(長文書く気力もないので一言だけ)。
>>488 > 仏教の教え(輪廻)に基いて
>>492 > いや、輪廻転生の教えだけが
「輪廻」を仏教の中心に据えている点に於いて、貴方と私は決して相容れない。
深い関連はあっても、仏教の中心は輪廻ではない。「縁起」だ。「四諦八正道」だ。
輪廻があろうとなかろうと、「縁起」も「四諦」も揺るぎはしない。
「解脱」や「四双八輩」が輪廻前提の言葉であったとしても、私は「輪廻」という言葉を捨てることに躊躇はない。
それが、誤解や暴走を助長するようなら(言葉・解説によるフォローが困難なら)、容赦なく切って捨てる。
「四波羅夷以外を廃してもよい」と言った釈尊の姿勢(意図)に倣うならば、私は輪廻を廃す。
世界にどれだけの聖者がいるかは知らないが、
「輪廻を知ること・見ること」が、いったいどれほど涅槃に資すると言うのか?
《輪廻を恐れること無しに》「信」も「行」も「涅槃」もないとしたら、そんな仏教は要らない。
《現世における苦の滅》こそが、仏教の真髄であるべきではないか?
ここに気付いた時、もはや輪廻は不要だ。
「四門出遊」の逸話、(これが、そっくりそのまま史実だとは私も思わないが)、
その意味する所、重要性は、重く深く受け止められるべきと思う。
「きっかけとしての“輪廻への怖れ”」はあってもいい。
が、シッダッタの出家の動機は、
『今まさに目の前にある“苦”、今後続いて襲いかかってくるであろう“苦”の滅であった』ということ、
『わがまま、自己保身、自我欲望の理由・根源の探索にあった』ということは忘れられてはならない。
(パーリ)大般涅槃経に於いて、最後の弟子スバッダの逸話が述べられている。
彼は、六師外道の一人一人について「彼らは悟っているのでしょうか」と問うた。
釈尊は言う、「それは捨て置きなさい」と。 そして、「八正道のあるところに阿羅漢はいるであろう」と。
種々の記述はあるにせよ、私は、パーリ仏典ほど“現実に立脚した”経典は無いと思っている。
片山さんの本が届いた。明日はゆっくり浸ってみたいと思う・・・。
おやすみなさい ノシ