◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない92◆
(続き)
>きみの言う「哲学者最高位」というのは、『私という自我』を客観視した呼び方であったり
また『この肉体』を指している場合もあるようだね
最高位氏、ここはまさに問題の核心ですぞ。
「哲学者最高位」というのは、客観的に(誰にとっても)存在している人間個体の名前です。
純然たる物質であって、「生物である」「人間である」「ある時点である場所に存在して
いる」等々の客観的性質を持っております。他のあらゆる個物と何の違いもありません。
(ですから、本来のあなたの論法によれば唯名論wで地面や空気と区別できず、
存在性もありませんw)
「哲学者最高位」に心・自我が付随しているかどうかは、等の自我以外の自我には確認の
しようがありませんが、普通は生きて活動している人間個体にはそれぞれ別個の自我が
付随していると判断されています(というように私には思われます)。
そして、そのそれぞれの自我は、それが付随している(とみなされる)肉体によって
区別する以外はありません。だから「哲学者最高位の自我」とか「素人の自我」とか
「機械的唯物論者の自我」等々と表現する以外にはないわけです。
「哲学者最高位の自我」というのは、まさにそうして存在していると一応判断されている
自我を指示する言葉であります。あなたが使っても、他人が使っても、同一の個物を
指示します。
さて、「永井的問題意識」によれば、「哲学者最高位の自我」が存在しているからと
いって、それが「私」である必然性は何もありません。「素人の自我」も「機械的唯物論者の
自我」も「横山ノックの自我」も、古今東西無数の自我が存在している(と思われる)のに、
そのうちのたった一つだけが現に「私」である、その不思議さが問題の始まりなのです。
ですから「哲学者最高位の自我」と「私」の関係が問題となります。
「結合」にこだわっているようですが、これは両者の結び付きを一番ゆるい形で表現した
だけで、格別意味はありません。