(続き)
たとえば、ある同一の『個物』が、ある人にとっては「漬物石」であり、他の人に
とっては「イス」であり、「湯たんぽ」であり、「可愛いペットのタロちゃん
(石の愛好家というのも多いそうです。何でも鑑定団に良く出てきます)」であっても、
何も不思議はありません。1人の人にとって同時にそうであっても、一向に構いません。
しかし、そのような観念の原因となり、そのような観念によって指示される個物である
『漬物石』が人間の認識主観から独立に存在していることに、変わりはないのです。
その構造・材質・大きさ等々は(無論、時々刻々と変化しつつも)客観的に
定まっているわけです。(ただし、それを認識し記述するにはどうしても観念・概念・
言葉による他はないですが。)
『アキレス』や『亀』も、全く同様であります。「個物」としてのその存在や
性質は客観的に定まっており、人間の認識・観念はそれによって相対的に規定される
のです。決して「自由な価値観によってテキトーに区切って」いるわけでは
ありません。そうでなければ「アキレスは亀より速い」とか、
「実際にアキレスは亀に追いつく」とか、言えるはずがないではありませんか。
いえ、言うことはいくらでもできますが、それが「正しい」とは言えないわけです。
無論、いわゆる自然科学の「正しさ」なども、担保することができません。
(自然科学的な認識はどうして可能なのか、可能だとして、その「正しさ」が
どう担保されるのか、は、本当は哲学的な大問題なのですが。)
というか、あなたご自身が「私さえ存在しなければ唯物論に穴はなかった」とか、
「自然科学に反対するつもりは全くない」とか繰り返しておられるのですから、
この点には完全に同意だとしか思えないのですが、いかがでしょうかw?