>>437 > それは輪廻を前提にした話です。
> そして、必ずしも今生に限定してません。
今生に於いて苦の滅はあるんですか?ないんですか?
もし、今生に於いて苦の滅があるなら、
前世来世を考えることなく、今目の前にある苦を問題にすることができる。
輪廻があろうとなかろうと、苦の滅という涅槃に違いはない。
「輪廻があったとしても、彼は輪廻しない。彼は涅槃に安住する」
「輪廻が無かったとしても、今生(現世)に於いて、彼は涅槃に安住する」
私は、この意味で、「輪廻を排除しても仏教の教義は成立しうる」と言っているのです。
(勿論ここには、“現存する仏典の記述との整合性”という問題が立ちはだかるわけですが・・。)
> つまり、仏教で苦の滅は、戒定慧の三学によって無明を断つ以外、輪廻するしかないということですが。
「涅槃に至らない限り、輪廻するしかない」というのは、仏典を普通に読むなら当然のことです。
が、『涅槃に至った後では、輪廻のあるなしは問題とならない』のです。
(このスタンス(或いは構図)を積極的にとっているのが禅だと言うこともできます。)
だとするならば、21世紀の今、
《「今生(現世)に於いて涅槃は見られる」》という点(説き方)こそが強調されるべきではないのか。
《その方向性》こそが、現代社会における“救い”足り得るのではないか。
2500年前のインドとは違う。
21世紀の今を生きる人々にとって、より解り易く、より頷き易い方向性が《それ》ではないか。
我々は、いつもいつもいつもいつも、「今、釈尊ならば何と言われるか」を自問し続けねばならないのではないか。