
>>322 ニルヴァーナに到達した存在(如来)は常住だということを、
大乗の人間はその必然的理解から導き出したのだ、
という話しをしたまでのこと。
ゴータマはニルヴァーナを、
「造られたものではない世界」(ウダーナ8:3)であり、
「没することがない」(ウダーナヴァルガ26:29)
といっているのであるから、当然です。
だからといって、
「無量寿如来、つまり阿弥陀如来」の信仰なるものも仏教などとはいっていない。
こういうのをミソもクソも一緒だという!!
アミターバ(無量光)はゾロアスター教から持ってきた異教の神。
その(阿弥陀)思想なるものも凡そ仏教の基本からはあまりに懸け離れている。
332 :
一在家携帯:2009/08/29(土) 11:32:30 ID:ytLs6bGE
320を少し補足。
ひょうい霊が話したり、畳に指で字を書いている間、本人の意識はクリアで客観的に観察している。
彼Aの場合、一ヶ月後にひょうい霊は離脱し、原因不明の斬られたような痛みは消えました。
輪廻とカルマを説かれた釈尊の偉大性を知らない仏教徒も多いかも。
333 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/29(土) 11:36:00 ID:fpoqBW0r
>>329-330 今は面倒なのでそういう議論はしません。
どうせあなたは、わたしのいうことには何でも喰いつきたくてショウガナイのだから。
こ れ は ひ ど い
335 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 12:00:54 ID:V789Ezfi
私が言いたいのは、それが「仏教」であるか否かは、ひとまずおいといて
「アートマンがある。いや、そんなものはない。」
どちらの見解でも良いのです。
「業報思想は真実である。いや、そんなものはウソだ。」
これも、どちらの見解でもよろしい。
問題は「業報思想は真実であるとしながら、生まれ変わりの同一性を担保する如何なる
基体も認めない」とする、この論理矛盾なわけです。
現時点まで、木村博士を初めとする諸学者が其々の見解を述べてきましたが
整合性の取れた説は一度も見たことがありません。
全て観念論による言葉遊びの範疇でした。
どなたか、この論理矛盾を解消している説をご存知の方はおられませんか?
>>331 > 「無量寿如来、つまり阿弥陀如来」の信仰なるものも仏教などとはいっていない。
> その(阿弥陀)思想なるものも凡そ仏教の基本からはあまりに懸け離れている。
かけ離れているかどうかと、それが真実であるかどうかは別だといったのは誰かね?
神智学なるものは仏教ではないし、神智学なるものも凡そ仏教の基本からは
あまりにもかけ離れているではないか。
ルーツがゾロアスター教だからどうだというのだ。
神智学だって似たようなものではないか。バカバカしい。
あなたが今まで言っていたように「内容的に」批判してみたらどうなのかね?
>>333 あまりにも典型的な「負け犬の遠吠え」だな!
恥ずかしくないのか?
小学生以下の言動をしている自分が。
説としてはみかけるけど根拠がよくわからんね。
救ってくれたり光明のイメージ以外共通項がない。
浄土は悟りのための場所で最終目的じゃないし、
阿弥陀は最後の審判もやらないし、暗黒の勢力と戦ってないし
アムシャスプンタに相当するものも従えてない。
wikipediaで「異説」の節に入れられるのもわかるわ。
>>338 天親賛に以下の文がある。
信心すなはち一心なり
一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなはち他力なり
親鸞は自らのことを罪深き存在という意味での
悪人と呼んでいる。これは低我のことである。
それに対して菩提心があり、これは低我である我執の強い自分からは
手の届かないものであるとの認識がある。
菩提心は金剛心である。
決して朽ちることのない不滅性を示すのが金剛という意味であるから、
結局のところ菩提心が大我であり、このスレ的な言い方をすれば
アートマンなのである。
そして菩提心とは他力、つまり自分には手が届かない、つまり
阿弥陀如来の慈悲であるという認識がある。
つまり、阿弥陀如来とはアートマンの別名なのである。
無我・無常を説く仏教にあって、念仏系は永遠の仏を説き、
低我、大我のような概念があり、
悪人、他力ということでそのことを明確に語っている。
仏教において念仏系が密教とならんで異端的な経緯のものであることは疑いがないが、
仏教の中でアートマンを探すのであれば、浄土真宗をおいて他にはないだろう。
間違ってアンカーつけてしまったが、関係ないです。スマソ。
341 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 12:58:15 ID:H06MI+vM
>>335 >現時点まで、木村博士を初めとする諸学者が其々の見解を述べてきましたが
>整合性の取れた説は一度も見たことがありません。
>全て観念論による言葉遊びの範疇でした。
ニーチェの永劫回帰を証明せよ!。ってことと同じ。
証明しようとした木村博士が痛いだけです。
ニーチェの思想をリアルで考える人間と、
ニーチェの思想の真意を嗅ぎつける人間と、
このふたつしかない。
前者というのは、もう、どうしようもない人間。話にならんです。
仏教は後者のスキルを必要とする。
旧7氏は哲学科卒らしいから、ニーチェのことはマスター済みであろう?
彼の著作というのは、何回も読んでいるうちに解ってくるもんだし、
というか・・・
それはもしかしたら長い年月を要するかもしれん。
それは自問の繰り返し。
こういう思想というのは西洋人には理解し難い。
弁証法の思考システムが出来上がってしまってるからね。
仏教はこの範疇ではない。
ニーチェに学ぶべし。
342 :
析空:2009/08/29(土) 12:58:34 ID:HAmXmVcp
>>125 机先生。
以前、仏性について、
机先生は【有る】とおっしゃってましたが、(2年程前)
今はどう観ますか?
343 :
1/15:2009/08/29(土) 13:01:03 ID:B1c5/QcX
344 :
2/15:2009/08/29(土) 13:01:58 ID:B1c5/QcX
29 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 19:33:56 0
980 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 10:59:11 0 (感嘆子)
@>> 21
>けれども文法的なものも含め『私』の性質を主観的な意識から捉えてみることは
>単に定義の問題だと答えるよりは望ましいものだと俺には思えます。
文意を完全に汲み取れていないので答えになっていないかもしれませんが、
【『私』の定義に《主観的な意識》であることが含まれることに】異論はありません。
個人的には【「現にこの物体(哲学者最高位という人体)に付随して存在している
主観性(の背後にある何か)」というのを】一応提案しておりますがw、
とにかく肝心なのは、『私』が「あれ」でも「それ」でもない特定の「これ」を
指す限り、「普遍化可能言語」をいくら並べても、その定義にならないことは
当たり前である、ということです。
個物の定義には他の個物が入らざるを得ません。個物というのは現実に存在する
この世界という個物の特定の一部分のことなのですから、当然です。
その個物が現に持っている性質(主観性であるとか純粋な存在性?であるとか人間で
あるとか何とか)なら、普遍化可能言語で記述可能ですが、それをいくら並べ挙げても、
その個物の定義にはなりません。
さらに、個物が現に持つ性質のどれを失ったらその個物でなくなる(その個物は消滅する)
ことになるのか、それはほとんど解釈によるとしか言いようがありません。
【最高位氏が「なぜこの体が私であって他人でないのか、この体の物理的性質から
説明できないだろう」と言われるので、「それは定義の問題だから】説明できないのは
当たり前です」とお答えしたわけです。
さらに、「私が主観性でなくなっても、この体が消滅しても、私は私として存在する
ことが可能だ!」と言われるので、「その場合の私というのはどういう意味ですか?」
とお尋ねしたわけです。無論お返事はありませんがw
345 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 13:02:16 ID:7DMaprZ8
善い事も悪い事もした人間(「すべての人間」がそうである)の来世はどうなるのか。
この問いに答えられないから、「輪廻転生」の理論は一発で崩壊する。
さらに、「輪廻転生」で人を「脅迫」することは、最大の悪である。輪廻転生
を唱える者は、間違いなく地獄行きである。釈迦が唱えたとしたら、彼は今頃
は地獄でのた打ち回っているはずだ。
Aさんとその死後のbさんとの同一性は、その「外見」と「経験に基づく記憶」
の同一性の「両方」を必要とする。Aさんが死ねば、その記憶器官である脳も
腐るか灰になるから、Aさんの記憶はすべて消滅する。クローン人間であっても、
脳は新たに発生するのだから、記憶は別である。
従って、輪廻転生は、科学について無知蒙昧であった時代の古代人の妄想。
現代では、輪廻転生という妄想は、もはや存在しない。
346 :
3/15:2009/08/29(土) 13:02:58 ID:B1c5/QcX
30 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 19:34:51 0
984 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 11:04:50 0 (感嘆子)
@>> 22
>その「これ」に唯一性があれば、誰になってもおかしくないという考えは否定されます。
>所謂魂が浮遊していてたまたまその人になったというような。「これ」だから「この『私』」しかあり
>得ないと断定できます。
お話はわかるのですが、私が言いたいのは、まさに「誰になってもおかしくないという
考えを否定する」ためには、「これ」の唯一性を突き止めることなど不要である、という
ことなのです。
というより、唯物論的に考えれば、「これ」というのは一回性の出来事、この世界の
特定の時間に特定の場所に発生した特定の人体の脳細胞の特定の構造と運動のことなのであって、
否応なく「唯一」なのです。というか、世界にあるどんな物質も構造も運動もすべて唯一であって、
【本当は「固有動詞、固有形容詞、固有副詞」等々によって記述しなければならない】わけですが、
しかし言語というのは世界を同一性によって捉えるためのものなので、
それでは意味がないからそうしていないだけのことです。
>脳細胞が『私』と対応しているのだとすれば、脳細胞を順次入れ替えていった場合、
>『私』は消滅する筈です。
ですから、ある時点の特定の脳細胞群(もちろんそれだけではないですが便宜上)の
特定の組み合わせがすなわちその時点の『私』の原因だということになります。
そして、肉体の質料はつねに入れ替わり構造も状態も常に変化していますので
(静止していたらそれは死んでいるということなので、常識的には自我になり
ようがありません)、次の時点の特定の脳細胞群(前の時点とは違う)の
特定の組み合わせ(前の時点とは違う)がすなわちその時点の『私』の原因だと
いうことになります。
347 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 13:10:45 ID:7DMaprZ8
>>339 >仏教の中でアートマンを探すのであれば、浄土真宗をおいて他にはないだろう。
それが原因で、浄土真宗は、100年以上続く一向一揆を起こし、人を殺しまくり、
社会に大きな害毒を流し続けるという、「佛教にはあるまじき悪事」を犯したの
である。
348 :
4/15:2009/08/29(土) 13:18:00 ID:B1c5/QcX
31 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 19:35:34 0 ・・・・・・☆
985 考える名無しさん sage 2007/10/30(火) 11:07:52 0 (感嘆子)
(続き)
「それでは、『私』の同一性はどこにあるのだ?」と言われそうですが、
『私』の【同一性は現時点の記憶と、カタマリとしての人体の時空的連続性によって判断される】もので、
本当は極めてあやふやです。ですから、その意味での
『私』の【同一性は「言語的解釈の上にある」】としか言いようがないでしょう。
最高位氏の好きなw「この体のコピーを作る」話において、仮に唯物論が
正しいとすると、そのコピーには元の体と寸分違わぬ自我が発生するはずですが、
その自我は、当然「私は何十年も前から存在する唯一のこの『私』だ!」と主張するでしょう。
【客観的にはそれは間違いだと判断されるでしょうが】、
【それは肉体の時空的連続性がないから】でしかありません。
「この体が二つに分裂する」話だと、文字通り「一つだった『私』が
二つの別個の『私』に分裂する」ことになります。これは別段不思議でも
矛盾でもありません。現在の『私』の後継者が未来においても一つしかない、
というのは、「経験的にそうである」という以上の意味はありません。
このように、『私』の通時的同一性というのは極めてあやふやなもので
あって、とても「純粋な存在性」などと言えるものではありません。
【『私』とは特定の瞬間の特定の場所にしか存在できない何か】であって、
【その通時的同一性は仮想のもの】だ、と言っても、間違いではないと思います。
この体が死んで消滅して百年後にコピーを作る場合と、この体が夜眠って
主観性である意識が消滅して、翌朝目覚めて主観性である意識が発生する
場合と、【どこが違うのか、実は本質的には違わない】とも言えます。
私は生物学や大脳生理学には全く無知ですが、恐らく現実に起こっていることは
むしろ、「『私』は瞬間ごとに消滅しては似たものが再度発生するを
間断なく繰り返している」という方が実情に近いのではないか、
という気もいたします。
349 :
5/15:2009/08/29(土) 13:18:58 ID:B1c5/QcX
823 考える名無しさん 2007/09/25(火) 10:13:40 0
>> 818
>完全に2分裂して増殖するゾウリムシの『私」は何処に行くあるいは(
>分裂後の)どちらに行くとお考えになるのでしょうか?
これも似たような疑問ですよね。実は次に話題にしようかと考えていました。
ゾウリムシがどのように感じているのかは解りかねますが
(一方が私ではない新たな私として分裂しているのかもしれませんので)、
私というものが完全に二分割されたなら、私はそのどちらかに残ると思うのですが、
分裂した他方も私はこちら側に残ったと考えているのではないでしょうか。
そして【どちらに残ったのかは他者には判別できません】。
この場合、本来の私だけはどちらに残ったのか判るのかもしれませんが、
【他の誰にもどちらに私が残ったのかは判りません】し、
分割した二体の【どちらも私はこちら側に残ったと主張する筈】ですので、
私がどちらに残るのか法則を確定(共有)する事は不可能でしょう。
【ただ、自分だけは体験として知る事ができるのかもしれません】。
ヒトを完全に二分割するのは、幾ら何でも不可能な事かと思いますが、
自分だけでも良いので結果がどうなるのか知りたいという気持ちはあります。
これはやってみなければ判らない事ですので、現段階では不明という結論しか出せないと思います。
────
828 「機械的唯物論」者 ◆FUmCW.hN/Q 2007/09/25(火) 10:35:58 0
>> 823
>ただ、自分だけは体験として知る事ができるのかもしれません
そういう意味で言いますと、
その「自分」が2個になるだけのことで、2個になったそれぞれの「自分」が
「『私』はこっちに残った!」と感じますが、【それはあくまで「主観のお話し」】
であり、【客観(第三者の視点)に立てば、「両者とも『私』を持ち続けました」】
という判断になります。
350 :
6/15:2009/08/29(土) 13:20:45 ID:B1c5/QcX
838 考える名無しさん 2007/09/25(火) 10:57:12 0 ・・・・・・☆
>> 828
そうですね。
私はこちらに残った、と感じる事は出来るでしょうが、
【本当に私は元々の私なのだろうか、という疑念も併せ持つでしょう】から、
はっきりと確定された答えは判らないのでしょうね。
【ただ、自分はこちらに残ったという感じを持ち】、
【それを信じる(か疑うか)しかできません】。
────
844 考える名無しさん sage 2007/09/25(火) 11:44:29 0
おお、こんな時間から大御所が二人参戦とは珍しいですなw
>> 838
>本当に私は元々の私なのだろうか、という疑念も併せ持つでしょうから、
>はっきりと確定された答えは判らないのでしょうね。
それは、「はっきりと確定された答えはあるが知ることはできない」のではなく、
「正解はなく、解釈次第でどちらとも言える」という意味なのです。
どちらの私も元々の私である、とも言えるし、どちらも違う、とも言えます。
実は、これは【分裂などせずに1人の人が普通に生きている場合でも、全く同じこと】です。
ちなみに、【肉体以外の「魂」「霊体」のようなものが存在して】、
【その同一性の判定が可能であるとすると】、
分裂後の【どちらの私が分裂前の私を受け継いでいるのかいないのか、判定が可能になる】でしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
351 :
7/15:2009/08/29(土) 13:21:50 ID:B1c5/QcX
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
914 考える名無しさん 2007/09/25(火) 23:45:02 0 ・・・・・・☆
>> 844
どうでしょう?
もし分割されると同時に一方が粉砕滅却されてしまうとしたら、
そしてもし運悪く、その砕かれてしまう側に私が残っていたとしたら、
私は死んで居なくなってしまうのかもしれないのではないでしょうか。
【残った一方と第三者にしてみれば、どちらでも同じ事】だと解釈するのでしょうが、
【死んでしまう私にとっては大問題】です。
答え(どちらに私が残るか)次第で生死が分かれてしまいますので、
【結果が同じ解釈にしかならないとしても】、答えが無いわけではないように思います。
と、そのように思うのですが、
>実は、これは分裂などせずに1人の人が普通に生きている場合でも、全く同じことです。
興味を惹かれる一文ですね。もし宜しければ解説頂きたいものです。
>> 819の機械さんの書き込みや>> 833の書き込みにも関係があるのかな。
この辺りの事については最高位さんにも考えてみて貰いたいですね。そうすれば・・・
>>347 (特に蓮如以降の)浄土真宗を擁護する気はまったくないが、
「それが原因で」という部分に、結局また根拠がないんじゃないかと思われる。
一向一揆に問題があるということと、アートマンがその原因であるということの
因果「関係」について何も語られていないのである。
まったく関係性などを無視した結論だけをふりかざす。
どれだけ言われても同じ愚行を繰り返すのは、何とかならないものか。
▼日本人男性
・レイプ発生率世界最少
・DV発生率世界最少
・休暇日数世界最小
・既婚者の昼食代(平均500円)、1ヶ月の小遣い(平均2万円)世界最小
・余暇、自由時間世界最小
・労働時間世界最大
・年間自殺者数(約3万)世界有数
▼日本人女性
・テレビ視聴時間世界一
・化粧品使用量世界一
・無駄遣い世界一
・余暇、自由時間世界一
・無職(専業主婦、家事手伝い)の人数世界一
・売春婦(援助交際、AV女優、風俗嬢、水商売、出会い系サイト)の人数世界一
・年間中絶件数(約30万)世界有数
なぜテレビや政治でジェンダーフリーを進めて男性差別の社会を作るのかが分かる。
日本の女はバカで深く考えず、目先のことしか考えないので誘導しやすいからだ。
新興宗教やマルチに嵌るのも圧倒的に女性が多い。L&Gの円天も女性ばかりが被害者。
どの国でもそうであるが、国が滅亡するのは最終的に女性が原因なのは世界共通認識である。
354 :
8/15:2009/08/29(土) 13:26:10 ID:B1c5/QcX
959 考える名無しさん sage 2007/09/26(水) 10:27:58 0
>> 914
>もし分割されると同時に一方が粉砕滅却されてしまうとしたら、
>そしてもし運悪く、その砕かれてしまう側に私が残っていたとしたら、
残っていた「私」が、いつの時点のどの「私」を指しているかが問題なわけです。
この話には、3つの「私」が出てきます。
「時刻t1における私A」「時刻t2における私B」「時刻t2における私C」
の3つ(3人)です。「Aの体が分裂してBとCになる」わけです。
そして、私Bと私Cは、どちらも「自分は時刻t1においては私Aであった」
という記憶を持っています。
ここで、時刻t1において、私Aに対し神様が「あなたはこれから分裂して私Bと私Cに
分かれる。そして一方が粉砕滅却されて消滅する。さて、あなたはどちらになると
思うか?」と尋ねて、私Aが「ああ、どちらになるのだろう」と心配するが、
実際どちらになるのかはやってみなければわからない、不思議だ、というのが、
永井均氏などがよく出す例なのですが、これは考えるとおかしいのです。
なぜなら、時刻t1においては、存在するのは私Aだけであって、私Bも私Cも
存在しないからです。そして、時刻t2においては、存在するのは私Bと私Cだけで
あって、私Aは存在しません。
私Bと私Cは記憶が同じというだけで全くの他人ですから、私Bが粉砕滅却されても
私Cには影響がないし、逆も同じです。(福田康夫さんが粉砕滅却されても麻生太郎
さんに影響がないのと、同じことです。)
では、私Aには影響があるかというと、あるはずがありません。なぜなら私Aは過去
であって、時刻t2においては「存在しない」のですから、存在しないものがどんな
影響も受けようがないのです。
355 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 13:27:05 ID:H06MI+vM
>>342 析空どの
>以前、仏性について、
>机先生は【有る】とおっしゃってましたが、(2年程前)
>今はどう観ますか?
仏性が有る、も、仏性が無い、も、ようは同じなんですね。
即心即仏というのは、
つまり、心は是仏なり、の意ですが、
既に仏であるなら、もう、仏であることの意味も無くなる。
(こういう見解というのは禅宗の特徴です)→南宗禅以降
だからこの位相を、非心非仏などと逝ったりする。
(この意は、心あらざるなら仏もあらざる)
即心即仏は世俗諦での意味であります。
非心非仏は勝義諦での意味であります。
色即是空ですから、世俗も勝義も同義。
ただ差別相と無差別相という、相の違いだけです。
356 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 13:30:09 ID:7DMaprZ8
>>341 「弁証法」は、物事を「正」と「反」に二分する方法だが、その「正」と「反」
が、それぞれ無数の「正」と「反」によって成立しているのだから、「正」と
「反」の二分は不可能という、初歩的な論理的誤りを犯している。「正」と「反」
に二分する前に、それぞれを構成する無数の「正」と「反」を分析すべきなの
だが、それは不可能事である。西洋思想の誤りの根源である。
357 :
閻魔大王:2009/08/29(土) 13:33:31 ID:lYEe6ric
>>354 哲学者最高位も「機械的唯物論」者 ◆FUmCW.hN/Qもあなたも
我あり前提のツマラン議論をしてんだねw
358 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 13:46:19 ID:7DMaprZ8
>>352 貴殿自身が「仏教の中でアートマンを探すのであれば、浄土真宗をおい
て他にはないだろう」と言われたのだから、それが原因であると結論
するのが当然ではないか。他の佛教宗派(日蓮系を除く)は、そのような
「悪事」はやっていないのだから。
蓮如は親鸞の教えに従った者である。何故、親鸞は除外しようとするのか。
それが「開祖盲信」である。蓮如と変わりはない。
359 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 13:51:16 ID:7DMaprZ8
>>355 机師が言われた、「世界は悟っている」ということですね。
>>358 > 貴殿自身が「仏教の中でアートマンを探すのであれば、浄土真宗をおい
> て他にはないだろう」と言われたのだから、それが原因であると結論
> するのが当然ではないか。
どこが原因なのか全く指摘がない。
浄土真宗がアートマンを認めていることと、
一向一揆が起きたことの「関係性」を指摘せよ、といっているのだが。
>>358 > 蓮如は親鸞の教えに従った者である。何故、親鸞は除外しようとするのか。
たとえば親鸞の息子も親鸞に従ったものかもしれんが、
親鸞は結局「破門」している。
蓮如もまぁ同様だろうということだな。
> それが「開祖盲信」である。蓮如と変わりはない。
どう変わりがないのか指摘しなければ意味がなかろう。
蓮如と親鸞の違いはいろいろあるが、一番は
蓮如は信者を組織化して折伏改宗していったことだな。
そのプロセスで要所要所に自分の子供達を配置していった部分も見逃せない。
こうした要素は後の「戦国大名化」に「直結」している。
故に、蓮如を特に問題視しているのである。
隠居「中国は偽装をたくさんやっているのだから、神舟7号は捏造であると結論するのが当然ではないか」
363 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 14:03:07 ID:7DMaprZ8
>>360 争いは、常に「我(アートマン)」の主張によって生じる。それだけで
充分だろう。
キリスト教教派間や異教徒の大虐殺も、全く同じ。
>>363 アートマンに限ったことではないということだね。
ID:v8vJuPhx「いいから因果関係を書け。単に原因認定したものを論証もなく置いただけでは根拠にならないことぐらいわからんのか……いい加減にしろよ」
367 :
9/15:2009/08/29(土) 14:11:21 ID:B1c5/QcX
960 考える名無しさん sage 2007/09/26(水) 10:29:27 0
(続き)
このように、
【「時刻t2においては私Aは存在しない」のは、分裂したからではありません。単に「過去だから」】です。
【この事情は、分裂などせずに普通に生きている人でも、全く同じ】です。
福田康夫さんが今粉砕滅却されたとしても、昨日の福田康夫さん
にも1秒前の福田康夫さんにも、何の影響もありません。なぜならそれらは
「過去」であって、存在しないからです。有名な「死を恐れる理由はない。なぜなら
私が存在するときは死は存在せず、死が存在するときは私は存在しないから。」という
言葉も、このことを指しているのではないかと思われます。
【本当は、この話はこんな簡単なものではなく、突き詰めてゆくと「時間とは何か」
とか「現実とは何か」とか、「存在するとはどういう意味か」とか、哲学の根本問題に
突き当たると思われますが(私ごときには手に負えませんが)、いずれにしろ、
(同じ「自我」を扱っていても)、「心身問題」とか「唯物論の是非」とは違う系統の問題】
なのであって、むしろ「可能世界論」の文脈で考えた方が面白いと思われます。
永井氏などは、現にそうしているわけです。
368 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 14:12:10 ID:7DMaprZ8
>>361 親鸞は、息子が自分に従わなかったから破門した。家庭を破壊した宗教者
は、宗教者としての資格はない。イエスは、「自分に従わせるため」には、
家庭の破壊を「奨励」している。
>>364 根拠は「我(アートマン)の主張」だど述べているではないか。
369 :
10/15:2009/08/29(土) 14:12:28 ID:B1c5/QcX
975 考える名無しさん 2007/09/26(水) 11:29:17 0
>> 959
これはAを分割した時点でAは消滅し、他人Bと他人Cが新たに生じるという解釈ですね。
しかしこの解釈では時間が経過すると分割の如何に関わらず、
Aは他人Bになったり、他人CやDになってしまうという事ですよね。
福田康夫さんが時間が経過すると麻生太郎さんになっていたという事が起きているという事になります。
しかし、どうでしょう?貴方は一秒(でなくても構いませんが)経過すると他人になっていますか?
過去は現在の影響を受けないというのは解りますよ。
しかし、過去のAと今のAは「他人」ではないのではないでしょうか。
「この話には、3つの「私」が出てきます。」と前置きされましたが、
私(の主観)としては2つの私、Aと分割された他方Bだけであるように思われます。
Aは分割後も継続してAのまま他人になってはいないように思うのです。
私が他人になるというのは、この躰から発生しているという感じ(曖昧な表現ですみません)が消え去って、
あの躰から発生している誰かに変わってしまうという事だというように考えますが、
時が経過しても、私は他人に変わる事は無いですし、過去においては他人であったという事もないでしょう。
と、そう考えますが、もっと奥が深い何かがありそうなようにも思えます。
このような話は面白いですね。このスレではもう話し合えるかどうか解りませんけど、
機会があればまた考えるのに付き合って頂けたら有り難いです。
370 :
11/15:2009/08/29(土) 14:13:22 ID:B1c5/QcX
977 考える名無しさん sage 2007/09/26(水) 15:29:44 0 ・・・・・・☆
>> 975
>これはAを分割した時点でAは消滅し、他人Bと他人Cが新たに生じるという解釈ですね。
>しかしこの解釈では時間が経過すると分割の如何に関わらず、
>Aは他人Bになったり、他人CやDになってしまうという事ですよね。
いえ全く違います。上の例では、
【私Aは私Bや私Cを「他人」とは思っておりません。「未来の私」だと思っている】わけです。
しかし、私が2人いるというのは論理的に有り得ないので、
「どちらが本当の未来の私なのだ?」と悩んでいるわけです。
【私Bや私Cも、もちろん私Aを「他人」だと思ってはおりません。「過去の私」だと思っている】わけです。
にもかかわらず、私Aが存在するときは私Bや私Cが
存在せず、私Bや私Cが存在するときには私Aは存在しません。ですから、
ここには何の矛盾も問題もなく、「私Aにとっての本当の未来の私は、私Bなのか
私Cなのか」という問いは、答えがわからないのではなく、答えがない無意味な問い
である、ということです。
>私(の主観)としては2つの私、Aと分割された他方Bだけであるように思われます。
・・・・・・☆
もちろん、「私B」から見ればその通りです。というか、
【「現在の私B」と、「過去の私B=私A」という「連続した1つの私」】があるだけです。
「私C」から見ても全く同じで、
【「現在の私C」と、「過去の私C=私A」という「連続した1つの私」】があるだけです。
要するに、【主観的に見る限り私は常に一つしかない】のであって、
これは誰の主観から見ても同じことなのです。
>>368 > 根拠は「我(アートマン)の主張」だど述べているではないか。
アートマンを主張することと戦争行為にどういう因果関係があるんだよ?
アートマンを主張してないやつらは戦争しないのか?
>>368 お前さんの大好きな竜樹も出家しているんだが、
竜樹にも宗教者としての資格はないのか?
373 :
12/15:2009/08/29(土) 14:18:16 ID:B1c5/QcX
978 考える名無しさん sage 2007/09/26(水) 15:31:57 0 ・・・・・・☆
(続き)
>時が経過しても、私は他人に変わる事は無いですし、過去においては他人であった
>という事もないでしょう。
常識的にはもちろんそうですが、哲学的には、必ずしもそうとは言い切れません。
通常、【「私の通時的同一性」を考えるには】
【「記憶」という主観的基準と、「肉体の時空的連続性」という客観的基準を使います】。
【これ以外に「本当の同一性」の基準はありません】。
そして、【両者は【通常は】矛盾しない】ので、問題は起きません。 ・・・・・・☆
しかし、仮に矛盾した場合を想定すると、いくらでも難しい事例が考えられます。
例えば福田康夫さんの体がグニョグニョと溶けて麻生太郎さんの体に変身し、
同時に麻生太郎さんの体がグニョグニョと溶けて福田康夫さんの体に変身した、とします。
唯物論的前提に立って、元福田康夫さんだった体は「私は麻生太郎だ」と感じるし、
元麻生太郎さんだった体は「私は福田康夫だ」と感じる、ということにします。
【いかにもありそうもない想定ですが、論理的に有り得ないわけでは全くありません】。
さて、この場合、過去に存在していた「福田康夫さんの私」「麻生太郎さんの私」は、
現在「本当は」どこにあるのでしょうか。これはなかなか答えの出ない問題、
というより、正解などなく「適当に解釈して決める」しかない問題なわけです。
【我々がこんな問題に悩まなくて済むのは】、
【現実にはそういう【不連続的な変化】が起こらないから】であって、それ以上でも以下でもありません。
しかし、ここで、>> 925における最高位氏のごとくw、
【「精神も、意識も、記憶も、肉体も関係なく、私は存在し得る」と考えると、全く別の答えが出ます】。
そのような純粋な「私」は、通常は「魂」と呼ばれるわけですが、
そのような存在を想定するなら、まさに、
【過去に存在した福田康夫さんの私、麻生太郎さんの私が、現在「本当は」どこにあるか】、
【それは客観的に定まることになる】わけです
(主観が関係ない以上、客観的に定まる以外はありません)。
374 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 14:20:48 ID:H06MI+vM
>>359 >机師が言われた、「世界は悟っている」ということですね。
そうですよね。
世界は全く矛盾はない。ってことですよ。
>>356で弁証法の説明がありますけど、
この西洋思想もまるまる包含してしまっても全く矛盾はない。
それがインド思想(仏教哲学)であると思います。
>>350の
>おお、こんな時間から大御所が二人参戦とは珍しいですなw
大御所が二人も参戦しても・・・・
それは些細なことで議論しているに過ぎない。
ってか、哲板に大御所がおるんですねw
哲学ってのは、ノスタルジーを感じます。
かつてはそういう時代もあった。
今の時代に、哲板で書込みしている御仁がいることに、
少々の驚きがある。
>>368 > 根拠は「我(アートマン)の主張」だど述べているではないか。
どうしてそんなものが根拠になるのか?と聞いているのに、
「それが根拠だ」とだけ繰り返してたって意味ないだろ。
>>366が折角、わかりやすく書いてくれてるのに
ほんとに理解力のないやつだな。
376 :
13/15:2009/08/29(土) 14:24:41 ID:B1c5/QcX
980 考える名無しさん sage 2007/09/26(水) 15:35:06 0
(続き)
【福田康夫さんの私は本当は元麻生太郎さんだった体にあるかもしれないし、
元福田康夫さんだった体にあるのかもしれません。あるいは、死んで【霊界】に
帰っているかもしれないし、ひょっとすると、全然関係のない小沢一郎さんの
体や犬の体に、麻生太郎さんの私と【同居】しているのかもしれません。】なにしろ、
【精神も意識も記憶も肉体も関係ないのですから、それでも一向に不思議ではない】のですがw、
とにかくどこにあるかは客観的に定まるわけです。
このような考え方をするなら、「時が経過しても、私は他人に変わる事は無いですし、
過去においては他人であったという事もないでしょう。」などとは言えません。
現に、精神も意識も記憶も肉体も関係のない純粋な私の存在性、「魂」が見える、と
主張する人々は、「私は誰々の生まれ変わりです」とか「あなたの前世は誰々です」とか断言します。
【つまり、私は過去においては他人だったし、時間が経過すれば他人に変わる】、ということです。
【「記憶がなくなろうと肉体が違おうと、客観的に魂が同一なのだ」と言われれば、
「はあそうですか」と答える以外はありません】。
率直に言って、私はこのような考え方に意味を感じることができないのですが、
若い人の中にはかなり普及している考え方のようです。「自分はどこどこの宇宙の
誰の生まれ変わりである」とか真面目に信じている人も少なくないと聞きます。
以前あるテレビ番組で見たのですが、いわゆる「魂の来歴が見える」方に
「あなたの前世は動物です」と言われて、それを気に病んで自殺した人も現実に
いたそうです。
このような話を聞くにつれ、現代において唯物論が優勢だなどとは一概に言えない、
ということが、よくわかるわけです。
377 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 14:25:18 ID:7DMaprZ8
>>371 >アートマンを主張してないやつらは戦争しないのか?
他の仏教宗派が2500年間、ほとんど人を殺さなかったという「事実」
が如実に証明している。
争いには、種々の原因が関与しているが、常にその「主因」「憎悪要因」
を「原理的に」分析する必要がある。
>>377 > 他の仏教宗派が2500年間、ほとんど人を殺さなかったという「事実」
> が如実に証明している。
中国には白蓮教徒の乱とかあるし、日本には僧兵とかいたし、
比叡山なんかも武装勢力だったわけでね。
ほとんどというにしては随分だと思うね。
他と比較して少ないというのでは根拠としては薄弱極まりない。
大体、戦争好きかどうかなんて国民性でしかないのであって、
アートマンがどうかとは関係がない、という主張だって成り立ちかねない。
「アートマンが原因である」という明確なる根拠を提示してもらいたいね。
それではただの「状況証拠」的なものにすぎない。
そんなのは仮説の域を出ないものだよ。
そんなこといえば、西欧が科学的合理的思考をできたのは一神教の影響によるものだ、
という主張だって成立しかねない。こんなのは根拠とはいえない。
帰納的「推論」を事実のように扱うのは間違い。
根拠とはもっと演繹的で明確なもののことを言う。
こんな「根拠ともいえないもの」を根拠として、自説を補強しようとするなんて
オナニー以外の何物でもないのだよ。
そんな手前勝手なオナニー理論は、他人には通用しない。
380 :
14/15:2009/08/29(土) 14:40:15 ID:B1c5/QcX
986 考える名無しさん 2007/09/26(水) 17:42:32 O
>> 959
このような考え方を、時間の空間化と云うと。
時間の質的変化を、空間に変換してはじめて比較が可能となる誤謬。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
519 考える名無しさん sage 2007/05/15(火) 10:17:20 0
>> 512
>本来は、「他」しかいないのが通常の状態なんですよ
ですからw、「他」しかいない、ということは、有り得ない(というか無意味)
なのですよ。
「他」がいるためには「私」がいる必要があるし、「私」がいるためには
「他」がいる必要があるのです。
「私が存在する以前の世界」が「他」になるためには「私」が存在しなければ
なりません。「2006年」が「過去」になるためには、それ以後の時点が
「今」でなければならないのと、同じことです。
>> 508
>何がどうだから、他の肉体(他人)とは違う『私』であったのでしょうか
最高位氏、この問い方は混乱しておりますぞ。
この文脈なら、
>何がどうだから、他の肉体(他人)は「この私」を生み出さず、
>この肉体だけが「この私」を生み出したのか?
と、問わなければなりません。
他の肉体は「他の私」という別の主観性を生み出している可能性が大なのですから。
ただし、これだと、
【「何がどうだから、他の木は『このリンゴ』を生み出さず、
この木だけが『このリンゴ』を生み出したのか?」と、全く同型の疑問となります。
答えは、「他の木が生み出した何かは、『このリンゴ』との同一性を保てないので、
論理的に『このリンゴ』では有り得ないから」というものです。
『このリンゴ』の通時的同一性は、カタマリとしての時空的連続性によって判断するしかないので、
『このリンゴ』が最初からこの木に成らずに他の木に成っている、という事態は、定義上有り得ない】
からです。
520 考える名無しさん sage 2007/05/15(火) 10:18:49 0 ・・・・・・☆
(続き)
では、『この私』はどうかというと、【「肉体」を度外視するなら】、
【その通時的同一性は主観的な「記憶」によるしかありません】。そして、
【『この私』の記憶は「この体」としてのそれでしかなく】、
【この体が存在する以前の記憶は存在しないため】、
【『この私』の同一性はそれ以前には遡れません】。
ですから、『この私』が最初からこの体から生み出されず他の体から
生み出される、という事態は、定義上意味を持たず、有り得ないのです。
あなたご自身が、「この私は、45億年間存在しなかった」と断言しておられましたね。
これすなわち、「哲学者最高位としての何十年かの記憶しかない」という事実の帰結にほかならないのです。
【もし「私の同一性は肉体にも記憶にもよらない」というのなら】、
【【「この私は永劫の昔からずっと存在している」】と言っても「この私はソクラテスだった」と言っても
「ナポレオンだった」と言っても「徳川家康だった」と言っても「宇宙人だった」と言っても
「ティラノサウルスだった」と言っても、別に間違いではない】でしょう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「(西洋的?)(哲学的?)同一性」の定まり方は以上の【 】部分で十分でしょう。(長過ぎるのは事実だがw)
(個々の文意は文脈と密接に絡んでいる為、単独抽出を避けてこのような形になった。御寛恕を。)
さて、これに比して、
(仏教における)『世俗に於いて凡夫が見る同一性』は、どのようなものとなるだろう。
また、勝義に於いて、この同一性が解体されるべきものであるなら(虚妄であるなら)、
凡夫は、虚妄なる同一性に依存して、「倫理道徳・積善の動機」とすることとなる。
まず、虚妄なる同一性を信じなければ「倫理道徳・積善の動機」が生じないことになる。
以下、また後日・・・。 ノシ
382 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 15:07:01 ID:MMO7aZnP
383 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 15:15:05 ID:H06MI+vM
>>381 >(仏教における)『世俗に於いて凡夫が見る同一性』は、どのようなものとなるだろう。
自己同一性は記憶に依るものであります。
記憶に依ることにおいて、自己同一性は保たれる。と同時に
またこれこそが迷いの因である。ということと合わせもつ。
これが一切皆苦の意味でして、
生老病死の「生」は苦であることの意は、
記憶という、生存に不可欠なものの属性をいう。
>勝義に於いて、この同一性が解体されるべきものであるなら(虚妄であるなら)、
四諦は、まさに「生」と「記憶」との解体なのである。
>凡夫は、虚妄なる同一性に依存して、「倫理道徳・積善の動機」とすることとなる。
>まず、虚妄なる同一性を信じなければ「倫理道徳・積善の動機」が生じないことになる。
そういうことになりますね。
>【その通時的同一性は主観的な「記憶」によるしかありません】。
そのとおりです。
384 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 16:05:54 ID:V789Ezfi
>>381 大量の資料投稿乙です。
最近は哲板、とんとご無沙汰なんで事情はよくわかりませんが、
懐かしいコテさんたちは、今も健在なのかな?
さて、この輪廻業報思想とアートマンの有無に関する議論が、今まで
正面きって論じられることがなかったことが、大変不思議なのだが、
あえて、そこに触れるのを避けてきたのかな?
しかし、いつまでも自己矛盾を内包したままでいるのもよろしくないと
考えるがどうだろうか?
「業報思想は真実であるが、アートマンは存在しない」
このように主張する仏教徒諸氏。
見事、この論理矛盾を解消する卓越した説の投稿を期待します。
畜生に生まれ変わったなら畜生の心を持つ。
畜生の心が常住不変のアートマンと言いたいのかね?
386 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 16:42:42 ID:z/ZHfGLg
>>335 >問題は「業報思想は真実であるとしながら、生まれ変わりの同一性を担保する如何なる
基体も認めない」とする、この論理矛盾なわけです。
問。もしも無我ならば、相続がABC…と無常に継起するとき、
何故、Aさん、Bさん、Cさんの経験ではなく、一つの相続として統一されるか。
したがって、有我である。
答。このような設問は、無常と、無常な相続を多義でバラバラなものだと誤解している。
だからこそ、それらを統一するべき統一者が不可欠であると誤解する。
しかし、もしも、多義即ち他生であるならば、非因生であって無常にはならない。
したがって、統一者如何という設問は、そもそも失効する。
387 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 16:45:48 ID:z/ZHfGLg
>>386補足。
有我であれば、自作・自生で一義・常住。
388 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 16:52:40 ID:kxlW3rMl
>>386 >>335 ですが、答えの意味が分かりません。
何を言いたいのか、わかりやすく解説してもらえますか?
389 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 17:08:47 ID:z/ZHfGLg
>>388 輪廻において「生まれ変わりの同一性を担保する基体」が無ければならない、
という発想は、「生まれ変わり」つまり無常をバラバラであることだと誤解してる、ということです。
バラバラだと誤解していないなら、何故、統一者が必要だ、となるでしょうか。
しかし、バラバラなら、無関係なものから無関係なものが結果し得るから、
そもそも、無常になる必然性はありません。
ですから、統一者は?という質問そのものが崩壊します。
390 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 17:10:06 ID:z/ZHfGLg
>>389補足。
ちなみに、一期の生存を超えた輪廻転生問題でなくとも、
この一期の生存における、過去・現在・未来の経験の統一性の問題でも
問題の本質は何ら変わりません。
391 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 17:18:38 ID:8x9hEeHP
>>300 訂正 → 『脂肪の塊』はモーパッサンでした。
392 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 17:28:48 ID:8x9hEeHP
旧7坊やの投稿は長文過ぎるし、複数レスだし、
内容がこちゃこちゃしているし、読む気がまったく起きない。
どうして読み手を意識しないのだろう。
いま宝珠氏が総まとめを執筆しているらしいが、
何か空恐ろしい予感がする。自分のサイトに掲載する方法もある。
旧7坊やを他山の石とし、ぜひとも自重してほしい。
393 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 17:37:30 ID:kxlW3rMl
>>389 論点がずれています。「無常」という概念は「不変」の対義語ですね。
誰も無常をバラバラであるなどと言っていません。
Aさんが無常であり、いかに変化流転しようとも、その果を受けるaさんは、Aさんの生まれ変わりであると言える
属性を有していなければなりません。それが何か?ということが問題になっているのです。
今世限定の同一性の担保は旧7さんの投稿にあるように、空間的身体の連鎖と記憶の連鎖の二点に
着目するのが妥当だと考えますが、これを来世における生まれ代わり
に置き換えることができないのは言うまでもありません。
394 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 17:41:52 ID:LqAm0etB
>>378 根拠、根拠というなら、まず宗教、神、霊の根拠を出してみろ。「ゼロ」だろw。
すべての戦争は、「我(アートマン)の主張による実力行使」という事実は、
否定できない。
信長が、キリシタンに対し少なくとも好意を持っていたことは確かである。
彼の家族にはキリシタンがいるし、彼は、キリシタン武将の説得を、宣教師
に依頼している。
彼が攻めた比叡山や高野山は、キリシタンではない。
信長の異常極まりない武力行使と大殺戮には、キリシタンの影響が充分に推測
される。
395 :
析空:2009/08/29(土) 17:44:30 ID:HAmXmVcp
>>355 机先生。御回答ありがとうございます。
前スレで、机先生は非我であるだけでなく、無我であると、
つまり文字どおりアートマンは無いとおっしゃっていましたが、
仏性もアートマンと同じく、何処にも無いと思いませんか?
【キラキラ光ったもの】は仏性などではなく、
仏性でないものが【仏性に見えた】だけ、
または
仏性で無いものに【仏性という名前を付けた】だけなのではありませんか?
396 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 17:46:38 ID:8x9hEeHP
信長は幸若舞の「敦盛」を好んでいたという。
幸若舞は、<比叡山>の稚児、幸若丸の舞に始まる。
この「敦盛」に信長の人生観が垣間見れるような気がする。
これは仏教の空・幻の思想ではないだろうか。
人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり
ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか
397 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 17:51:07 ID:kxlW3rMl
>>393の補足
つまり、問題となるのはAさんの生まれ代わりはaさんであり、bさんではない。
このように言える根拠を問うているわけです。
そこに死後も存続する霊みたいなものを考え、それが連鎖すると説明すれば、
それが仏教と言えるかどうかはさておき、
一つの整合性のとれた回答にはなるのです。あとはそれを信じるか否かです。
「無常」だから、どうこうという問題ではないのが
理解頂けますか?
>>394 > 根拠、根拠というなら、まず宗教、神、霊の根拠を出してみろ。「ゼロ」だろw。
別にそんなことは主張していないが。
主張もしていないことのために、何故、根拠を出す必要があるというのか。
破綻しているにも程がある。
> すべての戦争は、「我(アートマン)の主張による実力行使」という事実は、
> 否定できない。
それが事実であるということの根拠がないのに
口先だけで否定できないと言ってること自体が、妄想。
> 信長が、キリシタンに対し少なくとも好意を持っていたことは確かである。
> 彼の家族にはキリシタンがいるし、彼は、キリシタン武将の説得を、宣教師
> に依頼している。
つまり、キミの家族にキリシタンがいたらキミもキリスト教徒であるか、
少なくともキリスト教に好意を持っていると断定していいわけか?
> 信長の異常極まりない武力行使と大殺戮には、キリシタンの影響が充分に推測
> される。
結局、推測ではないか。バカバカしい。そんなもので人を振り回すなと
何度いったらわかるんだ。
399 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 18:00:03 ID:8x9hEeHP
信長の教育係だった平手政秀は、
うつけ者の信長をいさめるために、信長が19歳の時に自害する。
信長はこの政秀の死を悼み、政秀寺を創建する。
この政秀寺が<臨済宗>なのである。
その住職は政秀が信長の師匠として呼び寄せた縁スジの沢彦和尚である。
<臨在の和尚が若き信長の師匠だった>ことになる。
400 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:04:46 ID:LqAm0etB
>>396 何度も言うように、竜樹の「空」とは、「幻」どころか、「相互依存性・
関係性」という、厳然として実在する現象界の「構成原理」である。
その構成が、「相互依存と関係」である故に、「自性はない」と言っている
のである。
原始仏教における釈迦の「縁起・空」は、意味不明。
401 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:05:15 ID:kxlW3rMl
机氏のように「業報思想もアートマンもありゃせん。」
と言うのも良いでしょう。
また、宝珠氏のように
「アートマンと言えるようなものがあり、勿論、業報思想も真実だ」
これも論としての整合性はとれている。
しかし「業報思想は真実だがアートマンと言えるような同一性を担保する基体
などない」これは、その主張自体に論理矛盾を抱えてしまっているのです。
402 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:05:45 ID:z/ZHfGLg
>>393 >論点がずれています。
確かに噛み合っていませんね。
>Aさんが無常であり、いかに変化流転しようとも、その果を受けるaさんは、
>Aさんの生まれ変わりであると言える属性を有していなければなりません。それが何か?
>ということが問題になっているのです。
では、無常が多義・他生ではないときに、何故「属性」が必要なのですか?
「変化流転」ということが、如何にして可能かを良く考えた方が良いと思います。
そのことだけは、何らの前提無しに、可能だと誤解しておられるようだから。
「変化流転」が破壊されたら、それにおける「同一性の担保者」は?
という設問は破壊されることは分かりますよね?
>>397 >つまり、問題となるのはAさんの生まれ代わりはaさんであり、bさんではない。
>このように言える根拠を問うているわけです。
他生ではないからです。
無関係なものから無関係なものが起るならば、「属性」が不可欠でしょうね。
403 :
旧7:2009/08/29(土) 18:07:04 ID:B1c5/QcX
簡潔にまとめるだけなら、実は
>>381に貼った520を要約すれば済むことであるが、
重要な前後の文脈・興味深い前後の文脈もあり、そして、
「各種思考実験の条件設定」が、「三世に跨る同一性」についても有効であるから、
全文引用とした。
また、今後の議論に於いて「基本文章・基本定義」として引用し易くする為でもある。
また、引用した大部分のレス主は、実に解り易く、あまり難しい用語を使わずに説明しているので、
その点でも、下手な哲学書解説書を引っ張ってくるより良いと思った。(てか、知らないし持ってないしw)
あと、世俗と勝義と、議論のステージを分けるのは仏教だけであり、
通常は、世俗でのみ議論される。哲板も同様。
(→
>>357 また、通常の議論は「自己(≒我)あり前提」で為されるものでしょう?仏教は特殊ですよw)
世俗と勝義という区分を許容するのは、多少なりとも仏教に触れた者、
或いはそれなりに評価認知する者だけだというのも留意すべきだろう。
実はそれは宗教板でも同じで、
宗教板だからといって、世俗と勝義の別を許容している者ばかりではないということだ。
>>389(
>>386)
何か勘違いされているようですね。
『統一者の有無』ではなく、
『凡夫が「妄想として見出す同一性」は、どのような要素或いは属性故に見出されるのか?』
ということです。
『凡夫は、どのような同一性をそこに見出すことで「前世を悔い」「来世の悪趣を恐れる」のか?』
ということです。
勝義の話ではありません。
勝義に於いては同一性などなく、不問で良いということはお聞きしました。
(※余談:解脱者は凡夫に対し、「同一でないから悔いずとも良い」と助言できるのか?
解脱者は凡夫に対し、「同一でないから恐れなくとも良い」と助言できるのか? )
404 :
旧7:2009/08/29(土) 18:08:14 ID:B1c5/QcX
405 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:08:58 ID:LqAm0etB
>>398 「推測」とは、既知の事実に基づく「合理的な推論」である。宗教は、推測で
さえもなく、事実にも基づかない「妄想」である。
406 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 18:09:47 ID:8x9hEeHP
他方で<本能寺>は法華宗本門流の総本山である。
その末寺が<種子島>にあり、本能寺は火薬庫だったという説もある。
もともと<法華経自体が竜樹の容認するところ>である。
信長の人生観である空・幻とも矛盾しない。
>>405 宗教などという合理性のかけらもないものと比べて、
恥ずかしくはないのかね?
そんなものばかり見ているから、
「推測」などというくだらないものを「事実」として扱うような
妄想主義者になっていくのだ。
推測はどんなものであれ推測にすぎない。
それを事実として扱うのは異常。
あまつさえ、その推測を「前提」としてその上に推測を重ねるなど
言語道断。まさに「とんでも」といえよう。
やっていることは「ムー」などと同じレベル。
408 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:18:09 ID:kxlW3rMl
>>402 全く回答になっていませんが。
「何故Aさんの生まれ代わりがaさんであると言えるのか?」
「他生ではないから」
これではしょうがないでしょう?あなたの言っていることは
「Aさんの生まれ代わりがaさんだから」としか言っていませんよ。
何故「他生ではない」と言えるのか?
その説明が全くできてないのがわかりますか?
>>400 いつまでも竜樹などという過去の遺物に囚われていないで、
自分の頭で考えたらどうなのかね?
大体、竜樹などというのは女は犯すし、出家はするしで、
人間関係や家族など全く大事にしていないのである。
それまで平和的だった仏教が、僧兵を持ち、戦争や一揆を起すようになったのは
このような竜樹の異常性の影響に他ならない。
410 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:21:07 ID:LqAm0etB
>>407 違う。「事実に基づく推測」は、現実生活や社会のあらゆる場面で
行われている。自然科学においても使用される。但し、最終的な
検証を条件とする。
宗教は、事実に基づかず、検証もしない「全くの妄想」である。
411 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:21:24 ID:z/ZHfGLg
>>403 >何か勘違いされているようですね。『統一者の有無』ではなく、
>『凡夫が「妄想として見出す同一性」は、どのような要素或いは属性故に見出されるのか?』
>ということです。
>『凡夫は、どのような同一性をそこに見出すことで「前世を悔い」「来世の悪趣を恐れる」のか?』
>ということです。勝義の話ではありません。
>勝義に於いては同一性などなく、不問で良いということはお聞きしました。
>>389は、あくまでも
>>335さんに対してです。貴方の御発言を熟読していない状態です。
また、ID:9yF3bLrHさんではありません。
>>410 バカバカしいな。ここの霊だのなんだのといってる連中は
「物体が動いたのを自分で見た」だの、
「自分の知り合いが前世について話していた」だのの、「事実」に基づいて
「超常現象」について推測しているのだ。
事実に基づいていようが、論理性が欠如していれば、このような結論が出てしまう。
その点では、キミも全く彼らと同じというわけだよ。
事実はどちらも使っているのだからね。
だから「ムー」レベルだという。
> 宗教は、事実に基づかず、検証もしない「全くの妄想」である。
実際、キミの言ってることにどういう検証がされているというのかね?
推測でしかないではないか。
「検証もしない全くの妄想」とはキミのことである。
413 :
旧7:2009/08/29(土) 18:25:06 ID:B1c5/QcX
>>411 それは失礼しました。申し訳ありません。 m(_ _;)m
414 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:25:58 ID:LqAm0etB
>>409 だから、浄土真宗と法華宗は、一神教的で、「空の思想」が徹底していない
異質な佛教であるという条件をつけている。
415 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:27:16 ID:YwvQ+BFO
あれ?
>>305に信長のキリスト教徒迫害について書かれていたはずなんだが……
どんだけ都合のいいフィルターを脳味噌に常備してるんだよ。
>>410 >但し、最終的な検証を条件とする。
だったらそこを見習えよ……
>>414 違う。大乗仏教の異常さは、竜樹の異常さからきている。
そのことを無視して、明確でもない他の宗教の影響を「妄想」しても始まらない。
竜樹自身がまず異常なのである。
ご隠居の論理では、409は否定できない。
409の命題は明らかに誤りを含んでいるが、
それを論破するには、407を用いる必要がある。
その事に気づかな限り、409のようなことを言われつづけるであろう。
418 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:34:11 ID:z/ZHfGLg
>>408 >全く回答になっていませんが。
私も貴方に対して同感です。
>何故「他生ではない」と言えるのか?
変化流転しないからです。
変化流転しないときに、同一性の担保者如何という設問はありえません。
419 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:34:14 ID:LqAm0etB
>>412 人間界は共同体だから、人間界における「事実(現実界)」とは、
「不特定多数の成員が、そのほぼ同一の五感で知覚できる対象」を
いう。一部の者だけが証言する「超常現象」は、「事実」とは呼ばない。
「妄想」と呼ぶ。
420 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 18:35:06 ID:8x9hEeHP
イエズス会員、ポルトガル人ルイス・フロイスは、
信長は、名義上は法華信者であるが、神を認めない、霊魂の不滅を信じない、
死後の世界を信じない、<無神論者>であると明言している。
信長は、安土城に<梵山>と名づけた大石をご神体とし、
これを家臣や領民に拝ませたという。
梵山?・・・梵天の住むスメール山がイメージされていたような。
>>419 バカバカしい。じゃあ信長がキリシタンに好意をもっていた、ということを
誰が知覚できるというのかね?
キミは超能力者なのか?信長とお話でもできるのかね??
422 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:41:08 ID:kxlW3rMl
>>418 え?変化流転しない?
するとあなたは、Aさんからaさんへと変化流転しないものを認知しているわけですか?
あなたは、アートマン肯定論者?
423 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 18:42:42 ID:H06MI+vM
>>395 析空どの
>【キラキラ光ったもの】は仏性などではなく、
>仏性でないものが【仏性に見えた】だけ、
そのとおりですね。
詳細については、拙者が
>>311に書いてあります。
どうか読んでくださいまし。
424 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 18:44:12 ID:z/ZHfGLg
>>422 >え?変化流転しない?
…文脈を考えて下さい。
貴方の「何故「他生ではない」と言えるのか?」という質問への
回答として述べています。
他生ならば変化流転しない、と言っているわけです。
425 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 18:55:37 ID:8x9hEeHP
ルイス・フロイスによれば、
信長は地球儀や地理や時間に関しては理解したという。
こういったことを知れば、信長がなぜ西洋に興味を持ったかがわかる。
信長の興味は、鉄砲や火薬などの兵器と、治世の方法にあっただけだ。
イエスなどにはまったく興味がない。
426 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/29(土) 19:10:14 ID:H06MI+vM
>>403 旧7氏どの
>>381に
>【その通時的同一性は主観的な「記憶」によるしかありません】。
というふうに書いてあるとおり、
哲板ってのは主観でしか語ちれないし、それが限界であります。
(これが仏教における世俗諦です)
勝義諦といいますのは、そもそも主観とか客観とかの視座そのものがない
「ものの見かた・考えかた」であります。
貴殿は「釈尊は空を説いてない」って仰ってましたけど、
中道ってのは、この主観・客観に囚われない仏教哲学でありまして、
これはまさに空のコアな部分です。
これなくして自己同一性の根本原理など究明できるわけはないんです。
どうか哲学を習得した貴殿でありますから、
このところを充分にご理解なされまし。
(かしこ)
427 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 19:12:16 ID:LqAm0etB
>>420 キリシタンのフロイスから見れば、信長が「無神論者」に見えるのは
当たり前w。信長は、それほどフロイスと近しかった。信長がキリシタン
バテレンと接触したのは、彼の成人後である。
その「梵山」の話から見ると、信長は無神論者ではないね。君の話は
矛盾している。
>>421 五感の知覚は、物質の実在・非実在の判断に関する。君は、物が実在
するとはどういうことかが、まだ理解できていない。
まあ、そんな質問は、まず、ここの宗教者に対してしてくれw。
キリスト教が人を殺す心理的原因は、新約聖書を、初めから有難がらずに、
聊かでも知性と批判力を以って読めば、理解できること。すべて、イエスの
「教え」が原因である。
428 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 19:13:02 ID:8x9hEeHP
信長は桶狭間の戦いに出陣する前に熱田神社に参拝した。
この熱田神社が<日本武尊の草薙剣>をご神体にしているのですね。
しかし信長26歳。まだまだ固まっていない若さである。
結論・・・信長は、禅宗の影響が基本にあり、そこに法華の影響がかぶさり、
キリスト教は西洋文明を知るための道具でしかない。
どうやって調べたのか不明だが、信長が亡くなった年(48歳)
キリスト教徒は約15万人と推定されている。
429 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 19:13:40 ID:kxlW3rMl
>>424 あなたは、すでに言ってることが矛盾しています。
私が「何故、他生でないと言えるのか?」このように聞いたとき
「変化流転しないから」と答えました。これは、
「何故、同生であると言えるのか?」と同じ問いですね。それに対してあなたは「変化流転しないから」と答えています。
しかし、あなたはまた「他生であるなら変化流転しない」とも言っていますね?
他生、同生、どちらも変化流転しないのですか?
430 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 19:23:17 ID:LqAm0etB
>>425 >イエスなどにはまったく興味がない。
君は、「イエスの狂気」の感染力の強さを理解していない。何故、本来
は仏教徒であったはずの、多くの大名・武将、その他の日本人がキリシタン
に嵌り、殺されても、イエスを捨てることが出来なかったか。
キリスト教的な浄土真宗・法華宗は別として、佛教には「殉教者」は多数
いたのかね。命がけで釈迦に執着した者は、いたのだろうか。
>>427 > 五感の知覚は、物質の実在・非実在の判断に関する。君は、物が実在
> するとはどういうことかが、まだ理解できていない。
また妄想ですか。そうやって「根拠もなく」相手を決めつけていけば
快感が走るのかもしれないが、それこそオナニーであることを自覚されたし。
結局、返答に困ったら誤魔化しに入る。
宝珠愚者とまったく同じだな。
> まあ、そんな質問は、まず、ここの宗教者に対してしてくれw。
それはそれでやっている。
そんなことを持ち出して「逃げる」て恥ずかしくはないのかね?
>>430 425がイエスの感染力の強さを理解することと、
「信長が」イエスに興味がないことと何の関係があるのかね?
自分の論理が破綻してることに気づかないのか??
433 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 19:40:55 ID:8x9hEeHP
>>430 各地の一向衆、比叡山焼き討ちにあった<天台宗>などは、
そのほとんどが殉教者と言っていいだろう。
今晩9時、6chの「不思議発見」で信長がテーマになっている。
キリスト教も登場するだろうから興味深い(~~)
434 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 19:45:56 ID:YwvQ+BFO
残虐表現のあるゲームは殺人の原因か
ポルノはレイプの原因か、という議論を思い出すなあ。
435 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 19:57:34 ID:z/ZHfGLg
>>429 >私が「何故、他生でないと言えるのか?」このように聞いたとき「変化流転しないから」と答えました。
>これは、「何故、同生であると言えるのか?」と同じ問いですね。
例えば、「何故、“白でない”と言えるのか?」という質問は、
「何故、“黒である”と言えるのか?」と同じ質問ですか?
>他生、同生、どちらも変化流転しないのですか?
>>386-387
436 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 19:59:58 ID:kxlW3rMl
それでは少し視点をずらしてみます。
地獄があると言う人に対しての質問です。
殺人などの悪業を積んだ者が死後、地獄においてその報いを受ける。
この地獄で苦しんでいるものは何ですか?
死後も存続する魂やアートマンであると言うのならば、それは良しでしょう。
あとはそれを信じるかどうかだけですね。
しかし、魂やアートマンを否定する仏教徒のみなさん。
この地獄で苦しでいるのは何か?
説明できますか?
437 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 20:11:00 ID:kxlW3rMl
>>435 あなた、それは単に揚げ足とりに過ぎないでしょ?
ならば、以下のように言い換えましょう。
あなたは「他生ではない」理由を「変化流転しないから」と答えました。
また、「他生であるならば変化流転しない」とも言っています。
自分の言ってることの矛盾がホントにわからないのですか?
438 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 20:13:37 ID:9yF3bLrH
>>328 >あなたは「業」というものに「自と他を区別する属性を付与しました」
>それによって、Aさん→aさん の流れを確保したわけですが、
>この属性を認めた時点で「我」の存在を許容してしまったことになります。
>(なぜならば、自と他を分ける属性を有するものを認知してしまったから
>です。たとえ、「それは実体のないもの。あるいは変化するもの」との
>条件付けを施しても同じことです)
貴方が縁起を理解せず、実在論、本質主義に立っているのが分かります。
この立場だと論理学の同一律を死守するから、縁起が理解できない。
業という記号は実体を指すのではありません。
諸行無常の行を指示します。それは不定形のエネルギーのようなもので、
何かと指示することのできない混沌としたものです。
別に魂でも、自相続でも、意識でもいいですよ。
しかし、それらは実体でなく無常で、ただの仮設です。
この混沌とした業が縁起して x として生成して認識されるだけのことです。
この x という認識も各縁起に応じてそれぞれ x' となるのです。
だから、我もない魂もない。しかし、ある人はそれを我と認識し、
魂と認識する。それだけです。
これが分からないと、仏教の本質は分からない。
439 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 20:21:43 ID:z/ZHfGLg
>>437 >あなた、それは単に揚げ足とりに過ぎないでしょ?
一人称と二人称を間違えていませんか?
>ならば、以下のように言い換えましょう。
>あなたは「他生ではない」理由を「変化流転しないから」と答えました。
>また、「他生であるならば変化流転しない」とも言っています。
>自分の言ってることの矛盾がホントにわからないのですか?
分かりません。もう少し分かり易く説明してもらえますか?
何と何がどのように矛盾しているか、教えて下さい。
440 :
暁:2009/08/29(土) 20:22:55 ID:/F+fE7X+
オナラですらエントロピで分散するのに、人つうのは人が考えた都合のよい論理で
都合よく出来てんだなと、此処読めばその気色悪さがひしひしと感じられる良スレだな
441 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 20:29:10 ID:kxlW3rMl
>>438 あなたへのレスはもう少し待ってください
>>439 あなたは「他生であるなら変化流転しない」と言いました。
これを真とするなら何故「他生でない」理由として、「変化流転しない」ことを 挙げられるのですか?
442 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/29(土) 22:20:51 ID:4G8i27+4
気分転換にはなったけど、不思議発見は期待はずれだったw
クイズ番組では掘り下げが不足するのも仕方ないか。
443 :
神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 23:02:13 ID:1VrSGe/Z
>>433 >各地の一向衆、比叡山焼き討ちにあった<天台宗>などは、
>そのほとんどが殉教者と言っていいだろう。
だから、浄土真宗や法華宗は、「空の思想」が徹底していない、一神教的な
宗派だと、既に言っている。
444 :
一在家:2009/08/29(土) 23:43:12 ID:HdqCZoLu
>>416 >違う。大乗仏教の異常さは、竜樹の異常さからきている。
>そのことを無視して、明確でもない他の宗教の影響を「妄想」しても始まらない。
私は龍樹は異常だとは思っておりません、仏教哲学の開祖、大天才でしょう。
ただ、貴兄のおっしゃる「龍樹の異常」を「空への偏重」と置き換えております。
前スレでも提示しましたが、釈尊の説法を以下のように見ております。
主題:四諦、八正道 ※衆生済度の為に最重要
副題:縁起、輪廻 ※主題を支える法
付録:神通力 ※修行の副産物
「輪廻とカルマ」の法を説いた釈尊は偉大であり、カルマに起因する苦しみの
原因を「四諦」の法で、解脱するすべを「八正道」で説かれたのでしょう。
確かに釈尊は縁起も輪廻と同様に説かれておりますが、「縁起」のみ言語論理で
証明した龍樹の「縁」で後世の大乗にて「縁起、空」への偏重が「起」こった
というのが異教の私の所感(仮説)です。
仮説の検証は引き続き皆様との対話にて進めて参りたいと存じます。
445 :
一在家:2009/08/29(土) 23:45:24 ID:HdqCZoLu
>>443 >だから、浄土真宗や法華宗は、「空の思想」が徹底していない、一神教的な
>宗派だと、既に言っている。
もし「空の思想」が一番大切であれば、徹底したら宜しいでしょうね。
446 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 00:05:15 ID:aQoUOs5c
447 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 00:13:04 ID:to0Qr7i3
>>444 >※衆生済度の為に最重要
大乗仏教は、小乗が、修行など利己のためばかりで、利他(衆生済度)の精神
が欠けている、という批判から発生したものと理解している。
448 :
一在家:2009/08/30(日) 00:45:27 ID:NsFkQRqq
>>447 >大乗仏教は、小乗が、修行など利己のためばかりで、利他(衆生済度)の
>精神が欠けている、という批判から発生したものと理解している。
大乗仏教の利他(衆生済度)の精神が「空」へと偏重したら?
本スレでも如来や菩薩の「衆生済度」の発願の話をした時に、そのような
ことはない、常住の如来はいない、縁起だからということでしたね。
449 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 01:18:35 ID:BYnV+gRJ
>>438 >>328ですが、いいですか?もう一度、繰り返しますが「業報思想」の
前提条件として『「aさん」が「Aさん」の生まれ変わりであると言うことが
できる何らかのもの』が必ず必要となるのは理解できますね?
もしaさんがAさんの生まれ変わりであると言えないのならば、「業報思想」
が、その根底から崩壊してしまいます。
そして、この「aさんが、Aさんの生まれ変わりであると言いえる根拠となるもの」
これの名称はどうでも良いのです。「魂」「真我」「アートマン」「霊」
好きにネーミングすれば良いだけです。そして、それが、あなたの言うように
「不定形のエネルギー」でも「実体のない仮設されたもの」でも「縁起によって
仮設されたもの」でも、何でも良いわけです。
しかし、これにどのような名称をつけ、どのようにそれを解説しようとも、
これは必ず「Aさんからaさんへと継承されたもの」でなければなりません。
そして、また、これはBさんからではなくAさんから、そしてbさんにではなく
、aさんに継承されているわけであり
「自と他を明確に分かつ」ものでなければなりません。
よろしいですか?
「aさんがAさんの生まれ変わりであると言うことができる根拠となるもの」
これは以上のような属性を有するものでなくては、「業報思想」そのものが
根底から成り立たないのです。
そして、以上のような属性を有するものを認知してしまえば、それはもう
有我論です。「いや、それは実体のないものなんだ。常に変化しているもの
つまり無常なんだ。縁起によって仮設されたものに過ぎないんだ。」
いくら、このように条件付加しても、Aさんからaさんへの同一性を担保する
ものを認知するかぎり、それは有我論です。あなたの言うように
「混沌とした不定形のエネルギー」と表現しても「物質ではない霊的エネルギー
であるアートマン」と表現しても、表現法に違いがあるだけでその実質は
有我論にすぎません。
450 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 01:39:30 ID:r5AhdwhW
>>431 >結局、返答に困ったら誤魔化しに入る。
>宝珠愚者とまったく同じだな。
すでに殆どについては投稿済みの内容だから、
私は遠慮してるのです(時間的な余力もないし・・)。
また、どうせただ噛み付きたいだけのような人を真剣に相手してもショウガナイ。
>>342>>355>>395 この「仏性」についても、
すでに原始仏教でその基本的部分は“明確に”説かれていたとして
この私は原始教典から提示済みです(過去ログ参照のこと)。
これも真我論(真実の自己)にとっては根拠になる大変重要な部分です。
“本来は穢れ(汚れ)のない真実の自己がある”が無明に陥っている、
とハッキリ説かれている。この本来の清浄そのものである自己とは何か?
〜これが核心部分です。
>>125 >これはよく勘違いするんですよね。
>拙者も勘違いしたから、貴殿の気持ちは分ります。
>貴殿がいうニルバーナというのは、拙者は何回も経験してます。
誰も神秘体験=ニルヴァーナとはいってません。現象界を超越した世界でニルヴァーナですが、
通常時は認識されない出来事(神秘体験など)の何でもがニルヴァーナの筈がありません。
神通=涅槃ではないことは仏典では明確に説かれています。
原始仏典を読まずに、在ると思えばある/ないと思えばない・・といった
ただの気の持ちようを説く心理カウンセラーレベルの禅に嵌るからそうなるのです。
451 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 01:42:58 ID:r5AhdwhW
>>338 >wikipediaで「異説」の節に入れられるのもわかるわ。
異説/異端の側にこそ真実があるパターンはかなりあるでしょうね。
キリスト教も然り、仏教の無我説(の誤解)などもそうです。
(まっ、私の見かたですが^^)
折角なので、ちょっとだけ余談です。
大乗(各派)が教義を形成する際に他の宗教を参考にして、
利用できるものを持ってくるというパターンがあります。
これに限らずですが、起源説というのはなかなか面白いものですよ。
>阿弥陀は最後の審判もやらないし、暗黒の勢力と戦ってないし
それをしてしまっては、もはや仏教のカテゴリーにできなくなります。
仮にも自分たちを仏教徒と自認している人たちが教義の編纂をするのですから。
仏教思想そのものまで変えることはなく、あくまでもアイディアのきっかけやキャラクターの発案などです。
452 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 01:44:03 ID:r5AhdwhW
阿弥陀仏の原名「アミターバ」は無量光を意味し、ゾロアスター教の光明神と結びつく。
また、別名アミターユスは無量寿と訳され、無限時間を指すズルワーン・アカラナと同じ意味になります。
阿弥陀仏の救世主的性格そのものがゾロアスター教の影響とされます。
阿弥陀仏を説く教典そのものが、クシャーン朝時代に西北インドで成立したと考えられています。
「浄土」の概念は、「国土を浄める」意であり、ゾロアスター教のフラショー・クルティ、
すなわち終末の建てなおしにおける世界の浄化の影響を見ることができます。
これらのことから、阿弥陀仏のゾロアスター教起源説は十分に説得力があります。
また、
胎蔵界曼荼羅/中台八葉院の大日如来を中心とする四仏四菩薩を配している状態が、
アムシャスプンタたちがアフラ・マズターの住居にあるとする
『オフルマズド・ヤシュト』(アフラ・マズターの讃歌)の記事を想起するものです。
阿弥陀仏と同様、光明を象徴した大日如来には同じくゾロアスター教/及びイラン信仰からの影響を伺えます。
--以上、参考まで
参照:岡田明憲著『ゾロアスターの神秘思想』
(東西宗教への影響/大乗仏教から密教へp145)講談社刊
453 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 01:46:59 ID:to0Qr7i3
>>448 >大乗仏教の利他(衆生済度)の精神が「空」へと偏重したら?
「空」は「無」ではない。「自」も「他」も、それぞれ、「相互依存性・
関係性」の存在として、「厳然として」存在するのである。
454 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 01:49:38 ID:r5AhdwhW
>>392 >いま宝珠氏が総まとめを執筆しているらしいが、
>何か空恐ろしい予感がする。自分のサイトに掲載する方法もある。
>旧7坊やを他山の石とし、ぜひとも自重してほしい。
はい、大丈夫です!
できれば、2chの便宜上としてはやはり連続投稿をしたかったのですが、
これ(ただの読み物です)は常識を逸脱する相当量を越えてしまったと思われるので、
残念ながら止む得ず、自己ウェブページに記載してURL貼り付けとします。
“総まとめ”(自己主張の)はまた別ものです。
スレが終了したら-取り組む予定です。
>>450 > これも真我論(真実の自己)にとっては根拠になる大変重要な部分です。
「真我論」というのは聞いたことがないのですが神智学の話ですか?
> “本来は穢れ(汚れ)のない真実の自己がある”が無明に陥っている、
> とハッキリ説かれている。この本来の清浄そのものである自己とは何か?
あなたが評価しておられる唯識の世親は、別名、天親といいまして、
>>339で引用されている天親讃の天親は、世親のことなんですね。
これによると清浄そのものである自己とは則ち、仏性、いいかえれば金剛心。
それは則ち他力であって、阿弥陀如来の慈悲、
つまり慈悲そのものであるところの阿弥陀如来のことを示していますね。
>>452 いずれも憶測の域を出ないものでしかありませんから、
説得力は殆どありませんが、個人的には同意しますね。
浄土教経典自体は中央アジアで創作されたということのようですが、
大乗仏教の流れを汲みつつ、ゾロアスターやキリスト教(ネストリウス派といわれる)の影響を
受けているあたり、世界の宗教の統合ポイントにあるのが阿弥陀信仰だろうと思います。
実際、アートマンや真我、仏性などの概念を全て当てはめることができますし、
諸々の宗教の本質を統合していく、という意味で
阿弥陀信仰というのは非常に興味深いものだと思います。
457 :
暁:2009/08/30(日) 02:02:18 ID:RE5H7UGv
大乗、小乗をカテゴライズすること自体仏教的ではないな
458 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 02:09:20 ID:r5AhdwhW
>>455 >「真我論」というのは聞いたことがないのですが神智学の話ですか?
神智学の話しではなく、
ゴータマも真実の自己の探求について教えたという話しです。
「無我」というのは、「アートマンはない」などではなく、
「アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ」ということです。
それらは真実の自己ではないということであり、言い換えるならば自己の探求について示した。
それが、「アートマンはない」と説いたという話しにされたのです。
ゴータマの説く、自己の探求の教えを特に何?という名称(教えの呼称)はないでしょう。
すみません。「真我論」なるものはないですね・・失礼-取り止めます。
ただの“自己の探求の教え”です。
>>458 > 「無我」というのは、「アートマンはない」などではなく、
> 「アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ」ということです。
阿弥陀信仰や密教系以外では、アートマンというのは少なくとも積極的には全く説かれておりません。
非常に「無視」されております。
そういう意味では、アートマンは「無いも同然」の扱いといっていいように思います。
かろうじて「無我はアートマン否定ではない」と論証できたところで、
仏教における「アートマンという概念の耐えられないほどの存在感の軽さ」は
埋まりようもないと思います。
念仏系や密教系など、異端的なものの方がむしろアートマン的な概念を積極的に
追い求めているように思えます。
> それらは真実の自己ではないということであり、言い換えるならば自己の探求について示した。
> それが、「アートマンはない」と説いたという話しにされたのです。
これはちょっと無理があるんじゃないでしょうか。
飛躍しすぎでついていかれません。
460 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 02:50:33 ID:to0Qr7i3
「空」を「無」「幻」などと誤解するから、さまざまな混乱が生じる。
「色即是空」、同時に「空即是色」である。「空=色」で、両者は「等価」
なのである。「色不異空」「空不異色」と、般若心経は、わざわざ念を押して
いる。御釈迦さんも、竜樹も、「目に見える物がない。見えない物がある」な
どと思い込む「妄想患者」ではない。
「空(emptiness, nothingness)」という言葉がいけない。「相互依存性・
関係性(Interdependence and relativity of everything including one's
self」とすれば、ガイジンでも一発で理解できる。
旧約聖書の「コヘレトの言葉」に出てくる「空」は、単に「無」「空しい」
という意味であり、佛教の「空」とは本質的に異なる。
461 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 03:00:27 ID:r5AhdwhW
>>459 >かろうじて「無我はアートマン否定ではない」と論証できたところで、
>仏教における「アートマンという概念の耐えられないほどの存在感の軽さ」は
>埋まりようもないと思います。
それは、実体的な存在論に価値を置かないからです。
仏教は客観的に捉えられない形而上存在を扱わず、
実践面を重視したのです。
>念仏系や密教系など、異端的なものの方がむしろアートマン的な概念を積極的に
>追い求めているように思えます。
はい、存じています。
ゴータマがアートマン存在を説いていた根拠にはならないので扱いません。
>これはちょっと無理があるんじゃないでしょうか。
>飛躍しすぎでついていかれません。
“真実の自己を求めよ”というアプローチは明確に存在します。
ただ、これまでは無我論に隠れて殆ど注目されずに隠れてしまっているからです
(経典において記述そのものも少ないですし)。
「アートマンはない」という意味での無我説というのは、
無我論の否定意(「あらず非ず」という意)を勝手に「ない」こととして結論付けたものであり、
縁起説の観点からそれを論証づけしたものでしょう。
しかし、これらは誤解であると私は見なしているのです。
今、私が打ち込み中の資料をご覧になって、
皆さんの考えるキッカケとなることを願っています。
462 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 03:05:14 ID:jec347kd
おれや。
すでに幸福党と、大川のピノキオに投票済ましとる。
選挙区は自民の候補者にするかかなり迷ったが、結局ピノキオに入れた。
一般国民への浸透度はさて置いて、幸福科学のシンパでも小選挙区は誰に入れようかまだ迷っとるのおるやろ。おう かなりおる。ヤサ軍団の霊査で出とる。
ええんや。迷ってええんや。
党の体質、それから見込みの甘さ、当初の票読みのあまりの甘さ、高慢かつ杜撰な選挙活動。そんなこんなを目の当たりして、シンパでありながら党にお灸を据えたい気持ちもあるやろ。
5月の見切り発車に始まって、政策は荒削りで、候補者はピノキオで、党首は二転三転で、党運営は迷走で、支持の少なさにうろたえては虚勢でだまくらます。あきれとるシンパ全国に山ほどおる。
けどな、まだまだそんなレベルの集団でも他のどの党にもない可能性宿しとったりもするから迷いもしとる。
他の党にはないキラリも確かにあるから迷う子羊なる。
幸福科学党は昇る朝日か。没落のネタ集団か。分からん、ままでもええ。
やつらは新しい時代開くのは自分らやて馬鹿みたいに信じとる愚っ直な集団や。
問題はいろいろあるが、おれは総裁の5月以降の勇気には鼻たらしとる。
おれの入れた1票は 彼の勇気に乾杯。の1票や。
どう頑張っても一人1票しかならん。それを集めるべく、総裁、饗庭、以下大勢のあきれた馬鹿どもが支持を訴えとる。
この世間知らずの馬鹿どもにいっそ1票くれてやれ。
党運営を見てあきれとる向きも多かろうが、傷だらけの総裁に1票くれてやれ。
おう 元気玉ゆうのそれや。鳥山のインスペレーションでかつて描かれとる。
一人1票しかならんが、集まれば大きな威力なる。
確かにまだまだ政党の体を成してないええ加減な集団で、危なっかして見とれんが、期待の1票、おひねりや。投げてやれ。
463 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 03:08:02 ID:to0Qr7i3
>>461 >ゴータマがアートマン存在を説いていた根拠にはならないので扱いません。
ゴータマは、縁起・空やアートマンの意味を、充分に理解していたとは思えない。
従って、原始仏典をいくらいじってみても、何も得られない。混乱を招くばかり
である。
464 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 03:50:55 ID:r5AhdwhW
>>463 ハァ?
あなたはご隠居さん??
確かに経典は完璧じゃない。
また、仏教の教えは読むためではなく、師から伝授されて学ぶものであり、
そうして初めて経典の文意が正しく理解されるのだ、という意見もあります。
なるほどと同意できるものはある。あとはやはり時代の変色を受けており、
古過いし、製作者の意図が反映されているでしょう。
しかし、ゴータマが(縁起・空やアートマンの意味)を理解不足とかそういうことじゃないでしょう。
そういう見方しかできない人は仏教を信奉しなければいい。
>>464 > そういう見方しかできない人は仏教を信奉しなければいい。
神智学の人がそんなことをいっても「プッ」と失笑されるだけです。
何があったのか知りませんが、そこまで低能扱いされる状況を
自ら好んで招く必要もないと思います。
もう少し、自分を大切にしましょう。
466 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 04:56:03 ID:r5AhdwhW
>>465 ゴータマの真意により迫ってさえいれば、自称仏教徒である必要性はありません。
ゴータマに背く自称仏教徒たちよりもはるかに良いと思っています。
これが最も、自戒すべきことですから・・。
あっ、上の方は論外です。ただ単に原始仏典を貶すだけの人ですので。
467 :
閻魔大王:2009/08/30(日) 06:14:29 ID:lFNyBdS3
いわゆる「現観」に達するなら、全議論は消滅する。
涅槃寂静
468 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 07:22:32 ID:Z1KfIecJ
>>449 >前提条件として『「aさん」が「Aさん」の生まれ変わりであると言うことが
>できる何らかのもの』が必ず必要となるのは理解できますね?
それが妄想・戯論です。利根川があると言われる。
その利根川を利根川と呼ぶ対象は水の流れです。
水は無常で一瞬として同じ水はなく、常に流動している。
しかし、利根川として認識される。
利根川の実体はどこにあるのでしょうか?
水や水流にはない。では、地形か、地形も変化するし、
また、地形だけなら川と呼ばれない。
では、物理的総体か?
それだけではなく、利根川と呼ぶ言語習慣が合わさって、
始めて利根川と呼ばれる。これが縁起。
「aさんが、Aさんの生まれ変わりであると言いえる根拠となるもの」
水や水流に相当するのが、意識、業、自相続、魂と呼ばれるものですが、
それら自体も確固とした実体でなく常に変化流動する、
おまけに、その意識を「aさんが、Aさん」と呼ぶのは唯の言語習慣で、
なんら実体がない、ある条件で「aさん」あるいは「Aさん」として縁起して
認識されるだけということ。
つまり、水や水流や、意識、業、自相続、魂も、構成要素であるが、
それ自体、ただの縁起・仮設で恒常不変な基体ではないということ。
本質主義に基づく西洋やヒンドゥーは本質や実体に還元できると考えるので、
アルケーやアートマンを探求するが、それこそ妄想の産物で、
言語習慣のなかで対象作用を持たない唯の観念であり、
それを掴んでいる限り覚りもないし、現象の説明体系として不完全であるというのが仏教の考え方なんです。
早く本質主義から抜け出してください。縁起を理解しましょう。
469 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:00:04 ID:nOXGUkhl
>>468 >>449 くだらんことほざいてお疲れさんだけど、お前らちゃんと選挙行けよ
おまえらの口調は俺の知ってるでかい寺のボンボンそっくりだ
こんな高慢なガキどもが能書きたれてるの聞いたらお釈迦さんが嘆くだろうよ
おまえらの精神生活が戯論寂滅したアートマン的世界だぜ
いいか、少しはマルクスの文章ぐらいは読んで勉強しろよ
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、取り結ぶ。
(略)物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。
人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」
精神的生活諸過程も物質的生活の生産様式に制約されるということを噛みしめてみろよ
マルクスやカントぐらい読まんで思想や宗教の勉強するなよ
ハゲども
470 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:07:54 ID:qpW+4tyR
>>441 >あなたは「他生であるなら変化流転しない」と言いました。
>これを真とするなら何故「他生でない」理由として、
>「変化流転しない」ことを 挙げられるのですか?
先ず、
>>386で、
>もしも、多義即ち他生であるならば、非因生であって無常にはならない。
とすでに述べてあります。
更には、
>>389で、
>バラバラなら、無関係なものから無関係なものが結果し得るから、
>そもそも、無常になる必然性はありません。
と丁寧に補足してあります。
次に、上記のような文脈下で、貴方は、
>>408で、
>何故「他生ではない」と言えるのか?
と質問し、それに対して、
>>418で、
>変化流転しないからです。
と答えたわけです。
さて、「何が」「何と」「どのように」矛盾しているのですか?
この「 」した三項に、上記で私がしているように、
私自身の発言を引用元を示しながら、具体的に引用して代入して下さい。
471 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:40:50 ID:qpW+4tyR
>>470補足。
ちなみに、スルーして頂いても構いません。
>>386の投稿趣旨から現状は離れているので、
続けることに意義がないと思っています。
472 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:42:25 ID:Z1KfIecJ
>>469 >おまえらの精神生活が戯論寂滅したアートマン的世界だぜ
なんだ本覚門@アートマンかw
マルクスなんか読んでどうすんだw
釈尊の「一切法は生滅する性質である」というこの短文が、
パルメニデス、ソクラテスから始まる実在論・本質主義だけの
西洋思想を軽く乗り越えているんだよ。
それは「なぜ無ではなく、むしろ何ものかが有るのか」というライプニッツの問いに明らかだ。
その実在論・本質主義はハイデガー、ウィトゲンシュタインがやっと疑問視したものの、
クリプキで早々に復活している。カントも例外でない。
なにも分からずにハッタリだけのカラスか?
473 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:51:02 ID:BYnV+gRJ
>>468 あのですね、ここで川のたとえ話し、持ち出されなくても
その手の話は十分わかってます。
無我論や縁起の解説をされる必要はありません。 いいですか?
「aさんをAさんの生まれ変わりたらしめてるもの」
これがないのであれば「業報思想が成り立たない」と言っているのです。
Aさんの積んだ悪業の果がaさんに現われる。
そのためにはaさんが、Aさんの生まれ変わりでなければなければ、ならないでしょ?
それを担保するものなくしては、業報思想が根底から崩壊します。
Aさんの積んだ悪業の果が、aさんにではなく、bさんやcさんに現われて
しまう可能性がでてきます。とんでもないことですね?
つまり、「aさんをAさんの生まれ変わりたらしめてるもの」
これがなければ話にならず、そしてそれがポイントになっているわけです。
「そんなものはない」と言ってしまえば、業報思想は成り立ちません。
(勿論、業報思想そのものを否定するのであれば、あなたの言う認識論は 妥当すると思いますが)
そして、
>>449で書いたように、今度は 「aさんをAさんの生まれ変わりたらしめてるもの」を認知すると
有我論になってしまう。この二律背反による論理矛盾を指摘して
いるのです。 わかりますか?
この「aさんをAさんの生まれ変わりたらしめてるもの」を、あなたが
言うような縁起により仮設されたものであり、実体のないものとしても
それはそれでかまわないのです。しかし、業報思想が成立するためには
私が
>>449で書いた属性を有することが必須です。すなわち「個」の概念
を成立させるものですね。これが無ければ話が根底から崩壊します。
これがすなわち「我」ですね。
あなたは、この「我」を縁起によって創りだしているわけです。
「いや、それは縁起により仮設されたものに過ぎないし、実体の
ないものだから『我』ではない」と、こう言うかもしれませんが
「Aさんからaさんへと継承され、自と他を分かつもの」
これすなわち「我」または「アートマン」に他なりません。
474 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:54:39 ID:BYnV+gRJ
>>468 所用で外出しますので、少しレスが遅れます。
まあ、おかしな人も現われたみたいですので、ちょっと中断
するのも良いかと思います。
475 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:18:36 ID:Z1KfIecJ
>>473 >あのですね、ここで川のたとえ話し、持ち出されなくても
>その手の話は十分わかってます。
いや、分かってないな。なぜなら、分かっていれば以下のような愚問は起こらないからです。
私自身、かつて貴方のように縁起を実在論的に考えていたから分かる。
>「aさんをAさんの生まれ変わりたらしめてるもの」
>これがないのであれば「業報思想が成り立たない」と言っているのです。
それがないというのが、無我であり、縁起であり、空です。
皆、言葉が違い、強調する力点が違っても同じことを指しています。
>Aさんの積んだ悪業の果がaさんに現われる。
>そのためにはaさんが、Aさんの生まれ変わりでなければなければ、ならないでしょ?
>それを担保するものなくしては、業報思想が根底から崩壊します。
同一性というのは仮設です。業、諸行が連続しているとも言えるし連続してないとも言えるが、それは実体でない。無我だということ。
>Aさんの積んだ悪業の果が、aさんにではなく、bさんやcさんに現われて
>しまう可能性がでてきます。とんでもないことですね?
その法則性は、縁起です。因果とも言われますが。
縁起というのは全体論なんです。因果は全体のなかで、
一部がある認識となって捉えられることを指します。
>つまり、「aさんをAさんの生まれ変わりたらしめてるもの」
>これがなければ話にならず、そしてそれがポイントになっているわけです。
>「そんなものはない」と言ってしまえば、業報思想は成り立ちません。
なりたたないと考えるのは、アルケーやアートマンが無くてはならないという思い込み、形而上学的前提、ただの有身見による先入観で、それこそが我見であり無明の根本と見るのが仏教です。
476 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:20:58 ID:Z1KfIecJ
>(勿論、業報思想そのものを否定するのであれば、あなたの言う認識論は 妥当すると思いますが)
縁起というのは因果律でもあり、存在論でもあり、認識論でもある。それらを矛盾なく説明するものです。
あなたの形而上学的前提がそれを阻害しているだけです。
>そして、
>>449で書いたように、今度は 「aさんをAさんの生まれ変わりたらしめてるもの」を認知すると
>有我論になってしまう。この二律背反による論理矛盾を指摘して
>いるのです。 わかりますか?
言っていることは単純だから分かります。
業には我が必要だということでしょう。
だから、それは誤った形而上学的前提なんです。
それが実在論・本質主義、有身見、我見と呼ばれるものです。
>「Aさんからaさんへと継承され、自と他を分かつもの」
>これすなわち「我」または「アートマン」に他なりません。
それこれ誤った形而上学的前提から類推された。
妄想、観念だけのものと釈尊以来否定されるものに他なりません。
477 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/30(日) 09:22:08 ID:Yz0XL30i
>>450 法珠氏
>現象界を超越した世界でニルヴァーナですが、
これはカルトなどが使う常套句ですよね。
「現象界」と「超越世界」という分割世界観でステージアップを図る。
その方法として善果の蓄積。
いわゆるカルマ論に結びつけていく。
ニルバーナってのは涅槃のサンスクリット語ですよね。
涅槃というのは、いわゆる彼岸のことです。
此岸と彼岸の間に流れる大河は、煩悩を象徴的に表したものです。
涅槃というのは「超越世界」ではないです。
現実世界ですね。
彼岸も此岸も、その間の大河も全てが現実世界であります。
今の世界を離れて、別世界などないのです。
色即是空というのは、彼岸(空)と此岸(色)の意味がありまして、
これをカルトは都合のイイように解釈して人民を騙すのです。
仏教やキリスト教の教義が、そのダシに使われているんですね。
あらゆる宗教や、あらゆるイデオロギーに通じる根本原理。とか
通じるわけはない。
それは、水と油を混合するような無茶な話です。
478 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:46:03 ID:Z1KfIecJ
479 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:54:56 ID:KNnMRSMx
>>478 人間は現実世界においてのみ生存でき、生存できなければ、宗教も、
思考も、2chもない。
従って、人間が超越世界などいくら考えても、人間にとってナンセンス
で妄想。
480 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:00:35 ID:dcyWhsAY
現実だけで空想も物語も無い世界なんかつまらない世界だろね。
481 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:16:34 ID:KNnMRSMx
482 :
一在家:2009/08/30(日) 10:42:24 ID:Q6Yvnmu7
>ゴータマは、縁起・空やアートマンの意味を、充分に理解していたとは思えない。
ゴータマは、縁起・空やアートマンの意味を重視していたとは思えないかも。
483 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:43:01 ID:ifRKJGAl
>>451 >それをしてしまっては、もはや仏教のカテゴリーにできなくなります。
仏敵と戦う苛烈なキャラならいる。宗教にできないことはないよ。
最初は釈迦も呪術に否定的だったのに
後代の仏教では全開じゃん。言うなれば結果論でしかない。
>>452 >「浄土」の概念は、「国土を浄める」意であり、
清浄な土地だね。阿弥陀って穢土を清めて領土拡張をやるの?
仏国土に鎮座してるだけだろ。
付会が必要だからこそ「異説」に留まっているんだろ。
現にゾロアスター教との共通要素が小さいことを認めているし、
イメージ元という曖昧な言い方しかできない。
>>447 へー、浄土にご招待や豪勢な儀式や名号連呼が「利他」か。
なんで偽善呼ばわりしてやらないの?
試しに善行を薦めたり、説法したり、門戸を開くこと以外に何が出来るか書いて見なさい。
484 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:45:21 ID:ifRKJGAl
>>481 小説の場合、構成に気を配り、ヤマやオチをつけなければならないからな。
事実の場合はただショッキングなことが起こればいい。
485 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:51:08 ID:Z1KfIecJ
>>463 >ゴータマは、縁起・空やアートマンの意味を、充分に理解していたとは思えない。
井の中の蛙、釈尊を論うの図w
486 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:54:19 ID:ifRKJGAl
他の言葉に当てはめると
「たらい回し」という言葉は「たらい」と「回し」で出来ている。
だがAさんは「たらい回し」をタライを回すかどうかという意味では
使っていない。つまり「たらい回し」の意味を、充分に理解していたとは思えない。
ということか。
487 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:58:59 ID:ifRKJGAl
>>486は「アートマン」という言葉の場合ね。
旦那の語源が「布施」という意味だからといって
夫を旦那と呼ぶことにケチをつけられる理由はあるまい。
488 :
旧7:2009/08/30(日) 11:07:55 ID:jNpUjTRg
都度都度、事例として使用するのが良いのか、どうしようか迷ったのだが、
今後の展開への、「ネタの、更に“種”」として、幾つか箇条書きしておこう。
(他にも、興味深い試考の設定はあるが、概要として。)
・神通により、或る所から没し、或る所に生ずる時、
それは、思考実験に於ける「コピー&抹殺、&移動」に該当する。
・過去【これこれの経験が】あったという宿命通は、
「記憶のバックアップ&抹殺、そして期間を置いたインストール後のメモリ呼び出し」に該当する。
(※行を進めることにより、憶い出すことが可能となるわけだが、
なぜ、記憶の呼び出しが可能なのか?しかも、驚くほど【詳細に】!)
・死に、そして次の生を受けた時、それは、
《「記憶のバックアップ&抹殺、そして期間を置いたインストール」が為されたと【信じる】こと》に該当する。
・良き後生を願うことは、
《「記憶がバックアップされ&抹殺され、そして期間を置いてインストール」されるであろうことを【信じる】こと》に該当する。
・もし、如来や阿羅漢が、宿命通の亜種として「【他者の】メモリ、或いは【履歴】を読み出す」ことができる時、
「主観的連続性を持つ、自身が憶い出す」ならまだしも、
如何にして「【主観の外の】【他者の記憶・履歴】にアクセスする」ことが可能となるのか?
(単に、【観察された結果からの】【原因類推】ではあるまい・・・。(私は類推であろうと思うが・・。)
死生智は、【観察された現状からの】【未来予測】と言えるかもしれんが・・。)
・そして、業が(業報が)、
「間断ない連続性」及び「それしかない、因果の連鎖、縁起」故の同一性確保なれば、
上記幾つかの例に於いて、「連続性は保たれているのか」どうか?
「仏教が(主観的)認識論なれば」尚のこと、
そこで(→【その認識に於いて】)連続性(及び同一性)が保たれねばならない。
(また、宿命通の亜種や死生智は、そうした【他者の認識に於ける】【連続性】を知ることにより可能となる神通。)
────────────────
以降暫くの間は、(外道らしくw)反仏教的スタンスからレスをしていこうかと思っているw
(てか、飽きが来ているというのも正直なところだが・・・w)
ノシ
489 :
旧7:2009/08/30(日) 11:12:30 ID:jNpUjTRg
あ、その前に一つ。
ID:z/ZHfGLg さん(及びID:9yF3bLrHさん)サイドから一言挟めば、
≪「縁起する」ということ、「業(果)が継承される」ということ≫は、(決定論的(運命論的)にということではなく!)、
≪「それしかない展開・連鎖・因果の転回の様」として、あたかも《「一本のラインの如き」継承の流れ》≫
であるからです。それ以外のラインとなったり、複数のラインとなったりしないのです。
※((【自分が】)石灰のラインマーカーを押し、線を引いている図を想像してください。
このとき、自分の前にある車から石灰により線が引かれていますが、この線を外れることが無いようなものです。
そして、前方(未来)には、未だ線は引かれていませんし、どのような線になるかも決まっていません。
この意味で、決定論でも運命論でもありません。(後ろを振り返れば、自分の引いてきた線を見ることができますw))
だから、
≪「多義」でなく、無常であり、変転し、且つ「それ以外とはならないこと(同一性の別意)」が担保される≫のです。
※また、そのような一本のラインであるが故に、実は「
>>488のような諸々が可能である」とも言い得るわけです。
※勿論、物理的にそこに「線」があるわけではありません。線のような流転・転変であるということです。
(と、ID:BYnV+gRJ さん宛として、このような説明・表現は合ってますでしょうかね・・・? >> ID:Z1KfIecJ )
490 :
旧7:2009/08/30(日) 11:28:09 ID:jNpUjTRg
491 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:46:34 ID:Z1KfIecJ
>>489 >≪「縁起する」ということ、「業(果)が継承される」ということ≫は、(決定論的(運命論的)にということではなく!)、
>≪「それしかない展開・連鎖・因果の転回の様」として、あたかも《「一本のラインの如き」継承の流れ》≫
決定論や運命論でないのは、常に変化するから。
どういうことか、過去の行為によって、現在が縁起する。
これは単純化して言えば、人として生まれると、通常のその感覚器官や、
諸習慣の制約があるということ。その限界内での行為しかできないので、
ある程度は決定されているが、そのなかで現在の行為によって、
どのように縁起するかに違いが生じるということです。
為した行為は変えられない、そのような業が諸行として潜在してしまう。
だけれども、現在の行為によって浄化することが可能である。
また、正常な人間であれば悪業を避けることができる。
だから、決定論でも運命論でもないんです。
同一性はただの妄想で、因果に法則性があるのは法性、縁起の法則性というのが私の理解です。
492 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:48:45 ID:dcyWhsAY
493 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:54:52 ID:U55H+Dy/
>>485 >>ゴータマは、縁起・空やアートマンの意味を、充分に理解していたとは思えない。
>井の中の蛙、釈尊を論うの図w
開祖・教祖が具体的には分っていないことを、信者がいくら論じても、何かが
出てくる、得られる訳がない。混乱に次ぐ混乱を招いているだけ。これを、俗
に「神学問答」と呼ぶ。これが宗教の歴史と現状である。
これは、すべての宗教に共通する。開祖・教祖は「善悪」「愛」などを語るが、
具体的に定義できた者は一人もいない。単に「観念的な言葉」に「自己陶酔」
しているだけ。すべて、「ソースと現実上の根拠は皆無な、口から出任せ」
「観念と言葉の遊戯」である。
本当に分っている人間は、さまざまな解釈を生じるような曖昧な表現はしない。
494 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 12:02:14 ID:U55H+Dy/
>>492 >事実は夢のまた夢>ひでよし
いくら秀吉自身が、そのように回顧しても、彼が行った行為は、客観的
には、何一つ否定できない。
495 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/30(日) 12:06:51 ID:Yz0XL30i
>>478 >また、妄想、いつ、も、そう
いや、妄想ではない。
彼岸と此岸は比喩としてあるもの。
では何故このような比喩が必要であるのか?
例示すると・・・
> 「間断ない連続性」及び「それしかない、因果の連鎖、縁起」故の同一性確保なれば、
> 上記幾つかの例に於いて、「連続性は保たれているのか」どうか?
>>488 このように「連続性」が議論の論点になってくる。
これを有部が三世実有の論拠としたのであるが、
それ故に、再度の論理矛盾。
この上塗りをして逝ったのが原始仏教の歴史。
今のスレの流れは、同一性の継承。つまり連続性なわけだが、
これを体系的に理解するのは、
どぉしても彼岸・此岸の比喩は必要になる。
正法眼蔵においても、論題の「連続性」についてか書いてある。
しかしこれをどぉ解釈するかは当人の機根の問題であろう。
(眼蔵は解釈本じゃないから、そこは不親切ではあるが)
496 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 12:16:03 ID:Z1KfIecJ
>>493 それは君の単なる妄想だろ。
釈尊の明解な論理は驚嘆すべきものだ。
問題は、近代の仏教学者がバカだったということに尽きる。
497 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 12:30:45 ID:Z1KfIecJ
>>436 >殺人などの悪業を積んだ者が死後、地獄においてその報いを受ける。
>この地獄で苦しんでいるものは何ですか?
では、今の貴方は何ですか?
魂でしょうかアートマンでしょうか?
そうではないでしょう。それと同じことです。
私もちょっと視点を変えてみましょう。
無我というのは勝義から見た表現です。
私が書く。私が述べる。私が答える。と私も書きます。
それは言語習慣に従って仮設され、習慣に従って「私」などと呼ばないと
理解できないからです。本来、私などない、私とは何かという問いは、
言語習慣上の何かを指すもので、なんの本体もない。
そんなことはちょっと分析してみれば分かるでしょう。
私とはなにか? 五蘊の集合を習慣的に私と呼んでいるだけだし、
五蘊というものも、ただの仮設に過ぎない。
辣韮の実や芭蕉の芯をを探してもないようなものです。
ところが実在論に立つ人は辣韮の実や芭蕉の芯をを探して
アートマンとかアルケーとか言い出すが、そんなものはない。
あると言ってる人は『梵網経』に説かれるように勘違いです。
物質も本質がないことは量子論が明らかにしたようです。
まあ、だいたいこんな感じです。ここはもっとも本質でかつ難解なところです。
これが分かれば仏教はほとんどわかります。
逆にこれが分からなければ本質はなにも分からないといっていいでしょう。
498 :
閻魔大王:2009/08/30(日) 12:50:00 ID:lFNyBdS3
>>495 >「連続性」が議論の論点
我とは記憶の集合である。記憶がなければ自意識はない→無我。
*前後ありといへども、前後際断せり(道元 正法眼蔵 現成公案)
*即今即所が「現観」の様相
―ならば、「記憶」はいかにして形成・残存されるのか。←自我(≒アートマン)意識
↑
ポイント
単純に、刹那滅・心相続でよいかが問題となる。
499 :
閻魔大王:2009/08/30(日) 12:53:28 ID:lFNyBdS3
そもそも、「記憶」とはなにか。
訂正
× 「記憶」はいかにして形成・残存されるのか
〇 「記憶」はいかにして形成・残存と自意識されるのか
>>499 そうそう、連続性が問題ではなく、記憶とは何か?ってことですね。
焚き木を燃やす場合、火を点ける瞬間より〜灰になるまで記憶は残存す。
記憶があるから、これを連続性と捉える。
道元は「木が灰になった訳ではありゃ〜せん」。とか逝ってますね。
(正法眼蔵より)
これは縁起ってのが解った御仁しか言えないです。
つまり縁起には全く連続性はない、縁生・縁滅ですね。
>「記憶」はいかにして形成・残存と自意識されるのか
これは、仏教2500年の歴史において、修行者が必ず突き当たる問題です。
これが解決したら、全ての難問はなくなる。
宝珠さんはここのスレと神智学のスレあとキリスト教の問題点スレ以外に
どこか出没していますか?
昔、血を吐くような議論をしていたと仰っていましたが、その時のスレか
コテハン名おしえて下さいませんか。
ファンです(^o^)
503 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 14:03:24 ID:ePEN8r3O
>>496 >釈尊の明解な論理は驚嘆すべきものだ。
>問題は、近代の仏教学者がバカだったということに尽きる。
そうやって、開祖から一歩も踏み出せないことを、「開祖盲信」「井の中の
蛙」というのだよ。それは、仏教学者も同様。
釈迦が言っていることには、誤り、矛盾、批判すべきところは「皆無」だと
でもいうのかねw。
>>466 大川なんとかとか、麻原とかも、
いわゆる仏教徒よりもゴータマの真意に迫っているらしいです。
一般的には、こういう人たちの方が警戒すべき対象だろうと思うのが普通だと思いますが、
その辺は見解の相違ですね。
>>503 では、あなたは龍樹の言ってることを批判できているのかね?
できていなければやはり教祖盲信といえるだろう。
>>461 > 仏教は客観的に捉えられない形而上存在を扱わず、
> 実践面を重視したのです。
つまり、アートマンという概念は、悟りを開いたりする上では
「役に立たない」「無益」という結論のようですね。
> “真実の自己を求めよ”というアプローチは明確に存在します。
> ただ、これまでは無我論に隠れて殆ど注目されずに隠れてしまっているからです
> (経典において記述そのものも少ないですし)。
つまり、アートマンがあるというのは、仏教においては
説くだけの価値のない考えという認識なのですね。
> しかし、これらは誤解であると私は見なしているのです。
なるほど。しかしながらアートマン説は役に立たず、
無我説は役に立つということがいえるのであれば、
それを覆しても、あまり意味は無さそうですね。
一応、誤解のないように言っておきますが、
念仏や加持祈祷などにおいては、やはりアートマンなどの概念には価値があるように思います。
ひたすら念仏を唱えて信心する、というのはひとつの道ではないでしょうか。
ただ、いわゆる仏教ではないでしょうね。
ゴータマの真意とは、結局のところ
(アートマンの議論などという)くだらないことをに時間を費やさず、
八正道を修めるということに尽きるでしょうから、
その意味では、念仏系とか神智学とかはやはり仏陀の真意を理解しているとはいえないでしょう。
508 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 14:46:32 ID:Fap6rVG9
509 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 15:28:07 ID:r5AhdwhW
>>477 机さん、
あなたはわたしなどより遙かに仏教に詳しいのですから、
どうかお願いしますよ!
>此岸と彼岸の間に流れる大河は、煩悩を象徴的に表したものです。
>涅槃というのは「超越世界」ではないです。現実世界ですね。
>彼岸も此岸も、その間の大河も全てが現実世界であります。
>今の世界を離れて、別世界などないのです。
煩悩を消滅し尽くすという自己制御には、
三十七菩提分法の修行をするわけです。
当然、その修行において神通の発揮というのも含まれてくる(完全にイコールではありませんが)。
何故なら、物質(界)における自己のコントロール力が求められるからです。
三十七菩提分法の七科についてご確認下さい。
『これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、
没することなき解脱の境地である。』(ウダーナヴァルガ26:29)
“没しない”ということは、明らかに現象界の性質を超越していることを示します。
すでに流転変滅の無常な輪廻世界から解脱しているからです。
510 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 15:28:59 ID:r5AhdwhW
『比丘たちよ、「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく「作り為されたもの」でなく
「形成されたもの(有為)」でないもの(涅槃の境地)が存在する。比丘たちよ、もし、その、
「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく「作り為されたもの」でなく「形成されたもの」
でないもの(涅槃の境地)が有ったことがないとしたら、この〔世において〕、「生ぜられたもの」
「有らせられたもの」「作り為されたもの」「形成されたもの」からの出離は、覚知されないであろう。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、「生ぜられたもの」でなく「有らせられたもの」でなく
「作り為されたもの」でなく「形成されたもの」でないもの(涅槃の境地)が存在するがゆえに、
それゆえに、「生ぜられたもの」「有らせられたもの」「作り為されたもの」
「形成されたもの」からの出離が、覚知されるのである。』(ウダーナ8:3)
この経文は物質界とは違う世界がニルヴァーナであるから、
物質界からの解脱を覚知できるのだ、といっているのです。
511 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 15:32:25 ID:r5AhdwhW
512 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 15:42:11 ID:r5AhdwhW
>>506 >なるほど。しかしながらアートマン説は役に立たず、
>無我説は役に立つということがいえるのであれば、
>それを覆しても、あまり意味は無さそうですね。
誤解された無我説です。
経典そのものがゴータマ本人の意志で書かれたわけではありませんから・・。
それでも、これほどの原型を留めて伝えられていることは奇跡的なほどです。
如何に生前のゴータマの説法を後世にまで伝え残したいとしたのかが伺い知れます。
513 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 16:05:18 ID:dcyWhsAY
>>512 >それでも、これほどの原型を留めて伝えられていることは奇跡的なほどです。
仏典の原型すなわち釈迦の説法が今の経典から推測できないというのは仏教学の
常識だね。日本でなら江戸時代の学者でさえそれくらい知っていた。
514 :
析空:2009/08/30(日) 16:43:23 ID:NFHCPggN
>>423 机先生。御回答有り難うございます。
>>311を拝見させて戴きました。
机先生の【空の直覚】は、【何も無い】ということであれば、
【空即是色】は、間違いなのではありませんか?
なぜなら、法も空ですから、法即是空といえますが、空即是色と空即是法は、
成り立ちません。
515 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 16:44:29 ID:Fap6rVG9
そこで伝承者の超人化が必要になる。そこまでじゃなくても
過大評価しなければならない。
516 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 16:52:56 ID:Z1KfIecJ
>>503 皆無だ。良く読んで見ろ。釈尊の周到な語りが読めるなら分かる。
まあ、君には無理だろうけど。誤淫嘘w
>>510 宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk さん江
>この経文は物質界とは違う世界がニルヴァーナであるから、
>物質界からの解脱を覚知できるのだ、といっているのです。
ウダーナ8:3を宝珠愚者のような御都合主義的な文言をはさまず素直に訳すと、こうなる。
『生じないもの、生成しないもの、つくられないもの、形成されないものがある。
もしも生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがないならば、
生じたもの、生成したもの、つくられたもの、形成されたものが、脱し、離れることはないであろう。
生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがあるからこそ、
生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、脱し、離れることがあるのである。』
8:3をマトモに読めば、反中道の外道の「超越した世界(
>>450)」=戯論世界など全く想定してはいないことがわかる。
ウダーナのその節は要するに「中道」をなんとか伝えようとする苦心の表現だ。
「生じないもの」VS「生じたもの」の二項概念対立を←世俗的二項相対
中道というメタコードにて解すれば足りること。→不生不滅、不一不二、勝義
我々はナーガールジュナを通っているのだから、簡単なはずだ。
*不生:「いま現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、
未だ生じていないものも、けっして生じない」(中論第七章第十四詩)
*不滅:「未だ滅びないものも滅びない。すでに滅んでしまったものも滅びない。
いま現に滅びつつあるものもまた同様に滅びない」(中論第七章第二十六詩)
三世門破のバリエーションだ。
ウダーナ8:3の趣旨は不生不滅の縁起つまり、『自性』として生起(も滅尽も)しないこと=空=中道を示すことにある。
超越世界の想定は外道カルトの認定を免れない。
519 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:22:54 ID:ebpLQaia
>>516 >皆無だ。
開祖・教祖の対する批判力がすべて奪われることを、我々は、カルト宗教に
よるマインドコントロールと呼ぶ。批判力とは、人間の知性のことである。
釈迦が、弟子が自分を超えてくれることの大切さを説いたお経の文句があった
はずだ。探してご覧。
君は、釈迦の教えに反していることになる。
520 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:26:37 ID:ebpLQaia
>>510 宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk さん江
ここで宝珠愚者 の好きな中村元博士の初学者向け解説を引用しておく。
中道的仏教世界観の達意の判りやすい解説だ。超越的神秘など無縁だと判る。
『ここで皆さんは、妄執がなければ執着は当然止滅するが、執着が無くなると
なぜ出生までも無くなるのか疑問に思うかもしれません。執着のあるなしに関係なく人間は生まれるではないかとは、もっともなことであります。
しかしここで考えなければならないのは、自己とは妄執と執着によって仮構されたものであるということです。
妄執の中核を打ち砕けば、仮構された自己は消滅します。自己が消滅すれば、自己によって仮構された世界像も壊滅してしまいます。
そこには「ありのまま」の世界があるのみで、分別、対象化された世界はありません。
有るとか無いとか分別した世界ではありませんので、自分と世界とは素通しになってしまいます。
自己は無限定なものとなってしました。後世の大乗仏教では「自他不二」(自己と他とは分離できない)といっています。
そうした「ありのまま」の世界では、自己は限定なき存在そのものなのですから、
当然出生もありません。出生がないのですから老死もないのです。
これがブッダの不死の法則です。後世これを不生といっています。』(ブッダの人と思想 49頁〜50頁)
ここからも判るように、アートマン、輪廻転生、梵我一如、昇天思想などなど
仏教周辺での諸概念など全く潜入する余地のないの狂雑概念でしかないことが明確なのだ。
我々は経典の字句に捕らわれる概念仏教主義者であってはならない。
522 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:39:12 ID:G++Zpd6z
「評価」だけしか書かないから
>>519みたいなのしか返ってこない。
どこが優れているのか示されていないので反論ができない。
523 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:53:05 ID:ebpLQaia
>>522 「どこが優れているのか」を示しても、批判や反論は必ずある。
「完全な人間などいない」という真理を、まず悟る必要がある。
さもなければ、「個人の神格化・偶像崇拝」「批判力(知性)の放棄」
が生じる。
524 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:56:15 ID:ebpLQaia
>>522 「絶対性の放棄」こそ、佛教の中心思想のはずである。
525 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 19:02:49 ID:r5AhdwhW
>>506 >なるほど。しかしながらアートマン説は役に立たず、
>無我説は役に立つということがいえるのであれば、
>それを覆しても、あまり意味は無さそうですね。
誤解された無我説です。
経典そのものがゴータマ本人の意志で書かれたわけではありませんから・・。
それでも、これほどの原型を留めて伝えられていることは奇跡的なほどです。
如何に生前のゴータマの説法を後世にまで伝え残したいとしたのかが伺い知れます。
>>518 「生じたもの、生成したもの、つくられたもの、形成されたもの」とは現象界のことですよ。
「(それ)〜ではないものがある」といっているのです。
(それ)がなかってたならば、解脱はできない。
(それ)があるから、解脱することができる(解脱したという覚知が起こる)、
と述べているのです。
勝手になんでも「中道」で処理しないように!!
あなたは国語は普通に大丈夫ですか??
526 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/30(日) 19:03:49 ID:r5AhdwhW
527 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 19:05:28 ID:ebpLQaia
>>522 中村氏は、妄執と執着(煩悩)は、人間が生きるための原動力、人間が
生きていることの証という側面を忘却している。「生物としての人間」
に対する洞察が欠けている。「本に埋もれた書斎の思考」である。
528 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 19:15:27 ID:G++Zpd6z
>>523 中身を示されなければ「ID:Z1KfIecJがどこを優れている、としているか」
への反論は出来ないってことだよ。
テレパシーでも使って読み取ってみるか?
現に隠居はID:Z1KfIecJがどのへんを優れているとしているか、
わかってないだろ。俺にもわからん。
根拠があるのか、ただの贔屓か否か示されていない。
>>514 析空
>机先生の【空の直覚】は、【何も無い】ということであれば、
>【空即是色】は、間違いなのではありませんか?
【何も無い】というのは、非有非無のことで、つまり有無の対立のない「無」の意ですね。
これを禅坊主などは、色紙に○(まる)を書いて「完全である」という意味の円相を表します。
つまりこれは、否定的無は、また肯定的無である・・・・
ってことの、逆説的な意味も合わせもつ、
つまり差別のない相を意味しておるんです。
これは悟った人間なら直覚的に解せるんですが、
世俗的には、なにやら意味不明なもんです。
つまり、世間の社会常識とか、社会規範とは全く無縁のものです。
で、色即是空を世俗に還滅して・・・
ようやく「空」の勝義諦が智慧として意味をもつのであります。
これが「空即是色」ですね。
つまり、色即是空→空即是色で般若波羅密は完成するんです。
530 :
1/4 旧7:2009/08/30(日) 19:41:05 ID:jNpUjTRg
>>491 また巧妙に、微妙にズラした形で回答しますねぇ・・・w
(ま、そのようなテクニックは釈尊以来正当な伝統であるわけですが・・・。)
(
>>497もそうだが・・・w 相変わらずだ。 貴方も十分“机的”ですよw)
>同一性はただの妄想で・・・
それは何度も聞きました。既に耳タコですw
489に於いては、「決定論的かどうか」など問題ではありません。
そのような誤解を防ぐための付言です。
(しかも、まるで私が「縁起は決定論だ」と発言したかのような言い草には、少し腹が立ちましたね・・。)
問題は、(貴方にお聞きしたかったのは)、
≪間断なく連続し、前の“行為の潜在力形成力”(=業)により、
或る一つの「“その業”からは“コレ”しかない」という意味での「それ以外のもの・こととならない」という
ただ一筋の流れが見られるから、同一性は無いが「自業自得」が成立する≫
という言明が妥当かどうか?ということです。
>>495に言うように、(正法眼蔵では薪と灰の関係、前後際断せり、でしたか?)、
或いは蝋燭の燈火の喩えもありましたでしょうか・・・。
531 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/30(日) 19:41:45 ID:Yz0XL30i
>>509 法珠氏
>“没しない”ということは、明らかに現象界の性質を超越していることを示します。
貴殿もオモシロい御仁ですね。
「超越してることを示します」って(笑
これはカルトが勝手に解釈してるか?貴殿の勝手な解釈です。
あのですね、
そもそも「物質界」とか「現象界」とか、そういう世界はないんです。
つまり仏教は「世界」という対立はない。
縁起ですから、世界を対象化できないんです。
対立があるのは、唯物論とか唯心論とかですね。
これは対立があって、世界を対象化できます(理論的に出来るってことです)
貴殿は、自己の妄執に勝手に踊らされてるだけです。
つまり「ひとり遊び」です。
これは宗教において陥りやすい魔境ってやつですね。
532 :
2/4 旧7:2009/08/30(日) 19:43:22 ID:jNpUjTRg
牛乳やバターの喩えと異なってくるのは、まさに、繋がった連続性を見るかどうかということです。
北海道の牛の牛乳から作ったヨーグルトも、宮崎の牛の牛乳で作ったヨーグルトも、どちらも、
『「ヨーグルトと呼ばれ得る縁によって」、ヨーグルトと呼ばれ、その実体はない』。
北海道のヨーグルトに苺を入れても、宮崎のヨーグルトとは無関係だ。
だから、本来は(
>>346>【本当は「固有動詞、固有形容詞、固有副詞」等々によって記述しなければならない】
と、極論としてあるように、)全ては1対1対応で指示されねばなりません。
それはともかく、この時、北海道の牛と宮崎のヨーグルトの間に連続性はありませんし必要ありません。
竈の灰も、神通力によってそこに突然出現したわけではありません。
薪が くべられ、燃え、火が消えて、“そこに”灰が生じている。このような因と縁の連鎖によって、
「“そこ”(その竈の中に)に、世間的に“灰”と“呼ばれるもの”が生じている」。
長野の竈で火を焚いたからといって、鹿児島の竈に灰が生じることはない。
なぜか。 ≪そのような縁(或いは法)はない≫ からだ。
(この点は、「バターが牛乳と呼ばれない」ことと相似している。)
533 :
3/4 旧7:2009/08/30(日) 19:44:43 ID:jNpUjTRg
(※これは余談になりますが)、このような時、私が思うのは、
このような矛盾や不整合が生じるのは、《『外縁起』を中心に考えているから》だろうということだ。
(貴方は矛盾や不整合だとは思っていないかもしれませんが・・・。
道元が薪と灰の例を出した時“前後際断せり”と言わざるを得なかった理由、
ワッチャゴッタが浮遊する識を探した理由、
《自身についての内省と改善・向上、目標》を飛び越え、
《他者の過去を吟味し、審査し、断罪し、然るべき報いの到来を望む》のも、
そのように、悪人は死後地獄で報いを受けるべきという発想も、
三世に跨る業果も、すべて『外縁起』の話だ。)
シッダッタの出家を振り返るまでもなく、本来の縁起は徹頭徹尾『内縁起』であるべきだろう。
だからこそ、アッサジと舎利弗の邂逅は、あの偈は重みがあるのだ。
(「苦の滅」とは、《何か具体的物理的な、個物的存在・実体として「苦」なるものがあり、それが滅せられる(消失する)》
ということではなかろう? 主観的に、自らに感受され認識される「苦」という法が、
「苦として感受される」法が、(「苦として感受している」「自身の五蘊の“そのような在り様”が」)、
滅せられるということだろう?)
内縁起であれば、そのような(ID:BYnV+gRJ さんが指摘しているような)矛盾や不整合は生じない。
まさに、主観的に、それしかない形で見られる、心の様相、変容であるから。主観的認識の、自覚の話になるから。
(アングリマーラの逸話は胸に迫る・・・。)
(だから私は、縁起の相依性に対するマンセーや偏重が嫌いなのだ。
それが(その側面が)ないとは言わない。
が、どちらが主題であり、どちらが中心であるべきかは一目瞭然だろ?と。)
そして、たとえ内縁起であっても整合性の維持が生じるのは、まさに「三世に跨った時」だ。
(ああ、これも、似たようなことを以前書き込んだかもしれん・・・。)
534 :
4/4 旧7:2009/08/30(日) 19:46:04 ID:jNpUjTRg
と言いながら、(泊まり掛けの用事だろうか・・・w)、
同時に ID:BYnV+gRJ さんへもレスしてみる。
≪「行為(想い含む)」と「その影響力」と、その「果(報)」のみが見られる。その他はない。≫からです。(そこに主体はない。)
そして、行為(業)と果(報)とは、それ以外にない因縁果として繋がっているから、(多義でなく他生でなく)、
「自業自得」(“この業”により“この果”がある)と言い得、「必ず果がある、必ず報いがある」と言われ、
「この因・縁によってこの果(のみ)がある。(他の果はない。)」と言われ、
「同一性の代わり(?w)」となるのです。
さあ、この言明はどうです?w >> ID:Z1KfIecJ
535 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 20:21:12 ID:nOXGUkhl
すごい良スレですね
僕は昔、中村元先生の本を読んで仏教に関心を持ったのですが、
松本史郎氏や袴谷憲昭氏の本を読んで衝撃を受けました。
皆さんは中村氏、松本氏、袴谷氏についてどう思いますか?
ぜひご意見をお聞かせください。
また、現在、仏教学会とくにインド・チベット仏教学会ではどういう議論が
主流になっているかも教えて頂ければ幸いです。
536 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 20:21:41 ID:Z1KfIecJ
>>519 どうせ誤読だよ。輪廻、自灯明と同じ。
なんでそんなにバカなのに偉そうなんだw
あ、バカだからか。
537 :
閻魔大王:2009/08/30(日) 20:25:31 ID:lFNyBdS3
>>525 宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk さん江
苦⇔楽、老⇔若、生⇔死、生じない⇔生じた、といった二項対立相対分別から解脱したのが涅槃寂静だ。
涅槃寂静は、娑婆即寂光浄土なのだから、今のこの時(即今即処)こそが涅槃となる。
そもそも仏教は外道カルト流『超越世界』など無縁だ。
反中道超越世界を説くなら、ブッダの教えである必要はない。
ブッダの説法でもっとも大事な説法は初転法輪だ。誰でももっとも大切なことを先ず最初に説くからだ。
ウダーナも初転法輪の原初的雰囲気に包まれている。
ブッダが五比丘に最初に説かれたのがまさしく『中道』であって、ブッダの教えは総て中道に集約できる。
>勝手になんでも「中道」で処理しないように!!
反中道の外道カルトの御都合主義丸出しの本音が出たと正確に受け取っておこう。
宝珠愚者のウダーナ8:3の読み方は反中道の外道カルトの御都合主義丸出しではないか!!
ブッダの教えの曲解そのもの。
あなたは『仏教』の本質的理解は普通に大丈夫ですか??
神智御都合主義曲解からは何も観えませんよ。
538 :
旧7:2009/08/30(日) 20:33:12 ID:jNpUjTRg
>>525 貴方は、涅槃を「境地」「意識状態」だと言いました。
「物理的(別)世界ではない」と言いました。
「境地」「意識状態」が、≪「超越した世界である」「【現象界を超越した】世界である」≫とはどういうことですか?
何か素晴らしい、「天国良いとこ一度は御出で♪」みたいな「別世界」なんですか?
ウダーナ8.3を素直に受ければ、普通に、≪そのような「境地」である≫としか読めませんが・・・。
なぜそれを、神棚どころか富士山のてっぺんまで祀り上げ、手の届かない所へ持っていこうとするのか?
釈尊がなさったのは、まさしく、
≪そのような境地を神棚から下し、面前に示し、「さあ!」という誘い≫ではないのか?
だから「来たれ、比丘よ」なのではないのか?
おそらく貴方は読んでいないのだろう。
律蔵大品を舎利弗目連の出家譚まで読んでみることだ。
律蔵そのものや大品そのもの成立時期に諸問題はあるやもしれんが、
菩提樹下以降初期直弟子との逸話という仏伝が、
ここにまとまった形で挿入されている意義を思わねばならない。
それは、「おしえ」が、具体的「形」となっているものに他ならないからだ。
そして、それらは、釈尊の行履及び弟子達の行履が、
どの領域に於いて為されているかをはっきりと示す。そこに超越的世界は不要だ。
ニ大弟子以前、60人の弟子(阿羅漢)に釈尊は言った。
「比丘たちよ、遊行しなさい。多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽のため、世界への憐みのために、
人天の目的のため利益のため、安楽のために、です。
(二人が一緒になって行ってはなりません。)
比丘たちよ、初めもよく、中間もよく、終わりもよい、内容もよく、形式もよい、
完全無欠で、清浄な法を示しなさい。梵行を明らかにしなさい」 と・・・。(片山入門p390)
(勿論、ここでの梵行はバラモンとしての行でないのは明白だが・・・。)
539 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 20:42:26 ID:Z1KfIecJ
>>535 中村元先生は、ドイツ文献学の忠実な祖述者という印象。
松本史郎は、動機が不純、学者としての学問的良心もない。
袴谷憲昭は、松本とやってることは似てるが動機が純粋、良心もあるが、
翻訳はまあまあとして思想哲学的研究は扱うにたらない。
>また、現在、仏教学会とくにインド・チベット仏教学会ではどういう議論が
>主流になっているかも教えて頂ければ幸いです。
インド仏教学ではチベット保存中国略奪の梵本が次々に発見され、
校訂本やトランスクリプションが公開されている。
中論ブッダパーリタ註や倶舎論スティラマティ註、入中論などであり、
噂では大ビバシャ論の梵本もあるという。
チベット仏教学も同様にチベット保存中国略奪の蔵本が次々に出版されている。
有名な所ではカーダム派全集、金写テンギュルなど。
その他、各宗派自体が出版ブーム、大叢書や稀覯書が出版されている。
そして、ジーン・スミスの TBRC, PL480, NGMPP といった活動により、
簡単に稀覯本が入手でき、資料に困らない状況になってきている。
日本では未だにゲルク中心の文献学だが、
海外では様々な宗派を伝統的チベット学者や行者と学ぶ研究法が中心になりつつある。
といったとこと私は見てます。
540 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 20:53:18 ID:Z1KfIecJ
>
>>491 >また巧妙に、微妙にズラした形で回答しますねぇ・・・w
>(ま、そのようなテクニックは釈尊以来正当な伝統であるわけですが・・・。)
何故、そうなるかは問いに問題があるんです。
実在論的に本質を問うから、それでは答えようもない。
>>同一性はただの妄想で・・・
>それは何度も聞きました。既に耳タコですw
無我・空だから当然です。同一性は唯の言語習慣にしたがった仮設。
だから、例えば「今、キーボードを叩いてるのは誰」と聞くなら「私」と答えます。
「じゃ、無我じゃないよね」と言うなら。「いえ、無我」ですよという。
「私」は言語習慣の仮設の同一性を持った本質・実体です。幻です、泡です。
それは無我です。「私」の本質・実体・同一性が妄想・幻なんです。
>(しかも、まるで私が「縁起は決定論だ」と発言したかのような言い草には、少し腹が立ちましたね・・。)
それは書き方が悪かったでしょうか。あくまで聞かれたので答えただけです。
> ただ一筋の流れが見られるから、同一性は無いが「自業自得」が成立する≫
>という言明が妥当かどうか?ということです。
言語習慣としては妥当でしょうね。しかし、それは真実ではない。
541 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 20:56:00 ID:qpW+4tyR
>>539 >>535さんではありませんが、情報誠にありがとうございます。
>中論ブッダパーリタ註や倶舎論スティラマティ註、入中論など
>日本では未だにゲルク中心の文献学だが、
>海外では様々な宗派を伝統的チベット学者や行者と学ぶ研究法が中心になりつつある。
『入中論』も梵本があるのですか…。
幾つか質問させて頂きたいのですが、『中論スティラマティ註』の梵・蔵訳、
『十二門論』の蔵訳、また、日本のインド仏教学やチベット仏教学の水準は、
海外に比して問題のある状態なのでしょうか?
542 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 20:59:35 ID:qpW+4tyR
>>541訂正・付記
×『中論スティラマティ註』の梵・蔵訳、『十二門論』の蔵訳
〇『中論スティラマティ註』の梵・蔵訳、『十二門論』の梵・蔵訳、『菩提資料論』の梵・蔵訳は、
存在するのでしょうか?
543 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:00:09 ID:Z1KfIecJ
>
>>532に言うように、(正法眼蔵では薪と灰の関係、前後際断せり、でしたか?)、
>或いは蝋燭の燈火の喩えもありましたでしょうか・・・。
>牛乳やバターの喩えと異なってくるのは、まさに、繋がった連続性を見るかどうかということです。
>北海道の牛の牛乳から作ったヨーグルトも、宮崎の牛の牛乳で作ったヨーグルトも、どちらも、
>『「ヨーグルトと呼ばれ得る縁によって」、ヨーグルトと呼ばれ、その実体はない』。
>北海道のヨーグルトに苺を入れても、宮崎のヨーグルトとは無関係だ。
>だから、本来は(
>>346>【本当は「固有動詞、固有形容詞、固有副詞」等々によって記述しなければならない】
>と、極論としてあるように、)全ては1対1対応で指示されねばなりません。
それも誤解です。なにか物自体が記号と別にあるかというなら、ないという答えになります。
それは、一水四見で分かるでしょう。しかも、その基体はアーラヤでもない。
ただ、縁起するのみ。この点は、たぶん学者で了解してる人は数える程じゃないかと思います。
部派でも、そう理解しないし。
>それはともかく、この時、北海道の牛と宮崎のヨーグルトの間に連続性はありませんし必要ありません。
>竈の灰も、神通力によってそこに突然出現したわけではありません。
>薪が くべられ、燃え、火が消えて、“そこに”灰が生じている。このような因と縁の連鎖によって、
>「“そこ”(その竈の中に)に、世間的に“灰”と“呼ばれるもの”が生じている」。
>長野の竈で火を焚いたからといって、鹿児島の竈に灰が生じることはない。
>なぜか。 ≪そのような縁(或いは法)はない≫ からだ。
>(この点は、「バターが牛乳と呼ばれない」ことと相似している。)
それはそう。それが因果で縁起の一面です。
544 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:08:36 ID:nOXGUkhl
>>535 ご丁寧に即レスありがとうございます。
いろんな本が発見されて活況を呈しているのですね
私が90年代に印哲をやっていた頃とはまるで違う世界になりましたね
私のように90年代にインド・チベット仏教をやっていた者にとっては
松本氏、袴谷氏、山口瑞鳳氏などが議論の中心で、多くの優秀な学者・研究者が
彼らの影響を受けました。
仏教界も随分変わったんですね。
545 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:09:39 ID:Z1KfIecJ
>>541 >幾つか質問させて頂きたいのですが、『中論スティラマティ註』の梵・蔵訳、
あります。蔵はよく流通してます。ACIP でも手に入ります。
梵は、大谷大学で研究中です。今度の印仏研で経過報告があるようです。
>『十二門論』の蔵訳、また、日本のインド仏教学やチベット仏教学の水準は、
>海外に比して問題のある状態なのでしょうか?
『十二門論』の蔵訳は、現存しませんが、幾つかの目録に記載されているので、
前伝期に翻訳されたようです。
インド仏教学は、もはや海外では風前の灯火のようです。
チベット仏教学は、海外に比して文献・ゲルクに偏っているのは否めないでしょう。
チベット仏教学は、ロシアで発展したものですが、その創成期に
ゲルク史観で形成されたため随分歪んでいるように思います。
しかも、その影響がインド仏教学、特に中観に影響を与えているので、
これに関しては今後、修正される必要があると私は考えます。
546 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:12:57 ID:Z1KfIecJ
>>544 >ご丁寧に即レスありがとうございます。
どういたしましてです。
>いろんな本が発見されて活況を呈しているのですね
>私が90年代に印哲をやっていた頃とはまるで違う世界になりましたね
そうです。まったく専門図書館への依存度が低くなり学問の平等性がましたように思います。
>私のように90年代にインド・チベット仏教をやっていた者にとっては
>松本氏、袴谷氏、山口瑞鳳氏などが議論の中心で、多くの優秀な学者・研究者が
>彼らの影響を受けました。
ホントですか? 優秀なら、その陳腐さが容易に理解できると思います。
山口さんに至っては、妄想としか思えない論文ばかりです。
547 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:19:04 ID:Z1KfIecJ
>533
>(※これは余談になりますが)、このような時、私が思うのは、
>このような矛盾や不整合が生じるのは、《『外縁起』を中心に考えているから》だろうということだ。
あー、そうかもしれない。内縁起でしか私は考えていなかったと思う。
> (貴方は矛盾や不整合だとは思っていないかもしれませんが・・・。
> 道元が薪と灰の例を出した時“前後際断せり”と言わざるを得なかった理由、
> ワッチャゴッタが浮遊する識を探した理由、
> 《自身についての内省と改善・向上、目標》を飛び越え、
> 《他者の過去を吟味し、審査し、断罪し、然るべき報いの到来を望む》のも、
> そのように、悪人は死後地獄で報いを受けるべきという発想も、
> 三世に跨る業果も、すべて『外縁起』の話だ。)
なるほど。
548 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:19:51 ID:Z1KfIecJ
>シッダッタの出家を振り返るまでもなく、本来の縁起は徹頭徹尾『内縁起』であるべきだろう。
>だからこそ、アッサジと舎利弗の邂逅は、あの偈は重みがあるのだ。
> (「苦の滅」とは、《何か具体的物理的な、個物的存在・実体として「苦」なるものがあり、それが滅せられる(消失する)》
> ということではなかろう? 主観的に、自らに感受され認識される「苦」という法が、
> 「苦として感受される」法が、(「苦として感受している」「自身の五蘊の“そのような在り様”が」)、
> 滅せられるということだろう?)
>内縁起であれば、そのような(ID:BYnV+gRJ さんが指摘しているような)矛盾や不整合は生じない。
>まさに、主観的に、それしかない形で見られる、心の様相、変容であるから。主観的認識の、自覚の話になるから。
>(アングリマーラの逸話は胸に迫る・・・。)
その通り。外縁起も内縁起でしかありえないと思います。
それこそ一水四見です。アーラヤなしの。
> (だから私は、縁起の相依性に対するマンセーや偏重が嫌いなのだ。
> それが(その側面が)ないとは言わない。
> が、どちらが主題であり、どちらが中心であるべきかは一目瞭然だろ?と。)
>そして、たとえ内縁起であっても整合性の維持が生じるのは、まさに「三世に跨った時」だ。
なるほど。もうちょっと私も説き方として外縁起を加えて再考の余地ありかも、
いや、勉強になった。ありがと。
549 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:21:40 ID:Z1KfIecJ
>534
>≪「行為(想い含む)」と「その影響力」と、その「果(報)」のみが見られる。その他はない。≫からです。(そこに主体はない。)
>そして、行為(業)と果(報)とは、それ以外にない因縁果として繋がっているから、(多義でなく他生でなく)、
>「自業自得」(“この業”により“この果”がある)と言い得、「必ず果がある、必ず報いがある」と言われ、
>「この因・縁によってこの果(のみ)がある。(他の果はない。)」と言われ、
>「同一性の代わり(?w)」となるのです。
>
>さあ、この言明はどうです?w >> ID:Z1KfIecJ
まあ、だいたい『勝義空性経』どおりでいいんじゃないの
550 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:33:14 ID:nOXGUkhl
>>546 >ホントですか? 優秀なら、その陳腐さが容易に理解できると思います。
本当ですよ。インド哲学研究者は別として、インド・チベット仏教学専門家は
個人的にあって話すれば松本・袴谷氏に賛同する人が多かった。
中国仏教研究者で賛同していた人もいました。
ただ、彼らは論文ではほとんど触れませんでしたけど。
551 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 21:48:10 ID:Z1KfIecJ
>>550 私は全く評価できません。個別に見れば妥当な成果もありますが。
彼らには行の視点が全く欠けていて、あれじゃただの観念遊戯でしょう。
特に山口・松本のものにはナルシスティックが慢心と、
他者への嫉妬や怒りが隠っていて、読むに耐えないものだと思いませんか?
評価している貴方にそういう私もなんですがm(__)m
552 :
旧7:2009/08/30(日) 22:07:14 ID:jNpUjTRg
>>547-549 了解。
543に一言挟もうかとも思ってたけど、それも不要か・・。(317、327ももういいや。547-549で十分だ。)
あとは、ID:BYnV+gRJ さんの応答待ちですね。
でも、せっかく勢いで作文したので貼っとくw (他の人への示威の意味も込めて・・。)
(547-549を受けた今となっては、単なるいちゃもんにしかならんが・・w)
553 :
旧7:2009/08/30(日) 22:08:12 ID:jNpUjTRg
>>543 >それはそう。それが因果で縁起の一面です。
であるならば、 >長野の竈で火を焚いたからといって、鹿児島の竈に灰が生じることはない。 を貴方が肯うならば、
≪「三世に跨る業報」は、まさにこの >長野の竈で火を焚いた ことにより >鹿児島の竈に灰が生じ る≫
と言っていることになりませんか。(勝義に徹底すれば、長野も鹿児島も仮設となるわけですが・・w)
少なくとも、そのようなものにしかお目にかかったことがありません。
そうでない言辞は、貴方の言うような抽象的勝義におけるものです。
(そしてまたそれは勝義に於いて、
>>390にあるように、三世とか期間区分に拠らないものでしょう。)
それ以外は、全て上記のような「長野の竈と鹿児島の灰」ではありませんか?
それ以外の業報が示されていますか? 同一性なき業報が示されていますか?
宝珠サイドが利用してしまうようなものしか提示されていないのではありませんか?
それが訂正・修正されることなく、≪【マイナーな場所で】、ただ「勝義ではこうです」と【小声で呟かれる】だけ≫では、
カルトの言辞は大手を振い続けるでしょう。(それでも構わないというなら別ですが・・・w)
本来なら、
>>534のような言明こそが正面に出てこなければならないのでしょうが、歴史的に見ても現状を見てもそうではない。
また、534でありつつ(同一性無きまま)、凡夫にとって「来世への畏れと積善の動機」ともならねばなりません。
何度も言うように、輪廻や業報を説くならば、誤謬の排除も同時に為されねばならない。
少なくとも、現代社会に於いては必須かと思われる。どうせ説くなら正しいものが説かれるべきだ。
本来《「自覚の種」であるべきもの》が、
いつしか《現状是認・あきらめ・格付けと断罪・差別意識・選民意識・見下ろす下層があることの安心等々》
として機能してきた歴史的事実、そして今《勧誘・霊感商法等の根拠・礎・土台》となっている事実は、
見据えなければならないと思う。
誠実な応答、ありがとう。 おやすみ ノシ
554 :
析空:2009/08/30(日) 22:27:23 ID:NFHCPggN
>>529 机先生。何度もご回答戴きまして、有り難うございます。
【空の直覚】の【何も無い】という表現が、非有非無の中道を意味しているのですか?
【何も無い】というのは、【自性が無い】という意味なのではありませんか?
色即是空⇒空即是色については、まだよく分かりません。
色が空であるだけではなく、法が空であることも間違いないと思いますが、
【法即是空】⇒【空即是法】ですか?
(このような経典は皆無ですが)
555 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 22:40:55 ID:Z1KfIecJ
>>553 >本来なら、
>>534のような言明こそが正面に出てこなければならないのでしょうが、歴史的に見ても現状を見てもそうではない。
>また、534でありつつ(同一性無きまま)、凡夫にとって「来世への畏れと積善の動機」ともならねばなりません。
>何度も言うように、輪廻や業報を説くならば、誤謬の排除も同時に為されねばならない。
>少なくとも、現代社会に於いては必須かと思われる。どうせ説くなら正しいものが説かれるべきだ。
>
>本来《「自覚の種」であるべきもの》が、
>いつしか《現状是認・あきらめ・格付けと断罪・差別意識・選民意識・見下ろす下層があることの安心等々》
>として機能してきた歴史的事実、そして今《勧誘・霊感商法等の根拠・礎・土台》となっている事実は、
>見据えなければならないと思う。
戒律にしろ、煩悩、善悪といった規範は、全て自分に対するものですね。
もちろんです。それは全くただしい。そうあるべきです。
しかしながら、それは難しい。私も誤淫嘘とか松本・山口への嫌悪感は隠せません。
しかし、それは間違っている。真に仏教を実践するのは難しいです。
前もそうだったかもしれませんが、世俗重視か勝義重視か、
あるいは社会重視か法重視かという面で、二人ともバランスが悪いのかもしれません。
精進努力して、嫌悪感とともに捨てたいところです。
556 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/30(日) 23:07:53 ID:tLVE5YU3
民主が大躍進して世の中が変わりそうだ。
昔なら殺し合い、残党狩りをしていたのに、民主主義はいいものである。
信長が倒し、秀吉が完成し、家康が支配する。
>>316 『別訳雑阿含経』の「外道問言。我死此生彼以不。阿難言。如來不説。」(外道が質問して言った。
“我”はこの世で死んであの世に生まれるのかどうか、と。阿難が言った。如来は説かない、と。)、
『中論』の「我有種種名。或名衆生人天如来等。」(“我”にはいろいろの名がある。
“衆生”・“人”・天・“如来”などと名づける。)、
>>103の『大智度論』の「如去者如人來此間生。去至後世亦如是。」(“如去”tathAgataとは、
“人”がこの世に生まれ来たように、そのように後世に去って行ったものである)と、
『テーリーガーター』130「亡者は、人間という形態(色)でもって輪廻しつつ、去って行くでありましょう。
やって来た通り、そのように、(彼は)去って行ったのです(yathAgato tathA gato)。」(正田訳)との関連、
等々の持つ意味について再考を促したいところですが、「水野先生が解決し」ていると納得し
完結されているのでしたら、残念ですが仕方ありません。
ところで、水野先生は、外教の質問「霊魂と肉体とは同一であるか別異であるか」に関して、
「そこには有情の死後の存在の有無が問題とされているのである。
このように無記説の他の項目で既に一般有情の死後の存在の有無が問題とされているのに、
更にtathAgata(一般有情)の死後の存在の有無が論ぜられることは、全くの重複となって無意味である。」
と、その論文でお書きになっていますよね。
つまり、水野先生は、「一般有情の死後の存在の有無」の質問は無記とされた、とお考えなのですが。。。
558 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/30(日) 23:32:38 ID:tLVE5YU3
秀吉の宗教的立場はあまりはっきりしない。辞世の句は
「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」
秀吉の立場を推測する手がかりはキリシタン禁教令だろう。
秀吉の禁教令→徳川の鎖国に到る理由はふたつある。
1 ポルトガルの下心、日本の植民地化に気がついた
2 かれらによって日本人婦女子が世界中に奴隷として売られている
火薬一樽・・・婦女子50人
559 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 23:35:48 ID:Z1KfIecJ
>>557 論じたいのでしたら、水野先生の論文を入手されたし。
過去ログのどこかに結構詳細な内容が書かれていて、
確か、それに対する有力な反論があったように記憶します。
560 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/30(日) 23:46:07 ID:tLVE5YU3
秀吉はいくつかの理由をあげてバテレン追放令を出している。
1 日本は神々の国である。
2 バテレンはその宗門を広め、そのために神社仏閣を破壊している。
3 バテレンは二十日以内に自国に帰るべきである。
4 商船は商売のためであるから別の問題である。
5 今後、神と仏の教えに妨害を加えなければ日本に来るのは自由である。
561 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 23:47:40 ID:qpW+4tyR
>>545 >>幾つか質問させて頂きたいのですが、『中論スティラマティ註』の梵・蔵訳、
>あります。蔵はよく流通してます。ACIP でも手に入ります。
>梵は、大谷大学で研究中です。今度の印仏研で経過報告があるようです。
御返答ありがとうございます。
繰り返して申し訳ありませんが、漢訳『大乗中観釈論』の梵・蔵訳が
存在する、ということでしょうか?
562 :
神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 23:55:33 ID:BYnV+gRJ
え〜と、レスが遅くなって申し訳ないですが、また、えらく進んでますね。
各、書きこみをざっとしか読んでませんが、 ID:Z1KfIecJさんと
旧7さんのやりとりを読んで、ID:Z1KfIecJさんの言うところの大筋は
理解できました。(これは、勿論、あなたの主張に全面賛成という
意味ではありません)
さて、今どうしようか迷っているのですが。
というのも、このテーマに関して自己解決してしまい、これ以上、議論を
続けることにあまり、意味を見出せないなと考えてしまったからです。
しかし、ここで打ち切るのも旧7さんにも不誠実であろうし、ちょっと
困ってます。
旧7さんの「灰」の話は大変おもしろかったですね。
そこで、改めてお聞きしますが、ID:Z1KfIecJさんは
一般的意味における「業報思想」すなわち
「今世で殺人を犯したために、来世で殺された」
というような出来事を真実と捉えているのですか?
これは、「そんな馬鹿げたことを信じてるのか?」などと
言う意味ではなく、純粋にあなたの認識を聞いているわけですが。
563 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/31(月) 00:08:20 ID:hzmkTz6y
秀吉は農民ではなく、もっと下の出生ではないかと疑われている。
そして<右手の親指が二つあった>とも記録されている。
満足な教育も受けられず、劣等感に悩みながら、戦いに明け暮れた秀吉は、
文化的に見れば粗野な人であったろうと想像がつく。
こういったことから推測すれば、バテレン追放令に見られるように、
わりと素朴な人生観だったのではないかと思われる。
564 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/31(月) 00:29:49 ID:hzmkTz6y
戦国時代、キリスト教が日本に急速に広まった理由は、
火薬を入手するためであった。
そのために日本人婦女子が奴隷として海外に送り込まれた。
いまポルトガルにその末裔がいる。
秀吉から徳川に至る鎖国への道・・・
戦国時代が終息したのでキリスト教を禁教にすることができた。
キリスト教への日本人の嫌悪感は、
種子島の始まりに原点があるのかもしれない。
>>525 > 誤解された無我説です。
> 経典そのものがゴータマ本人の意志で書かれたわけではありませんから・・。
無記であるべきアートマンについて論じている時点で、ゴータマの意志を無視しているでしょう?
つまり、ゴータマの真意がまるで理解できていないということです。
そんな人がゴータマの意志について語るのは、泥棒が泥棒をつかまえようとするようなものでは
ないでしょうか。
無我説は、我執を断つという目的からすれば「実践的な」方便としての機能を
見事に果たしているといえますから、
ゴータマの真意に沿った教説ではないかと思います。
566 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/31(月) 00:55:00 ID:hzmkTz6y
外国人にだまされて国を失ってはいけない。
外国に国民を売ってはいけない。
いまの政治家は先人の気概を学んでほしい。
まず日本の独立を守ろう。
567 :
◆E4bNl5MIvU :2009/08/31(月) 01:07:09 ID:hzmkTz6y
アメリカに国防を頼っていていいのだろうか。
小泉の置土産で、いま急速に米軍と自衛隊の一体化が進んでいる。
日本は、自分の国の安全を、外国に任せるバカな国である。
568 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 01:40:50 ID:ZDUNcgHt
このスレすごいなぁ
仏教思想でここまでウンチクたれることができるなんてどんだけすごい連中なんだ
工学部のマスターだった先輩がランマンのテキスト見て
「こんなのやってなんの役に立つんだ」って言ってたのを思い出す
覚者方は、この三界を快適な場所にすることに・・・政治のあり方も含めて・・・
何ら関心をもっていません。なぜなら、それらの方々にとってはこの世界は
究極の実体が見ている悪い夢のようなもので、夢から覚めたら幻のような
ものだからです。
ですから、それらの方々は、我々が目を覚ますためにも、この世界で見る
夢は苦痛に満ちた悪夢である方がよいと思っておられます。なぜなら、
快適な夢であれば、誰も起きてふとんから出たいと思わないでしょう。
苦痛と吐き気を催すような悪夢であり、残酷に満ちた夢であれば、人間は
夢から覚めたいという考えを抱くようになります。この世界がかくも残酷で、
殺す殺される、搾取する搾取されるというゲームのルールになっているのは、
そういうことが原因になっています。
そういうわけですから、この世界を快適にしよう!そのために政治権力を
手に入れよう!と主張する人間は100%、魔道に落ちた者であり、他者を
悪夢からの覚醒、すなわち悟りから遠ざける者。仏の反対の存在であると
言って間違いありません。
ましてせっかく苦労して悟りを開き、悪い夢から醒めて神仏の境地に
戻ったのに、悪夢の世界に再び戻りたいなどと思うことは絶対にありません。
570 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 03:02:11 ID:rr42FOrq
私なりの結論としては、一般的に語られる「生まれ変わり」も「業報思想」
も、やはり我々が存在するこの現象界であり得る可能性はゼロに近いと
思います。かといって、全面的にそれらを否定するものでもありません。
要は「真理の適用範囲の誤り」であると考えます。
以下は全く仏教的解釈とは言えないかもしれませんが、例えば
素粒子の世界においては、生まれ変わりにおいて問題となる「同一性」が
実験により確認されています。ベリリウム原子が自己の大きさの10倍も
離れた距離に同時存在していることが実験で証明されています。
これを「状態の重ね合わせ」と言います。
また、遠く離れた位置にある2つの粒子は一方の粒子の状態は、他方の
粒子の状態に依存します。これなど、まさに「相衣性」(縁起)そのものですね。
これを「粒子のからみあい」と言います。
そして、量子力学では粒子の状態を記述するのに虚数を含む方程式を
用います。我々が存在するこの現象界における定量観測は全て実数を用いて
行いますが、現実に起こっている粒子の状態を計算するのに虚数を使用する
のです。これはどういうことか?量子力学の世界では、表と裏の2つの世界
が存在するのです。つまり認識可能な我々の世界と認識不能な世界があるわ
けです。何か「勝義」と「世俗」に似ていると思いませんか?
571 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 03:03:26 ID:rr42FOrq
さて、上記のことは全て素粒子の世界では「真理」として認知されていること
ですが、それがそのまま我々の世界において成り立つか?といえば、そうは
いきません。シュレディンガーは自己の実在論を主張するため、有名な
「シュレディンガーのネコ」の思考実験を提示しました。そして、箱の中の
ネコが死んでいる状態と生きている状態が重なり合っているなんてバカなこと
があるかと主張したのです。もちろん「この現象界」では、そんなことはありません。
彼の誤りは「素粒子のレベルでの真理」が、宇宙全体でも成り立つ真理であると
考えたことによります。
また、逆にこの現象界では「当然のこと」と考えられていること、例えば
ガラスコップをおもいっきり床に叩きつけたら割れる(因果関係)が
素粒子の世界では成り立ちません。割れるか割れないかは全て確率により
決定(波束の収縮)されるのです。つまり「これがあるとき、あれがある」
とは言えないのです。
ID:Z1KfIecJ さんの輪廻業報思想というのは、簡潔に述べると
「今世において積んだ業が因となり、それがある種の形成力となって来世の
生まれ変わりの誕生の起因となり、其の生に干渉する」
とまあ、こういうものだと思われる。
この説に対する代表的な疑問提示が旧7さんの「灰」の例だと思う。
時空的に隔離された2つの現象間において、その連鎖を認め得るか?
これはやはり「この現象界においては」NOと言わざるを得ないだろう。
勿論、素粒子レベルの世界においては、この「灰」の事例に相当することが
真理として認知されている。しかし、この世界では真理ではない。何故か?
それは、其々を成立させている諸要素の多さに起因するというのがひとつの
説明として提示されている。仏教的にいえば其々を仮設している縁起の数が
多すぎるということか。(実はこの問題に対する世界の科学者達のスタンスは
3つに分かれるのだが、ここでは割愛)
572 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 03:04:41 ID:rr42FOrq
シュレディンガーのような真理の適用範囲の誤りを、再びくりかえすべきでは
ないと思うのですが。(ちなみに、彼の主張した『実在論』は、ベル不等式の
破れ、およびアスペの追証により誤りが確認されています)
そしてこの現象界においても業報思想が成り立つと主張するのであれば、その
業のエネルギーがいかにして、生まれ変わりの誕生に起因するのか、構造システム
のモデル提示が必要であると考えますが。ただ、「縁起による」だけでは何も説明
してないのと同じであると思います。
そして、「真理はあらゆるところにおいて成り立つから真理である」との反論
をなす人は「真理」を「法則性」と言い換えて読んでもらいたい。
う〜む、ここまで書いて、さすがにスレ違いかとも思ったが、とりあえずあげてみる。
それから、旧7さん、
>>534の「現象の連鎖の必然性」が、果たして「同一性」の
代わりとなるか?これも私の反論ポイントのひとつで、私は「代わりにはならない」
と思います。
573 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 03:28:34 ID:ZDUNcgHt
このスレ見てると70年代から80年代中期までのニューサイエンス・ブームを思い出す
カント、マルクスどころかフーコーやデリダすら読んでないんだな
西洋思想史の入門書しか読まんで西洋思想を批判して自分のやっていることに悦に入っている
古いけど梅原猛や中沢新一と同レベルだな
サイードの『オリエンタリズム』すら知らないんだろうな
574 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 04:07:09 ID:YYLdPhVU
>>561 >『中論スティラマティ註』の梵・蔵訳、
>>あります。蔵はよく流通してます。ACIP でも手に入ります。
>>梵は、大谷大学で研究中です。今度の印仏研で経過報告があるようです。
すいません。間違いました。
『中論スティラマティ註』ではなく『倶舎論スティラマティ註』です。
『中論スティラマティ註』は蔵訳はありません。
ですから、梵本がチベットから見つかる可能性は極めて低いと思われます。
575 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 04:08:34 ID:YYLdPhVU
>>562 >一般的意味における「業報思想」すなわち
>「今世で殺人を犯したために、来世で殺された」
信じています。ただし、そう単純なものではありません。
576 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 04:11:57 ID:YYLdPhVU
>>569 大乗仏教では、そうは解釈しませんね。
菩提心、慈悲、普賢行、誓願を調べてください。
『入菩提行論』『普賢行願讃』を読んでみてください。
577 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 04:30:39 ID:YYLdPhVU
>>570 >素粒子の世界においては、生まれ変わりにおいて問題となる「同一性」が
>実験により確認されています。ベリリウム原子が自己の大きさの10倍も
>離れた距離に同時存在していることが実験で証明されています。
>これを「状態の重ね合わせ」と言います。
>また、遠く離れた位置にある2つの粒子は一方の粒子の状態は、他方の
>粒子の状態に依存します。これなど、まさに「相衣性」(縁起)そのものですね。
>これを「粒子のからみあい」と言います。
これは仏教の同一性よりマンダラや法界に近いです。
マチウ・リカール『掌の中の無限』が仏教徒の見解です。
>そして、量子力学では粒子の状態を記述するのに虚数を含む方程式を
>用います。我々が存在するこの現象界における定量観測は全て実数を用いて
>行いますが、現実に起こっている粒子の状態を計算するのに虚数を使用する
>のです。これはどういうことか?量子力学の世界では、表と裏の2つの世界
>が存在するのです。つまり認識可能な我々の世界と認識不能な世界があるわ
>けです。何か「勝義」と「世俗」に似ていると思いませんか?
「勝義」と「世俗」ではなく、一切法は生滅する性質であるに類似すると思います。
「勝義」と「世俗」は対立するものではなく、最終的に不二です。
色即是空空色是色がそれです。
578 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/31(月) 04:33:35 ID:ro/0LroL
>>527 確かに、煩悩というのはあなたのいう通り、
生物としての根源的な本能から発露してくる意識です。
これは生存のために不可欠なものであり、これがあるから種が存続してきたのです。
この生存本能というのは、他を排除してでも生き抜くという殺伐とした本能であり、
殺すか殺されるか、という自然界の食物連鎖の中で生きるためのものでした。
しかし、この意識というものは、すでに食物連鎖から外れた人類にとり、
社会生活を営んで暮らす上では実際、弊害として作用する部分がでてくるのです。
元々からして、利己的で攻撃的な意識だからです。
仏教(正しい宗教は基本的にすべてそうです)というのは、この“意識の純化”を教えるものです。
煩悩についての教えというのは、
基本的にこのことをちゃんと知っていて説いています。
579 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/31(月) 04:36:01 ID:ro/0LroL
>>531 ウダーナ8:3が示す通りです。
「現象界」と「現象界ではない世界(涅槃)」の二つがあるのです。
つまり我々の観点、あくまでも現象界に生きる我々の視点からは二つの両極の二元がある。
SM大王のような-どっちでもない〜中道だべぇ〜なんていう話ではありません。
また、そんなのは気の持ち方に過ぎない〜なんてことでもありません。
まっ、好きにして下さい。
別に誰もあなたの自由を奪わないから。
>>537 机さんと同じです。
我々の視点というのは二元性の中に(現象界側に意識の焦点をおいて)生きているのです。
どっちでもない〜中道だべぇ〜なんていう話ではありませんよ。
中道というのは、修行者の偏った見解に固執しないための姿勢を説くものです。
「現象界」と「現象界ではない世界(涅槃)」の二つがあり、
だからこそ現象界の意識から超越するのです。
涅槃に至るのは意識ですよ。
580 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 04:41:54 ID:YYLdPhVU
>>571 >さて、上記のことは全て素粒子の世界では「真理」として認知されていること
>ですが、それがそのまま我々の世界において成り立つか?といえば、そうは
>いきません。シュレディンガーは自己の実在論を主張するため、有名な
>「シュレディンガーのネコ」の思考実験を提示しました。そして、箱の中の
>ネコが死んでいる状態と生きている状態が重なり合っているなんてバカなこと
>があるかと主張したのです。もちろん「この現象界」では、そんなことはありません。
>彼の誤りは「素粒子のレベルでの真理」が、宇宙全体でも成り立つ真理であると
>考えたことによります。
>また、逆にこの現象界では「当然のこと」と考えられていること、例えば
>ガラスコップをおもいっきり床に叩きつけたら割れる(因果関係)が
>素粒子の世界では成り立ちません。割れるか割れないかは全て確率により
>決定(波束の収縮)されるのです。つまり「これがあるとき、あれがある」
>とは言えないのです。
こちらが世俗と勝義に近いですね。
本来、空の素粒子的世界が、世俗では縁起的因果を持った世界で観測される。
私の素粒子の知識はマチウ・リカール『掌の中の無限』ぐらいのもので、
はなはだ、情けないものだということをご理解ください。
>ID:Z1KfIecJ さんの輪廻業報思想というのは、簡潔に述べると
>「今世において積んだ業が因となり、それがある種の形成力となって来世の
>生まれ変わりの誕生の起因となり、其の生に干渉する」
>とまあ、こういうものだと思われる。
そんなかんじです。縁起と素粒子論はよく似ていて、
本縁起的因果を持った世界は観測者によって見え方が異なるというのも
非常によく似ていると思います。
581 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 04:54:58 ID:YYLdPhVU
>この説に対する代表的な疑問提示が旧7さんの「灰」の例だと思う。
>時空的に隔離された2つの現象間において、その連鎖を認め得るか?
>これはやはり「この現象界においては」NOと言わざるを得ないだろう。
>勿論、素粒子レベルの世界においては、この「灰」の事例に相当することが
>真理として認知されている。しかし、この世界では真理ではない。何故か?
>それは、其々を成立させている諸要素の多さに起因するというのがひとつの
>説明として提示されている。仏教的にいえば其々を仮設している縁起の数が
>多すぎるということか。(実はこの問題に対する世界の科学者達のスタンスは
>3つに分かれるのだが、ここでは割愛)
仏教では縁起に関わらないものはないと考えます。
だから、法界とかマンダラは総体を意味するものです。
すべてはインドラの網のように繋がっているという。
マチウ・リカール『掌の中の無限』を読んでいただけると面白いと思います。
訳もいいのですが、残念なことに仏教に関する部分に誤解が散見するのが
非常にもったいないです。
582 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 05:03:46 ID:ZDUNcgHt
お〜 見事にスルーされてる
君たち仏教に情熱を燃やしてすごいなぁ〜
仏教の勉強を随分昔にやめた俺は、いま悲しい酒を飲みながら
君たちのレスを読んでいるよ
君たちの研究と主張が社会生活ですったもんだしている俺みたいな人間にとって
何らかの生きるヒントを与えてくれる日が来たらこんなに喜ばしいことはないだろうに
583 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/31(月) 05:09:40 ID:ro/0LroL
>>565 >ゴータマの真意に沿った教説ではないかと思います。
「アートマンはない」などとは言ってないのに、そういうことにされてても?
>>538 >何か素晴らしい、「天国良いとこ一度は御出で♪」みたいな「別世界」なんですか?
違う。そういうことではないのです。
もう少し正確にいうと、
ニルヴァーナとは現象界とは別の場所にあるところの世界だということではなくて、
今、ありのままのココがニルヴァーナになるのです。超越するのは意識なのですよ。
意識が現象界を超越したその時、現象界は別世界として認識/知覚される。
このときにそれまで二元性を現じていた世界は消散し、
本質的世界であるところの一元性として知覚されるのです。
別の場所、別世界とは言葉の便宜上のものに過ぎません。
変化するものは自己意識です。それが変化のすべて!
こんなにあまりにも基本的でごく簡単な話しが、
何故、仏教徒たちは理解に困難をおぼえるのかが理解に苦しむ・・。
仏典を読んでも、そういうことが述べられているものと分らない??
584 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 05:27:15 ID:YYLdPhVU
>>582 それなら、『仏遺教経』か『入菩提行論』『法句経』あたりを読んでみてはどうでしょう。
難しい部分でなく、世間功徳分といわれる部分です。
あるいは仏伝や聖者の伝記を、無批判に読んで、感動するとか。
感動することは随喜することで、随喜すると心が嬉しい。
心が嬉しいと世の中よく見えるし、よく縁起するものです。
なかなか、即効性はありませんが、なれると効いてくるのが、
修習です。
585 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 05:49:12 ID:ZDUNcgHt
>>584 ありがd
夜が明けてくるにつれて君たちの頭がキレイにハゲ上がってくるのが目に浮かんでくるよ
君たちがどういうオトナになるのかも大体分かってきた
やっぱりおれは世俗がいいな
戯論の世界で魑魅魍魎と跳梁跋扈してくるよ
レスありがとう
もう邪魔しないよ
586 :
閻魔大王:2009/08/31(月) 07:31:50 ID:E6x8xiBt
>>579>>583 宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk さん江
実質的完全敗北宣言乙です。
それでも多元論に固執し、中道のなんたるかを解しようとしない居直り姿勢は
痛々しい。
カラスと宝珠愚者で神智学スレをたててオナニーしてたらどうですか?
日本では、思想と表現の自由は公共の福祉に反しない限り尊重されますから。
587 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 08:03:55 ID:Sm1y+1uN
>>578 >確かに、煩悩というのはあなたのいう通り、
>生物としての根源的な本能から発露してくる意識です。
そんなことを主張している仏教は無い。
アビダルマでも唯識でも生物としての生命は命根として
心不相応行法であるとしている。煩悩は心所有法であるから
煩悩の元が生命(命根)であるとするのは仏教で言えばカテゴリ
ミスだね。生命は善悪無記すなわち善でもなければ悪でもなく
善悪に対して中立であり煩悩とは無関係と考えるのが仏教だろう。
588 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 08:18:13 ID:Sm1y+1uN
>>583 >「アートマンはない」などとは言ってないのに、そういうことにされてても?
スッタニパータ1119でアートマンを否定しているね。
「常に正しく自覚して、我(アートマン)は存在するという誤った見解から
出て、世間は空であると観察しなさい。」
ほら「我思うゆえに我あり」は誤った見解であると釈迦は説いているではないか。
589 :
閻魔大王:2009/08/31(月) 09:09:50 ID:E6x8xiBt
訂正
× 多元論に固執
〇 多元論→一元論に固執
590 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/31(月) 09:10:56 ID:ojkf2C/R
>>579 法珠氏
>「現象界」と「現象界ではない世界(涅槃)」の二つがあるのです。
これは、彼岸と此岸の二つ。という意味です。
>つまり我々の観点、あくまでも現象界に生きる我々の視点からは二つの両極の二元がある。
彼岸は一元であります。此岸は二元であります。
仏教は、一元即二元であります。
すなわち、不一元であり不二元である。→色即是空(不一不二)
>SM大王のような-どっちでもない〜中道だべぇ〜なんていう話ではありません。
仏教哲理は、紙一枚の誤差もない全く完全ですね。
いい加減なものではない・・・中道です。
>まっ、好きにして下さい。
>別に誰もあなたの自由を奪わないから。
仏教は「知る」とか「知らない」とかの範疇には属さない。
ただただ菩提心あるのみです。
591 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/31(月) 09:31:58 ID:ojkf2C/R
>>554 析空氏
>【何も無い】というのは、【自性が無い】という意味なのではありませんか?
普遍性における「無」は、個別的な「自性」も、勿論含まれる。
>色が空であるだけではなく、法が空であることも間違いないと思いますが、
勿論、間違いではありません。
>【法即是空】⇒【空即是法】ですか?
そのとおりです。
>(このような経典は皆無ですが)
あったとしても、まったく無意味ですね。
法と空はイコールなんですから。
空と色はイコールであっても、無差別相と差別相という相の違いがあります。
(これが肝心)
色即是空については
>>690を参考にして下さい。
色即是空・空即是色に法のエッセンスが込められております。
また、外道においては全てこのエッセンスにおいて破折できます。
592 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 10:04:38 ID:Sm1y+1uN
>>554 >【法即是空】⇒【空即是法】ですか?
>(このような経典は皆無ですが)
般若心経だと思うよ。
色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相
色受想行識の五蘊が一切法だから、大乗では諸法無我を拡張して
一切法空という。
>>583 > >ゴータマの真意に沿った教説ではないかと思います。
> 「アートマンはない」などとは言ってないのに、そういうことにされてても?
「我執すべき対象は無い」と読み替えているのですから、問題ありません。
方便とはその実践性において量られるものです。
アートマンがある、という側面からの方便としては、念仏などがありますから、
アートマンがあると思う人は、浄土真宗等に帰依なさればよろしいかと。
594 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 10:59:05 ID:bvZU8CBU
>>578 >この生存本能というのは、他を排除してでも生き抜くという殺伐とした本能であり、
>殺すか殺されるか、という自然界の食物連鎖の中で生きるためのものでした。
>しかし、この意識というものは、すでに食物連鎖から外れた人類にとり、
>社会生活を営んで暮らす上では実際、弊害として作用する部分がでてくるのです。
>元々からして、利己的で攻撃的な意識だからです。
>仏教(正しい宗教は基本的にすべてそうです)というのは、この“意識の純化”
>を教えるものです。
人間は、動物の一種であり、「生存本能(生物的生命)」は、人間を含むすべての
生物に共通する「唯一の普遍の事実」です。
人間は、食物連鎖から外れるどころか、最も多くの動物を殺しているのは人間
です。
しかし、人間は、そして恐らくはすべての他の動物は、独りでは生存できないことを、
これも本能的に知っているから、この生存本能から共同体形成維持の本能、自他の
死への恐れ、他者への思いやりという、自然の感情が生じます。人類の文明・文化
のこれほどのの発展も、すべてこの生存本能に基づくものです。人生とは、
いわば、生存本能の応用問題です。
そして、生物的生命は、現実界(具象界)を離れては、一瞬も維持することは
できません。
「宗教は意識の純化」などと言われるが、意味不明です。生存本能を抹殺すると
いうことですか。史上そして現在も、最も多くの人を殺してきたのは宗教です。
宗教を含め、人間のすべての営みの根源は、生物的生命です。人間の精神(感情と
理性、魂)は、専らこの生物的生命を維持するために備わった「手段」です。
精神を生物的生命に優先する宗教は、甚だしい本末転倒・倒錯に陥っていると
言わざるを得ません。
どなたかが、生命を宗教で考慮することはカテゴリーミスと言われたが、宗教
こそ、本来的には動物である人類にとってのカテゴリーミスと言えるでしょう。
>>579 > 「現象界」と「現象界ではない世界(涅槃)」の二つがあるのです。
> つまり我々の観点、あくまでも現象界に生きる我々の視点からは二つの両極の二元がある。
> SM大王のような-どっちでもない〜中道だべぇ〜なんていう話ではありません。
> また、そんなのは気の持ち方に過ぎない〜なんてことでもありません。
この話と
>>583 > 別の場所、別世界とは言葉の便宜上のものに過ぎません。
> 変化するものは自己意識です。それが変化のすべて!
この話は完全に矛盾しているようにしか見えませんが。
596 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:01:47 ID:YYLdPhVU
597 :
一在家:2009/08/31(月) 11:03:40 ID:dOkUO8XJ
>>571 >しかし、この世界では真理ではない。何故か?
>それは、其々を成立させている諸要素の多さに起因するというのがひとつの
>説明として提示されている。仏教的にいえば其々を仮設している縁起の数が
>多すぎるということか。
貴兄が素粒子や物理に大変詳しいことを確認しましたので、ご存じでしたら
ご教示いただきたく。
我々の可視光線の範囲、波長の範囲は制約のあることが小中学生でも自明ですが、
生物の中で見えない生物が存在する可能性はございますか?
以前、海水浴上でクラゲに遭遇した時、水中では彼らが見えなかった体験が
ございます。
598 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:14:09 ID:bvZU8CBU
>>596 すべての根源が生命であることをすっかり忘却して、精神が肉体に優先する
という本末転倒と錯誤に陥っている宗教者のすべての議論こそ、中学生以下
だよ。
宗教以外の人間の営みと努力は、すべて、究極的には生命(肉体)の
維持に向けられている。例外は宗教だけ。宗教は、本来的に生存本能
を基盤とする動物としての人間の生命プログラムに生じたバグ、悪性の
がん細胞と言うべきであろう。
>>598 > 宗教以外の人間の営みと努力は、すべて、究極的には生命(肉体)の
> 維持に向けられている。例外は宗教だけ。
この命題は間違いだね。だって自殺とかあるしね。
どこが生命の維持に向けられているんだとwwwww
いやー、思いこみ妄想が激しいね。相変わらず。
あんまり人のこと言ってる場合じゃないと思うけどなー。
600 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:19:19 ID:wjm4w31O
>>597 素粒子レベルで存在の形態を変換する話とかは、
ムーとかそういう系の本に詳しかったような気がしますよ。
「幻の不可視生物を追え!!見えない生物は、なんと10次元と11次元の狭間にいた!」
みたいな記事で。
602 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:28:47 ID:bvZU8CBU
>>597 >我々の可視光線の範囲、波長の範囲は制約のあることが小中学生でも
>自明ですが、生物の中で見えない生物が存在する可能性はございますか?
横レスだが、小中学生以下の恥ずかしい質問をするなよ。
すべての動物の種属は、それぞれの種属の生存に必要な感覚能力、認識能力
だけを与えられている。(必要な場合には観測装置を使っても)人間に知覚・
認識できない対象は、人間にとっては「非実在」「空想」と呼ぶ。
若し、ゴキブリに神が知覚・認識できれば、ゴキブリにとっては神は実
在する。しかし、人間にとっては非実在・空想である。
他の動物にとっては、人間には知覚・認識できない生物がイーッパイ
知覚・認識できているかも知れない。しかし、人間にとっては、それらの
生物は存在せず、無関係である。
603 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:31:22 ID:YYLdPhVU
>>600 誤淫嘘は、名無しなんでIDが変わるごとに認定した方が、
容易にスル〜できていいかと。
604 :
一在家:2009/08/31(月) 11:33:20 ID:dOkUO8XJ
>>602 >他の動物にとっては、人間には知覚・認識できない生物がイーッパイ
知覚・認識できているかも知れない。しかし、人間にとっては、それらの
生物は存在せず、無関係である。
回答してますね。
605 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:33:23 ID:rr42FOrq
>>597 >貴兄が素粒子や物理に大変詳しいことを確認しましたので
いえ、通りいっぺんの知識にすぎません。その上で、
>我々の可視光線の範囲、波長の範囲は制約のあることが小中学生でも自明ですが、
生物の中で見えない生物が存在する可能性はございますか?
これに対する私見を述べますと「勿論、ありえます。というより、宇宙全体を視野
に入れれば存在しないほうが、むしろ不思議に思えます。」
これはSFですが、光子の状態変化(電子と陽電子への変換)を0と1に
対応させ、それを基準とした思考システムを有する「光子生命体」なども
理論上は可能なのでは?と考えます。
ただし、間違ってはいけないのは、これらの生命体は「現時点において
その存在が確認されていないし、また、その存在を示唆する有意な仮説
も提示されていません。そのような場合は、「そのようなものは存在し
ない」と認識するのが適切な判断であると考えます。あくまでも現時点
において、それらは存在可能性はありますが「空想上の産物」です。
606 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:36:18 ID:bvZU8CBU
>>599 >この命題は間違いだね。だって自殺とかあるしね。
自殺希望者でも、他人から殺されようとすると必死で抵抗するはずだ。
さもなければ、生存本能が障害された「病気」であり、治療の対象と
なる。
どんな小さな虫でも、捕らえようとすると必死で逃げる。例外は「皆無」
である。
自称お釈迦様が輪廻転生された幸福の科学総裁
大川隆法さんが信者からの召し上げた金の一部、
選挙供託金11億8200万円没収!!! されます。
ご本人も当然落選!
なんとお釈迦様が当世では落選されました。
釈迦さまも選挙に落ちれば、ただの人。 情けナ。
カルトは無用!!!
608 :
一在家:2009/08/31(月) 11:41:29 ID:dOkUO8XJ
>>605 >これはSFですが、光子の状態変化(電子と陽電子への変換)を0と1に
>対応させ、それを基準とした思考システムを有する「光子生命体」なども
>理論上は可能なのでは?と考えます。
>
>ただし、間違ってはいけないのは、これらの生命体は「現時点において
>その存在が確認されていないし、また、その存在を示唆する有意な仮説
>も提示されていません。そのような場合は、「そのようなものは存在し
>ない」と認識するのが適切な判断であると考えます。あくまでも現時点
>において、それらは存在可能性はありますが「空想上の産物」です。
早速のご回答を有難うございます。
10年以上前から、「光子コンピュータ」を研究、開発している科学者達が
おられますので、SFから現実になる日も近いかと存じます。
もし、神や如来やアートマンが存在すれば、電子情報系や遺伝子情報系では
矛盾が多く説明がつきませんから、貴兄の理論上可能な「光子生命体」は
とても参考になりました。
609 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:43:28 ID:rr42FOrq
補足いたしますと、SFの話以外は
>>605で述べた意見は
ごく一般的な自然科学における見解だと思います。
カルトのお召し上げグッズ
出版物以外に
【幸福の科学グッズ】
御本尊(教祖の写真)100万円
植福菩薩称号1000万円
霊言集2万円など50冊セット(全冊100万円)
法話ビデオ2万円50巻セット(全巻100万円)
正心宝30万円
ROペンダント30万円
神理の言葉・正心法語の額 10万円
エンブレム(吉祥印)2こで30万円か、ふたつで60万円
三種の神器7万円
悪霊調伏祈願1部屋分4万円。
悪霊追放の透明アクリルの多角錐の置物2万円
アクリルの数珠、1万5千円
特別灌頂10万円(過去の一切の罪が消える)
最終兵器100万円(経営診断)
霊人公案?万円(9次元霊はもちろん、霊体の大川隆法総裁が直接出てきてアドバイスする)
大エル・カンターレ像の植福、100万円
生前供養100万円
ほんと、商売として美味しすぎる。
既存葬式仏教ももっとガンバリましょうw
611 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 11:48:24 ID:bvZU8CBU
>>607 大川総裁は、「神などどこにも存在しない」ことを身をもって証明して
くれた最大の功労者である。
>>606 > 自殺希望者でも、他人から殺されようとすると必死で抵抗するはずだ。
> さもなければ、生存本能が障害された「病気」であり、治療の対象と
> なる。
生存本能が障害されているのは別、ということであるなら
「宗教以外の人間の営みと努力は、すべて、究極的には生命(肉体)の
維持に向けられている。」とはいえない。
「生存本能が障害されていない場合においては、宗教以外の人間の営みと努力は、
すべて、究極的には生命(肉体)の維持に向けられている」と言わなくてはならない。
だが、この命題のうち、究極的には〜という部分は「生存本能」の説明でしかない。
要するに、「生存本能が障害されていない場合は、生存本能が発揮される」ということを
言ってるだけで、「まったくの無内容、無価値」な話である。
613 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 12:02:11 ID:rr42FOrq
>>603 しかし、あなたは本当にご隠居と呼ばれるひとが嫌いなんですね(笑)
それはさておき、あなたが業報思想において基体を認めず、(業という)
現象の連鎖(仏教的表現では縁起か?)とのスタンスであるなら、
これ以上の議論の進展はスレ違いになる可能性が大なので打ち切ることに
しましょうか?私としては、この現象の連鎖(旧7さんの言うように果へ
至る道が絶対的必然性を伴うもの) これを「同一性」の代わりと
見做せるか? について、掘り下げていくことにも興味を覚えますが。
まあ、旧7さんがどのように言うかまちましょうか。
また、スレに沿った違ったお題を振ってくれるかもしれませんし。
614 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/31(月) 12:59:59 ID:ojkf2C/R
>>606 >自殺希望者でも、他人から殺されようとすると必死で抵抗するはずだ。
これは自己防衛本能というもんで、死の選択くらいは自分の意思においてやる。って心理。
いわゆる人間のプライドだよ。
人間が自己生命を大切に考えてるのは、いわゆる対価の問題。
対価として、命より上位に占めるものがあれば、人間はいつでも命を投げる。
こういう人間はいくらでもいるし、
また、誰でもそうなる可能性はある。
別に病気ではない。
生に執着することが生ではない。
その執着から解脱することにおいて、本来の生に目覚めるもんだ。
これを「父母未生以前の本来の面目」ってやつだよ。
これは高度な精神状態で、なかなか凡夫には理解しがたいが、
個別的な生とは違う、普遍なる生のことだよ。
(ブラフマンではない)
涅槃寂静。
まさにこれ寂静なり。
615 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 13:25:20 ID:YYLdPhVU
>>613 嫌いです。あんな幼稚な知識で釈尊を適当に解釈して人に高見から押しつける尊大さに我慢なりません。しかも、卑怯だし。
どちらでもいいと思います。
この話題は仏教と素粒子論について正確な知識で確認しあうことは
譬喩としてとても有効だと思います。
安易に現代物理学によって仏教の正当性が論証されたというような説はとても怪しいですw
譬喩としてならアートマンが仏教で必要とされない理由・論理に
とても有効だと思いますので、ここで話すのもとてもいいと思います。
それと、是非、『掌の中の無限』を読んでみてください。
対論者は、宇宙物理学の権威者で非常に有益な対話だと思います。
マチウさんは仏教にも科学にもプロフェッショナルに通じてます。
『シャプカル伝』というチベット仏教研究の金字塔を著したり、
とても美しい写真集を出す一方で、ダライラマ猊下の仏語通訳、
ハーヴァードでの実験に参加する一方で、篭もって数年間行されたりした方です。
616 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/31(月) 14:03:29 ID:ro/0LroL
>>587 >生命は善悪無記すなわち善でもなければ悪でもなく
>善悪に対して中立であり煩悩とは無関係と考えるのが仏教だろう。
生命(及び生命活動)そのものは善でも悪でもありません。
しかし、食物連鎖を脱して進化した人類には“善悪として認識される《部分》となる”のです。
まっ、お好きにして下さいよ。
>>588 『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り
越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。』(Sn.1119)
違います!
これは五蘊であるところの自己のことであり、
アートマンではないものをアートマンと見なすことなかれ!ということです。
人々はそれを自己そのものであると固執しているからです。その誤った見解を打ち破れです。
>>594 >「宗教は意識の純化」などと言われるが、意味不明です。
>生存本能を抹殺するということですか。
煩悩の消散とは生存本能の抹殺ではないです。
“純化”ですよ。低級意識だけを無くすということです。
過去ログから私の投稿した大脳生理学に基く説明を再読して下さい(どこだっけ?)。
>>595 l理解できないのは私のせいではありませんね。
意識が現象界を超越して定まる焦点が変わるのです。
どっちでもない〜中道だべぇ-ではありません。
>>616 >
>>595 > l理解できないのは私のせいではありませんね。
> 意識が現象界を超越して定まる焦点が変わるのです。
> どっちでもない〜中道だべぇ-ではありません。
>>579では、気の持ち方ではないと断定。
>>583いでは、自己意識の変化が全て、つまり気の持ち方が全てであると断定。
矛盾してるのに気づかないのもどうかと思いますがw
しかも指摘まで受けてるのにな〜
618 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 14:18:03 ID:YYLdPhVU
>>616 >これは五蘊であるところの自己のことであり、
>アートマンではないものをアートマンと見なすことなかれ!ということです。
>人々はそれを自己そのものであると固執しているからです。その誤った見解を打ち破れです。
それは無理でしょう。原文と小ニッデーサからはそうは読めないと思う。
もはやこれまででしょう。
釈尊はアートマンを説かなかったと論証されたするしかないでしょう。
輪廻を認めない学者が一部いるようにアートマンを説いたとする学者が一部いるだけで、
伝統説もテキストも全てアートマンを説かないことしか指して無かった。
もう、いいかげん認めたらどうですか?
619 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 14:43:28 ID:bvZU8CBU
>>614 >対価として、命より上位に占めるものがあれば、人間はいつでも命を
>投げる。
その「命より上位の価値」も、生命の機能としての観念作用の産物です
から、やはり本末転倒・倒錯でしょう。
>命より上位に占めるものがあれば、人間はいつでも命を投げる。
これって熱烈な恋愛中の病的状態のときに陥る人が結構いるよね。
夢から覚めたら「なんであんなもんのために?」ってなる。
一種の催眠状態みたいなもんだろ。
621 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/31(月) 15:40:59 ID:ojkf2C/R
>>619 貴殿は視野狭窄です。
暴漢に襲われたとき、人間は決まったセリフを吐くのです。
「どうか、私の命はどうなってもかまいません。この子の命だけは助けてくらさい」。と
これは最も命を大切にするから言えるんです。
まあ、貴殿でしたら、
「私の命はカンベンしてください。そのかわり、この子を・・・(略」。
貴殿は、前者が本末転倒・倒錯である。と思ってるらしい。
で、後者が正常だと?
これで正邪をつけるつもりはないけど、
人間、本来備わってるものを「仏性」とかいう。
そのことに気づいていくのが仏の道なのだ。
貴殿は、自分のことしか考えてないから、
考えが偏る。
622 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 15:53:49 ID:bvZU8CBU
>>521 「生存本能(生命)から、自他の死への恐れ、他者への思いやりという、自然
の感情が派生する」と言っている。子供は、最も近い他者、自己の生命の承継
者、自己の生命と一体である。
「仏性」は、生命から発する。生命以外のどこからも発生しない。また、釈迦
から教えられて発生するものではない。
623 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 15:57:24 ID:Sm1y+1uN
>>618 >これは五蘊であるところの自己のことであり、
そうですね。
仏教では自己は五蘊でありそのいずれも、またその全体も我(アートマン)
では無い、と説くのですね。
それが「諸法無我」という仏教の法印のひとつですね。
それ以外に仏教で我(アートマン)を説くことは無いでしょう。
624 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/31(月) 16:03:19 ID:ojkf2C/R
>>620 恋愛もそうだけど、
イジメによる自殺もそうだね。
死が最後に残された逃げ場になってる。
人間は、この自由がある。
戦国時代は、世の大名に仏教が支持された。
それは、死の恐怖があっては合戦が出来ないからだ。
精神修養と武術は深い繋がりを有してくる。
「武士道とは死ぬこととみたり」。by葉隠れ
死の克服こそ最も重要とされた。
625 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 16:08:53 ID:YYLdPhVU
>>623 世間の言い習わし、習慣、仕来りとして世間の言葉使いに従って、
「我」「私」ということや「魂」「意識」ということはあります。
それらは「キーボード」「モニター」「文字」「2ch.」ということと変わりません。
仮にそういった同一性や本質、実体を認めて習慣通りの記号で、
その仮の本質・実体を指示することはあります。
こちらが、虚妄法、世俗法、「これあらばこれあり」の流転縁起です。
ですが、本来それはない。無我であり、無常であり、空である。
だからどこにも「我」「私」「魂」「意識」の本質や実体はない。
こちらが、不虚妄法、勝義法、「これなくばこれなし」の還滅縁起です。
今回の問題は、こちらの勝義の常住不変なアートマンですから、
もはや、議論も証拠も出尽くしたし、論証終了でいいでしょう。
626 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/31(月) 16:25:25 ID:ojkf2C/R
>>622 >「仏性」は、生命から発する。生命以外のどこからも発生しない。
仏教でいう仏性というのは、自然法爾や山川草木悉有仏性のことでして、
そこに生命という概念はない。
何故かと言いますと、
生命であるものと、生命でないものの、分別が不可能だからです。
明確に「生命である」と断言できるのは、唯心論しかない。
で、何故貴殿は仏教スレで唯心論を垂れ流しておるんですか?
627 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 16:26:33 ID:Sm1y+1uN
>>625 勝義と世俗という差別はアビダルマ論で作られた概念であり
釈迦仏法の誤解に基づくものだね。
中論は勝義・世俗の差別を否定している。
仏法に勝義・世俗などという概念の区別は無い。
釈迦の対機説法を正しく捉えていないだけだ。
628 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 17:11:10 ID:YYLdPhVU
>>627 確かに記号・言葉は部派時代に作られたものです。
そして有部の勝義というのは実在という意味なので、全く誤解と言っていいでしょう。
>中論は勝義・世俗の差別を否定している。
全く逆ですね。『中論』24.8~9
二諦に依って諸仏は法を説いた。その二諦とは世俗諦と勝義諦とである。
この二諦の区別を知らない人々は、仏教の深い真実を理解しない。
と中観といえば世俗諦と勝義諦の二諦説は仏教の常識ですよ。
>仏法に勝義・世俗などという概念の区別は無い。
そしてこの世俗諦と勝義諦が『スッタニパータ』の以下に対応する。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
これは二種の観法を扱ってきた章の結論であり。
二種の観法とは「これあらばこれあり」の流転縁起と
「これなくばこれなし」の還滅縁起に他ならず。
「虚妄なるもの」と訳されている虚妄法が流転縁起、つまり世俗、輪廻。
「虚妄ならざるもの」と訳されている不虚妄法が還滅縁起、つまり勝義、涅槃なんです。
これは記号・言葉は違っても意味が一致するので、他にありえません。
これは石飛先生の説ですが、全くその通りだと私は考えます。
629 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 17:34:37 ID:bvZU8CBU
>>626 >何故かと言いますと、
>生命であるものと、生命でないものの、分別が不可能だからです。
生命があるからこそ、仏典を読み、座禅を組み、2chに書き込むことが出来
ます。死ねば、一切不可能です。仏陀に生命がなければ、佛教も発生しません
でした。
机師の
>>621の「 これは最も命を大切にするから言えるんです」と矛盾します。
佛教に「唯心論」がダメなのなら、佛教で「精神」を語ることも許されません。
「仏性」
具体的には、衆生に本来備わる自性清浄心と説明されるが、平易に言えば、
凡夫・悪人といえども所有しているような仏心(慈悲心)と言ってよいであろう。
(岩波佛教辞典より)
630 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 17:52:02 ID:Sm1y+1uN
>>628 >二諦に依って諸仏は法を説いた。その二諦とは世俗諦と勝義諦とである。
>この二諦の区別を知らない人々は、仏教の深い真実を理解しない。
世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルバーナを体得することはできない。
究極の真理も言語で表現される法だろ。
631 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 17:54:43 ID:bvZU8CBU
>>628 勝義・世俗の区別は、人間がその観念で作り上げたもの。大自然には、
勝義・世俗の区別などありません。
「世俗的なことに基づかなくては、第一義は説示され得ない。しかも
第一義に到達せずしては、涅槃は証得されない。」(中論の頌24:10)。
結局、世俗的なことに基づかなければ、涅槃はない、ということになります。
632 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 18:37:35 ID:uHDeTYc7
今回の選挙は、関が原の戦いだったのか、光秀との山崎の戦いだったのか、
いずれにしても世の中が大きく変わることは確かである。
空とか夢とか幻とか、世俗諦とか勝義諦とか、なんてムナシク軽いのだろう。
台風や世の中の動きに、木の葉のように吹き飛ばされてしまう。
633 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 18:51:58 ID:uHDeTYc7
現実が見えない政党が滅びて行くように、
現実が見えない宗教も見捨てられ滅びて行くだろう。
この<現実>を離れたら宗教は成立しない。
<生命>を離れても宗教は成立しない。
<現実>や<生命>を語らない宗教はニセモノだと判断していい。
人間の一生は長いようで短い。
つまらない話にだまされ、寄り道をする余裕はない。
634 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 19:08:30 ID:uHDeTYc7
言葉には限界がある。言葉は平面的で現実は立体的である。
これがわからないから、人間は100年8万の書物を論じても飽きない。
しかしいくら論じ合っても答えは出てこない(~~)
必要な知識は生活の中に転がっている。
それなのに悟れないのは、知識を実行できないことである。
何かが邪魔している → それが煩悩
636 :
閻魔大王 :2009/08/31(月) 19:44:39 ID:E6x8xiBt
>>630 >究極の真理も言語で表現される法だろ。
仏教において、「究極」の語は相応しくない。
「真理」の語は相応しくない。
「表現」の語は相応しくない。
>>629 >死ねば、一切不可能です。仏陀に生命がなければ、佛教も発生しませんでした。
>>521を100回読み直して御託を述べよ。
結局、仏教のなんたるか、中道のなんたるかが、全く掴めずに
トンチンカンな論難をしてもナンセンス。
この点では、宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk と同類。
637 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 19:49:41 ID:uHDeTYc7
>>635 現実がマーヤーだと思う理由は何だろう。
それを論証してください。
638 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 19:56:15 ID:YYLdPhVU
>>630 > 究極の真理も言語で表現される法だろ。
そこまで無知をさらけだしてまだ何か言う貴方の慚愧はないのですか?
月を指す指は月でないように、勝義を指す言葉は世俗の言語習慣であって勝義そのものではない。
勝義は戯論という妄想が全て鎮まった境地だと書いてあるでしょう。
『中論』にも『スッタニパータ』にも、
まあ、貴方はあと三年ぐらい必死で読み込まないと対話すらできないレヴェルですよ。
つまんない、屁理屈はやめてね
>>613 (そろそろネタが尽きてきましたが・・・w)別のアプローチをしてみましょう。
「(過去)(私が為した)業があり、その果が(今)(私に)結ばれている」
「(今)(私が為した)業があり、その果が(未来に)(私に)結ばれる」
「(過去)(私が為した)業があり、その果が(未来に)(私に)結ばれる」
「(前世に)(私が為した)業があり、その果が(今生に)(私に)結ばれている」
「(今生に)(私が為した)業があり、その果が(来世に)(私に)結ばれる」
「(前世に)(私が為した)業があり、その果が(来世に)(私に)結ばれる」
上記から、(
>>390が言うように)「時系列」を(→恣意的・世俗的区分を)抜きます。
「(私が為した)業があり、その果が(私に)結ばれる」
更に、仮設されている「我、自己」を(→所縁によりその時のみに認められる主体を)抜きます。
「業があり、その果が結ばれる」。 これが勝義(に於ける業報)です。
順序はこちらの方がよいかもしれません。
上記から、仮設されている「我、自己」を(→所縁によりその時のみに認められる主体を)抜きます。
「(前世に)業があり、その果が(今生に)結ばれている」(他略)
更に、(
>>390が言うように)「時系列」を(→恣意的・世俗的区分を)抜きます。
「業があり、その果が結ばれる」 これが勝義(に於ける業報)です。
そこには、「時制(或いは三世)」もありません。「行為者」も「果報を受ける者」もいません。
諸法が縁起しているだけです。 だから、「無常」であり「無我」である、と。
時制がないから、始めもなく終わりもありません。
ですから、如来には(解脱者には)世俗的(自己・自我の)生も死ないので「不生」であり、「不死」です。
「時制に区切られた死」はなく、五蘊の滅に際し「般涅槃」と言われます。
上の形式で言えば、「縁により五蘊の仮和合があり、縁により五蘊の滅という果があるのみ」となります。
それが如来の般涅槃です。ですから後有がありません。
凡夫は、上で抜いて来たような「各( )」(特に「私」)があるために、輪廻し、後有を受け続けるのです。
640 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 20:00:29 ID:uHDeTYc7
妄想大王はもっとわかりやすく語りなさい。
何を言っているのか意味不明。
やはりウィトゲンシュタインのウンコ壺に行くか(~~)
641 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 20:10:07 ID:uHDeTYc7
旧7ぼうやは言葉の限界をわかっているのかな。
言葉で真理を知ろうとしても無理だよ。
642 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/31(月) 20:12:44 ID:ojkf2C/R
>>629 >佛教に「唯心論」がダメなのなら、佛教で「精神」を語ることも許されません。
ダメに決まっとるでしょうよ(笑
貴殿はね、水(仏教)に、油(唯心論)を混ぜて、
「どうよ、これでうまく混ざったでしょ?」。って言ってるようなもん。
水と油は混ざりようがない。
根本的に違うんだから。
このくらいのことは、哲学の初歩で充分理解できるはず。
>(岩波佛教辞典より)
仏教辞典なんて簡単に説明してあるだけ。
これをそのまんま定義するのは愚の骨頂。
643 :
閻魔大王 :2009/08/31(月) 20:22:39 ID:E6x8xiBt
>>640 うんこ猿に餌はやりたくはないが。
語りえぬコトには沈黙するか(ウィトゲンシュタイン)、
否定表現で肉迫する(般若心経)しかない。
だから、「相応しくない。」
>>629の立場は、結局既成概念による戯論前提でしかない。
うんこ猿は勝手にうんこを投げ返すな。
644 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 20:25:18 ID:YYLdPhVU
>>640 ちった自分の不勉強を恥じろ。
その知識、読解力じゃ対話する資格がないと自覚しろよw
645 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 20:27:30 ID:YYLdPhVU
>>639 アートマンは説かれなかったで論証終了だよね。
646 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 20:40:42 ID:uHDeTYc7
>>644 ID:YYLdPhVU
粘着君はコテつけろって何回言われたらわかるのかな。
名無しで何言っても虫の声にも及ばない。
647 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 20:45:13 ID:uHDeTYc7
>>643 君こそウンコ大王だろう。
悟りもしないのに悟ったふりはいい加減でやめよう。
バチがあたるよ(~~)
648 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 20:52:19 ID:uHDeTYc7
>>642 机先生は言いたい放題のようだけど何かあったのか。
増上慢にならないように注意しよう。
649 :
旧7:2009/08/31(月) 21:04:41 ID:ogMVSCOO
>>645 バッサリだな・・・w
宝珠の次の動きを待ってからでもいいんじゃないか?
どのような言辞が重ねられるにしろ、(→それを却下するにしろ、有力なものと認めるにしろ)、
素材として知っておいてもいいだろうし、興味もあるだろ?
また、重要な事柄は、きっちり反論されるべきだろ?
(だから貴方も、私の外道としての発言にも、丁寧にレスを返してきたのでしょう?w)
まあ、前シリーズで「輪廻」や「次の生」が、
仏典の記述上(及び教義の出発点(≒発心・動機・縁起の一側面)として)説かれていることの、
ちょうど鏡像のように、今シリーズでは、
「アートマン」「常住不変の我」「恒常的自我の基体」等は“記述上説かれていない”、
文脈上も、否定される形でのみ見出される、と言い得るのだろうが・・・。
※
>>555 てか、山口組のこと、ホンっっっトに嫌いなんだな・・・w
(以前、史朗ちゃんについて「ストイック」という言い方をして怒られたことがあるが、あの時も貴方だったんですね・・・w)
>世俗重視か勝義重視か >社会重視か法重視か >バランスが悪い
ですね・・・。 怠惰なB型の私には仏教は向いてないと思う日々ですわw
もし、次スレが建つようなことがあれば、このダブルスタンダードの重要性に関して、
片山論文から一部引用してみましょう・・。 (自分の胸に杭を打つような、耳の痛い文章ですが・・・w)
ついでに・・↓を投下して おやすみ ノシ
650 :
旧7:2009/08/31(月) 21:05:33 ID:ogMVSCOO
>>588>>616 Sn.1119:
suJJato lokaM avekkhassu, mogharAja sadA sato;
suJJaのabl. →「空であるものとして」「空なるものとして」「空として」 ・・・他略。
attAnudiTThiM Uhacca, evaM maccutaro siyA;
atta-anu-diTThiM
→「我(≒自己)に随う・沿う見解・・・妄執・我執」、「我(≒自己)についての・関しての見解・・・我見」 ・・・他略。
*上記 attan は、「アートマン」か「自我意識」か?「日常的分別の為の呼称」か?「実存的自己」か?
**おそらく伝統的には
『私・俺という想い、私のモノ・俺のモノという想い、私がいる・ある、俺がいる・あるという想い』
そのような見解、と読むべきなんだろうな。
***PTS辞書は anudiTThi の項で[ attAnudiTThi (q. v.) a soul-speculation. ] だとさw
であるならば「アートマンに関する見解」ということになるが・・。
evaM lokaM avekkhantaM, maccurAjA na passati iti. ・・・略。
結局、この偈だけでなく、仏典中の全ての用例に於いて、
「 attan 」を「アートマン」と解すか、「行動・思考の主体としての自己」(≒五蘊仮和合の自己)と解すか、
「実存的自己」と解すか、はたまた「真我、“真実の、煩悩に埋もれ・覆われた、本来の在り様・存在”としての自己」と・・・、
或いはまた、「肯定的に述べられている」のか「否定的に述べられている」のか、と、
文脈、前後関係等により、都度都度吟味せざるを得ないんでしょうね・・・。
そして、《「アートマン」或いは「真我」》(を、或いはそのようなものがある、と説いている)と比定できる記述があるかどうか、
なんでしょうね。
で、それ以降・それ以上の確認は、
《行じることによる、各自の、個人個人の体験・確認》(→先人或いは師の体験の追体験)
しかないんでしょうね・・・。
※いずれにしろ、1119偈のみ見るならば、否定的に述べられているわけだが・・・。
651 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 21:07:52 ID:bvZU8CBU
>>642 今まで唯物論者と言われ続けてきて、唯心論と言われたのは初めて。
これで宝珠愚者氏ともお友達w。
佛教が、唯心論でないなら、唯物論ですか?唯識は?竜樹は?
私は、佛教は飛び切りの唯物論と見ている。
652 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 21:18:45 ID:YYLdPhVU
>>649 >素材として知っておいてもいいだろうし、興味もあるだろ?
興味ないです。
>(だから貴方も、私の外道としての発言にも、丁寧にレスを返してきたのでしょう?w)
あれとか、素粒子論さんは重要だと思ったから真面目にレスしたんです。
> てか、山口組のこと、ホンっっっトに嫌いなんだな・・・w
山口・松本は仏教学界の汚物だと思ってる。
653 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 21:21:30 ID:uHDeTYc7
>>651 仏教は唯物論で正解。唯物論を粉飾するために空がある。
654 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 21:26:56 ID:YYLdPhVU
>>650 ども、
>「 attan 」を「アートマン」と解すか、「行動・思考の主体としての自己」(≒五蘊仮和合の自己)と解すか、
>「実存的自己」と解すか、はたまた「真我、“真実の、煩悩に埋もれ・覆われた、本来の在り様・存在”としての自己」と・・・、
>或いはまた、「肯定的に述べられている」のか「否定的に述べられている」のか、と、
>文脈、前後関係等により、都度都度吟味せざるを得ないんでしょうね・・・。
アートマンでも自己でも同じこと。そこが釈尊の凄いとこ。
言語習慣として仮設の自己はありだけど、
実体・実在として自己があるとしたら、それは恒常なアートマンと同じこと。
だから、アッタンに自我意識の本質・実体概念と恒常な実体としての
アートマンの両方の意味を含めて説かれていると思われる。
釈尊の説き方は、このようにあらゆるところで重層的で、
各人の意識状態に応じて、それぞれ有意味になるように説かれている。
その最たるものが縁起だと思う。
655 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 21:29:47 ID:bvZU8CBU
>>653 空は、粉飾どころか、現実界の構成原理そのもの。竜樹は、甘ったれた
夢想者ではない。
656 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 21:34:03 ID:bvZU8CBU
>>654 釈尊自身は、どの「自己」で説いたのかね。
657 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 21:51:16 ID:YYLdPhVU
>>656 読解力ないな、言語習慣のアッタン以外に言葉を用いないのが釈尊の伝統だと分かんないのかw
あきれてものが言えん、日本語の短文もよめんとは、
なんでそんなにバカなのに、そんなに尊大な物言いなんだw
658 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 22:03:45 ID:uHDeTYc7
>>655 現実をストレートに見れば何の問題もないのに、
空を経由して現実を見ようとするから、その分だけ頭が混乱し、
自分でもよく分からない議論に熱中する。
空という、その余計な思考・議論が、現実を忘れた甘えである。
>>658 現実をストレートに見るだけで、どうやって煩悩を克服するか言ってみろよ。
660 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/31(月) 22:12:02 ID:ro/0LroL
>>649-650 >宝珠の次の動きを待ってからでもいいんじゃないか?
>どのような言辞が重ねられるにしろ、(→それを却下するにしろ、有力なものと認めるにしろ)、
>素材として知っておいてもいいだろうし、興味もあるだろ?
>また、重要な事柄は、きっちり反論されるべきだろ?
>(だから貴方も、私の外道としての発言にも、丁寧にレスを返してきたのでしょう?w)
ありがとうございます。
私から提示する資料内容に対して、しっかり反論ができるのかどうか?
私もそれを拝見したいところです。
納得できれば私も何もいいません・・。
少なくとも、他の多くの人々を納得できる反論が説けるならば。
>上記 attan は、「アートマン」か「自我意識」か?「日常的分別の為の呼称」か?「実存的自己」か?
恐らく、基本的には区別なくアートマン(アッタン)という同じ言葉で説かれているのでしょう。
つまり、その自己とは何か?という一つなるアプローチの中で、
日常の自己も形状学的アートマンもすべて一緒に論じてるのです。
であるから、私は文脈から同じアートマンという語でも、
どちらを意味して述べているのかを読み解かないとならないと主張したのです。
その中に、二重の言い回しで表現している理由があると。
すなわち、「日常の自己」「バラモンの形而上学的アートマン」、
そしてゴータマの説く「求めるべき真実の自己」(の姿)とは何か?
という使い分けです。
すみません。
資料の打ち込みはもう少し掛かります。
それは学術論文ではないです。一般書です。
661 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 22:18:59 ID:uHDeTYc7
空が唯物論になるのは、空が無内容だからである。
空は無我を意味し、空も無我も実質的に唯物論ということになる。
仏教は空を説く、無我を説くと主張する人たちは、
仏教を唯物論にしてしまう愚か者である。
かれらは自分でも気づかぬうちに釈迦を貶めている。
煩悩を滅する気もない外道は仏教について語るな。
サカリのついた雄犬は、余計な思考、議論が無いが、
雌犬を見れば、みさかいなく、交尾を始めようとする。
仏典がなぜ非という否定を用いるのか理解できないものは、畜生界が相応しい。
663 :
析空:2009/08/31(月) 22:37:29 ID:y4QoyZMo
>>591 机先生。
ご回答有り難うございました。
残念ながら、空即是色も空即是法も、理解出来ません。
法は空ですが、法と空はイコールではないと思います。
>>592 情報提供ありがとうございます。
一切法空については、問題ないのですが、空即是色とという表現は、
間違いではないかと思っています。
(氷は水だが、水は氷ではない)
般若心経に法即是空とはまでは説かれていないと思います。
664 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 22:40:58 ID:uHDeTYc7
>>662 君の話し方から、君が煩悩まみれであることがよくわかる。
>>634 に書いた内容を再掲するから参考にしなさい。
言葉には限界がある。言葉は平面的で現実は立体的である。
これがわからないから、人間は100年8万の書物を論じても飽きない。
しかしいくら論じ合っても答えは出てこない(~~)
必要な知識は生活の中に転がっている。
それなのに悟れないのは、知識を実行できないからである。
何かが邪魔している → それが煩悩
665 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 22:44:05 ID:tp2CbPG2
>>390の趣旨は、一期の生存を超えた、輪廻転生における統一問題であろうが、
一期の生存内の過去・現在・未来の経験の統一問題であろうが、
統一問題が起っていることに違いは無いという意味。
したがって、輪廻転生と一期の生存は無区別といったことは意図してません。
>>664 ドアホウ。
なんで、本の中になぞ求める。
法を己の心に求め、常に気を付けておるより他はない。
お前が本の知識という、己の縁起によらぬ偽者にすがりつく限り
仏法など毛筋ほども理解できぬわ。
667 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 22:49:11 ID:tp2CbPG2
>>665補足
私の意図とは異なるとはいえ、
>>639はそれとして考え、否定するものではありません。
>>664 言葉が平面的とはどういうことだ?
まさか、書かれている文字が二次元とかいいださないだろうな?
言葉は声にしてもあらわす事ができる。
まさか、この三次元的な空気の振動を二次元とか言い出さないだろうな?
669 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/31(月) 23:04:49 ID:ro/0LroL
>>663 >空即是色とという表現は、
>間違いではないかと思っています。
>(氷は水だが、水は氷ではない)
「空」とは現象界の性質についての表現(説明)の一つです。
従って、「空」は現象界のことに限定されるので、「=」で結んでも問題ないのです。
要するに、このスレに巣食う住人の多くのように「ニルヴァーナも空」、
及び「如来も空」などと解するからオカシクなるのです。
「空」は現象界限定です。
そして、仏教で説く法とは基本的にすべて現象界の性質についての説明です。
それをここの住人たちは理解しない。
670 :
閻魔大王 :2009/08/31(月) 23:05:51 ID:E6x8xiBt
>>660 神智学的御都合主義によるウンチングペーパーなぞ、
飯場の公衆便所かオナニーブログでかけよ。
どうせ不都合な批判は無視するか、矛盾レトリックで誤魔化すことしかやっていない。
別スレで書いたが、ごみため飯場でエロ雑誌をみて「抜く」というセツない空虚さを共有できない奴とは
語るに値しないと思ふ。
>>663 析空さん江
>理解出来ません。
>法は空ですが、法と空はイコールではないと思います。
「理解」ってあんた、理解なんかできるわけないじゃんw
アフォですか?
心の作用が体に及ぼすことをしらぬ外道は、
なぜ、仏教徒が心だけを問題にするのか理解できぬ。
672 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/08/31(月) 23:20:12 ID:uHDeTYc7
>>671 君は考え違いも甚だしい。
言葉とは黒白の平面的な二次元である。
現実は立体的な三次元であり、時間を考慮すれば四次元になる。
言葉で現実を語りつくせるものではない。
心と体の関係は、2対3の力関係があり、心は基本的に体に負ける。
君はこの力関係によって決して悟ることはない。
>559
> 論じたいのでしたら、水野先生の論文を入手されたし。
>>557の
> 「そこには有情の死後の存在の有無が問題とされているのである。
> このように無記説の他の項目で既に一般有情の死後の存在の有無が問題とされているのに、
> 更にtathAgata(一般有情)の死後の存在の有無が論ぜられることは、全くの重複となって無意味である。」
は、水野弘元「tathagata(如来)の意義用法」からの引用なのですが。。。ご確認を。
675 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 23:34:58 ID:rr42FOrq
>>639 すんません。
>>613ですが、残念ながら私には理解できませんでした。
特に「時系列(時勢)」を抜いてしまうと
>だから、「無常」であり「無我」である、と。
この「無常」の概念がわかりません。無常とは「常に変化する」
ということですが、時間の概念を抜いてしまうところに「変化」が
あるとは思えないのです。また、
>上の形式で言えば、「縁により五蘊の仮和合があり、縁により五蘊の滅という果があるのみ」となります。
それが如来の般涅槃です
五蘊の仮和合→五蘊の滅 も時系列上の変移が前提としてあるように
感じてしまいます。
676 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/01(火) 00:04:59 ID:yuncwB46
>>670 >神智学的御都合主義によるウンチングペーパーなぞ、
純粋に仏教学の解説です。
神智学の文字一つ出ませんYO。
>ごみため飯場でエロ雑誌をみて「抜く」というセツない空虚さを共有できない奴とは
>語るに値しないと思ふ。
まず言葉遣いと表現が汚い!!
仏典(仏教文学)のように美しくね。
大王よ、分りましたか?
677 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 01:43:48 ID:GTH78RgD
>>657 >読解力ないな、言語習慣のアッタン以外に言葉を用いないのが釈尊の伝統だ
>と分かんないのかw
その「言語習慣のアッタン」を、旧7氏が種々に分類しているから、その分類
されたアッタンのうちのどれで、釈迦自身は説いたのかを知ることが、その
意味の確定のための早道である。釈迦は、己の行為以外の意味を、アッタンに
付することは出来ない。
678 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 01:56:27 ID:GTH78RgD
>>671 >心の作用が体に及ぼすことをしらぬ外道は、
>なぜ、仏教徒が心だけを問題にするのか理解できぬ。
心が体に及ぼす影響よりも、体が心に及ぼす影響のほうが、はるかに
大きい。心が原因で生じる、または心が影響を与える身体の病気、
即ち、「心身症」の種類は、極めて限られている。そもそも、心自体
が、身体から発生する。
重度の器質的な病気に対しては、心では如何ともし難い。いくら死にたく
ないと思っても、願っても、身体の治療をしなければ、必ず死ぬ。
日本テーラワーダ仏教協会
http://www.j-theravada.net/ 協会からのお知らせ(2009年8月29日)
皆様からお問い合わせを頂いている件につき、取り急ぎお知らせいたします。
日本テーラワーダ仏教協会は、念佛宗三寶山無量壽寺なる団体とは一切関係ありません。
同じく「スリランカの至宝 釈尊の真身御舎利特別御開帳」なるイベントにも一切関係しておりません。
>>678 心と体を2つに分けて、どこの仏教を語ろうというのだ?
外道。
>>678 仏教で病気の治療をしようというのかね?驚いた外道だな。
それは、医者がやることで、仏教による医術は釈尊により禁止されている。
体になんらしかの手を加えて、心をコントロールし、悟りを得ようとすれば、
必ず失敗する。何百万年かかってもできないことが理解できない馬鹿は、
一生これを行い、体も心も損なってしまう。
682 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/01(火) 07:15:11 ID:otWiXpg7
>>663 析空氏
>残念ながら、空即是色も空即是法も、理解出来ません。
このスレで「台風は動いているか?動いていないか?」の論題のとき、
拙者は空について一生懸命説明したよ。
2ちゃんで、こんなに熱心にレスポンすることはあまりない。
「台風は動いている」ってのは間違いじゃない。
世俗諦としては正解です。
だけど世俗諦だけで論議しても、それはあんまり意味はない。
(旧7氏のスタンスは、世俗諦オンリーらしい)
色は世俗諦です。→台風は動いている
空は勝義諦です。→台風は動いていない。
これを色即是空に当て嵌めてみますと
「台風は動いているも、すなわち、台風は動いない」。ってことになる。
これを空即是色に還滅すると
「台風は動いていないが、それでは世間では基地外扱いにされるから、
動いている。ということでいいよ」。
ってことですよ。
つまり、世俗と勝義の二相において、
森羅万象のあらゆるものの本質を見通すことができる。
これを般若波羅密、智慧の完成となる。
まったくここに一寸の迷いもない。
683 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 07:27:34 ID:e2lhepQU
>>674 これは失礼しました。しかし、読んでいればその前段のような疑問は解決すると思ったので。
その引用49頁に続いてこう結論づけています。
tathagata をば「輪廻を超越した完全者」と見ることは、
この語の当時の一般的用法にも合致するし、
また無記説の配列から見ても、問題点からしても、
最も妥当と思われる。
要するに釈尊は如来を解脱者の意味で用いたが、
十/十四無記は外道の質問であるため、
後世、おそらく外道から、十/十四無記の如来を解脱者と認めるなら、
外道でも解脱できることになるという帰謬による論難があったから、
外道でいう如来は解脱者ではなく、ただの「有情」であるという意味で
如来を「有情」とする無理な注釈が成立したものと推測します。
水野先生の論理もほぼ上に添った内容ですが、慎重に断定はされておられません。
もちろん、学者の正しい態度です。
684 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 07:28:30 ID:e2lhepQU
685 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/01(火) 07:39:12 ID:otWiXpg7
>>651 >今まで唯物論者と言われ続けてきて、唯心論と言われたのは初めて。
唯物論も唯心論も、極論だから同じ。
>今まで唯物論者と言われ続けてきて、唯心論と言われたのは初めて。
唯物論とか唯心論とかは、もう既に語りつくされて、
今現在では“カビの生えた哲学です”
今さら語ちる者はいないだろう?
哲学ってのは、本来、歴史に埋もれていくもんだよ。
流行歌のように・・・・
>佛教が、唯心論でないなら、唯物論ですか?唯識は?竜樹は?
仏教は、唯心論でもなく唯物論でもない。
印哲は西洋とは全く違う。
>私は、佛教は飛び切りの唯物論と見ている。
初歩の哲学から学んだ方がいい。
唯物論ていうのは、一番簡単な哲学。
中学生でも数時間、本を読むだけで理解できる。
析空氏
色即是空については
>>590を参照してくらさい。
686 :
閻魔大王 :2009/09/01(火) 08:42:52 ID:LBV4qKvO
>>676 >まず言葉遣いと表現が汚い!!
>仏典(仏教文学)のように美しくね。
やっぱり予想通りの実験反応だな。
知性ではなく、情緒を刺激するシーンに対する反応でその人間の(仏教的)本音が判る。
宝珠愚者は足を洗った鍋で食事をつくる良寛を「汚い!」と非難するだろうし、
墓場で死人の食べ残しを食べる修行僧に「下賎野郎!」と石を投げるだろうし、
メメント・モリ(藤原新也)の人間の死体を食べる犬のシーンで自由を感じられないだろう。
いくらキレイ事を並べても、言語論理はウソをつくんだよ。
それが宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk なのさ。
687 :
一在家:2009/09/01(火) 09:28:03 ID:F46SCraC
>>658 >現実をストレートに見れば何の問題もないのに、
>空を経由して現実を見ようとするから、その分だけ頭が混乱し、
>自分でもよく分からない議論に熱中する。
>空という、その余計な思考・議論が、現実を忘れた甘えである。
まったく貴兄に同感です。
108回、「去りつつあるものは去らず」と唱えながら、足元の蟻さんを
正見すれば誰にでも気付くことかと存じます。
もし気付かないとしたら中論への固執・帰依かも知れませんね。
688 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 09:53:54 ID:ROgQbsr3
>>687 >>現実をストレートに見れば何の問題もないのに、
ならば、「目に見えない神や霊が実在する」などと寝言を言うのは止めなさい。
689 :
閻魔大王 :2009/09/01(火) 10:09:10 ID:LBV4qKvO
>>658>>687 ちょっとそこのあんた、顔と脳みそがないですよ !!
>現実をストレートに見れば何の問題もないのに
・「現実」を定義してください。
・どうすれば>ストレートに見れ ますか?
しまった! また、うんこ猿に餌をやってしまった。
691 :
一在家:2009/09/01(火) 10:49:59 ID:E29O+USn
>>688 >ならば、「目に見えない神や霊が実在する」などと寝言を言うのは止めなさい。
>>689 大王
>・「現実」を定義してください。
「崇教真光」Wikiで調べれば分りますが、世界中の道場にて毎日「霊動」の
神秘体験を通じて霊(憑依霊)と対話しておりますのが現実・根拠です。
信者(組み手)の中には神の光が見える者もおりますが、通常は「霊動」にて、
憑依霊が「神の光は苦しい、止めろ!」と叫びますことから、神の実在も認識
しておりますのが現実・根拠です。
折角餌を与えていただきましたが、スレ違いですのでこの辺で止めておきます。
>>691 「現実」の定義になっていません。
が、ご希望なら>止めておきます。
693 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 11:56:02 ID:VJEMMJCc
パワーストーンや開運財布とかの宣伝を丸呑みするんだろうなあ(遠い目)
694 :
析空:2009/09/01(火) 13:47:32 ID:SXeprtb6
>>682 机先生。
台風が動いていない、という話しは理解できます。
台風とは違いますが、海の波は、移動しない(その場で上下するだけ)ということも同じでしょう。
しかしながら、そのことと空即是色との関係がわかりません。
695 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 13:49:56 ID:4YjZIWlA
>>663 >般若心経に法即是空とはまでは説かれていないと思います。
般若心経(岩波文庫)のサンスクリット原語からの邦訳で
引用した中国語該当部分を示す。
およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。
およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体
がないのである。シャーリプトラよ。この世においては、すべての
存在するものには実体がないという特性がある。
「物質的現象は実体がない」が「色即是空」であり、
「およそ実体がないということは、物質的現象である。」が
「空即是色」である。それがすべての法についていえるから、
「法即是空 空即是法」と般若心経では説いていることになる。
696 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 14:11:24 ID:XetN1CxC
>>693 >パワーストーンや開運財布とかの宣伝を丸呑みするんだろうなあ(遠い目)
パワーストーンや開運財布の効果はなかなか認識できないでしょう。
「霊動」は誰でも一日道場で座って見学していれば、大抵数回(道場によって数十回)
は目撃できるのでパワーストーンや開運財布とは異なります。
2ch各スレでのご批判の多くは、「霊動」現象は認めるが、それが自演ではないか?、
一種の催眠術ではないか?という点が多いですね。
まあ、自作自演であれば、すぐに分って退会しますし、老若男女の誰もができる
再現性から催眠術説も困難でしょう。
スレ違いですので、お猿さんに餌を与えないように。
697 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 14:26:15 ID:Q2gRR8xL
>>663 五蘊→諸法(→一切法)
「(色・受・想・行・識)即是空」→五蘊即是空
「是諸法空相」→諸法即是空
心経は、諸法の空を述べているに他ならない。
また、空なる性質を持つものは即ち諸法なり。←空即是五蘊←「空即是(色・受・想・行・識)」
698 :
一在家:2009/09/01(火) 14:32:45 ID:E29O+USn
観念の如来や菩薩でなく、実在の如来や菩薩が動かれた時代は
「霊動」現象以外にも神秘体験が沢山あったことと思料します。
因って、原始仏典に記載の神秘的な出来事を現代科学で説明が
付かないからという理由で後世の追加だとか、釈尊の神格化だとか
で安易に片付けるご発言には賛同できない次第です。
699 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/01(火) 14:42:30 ID:otWiXpg7
>>694 析空氏
>台風とは違いますが、海の波は、移動しない(その場で上下するだけ)ということも同じでしょう。
そうですね。考え方とするとそれに近いです。
>しかしながら、そのことと空即是色との関係がわかりません。
では、空即是色について僭越ながら説明しとう存じます。
初禅から少しづつ開悟していきます。
そういう段階を踏まえて、突然に今までの蓄積というものが崩壊するとこまで逝きます。
この時点を、いわゆる空性と逝ってます。
つまり全てを失うのであります。→これが【なにも無い】です。
(ここで明らかに、一般的な意味の哲学ではなく宗教色を強めます)
【なにも無い】ってのは、殆ど死んだ状態ですから、これでは世間で生きて逝くには困難です。
この空性から深く悟入していきます。
つまり、死してそこから蘇ることになります。→これが不死です。
これは「自己ならざる自己」の境地です。
これが即ち、空即是色の「色」です。
ですから、色即是空の「色」と
空即是色の「色」は、意味が全く違うのです。
700 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/09/01(火) 17:11:16 ID:jYe14WkE
>>687 一在家氏
>もし気付かないとしたら中論への固執・帰依かも知れませんね。
何かを正確に語ることは難しい。
そんな話を正確に理解してくれる人がいたら有り難いものである。
一在家氏は<中論>への帰依を指摘する。
わたしが言いたかったこともそこにある。
世尊の空はまだはっきりしないが、
価値基準(善悪・正邪など)の空ではないかと思っている。
701 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/09/01(火) 17:27:47 ID:jYe14WkE
>>689 ウンコ大王
>・・・ちょっとそこのあんた、顔と脳みそがないですよ !!
>・「現実」を定義してください。
>・どうすれば>ストレートに見れ ますか?
ウンコ大王はそのままでいい。見えないほうが幸せだろうと思う。
ウンコまみれが見えたら大変だ(~~)
702 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/09/01(火) 17:42:45 ID:jYe14WkE
今回の選挙結果には、神の力が働いていたとしか思えない。
保守的な日本で無血革命が起こった。すごい。
神がいるとしか思えない。
703 :
一在家:2009/09/01(火) 18:06:26 ID:XetN1CxC
>>702 >今回の選挙結果には、神の力が働いていたとしか思えない。
>保守的な日本で無血革命が起こった。すごい。
>神がいるとしか思えない。
民主党の小沢代表が降りて、鳩山氏が代表選に出馬する頃に
鳩山氏が「今回の天の意思に従う」という主旨の発言を
繰り返しておられましたね。
「天の意思」の「天」が神か如来かは「友愛」鳩山氏に
お伺いするしかないようですね。
704 :
旧7:2009/09/01(火) 19:46:54 ID:WCoIloTD
705 :
閻魔大王 :2009/09/01(火) 20:55:58 ID:LBV4qKvO
>>704 >五蘊の和合、そして滅も、「時制を問わない見方」を採り得る
難解で美味しいところの議論をしていますね。我輩もおおいに関心があります。
>>488>>495>>498>>499>>501も参照していただいて、
有時が前後際断(縁生即縁滅)されている(道元)とするならば、
記憶とはなにか、記憶は如何にして形成・残存と自意識されるのか、
にも切り込んでいただきたい。じっくり、読ませてもらいます。
>三世あることなし
→「三時を現在の一瞬に摂しきたる」(道元:秋山範二「道元の研究」166頁)
>>705 >難解で美味しいところの議論をしていますね。我輩もおおいに関心があります。
同意です。
2ちゃんで、こんなに深いテーマに到ったことに感慨をおぼえます。
このスレは論客も多いことだし、
果たしてどんなレスポンスがあるのやら、
拙者は楽しみにしております。
707 :
一在家:2009/09/01(火) 21:11:49 ID:E29O+USn
>>705 素朴な質問ですが「閻魔大王」の出典はどこですか?
原始仏典にありましたか?
また大乗ではあの世は無いという見解がメジャーみたいですし。
708 :
閻魔大王 :2009/09/01(火) 21:20:49 ID:LBV4qKvO
>>707 >「閻魔大王」の出典はどこですか?
あんた、アタマ硬いなあw
洒落やがなw
出典はおいらの気分。
嘘つきはSM地獄に送ったるねん。
709 :
暁:2009/09/01(火) 23:16:38 ID:KJY39wY7
在家さんよ
スレ違いなどと書く前にお宅とこの気持ちの悪い団体の教義などさわりだけ
でも書くべきではないな。被害者にどの面下げてのうのうと宣える神経がわ
からんのだが。
空観をああだこうだの前に、騙し討ちみたいな汚い教義の見直しが先だろ。
710 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 23:20:05 ID:PsoA8Wy3
釈迦が麻原や大川のような人間でなかったなら、無霊魂論はとってなかっただろう。麻原や大川と同じなら。
711 :
神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 23:46:03 ID:atK6lBXu
>>704 時間とは変化のことだから、「変化に境目を見ない」等と言っても、変化が
ある以上、時間は経過する。
「過去も、未来も、変化も、それを認識・思考するのは、『今、この瞬間の
生命の機能』」と考えることにより、時間概念を克服することが出来る。
ニーチェの「永劫回帰(永遠の反復)」も、そのような意味であると解する。
精神的な理屈でいえば、世界を動かしている人たちは、
ひとつ、神がこの世を創造したのではありません。
量子論の観察者効果が証明しているように、人間がこの世を創造しました。
そして大部分の人間はそのことを忘れて眠りこけています。
ひとつ、従って、人間が神である以上、この世には善も悪もありません。
従って地獄も天国もありません。
ひとつ、眠りこけている連中にどれだけ力を尽くして説明しても無駄なことです。
ひとつ、そういうわけで私たちは何事を行うにあたっても秘密に事を運びません。
どうせ眠りこけている連中は気がつきませんし、気がついた者はオリンポスの
神々を目指す我々の仲間になるからです。
という理屈で動いています。
713 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:13:12 ID:LEtO69Bg
714 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:16:43 ID:lEdM06GR
>>704 >>675ですが、この「時間」というのは、実にわかりにくいですね。
物理では3次元に時間を加えて4次元時空のように、単なる1つのパラメーター
(自由度という言い方をするときもあります)と捉えます。
仏教では、「刹那滅」という概念がありますよね。
これは、いわゆる「ビデオのコマ送り」のように、時系列をアナログ的ではなく
デジタルに捉えた視点かな。このような視点に立脚しているのは、現代哲学界
では、セオドア・サイダーですかね?
実は物理でも、仏教でいう「刹那」という時間の最小単位を設定しています。
プランク時間という奴で、10のマイナス43乗秒です。これより短い時間はない
というわけです。その集積、総体が我々が普通に感じている時間というわけです。
この時間というものをどのように認識するか?これが理解できれば、
時間を排除した事象の認識も理解できるかと思いますが、残念ながら
現在の私には、難題すぎます。
もし、仮に将来、タイムマシンができて過去にもどれるようになったら
因果応報もぶっ飛んでしまいますね。
715 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:25:38 ID:LEtO69Bg
>>714 君がそう考えているのも、物理や佛教で刹那を考えるのも、「今、この瞬間
に存在する」生命の機能。
生命は、宗教を含む人間のすべての営みの根源。生命を基盤にしない限り、
如何なる思考も、論理も、問題の解決も不可能である。
716 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:29:55 ID:LEtO69Bg
人間の思考、論理、正しさとは、それが「生存」の方向に向っている
場合「のみ」である。
717 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:33:44 ID:LEtO69Bg
>>716の訂正
×論理、正しさ
○論理の「正しさ」
718 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:35:06 ID:lEdM06GR
>>715 ご隠居さんかな?
私は、思考基盤としての生命を否定するつもりはありませんよ。
ただ、人間の認識に過大な評価をほどこし、存在の基点をそれに
求めるようなことはしませんが。
719 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:39:05 ID:LEtO69Bg
>>718 君がそう考えるているのも、君の「今、この瞬間に存在する」生命の機能w。
生命が、人間のすべての営みの根源である以上、「過大・過小な評価」など
ありません。
720 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:45:33 ID:LEtO69Bg
>>718 生命は、「評価の対象」にはなり得ません。評価しているのも、生命の
機能ですから、評価主体と評価対象とが同一で、評価は成立せず、ナン
センスで不可能だからです。
721 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 00:47:20 ID:lEdM06GR
>>719 >君がそう考えるているのも、君の「今、この瞬間に存在する」生命の機能w。
だから、「私は、思考基盤としての生命を否定するつもりはありませんよ」
こう言ってるでしょ?
>生命が、人間のすべての営みの根源である以上、「過大・過小な評価」など
ありません。
これは、誤認されていますね。「ただ、人間の認識に過大な評価をほどこし、存在の基点をそれに
求めるようなことはしませんが。 」
これは、あなたが以前「人間が認識しているから、すべてのものが存在している」
との趣旨の論争をしていたことを指してのレスだったのですが。
(ちなみに、その論争には私は加わっていませんでしたが)
722 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 01:12:13 ID:LEtO69Bg
>>721 ならば、一体「誰の認識」に存在の基点を認めるのですかw。「神」も、「人間」
の認識の産物に過ぎませんね。
723 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 01:31:42 ID:lEdM06GR
>>722 >ならば、一体「誰の認識」に存在の基点を認めるのですかw
「誰の認識」にも存在の基点はみとめません。言い換えれば、
存在に認識は無関係です。認識するものが誰もいなくても、存在します。
>。「神」も、「人間」
の認識の産物に過ぎませんね。
だれも「神」に言及してませんね。
724 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/02(水) 06:47:30 ID:QcfbThYT
>>714 なかなかいいレスポンスですね。
百尺竿頭進一歩です。
>この時間というものをどのように認識するか?これが理解できれば、
これなんかはどうでしょう?↓
(ご批判など頂ければ有難いですが・・・)
__________________________________
777 :机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2008/12/07(日) 07:10:17 ID:JhM9j+0d
【勝義諦について】
例えばですが、二次元世界の人が三次元世界を語ちるのは非常に困難ですね。
これは縦と横と高さがありますが、この高さについては説明が難しい。
これと同じように、
彼岸とういうのは、三次元世界からワープした世界なんです。
ですから縦・横・高さに「時間」の概念が当然に導入されておるんですね。
で、この時間の概念といふのは、拙者が言うまでもなく三次元空間の時間では
ありませんよぉ〜〜。
>(覚者は言語概念からは、そもそも解脱はしておりますが)→
>>749参照
道元が「木が灰になるわけではない」。の真意とは
つまり「人は生きるという経緯において結果死に至る」。
という概念そのものを否定しておると、
かように解釈して宜しいかと思いまふ。
つまり、勝義諦における無差別相といいますのは、時間においても無差別である訳です。
(けっして差別相の時間の概念ではあらざるなり)
こういうことですので、
道元は生死を超克いたしまして、もはや生物学的死をまったく意味のないものと、
かように悟ったかと拝されまふね。
725 :
一在家:2009/09/02(水) 08:45:15 ID:q2w83YOU
>>709 暁氏
>スレ違いなどと書く前にお宅とこの気持ちの悪い団体の教義などさわりだけ
>でも書くべきではないな。被害者にどの面下げてのうのうと宣える神経がわ
>からんのだが。
>空観をああだこうだの前に、騙し討ちみたいな汚い教義の見直しが先だろ。
「気持ちの悪い団体」、「騙し討ちみたいな汚い教義」とか、本スレで
私の所属団体を批判しているのは貴兄ばかりのようです。
2chの複数スレッドの批判(特定の人達が繰り返し投稿)と公式ホームページ、
Wiki等で他の住人もある程度認識しておられますが、スレ違いなのであえて
批判をされておられません。
本スレではアートマンや魂の存在を支持する理由を問われた場合に、私の神秘体験
の一部を紹介しております。(最多の霊動現象の他に金粉現象とかございます。)
宝珠氏の物品移動の神秘体験のご紹介とスタンスに差がないかと存じます。
尚、私の「中論」への書き込みに不快感をお持ちでしたら、私個人の学習結果にて
所属団体の関連コメントがあるわけでございませんので誤解無きよう。
>>725 > Wiki等で他の住人もある程度認識しておられますが、スレ違いなのであえて
> 批判をされておられません。
あえて今まで書かなかっただけで、気にはなっていたのですが。
> 本スレではアートマンや魂の存在を支持する理由を問われた場合に、私の神秘体験
> の一部を紹介しております。(最多の霊動現象の他に金粉現象とかございます。)
> 宝珠氏の物品移動の神秘体験のご紹介とスタンスに差がないかと存じます。
いずれも霊現象などではなく、実際は気のせいとか催眠誘導とか
そういうレベルではないかと思料します。
何故、何十億もいるリアルタイムで生きている人間を無視して
そこまで釈迦が記したわけでもない経典に拘るのだろうか?
何千年後の会ったことのない人間にアドバイスとか無理に決まってるだろ?
大体、釈迦がそこまで尊敬されてるのは脳内ではない、人を圧倒する何かがあったと言う事で
羽が生えて飛べるとかと同じく現実的に明らかに人と違っていたということで
それを飛べない人間が本や経典の知識で空を飛べるのは、こうだ ああだと 輪廻や天国、地獄を語っても仕方ないだろうに
難解な数学の問題集を感や妄想だけで答えを知ろうとするようなものだ
728 :
一在家:2009/09/02(水) 10:00:36 ID:hdYy7Rjj
>>727 >大体、釈迦がそこまで尊敬されてるのは脳内ではない、
>人を圧倒する何かがあったと言う事で
>羽が生えて飛べるとかと同じく現実的に明らかに人と違っていたということで
三明智にて、相手の顕在意識を読み、潜在意識の前世のカルマも読みながら、
対機説法を釈尊はされたと原始仏典の記載から読み取っております。
弟子、バラモン、衆生を初め夜叉や悪魔まで改心して救われたということで
尊敬、否崇拝されて当然かと存じます。
729 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 10:31:22 ID:YY6XjRg/
>>725-
>>728 カルトどもへ
おめーらはスレ違いの屑議論のうえ、自己≒アートマン?という本スレの最深部かもしれない
重要な論点を論じているのに、邪魔するな!
永久追放を命じる。
>>724 for机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
>勝義諦における無差別相といいますのは、時間においても無差別である訳です。
解脱=色即是空ではなく、それを透過したうえで
「空」の立場から世界を新しくいかに見て取るか、現成=空即是色で還減して、
縁起現象の全体をいかなる関係性で見るか、
とくに空そのものの時間化がポイントであるわけですね。
記憶論を含め、一段の展開を期待します。
>>728 だけど釈迦はグルイズムを否定してましたからね
そこまで後世に教えを残そうとか、新しい宗教を創設しようとか思ってなかったのではないのかと感じてしまう
ただのバラモン教の聖者でいいやと、周りに人が勝手に持ち上げただけで、これはイエスも同じく
731 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 10:49:54 ID:fn3hsBi8
>>724 >道元は生死を超克いたしまして、もはや生物学的死をまったく意味のないものと、
>かように悟ったかと拝されまふね。
それでは、自爆テロリストと全く同じカルト思想になりませんか。
「木が灰になるのではない」という言葉は、むしろ生(木)と灰(死)とを
截然と区別しているとも解釈されます。生を以って死を語るとは、愚かなこと。
732 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 10:52:00 ID:YY6XjRg/
>>730 出て行け!! バイキンども
おめーらにふさわしいカルト魑魅魍魎専門スレで裸踊りでもやってろ。
カルトかカルトでないかは人が決めることではない
734 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 11:02:15 ID:fn3hsBi8
>>732 そうやって、開祖を盲信し、むやみと有難がるのが、カルトなのだよ。
本質的には悟って無いなら、みなカルトでつ
736 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 11:05:20 ID:YY6XjRg/
737 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 11:17:20 ID:fn3hsBi8
>>733 宗教外部の、広い一般社会が決める。カルトとは、「一般社会と人間に
とって、『特に』有害な宗教」と定義する。すべての宗教は、本質的に
反人間的(反生活的)である。
>>736 一般社会にとっては、ちっとも重要ではない、ピント外れの全く無意味
な議論。
生活を離れた「悟り」など意図的に求めることが、自己のみの欲望に
基づく煩悩の典型。
738 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 11:22:09 ID:YY6XjRg/
>>737 勝手な御託はどーでもいいから、とにかく邪魔するな。
739 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 11:31:24 ID:fn3hsBi8
>>738 社会の邪魔をしているのは、お前ら自己中心主義の、煩悩にまみれた
宗教信者。
宗教戦争の歴史、中東の現状、現在の悲惨なカルト被害を見よ。争いを
起こし、社会に混乱と不幸をもたらすのは、例外なく宗教である。
人間は、宗教などに現(うつつ)を抜かして生きているのではないこと
を認識せよ。
しかし我が強い奴だな
仏教では完全にこんな奴はNGだろ、、
大体が重要な議論とか思い込んでるのは、あなたの脳内だけ
釈迦はそのような我は捨てろと説いた
741 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 11:42:31 ID:YY6XjRg/
以降、無視。
742 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 11:52:11 ID:fn3hsBi8
何百年、何千年やっても結論など出ないのが、宗教者の議論。人間とは、
生存本能を中核とする動物の一種に過ぎない、という己の基盤を忘れて、
ピント外れの、内容空虚な観念に狂っているからだ。
宗教上の「真理」は、常に争いの原因になるだけだが、自然科学上の真
理は、全人類的な合意が容易に達成されるのは何故かを、よーく考えて
みよう。宗教は、初めから間違っているからだ。
743 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 11:56:20 ID:lEdM06GR
>>739 あなたは、昨夜、私に絡んできた「ご隠居」さんかな?
折角、宗教板にいるのだから、頭から宗教を否定するのではなく、
少し、固定観念を取り払って、色々な人の見解を聞いてみたら
どうでしょうか? 私、自身、特定の宗教の信者というわけでは
ありませんが、真摯に語る人の意見には、みるべきものが多々あると
思いますよ。視点の柔軟性を養うためにも、有効だと思いますが?
どうしても、自己の見解と矛盾する意見の持ち主に対しても、
「何故そのように考えるのだろうか?」と考察していくと自分の
知らなかった思考形式に気づかされることもあり、楽しいと思いますが。
>>742 確かに妄想か妄想でないかは、自分は小さな身体のみの存在のみで世界のことなど
何も知らないといった事実に立脚することだとは思うけど、釈迦の教えをよく読めばその妄想すら否定している
745 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 12:11:52 ID:fn3hsBi8
>>743 >固定観念を取り払って、色々な人の見解を聞いてみたら
それが全く出来ないのが、宗教の病理なのではありませんか。
これだけ宗教の弊害を眼にしながら、批判しないほうがおかしいとは
思いませんか。
「100%の善意・真摯さで悪をなす」。これが宗教というシステムの
病理であることに気付いてください。
「何故そのように考えるのか」。宗教で植えつけられたからに決まって
いるではありませんか。
中間的、融和的な意見が、実は彼らの「宗教から植えつけられた信念」
を強化し、その弊害に加担していることを、忘れてはなりません。
>>745 > これだけ宗教の弊害を眼にしながら、批判しないほうがおかしいとは
> 思いませんか。
おかしいかどうか以前に、いい加減飽きた。
> 中間的、融和的な意見が、実は彼らの「宗教から植えつけられた信念」
> を強化し、その弊害に加担していることを、忘れてはなりません。
別に荷担はしてないしね。
批判してなければ荷担とかって「踏み絵」みたいだよね。
それこそキリスト教的だといえよう。
747 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 12:36:21 ID:fn3hsBi8
>>746 宗教者の、現実上の根拠皆無な、内容空虚な自己満足の「観念の遊戯」に
「いい加減飽きた」のは、圧倒的大多数の一般の生活者のほうだよ。
「踏み絵」は、キリスト教の狂気から人間と社会を防衛するために、
やらざるを得なかったこと。狂気でなければ、殺されるくらいなら
踏み絵を踏むのが、本来の人間だろう。
比叡山の僧兵や一向一揆などの「宗教によって人為的に植えつけられた
狂気」に手を焼いた当時の為政者の気持ちが、手に取るように分るね。
宗教は、「現実上の根拠皆無な観念の植え付けによって、人為的に狂気
を発生させる営み」だから、人間が人間ではなくなるからだ。
>>747 > 宗教者の、現実上の根拠皆無な、内容空虚な自己満足の「観念の遊戯」に
> 「いい加減飽きた」のは、圧倒的大多数の一般の生活者のほうだよ。
それは妄想じゃないかな。ソースあるの?それともまたしても根拠なし??
いずれにしても、キミの発言はいつも宣伝カーみたいで、まったく進歩してないね。
ほんとに飽き飽きしてるよ。
> 「踏み絵」は、キリスト教の狂気から人間と社会を防衛するために、
それはどーでもいいんだけど、
キミのやってることがキリスト教的だってことは否定しないんだねw
749 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 12:52:21 ID:YY6XjRg/
これって、完全な荒らしだよねw
人に迷惑をかけないなんて最低限の常識だと思うが。
頑迷クズ隠居の無明ぶりは自分のお得意の常識は通用させないらしい。
さげすみと憐憫を覚えるわ。
そんなにトンチンカンな仏教批判をやりたいのなら、
別スレでオナッとけよ。
750 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 12:54:03 ID:fn3hsBi8
>>748 「開祖盲信」「経典盲信」という点で、原始仏教は、キリスト教と同じ要素
を有するカルトである。当時も、多くの人々が洗脳され、家出し、社会に害毒
を流した。弟子を釈迦にすべて奪われ、血を吐いた自由思想家もいる。その意
味で、釈迦は、現在のカルト宗教の教祖と全く同じであることを、忘れてはならない。
751 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 13:01:25 ID:fn3hsBi8
>>749 >別スレでオナッとけよ。
このスレは、その原始仏教への偏重ゆえに、カルト性が特に強い。
中村、水野、片山は、自ら原始仏教に嵌った学者たち。客観性を生命
とする学者の風下にも置けない。批判ができなければ、学問とは言えない。
片山氏は、テーラーワーダの信者。
>>750 最近だと、竜樹信者もやばいね。「竜樹盲信」「中論盲信」という点で、
大乗信者もキリスト教と同じ要素を有するカルトである。
竜樹も、現在のカルト教祖と全く同じであることを、忘れてはならない。
753 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/02(水) 13:03:15 ID:QcfbThYT
>>729 閻魔氏
>縁起現象の全体をいかなる関係性で見るか、
縁起だから、縁起には方向性(時制)とか継続性とかの属性はない。
ってのが普通な解釈かと思いますね。→縁生・縁滅
(むしろ、ある方が論理的矛盾がありますから)
人間というのは目的意識をもって生きて逝きます。
(これから飯を食うとか、これから掃除をする、とか)
これは、方向性(時制)とか継続性とかにおいて可能。
つまりこれが日常性といわれる、人間の営みでして、
この日常性の寸断された、非日常性こそ縁起の現観なるやに思ひますね。
(禅宗でいえば、頓悟ですね)
ここでいう日常性というのは世俗諦です。
非日常性というのが勝義諦になる。
人間が空間に生きてる以上は、その空間の継続性が「時間概念」になる。
しかしながら、
縁起は、縁生・縁滅だから時空の概念はない。
(時空も縁起)
よって、
因果は世俗諦になる。→時系列性を含有する。
まあ、こういうことでどうでしょう>^_^<
他に、なにかありましたら書込みきぼんぬ。
754 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 13:03:49 ID:YY6XjRg/
軽蔑すべきお邪魔虫隠居はじめばい菌連中は無視して、
本題の勝義から還減された有時=縁起の問題に戻ろうぜ。
思うに、隠居は深遠な議論についてこれないから、
ヒステリックに荒らしているのだ。
自分でもしゃべれるレベルのテリトリーに誘い込もうとしているだけw
馬鹿そのもの。
755 :
析空:2009/09/02(水) 13:21:55 ID:krdIB4+B
>>699 机先生。
初禅、第二禅、第三禅、第四禅とはなんですか?
色即是空の色と、
空即是色の【色】が【違う】とは、
それは色ではなく名色(ナーマルーパ)の【名】ではありませんか?
参考
色 粗いもの⇒物質的
名 精細なもの⇒精神的
756 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 13:26:53 ID:fn3hsBi8
>>754 >深遠な議論
宗教の議論は、肝心の人間とその生命を支える現実界とを忘却している
「観念の遊戯」に過ぎないから、深遠どころか、極めて表層的で浅薄・
無意味な議論であることを悟ることが、脱洗脳の第一歩である。
757 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 13:41:46 ID:YY6XjRg/
>>753 >その空間の継続性が「時間概念」になる。
>縁起は、縁生・縁滅だから時空の概念はない。
そうかなるほど、自己とは記憶の集合であり、それは現処からの時空分節そのものであって、
分節以前の縁起の現観においては記憶はあるわけがなく、無我なのが当然なわけだ。
758 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/02(水) 13:46:05 ID:QcfbThYT
>>755 析空氏
>初禅、第二禅、第三禅、第四禅とはなんですか?
これは禅定の段階のことですが、
南宗禅は、もともと拘らない(禅定に)のが普通になってますから、
さして意味はありません。
(ようは頓修頓悟が主流ですね)
>色即是空の色と、
>空即是色の【色】が【違う】とは、
色即是空・空即是色を図式にすると、色→空→色になります。
空の前の「色」は、迷いの境地です。
最後の「色」は、空性後の「色」ですから・・・
つまり、悟った後の「色」ですから、
空の前後の「色」は、全く意味が違う、ってことですよ。
(この説明で分りますか?)
色(此岸)→空(彼岸)→色(此岸)で、
最後の「色」は、彼岸から帰還した「色」です。
空(仏智)から〜〜〜色(世俗智)を体得した、
智慧の完成である「色」です。
759 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 17:12:39 ID:bovLPx1Y
興味が無いのになぜ居座るのだろう、と感じることはあるな。
ここでやることに何の意義も感じていないのにどうしてだろう。
760 :
一在家:2009/09/02(水) 18:16:33 ID:hdYy7Rjj
>>729 閻魔氏
> おめーらはスレ違いの屑議論のうえ、自己≒アートマン?という本スレの最深部かもしれない
>重要な論点を論じているのに、邪魔するな!
「自己≒顕在意識」及び「アートマン≒潜在意識」という本スレの議題を
提示しております。
中論「もしアートマンが五蘊であるならば、アートマンは生と滅を有する。
もしアートマンが五蘊と異なるならば、アートマンは五蘊の相をもたない。」
この中論の一文の単語を「アートマン→潜在意識、五蘊→顕在意識」と置き換えてみます。
「もし潜在意識が顕在意識であるならば、潜在意識は生と滅を有する。
もし潜在意識が顕在意識と異なるならば、潜在意識は顕在意識の相をもたない。」
現代の心理学や精神医学の見識では、潜在意識と顕在意識とは異なりますから、
「潜在意識は顕在意識の相をもたない。」は成り立ちますね。
761 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 19:03:54 ID:YY6XjRg/
>>760 for一在家
→
>>757=自己とは記憶の集合であり、それは現処からの時空分節そのものであって、
分節以前の縁起の現観においては記憶はあるわけがなく、無我なのが当然なわけだ。
顕在も潜在も意識として記憶そのものであり、アートマン概念は無用かつ戯論だ。
762 :
◆/yQ8v8XK8Y :2009/09/02(水) 19:12:52 ID:BqqfxlFt
>>761 ウンコ大王はいい加減で屁理屈をやめなさい。
763 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 19:37:31 ID:YY6XjRg/
ゆえに自己=記憶と時間空間(世界)、意味・価値・言語(機能)は
分節以前の空であることそのものから,同時に分節されたかたちで生滅(現成)する。
記憶とは「自己の我見」(我あり)による「過去」の創出された妄想=時の構造化(DNAの夢?)に他ならない。
だから、このような自己による時の構造化によって世界=現象が存在として起ち現れる。
逆に言えば、存在(現象)とは自己によって構造化された時間だといえる。
自己は時間の構造化によって世界と切り結ぶのである。
だから時=存在は自己が「現在」と把握する一瞬に凍結され、
その一瞬とはそのものの時間化という意で(あえて矛盾した表現で)永遠の現在といえる。
むむむ・・考慮中 寝言です 反論・質問受け付けません
764 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 19:41:07 ID:YY6XjRg/
訂正
× その一瞬とはそのものの時間化
〇 その一瞬とは空そのものの時間化
765 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/09/02(水) 19:48:30 ID:QcfbThYT
>>757 >そうかなるほど、自己とは記憶の集合であり、それは現処からの時空分節そのものであって、
>分節以前の縁起の現観においては記憶はあるわけがなく、無我なのが当然なわけだ。
そうですね。
縁起ですから、当然時空がない場合もあるわけでして、
たまたま人間が時空という縁に触れてるだけですね。
触れてる、というか・・・
人間は時空そのものでありますから、これは人間・時空は並列ですね。
しかしこれが恒常不変ということではなく、
そのような形態としてある。ということの
認識として記憶ってのがある。
これが、縁起における五蘊作用ですね。
つまり、時空そのものが縁起であり、
>それは現処からの時空分節そのもの
>>757 ということになるやに思いますね。
766 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 20:13:21 ID:krdIB4+B
>>758 机先生!
>(この説明で分かりますか?)
ご丁寧に、説明して戴きましてありがとうございます。
説明していただいた、先生のお考えは理解できたと思います、しかし。。
それが般若心経の作者の意図したとおりかどうか。。
767 :
析空:2009/09/02(水) 20:17:08 ID:krdIB4+B
>>758 机先生!
ご説明いただいた、先生のお考えは理解できたと思います。
だた、その解釈は禅者独自の解釈なのではないでしょうか?
般若心経の作者の意図したところとは違う気がします。
768 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 20:23:55 ID:hdYy7Rjj
もしかしたら「言語論理地獄」というものが存在するかも知れない。
そこに落ちたら「言語論理世界をリアル」と感じ、「現象世界を幻」と
感じるのかも。
769 :
閻魔大王 :2009/09/02(水) 20:26:47 ID:YY6XjRg/
>>766 >それが般若心経の作者の意図したとおりかどうか。。
横レスですが、作者の意図も自分の到彼岸(苦しみからの解脱)に資するかどうかで考慮したらエエのんちゃうの?
第一、本音なんか判りますかいなw
クラシック音楽の演奏史と似ている。
作曲家の意図と称して、人間の顔と同じくらい異なった演奏があるのと同じ。
バッハの感動できるそれぞれのパルティータがあればエエと思います。
空であることにおいて、正誤の二項相対があるわけないやんw
770 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 20:47:21 ID:hdYy7Rjj
到彼岸=自己の苦しみからの解脱。
空で自己が無くなれば、解脱対象の苦しみもないでしょう。
もしこのような「自滅」的なことを釈尊が説かれていたら
聖人とは呼ばれなかったかと存じます。
普通の衆生は自己をはっきり保ちながら苦しみからの解脱を
望むからです。
771 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 21:00:35 ID:hdYy7Rjj
>普通の衆生は自己をはっきり保ちながら苦しみからの解脱を
>望むからです。
「自灯明」には「自己をはっきり保つ」という意味もないでしょうか。
772 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 21:04:32 ID:cxElnme1
>>770 >空で自己が無くなれば、解脱対象の苦しみもないでしょう。
>
>もしこのような「自滅」的なことを釈尊が説かれていたら
>聖人とは呼ばれなかったかと存じます。
と君が思うのは、
>普通の衆生は自己をはっきり保ちながら苦しみからの解脱を
>望む「凡夫だ」からです。
そしてそれでは決して苦しみから解放されないことを仏教は教えている。
そのような望みは、大酒飲みながら病の治癒を願う糖尿病患者のようなもの。
てs
774 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 22:18:52 ID:qI8GZ9gJ
>>771 >「自灯明」には「自己をはっきり保つ」という意味もないでしょうか。
そうですね。それが大パリニッバーナ経で釈迦がアーナンダに説いた
「自灯明 法灯明」のただしい解釈でしょうね。
大パリニッバーナ経第二章の二十六はそのように解釈できる。
アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、
よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間に
おける貪欲と憂いとを除くべきである。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、
念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりと
して、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他の
ものをよりどころとしないでいるのである。(ブッダ最後の旅(岩波文庫)pp63,64)
775 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 22:24:25 ID:PweXjMux
>>769 >第一、本音なんか判りますかいなw
だから、原始仏典から釈迦の「真意 」を探るなどということが、如何に不可能で
無意味な試みであるかが明らかであろう。
776 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 22:33:23 ID:C6VRoOwP
つまり隠居がここにいる理由はない。
てか、そろそろ容量イッパイイッパイだぞw
お、スリーセブン!
ラッキーw
779 :
旧7:2009/09/02(水) 23:07:44 ID:J4t508aT
梅。
ビルマ仏教を研究した社会学者にスパイロさんという方がいる。
彼の著の一つ「ブッディズム&ソサイエティ」の中で、
彼は現代ビルマ仏教に2種類(或いは3種類の)視線を投げかけている。
それは、「Kammatic Buddhism」と「Nibbanic buddhism」だ。(「Apotrpaic Buddhism」を加えれば3種類だ。)
賢明な方は、これがどういう対比かお分かりだと思う。
序盤をちょこっとしか読んでないので、全体としてどういう考察になっているかは解らんが、
こうした不純物無しに、社会の中にその位置を占める、大衆と接しながら存続する、ことはできないのかもしれない・・・。
日本語版出ないかなぁ・・・。
780 :
旧7:2009/09/02(水) 23:20:52 ID:J4t508aT
“どこかのどなたさん”
(IDは変わってるし名前は無いし、《追尾できる「仮設された」呼称もない!www》ので、
このような失礼な呼びかけになるがwww)、
は、どのように考えているのだろう。
生命が、【個としては「断滅」である可能性を、100%排除できるのか?】と・・・。
781 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 23:29:13 ID:lEdM06GR
>>780 “どこかのどなたさん とは、私と話していた、
あの「輪廻業報を業のエネルギーによる縁起で解説していた人」のことかな?
あの人は、以前ここで「真言さん」と呼ばれていた人でしょう?
782 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/09/02(水) 23:29:22 ID:x4Vkosmj
>>771>>774 これも、
ゴータマのアプローチした重要な自己についての教えですね。
仏教とは、
「自己はすべて消し去られるべきもの(自己など何処にもない/無用)」
というものではないでしょう。
ゴータマの説いた“理想とすべき在るべき自己の姿”という
“求めるべき自己”が“本来の(自分の)自己である”という教えでしょう。
ゴータマは確かに、
バラモンの説く形而上学的アートマンには同意しませんでしたが、
独自のアプローチのよる自己についての教えを説かれた。
今、そのことを示す(含む)仏教学的資料を打ち込み中です。
もう少しで出来上がるので、
どなたか次スレを建てておいて下さい。
(残念ながら、このスレ中には無理っポイ)
どうか宜しくお願いします!
783 :
旧7:2009/09/02(水) 23:30:59 ID:J4t508aT
もう一つ、直接的に聞いておこう。
仏教は、「独我論的枠組み(→箱庭)を脱出し得るのか?」と。
更に重ねよう。
仏教が認識論的側面を持つなら、独我論に対して投げかけられる疑義に、どう答え得るのか?と。
三世に跨る業報が、「自覚的なものであり、他者に“レッテル貼り”できない」ものであるとしても、
それが、【助言や説法として、危機感として、第3者に感じさせるもの】だとしたら、
それは、【本来、自覚されるものであるべき、業果の流れの筈が、他者の自覚を強制するものとならないだろうか?】。
“どこかのどなたさん”は、(前シリーズだったか?)、
『トイレに落ちるおにぎりの件』に、どういう感想を持つのだろう・・・。
784 :
神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 23:34:36 ID:lEdM06GR
499ばいと到達。
>>784 真言氏には、ほぼ同様の見解を持つ、ファンが1人居るんですよw
ま、両方へ向けてということにはなりますが・・・w
(そろそろ限界かな?w)
よし、500KB
789 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :
『何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)
よしなく、欲望を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。』(Sn.97)
『作られざるもの---skata=nibba^na.(Ckmm.)作られたもの(有為)は転変し、生起消滅するが、「作られ
ざるもの」すなわちニルヴァーナは永遠不変のものである。有為は迷い、無為はさとりの境地である。』
(中村 元訳注p93)
無常ではない境地なのだから当たり前のことなのですが、しかし、思考が硬直化した人はそれすらも理
解できないのです。《「作られざるもの」すなわちニルヴァーナは永遠不変のものである。》---は、この私が
一貫して主張してきたことであり、「作られざるもの」ではないものがある、と説くウダーナ8:3とも合致する
ものです。
そんな、「どっちでもない〜中道だべぇ〜」ではない。“ニルヴァーナは永遠不変ではない”などと説くこと
も当然、愚かです。こういうのをバラモン恒常論否定のアレルギー症候群という。
まだ、わからない???