>>683 >>679は私に対しても言われているのかな?
ま、確かに >「脳の情報処理はまったく知らないし、分からない。」 は当たってるがw
まず、お断わりしておきたいのは、デカルトの件の言辞は、
最高位に合わせて言えば・・・ということで、私自身はあまり意味を感じていません。
それほど、魅力的な言葉には感じないから・・・。
で、
>>680について。
683の、受動性の基点、がどういうことなのか今ひとつピンと来ませんが、
情報を受けて初めて活性化する・動き出す・能動性を生じるようなモノ、ということでしょうか?
そのような基体として(第一番目の)意識を捉えるということでしょうか・・・。
>「意識を観ると言う能動行為」でありますが同時に、 「意識を観る」
(→「意識によって見られる」?/「見られている意識」?)
>と言う受動行為でもあり、その「完全受動観点」における特定点意識を『私』としています。
も、もう一つ解り辛いですが、
意識を無時間的に見ているように、働き・動きのない静止した何物かとして見ているように
感じられます。私は、そのような視点を排したいと思っているのです。
この世に変化のない「存在」がありえないように、
働き・動きのない「意識」もまたありえないと思うからです。
最高位ではありませんが、その場合でも
「何が見られているか」ではなく、「見ている(ものは何か)」ということが大切だと思うからです。
>またその存在は・・・・・・・・「この存在」の「ありのままの『個性』そのもの」と捉えています。
唯一無二の、「そこにある・生じているもの」という言辞と変わらないと思う。
>「思う、考える」が先でなく先ず意識を観る、
後半の、「意識を見る(見られている)」という部分(→彼やあなたが第一番目としている状態)
こそが、デカルト的言辞で「思う」と言われる部分に相当するのだと思います。
故にこの文は、デカルトに対する評としては今一つ曖昧なもののように見えます。
>>683 >その起源は・・・
そのような起源の問い方は、全てを生み出す根源的な卵を探しているように見えます。