1 :
考える名無しさん:
『私』『自我』『主体』『主観』『主観性』、
デカルト的懐疑の到達点、
各種宗教的アプローチの底に見出されるもの、
等は、どのような記述が可能なのか?
その記述方法は、唯物的な事象の羅列で十分か不十分か?
その記述方法は、一通りか?それとも何種類もあるか?
それら記述方法の分類・仕分けはどのようなものか?
2 :
考える名無しさん:2007/05/01(火) 16:00:17
副題:=【私】は、どこまで肉体に依存するのか?=
『私』『自我』『主体』『主観』『主観性』、
デカルト的懐疑の到達点、
各種宗教的アプローチの底に見出されるもの、
等は、どのような記述が可能なのか?
その記述方法は、唯物的な事象の羅列で十分か不十分か?
その記述方法は、一通りか?それとも何種類もあるか?
それら記述方法の分類・仕分けはどのようなものか?
基本的に何でもありですが、できれば副題にあるように、
この肉体(脳)ベースでどこまで記述できるか?
に挑戦してください。
・マジレス及び連関したレス内容である場合、
名前欄へ、識別可能な何かを記入してください。(レス番可)
前スレ
【私】を記述してください。【私の存在性】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1144214403/
3 :
考える名無しさん:2007/05/01(火) 16:02:00
まったく・・・w
どうせ立てるなら、せめて前スレくらい貼れよ。 使えねー奴だなw
>>1
4 :
考える名無しさん:2007/05/01(火) 22:18:27
ごめんなさいボクがきちがいでした
5 :
ネコの味方:2007/05/01(火) 23:02:02
このスレも継続しそうだね。たまには機械氏とか、ガチガチの唯物論原理主義者
にも登場して欲しいね。
他人に説明するまえに、自分で納得してから発言しろよ。
細かいところつつかれて曖昧にするんじゃ、理解している
のには禿げしく遠い。
自分で理解するまえに、他人に発言してから納得しろよ。
細かいところつつかれて説明するんじゃ、曖昧にしている
のには禿げしく遠い。
8 :
考える名無しさん:2007/05/02(水) 16:10:53
あげ。
「世界は客観的なものではない。そしてその悲しみは避けることのできないものだ。
慈悲とは、想像上の原因によって苦しむことの拒否を意味する言葉でもあるのだ。」
「あなたを苦しめるのは、つねに偽物だ。偽りの欲望と恐れ、偽りの価値と観念、偽りの人間関係だ。
偽物を放棄しなさい。」
「あなたは身体でもなければ、身体のなかにいるのでもない。身体などというものは存在しないのだ。
あなたはあなた自身について、ひどい誤解をしてきた。正しく理解するために、調べてみるがいい。」
質問者「しかし、私は身体として、身体のなかに生まれてきたのです。
そして、身体とともに、身体として死ぬでしょう。」
「これがあなたの思い違いなのだ。調べなさい。探求し、あなた自身を、そして他者をも疑ってみなさい。
真実を見いだすには、あなたの確信に固執してはならないのだ。
もしあなたが現下にあるものを疑わなければ、けっして究極に到達することはできないだろう。
あなたが生まれ、そして死ぬという概念は不条理だ。論理的にも体験的にも矛盾しているのだ。」
「これらすべては、あなたが身体だと考えることによって起こるのだ。
真我を見いだしなさい。そうすれば、薬物さえあなたに影響を与えることはできないだろう。」
『I AM THAT 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話』
54身体とマインドは無知の兆候だ より
「あなたはあなたではないものをあなただと主張し、本来のあなたであるものを否定している。
あなたはすべての個人的な歪曲から自由である気づきの純粋な認識の原理を忘れているのだ。
あなたが普遍なる意識の実在を認めないかぎり、あなた自身を知ることはけっしてないだろう。」
「身体とマインドは単なる無知、誤解の兆候にすぎないのだ。
あなたが身体もマインドも超え、時間と空間も超え、「どこで」、「いつ」、「どのように」、
をも超えた、純粋な気づきとしてあるかのごとくふるまいなさい。それに思いをめぐらしなさい。
その真実性を受け入れることを学びなさい。」
「あなたのマインドと身体に、すべてでありすべてを超えた実在を表現させなさい。
議論することによってではなく、為すことによってあなたは達成するのだ。」
「絶対なるものは時間よりも優位を占める。まず、気づきが最初に現れる。
一組の記憶と精神的習慣が注意を引きつけ、気づきがそこに焦点を集中させると、突然個人が出現するのだ。
気づきの輝きを取り去ってみなさい。眠りにつくか、気絶すると、個人は消滅してしまう。
ヴィヤクティ(個人)はかすかにゆらめき、
ヴィヤクタ(気づき)はすべての時間と空間を内包する。
アヴィヤクタ(絶対なるもの)は―――在るのだ。」
『I AM THAT 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話』
54身体とマインドは無知の兆候だ より
11 :
考える名無しさん:2007/05/03(木) 15:31:22
議論も為すことの一つです。
議論もしない人間がいるこの時代において
為し事をやることは尊いことです
12 :
考える名無しさん:2007/05/03(木) 18:16:42
誰に言い訳してるの?
________
/:.'`:::: :::::\
/:: \
/::. ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' ::: ヽ
|:: ン -==-∴-==- < |
蛙邊矧憎魔璽斐螺禰佐都簑菟匙簾邊獅
ヽ_`⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒_/
ヽ: il´トェェェイli/
ヽ:!l |,r-r-|!/
\:`ニニ´/
これが基本中の基本です。これを押さえておかなければお話になりません。
14 :
考える名無しさん:2007/05/04(金) 16:48:53
当スレ休業中か。
前スレは使いきってしまったようだけど、そこで「私」及び「私の存在性」に関して何か明らかになったの?
明らかになったって言い方はおかしいか。
議論するために必要な「私」及び「私の存在性」に関する概念の共有化はできたんですか?
「私」や「存在性」が何を指してるかについて議論の参加者は見解が一致してるんですか?
まぁそうヒスをおこしなさんな
17 :
考える名無しさん:2007/05/04(金) 17:11:33
>>15 一致してないから議論になるんだろwwwwwwwww
19 :
考える名無しさん:2007/05/04(金) 17:31:01
定義付けもしないで始めるからね。
概念の共有化は無理でしょう。
>>19 哲板ローカルの話になってしまいますが、この概念はもともとは哲学者最高位が言い出したんですね。
彼は自分が史上初めて唯物論を論破したと主張してて、その主張のキー概念が「私」や「存在性」なわけです。
で、彼の主張の妥当性を議論するにはその概念の理解が重要になってくるわけですが、
何しろ彼独特の用語であって他の参加者はよくわからないわけです。
本来なら概念の提唱者である最高位自身に説明義務があると考えられるわけですが、
彼は理解できないお前らの知能が低いとか何とかいって一向に説明しようとはしないわけです。
んで、しょうがないからみんなでああでもないこうでもないとやってるわけですね。
端からみたら何でそんなことやってるんだって思えるでしょうが、まあそれはそれで楽しいようですから大目にみてやってください。
21 :
考える名無しさん:2007/05/04(金) 18:02:53
>彼は理解できないお前らの知能が低いとか何とかいって一向に説明しようとはしないわけです。
この言い訳なら誰でも最高位の論破能力を持てるなw
22 :
考える名無しさん:2007/05/04(金) 18:10:28
レヴィナスも、思考は存在や存在性を超越しているとか、「内存在性」
とか言っているようです。翻訳者の解説は必須です。
レヴィナス・・・か。
意外と最高位と親和性あったりしてw
397 花魁 2007/05/04(金) 21:10:34
>>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177677748/383 >「私」と「哲学者最高位の自我」が同一個物の別の呼び方に過ぎず、
>別の指示対象を持ち得ないのなら、
>これらの疑問は単なる同語反復になり無意味だということになってしまいます。
スレ違いになるかもしれないですが、話を途切れさせたくないのでここでレスします。
この問題は、オイラも考えてみたことがあります。以下はその考えの簡単なまとめ。
「私」と「哲学者最高位の自我」という言葉は、
「結果として」同一個物の呼び方ではあるが、同義反復ではない。
「私」と「哲学者最高位の自我」が「結果として」同じ指示対象を持つが、
それは言葉の意味上で同じ指示対象を持っているのではない。
「私」=「端的に現れている意識」
「哲学者最高位の自我」=「(客観世界に在るものとして)意識された意識」
なのである。あるいは(多少誤解を招きかねないが)次のような違いがある。
「私」=「見ている意識」
「哲学者最高位の自我」=「(客観世界の存在者として)見られている『見ている意識』」
「「私」=「哲学者最高位の自我」である」という命題は、
「見ている意識は、客観世界の存在者として見られる存在でもある」
ということを主張している。
ところで、これが同義反復ではない為の前提条件は、
「見ている意識」(=「私」)という概念の意味が
客観世界の存在者として与えられるわけではない、ということが必要である。
ここに大きな問題がある。この問題点についても考えてみたことありますけど、
長くなるので、これ以上の話はやめておきます。
ここで言ったことの内容が皆に伝わるかどうか自信がありませんけど、
とりあえず書いときます。
26 :
参考:2007/05/04(金) 21:48:09
267 考える名無しさん sage 2007/05/03(木) 11:43:23
じ‐が【自我】
1 自分。自己。
2 哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、
他者や外界から区別して意識される自分。 ←→非我
3@心理学で、行動や意識の主体。自我意識。
A精神分析で、イド・超自我を統制して現実への適応を行わせる精神の一側面。エゴ。
じこ‐いしき【自己意識】
自分自身についての意識。外界や他者と区別された自我として自分を意識すること。自覚。自意識。
じ‐いしき【自意識】
自分自身についての意識。周囲と区別された自分についての意識。自己意識。 「―が強い」
い‐しき【意識】 [名]スル
1 心が知覚を有しているときの状態。 「―を取り戻す」
2 物事や状態に気づくこと。はっきり知ること。また、気にかけること。 「勝ちを―して硬くなる」「彼女の存在を―する」
3 政治的、社会的関心や態度、また自覚。 「―が高い」「罪の―」
4 心理学・哲学の用語。
@自分自身の精神状態の直観。
A自分の精神のうちに起こることの知覚。
B知覚・判断・感情・欲求など、すべての志向的な体験。
5 《(梵)mano-vijnaの訳》仏語。六識・八識の一。
目や耳などの感覚器官が、色や声など、それぞれ別々に認識するのに対し、
対象を総括して判断し分別する心の働き。第六識。
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
以上Yahoo辞書。「自我意識」という語はない。
27 :
参考:2007/05/04(金) 21:48:47
268 考える名無しさん sage 2007/05/03(木) 11:44:10
さて、そこで広辞苑(第二版)の出番w
じ‐が【自我】 (self(英)・ego(ラ))
@〔哲〕
私。(a
自己。(b
即ち意識者が他の意識者及び対象(非我)から自らを区別する称。(c
諸体験または諸作用の主体的統一の契機。(d
我。(e ←→非我。
A〔心〕
イ:自我意識を持つもの。
ロ:精神分析で、意識的または前意識的で本能的な力を、
外界の現実や良心の統制に従わせるパーソナリティの側面をいう。
じが-いしき【自我意識】
〔心〕
自己について持っている意識。
・能動性の意識、
・単一性の意識、
・時間が経過しても同一であるという意識、
・外界と他人に対して自分が存在しているという意識
の四側面からなる。 →自己意識
じこ-いしき【自己意識】
〔哲〕(self-consciousness)
自己自身に関する意識。
諸体験の統一的・恒常的・自同的主体としての自我の意識。 ※自同的→自己同一的?※
自意識。
自覚。
さすが広辞苑www
28 :
参考:2007/05/04(金) 21:51:19
269 考える名無しさん sage 2007/05/03(木) 11:44:51
ついでに『私』も調べてみる。
わたし【私】〔代〕(一人称)
ワタクシの約で、よりくだけた言い方。
わたくし【私】
一、〔名〕
@公に対し、自分一身(だけ)に関する事柄。うちうちの事柄。
A公然・公正でなく、その人だけを本位としたこと。
イ:ひそか。内密。秘密。
ロ:自分自身の利のために不法にふるまうこと。ほしいままなこと。
ハ:自分一個の意により公平を欠くこと。かたておち。
ニ:「わたくしあきない」「わたくししごと」の略。
二、〔代〕
話し手自身をさす語。現代語としては、目上の人に対して、また改まった物言いをするのに使う。
29 :
花魁:2007/05/04(金) 22:17:30
>>25 どうも、ありがとうございます。
25で貼られている文章に補足します。25を言い換えると
『私』と『哲学者最高位の自我』の違いは同じ指示対象を
(外界の存在は一切不問に付した上で)意識の内側から直接指すことと、
(外界の存在を前提として)意識の外側から指すことの違いである、ということです。
しかしながら、この議論が成り立つ為にはいくつかの注意すべき
前提を満たしていなければなりません。
《前提@》
「哲学者最高位の自我」と「私」が言語的に区別できること
(即ち「『私』=『哲学者最高位の自我』である」が無意味にならないこと)
の為には、
「概念が同じ指示対象を持つならば、それらは同じ意味を持つ」
という言語観はどうしても捨てなければならない。
《前提A》
『私』の意味を与える為に必要な
「意識を内側から指示する」ということが成り立つ為には、
意味の公共説(あるいは客観説)は捨てなければならないと思います。
では言葉の意味は『私』が与えていなければならない。
そうでなければ「意識の内側からの指示」は成り立たない。
逆に、前提@とAのどちらか一方を否定するならば、
決定論スレの
>>383で主張されていたように、
「『私』=『哲学者最高位の自我』である」は無意味である、
と主張せざるを得なくなる、と言ってもよいと思います。
特に前提Aの方が重要問題の気がします。
オイラはAは成り立つと思ってるわけですが、
承認しないという人もいるでしょうね。
「意味の公共説(あるいは客観説)」ってなに?
個人的には「私」を概念として論じる必要を感じないけどな。
というかむしろ混乱の元凶という気がする。
「私」をめぐる議論の多くはその混乱に乗じて議論のための議論をやってるだけなんじゃないだろうか。
>>31 そうでもないでしょう。
「懐疑の果ての残滓として残る何ものか」
「知覚認識の起点・基点となる何ものか」
が、
a・あるかどうか?
b・あるとすれば、それはどこにどのようにしてあるのか?
c・外界とどのような関係にあるのか?
→入力・出力はどのようになされているのか?
→外界がどのようになっても、その影響を受けず、自存しうるものなのか?
d・それは、分割分析不能な最小単位か?(この言い方は上手く言えてません。)
e・(b・cを受けながら、)いつ生じたのか?
f・(b・cを受けながら、)なぜ、生じたのか?=『なんのために生じたのか?』
g・(b・cを受けながら、)生じ滅するものなのか?それとも在り続けるものなのか?
ちょっとでも理屈っぽく自身を実存的に見つめる者にとっては、気になる部分じゃないかな。
そして、およそ「思惟」が絡む分野にとっては、
避けて通れない・少なくとも一度は咀嚼しなければならない部分となるんじゃないかな。
88 哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 2007/04/02(月) 04:29:49
素人くん
>「存在【性】」が何を指すのかは、(時には、幾つか候補を挙げながら)何度もお聞きしましたよね?w
>【そこ(ここ)にあること】ですか?と何度も訊ねましたが明確な答弁は未だありませんね。
本当に理解できないで質問してるの???
哲学してたら、わかるはずなんだけどな・・・
単なる「存在」だと、意味が広くなりすぎるんだよ
もちろん「実存」の事かと勘違いする人もいるだろうね
>【そこ(ここ)にあること】ですか?
なんて聞いてくるキミも、その一人なのかな?
懐疑論て知ってますか?
ここに「ある」と認識している全ては、錯覚にすぎない可能性を否定できない という事なんだよな
本当は、無いのかもわからんわけです
これは哲学の基本でしょ
あと、唯名論て知ってますか?
「島」はあるのか? ○○島は存在するのか? って話
島というものは海面から出ているから島なんであって、海に沈めば島ではなくなるよね
海中の突起 という事になります
島と認識しているものは、海面との相対的な状態にすぎません
それに人間が便宜上で名前をつけて呼んでいるに過ぎないわけです
島というものは、人間の観念によって便宜上で名前をつけられているに過ぎないわけですから「唯名論」の範疇に入るわけです
島は「状態」に付けられた「名前」であって「存在」ではないわけです
『存在』という事を考える上で、このような基礎的な事は、言わなくても前提として理解しておいていただかないと、話が前に進みません
ここまではいいですか?
上記に引っかかるものは、厳密には『存在する』とは言えないわけです
しかし実体そのものが「実存していない」とも言えません
曖昧なんですね
そこでです
有形無形を問わず、とにかく「確実に存在している」としか言えないもの
これに関して「存在性」だと呼んで別けているわけです
懐疑論にすら引っかからない、まさに「存在性」だとしか言えない存在だと言う事です
ご理解いただけましたか?
35 :
素人:2007/05/05(土) 00:30:40
>>花魁君へ
>>33の
「月を指し示す指」、
<『イス』と「イス」を、その指し示す内容を明確にする為に区別して表記しましょう。> 、
そして、
>>34の
>島は「状態」に付けられた「名前」であって「存在」ではないわけです
を、よく吟味してほしい。
最高位が、他人に対して厳密さを要求する割には、
『私』という語を用いる際に、いかに曖昧な使い方をしているか・・・。
感嘆子さんの151-153は重要なレスだと思う。
36 :
参考:2007/05/05(土) 00:38:23
ウィトゲンシュタインは、『確実性について』のなかで、デルトの方法的懐疑を批判した。この批判は、デカルトの懐疑は、自らの懐疑の基盤をも切り崩すものである。
1.すべてを疑う疑いは、疑いではない。
2.一定の根拠にもとづいて人は疑うのである。
3.疑いえないものに支えられてこそ疑いは成立する。
4.すべてを疑おうとする者は、疑うところまでたどり着くこともないだろう。疑いのゲーム自身、すでに確実性を前提としているのだ。
37 :
参考:2007/05/05(土) 01:03:06
ウィトゲンシュタインの言う確実性とは、そもそもどんな事柄か?
ウィトゲンシュタインが「信じる」という動詞を使って表現しているそ
の対象、即ち、先生や教科書、さらには、その子供が属している共同体
の諸々の約束事、言語、知覚内容などである。
「われわれ」は、これらの事柄を「信じる・疑う」以前の状態で、その
まま受け容れるのだ。そのことによって、疑う土俵(「確実性」)が形
成されるというのである。
受け容れない可能性は、まったくないもの、したがって疑うなどという
行為の対象には決してなりえない最初のもの、それが「確実性」である。
38 :
参考:2007/05/05(土) 01:31:46
フッサール起源への哲学 より
「私」とは、(…)「不在における現前」の能力である「想像力」がそこに根を
下ろし、「現象すること」がそこにおいて可能になる場所のことである。これは
すなわち、想像力とは私の能力のことではないということである。なぜなら、
想像力という「不在における現前」の能力が根づくその場所においてはじめて、
「私」という自己同一的なものがみずからに対して現象することが可能となった
からである。(…)この意味でいわば想像力の方が私を所有しているのである。
39 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 01:47:16
「超越論的主観性」というのは、一個人(この私)の主観のことではなく、
この世界、この現実、さらに言えばこの私さえもそこにおいて構成される
「場」のごとき地平である。
「主観」ないし「自我」という側面から見る限り、現象学はやはり単なる
主観主義にしか見えないので注意が必要だ。
40 :
参考:2007/05/05(土) 02:50:46
デリダは次のようにいう。
孤独な言表のなかでの「私」という語の出現は、すでにひとつのイデア性とし
て機能しているのではないか。
したがって、「私」という語の出現は、ひとりの「今・ここ・私」一般にとっ
て同じものとしてとどまりうるものとして与えられ、私の経験的現前が消えて
しまったり根本的に変容したりしても、その意味を保持するのではないか。
私が「私」というとき、たとえそれが孤独な言表のうちであるにせよ、私はい
つもそうしているように、その言表の対象の、すなわちこの場合には、私自身
の可能な不在をそこに介在させる、ということなしで、自分の陳述に意味を与
えることができるだろうか。
私が私自身にむかって<私はいる>というとき、この表現は、フッサール流に
考えたすべての表現と同様に、当の対象の、すなわち直観的現前の、したがっ
てこの場合には私自身の、不在においても理解可能でなければ、言表としての
資格がない。
41 :
参考:2007/05/05(土) 03:02:37
大森荘蔵 『時間と自我』「自我と時間の双生」
では自我概念の「私」はどこから生まれるか。捉えやすい近似として考察の出発点
とするのは、動作主体としての私、である。「私が・・・する」という状況におけ
る私とは、動作主体の経験としての自由な動作であり、そこから引きはがすことは
できない。
一方、考える、悲しむ、などにおける心理動作は一見曖昧であるが、身体動作と心
理動作が一体となっている経験を考えればわかるように、心理動作における「私」
は「認識主観」と呼びうるものであり、身体動作の「私」と同じである。こうして
「私」とは、第1に無数の動作経験があり、第2にその経験が同一・共通の「私」
の経験であるという了解があり、第3にその了解に基づき「私」の経験として関連
づけられている、という風にして成り立っている。したがって、「私」という「も
の」が存在するわけではないのである。このことは非人称主語のitを想起すればわ
かるであろう。
参考もしつこいとウザイ
43 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 03:31:19
>自分という精神が、この世に存在しているという事実の事実性に対して
(決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない92-445 哲学者最高位)
はは、今度は
「私の精神」から、「自分という精神」というスタンスに変えたかw
44 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/05(土) 04:31:32
>>20 >彼は理解できないお前らの知能が低いとか何とかいって一向に説明しようとはしないわけです。
アホ
何回説明してると思ってるんだ?
アホでも理解できるようにって、メチャクチャわかりやすく工夫して
いろんな角度から、かれこれ3年ぐらいかけて説明してやってるんだよ
で、あるにもかかわらず
「一向に説明しようとしない」っていう、この点だけを取りあげても
キミらが、あまりにも頭が悪いっていう事を証明してるだろ
>>43 スタンスなんて変えてないよ
意味、同じだからね
ホントお前ら頭おかしいだろ
45 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 04:34:06
振り回される哲学者最高位。
46 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/05(土) 04:36:39
素人君へ
>「月を指し示す指」の意味
ってなんだったっけ?
>『イス』と「イス」
って何が違うんだっけ?
確か、あまりにも的外れだったんで忘れちゃったよ
47 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 04:38:23
NGワード
哲学者最高位
とても哲学者の書き込みには見えんな。
哲学者以前にニュー速やVIPにいる人よりもレベルが低いと思う。
50 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 10:03:51
>>44 意味、同じだからね
「私の精神」と「自分という精神」が同じ意味なら、
「私の身体」と「自分という身体」は同じ意味になってしまうぞ。
キミ、小学校低学年以下か?
もうあれやこれや叩かれて
何言ってんだかわからないんだろうな
引き出し少ない上に勉強不足だからなあw
52 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/05(土) 10:21:37
>>50 あのな
「私の精神」というと
キミらは誤解して「私の精神活動」しか発想できないんだよ
「私の精神」と言った場合
「私の精神活動」という意味である場合もあるが
「私の精神性そのもの」を指す事もあるわけだ
だから「自分という精神」という表現を使えば
キミ達も、少しは頭を使って理解に近づくんじゃないかな と思ってね
だからスタンスや、意味が違うんじゃないんだよ
同じ事に対して、表現を変えて伝えているのさ
キミの指摘も丸っきり的外れ
そういうのを、病的っていうんだよ
53 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 10:32:23
54 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 10:37:58
「存在性」という言葉は、一般的には、〈存在するということ、それに伴う性質〉
というような意味で使われている。
〈存在するとしか言えず、それは疑い得ない〉ということを言いたいのだったら
「事実性」と言う方がましだったね。
55 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/05(土) 10:40:26
あー、あと「私」というと
ワケのわからない人が
「あなたじゃないんですか?」なんていう事を言ってくるからね
そういう病的な人がいるから「自分」という表現に変えてみたんであってね
言ってる事は同じなわけよ
実はね
一昨日ぐらいに、店の前で愛犬がクルマにひかれちゃってね
死にはしなかったんだけど、大怪我をさせてしまってね
あまりにも恐ろしい出来事だったんで、吐き気がするほど後悔してる
泣きたくなるほどショックでね
悲しくてしかたないんだよ
だからそういう意味で、気持ちは混乱しているかも知れない
56 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 10:48:37
>>52 >「私の精神性そのもの」を指す事もあるわけだ
「私の精神性そのもの」でよかったんじゃない?
最高位さんよ
日記は自分の日記帳に書いてくれないか?
VIPにでも晒されたらどうにもならなくなるぞ。
58 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/05(土) 12:55:46
>>57 ちょっと一回書いたぐらいで、いちいちキモイんだよ
神経質にもほどがあるぞ?
「最高位さんよ」なんてカッコつけちゃってさwww
「あなたじゃないんですか?」なんてアホな事を聞いてくるのはキミか?
ところで
VIPって、たまに聞くけど、それってなんなん?
>>58 VIPはニュー速VIPとかに居る2chの超過激派だよ。
匿名であることをいいことに、晒しあげやら個人情報ぶちまけやら誹謗中傷やら
犯罪まがいのことをする凶悪衆。
60 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 13:03:36
すぐさまNSAのブラックリスト入りですな。
493 考える名無しさん sage 2007/05/05(土) 11:26:04
>> 469
> 言ってますけど???
そうなんだ。それは申し訳ない。
でもそれなら主観性と言わずにわざわざ「私」という解釈の固定が難しい言葉を使うのはなぜ?
たぶんそこに主観性では足りない何かを付け加えてるんだろけどあまり成功してないよね。
まあ、これは別スレの話題になるけど。
> 何が言いたいのか、意味がわからん
> 具体的にどうぞ
これはもうそのままなんだけど。
>> 334-337あたりのやり取りで書いたけど、意識と神経の相関の検証は神経生理学やらの周辺でいまやってる最中らしいよね。
君の「私であった根拠は物質的な要素に特定できることは論理的にありえない」って主張は言いかえると、
「主観的意識が神経などの物質的な特性と相関している可能性はない」ってことでしょ?
俺は神経生理学なんかの試みはやるべきことだと思うんだけど、君はそれはやっても無駄だって考えてることになるよね。
なにしろ「論理的にありえない」わけだから。
君の議論はそんなに強いものなのかなあ?
499 ネコの味方 2007/05/05(土) 13:15:06
>> 480
その主張の真偽は措くとして、“視点”のゆらぎwが気にかかる。
>> 493
最高位のその種の言明には、たしかにわかりづらいところがあります。
彼は「私」と「私の意識(心)」を弁別する。彼は「私」が基点的存在だ
と言う。この「私」はまた、事物との関係の起点でもある。
「私」を起点とした事物との関係によって構築されるのが「私の心(意識)」
である。
最高位が物質的に特定できないと述べているのは、基点としての「私」
のほうだ。したがって神経生理学が「私の意識」についてその解明を
すすめることには、なんら彼にも異存はないはずである。
しかし、この基点としての「私(の存在性)」こそが唯物論者はもとより
多くの非唯物論者をも躓かせた石である。
ただ、反・最高位の面々の批判には「私」と「私の心」を一緒くたにして
なされているものが少なくない。
63 :
花魁:2007/05/05(土) 18:45:58
>>35 「存在」と「状態」の違い、という点についてお伺いしたい。
素人氏の言われる「存在」と「状態」の相違とは
存在…それ単独で指示されるもの
状態…他の「状態」との相対的な関係として指示されるもの
と理解して良いのでしょうか。
>>34の文章からはそのように思われてくるのですが、
そう考えて問題はないですか?
65 :
花魁:2007/05/05(土) 19:23:43
決定論スレで、
「私の名前は哲学者最高位である」と述べる最高位氏に対して、
「私の名前は哲学者最高位でない」と反論するカキコがありましたね。
決定論スレで書こうかと思ったが、
スレ違いという指摘があるかもしれないと感じたので、
ここに書きます。
結局この問題の本質は、
私にとって「私はAである」が真であるとき、
他人にとって「私はAである」は偽でなければならない、ということです。
すると「私はAである」という文は真であり、かつ偽でもある、という
矛盾した命題が存在することになる。
この矛盾は、もし「私」が語り手と語られる対象との
関係性を表す概念であると考えれば、解消するでしょう。
しかし私が語り手と対象との関係性であるとすれば、
そこでの<私>は、常に認識の絶対的前提とされる<私>ではあり得ない。
<私>の意味が後者の側でありながら、
なおかつ「私がAである」という命題の矛盾性という問題は
如何にして解消されるか?
この点について、何らかの見解を持っている方がいたら、
その見解を伺いたいものですね。
66 :
花魁:2007/05/05(土) 19:27:00
>>64 ああ、そうでつね。気づかなかったでつ(~_~;)
67 :
花魁:2007/05/05(土) 19:38:58
>>65への自己レスになりますが、
現時点でのオイラの見解は、
>>29の前提Aです。
言葉は<私>が与えるものであって、
他者との間で中立的・客観的に与えられているものではないからこそ、
「私がAである」が真であることは絶対であって、
他人にとって「私がAである」が偽であるは
成立しないのではないかと思ってます。
(これこそ、
>>29の前提Aが要請された核心的理由なんですが)
68 :
ネコの味方:2007/05/05(土) 20:14:01
>>65 その場合、“私”という呼称に拘っていては迷宮に陥るのでは?
「私がAである」と言表するとき、その外に隠されている「語り手」がいる、
というのはあなたの指摘のとおりだろう。それは私小説の主人公の“私”と
似ている。私小説に登場する“私”は語り手に操られる作品のなかの関係性
を表す符牒と言ったほうがいい。
では、語り手が「私」なのか。語り手もまた「私」の分身である、というのが
相場らしい…。あなたの言う矛盾は「私の階層性」に解消できるようにも…。
それはともかく最高位の「私」は、この種の問題と無関係ではないけれども、
別の観点から発想されているようだ。
69 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 20:16:48
これは難しいな
どんな情報がほしいかで記述内容が変わってくる
どんな属性が欲しいのか?
それに万能に答えるには
今までの全宇宙のデータも必要
そうすれば、
物質的には10億年前に自分を構成している元素の存在した位置
をも答えることができるし、
人間の観念的に知りたい属性にしても
うまく答えることが
できるかもしれない
これは私を記述する用途に関してすべてのありえることを
可能性として保持しないといけない
たとえば、どんな学問を学び、どんな宗教に影響され(もしくは無宗教か)
どんな人間の影響を受けたか、どんな法律が精神に影響を与えるか?
そういった人間がとらえる意味的なデータベースも必要
1)言葉以前に、わたしは確立しない。「わたしはAである」と言うことで、
同時にわたしが確立する。
2−1)しかし、言葉以前に言葉を語るわたし=主体がいなければ言葉を
語ることは出来ない
2−2)また、わたし=「わたし」ではない。たとえばネコをあらわすとき、それは
「小さな飼いならされたネコ化の動物」という複数の言葉であらわされる。つまり
存在とそれを表す言葉は自己同一的ではない。常に外部の言葉を必要とする。
2−2−1)したがって、「わたしはAであり、Bであり、Cであり、……」という無限に
続く言及によって指し示される。
3)だから「わたし」とは無限に続く言及を一つにまとめる働きのことであり、主体は
常に同一だが「わたし」はつねに無限に言及される言葉の連なりの中に存在する。
3−1)たとえば眼は、自身を見るときには鏡という外部を参照する以外にない。
主体は、「わたし」という言葉=外部を通してのみ自己を形成する。
>>65 Aさんが「私はAである」と言ったらそれは誰にとっても真だし、
Aさんでない人が「私はAである」と言ったらそれは誰にとっても偽だ。
2007年に「今は2007年である」と言ったらそれは誰にとっても真だし、
別の年に「今は2007年である」と言ったらそれは誰にとっても偽だ。
何の問題がある?
72 :
ネコの味方:2007/05/05(土) 21:32:55
>>67 最高位の言う「私」は彼の言う「自我」と同義である。
「私の心」「私の意識」「私の精神」は「自我意識」と同じ意味だろう。
心や意識や精神を剥ぎ落とした基底の“存在性”が彼の言う「私」である。
おそらく、これは彼が思考実験の末に到達したのだろう。いささか神秘的
であり、抽象的でもある。
少し前に、この“存在性”としか呼びようのない「私」を、物質の根源に見出
される『素粒子』になぞらえて笑われたが、この類比はいまも気に入っている。
「心」と「物質」の底は私(たち)の常識を超えているのではないか。
>>70 きわめて精緻に述べられており、とくに異論はないが、その「主体」の由来は
不明であり、神秘性まとっているのは否定できない。
73 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 21:45:33
死にいたる病
>>72 「主体」というのは、「想定される機能」ですよ。
「想定される」というのは、言葉が発せられる以前に<在らねばならない>
という意味で。
「機能」というのは、自身を指し示す言語の連なりを織り上げる空虚、という
意味で。
だから「わたし」というのは、「主体」がリアルタイムで織り上げる言語の連なり
です。
「わたしらしさ」というのは、その織り上げ方の独自性です。
その独自性は、織り上げられてはじめて見えるものであり、織り上げられる前には
現れていないにもかかわらず、織り上げられたことで遡及的に想定されるものです。
>>65 >>31を書いたものだけど。
俺も
>>71さん同様ここに問題はないと思う。
私にとって「私はAである」という文は真であり、
他人にとっては「私はAである」という文は偽であるということでここに矛盾はない。
だからこれは
> この矛盾は、もし「私」が語り手と語られる対象との
> 関係性を表す概念であると考えれば、解消するでしょう。
でほぼ正解であり、ここで終わると思う。
>>76 ちょいと横レスを挟む。
ネコや花魁は、矛盾・無矛盾について目を向けているのではない。(視野には入っているだろうが・・)。
「基点として残らざるを得ない何ものか(―最高位はそれを『私』『存在性』と表現しているのだが―)」について、
それが「捉まえ得るかどうか」に、その視線は向けられているように見える。
78 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/06(日) 02:27:56
>>65 >「私の名前は哲学者最高位である」と述べる最高位氏に対して、
>「私の名前は哲学者最高位でない」と反論するカキコがありましたね。
反論???
ホントに頭大丈夫か?
哲学者最高位でない人が、「私は最高位ではない」というのは当たり前だろ
私が私と言うのと、他人が私というのは別だろバカ
基地外か?
そんなこと言ってると、小学生からも「おじちゃんバカじゃないの?」って言われるぞ
キミら
明らかにマトモじゃないんだよ
顔を見てみたいもんだ
NGワード
哲学者最高位
80 :
考える名無しさん:2007/05/06(日) 03:23:38
仏教は知らぬが「天上天下唯我独尊 」という言葉は知って居るぞ。
デカルトは読んだこと無いけど、「我思う 故に我あり」は知って居るよ。
>>78 それがわかってて、なんで「他人は私にならない」って当たり前のことがわからないんだおまえは。
82 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/06(日) 12:59:31
>>81 「他人は、私とは別人だ」なんて当たり前だろ基地外
じゃあ、それを公理として自分の思考実験を再度書いてみてくれ。
84 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/06(日) 13:11:37
>>83 はぁ?
基地外には理解できんと思うけど、仕方ないから書いてあげるよ
いかなる物理的要素の物体を作成しようとも、それは絶対に私にはならない
すなわち
私は、この体の物理的な要素に由来して私であったのではない という事であり
人間の精神は物理現象に規定されているのではない という結論に至る
唯物論は間違いなのである
85 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/06(日) 14:00:04
私が私として存在した原因的根拠は、物理的要素に特定される事は絶対にない って事
オレってホントに親切に説明するよな(笑
>>85 >私が私として存在した原因的根拠
これに対して、2種の回答の仕方があることがまだ判らないのか?
イ:単純な理由・・・「両親がセックスしたから」等から始まる詳細な記述。
価値判断・意味の入らない因果関係と言ってもいい。(ただし、スパンの区切りは必要)
ロ:そうではなく、もっと根源的な理由・・・「?????????」
※ここには、「なんでもあり」かの如くあらゆる言明が代入可能だ。
「両親が子供を望んだから」でも、立派な理由になるwww
イに納得できずロについて問うことが、
「意味」「(因果関係の羅列でない)物語」を問うことであることにいいかげん気付け。
そしてそれは、
『およそ「存在する」とされるもの全て』に対して共通に問えるものであることに気付け。
『私』だけについて発せられるものではない。
87 :
考える名無しさん:2007/05/06(日) 15:33:29
『私』が「存在している」と認識しているのだから、
私が私として存在した原因的根拠は『私』だろw
88 :
考える名無しさん:2007/05/06(日) 15:47:49
私が私としてこの世界に存在している必然性がある
と考えているのならば、運命論になる。
89 :
考える名無しさん:2007/05/06(日) 16:39:28
性犯罪の量刑 実態と被害者
東京都足立区東綾瀬で、18歳と16歳の少年が帰宅中の女子高校生を誘拐、両親も
同居する自宅に監禁し、暴行殺害する事件が発生した。40日の監禁中、少年らは
被害者の陰毛を剃り、手足に揮発性オイを塗ってライターで火をつけ、熱がるさまを
見て笑い転げた。遺体の性器及び肛門にはスポーツドリンクの瓶が突き刺ささっていた。
このような犯行にもかかわらず、未決勾留期間が刑期に算入され、仮保釈制度が適用
されるため、主犯以外は最高でも6年半で仮出所、主犯も今年には仮出所した。
服役中は給料(作業報奨金)が支払われ、土日休業、平日は毎日3時間の自由時間がある。
主犯は7月には大検(高校卒業程度認定試験)を受験するという。
受刑者1人当たり月20万円の税金が投入され、被害者側の税金(消費税を含む)
で賄われている。一方、被害者の遺族は、警察の検死場所から遺体を引き取るための
自動車代まで支払わねばならなかった。 女子高生コンクリート詰め殺人事件 より
詳細は、女子高生コンクリート lynch で検索できます。
90 :
542:2007/05/06(日) 19:00:35
楽園を追放された人間は科学に頼るしか真理に近づく道はないんだよ。
人間の限界と科学の限界は同じ位置に有る。
>>63 > 「存在」と「状態」の違い、という点についてお伺いしたい。
状態=物自体
と考えればわかりやすいよ。
猫: にゃ〜。調和が機能かどうかは知らないけど、肉体の諸要素の何かの組み合わ
せが「とりもなおさず、魂に他ならない」というのは、当たっているわね。物理主義は、心
をそんな風に考えるのよ。少なくとも、心的な実体や心的な出来事や心的な現象と考
えられているものは、すべて本当は物理的なものに他ならないと。でも、用語で混乱し
ないようにしたいわ。この種の存在論の基本的な枠組みは、<個体>と<個体がもつ
性質>の二つ。で、「実体」とか「出来事」とかいうのは個体の別名なんだけど、「現象」
とか「状態」という言葉は曖昧ね。ときには、個体を指すつもりで使われることもあるけ
ど、大体は性質の意味だわ。少ししっくりこないかもしれないだけど、「脳がしかじかの
状態である」というのは、「脳という個体(人物という個体の部分となっている個体)が<
しかじかである>という性質をいまもっている」ということ。まあ、存在論って、なんて厄
介なんでしょ。オマケにもう一つ。存在論ではよく、「これこれの性質が例化される」って
言うけど、これは、その性質をもった個体が存在するようになるってことなの。さしずめ
、あたしは、<猫である>っていう性質の例化ね。それとも、<美しい>って性質の例
化かしら?
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/Socrates.html
必要なポイントとしては、
・「私」の階層分類。(それぞれに適切なラベルを振ることができれば尚良し)
・「存在(の仕方)」の分類。
→概念の存在の仕方/意味・価値の存在の仕方/
感情・想いの存在の仕方/感覚の存在の仕方/
物質(個物・実体)の存在の仕方/現象の存在の仕方/事象の存在の仕方/
構造の存在の仕方/関係の存在の仕方 等
※そしてこのあと、「ある」か「ない」かを言明する場合には、
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177677748/483 のような注意が必要だろう。
・対象の認識が、フィルター越ししかありえないことに、どう折り合いをつけるか。
→他者の事例が自身に適用できるのか。或いは逆に、自身の事例が他者にも当てはまるのか。
・「使用されたラベルによって、『何が』指し示されているのか?」のコンセンサス。
といった感じだろうか・・・。
哲学的に、とか、統一理論的に、とかでなく、
このスレ的には、まず「『存在(するということ)』の形式分類」が必要なのかな・・・。
93氏のような知性がこのスレに求められています。
95 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/07(月) 01:32:41
こちらも新スレですね
おめでとうございます。
やはり最高位さんは私を唯物論者にしたいようですね。
明らかに世界はあなたの想念なのだ。想念とはあなたが投影したものである。
はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。
世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。
そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造の謎も解明されるのである。
それゆえ、私は言うのだ。「真我を探求しなさい」と。
今一度言おう。世界があなたのもとへ来て、
「なぜ『私』は存在するのか?『私』はどうして創造されたのか?」と尋ねるだろうか?
その質問をするのはあなたである。質問者は彼自身と世界との関係を確立しなければならない。
彼は世界が彼自身の想像であることを認めざるをえない。
なるほど、あなたは世界が実在だと言う。
だとすれば、自分自身の実在性についてさえ無知なあなたが、
世界の実在性を証明しようとしていることを、世界は無視しているのである。
あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだはずの人と会話をするような夢を見たとしよう。
一瞬あなたは夢のなかでその夢を疑って自分自身に言うだろう。
「彼は死んだのではなかったか?」けれどもあなたの心は、何とかしてその夢のできごとと和解して、
夢の目的に合わせてその人が生きていてもよいとする。
つまり夢は夢として、あなたがその実在を疑うことを許さないのである。
夢でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の実在性を疑うことはできない。
心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることができよう。
「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 第17章
573 考える名無しさん 2007/05/07(月) 10:01:19
>> 563
最高位的に突っ込むと、ノルアドレナリンに操作されるのは何?
怒るのは誰?
「私のこころ」を狂わすことはできても「私の存在性」を抹消する
ことはできない、となるのかな。
>> 573
まさにその通りでしょう。
どんなに支離滅裂でへんてこりんな精神になったとしても、
【彼(というか『何か』)が「そこに居ること」は変わらない】からです。
問題は、「死」が、そこにどう絡むのかということです。
もし、「死」によって『彼(というか『何か』)』が消失するのであれば、
そこには、【『彼(というか『何か』)』を存在せしめている要素(条件)があり】
その要素(条件)は、【「死」によって失われるものである】という仮説を立てることができる。
ここが、最高位の気付いていない部分の一つだと思われる。
98 :
考える名無しさん:2007/05/07(月) 11:54:46
私は、この体の物理的な要素に由来して私であったのではない
と、最高位はきっぱり主張している。
つまり、身体とは独立した精神(主観性であるところの心・魂)が、非物質的
な実体として在るということだ。このことは、身体が滅びることによって『私』
が消滅する必然性はないということであり、一般的な「死(脳死等)」の解釈
は意味をなさない、ということを示すのであろう。
99 :
花魁:2007/05/07(月) 12:05:33
僕が書いたものに応答してくださった皆さんに、まずは感謝します。
取り敢えず、
>>71、
>>73、
>>78に返答させて頂きます。
貴方たちのおっしゃっていることは、
僕が
>>65で、
>この矛盾は、もし「私」が語り手と語られる対象との
>関係性を表す概念であると考えれば、解消するでしょう。
と書いた、その解消法のことと推察します。
この解消法について、改めて整理するまでもないと思う方も多いでしょうが、
やはり明白な記述としておいたほうが
議論の混乱が避けやすいと思われるので、整理します。
<「私はAである」の矛盾が解消できる理由@>
AとBが異なる人間であるとして、
Aの発言:「私はAである」(真)
Bの発言:「私はAである」(偽)
が矛盾しないのは、Aの発言とBの発言が現象として同じ表現を用いていても、
文の正確な意味が、本当のところは次のように異なっているからである。
Aの発言:「Aは、語り手Aの自己である」
Bの発言:「Aは、語り手Bの自己である」
二つの文は、(表面的に同じであっても)実は異なる文なのであり、
文が異なっていれば、一方が真であり他方が偽であっても矛盾はない。
>>71、
>>73、
>>78、はこのような考え方を述べておられる。
100 :
花魁:2007/05/07(月) 12:25:34
しかしながら、(
>>68や
>>77には気づかれているかと思うのですが)
>>99では「私」にまつわる問題を十分表現できていない。
>>99の「私(自己)」が指しているのはAとかBとかいう語り手
(お望みならC・D…と付け加えても良いが)であるに過ぎない。
もっと正確にいえば、ここでの「自己」という概念の意味は
むしろ「語り手Xと同一的な関係」という「関係」の一種を指しているわけで、
特定の現象する何かを指していないわけです。
そして、これが関係を表す概念に過ぎないが故に、
認識の絶対的基点としての「私」を表現する役割を果たしえていない。
>>65で問題にしていることは、関係ではない「私」が指示できるかどうか、
なので、
>>99で整理した「私(自己)」では表現できていないってことなんです。
ちなみにこれは、永井均氏が『<子ども>のための哲学』で示唆していた問題です。
(但し、永井氏の言うところによれば、この問題の更なる元ネタは
ウィトゲンシュタインの『青色本』なんだそうですが)
101 :
考える名無しさん:2007/05/07(月) 12:33:06
>>100 >関係ではない「私」が指示できるかどうか
指示できませんよ。
中世の普遍論争を見ればわかるように、
厳密な意味での「個」は指示できない。
これは「私」に限ったことではないでしょう。
102 :
考える名無しさん:2007/05/07(月) 12:37:05
ちなみに普遍論争の「個」の立場をある意味で受け継いだのが
実存主義的思想で、その実存も指示できないもの。
実存はつねに「〜である」と規定する側にあるのであって、
規定されることはできない。
規定された時点でそれは実存からは逸れてしまう。
103 :
花魁:2007/05/07(月) 12:38:24
>>68 階層の導入を図ると、無限に階層化が必要になるという危険性はないでしょうか?
「(((私を語る)私を語る)私を語る)…」みたいな。
僕の考えでは、むしろ問題が仮に解決できるとしたら、
階層化を止める方向にいかなければならないように感じるんですが…
>>91 ごめんなさい。いまいちわかってませんけど、
状態=物自体、ということは、
それと対比して存在=現象、ということなんでしょうか?
104 :
花魁:2007/05/07(月) 12:45:20
>>101 「私」の問題は「個」の問題ではないと思います。
「私」とは「現れていること(の総体)」というほどの意味なので、
個物が指示できるかという問題は、
むしろ
>>99でいうA・B…の類が指示できるか、という問題であって、
「私」が指示できない事情は、個物が指示できるかどうかという事情とは
別個だと思います。
>>103 求められるべき階層は、そうしたものでなく、
【『その在り様』の差異】に注目してみよう、
【その(ラベルが)使用される文脈の階層】をきちんと分別してみよう、
ということと思われる。
106 :
考える名無しさん:2007/05/07(月) 12:51:55
>>104 実存を指示できないことの本質には、
実存が他との共通性を持たないことがあります。
他との共通性を持たない「個」のことを中世の
ドゥンス・スコトゥスは「このもの性」と呼んだ。
その点で実存は普遍論争からつながっているのです。
107 :
花魁:2007/05/07(月) 12:58:03
>>105 その意味でなら、納得できます。
>>106 う〜ん、今の僕の能力では、反論するのは困難ですが…
ただ、「私」の問題を個物の問題に解消されたくないという思いは
依然として残るのです…
108 :
考える名無しさん:2007/05/07(月) 13:04:34
>>107 もちろん実存の問題のすべてが個の問題に還元される
わけではないけれども、実存を指示できないことには、
絶対の個を指示できないこととの密接なつながりがあるということです。
>>104 >「私」とは「現れていること(の総体)」というほどの意味なので
それと
>認識の絶対的基点としての「私」
の間には矛盾がありませんか。基点というからには、認識の対象となるもろもろの
存在とは区別されているのでは。
110 :
花魁:2007/05/07(月) 13:47:58
>>109 >基点というからには、認識の対象となるもろもろの
>存在とは区別されているのでは。
もちろんです。
「現れていること(の総体)」という表現が
誤解を招きやすかったかもしれませんけれど、
これは「いまこうして現れている意識」ということが言いたかったので、
認識対象となる存在全般を指しているわけではありません。
111 :
ネコの味方:2007/05/07(月) 14:30:23
>>97 あっちのスレ、こっちのスレと忙しいですね。
最高位は私以上に挑発的言辞を弄するので観客を興奮?させてやまないが、
彼が賢明なのはノリを超えないことだろう。
彼は『死』を語らない。それが経験できない“非在”であることを知って
いるからだろう。まして“死後”について述べたことはないはずだ。
彼が死にまつわる諸々に触れないのは「気づいていない」からではなく、
それをどう語っても畢竟、哲学からの逸脱(宗教)にしかにならないことを
心得ているからではなかろうか。
一度、聴いてはみたいけどね。機械氏の場合、どうせ“死”も杓子定規的に
定義しちゃうんだろうね。
>>110 「いまこうして現れている意識」には具体的な内容があります。
独我論的にいえばそれが世界のすべてなので、
>>99のAもBもCも「語り手X」も
いわゆる個物も、すべてその一部分です。この意味では「私=世界そのもの」
なのであって、「私」は「基点」という意味を全く持ち得ないと思われます。
その限りでは「私」という言葉が成立する理由もありません。
一方、「いまこうして現れている意識」の外に「認識対象となる存在全般」を
認めるなら、「意識」も「認識主体」もその存在全般の内部に位置付けられます。
そうでないと、認識対象との関係性を持つことができないので「認識主体」である
ことはできませんし、広がりを持つ世界の中の「基点」であることも、できません。
こうして初めて「私」は「認識主体=認識の絶対的基点」という意味を持ち得ると
思われます。
この場合は、世界の中の一個物である「語り手X」が、すなわち
「私=認識の絶対的基点」です。そう考えないと
「私は人間Xが生まれるまでは存在しなかった」とも言えないし、
「人間Aも人間Bも人間Cも他人であって私ではない」とも言えないし、
そもそも「自分以外の認識主体・私・認識の絶対的基点が存在する」
というような命題に意味を与えることも、できません。
(続き)
これに対して「いや、語り手X=私=認識の絶対的基点だと考えている当の
存在は何なのだ? それは語り手Xでは有り得ないし、世界の内部に存在する
個物では有り得ない。」というような議論を展開する方がよくいますが、
率直に言って私にはよく意味がわかりません。そもそも「自分自身をも認識対象
として客観化できる」ということが「自我である」ことの本質の一つなので
あって(恐らく時間とか記憶という問題がからんでいると思いますが)、
認識主体が同時に認識客体でもあり(正確には時間的にずれているので認識客体
である私は認識主体である私からみれば「他者」だと思いますが)、
世界の中の一個物である語り手Xが、(どうしてかは謎ですが)「自我である」
という性質を持っていて、認識主体として自分をも含む世界を認識している、で、
何ら過不足はないとしか思えないのですが。
さらに、唯物論的に言えば、「個物X」は常に「自我である」という性質を
持つわけではなく、熟睡したり気絶したり死んだりしているときには、
「自我である」という性質を持っていない、ということにもなるでしょう。
114 :
ネコの味方:2007/05/07(月) 15:39:48
>>86 「存在するすべてに対して共通に問える」との言明が超越的なのです。
細かく揚げ足をとると、“存在するすべて”とは「私」に現前する諸現象の
ことでしょう? 「私」は、それについて言及することはできる。このとき、
「私」は諸現象(世界)の限界に位置している。
もし、この「私」と世界(諸々の事物)を同列に述べようとすれば「私」の外に
『私』は立たなければならない。さらに、この『私』と世界を同列に…。
“私”と“世界”を同時に対象化する言明が超越的(空想的)だとされる所以で
ある。感嘆子の言説にも時おりそれを感じ、その際は突っ込んでいます。
115 :
ネコの味方:2007/05/07(月) 15:49:15
感嘆子が登場しましたね。読んでから、質問させてもらいます。
>>115 どうでもいいことですが、私は「登場する」ほどの代物ではありませんw
最高位氏と違って「これが正しい」という意見を持っているわけでもありません。
興味のある問題について自分より詳しそうな方にいろいろ質問して考えの足しにするのが
本来のスタンスですので、
>>112-113もどうぞ遠慮なく突っ込んで叩き台にしてくださいw
たぶんカントやウィトゲンシュタインに詳しい方から見ると穴だらけなのだという
ことは想像できますので。
(本日のお返事はできませんが)
>>114 それは、他の事象はともかく、
≪『私』については、【何者も】【何事も】問えない≫
という告白の裏返しに見えるが?
だとするなら、それは、(君の嫌うw)「ブラックボックスの中への放擲」に等しい。
また、
>>93に於いて、「フィルター越し」という言い方をしたが、
≪自己について(『私』に関して)深く潜行する際には、【フィルターを介さずに】問うことが可能なのだろうか?≫
(PCに詳しい人は、プログラム上の論理式におけるループについて何か語って貰えるかもしれない。
PCと人間を一緒にするな!と、短絡的に脊髄反射する勿れ。
神経線維の集まりである脳を視野に入れるか入れないかは、重要なスタンスの違いとなろう。)
また、
>>113における、
>そもそも「自分自身をも認識対象として客観化できる」ということが
>「自我である」ことの本質の一つなのであって
>(恐らく時間とか記憶という問題がからんでいると思いますが)、
>認識主体が同時に認識客体でもあり
>(正確には時間的にずれているので認識客体である私は認識主体である私からみれば「他者」だと思いますが)、〜〜
のように、
むしろ、【認識できるということは、客体化されるということに他ならない】のではないか?
もっと言うならば、【客体化されていないものは、認識されていない】と言えるのではないか?
【認識(実感でもいい)されたものは、その時点で、瞬時に客体化されてしまう(!)】のではないか?
認識に於ける断絶は、外界についてのみあるのではなく、
【「認識という行為」そのものが持つ、本質的限界】なのかもしれない・・・。
118 :
ネコの味方:2007/05/07(月) 20:00:16
>>117 その限界を意識して語るのが超越“論”的であり、その限界に(あなたの嫌いな)
不感症のまま、世界を丸ごと語ってしまうのが超越的(だったかな?)。
また、後ほど。
119 :
考える名無しさん:2007/05/07(月) 20:39:55
私を私として明確に規定するのは、実は唯物論の方なんだよね!。
ヴォルフガング・パウリの排他原理により、時空の一点を占める存在としての私は
私以外にありえないんだ、唯物論では。
超越論的な私なんてものをでっち上げて悦に入るような奴は死ねばいいと思うよ。
120 :
考える名無しさん:2007/05/07(月) 20:54:59
絶対矛盾の自己同一たる場所的限定でもあるしな〜
『「時空の一点を占める存在」としての私』
と
『「思考(認識・実感)の核(基点)」としての私』、
・両者を併立させる立場
・後者を、前者の虚像とする立場
・前者を、後者の一側面とする立場
・後者を前者に解体吸収させる立場
・前者を後者に服従させる立場
・後者を前者に重ね合わせる立場(・・前者の向こうに後者を見る立場)
・前者を後者に重ね合わせる立場(・・後者の現れが前者であると見る立場)
みなさんはどちら?
多謝。
>>119
122 :
ネコの味方:2007/05/07(月) 22:37:45
>>119 “時空の一点”との言表が超越的なのである。君は時空(たぶん世界のこと
だろう)を、どうやってみたのだ?その一点とは、どの一点だ?
すべて観念論的言辞である。これが唯物論の正体である。超越的世界観の
典型、それが唯物論だと言っていい。
みたこともない時空(世界)をでっちあげて初めて成立する空想的世界観、
それが唯物論。すなわち宗教である。
ちなみに私(たち)は現前する現象の外を語らないし、外から言及しない。
外を語ることも、外に立つことも観念論的迷妄であることを知っている
からだ。
自分の世界観と相容れぬ人間は死ねばいい、というのは君の本音らしい。
オーム、あるいは昔々の連合赤軍とそっくりだね。
>>122 時空という表現が気に入らないなら、
地球上でも日本でも新宿区でも友引町でも(ウソw)どこでもいいよw
(ただ、そういうラベルを使用すると対象範囲が限定されちゃうから・・)
ま、君が
「世界は自分の認識の中にしかなく、外界は実在しない」という立場なら
話は別だが・・・( ̄ー ̄)ニヤリ
124 :
ネコの味方:2007/05/07(月) 23:56:25
>>123 >>119は、あなたなの? ふーん。
唯物論は、“純粋”観念論の相似形。すなわち独我論を逆さまにしたもの。
どちらも私(たち)の認識の限界を自覚できず、否、自覚したくなくて妄想に
耽っているだけ。片ほうは“時空”の外からその内側を一望したつもりになり、
もう片ほうは心的世界のなかに引きこもっているだけではないのか。
では、この妄想病を回避できるのか。難しいですね。
>>124 ワシが、あんな舌噛みそうなカタカナ名前の人物を知ってるわけなかろうww
>>121で、表現を借用したので補足したまで。
それに、(七誌を続けている理由の一つでもあるが)、
今のところ、流れは、「問題点の洗い出し」になっているようだから、
主義主張は薄めたレスを心がけているw
126 :
考える名無しさん:2007/05/08(火) 00:11:47
>>124 おいおい勘違いすんな。123氏は俺とは関係ねぇよ。
つーか君の言ってる事が本気でわからないんだが。
唯物論が超越的であり、観念論的言辞だ、とは何の事だ?。
文脈から判断するに、観念論も唯物論も「妄想病」としちゃってるようだが、
じゃあ君は君の言う「私」をどう語るつもりなんだ?。
すべての表象は観念的人間のフィルターを通した観念。だから唯物論も
観念論の一種・・・という単純な論理。
果たしてこの単純な論理が正しいのかどうか。
>>127 ネコは、そういう観点で唯物論と観念論を対置させているのではないと思う。
フィルターを通す通さないじゃなく、
対象へのアプローチの方法(言い換えれば捨象の方法)がそっくりではなかろうか?というものではないか?
わかんないけどw
129 :
ネコの味方:2007/05/08(火) 01:13:42
>>126 キリスト教がその典型だが、世界を包括的に語るでしょう?
「すべては神の御心のまま」とか。
唯物論を強引に要約すれば「すべては物質の御心のまま」ということでしょう?
この種の物言いを「超越的」と断じているのです。
130 :
考える名無しさん:2007/05/08(火) 01:38:54
>>129 なるほどわかった。もう多くは語らない事としよう。
君はもう一度科学史と哲学史を紐解いて、君の述べる様な
「反証可能性を持たない論理」がどう扱われてきたか、を調べるといい。
ではおやすみ。
131 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/08(火) 02:23:06
>>98 :考える名無しさん :2007/05/07(月) 11:54:46
>身体とは独立した精神(主観性であるところの心・魂)が、非物質的な実体として在るということだ。
これはちょっと酷いだろう。
肉体あっての精神であることは子供にでも判る。
中枢は末梢の奴隷、と言う言葉もある。
その酷い主張をしているヤツがいる、てことだろ。
まぁ『私』を限定的にしていくか包括的にしていくかってことか
限定的でも包括的でもその差異が解消されてしまうのが唯物論にとって痛いとこ。
136 :
素人:2007/05/10(木) 21:42:44 0
一レスだけ貼っておこうか・・。
今見ると、粗雑に過ぎてお話にならないが・・・w
886 素人 ◆YLdWB0/d2s sage New! 2006/08/31(木) 03:16:47
再掲しろってことかw
1 :普遍的、一般名詞としての(単純に名称・ラベルとしての)「私」。
2 :日常会話で使用する(有効とされる)具体的行為の総合的主体としての「私」。
2a:上記の亜種として、肉体・物体としての「私」
2b:同様に、思惟するものとしての「私」。
以上は、大局で見れば1に包含されうる、場合によっては個別性の捨象が可能なもの。
以下は、個別性をより重視するもの。
3 :今ここに、この肉体を持って存在する生物としての「私」。
4 :今ここに、このように思惟するものとしての「私」。
4a:上記を享けて、思惟の根源としての「私」。
5 :3と4を享け、この肉体(外的な条件)と、この思惟(内的な条件)により、ここにある「私」。
6 :およそ内的なもの・外的なものの根源としての(全てに先立つ)「私」。
と、こんな感じだろうか・・・。
諸賢によって、より簡潔で判り易いものに添削されることを切に望む。
ちなみに、「(2としての)私」個人は、
このスレでの一連の流れの『私』を 5 と見るものであり、
6 を、(根源的実在・実体として)否定するものであり、
1〜5全て、諸条件により(仮に)そこに顕現している、と見るものである。
137 :
素人:2007/05/10(木) 23:23:19 0
138 :
考える名無しさん:2007/05/10(木) 23:51:57 0
こういうことされても
まったく読む気になれないんだがな。
だったら読まなければいい。
簡単なことだw
>>136 指し示し方が直接的か媒介的かの違いでしょ。
何を媒介に選ぶかで示し方も変わる(言語、他人、鏡、etc)
直接的には自分の背中を見るようなものだから、どこかで
「近似的」にならざるを得ない。その折衷が「物自体」
>>140 指し示されているものは全て同じものってこと?
142 :
考える名無しさん:2007/05/11(金) 19:20:06 0
>141
鋭い!!
そして、そういったデカルトの「コギト」的な、固い核としての「わたし」
ではなくて、あらゆる言語の束を縫い止める空虚としての「わたし」という
別の定義がある。
981 考える名無しさん sage New! 2007/05/11(金) 22:44:26 0
問その一:(ヒトの)認識に、埋められない断絶があるか?
ある→1aへ。 ない→2aへ。
問その二:水槽脳という喩えは適切か?
適切→1bへ。 不適切→2b・2cへ。
1a:あるとすれば、それは何故か?また、その断絶をフォローすることは可能か?
2a:ないとすれば、ヒトは外界(対象)そのものを、どのように受け止めることができるのか?
1b:感覚器や伝達、或いは変換というフィルター越しでしか外界そのものを知覚できないからか?
2b:知覚は脳のみで行われるのではない(感覚器を持たない)からか?
2c:脳による認識や五感以外の知覚認識方法によっているからか?
>>ネコ
真面目にクオリアスレ読みました。
こちら二つと違って、密度の濃いやりとりがなされているようですね。
感嘆子さんも、こちらより登場頻度が多そうです。
あちらの32さんが、チャーマーズ(意識する心)をよく理解し、
簡明に語ってくれています。
読むのが億劫なら、あちらを参考にされると良いでしょう。
(って、もう参加済みか?w)
っていうか、読めよ!w
おやすみ ノシ
147 :
考える名無しさん:2007/05/13(日) 20:59:56 0
148 :
考える名無しさん:2007/05/14(月) 13:47:17 0
存在性理論て?
草馬由仁子タン関連?
別に見にいきたかーねぇな。
>>ネコ
少し一休みしたらどうだ?
今のままでは、手駒不足で最高位の二の舞になりかねん・・w
それでは勿体ない。
今のところ、最高位の通訳は君しかいないのだから・・・w
150 :
ネコの味方:2007/05/15(火) 11:06:58 0
>>149 きのうの小生の大忙しの議論は、判定勝ち?引き分け?判定負け?KO負け?
あなたから客観的にみて(主観しかないというのがネコの主張だろうと突っ込ま
ないようにw)どうよ?
151 :
素人:2007/05/15(火) 18:47:50 0
>>150 総合で引き分け。
「vs単純還元」では、判定勝ち。
「『私』の語義(何が指し示されているか)を、
[基点]とするか[自他の弁別によるものとするか]については判定負け」
「vs唯識」は、まだ、試合前の記者会見段階。(彼があんなに喋るのは珍しいw)
512 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/15(火) 09:57:41 0
>>509 あははは!!!!
あなたは『私』が存在している事の、とんでもない不思議さが
まだ理解できていないんですよ
あなたの解説を要約すると
『私』は存在する
その『私』が認識するものは『他』である
というものであって
私の存在性の、原因にまで遡れていません
>「他」というのは「私」と相互規定的な概念なのですよ。
>「他」がなければ「私」もないし、「私」がなければ「他」もないのです。
本来は、「他」しかいないのが通常の状態なんですよ
「他」があれば、「私」は必然的に現れるんですか?(笑
そんな事はありません
歴史を通じて、ついこの間まで「私」は存在せず、「他」しか存在しなかったのではないのですか?
では「私」が存在した原因は何でしょう
『この体』の何の物理的要素が、『私』なのですか?
513 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/15(火) 10:00:55 0
>>511 問題があるとか無いとか
そういう事を言っているのではありません
『私』が存在した原因
また『この体』が『他人』ではなく『私』であった原因的要素は
ありえないのだ という話です
515 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/15(火) 10:06:02 0
>>514 問題なくても、根拠がない(笑
その主張の『根拠』を尋ねているんですよ 私は^^
無いんですか? 根拠
518 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/15(火) 10:16:48 0
>>516 ん?
誰が呼ぶの?
何の道具?
154 :
素人:2007/05/16(水) 10:37:04 0
>>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1178895427/700 >キミらは思い込みが激しいからなぁwww
お前が言うなw
>>その「哲学者最高位」の『状態』にその存在を依存するのがあなたの『私』です。
>まず、ここが論理的飛躍だね
>『存在』を依存 していると、言い切れるかね?
>この体を通して、私は物理世界に顕現し、影響している だけかも知れないよ?
>少なくとも、この体には『私の存在性』を決定できる要素は存在しない という結論は出ているのだしね
飛躍ではなく、現在最も妥当と思える推論ということでしょう?w
感嘆子さんも私も、それ、原因的根拠(これも怪しい言い方ですが・・w)についてはわからない、と何度も申し上げている。
勿論、【貴方の上の文章も類推でしかない】のは明白ですが・・・w
それとも、貴方には理由が判っているのですか?
『私』が『私』であった理由が・・・。
何度同じことを言わせれば気が済むのでしょう。
飛躍は貴方の方ですよw
やはり、関連する一連の流れの中のポイントを総括しなきゃならないですかねぇ・・・。
しんどい作業になりそうだが・・・w
155 :
素人:2007/05/16(水) 10:43:02 0
補足:
AがBであるかどうかはわからない。
という言明が、
AがCであることの根拠にはならない。(勿論、AがBである可能性を排するものでもないw)
AはBではない。
という言明は、
AがDであることを否定するものではない。(勿論、AがCであることを保障するものでもないw)
単純な論理構造に見えるのだが・・・w
156 :
ネコの味方:2007/05/16(水) 15:48:07 0
>>素人さん
一昨夜の大忙しの際の、あなたの突っ込みの意味が少しわかりました。
時間がないので後ほど。
何度も言うけど、「感嘆子さん」と呼ぶのはやめなはれ。w
細かい“クオリア”に拘るのが私(たち)の立場。それは捨象しろ、
というのが仏教徒の素人さん。w
では。
感嘆子って誰が言い出したのか知らないけど、感嘆子の「子」はもしかしたら「感嘆の表現」って意味の「子」なんじゃないのか?
演算子とか指示子とかの。
158 :
考える名無しさん:2007/05/16(水) 16:44:56 0
>歴史を通じて、ついこの間まで「私」は存在せず、「他」しか存在しなか
ったのではないのですか?
「他」しか存在しなかった、と知った時点で「私」はすでに存在しているじゃないか。
アホだね、しかし。
159 :
ネコの味方:2007/05/16(水) 19:50:55 0
>>157 感歎子と最初に名づけたかたは優秀だったですね。名無しでしたけど。
この“子”は、老子、孔子のそれでしょう?
160 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 07:26:38 0
>>154 >感嘆子さんも私も、それ、原因的根拠(これも怪しい言い方ですが・・w)についてはわからない、と何度も申し上げている。
そうですね
わかりませんね
こんなのは当たり前です
しかし
それは誤魔化しなんですよ
何を誤魔化しているのかと言えば
私が言っているのは、「その原因的要素が『物理的要素』である可能性は、ゼロである」
なんですからね
あなた方は、その話題を避けて
話をすり替えて誤魔化しているんですよ
ですから何度も言うように
物理的要素である可能性がゼロではない根拠を挙げて、私を論破して下さい と申し上げているでしょう
何度も言いますが
話をすり替えて誤魔化そうとしないで下さい
私に反論するのなら、本論から逸脱しないで下さい
161 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 08:46:24 0
私は無い。これ最強。
163 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 09:18:19 0
>>161 何が言いたいのかわからん
何か勘違いしてるんじゃないの?
『私』というものが
何かしらの物理的要素である可能性を示しなさい と言ってるんだよ
「この物理的要素が『私』である」と、具体的に答えを出せる可能性はあるのか という事です
それを作成すれば『私』になる要素ですよ
164 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 09:22:11 0
私が無けりゃすべてが無いわな
これ観念論の極意。
167 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 09:34:08 0
>>165 ぷ じゃないよ基地外
今、画面を見て、字を読んで、考えている主観性が『私』なんだよ
「『私』はいない」と、いくら思っても
思っている『私』がいるだろ
疑っても、疑っている『私』がいるだろ
否定しても、否定した『私』がいるだろバカ
169 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 09:39:00 0
172 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 09:49:58 0
>>171 体は世界中にいっぱいあるだろ
何で、この体は私なんだ?
>>172 それって設問?の順番違わない?
何で私はこの体なんだ?ならわかるけどw
意味不明だよな
175 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 09:58:35 0
>>173 「なんで、この体は私なんだ?」になると理解できないのかい
知能ひくっ!!!!
素人くん
小細工はいいから
先に
>>160に答えてはどうかね?
>>160 最高位氏、私が「わからない」と言っているのは、
「私はこの肉体から発生したものなのかどうか」であります。一般化すれば
「人間の自我は人間の肉体から発生したものなのかどうか」となります。
要するに心身問題についての唯物論的理解は正しいかどうか、です。
そして、仮に私がこの肉体から発生したものであるとすると、
「なぜ私はこの肉体であって、他の肉体ではないのか?」という疑問は、
「無意味」なのです。「わからない」のではありません。
なぜかというと、この場合には「私がこの肉体である」のは論理的必然であり、
「私がこの肉体でない」という事態は、どうやっても想定不可能だからです。
従って、「この体に『私の存在性』を決定できる要素が存在するかどうか」
などという疑問も、同じように「無意味」です。物質的要素も非物質的要素も、
当然何の関係もありませんw
仮に、私はこの肉体から発生したものではなく、この肉体が存在する以前から
存在しているのならば、「なぜ私はこの肉体であって、他の肉体ではないのか?」
という疑問にも意味があります。その場合は、もちろん「この体に『私の存在性』を
決定できる要素などない」ということになります。
こうして、結論は「唯物論が正しいかどうかはわからない」ということに尽きるので
あって、それ以上でも以下でもないのです。あなたご自身が「この肉体が存在する
以前に『私』が存在したと考える根拠は特に無い」とおっしゃっている以上w、
あなたも又「唯物論が正しいかどうかはわからない」と考えているわけです。
177 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 10:00:29 0
>>163 >それを作成すれば『私』になる要素ですよ
最高位氏、その『私』がすでに存在している「哲学者最高位の自我」を指すのなら、
何を作成しても『私』になることは有り得ません。「作成する」というのはいまだ
存在していないものを存在せしめることであって、すでに存在しているものを
「作成する」ことは、全知全能の神様でも不可能なのであります。
一方、いまだ存在していない自我(未来の『私』)なら、物質的要素によって
作成することは可能です。普通に生まれてくる子供の『私』でも、
「コピーヤング博士」や「コピー最高位」の『私』でも、同じことであります。
最高位さんw
「なんで、この体は私なんだ?」
文法がヘンというか
「なんで、私がこの体なんだ?」は
この体に対しての疑問。
「なんで、この体は私なんだ?」
これは私に対しての疑問。
私がわからなかったら答えようの無い無限ループの問いだ。
181 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 10:39:14 0
>>176 キミはカールルイスくんだね?
>「私がこの肉体である」のは論理的必然であり、
>「私がこの肉体でない」という事態は、どうやっても想定不可能だからです。
それは結果だからね
しかし
その結果に対して、原因を求めるのは、無意味ではないぞ?
というか、重要な哲学的課題ですよ
この体と、この私は、唯物的な因果関係にあるのかどうなのか
という事です
>>178 うんうん
『私』を現象ではなく『存在性』である と認識した時点で
唯物論は崩壊するのですよ
唯物論は「人間の精神は物理現象にすぎない」という思想なのですからね
だんだん、理解できてきたじゃないですか^^
一歩一歩、進んで下さいね
存在性なんて言葉ないよw
183 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 10:44:27 0
サイコーイさんの「存在性」とは関係ないかもしれないけれども、
私が(私の世界が)こうしてここにあるという「偶然性」に驚いてしまう、というのは確かにある。
それを「必然」だと信じ込んでしまった途端、その驚きはなくなるのだが。
184 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 11:08:05 0
>>181 おや?。最高位はいつからこの「体」が「私」なのか、とか言い出したの?。
「私」は物理的要素に関わらず「私」でしかないんじゃなかったっけっか?。
>>181 >それは結果だからね
最高位氏、そこが問題なのですよw
「私」という言葉は、「結果としてすでに存在している特定の自我」以外の
意味(指示対象)を、持ち得ないのです。それこそが問題の核心なのです。
「私が存在しない状態」というのは、その「私」がすでに存在しているので
なければ、どんな状態を指すのか意味を確定できないのであります。
>その結果に対して、原因を求めるのは、無意味ではないぞ?
もちろんそうですが、結果として「哲学者最高位の自我=私」が存在している原因は、
唯物論的には「哲学者最高位の肉体」であります。さらに言えば、その肉体が
過去に死んだり植物人間になったりせずに現在無事生きているからだ、とも言えます。
まさに「この肉体の物理的要素」によって私は存在しているわけです。
特に何の問題もありませんw
>『私』を現象ではなく『存在性』である と認識した時点で
>唯物論は崩壊するのですよ
最高位氏、現象だとて「存在する」のですよw というか、現象でない存在など
ありません。ツブツブ素粒子wが存在して、素粒子のカタマリが存在しないという
あなたの解釈は、はなはだ理解不能であります。
あなたの大好きな「富士山」も「琵琶湖」も「哲学者最高位の肉体」も
「哲学者最高位の自我=私」も「この水分子」も、同じように存在するので、
「作成する」ことなど不可能であります。神様は「黄金の山」なら作成できますが、
「富士山」を作成することはできません。
ところで「すでに存在するものを作成することは論理的に不可能である」ことは
お認めになるのですか。これはまた長足の進歩ですね。この調子で
一歩一歩進んで行こうではありませんかw
186 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 11:19:07 0
>180
>「なんで、この体は私なんだ?」
>これは私に対しての疑問。
問題は私に対しての疑問を誰がしているかということだが
どう考えても私ではなく体だな
体に私がいるのか?
最高位理論は崩壊だな。
188 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 12:04:33 0
>>180 >私がわからなかったら答えようの無い無限ループの問いだ。
正常な人でしたら、私がわからない というような事はありません
>>183 >私が(私の世界が)こうしてここにあるという「偶然性」に驚いてしまう
あなたは、哲学的センスは持っていると思います
しかし、偶然性というのは、必然ではない結果の事であって、原因があります
まず何かが存在し、そして原因が無ければ起こりえません
あなたが言うような、「存在する偶然性」というようなものはありえません
それは「原因のわからない結果」を、そう呼んでいるのであり
混同し、錯覚しがちな表現です
>>185 あー、キミはまだ
自分が存在しない状態を、客観的に想像する事ができないんだね
確かにコレ、ちょっと難しい
完全に主観的な立場からと、完全に客観的な立場という両方の立場から思考できないと
私の言っている事は、実は本当の意味では理解できないんだよね・・・
やっぱり結構、知能いるのかも知れないわ
>ところで「すでに存在するものを作成することは論理的に不可能である」ことは
>お認めになるのですか。
でも、これは簡単じゃないかな
一旦、分解して組みなおしたら、どうなんかな?
その素粒子レベルの個別性に至るまで、物質的な違いは何も無いよね
>>188 じゃあ最高位は私は何かわかってるの?
わかるわからないは私は決めること?
>>188 素粒子レベルの個別性ってなんだwわけのわからん造語で誤魔化すな
そもそも素粒子って何だか知ってるのか?
191 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 12:26:09 0
>>187 彼は論理的な事は何も言っていないんだがね
唯識、唯識って、やたらしつこいな
ひょっとして自演???
>>189 原因的要素についてはわからんが
私は、この主観性そのものなんだから
わかるもわからんもないだろwww
常に認識しているよ?
私がね
普通の人は、私が私を認識しているんじゃないの?
それを自我意識というんだよ
キミ達には無いの? 自我意識(笑
193 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 12:37:26 0
かつては同じ同胞だったんだがな
194 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 12:55:20 0
相対論も量子論も知らないっと
195 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 12:59:50 0
>あなたが言うような、「存在する偶然性」というようなものはありえません
それは「原因のわからない結果」を、そう呼んでいるのであり
混同し、錯覚しがちな表現です
なぜそう決定されるのか不明です。
196 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/17(木) 13:03:47 0
>>195 いやいや
表現の問題だけだと思いますが・・・
では何の偶然なのですか?
私は、何の偶然とも言えないと思います
今日はこの辺で
197 :
素人:2007/05/17(木) 13:44:50 0
えらい伸びてるな・・w
>>160 > 私に反論するのなら、本論から逸脱しないで下さい
何度も言いますが
私にとっての本論は、「『私』は【どのようにあるのか】」です。
唯物論の正当性を目指すものではありません。「根源的意味としての原因」を問うものではありません。
また、物理的要素への単純還元を目指すのでもありません。
現在、21世紀初頭の現段階に於いての「もっともらしさ」という点で、採用させていただいてるだけです。
貴方が、これ以上の「もっともらしさ」のある解説を打ち立てることができるなら話は別ですが・・w
> >感嘆子さんも私も、それ、原因的根拠(これも怪しい言い方ですが・・w)についてはわからない、と何度も申し上げている。
> そうですね
> わかりませんね
> 私が言っているのは、「その原因的要素が『物理的要素』である可能性は、ゼロである」
> なんですからね
「原因的根拠」と「原因的要素」が同じことを言っていると、この場合は仮定しましょう。(本来は違うのですが・・・w)
簡素化します。
(Aを成立せしめている)Xが何であるかはわからない。 ≫これが上の部分です。あなたも「わからない」としている。
(Aを成立せしめている)XはCではない。 ≫これが下の部分です。
おかしいですねぇ・・・w 上の文と下の文とに、どのような必然的結びつきがあるんでしょう?w
「わからないこと」が、なぜ「Cではないこと」になるのか、まったく意味不明です。
Xは、BかもしれないしDかもしれない。そして、Cであるかもしれませんよね?w
198 :
素人:2007/05/17(木) 13:45:34 0
>>160 > ですから何度も言うように
> 物理的要素である可能性がゼロではない根拠を挙げて、私を論破して下さい と申し上げているでしょう
>>163 > 『私』というものが
> 何かしらの物理的要素である可能性を示しなさい と言ってるんだよ
可能性とは、積極的に示さずとも、消去法で残る仮説に対しても適用できるのだよ。
貴方も、そのやり方をとることがあるでしょう?
だから、むしろ貴方こそが、【可能性がない根拠】を示す義務がある。 わかりませんか?w
> 「この物理的要素が『私』である」と、具体的に答えを出せる可能性はあるのか という事です
「ゼロではない」ということです。 なんせ、まだわからないんですから・・w
199 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 13:53:39 0
>>188 >あー、キミはまだ
>自分が存在しない状態を、客観的に想像する事ができないんだね
>確かにコレ、ちょっと難しい
「客観的に想像する」というのは何のことだか意味がわかりませんがw、
「自分が存在しない客観的状態を主観的に想像する」ことなら、もちろんできますぞw
なぜなら「私」は特定の人間として現に存在しますので、当然「私」という語が何を
指示しているか特定できます。ですから、それが存在しない状態を想像することも
できるわけです。ちなみに、いつものあなた風に言えばw、そこで想像しているのは、
あくまでも「すでに存在している特定の人間である私」です。
これに対し、たとえばこの掲示板に「私は大正時代には存在していなかった」と
書き込まれても、その真偽は判定できません。発話者が誰だか特定できないと、
「私」が何を指示しているかもわからないため、その命題は真でも偽でも有り得る
からです。論理的には「45億年前」でも同じことです。
このように、この話は、
1.発話者が誰だか特定できないと、「私」の意味がわからないので、
「私が存在しない状態」が何を意味するのかもわからない。
2.存在しないものは、発話者になることができず、従って「私」であることも
「考える」こともできない。
という、まことに簡単な話です。「ちょっと難しい」ことなど、何もありませんw
(続き)
これが難しい話のように思えるのは、「私」と「特定の人物(例えば哲学者最高位)の自我」
に独立の意味を与えることができるかのように思える(錯覚する)からです。そうすると、
「私はなぜ哲学者最高位の自我(肉体)なのか?」という疑問には意味があると思えるし、
「哲学者最高位の自我(肉体)は存在しないが、私が存在する」とか、逆に
「哲学者最高位の自我(肉体)は存在するが、私が存在しない」という状態は想像できる、
と考えることになります(ちなみに永井均氏はそう考えています)。
ですから、「あなたはそういう状態は想像できると思いますか?」と以前お尋ねした
のですが、さて、いかがでしょうか?
>でも、これは簡単じゃないかな
>一旦、分解して組みなおしたら、どうなんかな?
>その素粒子レベルの個別性に至るまで、物質的な違いは何も無いよね
おお、最高位氏、この話は以前散々やったでしょうに(どの話もそうですが)w
一旦分解した時点で「それ」は消滅しているのですから、これは「現に存在する
ものを作成する」話ではありません。「かつて存在して今は存在していないものを
再び作成する」話であります。そして、これは「個物の通時的同一性」の話なので、
最後は解釈次第で「できる」とも「できない」とも言えるのです。
この点では「富士山」も「琵琶湖」も「この水分子」も「哲学者最高位という体」
も「哲学者最高位という自我=私」も、全く同じことです。
ある意味では、それらは継続して存在している、とも言えるし、瞬間ごとに
消滅と再作成を繰り返している、と解釈することもできるのであります。
私が言っているのは「現に存在しているものを作成することは、論理的に不可能である」
ということなのですが、さて、これについてはいかがでありましょうか?
202 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 15:18:44 0
哲学者最高位であるこの私が
『私』というものが 何かしらの物理的要素である可能性を 何遍も何遍も探って
みて どこにもなかったと言っているんだ。それが論理的帰結である。
と、言いたいのだろう。
最高位はいつから唯識を敵視するようになったんだ?
204 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 16:21:09 0
『私』の居ない世界を想像することが難しければ、
唯識のいう合わせ鏡の世界を理解するのはなお難しかろう。
205 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 16:35:47 0
>『私』の居ない世界を想像することが難しければ
難しい・・・「公案」か・・・
206 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 18:11:21 0
>否定しても、否定した『私』がいるだろバカ
またしてもデカルトから逸脱したな。
これじゃ、「散歩している私、もありですね? 」と反論した人と同じだ。
207 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 18:20:38 0
両手相打って声あり。隻手(片手)何の声かある」
みたいなw
208 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 21:02:02 0
「あなたも私も同じような身体・脳を持つのに」他人同士だね。
「あなたも私も同じヒトという種なのに」他人同士だね。
「あなたも私も主観を持つのに」他人同士だね。
で、何で片方が『この私』なの?
てな、馬鹿馬鹿しい話ではないですよね?
210 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 21:39:39 0
>>209 5連投してやっとレスありw
ひゃ、俺って。
211 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/18(金) 12:04:33 0
>>197 あのね
冷静に、よく考えて下さいよ
>現在、21世紀初頭の現段階に於いての「もっともらしさ」という点で、採用させていただいてるだけです。
だから私は、その「もっともらしさ」を破壊しただけだよ
代案など出していません
代案の有無は関係がありませんよ
それは次の段階の話です
>(Aを成立せしめている)Xが何であるかはわからない。 ≫これが上の部分です。あなたも「わからない」としている。
>(Aを成立せしめている)XはCではない。 ≫これが下の部分です。
>
>おかしいですねぇ・・・w 上の文と下の文とに、どのような必然的結びつきがあるんでしょう?w
あのね
私の説明は、上の文から下の文を導いているのではありませんよ
なんでそんな勘違いをしているのか、サッパリわからん・・・
アホとしか思えんな
>>198 >可能性とは、積極的に示さずとも、消去法で残る仮説に対しても適用できるのだよ。
『私』を作成する事は、何をどうやったって、絶対に100%不可能だ と言ってるんだよ
それなのに、どうやって具体的に「人間の精神は物理現象である」という根拠を導くワケ?
212 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 12:10:22 0
キミは唯物論の物理的存在がどういうものか理解できていないんだよ。
『私』が説明できないのは、『物質』が説明できないのと同じで、
唯物論では『私』と『物質』は別物ではない。どちらも同じ物理的なものに含まれている。
キミは唯物論の理解が足らないだけでなく、主張する側でもないのに、
キミの妄想で限定しようとしている、愚かな人間だ。
唯物論では『物質』や『私』は物理的存在であり、どちらも記述も説明もできないよ。
物理的存在とする『物質』や『私』を使って、他のものを説明するだけ。
『物質』と『私』が同じものだと理解できていない、キミの指摘が的外れなだけだよ。
213 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/18(金) 12:24:36 0
>>212 では『私』も、物質が存在した時点から、すなわち宇宙の創成期から存在している という説なのだね?
そんなのは唯物論ではない(笑
それは単なる、キミの信仰だよ
214 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 12:27:31 0
>>213 物質が宇宙の創成期から存在しているというのだって信仰だろ。
科学だって、信仰の一つだぞ。
215 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/18(金) 12:28:31 0
216 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 12:30:39 0
>>215 >で?
↓
キミは唯物論の物理的存在がどういうものか理解できていないんだよ。
『私』が説明できないのは、『物質』が説明できないのと同じで、
唯物論では『私』と『物質』は別物ではない。どちらも同じ物理的なものに含まれている。
キミは唯物論の理解が足らないだけでなく、主張する側でもないのに、
キミの妄想で限定しようとしている、愚かな人間だ。
唯物論では『物質』や『私』は物理的存在であり、どちらも記述も説明もできないよ。
物理的存在とする『物質』や『私』を使って、他のものを説明するだけ。
『物質』と『私』が同じものだと理解できていない、キミの指摘が的外れなだけだよ。
217 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 12:33:27 0
NGワード
最高位
218 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 12:34:42 0
私の存在性で
唯物論は破壊される
これ最高位の信仰
219 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 12:53:01 0
最高位は唯物論者にとって唯物論が心の大部分を占めていると思って
いて、自分のしていることは大革命だと思い込んでるらしいけど全く
そんなことないんだよな。べつに私が記述出来なかろうが唯物論者に
とっては全く困らないもんな。最高位は単なる自我の充足の為にくだ
らないことをいつまでもわめきちらしてるアホでしかない。
みんな、スルーしていいぞ
「私」なんて、近代資本主義が生み出したイデオロギーであって、
自他の区別などそれ以前はなかったのですよ。
そしてメディアの発展によって私は分散していく。
手紙は誤配される。郵便的な複数的私が偏在する。
221 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 14:03:21 0
誤配とか郵便的とかほんと
あたま悪そう。
大学で哲学専攻した時は錬金術と天使にしか興味を持たず、
教授から銅版画せしめた上にレポートをタブローで提出して単位とれた俺です。
唯物論に付加されるべき定義が山積み、、または境界をもうけるべきだっつーのは
最高位じゃなくてもじいさんらがみんな言ってる
でも哲学でわかんないとこ聞くといろいろ教えてくれるいい奴
224 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/18(金) 17:46:17 0
>>216 :考える名無しさん :
>唯物論では『私』と『物質』は別物ではない。どちらも同じ物理的なものに含まれている。
だとするならば、「私の意識」と言った場合の「意識」とは物質なんでしょうか?
225 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 17:52:07 0
>>224 物理的なものとは物質とは限らない。
意識はプログラムみたいなものだろ。
226 :
ネコの味方:2007/05/18(金) 19:14:11 0
>>212 唯物論では唯物論では、とうるさいね。キリスト教ではイスラム教では
仏教では、というのと同じ。その真偽が問われているのに、それを前提
に論述されても答えようがないよ。
あっちのスレでも質問したけど、物と心(意識)が同じである根拠は?
それを論証すれば、君は間違いなくノーベル賞をもらえるだろう。
さぁ、やってみて。
>>214 科学って、宗教だったのか。なら、なにも言うことはないよ。
神だなに祀って、せいぜい拝んでください。
227 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 19:27:44 0
神棚に祀るのは神道だろ。それぞれの宗教には別の流儀があるんだよ。w
228 :
野嵜健秀:2007/05/18(金) 19:34:16 0
靖国脱糞放屁計画
胡散臭い君たち こばんわ。今世紀最大の知性 野嵜健秀 です。
8月15日、靖国に集合し、神社に糞をしましょう。臭いやつ。
糞が出ない人は、屁を放ちましょう。
前日、豚骨ラーメンに、にんにくを沢山入れて、にらも沢山食して
皮膚から、臭うほど。
千人もの人が、一度にすれば、これこそ、毒ガス。
英霊に名を借り、惰眠を貪る、亡者ども、地獄で、
屁の臭いをかげ。
い い か、 お ま え ら 、き つ く 申 し わ し た ぞ 。
229 :
ネコの味方:2007/05/18(金) 19:53:33 0
>>素人さん、いる?
まじめな質問。ageとかsageってどういう意味? 釣りって何?
奇しくも、最高位と意見が一致していたIDって何? ちゃんと答えてよ。
お忙しいところ、すみません。
>>227 そうでした。w
230 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 20:32:36 0
>>226 真偽なんて問われていないし、判定不可能だよ。
どんな論だって、前提や仮定があって、正しいと思われるものは、
それまで矛盾がないとうだけ。
>あっちのスレでも質問したけど、物と心(意識)が同じである根拠は?
同じようにわからない何かとしているだけ。
同じカテゴリに入れているから同じもの。
それを同じとしないなら、この世に「同じ」ものなんて存在しない。
231 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 22:13:36 0
電気や磁気や物質なるものが「本当は何なのか、解っていない」とするなら、
人間の作ったセンサーなるものは、「そのように反応するように作ったモノ
にすぎない」のではなく、ひょっとしたら「感覚」をもつかも知れない、と
考えるのは、あながち荒唐無稽とは言えないかも知れない。
232 :
素人:2007/05/18(金) 22:15:40 0
>>231 最高位は、
「なぜ、そうなのか?」という問いが、
様々なもの・事象に対しても問えるものであることを無視しているからね。
233 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 22:32:48 0
人間の胎児や幼児に『自』が有ると言うのなら、何故、「昆虫や犬猫は物理
現象として説明が付く」と言い得るのか、理解に苦しむ。
234 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/18(金) 23:44:09 0
>>225 :考える名無しさん :2007/05/18(金) 17:52:07 0
>意識はプログラムみたいなものだろ。
貴方は 216 ですか?
では意識は物質でないならなんですか?
物質でないと意識自体は物質に還元できなくなるがそれでも良いんですか?
235 :
素人:2007/05/18(金) 23:55:59 0
>>234 では、貴方に問うてみます。
「還元」という言葉が、単体の・最小単位への分解を示す用語であるなら、
動きや変化、密接に関連した連鎖的反応等は、
(哲学的には)どのように表現したらよいのですか?
伝統的に用いられている用語や表現が何かあるんでしょうか?
哲学畑には素人なので、御教示頂けると幸いに存じます。 m(_ _)m
【私】を記述してください : 原生的疎外
237 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 01:34:25 0
吉本さんだね。
238 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/19(土) 02:48:40 0
>>235 :素人:
私は哲学には興味はありません。
ちなみに「意識はプログラムみたいなものだろ」に賛成です。
プログラムは物質では在りません。
239 :
俺:2007/05/19(土) 05:02:23 0
17 :考える名無しさん:2007/05/18(金) 14:45:42 0
科学理論の内容を理解できていなく、教養の低さからくる誤解がひどい。
的外れなことを、わめきちらしてるアホでしかない。
ネコの味方が低能の思い付きで、何の参考にもならない
低レベルな発言を日に何十レスも付け、一日中繰り返してもログ流しに過ぎない。
ネコの味方のせいでスレのレベルが落ちている。
科学的な検証や緻密な因果議論に、感情的な反発をしているだけで、
事実の提示を阻んでいるだけだ。
漠然とした抽象的なレトリックに耽っているだけで、 瑣末な意味議論に終始する。
根拠もない空疎な文芸に満足しているだけのレベルで、朦朧とした意識に浸りたいだけの人だ。
ネコの味方はクズでしかない。
240 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 05:48:22 0
>>216 >では『私』も、物質が存在した時点から、すなわち宇宙の創成期から存在している という説なのだね?
241 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 06:18:59 0
>>231 >>232 では、たとえばジャングルで、敵が侵入して
ヒモに足を引っ掛けたら空き缶がガラガラ鳴る
という仕掛けを作ったとして
この物理現象の組み合わせであるセンサーの、どこに主観性が発生するというのか
具体的にお答えいただきたい
んなもん、ありえません(笑
それから
ちなみに、人間の体の感覚細胞の全てはセンサーです
では私の体には、いったい何人の主観性、人格が存在しているというのですか???
この体には、小人がイッパイいるわけですか?
その小人たちと、私とは、いったいどのような縁で出会い、そうなっているのですか?
だんだんワケがわからなくなってきますね(笑
242 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 06:34:49 0
言っておきますが
センサーというのは単なる物理現象の組み合わせですよ
太鼓は叩かれると音を出します
要するに、叩き に対するセンサーである とも言えます(笑
すなわち
物理現象じたいが全て、センサーであると言えるのです
というのも、物理現象というのは、決まった事に対して、決まった現象が起こるだけだからです
それを人間が、目的性に合わせて、応用して使っているだけなのです
センサーに心がある などというのは、単なる錯覚でありメルヘンです
243 :
俺:2007/05/19(土) 06:51:02 0
いや、誰も心のような複雑なものがあるとは言っていない。
感覚があるか無いかだ。それは人間の感覚について物質を介しているということ
以外わかっていないのだから否定できない。
244 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 08:32:46 0
>>243 感覚?
太鼓は「イテッ!」と思って「ドン!」と言っているのかい?(笑
水が沸騰する という物理現象も、センサーとして使えるんだよ
温度が上昇して水蒸気が大量に発生すると、その圧力によってスイッチが入るような構造にすればよい
その際、そのセンサーは「アッチッチ!!!」と思っているとでも言うのかね?(笑
キミ達は
そのスイッチで、お人形さんの口に付けてあるスピーカーから
「アッチッチ!!」と音が鳴るように作っておけば
それを見て、「心があるにちがいない!!!」って思っちゃうんだろな
だからメルヘンだと言ってるんだよ(笑
245 :
俺:2007/05/19(土) 08:46:14 0
何を馬鹿なことを言ってるんだ?
イテッと思うのは意識があるということだろ。
感覚とは全く違う。俺はお前のセンサーとかは全く考えてない。
まあ水が沸騰するとき負の概念があったとしてもいいかもしれない。
「動物は考えないから話さないのではない。
単に話さないのだ」 ヴィトゲンシュタイン
247 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 08:52:09 0
>>245 意識がないのに、どうやって感覚をかんじるんですか?(笑
>>246 まぁ、そう考えるのが妥当ではあるが
哲学でそれを主張するのはどうかな
そんなもん、わからんだろwww が、正解じゃないですか?
>>247 >意識がないのに、どうやって感覚をかんじるんですか?(笑
「感覚をかんじる」って・・・
君は哲学入門以前だな。
>そんなもん、わからんだろwww が、正解じゃないですか?
分からないから「考えないから」の部分を削除してるわけなんだがね・・・w
249 :
俺:2007/05/19(土) 09:07:47 0
>>247 進化論的に考えれば、意識より感覚のほうが早く生まれたと思わないか?
俺は生物だけが感覚を持っているとは考えていない。
どこかに書いたが、この世に俺達のよく言う単なる存在するという意味しか持たないモノ(物質)
は存在しないと思う。あらゆる物質にはそのモノの持つ性質があるはずだ。その性質が感覚やより複雑な感情を
つくりだしていると考えている。
どうして動物だと「そう考えるのが妥当だがわからない」で
太鼓や水だと「そう考えるのが妥当でない」んだ?
251 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 09:08:31 0
乳児も考えているかどうかは、わからんなぁ
252 :
俺:2007/05/19(土) 09:14:16 0
249の続き
だからある物質の性質に少しでも作用があれば、そこには感覚かもしくは
それ以下の概念が宿っているかもしれないと考えているということ。
253 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 10:35:13 0
>>238 じゃあ唯物論でも問題ないね。
プログラムは物質によって規定されて動作するわけだし。
254 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 10:40:33 0
>>240 『私』の定義による。が、ここでは物質で言うような素粒子みたいなものとしておく。
意識とか思考とかの高レベルなものがあるわけではないが、
基本的な『私』は、全ての物質に存在し、特定条件下で物質が組み合わさると、
意識のような複雑なものが顕現化する。
肉体が死んでも物質が分解して変化するだけのように、意識も分解されて『私』が
睡眠時以下のレベルになるだけだと思われ。
255 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 10:42:39 0
>>241 主観性と主体は別。
全ての物質に主体は存在しても、自分を認識できるレベルにはなっていないってこと。
細菌レベルでも「私」はあるだろうが、自分を認識できてはいないだろうから。
256 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 10:43:52 0
>>242 >センサーというのは単なる物理現象の組み合わせですよ
唯物論では、その物理現象に『私』が含まれている。
そうでないというのなら、キミの言う物理現象を定義してくれないか?
257 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 10:44:43 0
>>242 >物理現象じたいが全て、センサーであると言えるのです
>というのも、物理現象というのは、決まった事に対して、決まった現象が起こるだけだからです
人間の意識も同じ。
>>256 君さぁ・・定義、定義って、馬鹿まるだしだな・・
ちなみに「唯物論では、その物理現象に『私』が含まれている。」という
唯物論は誰の定義による唯物論だい?w
259 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 11:06:02 0
>>258 唯物論者のうちの一人。
キミが唯物論者なら、別の定義でもいいからそれを書けばいい。唯物論でもいろいろあるからね。
相変わらず楽しい議論ですね
『私』は、「この石」じゃないし、「この手」でもないし、「この首」でもないし、「この脳」でもない。
『私』は、「この記憶」じゃないし、「この意識」でもないし、「この感覚」でもない。
『私』は、『私じゃないもの』を、確かに区別できる。
これが『私の存在性』だ。
これでOK? >最高位
262 :
俺:2007/05/19(土) 11:41:16 0
わかりにくっ!!
263 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 14:06:36 0
>>249 まぁそれは、論理というよりは
キミの信仰だから
それを否定する事は不可能だろうね
キミのその主張は
神は人格神であるかどうか
俺はこう考える
みたいな領域の話だからね
>>250 生物だと、私と同じで、生命の神秘みたいな部分がある可能性があるからね
>>252 物質のドコに?
>>254 キミ、SY君じゃないか?(笑
で、なんでそのひとつが『私』だったのかな?
まぁそういう事を言っても、キミには理解できないんだろうけどね
>>257 精神性の根本である『私』の存在性は?
この体は、なんで私だったの?
>>261 う〜ん
どうだろ
264 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 14:29:17 0
ひとこと言っておくと
物質や物理現象に主観性が、いくらあったとしても
それは、あくまでも『他』『他人』であって
『私』が存在した原因的要素に、なりはしないんだよ
そこんとこが、まだ理解できてないんだよなキミ達は
265 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 14:36:00 0
『私』は人間の観念だし、存在するというのもそうだね。
なぜ、人間は『私』を『他』『他人』を分けられるのかね。
分からないねえ。心身二元論でも手に負えないねえ。
266 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 14:42:24 0
物質を自在に操る万能の神様がいたとして
人間を作成されたとしよう
しかし、いかに物質を、いかにこねくり返そうとも
絶対に『私』を作る事はできないんだよ
しかし『私』は、こうして存在している
不思議だと思いませんか?
私は、いかにして存在するに至ったのでしょうか
267 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 14:42:46 0
>>263 >で、なんでそのひとつが『私』だったのかな?
それは、なんで、その一つがその素粒子だったのかというのと同じ問題。
そこに理由など無く、そういうものがあるというだけのこと。
268 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 14:43:46 0
>>266 >絶対に『私』を作る事はできないんだよ
作ることができたから、そこにあるんだよ。
269 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 14:54:42 0
>>267 キミが言ってるのは「人間の精神は物理現象である」を否定するものであり
すなわち「人間の精神は、あってあるものである」だよ
唯物論ではない
>>268 精神に対する論理的かつ唯物的な解答にはなっていない
キミの発言は、極めて宗教的であり、論理的飛躍に満ちている
270 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 14:54:45 0
『この私』は認識されるもの。
だから、認識の働きは「何に」因るよるかだね。
精神?脳?ほか?
271 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 14:56:31 0
>>270 落ち着け
認識しているのは、誰だ?
存在性と働き も、ちゃんと分別しなさい
272 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 14:57:34 0
>>269 >キミが言ってるのは「人間の精神は物理現象である」を否定するものであり
否定しないよ。物理現象の一つに『私』という主体が含まれているのだから。
それに反論するなら、キミの物理現象を定義してよ。できないなら黙ってろよ。
唯物論かどうかは、キミが決めることではなく、主張する側が決めること。
273 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 14:58:55 0
>>269 >精神に対する論理的かつ唯物的な解答にはなっていない
ということにしたいのですね。
唯物論ではこれで問題ありません。キミが理解できないだけです。
274 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/19(土) 15:02:25 0
>>273 どう問題ないのだね?
人間の精神の根本は永遠に解明される理屈がなく
人工知能など、知能に似せた、まがい物にしかならない
という事が結論されるが、それでいいのかね?(笑
275 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 15:04:45 0
>>271 落ち着け
認識しているのは、誰だ? と認識できるのは何故?
276 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 15:07:57 0
誰?
というのは人間に対してだよね。
精神ではないよね。もちろん身体でもないよね。
277 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 15:20:14 0
>>274 >人間の精神の根本は永遠に解明される理屈がなく
それは人間の精神の根本が物質だから、解明不可能なんです。
物質がどうしてそういう振る舞いをするのかは、唯物論は説明しません。
ただ、物質によって作られる上位構造は近似的に説明可能なので、
精神の振る舞いはある程度なら説明できると思います。
実際、脳への刺激によって、精神が変化することが、だんだんと説明できてきています。
まだまだ不十分ですが、それはこれからの研究次第でしょう。
>人工知能など、知能に似せた、まがい物にしかならない
そんなことありませんよ。「知能」というのは、人間でなければならないということはありません。
逆に「知能」に限定するのなら、人工知能は人間を超えるようになるでしょう。
計算、検索等、いつくかの「知能」は、既に人間を超えています。
>という事が結論されるが、それでいいのかね?(笑
最高位の脳内の妄想で結論されても一向に構いません。
単に貴方が間違っているだけですから。
278 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 15:25:15 0
戯れ言で、犬猫や赤ん坊に「あんただ〜れ?」ということはあるけども
「誰なの?」というのは、
認識できる相手だという認識・前提で、相手に訊ねるのだ。
と思うよ。
279 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 15:31:49 0
>>277 >知能」というのは、人間でなければならないということはありません。
そりゃ、そうです。堅果を石を使って割っている猿を見たら、こいつ人間
の赤ん坊より知能あるじゃん、と思わざるをえないね。こいつらも考えて
んだぁ、なんてね。
280 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 15:45:09 0
>>279 知能とは思考ではないよ。
数学のテストで、考え込んで鉛筆が動いていないやつは、知能が低い。
知能が高い奴は反射に近く、瞬間的に答えがわかる。
テトリスのようなパズルでも、慣れてくると、脳がほとんど働くことなくプレイするようになる。
281 :
俺:2007/05/19(土) 15:50:08 0
>>263 >まぁそれは、論理というよりは
>キミの信仰だから
信仰だと思ったのは
「生物だけが感覚を持っているとは考えていない」の部分だけ?
>物質のドコに?
物質の性質に、ではわかりにくいよな。
例えば反発しあうふたつの物質の間には力がはたらいている。
その力の中にあるか、もしくは力を発しているモノの性質のなかにあると思う。
おそらくわかりにくいだろううな…
282 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 15:50:16 0
知能とは
物事を理解したり判断したりする力
283 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 16:48:33 0
心身二原論を説くなら、僕がパパとママを選んだんだよ」というような受胎前記憶を
主張する幼児の話を信じてやれ。心身問題はそれからだ。
小さい子供はのーさいぼーがどんどん増える時期で
記憶を溜め込む部位もほかの部位とせめぎあって大忙しになる
そんなこんなで大変で本で読んだ記憶を体感記憶として転写する
285 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 18:06:16 0
>>280 知能テストで計れるような「知能」ならそうかもしれないが、
もう少し高いレベルで見ると、
反射的に直ぐにできることしか出来ない奴より、
解き方の分からない問題について長時間考え込める奴の方が、
思考能力が高いとも言えるんじゃないかな。
286 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 18:50:37 0
>>102 折れた原因は金属疲労だが、
事故が起こってしまったのは、長年の使用で部品が金属疲労で脆くなることを
充分知りつつ、点検を怠った ことが原因であり、あれは人災だよ。
説明できるって、何バカ言ってんの?
287 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 19:00:05 0
>>286 事故発生。
こっちにレスしちまった。
ま、いいか。
288 :
俺:2007/05/19(土) 19:40:26 0
289 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 23:09:48 0
>>285 >解き方の分からない問題について長時間考え込める奴の方が、
同じ答えに辿り着くなら、長時間考える方が知能が低いってこと。
それから解けないかどうかを判定するのも知能。
悩んで考えているのは知能ではない。ただの試行錯誤。
>>289 「知能」というラベルの定義の問題でしかないじゃんw
くだらねーやりとりw
291 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 23:19:40 0
>>290 そう思うならキミがスルーすれば良いだけの事。
それ以上の問題があると考えることが出来る奴だけで議論を進めれば良い。
292 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 23:24:38 O
悩む事と考える事は、全然違う訳で。
>>289 それは単なる、結果を求める概念の道の一部を単純に知っていた
だけにすぎない。
一般の知能が高くても全く未知の分野では逆に知識が邪魔で
何もしらないほうが高い成績を上げるのも事実。
294 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 23:40:58 O
IQテストは長時間試行錯誤する脳を軽視していないよ
296 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 00:01:43 0
>>289 長時間考え込むことが出来ない奴は、
すぐに解けないと、解けないものだと判断してあきらめる。
だから、答えにはたどり着けない。
あなたは自分では何も考えたことがない人のようだね。
297 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 00:04:50 0
>>296 俺はどちらかというと、長時間考える方。
でも、同じことが一瞬でできる奴を多く見てきたし、
本当に頭の良い奴は、(普通の人に比べて)無駄に考えたりはしない。
298 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 00:08:10 O
そいつぁは使える奴だな。
299 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 00:18:13 O
基本的に天才は天才を知るという。
そいつしかあいつを評価できんかもな。
300 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 00:22:32 0
>>293 >一般の知能が高くても全く未知の分野では逆に知識が邪魔で
>何もしらないほうが高い成績を上げるのも事実。
俺は知識の話なんてしてないし。知識と知能は別だよ。
301 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/20(日) 00:44:01 0
>>253 :考える名無しさん :2007/05/19(土) 10:35:13 0
>プログラムは物質によって規定されて動作するわけだし。
だから何度もいっている通り、その規定されて動作するプログラム自身は物資か否やときいている。
302 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 00:58:31 0
>>301 誰も物質なんていっていないし、唯物論者も物質だとは言っていない。
物質じゃないからこそ、物質に規定されていると言っているだけ。
何度も聞かないとわからないほど馬鹿なのか?
303 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 01:58:08 0
オブジェクト指向
304 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/20(日) 02:02:31 0
>>302 では・・・・・・・・
>>216 >唯物論では『物質』や『私』は物理的存在であり・・・・
の言う「私」は物質ではないのか?
305 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 02:18:27 0
>>304 物理的存在というのは、物質のことだけではない。
空間も、重力も、構造も、物理的存在。そこに私も含まれるというだけ。
306 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/20(日) 02:20:43 0
>>302 観念は物質に規定されているというが・・・
アルミの机はアルミに規定されている・・・之はわかる。
しかし「みんなの机」の机はどんな物質に規定されているの?
307 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/20(日) 02:24:02 0
>>305 :考える名無しさん :2007/05/20(日) 02:18:27 0
私と言うのは文脈から「自我」の事だが・・物理的存在なの?
308 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 02:25:23 0
シナリオ10ページ分くらい飛ばしてくれ。
ゆっくりすぎる。
309 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 02:26:51 0
>>306 それは、
脳内の言葉の話?
特定の実在の話?
310 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 02:27:15 0
311 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/20(日) 02:34:05 0
>>309 脳内の言葉の話、特定の実在の話・・・
是非両方の話をお願いします。
312 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 02:36:20 0
>>311 というか、どちらかに限定してくれ。
最初から両方の質問だったら、306のような書き方は卑怯だ。
313 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/20(日) 02:48:07 0
>>312 :考える名無しさん :2007/05/20(日) 02:36:20 0
>306のような書き方は卑怯だ。
??
では例題・・・・
ある学校で机を壊した生徒を叱って「これはみんなの机だぞ」と言った。
この場合の「みんなの机」の机はどんな物質に規定されているの?
314 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 02:53:02 0
>>313 それは発言した言葉についてか、それとも、それが指す実在の机についてかどちらなんですか?
貴方が聞きたいことをできるだけ、厳密に書いてください。
315 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 04:06:51 O
何で生きてるのか
何で「生きていない状態」じゃないのか
何で存在してるのか
何で「存在してない状態」じゃないのか
316 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/20(日) 06:41:33 0
>>277 >それは人間の精神の根本が物質だから、解明不可能なんです。
と言う事は
人間の精神は、物理現象なのではなく
なぜ物質が存在するのか という宇宙の根本問題と同じ次元の問題である という事ですね?
物理現象なのではなく、存在性そのものの問題なんですね?
そして
物質が存在した時点と同時
すなわち宇宙創成期に、すでに私は存在していた という説ですね?
>そんなことありませんよ。「知能」というのは、人間でなければならないということはありません。
>逆に「知能」に限定するのなら、人工知能は人間を超えるようになるでしょう。
>計算、検索等、いつくかの「知能」は、既に人間を超えています。
計算機が計算しているのは、自分の意思ではありませんよ?
検索も、検索したいからしているのではありません
単に物理現象を組み合わせただけの、単なる道具です
その枠を出る事はありません
キミが言っているのは
人間と同じような『心』は絶対に作る事はできないが
『心』を持たないニセモノは作る事はできる
ということですよ
317 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/20(日) 09:54:53 0
>>275 >認識しているのは、誰だ? と認識できるのは何故?
まず認識する為には、私という認識主体が必要
それが無ければ、認識できる も、何故? もクソもない
誰が「認識しているのは、誰だ? と認識できるのは何故? 」と思っているのか
だよ(笑
誰が、どうやって
であって
誰が の無い、どうやって は無い
318 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/20(日) 10:12:11 0
最高位さんは
五感、意識間のフィードバックに
囚われてしまっているようです。
319 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/20(日) 10:23:52 0
>>318 そうです「私は」囚われているのです
私がいなければ、私は囚われる事もありえません
>>266 >しかし、いかに物質を、いかにこねくり返そうとも
>絶対に『私』を作る事はできないんだよ
最高位氏、上でも全く同じ話をしたでしょうにw
「すでに存在している『私』」は作ることができませんが、
まだ存在していない『私』なら、作ることができる可能性は大いにある
わけです。というか、現に日々新しい『私』が作り出されていますが、これは
物質的過程以外の何によるものでもないわけです。生殖で生まれてくる赤ん坊
でも、コピーヤング博士やコピー最高位でも、全く同じことです。
また、これは「私」でなく他の何についても同じことです。
「作る」というのは「存在していないものを存在せしめる」という意味なの
ですから、当たり前なのであります。
321 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 11:11:11 0
>>317 >まず認識する為には、私という認識主体が必要
そうそう、だから一部のヒトは「認識主体は脳かも知れんね? 」って考え、
また、一部のヒトは「認識主体って精神・霊魂っていう実体が存在する(デ
カルトさん)ってことじゃん」って考え、
また一部のヒトは「認識主体は異次元に居るのかも知れんね? 」って考え
ているんじゃない?
「私」っていったって、1人の人間のことだからね。
実際のところ認識主体(認識の働きを受け持っているのは)は何で、どう
なのよってことでしょ?
まあ、解るわけはないから『私』から一歩も出る必要もない、って考え方も
あるけど。『私』は居心地よいし。
322 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 11:37:37 0
>>317 >誰が「認識しているのは、誰だ? と認識できるのは何故? 」と思ってい
るのか だよ(笑
そうそう、通常は社会(コミュニケーションしている)生活での話だから、
「誰が? 」 になる。生活主体はとうぜん人間である『この私』でよい。
あなた(相手)と話しているのだから(そのように認識しているのだから)
一人称の「私で」ないとつごうがワルイ。w
しかし、「認識主体は何か?」「誰?という観念を生み出しているものは
何?」と言った場合、それはどっかの脳でも精神・霊魂でもよいことにな
る。
323 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/20(日) 11:52:46 0
>>314 :考える名無しさん:
発言した言葉「みんなの机」の机の観念はどんな物質に規定されているの?
324 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/20(日) 11:55:20 0
>>319最高位さん
その「私」はどこにも存在しません。
325 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 11:57:15 0
作文の世界だったら主観のみで結構だよ。ww
まったくもって反論はございません。
>>323 それこそ人によりけりでしょう。木製だったりアルミ製だったり。
いずれにしろ、机の観念は実際の(物質的な実在の)机に規定されてるのは間違いないと思います。
「机」と呼ばれるもの『そのもの』と、それが「机」と呼ばれる文脈とに出会わなければ、
「机」という概念・観念は生じない。
「机」についての解説を知識として知った時に生じる「机」という概念・観念は、
「机」と呼ばれるもの『そのもの』と出会わない限り、確実性は弱い。
また、多様な文脈のサンプルが揃わない限り、どのようなものが「机」と呼び得るのか、
そのカテゴライズは明確にならない。
328 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/20(日) 14:01:20 0
>>320 >「すでに存在している『私』」は作ることができませんが、
唯物論では「人間の精神は物理現象である」という事になっている
だから、物理的要素で解明できる取っ掛かりがなければならないんだよ
作る作らない というのは、物理的要素で解明できるかできないか を問うための思考実験であって
それを勘違いすると、キミのようにヘンは方向に行ってしまう
私は存在性である という前提を理解でき、『私』は物理的に解明する事はできない
という事が理解できた時点で
実はキミは、唯物論の定義から脱皮しているんだよ
しかしキミは、唯物論は正しいと思っている
という事は
そもそも心身問題というものを理解できてない という事なんだよな
>>321 そこで
では、この脳は、なぜ私であったのか
という疑問に突き当たるんだよ
『私』って何???という究極的な疑問にね
その疑問が、どういう疑問かという事が、理解できない人が多いから
その説明に、私は苦労しているんだよ
普通に哲学的センスのある人は、説明されなくても普通に疑問を持っているわけだが
説明されても理解できない という事は、そこが知能の問題なのかな とね
>>322 >しかし、「認識主体は何か?」「誰?という観念を生み出しているものは
>何?」と言った場合、それはどっかの脳でも精神・霊魂でもよいことになる。
そんなもんは答えにはならない
どっかの脳でも、精神、霊魂でも、それがなんで『私』なのか という疑問は、最後の最後まで残るんだよ
329 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/20(日) 14:05:33 0
>>324 存在しないものが、どうやって囚われるのですか?
私が存在している事は、どんなに考えても否定できないのですよ
「我思う故に我あり」を論理的に否定してみせて下さい
330 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 15:45:01 0
>>328 >『私』って何???という究極的な疑問にね
だから諸説あるって紹介しただけ。
どれもこれも難問を抱えている、と思う。
>そんなもんは答えにはならない
>どっかの脳でも、精神、霊魂でも、それがなんで『私』なのか
>という疑問は、最後の最後まで残るんだよ
そうだよ。だからデカルトも「思う私・精神が在る」といっただけでどうし
てそれが『私』なのかは答えていないし。あなたのいう「主観性」が何も答
えていないのと同じだよ。
このような問題提起はすでに昔からなされているけど、誰も答られなかった
し、この先解決できる見込みはないかも知れないってことだな。
最高位=ドットコムの気がしてきた。
332 :
地底人:2007/05/20(日) 16:10:13 0
鬱病だねきっと すくなくとも何かの気分障害
理解してパッ、閃いてパッ、と頭をすっきりさせる物質が枯渇してるんだよ
疑問点を明らかにして粘り強く解き明かそうという研究熱心さもあまりなく、
ベールをかけてただ固執するだけ
だからいつまでも満足出来ないでぐるぐる思考に陥ってる=最高位
333 :
考える名無しさん:2007/05/20(日) 16:32:18 0
「ここに存在する私はこのように思っている」を
「このように思っている私がここに存在する」と入れ替えてみました。
おもしろくなかったねwww
334 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 00:06:39 0
>>316 >と言う事は人間の精神は、物理現象なのではなく
物理現象です。物理現象の定義が貴方と私では違うのかもしれませんが。
>なぜ物質が存在するのか という宇宙の根本問題と同じ次元の問題である という事ですね?
そうです。どちらも物理的要因によるものですから。
>物理現象なのではなく、存在性そのものの問題なんですね?
物理現象であり、存在そのものの問題です。
>物質が存在した時点と同時
>すなわち宇宙創成期に、すでに私は存在していた という説ですね?
『私』です。物質が存在するというのも同レベルの説ですよ。
>計算機が計算しているのは、自分の意思ではありませんよ?
時分の意志でもありますよ。
>単に物理現象を組み合わせただけの、単なる道具です
>その枠を出る事はありません
人間も同じです。自然界が単に物理現象を組み合わせただけのものです。
>人間と同じような『心』は絶対に作る事はできないが
出来ない理由はありません。
335 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 00:07:48 0
>>323 >発言した言葉「みんなの机」の机の観念はどんな物質に規定されているの?
その観念の持ち主の脳。
336 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 00:13:45 0
>>328 最高位は唯物論がわかっていない。唯物論では、
『物質』は物理要素である。
物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
物質の反応は物理現象である。
「物質の反応」は物理現象で解明可能。
『私』は物理要素である。
物理要素である『私』は物理的に解明する事はできない。
人間の精神は物理現象である。
「人間の精神」は物理現象で解明可能。
というだけのこと。
337 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/21(月) 00:55:52 0
>>329最高位さん
存在しないものを存在すると
勘違いさせられているのですよ。
デカルトの名句ですが
思うからこそ私が有ると受け止められます。
しかしこれによって唯物論がどうであるとか
少し論じる場を異にすると思います。
338 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/21(月) 01:32:00 0
>>335 :考える名無しさん:2007/05/21(月) 00:07:48 0
>>323 >その観念の持ち主の脳。
なるほど・・・
すると観念と言うのはその持ち主の脳に規定されているわけですね。
339 :
素人:2007/05/21(月) 01:33:47 0
340 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 01:58:28 0
341 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 06:40:34 0
>>334 >>なぜ物質が存在するのか という宇宙の根本問題と同じ次元の問題である という事ですね?
>
>そうです。どちらも物理的要因によるものですから。
だから
物質も私も物理的要因で存在するのであれば
それは、いかなる物理的要因なのですか? と、聞いているのですよ
342 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 09:56:50 0
>>341 唯物論では、物質と私は物理的要因(定義)とするだけで、
それを説明するものではありません。
それを元に、化学反応や精神を説明するだけです。
343 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 10:48:11 0
>>341 唯物論にもいろいろあるんだよ。
機械論的唯物論だけが唯物論ではないのよ。
心が脳という複雑な物理化学系の示す性質であるとする還元論的唯物論
もあるし、脳の進化の過程で突如出現した特殊な生物学的な働きである
とする創発主義的唯物論のような「還元できない」とする立場もある。
このくらい覚えておこう。
344 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 10:52:05 0
>>343 創発主義的唯物論というのは、どういう理由で唯物論なのかな?
その唯物論は、心は何だと言ってるわけ?
>>344 よこレス。唯物論の「唯」にこだわらないほうがいいのでは?
精神よりも物質のほうがより根源的だという考え方を一般に
materialismと言いますよ。
346 :
345:2007/05/21(月) 10:59:45 0
もしかして、このスレでマジレスするのは場違いだったか・・??
347 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 11:02:12 0
>>338 >>339 では
『私』の存在性は、この脳の
いかなる物理的要素に規定されているのですか?
そんな観念的な話ばかりしてないで、もっと科学的に、具体的に示して下さい
348 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 11:05:19 0
>>345 だから、その根拠を詰めて話してるんですよ
根源的だと言うが、原因となる要素が無いんですよ とね
なんとなく じゃダメでしょう
349 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 11:09:50 0
>>342 それじゃ唯物論ではない
単なる脳科学ですよ
350 :
345:2007/05/21(月) 11:10:54 0
>>348 >だから、その根拠を詰めて話してるんですよ
>根源的だと言うが、原因となる要素が無いんですよ とね
全てを説明するのが哲学ではないです。
「心」の発生を全て説明し尽くそうとする哲学なんて、
現代では、「大風呂敷」として一笑にふされるでしょうね。
そういう大風呂敷の哲学は、ヘーゲルで終わりました。
351 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 11:12:14 0
>>349 これも唯物論の一つの立場。脳科学とか関係ない。
唯物論にもいろいろあるのがキミには理解できていないようだけど。
352 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 11:15:33 0
>>349 >それじゃ唯物論ではない
>単なる脳科学ですよ
ブンケに言ってちょうだい。
ちなみに情念論を著したデカルトも哲学ではないことになります。
自分の無知を棚に上げて論じないように
>最高位
354 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 11:18:48 0
>>350 >「心」の発生を全て説明し尽くそうとする哲学なんて、
>現代では、「大風呂敷」として一笑にふされるでしょうね。
唯物論者は、科学が完成すれば、全ては解明される と主張してきました
また、唯物論が正しければ それは当たり前の論理的帰結であり
物質的に解明できないものなどありえない というのが、その思想です
あなたの言う唯物論とは、いったい何の事なんでしょうか?
単なる科学を唯物論だと勘違いして、ゴッチャになっていませんか?
このスレには、そういう人が多くいます
>>354 科学を人に当てはめて哲学するのが唯物論
何の問題もありませんが、ぷっw
357 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 11:27:01 0
>>354 >唯物論者は、科学が完成すれば、全ては解明される と主張してきました
そうではない唯物論者が大半だが、それを知らないとは無知すぎる。
358 :
345:2007/05/21(月) 11:28:15 0
>>354 >唯物論者は、科学が完成すれば、全ては解明される と主張してきました
それは誰の主張ですか?
哲学者がそんなことを主張するとは思えませんが。
>あなたの言う唯物論とは、いったい何の事なんでしょうか?
さっき書いたとおり、materialismは、精神よりも物質のほうがより根源的だという考え方ですよ。
哲学史的にいえばミレトス学派あたりから始まり、現代の唯物弁証法につながります。
>>328 >作る作らない というのは、物理的要素で解明できるかできないか を問うための思考実験であって
ですからw、「作れるか作れないかは、物理的要素で解明できるかできないか、とは
何の関係もない」ということを縷縷ご説明しているわけです。おわかりになりませんかw
>私は存在性である という前提を理解でき、『私』は物理的に解明する事はできない
>という事が理解できた時点で
>実はキミは、唯物論の定義から脱皮しているんだよ
最高位氏、「存在性」の意味はさっぱりわかりませんがw、すでに存在しているものは
富士山も琵琶湖も哲学者最高位もこのパソコンもこの水分子も、「作る」ことはできません。
物理的手段でも非物理的手段でも、たとえ全知全能の神様でも不可能です。このことと、
それが物理的に解明できるかどうかとは、無関係なのです。
ついでに、それが「純粋な存在性」であるかどうかとは、なおさら無関係ですw
「自我・精神」を物理的言語で解明することが困難なのは、大昔からわかっている
ことです。(自我・精神の内容である世界像からさまざまな要素を捨象して抽象化
することにより作られたのが物理的言語である、と考えるなら、これはむしろ当然です。)
しかし、「自我・精神」が物質と切っても切れない密接な関係にあることも
厳然たる経験的事実です。ここにこそ「心身問題」の困難があるのです。
360 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 11:36:21 0
もともと科学と哲学が分かれていたわけではない。
ガレリオ、デカルト、ニュートンあたりまでは、科学と哲学は今のように区別
されていなかったわけだし。
17世紀のニュートン革命は物理学が哲学から決別することでもあったけど、哲
学と科学が距離を置いたままでいられるかについては疑問視する人多いね。
361 :
345:2007/05/21(月) 11:41:44 0
>>359 >「自我・精神」を物理的言語で解明することが困難なのは、大昔からわかっている
>ことです。(自我・精神の内容である世界像からさまざまな要素を捨象して抽象化
>することにより作られたのが物理的言語である、と考えるなら、これはむしろ当然です。)
>しかし、「自我・精神」が物質と切っても切れない密接な関係にあることも
>厳然たる経験的事実です。ここにこそ「心身問題」の困難があるのです。
「物理的言語」というのはちょっと意味不明だけど、
心身問題が哲学上の困難な問題となったのは、デカルトが精神と物質とを
二つの〈実体〉と考えたことによるものです。
実体としての自我は、すでにカントにおいて克服され、その後の
現代哲学では、たとえばニーチェなどの〈身体論〉などによって、
デカルトの時代の困難さは解消されていると思います。
そうそう
こういう流れこそが哲学スレだよ。
363 :
345:2007/05/21(月) 11:49:35 0
>>362 やはりスレの流れを乱したようなので、これにて去ります
おいおいw
365 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 11:52:49 0
>>351 だから、なんの理由で唯物論なのか
と聞いているんだよ
話をすりかえていないで、ちゃんと答えなさい
>>352 >ちなみに情念論を著したデカルトも哲学ではないことになります。
はぁ?
なんで?
>>356 だから
科学では人間の精神は解明しきれない という事をもって
唯物論は間違いである と言っているわけだよ
>>357 唯物論が正しいと思っているのに
物質では解明できない と思っているのは
なんで???
>>358 >さっき書いたとおり、materialismは、精神よりも物質のほうがより根源的だという考え方ですよ。
だから、根源的だと主張している その理由を説明して下さい と言ってるんですよ
まともな人かなと思いましたが
例にもれず、話の通じない人だなぁ・・・
>>359 簡単な事なのに、何回も同じ説明するの疲れたよ
366 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 11:52:57 0
はっきりいいますがね、
唯物論は哲学ではなかったんだよ。
>>365 うざいなあ、お前の哲学は通らないんだよ
賛同者がいない2ちゃんでは目の敵にされるだけ
あんまりしつこいと荒しで通報するよ。
368 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 11:59:35 0
>>365 もっともまともな解釈にいちいち文句つけんな
>だから、根源的だと主張している その理由を説明して下さい
おまえが考えろ
ここは謎解きパズルじゃねえって言ってるだろうが
370 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 12:10:36 0
>>365 >はぁ?
>なんで?
って訳分からないなぁ。
デカルトの「情念論」は脳と情動に関する近代科学的研究の出発点ともいうべきもの。
かくして彼は近代科学の礎を確立してくれたんだよ。
371 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 12:25:26 0
>>361 で
結局、唯物論は
何の根拠で、精神より物質の方が、より根源的であるとしている思想なの?
>>363 ちゃんと答えてから去って下さいよ
>>367 荒しはキミだぞ
内容を書けよ
>>368 質問してるだけだろ
キミに、答えられるのか?
>>369 だから答えて下さいと言っているんだよ
>>370 あー
科学であって、哲学ではない という意味ですか?
仏教、特に唯識について勉強してきなさい。
話しはそれからだ。
373 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/21(月) 12:36:34 0
唯識さ〜ん
まだですか〜
> 324 :唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/20(日) 11:55:20 0
>
>>319最高位さん
> その「私」はどこにも存在しません。
> 329 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/20(日) 14:05:33 0
>
>>324 > 存在しないものが、どうやって囚われるのですか?
>
> 私が存在している事は、どんなに考えても否定できないのですよ
> 「我思う故に我あり」を論理的に否定してみせて下さい
374 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 12:44:44 0
>>371 あー
科学であって、哲学ではない という意味ですか?
「情念論」は科学的手法で書かれており、現代の脳科学に繋がっている
ってことですよ。
創発主義的唯物論は「創発」という新しい概念を導入して、脳科学を基
礎にしながらひとつの唯物論の世界を形成している。
まぁ、当方は唯物論者ではないけど、「全否定」もできないというスタ
ンスですわ。
376 :
俺:2007/05/21(月) 12:45:37 0
むっ、無視したな!答えなさい最高位。
>>263 >まぁそれは、論理というよりは
>キミの信仰だから
信仰だと思ったのは
「生物だけが感覚を持っているとは考えていない」の部分だけ?
>物質のドコに?
物質の性質に、ではわかりにくいよな。
例えば反発しあうふたつの物質の間には力がはたらいている。
その力の中にあるか、もしくは力を発しているモノの性質のなかにあると思う。
おそらくわかりにくいだろううな…
なんか唯識みたいなのが増えたな
おいおい
唯識はとっくの昔に否定してるだろw
379 :
俺:2007/05/21(月) 12:49:46 0
>>373 最高位、『私』は存在しないよ。説明のうまい方法がすぐ思いつかないから、今は
無いかもと思って、考えてみて。
380 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 12:54:25 0
>>365 唯物論では、物質と私は物理的要因(定義)とするだけで、
それを説明するものではありません。
それを元に、化学反応や精神を説明するだけです。
381 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 12:54:39 0
最高位は唯物論がわかっていない。唯物論では、
『物質』は物理要素である。
物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
物質の反応は物理現象である。
「物質の反応」は物理現象で解明可能。
『私』は物理要素である。
物理要素である『私』は物理的に解明する事はできない。
人間の精神は物理現象である。
「人間の精神」は物理現象で解明可能。
というだけのこと。
382 :
俺:2007/05/21(月) 13:01:19 0
>>371 >で
>結局、唯物論は
>何の根拠で、精神より物質の方が、より根源的であるとしている思想なの?
最高位、これはマジで質問してるの?「世界には精神より前に物質があって、精神は脳という物質によって生まれたから」
と主張するに決まってるだろ。
383 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 13:03:54 0
『私』たる認識のはたらきを支える実体は、何らかの形で存在すると
思うぞ。
唯識は「霊魂・精神たる自我=私」を否定しているのでは?
社会的存在としての、個々の「私」は否定していない、と思うよ。
384 :
俺:2007/05/21(月) 13:07:32 0
そもそも唯物論が主張している守備範囲は世界の解釈であって、自分の内のほうは
含めていないのではないかと思っているんだけど、みんなはどう?
だって主張しだしたのは科学者達でしょ。
385 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/21(月) 14:11:30 0
>>339 :素人:
では次の段階としてどの様に規定されているかが問題ですね。
貴方は机の観念がどの様に唯物論的に脳に規定されていると思いますか?
386 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/21(月) 14:17:41 0
>>327 :考える名無しさん:2007/05/20(日) 12:56:32 0
>「また、多様な文脈のサンプルが揃わない限り・・・・
記憶の中には沢山のサンプルがあると言う前提です。
だから「みんなの机」と言う意識が生まれた。
従って「みんなの机」の机は
>机の観念は実際の(物質的な実在の)机に規定されてる
ではないと思います。
>
387 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 14:50:15 0
あんたはいいこと言ってる。
66 名前: ◆6rgGIYz09M 投稿日:2006/04/05(水) 02:31:43
決定論で全てが予測されると言うが、現在因果律で記述出来ない部分を自由意識として定義するそれで何故悪いんだという事です。
人間が生きていくのに動機付けと言う者は欠かせない。
その理由として自由意志だと言い張っているわけです。
因果律で記述できない現状では、自分の行為に何かの理由付けが必要なんですよ。
それが宗教であり観念論なんでしょう。
ですから「徒労」なんではなく「必要悪ならぬ必要嘘」なのではないでしょうか?
206 :じいさん ◆6rgGIYz09M :2006/10/20(金) 19:44:57 ID:izoYWibg
>>1 完ぺき主義者の本質って言うのは「因果関係への執着」だと思います。
脳の働きが普通の人より原因と結果の結びつきに拘るという意味です。
完全性と言う観念は因果律が裏づけに在る、つまり偶然の結果として受け止められないと言うことからくる。
388 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 14:52:14 0
観念ほど便利な言葉はないな。そして大概は意味が伴ってない。
389 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 14:58:37 0
>>366 ワロタ
なるほど、哲学なんてないのかもね。
宗教もなにもかも含めたコジツケを哲学と呼んでるだけか。
「こじつけ王」の集いだな。
390 :
素人:2007/05/21(月) 18:05:45 0
>>328 >そんなもんは答えにはならない
>どっかの脳でも、精神、霊魂でも、それがなんで『私』なのか という疑問は、最後の最後まで残るんだよ
はい。その通りですね。
つか、最初っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっから、
そのような指摘はありましたよね?w
今頃気付いたんですか?
【なんで『私』なのかという問い】は、
物理的要素云々、設計図云々、作れるか云々とは関係ないということですw
391 :
素人:2007/05/21(月) 18:58:47 0
>>347 > では
> 『私』の存在性は、この脳の
> いかなる物理的要素に規定されているのですか?
『私』(の存在性)は意識に規定され、意識は脳の活動(及び肉体)に規定される。
意識のない所に『私』(の自覚)はない。(→貴方が、自覚や実感を主軸に据えるならば・・・。)
で、その意識(精神活動)がどのようにしてあるか(どのような物理的要素の関連の上に顕れているか)、
を脳科学者の方々は日々研究されてるのでしょう?
大きく言えば「脳」に、少し倍率を上げれば「血流とか神経細胞のはたらき」とかに規定されている、
と言うことができるのかもしれません。もっとミクロな要素を要求しているのですか?
十分、物理的要素に規定されている(→【物理的要素が、『私』の発生にとっての必要な条件である】)
と言い得るのではありませんか? 「もっともらしい」仮設と言い得るのではありませんか?
「物理的要素によらない」ということは、「脳の存在を前提としない」ということと同義ですが、
貴方はそのような立場なのですか?
貴方はよく、「自我」と「自我意識(精神活動)」を分けなさいという。
であるならば、思考実験として、
自我意識のない所に於ける自我とはどのようなものとお考えですか?
392 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 20:18:00 0
最高位の主張は
『この体』の物理的要素が『他人』ではなく『私』であった原因的根拠ではありえない
『私』というものが 何かしらの物理的要素である可能性は百パーセント無い
というものだから、
『この脳』の物質的活動が『私(自我)』を生んでいる可能性は無い、という事である。
一方、脳科学の立場では
人間の脳の内側前頭前野が、自己感を形成するのにあらゆる認識と記憶とを統合して、
「自分が何ものであるか」というような統一された意識を生み出しているのだろう、と
いうような仮説が出され、各国で研究が続けられている。
最高位からすれば「そんなもの無理無理、あり得ない」と言うことであろう。
393 :
考える名無しさん:2007/05/21(月) 22:21:54 0
ヤスパースによる解釈
自我とは諸体験の体であり、成長とともに確立される。
自我意識とは、自己の存在に関する意識で、次の4つがある。
能動性自我意識−自分が考え、感じ、行動しているという意識。
単一性自我意識−自分は単一の存在であって、2つではないという意識。
同一性自我意識−過去と現在の自分が同一人であるという意識。
限界性自我意識−外界や他人に対する自我の意識。
さて、自我が精神性・主観性をもつことは明白ですが、
自我そのものが思う精神・霊魂などの非物質的実在として在るのでしょうか。
ということですね。
394 :
説明してやるよ:2007/05/22(火) 00:18:39 0
唯物論は何も説明しない?
・・・そうかな?
観念論は説明することを至上とする
・・・観念論の説明って科学的説明になったことある?
395 :
説明してやるよ:2007/05/22(火) 00:22:40 0
最高位のいう説明って要するに観念論的納得と心的充足・・・・要するに宗教の目的以外の何でもない。
そのために自分は僕は私はと主張する自己中心主義は人間中心主義の悪いバリエーション
396 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 00:26:12 O
科学的説明を説明してみて?
397 :
説明してやるよ:2007/05/22(火) 00:34:35 0
>>396 基礎物理の初歩の初歩・・・ニュートンの運動方程式
基礎化学の初歩の初歩・・・メンデレーエフの周期表
・・「まず」その二つ(の「この世界における意味」)を理解してください。
「まず」それができなければ、あなたの(短い)一生の間には『不可能』です。
398 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 00:44:01 O
簡単にその説明はできない?
特に世界の意味ってそんなに広いものを含めるの?
399 :
説明してやるよ:2007/05/22(火) 00:53:05 0
>初歩の初歩
広い広くないは個体の能力に依存する相対的尺度、
世界とは地球表面、太陽系、銀河系、銀河系の宇宙塊、宇宙の泡状構造等々に
拡大する「限界」を含む。限界は137億光年の彼方(要は宇宙の『果て』)だす。
400 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 00:56:50 O
世界って、天体のこと?あ、宇宙のことか。
401 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 01:03:13 O
ごめん。
説明ありがと。
402 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 01:09:23 O
しかし。。。。。。。
どうにかしろ、誰でもいいから。
403 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/22(火) 01:52:45 0
>>397 :説明してやるよ:
>ニュートンの運動方程式
運動の軌跡を現すのであって、何故そうなるかは説明できていない。
何故引力があるのかは説明できていない。
唯物論で言えば運動は物質に規定されていると言う事なのかな。
ならば万有引力を規定しているのは全宇宙の全物質と言う事になる。
とにかく何故万有引力なるものが在るのかが説明できていない。
404 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/22(火) 01:58:19 0
>>381 :考える名無しさん:
よくわかりません、何で・・・
「物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。」
のに・・・・・・・・・
>物質の反応は物理現象である。「物質の反応」は物理現象で解明可能。
物質そのものは判らないのに、反応すると解明できてしまうのか?
マジックみたいです。
405 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/22(火) 03:44:09 0
>>374 >「情念論」は科学的手法で書かれており、現代の脳科学に繋がっている
>ってことですよ。
科学的手法で書かれていたり、脳科学に繋がっていると、哲学ではなくなるんですか???
>創発主義的唯物論は「創発」という新しい概念を導入して、脳科学を基
>礎にしながらひとつの唯物論の世界を形成している。
「創発」という新しい概念 とは、何の事ですか?
>>375 あーゴメン
見落としてたわ
>存在しないものを存在すると
>勘違いさせられているのですよ。
誰が勘違いさせられているのですか???
デカルトの名句ですが
思うからこそ私が有ると受け止められます。
誰が思う のですか???
全く否定できていませんね
やり直して下さい
406 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/22(火) 03:45:57 0
>>376 >信仰だと思ったのは
>「生物だけが感覚を持っているとは考えていない」の部分だけ?
いやいや
全部だよ
>>379 って、誰が考えんの???
>>380 >唯物論では、物質と私は物理的要因(定義)とするだけで、
>それを説明するものではありません。
↑ ↑
これを解説すると
唯物論では、物質と私は物理的要因(定義)とすると『信じている』だけで、
それを説明する『根拠はありません』
>それを元に、化学反応や精神を説明するだけです。
それは脳科学のスタンスであって
唯物論とは、また違いますよ
>>382 >最高位、これはマジで質問してるの?「世界には精神より前に物質があって、精神は脳という物質によって生まれたから」
>と主張するに決まってるだろ。
『根拠』の意味が通じてないなぁ
その主張の根拠を聞いているんだよ
407 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/22(火) 03:47:25 0
>じいさん
>素人
あのですね
『観念』というのは
主観性そのもの、あるいは主観性による主観的な働き を指します
『イデア』も、『観念』であり
主観性による抽象的な価値観であって、具体的なものではありません
これらを解明する為には、要するに
『私』という『主観性』を解明する必要があります
しかし何度も言うように、そもそも主観性というものは
唯物的に解明できるような性質のものではありえないのですよ
唯物論というものは、客観世界を客観的に分析している立場では
それが正しいかのように見えますが
主観世界に足を踏み入れて、徹底的にその本質を突き詰めてみると
とても唯物論に手に負えるものではないという壁に、ぶち当たらざるをえないわけです
その辺の、頭の切り替えができないと
私の言っている事は理解できませんし、要するに現代哲学の最先端は理解できず
唯物論的価値観に、留まらざるを得ない というわけです
>>406 >>379 >って、誰が考えんの???
しつこい
その問いにはすでに唯識他が答えている
煽り釣り厨は荒し
以後相手にしないように
相手にした人も荒し
409 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 09:51:44 0
>>404 例えば、雷の発生原理は解明できていますね。
神の怒りなんて思う人は現代では少ないでしょう。
410 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 09:54:57 0
>>406 >唯物論では、物質と私は物理的要因(定義)とすると『信じている』だけで、
>それを説明する『根拠はありません』
あらゆる論でも「物質」についてはそうなる。唯物論に限らない。
というか、どんな論でも根本的なことは一切わからない。
キミだって、自分の論を信じているだけなんだよ。
最高位は唯物論がわかっていない。唯物論では、
『物質』は物理要素である。
物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
物質の反応は物理現象である。
「物質の反応」は物理現象で解明可能。
『私』は物理要素である。
物理要素である『私』は物理的に解明する事はできない。
人間の精神は物理現象である。
「人間の精神」は物理現象で解明可能。
というだけのこと。
411 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 10:07:03 0
唯物論は何がわかってんだ??
宇宙か?
412 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 10:09:49 0
>>410 >唯物論では、
>・・・
>というだけのこと。
その考えは、誰の唯物論?
まったく・・
それぞれが、好き勝手な「唯物論」についてお話して、
楽しそうですねw
>>409 それなら、自我の発生原理も解明できるのでは?
>>410 『物質』も『私』も物理要素なら、両者は何が違うんですか?
414 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 10:17:15 0
415 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 10:19:01 0
>>413 >それなら、自我の発生原理も解明できるのでは?
自我意識の発生原理は解明可能でしょう。
でもそれを構成する根源については説明できないよ。
>『物質』も『私』も物理要素なら、両者は何が違うんですか?
ラベルと、視点
416 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 10:42:22 0
自我意識が発生すれば自我も発生するんだから、
前者の発生原理が解明可能なら後者のそれも解明可能だろう。
417 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 11:07:41 0
>>416 自我の定義によっては可能だろうね。
ただ、説明につかうさらに根源的なものの方は説明できない。
わかったけど、自我なんてマナ識によって作られた概念だよ。
419 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 12:44:58 0
唯物論者は”意味”ってことを知らんのか。
何話してるかすら分かっていない気がしてきた。
宇宙って。。。。。
420 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 12:47:42 0
最高位の『私』が紛らわしかったら「意識体」でいいのでは?
で、「意識体」=身体(脳)なのか、「意識体」=精神・霊魂なのか。
あるいは他の何かなのか。
421 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 12:48:25 0
唯物論者は何話してるかすら分かっていない気がしてきた。。。。。
もしかして、世界と宇宙を。。。。
教育の問題だ。
文脈を知れ。
422 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 12:58:32 0
何故、
分かっていない気がしてきた。。。。。 んでしょうね?
423 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 15:17:55 0
>>316 >なぜ物質が存在するのか という宇宙の根本問題と同じ次元の問題である という事ですね?
>物質が存在した時点と同時すなわち宇宙創成期に、すでに私は存在していた という説ですね?
「宇宙創成期に、すでに『私』は存在していた」という主張ではない。
物質としての人体は、精子と卵子が結合した時点からはじまり、
また地球という物質が発生したあとに、生物が発生している。
意識より物質のほうが早く生まれている。
ある物質に、物理化学系の複雑な関係過程で、意識を生み出す性質があり、
物質によって精神が作られる、物質に自我が宿る。起源は物理的要素にある。
自我は物質から独立に存在するものではなく、一定の原理によって構成されたものである。
自我の起源は物質であり、物理現象が根源的存在であって、
自然法則が『私』の根源的存在性である。
424 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 15:36:39 0
最高位は、自我が物質から独立して存在すると『信じている』だけで、
それを説明する『根拠はありません』
425 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 16:11:18 0
『私』とは「何」か?
デカルトはあっさりと「思う精神・霊魂」である、としたけど
最高位は『私』が居るだろ?居るじゃないか、否定できないんだよ、
『私』は存在性であり、主観性・精神性だ、と言うばかり。
特定の身体が『私』であることを否定するのなら、全否定できる根
拠を挙げるか、他の何かであると特定しなければね。
結局、疑わしいと主張するだけで終わる。
426 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 16:54:14 0
自我や精神が、脳との関係があるにせよ無いにせよ
主観ってのは結局「私」だけが感じられる代物だからな。
主観的に世界を見れば、その根源が「私」になるのは当然の事。
客観的に「私そのもの」を記述できるワケがない。
ただ、これは当の本人にとっても同様で、「私」が「私」を語ろうとして
いくら「私の要素」を挙げつらっても「私」にはならない。
主観の完全な客観化は不可能だ。
だがそれは論理的広がりを持たない、いわば「点」であって
>1の様に客観的、共通了解としての「私」を語る場合には不適当だ。
客観的世界を論じるのならば、自他を隔てる事無く客観化する必要があるだろう。
そこに主観は不必要だ。
427 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 16:56:06 0
物理主義的唯物論者が最高位に反論するとすれば、
「同じ位置・状態にある、同一の物をもう1つ作ることはできない」
あるいは、「同一の物を作り得たとしても、その2つを同じ位置・状
態に置くことはできない」つまり、「物理的要素が決定的に違って
しまう」ってことになるのかな?
428 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 17:07:30 0
>>423 >意識より物質のほうが早く生まれている。
と考えたのは。。。。意識ではないのか。
429 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 17:18:08 0
>>428 >と考えたのは。。。。意識ではないのか。
意識って「考える」の ?
>>427 物理主義的唯物論者が最高位氏に(哲学として)反論するとすれば
デカルト的な方法的懐疑によって認識の確実性を導くよりも
自然的態度の方が確実で単純でなおかつ包括的に世界を説明できる理論であることを
論証すればいいんだよ。
(・・・そもそも最高位って、偉大なる哲学者達の前に立ちはだかる大いなる壁なの?・・・)
432 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 17:41:31 0
>>430 うむ。
でも最高位にとっては「認識の確実性」は関係なく、
「誰が認識したか? 」が問題のようで。
433 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 17:45:04 0
>>431 ううん、たぶん偉大なる哲学者達とは遠いところにある穴だと思う。
>>432 それはね。
反論する方が「脳」のように、デカルト的な方法的懐疑によって
「確実とはいえないもの」として退けたものを根拠として持ち出すものだから
「じゃあそれは誰の認識なの?」って
結局それも主観の認識にほかならないことを示そうとしているだけだよ。
435 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 18:07:17 0
他者に問うてる時点で主観が揺らいでるんだけどな。
436 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 18:07:56 0
>>434 デカルトが「情念論」で確実とは言えない「脳」を持ち出していることは
矛盾だよね?
437 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 18:13:39 0
>>436 別に矛盾してないけど…
なんか誤解してない?
438 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 18:27:14 0
>>437 デカルトは「精神」が松果体を介して「脳」をコントロールすると考えた。
主観の認識にすぎないかも知れない「脳」を何故「コントロールできる」
と考えたのかってこと。
>>438 確実とはいえない「脳」が精神を生み出すと言っているわけじゃないよね。
デカルトにとって出発点となるのはあくまでも精神なんだよ。
そこからの展開は時代的制約があるから今批判することは簡単だけど
あまり重要じゃないと思うよ。
俺は恋愛なんて幻想だと思う。
だって射精すると虚しくなるもん。
射精すると欲が無くなる。
従って射精後は欲の無い心で世界をありのままの状態で見る事が出来る。
射精後の世界がこの世の本質であり真理だ。
女は射精しない。
つまりいつまで経っても欲が無くならない。
男よりも女の方が欲深い。
女は強欲で醜い生き物だ。
男は射精によって悟りを開く事が出来る。
男はピュア(純粋)な生き物である。
虚しいが恋愛は幻想なんだ。
いや何も恋愛だけに限った事では無い。
そもそもこの世の全てが幻想なのだから。
全ては無である。
コピペ乙
442 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 19:25:45 0
>>439 結局デカルトは精神たる自己から出発して、実体として在る・確実に存在
するものとして「脳」をも認識したっていうことでしょ。
「脳」が存在することに疑うべき余地があったなら情念論は著せなかった
し、二元論も成立しえないものね。
まあ、精神が実体としてあるかどうか、精神が脳をコントロールしているか
どうかは、別問題です。
>>442 >結局デカルトは精神たる自己から出発して、実体として在る・確実に存在
>するものとして「脳」をも認識したっていうことでしょ。
いや違うんだけど…
その間にはデカルトには「誠実な神」の存在が必要なんだよ。
まあそこが時代的制約って言ったところなんだけどね。
444 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 20:37:07 0
事実は、今ここ、という主観的な立場上あり、
真理は、今ここの外、という客観上にある。
という格言ある?
何となく覚えて居るぞ。
445 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 20:41:35 0
>>443 >結局デカルトには「誠実な神」というのは『理』みたいなものじゃないの?
446 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 20:43:20 0
訂正
>>443 デカルトのいう「誠実な神」というのは『理』みたいなものじゃないの?
447 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 21:01:38 0
>>446 そこでいう「理」が何を意味するのか知らないけど、
「誠実な神」は「理性」ではないし、理神論的な神でもなく
ましてや朱子学や陽明学の「理」でもないよ。
ほんとにキリスト教の神のこと。
神様なんだから騙さないだろってこと。
448 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 21:07:15 0
>>447 キリスト教の神が「理」だって知らないだろ。お前。
ヨハネ福音書の最初読んでみ。
449 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 21:21:58 0
>>448 まあこれとは関係ないね。
デカルトが考えたのは神は完全だからって話だから。
450 :
考える名無しさん:2007/05/22(火) 22:06:13 O
俺、唯物論者を宇宙くんって呼ぶよ。
>>443 >その間にはデカルトには「誠実な神」の存在が必要なんだよ。
>まあそこが時代的制約って言ったところなんだけどね。
時代的制約を取り払って現代風に考えると、そこのところはどうなる。
どうやって脳や物質の存在を認められるのだ?
多数の事実が真理的傾向を秘めている
真理を決めるのは権威者なら1人の事実独断性
外=神なら神学か?
453 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 01:07:46 0
>> 409 :考える名無しさん:
>例えば、雷の発生原理は解明できていますね。
雷の例は適当ではない様です。
まだまだ雷は謎が多いようです。
そんな事より。何故りんごは地球に落ちるのですか?
何故万有引力があるのですか?
万有引力は物理現象です。
>>381 :考える名無しさん:
>物質の反応は物理現象である。「物質の反応」は物理現象で解明可能。
万有引力を解明して欲しい。
454 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 01:19:21 0
>>407 :哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2
>『私』という『主観性』を解明する必要があります
「私と言う主観」は記述できません、解明できないし、してはならないと考えます。
しかし観念や意識については色々と論じる事は出来ると思います。
>
455 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/23(水) 02:47:49 0
>>453 物質の持つ、性質というものが、なぜそういう性質なのか という疑問は
究極的な疑問であって、それは宇宙の根本問題です
もちろん
水が、ある一定の気圧下で100℃で沸騰する という事
すなわち物理現象の法則は解明ができているわけですが
なぜそうなるのかは、どこまでも続く疑問であろう
万有引力は、なぜあるのか という疑問は宇宙の根本問題です
しかし万有引力は存在し、どのようなものである という事がわかった時点で
物理現象としては、解明された となる
しかし
人間の精神が、宇宙の根本問題なのではなく
物理現象を組み合わせた結果としての、単なる『働き』であるのならば
これは解明する事ができなければなりません
このふたつの問題
精神は宇宙の根本問題であるのか
それとも脳による物理現象であるのか
それをゴッチャにして、曖昧に論じてはいけません
唯物論というものは、後者の
脳ミソという物体による、単なる物理現象にすぎない とする思想です
唯物論者は、私が突っ込むまでは
人間の精神が宇宙の根本問題であり、解明が不可能なものである などと主張しては来ませんでした
逃げ惑っているうちに、自分の主張じたいが、わけのわからないものになってしまっている事に気づかないのでしょう
本人ですら気づかないわけですが、私を誤魔化す事はできませんよ
456 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/23(水) 03:21:36 0
>>408 いやいや
全然、論理的な答えになってませんからwww
しかし、また唯識唯識って
彼は何ひとつ論理的な発言をしたことがないのに、おかしな事を言うなぁ(笑
やっぱ自演???
>>414 じゃぁ、一つ一つ検証しようじゃないか
機械的唯物論は、私によって論破されたって事で、おk?
次は何かな?
論破されていない唯物論とやらを
具体的に解説付きで、挙げてもらえますか(笑
>>423 あれ?
決定論ではなかったの?
物質が存在した時点で、私が発生する事は決まっていたんじゃないの?
という事は、宇宙が出来た時点で、全てのストーリーは出来上がっていたわけで
私の青写真も、原因的要素も、すでに存在していた事になるよね
要するに
宇宙の発生と同時に『私』は、すでに決定していた という事だよね?
しかも『私』は、いかなる物理的要素によっても発生せしめる事のできない唯一絶対性があるわけだしね
ビッグバンが起こる前の、全てが凝縮されていた状態の中には、私は含まれていたわけだよね
決定論というものは、そういう事になっちゃうだろ
これらは、あくまでもキミ達の発言が正しい とした場合だよ
ボケ老人同士が頭悪い会話をしてるよw
458 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 04:00:36 0
最高位は根本的なところで間違ってるな。
唯物論も決定論も論破する、できる対象ではないんだが。
理論として体系を有してるわけでもあるまいに。
釘で金槌を叩いてるみたいで、何がしたいんだか分からんな。
459 :
権藤有二郎 ◆EN8cDNURt. :2007/05/23(水) 05:43:54 0
私は私。これ以上の言葉は私ということには無いと思われます
最高位は、自分とは何かについて全然分かっていないんだから、
自分が分かってない意見を必死に他人に押しつける筋合いないと思うよ。
461 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/23(水) 06:35:08 0
>>458 >唯物論も決定論も論破する、できる対象ではないんだが。
その理由を書かなきゃ意味ないでしょう
>釘で金槌を叩いてるみたいで、何がしたいんだか分からんな。
それはキミが、歴史を通じて争われてきた『心身問題』というものを
理解できていない という事なんだよ
>>460 私が説明しているのは、「唯物論は間違いだ」です
ズレた話にすり替えないよう、お願いします
唯物論も大変だな。
世界を認識する範囲が広がる共に
自分の自我も広げなきゃならんのだから。
自我など捨てろ。
そうすれば唯物論も私もない。
すべて不思議となろうぞ。
463 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 07:11:06 0
>>461 理由? だから体系を有してないって言っただろ?
唯心論などもそうだが、これらには正しい間違いがないんだよ。
これらを批判するなら、その人間の思想なり立場なりを否定することになる。
お前ごときにそんな権利あるのか?
464 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 07:58:23 0
>>463 でた!道徳問題。
結局自分で判断できないと、これで判断する。
逃げ込み寺。
465 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 08:06:56 0
>その人間の思想なり立場なりを否定することになる。
そんに壁ですか?
466 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 08:08:29 0
>お前ごときにそんな権利あるのか?
君は批判しないから、権利があるのですか?
467 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 08:12:06 0
君の場合、体系って切って貼ったの寄せ集めか?
”単なる”組換えか?
468 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 08:17:33 0
>>463 唯物論は、どうやら宗教らしい。だとしたら、もともと“錯覚”なので否定
するもしないもない。本人が覚醒する以外には、その錯覚から脱却する途は
ない。おおいに唯物論を信じればいい。
469 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 08:29:58 0
>>455 >唯物論者は、私が突っ込むまでは
>人間の精神が宇宙の根本問題であり、解明が不可能なものである などと主張しては来ませんでした
www
晒しage
最高位にとっての驚異は唯識だな
自我は無い、自我を捨てろという唯識は
最高位にとって最高の敵だろw
しかも彼は唯物論を否定してない
そこが最大の強みなのかもしれん
>>455 >人間の精神が、宇宙の根本問題なのではなく
>物理現象を組み合わせた結果としての、単なる『働き』であるのならば
>これは解明する事ができなければなりません
「解明する」というのが単に法則的記述を意味するなら、
「人間の精神」は物理現象によって解明できる可能性もあるのですよ。
物理現象によって作成される可能性も大いにあります。
なぜおわかりにならないのか、まことに不思議w
473 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 09:52:36 0
最高位は唯物論がわかっていない。唯物論では、
『物質』は物理要素である。
物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
物質の反応は物理現象である。
「物質の反応」は物理現象で解明可能。
『私』は物理要素である。
物理要素である『私』は物理的に解明する事はできない。
人間の精神は物理現象である。
「人間の精神」は物理現象で解明可能。
というだけのこと。
474 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 09:54:49 0
>>473 あんたコピペの連投うざいよ。
共産党か?
475 :
ネコの味方:2007/05/23(水) 09:57:50 0
>>471 この文章は意味不明。“無い自我”を捨てよ、とは何の謂いぞ。
仏教の言説のある部分は「私」をめぐるものものらしい。唯識氏のここでの
発言から推測すると、初めに「私」の存在を否定する。次いで、それに拘るな、
最終的には「脱却せよ」と言う。奇妙な言明である。
最高位は、強敵とはみなしていないでしょう。わけがわからない考え方だなぁ、
と思っているだけでしょう。一度「私(自己)」を普通の散文で説明していただき
たいものである。
同じ議論が続くから同じコピペが出る
当然だろ
名無し最高位
477 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 10:01:12 0
最高位に刃向かう奴は全員アカ!!!!
478 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 10:10:05 0
>>473 >『物質』は物理要素である。
>物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
>物質の反応は物理現象である。
>「物質の反応」は物理現象で解明可能。
。。。。。。と規定してるのは何?
最高位
トリップ、トリップ!
480 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 10:14:06 0
あのさあ
もうきりなくない?
481 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 10:17:53 0
H17年度 低脳大学哲学科 (配点15点)
[問題] 「私」がいる世界と「私」がいない世界の違いについて述べよ。
482 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 10:17:58 0
唯物論は脳の物質的活動の結果としての自我意識は当然認めるが、自我自体は認めない
立場なのでしょう。
「お疑いでしたら、物理的手段によってあなたの自我意識を乱したり、そのものを一時
的に無くしてしまうことも可能です。自我意識とは別に自我なる実体があるのでしたら、
お示しください。疑い得ないとあなたがお考えになるだけのものを説明することは出来
ません。」
となるのですかね。
483 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/23(水) 10:47:37 0
>>482 「自我意識を乱せるから」とか
「自我なる『実体』を示せないという事は、それは無いという事だ」とか
ホント、前時代的なレベルの低い発想ですよね
もう一歩、進んで『存在性』という観点を理解できないと
団塊の世代の人達と同じ時代の次元に留まりますよ
『私』が他人ではない唯一絶対の存在性である という事実性に対して
唯物的な解答を出せる可能性は、ゼロ%なんですよ
唯物論が正しい可能性は、ゼロ%だという事です
私は、この体であったわけですが
この体の側に、私の原因となる要素を見出す事は、絶対に不可能なんです
という事です
>>484 体が無ければ私も存在できないってことだな
>>483 >『私』が他人ではない唯一絶対の存在性である という事実性
どこが事実だ?
486 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 11:05:48 0
どうみてもゾンビ
487 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 11:08:39 0
最高位は唯物論がわかっていない。唯物論では、
『物質』は物理要素である。
物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
物質の反応は物理現象である。
「物質の反応」は物理現象で解明可能。
『私』は物理要素である。
物理要素である『私』は物理的に解明する事はできない。
人間の精神は物理現象である。
「人間の精神」は物理現象で解明可能。
>この体の側に、私の原因となる要素を見出す事、絶対に不可能なんです
これが最高位唯物論
本当の唯物論ってなに?
>>483 >『私』が他人ではない唯一絶対の存在性である という事実性に対して
「私が他人でない」とか「私は唯一だ」というのは私の「定義」の問題であって、
何ら「事実性」の問題ではありません。
「私が他人である」とか「私が2つある」とかいう事態は、論理的に不可能なのです。
(ちなみに、「過去にAさんだった私が今はBさんである」とか
「私が2つの肉体を持つ」という事態は、不可能ではありません。)
>私は、この体であったわけですが
>この体の側に、私の原因となる要素を見出す事は、絶対に不可能なんです
そんなことはありませんぞ。
「この体が他の物質でなく人間の体であり続けた」
「死なずに生きている」
「脳が正常に活動している」
等々、この体の側に「私の原因となる要素」はいくらでもあります。
これらの要素が欠けていたら「私」にはならず、「私」は存在しなかった、と
推定されるのですから。
492 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 12:43:46 0
幻想の中でも組み立てようとする、勇気かな。
つまり創造。本当の唯物論。
493 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 12:58:28 0
>>487 :考える名無しさん:
>物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
>物質の反応は物理現象である。
>「物質の反応」は物理現象で解明可能。
文章のつながりがおかしいのでは?
なぜ物理現象だから解明可能なのか、の部分が欠落しているみたい。
494 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 13:06:05 0
>>487 :考える名無しさん:
とりあえず「引力」が物理要素なのか、物理現象なのかを聞きたいです。
495 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 13:25:16 0
>>464-468 なにこの連続w しかも馬鹿ばっか。
思想や立場の対立はあっても、どちらが正しいかは意味がないんだよ。
おまえら唯物論を相対性理論とかの理論とごっちゃにしてるだろw
496 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 13:27:19 0
>>472 :考える名無しさん:
>「解明する」というのが単に法則的記述を意味するなら
私は「解明」というのは観念的には「直感的に是認できる事」、科学的には物質に還元できる事だと思います。
しかし法則的記述ができると言うのもたいしたものだと思います。
>「人間の精神」は物理現象によって解明できる可能性もあるのですよ。
>物理現象によって作成される可能性も大いにあります。
心というものは法則とか物理現象とは異次元のものです。
「悲しみ」と言う感情を刺激できても、「私の初恋が終わった悲しみ」と言うクオリアはてのつけようがないんです。
観念が観念を生み、妄想が妄想をうんだ「心の世界」だからです。
一方観念としては、「お前の気持ちはわかるよ」と言う人には一部でも解明されているかもしれないと言う事です。
497 :
花魁:2007/05/23(水) 13:32:55 0
>>481 >[問題] 「私」がいる世界と「私」がいない世界の違いについて述べよ。
(「私」が認識基点を指すと解釈しての)
[解答] 「私」がいない世界は語られない。
「私」がいる世界のみが語りうる。
従って、二つの違いを述べる為の前提条件が満たされないので、
違いを述べることは不可能である。
498 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 13:43:20 0
>>481 :考える名無しさん:
>[問題] 「私」がいる世界と「私」がいない世界の違いについて述べよ。
この様な問題提起をしてしまうのが「人間の脳」の弱点なのです。
AとBの違いを比較することが好きで得意なのですが、つい調子に乗ってしまいます。
「私」がいない世界・・・と言うのは判らない訳です。
ですからその世界は「いる世界」とは世界が違う、別範疇だと言う事。
比較してはいけないんです。
この問題は「私がいる」と「私がいない」の違いを述べよ、と同じなんです。
無意味な問いです、そこに「世界」と言う言葉をくっつけた為に有効な問いになったような錯覚を生み出しているに過ぎません。
ちなみに「私がいる世界」について述べよ、と言う問いは意味がある。
>>490 話が噛み合っていない気がする。
相手の視点を理解しようとする気がなければ、話は噛み合いませんよ。
たぶん相手は「実存」という視点に近いところで「私」について書いている。
「実存」についての話は、或る意味で客観性も論理も超えた話になる。
ちなみに実存主義者としてのサルトルやカミュが文学者でもあったね。
500 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 13:53:58 0
トンデモな仮説を立ててみる。
「私」がいるから世界があるのか?
「私」がいなくても世界はあるのか?
私在り → 世界認識 → 世界発生?
私無し → 世界認識不可能 → 世界無し?
もともと「世界」在り → 私発生 → 世界認識 → 「世界」発生?
もともとある「世界」と認識された「世界」を一致させることは可能か?
「私」が世界認識の基点であれば、もともとある「世界」は想定の世界だから
主観世界と客観世界の一致は永遠に不可能になるかもしれない。
これだと「世界誕生数秒前仮説」もありかも。
あまり問題にされてないが時間論がネックかもしれん。
過去とか未来とか言うが、人間は現在しか生きられないから。
歴史学的な量的な時間の捕捉はこの際あまり役立たない気がする。
(補足)
実存が或る意味で論理を超えているということについては、
嘘つきのパラドクスのように、私が「私」について語るということ、つまり
自己言及には常にパラドクスが付きまとうことを考えればわかるでしょう。
502 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 13:57:41 0
>>493 列挙しただけで、繋がっていないから。順番は変えてもよい。書き直すと、
最高位は唯物論がわかっていない。唯物論では、
・『物質』は物理要素である。
・物理要素である『物質』は物理的に解明する事はできない。
・物質の反応は物理現象である。
・「物質の反応」は物理現象で解明可能。
・『私』は物理要素である。
・物理要素である『私』は物理的に解明する事はできない。
・人間の精神は物理現象である。
・「人間の精神」は物理現象で解明可能。
>>500 このスレにはめずらしく
哲学してるねー。
504 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 14:21:19 0
>>502 :考える名無しさん:
>書き直すと・・・・・・・
全然変わっていない、書き直した変化を解明できない???。
・・・・前半部の流れとしては・・・・・・・・
「要素はそれ以上解明できないが現象は要素に解明(還元)出来る」
・・・・と言う感じて良いのですか?
505 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 14:25:28 0
>>504 何かを論証しているのではなく、唯物論の立場を書いたもの。
506 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 14:53:12 0
>>415 :考える名無しさん:
>>413 『物質』も『私』も物理要素なら、両者は何が違うんですか?
に対して・・・・・・・・・・
>ラベルと、視点
と答えていますが、視点が違うと言うのは決定的な違いですが・・・?。
物理要素の中には視点の違う『物質』と『私』があるということ???。
507 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 15:00:31 0
>>505 :考える名無しさん
ですから、唯物論の立場は・・・
「要素はそれ以上解明できないが現象は要素に解明(還元)出来る」
・・・・と言う立場なんですか? と聞いています。
508 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 15:08:04 0
じいさん 良いとこ突いてるのかもしれないな。
仮定を必要とする科学は、仮想を大前提としている。
仮想を現実と仮定していくのだから、科学=現実とするには、ある部分を飛躍しているはずだ。
>>496 >心というものは法則とか物理現象とは異次元のものです。
>「悲しみ」と言う感情を刺激できても、「私の初恋が終わった悲しみ」と言う
>クオリアはてのつけようがないんです。
これは必ずしも心に限ったことではないと思うのですが。
物理現象も、本来はすべて一回性の出来事です。「同じ種類の」素粒子だろうと、
「本当は」細部を持ち、一個一個すべて別個の物理現象である可能性も大いに
あると思います(むしろ完全に同じだと考える理由がどこにあるのかわかりません)。
まして、その相互関係や時間的な運動変化のパターンはすべて一回性で、2度と
同一状態を取らない、と考えるのがむしろ当然です。
心の側がその差異を捨象してそこに「同一性」を見出して言語化するのが
「記述」であって、現実的な予測の目的に使える程度にその同一性が強くなったと
認められる場合に「法則」となります。
ですから、「法則」はあくまでも言語の側に存在するのであって、物質世界に規定
されている、とは言えても、物質世界に実在する、と言えるかどうかは議論が分かれる
でしょう。むしろ、「本当の物質世界」を記述するためには、物理学や数学では
不十分で、一回性の出来事を記述する「物質の歴史学」や「物質の文学」が要請される、
と言えるかもしれません。
(あるいは、先人たちが言う「直観」による把握しかない、とか。)
「地質学」や「生物学」や「天文学」は、物質の歴史学という側面がある、と
言えなくもありません。もちろん通常の歴史学も物質の歴史を扱うとも言えます。
この意味で、「私の初恋が終わった悲しみ」という一回性のクオリアは、普通は文学的な
記述の対象ですが、一回性の物理状態(脳状態)が正確にそれに対応している、という
可能性は常にあると思われます。それであれば、原理的にはその対応関係を
「擬似法則化して記述する」ことも可能であると思われます。
そもそも、通常の日常言語による世界記述も、物質と心の対応関係を
大雑把に法則化したもの、と言えなくもありません。「殴られれば痛い」とか
「家族が死ぬと悲しい」とかもそれです。医学などはそれをある程度体系化し
精緻化したものに過ぎない、と言えないこともありません。
510 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 15:11:59 0
>>456 主観主義的世界から見れば、認識主体である「私」が根源となるが、
「私」を世界認識の基点する事で、世界の解明が不可能となる。
主観主義世界観は、世界と自我の解明に役立たない。人の意識より物質のほうが早く生まれているからだ。
『私』は物理的要素によって発生して、一定の原理によって構成された存在である。
生起する原因は物質の因果性によって規定され、確率も因果律に支配されているが、
自然には、確率的偶然による発生や生成も認められるから、未来は未決定である。
世界発生→私、発生→私、認識、が事実。
511 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 15:12:38 0
科学イコール現実ではないが。
>>499 >たぶん相手は「実存」という視点に近いところで「私」について書いている。
「実存」という視点、の正確な意味はよくわかりませんが、私の勘で言うと、
そのような意味の「私」は、もはや肉体と精神の関係(心身問題)とか唯物論が
どうという話とは無関係だと思われます。
(サルトルは唯物論者で実存主義者ではなかったでしょうか。)
>>481に沿って言えば、「私がいる世界」とはすなわち唯一現実に存在するこの世界のことで
あり、「私がいない世界」とは存在しない世界(無)だからそれについて語ることはできない、
(あるいは、唯一現実に存在するこの世界の内部の「仮想世界」として語ることしかできない)
ということでしょう。
最高位氏が言う「45億年間世界に私は存在しなかった」という話も、現在私が存在
しているこの世界において言われ得ることであって、ついに私が存在しないのなら
「私は存在しなかった」と言うことすらできず、そういう世界は端的に「無」だ、
ということになる(というか、そう言うことすらできない)でしょう。
>>490はそのことを散文的に書いただけなのです。
513 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 15:16:29 0
>>507 要素はそれ以上解明できないが、
要素(or要素的現象)によって構成される現象は、
その要素(or要素的現象)によって解明できる。
>>512 >「私」は、もはや肉体と精神の関係(心身問題)とか唯物論がどうという話とは無関係だと思われます。
哲学が「私」を扱う場合、それが観念論・唯物論に「無関係」ということはあり得ないでしょう。
>サルトルは唯物論者で実存主義者ではなかったでしょうか。
サルトルは後年マルクス主義に傾倒したけれども、「唯物論者」とは普通は考えられていないと思う。
サルトルは唯物論についてこう書いている。「観念論と唯物論とは共に現実を消滅させる、
前者はものをなくしてしまう故に、後者は主体性をなくしてしまう故に。」
>最高位氏が言う「45億年間世界に私は存在しなかった」という話も、現在私が存在
>しているこの世界において言われ得ることであって、ついに私が存在しないのなら
>「私は存在しなかった」と言うことすらできず、そういう世界は端的に「無」だ、
>ということになる(というか、そう言うことすらできない)でしょう。
「私は存在しなかった」と言うのは、存在している私が語っているわけですよね?
それがなぜ不可能なのか、意味がわかりません。
私が存在しないことは、私の「死」でもありますが、「死」は哲学の重要なテーマの一つだと思う。
515 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 15:37:02 0
科学イコール現実ではないよ。
現実に限りなく近づく現実の擬似劣化コピーという仮想を作ったほうが現実的じゃん。
というのが科学でしょう。
現実に限りなく近づこうと、イコール現実じゃない。
でも、それを現実と考える庶民の猿の愚行の責任を負いはしない。
哲学は現実に拘っている。解明できないと知りながら、その姿勢だけは忘れたらいけないと。
あとはじいさん を見守ることにするよ。
516 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 15:40:01 0
最高位の誤りは、私が発生する前に、物質としての世界が発生している事実を無視している点だ。
私(自我)が、他人ではなく私であったは、「私」が物質的要素によって発生したからである。
物質と法則が『私』の存在性である。
517 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 15:46:17 0
>>483 >ホント、前時代的なレベルの低い発想ですよね
さぁ、どうなんでしょう。
当方には何ら発想のランク付けの根拠がないので決めかねますが。
>団塊の世代の人達と同じ時代の次元に留まりますよ
団塊の世代の人々の思想がどういったものなのか、知らないんです
よ。マルキシズムの事ですか?
>もう一歩、進んで『存在性』という観点を理解できないと
ああ、「私が存在することは疑い得ない」ということですね。
で、唯物論者にとってはそのような「事実性」よりも客観的な「真
実性」なんだということでしょうか。これは平行線ですかね。互い
に「このような観点に立てないでとは情けない」というばかりのよ
うにも思えます。
>『私』が他人ではない唯一絶対の存在性である という事実性に対
>して 唯物的な解答を出せる可能性は、ゼロ%なんですよ
「他人ではない」というところをみると
『私』というのは「思う私」つまり認識主体であるだけでなく、社
会的存在でもあるのですね。この自分がこの世で一人しか居ないと
いうのは分かりますし、これは自我意識による「事実性」ですね。
>>514 ネコ?w
>>509>>512は、かなり解り易いと思われます。
少しだけ横レスすれば、
>哲学が「私」を扱う場合、それが観念論・唯物論に「無関係」ということはあり得ないでしょう。
「無関係」という言い方は多少、過ぎるかもしれないが、少なくとも、
「私という実存」が観念論・唯物論等種々の論、考え方を、
必ずしも「補強・保障、或いは逆に否定・反駁するものとはならない」という意味かと思われる。
※(ちなみに、「私という実存」を突き詰めることにより唯物論の破壊に至ることもあれば、
「私という実存」を突き詰めることにより唯物論の持つ「もっともらしさ」に親和的になってゆくこともある。)w
>「私は存在しなかった」と言うのは、存在している私が語っているわけですよね?
それは、『「私が存在しなかったこと(世界)」そのもの』を語っていると言えるのでしょうか?
想定に過ぎないことに変わりはないのではないですか?( >唯一現実に存在するこの世界の内部の「仮想世界」として語ることしか )
「私が存在しているこの世界」を敷衍・スライドさせて(→『この世界から「私」を引き算して』!)想定しているに過ぎない、と。
世界が、「私によって始まるもの」ならば「私のない世界はありえない」という単純な論理的帰結のようにも見えます。
519 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 16:05:12 0
>>483 >私は、この体であったわけですが
>この体の側に、私の原因となる要素を見出す事は、絶対に不可能なんです
「この体であった」と過去形なのは何故なのですか?
胎児や乳児期には自我がなかったので「私は、この体であった」ということ
ですか?自我をもった以上は、この体ではなく、この私だということですか?
そういうことではないですよね?
「私の原因」とは、存在する原因ということですか?
普通に考えると私には肉体性・運動性、そして精神性・主観性があると思い
ますが、それらが「私のものとして存在する」ことを唯物論的に説明するこ
とは不可能ということですか?
520 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 16:07:03 0
>>514 >「私は存在しなかった」と言うのは、存在している私が語っているわけですよね?
>それがなぜ不可能なのか、意味がわかりません。
>私が存在しないことは、私の「死」でもありますが、「死」は哲学の重要なテーマの一つだと思う。
「存在しない」ということができない「私」というのは、
より正確に言えば「今の私」ってことでしょ。
何かが語られているとき、「今の私」は
死んでいる(というより「無い」)状態にはないってことです。
オイラは
>>512ではないですが、
彼が言いたいことは多分そういうことです。
(
>>512書いた人が違うと思ったら、訂正してちょ)
521 :
花魁:2007/05/23(水) 16:13:09 0
522 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 16:18:11 0
最高位、
私(自我)は自明ではないよ。
脳科学の発展によって、「私が存在することは疑い得ない」という前提が揺らいでる。
>>518 >「無関係」という言い方は多少、過ぎるかもしれないが、少なくとも、
>「私という実存」が観念論・唯物論等種々の論、考え方を、
>必ずしも「補強・保障、或いは逆に否定・反駁するものとはならない」という意味かと思われる。
先ほど引用したようにサルトルは「観念論と唯物論とは共に現実を消滅させる、
前者はものをなくしてしまう故に、後者は主体性をなくしてしまう故に。」 と書いています。
この「主体性」ということについては、たとえばサルトルが「握っている手を握ることはできない」
(これは「見ている目を見ることはできない」と同じようなこと)ということに現れている主体性のことです。
>それは、『「私が存在しなかったこと(世界)」そのもの』を語っていると言えるのでしょうか?
>想定に過ぎないことに変わりはないのではないですか?( >唯一現実に存在するこの世界の内部の「仮想世界」として語ることしか )
この辺は意味が非常に曖昧です。
「唯一現実に存在するこの世界」とは、何のことなのか?
私の目に映っているものが「現実の世界」なのか?
私が行ったことのないアラスカは私にとって「想定」の世界なのか?
「現実」の捉え方が、そもそも観念論、唯物論、その他の立場では、
それぞれ大きく異なるのだから、「現実」という言葉にもそれぞれの
立場が前提されているということを自覚してください。
>>514 >哲学が「私」を扱う場合、それが観念論・唯物論に「無関係」ということはあり得ないでしょう。
いや、私は無関係、というか全く別の次元の問題だと思います。
唯物論・観念論というのは、すでに現実に存在する客観世界の内部の人間の
「精神」と「肉体」がどんな関係にあるか、をめぐる問題であって、
その世界が「私」のいる現実世界であるか否か、という問題ではありません。
永井均氏なら「そんなつまらない問題と一緒にするな」とでも言うでしょう。
>サルトルは後年マルクス主義に傾倒したけれども、「唯物論者」とは普通は
>考えられていないと思う。
サルトルについてもマルクスについても全くの素人ですが、マルクスは
「フォイエルバッハが人間を類的本質に解消してしまったのを批判して、現実の
人間は個々具体的な生産関係・社会関係の只中に存在する現実の存在である」と
強調した、というような解説を読んだ覚えがあります。そういう意味では、
彼自身がある種の「実存主義者」だった、とも言えないこともありません。
現に、機械氏などは「マルクスエンゲルスは観念論者だ!」とことあるごとに
強調していますw
「主体性」ということについて言えば、唯物論だとそれがなくなり、観念論だと
それが確保される、という発想自体が、私にはどうもよくわかりません。
(また最高位氏に誤解されると困るので一応お断りしておきますが、私は
政治思想としてのマルクス主義には何の興味もなく、またそもそも弁証法的唯物論
とか唯物論ー観念論の対立を政治にからめる必然性を一切認めないものです。
というより、現代において「唯物論」の是非にこだわる理由も正直あまり
ないと思います。)
(続き)
>「私は存在しなかった」と言うのは、存在している私が語っているわけですよね?
>それがなぜ不可能なのか、意味がわかりません。
いや、まさに「存在している私」だからこそ、「私が存在しなかった」という
仮想現実について語ることが可能である、ということです。
>私が存在しないことは、私の「死」でもありますが
これは、両者はイコールではないと思います。「私が存在しないこと」とは
むしろ「私が生まれてこなかったこと(生まれる前や死んだ後ではなく)」に
対応するのでは。
現に生まれて存在する「私」だからこそ、その「死」についても(ある種の
仮想現実として)考えることができるのではないでしょうか。
もっとも「私の死については考えることも語ることもできない」とする人も
いるらしいですが、死の問題は難しいので、私には語る能力がありません。
すいません時間がないので他のレスについては失礼いたします。
それと、上のレスの機械氏うんぬんは、他のスレと勘違いしておりました。
失礼しました。
>>524 >唯物論・観念論というのは、すでに現実に存在する客観世界の内部の人間の
>「精神」と「肉体」がどんな関係にあるか、をめぐる問題であって、
>その世界が「私」のいる現実世界であるか否か、という問題ではありません。
そんなことはありませんよ。
カントの「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく、
それによって【「私」のいる現実世界】が構成されるものです。
527 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 16:46:52 0
>>509 :考える名無しさん:
>一回性の物理状態(脳状態)が正確にそれに対応している、
対応している事と因果関係は別です。
ある刺激がある感情を示すと言う対応関係が証明されても、その感情を解明したことにならない。
その感情の物理状態は「・・・悲しい」を説明しないから。
「・・・悲しい」の感情そのものが物理要素(
>>505 の言う)に還元できなければ唯物論的には巧くない。
>「擬似法則化して記述する」ことも可能であると思われます。
ぜんぜん記述できてないでしょう。例えばどんな記述???
ちなみに「1+1」を記述してください。
>>523 私は引用しただけで「現実」という言葉は使っていませんが?
おそらくは、「確かに実感されている世界」と言いえるものではなかろうかと・・・。
529 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 16:55:17 0
>>526 >カントの「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく
唯物論者というより、一部の脳科学者は『統覚』さえも脳という臓器の機能と
して捉えようとしているようだね。
>>528 >私は引用しただけで「現実」という言葉は使っていませんが?
>
>おそらくは、「確かに実感されている世界」と言いえるものではなかろうかと・・・。
それでも同じことですよ。
「確かに実感されている世界」は、人により立場により異なるということです。
物質的なものを中心に実感する人もあれば、霊的世界を実感している人もいるわけです。
自分の言葉に、自分の考え方が前提されていることを自覚することが大事です。
531 :
1:2007/05/23(水) 17:13:20 0
「我思う故に我あり」はデカルトの専売特許じゃなくて
アンセルムスのものだけど、まあ、デカルトが明晰かつ判明な
ものとして方法的懐疑の上に「私」を定立したとしましょう。
世界の確実性を疑うことで主体の確実性を確保する道筋ですね。
スピノザは『デカルトの哲学原理』で、「我は思いつつある」と
読み込んで、その限りでデカルトを評価しますね。
イギリス経験論がヒュームになって懐疑論になると、「私」の明証性
も懐疑にさらされますね。
すなわち、単線的な時間の流れにのっかって、連続的に継起する「私」
などありえない、「あるかのように」思うことはできるが、それは
「習慣」に過ぎない、と。ヒュームは実体としての「私」を否定して
人間というのは諸々の知覚が非連続的に作動する「知覚の束」に過ぎない
といいますね。
532 :
2:2007/05/23(水) 17:14:26 0
カントは「フェーズを分ける」というやり方で解決を図ろうとしますね。
理論理性としては人間の認識能力自体をどう分析しても、実体としての
「私」は出てこない。が、理性の実践的使用においては、「あるかのように」
思って差し支えないし、そうでないと人間は生を営めません、という
ことで、超越論的仮象=統覚としての「私」を定立しますね。
ドゥルーズの『カントの批判哲学』が面白いと思います。批判期に
おいてカントは感性・悟性・理性を、ライプニッツの「予定調和」を
持ち込むことによって、均衡のとれた調和的活動体にしてしまう。
しかしそれはドゥルーズによれば、正しくないということなんですね。
人間というのは「諸能力のドクトリン」、感性・悟性・理性が
それぞれにおいて、最大限働くことで、いったんアノミー状態に
陥るが、やがて「力」が折りかえってきて、ある均衡点に達するのだ、と。
その方向こそ切り開かれるべき、「感性・悟性・理性のアンサンブル」
としての人間のあり方である、と。
>>530 >「確かに実感されている世界」は、人により立場により異なるということです。
>物質的なものを中心に実感する人もあれば、霊的世界を実感している人もいるわけです。
その通りです。その意味での「実感された世界」です。
そして、(件の流れで言えば)
それは「ただ一つ、私にしか知られない」ということでしょう?
そして、そのような世界であるなら、「私のいない世界などありえない」ということです。
実感される世界の内容や様相とは関係ありません。
≪ >世界が、「私によって始まるもの」ならば「私のない世界はありえない」 ≫ のではないか? と・・・。
(※ちなみに、(518・528において)私は私の考え方を前提に喋ってはいません。
他者の意見を類推しているだけです。)
また、
>自分の言葉に、自分の考え方が前提されていることを自覚することが大事です。
自覚しておりますし、その上で、これこれこういう理由でこの考え方に立っている、
という補足を時折交えながら、過去語ってきたつもりでしたが・・・。
(最高位さんには一向に伝わりませんでしたが・・・w
貴方にも伝わらないようですね・・・(^^; )
534 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 17:19:00 0
Q:記憶の特性には、覚えると忘れるというのがありますが、
絶対に忘れない事があります。
それは何でしょう?
A:覚えていないこと。
>>533 「引用しただけ」だとか「他者の意見を類推」だとか・・
自分の考えとして述べていないようなので、これで終わりにします。
哲学は、自分を語ることです。だから勇気がいることですよw
537 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 17:34:53 0
>>527 >…ちなみに「1+1」を記述してください。
四則演算は既に法則である点について小一時間(ry。
>>535 私個人の意見に興味があるなら、(決定論スレも含め)
過去ログを名前欄「素人」で検索してください。
(先ほどの流れを個人の意見で混ぜっ返す必要もないでしょう?w)
わかったぞ。私だか世界だか主観だかしらないけど
私の存在性なんかよりもさ、
人間が、何故「客観的記述を始めたのか?」を考えてみようぜ!
これって、科学的な事柄にも繋がるっしょ?!
とりあえず必要な情報は、
1. 「主観」と「客観」という言葉造ったヤツは誰?
2. 「唯物論」と「観念論」を対立させたのは誰?いつ?
3. 「私」について考えたのはデカルト以前以降の哲学者で誰がいた?
4. 「科学」がなぜ西洋で大いに発展したのか?
だな。
540 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 18:42:01 0
「主観」「客観」「理性」「哲学」「現象」等の日本語訳を考案した人なら、
西周でそ。「主観」「客観」という言葉造ったのは誰なんでそ?
541 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 18:46:26 0
主観と客観が対になったのは、カントの時代だったようだ。
それまでは、「現実に存在する物」に対する「思惟内容と
して存在する物」すなわち観念を意味していたらすい。
542 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 18:56:45 0
異なる他人同士(私たち)がいる世界があるんでそ。
543 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 19:04:11 0
主観とは論理的特異点なのだよ。
観念論を語る諸君。君たちが「私」と言う時、既に君たち自身ではない
「言葉」によって自らを表現している事に気付くべきだ。
545 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 19:35:32 0
>>537 :考える名無しさん:2007/05/23(水) 17:34:53 0
>四則演算は既に法則である
それは計算法則と言う意味の観念です。
聞きたいのは物理要素なのか物理現象なのか?
とくに「+」と言うのは一種のアルゴリズムでしょうが、これは物理現象なんですか?
546 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 19:45:13 0
世界を写し取るために知覚を構成する論理構造が脳にあると思うんだよね。
その構造がイデアとか観念とか霊とか言われてるもの。
このスレの観念論者って唯霊論と言って問題ないと思う。
548 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 19:57:01 0
>>547 >世界を写し取るために知覚を構成する論理構造が脳にあると思うんだよね。
なんで?
それって方法的懐疑に十分耐えられるの?
550 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 20:19:19 0
>>545 「数を数える」って事がどう始まったのか、客観的に考えてみるとよいよw。
数えられない数学対象もあるけどねw
552 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 21:40:31 0
>>551 おお、まさにそこだよ。
「私」という特別な存在の主観しかない、という言わば純粋な主観論による世界を
想像した時、非常におかしな事になってしまう。
私の主観による世界は、なぜ私に都合よくできていないのか。
「私の主観世界で私に反発する客観論者がなぜいるのか?」とかねw。
私の作り出した世界なら、矛盾のない世界にする事ができてもいいじゃないかw。
もしあくまで私を特別な存在とし、世界は私の主観が作り上げたのだ、とするなら
私は矛盾を作り出し、且つ矛盾を説明できないという存在になる。
それは一体何だ?。
そして逆に私は特別な存在ではないのだ、という理解に至る場合、
私の主観が認知できない事象がある事を認めざるをえないだろう。
それは一体何だ?。
わけがわからないじゃないか。
553 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/23(水) 21:43:49 0
>>546 :考える名無しさん:
>物理現象によって作られた観念
>>550 :考える名無しさん:
>「数を数える」って事がどう始まったのか・・・・
物理現象が観念を作ると言う説にはびっくりですが、別に何によって作られたのでもいいんです。
数えることの始まりはどうでもいいんですよ。
2+三とか四+Dなどと言う「加算」と言う操作の観念は物質要素なのか物質現象なのか?と問うている。
物質要素なら解明して欲しいと言っている。
554 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 21:45:45 O
反発者が気になるのは弱者だから。
>>552 >わけがわからないじゃないか
すいません。わけわからないのは、あなたの書き込みなんですけど
556 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 21:53:42 0
>>555 主観のみの世界は、それ自体が矛盾になりうるって事を言いたかったんだけどね。
ごめんね稚拙な文章でw。
557 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 22:00:12 O
だから弱者だから。
認知的不協和か
559 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 22:20:29 O
つまり弱者の主観だから。
560 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 23:34:28 0
>>556 主観が世界を「つくりだす」という捉え方だと
「矛盾を含むのがおかしい」と思われても来るが、
「知られたものしか知られたものとならない」「認識されたものしか認識されていない」(見事な同語反復だがw)
ということでしかなく、その知られる内容がどうこうとは関係ない、ってことでそ。
きちんと言えば、
「知られることにより(知覚認識されることにより)初めて世界は立ち現われる」と・・・。
563 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 09:56:41 0
>>562 >「知られることにより(知覚認識されることにより)初めて世界は立ち現われる」と・・・。
それは最高位氏の考え?
カントみたいだな。
>>562 いや、彼がどう考えているかはわかりません。
ただ、このスレ(或いは私を記述スレ)で言われる、
主体に注視した時の、或いは認識基点としての主体を想定する時の「世界」は、
極論として言い切ってしまえばそうならざるを得ないだろう、ということです。
独我論と言っていいのか、私は判りませんが・・・。
565 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 10:20:04 0
>>562 主観が世界を作り出すのに、なんで矛盾が生じるのか。
カント的に言うと、現象の世界をこえた理性の使用は二律背反を生むということかな。
あ、あんかーが・・・
567 :
花魁:2007/05/24(木) 10:39:33 0
>>564 >そうならざるを得ないだろう、ということです。
という文の「そう」は、どこを指してますか?
>>567 つ >「知られることにより(知覚認識されることにより)初めて世界は立ち現われる」
って、ここが記述スレだったかw もうどっちがどっちかわからんwww
>>562 近世哲学史を勉強してみたらどうかな。
主体が世界をつくりだす、は構成説というもの。
知覚認識されることで世界はたち現われる、はすでに世界があって
受動的に知覚している、ということでしょう。これは構成説では
なくて、経験論のもの。バークリという人がすでにあなたのような
意見を出してます
570 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 10:59:34 0
>>564 >主体に注視した時の、或いは認識基点としての主体を想定する時の「世界」は、
>極論として言い切ってしまえばそうならざるを得ないだろう、ということです。
>独我論と言っていいのか、私は判りませんが・・・。
「世界」を、認識論的にだけ考えてると、観念論か唯物論かみたいな対立から
抜け出せなくなる。そういうのが近代の認識論の特徴なんじゃないかな。
「世界」と「人間」とを分けて考えてるから、そういう対立から抜け出せなくなる。
ハイデガーは人間を「世界・内・存在」とすることで初めからそういう対立から
抜け出ている(フッサールの「生活世界」なんかも、たぶんそうかな)。
ニーチェも世界と人間を分けて考えていない。人間と世界は同質だ。
「世界は力への意志であり、それ以外の何ものでもない。
そして君たち自身も力への意志であり、それ以外の何ものでもない」。
ちょっとそのハイッデッガー、フッサール、ニーチェ理解は
怪しいなw
フッサールを別にして、存在論的問題機制は、認識論とは
また違うでしょう
572 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 11:07:18 0
>>571 >存在論的問題機制は、認識論とはまた違うでしょう
だから、ハイデガーやニーチェは近代的認識論を
最初から超えてると言ってるんだよ。
世界と人間とを対立的に考えない点でね。
>>572 そうではなくて、存在論を相手に仕事してるわけだから
認識論の問題は、超えているというより、そもそも問われてないのよ
574 :
花魁:2007/05/24(木) 11:21:48 0
>>568 どうもです。
もし564氏の言っている内容を「独我論」と呼んでしまうと、
(
>>562を踏まえて解釈すれば)その独我論というのは、
私が全ての認識の始原であるということを言っているわけですよね?
「独我論」という概念の定義次第でもありますが、
控えめな「独我論」とも言えるし、
オイラもこういう意味でなら、多分独我論者の範疇に入るかもしんない。
575 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 11:25:10 0
>>573 >そうではなくて、存在論を相手に仕事してるわけだから
>認識論の問題は、超えているというより、そもそも問われてないのよ
そうではないよ。
たとえば、ハイデガーの真理概念(アレーテイア)を見るだけでもわかる。
それは、主客の一致に真理を求める近代的認識論に対する批判なわけだから。
ニーチェの解釈論も、同じく近代の認識論に対する批判だよ。
>>569 知覚されない世界を想定することそのこと自体が超越的だ、というレスもどこかにあった。
主観的世界とは、外界があろうとなかろうと、外界がどのようなものであろうと、
立ち現われたそれのみが、唯一、(実感されたものという意味で)確かなものである、
ということでしょう。
知覚される以前に世界があるかどうかは全く意味がない、と。
それは、どなたかも仰ってましたが「生まれる以前」や「死後」と似ているように見える。
また、「構成する」ということがどういうことか判りませんが、
「立ち現われる」ということが、既に「構成される(する)」ということにならないでしょうか。
「体系立った世界」を世界と呼び、「知覚・感受のみがある」だけでは世界と呼ばない、
というならまた別かもしれませんが・・・。
>>575 「存在が認識より先立つ」という問題の構成の仕方があるのよ
ハイデッガーなら、哲学の第一の仕事は、すぐれて「存在の解明」に
かかっているわけで、認識論というものが哲学上の問題として遡上に
のぼるとしても、それは存在論の後から立ち現われるのよ。
結局「存在と時間」は当然ながら、中途で終わるわけね
ニーチェはカント批判はありえてるけど、ソクラテス以来の面々たる
「小さな理性」に対する批判の延長としてでしょう。
彼はスピノザに自分の先行者を見出すけれど、例えばドゥルーズなんかは
静態的なスピノザの存在論に対して、ニーチェはそれを動態化させた
というでしょう。これはあながち間違った見方だとは思わない。
>>576 >「立ち現われる」ということが、既に「構成される(する)」
ということにならないでしょうか
これだったらカントでいいわけじゃない?
579 :
570:2007/05/24(木) 11:51:06 0
>>576 >知覚される以前に世界があるかどうかは全く意味がない、と。
「構成説」と書いた人はたぶんカントを念頭において書いたんだろう。
カントの場合は、「構成」されるのは「現象」の世界。
それに対して、知覚されない「物自体」の世界は、「全く意味がない」どころか、
実践理性にとって大いに意味があるもの。
カントは理論理性より実践理性に優位を与えることで、道徳と信仰の場所を確保しようとした。
その際に、知覚されない「物自体」の世界が意味をもってくる。
>>577 ハイデガーとニーチェでは、近代の認識論は超えられているという私の考えに対して、
ハイデガーとニーチェでは、認識論の問題はそもそも問われていないというのが君の主張だったのでは?
>>577は話がずれていて意味不明。
認識論を問題にしている根拠として私がハイデガーの「アレーテイア」とニーチェの「解釈論」を
挙げたんだから、話を続けるならその線でどうぞ。
>>579 面倒くさいやつだなw
存在論と認識論では問題機制が違うでしょう。
>>577話がずれている
わけではなくて、存在論の問題を仕事としているわけだから、
そもそも認識論的にそこに何を見るというのw
アレーテイアだったら、ハイデッガーはヘラクレイトスなどの
「自然は隠れることを欲する」という、真理の非‐覆蔵性が自らを
覆い隠すこととに基づいているということをめぐるただの真理論でしょう
581 :
570:2007/05/24(木) 12:28:19 0
>>580 >存在論と認識論では問題機制が違うでしょう。
>>577話がずれている
>わけではなくて、存在論の問題を仕事としているわけだから、
>そもそも認識論的にそこに何を見るというのw
ハイデガーやニーチェでは、存在論と認識論、人間と世界は切り離せない。
ニーチェの場合は、一切(人間も世界も)は力への意志であり、その力への意志は
解釈作用そのものである。したがって「事実などはない、一切は解釈である」
「認識ではなく解釈するのである」「無数の真理があり、したがって真理はない」
ということになる。
無数の力への意志の解釈によって無数の世界が構成されるという点では
カントの構成論に似ている部分もあるが、ニーチェの場合は、有ると言えるのは
力への意志という解釈作用だけであり、解釈の主体も解釈の対象もないという点が大きく違う。
>アレーテイアだったら、ハイデッガーはヘラクレイトスなどの
>「自然は隠れることを欲する」という、真理の非‐覆蔵性が自らを
>覆い隠すこととに基づいているということをめぐるただの真理論でしょう
「ただの真理論」?
それが近代の認識論への批判なんですが・・
>>581 じゃあ君は「近代認識論の真の乗り越え」ということでハイデッガー全集や
ニーチェ全集を読むとでもいうのかねwありえないw
まあ、読んでもいいけどさ。そこにヘーゲル的止揚の運動体でも展開されて
るのかい?
時代制約もあるけど、その時代に哲学者が自分の問題として
展開せざるをえない対象があるわけよ。
ギリシア以来のオントロギー、それに基づく形而上学の解体とか、
キリスト教的道徳や理性主義を系譜学的に考察して価値を崩す、とかね
583 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 12:38:31 0
Aという力とBという力に強弱がると、AB間に区別が発生する。
認識可能となる。力を見ているのではなく境界が見える。
その間に流れ方向(意志)がある。関係。
時間の質もこのように解釈できるか?
584 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 12:43:12 0
自他を力とすると、区別が発生する。
この場合、自の力は直接感覚できるのかも?
現代でもパトナムが近代初期からの認識論の枠組みを
解体しようとしているね。、
彼が注目しているのはオースティンだけど。
ただ一気に認識論から存在論へシフトするのではなく
あくまで認識論のなかでの話だけれどね。
586 :
570:2007/05/24(木) 12:45:27 0
>>582 >じゃあ君は「近代認識論の真の乗り越え」ということでハイデッガー全集や
>ニーチェ全集を読むとでもいうのかねwありえないw
ハイデガーとニーチェを、プラトン以来の形而上学批判の哲学として読むのは
わりと普通の読み方だよ。
その場合、批判される「形而上学」の意味は、ハイデガーでは「存在忘却」、ニーチェでは「二世界説」。
ハイデガーによれば、存在忘却は近代の主客の対立によって頂点に達する。
したがって存在忘却から脱却することは、「近代認識論の真の乗り越え」と見ることができるわけ。
ニーチェによる二世界説批判の中心はキリスト教だが、ニーチェは二世界説の根源は、
「主体」の想定にあると見ているから、これも、主客対立にもとづく近代認識論の乗り越え
として見ることができるわけ。
哲学に詳しい人が来ると このスレの住人は 手も足も出ない・・・
>>586 なるほど、ロック以来の、ドイツ観念論に至るまでの、もう少し
拡大して新カント派や20世紀の現象学運動に連なる「近代認識論」
は、ハイデッガーとニーチェによって、存在論と不可分な形で
批判展開され、この両者によって別々に乗り越えられたのだ、と。
それが西洋哲学史というわけだ。
乗り越えられたとまでは言えないんじゃないのかな。
認識論そのものへの批判という哲学的洞察には共感できるけど、
決定的なのは「論証」がされていないというところにあると思うんだけどね。
認識論の乗り越え…
そこまで彼らのテクストを、とくにニーチェのものを
一義的に読んでいいのかね
>>587 仰る通り。ちんぷんかんぷんです。
それは、私(私達?)の中に、使用されている語の意味がないからです。
参加するには、まず各種用語を抑えなければならない。
その上で初めて、全体の論の構成について(同じ土俵で)語ることができる。
めんどくさいから手を出してないだけとも言うが・・w
ともかくも、かように「語義の確定」「語義の共有」は重要なのです。
また、もし一般的語彙を使用するにしても、
それが換骨奪胎されたもの、語義が若干スライドされたものであった場合もまた、
対話は成り立たない。
我々は、言葉(表現・表象)(→ラベル)をもってしか対話できないのだから・・・。
いや、もっと言えば、自身の理解についても同様であるかもしれない・・・。
>>590 まさか、そういった面もあるっていうことでしょ。
>>590 というより、テクスト解釈の違いじゃないの?
ハイデッガーといったらまずもって存在論を普通はイメージする
わけだし、近代的認識論の乗り越えというようにニーチェを
イメージはしないと思う
認識論を批判はしたかもしれないけど、存在論を唱える枠組みの
中で認識論批判を展開したんじゃないのかな。
だから存在忘却とか、主体とか言われてるときの、「主体」が
近代的認識論における伝統的な「主体」概念なのかは解釈による
気がする。存在論的に定立されてる「主体」かもしれないし。
594 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 15:10:39 0
存在忘却や二世界説などの用語を知って事が前提の書き込みは
どうかなぁ。
賢者ってのは、自分の力量以上のことを行う者の事だが、
その場合、宗教や道徳の力をよく使用するな。
ニーチェやハイデガーの名前もそんな意味で使われると
白けるし。
いいんじゃないの?
哲学スレなんだから。
>>594 けど、言い換えが、
「他に適した用語がない」「補足しながらでは、冗長な一文となってしまう」「解説だけで膨大な量の文字になる」
などの場合、やはり、端的に提示できるラベルは必要だし有用だと思われる。
勿論、解説の必要性を無視するわけではないが、
解っている者同士の間では、ラベルを用いた方が簡潔な表現になって便利と思う。
で、今の流れでは、そうした二人の間の対話なので別に構わないんじゃないかな。
597 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/24(木) 16:02:55 0
>>591 :考える名無しさん:
>仰る通り。ちんぷんかんぷんです。
わたしもそうです。
>かように「語義の確定」「語義の共有」は重要なのです。
議論と言うものはそもそも語義の確定のための論であるともいえるのでは?
ある考えが起こってその考えをと名づける、しかしその考えは確定していないし共有もされていない。
次の段階で(A)について議論すると言う流れなのでは・・・
従って話がちんぷんかんぷんなのは「(A)論、説」に対する議論の部分がない、噛み砕かれていないから。
ここの「哲学に詳しい人」は人名と「・・・論、説」を並べるだけ。
ラベルだらけで内容がわかりませんね。
こう言うと「哲学に詳しい人」たちは必ずこういうでしょうね・・・
「・・・を読んだか?・・・もう少し本を読んでから発言しろ・・」とね。
じいさんの時代からゆとり教育をやってたのか。
>>597 >従って話がちんぷんかんぷんなのは「(A)論、説」に対する議論の部分がない、噛み砕かれていないから。
>ここの「哲学に詳しい人」は人名と「・・・論、説」を並べるだけ。
>ラベルだらけで内容がわかりませんね。
わかる人にはわかる、わからん人にはわからん、それでいいんじゃないの?
哲学だって学問なんだから、誰にでもわかるわけじゃない、
他の学問と同じように、勉強しないとね。
哲学は他の学問と違って誰でもわかるべきだっていうのは、変な考えだと思う。
600 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/24(木) 16:10:11 0
>>598 :考える名無しさん:
>じいさんの時代からゆとり教育をやってたのか。
この様に「私」の問題とか、哲学的な事とかを学校の授業の範囲でしか考えられない人がいる。
>>600 そうじゃなくて
自分がわからないことを人のせいにするような傾向を
揶揄しているんだよ。
603 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/24(木) 16:21:11 0
>>599 :考える名無しさん:
>わかる人にはわかる
ここのところなんですよ問題は・・・
>>591 さんが言っている・・・
>ともかくも、かように「語義の確定」「語義の共有」は重要なのです。
と言う意味は、わかる人たちの間で「語義の確定」「語義の共有」がなされているとは思えない、ということ。
もし「わかる人たち」が語義を判っているんだったら「わからない人」がちんぷんかんぷんにならないだろう。
>>603 >わかる人たちの間で「語義の確定」「語義の共有」がなされているとは思えない、ということ。
>もし「わかる人たち」が語義を判っているんだったら「わからない人」がちんぷんかんぷんにならないだろう。
そうじゃないですよ。
たとえば「私」の語義なら、デカルトの「われ」、カントの「われ」、ロックの「われ」と言うのが
哲学史を知っている人にとっては、一番明瞭な言い方なんですよ。
それを一般的な言葉で説明しようとすれば、いくら書いても書ききれないでしょう。
哲学史を知らない人にとっては、ちんぷんかんぷんになってしまうとしても、それは仕方ないということです。
わかる人の間でそれで話が通じているのなら、わからない人は黙ってみているか、自分で勉強するか、質問するか、でしょうね。
606 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/24(木) 16:46:01 0
>>604 :考える名無しさん:
わかってない人が、わかっている人に「ちんぷんかんぷんだぞ」といちゃもんをつけているとすれば。
其れに対して貴方こそ黙って見ていれば良いのでは?
>>603 >わかる人たちの間で「語義の確定」「語義の共有」がなされているとは思えない、ということ。
認識論的に「主観的世界が、一人で抱えるしかないもの・個別の世界しかありえないもの」であるなら、
そもそも「共有」ということ自体、ありえないじゃありませんかw
そういうレベルの話をしたいのですか?
>>606 >わかってない人が、わかっている人に「ちんぷんかんぷんだぞ」といちゃもんをつけているとすれば。
>其れに対して貴方こそ黙って見ていれば良いのでは?
では黙って見ていることにしますが、あなたは、誰にいちゃもんをつけて、
誰からの説明を待っているのですか?
その相手がいるようには思えなかったので…
ひとりごとだよ・・・
610 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 17:04:07 0
勉強不足では議論に参加する資格がない。
とくに、じいさんとネコの味方は何なんですか?
無教養で一般的基礎知識もなく、程度が低すぎ並以下で、甘えがひどすぎる。
611 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 17:10:56 0
おい、じじい。
自分の不勉強を棚に上げて、甘ったれるんじゃないよ。
612 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 17:12:44 0
いや、わかる人ならこのスレの内容の過程を鑑みて
書き込んでほしい。それが腕だろ。
少しはサービスするとか(?)
ラベル自体が複雑で膨大なものを含むなら、両者でも明確
に了解しているとは思えないが。特に発展していくものは
変化するのが常だし。哲学は固定化するものでもないかと。
613 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 17:16:29 0
追加。
端から見て、象牙の塔と思われるのは勿体ないですよ。
614 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 17:18:25 0
哲学用語を知っていることが哲学ではないだろ。
さあみんな勉強してから戻ってこよう。
617 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/24(木) 18:04:55 0
>>608 :考える名無しさん:2007/05/24(木) 16:51:24 0
>誰にいちゃもんをつけて、 誰からの説明を待っているのですか?
そこなんですよ、みんな「考える名無しさん」なんで誰が誰だかわからないんですよ。
>>617 きみすぐそうやって話をそらしてごまかそうとするね。
619 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 19:38:00 0
いやね、直感とか持続、私とかの用語はまだ分かりやすい
んですが、存在忘却は解説ちょっと付けてくれても。。。
そのくらい検索したらいくらでも出てくるでしょう。
いくつかの解説を読んでそれでも見当もつかないとしたら
いままで哲学でなにが問題になってきたのかということがすでに
わかっていないということです。
それで哲学上の議論に参加しようというのは無理があります。
入門的な性格を持った西洋哲学史を一冊でも読むことをおすすめします。
622 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 20:29:50 0
いやね、哲学っていっても数は多くあるわけで、
ハイデガーもその中の一部なわけで。
それでも全て知っとけと。
哲学すべて???
それともハイデガーは特別なわけ??
それを知らなかったものでね。
>>622 入門的な性格を持った西洋哲学史も621で紹介されているサイトも
全部の哲学者のすべての学説が紹介されているわけではありませんよ。
あくまでも基本的なものです。
哲学では「私」といったような日常的な語が考察の対象になることがありますが
だからといって日常的な意味で使われていると思ったら間違いです。
そこがわからず参加してくるひとが後を絶たないことも
この種の、一般性の高い問題をスレタイとするスレで話が噛み合わないことが多い原因の一つでしょう。
まあ、私を記述スレ、脳は物質スレ、ドットコムスレは
哲学的教養など何ももたないひとたちが、あーだこーだ
言っている哲学板の名物スレだから、みんなで勉強とか
始めなくてもいいと思うよw
ハイデッガーについて語りたいならハイデッガー専門スレが
あるわけで、そっちで高尚な議論を展開すればいいはず。
今日はたまたま哲学の語彙が豊富な2人?がこのスレを
使って対峙したまでです。またもとのズルズルに戻りましょう
おまえはいいことを言うw
で、どのズルズルからいく?w
627 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 20:56:05 0
いやね、存在忘却って言われたらはじめから、投げる人いるかも。
ただ、私とかは親しみやすいよって読み込んでいくうちに、ずれに
気づくでしょ。
それに話がかみ合わないことが、面倒なら哲学のはじめの一歩は
踏めない。
噛み合わないことが多い”原因”の一つというより、”当然”でしょ。
>>627 >それに話がかみ合わないことが、面倒なら哲学のはじめの一歩は
>踏めない。
>噛み合わないことが多い”原因”の一つというより、”当然”でしょ。
その分野の基礎知識くらいは理解しておくのがはじめの一歩
だと思いますよ。
629 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 21:13:53 0
いやね、存在忘却ってハイデガーの重要課題なんですよね?
はじめの一歩??
まあまあ、存在忘却の存在は忘却して
「 は や く 野 球 や ろ う ぜ 」
631 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/24(木) 22:37:56 0
>>623 :考える名無しさん:
>哲学では「私」といったような日常的な語が・・・・日常的な意味で使われていると思ったら間違いです。>622
語義と言う事であるが・・・
日常語でない語義があると言う事だが、人の日常生活に通用しないと言う事だろう。
そのようなものは「哲学」と言えるのだろうか?
>>623 >哲学では「私」といったような日常的な語が考察の対象になることがありますが
>だからといって日常的な意味で使われていると思ったら間違いです。
>そこがわからず参加してくるひとが後を絶たないことも
>この種の、一般性の高い問題をスレタイとするスレで話が噛み合わないことが多い原因の一つでしょう。
まったくその通りだね。
>>619さんには、そういうことが分かっていないようだ。
ハイデガーの「存在忘却」と言えば、その語をハイデガーの哲学の文脈で考えればいいんだから分かりやすい。
逆に、「直感」とか「主観」とか、一見分かりやすい語が、哲学史ではいろんな意味で使われているんだから、
相手がそれをどういう文脈で考えているのかを判断するのが難しい。
まあバカばっかりってことですね
634 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 23:09:13 O
いやね、頭がいい人は効率的なんですな。
635 :
◆NtxF1/6I9. :2007/05/24(木) 23:36:47 0
所詮私は過去の私と未来の私の矢切の渡しで御座います。
激流に負けることなく彼岸に辿り着ければ幸いと存じます。
636 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 01:14:14 O
私はわたし!今を一生懸命生きて、死ぬとき、生まれてきてよかった我が人生悔いなしと言いたいです。
637 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 07:47:46 0
いやね、哲学の徒の中にも如何に速く
山を上るかが、問題のようだ。
そんなに急いでどこに行く〜。
第一、行き先がまるですでに決まっているようでは
ないか〜。そうじゃなきゃ効率って意味が無いし。
638 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 08:10:02 0
間違わないことが正しいって誰が決めたんだ?
間違ったから行けるところもある。
大勢がそう正しかったり、間違えていたりすれば、
それこそ大発見が見つかるかもよ。
639 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/25(金) 11:45:35 0
実際には、ちょっと想像しにくかったんだけど
よく考えてみれば
このスレには
「私はいない」なんていう
自我意識すら持っていないような人が多いんだよな
話が通じる方が、おかしいのかも知れない
640 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 11:52:41 0
>>639 やっと気がづいたようだな。ワレワレ ハ ゾンビ ダ
641 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 12:33:25 0
>>639 他人同士で構成される「私たち」の中の1人である「この私」を認識している
「思う私」が何であるか特定できていません。
「私」と『私』は同一ではない、という困難ですよ。
>>526 >カントの「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく、
>それによって【「私」のいる現実世界】が構成されるものです。
私はカントの考えは何度聞いてもよく理解できませんが(というか正直に言うと
あまり整合性があると思えないのですが)、それをそのまま取るなら純然たる独我論
にしかならないと思われます。
「根源的統覚」が感性と悟性の形式やカテゴリーや何やをいくらこねくり回した
ところで、それだけで経験の内容が生じるとも、どんな【現実世界】が構成される
とも思えません。「人間」という観念も、「イマニュエル・カント」という観念も、
成立のしようがありません。
(構成されるし成立する、というのなら、それはまさしく独我論です。)
経験や現実世界の内容は、根源的統覚の外部からやってくる以外ないと思われます。
根源的統覚が「不可知の物自体」に「触発」されることで経験の内容が生じ
現実世界が構成される、とすると、物自体と統覚の関係は一体どうなっているのか、
不可知なものが存在するとか統覚を触発するとかどうしてわかるのか、等々の
疑問がぬぐえません。
それはともかく、もう一つの疑問は、めでたく構成された【現実世界】の内部に、
どうして「私」がいるのか、ということです。「私」が「人間」だったり
「他人でないエマニュエルカント」だったりするのなら、それはどう見ても客観世界の
一部分に過ぎず、「統覚」のことではあり得ないので、「統覚」と「私」の関係が
わかりません。まして、カントは「人間はすべて理性的存在で、統覚を持つ」と
主張するそうなので、ますますもってわけがわかりません。客観世界の内部の
「精神ー物質」の関係はどうなのか、という問題も、何ら解決されているとは思えません。
個人的には、カントのやっているのは客観的な【現実世界】の内部の
「精神ー物質」の関係、という困難な問題を、客観世界の外部に追放(投影?)して
「物自体ー統覚」の関係に置き換えて「理性の能力を超越しているから考えても仕方ない」
と言っているだけではないのか、という気がします。
(これは全く無知な素人の暴言なので、ぜひ訂正をお願いします。)
(続き)
要するに、問題は「独我論か否か」であって、それは観念論ー唯物論の対立以前の
話だと思います。「我(私・根源的統覚・その他)」があって、それが独力で
経験世界を構成(産出)するなら独我論だし、「我」の外部に「何か」があって、
それと「我」との関係において経験世界が構成(産出)される、
という、まあ常識的な考え方と対立するわけです。そして、いったん後者の考え方を
取った以上は、その「何か」とは一体何のことで、「我」とは、一体どんな関係に
あるのか、どうして両者が「関係する」ことができるのか、という疑問を避けて
通ることはできないと思います。それをめぐっては、そもそも両者は全く異質で
独立した存在だとする二元論と、両者を連続的にとらえる一元論がありますし、
一元論の内部にも、その「何か」とは何なのかをめぐって諸説あります。
「唯物論ー観念論」の対立というのは、要するに後者の内部の対立に過ぎません。
一方、「実存」という視点に近いところでの「私」というのが何を意味するか、
というと、私の理解するところでは、上記のような問題意識とは全くかけ離れた
疑問ではないかと思われます。「私」と「世界」がどんな関係にあろうと、
「私」を生み出しているのが「神」だろうと「絶対精神」だろうと「統覚」だろうと
「物自体」だろうと「物質」だろうと「霊魂」だろうと「生物としての人間」だろうと
「生産関係」だろうと、その疑問にとっては何ら問題ではありません。
(続き)
問題は、そういったもの一切を含んだ「この世界」が現実であって「あの世界」は現実
ではないのはなぜなのか、だと思われます。
「この世界」と「あの世界」の内容の違いは、片方が現実で片方が現実でないことを
一切説明しません。たとえば、万有引力の法則も慣性の法則も相対性理論も成立しない
世界や、第二次大戦で連合国が負け枢軸国が勝利した世界があるとします。
「この世界」が現実で、「あの世界」が現実でないのは、ひとえに「この世界」に
「私」がいるからなのです。万有引力の法則があり連合国が勝利したから「この世界」
が現実なのではありません。「私」とは、それが存在することによってその世界が
現実になるような何か、のことであって、それが唯一可能な「私」の定義だと思われます。
個人的にはこういう問題意識はすべて誤解と混乱に基くものではないか、と思うのですが、
それはともかく、それは伝統的な「心身問題」とか「唯物論ー観念論」問題とは全く
次元の違う問題ではないか、ということを言いたかったわけです。
645 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:01:05 0
>「我」の外部に「何か」があって、
それと「我」との関係において経験世界が構成(産出)される
例え、そうであるとしても、意識の介在が問題では?
646 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/25(金) 13:02:26 0
>>641 >「この私」を認識している「思う私」が何であるか
「思う私」は「この私」であり、同一です
決して別人ではありません
存在性である「私」が「私」を認識しているのであり
思考しているのであり
それが自我意識です
647 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:05:01 0
「この私」はすでに人間である誰かなのであり、
誰であることを認識する精神・霊魂といった『私』を想定しても
『私』が誰かであることにはならない。
648 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:10:26 0
>>646 >「思う私」は「この私」であり、同一です
決して別人ではありません
そう、自我意識です
で、『自我』の方はどうなりましたか?
本当に哲学教養のないやつが多いな
>>642-644はカントを1回も読んだことがないだろうな
650 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:15:42 0
>>646 >「思う私」は「この私」であり、同一です
「思う私」は人間なのですか?
あなたの言っていた『私』は「特定される一人の人間」である
ということですね?
651 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/25(金) 13:19:17 0
>>648 ん?
『自我』というのは『私』の事であり、『私』の存在性の部分ですよ
『私』が『私』を意識する精神活動が、自我意識です
652 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:28:03 0
>>651 ん?
それだと『自我』は証明できたことにならんがw
653 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/25(金) 13:29:59 0
>>650 質問の意味が理解できません
私は、この主観性であり、私という存在性です
654 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:30:29 0
>>651 ということは「何」なのかは特定できない『自我』つまり『私』の
精神活動が、「思う私」「この私」という自我意識となって現れて
いる、という理解でよろしいですか?
655 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/25(金) 13:31:47 0
>>652 ん?
べつに証明などしておりませんが?
あんた無いの? 自我意識
656 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:33:10 0
>>653 私は、この主観性であり、私という存在性です
つまり、実体では無く、概念と言うことですか?
657 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/25(金) 13:35:15 0
>>654 いやいや
何度も言うように
↓ ↓
私は、この主観性であり、私という存在性です
ただし、これは
物理的要素に特定する事は、絶対にできません
よって唯物論は間違いです という事ですね
658 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/25(金) 13:38:25 0
>>656 私が概念なのではなく
私の、概念なのです
659 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:45:10 0
>>658 ん?
それだと『自我』は証明できたことにならんがw
660 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:46:48 0
唯物論の支持者は
人間の精神(主観性)より先立つものが物質(体)である
と考えていると思いますが、さて、どうでしょうね?
661 :
俺(今度からマルトと名乗ります):2007/05/25(金) 13:50:06 0
この前、俺は「私」は存在しないといったけど、それの説明として
次の質問を最高位にしやす。
「社会」は存在すると思う?
662 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 13:59:47 0
最高位が『自我』の実在を証明できないのだったら、
唯物論者は「自我意識」を説明すればいいだけだな?
663 :
俺(今度からマルトと名乗ります):2007/05/25(金) 14:20:51 0
ためしに、宗教性といのを説明してよ。
>>645 すいません。意識の介在があると何が問題なのか、よくわかりません。
(そもそも「意識」の正確な意味と位置付けがよくわからないのですが。)
>>649 もちろんその通りですw
純粋理性批判はずいぶん前に読もうとして30ページくらいで放り出しましたw
解説書の類は読んだことはありますが、正確な内容はほとんど忘れました。
「根本的な部分がどうも納得できないな」という印象だけ残っております。
(私はカント哲学自体の内容や歴史的位置付けには興味はないので、
自分の疑問に対する解答になっていないのではないか、という印象ですが。)
>>526氏が「私のいる現実世界を構成する統覚」とカントの話を出されたのと、
このスレには珍しく(あえて表に出さない方が多いのでしょうが)哲学に
詳しい方が覗いているようなので、あえて勝手な印象を書いてみただけであります。
私のスタンスはもともと詳しい知識を持った方に疑問点を質問する、という
ものなので、皮肉でも何でもなく、どこがどう間違っているのかを
説明していただけると助かります。「全部間違いで話にならん」ということでしたら、
大変申し訳ありません。
665 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 14:30:51 0
『精神』や『自我』の実在を証明もせず、主張もせずだったら、
二元論にもならない。
独我の世界に逃避するのみ。ww
666 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 16:19:08 0
>>651 >『私(自我)』が『私』を意識する精神活動が、自我意識です
要するに、精神活動している非物質的な『自我』が実体として在る、とあなたは
主張しているのでしょう。「精神活動」というのなら、『活動している精神その
もの』が実体としてなければならないでしょう。
だとすると、あなたが唯物論者に言うのと同じように「それを証明して見せてよ」
「精神がどうして肉体と相互作用しうるの?」というような質問が殺到すること
になりますが?
668 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 17:53:11 0
人間は腕を動かそうと思う前に、腕が動いてるんじゃなかったっけ。
腕を動かそうと思ったから動いたんじゃなく、腕が動いたから動かそうと思うみたいな。
669 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 18:36:55 0
時枝福治さんという人が、従来の哲学の真理性を否定しています。
『行動決定のブラックボックス』という概念を導入しています。
行動を決定するのは「思い」ではなく、行動決定ブラックボックスだというのです。
これは、面白い理論です。
670 :
570:2007/05/25(金) 18:54:55 0
>>642 カントはだいぶ前に読んで忘れているけど、わかる範囲で書きます。
>根源的統覚が「不可知の物自体」に「触発」されることで経験の内容が生じ
>現実世界が構成される、とすると、物自体と統覚の関係は一体どうなっているのか、
>不可知なものが存在するとか統覚を触発するとかどうしてわかるのか、等々の
>疑問がぬぐえません。
カントの物自体は認識できない(認識によって対象が構成されるのだから、認識によって
構成されたものではない物自体〔あるがままの物そのもの〕は認識されるはずがない)ものだから、
あるはずだと考えられるものであって、「わかる」(認識される)ものではないと思う。
>もう一つの疑問は、めでたく構成された【現実世界】の内部に、
>どうして「私」がいるのか、ということです。「私」が「人間」だったり
>「他人でないエマニュエルカント」だったりするのなら、それはどう見ても客観世界の
>一部分に過ぎず、「統覚」のことではあり得ないので、「統覚」と「私」の関係が
>わかりません。
「私」が認識するからには「私」という「もの」があるはずだ、と考えて「私」を「もの」
として実体化したのがデカルト以来の哲学だったが、カントは「われ思う」を実体化せずに
「はたらき」(機能)と考えた。それによって初めて実体ではない「主観」が確立された。
この「われ思う」は認識作用に必ず伴うものだから、認識の対象ではない、つまり、
それは物自体でも現象でもない。
あなたが書いている「私」は、現象としての「私」なのではないかと思う。
>客観世界の内部の「精神ー物質」の関係はどうなのか、という問題も、何ら解決されているとは思えません。
デカルトが精神と物質を二つの「実体」としたことから、心身二元論の問題が大きな問題になったが、
カントにおける「客観」は「主観」(個人的な見解という意味の主観ではなく、意識一般という意味)
によって構成されたもの(つまり「現象」であって「物自体」ではない)から、デカルト以来の二元論
に基づく問題はある程度解消しているのではないかと思う。
671 :
570:2007/05/25(金) 18:56:41 0
>>643 >「我(私・根源的統覚・その他)」があって、それが独力で
>経験世界を構成(産出)するなら独我論だし、「我」の外部に「何か」があって、
>それと「我」との関係において経験世界が構成(産出)される、
>という、まあ常識的な考え方と対立するわけです。
カント以前は、対象を模写するのが認識だ(模写説)という考え方が普通だったようで、だから
認識の働きが初めて対象を構成するというカントの構成説は「コペルニクス的転回」と言われる。
それは感性的直感による経験とともに認識が生じるから独我論ではないでしょう。
>そして、いったん後者の考え方を
>取った以上は、その「何か」とは一体何のことで、「我」とは、一体どんな関係に
>あるのか、どうして両者が「関係する」ことができるのか、という疑問を避けて
>通ることはできないと思います。
そういう疑問に対して理論的な答えを出そうとする態度をカントは「独断論」と言って批判したのだと思う。
人間の理性がそのように、答えられない問いに答えようとすることによって陥る誤謬推理の例としてカントが
挙げたのが四つのアンチノミー(理性が理性の限界を超え、物自体の世界に迷い込んで作り出す誤謬推理)だと思う。
(カントはこのアンチノミーの問題を『純粋理性批判』の「弁証論」で扱っているが、これがヘーゲルの
「弁証法」につながる。カントが「誤謬推理」として否定的に考えたものを、ヘーゲルは肯定的にとらえる。)
>>644 >「この世界」が現実で、「あの世界」が現実でないのは、ひとえに「この世界」に
>「私」がいるからなのです。万有引力の法則があり連合国が勝利したから「この世界」
>が現実なのではありません。「私」とは、それが存在することによってその世界が
>現実になるような何か、のことであって、それが唯一可能な「私」の定義だと思われます。
これは意味がよくわからない。
(「あの世界」というのがよくわからないし、また、そのように
「私」を定義することにどんな意味があるのかがわからない。)
672 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 18:57:56 0
まあ真理性を否定しきれてないけどな。
散々遠回りして無知の知に近づいたってところか。
673 :
570:2007/05/25(金) 19:40:52 0
>>643 >一方、「実存」という視点に近いところでの「私」というのが何を意味するか、
>というと、私の理解するところでは、上記のような問題意識とは全くかけ離れた
>疑問ではないかと思われます。「私」と「世界」がどんな関係にあろうと、
>「私」を生み出しているのが「神」だろうと「絶対精神」だろうと「統覚」だろうと
>「物自体」だろうと「物質」だろうと「霊魂」だろうと「生物としての人間」だろうと
>「生産関係」だろうと、その疑問にとっては何ら問題ではありません。
〈「私」の定義〉という言い方を見て思ったが、そのように「定義」することが
できないのが「実存」だと思う。
「私とは、○○○のことである」といくら定義(本質規定)したところで、
それは「ほんとうの私」からはズレている。なぜなら「私は○○○である」と
言っている私、言いつつある私の方が「ほんとうの私」(実存)だから。
普遍的な概念の中に含まれている自分を見ている自分、それはもはや
その中には含まれていない。
つまり実存はいつも答える側にあって、答えられる側にはないものであって、
それは客観的には扱われえない。
「私」と「世界」との関係については、昨日もちょっと書いたけれど、
デカルト〜カントにおいて決定的に確立された主・客対立を乗り越えようとすることが
現代の哲学の課題の一つだったと思う。
ハイデガーとニーチェがともにソクラテス以前の哲学や東洋思想に共感したのも
そういうことだと思う。
彼らは、人間が世界の「外」に立って世界を「対象化」することによっては、
世界は顕わにならないと考えた。
674 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 19:41:57 0
批判哲学じゃ。
675 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 20:04:47 0
沢庵さん。主客融合。
676 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 23:43:44 O
>>664 ↓的外れかも。
時計を見て時間がわかるのは、時計が機械的に動
いているからと言え、また私に意識があるからとも言えるかと。
この場合、前者を機械時間、後者を意識時間と呼びたい。
この意識において、例えば力の表現の仕方には2つ取りあえずある。
まず力の大きさ。
次に力の強さ。
端的に言うと、力の大きさは前者の部類、つまり空間的。
力の強さは、後者の部類。質的。
以上のような、全く違う表現方法を一つのものに無分別に使用することがある。
意識には。
ベルクソン的的的考察。何分加減失礼。
677 :
考える名無しさん:2007/05/25(金) 23:45:52 O
訂正。
何分いい加減失礼。
678 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/26(土) 00:44:16 0
>>666 :考える名無しさん:
横レスですが・・・・素朴に考えると・・・
>あなたが唯物論者に言うのと同じように「それを証明して見せてよ」
唯物論的な証明は要らないでしょう。
詩でも作ればそれは紛れもないその人の精神活動では?
>「精神がどうして肉体と相互作用しうるの?」
それは原因不明です、しかし現実ですよね。
唯物論でも肉体が精神を規定すると言っているので相互作用も在りうるのでは?
679 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/26(土) 00:49:12 0
自我の捉え方がそれぞれ違うのですから
まとまるものも、まとまらないのではないでしょうか。
680 :
考える名無しさん:2007/05/26(土) 00:56:20 0
俺の目玉で、今このモニターを見ている奴は一体誰だ?
681 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/26(土) 00:58:56 0
>>679 :唯識 ◆Vidya0E1.s :
>まとまるものも、まとまらないのではないでしょうか。
まとまるもの・・・ならとんでもない話だと思います。
絶対にまとまらない事を確かめるため、ああだこうだ言っているのでは?。
682 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/26(土) 01:01:10 0
>>680 :考える名無しさん:
貴方が「俺」だと白状しているじゃあないですか。
683 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/26(土) 02:34:33 0
>>681さん
あくまでも「定義」というような意味です。
684 :
権藤有二郎 ◆EN8cDNURt. :2007/05/26(土) 08:04:10 0
私ってことを「私」という語となるべく私という意識を使わず
考えてみて欲しい。
ひとによる違いがでる
「私は私」でしかないことだということだ
それは主体としてありとあらゆるものに通じ
「私は私」「何者も常に問題は山積みである」
そこに転がってるペンでさえ
原子一個でさえ、言葉でさえそうである
>>670-673 これはご丁寧な解説どうもありがとうございます。
>カントの物自体は認識できない(認識によって対象が構成されるのだから〜)
>それは感性的直感による経験とともに認識が生じるから独我論ではないでしょう。
まさに、「感性的直観」に「何か」が与えられない限り、経験が成立しようがないと
思われるわけです。カントは対象がまず存在して認識主観がそれを模写するのではなく、
むしろ認識主観の側が様々な先天的条件に従って対象を構成することによって経験
世界が成立する、と考えたのだと理解していますが(たぶん不正確ですがw)、
いくら感性と悟性と理性とカテゴリーと構想力と統覚があっても(ますますでたらめw)、
それだけでは何にもならず、構成する材料がなければ何を構成することもできないし、
どんな経験も生じません。そして、その材料は「感覚の多様」として外部から
「与えられる」他はないと思われます。
そして、「万有引力の法則」とか「相対性理論」とか「第二次大戦では連合国が
勝った」とか「イマニュエルカントは人間である」とかいう経験的知識の真偽を
分けるのは、まさにその「感覚の多様」の内容として何が与えられるか、に左右される
のであって、認識主観の側の条件をいくら超越的に分析しても仕方ありません。
(続き)
問題は、「何が」「どうやって」感性にその材料を与えるのか、ということです。
「物自体」が与えるのだとしたら、「心ー身問題」に相当する「主観ー物自体」
問題が(経験世界の外部に)発生するだけですし、「与えるとか与えないとかいう
二項対立的思考を取らず(あるいはその問題を理性の範囲外として)、ただ端的に
感覚の多様は存在するのだ」と考えるなら、それはどう突き詰めても独我論になる
以外ないのではないか、というのが私の疑問なのです。
「水槽の中の脳」という話がありますが、水槽とか脳という概念は経験的に
成立したものなので、とにかく認識主観(統覚?)が存在し、とにかく理屈抜きで
それに多様な感覚的内容が生じ、それを認識主観の側がカテゴリーに従って
再構成することによって経験世界が客観的に成立する、とすると、ここには
認識主観の外部の何物も存在する必要がありません。カントの場合はデカルトや
バークリーのように神をあてにするわけにもいかないのでしょうから、なおさらです。
(続き)
>カントは「われ思う」を実体化せずに 「はたらき」(機能)と考えた。
>それによって初めて実体ではない「主観」が確立された。
>この「われ思う」は認識作用に必ず伴うものだから、認識の対象ではない、つまり、
>それは物自体でも現象でもない。
>あなたが書いている「私」は、現象としての「私」なのではないかと思う。
もう一つの疑問は、とにかく成立した経験世界の内部に「人間」「イマニュエルカント」
「私」「他人」等々が存在する(構成される)ことになると思われますが、それはすべて、
あなたのいう「現象」に過ぎないはずだ、ということです。あなたのいう「物自体でも
現象でもない、認識作用に伴う『われ思う』」が、「現象としてのカントという個人」に
重なるいわれがありません。まして、「現象としての他人」にも感性悟性理性統覚があり、
他人もまた「物自体でも現象でもない、認識作用に伴う『われ思う』」である、という
のは、どう考えても矛盾としか思えません。それなら、結局のところ認識主観も統覚も
「われ思う」も物自体も、現象としての経験世界に「人間」「物質」として内部化されて
しまっているのではないか、という疑問があるわけです。
くどいようですが私はカントをろくに読んだこともないので、以上はカントに対する
批判としては恐らく完全に見当違いです。私の疑問は、
>>526氏の言う
>「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく、それによって
>【「私」のいる現実世界】が構成されるものです
という発想を文字通りに受け取ると、それは独我論にしかならないのではないか、
ということです。デカルトについてもバークリーについても、同じ疑問を感じます。
一方、「主客対立」を乗り越えようとして「私(認識主観・人間)」を最初から
世界の内部の存在として考えるのは(もしかしてカントは本来はこちらなのかも
しれません)、ごく自然な発想だと思いますが、しかし世界の大部分を占める
物質と、認識主観である精神の異質性をそう簡単に解消できるとは、私にはどうも
思えません。「主客・心身問題」はやはり現代においても未解決の難問のまま
ではないかと思われます。
>>687 > くどいようですが私はカントをろくに読んだこともないので、以上はカントに対する
> 批判としては恐らく完全に見当違いです。私の疑問は、
>>526氏の言う
> >「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく、それによって
> >【「私」のいる現実世界】が構成されるものです
> という発想を文字通りに受け取ると、それは独我論にしかならないのではないか、
> ということです。デカルトについてもバークリーについても、同じ疑問を感じます。
本当にカントに対して見当違いの批判だと思うんならカントについて長々と書かなきゃいいのに。
>>685-687さんはカントは読んでなくともデカルトやバークリーは読んでちゃんと理解してるんでしょ?
んで、カントと同様の発想がデカルトやバークリーにも見られるんであればそう書いた上で彼らへの疑問として書けばいいんじゃないすか?
689 :
570:2007/05/26(土) 19:18:23 0
>>686 >問題は、「何が」「どうやって」感性にその材料を与えるのか、ということです。
>「物自体」が与えるのだとしたら、「心ー身問題」に相当する「主観ー物自体」
>問題が(経験世界の外部に)発生するだけです
よく分かりませんが、「心ー身問題」に「主観ー物自体」というのを対応させているところを見ると、
「物自体」を物質的なものと誤解しているのではないかと思われる。
カントの「物自体」は「現象」に対する用語であって、それは物体的なものの本質なども表わすけれども、
「自由」とか「神」などを表わす場合にも使われる用語です。
「心ー身問題」を「主観ー客観」問題としてとらえるとすれば、(昨日書いたように)カントにとっての
「客観」は「物自体」ではなく「現象」であるので、あなたが書いた【「心ー身問題」に相当する
「主観ー物自体」問題】の「物自体」のところは、「物自体」ではなく「現象」になると思う。
>それに多様な感覚的内容が生じ、それを認識主観の側がカテゴリーに従って
>再構成することによって経験世界が客観的に成立する、とすると、ここには
>認識主観の外部の何物も存在する必要がありません。
カントにとって「物自体」が必要だったのは、昨日書いたアンチノミーの問題を解決するためということもあって、
たんに理論理性による認識論上の問題だけではなくて、実践理性の要請(道徳と宗教の問題)にも関係します。
690 :
570:2007/05/26(土) 19:19:38 0
>>687 >もう一つの疑問は、とにかく成立した経験世界の内部に「人間」「イマニュエルカント」
>「私」「他人」等々が存在する(構成される)ことになると思われますが、それはすべて、
>あなたのいう「現象」に過ぎないはずだ、ということです。あなたのいう「物自体でも
>現象でもない、認識作用に伴う『われ思う』」が、「現象としてのカントという個人」に
>重なるいわれがありません。
それは、もともと重ならないのです。
あなたの書き方を見ると「私」は一つでなければならないという前提で書かれているように思われるが、
むしろ二つに分裂しているのが、人間の自己の普通の在り方だと思います。
昨日「実存」のところでも書きましたが、あなたが定義しようとしている「私」は、あなたによって「思惟された私」
(対象化された私)であって、あなたにとっての「思惟しつつある私」(実存)ではない。
そもそも「自己意識(自我意識)」というものが、そういうものです。
自己が自己を意識するのだから、自己が二重になっているわけで、そこには自己分裂があるわけです。
サルトルはそれを「対自(自分に対している)存在」と言い、キルケゴールは「精神は自己と自己との関係である」と言った。
樫山欽四郎という哲学者は、このような自己分裂が「すべての人間の関わる問題の発端である」とまで言っています。
>私の疑問は、
>>526氏の言う
>>「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく、それによって
>>【「私」のいる現実世界】が構成されるものです
>という発想を文字通りに受け取ると、それは独我論にしかならないのではないか、
>ということです。
外界の実在性を否定するのが独我論だとすれば、物自体は認識できないとするカント哲学は「独我論」ではなくて「不可知論」だと思う。
↑バカかこいつは
692 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 01:28:31 0
>>1 > 『私』『自我』『主体』『主観』『主観性』、
> デカルト的懐疑の到達点、
> 各種宗教的アプローチの底に見出されるもの、
> 等は、どのような記述が可能なのか?
> その記述方法は、唯物的な事象の羅列で十分か不十分か?
> その記述方法は、一通りか?それとも何種類もあるか?
> それら記述方法の分類・仕分けはどのようなものか?
私の記述ならシンプルに「私とは誰にとってもその人自身のことである」
ってことで必要十分じゃない?
693 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 02:13:01 0
最高位を素粒子まで分解した、当然死ぬ。
素粒子から最高位を復元した。誰が見ても完璧に最高位だ。
元の最高位は死んで今あるのは別の最高位だが誰も気づかない、本人も気づかない。
694 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/05/27(日) 02:39:27 0
>>693 :考える名無しさん:
>誰も気づかない・・・・
そんなばかな、分解した貴方は知っているはず。
695 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 06:38:29 0
茂木健一郎の『意識とはなにか―「私」を生成する脳』
を読んで最高位の主張が「クオリア」についてだと初めてわかった。
>>695 最高位の謎解きパズルの答えみたいだな。
機械がもう自演祭りを止めたということか。
697 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 11:58:01 0
いずれにしても最高位はデカルトの「我思う故に我あり」を
語るんだったら、正しく理解しろよ。
「そうです「私は」囚われているのです
私がいなければ、私は囚われる事もありえません 」
なんて、バカか。
デカルト的には、
「囚われている私」は存在しない。
「囚われている、と思っている私」が、存在するのである。
698 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 12:12:50 0
>>694 その過程が無人で機械で行われ、行われるかどうかも確率的にしたら、誰も知らない。
699 :
花魁:2007/05/27(日) 12:28:21 0
>>671 >>「この世界」が現実で、「あの世界」が現実でないのは、ひとえに「この世界」に
>>「私」がいるからなのです。万有引力の法則があり連合国が勝利したから「この世界」
>>が現実なのではありません。「私」とは、それが存在することによってその世界が
>>現実になるような何か、のことであって、それが唯一可能な「私」の定義だと思われます。
>これは意味がよくわからない。
>(「あの世界」というのがよくわからないし、また、そのように
>「私」を定義することにどんな意味があるのかがわからない。)
これが分かるかどうかって、感性の問題ですよね、やっぱ。
オイラの感性には響くけど。
644氏は「誤解と混乱に基く」というが、別に混乱しているとは思わないし。
700 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 13:11:07 0
700げt
>最高位を素粒子まで分解した、当然死ぬ。
>素粒子から最高位を復元した。誰が見ても完璧に最高位だ。
>
>元の最高位は死んで今あるのは別の最高位だが誰も気づかない、本人も気づかない。
この場合、最高位の言う「私の存在性」はそれぞれの時点でどうなっているのか?
701 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/27(日) 13:12:15 0
>>695 まぁ本当は、もっと高次元なんだが
キミ達にしては、大きな進歩だな^^
>>697 デカルトの結論は
「我あり」なんだが
>デカルト的には、
>「囚われている私」は存在しない。
私は存在しない とは、どういう事??
説明よろしく
702 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 14:33:59 0
>>701 >私は存在しない とは、どういう事??
「囚われている、と思っている私」が、存在するのである。
と書いただろ。ホント低脳だな。
「思っている私」なんだよ。
「囚われている私」ではない。
いい加減理解してくれよ。まったく。
703 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 14:45:54 0
>>701 >デカルトの結論は
「我あり」なんだが
「思っている私」つまり「思う精神」が在りなんだよ。
だから「思わないと私は存在しなくなるのだが」と
デカルトは言表している。
「散歩している私も在りですよね? 」とデカルトに反論した人に対して
デカルトは、「そうではないのです。散歩していることを思っている・
認識している私・精神が存在しているということです」と答えている。
704 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/27(日) 15:10:51 0
>>702 >「思っている私」なんだよ。
>「囚われている私」ではない。
同じ「私」だが
私は、いるのかね? いないのかね?
どっち?
>>703 言っておくけど、私はデカルトに囚われているのではないよ
説明するのに便利な部分だけを使っているだけだ
>「思っている私」つまり「思う精神」が在りなんだよ。
>だから「思わないと私は存在しなくなるのだが」と
>デカルトは言表している。
それはデカルトの間違いなんじゃないかな
存在しなくなる かどうかは、わからんじゃないか
確認できなくなる だけかも知れない
言える事は、「我思う故に我あり」
すなわち、少なくとも「私は今、あり」なんだよ
今日はこの辺で
ここのコテ連中は議論が成立しねーなw
706 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 15:25:10 0
>>704 >存在しなくなる かどうかは、わからんじゃないか
確認できなくなる だけかも知れない
あきれた。
そもそも、あなたは社会的存在の「私」とコギトをごっちゃにしているし。
707 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 15:32:06 0
>>704 >存在しなくなる かどうかは、わからんじゃないか
確認できなくなる だけかも知れない
「思い認識する精神・私」が「確認できなくなる」ってwwww
708 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 18:18:53 0
最高位に言いたいことがあるんだが。
自我すら懐疑の対象としている唯物論者に対して、
自我を自明の前提とした発言を繰り返しても、無駄だと判らないといけないぞ。
俺には最高位が「私」の存在を、懸命にアピールしている様子が不思議でならないのだが。
持論を認めてもらうのが目的でここに来ているの、問題提起のつもりでアピールしているの。
君の意見は、まったく理解不能なのだが。
もし、啓蒙活動のつもりで発言しているのなら、不毛で徒労だと指摘しておくよ。
君が単なるカマって君の可能性もあるが。
709 :
707:2007/05/27(日) 18:28:05 0
デカルトの「コギト・エルゴ・スム」は否定し難い真理である。
だがそれだけでは空しい真理で終わる。
コギトは「我在り」と自らを定立させる以上の機能を有していない。
そこには、エゴについてのいかなる内実も欠けている。
抽象的でしかなく、具体性に欠け、機能概念(ジェームス)であるとしか捉えられない。
コギトを、「自分自身についてのコギト」という志向性によって理解すると、
それは表象作用によるエゴの分裂を引き起こす。
獲得されるのはエゴ自身について表象された対象、
しかも、表象作用によって対象化された限りでの「対象」だからである。
結果、在るものはもはやエゴではない。
カントが既に指摘しているように、表象作用によって捉えられるのは、
他の対象同様、「現象」という形によってのみであり、結果、
表象するエゴと表象されるエゴとは、「一致しない」。
ハイデッガーにおいてもまた、コギトを表象作用に従属させた結果、
エゴが表象するエゴと表象されるエゴに「分裂する」。
エゴ の分裂という事態においてもなお、その確実性は保持されうるだろうか。
マルクス、ニーチェ、フロイトというような懐疑家以後の現代において、
意識の明証性そのものをわれわれの思惟の根拠とすることはできないと考えている。
厳密に言えば、意識それ自体が「認識されない虚偽」に汚染されている恐れがあるのである。
至高なるコギトはもはやそれのみで存立することが不可能になり、
絶えずスムと共にしかあり得なくなるということである。
711 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/28(月) 01:20:33 0
>>708 >自我すら懐疑の対象としている唯物論者に対して、
>自我を自明の前提とした発言を繰り返しても、無駄だと判らないといけないぞ。
無根拠に、単なる自明の前提 にしているのではないよ?
「自我すら懐疑の対象にしているのは、いったい誰なんですか?」と聞いているんですよ
「その自我を懐疑したって、懐疑してるのはオマエだろ?」とね
「なんで理解できんのですか? アホですか?」という事です
まず、懐疑しているのは誰なのかハッキリさせてもらいたい
というか、なんでそんな素朴な疑問に気づかんの????
>もし、啓蒙活動のつもりで発言しているのなら、不毛で徒労だと指摘しておくよ。
ヒマつぶしだよ
最初は教えてあげるのがもったいない気がしてたけど
キミらのほとんどには、理解する能力がない事がわかったから、半分安心してる(笑
712 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/28(月) 02:36:58 0
>>705 >ここのコテ連中は議論が成立しねーなw
オマエだろwww
私は、いるのかね? いないのかね?
どっち?
これに答えろバカ(笑
713 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/28(月) 03:05:27 0
最高位さんの「私」は
微分でいう極値の一点を採り上げて
それを真に「有」と考えられているのだと思います。
714 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 03:13:05 0
>>713 大小の問題じゃないだろ。
有るか無いかだ。
715 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/05/28(月) 03:20:36 0
もう一点、
今まであまり気にしてはいなかったのですが
このスレ及び決定論スレでも
他の方が再三言われていますが
最高位さんの唯物論の解釈と他の方のそれは
似ているようで違う、ようです。
少し調べてみただけですのでなんとも言えませんが。
716 :
Tar ◆SQIDAUQYpc :2007/05/28(月) 03:56:23 0
sage忘れた・・・。
公共性とは私的な思い入れが共に有ることである。
719 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/28(月) 04:44:11 0
>>713 >最高位さんの「私」は
>微分でいう極値の一点を採り上げて
>それを真に「有」と考えられているのだと思います。
だったら「有」じゃないですか(笑
金輪際『私』は存在しない などとバカな発言をするのは、やめて下さいね
>>715 >最高位さんの唯物論の解釈と他の方のそれは
>似ているようで違う、ようです。
>少し調べてみただけですのでなんとも言えませんが。
ん?
いつも言ってるでしょう・・・
人を批判するなら、もっと具体的にお願いしますよ
あなたの頭の中は、いつもポワ〜ンとしているんじゃないんですか?
唯物論というのは
「世界には物質があるだけであり、人間の精神も物理現象にすぎない」
という事だけど、違うの???
あと
心身問題における唯物論の立場は
もちろん、先ほどの「人間の精神は物理現象にすぎない」というものなんだけど
「精神も含め、世界の全ては物理現象に規定されている」という事でいいよ
私は、それらを論理的に、根こそぎひっくり返しますからね
何か違うのなら、もっとちゃんと具体的に説明して下さい
720 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 07:10:55 0
人間は物質で構成されているから、精神も物理現象でいいんじゃないの?
人体が爆発して粉々になっても精神活動は続くっていうんなら話は別だけど。
>>719 1つに囚われるなって言いたいんだろう
まあ確かにわかりにくすぎるがw
極値って知ってる>最高位
722 :
短パン:2007/05/28(月) 09:18:27 0
>>719 君は、哲学最高位?
だったら、俺の設問でも、適当にいなせるだろぅ。。。。
いざ!
「人においての。分離と融合の心理的融合点を此処に記せ。」
文字で書けと言ってるんだから、カンタンだろ?頼んだぜ・・・。
>>719 いつのまにか「物理法則で記述できる」が消えてるなw
724 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 15:52:54 0
>>711 >ヒマつぶしだよ
単なるカマって君だった、と自認しているの?
最高位から、教わることは何もない。
啓蒙ゴッコのつもりで「教えてやる、教えてやる」と連呼しても、何の参考にもなってない。
725 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 16:49:19 0
最高位はタレントの山田花子とかぶる。
726 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 16:50:15 0
最高位って、カマって君というより、教えて君に近いのかも。
臨床心理学の問題となるが、素直に教えを請えずに罵詈雑言や頓珍漢な発言を繰り返して、
誰からの説明を待っているタイプの精神病質者がいるんだが、
最高位って、攻撃性の病的教えて君、かもしれない。
727 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 17:15:45 0
>>726 >最高位って、カマって君というより、教えて君に近いのかも。
そうだな、私もそう思うよ。
「私は、それらを論理的に、根こそぎひっくり返しますからね 」とかいいながら、
根拠らしい根拠を述べたことがない。唯物論者たちをぎゃふんと言わせるような
「根拠を見つけたい」から必死になるのだろう。
728 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 20:22:33 0
最高位クン。
分かっていると思うけど
「誰か」と「いかなる存在か」を混同しないようにね。
570さんに絡んでたのは感嘆子っていう人なの?
あっさり消えちゃったね。
知らないもの同士あーだこーだ言って楽しくやってればよかったのに・・・・
731 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/29(火) 07:58:52 0
>>724 おまえ本当に理解できないのか???
アホだ・・・・
>>726 >臨床心理学の問題となるが、
心理学の話じゃないぞバカ
哲学の話であって、次元が違うんだよ
>>727 >根拠らしい根拠を述べたことがない。
いい加減にしろ基地外
>>728 意味不明
なんでこんな基地外ばっかりなのか・・・・
もう少しマトモなの、いないのかよ
↑朝から激しいな いいぞ
>>731 機械スレで削除依頼出てる
君も煽り、暴言の類は気をつけたまえ。
相手にしない。
2ちゃんの基本。
735 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 09:17:32 0
>>731 おい、「病人」も入れてコンボ完成させろよ。中途半端だな。
>>699 >644氏は「誤解と混乱に基く」というが、別に混乱しているとは思わないし。
「誤解と混乱」があったんだろう。
誤解が解けて疑問が解消したのか、
混乱に混乱を重ねて悩んでいるのかは分からないが…
737 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 16:57:36 0
最高位さんの主張は「生命のエッセイ」というWebページ公開している寺岡克哉さん
(生命の肯定という著作あり)の思想に似ているな。次のような点。
・あなたや私が「自我意識を持ちえたこと」は、まさに奇跡的な出来事である。
・自我意識の「波及効果」は永遠に消滅しない。
・唯物論では、いくら人を殺そうが、暴行や強姦をしようが、虐待をしようが、そこ
には「原子の離合集散」が存在するだけです。唯物論は、愛、思いやり、良識、良心、
善悪、道徳、倫理などの存在基盤を、根底から打ち砕いてしまうのです!
・現代の物質文明社会では、「科学」というものが「宗教化」しているように、私は
感じている。etc
ありがちな思想ではあるけどね。
738 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 17:20:25 0
739 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 18:44:17 0
>>738 うぁ、あああ…
そうだった?偶然Webサイト見つけたので…
(個<同人<社会)≠私
741 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 22:52:51 O
私という存在は直接、明確にとらえられるの?
742 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 23:06:42 0
>>741 無理。
捉えた瞬間、その「私」は過去のもの(客観的対象=外部)となる。
743 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 23:10:54 0
そのりくつでは
直接、明確にとらえられるものなど無いってことになるな。
744 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 23:13:21 0
>>743 はい。
だから、多くのサンプル(情報)を収集・分析・整理して、
出会う事象に対処してゆくのです。
745 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/05/30(水) 11:02:43 0
『私』は、主観性である という事の意味を理解できない人は
懸命に客観的に捉えようとするが、客観的にのみ捉えてはいけない
『私』とは
捉えられた対象を指すのではなく
捉えている『主体』を指す
すなわち、常に即時的に存在しているのである
746 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 11:40:56 0
文末に 。を打たない人は頭の悪い人だって幼稚園で習った。
>>745 おお、最高位氏、いきなり「即自的」などとどうしたのですか。
ドイツ観念論の勉強でもしたのですか。
どっちかというとあなたの嫌いな左翼系の人の好む言葉ですぞ。
749 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 12:04:36 0
『私』は、主観性である 主語である 主体である
とすると、「この私」は人間という普遍(類)の中に入ることはできない。
「この私」は人間ではない、ということだな。
750 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 12:24:38 0
『私』は、主観性である 主語である 主体である
まさに、作文世界である。
>>748 感嘆子?
570さんとの論争はどうなったんですか。
752 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 13:24:07 0
あれはふつう論争とはいわんだろ。
753 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 13:39:34 0
意見交換 質疑応答
754 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 14:15:20 0
>>745 そんなことみんな分かってるって。
だから主体は感じた時点で捉えられた対象になるから、云々……、
ってな話をちょっと前にしたばっかりじゃん。
唯識の話とか、ちゃんと読んだの?
>>751 いや論争などまったくしておりません。
(最高位氏ならともかくw、570氏と論争する能力など私にはありません。)
こちらが一方的に質問して答えていただいていただけです。
もう一つ問題意識が噛み合わないのと(恐らく正確な用語で質問する能力が
私にないためだと思われます)、あまりわずらわせるのも申し訳ないので
打ち切らせていただいただけです。個人的にはよくあることなのですw
756 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 14:53:41 0
ドン・ノーマンが言うところの「内省モード」の『私』だろな。
757 :
花魁:2007/05/30(水) 20:27:44 0
>>754 >だから主体は感じた時点で捉えられた対象になるから、云々……、
>ってな話をちょっと前にしたばっかりじゃん。
「主体は感じた時点で捉えられている対象になるから、
捉えている主体を記述することはできない」
っていう主張は、適切な主張なんだろうか?
この主張は、
「言葉の意味についてを論じることは、
『言葉を語る』という事実について論じることと同じことである」
という主張(これは間違っているとオイラは考えるが)
と似たような主張であるように感じるのですが。
>>757 ちょっと前にした話ってのが
>>697-707あたりのデカルトの話だとすれば、
>「主体は感じた時点で捉えられている対象になるから、
> 捉えている主体を記述することはできない」
こんなことはちっとも主張されてなかったと思うよ。
759 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 21:07:11 0
>>758 ちょっと前がどこなのか、オイラにはよく分からなかったので、
単なる推測で言わせてもらいました。
もっとも
>
>>697-707あたりのデカルトの話
の焦点がなんなのかも、あんまよく分からんのですけど…
760 :
花魁:2007/05/30(水) 21:09:25 0
761 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 21:22:51 0
ネコと素人は逃げたのか??? 名無しになったのか???
ちと聞きたいんですが、なんらかの「自我の支え」っている?普通の人って「会社
内機械」で会社、あるいは社会、象徴界(?)から自我を支えてもらってるわけじゃ
ないですか?
そういう意味で、情報技術が新たな「自我の支え」になってるとか、そういうのない?
(オレは「2chネラーだ」とか)あるいはケータイだのがないと生きていけない
とか。「ライフログ」がないと困るとか。
普通はそういう(サラリーマンだとか)「ニセ自我」を与えられて、「自我」の
問題なんて直面しないようになってるから、近代社会ってのは。だから「自我」
の問題に直面するのは「不安」だし、デカルトはだから旅人だった。
社会から疎外されないと、そもそも「自我」の問題なんて出てこない。だって
「私は会社員」で済んじゃうわけだから、普通は。
「ニセ自我」を否定するという行為は危険だから、ニーチェやキルケゴールは
だから不安。
東浩紀によれば、自我を支える「社会」がなくなったので、「かわりの支え」を
求めて情報技術に走った、とされている、現代人は。
そういう「支えがないとオレの自我は困る」とか、そういうの実感ありますか?
「自我がない」とか言ってるゾンビさんは「自我の支え」も必要ない?
情報技術が新たな自我の支えになってる可能性は?
デカルト自身は、社会から与えられるニセ自我を全て疑ったあげく、「真の自我?」
を見出したわけだが、普通の人はそれに耐えられない。だから自我の支えとして
「国家」がでて、ファシズムになる。
支えとして、今度は「アーキテクチャ」が出てきて、人々がそれに「自我」を任しちゃう
可能性は??
766 :
考える名無しさん:2007/05/31(木) 04:45:51 0
>「主体は感じた時点で捉えられている対象になるから、
捉えている主体を記述することはできない」
こういう時に
「語りえぬことについては沈黙しなければならない」
と取り敢えず語ってみて、後は沈黙
767 :
570:2007/05/31(木) 11:41:49 0
>>755 >もう一つ問題意識が噛み合わないのと(恐らく正確な用語で質問する能力が
>私にないためだと思われます)、あまりわずらわせるのも申し訳ないので
>打ち切らせていただいただけです。個人的にはよくあることなのですw
私はカントについて詳しいわけでもなく、カントが好きなわけでもなく、あなたの、カント哲学に対する
「疑問」(という形の批判みたいなもの)について思ったことを書いただけ。
私の「問題意識」といえば、〈批判する前に、理解しなければならないのでは?〉ぐらいの感じです。
(中立的な理解というのはあり得ないとしても、できるだけカントに即して、という意味で。)
話が断片的なまま中途半端に終わってしまった感じなので、私の考えをちょっとまとめておきます。
>>642-644と
>>685-687を読む限りでは、哲学における「主観-客観」関係が理解できていないのではないか
という印象を受けました。全体的にそうだけれど、たとえばあなたが特に問題にしていた次の部分
>私の疑問は、
>>526氏の言う
>>「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく、それによって
>>【「私」のいる現実世界】が構成されるものです
>という発想を文字通りに受け取ると、それは独我論にしかならないのではないか、
>ということです。
【客観】とは、〈「主観」に対してあるもの〉の意味であって、そして「われ思う」という働き(機能)が
カントにおける【主観】です。
だから《「われ思う」(統覚)は客観世界の内部の事柄ではなく、それによって【「私」のいる現実世界】
が構成されるもの》の意味は、《【主観】は、【客観】の内部の事柄ではなく、それによって【客観】が
構成されるもの》ということであり、哲学における「主観-客観」関係を考えればこれは当然のことだと思う。
(本来【主観】と【客観】は同時に成立するけれど、論理的にはこのように【主観】が【客観】に先行する。)
また、そこでは外界の実在性については何も触れられていないので、それを独我論とするのは
見当違いなのではないかと思われた。(【物自体】については、あとで書きます。)
768 :
570:2007/05/31(木) 11:44:11 0
もう一つあなたが疑問に思っていた次の点も「主観-客観」関係への理解不足によるのではないかと思われた。
>「統覚」と「私」の関係がわかりません。(
>>642)
>あなたのいう「物自体でも現象でもない、認識作用に伴う『われ思う』」が、「現象としてのカントという個人」に重なるいわれがありません。(
>>687)
思惟している時の思惟している働き(機能)(「われ思う」「統覚」)が【主観】で、
「現象としてのカントという個人」、現実世界の内部にあるものとして表象された「私」は、【客観】。
「私」が「客観」(「主観」に対してあるもの)の内部にあるとすれば、その「私」は当然「主観」ではない。
つまりそれは「カントという人物」などとして対象化・モノ化された「私」、経験的自我であって、
「主観」としての「私」(対象化・モノ化される以前の働き(機能)としての「私」)ではない。
(カントの哲学では、このような主観としての「私」と客観としての「私」の他に、物自体としての「私」
があって、つまり3つの「私」があると思われる。)
このような主観としての「私」と客観としての「私」との違いを説明するために
>>690で私が書いたこと・・
【あなたが定義しようとしている「私」は、あなたによって「思惟された私」(対象化された私)であって、
あなたにとっての「思惟しつつある私」(実存)ではない。】は、実存的な説明なのでカント哲学からは
ちょっとズレたかもしれないが、大きくズレてはいないだろうと思う。
(実存的な思想では、人間の認識的側面よりも行為的側面が強調され、普通「主観」という訳は避けて
「主体」と訳される。また、カントは学問的認識の普遍妥当性についての基礎付けをしようとしたので、
「主観」の一般的・普遍的側面に焦点が当てられているのに対して、実存的思想では「主体」の
代理不可能性、掛け替えのなさという側面に焦点が当てられている点が大きく違うと思う。)
769 :
570:2007/05/31(木) 11:45:26 0
「思惟された私」(対象化された私)(カントにおける経験的自我、【現象】【客観】としての「私」)と、
「思惟しつつある私」(実存)(カントにおける【主観】)とが異なるということが、どういうことなのか
がピンとこないと、どうしようもないかも知れない。
(これもまたちょっとズレてしまうが)「われ思う」という思惟の〈働き〉を「見る」という
目の〈働き〉に置きかえれば、「見られた目」(たとえば鏡に映った私の目)は「見ている私の目」
とは異なるということ。つまり、目で見るのであって、その、「見ている目」を見ることは絶対にできない。
(「見ている目」というと「見る」という〈働き〉が「目」として実体化されてしまっている感じなので、
この「見ている目」は、カントの「主観」よりもデカルトの「心」に近いかもしれない。)
「物自体」についてのあなたの疑問も「主観-客観」関係を理解すれば、分かりやすくなるのではないかと思う。
>>643 >その「何か」とは一体何のことで、「我」とは、一体どんな関係に
>あるのか、どうして両者が「関係する」ことができるのか、という疑問を避けて
>通ることはできないと思います。
>>687 >認識主観の側がカテゴリーに従って
>再構成することによって経験世界が客観的に成立する、とすると、ここには
>認識主観の外部の何物も存在する必要がありません。
「私」が生まれる前から「世界」は存在しただろうし、「私」が死んでも「世界」は存在するだろう、
と考えることはできる。しかし、その「世界」は「私」(【主観】)から見た「世界」、「私」が考える
「世界」(つまり【現象】【客観】)であって、認識主観から独立に存在する「世界そのもの」ではない。
つまり【物自体】ではない(物自体‘Ding an sich’ の ‘an sich’ は「それ自体での」という意味)。
あなたの疑問《その「何か」とは一体何のことか?》に対して「それは○○のことである」と考えれば、
すでにそれは、そう考えている「私」(【主観】)に対する【客観】になってしまっている。
だからその「何か」について、「○○である」とは言えない。ただ、「有る(はずだ)」としか
言えない。だからそれは「認識」できない。
770 :
570:2007/05/31(木) 11:46:13 0
(カントは「物自体」を正面から問おうとしなかったと思う。
このような【客観】とはなり得ない「何かが有る」(「何か」が何であるのかは言えないのだから、
実質的には、ただの「有る」、つまり「存在」)を正面から問題にしたのが、ハイデガーだと思う。
ハイデガーは、《その「何か」とは一体何のことか?》というあなたのような疑問を放棄した時に、
その「何か」が「何かではない(無)もの」として浮かび上がってくると考えたのだと思う。
ハイデガーは【主観】【客観】【存在=無】について、たとえば次のように書いている。
「無は決して何ものでもないのではなく、さりとて、ある対象という意味でのあるものでもない。
無は存在そのものであり、人間がそれの真理を委ねられるのは、人間が主観としての自己を克服した時、
そしてしたがって、存在者をもはや客観として表象しなくなった時である」。)
(本当はその「何か」を「存在」と言うのも危険なのである。「存在」というモノとして対象化
されてしまうから。これは「実存」などについても同じことが言える。読み手がそれを対象化できない
ものとして読むしかないのだと思う。)
(最初に書いたように、私は『カントは正しい』wと思って書いたのでは全くなく、カントに「整合性」
がないと考えるあなたに対して、カントにおける「私」および哲学における「主観-客観」関係について
とりあえず理解してみよう、という感じで書いた。)
771 :
考える名無しさん:2007/05/31(木) 14:58:32 0
772 :
考える名無しさん:2007/05/31(木) 16:42:30 0
>>767-770 これは重ねてのていねいなご説明ありがとうございます。
ただ、やはりどうも私の疑問とは若干ずれているように思えます。せっかくですので、
話の種としても一応感想を。
>思惟している時の思惟している働き(機能)(「われ思う」「統覚」)が【主観】で、
>「現象としてのカントという個人」、現実世界の内部にあるものとして表象された「私」は、【客観】。
>「私」が「客観」(「主観」に対してあるもの)の内部にあるとすれば、
>その「私」は当然「主観」ではない。
私が疑問なのは、そもそも、現実世界の内部にあるものとして表象された
「現象としてのカントという個人」が、なぜ「私」であり得るのか、ということなのです。
それは「主観としての私」ではなく「客観としての私」だとしても、
とにかく「私である」という共通点があるのは間違いないはずです。そうでないと、
同じ「私」という言葉を使う意味がありません。その「(一方は主観で一方は客観でも)
どちらも私だ」という共通点は一体どこから来たのか、という疑問です。
デカルト風に(といってもデカルトの真意はよくわかりませんが)考えるなら、
間違いなく存在するのは「主観としての私」だけであって、「デカルト」とか「人間」
などというものは、「机」や「りんご」と同じく、存在するかどうか全然わかりません。
それらが存在すると言えるのは、要するに神様の善意をあてにした結果です。
(違うのかもしれませんが、私にはそうとしか理解できないので。)
(続き)
ここで、とにかく「主観としての私(思惟する働き・統覚)」が存在して、
その感性的直観に多様な内容が与えられる、とします(神様が与えるのでなく、
私の外に存在する不可知の物自体に触発されるのでもないとすると、どこから
どうやって与えられるのか、がまず非常に不思議ですが)。それを主観としての
私が再構成して「客観世界」が成立するとします。現象としての「机」も「リンゴ」も
「犬」もその一部です。
問題は、「人間」も「カント」も全く同じようにその一部に過ぎないはずなのに、
どうして「現象としてのカントという個人」だけが「(客観としての)私」なのか、
そんなことは不可能なはずではないか、ということなのです。ましてや、「客観的私」
ですらない「他人」と呼ばれる数々の存在が、すべて「主観としての自我
(思惟する働き・統覚)を持っている、などという考えは、どこをどうひねくっても
出て来ようがない、というか、そんなことは全く理不尽ではないか、と思うのですが。
(以上は、カントの考えでもなければ、
>>526氏の考えでもありません。私は
それらを正確に知らないのですから。私は「ある種の考え方」に疑問を呈している
だけであって、それがカント批判や
>>526氏批判になるかどうかは、全くどうでもよい
のです。もしそう取られて不快な思いをされたのなら、おわびいたします。)
(続き)
目の働きについて
>目の〈働き〉に置きかえれば、「見られた目」(たとえば鏡に映った私の目)は「見ている私の目」
>とは異なるということ。つまり、目で見るのであって、その、「見ている目」を見ることは絶対にできない。
という指摘がありましたが、「見る働き」が「主観としての私の働き」であって
客観的世界の外部にある、とすると、そもそも「目」という客観的世界の一部に過ぎないものが、
なぜ「見る」という働きと関係づけられるのかがわかりません。「目で見る」などということは
言えるはずがないのではないか、という感じがいたします。「見る」を「認識する」に
置き換えれば、上の話と全く同じ構造です。
「認識する働きとしての私」が客観世界の外部に存在するとすれば、客観世界の一部分で
ある「人間誰某」が「私」であるのはおかしいし、
「見る働きとしての私」が客観世界の外部に存在するとすれば、客観世界の一部分で
ある「目」が「見ている」と考えるのはおかしいのではないか、ということです。
まして、「他人も別の主観である」「他人の目も見ている」と考えることがどうして可能なのか、
わかりません。
(続き)
個人的には、この難点を避けるためには「思惟する働き(統覚)」や「見る働き(視覚)」、
要するに「主観」そのものを、(客観が定義上主観の外部に存在するものならば客観世界
と呼ぶのはまずいので)「現実世界」の内部に位置付け直す他はないと思うのですが。
この場合の「現実世界」は、いわゆる「物自体としての世界」に当りましょうか。
そして、「現実世界の一部としての人間(物自体としての人間)が、周囲の世界との
関係性の中で構成した「現実世界についての【像】」が、いわゆる「客観世界」
になると思われます。つまり、「主観」も「客観」も、「現実世界の一部」に
位置付けられるわけです。これは、まあ唯物論的というか常識的な世界観であって、
この場合は「私」という言葉は「現実世界の一部分」という以外の意味は
持ち得なくなります。そして、「人間誰某」とか「他人誰某」という「客観」がどうして
「主観」としての思惟する働き(統覚)を持てるのか、という疑問も、それは
「客観」としての「像」が持っているわけではなくて、その背後にある「物自体としての
人間」が持っているのだ、ということで一応納得できます。
もっとも、これだと「現実世界そのものと、その像として主観が持つ客観世界が
合致しているとかいないとか、どうやってわかるのか」という疑問は振り出しに戻って
しまうし、「現実世界の中でなぜ人間だけが思惟する働き(統覚)を持ち、
客観世界という像を構築することができるのか」という難問も解けませんが。
777 :
花魁:2007/05/31(木) 18:00:33 0
>>773 >私が疑問なのは、そもそも、現実世界の内部にあるものとして表象された
>「現象としてのカントという個人」が、なぜ「私」であり得るのか、ということなのです。
それ以上理由を尋ねようがない地点というものは必ずありますが、
これこそまさにそれじゃないかな?
これは与えられた「運命」と了解する以外にない…
778 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/01(金) 07:40:24 0
>>777 と言う事は
私の存在は、宇宙の根本問題なのであって
決して物理的な現象などで片付けられるシロモノなどではない という事になりますね
779 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 08:31:46 O
主観だけしかないのに物自体をどう認識したのだろう。
780 :
570:2007/06/01(金) 09:11:22 0
>>775 やはり「主観-客観」関係がおかしいように思う。
あなたの疑問は、たぶん、空間的に表象すべきでないもの(「われ思う」)を空間的に
表象(対象化)してしまっていることから生じている疑問だろうと思う。
>「認識する働きとしての私」が客観世界の外部に存在するとすれば、客観世界の一部分で
>ある「人間誰某」が「私」であるのはおかしいし、 ・・・
「認識する働きとしての私」(われ思う)は、対象化・モノ化される以前の働き(機能)であり、
認識の対象にはならないものだから、客観世界の「内部にある」または「外部にある」というふうに
空間的に表象・対象化することはできないと思う。
(「内部にはない」という表現と「《対してある》」という表現が複合的に誤解されて「外部」に
なった気がするのでその点について…)
「客観世界」をかりに「自然」と考えれば、「自然」の「内部」にあると言える(対象化できる)
のは、経験的自我(現象としての「私」)である。
そして、「自然」は、「われ思う」(主観)に《対してある》(つまり認識対象となる)。
だからそこに「主観-客観」関係が成立し、「自然」が「自然」として成立する(構成される)。
【「自然」が成立する(構成される)】ということの意味は、もしそれが「われ思う」に
《対してある》ということがなければ、その「自然」は、「それは○○である」とも言えず、
「ただ有る」としか言えないものであるということ。
(ここには、「われ思う」が自然の「外部」にあるという考えはないと思う。)
781 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 09:11:32 0
>私の存在は、宇宙の根本問題なのであって
勝手に問題にするなw
782 :
570:2007/06/01(金) 09:13:00 0
>>773 >私が疑問なのは、そもそも、現実世界の内部にあるものとして表象された
>「現象としてのカントという個人」が、なぜ「私」であり得るのか、ということなのです。
>それは「主観としての私」ではなく「客観としての私」だとしても、
>とにかく「私である」という共通点があるのは間違いないはずです。そうでないと、
>同じ「私」という言葉を使う意味がありません。その「(一方は主観で一方は客観でも)
>どちらも私だ」という共通点は一体どこから来たのか、という疑問です。
この疑問が上の疑問と同じような疑問なのかどうか分かりませんが、
(全然違うとすれば、どういう疑問なのかよく分かりませんが)
(「どのような連関があるのか」などなら分かるけれども、《なぜ「私」であり得るのか》
とか、《共通点がある》とかだと、どういう考え方をしているのかよく分からない)
やはり、2つの「私」がモノ化されて、(別々の空間に)対象化されているような感じがする。
(「われ思う」の方の「私」は、「われ思う」という【働き(機能)】であるので、それを
「主観」とか「私」というような名詞で表す場合でも、読む人はそれを名詞的、静的、モノ的
にではなく、動詞的(動的)に理解すべきものだろうと思われる。
カントにおいて「主観-客観」関係が明確化されたと言われるのは、カントがデカルトのように
「われ思う」の「われ」をモノ化せずに、デカルト的実体論から脱却したことによるので、
このこと(モノ化・対象化しないように読むこと)は重要だと思う。)
>>774 「ある種の考え方」が何を指しているのかわからないのでノーコメント。
>>776 「この難点」の内容がよく分からないのでノーコメント。
783 :
570:2007/06/01(金) 09:14:17 0
(ついでに、《「はたらき」のモノ化》についてのニーチェの説)
ニーチェは「稲妻が光る」というような言い方は、我々の言語的悪癖だと言った。
なぜならそこでは、「はたらくモノ」と「はたらき」とが、主語と動詞として分離しているから。
「光る」という「はたらき」を離れた「稲妻」というモノは、ありえない。
しかし我々の言語に深く根ざしたこの悪癖によって、「稲妻」と「光る」とは切り離されて、
「稲妻」が「光る」ことの原因であるとみなされてしまう。
かくして「稲妻」は、「はたらき」から切り離された「はたらくモノ」となってしまう。
(ニーチェがデカルトのことを考えてこれを書いたのかどうかは知らないけれど)
「われ思う」という「はたらき」から、デカルトが「われ」を「はたらくモノ」として分離した
のに対して、カントは「われ思う」という「はたらき」のところで踏みとどまった。
784 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 10:09:15 0
「稲妻が光る」は「光りが光る」って言ってるようなもんだ。
「稲妻が走る」ならわかる。
思考の問題点って感じが。
|, ,_
|∀゚) < そこで龍樹ですよw
|⊂ノ
|
|彡サッ
|
>>780 毎度ありがとうございます。ただ、「はたらき」と「モノ化」の話は興味深いし
それなりにわかるのですが、当面の私の疑問とはあまり関係ないように思います。
>「認識する働きとしての私」(われ思う)は、対象化・モノ化される以前の働き(機能)であり、
>認識の対象にはならないものだから
>「客観世界」をかりに「自然」と考えれば、「自然」の「内部」にあると言える(対象化できる)
>のは、経験的自我(現象としての「私」)である。
まさに、経験的自我(現象としての「私」)などというものが、どうして自然の
内部に対象化され得るのか、そんなことは不可能ではないのか、ということです。
また、仮に「認識する働きとしての私」(われ思う)が、(できないはずですが)
どうにかして自分を対象化・モノ化したとしても、それは要するに「私というモノ」
になるだけのはずです。その「私というモノ」が、どういうわけで客観世界の内部に
対象化されている「人間」だの「カント」だの(それがモノであれ機能であれ)
になりえるのか、それがさっぱりわからないわけです。
まして、「他人」もまた「認識する働きとしての私」(われ思う)という機能を
持つ、となると、そんなことを考えるいわれがどこにあるのか、まったくわかりません。
>>782 >「どのような連関があるのか」などなら分かるけれども
それでも結構です。要するに
1.「認識する働きとしての私」(われ思う)
2.「自然の内部に対象化された経験的自我」(現象としての「私」)
3.「自然の内部に対象化された特定の人間」(カント又は誰某)
の間にどのような連関があるのかないのか、またなぜそんな連関が有り得るのか、
これが疑問なわけです。
787 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 12:52:49 0
>しかし我々の言語に深く根ざしたこの悪癖によって、「稲妻」と「光る」とは切り離されて、
「稲妻」が「光る」ことの原因であるとみなされてしまう。
かくして「稲妻」は、「はたらき」から切り離された「はたらくモノ」となってしまう。
こうして背後世界(はたらくモノの存在:真理)は創造されたか。
788 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 12:54:21 0
>>786 >1.「認識する働きとしての私」(われ思う)
>2.「自然の内部に対象化された経験的自我」(現象としての「私」)
>3.「自然の内部に対象化された特定の人間」(カント又は誰某)
2.と3.って違うことを指している?
現象としての「私」って、人間の意識ということではないのかしら?
789 :
素人:2007/06/01(金) 13:17:09 0
>>787 最高位氏は、まさにその手続きを踏んでいるのです。
790 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 13:27:34 0
結局のところ感嘆子は日常的な感覚から逸脱した世界像に関しては
直観的に受け入れることができないということなんじゃないの?
791 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 15:39:09 0
>>789 最高位は手続きを踏んでないよ。
デカルトが「われ思う」という「はたらき」から、「われ」を「はたらくモノ」として分離して、
「言語的悪癖」だと批判され、デカルト的実体論から脱却された歴史を経て、現在の哲学的知見を得ているのに、
最高位は、カント以前の「デカルトの言語的悪癖(観念論的誤謬)」にもどれ、と述べているだけだ。
792 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 21:51:17 0
>>791 最高位は「もどれ」と述べているのではなく、もろ観念論的誤謬に陥って
いるだけだと思うぞ。
風が吹くんだから、「風」は存在するだろ、とか。(これは、冗談w)
793 :
素人:2007/06/01(金) 22:14:30 0
>>792 その例えはマズイですね・・・(^^;
特に今のケースには・・・w
せめて、「大気が動くんだから、「風」は存在するだろ」にしておけば、まだなんとか・・。
ま、この場合「大気が動くこと(その状態・様子・現象)を「風」と呼んでいる(名付けている)」ので、当たり前ですが、
実は、『私』においても、
少なくとも『私(わ・た・し/wa・tha・shi)』というラベルを用いざるを得ない要素を持つ何ものか
(それは、意識・精神活動こそが「私」であるということになりそうですが・・・)もまた、
「これこれこのように思惟していること」そのことがあるに過ぎないと見れるわけです。
これを、脳の活動へピントを合わせれば唯物論へ近づきますし、
現象のみを捉え、まさに「そうした思惟のみがある」と(個物を捨象して)突き詰めれば龍樹となる。
と・・・
少々乱暴な謂いに過ぎるか・・・・w
794 :
考える名無しさん:2007/06/01(金) 22:56:45 O
>>789 あそこで自分が思い浮かんだ「はたらくモノ」は、公式ですな。
795 :
考える名無しさん:2007/06/02(土) 01:03:49 0
で、結局どうなんですか?「アーキテクチャーに支えてもらいたい」とか
思ってる人はどれぐらいいるんですか?
自我や主体のない人たちが作る社会というのは、自我の代わりにコンピュータ
が指示したりする、そうなるわけですか?主体がなければ、そうする
しかないわけですが・・。
自我というのは、自分で自分をコントロールする、そういう機能であって、
ないなら、機械に頼むしかないのか、それとも大丈夫なのか?
「自我がない」とか言ってる人たちは、自分以外の他人とかコンピュータとかに
頼る気なわけですか??
796 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/02(土) 01:07:02 0
「私」とか「自我」とかを直接記述する事は出来ません。
昔からそのような試みは失敗しています。
どの様な記述も成功していません。
結局古人の言うとおり・・・・・・・
「認識することの背後にある認識者を貴方は認識することが出来ない」
・・・・・・・・・・・・・と言う事なのです。
797 :
考える名無しさん:2007/06/02(土) 01:15:21 0
人間はタンパク質で出来た機械に過ぎないので、
別の機械で自我が生じない理由は全くありません。
798 :
考える名無しさん:2007/06/02(土) 01:20:30 0
>796
別に自我がただの脳機能でもいいわけです。ただ、だからといってコンピュータ
が「自我」を持つか?とかわからないし、脳機能がまともに働いているかぎり、
コンピュータの指示に従う必要もないわけです。
僕は別に観念論に興味はないので、実際の社会問題として、自分で自分を
判断できず、コンピュータに依存したい人はどれくらいいるのか、知りたい
だけです。
>797
その場合、「自我」を持つコンピュータが出来るので、「人工知能」の完成
です。つまり、どちらの結論でもいいわけです。人工知能が出来れば文明は
変わりますよ。
800 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/02(土) 01:27:00 0
>>798 :考える名無しさん:
誤解しないで
>>796 は
>>795 に対する反論では在りません。
「自我」はあります、唯其れを記述できないだけです。
801 :
考える名無しさん:2007/06/02(土) 01:29:28 0
思い切り記述してんじゃん。なに言ってんの?
802 :
考える名無しさん:2007/06/02(土) 01:35:02 0
>>799 自我をもつコンピュータは必ずできます。完成は時間の問題です。
803 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2007/06/02(土) 01:39:00 0
>>801 :考える名無しさん:
>思い切り記述してんじゃん。なに言ってんの?
ここに書かれた回りくどい考えは「自我」「私」の周辺をうろついているだけだ。
直接「私」に触れたものは見当たらない。
例えば「コギト・エルゴ・スム」と言うのは私の存在性を述べただけ。
「私とは何か」は述べていない。
記述できている文例を指摘して欲しい。
>
>801
記述できる場合、人工知能が出来るはずですが・・・。脳や思考を機械言語
で置き換えるなんて研究は、もう60年近くの歴史を持ってます。しかし・・。
記述出来ないから神秘的だと言うこともないにしても。
googleが「神」として崇められてるようですが、例えばグーグルは「自我」
を持ちません。自我を持ってる人間が(プログラマが)作ってるので
あって。
805 :
考える名無しさん:2007/06/02(土) 02:07:12 0
>>803 ? 自我の意味は辞書で調べたら?
自我って言葉を使ってんだから、それで事足りるでしょ?
それでも足りないなら、何で自我って言葉を使ってんのってことになる。
意味不明過ぎ。
面倒な議論はしませんが、例えばACT*(アクト・スターと読む)は
人工知能(人間の知能のモデル)で、IF−THENの無数の条件文と、
意味ネットワーク(命題論理のネットワーク)形式で記述された知識の
データベースを持ち、「行為」をプロダクションします。しかし・・
SOAR(ソアー)も同様で、大問題を解決するため下位問題を作り出し、
問題解決を図ります、しかし・・。
現状ではこの程度です。
807 :
3時で1時:2007/06/02(土) 02:53:23 0
>>793 >その例えはマズイですね・・・(^^;
あれ、(これは、冗談w) だと断っているんだけどね。ははは。
ついでだから、名無しで書いた部分を含めて、ちょっと、書いておくよ。
何故、「私」が「ここに居て、このようなことを考えている 」と分かるのか?
何故、「私が思っている」という自我意識が生じるのか?
このような思い・認識が「何」の作用によってあるのかは、俺には解らない。
また、「私が分かっている」ということは、「この私」が必然的に分かっているの
だということには帰結しないだろう。つまり、「分かる」ということは「私がして
いることだと、判っている」ことではない。
「私が分かっている」という論理もあれば、「分からないことは、私がしたことで
はない」という論理もある。「この私」は何かしらについて「すでに分かっている」
意識内容の中の私であり、「認識の根源たる私」ではないからだ。
808 :
3時で1時:2007/06/02(土) 02:54:15 0
「ここ」「この」や「このように」が、主観性・精神性を示しているのは解るが、
この主観性・精神性が何を原因としてあるかが問題である。
「認識システムたる私」と観念するのは簡単だが、「いかなる認識システムなのか」
を直接認識することはできない。
「思う精神・霊魂」であるとか、身体(脳)の機能であるとか、宇宙意識の局在で
あるとか、解釈はいろいろできるが、「この身」有ってのことなら、「この身たる
私が思っている」のだとしても、差し支えない、と思う。
「私はどっちの方向を向いているか?」といえば、顔の向きであったり、気持ちの
向きであったりするが、社会的に機能している「私」といえば、「この身」のこと
だろう。この身体でなかったなら、「相手」は存在を確認し得ず、言葉や表情や身
振りによるコミュニケーションも成り立たないだろう。
「私」は、本来的な意味からして、社会的存在であり、1人の人間である。
そのように了解しているのは、「この私」だが、社会的存在だとの了解があるから
「この私だ」と言える。人間という普遍(類)が棲むこの世界を認めないことには、
「この私」は無い。
社会的存在であることが、「誰」ということだ。他者と共有しうる名前・所在地・
人間観の関係・行為の事実などの情報が「誰」になり、「いかなる人ぞ?」が認識
される。共有できなければ、「誰」は社会的に意味がない。
人間社会は、他人同士の世界である。だから、「この私」は「キミ」「あの人」と
も呼ばれる。類としての人間たちの群れがあるから、「私たち」というのだろう。
「私」は「無」である、もしくは「無」として「在る」。
もし「私」がある特定の「何か」であったり「誰か」であったなら
「私」はそもそもそれでしかないのだから
それ以外の「何か」や「誰か」にはなれない。
「私」は「無」であるからこそ
人間であったり、日本人であったり、子供であったり、男であったり、
会社員であったり、タレントであったり、身体であったり、脳であったり・・・する。
そして、それは時間空間に左右された偶然的、相対的存在であり
時空を超えた絶対的存在たる「私」は常に「無」であり
永遠に「無」として在る。
810 :
570:2007/06/02(土) 12:32:54 0
>>786 >まさに、経験的自我(現象としての「私」)などというものが、どうして自然の
>内部に対象化され得るのか、そんなことは不可能ではないのか、ということです。
>また、仮に「認識する働きとしての私」(われ思う)が、(できないはずですが)
>どうにかして自分を対象化・モノ化したとしても、それは要するに「私というモノ」
>になるだけのはずです。その「私というモノ」が、どういうわけで客観世界の内部に
>対象化されている「人間」だの「カント」だの(それがモノであれ機能であれ)
>になりえるのか、それがさっぱりわからないわけです。
(やはり「われ思う」を実体化しているように思われるのですが…)
今回思ったのは、一つは、カントを合理主義者のように考えてしまって、カントにおいては
「認識」は「経験」とともに始まるということを考えていないのではないか…ということ。
もう一つは、(ちょっと適切な言い方が思い浮かばないが)、
考え方の順番が反対なのではないかということ。
カントの試みは、経験的学問が客観性(普遍妥当性)を持つことを説明するには、
このように説明すればうまく説明できるのではないか、という思考実験のようなものです。
カントが自らの試みを「コペルニクス的転回」と呼んだのは、コペルニクスが、天動説よりも
地動説のほうが宇宙をうまく説明できるのではないかと考えたのと同じように、
彼の試みが、認識が対象を写しとっているという模写説よりも、「われ思う」という「はたらき」
が自発的に対象を構成すると考えたほうが人間の経験的認識をうまく説明できるのではないか、
という「実験」であったことを示しています。
811 :
570:2007/06/02(土) 12:35:18 0
>まして、「他人」もまた「認識する働きとしての私」(われ思う)という機能を
>持つ、となると、そんなことを考えるいわれがどこにあるのか、まったくわかりません。
誰もが(思う)という機能を持つと考えるのは、常識に反していないように思われるので、
あなたの疑問がどういう疑問なのか、よく分かりません。
(われ思う)が「自発的」な働きであるということについても、構成説(認識の能動性)
を認める人ならば、すんなり受け入れられるのではないかと思う。
(あなたの疑問はいつも同じような言い方で書かれているので、あなたの問題意識に
なかなか近づけないのだと思います。)
>>「どのような連関があるのか」などなら分かるけれども
>それでも結構です。
「統覚」と「経験的自我」との連関については、「自己触発」や「内官」などの概念で
カントは説明していると思います。(私は説明できないので、関心があればご自分で調べて
ください。)(哲学史的には重視されていない細かくて複雑な議論だと思うのでネットでは
調べにくいかもしれません。)(それについて考える場合も、こう説明すれば経験的認識の
客観性をうまく説明できるのではないか、というカントの思考実験であると考えてください。)
>>810-811 カントの理論理性と実践理性の峻別についてはどう思われますか。
統覚というのはカントにとって「超越論的統覚」であって、
それなしでは人間がやっていけない(生活していけない)という
「仮象」として定立されているように思います。
『純粋理性批判』では、人間の認識能力を細かく分析して、
「私」というもののありようが、そこからは出てこないように
読めます。
しかし実践理性のほうが、理論理性よりも、カントの場合は
優位になるわけですね。
「はたらき」としての自己、という視点では、この実践理性における
統覚のほうが近いように思われますけど、どうでしょうか。
813 :
しあわせ:2007/06/03(日) 07:23:42 0
814 :
570:2007/06/03(日) 12:29:10 0
>>812 >カントの理論理性と実践理性の峻別についてはどう思われますか。
理論理性と実践理性を峻別したということは、単純に言えば、科学と宗教を峻別した
ということだと思います。
カントの4つのアンチノミーでは、定立の側は科学の立場の主張、反定立の側はキリスト教の立場
の主張を表していますが、そういう歴史的、現実的な対立をカントは理性において必然的に生じる
対立であると考えて、理論理性と実践理性を峻別したのだと思います。
それによって、理論理性はその限界を示され、超越的なものに関わることはできことになるけれども、
そのことが同時に、科学(学問)が、宗教的権威から解放されることだったのだと思います。
それがその後の科学(学問)の発展に大きく寄与したと思われるので、(そのことの良し悪しはべつとして)
理論理性と実践理性を峻別したことは歴史的に見て大きな事だったのだろうと思われます。
(哲学と宗教との違いも、カント以降はそれ以前よりはずっと明確になったと思います。)
「峻別する」ということ自体については、そもそも峻別できるのか?という疑問は大いにあるし、
峻別したものを絶対化してしまう(あるいはデカルトのように実体化してしまう)危険は常にあると思います。
カントは「理論理性」と「実践理性」、「感性」と「悟性」、「形式」と「内容」などと頻繁に二つに分ける
けれども、分けたものをデカルトのように実体化しなかったのは、〈分けること〉は説明のための手段である
ということをカントが自覚していたからではないかと思う。
815 :
570:2007/06/03(日) 12:29:51 0
>しかし実践理性のほうが、理論理性よりも、カントの場合は
>優位になるわけですね。
「実践理性の優位」の「優位」がどういうことを意味しているのかは、よく考えてみなければならないことだと思う。
(あまり考えたことがないので、適当なことを書きますが…)
人が生きるということ(人の生き方)は、現象世界についての学的認識によるよりも、(美的・道徳的・宗教的)な
価値判断によって決まってくるのである、という感じだろうか…。
>「はたらき」としての自己、という視点では、この実践理性における
>統覚のほうが近いように思われますけど、どうでしょうか。
「感性」と「悟性」とが「統覚」において結びつくということが重要だと思うので、
(「感性」と「悟性」が結びつくことは、哲学史的には経験論と合理論とが結びつくことなので)、
理論理性との関連が大きいのではないかと思う。
>>814-815 横からの質問に答えて頂きありがとうございます。
>論理性と実践理性を峻別したということは、単純に言えば、科学と宗教を峻別した
>いうことだと思います
そうですね。もっと単純化してしまえば、実践理性というのは
「道徳の領域」を確保するための要請だと思います。『実践理性批判』では
有名な定言名法による道徳律が論じられていたと思います。もちろん信仰の
領域もこれで確保するわけですね。
>「感性」と「悟性」とが「統覚」において結びつくということが重要だと思うので、
>「感性」と「悟性」が結びつくことは、哲学史的には経験論と合理論とが結びつ
>くことなので)、 理論理性との関連が大きいのではないかと思う。
これについては、感性と悟性が結びつく、というより、感性と悟性による
世界の認識の仕方を、構成説(認識の能動性)で説明することで、経験論と
合理論を統合した、という方が、一般的な哲学史の記述ではないかと思います。
『純粋理性批判』の「先験的感性論」および「純粋悟性概念(カテゴリー)」
を簡単に振り返れば、人間の認識は、単に外界、対象、世界を模写するのでは
なく、感性における直観の形式(時間・空間)、および悟性におけるカテゴリー
によって、経験に先立って、あらかじめ統一、配列、秩序づけされた「現象」
として対象を認識するのだ、ということだと思います。経験論と合理論の
総合は、こうした先天的直観形式の働きを定立することでなされたのだと
思います。
>「実践理性の優位」の「優位」がどういうことを意味しているのかは、
>よく考えてみなければならないことだと思う
実践理性において、道徳律に従う意志は、他律的であってはならず、
自律的な意志でなければならない、すなわち「自由」でなければならない、
という議論から、道徳の基礎には「自由」を認めなければならない、
という要請が起こったと思います。
カント自身が理論理性で「第3アンチノミー」として提出した、
「自由、すなわち、因果律によって支配されない無制約的原因がある(定立)、
自由はない、すなわち、一切は自然律により生起する(反定立)」
という「自然と自由との対立」において、自由のほうに優位性を与える、
ということが、「実践理性の優位」ということの意味だと思います。
カント以前は、経験論と合理論の調停が課題だったのに対し、カント以後は
理論理性と実践理性をどう統一するか、が問題になったと思います。
特に「物自体」の不可知性を守る理論理性と、意志としての世界を説く
実践理性をどう調停するか、「○○界」という言い方は不適切ですが、
「物自体界」と「現象界」という、プラトンのイデア論とは違った
「ニ世界説」が現われたのだと思います。
(後にショウペンハウエルが「意志と表象としての世界」という風に
読み替えたと思います)
カント自身もそのことは分かっていて、『判断力批判』を書くのですが、
有機体や美的対象における合目的性の議論に終始してしまい、説得的では
なかったのだと思います。
カントで説明してる人はさあ、
も少し、「思う」という「機能」やら「働き」やらの、
奇妙なステータス(そこが肝なんだろ?)を説明してくれないと……
実体化して考えるよ、普通。
819 :
570:2007/06/04(月) 09:40:27 0
>>816-817 >横からの質問に答えて頂きありがとうございます。
別の方でしたか…
気づきませんでした。
>カント以前は、経験論と合理論の調停が課題だったのに対し、カント以後は
>理論理性と実践理性をどう統一するか、が問題になったと思います。
なるほど。
「カントの理論理性と実践理性の峻別についてはどう思われますか。」というこの前の質問は
そういう観点からの質問でしたか。
「峻別」とのつながりでいえば、カント以降の哲学では、峻別されたものを「どう統一するか、
が問題になった」というよりも、2つに〈分ける〉という行為そのものに対して、自覚的に
なっていったという感じがします。
つまり、〈分ける〉というのは、そこに共通の根があるから分けられるのであるから、その
共通の根としての〈事柄そのもの〉に、もっと密着して考えようとした人が多かったのではないかと思う。
事柄そのものを2つに分けて、分けたものの間の区別にこだわるような思考を「抽象的悟性」の立場
と呼んだヘーゲルも、そのような人だったと思われる。
「身体は大いなる理性である」と考えたニーチェも、そのような人だったと思う。
820 :
812:2007/06/04(月) 11:33:04 0
>>819 >〈分ける〉というのは、そこに共通の根があるから分けられるのであるから、
>その 共通の根としての〈事柄そのもの〉に、もっと密着して考えようとした
>人が多かったのではないかと思う
そうですね。ドイツ観念論の哲学は、カントの「峻別」に対して、そうした峻別が
起こってくる(由来してくる)根源的な一者のようなものを確立する試みの
ように思えます。この根底的一者は、フィヒテなら「絶対自我」、シェリングなら
「無底」、ヘーゲルなら「精神」と呼ばれるかと思います。
(一者という言い方はやや不適切ですが)
ニーチェについては、あまり詳しくないのですが、ショウペンハウエルの影響を
受けていたかと思います。ただし後にショウペンハウエルの哲学のなかにある
否定的な側面を、自分は肯定的なものに変えるのだ、という主旨のことを述べて
その哲学から離れていったかと思います。
>>810 毎度ありがとうございます。
>(やはり「われ思う」を実体化しているように思われるのですが…)
「われ思う」が実体であるかどうかは、このスレ的には大変重大な問題でしょうが、
当面の私の問題意識とはあまり関係がないのです。(実体であっていけない理由も、
実体でないという証明も、別にないとは思いますが。)
>カントにおいては
>「認識」は「経験」とともに始まるということを考えていないのではないか
>認識が対象を写しとっているという模写説よりも、「われ思う」という「はたらき」
>が自発的に対象を構成すると考えたほうが人間の経験的認識をうまく説明できるのではないか
まさに「経験的認識」とは何かということですが、「まず世界が存在して、その内部に
認識主観が存在して、その相互作用によって経験的認識が可能になる」、という
図式に従うなら、それが「模写」か「構成」かというのは大した問題ではないと思います。
普通の模写だとて主体的な再構成であることに変わりはないのであって、できあがった
絵は対象自体と必ずしも似ているわけでもないし、絵の内容が絵の描き手の主観や
能力に依存することも、まあ自明です。
例えば、動物は人間とは感覚器官や脳の構造も生活様式も全く異なるので、
人間とは全く違う世界像を持っている(全く違う世界に生きている)はずだ、という
のは、現代ではほぼ常識のようなものです。しかし、そのこととカント哲学(というか
何らかの哲学的見解)と特に関係があるとは思われません。
(続き)
これに対して、上の図式そのものを否定して、「まず認識主観が存在し、その外部には
何も存在しない。そして、認識主観が経験的認識の対象である世界自体を自発的に
構成して作り出し、それを客観世界として自らに対置する」ということなら、それは
かなり驚くべき思考の転換です。「認識主観から独立に認識対象である世界が存在する
わけではなく、客観世界は認識主観が構成したものであり、客観世界の外部は不可知だ」
という考えを文字通りに取れば、そのように解釈できなくもありません。
>>526氏の書き込みをそのように読んだ(誤解した)ので、「それは独我論としか思えない」
と書いたわけです。まして、そうして構成された客観世界の内部に「経験的自我」が
特定の人物として存在することなど、背理としか思えません。あたかも万物の創造主である
神が自分が創造した世界の一部である特定の人間として受肉して十字架にかけられる、
というような話であって、まさに奇跡としか言いようがないように思います。
一方、そうではなくて、「不可知の物自体の世界がまず存在して、認識主観を何らかの
仕方で触発することによって感性的直観の内容が与えられて、それを主観が先天的な
形式(?)に従って再構成して客観世界を作り出す。」ということなら、それは
上の図式に収まる話に過ぎません。
ただ、時間とか空間とか因果とかを対象である物自体の側ではなく認識主観の側の
形式として位置付けてしまうと、認識主観に「先立って」とか認識主観の「外部に」
とかいうこと自体が無意味になり、たとえ結果的に構成された客観世界が認識主観に
先立って認識主観の外部に存在するとしても、それもまた結局は認識主観の内部の話
であり、物自体の世界は認識主観に「先立って」存在するとも認識主観の「外部に」
存在するとも、経験的認識は物自体に「よって」可能になるとも言えなくなって
しまうので(文字通り不可知であるのなら当然ですが)、やはり独我論的性格を
持つのは否定できないように思いますが。
(続き)
>カントの試みは、経験的学問が客観性(普遍妥当性)を持つことを説明するには、
>このように説明すればうまく説明できるのではないか、という思考実験のようなものです。
私はカントのことは何も知りませんが、勝手な印象としては、「カントという人間が
いて、時間と空間の中で物質に取り囲まれているのを認識している」という経験的事実から
出発した人なのではないか、と思います。「物自体」や「超越論的主観?」を経験世界の
外に追放したのはあくまでも理論的な必要に迫られて事後的にやったことならば、
「物自体」が経験的な物質性を引きずっていたり(そうでないなら「物」である
理由がありません)、「超越論的自我?」が経験的な自我性を引きずっていたり
(そうでないなら「自我」である理由がありません)」するのは、まあ当たり前
です。まず経験的な自我があって、あとから理論的にそれに先立つものとして
「超越論的自我?」が要請されたのなら、「どうして経験世界の内部に自我が
あり得るのか」という問いは、はなから無意味な問いだ、ということでしょう。
「まず十字架にかけられた特定の人物がいて、それが受肉した神である、というのは
あとから作られた話だ、だから人間が神の似姿なのでなくて神が人間の似姿なのだ」
という解釈と同じことです。
(続き)
ただ、個人的には、「物自体」が経験の外にあるという理由で不可知ならば、
「私自体」もまた不可知だと考えないと筋が通らないと思います。
(私自体がなければ経験が成立しない、ということなら、私自体だけがあっても
やはり経験は成立しません。)
しかし、そうしてしまうと、とにかくこの経験世界以外には何も残らないため、
物質とか自我とか空間とか時間とか因果性とか同一性とか、が「普遍妥当性をもって」
「本当に」存在する、と言えなくなってしまう恐れがあります。私はそれらを
経験世界の内部に位置付けることも別に不可能でもないし、またそんなことは言えない
のだ、と言ってしまっても別に構わないと思いますが(ヒュームとか、よく知りませんが
ある種の仏教的思考とかはそう言ってしまったのではないかと思いますが)、
そう言わずに、「経験的学問が客観性(普遍妥当性)を持つ」と考えるためには、
それらを「物自体」の側に位置付けるか、「私自体」の側に位置付けるか、どちらか
しかないので、カントは後者を選んだ、という風に理解しております。もちろん、
これもまず間違いなく誤解でしょうがw、誤解を正していただくのも勉強になるので、
あえて書きました。
825 :
考える名無しさん:2007/06/04(月) 21:59:37 0
>>570 ドイツ語を知らないので質問しますが、カントの「物自体」のモノは
物質という意味ですか。
826 :
570:2007/06/05(火) 09:05:45 0
>>821-824 >「まず世界が存在して、その内部に認識主観が存在して、その相互作用によって
>経験的認識が可能になる」、という 図式に従うなら、それが「模写」か「構成」か
>というのは大した問題ではないと思います。
カントの試み(構成説)が認識の客観性をうまく説明するための試みだったとこの前書きましたが、
それはつまり、素朴実在論的にまず主観から独立な物質的世界があると考え、「私」の認識はその反映
であると考える(模写説)だと、認識についてうまく説明することが難しくなるということだと思います。
「まず世界が存在して」その「世界」を主観が反映し、「世界」と反映した内容とが一致した時に「認識」
が成立するとすれば、認識から独立に存在するはずの「世界」は、実は初めから分かっていたことになる。
そうでないと、一致したかどうか、認識が「世界」を忠実に反映しているかどうかは分からないはずだから。
だから「まず世界が存在して」といっても、その「世界」にはすでに「私」の側からの読み込み(構成)
があるということなので、「主観」がすべてに先行することになる(論理的には)。
その「主観」を、(個人的なものとしてではなく)意識一般のアプリオリな機能と考えることによって、
カントは経験的認識が「普遍妥当性」を持ち得る理由を説明できると考えた。
(この「普遍妥当性」の意味は、一つの命題が、あらゆる個々の場合に普遍的に妥当するという意味で
あって、「現象」に関することなので、
>>824で書かれている、何かが【「本当に」存在する】かどうか
ということとは関係ないと思います。)
827 :
570:2007/06/05(火) 09:06:54 0
【「本当に」存在する】ということが、「人間的主観から独立に」という意味を含んでいるとすれば、
そういう事柄(「何」が【「本当に」存在する】のか)は知り得ないと思います。
たとえば物質的世界が人間的主観から独立に「本当に」存在するという考え方は、「物質」という概念が
歴史的に形成され変化してきた人間的な概念であることを考えれば、奇妙な考え方であるように思われます。
(人間は「世界」を人間的角度からしか見ることができないから、人間に認識できるのは「世界」の人間向け
の顔だけであり、だから人間的主観から独立に何かが【「本当に」存在する】としても、それが「何」であるか
は知り得ない。「何」であるかを認識できるということは、それが主観から独立ではないということであり、
つまり「現象」であることになるので。)
>>824 「物自体」は道徳と宗教の領域では積極的な意味を持ちますが、理論理性の経験的認識に関しては、
理性の限界を示す限界概念としてのネガティブな意味しか持たないと思われるので、「物自体」(「私自体」)
を中心に理論理性を考えることはできないと思います。
828 :
570:2007/06/05(火) 09:08:58 0
>>825 物自体の「物」‘Ding’は、英語の‘thing’にあたる語で、漠然と広い意味での〈ものごと〉を表す語だと思う。
「物質」は‘Materie’(独)‘matter’(英)。
>>826 >その「主観」を、(個人的なものとしてではなく)意識一般のアプリオリな機能と考えること
今では否定されとるな。「主観」も「発生」するものだとして(大問題だが)。
まあ、「発生」した後は、概ねカントの言う方向なんだろうけど。
>>829 アプリオリな機能 ということを、
『細胞(脳細胞)等肉体の組成がある程度揃い、栄養が供給され(正常に)活動するならば、
そこに意識が生じ、その総合的活動の一端として主観も生じる』
という意味で、「主観が生じるのは必然」、と見ることができるのではなかろうか。
例外はあるにせよ、人は生殖・誕生を繰り返してきたのだから・・・。
832 :
829:2007/06/05(火) 13:42:00 0
>>829 自分で突っ込むが、「否定されとる」は言い過ぎかw
しかし、カントの頃ほど単純では無くなってきとる……
遺伝子レベルで考えるとカントが正しかったという説もあるしwww
毎度ありがとうございます。
>>826 >「まず世界が存在して」その「世界」を主観が反映し、「世界」と反映した内容とが
>一致した時に「認識」 が成立するとすれば、認識から独立に存在するはずの「世界」は、
>実は初めから分かっていたことになる。
認識が成立するために、「世界」と「反映した内容」が一致する必要は別にないと
思いますが。とにかく何らかの仕方で後者が前者に規定されてさえいれば(というか
規定されていると考えさえすれば)、それで「世界についての認識」は成立すると思います。
というより、素朴実在論的に考えてもカント的?に考えても本当は同じことで、
主観(感性的直観?)に「与えられる」内容自体は、主観の外からやってくる、と
考えるしかないと思われます。その内容は主観から独立に決まっていて主観の自由には
ならない、と(簡単に言うと否応なしに主観の外部から与えられるものだ、と)
「感じる」からこそ、それをもとに結果的に構成された世界が(主観に対するものとしての)
「客観的世界」となるわけです。そうでなければ、構成された世界は「主観的世界」で
あり主観の内部に一切が存在する、と考えるはずです。
(それだと文字通りの独我論です。)
>827
>たとえば物質的世界が人間的主観から独立に「本当に」存在するという考え方は、
>「物質」という概念が歴史的に形成され変化してきた人間的な概念であることを考えれば、
>奇妙な考え方であるように思われます。
ここで「人間的主観」や「歴史的に形成」が出てくるのは、本来はよくわかりません。
「人間(自分も他人も)」も「歴史」も、あくまでもこの私の主観(超越論的主観?)が
構成した客観世界の一部に過ぎないはずなので、本来なら、物質的世界や歴史的世界が
この私の主観から独立に「本当に」存在すると考えるのは奇妙だ、と言うべきでは
ないでしょうか。それだとやはり独我論になると思いますが。
(続き)
それはともかく、「物質」という概念が歴史的に形成され変化してきた、という
事実自体の解釈も問題です。人間的主観の側の(超越論的な?)条件は普遍的なもの
で変わらない、と仮定すると、「物質」の概念の変化は、人間的主観(感性的直観?)
に「与えられる」内容自体が変化したからだ、と考えるしかありません。例えば昔は
なかった望遠鏡や顕微鏡があるので、昔はなかった視覚内容が与えられるのだ、
とか。もっと重大なのは外部から与えられる言語情報、要するに教育が違う、という
ことでしょうか。言語も所詮は感性的直観に与えられる視覚聴覚内容に
還元される、とするなら、そういうことになります。
あるいは、変化したのは与えられる内容の側ではなく、それを受け取る人間的主観の
側だ、と考えることもできます。「言語」を主観の内側に位置付けるなら、
要するに教育の違いによって悟性や理性の構造や使い方自体が昔と今では異なって
形成されるのだ、ということになります。だから、感性に与えられる内容や「稲妻」
という現象の名前が同じでも、昔の人は「神様の投げる矢」という客観的世界を
構成し、今の人は「大気の放電現象」という客観的世界を構成するわけです。そして、
今の人はまず間違いなく、「昔より今の方が現実世界に近い=正しい」と感じて
いるでしょう。
どちらにしろ、上のような変化は、素朴実在論的には「人間も(人間的主観から
独立に存在する)現実の物質的世界(物自体?の世界)の一部であり、現実世界の
歴史的変化によって人間的主観に与えられる内容も人間的主観自体も変化するのは
当たり前だ」ということで、簡単に説明がつきます。素朴実在論的には時間も空間も
主観の外に実在するのでしょうから、その点でも何ら問題はありません。
しかし、カント的?な世界観ですと、人間的主観に与えられる内容自体がどこから
くるのか説明不能なので、それが「歴史的形成物」であるとするのもなかなか
難しいように思われます。また、人間的主観自体の変化は、超越論的主観は
歴史的形成物ではない(というか有り得ない)ように思われるので、なおさら説明が
難しいのではないでしょうか。
>>835 そこの第1信だけど、
>「クオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することです。
>「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。
>言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
まず、ここがわからない、というかおかしいな。
なぜそう考えるのか先を読んでも説明らしきものはないようだけど。
この人「この私」についての条件法でクオリアが肯定されたり考えることが可能だったりされるように書いてるけど、
事実としてクオリアは存在するし、現にいろいろとクオリアをめぐってさまざまな考えがあるわけだから
そもそもの議論の出発点がおかしくないか?
>>836 うーん、確かに説明らしきものがないから議論が進まないと
わからないんだけど、俺なりの解釈。
実体として「クオリア」が存在する、と言ったとき、それは「クオリア」を
「認識するもの」の存在が同時に不可欠の存在となる。これを「この私
という立脚点」と言っているのでしょう。
で、斎藤環氏の立場は、「この私」について、その後の記述でラカンを引用して
>>「我思う、ゆえに我在り」ではなく、「我思う、または、我は在る」だ、……
>>思う「我」と在る「我」とが、すでに同一物ではないことを意味しています。
と説明しているとおり、実体としての我(脳)と、その我に認識される我=この私は
同一でない、つまり実体としての私は認識することが出来ず、認識される私と
実体の私は常に異なっている、と言う立場を取っている。
これはクオリアの考え方とは違いますね、と。
だって、クオリアの考え方だと、「思う我」が実体化したものとなってしまう。
というわけで、結局実在論と認識論の対立となり、このスレのループに準じているわけですなw
>>837 > 実体として「クオリア」が存在する、と言ったとき、それは「クオリア」を
> 「認識するもの」の存在が同時に不可欠の存在となる。これを「この私
> という立脚点」と言っているのでしょう。
クオリアは別に実体でなくても幻想でも錯覚でもいいんだけど、
クオリアを観測したり考えたりするにはそれが意識に現れるものだから当然意識主体は不可欠だよね。
それはクオリアの定義上当たり前のことじゃない?
でも斎藤の文章はそれ以上のことを言ってるように見えるけどなあ・・・。
> だって、クオリアの考え方だと、「思う我」が実体化したものとなってしまう。
うーん、だからここの説明がほしかったんだけど・・・。
もしかして「この私」の実体化って意識主体と脳の同一視化ってこと?
>>838 これは私の私見なので、他の方の訂正があれば
ありがたいのですが、
斎藤氏の「主体」の在り方は、アイデンティティが常に揺らいでいる、
つまり「思う」我と「在る」我が常に一致しないが、それを一致させようとする
運動に「主体」の存在基盤を置く。主体は、実体として存在せず、しかし
それ故に「主体」を形作る運動として認識される。
運動は実体ではありません。
斎藤氏が「私」に余剰を見ているなら、まさにその余剰が「在る私」が「思う私」を
規定する際に運動として生まれる「私」という存在なのでしょうね。
簡単に言えば、「対象a」ということになるんでしょうが。
斎藤氏が指摘している「クオリアを肯定することはこの私という立脚点が
必要となる」というのは、言われるとおり「我思う、故に我あり」、つまり
脳と「思う我」との同一化を前提としている、と言うことになるんでしょう。
「この私」が、追いつけない影のようなものとして実体としての「在る私」=脳と
対置されるのか(斎藤氏)、そうではなく、脳のはたらきに還元でき、実体として
存在すると考えるのか(茂木氏)の違いではないかと。
>>839 斎藤(ラカン?)の「主体」が何を指すのかイマイチわからないけど、
まあそういう考え方もありなんだろう。
要は主体が実体かそうでないかは文脈で決まることじゃないかなあ?
だから、
> 「この私」が、追いつけない影のようなものとして実体としての「在る私」=脳と
> 対置されるのか(斎藤氏)、そうではなく、脳のはたらきに還元でき、実体として
> 存在すると考えるのか(茂木氏)の違いではないかと。
みたいに対置させるんならそうすることの意味というか、一方の考え方ではなぜまずいかの説明が欲しいなと。
というか本当に「この私」の実体化って意識主体と脳の同一視化って考えなの?
だとしたら、
>言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
はやっぱりおかしいよね?
斎藤もクオリアの議論の背景に物理主義への反駁があったって事情を知らないわけじゃないでしょう?
841 :
考える名無しさん:2007/06/06(水) 12:31:57 0
「実体」には「物理的存在」という意味はないはずだが
842 :
570:2007/06/06(水) 13:37:52 0
>>833 >認識が成立するために、「世界」と「反映した内容」が一致する必要は別にないと
>思いますが。とにかく何らかの仕方で後者が前者に規定されてさえいれば(というか
>規定されていると考えさえすれば)、それで「世界についての認識」は成立すると思います。
認識を臆見などから区別するには、その真理性(カントは真理と言わずに妥当性と言う)が問題になるわけですが、
その真理性(妥当性)が、唯物論的な模写説では一般に〈事物への観念の一致〉にあるとされるのに対して、
構成説では〈観念への事物の一致〉にあるとされます。
(もちろんハイデガーのように、このような真理の対応説そのものを批判する立場もあるけれど、今はできるだけ
カントに即して書いている。)
>というより、素朴実在論的に考えてもカント的?に考えても本当は同じことで、
>主観(感性的直観?)に「与えられる」内容自体は、主観の外からやってくる、と
>考えるしかないと思われます。その内容は主観から独立に決まっていて主観の自由には
>ならない、と(簡単に言うと否応なしに主観の外部から与えられるものだ、と)
>「感じる」からこそ、それをもとに結果的に構成された世界が(主観に対するものとしての)
>「客観的世界」となるわけです。
その「結果的に構成された世界」を、「まず世界が存在して」の「世界」と同一視してしまうところが、
素朴実在論が「素朴」と揶揄される所以なのだろうと思う。
その2つの「世界」が同じであるのなら、「構成」(認識の能動性、読み込み)の意味がなくなってしまう。
843 :
570:2007/06/06(水) 13:38:39 0
>そうでなければ、構成された世界は「主観的世界」で
>あり主観の内部に一切が存在する、と考えるはずです。
>(それだと文字通りの独我論です。)
あなたのいう「独我論」の「我」がカントの何を指していっているのか分かりませんが、経験的自我であれば、
それは経験世界の中に現実的に存在するものだと思うし、(われ思う)の統覚であれば、それは、その経験世界
を説明するためのものであるし、それだけで存在し得るようなモノではないと思う。
>>834 >どちらにしろ、上のような変化は、素朴実在論的には「人間も(人間的主観から
>独立に存在する)現実の物質的世界(物自体?の世界)の一部であり、現実世界の
>歴史的変化によって人間的主観に与えられる内容も人間的主観自体も変化するのは
>当たり前だ」ということで、簡単に説明がつきます。
「簡単に説明がつきます」というより、何も説明していないように思われる。
タレスの「水」やヘラクレイトスの「火」に始まるような〈実体〉としての物質概念が形成されたのは、
(カント的にいえば)理性の誤った使用、誤謬推理が関係していると思われます。
>>842 毎度どうもすいません。
>その「結果的に構成された世界」を、「まず世界が存在して」の「世界」と
>同一視してしまうところが、素朴実在論が「素朴」と揶揄される所以なのだろうと思う。
文字通り同一視している人はあまりいないと思います。というより、それは少なくとも
現代人の常識に反していると思われます。
むしろ「結果的に構成された世界」は「まず(本当に)存在する世界」が原因になって
発生した「現象」であり、両者は何らかの意味で「つながっている」のだから、
前者を手掛かりにして後者についての推論が可能となる、というのが常識的な考え方だと
思われます。これはちょっと微妙ですが、現代の科学者などがやっているのは要するに
そういうことだ、という解釈もできます。
このスレが成立するそもそもの原因となった人物で、「脳は物質だから意識は必然に
過ぎない」スレの名物男wでもある「哲学者最高位」という怪人wがおりますが、
彼の口癖の一つに
「本当に存在するのは拡散するツブツブとこの私だけであって、この犬とかあのパソコン
とか富士山とか地球とかこの体とかは私の主観にそう見えているだけの唯名論だから
それ自体としての存在性がない」というものがあります。個物の唯名論?については
ともかく、「本当に存在するのは拡散するツブツブで、見かけ通りの物がそのまま
存在しているわけではない」というのは、ある意味では現代の学校教育を受けた人の
「常識」だとすら言えないこともありません。
(続き)
しかし、「拡散するツブツブ」など、直接見たり聞いたり触ったり、要するに
「経験」の対象にすることはできないはずです。なぜそんなものが「本当に存在する」
と考えるのかといえば、これは歴代の科学者たちが自分たちが直接見たり聞いたり
触ったり、つまり観察したり実験したりした「経験的な現象の世界」を分析したり
推理したりした結果、その背後にそのような「本当の世界」があると考えると、
一番統一的で説得力のある説明ができる、と主張しているのを、一応信じている
からでしょう。
のみならず、本当の世界は拡散するツブツブだ、という理論に基いて作られた
「経験的な現象の世界」の一部である電子製品や医療機器などが、現実に経験的に
「私」の役に立つ、という事情もあります。唯物論者のいう「不断の実践」
という奴です。
もちろん、「拡散するツブツブ」の正体については「超ひも」だとか
場がどうたらとか諸説があるようです。これはつまり、これらはすべて「仮説」
に過ぎず、新たな経験(観察とか実験結果)や理論によって書換えられる
可能性が(恐らく永遠に)ある、ということを示唆します。
また、ツブツブといっても形はないとか位置も確率的にしか決められないとか、
私には何のことやらさっぱりわからない議論が山ほどあるらしいですが、
なぜわからないかといえば、(私の頭が悪いのは別としてw)
要するに経験的な現象の世界と余りにもかけ離れた「純理論的な」話なので、
経験的直観的に理解することが不可能だからだと思われます。このことからも、
これらは「結果的に構成された世界(経験的現象の世界)」の背後にある
「まず(本当に)存在する世界(物自体の世界)」についての仮説だ、と
考える方が自然でしょう。
このように解釈するなら、稲妻の話も、要するに「結果的に構成された経験的
現象の世界」については昔の人も今の人も変わらないのであって、その背後に
ある「本当の世界(物自体の世界)」がどんなものか、という考えが
昔と今とでは大いに違うのだ、とも言えるでしょう。
(続き)
>>843 >(われ思う)の統覚であれば、それは、その経験世界を説明するためのもので
>あるし、それだけで存在し得るようなモノではないと思う。
しかし、そうは言っても、その根源的な(われ思う)の統覚(超越論的自我?)
というのは、定義上「それだけで存在する」ほかはないように思うのですが。
経験的な現象の世界はそれが「自発的に構成する」のですし、経験的な
現象の世界の外部には何もない(知り得ない)のでしょうから。
またもし「物自体」がそれを触発することによって経験が始まる、と考えるなら、
それは要するに経験的な世界の構造をそっくり経験の外部に置き換えただけに
過ぎません。(私にはどうもそちらの方が本当のように思えますが。)
>タレスの「水」やヘラクレイトスの「火」に始まるような〈実体〉としての物質概念が形成されたのは、
>(カント的にいえば)理性の誤った使用、誤謬推理が関係していると思われます。
<実体>という言葉の意味がもうひとつわからないのですが、<実体>としての物質概念は
今でも相変わらず存在するように思いますが。その中身が水や火ではなく「素粒子」だとか
「超ひも」だとか何だとかに変わりつつあるだけで。少なくとも、科学者の多くがそういう
風に考えていることは確かなように思えます。「あなたたちは見かけ上の経験世界の背後に
実在する物質の本当の姿を探求しているのですか?」と質問すれば、ほとんどの人が
「当たり前だろう、でなければ何だというんだ。」と答えるでしょう。
哲学者が物理学者に「電子は実在すると思いますか?」と質問して相手にされずに
しょげかえった、という話も読んだことがあります(これは哲学者がだらしないので、
いくら馬鹿にされてももっと徹底的に聞くべきだと思いますが)。
<実体>の内容が昔と今とで違うのは、別に理性の誤った使用をやめたからではなくて、
物質に関する経験的な知見の蓄積が違うからだ、としか思えませんが。
錬金術的考えだな。
848 :
素人:2007/06/07(木) 00:57:33 0
今の流れを見るところでは、
私は感嘆子さん寄りかもしれませんねw
849 :
考える名無しさん:2007/06/07(木) 08:24:12 0
850 :
考える名無しさん:2007/06/07(木) 17:11:45 0
>>846 >しかし、そうは言っても、その根源的な(われ思う)の
>統覚(超越論的自我?) というのは、
>定義上「それだけで存在する」ほかはないように思うのですが。
「それだけで存在する」の部分は、
「それ単独で意味が与えられる」と表現したほうが、
より適切=混乱が生じにくいのではありませんか?
「それだけで存在する」と表現してしまうと、
経験的自我と別個の実在のように思われかねないですよ。
貴方が言いたいことは、多分そういうことではないのでしょう?
(それとも、そういうことなんですか?)
851 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/07(木) 22:21:59 0
>>850 >「それだけで存在する」の部分は、
>「それ単独で意味が与えられる」と表現したほうが、
>より適切=混乱が生じにくいのではありませんか?
意味が与えられる ってさ
誰が誰に与えてるの?(笑
もうちょっと、頭つかって考えたらどうかね?
てか、ここが知能の壁なのか???
その意味を認識している根源的な存在性であるところの『この私』の事を
私は『自我』って呼んでいるんだけどな
そして、その自我を意識する心的作用を自我意識と言って区別しているんだけどね
だってそうだろ?
自我を意識するんだからさ(笑
キミ達は、意識は認めるが自我は認めない みたいな主張をするだろ
いったい何が何を意識して自我意識なわけ?
冷静に、よく考えろよ
キミ達の主張は、論理的にも国語的にも、おかしいだろ(笑
852 :
考える名無しさん:2007/06/07(木) 22:34:36 0
私
853 :
素人:2007/06/07(木) 22:51:00 0
>>851 >キミ達は、意識は認めるが自我は認めない みたいな主張をするだろ
そうじゃない。
「意識」が「自我」なんだよ。
その、そこよりも先の、さらに深みを、深淵の底を表現するならば、
(その時初めて『それ』を)「存在」とでも「あるもの」とでも呼べばいい。
ただしそれは、古来「いのち」と呼ばれてきた部分に相当する筈なのだ。
『それ』を『私』と表現することが、文学的感傷であることに気付け。
横レスだが……
>>850 の「それ単独で意味が与えられる」という方がマシだな。
850本人がどれだけわかっているかどうかは別にして、
受動態で書いたのは正しい。言語の問題に触れている。
他方
>>851 は「誰が誰に与えてるの?(笑」でわかるように、
受動態の意味を捉え損ね、さらにその先で、
「その意味を認識している」だの「自我を意識する」だのと、
能動態にして表現するという失態を犯している。
「キミ達の主張は、論理的にも国語的にも、おかしいだろ(笑」だとwww
言語的にわかっていない上に、「国語」って、なんだw どこの国の言葉だwww
言語センスない奴に限って「国語」とか平気で言うw
>>853 については蛇足になるが、
「私」と表現することを「文学的感傷」とするのは、言い過ぎと思われる。
「深海の底」とか「いのち」とか、君の方がよっぽど文学的感傷だろう。
855 :
素人:2007/06/07(木) 23:44:22 0
>>854 私は過去、なるべく『私』という表現を用いつつ、
なんとか私と最高位との見ているものを繋げようとしてきたし、
今でも、それを望んでいる。
また、『私』以外に適切な言葉が見つけられないかもしれない・・という予感もある。
ただ、私が述べているのは、
『私』もまた諸縁によって(様々な条件・要因によって)そこに顕れているだろうということ、
それを、文脈やシチュエーション、場合い(話題となる状況)によっては、
「無い」とか「仮設されたもの」とか「幻想である」とか「一時(いっとき)現れた泡のようなもの」とか、
そういうものとして見れるだろ?
ということだけ。
だから、根源的に「無い」と言っているのではない。
『私』はある(いる)。
ただ、その在り様は、
しがみつき、固執し、究極の支え・拠る辺として寄り掛かれるものではないだろう、
ということ。
この、「在り様が問題である」ということさえ聞き入れて貰えたら、
私と最高位の見解の相違は、その「在り様」についてにあった、
と、このスレを離れることができる・・・。
856 :
素人:2007/06/08(金) 00:04:44 0
>>854 確かに言い過ぎだな。 申し訳ない。
ただ、作文の過程で、流れ的にああいう言い方の方がインパクトはあるかな?と・・・w
脊髄反射的レスでもあり、練った文章でなく気分をそのまま乗せたようなレスだから・・。
仰る通り、853の方が文学的感傷だ・・・w
ノシ
857 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 00:41:17 0
>>852 正解!!!(笑
当たり前だよな
>>853 >「意識」が「自我」なんだよ。
はぁ?
意識は、そこら辺にイッパイあるようだが
なぜ、この意識だけが『私』なのかね?
理由を述べよ(笑
>『それ』を『私』と表現することが、文学的感傷であることに気付け。
はぁ?
キミの
↓
>その、そこよりも先の、さらに深みを、深淵の底を表現するならば、
>(その時初めて『それ』を)「存在」とでも「あるもの」とでも呼べばいい。
>ただしそれは、古来「いのち」と呼ばれてきた部分に相当する筈なのだ
コレの方が文学的表現そのものだと思うが?
思い込みの激しさが、とても伝わって来るよ(笑
なぜなら論理的な説明が一切ない単なるキミの「いのち」に対する印象が感想文として書かれているだけだからだ
頼むから、もう少しマトモに話ができるようになって下さいよ・・・・
キミはキミだろ
私は私なんだけどな
キミは違うの???(笑
858 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 00:44:55 0
>>854 >
>>850 の「それ単独で意味が与えられる」という方がマシだな。
>850本人がどれだけわかっているかどうかは別にして、
>受動態で書いたのは正しい。
マシ って・・・何なんだよ(笑
受動態っつーのはアレだぞ
受動しているモンがいるんだぞ?(笑
それは『私』だろ
>言語センスない奴に限って「国語」とか平気で言うw
限って???
ホントに限ってなのか?(笑
思い込みが激しすぎるわ
幼稚な事ばっかり言うなよな
まぁキミら二人は話が通じてるみたいだから似たものどうしなんじゃないかな
私とは合わんな(笑
せめて普通に会話できるようになってくれ
なぜこのウンコだけがこのウンコなのか分からず、夜も眠れません。
860 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 00:51:17 0
久しぶりに覗いたが相変わらずなんだな
861 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 00:59:42 0
>>859 それはキミが、このウンコだと認識しているからだよ
懐疑論の基礎からやりなおしてから来て下さい
>>860 私も少し、久しぶりなんだけどね
なぜこの場所だけがここなのか分からず、道に迷ってしまいます。
哲学のことをロクに知らないが
とにかく語りたがるヤツが出てきましたよ
864 :
3時で1時:2007/06/08(金) 02:01:31 0
自我というのは、「意識されるところの自分」ということなので、自身の「過去」の
ようなもの。あると言えばあるし、ないと言えばない。「意識されるものであり、有
るものとして意識されるもの・観念的存在」である。実体ではない。
だが、「何が」自我意識をもつのかといえば、特定される人間であるところのこの身
のことだろう。「身」というのは日本的な概念だが、意識する身体とでも解釈できる
だろう。まさに、人間という類たる「この身」を指して、「この私」と呼び、目の前
の「身」を指して「キミ・あなた」と呼んでいるのである。
「私」は、社会的存在として「特定される・ここに居るこの身」のことである。
さらに言えば、意識認識・行動システムであるところの「この身」のことである。
脳や、思う精神・霊魂、あるいは宇宙意識なるものは、自我意識の根源にはなり得て
も「この私」にはなり得ない。
『私』って、気持ち悪い
なんかこのスレ、『』の使い方が変じゃないか?
866 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 02:26:20 0
>>864 >自我というのは、「意識されるところの自分」ということなので、
>自身の「過去」のようなもの。
だからその「自身」て何なのよ って話な
そこまでは、考えが及ばないか?(笑
ホント、世の中にはバカが多いんだな
>あると言えばあるし、ないと言えばない。
と、考えてんのは誰だ?
>「意識されるものであり、有るものとして意識されるもの・観念的存在」である。
誰が、意識してんの?(笑
867 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2007/06/08(金) 03:08:36 0
久しぶりですね。
>>866最高位さん
最高位さんはとかく「誰?」と「人」に置き換えられるようですが
それはこの身体です。またその身体に「私」なる主格、主語をつけるのは
「自我」の働きでありこれ自体にも「私」はありません。
私が有ると錯覚させられるのは、五感と意識間のフィードバックの作用です。
868 :
3時で1時:2007/06/08(金) 03:27:57 0
>>866 >だからその「自身」て何なのよ って話な
>と、考えてんのは誰だ?
>誰が、意識してんの?(笑
あんた、いつも、とことんアホ晒してるね。救いようがない。
「意識される自分」と、「社会的存在であるこの身」を混同している。
「私」というのは1人の人間という意味であり、人称。
「誰」というのは「いかなる人ぞ?」という意味。
「この身」が特定される「私」であり「自身」なのだがね。
考えているのも、意識しているのも、掲示板に書き込んでいるのも、
人間存在である「この身」。「私」を名乗る者など、いくらでも居る。
あなたは1人の人間じゃないの?「思う精神・霊魂」なのかい?
869 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 03:45:55 0
>>867 >最高位さんはとかく「誰?」と「人」に置き換えられるようですが
>それはこの身体です。またその身体に「私」なる主格、主語をつけるのは
>「自我」の働きでありこれ自体にも「私」はありません。
はぁ?
私は、いますけど??
>私が有ると錯覚させられるのは、
ん?
錯覚としても、錯覚する人がいなきゃ無理でしょ
それは私ですよ
>五感と意識間のフィードバックの作用です。
五感て、誰の?
意識って、誰のですか?
他人の五感は、私には認識できませんよ
明らかに、私の五感でしょう
あなたは、言っている事が、根本的におかしいです
辻褄が合っていません
ただ、必死で主語を抜かしているだけです
でも抜かしきれてないんですよ
抜かせたと「錯覚」しているだけです
誰がって、「あなた」ですよ
870 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 04:11:44 0
>>868 何考えてんのか、さっぱりわからんなぁ
>「私」というのは1人の人間という意味であり、人称。
>「誰」というのは「いかなる人ぞ?」という意味。
「私」というのは、自分の事だろ
で、「誰」というのは「どなたですか?」という意味であって
「いかなる人ぞ?」というのは「どんな人ですか?」という意味だろ
簡単な日常会話ぐらい出来ろよ バカ
>「この身」が特定される「私」であり「自身」なのだがね。
だから再三きいているんだけどさ
「この身」の何がどうだから、他人ではなく私であったのかね?
唯識の言ってることに固定された誰それ私なんて無いわな
背景には普遍という仏教の大前提がある
その背景を知らずに唯識の言ってることを真に受けることはできんだろうな
872 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 04:24:30 0
>>871 『この私』が遍在したら、おかしいだろ(笑
873 :
3時で1時:2007/06/08(金) 04:36:46 0
>>870 >「私」というのは、自分の事だろ
>どこまでもバカなんだ。
「私」公に対する個たる人のことをいうんだよ。キチガイ。
>「誰」というのは「どなたですか?」という意味であって
同じだろ。どこまでひねくれているんだ、オマエは。
>だから再三きいているんだけどさ
>「この身」の何がどうだから、他人ではなく私であったのかね?
オマエの脳みそ腐っとるんか?「この身」の何がどうだからとは言って
ないだろ。で、「この身」でなかったら、何なんだ。「私だ」と言って
いる人間は、いくらでも居るだろ。
で、何で「私であったのかね? 」って、過去形なんだよ。
874 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 04:50:04 0
>>873 >「私」公に対する個たる人のことをいうんだよ。
ここでは、そういう一般論的な意味で使っているのではないよ
だから理解できんのか???
『私』とは『この私』
唯一絶対の私自身を特定する意味だよ
そんな事もわからんで話しかけてくるなよマッタク
>>「誰」というのは「どなたですか?」という意味であって
>同じだろ。どこまでひねくれているんだ、オマエは。
ちょっと待てよ
「いかなる人ぞ?」と「どなたですか?」が一緒って・・・
大丈夫か???
話しにならん
875 :
3時で1時:2007/06/08(金) 05:10:08 0
>>874 >唯一絶対の私自身を特定する意味だよ
「私自身を特定する」ってw
だから、この世で1人しか居ない特定の人間なんだろ。アホ。
オマエは「私」という世界に引きこもってるわけか?
>そんな事もわからんで話しかけてくるなよマッタク
オマエが先に話しかけたんだろ。見境ないな、オマエ。
>「いかなる人ぞ?」と「どなたですか?」が一緒って・・・
>大丈夫か???
はぁ?
「この書類誰が持ってきたのか?」というのは、「この書類誰が持
ってきたのはいかなる人ぞ?」だろ。
「いかなる」も「どんな・どのような」も同じだろ。
「どなた」という語の構成もわからないのか?
オマエこそ、大丈夫か???
876 :
3時で1時:2007/06/08(金) 05:12:44 0
訂正
>>875 「この書類が持 ってきたのはいかなる人ぞ?」だろ。
877 :
3時で1時 :2007/06/08(金) 05:23:56 0
>>874 「私」が人間という類の1人であり、「この身」でなかったら、「何」を
指すのか、答えて見ろよ。
878 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 05:35:29 0
あれ?
もう一度、訂正してくるかなと思ったんだけどな(笑
しかしキミ、小学生かよ
まぁ就職は、まだ困難だろうな
この身の私、と、この身のこの私は違うんだぜ。
880 :
マルト(俺):2007/06/08(金) 05:58:11 0
最高位さ、試しにこの「私」を説明してみてよ。たぶんみんなキミの
説明聞いてもわかんないと思う。それを馬鹿だからと決め付けないで
その理由を探ってみれば、わかりやすい説明が出来ると思うけど、キミには
そういう事ができなさそうだな。
881 :
マルト(俺):2007/06/08(金) 06:02:22 0
>「この書類誰が持 ってきたのはいかなる人ぞ?」
「書類が」じゃなくて「書類を」でしょ。
もしや、釣りだったか…
882 :
3時で1時:2007/06/08(金) 06:47:46 0
意識される自分と社会的存在である「私」を混同し、
「私」45億年前発生説?を唱えるようなバカは、
永遠に「私」のウロボロス構造に嵌ったまま、て事だ。
>>881 はは、釣りじゃないよ。横着してコピペし、確認しないまま投稿しち
ゃったんだ。
883 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 08:37:39 0
>>882 意味がわからん
混同してるのは、そっちじゃないのか???
どう混同してるのか説明してみ
ところで
>「私」45億年前発生説
って何?
マジで大丈夫か???
ここまで
唯識に一票
3時で1時に一票
理由
社会的常識に則っているから
最高位w
都合の悪いレスから逃げまくってほとぼりが冷めたらまたループかw
お前イラネ
唯識は私を肉体に言い変えてるだけなんだが
どこに主語が抜けてるんだ?
最高位は主語=私なのかw
887 :
3時で1時:2007/06/08(金) 09:47:25 0
>>883 「自我」は外界や他者とは区別して意識される自分、ということ。
意識される自分は、意識内容としてある。つねに「自分」が意識さ
れて「ある」わけではなく、他者に認識される訳ではない。
一方、「社会的存在としての私」は、人間たるこの身。
睡眠していて意識されなくても、この身は存在する。消えてしまう
ことは無い。他者によっても確認される。
「俺が意識していないんだから、存在するとはいえない」って事は
ないだろ?
オマエは「私は他人じゃない」と言っている時点で、「私」が人間
であることを認めてるんだよ。
>「私」45億年前発生説 って何?
自分で言ってて忘れたか ?冗談だったらそれでいいんだぞ?
「世界が他人だけだったら物理現象で説明が付く」というようなこ
とも言ってたぞ。
オマエの脳みそ、マジ腐っとるわ。w
888 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 10:02:21 0
>>884 どう社会的常識に則っているのか説明しなきゃダメだろが(笑
理由になってないぞ
唯識さんには
『この私』が遍在したら、おかしいだろ? って言っただろ?
それに対して返事がないんだけど、遍在している根拠を述べてみなさいよ
『私』は、天上天下唯我独尊なのであって、唯一絶対なんだよ
普遍的に遍在しているのではありません
あと
しかし3時で1時って
まさか、ここまでアホだったとは思わなかったな
で、社会的常識???
何言ってんの?
どこが?(爆笑
>>885 都合の悪いレスって、何だ?
何から説明してあげたらいいのかわからんほどアホすぎて、脱力するようなレスが多いからスルーしてるのもあるけど
都合の悪いレスなんてないぞ
私は、キミらが脱線してるのを常に修正するからループしているように見えるかもだけど
最初から話など進展していないんだよ
キミらは、問題意識すら理解できていないんだからね
>>886 私が主語だが何か?
この肉体は、私の肉体だよ
唯物論の主張に従って、この肉体の側に『私』の原因的要素を探ってみたのだが
そんなもん ドコにもありませんでしたよ って結論な
反論があるなら
この肉体の、何がどうだから他人ではなく私だったのかを、答えてみ(笑
889 :
570:2007/06/08(金) 10:03:38 0
>>844-845 >要するに経験的な現象の世界と余りにもかけ離れた「純理論的な」話なので、
>経験的直観的に理解することが不可能だからだと思われます。このことからも、
>これらは「結果的に構成された世界(経験的現象の世界)」の背後にある
>「まず(本当に)存在する世界(物自体の世界)」についての仮説だ、と考える方が自然でしょう。
感性と悟性とが協同することによって成立するのが「現象」に関する認識です。
だから、「観察とか実験」によって感性的直感の内容が与えられるわけなので、それにもとづく自然科学的理論は、
物自体についての理論ではなくて、現象に関する理論です。
そういう自然科学的理論が必然性をもつことを否定したヒュームに対して、それらの自然科学的理論や法則が
普遍妥当性を持ち得ることを示そうとしたのがカントです。
あなたのように、「まず(本当に)存在する世界」と、我々にとっての現実的世界とはつながっているはずだと
考えるとしても、そこには絶対に飛び越えることができない断絶があります。
つまり、「まず(本当に)存在する○○○」(「世界」と言ってしまうと既に読み込みが入ってしまうので「○○○」
としておきます)関していくら仮説を立て、推論を重ねたとしても、どこまでいってもそれは主観に対する「○○○」
であり、「○○○そのもの」には到達できないということです。
(人間にとっての「世界」はあくまでも人間という角度からの「世界」であり、人間という角度を取り去った「○○○」
そのものには到達できない。)
なのでこの「○○○」は理論理性の認識としては語り得ぬものですが、宗教的な〈信仰〉、形而上学的な〈独断〉、
あるいはニーチェのような〈解釈〉としてなら語り得る。(ニーチェは「世界は力への意志である」という世界解釈が、
自分の読み込みであって、一つの解釈であることを認めることによって、形而上学的独断から免れると同時に、それも
一つの解釈にすぎないという相対主義的循環にみずから入り込む。)
一部の自然科学者が、「○○○そのもの」についての〈仮説〉を立てているとすれば、その〈仮説〉が〈形而上学的独断〉、
あるいは〈ニーチェ的解釈〉とどう違うのか(はたして違い得るのか)ということを考えてみなければならないと思います。
890 :
570:2007/06/08(金) 10:07:43 0
>>846は今までの疑問と同じように思われるのでコメントは省略して、
>>810と、
>>827の後半を挙げておきます。
仕事が忙しくなってきたので、しばらくここは休みます。
(始めに書いたように私はカントが好きなわけでも正しいと思っているわけでもないので、カントに即して語るという
妙な役回りに飽きてきたということもあります。)
(以下はほとんどひとりごとみたいなものです。)
私は哲学の専門家ではありませんが(というか何の専門家でもないw)西洋思想の中で一番共感できるのはニーチェです。
このスレのテーマである自己についてのニーチェの考えは、「身体」が自己であるというものですが、その「身体」は
物質としての肉体ではなく、精神と物質、理性と本能が分かれる以前のものとして考えられていると思います。
>>819で書いたような「峻別」ということによって(とくにカントまでの)西洋思想の問題の多くが生じてきたと思いますが、
デカルトが「精神」と「物質」とを峻別したことによって心身問題が難問として浮上してきたように、いったん峻別して
しまったものを、峻別したまま結びつけようとしても、無理があるのだと思う。峻別される以前の共通の根のところを
見ることによってしか問題は解消しないだろうと思う。
891 :
570:2007/06/08(金) 10:08:33 0
ショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデガーなどが東洋思想に関心を寄せたのも、峻別される以前の事柄そのものを
考えようとする西洋思想の流れの一つだったと思う。
「一如」「不二」「即」ということが強調される仏教思想は、西洋思想における二つに分ける思考方法とは対照的であり、
仏教の「無分別智」は「峻別」と対照的である。〈分ける〉こと自体は人間の思惟にとって避けることのできないこと
であるとしても、分けられたものを固定化、実体化して考えずに、分かれる以前の「根」のところを見ていこうとする
仏教的な見方は、ヘーゲルとも共通するものだと思う。
自己(私)の問題に関しては、仏教で否定される〈我〉は、思われた〈我〉(普通に自分が〈自分〉と思っているもの)
であって、そのような〈我〉の「根」に本来の自己があると考えられていると思う。(たとえば道元の「非思量的自己」。
この「非思量的自己」も、デカルトの(われ思う)の思惟的自我とは対照的。)
なので仏教思想における本来的自己は、「実存」と同じで、客体とはなり得ない絶対の主体であるという性格をもつ。
客体として扱おうとすればそれはまた、一つの対象化された思われた〈我〉になってしまうから。
このことは上で書いた、「○○○そのもの」にはどうあがいても到達できないということと全く同じ構造を持っている。
(ではしばらく仕事に専念したいと思います)
みんなバカ最高位に答える必要ないからねw
>>888 都合の悪いレスなんてない?スルーしてる?
毎度毎度スルーさせて頂いてるの間違いだろw
もうお前は終わってんだよ。ループしてるのはお前だけ。
お前は馬鹿だから反論の内容が理解できてない。
だから話がずれてるように思えるんだよ。
普通、程度の低い反論には、どこがどう間違いなのか指摘できる。
でもお前はできない。糞みたいな罵倒で誤摩化すだけw
つまり、自分より高度な意見を理解できずに悶々としてるのがお前。
それ以上でも以下でもない。
894 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 10:25:39 0
>>887 >オマエは「私は他人じゃない」と言っている時点で、「私」が人間
>であることを認めてるんだよ。
で? キミは、いったい何を批判してるんだ???
何言ってんのか焦点がワケわからん事になってるぞ?
>>「私」45億年前発生説 って何?
>自分で言ってて忘れたか ?冗談だったらそれでいいんだぞ?
地球が誕生したのは、確か45億年前と言われているんじゃなかったっけ?
だから例え話で、地球誕生以来『私』は存在しなかったんじゃないのか?と聞いたんだよ
ず〜っといなかったのに、なんで今はいるの? とね
それは、いかなる物理的要因なのですか? とね
誰も、「私」45億年前発生説 なんて唱えてないぞ バカ(笑
いい加減にしろ
あと
>>「世界が他人だけだったら物理現象で説明が付く」というようなこ
>とも言ってたぞ。
はぁ???
しかし頭悪いなぁ・・・
人の言っている事を、ちゃんと理解してから反論してこいよ
「もし主観性であるところの『私』がいなくて、客観的存在であるところの他人しかいない世界であるならば、唯物論に穴は見つからなかったかも知れない」
「しかし『私』が存在する以上、唯物論に生きる道はない」 という事は言ったけどな
要するに、キミ達は
主観性というものを、その他の客観的存在と同列に扱い、客観的にのみ分析しようとしているから、その本質が見えていないんだよ
反論しようと必死になるばかりじゃなくて
もうちょっと素直になって、頭を使って考えてみなさい
知らないことが多すぎるんだよな
基本はさらっと学んどけっと。
>反論しようと必死になるばかりじゃなくて
ぷっw
しっかしよくこんな馬鹿さで最高位を名乗れるよな。
釣りにしても酷い。
898 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 10:33:33 0
最高位の『私』って
いなくなったりしないの?
それとも、いなくなったあと発生は無理?
899 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 10:33:40 0
>>893 だから
『私』は、この体の、いかなる物理的要素なのですか? と聞いているんだよ
キミらは、それに対して何にも答えられないだろ(笑
「この体だ!この体だ!」 って、そんな事はわかってるんだよ(笑
そんな結果報告を聞いたって意味ないワケ
そんな素朴実在論じゃなくて、哲学における、もっと本質的な話なんだよ
偉そうな事は、具体的に答えてからにしてくれないか?(笑
900 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 10:35:08 0
>>899 お前しか知らないものを知ってるわけねえだろ
消えろごみが
901 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/08(金) 10:37:32 0
>>898 そんな事がわかったら苦労しない
だから
『私』を発生させる為の物理的要因は何ですか?と
唯物論者の方々に聞いているところだよ(笑
唯物論に従って、物理的要素でお答え頂きたい
>>899 >『私』は、この体の、いかなる物理的要素なのですか?
日本語おk?
903 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 10:39:00 0
ばかループに答える必要なし
904 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 10:40:52 0
>>894 あなたが言いたい「私」って何ですか?
>だから例え話
意味不明。
>地球誕生以来『私』は存在しなかったんじゃないのか?
何を証拠に「存在しなかった」なんて無神経な事が言えるのですか?
そこが聞きたいですねぇ〜。
ただ、この様に他人が自分の思うとおりにならないという事実こそ
「私」の存在を客観的にも「感じさせる」と言う事です。
こっちでもやってるのかw
荒しだからレスつける必要ないよ。
907 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 10:50:46 O
進化論では、環境に適応して、発生が行われるので、シーラカンスのように絶滅しかかる種もある。ホモサピエンスサピエンスは、まだ絶滅はしていない。絶滅しかかっても、遺伝子生物学で、再生を行うことの出来る生物種も、現段階では人類しかいない。
908 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 10:52:18 O
個体種の発生は、進化論により必然であり、遺伝確率論により、また必然である。生殖の選択意志も、遺伝的必然である。ただし環境は、種により選択できない。適応あるのみであろう。
909 :
3時で1時:2007/06/08(金) 10:52:50 0
>>894 >何言ってんのか焦点がワケわからん事になってるぞ?
キチガイのオマエにとっては「ワケわからん事になってる」んだよ。
>地球が誕生したのは、確か45億年前と言われているんじゃなか
>ったっけ?
何ボケてんだ。嗤わすな。
>いかなる物理的要因なのですか?
>唯物論に生きる道はない
そんなこと、物理現象で説明できるって主張している唯物論者に言え。
>もうちょっと素直になって、頭を使って考えてみなさい
キミは低脳だから、素直になっても、分からないだろう。
ああ、からかうの、ちと飽きた。・・・
>>899 まったくどこまで馬鹿なんだこいつは……。
お前の問いは、「鶏トカゲってどんな動物なの?」に等しい。
まず『私』がどういうものなのか明確に鮮明に定義しろ馬鹿。
『私』という言葉に頼るなら他の『私』と明確に区別して表現しろ馬鹿。
それすらできてないのに他人に聞くな馬鹿。
お前、マジで精神的な疾患でもあるんじゃないのか?
>>909 最高位に乗せられてるぞ
唯物論は精神を物理的に「説明」する理論では無い
912 :
素人:2007/06/08(金) 12:13:34 0
>>886 最高位氏が言わんとしていることが判らないわけではないのです。
それは、○年○月○日に行われた「サッカーの試合」に「実体」がないようなものです。
けれども、「サッカーの試合」が【無かった】わけではないし、
現に行われていれば「サッカーの試合」が【無い】わけではない。
そこに「サッカーの試合」は『存在する(顕われている)』。
同じように、『私』もまた「ここに」「顕われている」と見ることは、そんなにも奇抜で奇妙なことだろうか・・・。
(勿論現時点では、「肉体(脳)」の無いところに『私』が顕われることはないだろうが・・・。)
また当然、「主語」にもなり得る。ただ、文法的用語を用いるなら、
「(静止・固定化した)名詞ではなく、動詞が関係しあってこの世界は成り立っている」と言えるであろうと・・。
最高位氏は、「静止した何かが主語となる」「静止した何か【しか】主語とならない」と言うのに対して、
私は、「動き・働き・様態もまた主語足り得る」、
もっと言えば「静止したものなど何も無く、動きのみがあるこの世界で[主語は静止した何ものかである]という視点は顛倒してはいないか?」
と言っているのです。(私と唯識氏とが、どれくらい被るかは判りませんが・・・)。
>>891 あなたのような人が2chに居るとは思いませんでした。聡明ですね。
913 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 12:14:02 0
>>911 ご忠告ドモ。
しかし、唯物論の中には、還元主義的なものがあるよ。
創発的唯物論は、還元できない、としているようだけど。
>>912 サッカーの試合については、ソシュールが似たような例を出してるな(ちょっと違うかも)。
昨日の朝10時の列車と今日の朝10時の列車は、
ときに「同じ列車」と言われるのは何故か、という問題で、
「実質・実体(Substance)」は異なるが「形式・形態(Form)」が同じだから、というのが答え。
サッカーの試合でも、前節で行われたのと「同じ」カードでリベンジ、とかいう場合には、
「形式」が問題になっていると考えていいと思う。
「私」という言葉に関しては、これもソシュールと無縁ではないヤーコブソンが言ってる。
ヤーコブソンは「私」という言葉を説明して「シフター」というのだが、
これは、「私」という言葉を含む言説は、その言説の状況、文脈、等によって、
その「私」という言葉が「指示」しているであろうものを、次から次へと「シフト」していく、というほどの意味。
中田英寿が「私」というのと、中村俊輔が「私」というのとでは、「実体」は異なるが「形式」は「同じ」だ。
もちろん、この先の展開として、「実体」の側にも「形式」の側にも属さない「主体(Subject)」が問題になるのだが。。。
俺には難しくて説明できんからこれで終わり!
915 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 16:51:39 0
>>851、
>>888 >唯物論の主張に従って、この肉体の側に『私』の原因的要素を探ってみたのだが
>そんなもん ドコにもありませんでしたよ って結論な
最高位は『私』の原因的要素が、肉体の外側にあると結論しているんだな。
認識の主体であり、根源的な存在性であるところの『この私、自我』が、
肉体の側にはないと、結論しているのだな。
>>889-891 どうも無学な私のために(「純粋理性批判を読め」の一言で済ましてもいいところをw)
いろいろと教えていただきありがとうございました。
私の言いたかったのは極めて簡単なことで、
「私だけあっても経験は成立しないのではないか、成立すると考えるなら独我論
ではないか」ということに尽きるのです。恐らく本来カントとは関係のない問題なのでしょう。
>「まず(本当に)存在する世界」と、我々にとっての現実的世界とはつながって
>いるはずだと考えるとしても、そこには絶対に飛び越えることができない断絶があります。
上の馬鹿論法wで行きますと、そもそも「私自体(超越論的主観?)」の他に(外部に)
「物自体(超越論的物質?)」があって、しかも両者は同じ世界にあるのでないと
(そうでないと関係のしようがないので)、どんな経験も始まりようがありません。
つまり、はなから二つの世界があるわけでも何でもなく、我々は最初から
「まず(本当に)存在する世界」の中にいて、「我々にとっての現実的世界」(経験的世界)
はその内部に後から構成されたものですから、最初から両者は関係しまくりであって、
断絶もへったくれもない、ということも言えると思われます。
つまり、「物自体の世界を(正しいかどうかはともかく)認識しているからこそ
経験的世界が存在し得る」ということです。○○○に到達できないどころか、
最初から到達していなければ経験的世界などありようがない、とも言えましょうか。
(続き)
問題は「その認識が正しいかどうかどうしてわかるか」ですが、そもそも上のように
考えるなら、「物自体としての人間」にとっては、「意識」や「認識」など
(言い換えれば「私」など)その活動のごく一部に過ぎません。我々が意識もなく
何の認識もしていない時ですら、物自体としての人間は世界全体の一部として、
いろいろと活動(経験的言語的には「身体の無意識的活動」と呼ばれるような活動
・もちろん今でもほとんどは謎に満ちていて言語化できない活動)をしている、
ということになります。また当然それが「私の経験的世界」の内容に反映されます。
だから、その認識が正しいかどうか、というのは、感性的認識も言語的認識も
ひっくるめて存在する全体の世界(物自体の世界)における人間の総合的実践の
中でその認識が有効かどうか(生活の役に立つのかどうか)で決まる、と
考えても、別に不都合はないのではないでしょうか。
「認識された内容」と「認識の対象」が一致しているかどうか知るためには、
あらかじめ「認識の対象の内容」を知っていなければならない、という議論がありますが、
考えれば、「○○○は本当は何であるか」という類の認識は、○○○が経験できる
存在であろうとなかろうと、すべて言語的な認識であり、言語的な構築物です。
言語というのはもともと対象とは全く似ていません。現実の犬と、「いぬ」とか
「dog」という言語の間には類似点も共通点もありませんし、感性的経験としての
稲妻と「神様の投げた矢」とか「大気の放電現象」という言語表現の間にも
類似点も共通点もありません。だから、「物自体」と、たとえば「何とかいう素粒子を
めぐる数式や理論の体系」という言語表現の間に類似点や共通点があるかどうかは
わかりませんが(前者については何の情報もなく比較不能なので)、だからその
言語表現が不可能である、とか真偽の決定ができない、ということには、必ずしも
ならないとも言えないでしょうか。ある言語的表現(仮説)が真であるか偽であるか、
というのは、人間の総合的実践の体系の内部における有効性によってしか決まらない、と
考えれば、それで済むようにも思われるわけです。
918 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 18:00:49 0
>>901 >だから
>『私』を発生させる為の物理的要因は何ですか?と
発生するものなの?
最高位は発生するものだと思ってるの?
>>916-917さんはカントもいいけど、科学哲学の入門書の一冊でも読んでみるといいと思うお
920 :
マルト(俺):2007/06/08(金) 21:27:51 0
最高位、その前に『私』を説明してみろ。
921 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 23:31:08 0
最高位は負け犬だからもうこないよw
922 :
◆uF8XHRH2qs :2007/06/09(土) 00:28:22 0
Mi lavo le mani.
923 :
最高位の弟子:2007/06/09(土) 00:28:47 O
私が代わりに説明します。
“I”これが“私”です。
924 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 01:04:54 0
>素人くん
どうやらキミは、べつにふざけているわけではないようだね・・・・
しかし、なんでわからんのかなぁ
静止していようが動いていようが、そんなのは関係がないんだよ
それを認識しているキミ自身の存在性の話をしているわけです
顕れている とか、そんなのは全て、キミが認識している事なんだよ
キミがいなくて、なんでキミが顕れていると認識できるのかね?
誰が認識してると思ってるワケ?
まず、主観性であるところのキミありき なんだよ
顕れている というのは、そのキミが認識している事だ
一番、大事な事を飛ばして考えようとしているんだよ
もう一度、落ち着いて考えてみる事をお勧めします
925 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 05:12:49 0
やはり「私」の説明はすっぽかしたか。
926 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 07:01:30 0
>>925 「私」の何を説明しろと?
自分の事だよ
そんなの、説明するまでもないだろ
小学1年生でも知ってるんじゃないか?(笑
927 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 07:12:55 0
まぁいくらなんでも、それはわかっているか(笑
キミらが理解できてないのは
「私」という主観性そのものな存在性 である
という事だな
928 :
マルト:2007/06/09(土) 07:51:47 0
その何とか性というのが余計にわかりにくくしてるんだろうが。
広辞苑にはのってないその「存在性」というのをを説明してみなさい。
929 :
ニート ◆u/fU.DQKN6 :2007/06/09(土) 07:56:11 O
広辞苑は高い→広辞苑買えるだけのお金がない→お金がない→織田裕二→もうすぐ世界陸上→存在性
930 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 07:58:18 0
織田裕二ってお金ないんだ。
サイコーイ先生のワタシの存在性はロンパできませ〜んにょ。
起源の問いと入れ替えもできるかもね〜。
宇宙の起源がわからないことの
代わりに
ワタシを起源とすることも現代思想っぽくていいねえ。
932 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 08:04:58 0
>>928 「あり」としか言えない存在の
「ある」という意味を、純粋に抽出する場合に使う言葉 かな
だから私とは
主観性そのものであり
それは純粋に、そのものとして「ある」のである
という事になるかな
主観性ならなんでひとに色々聞くんだ?
勝手に一人で考えてればいいじゃねぇかw
相変わらずの最低位だなwww
934 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 08:22:58 0
>>933 >主観性ならなんでひとに色々聞くんだ?
参考までに聞くが
キミは主観性ではないのか?(笑
935 :
マルト:2007/06/09(土) 08:25:25 0
主観性よりも「自分の意識」としたほうがいいような気がするけど
それじゃダメ?主観性のほうがいいの?
「主観性」の意味
@主観であること、また主観に依存していること。主観の所産であること
A個人的・歴史的・社会的な条件に制約されたある主観に依存しているという
意味で、客観性が乏しいこと。 (広辞苑より)
936 :
マルト:2007/06/09(土) 08:27:29 0
最高位の使ってる主観性は上のなかのどれ?
>>934 それを決めるのはお前の主観だろうが。なんで聞いてんだよw
それに「キミは主観性ではないのか?」だってw
日本語になってねぇwww
938 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 08:43:28 0
>>935 >主観性よりも「自分の意識」としたほうがいいような気がするけど
あはは
今、「自分とは」 を説明してるんだろ?(笑
もう少し、よく考えてから来てよ
>>937←ダミダコリャ
>>938 そうそう、最低位は他人に主観性があるか否かを、いちいち尋ねて
確認しないとならない上に、日本語も下手だから駄目だよなwww
大体、相手が主観なんてないって言ったらどうすんだ。
それを全て受け入れるのかw
もうね、馬鹿過ぎてダメダメですわwwww
最高位
ぷっw
>>939 >主観なんてないって
すでに唯識がいってる
>>941 そうなの?
じゃあ最低位はもう論破されてるのか。
あ
944 :
ネコの味方:2007/06/09(土) 11:01:34 0
>>素人さん
あなたの言う“実体”の意味がわかりにくいのですが…。
野球やサッカーの試合は“実体”ではないの? その見方は「実体=物体(質)」
に囚われすぎではないでしょうか。
これだと、たとえば国土は実体だけれども「国家」は実体ではないということ
になる。
ところで、実体の反対語は何ですか。 虚体?幻想?幻影?仮象?現象?
素人、唯識がいってる実体って現象のことじゃないの?
946 :
大辞林:2007/06/09(土) 11:30:54 0
じったい【実体】
A〔哲〕〔ラテン substantia ; ギリシャ usia〕
移り変わる多様なものの根底にある持続的・自己同一的なもの。
アリストテレスでは具体的個物(主語となって述語とならないもの)が、
またデカルトではそれ自身で存在し他物を必要としないものが実体とされた。
⇔属性。
947 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 11:31:00 0
なんで最高位が消えるとネコが現れるの?
機械氏の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。
しかし、機械氏の脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
・・それは『自作自演』という「観念論的誤謬」です。
機械氏の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から
分泌する神経伝達物質で、他の『自作自演者』に情報を伝えるだけです。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの自作自演」が全てです。
このスレで機械氏の脳だけが「自作自演」であるとする科学的根拠は
全くありません。機械氏の脳も地球上における「自作自演」の一過程に
すぎず、機械氏の脳が造り出す『自作自演』も何ら「特別」ではありません。
『自作自演』は『意識』を持つ動物全部に生成する現象です。
「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ『自作自演』により
決定されております。自由(意志)感も『自作自演』にすぎません。
量子論の「不確定性」は自作自演には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「機械的唯物論」者=哲学者最高位とネコの味方の統一後に残存し得る
『唯一の最終真理(自作自演)』の輪郭です。全マジレスは徒労です。
949 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 12:20:37 0
>>939 >最低位は他人に主観性があるか否かを、いちいち尋ねて
>確認しないとならない上に、
ん?
ただ聞いてあげてるだけだよ?
この世界に存在している私には、すでに主観性があるからね
唯物論は崩壊している
キミ達に無くても関係ないのよ
まぁこれは当然、主観性のある人にしか理解できん事だ
逆に言えば、主観性のある人には理解できる可能性があるからいいんだよ(笑
キミは
「私には主観性はございません」と言っていれば、それでいいんだよ
私は
「そうですか」で終わり
私には主観性がある
すなわち、この世界に対する観測者
キミには主観性が無い
その辺に転がっている石コロやお人形さんと同じ
石ころが、人間様を論破するなど、おこがましいにも程がある(笑
なぜなら
主観性のある人間様の事を理解するのは、主観性のない存在には不可能だろうからね
だって主観性って何なのか、それすらわからんのだろ?(笑
というか理解ということ自体が不可能だよな
主観が無いんだもんな
>>949 相変わらず話が理解できてねぇwww
俺に主観がないっていつ言ったんだよ??
仮定の話だろ。ものの区別がついてねぇなw
まあ、あるかもしれんし、ないかもよ?
結局決めるのはお前なんだよ。
だから人に聞くなって言ってんだろがこの莫迦wwwwwwwwww
951 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 12:50:07 0
>>950 自分に主観性が、有るんか無いんかも、わからんのかよ(爆笑
>結局決めるのはお前なんだよ。
はぁ??
じゃぁ、「キミには主観性は無い」で決まりね
文句言うなよ(笑
今、決定しました
さっそく周囲の人達に、「私には主観性は有りません」と宣伝して来て下さい
>>951 俺には主観があるけど、お前には無いように見えるんだな??
へぇー、じゃあ、なんで主観の有無を質問したの???
頭おかしいの?www
953 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 13:06:47 0
>>952 あれ?
決めるのは私じゃなかったのか?(笑
>結局決めるのはお前なんだよ。
と言うから決めてあげたんだよ
勝手に「ある」などと変えないでくれるか?
どっちなんだよマッタク(爆笑
キミは周囲の人に
「私は哲学者最高位という人に、主観性を持っていないと決めていただきました」
と、真実を語りたまえ(笑
954 :
マルト:2007/06/09(土) 13:18:36 0
現実世界なら取っ組み合いになってるな。ネットってすばらしい
>>953 さて、そろそろ本筋に戻るけどな、
俺が言いたいのは、最高位自身こそ主観性が弱いということ。
最高位は質問をして、帰ってきた答えに頼り過ぎてるんだよ。
だから、俺の罵倒と揚げ足取りに沿った返答ばかりになる。
罵倒を罵倒で返すなど、低きに流れる自我のない水と変わらんよ。
956 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/09(土) 13:34:58 0
主観性があるのなら
最初から「私にも有ります」と、言って議論すればいいじゃないか
それなのに「有る」と言ったり「無い」と言ったり
議論を混乱させようとした目的は何だ?
やっぱり唯物教の信者であり、工作員だという事なのかな?
少なくとも
キミには、真実を追究する誠実さは無いようだね
>>956 いや、他者の主観、それの有無は本当に自分で決めるしかない。
主観があるか? という問いは、あなたは生きているか? に近く、
どのような答えが返ってきても、自分で決めるしかない。
だが、少なくとも返答がある時点で「あるようだ」とは言えるかもしれず、
返答がない石ころには「ないようだ」と言えるかもしれず、
返答はなくても自由に振る舞う動物には「ありそうだ」と言えるかもしれない。
また、「あらゆるものにはない」とも言えるかもしれない。
つまり、その問いはナンセンスに自らを投げる結果になりかねず、
中には俺のように意地の悪い返し方をしてくる輩もいるだろう。
つまり主観性の有無を他人に聞いても意味はないということ。
958 :
マルト:2007/06/09(土) 13:54:47 0
最高位、全然関係ない質問なんだけど、君は真理のためなら
道徳だって否定してもいいと思う?
959 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 15:35:40 0
>>956 >やっぱり唯物教の信者であり、工作員だという事なのかな?
工作員ダッテ。
イイカゲン妄想癖ナオシタホウガイイヨ 観念教工作員。キモチワル
>>956 実際に工作員は2ちゃんにいるので〜す。
仮想敵国が中国、ロシア、北朝鮮だとしたら日本はスパイ天国なので〜す。
工作員が哲学板に多いのは昔から同じです。
ほとんどが共産主義の工作員でしょ〜う。
スレ立ての多くが共産党板のスレとダブってますからね〜。
961 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 15:42:23 O
最高位頑張れよ・・・第三者から見たら、最高位が指摘されまくりで、何か間違ってるんじゃねーの?って思ってしまうぜ
962 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 15:43:43 O
>>930 “お金がない”ってドラマの主役だったのさ
963 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 16:26:46 0
最高位はゾンビ
サイコーイ先生は天才なのね〜。
私は不在だと思います
966 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 17:34:40 0
唯物論も唯心論も二元論もサイコーイ論も人間の主観性を解明
できない。それぞれの立場、観点で説明している、それだけだ。
967 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 17:35:26 0
>>949 最高位のいう「主観性そのもの」とは、素朴な独我論でしかないよ。
最高位は主観性を超越の存在と考えてるが、これは、神学などにおいて試みられた、
神の存在論的証明の形式に近いものになっている。
神が『この私、自我』におきかわっている論法だ。
自己の有限性や限界性を理解せず、最高位の「主観性」の様態は超越になっている。
最高位は独我論によって、人間を神格化しているだけだろう。
968 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 17:40:30 0
>>947 まさに。
自覚のない独我論。「神にも平行する存在」だとさ。
969 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 18:13:10 0
>>956 >>901 >だから
>『私』を発生させる為の物理的要因は何ですか?と
発生するものなの?
最高位は発生するものだと思ってるの?
970 :
おマンコ濡れちゃった… ◆.wWVWVvVVw :2007/06/09(土) 18:39:51 O
もういい、俺ちゃんが説明してやるから。
いいか?私は存在する。なぜなら私は存在するのか?しないのか?を証明するには私が存在しないといけないし、私が存在しないのなら私は存在するか?について語れない。
故に私は存在しているのである。
971 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 18:57:55 0
>>970 機能概念として存在するってことで、OK?
972 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 18:58:23 0
私が私を認識するならば私は存在する
私が私を認識しないならば私は存在しない
私が存在するならば私は私を認識する
私が存在しないならば私は私を認識しない
正しいのはどれだ
973 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 19:14:50 0
>>972 だから私って何?ってつっこまれるよ。
最高位みたいに「私は私だろ」で逃げ込める?
974 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 19:16:20 0
別に本当のことを知りたいわけじゃなかったから
おのおのの思うところでよかったんだけど…
975 :
850:2007/06/09(土) 19:24:45 0
>>851、
>>854 「意味が与えられる」という表現は、何気なく使ったのですが、
皆さん、言語センスが鋭いですね。
私が「意味が与えられる」という表現で言おうとしたことは、
「意味が成り立っている」ということと同義です。
超越論的自我と経験的自我の違いは、
意味の成り立ち方の違いと理解しなければならないのであって、
存在としての違いと理解してはならない、ということです。
851氏に対する反論としては、
「私」を「意味(言語)」に先行させて考えることは、
超越論的自我と経験的自我の違いを、
存在としての違いとみなすことに通じかねず、
そうなってしまえば両者の連関性が不明になりかねない、ということです。
976 :
おマンコ濡れちゃった… ◆.wWVWVvVVw :2007/06/09(土) 19:45:34 O
Aさんが「自分の主観」として晒した記述をBさんがコピペして、
それをAさんが読むと、
その時点で、記述内容はAさんの中で「他人の主観」に変化する
Aさんが言った事にBさんが全面同意したつもりでおうむ返しをしても、
そのおうむ返しはBさんの認識だから、Aさんは同意された気になれない
むしろ反論されていると感じる
Aさんの考え方は、独我論的だね確かに
978 :
おマンコ濡れちゃった… ◆.wWVWVvVVw :2007/06/09(土) 20:35:30 O
私は何か?から定義しないといけないのなら、様々な方法でアプローチしても、それらは私の存在証明という命題を満たさない。
なぜなら、私という存在自体が曖昧で複合的であると考えられるから、1つの説では必ず例外が出てしまうことになる。
現に、私=主観説だけでは私は定義出来ないから、最高位は指摘されている。
しかし、だからと言って私の定義域内に主観は含まれるのか?と問われれば、含まれないとは言えない。
そもそも、このスレのタイトルを考えた人は、ここまで考えてスレを立てたんだろうか?この命題は明らかに偽だと思うんだがorz
>>978 お前がちょうど
>>970 も取っちまったとわかってて言ってるのか?
次スレはお前が立てるんだから、いいタイトルつけろよw
980 :
おマンコ濡れちゃった… ◆.wWVWVvVVw :2007/06/09(土) 21:42:13 O
いや、タイトル変えたら別スレだろ。今までのレス(議論)を継承させたいのなら、タイトルは同じにすべきだと思うんだが?
決定論スレに乱入されたらうざいんでそのまま3で。
982 :
おマンコ濡れちゃった… ◆.wWVWVvVVw :2007/06/09(土) 21:46:35 O
アニメ板とかじゃないんだからいつでもいいんじゃない?
>>978 考えていたと言えば言えるし、また、それほど深い意図はなかったとも言えるw
少なくとも、スレタイの意図の一つは最高位に対する牽制と宣戦布告。
もう一つは、記述方法は各種あろう、が、それが対象を捕まえるものとなるかどうか?
捕まえる所までいかなくとも、ターゲットロックオンくらいまでは迫れるかどうか?
という問いかけの意も含む。
また最初は、色んな記述方法が色んな人によって書き込まれることも期待の一つであった。
そして、最終的には、「基点」(起点ではない)『私』というラベルのつけ方がふさわしいかどうか・・・ということも・・・。
あ、最後一行は消すつもりだったのだが・・・w
送信してしまったw
987 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/10(日) 10:16:48 0
>>957 >いや、他者の主観、それの有無は本当に自分で決めるしかない。
いや、本人の主観の有無は、他人が決めるものではない
>主観があるか? という問いは、あなたは生きているか? に近く、
>どのような答えが返ってきても、自分で決めるしかない。
いや、「それは自分で決める事はできない」が正しい
なぜなら、どういう答えが返ってきても、それは絶対に『わからない』からだ
「わからないから決める事はできない」が、正しい
決めることができるのは、自分の思考であって、他人の主観性の有無ではない
しかし、それに対して自分が思考を決定する という事は
これは根拠のないテケトーな行為であり、そこには論理的飛躍がある という事を認識せねばなるまい
論理的には、絶対にわからん事なのだからね
まぁ私は、キミの言いたい事はわかってるんだよ(笑
どんな答えが返って来ても、それはわからんのだから、聞いても意味ないっていう事だろ?
しかし何度も言うように、キミ達に主観性があろうがなかろうが、そんなのは既に関係がないんだよ
私自身に主観性がある時点で、唯物論が崩壊した事実が変わる事はない
私以外に主観性が無い としても、それは単に、独我論が正しかった という結論になってしまうだけだ
主観性の無い人から「オレには主観性は無いぞ!!!!」などと、いくら反論されても、そんなのは全く有効な反論にならないのです
だから、他人の主観性の有る無し は、問題にならない
私を論破するためには、自分の主観性を、物理的要素で、具体的に説明する必要があるのです
主観性を持っていて、ある程度の知能と哲学的センスがあれば、私を論破する事は不可能であり、唯物論は間違いなんだと気づく事ができるでしょう
私は、理解できる人だけが、理解できれば良い というスタンスで話しています
しかし他人が、本当に理解できているかどうかは関係がありません
唯物論は、この世界に『私』が存在した時点で、すでに崩壊しているのですから
それは主観性があり、ある程度の知能のある人間には、理解できる事なのです
988 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 10:54:24 0
>唯物論は、この世界に『私』が存在した時点で、すでに崩壊しているのですから
ということは、最高位が生まれるまでは唯物論が正しかった、でOK?
989 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 10:54:55 0
> 主観性を持っていて、ある程度の知能と哲学的センスがあれば、私を論破する
> 事は不可能であり、唯物論は間違いなんだと気づく事ができるでしょう
しかし、あなたのような独我論的というかデカルト的というか、
そういう主観性概念に対して批判的な哲学者だって、実際いくらでもいるでしょ?
そいつらはみんな「ある程度の知性も哲学的センス」もない無知蒙昧な奴らだと?
ハンドルネームは「哲学最高位ドットコム」にした方がいいんじゃね?
990 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/10(日) 11:39:07 0
>>988 なんで?(笑
>>989 >そういう主観性概念に対して批判的な哲学者だって、実際いくらでもいるでしょ?
>そいつらはみんな「ある程度の知性も哲学的センス」もない無知蒙昧な奴らだと?
人間は私も含めて全員、無知蒙昧 だと思うよ?
ドングリの背比べでしょう
その中で私は
わかっている事だけを論理的に組み合わせていくと
唯物論は間違いである という結論は出せた というだけの事ですよ
991 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 13:02:22 0
>>987 >私自身に主観性がある時点で、唯物論が崩壊した事実が変わる事はない
唯物論者はあなたの主観性を脳内の物理現象に還元するでしょ。
あなたがそんな主張をすることにどんな意味があるの?
992 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 13:20:58 0
最高位は主観性が主観的であるということを理解できてないんだろ。
993 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/10(日) 14:23:43 0
>>991 >唯物論者はあなたの主観性を脳内の物理現象に還元するでしょ。
では、この脳が、物理的にどうだから『他人』にはならず『私』になったのか
その理由を、物理的要素に還元して説明していただきましょうか(笑
>>992 主観性は主観性
実は『観』といえば、それは主観性
主観的なのは主観性だからであり
客観的に考えるのも、主観性です
994 :
991:2007/06/10(日) 14:32:27 0
>物理的にどうだから『他人』にはならず『私』になったのか
あなたはあなただからあなた。あなたがあなたでないということは端的に意味不明。
995 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 14:41:23 0
そう、端的に意味不明。
思春期にはこのような思考的混乱がありがち。
温かく見守ろう。
996 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 14:59:02 0
単に「自我意識を、物理的要素に還元して説明していただきましょうか」
でいいのにね。
この人、思春期の少年ではなく、頭悪すぎの人だと思うよ。
>>994-995 これまで何百回何千回と同じ指摘はされている。
が、一度も通じてない。
無駄だよw
>>996 最高位の言ってるのは、
それよりもう一つ下の階層のことだよ。
998 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 15:27:45 0
>>997 >それよりもう一つ下の階層のことだよ。
もう一つ下の階層って?
999 :
哲学者最高位 ◆mgNCvVgWk2 :2007/06/10(日) 15:29:39 0
>>994 >>995 キミ達には、現代哲学の基礎も理解できんようだね
>>996 自我意識じゃなく
自我そのものの話だから(笑
まぁキミ達には、何度説明しても理解するのは無理だと思うけどね
知能の問題かな
1000 :
考える名無しさん:2007/06/10(日) 15:35:02 0
魂の話しなのかw
1001 :
1001:
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