【初心者】スレッド立てる前に質問をPart20【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 15:21:02
3 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 15:28:22
前スレの994
>幕府が朝廷に代わって元号決定権を獲得を望んでいたとしたら、
>せっかくの幕府主導による元号を辛酉革命説如きで改元を許すとは思えないが。
前スレの997
>あと、ウィキの寛永の項目を見ても、「甲子革令」は名目は実際は「将軍代始改元」と書かれているから、
>秀忠→家光の将軍交代がなければ、甲子革令もやる気がなかった可能性もあるとも解釈できるな。
>朝廷は甲子革令だと言い張っていたが、実際には幕府の圧迫に負けての将軍代始改元であったと。
それでは、そのあとの天和改元(1681)以降の辛酉改元、貞享改元(1684)以降の甲子改元が江戸時代を通じて確実に行われていることは、どう説明する?
秦氏の「正論」の文章には,夫が戦死した日本人が,家族を養うために慰安婦になったという文章があった。
戦死した軍人の家族に,配給は無いのでしょうか ?
7 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 00:51:43
8 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 01:13:38
>>3 むしろ1561年の辛酉改元と1564年の甲子改元をやっていないほうが不思議。
改元なんて南北朝時代の南朝でも出来るんだから、改元すること自体に大して金はかからないだろうに。
9 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 03:46:02
改元ってどういう手続きが必要なの?
10 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 09:09:21
関が原の合戦の際、五奉行の増田長盛や前田玄以が徳川家康に内通したとされていますが、
信憑性がないように思います。
実際のところどうなんですか?
11 :
よしリン:2007/08/08(水) 09:11:08
2ちゃんねるってなに?????????????
12 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:22:16
>>10 まあ改易を免れているから、積極的な敵対行動はしていないってことじゃない?
13 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:30:23
関ヶ原って事前連絡ナシに寝返った大名のうち、小川・赤座は改易されたのに、
朽木は生き残ったのはどうして?
脇坂も残った。
小川は三成と親しかったからじゃなかったかな。
15 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 13:14:45
16 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 15:24:25
質問です。
奈良時代にできた班田収授法や
租庸調などの税制は
改新の詔と律令政治のどちらからできたものですか?
17 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:21:38
>>14 脇坂は事前に寝返る連絡をしてたんじゃなかったっけ?
18 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:25:27
>>16 大化改新から大宝律令施行までの間に徐々に整備された。
どちらかというような二者択一のものではない。
19 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:45:42
昔の女性の名前って、北条政子や、日野富子、細川ガラシャなどのように名字を付けて呼ぶ一方
濃姫やお市、寧々、淀殿など名字をつけずに呼びますよね(通称?)
後者の人達を名字をつけて呼ばないのはどうしてですか?
質問させていただきます。
室町時代の武士は、一体どのような格好をしていたのでしょうか。
URLは失念しましたがWebページ上で「信長たちが京に行って帰ったとき、信長たちが若者の間で流行していた頭への剃り込みを入れて帰ってきたから、周囲のものは驚いた。」というような意味の記述を読みました。
そして「貴族から庶民まで、頭を見せることはせずにみんな帽子をかぶっていた。」とも。
それでは、それ以前の武士たちは百姓と同じような頭髪や服装をしていたのでしょうか。
また帽子をかぶっていたのならば、本当にずっとかぶっていたのでしょうか。
力仕事の時などはかなり邪魔に思えるのですが……。
21 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 00:40:18
中世人にとっては、もとどりを露出するのは、急所を露出するのと同じくらいの認識だったんじゃない?
22 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 01:32:59
>>20 月代を剃るのは信長の時期くらいからだとしても、烏帽子を日常で被らなくなる時期は、もう少し早いのでは?
23 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 10:50:30
24 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 15:08:42
中世の貿易で日本から輸出していた硫黄は、どういう用途で輸出されたの?
25 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 19:00:47
質問です。
与力見習の人が、小十人格軍艦組出役になった場合、
身分は旗本ですか、御家人ですか?
>>19 理由:我々も含む、後世の人々に適当に呼ばれているだけだから。
大体が、後世の読み物や脚本や講談などでの通り名が使われている。
江戸時代まで名前なんて自分でコロコロ変えていたのだから、どれがどうとか言い出したら切りがないし
教育の側も「歴史ものを読む為のもん」だと割り切ると、下手に諱を教えるよりも通り名を教えていたほうがいい。
ひどいのになると、本人が一度も名乗っていない氏名で呼ばれていたりもしている(北条早雲など)
そもそも当時の女性は名字を名乗らない。「伊藤誰それの女(むすめ)」などと記録に残ることはあるが、
これは
>>23に示されたような現在の形式とは全く異なる。まぁ無理やり当てはめる必要は必ずしもないのさ。
>>24 薬剤(漢方薬や漂白剤)、黒色火薬の原料として。
>>25 小十人「格」ですから、待遇だけは旗本かと。
29 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 20:57:51
>>23は当時の形式だろ。
むしろ細川ガラシャなんて名前のほうが後世の通称という臭いがするが。
30 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 11:25:58
>>26 じゃあ北条早雲は伊勢盛時で教える?それとも伊勢宗瑞?
31 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 13:55:28
伊勢長氏で。
>>21 >>22 ありがとうございます。
鬱陶しいのが嫌いで帽子なんて全くかぶらない自分には、なかなか理解しにくくて、興味深いですね。
33 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 14:30:26
藤原不比等と道長は同一氏族?
史上最も長く権力得たのは藤原家?
34 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:13:36
>>32 もともと、ちょんまげ自体が、
烏帽子や宮中で被る冠を固定する留め具を引っ掛けるために発達したわけだからな。
35 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 21:00:31
>36
いくら土地が狭くてもその面積を耕作して租税を納めても食える分が残らなくては
飢え死にしてしまいますよね。ですから実際はそれでやっていけた筈って事になります。
ところが、その生産性を中国に当てはめるととんでもない事になります。
余剰食料はどうなるって話になり、市場で換金されたのなら当時の中国には
食糧生産に従事しない人口が相当の割合でいたと言うことになります。
でないと食料が余ってしまいますから・・・というのも無理があります。
食糧生産性に差があったのでしょうか?これもあまりに無理があります。
あとは唐では戸籍に記載されない人(階級?)が相当数居て小作をしていたが
日本ではそう言う階級がほとんど無かったとか、そういうレベルの差があったんでしょうか?
38 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:07:33
聖武天皇は不比等の娘と結婚したのに
聖武天皇と藤原勢は仲が悪かったんですか?
39 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:14:36
>>35-37 単位面積あたりの生産量が、湿潤気候で雨の多い日本のほうが概して高いというのもあるだろう。
40 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:58:30
明暦の大火は何故おきましたか?
>>26 通り名はその当代で通用すれば良いが、長い年月だと重複するのが多くなる。
その点、諱は、同姓同名もあることはあるが、時期を超越したユニーク性を多少は意識している。
著名な人物が、ほぼ通り名で特定されてしまう場合もあるが、それはそれで不便。
「太閤様」って豊臣秀吉以外にも沢山いる(元関白は全員該当)。判官だって義経だけではない。
黄門様だって、例えば徳川慶喜だって該当していた(中納言)時期はあるからね。
42 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 23:08:38
>>40 振袖を脱がされ、犯されそうになった女が逃れようとして燭台を倒してしまい、それが脱がされた振袖に燃え移った。
犯す側も犯される側もバツが悪いものだから、それだけ消火が遅れ、周りに人もおらず、火は瞬く間に広がった。
情欲の炎は、江戸中に広がった・・・
なんで高校日本史では、応仁の乱の次に桶狭間辺りから始まるんですか?
義植と義澄の跡目争いや、堺幕府とか大内氏全盛とか、享徳の乱とか
戦国時代が地方波及した、駿河の大名が討ち取られた事より重要な事件がいっぱいだと
思うんですけど。
44 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 23:27:59
>>43 一応指摘しておくと、享徳の乱の開始は応仁の乱より前。
あと享徳の乱は最近の教科書には載っている。
応仁の乱以降の中央の政治史が薄いのは、高校の教科書(特に山川)は
保守的で最新の研究成果が反映されるのに時間がかかるから。
戦国期における中央の政治史が大きく注目されるようになったのは割と最近。
どこも扱ってないんで、信長の野望とwikiで勉強したな>戦国初期
46 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 00:37:15
俺はI永先生の明応の政変に関する論文とか読んだけど。
47 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 01:32:05
質問です。ハサミが普及する以前、人々はどうやって髪を切っていたのでしょうか?
あと
>>20と関連しますが、江戸時代の武士は月代を毎日剃っていたのですか?
数日剃らないでいたらかなり変な頭になりそうですけど。
48 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 01:35:56
質問させていただきます。
律令制下の日本の兵役についてなのですが、多くの資料では、正丁3〜4人から1人の割合で兵士を徴収し、諸国の軍団で訓練を受けさせた後、その中から防人や衛士を選任し、派遣した、とあるのですが、
そもそもこの軍団というのは何のために設立したのでしょうか。
集めた兵士を訓練を終えた者から全て防人や衛士に回すためでしょうか?
だとすると、徴兵は毎年行われたのでしょうか?
また、一度任務を終え、日常の暮らしに戻った者は、二度と徴兵を受ける事は無かったのでしょうか?
それとも、防人や衛士に行ったのは兵士のごく一部で、残りの兵士は諸国の防衛に就いていたのでしょうか?
しかし、だとすると、防人や衛士の任期は記されているのですが、それ以外の兵士の任期が記されていません。
終身兵士になり、戦士階級になったとも思えません。
また、任期を終えた防人や衛士が、再び諸国の軍団に戻った様な記録も見られません。
拙い文章で読みにくいかと思いますが、どなたか博識な方、ご教授お願いします。
>>47 浪人や○ゲはあまり剃らなかった(時代劇なんかでよくみるだろ?)
エチケットの問題だから。
50 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 11:40:05
まあ近世でも公家や学者はあえて月代を剃らないみたいだけどね。
51 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 17:23:04
日本は開発が進んでるから遺跡とか見つかってるのだと思うのだけど
海外も(中国とか)開発進んできたけど、やっぱりいろいろ見つかってるの?
52 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 03:07:37
遺跡調査は土木工事とセットなのが普通です。
53 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 07:24:20
54 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 16:37:35
>>51 万が一掘り当てても、見なかったことにして遺跡壊して土地開発だろう。
日本でもよくあるケースだが。
55 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 20:35:24
日本史の勉強し始めの中学生です
見当違いだったらごめんなさい
桓武天皇の子、葛原親王から平家が生まれたようですが、なぜ葛原親王の系からなのですか?
桓武天皇の子で葛原親王の兄姉はみな天皇、天皇の妻になってますが(良岑安世さん除いて)なぜですか?
そもそも八色の姓の必要性が分かりません。
教えてください。お願いします。
室町時代の有力守護大名のほとんどが一度幕府によって
壊滅状態にさせられているのに、また有力大名として復活できるのはなぜですか?
大内とか土岐とか山名とか…
57 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 01:07:02
土岐は壊滅させられた世保系はそのまま潰れて、代わりに取り立てられた池田系がその後は嫡流扱いになるんじゃないの?
>>55 >桓武天皇の子、葛原親王から平家が生まれたようですが、なぜ葛原親王の系からなのですか?
そのような疑問を抱いたのなら、まず源氏物語を思い出してください。
源氏物語の主人公光源氏は「天皇の皇子で実に美しかったが、母親の身分が低い
(なおかつライバルが有力者の一族だった)為に、源姓を賜って臣籍に降りたウンタラカンタラ…」
という設定だったでしょう?源氏物語はフィクションであり、桓武天皇の子の時代からは
大分後に書かれたものですが、このようなことはフィクションにもなるくらいの、よくある
話であったということなのです。
>>55 さて桓武天皇には23人以上の妃と36人の皇子女がいたとされていますが、
主だったところを並べてみますと
平城天皇:母藤原乙牟漏(父藤原良継)806年即位
良岑安世:母百済永継 785年生まれ 802年臣籍降下
嵯峨天皇:母藤原乙牟漏(父藤原良継)809年即位 823年譲位
淳和天皇:母藤原旅子(父藤原百川)
葛原親王:母多冶比真宗(父多冶比長野)★825年臣籍降下
佐味親王:母多冶比真宗(父多冶比長野)
賀陽親王:母多冶比真宗(父多冶比長野)★
万多親王:母藤原小屎(父藤原鷲取)★
仲野親王:母藤原河子(父藤原大継)★
詳しくはここ(↓)
ttp://www.geocities.jp/okugesan_com/zenji.htm 皇后は藤原乙牟漏。★は平姓を賜った王の祖です。
藤原良継の同母兄は、反乱を起こしたあの藤原広嗣。
藤原百川は良継の異母弟で、良継と共に光仁天皇を擁立、天智系の復活を後援しました。
後に平成天皇の寵愛を受ける藤原薬子は彼らの姪。いづれも式家の人です。
ぶっちゃけ、葛原親王は当時本流のひとではなかったのです。
>>55 あと葛原親王が臣籍に降りる前後を年表で追ってみてください。
藤原薬子の乱があって平城上皇の没年前後です。
式家の専横と粛清、北家の興隆といった政治背景がある。
また桓武天皇から平成、嵯峨天皇の頃皇子皇女は多いのです。
おまけに遷都はする、反乱はある。そんなこんなで朝廷の財政難は慢性化。
しかも嵯峨天皇は我侭で…
葛原親王に限ったことではなく、この頃から多くの皇子が臣籍に降りていきました。
ましてや俊英といわれた葛原親王だったら、自分のあまり良くない立場を感じ取って
去らないほうが不思議ではないでしょうか。
61 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 05:06:40
>>3 寛永改元の3年前の1621年(元和7年)の場合は、辛酉革命だから
改元しなくちゃ・・・という話が夏〜秋くらいになってから突然出てきたけど、
結局改元されなかった。(通例では辛酉や甲子による改元は2月に行う)
だから朝廷側も1621年の場合、当初は改元するのが先例であること自体を
忘れていた可能性がある。
ただこれ以降は、辛酉年・甲子年における改元はその年の2月中に必ず
行われるようになっている。
また1860年に万延に改元した際には、
「翌年(1861年)が辛酉であり、当然改元が予定されているのに、わざわざ
その前年にも改元を行って、元号を頻繁に変えるのはよくない」
という理由で改元反対の意見が出ており、辛酉改元は江戸時代においても、
当たり前の認識であったことが分かる。
なお翌1861年には予定通り改元が行われて、万延から文久に変わっている。
>>58 「フィクションにもなるくらいの、よくある話であった」
他の説明はよく分かるけど、これじゃあイギリスの良く分からない場所に魔法学校があって十万馬力のロボットが地球を救ったりしても、おかしくないな。
63 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 12:38:10
55です。
みなさん、詳しい説明ありがとうございます。
臣籍降下というのは、自分からやるものなのですか?
周りの圧力などで半強制的なものだと思っていました。(私の勝手な思い込みです)
広辞苑では
本人の意思に基づく場合と、婚姻・婚姻解消による場合とに限る。
とありますが、そもそも書き出しが“明治憲法下で”となってます・・??
>>63 皇族と一くくりにいいますが、彼らは天皇や天皇家の輔弼(アシスト)、バックアップスタッフに過ぎません。
ですから世代を経ると、常に天皇と親密な位置にいない限りスタッフの輪に加われません。
あなたでもそうでしょうが、ふた従兄弟より遠い親戚など名前すら覚えられないでしょう。
次第に、お互いがお互いを必要としなくなるのです。
前にも述べましたが、そんな人々も皇族待遇になどすると朝廷の財政を圧迫します。
ですから、古代より世代を経ると皇族は自動的に身分を失うことになっているのです。
臣籍降下は、もともと懲戒のための制度ではないのです。
そもそも成人したら自分の人生は自分で選ばなくてはなりません。ですから本人の意思が尊重されます。
早めに離脱して独立自活するか、期限いっぱいまで会社の創業者一族に残るかというだけのことです。
そもそも、残るにしても、政争を勝ち抜かなければなりません。
藤原氏のように天皇家にベッタリしているところに食い込むのは容易なことではないですし、
食い込みに成功するには他を圧倒する財力や軍事力が必要になります。
一介の皇子というだけで、それはできることなのでしょうか。
65 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 15:19:19
66 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 15:32:10
65さん
ごめんなさい。
臣籍降下の意味が分からなくて広辞苑を引いたらこう書かれてあったので・・・
ごちゃごちゃになってしまいました。
私の頭の中も。
67 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 15:40:36
あ、64さん。
天皇のアシスト、バックアップに過ぎないんですね!!(・∀・)
なるほど。そう考えるとピンときました。
「僕は天皇から遠い位置だし、スタッフの輪には入れないし、このまま皇族でいると朝廷のお金も大変だ・・・」
っていうような感じで降りていったのでしょうか?
それに例えば葛原親王の場合は
平氏のグループだと一番偉くなれますし(?)ね
なんだか頭がすっきりしました。ありがとうございました。
学校のアクティビティの新聞作り中だったんです。
がんばります。みなさんありがとうございました(・∀・)
68 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 16:30:59
ネタレスを要求してるのなら、それ用のスレがあるぞ。
>>67 >>64はあくまで一般論ですよ。
具体的に葛原親王の話に戻しますが、彼は桓武天皇の皇子で平城・嵯峨天皇の兄弟です。
遠い親戚のわけが無い。ただ、正妻の子ではないので天皇になれるかどうかは疑わしかったでしょう。
しかし若い頃から聡明で奢ることなく人望が厚い。事実、最終的には一品太宰帥という
天皇になれなかった兄弟の中では最高位といってよい地位に就きました。
だから正妻の閥(藤原式家)の対抗勢力から担がれる可能性はおおいにあったわけですが、
勝てるかどうかは別の話。まあ争いに首を突っ込まなければ朝廷内でも生きていけたでしょう。
それよりも問題は、子供たちです。
子供以降は王。王には従五位下の位とサラリーがあったのですが、朝廷には、
位階はともかくサラリーを払う余裕はなくなりつつありました。位階だって、与えたら
サラリーも払わなくてはならないのでさらに大変。次第に無位無官のままでいる王も出てきました。
つまり、王のままであったら尻すぼみになるだけだったのです。
しかも代を経るとどうせ臣下に降りなくてはならない。
ならばいっそのことさっさと臣下に降りて受領をもらい国司として生きていったほうがよかったのです。
天長二年、葛原親王は「臣之男女一皆被賜姓平朝臣」(日本記略)と、自分の息子娘たち
全員に平朝臣の姓を賜って(臣下にして)下さい…と上表しています。
これは平姓を願った例としては最初なのだそうです。
朝廷と子孫の将来を見越した賢明な決断だったと思われます。
70 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 18:20:55
でも皇族への賜姓としては、平姓より源姓のほうが格上だったみたいだよね。
71 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 19:13:04
源姓は天皇の子、平姓は孫以降って原則だったからじゃね?
72 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 20:18:22
73 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 21:54:06
日本史上では源平合戦・大阪の陣・戊辰戦争といった日本人同士の戦いが多く存在しますよね??
日本人同士の戦い・戦争の際に虐殺や強姦、略奪といった事件は発生したのでしょうか??
74 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 21:57:30
マルチになってしまいますが、御了承ください
井伊直弼、勝海舟、西郷隆盛、坂本竜馬
これらの偉人達の政策(活動)をそれぞれわかりやすく教えてくれませんか?
調べようにもパソコンはありませんし
携帯で調べてもよくわからないので・・
是非よろしくお願いします
>>74 マルチした場合、片方のスレで回答をもらってもう解決したとしても、
別のスレではその質問は生きているんだよ。
それでお前がスレを見なくなっても、無駄な作業とも知らずに
誰かが真面目に調べたりして回答してくれるかもしれないだろ。
だから別スレで同じ質問するときは最初のスレでその旨断ってから来るのがマナー。
元スレかこのスレか、どっちか質問を取り消してから出直しな。
76 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 23:38:24
>>75 すいませんでした。
では引き続き向こうで聞いて見ます
ありがとうございました
77 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 01:00:23
78 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 01:58:03
>>75 わかる奴が答えてやればいいだろ
お前らバーチャルの世界で、礼儀があーだこーだ言ってるが
現実世界できちんと社会生活送ってるのか?
79 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 03:25:26
>>72 清和源氏と陽成源氏に関しては、本来的にはこの系統が皇室の嫡流だったのに、
光孝天皇以降、嫡流から外れてしまった経緯があるため、後ろめたさから
賜姓は全て源姓となった。
>>78 普通マルチには「マルチ死ね」とか
ネタとか放置で済ますのが一般的だろ。
ちゃんと教えてやるのはかなり親切だと思うが?
話をぶり返してしまうようでスマン.
平氏賜姓は,どこに記載されている? 日本後紀では源氏賜姓は
あったが,平氏は記載されていなかったように感じたのだが...
上の質問,
>>69に書いてあったな(日本記略).
1人ボケツッコミしてすまない.
平氏賜姓の記事を後紀で確認.でも許可されなかったんだなww
ものすごく初心者で申し訳ありませんが、質問させていただきます。
私は40才なのですが、子どもの頃、
弥生→大和→奈良と時代を習いました。
昨日娘の4谷大塚のテキストを見たら、
弥生→古墳→飛鳥→奈良
となっていました。
いつごろから、どんな理由があって大和時代を教えなくなったのでしょうか?
大和時代を教えなくなったというか、
見ての通り古墳時代と飛鳥時代に分割されたわけですが。
まず4〜5世紀くらい(最近だと古墳時代は3世紀からとされますが)には、
ヤマト政権はまだこの段階では全国を支配していたとは言い難かったので、
ヤマト政権に代表させるのはおかしい。むしろ各地に古墳が多く作られた時代という方が
実態に合っている、というのが理由かと思います。
6世紀のどこか(磐井の反乱?)あたりからを飛鳥時代としていると思いますが、
こちらは政権の中心地ですね。
40歳だと多分大和朝廷と習ったと思いますが、最近ではこの言い方をあまりしません。
ヤマトという音に大和という字を当てたのはもっと後の時代だろう
というのがカタカナになった理由。
朝廷[君主が政治を執るところ:goo辞書より]と呼ばなくなった理由は、
まだそれほど政治の組織等が整っていなかったと思われるためです。
教科書に変化があったのは1990-2000年代ですかね。
86 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 02:45:18
>>85 5世紀段階なら既に全国政権と見て問題ないだろ。
稲荷山古墳や江田船山古墳の話も5世紀。
87 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 03:24:37
飛鳥時代の開始点って、聖徳太子からじゃないの?
88 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 16:30:08
>>61 じゃあ1561年と1564年に改元がなかったのはどうして?
89 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 17:46:06
>>84 手元の'97版『詳説 日本史研究』(山川出版社)の巻末年表では弥生→大和→奈良となってました。
本文のほうを確認してみると、文化史の区分で3C末〜7Cの古墳によって特色づけられる時代を古墳時代と呼び、聖徳太子の時代を中心とする約1世紀を飛鳥時代と呼んでいます。
しかし、私が高校で習ってた15年前は大和時代ではなく古墳時代と飛鳥時代だったように思います。
教科書による違いなのか、それとも大和時代から古墳・飛鳥時代への過渡期だったのかは定かではありませんね。
90 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 18:09:05
政治史で区切るか文化史で区切るかでしょ?
あと飛鳥時代といった場合に、白鳳時代を含むのかどうかでも、分かれる。
91 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 19:52:25
白鳳=白雉
朱雀=朱鳥
って本当?
92 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 20:41:35
日本史版かどうか微妙なんですが
学校の教科書に載ってるような古文の文章(枕草子とか)は
ひらがな、漢字がいりまじってますが、実際の元の文章はどうだったのでしょうか?
元の文章を読み下しにした部分などはあるのでしょうか?
93 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 23:25:56
元の文章はもっと仮名だらけだろう。
94 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 00:47:44
元が漢文なのかどうかは見れば分かる。
95 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 12:00:34
法界時阿弥陀如来像の画像をください
96 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 17:51:06
明応の政変
永正の政変
享禄の政変
永禄の政変
について詳しく教えて下さい。
97 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 20:56:49
98 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 22:23:31
99 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 23:37:57
現地へ行って見てくれば?
100 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 23:40:15
本当に行く馬鹿がいるとは思えんが。
101 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 01:49:35
102 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 13:43:05
明治初期、士族の不満を外国へ向けるため大久保、西郷らによって提唱された「征韓論」
いうまでもなく朝鮮を支配することだと思うんだけど、これって当時から「征韓論」と
呼ばれていたみたいです。
当時の朝鮮は李朝だったのに!これっておかしくないですか?大韓帝国の成立はもっと後ですよね?
103 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 14:49:36
昔から日本は朝鮮を韓国(カラクニ)って呼んでたから。
中国王朝が宋でも明でも清でも
唐土(モロコシ)と呼んでたのと一緒。
104 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 16:40:15
子供の頃に読んだ本では、米価換算で1両=4万円とあったのだが、
その後、読んだ本では7〜8万円とか10万円とかあった。
最近では「武士の家計簿」の磯田道史が、大工の賃金との比較で
1両=30万円とか言ってたが、どれが妥当な数字なんだ?
1両に含まれる金の量が江戸初期と幕末ではかなり違うのでなんともいえん
が、米換算だと初期で4万、幕末で4千円くらいらしいよ。
かなり変動が大きく大工の日当なんかは銀で計算されてたらしく金-銀の
交換レートも変動してたようだからなんともいえない。
むかしから相撲とりの位が十両で一応一人前だったみたいだから1両10万
くらいが感覚としてはあっているかも。米は今より感覚的には割安じゃないかな。
追加
1年間の年俸が10両だったから十両というらしいよ。
>106
じゃあ100万盗ったら首が飛ぶわけだ。
落語で集金した50両なくしちゃった話なんかがでてくるね。
現代の感覚でいくと丁稚レベルが集金してくる金ってまあ100万円くらいが
限度だと思うけど1両数万ってところなんだろうね。
109 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:42:48
>>105 小川恭一によると、一両五万円から十万円。
ただ、近世と現代は違う社会なので、
比較すること自体無意味だとか。
日銀の資料館では一両三十万円くらいで計算していたと思う。
まあ確かに北朝鮮での1万円と日本での1万円じゃ全然ちがうしね。
>>108 文七元結でつね
111 :
\:2007/08/17(金) 21:21:42
徳川家康が今川の人質になっているときに
粗略に扱われて、三河は過酷な収奪を受けたという
話がありますが、これって徳川側の史書による情報ですよね。
これを今川側から裏付ける資料はありますか。
常識的に考えて、対織田の第一線に立つ松平家と三河を
それほど粗略に扱ったとは思えないのですが。
>>104 まぁ上でも出てるけど、社会制度があまりに異なるので比較はかなり無意味。
(余談だが、近代以降だと”ヒラ警察官の初任給”がよく比較に使われる)
まぁそれを前提にした上で、元禄くらいだと。
・1両で米が1石2斗(216kg)買えたらしい。米10kg=5000円としたら約11万。
・蕎麦1杯が16文だったらしい。蕎麦1杯を400〜500円として10〜12.5万
大工の賃金で比較すると20万超とかなってくるのも本当だけど、
物価として分かりやすいものを持ち出すとそのあたりだろうか。
(ところで、以前世界史板の方で物価の話題になった時、”売春婦の値段”なら
時代を超えての比較に使えないかという話題になったことがあるが…どうなんだろうw)
113 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 01:45:05
>>111 >話がありますが、これって徳川側の史書による情報ですよね。
近世に江戸幕府によってどの程度操作されている話なのかどうかは別にしても、
その種の話の殆どは後世の与太話と見たほうがよい。
一次史料には、どういう処遇を受けていたかを示すものがそもそもない。
ただ今川一族の女性を家康に嫁がせていることは史実であるから、今川氏の
一門に準ずるような待遇であった可能性を推測させる余地はある。
114 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 01:56:19
えなりかずきが旅旅ショーで坂上田村麻呂が低く可愛らしい人といってたが
坂上田村麻呂の伝記を読むと身長五尺八寸約175cmで大男なんだが
えなりの話ってなんか出典あるのかしら
115 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 02:30:23
えなりって、院に進むつもりなの?
116 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 10:02:28
江成?
117 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 11:19:26
大名の平均石高っていくつくらいでしょうか・・・
>>112 売春婦の値段は指標にはならないでしょうね。
現代においても対価は様々です。
ましてや中世・古代では…
119 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 19:27:54
>>118 売春婦といっても、どの程度のものまで含むのかによってパラメーターが変わってくると思う。
日本史でいうなら白拍子みたいなのは含むのかどうかとか。
120 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 19:30:07
>>117 俗に300諸侯なんていわれる近世大名の大半は、石高5万石以下。
よって石高平均もさほど高くない。
121 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 20:15:19
>>114 平安時代の1尺って現在の1尺と違うのかもよ。
122 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 21:04:08
123 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 21:04:45
維新当時、約270家あった大名家のうち、約半数は2万石以下。
124 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 21:26:53
大宝律令について100字程度で述べよ。←上手い模範解答お願いします。
宿題は自分でやれ
126 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 22:31:05
オレは普段,理系で巣食っているが,盆が過ぎた辺りになると
毎年,宿題の回答を頼む連中が増えるよなww
ねらーに聞かんでも,ググればすぐ出てくるのに...
まあ馬鹿はすぐ人に頼ろうとするしな。
テンプレに宿題関係はダメって入れたとしてもそもそも見ないしな。
129 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 02:07:45
宿題とか言ってるのは、多分釣り。
夏休みの宿題に日本史の宿題なんてないよ。
>>129 漏れの出た中学では出たぞ。
自由課題でレポート10枚以内とか。
親のワープロ借りてやったから良く覚えている。
131 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 08:47:54
不識院殿真光謙信 これ何て読むの?
132 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 20:00:09
何で古墳は流行したんだ?
権力の見せつけ?中国のマネ?
偉い人、教えてくれ
前方後円墳は地球の鍵です
日ソ共同宣言で、とりあえず歯舞諸島と色丹島は日本のものだとソ連も認めたんですよね?
なんでいまだに帰ってこないんですか?
137 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 13:42:15
前方後円墳って、どうして前が
ほうけいなんですか?
>>135 四島一括で返せ、じゃないとダメって言ってるから。
140 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 23:08:14
じゃあ本当は前円後方墳?
まぁアレのどっちが前でどっちが後ろなんて、言い出した者勝ちじゃないか
142 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 02:49:12
で、前が包茎ってことに決まったの?
143 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 23:22:57
144 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 08:47:16
>>130 10枚って少なくないか?
50枚くらい(最低30枚)とかが普通じゃね?
146 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 21:13:01
>>145 小学生だと厳しいが、中学なら普通だろ。
中学で50枚もレポート出すわけないだろうが。
俺が中学生だったら、レポート50枚なんて宿題だされたらクラスみんなでサボる
>>146は原稿用紙とレポート用紙を間違えていると思われ
レポート用紙にしたってそんな量だけを求める課題が中学生であるわけない
高校だってないだろうよ
151 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 09:53:46
>>150 私立の中高一貫校とかには普通にある。
中高一貫の場合、高校受験がない分、中学段階では時間的に余裕があるから、
日本史に限らずいろいろな科目で長大なレポートを課しているようなケースも
まま散見される。
またこういう学校の場合、生徒の側でもそれだけのモノを課されても対応できる
頭があるしね。
>>150 レポート用紙のほうが字数多いぞ。原稿用紙50枚なら普通の量じゃね?
>>151 漏れも私立中高一貫だったが中学はレポート用紙10枚程度
高校20枚程度だったな。40枚程度も1回だけ出たな。
「時代背景を考慮して旅行記を作れ」だったから本丸写しも出来ず、
かなり苦労した。
153 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 15:53:43
ここは2chだぞ。
基本的に宿題を口実に質問してるヤツは釣り師、ネタ師と考えるのが普通。
154 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 21:38:43
>>152 俺のところも中1から高1まで長大レーポートを毎学期課されていた。
さすがに高2・高3は大学受験を考慮して免除だったが。
155 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 00:24:18
157 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 10:41:04
158 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 15:09:49
江戸時代って罪を犯すと一画分入れ墨をされると聞いたけど本当ですか?
4回目で「犬」になるとも聞きましたが。
地方によってはそういうところもある。
確か「犬」になるのは筑前だったと思う。
>>158 _____
/、 一 ヽ
/ ● ● |
@ つ )
、 ー 」
_____
/、 ナ ヽ
/ ● ● |
@ つ )
、 ー 」
_____
/、 大 ヽ
/ ● ● |
@ つ )
、 ー 」
∩___∩
| ノ 犬 ヽ
/ ● ● |
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
161 :
158:2007/08/24(金) 17:15:39
162 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 23:30:48
戦後レジームからの脱却とはどういう意味ですか?
戦後体制からの脱却
164 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 01:33:03
近代史板へ池
163
さんきゅ
166 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 20:13:28
>>158 焼印を入れるっていうのは日本にはなかったっけ?
167 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 21:40:00
薬師寺金堂薬師如来像の正面からの画像どなたか持ってませんか?
168 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 21:58:26
側面図ならありますよ
入りますか?
明日から海外行くので返事早めによろです
169 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 01:28:19
今の日本はお金の制度はなんていいますか?
金本位制ではなくなんですか?
170 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 02:29:53
>>169 日本は黄金の国とかつて言われていた程なので、現在でも
金本位制です。
171 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 03:14:27
↑お答えくださってありがとうございます
172 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 08:48:42
日本大陸は 移動でハワイのとなりからここまで来たのは事実です
そして牛が黒牛になりました、茶色の朝鮮牛は大陸で育ちました、白い牛は太陽のあたらない日陰の国の
173 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 10:06:00
175 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 11:14:03
ちょ!嘘だったんですか?
本当の事知りたいです
176 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 13:01:06
あんま経済には詳しくないんだけど、金本位制って、一定量の金と等価交換出来る紙幣(兌換紙幣)を発行するんじゃなかったっけ
だから、金の保有量以上の紙幣を発行出来なかった気がする。
現在は不換紙幣紙幣で、金の値段も相場変動するし、紙幣を大量発行すればインフレになり、紙幣の流通量を減らせばデフレになる。
あと、江戸時代の大坂辺り(西日本)は銀本位制で、江戸辺り(東日本)は金本位制だった。
長崎貿易でも銀で決算されてたりして、金と銀の両替商が発展したりしてた。
177 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 13:07:06
>>176 あーたね、個々で尤もらしいこと書いているけど、矛盾してるよ。
>金本位制って、一定量の金と等価交換出来る紙幣(兌換紙幣)を発行
そうですよ。なのに、どうして
>江戸時代の大坂辺り(西日本)は銀本位制で、江戸辺り(東日本)は金本位制だった
になるの?
江戸時代、大坂では銀と交換できる兌換紙幣や江戸では金と交換できる兌換紙幣があったんかいな?
他人に教える際は、整合性を考えてちょ。でないと新たな疑問が出てきてしまうよ。
178 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 13:46:57
【金本位制度】
金を価値尺度とし、一定重量の金を価格の度量標準とする貨幣制度。
狭義には金貨本位制度をさし、広義には金核本位制度を含める。
(大辞泉)
江戸時代の説明は金貨本位制度と銀貨本位制度の並立のこと、兌換紙幣の説明は金核本位制度のこと。
まぁ、経済には疎いのでこの辺で勘弁してくれ。
友達と風林火山を見ていて、信濃の小笠原が京に逃げ込んだところで、
「武田が小笠原を抱き込むことに成功していたら、上杉と武田の戦は起こらなかったのでは?」
という話になりました。
武田が謙信好みの「正義」「忠義」っぽい行動をとってたら、両者が手を取り合うこともありえたのでしょうか?
181 :
日本@名無史さん:2007/08/27(月) 08:16:55
>>179 小笠原を抱き込むこと自体が無理だろう。
>>181 ですよね…
ただ、風林火山を見た限りだと、あの時代の人間は「家」がかなり重要だったりするっぽいので、
実験は与えないまでも「あなたが信濃のトップですよ」という扱いをしてやれば、小笠原も満足するかな?
と思いまして。
>>179 両雄並び立たずで無理でしょう。
性格も違うしかならず衝突するでしょうな。
184 :
日本@名無史さん:2007/08/27(月) 10:53:43
大正13年(1924)3月24日の博忠王の薨去による華頂宮の断絶後から、昭和22年(1947)10月14日の
旧皇族11宮家の皇籍離脱までの11宮家の継承順位について、上から順に
(1)伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮、閑院宮、(東伏見宮)
となっているものと
(2)山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、北白川宮、伏見宮、閑院宮、(東伏見宮)
となっているものがあります。
旧皇室典範時代は庶子が認められていたので、嫡子を先に庶子を後に、そして長を先に幼を後に継承順位
をつけると(1)のようになるが、昭和22年5月3日施行の現皇室典範では庶子は認められていません。
そこで現典範施行後に誕生した庶子は皇族の身分とならないが、旧典範時代に誕生した庶子およびその男系子孫については
これを嫡子とみなしたという話を聞いたことがあります。
そうすると昭和22年5月3日から同年10月13日(皇籍離脱の前日)までの11宮家の継承順位は(2)のようになるのですが
この話は本当なのでしょうか。
また(1)についても、邦家親王の王子で嫡子は貞教親王だけで他は庶子のようですが、貞教親王の後を承けた弟の
貞愛親王が嫡子ということでないと(1)のようにならないと思うのです(貞愛親王には庶出の兄が多かったので)。
貞教親王の生母は邦家親王の正室の鷹司景子ですが、天保7年(1836)生まれの貞教親王と安政5年(1858)生まれの
貞愛親王が同母の兄弟とは考えにくいです。
以前から気になっていたことで、文献を調べてもどうしても分かりませんでした。
よろしくおねがいします。
>>184 幕末以降がメインの話題のようだから近代史板へどうぞ。
186 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 01:28:38
>>182 いずれにしても、小笠原を武田の影響下におくことは難しいだろう。
一国人領主クラスならともかく、一国の守護クラスの大名である小笠原を、
同様に一国の守護クラスの立場に過ぎない武田が取り込んで影響下におくと
いうのは、かなり無理がある。
187 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 10:51:08
まあ国内の支配体制という点では、一国を完全に統一して戦国大名に
脱皮している武田と、名ばかりの信濃守護で筑摩郡周辺しか実質的に
支配できていない小笠原では、性格が大きく異なる。
しかし外向けにはどちらも同じ一国の守護だから、小笠原側では
「自分は武田と同格」と思っているだろうし、また甲斐や信濃の周辺勢力や
中央の幕府・朝廷なんかも、武田と小笠原は同格の家柄と見ているだろうからな。
賎ヶ岳の戦い以降の柴田家の一族はどうなったか知ってる方いますか?佐久間氏を除いて。
189 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 21:01:37
>>188 勝豊は秀吉方に寝返ったんじゃなかったっけ?
190 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:24:21
>>3 『古事類苑』の「年号」のところを見る限りだと、「将軍代始」が改元の理由に
入っているのは、家綱のときの承応改元だけだな。
>>188 勝豊は秀吉に寝返ったが、天正11年のうちに亡くなったはず。
勝家の実子というのがいたらしいが、処刑される。
勝政は、生き延びたとも、賤ヶ岳で戦死したともいい、よくわからん。
ただ、この勝政の子孫が江戸時代に旗本になっているらしい。
>>189 >>191 レスありがとうございます
勝豊が裏切ってすぐに死んだのは知っていたのですが、他の柴田一族がどうなったかわからなかったので。
なんで裏切ると早死にするんでしょうね。 小早川秀秋とか。
>>192 裏切っって死んだやつが印象に残るだけじゃない?
前田家なんて今も続いてるわけだし。
>>188 勝義┬女┬勝政
│ └勝之
├女─勝豊
├男─勝春─五右衛門(断絶)
├勝家┐→勝政┬a1勝重┬a2勝興─a3勝門┬a4勝富─a5勝定┬a6勝昿─a7勝満
│ │→勝豊└勝次 │ │ └勝彭─勝峯…
│ │→勝敏 │ └勝豊─a8勝房─a9勝延…
│ │→勝之 ├b1勝平─b2勝顕→b3勝陳─b4勝敬┬b5勝成
│ ├勝里 │ └b6勝清=b7勝直…
│ ├勝忠 └c1勝昌→c2勝智─c3勝惟─c4勝寿…
│ └→女─高城胤重…
└女─勝敏
勝政は佐久間盛次の3男
勝之は佐久間盛次の4男
勝豊は吉田次兵衛の子
b3勝陳は筑紫茂門の子
b7勝直は遠山景逵の子(b6勝清の婿養子)
c2勝智は近山安道の子
-----------
勝政の子勝重の血筋が柴田の家名を残した。
勝里・勝忠は勝家の庶子とも養子ともいわれているが、いづれも早死にしているようなので
どのみち勝家の血筋は残っていない。
養女(実は中村文荷斎女)は、旗本の高城胤則に嫁し胤重を生んだ。
胤重は縁を意識したのかしないのか、市の方の弟(織田信行)の曾孫を娶っている。
この子孫は男系が絶えながらもタラタラ続き、8代後の孫之丞で幕末に到った。
乙
>>194 うはw すごい詳しいw ありがとうございますm(_ _)m
>>196 >>194の系図に間違いがあるようなので、とりあえず訂正。
a4勝富┬a5勝定┬a6勝昿─a7勝満
│ └勝彭─勝峯…
└a8勝房─勝延─a9勝明─a10勝全…
a家は10代越前守勝全で幕末に到っているようです。
石高3200石、御書院御番頭、一橋家家老に就いています。
ある本によると、この旗本柴田氏は菅原氏を名乗っているようですね。
柴田氏は斯波氏族(もちろん清和源氏)だったようだし、
男系血縁の佐久間氏は桓武平氏三浦氏流といわれているのですが…ナゼ?
199 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 22:38:32
信長配下から始まる大名で菅原氏っていうとすぐ思いつくのは前田だね。
関連性は分からないが。
200 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 08:58:08
豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖の近辺ではやりだした
怪しげな宗教を答えなさい。
201 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 00:01:59
ええじゃないか
ウィリアム・アダムズとか、江戸の初期はイギリスと貿易をしていたわけですから
当然、日本人で英語を喋れた人が当時いたんですよね?
それとも幕末みたいに、オランダ語やポルトガル語を経由したとか?
203 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:29:24
アダムスが日本語を喋れたんだろ。
204 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:38:25
問題集などで、「防人は主に東国から集められた農民だった」とありますが、
確実な根拠となる資料ってありますか?
実際任務に就いている防人の何%が東国人で、何%が九州人、何%が中四国人とか。
万葉集の防人の歌とかではなく、現地や中央の役人の資料でちゃんと実態が
分かるようなものをさがしてます。
205 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 12:05:34
>>185 誘導ありがとう。
こちらの質問は撤回いたします。
近代史板で質問したいと思います。
206 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 12:08:29
最初から近代史板へ池よ。
秀吉の死後に石田三成の次男が秀頼の小姓をしていて
秀頼から豊臣姓を与えられたという説があるそうですが
その出典ってなにかわかりませんか?
208 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 12:45:59
日本語のしゃべりって、大昔と今のに違いはあるの。
仮にタイムマツンとかで大昔に行ったとして
書き方は漢文っぽいし、文字も違うから通じないだろうけど
しゃべりはどうなんだろ。
「○○ッスよ〜」とかそういうのは通じないとしてもな
210 :
祖先が武士?:2007/08/31(金) 23:49:43
江戸の人口は100万人もいたそうですが、そのうち「武士」は
どのくらいいたのでしょうか? wikiによると旗本5千人御家人1万2千人
とありますが、それ以外に。大名は元々そんなにいなかっただろうし。
あともうひとつ、大名>>旗本>御家人・・・というヒエラルキーがありましたが
御家人以下の武士の階級はどうなっていたのですか?
>>210 直参の場合、御家人以下の幕臣はない。
御家人といっても旗本も羨む様な暮らしぶりから、貧乏侍の代名詞たるサンピンまで様々だが。
それより下は中間(ちゅうげん)や岡っ引のような陪臣だが、これは士分ではない。
212 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 11:52:57
>>210 大名の家臣の江戸詰めの武士がどれくらいいたかとあと浪人がどれくらいいたかだね。
浪人はまあ武士とはいわんのだろうけど。
300諸侯(実質270くらい)で大名屋敷は600〜700あったそう。
大大名から小大名までいるのでわからんけど一つの屋敷に10人なら6000人くらい
50人なら30000人くらいってことになる。
ちなみに5万石の忠臣蔵の浅野家の江戸詰めはちょっと正確にはわからんけど
数十人はいたみたいだね。これから考えると数万はいたのかな。
あと正式な武士ではない足軽がいた。これは殿様が直接雇用しているのではなく
武士が個人的に雇った使用人みたいなものか。忠臣蔵の寺坂吉右衛門なんかが
これにあたるかな。
>>212 足軽は藩が雇うものだよ。
武士が個人的に雇った使用人、小物とか呼ばれる人達とは別
>>210 江戸総人口の大体50〜60%だったろうと言われている。
町人に対しては具体的に人口調査が行われ、江戸中期に50万、末期に60万人くらいだったそうな。
もちろん町奉行管轄区域内での話だが。
じゃあ武士も50〜60万人くらいなのかといわれたら、そうかもしれない。
旗本五千人…なんていうけど、これは実際に勤めている人たちのことであって、
隠居や子女、浪人、使用人、その隠居や子女まで全部含めてしまうと
やはり何十万人かになってしまうんじゃないかと思う。
216 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 12:48:59
217 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 18:51:25
>>216 スレ違い。近代史板へ池よ。
どうしてここで近代史ネタを聞くやつがあとを絶たないんだろう?
218 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 19:42:34
>>217 近代史板の知名度が低い(そもそも掲示板に近代史板への誘導もない)。だから、近代以後の歴史も日本史板で扱っていると思い込む奴が多い。
あと、鯖違いだが、戦国時代関係を戦国時代板や三戦板でなくてこっちの板で振っても板違いとかの非難を受けないことも意外と大きいかも。
219 :
218(参考までに):2007/09/01(土) 19:45:05
●板の主旨に合うスレッドをたてましょう。
ここは「学問・文系」の日本史板です。
時代劇の話題→時代劇板
戦国時代・武将をネタとして楽しむ→戦国英雄・三国志・戦国時代
固定ハンドル叩き→最悪板
その他掲示板一覧を見て、よく考えてからふさわしい板にスレッドを立てましょう。
外国に関する話題は世界史板 ハングル板 中国板 台湾板も参照して下さい。
――――
どこにも「近代以後の日本史」が日本近代板の管轄である事実は記されていない。
220 :
218:2007/09/01(土) 19:46:00
日本近代板×→日本近代史板○
221 :
216:2007/09/01(土) 19:58:19
すみませんでした、近代史板で聞いてきます。
でも、それならばスレ違いではなく板違いなのでは?
まあ別に良いですけど。
どなたかご教示下さい。
戦国末期、大名家の当主における官位の叙任とその譲与についてです。
正式に朝廷から叙任されるには口宣案が必要であり、
室町幕府が機能していた時代には武家執奏による取り次ぎが必要であったが、
応仁の乱以後は次第に朝廷への直奏が増え、
結果的に朝廷は官位授与を行う権威を回復すると共に高額の報酬を手にし得ることから、
例えば「左京大夫」などは大内義興、伊達殖宗、北条氏綱らに濫発されたとのことですが、
一度そうして莫大な礼銭を支払い、正式に朝廷から叙任された官位を、
出家・引退などに伴って嫡男に譲って名乗らせる際、
あらためて幕府・朝廷への奏上、認可に伴う何らかの手続きが必要なのでしょうか。
たとえば北条家ならば氏康-氏政-氏直、
大友家ならば義鎮-義統と左衛門督を代々継いでいますが、
その代替わりのたびに、何らかの許可を朝廷から得ているのですか。
それとも一度叙任された官位は、蔭位制からの名残りのような考え方で、
特に新たな許可は得ずとも父が子に譲ると宣言すればそれで済んだのでしょうか。
仮に朝廷への手続きが行われていたならば具体的にどういった史料が残っていますか。
224 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 00:11:20
寄新地系荘園がよくわからないんですけど、わかりやすく解説祖照るサイトとか知ってたら教えてもらえますか?
225 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 04:14:39
>>223 とりあえず史料集とかで口宣案の実物でも探してみたら?
あと伊達稙宗だな。
226 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 04:16:04
あと全く幕府を通さない例なんて、戦国期でもほとんどないんじゃないの?
まあ大内には微妙な事例があるとは聞くが。
>>223 お手軽なところで「戦国大名と天皇」今谷明 講談社学術文庫
伊達稙宗が任官したときの礼銭・礼物を記録した帳簿が伊達家に残っており、伊達家文書に収録されているそうです。
(文書名も参考文献のところに出ているけど書くのマンドクセ)
>それとも一度叙任された官位は、蔭位制からの名残りのような考え方で、
>特に新たな許可は得ずとも父が子に譲ると宣言すればそれで済んだのでしょうか。
正式な官名でそれはないでしょう。
将軍家の左馬頭や伝統的な守護大名出身者をみても勝手に名乗ってるかといえばそうでない。
先代の官位を勝手に継承できるのなら、家督争いで分裂したときに両者が同じ官位を名乗ったり
押し込めたり追放した先代の官位を取り上げたりするはず。(自分の正統性を主張するため)
そんな例は聞いたことがない。
228 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 15:55:13
寄新地系荘園がよくわからないんですけど、
わかりやすく解説されてるサイトとか知ってたら教えてもらえますか?
225-227
ありがとうございました。
自分でももう少し資料を探してみますね。
230 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 19:27:04
資料を探したいのか史料を探したいのかハッキリしる!
231 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 19:28:26
>>228 国会図書館の論文検索で「寄進地系荘園」と入れて検索。
232 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 01:34:08
>>227 >それとも一度叙任された官位は、蔭位制からの名残りのような考え方で、
>特に新たな許可は得ずとも父が子に譲ると宣言すればそれで済んだのでしょうか。
蔭位制って官位の世襲を認めるものだっけ?
だとすると特定の家系による官司請負なんかもこれに由来するの?
233 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 12:02:06
丹羽長秀は十五歳で小姓として信長に仕えた
と聞き及びますれど、その典拠とされる
文献と出典箇所を教えて頂き度う御座います。
よしなに頼み参らせまする。
234 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 15:24:55
丹羽長秀の名前って不思議だよな。信長と信秀から一字ずつなんて。
織田一族ってわけでもないのに。
235 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 15:44:11
>>208 話し方とか語彙の問題なんかを抜きにしても、音韻的な変化を考慮すると、
現代人が聞いて分かるのは江戸中期(18c)までだろう。
それ以前はたぶん無理。
236 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 15:49:04
>>210 大名と旗本は石高の多寡以外にはさほど大きな身分上の違いはない。
特に江戸初期の頃は、区別が曖昧。
当初は10万石以上を大名、未満を小名と呼んでいたものが、家光期くらいから
1万石で線引きして大名と旗本を分けるようになったと見られる。
参勤交代の制度化の際に、1万石以上の者に原則これを義務づけたことも
一因かもな。
237 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 15:56:24
>>218 >あと、鯖違いだが、戦国時代関係を戦国時代板や三戦板でなくてこっちの板で振っても板違いとかの非難を受けないことも意外と大きいかも。
学問としての日本史という観点から戦国期の事件・人物などを論ずるのであれば
ここの板で問題ナシ。
ただしネタやゲームキャラとして楽しむことが主目的なら板違い(→三戦板相応)。
238 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 18:20:44
>>235 でも江戸時代は方言バリバリで、聞いてわかる地域ってのもかなり限定的じゃないかなあ?(俺の推測ね)
東海地区在住のおいらは、熊本県の郡部行ったとき、現地人同士の会話はヒアリングできなかったし・・・
ちなみに、俺向けに話してくれるときは向こうが気を使ってくれて、聞き取れた。
240 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 21:51:17
>>235は方言のことを言ってるんじゃないだろう。
241 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 21:52:06
ハ行子音の音価が違うとかそういうレベルのもののことじゃねーの?
音韻的な変化って。
そう理解している。
初心者ですが幕末の長州藩内の動き
大体第一〜第二の長州征伐前後を知りたいのですがお勧めの本などありますか?
244 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 01:20:52
>>243 板違い。
幕末以降の日本史は日本近代史板へ。
245 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 14:13:40
246 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 17:09:47
この間、友人から織田信長は美男子だときき、ネットで調べてみると、
確かにそれらしい話は多数あるのですが、
具体的な出典とその記述部分が見当たりません。
なので、もしご存知の方がいらっしゃればお教えください。
日本近現代史なのか、わからないのですがここに書き込みます。
相当昔ですが、遺伝学で、ルイセンコ学説が持ち上げられましたけど、その後の総括はどうなっているのですか。
もちあげた人もいるんですよね。どうなったんでしょう。
板違いならその旨のご教示を。
>>246 ルイス=フロイスの「日本史」にあるはず。
250 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 02:22:22
>>247 板違い。
幕末以降の日本史に関する話なら日本近代史板へ、
遺伝学の学説の話をしたいのなら学問・理系のカテゴリーにある適切な板(生物板など)へ池。
>>249 回答ありがとうございます。
今は調べられないのですが、後で調べて確認してみます。
252 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 19:14:03
日本史板のすぐ下に日本近代史板があるのに、めくらな人が多いんでつね。
一般人は「歴史=日本史」であって、近代以降かどうかなんて気にしてないから
じゃないか?
日本近代史板なんて
厨の隔離板だからでしょ
255 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 20:48:52
>>253 「歴史=日本史」という認識が大半なら、
このスレには世界史ネタの板違い質問も大量に書き込まれなければならなくなる。
256 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 21:45:27
>>247は単純に誤爆じゃないの?近現代史板に書き込もうとした。
まあいずれにしても、歴史板できくのはおかしいなw
歴史的性質より生物学的性質が明らかにでかいのに
>>255 >>253の言いたい事わかるでしょ?w
よっぽど、読解力がないの?論点はそこじゃないだろうに。
それとも、つり?w
>>253は言いたい事を正確に言ってはいないだろうな
>>256 髷についてのお触れがどうなっているかは知らないが、
身分で違うのは、タボ(襟足の部分の形)のみだったと思う。町人は今のお相撲さんの
ようにふくらませるが、武士はひっつめに結う。町同心は中間だったようだ。
月代の形は、お城や役所に出仕する、ちゃんとした武士は、今のちゃんとした勤め人が
背広ネクタイ形式のように一定形式になっている。月形半平太や沖田総司がやって
いる月代を狭めた形は、正規の出仕役人でないんで変形だろう。自分の想像では
月代を広くするとマゲに行く髪が少なくなるんで量を稼いでいるんでは思う。
(本多髷というやたら月代の広い形もあった)
マゲも市中の医者は、茶筅が多かったようだ。また公家学者は月代をそらなかった。
(イクサに行かず兜もかぶらないから剃る必要がないという趣旨か)
月代の部分をタワシのように伸ばしているのは、浪人やなんかで「お勤め人」でない
んでズプラを決め込んでいるからだろう。旗本ヤッコといわれている不良武士は
ビンの部分をふくらませて威勢を張った。今の一部の若者がソリコミをするような
ものだろう。
説明が見つからないが、子供が前髪をつけるのはマゲを前に引っ張るためのようだ。
まだ毛が軟らかく前髪がないとマゲが後頭部へずり落ちる。この意味で元服して
前髪を落すのは、髪の毛も(多分体毛も)ちゃんと成長した証しと見れる。
>>256 大きい髷(TVなんかで柳生十兵衛がやっているような)や、長く髭を伸ばすのは、自分を大きく強くみせようという意識の現われで、
歌舞伎者なんかの行動と通じるものがある。
だから江戸初期のカブキ者なんかは出来るだけ奇抜で目立つ格好をしたりする。
風紀上よろしくないと幕府は考えた。
で、そういう戦国の遺風な格好は平和な時代なんでやめましょうということに。(正式な法として指示されたかって点は知りませんが)
ところがそういう意識を変えるのは難しい。
当時はヒゲがない=貧弱と見られるような感じだったので。(少し前の時代、髭が薄かった豊臣秀吉なんかはわざわざ付け髭をしたりしていた)
そこで老中の誰かがあえて髭を剃って見せて(登城した姿を見た大名たちが驚いたとか記録にあったような)
手本を示すことで髷も小さく、髭も小さかったり無くしたりという格好を皆がするようにになっていった。
261 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 11:36:12
10世紀に書かれた『和名類聚抄』や『延喜式』の郡名と
それよりも古い時代の『正税帳』などに書かれた郡名が異なるのは、
役道郡(『正税帳』) → 隠地郡(『和名類聚抄』『延喜式』)
以外に、何か在りますでしょうか?
262 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 11:42:05
>>261 【古代から】旧国名・旧郡名を語る【近代まで】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1152551031/l50 599 :日本@名無史さん:2007/09/04(火) 15:39:55
「摂津国八部郡」ってあったけど、「八部」ってのは、部落の数でも表してるの?
詳しく載ってる本とかないかな?
600 :日本@名無史さん:2007/09/04(火) 21:07:37
部民の関係じゃね?
あてずっぽうだけど
601 :日本@名無史さん:2007/09/05(水) 08:49:28
矢部かもしれない、矢を造っていました
602 :日本@名無史さん:2007/09/06(木) 04:51:59
八部(やたべ)郡は、「八田部郡」「矢田部郡」と書かれることもあった。
なお奈良時代にはこの地域は「雄伴郡」とされており、「八部郡」という名称の
初出は、平安初期の承和年間。
改称の理由は不明。
263 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:28:10
>>227 伊達家文書って、史料編纂所のデータベースで全部見れなかったっけ?
264 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:25:59
伊達のよみは正しくは「いだて」
265 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 01:30:26
ひと口に大名といっても上は100万石から下は1万石まで
旗本御家人も同様に上は5千石以上、下は200石前後までと
上下差は非常に大きかったわけなのだけど・・・・・・
・実際に、直参武士たちの石高って、活躍しだいで増えたのでしょうか?
・武士の家に子供が複数いた場合、長男は家をそのまま継承するとして
後の子供たちはどうなったのですか? 分家してそれなりの待遇を受けたのか
それとも何も貰えずに浪人になってしまったのか・・・
266 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 02:15:47
267 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 06:51:40
>>265 基本的に家禄百表以下から布衣以上に昇進で家禄が百俵に加増。
そこまで昇進しないと、元の職禄が家禄のまま。
御家人で抱席から譜代席になると、前の職禄を家禄にされたり、
前の職が与力のように結構もらってると、家禄百俵+差額足高
遠国奉行で二百俵、
町奉行・勘定奉行で五百石、御側衆で二千石に加増される。
265
>・実際に、直参武士たちの石高って、活躍しだいで増えたのでしょうか?
>・武士の家に子供が複数いた場合、長男は家をそのまま継承するとして
> 後の子供たちはどうなったのですか? 分家してそれなりの待遇を受けたのか
> それとも何も貰えずに浪人になってしまったのか・・・
活躍しだいでは変わる。将軍の側近なんかだと、一代で数百石から大名に出世したりする。
そこそこの出世だと家禄は変わらないで役職のランクだけ上がることも。
相続のとき、兄弟で分割するのか長男の総取りなのかもケースバイケース。
遺言で分割相続するときもあるし、幕府の意向で分割させることもある。
親父の功績や母親の血統がよいことを評価して次男以下を取り立てることもあるし、一種の懲罰(家の格を下げる)として分割相続させることもある。
有名な例だと柳生但馬守は旗本から大名に出世したが、亡くなった後分割相続したので長男十兵衛は旗本に逆戻り。
十兵衛が跡継ぎがいないままなくなったので弟がその分まで受け継いで大名に戻った。
>>265 下級の御家人の場合は、
・足高といって、家禄のほかに役料がつくことがある。
本来、幕府の役職には格があって、
「この役(たとえば奉行)につくのは何石とりの人」と
きまってるわけなんだが、それだと、人材抜擢の際に
家禄を引き上げねばならず、家禄を引き上げると
その子孫にずっと引き上げた禄をはらわなきゃならなくなる。
それを防ぐために、
「その役についているときだけ、その役に応じた禄を払う」という形になった。
当然、隠居とか降格されるともとの家禄にもどされちゃう。
・長男以外の子供は、よその家に養子にいかないかぎり、
一生、兄貴の厄介者、無駄飯くらいの居候くらしです。
一生嫁さんももらえませんし、父親が生きている間はともかく、
兄の代になって、そこに嫡男が生れちゃうと、もうご飯も部屋では食べられず、
台所で使用人と一緒に食べなきゃいけないくらいの扱いになります。
270 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 19:41:08
>>267-269 加増と足高の話が絡み合ってて265は理解できないと思う。
あと部屋住が悲惨なように書かれてるけど、山岡鉄舟や岩瀬忠震みたいに部屋住みのまま登用されることも結構ある。
271 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 07:21:54
足高の制度化は吉宗期以降?
源頼朝は近衛大将より自由度がより高い征夷大将軍就任を希望したらしいですが、
前者と後者では何が違うんでしょうか?
273 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 08:16:15
>>271 制度化されたのは吉宗のとき。
綱吉の頃に似たようなことを微禄のものに適用している。
足高は269で説明されたように家禄と職禄の差額を補填する制度ですが、
267で書かれた様に、高い役に着いた場合、家禄を加増する内規があった。
(布衣以上に昇進で家禄百俵に加増以外は幕末に廃止)
毛利氏が官位を貰う時は、朝廷の文書には、
『大江輝元』等のように記載されていたのでしょうか?
御意
276 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 08:55:54
>>272 近衛大将には皇居の警備や天皇の身辺警護に直接的に関わる場合しか
軍事的な権限を行使できないが、
征夷大将軍の場合は、朝廷に敵対しない限り、天皇のいる京都から離れた地域で
かなり自由に軍事活動を行うことができる。
>>272 >>276 別に頼朝は、征夷大将軍就任を近衛右大将より望んだってことはないんじゃないの?
征夷大将軍のほうが、役職のランク的にはずっと下だし、頼朝が望んでいたのなら先に任官しているでしょう。
奥州征伐の前に就任していればかなりの宣伝効果になるだろうし。
先例として木曾義仲が任官しているから別に全国政権作ってなけりゃなれないってわけでもない。
頼朝は、官職について厳密に考えていて武士が名目だけの任官するのを嫌っていたという話がある。
義経や部下の武士が勝手に任官したといって起こったのもそういう面があったらしい。
例えば義経が検非違使になっているけど、頼朝の考えだと京都の治安を司る役目の人間を京都から離れた場所で働かせるわけにいかない
よって平家討伐の指揮官にすることが出来なくなって腹を立てたと。
実際、自分が大納言や近衛右大将になったときも上洛したあとで任官して、鎌倉に帰る前に辞任している。
278 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 21:15:46
>>274 実際に大内義隆が毛利元就の官位を推挙した際に「大江某」と書かれた記録が現存している筈。
>>277 >頼朝は、官職について厳密に考えていて武士が名目だけの任官するのを嫌っていたという話がある。
要はここにあったのかもしれない。
後世では考えられないくらい朝廷の権限が強かった時代だし、相手はあの政治怪物・後白河法皇。
「名目だけの任官」という訳にはいかない時代でもあるんだよね。
ましてや、頼朝たちは決して立場の強い人ではなかった。
もし言われるがままに任官を受けていたら、結局は平清盛のようなカタチで生きていくほかはない。
運命は朝廷の思惑次第。武田や三浦などに追討令が出れば、今度は頼朝たちが討伐されるだけ。
奥州合戦でも「(奥州討伐の)勅許はないけど、御家人はついて来てくれるだろうか…」というのも当然だろうね。
ところで、義仲は法皇を幽閉して無理矢理征夷大将軍に任じさせている。
あの時はとにかく頼朝に勝たないと立場が危うかったこともあるけれど、義仲が征夷大将軍を何故
望んだのかよくわからない。東国に対しフリーハンドで(=勅許なしに無制限)戦えると思ったからかな。
最終的に頼朝が征夷大将軍を望んだのは、案外、義仲から学んだのかもしれないね。
280 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 22:51:37
早馬について
鎌倉時代から戦国時代あたりで、道中山賊や敵に襲われることはなかったのか?
281 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 02:04:57
>>279 >相手はあの政治怪物・後白河法皇。
後白河って実の父親(鳥羽法皇)から「帝の器にあらず」といわれるほどの
稀代のアホ天子だったって聞くけど。
それに後白河って政治的な関心が薄く、遊ぶことしか考えてなかったらしいから
息子である二条天皇からも周りの公卿達からも、バカにされていたのが
真相なんじゃないの?
282 :
日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:49:03
夏休みに伊勢神宮にいって感激して色々な本を読み漁ってるんですが、
持統天皇以降、伊勢に参詣したのは天皇は明治帝だけという記述を目にしました。
理由についてはどのようなことがいわれているのでしょうか?
学説的なものからトンデモまでご存知の方教えてください。
金が無いから
284 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 07:59:39
結婚式で花婿の父と花嫁がセクースする奇習?
というのが,昔,東北のある地方にあったらしいけど,
今はどうなってるの?
286 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:16:48
>>281 むしろ後白河はいろいろな政治的事件に遭遇する中で一皮向けた気がする。
さすがの鳥羽法皇もこの展開は予想つかなかったのでは?
徳川将軍家の味噌汁は
赤か白かどっちなのだろう?
家康、秀忠まではたぶん八丁味噌だったと思う。(わからないけど)
家光以降はどうなのだろう。
はたまた吉宗でどうなったのか?
御三家の尾張藩主はたぶん代々赤味噌と思うが
紀伊、水戸はどうだったのだろうか?
江戸に参勤交代の際はどうなのかも気になる。
もっというと江戸時代の大名の四分の1は尾張三河の出身。
彼らは赤味噌だったのか?
代が変わるうちに現地の味噌に染まっていったのか?
気になる・・・
288 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:04:26
>>280 早馬について
>>鎌倉時代から戦国時代あたりで、道中山賊や敵に襲われることはなかったのか?
敵なら普通に早馬を捕らえるよ。
城を包囲したら、間道や関所で伝令が相手の支城に連絡しないように遮断する。
早馬を捕らえたら、持っている書状や情報を拷問で吐かせる。
289 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 02:21:46
>>287 それ大問題だよ。気になって眠れないw
八丁味噌の蔵を見に行ったことがあるけど、
昔は大量生産できなかったはず。
ということは、将軍・大名とはいえ色々な蔵の味噌を
あわせて使っていたのではないだろうか。
なんの裏付けもありませんが。
樽の廃材で割り箸を作っていたらしいから、樽がたくさん江戸に入っていたんじゃ
なかろうか。空樽を使いまわすのもあったんだろうが。
味噌、醤油、酒などごとに樽の材料が分かると面白い。
292 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 10:43:28
手前味噌だた
294 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 19:10:52
藩士と旗本の家臣と地下官人と公家侍と寺侍と、どれが一番ラクな勤務ですか?
仕えてる主によるだろ。
そんなの今の会社勤めとかわらんよ。野心だけはある無能な上司に
仕えたら悲惨だわな。
一流企業の傍流の部署(資料化とか)なんて楽だしね。
尾張徳川家の朝日重章は1週間に1日ぐらいの勤務だったんじゃないかなあ。
備後に畳表買い付けにいって接待されたりとかけっこうのんびりしつつ甘い汁も吸っていい身分だと思って
鸚鵡籠中記読んだ記憶がある。
297 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 21:05:55
>>288 ありがとうございます。NHKのその時歴史が動いたや書籍をみると
重要な密書が確実に届いていることが多いので。毛利宛の信長死去の密書が間違って
秀吉に届いたのは飛脚の勘違いによるミスだが。
今、「戦国のコミュニケーション 情報と通信」を読んで勉強中です。
私の曽祖父が、祖先について書いた文章が出てきたのですが
歴史に疎いせいで土地や年代を特定することができません。
キーワードになりそうな語句を片っ端からググって見たりもしたのですが
全然繋がらなくて・・・
このようなことに関して、アドバイスがいただけるスレなどはありませんか?
299 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:07:29
>>294 藩士って、ちょっとしたことですぐ切腹させられる印象があるな。
ちょっとした過失や不正があれば、すぐ切腹させられてる。
寺侍は坊さんのホモの相手させられてるイメージがある。
やっぱり地下官人や公家侍あたりが狙い目か?
300 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:14:23
>>274 毛利輝元は『公卿補任』に「大江輝元」と書かれている。
>>299 身分的には天皇の直臣である地下官人が一番いいだろう。
身分と暮らし向きは違うから。
下級藩士と、上級家臣の重臣(大名からみたら陪臣)だと、後者のほうが贅沢な暮らしが出来たりとか。
どっちが偉いかは、けっこう揉めたみたいですが。
地下官人場合も、特殊な技能で金稼ぎができたり、官司の世襲化による特殊利権なんかを持ってるケースがあるから、
あるいは下級の堂上公家より裕福だったりすることも、普通にあり得るね。
303 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 02:48:47
>>298 全文うpすれば、ここの住人が考えてくれるかも。
305 :
匿名:2007/09/12(水) 10:48:06
例えば、『日本歴史』や『史学』などに収録している論文はどうやったら手に入りますか?
どなたか教えてください!
>>305 史学科のある大学の図書館に行ってコピーしてきたら?
307 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 16:14:06
>>305 大学図書館が使えない環境なら、国会図書館や大規模な公立図書館でもよい。
>>303 ありがとうございます、ちょっと書いてみます。
>>304 見てきました。これから書く文が、やっぱりそっち向きのようなら移動します。
どうもありがとうございます。
309 :
298:2007/09/12(水) 18:02:48
この文章は、私の母方の曽祖父(母の父の父)が昭和50年に書いたものを
私が書き写したものです。直筆なので読み間違えている字もあると思います。
曽祖父は明治25年生まれ。
○は読めなかった字。書き写しながら現代仮名遣いに直した部分があります。
『我が祖先の言い伝えを書き現す』
1
我が祖は慶長の昔、豊臣方に味方せる武士にて
大阪落城○(後?)比の地に来たり 法忍寺と呼ぶ
草庵に寄属せし藤田源入と言ふ
言小行脚僧○○(存了?)と言い伝えられている。
それよりしばらくの後 一族を残して当時の
無名城跡、現在「飛戸字」に移りもっぱら
無縁没者の供養につとめながら 子弟を集めて
寺子屋式の学問を教えたと言い伝えられている
310 :
298:2007/09/12(水) 18:03:36
2
飛戸字とは法忍よりこのトリデ跡に飛んだ
戸(ふりがな「イエ」)という意味で名付けられたと伝えられている。
法忍の藤屋とは父はお祭等には行きして
居たという又私も藤屋の分家藤原多吉さんの
住宅新築の時 屋根ワラを運んだこともある
(1行読めない 冠婚葬祭に行き来する付き合いがあった、みたいな内容)
自分の説明参考に
源入・畑には赤色の土器の破片があった
又、井戸の跡もあった この城址は平家の
トリデと思う それをカシラがざきは平家の城と
言い伝えられ又近くの祖利には
スイメンドーの馬乗り石 石ゴリンサンと呼ぶ仏像もある
源平時代のものと思われる。
311 :
298:2007/09/12(水) 18:05:46
3
又河戸の跨峠は平家の女が逃げる時
跨を落として居たからの名と言い伝えられ
久井には平家の局の墓があると聞く
五月二十八日の雨は平家の局虎御前様の
涙の雨と言われている
又城址には 今から七十年前に切られた桜の老樹も
関係があると思われる
飛戸が城には中央に小石の小山がある
牛馬を揚げるなと言い伝えられていた
この小石は敵を防ぐための石と思われる
又基※る畑からは人骨が出たと言う
(※くにがまえに貨 と書いてあるが写す時ミスったかも)
この小山からは一尾両頭の蛇を隣の
平木○(頁?)市と言う人は見たと言った
これは双子の奇形蛇で永生はできないので
不思議とは思わぬ
312 :
298:2007/09/12(水) 18:07:45
4
又、墓の前とか敵を食い止めるための
火の口 オシキメン デアイ キョーメン 等がある
お鉢川井戸は供養の水を汲んだ縁故の名前とゆはれる
又馬立て 木船 等もユカリがあると思われる
その後の家系
それより家号を藤田屋と呼び代々農業していたのである
常に人に敬われていたが曽祖父は幼少なる多惣兵衛を残して
早世せられたので曾祖母は不自由と苦難を続けられたのだと言う
祖父 多惣兵衛は生長につれ勤勉にして田畑も買い戻されたのである
祖母は
宇山の因幡より迎えられたのである
313 :
298:2007/09/12(水) 19:00:49
あと1ページあるけど、曽祖父親の兄弟の名前と死亡地、嫁ぎ先の地名、
曽祖父親の死亡年月日と兄弟の名前、死亡地などが書かれています。
長くなってすみません。
314 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 15:49:58
次の方、どうぞ!
315 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 18:12:20
>>309 いくつかの地名が広島県東広島河内町付近にあるけど、関係ある?
河戸(こうど),宇山,祖利(戸野地区)は現広島県東広島河内町
久井は三原市にある
カシラザキの城は頭崎城が東広島市高屋町にある
ただしこれは、豪族平賀氏による築城のはず
316 :
298:2007/09/13(木) 22:39:12
>>315 レスありがとうございます。
そういえば祖父母やその子供たちはみな
「祖先は広島からここへ移住してきた」と言っていました。
「広島から」の証拠が出て、私自身びっくりしてます。
カシラざき(昔はカシラガザキと呼んだのでしょうか)の城の部分は
もしかしたら私が写し間違えて平賀を平家と書いてしまったのかもしれません。
東広島河内町かぁ・・・そのあたりの歴史について調べてみますね!
317 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 23:08:33
関連のありそうな地でよかった
書いた後で「平家」はヒラガと読めるので間違ってはないと思いました
河内町(こうちちょう)はもと加茂郡で平成の大合併で東広島市になりました
図書館に行けば加茂郡河内町史があると思いますので読んでみて下さい
318 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 00:22:26
>>286 後白河自身に確固とした政治的な見識とか信念があるわけじゃないから、
次から次へと後白河の立場を利用しようという者が現れて政治が混乱。
後白河自身もそれに振り回されただけで終わった感じがする。
最後まで征夷大将軍に頼朝を任命しなかったあたりはなかなかかと。
>>319 流石に第二の朝日将軍を生みたくはなかったろう…
321 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 21:24:14
確かに政治的にどうこうよりも、朝日将軍のトラウマから生理的に受け付けなかっただけかもな。
後白河がそんな大局的な視野に立って考えていたとは思えないし。
322 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 00:23:47
名前に「内助」が挟まってるのは役職ですか?
323 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 01:43:40
>>322 名前に「内助」が挟まってるってのは、具体的にどういうことですか?
実例をお願いします。
山田内助太郎ってことじゃね?
325 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 06:36:47
なんだそれ?
326 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 08:48:48
>>321 いや、奥州藤原氏まで滅びて、日本全国の兵馬を大権が握られた後だ。
後白河得意の「毒をもって毒を制す」がまったく使えなくなった状況で、ようやく気がついたんじゃないか?
1190年の頼朝上洛時の、後白河とのやり取りが記録に残っていたらと思うよ。
327 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 13:00:32
後白河に政治的意思はないよ。この人は最後までちょっと抜けてるただの遊び人。
当時の公家の日記とかを見ていればよくわかる。
328 :
匿名:2007/09/16(日) 14:08:20 BE:469315229-2BP(0)
例えば、『日本歴史』の中に収録されている論文を手に入れるには
どうすればいいでしょうか?教えてください。
329 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 16:57:17
>>328 図書館でコピーしろ。しつこくマルチはするな。
330 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 17:58:15
>>327 あの、断定してしまうのは、「公家の日記」などを出す以前の問題だと思われ。
331 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 22:01:44
後白河が政治家・戦略家として優秀だったと言ってる研究者を見たことがない。
332 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 03:22:31
>>328 >『日本歴史』の中に収録されている論文
『日本歴史』を買えよw
334 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 10:05:33
335 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:03:49
マルチ注意報発令!
336 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 17:48:24
極めてピンポイントな質問になってしまいますが、よろしくお願いいたします。
江戸・東京の名勝地であった愛宕山なのですが、その歴史に関する詳細な情報が少なく、質問したいと思った次第です。
@江戸時代に出店が並んでいた、とされる場所
A江戸・明治期に展望台があった、とされる場所
B愛宕館なる洋館が建っていた場所
この三つがあまりよくわかっていません。
現在は全体が鬱蒼とした木々に包まれていて、当時の開けた写真や絵図も、
比較しづらく、よくわからないのが困りどころです。
なにか断片的情報でも構いませんので、ご存じのかた、よろしくお願いします。
337 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:02:11
>>336 江戸時代の話もあるようなので、ここで板違いというわけでもないが、
そういう都市景観みたいな話は近代史板で聞いたほうが詳しい奴がいるような
気がするな。
338 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:20:12
現在において考古学は捏造が国内共多く、模造品が増えている
339 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 00:32:15
肉弾三勇士のうちの何人かが新平民だという話を聞いたことがあります。
それは誰(と誰)なのでしょうか?
>>337 日近代板の質問スレは死んでるようだったのでこちらにしました。
愛宕舘については補完できました。
341 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 10:22:34
なんだ。マルチか。
342 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 19:20:27
赤穂浪士のドラマみてますと城を明け渡すか一戦交えるかという激論シーンが
みられますが実際に幕軍と一戦交えた藩はなかったですが
こういう御家の取り潰し断絶で一戦交えようというという藩がひとつも現れなかったのは
なぜですか?
福島とか加藤とか・・・
あと家の断絶が決まった大名の藩・城中の様子を詳しく記した書物は
あまりないのでしょうか?
>>342 国許で、「取り潰し反対、篭城やむなし」みたいな意見が出ることはあったけど、
結局は「混乱を起こさずに、きちんと引き継ぐこと」が大名の体面を傷つけずに最期をかざる行為という感じで、納得したみたいです。
>あと家の断絶が決まった大名の藩・城中の様子を詳しく記した書物は
>あまりないのでしょうか?
江戸城の宮廷政治―熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状 (講談社学術文庫)
に、肥後加藤家が取り潰されて細川家と引継ぎやったときの話が少し出てたと思います。
加藤家側の史料も、別の本で見た記憶があるような。
幕府に知られるとまずいこと(幕府に届けている石高と藩の予算上の石高が違ってたかなにか)で、大慌てで数字の修正作業やってた。(どっち側の史料か忘れた)
>>343 しょうもない疑問だが、そんな「幕府に知られるとまずいこと」をごまかす作業を
したなんて書き残したらまずそうな物なのに、史料が残ってるのが不思議だ。
担当者が私的に日記に書いたのが残ってたとかそんな感じか?
>>344 帳簿をつけないで収支の把握はできるとでも?
現代の税金逃れでも、二重帳簿という形で実際の収支の把握をしているだろ?
346 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 17:34:08
戦国時代の足軽とかは徴兵制だったのですか?
また給料とかは現金でもらっていたのですか?米ですか?
347 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 21:53:06
この板の内で読んで知識欲が満たされるスレッドを教えて下さい
348 :
日本@名無史さん:2007/09/20(木) 22:53:12
>>347 それは貴方の興味・関心の方向性によって違ってきますので、ご自分でお探し下さい。
何でこの板はIDが表示されないんですか?
せっかく議論の活発なスレにいっても「自演乙w」とか書き込む奴がいてうざいからID表示してほしいんだけど
350 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 13:04:08
幡随院長兵衛が水野十郎左衛門に風呂場で騙し討ちにあって殺された事件の
発端が、美しい若衆をめぐる両人の鞘当てにあったという話の出典は、何という
文献なのでしょうか?
三田村鳶魚の書物では無くして、その典拠となった古文書を教えて下さい。
351 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:28:51
>>349 そんな貴方には強制IDの日本近代史板がお勧めです。
352 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 16:42:28
>>346 給料は為替手形で支給。
その後、各自で現金に換金。
353 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 22:42:06
>>342-343 藩単位(大名家単位)で、幕府と武力衝突した例は、
たぶん大阪夏の陣から幕末期の長州征伐までないな。
355 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 03:43:36
>>354 でも一般的な方法だったかは別にして、あの時代だと為替もあり得なくはない。
室町段階で遠隔地にある領地からの年貢納入とかは原則為替化されているし。
まあ実際には多くは現金だろうけど。
やっぱ酷いな
357 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 05:44:14
>>356 他人の回答が酷い、自分の認識と違う、と思うのなら、じゃあ自分が正解(とおもうもの)を書けばいいじゃん。
>>356 ではないが、
戦国時代の足軽は徴兵制じゃない。というか徴兵制は日本では明治以降だけと思う。(武士が台頭した後の話。律令制時代は除く)
戦国時代の軍隊は領地の規模に応じて、○○人出すという契約を大名と国人領主が結んでいるようなイメージ。
その代わり、大名側は国人の領地が攻められたら防衛してやらないといけない。
防衛してくれないのなら、別の大名に乗り換えても当然という考え方。
毛利元就は息子達に、領主たちはなんのかんのと理由をつけて兵力を出さないと愚痴ってます。
足軽は大名が直接雇用している場合が多いので、大名の意思で動員できる。
戦場での足軽の給料は米の支給が基本。金で払うこともあります。
一度にやると米からお酒を作って浪費してしまうので、数日分ずつ支給していた。
>>358 >一度にやると米からお酒を作って浪費してしまうので、数日分ずつ支給していた。
そんな面白い話はじめて聞いた。
出典があったら教えて。
戦前に、殺人とかの重罪で逮捕された華族っていたの?
362 :
359:2007/09/24(月) 17:33:06
363 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 17:54:05
衆道の対象になった小姓は、嫌で逃げたりしないのか?
逃げたら殺されるかもしれんから仕方なく相手をするわけ?
364 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 18:09:23
>>361 岩倉具視の孫娘が逮捕されて拘置所で自殺した事件があったな。
365 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 18:42:45
上杉憲政の父で山内上杉氏の当主だった上杉憲房は、
「上杉憲実の子で僧籍にあった周晟の子」とされているが、
「僧籍にあった周晟」なる人物になんで子供がいて、
しかも上杉家の跡取りになることができたんだ?
366 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 19:05:51
僧籍の者に子供がいるなんて当時は大して珍しいことじゃないだろ。
武田信虎なんて追放後すぐに出家したはずなのに、その後も子供がバカバカできてる。
367 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 19:34:49
>>361 伊達順之介を知らんのかい?
祖父は宇和島藩藩主・伊達宗城、父は仙台藩知事。
不良を射殺し逮捕。重罪を宣告されたものの、正当防衛を主張して認められ釈放。
その後は張作霖暗殺未遂、山縣有朋暗殺未遂、東条英機暗殺未遂と波乱な人生を過ごし、
最期は漢奸として上海で銃殺刑に処せられる。
368 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 22:29:52
中1です。宿題で出されたのですが、わかりません。
班田収授法によって公地公民の制度が崩れた。
その理由を「寺院・豪族・貴族・開墾・口分田」の語句を用いて表せ。
369 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 22:32:52
質問です。
古代日本では「ハヒフヘホ」の音は「パピプペポ」と発音されていたということですね。
「卑弥呼」は「ピミコ」だった。
それが中世には「ファフィフゥフェフォ」と発音されるようになり、江戸期に現在の
「ハヒフヘホ」になったとのこと。
だとすれば、古代日本では人に呼ばれれば「ぱい!」と返事したのですか?
偉い人に「ぱぱーっ」と平伏したのですか。
掛け声やはやし言葉の「ほいさっさ」「はいや」「へい」は
「ぽいさっさ」「ぱいや」「ぺい」だったのですか?
>>368 そういうときは「班田収受法 寺院」、「班田収授法、豪族」(以下同じ)でぐぐれ。
>>369 お前に豆知識を授けてやる。
「阪神タイガース」という球団名は旧仮名遣いで表記されているので「タイガーズ」と発音するのが正しい。
偉い人や強くて名前が売れている人の衆道の相手をするのは名誉なことだから普通は逃げたりはしない。
班田収授法で公地公民制が崩壊?なんでだ?
三世一身法の間違いでは?
373 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 03:09:49
>>369 日本史というより言語学の範疇の質問のような気がするが、とりあえず
橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』でもお読み下さい。
374 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 03:32:06
>>372 釣りかも知れないぞ。
それに仮に釣りじゃないとしても、ここは学問としての日本史板だから
厨房の出題を手伝うのに相応しいスレではない。
375 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:14:56
はげ
376 :
あう使い:2007/09/25(火) 15:39:48
すいません。ちょっと日本史とのからみが遠いですが、
左大臣と右大臣って左の方が上ですよね?
何で左が上なの?
377 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 15:59:41
>>374 【初心者】【歓迎】とある以上、ここで受け付けざるを得ない。
世界史板は中高生用の質問スレを分離していたはずだが、日本史板にはそういうスレはないから。
379 :
日本@名無史さん:2007/09/25(火) 23:07:02
>>377 でも学校の教科や受験科目としての質問なら、そもそも「学問・文系」ではなく
「学校・受験」のカテゴリーの中の板でやるべきだよな。
日本史・世界史問わず。
>>376 左右といっても右左とはいわないだろ?
右から来たものを左で受け流すんだから左は偉いに違いない。
つまりそういうことだ
>>376 右と左で左が上位なのは何故かといえば、日本の伝統的な考えからとしかいえないと思うが。
(何故かは判らないけど、昔からそう)
ちなみに律令制の元になった中国では、伝統的に右が上。
だから日本がそのまま制度を引き継いだわけじゃない。
中国では左右どっちが上かは王朝によって違う。
日本で左が上なのは、たまたま左が上だった唐王朝の制度を引き継いだから。
と俺は聞いたんだが。違ったっけ?
383 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 10:37:09
平安京の右京と左京で、結果的に左京のほうが繁栄したから
384 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 11:07:09
>>382 それであっていると思う。
618年に成立した唐王朝では、左を上として重んじ、日本がそれを輸入した。
中国の場合、左を重んじるか右を重んじるかは王朝によって違う。
右を重んじる王朝では、「左遷」の言葉が表すように、
左は卑であるという扱いを受けた。
385 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 12:48:24
>>376 左大臣の位が上なのは、左大臣と右大臣は天皇から見ての左と右です。
「天子は南面し、臣下は北面す」とあるように天皇は南を向いているので、東は左、右は西。
京都御所から見て東が左京区、西が右京区です。
日が昇る東が上座にあたるので左大臣が上位という考え方でよろしいかと思います。
なんで男女であって女男とは書かないんでしょうか?
>>367 遅レスだが、中国人じゃないのになぜ漢奸?
>>388 男女という言葉がいつ出来たかは知らないけど、
少なくとも、江戸時代あたりまでは女性の権力も強かったのではないかと思う。
言われているよりは強かったっていうレベルだな。
391 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 19:44:29
前々から思っていたのだが・・・
関西弁って支那や朝鮮の発音にそっくり。
もともとは普通のアクセントだったのが
大陸からの帰化人の影響で今の関西弁の原型ができたのだろうか?
しかし日本のあれだけの地域の言語を変えてしまうほどの帰化人が
やってきたとは考えにくい・・・いや、やはり大量の帰化人がきたのだろうか。
393 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 08:40:38
>>392 大阪弁より、東北弁の方が韓国語に似ていると思うが
394 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 10:39:50
韓国語は語幹がはっきりしている
関西弁は余韻が多く語幹がはっきりしない
全く似ていないのだが
何弁だろうが、日本語と朝鮮語とモンゴル語は似ている。
助詞・助動詞、文末に動詞(述語)‥‥
世界の半分はSOV言語ですが何か?
やっぱり日本語はアルタイあたりの中央アジア派生なんだろうなぁ
環中国語というものがある。中国をぐるりと取り囲むようにSOVの国。
チベット語、モンゴル語、満州語、ギリヤーク語、アイヌ語、日本語、琉球語、朝鮮語、ビルマ語、ヒンディー語、ベンガル語・・・
しかしこれは囲んでいるように見えて、実は侵食の痕だという。。
かつての中国大陸もまた、 古極東アジア語圏SOVだったが、
語順の全く異なる漢民族というのがやってきた。
(現在のチベット人を根絶やしにしているのと同様のことをして)
次々に古極東アジア語を話していた人たちを次々に滅ぼしたらしい。 ものすごい面積と人数!
高句麗もそのひとつか。広開土王碑をみるとSOV。
その征服民族の漢民族って何者なんだ…
そういや春秋時代の墓場から出た骨を鑑定したら、明らかに現代中国人とは
違ってたんだってね。
>>398 その疑問は尤もですが、見方を変えれば「漢民族」というのは
人種でカテゴライズされるものではないということですよ…
民族を区分けするには言語や生活習慣などいろいろありますが、
彼らは春秋ら古史をカノン(経典)とし、非SOV言語…
実は古史形式の言語(字体、用法、修辞)を用い、
古史を受け継ぐ権力(政府)を権威とする人々のことなのです。
彼ら独特の「歴史に対する認識」を解く鍵が、実はここにあります。
「漢字がなくなれば彼らは解体する」と呼ばれる理由も。
>399
「正」という漢字は日本語の「正しい」とは、意味がまったく違うというね。
正は国を軍隊が制圧する象形文字で、(詳しくは漢和辞典の字解を参照)
力で他民族を制圧するのが至って正しいというのが彼らの常識。
「正しい歴史認識」の意味するところをよく考えたい。
お昼の番組でタモリ氏が
「道」という字は異民族の生首を手に持ち祓い清めた
といっていたが、発想が日本人とは根本的に異なる。
白川先生の字統による解説
正の一は□の省略形。
↓は甲骨文字の正。
□
止
口は都市国家を囲む城壁の象形で
止は軍隊の足跡の象形
攻めて征服して正。このような行為はいたって
正しい。それが道理にかなう正義とする。
正は「征」のもとの字
支配の方法として重税を課すのが「政」。攵はムチで打つ象形。
正露丸になったのは、モトに帰ったってことか。
403 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 12:31:08
幕末の「目明かし文吉」は、どのような方法で殺され、
鴨川のどの河原に、どのような恰好で晒されていたのですか?
404 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:03:51
先日テレビで
上杉謙信のお寺?の住職を真田家の子孫が代々勤めている
というのを見ました
真田は武田の家臣ではないのですか?
関が原の戦いなど多くの戦いで、調略により〇〇が内通したなどありますが
その交渉内容や交渉術などどういったものがあるのでしょうか?
407 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 02:09:16
質問です
1.東南アジアはイスラム教徒が多いのに、なぜ日本ではイスラム教徒がいないんですか?
隠れキリシタンとかはよく話し聞くけども。イスラム教徒は日本で布教したとかそういう例はないんですか?
2.フィリピン・グアムを植民地にしてたスペインは江戸時代中期・後期・幕末に日本に
影響を与えるような事件を起こしたりしてないのですか?
ロシアやアメリカは時々来航したりしてますけど。
408 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 06:03:45
芝山監物の石高や役職を教えてください。
ググったのですが、生没年不詳というばかりで。
>>407 1.マレーシア・インドネシアがイスラム化したのは、
イスラム商人が香辛料を求めて進出してきて、同時に布教したから。
イスラム商人は中国までは進出したがその先の日本や朝鮮にまで
活動範囲を広げようとはしなかったので、
日本にはイスラム教は入ってこなかった。
2.無い。スペインはすでに衰退期。日本周辺に進出して
何かをやろうとする必要も活力も無かった。
411 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 18:46:38
>>407 1.イスラム教徒の商人なんかが個人的に日本へ来航することはないわけでは
なかったが、イスラム教の場合、16世紀のイエズス会のように組織的に
布教活動を行うような勢力が日本には入ってこなかった。
2.スペインはフェリペ2世の時期が全盛期でそれ以降はどう考えても衰退期。
17世紀に入ると、ヨーロッパ内においても新たに強国に成長し始めた
英仏などの勢力に締め上げられているような状態になる。
そして18世紀に入るとスペインの王位継承問題を巡る仏墺の対立によって
スペイン継承戦争が起こって国内はズタズタになり、さらに18世紀末以降は
オーストリアとともにフランス革命&ナポレオン戦争に振り回される。
ヨーロッパ外のことに干渉するような余力は正直全くない。
412 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 19:56:51
>>409 嘘を書くなよ。
8世紀か9世紀頃に、日本にもイスラム教が来ているぞ。
413 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 21:15:21
キリスト教もそうだな。
415 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 21:50:00
江戸幕府の討幕〜廃藩置県までの流れがよくわからないのですが、教えてもらえますか。
大政奉還で幕府は朝廷に政権をかえして、そのあとの王政復古の大号令というのは何なんですか?
天皇に政権がわたったなら、べつにクーデターなんてしなくてもよかったと思うんですが…。
あと、薩長土肥はなぜそのあとにわざわざ版籍奉還したのですか?
廃藩置県で藩をなくした意味ってなんだったんでしょうか。
勉強しててここがどうしてもわからないorz
416 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:31:57
>>415 大政奉還とは、日本の統治権を朝廷に返還すること。
これを奨めたのは土佐藩だが、当時は武力倒幕の気運が高かまってたので、薩長に倒幕の口実を与えずに公武合体の方へ進めるため。
徳川慶喜は統治権を返還しても、朝廷には実務能力がないだろうから、結局自分が筆頭参議のような感じで、新政府の中でも実権を握れると考えてたみたい。
一方、薩長は新政府にて徳川の影響力が残ることを廃除したくて、武力倒幕にこだわった。
この姿勢が鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へとつながる。
廃藩置県の目的は地方分権的な封建体制から、中央集権的な近代国家へ改革するため。
幕藩体制では各藩の財政は独立採算だから、現在に例えるなら、地方税たる藩の税のみで、国税がないことになる。
幕府はその直轄領で徳川家と日本国を賄ってたわけ(外様大名に公共事業を負担させたりはしてたが)。
こんな状況から、新政府が全国から税を集めれるようにするのが廃藩置県の目的。
つまり、租税徴収権を持つことにより新政府の財政基盤を確立し、効率よく近代化を進めようとしたわけ。
>>415 倒幕派「大政奉還って幕府が権威放棄したってことだけやん。
しかし幕府には今も力がある。これじゃ幕府ある限り公武合体の流れに戻るだけ。慶喜めそこが狙いか」
親徳川派「いやあのそれで何が悪いの。孝明帝のご遺志も…」
倒幕派「ああ、こいつらがいたんだ。こりゃあ新帝のお言葉が要るな…」
12月8日夜
岩倉具視「雄藩の重臣どもっ、王政復古を断行するからヨロシク!」
12月9日朝
朝議で岩倉らの赦免を決定
12月9日午後
朝議のあと御所の門を薩摩藩士でシャットアウト
王政復古の大号令「親政にする!だから摂関や幕府は廃止!総裁、議定、参与の三職をおく!」
12月9日夕方
公議政体派「ちょっと待て!公議がベースなら慶喜を呼んで議長にするべきだ!こりゃ陰謀だっ!」
岩倉具視「るせえバカ、天子様のお言葉だ!」
薩摩家老「どうしますかあいつら」
西郷隆盛「短刀一本あれば片付くことでは…」
クーデター成功。
>>408 小田原陣韮山城攻めのときに戦目付をやってたり
聚楽第御幸の際先駆をやってたりしてたみたいだけれど、
官位も石高もわからない orz 大名じゃなかったのでは…
419 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 00:10:02
>>418 一応大名クラスだったのですね。
秀吉の側近としてはボチボチ程度でしょうかねー。
だんだん居場所がなくなる窓際大名・・・
利休七哲のうち、妙に史料がないと思いまして。
牧村兵部は稲葉一鉄の孫ですしね。
>廃藩置県
司馬遼太郎によると
藩という制度は糸一本を、するりと抜けばバラバラっと分解できる
よう設計されていたというね。200年300年後も見通した家康の力量どんだけ〜
421 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:04:20
>>415 板違い。幕末以降の日本史は、日本近代史板だろ。
422 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:54:21
>>419 確かに話が噛み合っていませんが orz
この人いわゆる荒木村重・中川清秀・高山右近らと同じ摂津衆で、
大和田城にいたとき城主安部仁右衛門(二右衛門)と一緒に信長に帰順し黄金を賜った…
と信長公記巻十一にあります。どうもこれが、歴史に登場する最初のようです。
だからかしら、帰順後も高山と行動を共にしています。
で、安部のほうは川辺郡を与えられ池田恒興隷下で役に就いていますが、
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html ここ(↑)に芝山の名はないんですよね…将としての才覚はなかったのかもしれません。
424 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 16:31:05
高山と一緒にマニラに追放。
425 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 18:58:31
>>420 そんな小説家のいうことを真に受けなくていいよ。
426 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 19:43:21
それは勝海舟の談話からかな。負け惜しみも入ってると司馬は言うてたが。
427 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 20:05:27
かみ合ってなくて申し訳ありませんでした。
利休七哲は台子手前を許された7人と聞いていましたが、
マイナーな人物がいるなと思ったもので・・・
つきましては同じ理由で瀬田掃部についても教えていただけないでしょうか?
>>427 【瀬田掃部】(1547?-1595)
正忠、清右衛門。馬允・掃部頭。出身は近江瀬田とも武蔵国ともいう
初め後北条氏に仕え、天正10年頃、高山右近の推挙で秀吉に仕える
天正12年(1584) 小牧長久手の合戦で兵150を率い秀吉軍に従う
天正13年(1585) 秀吉関白就任に伴い従五位下掃部頭叙任
天正15年(1587) 九州征伐で兵120を率いる
天正16年(1588) 後陽成天皇の聚楽第行幸の際、騎馬で左の前駆を勤める
天正18年(1590) 小田原征伐で相模玉縄城攻略戦に参加
文禄04年(1595) 豊臣秀次秀次に近かったため、秀次自刃後、処刑。
429 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 01:06:59
430 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 03:46:17
ある本に、
「中世の世界では、政治的なリーダーシップを取ることが難しく、
先見性のあるリーダーの多くは殺害されている(信西、安達泰盛、足利直義ら)」
と書かれていたのですが、何故この時代は政治的なリーダーシップを取ることが難しく
殺害されることが多かったのでしょうか?よろしくお願いします。
431 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 03:54:02
まず誰の本なのか著者名をお願いします。
432 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 04:20:29
>>431 すみません。
五味文彦の「中世社会と現代」と言う本です。
足利直義って先見性があるリーダーか?
どっちかというと、理想的な鎌倉幕府(末期のような不公平な裁判などがない)を目指した保守的なリーダーだと思う。
まあ対立した高師直が先見性があるかというと、それもちょっと違う気がしますけど。
恩賞欲しけりゃ、自分で荘園横領しろとか、権威を無視したりとか戦国時代っぽい思考ではあるかな。
434 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 11:36:47
>>433は何も分かってなさげ。
正直、五味先生のほうが説得力あるな。
435 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 12:28:02
>>433は羽下徳彦の影響を受けているのは分かった。
436 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 14:33:14
弥生時代にはネックレスやら指輪、ブレスレットのようなモノをつけていたのに
奈良時代から平安時代ぐらいにはつけていない気がします
いつ頃からなぜその手の装飾品を使用しなくなったんですか?
437 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 16:21:49
関ヶ原に比べて大阪の陣で大阪方についた人間に対する処罰が厳しいのは
なぜですか?
そりゃ徳川支配が始まってるのに、まだ豊臣方につくのは悪あがきだからだろ。
またそういう輩が出てくるのは面倒だし潰さにゃなるまい。
>436
縄文時代の非農耕時代は
身分制がない。各自が派手な装飾品。
弥生時代。農耕社会へ(ギャートルズの最終回)
徐々に身分制が浸透。
豪族:派手=権力の象徴
被支配者:地味
奈良平安:それが固定化
・・・こんなところか?
>>436 439の補足だが中国文化の影響が強い。
支配者層のステータスが厳然と色別で示され、かつ官人と庶民に衣服の差があるなら
それ以上の権勢の誇示は不合理。ていうか法で禁止されているしねえ。
それでも官人層の間で富を誇示するため毛皮とか纏ったりしたそうだ(夏に)。
これも禁令が出ている。
>>437 元々ああいった装飾品というのは自身の地位身分富貴を表に誇示する道具であり、
戦乱の際でも持ち運べる資産であり、なおかつ何らかの災厄を防ぐものという意味があります。
しかし、日本においては「舶来式の権力誇示アイテム」以上の認識には到らなかったのでしょう。
ここ(↓)での推古・飛鳥時代の正装の考証では指輪や勾玉や腕輪を見ることができませんから
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000024 フォーマルで使われなくなった推古朝、つまり聖徳太子の時代にはもう廃れていたのでしょうね。
それからは石帯(ベルト)や太刀などを除き、玉石で拵える習慣もなくなります。
本質的なところを考えるなら、こういった装飾品が日本の伝統として根付かなかったのは、
全くといっていいほど玉(宝石)が取れなかったからではないかと思っています。
なぜならば、これらの装飾品が一般化するのは明治になってからで、それも真珠貝の養殖に
成功してからのことだからです。
442 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 03:05:46
>>437 関ヶ原段階で、島津・毛利・上杉なんかを完全に武力討伐で滅亡まで
持っていくのは、かなり難しいと思うぞ。
それに島津なんかは、情状酌量の余地もある。
土岐頼芸が描いた鷹の絵が纏められてる画集みたいなやつってありますかね?
[質問事項]
土岐鷹について、一冊にまとまった資料はないか。
[回答・経緯]
1 「土岐鷹」とは美濃守護土岐氏が描いた鷹図のこと。土岐頼芸のものが有名。
2 岐阜市教育委員会編『土岐の鷹』(郷土書庫:721/ト)を所蔵。
>>444 回答ありがとうございます!
あとは自分で探してみます。
446 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 18:12:46
関が原のときは、豊臣政権の内紛だけど、大坂の陣は
江戸幕府に対する反逆だからじゃyないの?
あと関が原は徳川家の功績より、味方になった大名達の功績のほうが大きかった(戦での功績も、裏切りの仲介とかも)
ので、そういう連中から口利きされたら顔を立てないとだめだったということもあるかも。
単純な理由としては、
関ヶ原の時は処分を厳しくしすぎると
「こんな処分受けるくらいなら一か八かもう1戦して挽回してやろう」
と思わせることになりかねなかった。
まだ徳川氏の優位は決定的ではなかったので、
争いの火種に火をつけるようなことはしたくなかったのだろう。
大坂の陣の時は、(少なくとも表面上は)全国の大名レベルは徳川氏に従ったわけで、
徳川氏の圧倒的優位は明らかだった。だから後のことは気にせずに厳しい処分が出来た。
自分は理系の大学院生だが、先日ふとした折に自分には日本史の知識が全く無いことに気づいた。
世界史は高校で必修だったからほんの少し授業でやったけど、日本史は違ったかったから中学以来
全く勉強していない。ちょっと怖くなったので、これから日本史を勉強してみたいと思うんだが、何を
読んだらいいのだろう?やっぱ高校の教科書だろうか?
>>450 これもうテンプレ入れろよ。
勉強したいなら教科書なり、漫画日本の歴史なり読め。
>>450 興味ある範囲からどんどん拡げていけばおk
嫌々やっても身につかないので注意
453 :
日本@名無史さん:2007/10/05(金) 13:39:29
よく戦国武将が仏門に入っていますが
入る意味って何でしょうか?
>>453 別に戦国時代に限ったことではないが
(1)殺戮と陰謀渦巻く生活が嫌になったため
※僧侶を殺すのは大変に嫌われるし、自身も殺戮に関わらなくてよくなるし
※歌道、書道、画道。文化的な生活ってものをやってみたいなら坊さんですよ
(2)家主を辞任、あるいは世代交代の選択枝として手っ取り早かったため
※出家するのだからね
(3)障碍者になると武将生活は望めないため
※例外もいるにはいますが
(4)一族の菩提を弔う用員になるため
※無縁仏にさせられるのは地獄への道。一族なんだから面倒をみないと…
(5)仏教組織(宗教界は独立組織として全国規模で展開していた)とコネを持つため
※一向宗だけではありませんよ
こんなところかと。
455 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 04:13:49
>>433 信西・安達泰盛・足利直義は、保守的というより、法令の厳格な運用を追求する
タイプだったと思う。
ただ当時は公家側・武家側を問わず利害関係で動くことが多い人々の中で、
結局理想は理想のまま終わってしまった感はある。
456 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 04:32:32
>>446>>448>>449 関ヶ原の戦いに関しては、一日で決着がついたこと自体が想定外だったような
側面もあり、下手をすれば決着がつかないまま全国が東軍支持派と西軍支持派に
二分された状態が長期間に渡って継続した可能性だって否定できない。
まあそうなったところで、最終的には徳川氏の優位に落ち着くとは思うが、
結局あの段階での徳川家康は、東軍を支持する大名達の盟主として担がれ
祭り上げられていることによってその地位を保っているという側面も大きく、
彼らの支持を失う要因になり得ること(不安感・不信感を抱かせること)は
極力避けなければならなかっただろう。
もしも戦乱が長期間に渡って完全に終結しなければ、初期の室町幕府のような
状況に陥ることだってあり得なくはなかったわけだし。
457 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 16:17:30
近衛家が五摂家の筆頭などと言いますが、本当でしょうか?
江戸時代の禄高を見ると鷹司家のほうが上ですよね。
458 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 17:38:02
卑弥呼は神宮皇后ですか?
459 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 19:31:51
460 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 21:16:18
あなるほど。ではなぜ近衛家が突出しているのでしょうか?
関白を輩出した人数とか、天皇とどれだけ近い血縁関係かとか?
461 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 21:24:58
>>460 そもそも、近衛家が本当に突出した立場なのかな。
自称筆頭とかじゃないの?
藤氏長者とかは別に近衛家の独占じゃないし、官位面で他の摂家と比べて特別な待遇受けているとも思えないけど。
>>448 >>449 >>456 関ヶ原の時点ではまだしたくてもできなかった、あるいはする必要性が無かった、
という感じでしょうか
ありがとうございました
なんで築地本願寺は江戸の名所図にものった有名な寺院なのに
あんなおどろおどろしい外観になっちゃたんですか?
言葉の出典(言った人)を教えてください。
「人、人となるべし。人となりてより、神ともなり仏ともなる。」
昔(江戸以前)の仏教のお坊さんが言った(書いた?)言葉だったと思います。
東北のほうのお坊さんだったような気がしますが違うかもしれません。
宗派は覚えていません。
だいぶ以前にNHK教育の番組で知った、ということぐらいしか覚えていません。
グーグルで検索してみましたが、言葉を間違って覚えているのか、見つけられませんでした。
言った人の名前と、言葉を間違って覚えているのなら、正しい文章が知りたいです。
466 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 02:11:54
関係ないけど
昨日駅で部活帰りの厨房3人組が
ハトの大群をカバン振り回して追い回しながら
「この鳩チキンだぜwwww」
と言ってたのが聞こえてきてコーラ吹いたw
467 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:31:38
468 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:57:02
BCとか紀元前とか何ですか?
縄文→弥生→平安→室町→鎌倉→江戸→明治→対象→昭和でおk?
はい(´・ω・')
471 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:35:12
ネタは然るべきスレでどぞ
472 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:48:02
>>457 明治維新段階での五摂家の領知高。
近衛家 2,860石
鷹司家 1,500石
九条家 3,043石
二条家 1,708石
一条家 2,044石
473 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:53:24
474 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 03:08:41
>>472 二条家って弟筋の一条家より少ないな。
やはり初代の良実が父親(九条道家)から嫌われてほとんど所領を分与して貰えなかったことが、後々まで響いているのかな。
475 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 04:25:27
上杉鷹山の側近である佐藤文四郎の没年と石高を教えてください。
476 :
名無し募集中。。。:2007/10/08(月) 06:34:59
なんで大黒屋光太夫たちは日本に帰りたいのにブルームオブユースみたくロシア横断なんて回り道をしたんですか?
カムチャツカ半島にいた頃ならすぐ帰れたじゃありませんか
477 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 10:37:06
>>476、
日本に帰国できない理由があったからじゃなかったか?
鎖国中の日本は、交流のないロシア船舶が日本の港に停泊することは勿論、
いったん海外に出た日本人の帰国すら許していなかった。
光太夫は戻りたくても戻れなかったということ。
カムチャッカにいたころも帰国を願ったのに、拒否されたはず。
女帝への謁見で、女帝が日本政府に申し入れたことにより、やっと帰国が叶った。
478 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 16:47:25
>>474 二条家の初代良実は、父親から嫌われていたので家領をほとんど分けて
貰えなかった。
だから鎌倉期の二条家はとても貧しかった。
その後、南北朝期以降になって、二条家は足利将軍家に接近して摂政・関白の
地位を独占しているも同然のようになるが、これは摂関の地位を独占することに
よって、付属してくる殿下渡領をも独占できるということにポイントがある。
つまり元々の世襲の家領が少ない二条家にとっては、殿下渡領を保持し続ける
ことには、他の4家とは比べものにならないくらい経済的に大きな意味があった。
479 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 17:06:15
>>433 直冬に政治的な立場を与えたのはまずかったね。
>457
>472
>474
>478
非常に面白い。
五摂家にもドラマあり
481 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:05:09
>>478 二条良基は、西園寺実氏と妻同士が姉妹であったために、
西園寺公経に可愛がられて摂関に納まったが、西園寺家に敵対心を燃やす父九条道家の意に沿わず、
良基は摂関の地位を追い出され、弟の一条実経が摂関になる。
しかし、名越の乱にかかわったとして先将軍九条頼経とその父九条道家が鎌倉幕府から謹慎を命じられると、
一条実経も摂関の座を追われる。
二条良実は、亀山天皇のときに、早くも摂関に返り咲き、
鎌倉時代の後半、二条家は主に大覚寺統の天皇の側近として活躍している。
鎌倉時代の二条家が冷遇されていた事実はない。
二条家が室町時代に幕府に接近し、摂関を独占した事実もない。
室町時代、摂関は五摂家による持ち回りだったし、
二条良基が親しく将軍に有職故実を教えたのは事実だが、
良基自身は後醍醐天皇に可愛がられた公卿であり、
北朝後小松天皇に重用されたのも、将軍義満に重宝されたのも、
良基の博学を尊んだもので一代限りのものだった。
室町以降二条家が独占したのは天皇即位時の灌頂の儀だな。
・・・いや今wikiみて知ったばかりだが。
483 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 03:59:21
>>481 まず1行目と3行目の「良基」は「良実」の誤記でいいか?
>鎌倉時代の二条家が冷遇されていた事実はない。
朝廷内で厚遇or冷遇されていることと、家領の多い少ないは本質的には別問題。
>室町時代、摂関は五摂家による持ち回りだったし、
形式的には持ち回りだが、実質的には在職年数に圧倒的な差がある。
事実上、南北朝期は二条家の摂関在職期間が他の4家に比べて圧倒的に長い。
義満期以降になると、二条家出身の経嗣が一条家を継いだこともあって、
二条家とともに一条家の在職年数も長くなるが、他の3家は相変わらず短く、
就任しても僅かな期間だけですぐに辞めている。
484 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 15:06:43
五摂家以外でも日野とかやたら石高多いね。
まあ江戸時代の話だが。
485 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 16:12:23
>>479 むしろ、尊氏は隠居するつもりで弟に実務任せた筈なのに師直に乗せられて……。
幕末志士と公家との関係が、最近気になっています。
朝廷工作のためには公家との接触が必要不可欠ですが、
幕末志士らはどのように働きかけを行っていったのか詳細に知りたいです。
これらをまとまって読めるおすすめの書籍があれば、教えていただけませんか。
>>486 公家と志士という対極の立場にあった人々を仲介するのはお坊さんです。
何も幕末に限ったことではありません。外国でもイスラムテロリストとの交渉に行くのは
大抵、高位のイスラム法学者です。
宗教家というのは名が知れたら身分立場を問わず人が近づくものですし、また誰とでも
付き合えなくては有徳とはいえないもの。詩・俳句・書・絵・お茶などの芸を持っていれば
更にやりやすい。だから仲介役として適任だったのです。
幕末前半でこの種のキーパーソンといえば、なんと言っても西郷隆盛と入水した
月照でしょう。月照の書簡などを纏めた書籍があれば、これ以上はないというくらい
具体的に理解できるのではないでしょうか。
488 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 01:25:20
>>485 初期の室町幕府は、得宗専制化する前の泰時期の鎌倉幕府を理想としていた。
だから象徴的なトップ=将軍(尊氏)と実際の政務担当者=執権(直義)が
別々に存在して相互補完の関係になるような政治体制を指向していた。
しかし足利将軍家には、それとは別に尊氏が将軍になる以前からの家の私的な
執事として高師直がいた。
そして最終的に直義と師直が政治的にぶつかってしまったのが観応の擾乱。
489 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 01:39:39
明治時代だと思うのですが、
ドイツの音楽理論をもとに、仏教の声明?などを作成した人物がいると聞きましたが誰でしょうか?
490 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 02:31:52
>>489 板違い。日本近代史板か音楽板へどうぞ。
491 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 04:35:29
492 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 05:25:32
>>489 曾我部俊雄のことですね。
東京帝大で宗教学を修めました。
この方のの著作を読むと高野山の歴史も面白く学べます。
時代区分にかかわらず。
493 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 06:18:49
>483
実質的に、九条道家が勢力を失って以降、二条家は冷遇されていない。
九条道家に嫌われた→家領が少なかった→室町時代、幕府にすりより摂関歴任で家領を増やす
という主張は根本的に成り立たない。
父九条道家に冷遇された二条良実が、鎌倉時代にまた関白に返り咲いていることをどう説明する?
南北朝時代、二条道平が後醍醐天皇に重用されたことをどう説明する?
室町時代、二条家の摂関の在職期間が長かったのは、
二条良基など、長命な当主が多かったことによる。
伏見宮家から出た後花園天皇が、養父後小松天皇時代の摂関を踏襲したこともあるが。
基本的に摂関は持ち回りであり、室町幕府と二条家が
特別親密であったから摂関の在任期間が長かったわけではないのだが?
494 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 07:54:36
秀吉には秀頼以外に子供がいたというのは本当ですか?
早死にしたのも含めると、全部で何人ぐらいいたのでしょう?
495 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:04:16
現行条約励行 と 内閣弾劾上奏 の意味を教えてください
496 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:49:15
はじめまして!
質問が2っあります。
1.『もしタイムマシーンがあったとして、いつの時代の私たちの祖先となら
普通に会話ができる(通じる)でしょうか??????』
2.『タイムマシーンで夜の京都の左大文字山の上あたりに行ったとします。
いつの時時代なら街の”夜景”を確認できるでしょうか????』
明治なら電気の灯りが存在したので”夜景”を確認できるでしょうが、
桃山時代とかローソクの灯りとか確認できるでしょうか??
497 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:49:49
>>494 豊臣秀吉の実子は、長男鶴松(夭折)と次男秀頼の2人。
いずれも母親は浅井長政の長女、淀君。
ほかに、豊臣秀吉が長浜時代、戦乱で荒れた竹生島宝厳寺の復興をした時の
「竹生島奉加帳」に、寄進者として石松丸と南殿という名があり、
石松丸(=秀吉の子)、南殿(=石松丸の母親)という説があるが、詳細は不明。
長浜で秀吉に信仰された妙法寺に羽柴秀勝と伝わる子供の肖像画が残り、
竹生島奉加帳との関連から、秀勝とは石松丸のことだと現在されているが、関連性は不明。
妙法寺に葬られた羽柴秀勝が、秀吉の実子であったことを証明する資料はない。
>>494 簡単にまとめてみた
実子
鶴松 幼名棄。母は淀殿。秀頼の兄。3歳で夭逝。
?秀勝 幼名石松丸。長浜時代の側室南殿の子。存在や関係を疑問視する声もある。
?女子 南殿の子。こちらはより存在や関係を疑問視されている。
?女子 北政所側近の孝蔵主の姪の子。丹羽家家臣に嫁ぎ娘が3人いたとされる。こちらも以下略。
養子
羽柴秀勝 織田信長の四男。
小早川秀秋 北政所の甥。
結城秀康 徳川家康の次男。
豊臣秀勝 秀吉の甥、姉日秀の次男。
豊臣秀次 秀吉の甥、姉日秀の長男。
豪姫 前田利家の娘。宇喜多秀家の室。
菊姫 前田利家の娘。7歳で死去。
?お江 淀殿の妹、浅井長政とお市の方の娘。
猶子
宇喜多秀家 宇喜多直家の子。母おふくは秀吉の側室。
智仁親王 正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六皇子。
淀殿の猶子
完子 淀殿の妹お江と羽柴秀勝(秀吉の甥で養子)の娘。
北政所の養女
辰姫 石田三成の娘。
>>496 1.その質問はここで何度も登場しているが、江戸時代中期以降なら会話として成立するというのが定説。
2.勿論確認できる。見通せさえすれば簡単なものだ。
だが「夜景」が当たり前になったのは、事実上、電化されてからといっていい。
特に高度成長期以降はひどくなり、天文家たちから「光害」という単語も生みだされた。
中世以前でも灯りを見出すことはできるだろうが、お祭りか、通夜か、歓楽街かってところだろう。
何せ灯火はコストがかかるものだから。
500 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 12:22:13
千利休と石田三成って、根っからの不仲だったんですか?
それとも政治のあり方に対する考えが違うだけでそれほど不仲でも
なかったんですか?
501 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:17:42
502 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:23:14
>501
スレと関係のないコピペ貼らないでくださーいw
503 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:30:26
>>493はとっても頭が悪そうだ。
厚遇冷遇と所領の多寡は本質的に別問題という
>>483のレスも理解していないし。
また当主が長命か否かということに関していえば、二条・一条以外の3家にも
長命な人物はいるし、また二条・一条両家で短命な当主もいる。
それに室町期の二条家(経嗣以降は一条家も)の摂関在職期間が異常に長い
ことは、この時代の公武関係についての研究者には常識的なことだぞ。
504 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:32:56
>>496 橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」を読むことをお勧めします。
幕末の公家といえば、過激派浪士たちは一部の公家を襲撃したり
暗殺したりしてますが、大君の側近たる殿上人を殺す事に躊躇しなかったんですか?
君側の奸って言葉もあるからさ
507 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 01:14:34
てゆうか幕末は板違い
508 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 01:35:27
509 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 02:36:25
幕末以降の日本史は日本近代史板です。
510 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 03:26:30
511 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 09:13:57
>>499 ありがとうございます。
『江戸時代中期以降』は通常会話可能、との件、わかる気がします。
それでは、安土桃山時代の人々の会話の録音テープが存在したとして、
それを普通の現代の人が聴いたとしたら、それはまるで日本語とは思えないような言葉
に聞こえるのでしょうか?
織田信長に”今夜、本能寺に居たら光秀に殺されますよ、逃げときなはれ”と、
今の言葉で忠告しても意味を理解してもらえず、歴史は変わってないでしょうか?
512 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 16:00:25
『淡海古説』、『静軒痴談』のそれぞれの成立時期、著者、簡単な内容を
教えてください
お願いします
513 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 00:19:14
514 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 00:24:39
>>511 文明年間以降の抄物、キリシタン関係の書籍、17世紀前半の狂言台本を参
考になさっては。違和感はあっても通じるだろうと思いますよ。
『伊曾保物語』かコリャードの『懺悔録』を御覧になっては如何。
後者は岩波文庫で参照可能です。『雑兵物語』や『おあむ物語』もある。
『雑兵物語』については、東国語研究の分野で成果があがっていますね。
それと、左大文字とはよりによってというかずいぶんな田舎ですが、そこか
ら見える明かりとなると、時代もかなり限られてくるでしょうね。
>近代
早くて天保、あるいは寛政以降という説もありますね。遅くて嘉永・安政頃。
516 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 12:57:31
公卿ではない、地下家の公家たちの殆どが明治維新後に華族に叙されなかったと聞きましたが、その人達は身分的に士族扱いだったのですか?
517 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 02:51:49
>>511 スペイン語話者にとってのポルトガル語、あるいはドイツ語話者にとってのオランダ語くらいの違いだと思う。
中世末〜近世初期ならば大筋は何を喋っているのか分かる程度でしょう。
なお日本語の時代による発音の変遷を手っ取り早く知りたければ、
>>504の文献が手頃。
>>516 地下官人は原則士族扱い。
但し壬生家(小槻氏嫡流、官務家)と押小路家(中原氏嫡流、局務家)については、のちに華族身分に昇格。
>>457 それぞれの祖である近衛基実と九条兼実では近衛のほうが兄でしょう。
江戸時代の近衛家は石高は低いとはいえ、その所領は伊丹であり、
ここで酒造を奨励、保護する善政を行ったので、
そこからの上納金で公家の中では例外的に豊かでした。
>>518 確かに、年長男子の系統ではあるけど、(近衛・松殿・九条に別れて、その後近衛・鷹司と別れているが)それが嫡流と称する根拠になるの?
長子相続って決まりがあったわけでもない時代に別れた家の間で。
ちと別の面から考えたのですが、仮に近衛が筆頭として、残りの4家にも定まった序列はあったんでしょうか?
(御三家の尾張・紀伊・水戸みたいに)
520 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 20:00:52
秀吉は元は織田家の家臣、家康は元は豊臣家の家臣ですよね。
立場が逆転したのはどの時点でしょうか?
官位が逆転したとか、臣下の礼をとったとか、書面上で家臣扱いになってるとか。
とくに秀吉と織田家の場合、清州会議の時点では秀吉まだ織田家の家臣ですよね。
秀吉は秀信と戦ったわけでもないのにいつのまにか逆転してる気がします。
521 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 20:26:23
>>519 藤原氏は古代氏族の名残で官位の最上級者(この場合摂関)が氏長者という律令以前からの原則が適用されるから、氏長者資格のある家は基本的には全部嫡流。
ただし、二条家は成立事情が複雑なため、少しだけランク落ちする。
あと、
>>457の鷹司家は将軍御台所との関係だと思う。
一応、公家では鷹司出身の御台所が一番多い。続くのが近衛と一条だが、近衛は2人目は島津からの養女で一条は2人目は慶喜の御台所だから意味がない。
「ヨノギにアラズ」
ってどういう意味?
他でもない、ってことかな
523 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 23:10:59
>>517 >ドイツ語話者にとってのオランダ語
かなり発音が違うので、残念ながらほぼ通じません。
低地ドイツの方言がわかる人ならかろうじて可能性はある。
オランダ語 ガリア人の子孫
ドイツ語 ゲルマン人の子孫
難しいことはわからんが、通じないとは想像できる。
525 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 23:25:23
昔から疑問に思ってたことなのですが
関所ってありますよね。主要交通網を塞ぐ形で設置されていたやつ。
あれって、一度山に潜って、関所のある場所を迂回してしまえば、簡単に抜けられるような気がするのですが
その辺はどうなっていたのでしょうか?
日本史に縁の薄い質問で申し訳ありません・・・・。
有名な別ルートが「姫街道」
さらに列ルートに「犬道」 犬ならば仕方ないと役人も見てみぬフリをしたよう。
途中人の背丈の半分程のゲートがあり、四つんばいでくぐった。
人通りが少なければ少ないほど安全度は低下。賊に身包み剥がされる危険度も増大。
もし自分が当時の賊ならどうするだろうか?どこで網を張るだろうか?想像するのも一興。
>>526 佐藤雅美の「啓順純情旅」なんぞを見ると、追われて関所迂回のため、船に乗る
ってのはあるな。マトモな港には役人がいるから、うまいことやるにはカネが
かかるナ。
529 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 18:25:55
山歩きの話題のついでに、
「武者わらじ」ってのがありますが、普通のわらじとどこが違うんでしょうか。
ぐぐるとあれこれ文章の説明はあるが、も一つピンと来ません。
530 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 19:22:15
弥生〜飛鳥時代ぐらいまでの日本の国家変遷について、お勧めの歴史書はあるでしょうか?
全体的な動きがわかり、それなりに論拠があり筋が通った物が良いです。
神話と正史の関係についても考察があればなお。
もちろん、記紀や風土記、発掘物ぐらいしか資料はないのでしょうから、限界はあるでしょうが・・・。
531 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 19:23:02
マンガで分かる日本史
荷田春満って何で奈良時代みたいな読み方をするんですか?
上代に憧れて漢字の読みを変えたとか?
533 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 12:56:57
>>518-519 本来的にどちらが兄の系統だったかなんてことにはハッキリいってあまり
意味はないと思う。
そもそも分立直後の鎌倉前半期だと、九条流のほうが近衛流よりも明らかに
羽振りがいいし。
あと近世の公家所領なんて、大半は太閤検地以降に確定したものだから、
中世以来の家領とは関連性が薄い。
>>521 まずはじめに
>>457は嘘。
近世の五摂家の石高として正しいものは
>>472のほう。
なお近世に近衛家からの将軍正室は3人おり、そのうち2人が本当の実家は島津氏。
534 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 13:01:08
>>523-524 低地ドイツ語とオランダ語なんてほとんど同じ言語の方言レベルと言って
差し支えないと思うが。
むしろ、
「低地ドイツ語と高地ドイツ語の違い」>「低地ドイツ語とオランダ語の違い」
くらいだと思うよ。
あと古代のガリア人はケルト系民族なのだから、フランスのブルターニュ地方の
住人なんかが直接的な子孫じゃないの?
535 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 14:35:30
戦国時代の開始は一般的には伊勢宗瑞の堀越御所討ち入りとされてるようですが、どうなんでしょうか?
色々な説があって明応の政変(1993年)が戦国時代の開始とされる場合が多いようですし、一昔前は応仁の乱からを戦国の始まりとされてましたよね?
1993年・・・・・・
能登沖、釧路沖地震、そして北海道南西沖地震と大きな被害が続出。
政治では細川政権の誕生で55年体制が崩壊。冷夏による米不足もこの年だった。
戦国時代かはともかく、後々の色々な混乱が始まった年ではあったな。
Jリーグ開幕もこの年だったけか。ドーハの悲劇も1993年だ。
それはともかく、最近の流れに乗って、1493年でいいんでない。
個人的には学校で習った応仁の乱からってのがしっくりくるけどね。
どっちであれ、一応の中央政権である室町幕府関連の事件を境目にするほうが、
理解しやすいでしょう。
伊勢宗瑞は、戦国時代の始まりを象徴する人物の一人だとは思うけど、
日本全体での時代の区切りとするには、ちと地方的な存在じゃないかな。
関東に限って言えば、宗瑞が出てくる前から、すでに戦国時代が始まってるとも言えそうだし。
どーでもいいけど、高校の教科書で戦国初頭を扱わないのはおかしいと思う。
義尚から義輝の間なんか用語辞典にすら載ってないし。
尼子経久の月山富田城奪還し京極氏からの独立が、室町幕府の権威否定だったのなら1486年に戦国開始となる。
応仁・文明の乱にしてもそうだし明応の政変にしてもそうだが、これは幕府内部での家臣の権力争いだったらこれは戦国開始とは言えないと思うんだが、どうよ?
>高校の教科書
これで思いついたが、
江戸や室町以前の知識人たちは
歴史をどのように学んでいたのだろうか?
小学館のまんが日本の歴史のような贅沢極まりない教材がないあの時代に。
後醍醐天皇、といわれても肖像画はない。
戦国の終焉はいつか?と訊かれたら後北條氏降伏といいたいところだが、すでに信長の大坂本願寺を屈服させたことで終焉したと思う
>>540 名実共に後北条氏降伏でしょう。惣無事令という宣言もあるんだし。
本願寺降伏の時点では、毛利は織田と敵対してるし奥州や九州では血生臭い抗争は
続いていた
542 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 01:55:36
>>535 明応の政変と伊勢宗瑞の伊豆侵攻は同じ年の出来事だし、両者は互いに連動して
起こっていたわけだから、「明応の政変が戦国時代の始まり」というのなら、
それは「伊勢宗瑞の伊豆侵攻が戦国時代の始まり」ということと、ほとんど
同義なんじゃないかな。
>>536 享徳の乱は形式的には都鄙合体で一応ケリがついているので、まあ関東に
おいても明応の政変からということでいいんじゃないかな?
>>538 尼子氏が京極氏と争ったところで、幕府そのものの否定などということとは
結びつかないでしょう。
守護家と守護代家の争いということなら、応仁の乱以前にも越前における
斯波氏と甲斐氏みたいな例もある。
それに尼子氏の場合、血縁的に京極氏本家に極めて近い支流だから、これは
出雲守護家としての京極氏の内部での内紛と見ていいようなもの。
543 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 01:56:19
そういえば一部には永正の政変から戦国時代とする説もあるようだ。
>>537 明応の政変
永正の政変
享禄の政変
永禄の政変
といろいろあるよな。
ちゃんと説明できる人よろ。
幕末の写真なんか見てると、同時期の清国人とあまり変わらない顔をしているような
気がするのは気のせい?
明治辺りの写真から現代人的な顔立ちをしてるような気はするが…
幕末はイタチ外。
547 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 11:22:00
>>537 戦国初期だけでなくそれ以前も含めて南北朝・室町の政治史は扱いがお粗末だよ。
高校の日本史の教科書には「正平の一統」「康暦の政変」「禁闕の変」みたいな
中世史において基本中の基本というべき事件ですら出てこない。
548 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 12:18:12
>>542 都鄙合体は扇谷・山内両上杉間がキナ臭くなってきたことも原因の一つ。
だから、幕府と古河公方の間で調停がついたというだけで、既に関東の戦乱のメインどころからは外れた事象。
事実、数年もしないうちに長享の乱(扇谷vs山内)が始まっている。
>>538 そもそも明応政変に戦国の始期を求めている論者は室町幕府の全国政権としての体裁はずっと継続していたという観点で論じているからな。
室町幕府自体、全国政権といっても江戸幕府みたいに強大な権力を持っていたわけじゃないから、尼子みたいな騒ぎはそれこそ応永の乱や明徳の乱、後南朝など枚挙いとまない。
恐らく、京極→尼子が戦国始期とするなら、元弘の乱あたりからずっと戦国時代になるだろう。
南北朝と戦国初期と昭和初期は何故か日本史の中ではぞんざいに扱われてるよな
特に昭和初期、日本が朝鮮や満州でやった良い行いの事を歴史に触れても良いんじゃないか?
遅れていた朝鮮の地を近代化させ鉄道を敷き殖産興業をもたらし産業を育て国を豊かにし、さらに医療を充実させ学校を作って貧しい者でも通えて字を読めるようにしたとか
552 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 01:10:18
>>548 それは上杉氏の氏族内での内紛という理解でいいと思うよ。
元々は山内上杉氏の一庶流に過ぎなかった扇谷上杉氏が享徳の乱の過程で
力を持ち始めたことで上杉氏内部のパワーバランスが微妙になり、最終的に
扇谷上杉氏が山内上杉氏からの独立を指向するようになる。
規模は違うけど、尼子氏が京極氏からの独立を指向し始めたのと同じだと思う。
553 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 01:18:55
>>549 ある時期以降の室町幕府は、全国統治をする能力の有無以前に、全国統治をする
気がなくなっているという感があるね。
足下さえ平穏ならばそれでいいというような。
あと、のちの江戸幕府と比較することに意味があるかどうかは分からないが、
江戸幕府は仮に将軍に政治的意思がなくても重臣達の合議制で問題なく機能する
政権なのに対して、
室町幕府の仕組みは将軍独裁色の強い政権だから、政治的に安定するか否かが
将軍個人の資質に大きく左右される傾向がある。
将軍独裁を実現した将軍って義満と義教だけじゃないか
553は「将軍職」の権限が強い政体だったと言ってるんでしょう。
将軍個々人の資質の問題では無いかと。
将軍というのが外国で言うところの国王だから、老中や大老って呼ばれてる人が首相って事になるよね?
557 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 21:42:54
>>556 >将軍というのが外国で言うところの国王
違う。
558 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 01:04:50
>>554 末期の足利将軍とか見ていると腐っても独裁者って感じが強いよ。
自ら仕切らないと気が済まない(傀儡になれない)から、すぐに臣下の武将と
対立して長続きしない。
559 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 01:15:11
age
560 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 03:24:35
室町幕府の性格を決定づけたのって義詮だろうな。
世俗の政治に興味のない尊氏とは対照的に、義詮はなんでも自分が
仕切りたがる(将軍親裁にしないと気が済まない)タイプ。
そしてその義詮と細川頼之の引いたレールの上に乗っかってやりたい放題
やったのが義満。
なんで昭和辺りになると、士族は戸籍にちょっと書いてあるだけの存在になったのに
華族は特権階級の地位を保てたんですか?
562 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:48:04
563 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 21:01:34
564 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 01:14:08
>>554 そうかい?
初期の直義丸投げ時代と将軍が幼少の場合とかを除外すれば、室町幕府って
構造的に内部での幕府運営の意思決定過程が極めて独裁的な印象だが。
京都のあたりに鬼の家系があったそうですが
今も伝承あるんでしょうか?
>>564 オーナー社長のようなイメージは確かにあるな>室町幕府将軍
室町幕府の将軍が事実上、政治の実権を持ってたのは6代将軍・足利義教公までじゃね?
7代将軍・義勝以降は常に外戚や山名とか大内とかの有力守護大名に補佐され権力を握られてたような感じだし
まあ義満も細川氏や斯波氏に補佐されてはいたけど、権力を握られるまでは至らなかったと思う
>>567 義政も権力を持っていたと思う。
傀儡ならば、その意思で守護の人事がひっくり返ったり、側近が大きな力を持って批判されるようなことはないでしょう。
義満のような、大大名を実力で排除できるような力はなかったかもしれないですが。
一休さんは世界中で放映されているそうだが、
日本の征夷大将軍はゆかいな人だと誤解されていないか心配だ。
>>568 義政には日野一族がいる。あと義政の父・義教の仇である赤松を討って功績のある山名持豊とか
571 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 04:50:20
>>568 斯波氏のお家騒動なんて、義政の意思がころころ変わったことが問題を
深刻化させた最大要因だものな。
義政に政治的な権力がないのなら、斯波氏が義政の心変わりに一々振り回される
こともないわけだから。
応仁の乱は、やり方次第では潜在的に絶大な権力を振るえる立場にいる義政の
政治に対する姿勢が今一つ中途半端で意思がハッキリしない(頻繁に決定を
ひっくり返す)ことが、いろいろな問題を深刻化させて最終的に爆発しちゃった
ようなものだな。
あと義尚段階でも六角氏征伐なんかではあれだけ大量の兵力を動員できるだけの
軍事力・経済力が残っているわけだし、なおかつ諸大名を動員できるだけの
権力も維持している。
やはり根本的に何かがおかしくなるのは、将軍家自体の分裂が起こった
明応の政変以降じゃないかな。
572 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 05:13:27
初めて日本史板に来たんだが、ここの住民って何者?
みなさんいくつですか?
>ここの住民って何者?
誰も口に出して言わないが、
小中学生の頃、小学館のまんが日本の歴史(児玉 幸多, あおむら 純) の読者が大半。
あれでテストで高得点を連発し、好きこそものの上手なれを実践してきた人たちだ。
・・・これは「公然の秘密」ってやつだ。
以後、口に出してはいけない。心中に秘めておくべし。
574 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 06:06:07
大学生です。
京都の時代祭についてのレポート(A41枚以上)を提出しなければならないのですが、
教授は時代祭についての本を執筆していたりする方なので、
在り来たりな内容ではいけないと思っています。
教授いわく、理想は、実際に時代祭に行き舞台裏を見学し、
祭参加者に舞台裏での苦労話などを聞きまとめる事らしいですが、
月曜日は他の講義を受けなければならないので現地へ行く事ができません。
私のような場合はネットや本で調べるなどしてまとめても良いとおっしゃっていましたが、
先生に面白いと思ってもらえるレポートをつくるには、
どのようなテーマにすれば良いと思いますか?
>>574 レポートでネタに困ったときの必勝法↓
「おいしいカレーの作り方」
576 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 09:52:41
国外逃亡
>>574 舞台裏なんて学生にとってはバイトで行列に参加するのが一番じゃないか。
京都の学生と言えば定番中の定番だろうに。なんでやらなかったんだ?
学生の場合は、旗持ちの役か最後の桓武・孝明天皇列の道具持ちだと思うけど
出番前にはいろんな時代の人に話聞けるし、衣装・武具や調度品についても
その気があればいろいろ聞けるはず。
578 :
574:2007/10/22(月) 19:48:51
>>577 男子にしかお声が掛かりませんでした。
授業を休んで時代祭の見学に行ったのですが、
長々と感想を書けるほど感じた事はありませんでした。。
何か良い感想はありませんか?
579 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 20:15:55
>>574>>578 詳しくは知らないが、確か今年から室町時代の行列が加わったんだろ?
だから新規参加の室町に絞って講評してみるのも一考かと。
580 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 20:59:56
白村江の戦いで、日本は数万の軍勢を朝鮮に揚陸して攻めあがってきてますが
古代日本の技術でこれを可能にしたのは何ですか?
好太王碑に書いてあるように、舟を使った戦には慣れてたんでしょうか?
583 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:30:10
>>581 神武東征の時代から古代の日本人は水上戦に慣れています。
てゆうか前近代の日本の戦争って、特に瀬戸内などの西日本では水上戦が
メインだし、また東日本でも江戸内海(現東京湾)と香取内海(現霞ヶ浦)と
いう大きな内海(現代よりも遙かに広い)が存在する関東地方なんかは、
水上戦がメインだったといわれる。
平安初期に起こった平将門の乱と藤原純友の乱は、いずれも水上戦がメインの
戦乱だったしね。
584 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:40:12
>>573 でも日本史の研究者や院生に対して、日本史に興味を持った最初のきっかけを
聞いてみると、一番多いのは大河ドラマって話らしいぞ。
585 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 18:01:48
>>581 でゆうか「白村江」ってどうして「はくすきのえ」なんて変な読み方するの?
朝鮮の地名なんだから、朝鮮語で「ぺくちょんがん」でいいのに。
>>585 「白村江」は当時の本に書かれているけれど、「ペクチョンガン」はあくまで
今の読み方なのだから敢えて使うほどのことはない。
当時の読み方を尊重するのはいいこと。
「はくそんこう」は日本語式の訓(よ)み。那々志先生の受け売りだけれど。
わかりやすく書けば「はくすきノ江」で、最後の「ノ江」は「の河口」という意味。
騰波ノ江、塩ノ江、鵜ノ江、下ノ江…日本には「ノ江」を含む地名がたくさんある。
残りの「白」は「はく」でいいとしても、日本語では「村」を「すき」と読んだことはない。
だからこれは古代朝鮮語での地名をそのまま写したんじゃないか…っていう話があるそうな。
こういうのを大切にすると皆に歴史がわかる。歴史教育によい。
一時は倭寇と称してインドシナ辺りまで荒らしてたのにね。
なんでその伝統的な航海術や船舶等が今に伝わらなかったんだろ?
タモリ曰く
「地名はその土地の記憶だから簡単に変えてはダメだよね」
「はくすきのえ」という読み方にもその時代を生きた人の記憶がある。
調べれば当時の人々の思いが蘇るタイムカプセル。
じゃあ当時の読み方通りに「ぱくすきのうぇ」って読まないとね
そこまでするとアナクロニズム
> 今の読み方なのだから敢えて使うほどのことはない。
とおっしゃっていたのでまっとうな理由をお持ちかと思いましたが
ただの恣意的な理由でしたか。失礼しました。
592 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 02:14:14
>>589 「パクツキノイェ」もしくは「ファクツキノイェ」だと思うが。
この時期だとハ行子音は[p]か[Φ]か微妙。
サ行子音はおそらく[ts]だが、[t∫]の可能性もある。
ただ前舌母音の前では、引きずられて[t∫]になりやすいが、後の母音が[u]なら
たぶん[ts]か。
「江」はヤ行の「エ」。
なお「はくすきのえ」の「き」については、これが上代特殊仮名遣いで
「キ」の甲音なのか乙音なのか、知らない。
>>592 訂正さんくす
「江」は「ゑ」だと思ってた
594 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 05:37:12
>>593 いわゆる歴史的仮名遣いにおいても「江」の読みは「ゑ」ではなく「え」。
但し平安中期の発音がベースの歴史的仮名遣いは、既にア行とヤ行の「エ」を
区別しなくなっているので、注意。
「江」の場合は、平安初期以前の万葉仮名の書き分けからヤ行の発音である
ことが分かっている。
なお中世以降の文献では「江」を助詞の「へ」のように用いる用法があるが、
これはいうまでもなく、ア行とヤ行の「エ」、語注語尾の「ヘ」、「ヱ」が
全て[je]という発音に統一された後に生まれた用法。
>>585 現代韓国語では白江戰鬪(ペッカンチョントゥ)、
現代中国語では白江口之戦なので、白村江という
文字列を朝鮮読みする必然性は全く無い。
むしろ白江口という用語を使えということだ
一瞬白濁エロと読んでしまった
598 :
あああ:2007/10/24(水) 23:15:53
英会話学校の宿題で、日本・世界の偉人を英語で紹介しろ
みたいなのが出たんですが、楽しいエピソードのある偉人って
誰のどんなエピソードがありますか?
今のところ、伊藤博文の女好きと、超浪費家にして資本論のマルクス
くらいしか思い付きません。 人名とキーワードだけ教えてもらえたら
後は何とか調べますんで、ヒントおながいします <(_ _)>
599 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 23:26:57
>>594 同様に、「オ」、語注語尾の「ホ」、「ヲ」は全て[wo]に統一されたんだな。
600 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 23:29:33
>598
ユリウスカエサル
keyword:
@天文学的借金
A100%他人のカネで帝国創造
した前代未聞の革命家
寄進地系荘園と初期荘園って一緒ですか??
603 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 02:18:44
>>602 とりあえずそのふたつをぐぐってわからなければまた質問してください
>>598 楽しいかどうかは別にして、おサツに載っているヒトってのは、
だれでも知っている。外国のおサツでも面白いんではないか。
コインでもいいが。
昔自分もやった同じ教材みたいに思えてなつかしかった。
606 :
あああ:2007/10/25(木) 15:39:24
米ドルくらいしか持ってないんで、、、(′・_・`)
みんなありがとう! おもろいネタって少ないんですね。
>マリー・アントワネットをナンパしたモーツァルト
おもろい。
>新史学のキムタカ
知らない。
>ユリウスカエサル
傑作!
引続き
>>598 おながい!!
>>598 楽しいエピソードね…
>>605がいうお札に載っている人では
・福沢諭吉…ま素直に福翁自伝でも読め。
清岡暎一の英訳本もある。県立図書館へ行けばあるかもしれん。
・新渡戸稲造…農学校(いまの北大)時代の話しかなぁ。
あと一高校長時代の野球害毒論とか。
留学時代のこととかね、まあ候補に挙げられるんでないかと。
・樋口一葉…実はフェミの嚆矢の一人でもある。愉快なエピソードは…
・野口英世…放蕩癖に金の無心。エピソードは数知れず。
>>604 わかりません・・・
どちらも人を使って自分の土地にしたんですよね?
>>608 寄進地系荘園=誰かから寄進されて成立した荘園
これに対する用語は自墾地系荘園
初期荘園=中世の荘園制とは違う初期段階の荘園
これに対する用語は領域型荘園
610 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:35:31
>>606 知らないって……。
だからリンクを貼ってやったのに。
質問に答えてくれた人に対しての反応がそれか……素晴らしいね。
611 :
あああ:2007/10/25(木) 21:07:45
↑ ごめんね。 全く興味が無い内容だったので、、、
>・野口英世…放蕩癖に金の無心。エピソードは数知れず。
調べてみます。 お陰で諭吉の娘の婚約否定ネタ思い出したよ。
ところで、戦後食糧難の頃に「人を裁く身で、ヤミ米は食えない」って
餓死した東京地裁の山口良忠判事って無名なの?
612 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 21:20:35
>>611 無名でも、有名でもない。
他にもそういう人はいるし。
あああ、なんて厨以下の嵐みたいなハンドルに付き合うなよ
>>611 私は授業で聞いたのでわりと有名な人ではないかと思います。
でも、エピソードと役職は覚えていても名前までは失念していましたが。
615 :
あああ:2007/10/25(木) 22:35:15
↑ ラスト侍 だね!
>他にもそういう人はいるし
具体的に泣ける話教えて。
616 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:22:46
617 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 00:04:33
>>615 亀尾栄四郎
「いやしくも教育者たる者、表裏があってはならぬ。どんな苦しくても、国策に従う」
泣けるかどうかはまた別。
そもそも、山口判事だって美談のように語られているが、息子にはボロクソに言われている。
618 :
あああ:2007/10/26(金) 00:10:36
私は秀吉が1国にも値する茶器を家康公に見せびらかした時に
「私にはそのような高価なものは持ち合わせておりませんが
私を大事に思って火中へも飛び込む、500騎ばかりの家臣が居るので
その者達を大切にしております」ってやり込めた逸話が泣ける。
日本の経営者達に言い聞かせたい。
619 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 00:14:33
>>618 見事な話ではあるが、泣ける話ではない。
似たようなエピソードが戦国時代の中国にあるが…
豊臣秀吉と言えば、親指が2本あったという説があるな。真偽は定かじゃないが。
>>616 高校の教科書的説明をすると
自墾地系+既墾地系荘園の総称。
つまり初期荘園と概念的にはほぼ同じ。
既墾地系は地方豪族が開いた墾田を買収して得た荘園のこと
ただ既墾地系は寄進地系との概念の差があいまい。
寄進者が豪族か開発領主か、「買得」か「寄進」かの差で本質はほとんど一緒
ということで、荘園のタイプ的な話ならば初期荘園(田地のみで構成)か領域型荘園(田地以外も含む領域的な荘園)
成立状況からの区別では自墾地系か寄進地系
これが最近の論調
加藤清正は朝鮮の役で虎退治が有名だけど、当時の朝鮮半島に虎っていたの?
>>622 戦前までは、有り触れた猛獣だった。
朝鮮総督府が作った虎の駆除についての資料が残っていたかな、
ハングル板で見たことがある。
昔は亜種としてチョウセントラと名づけられていたが、DNA調査などから、
今ではアムールトラ(シベリアトラ)と同種といわれている。
北朝鮮には今でもいるらしいが、韓国では絶滅したといわれている。
金日成から一つがいの虎が贈られたこともある。既に死亡していて
その仔が神戸市立王子動物園に飼育されている。
624 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 13:11:41
近代以前に盲腸を病んだらどうしていたのでしょうか?
基本的に外科手術は無理ですよね。薬のみで乗り切ったのでしょうか。
625 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 13:20:21
>>624 不治の病。
ちなみに、現代でも盲腸で死ぬ人はいる。
平安時代の貴族って宮中で仕事しているときは裸足だったんでしょうか?
それとも足袋のような靴下を履いていたんでしょうか?
後者の場合、ずっと宮中に居る天皇や後宮の住人達は履きっぱなし?
さすがに夜は脱いでたんだろうか。
貴族に聞け
あっ … はい …すいませんでした
630 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 02:24:21
>成立状況からの区別では自墾地系か寄進地系
>これが最近の論調
アフォか。今時、自墾地系だの寄進地系だのなんて云う奴はおらん。
632 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 03:20:09
恥ずかしいが、ざっくり質問させてください。答えは一生大事に覚えますから。
卑弥呼さん以降から鎌倉時代まで、どういう○○時代があるのか順に教えてください。
それから、○○京というのも、京都奈良だけでなく大阪とか琵琶湖にもあったらしいけど、
どういう順なのか教えてください。
教科書とか本とか、いろいろ他のことも載ってて怖くて見られなくなった。
もう一度読む自信をつけたいから教えてください。
633 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 03:38:09
>>621 初期荘園じゃなくても領域型とは言い難い荘園ってありませんか?
特に畿内周辺では。
634 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 08:14:59
>>632 答えてやるから、その前に一度死んでこい。
江戸時代の武士の官職は朝廷の定員外(だから同じ官職の大名や旗本が複数同時に存在する)と聞きますが、
それ以前はどうなのでしょうか?
戦国時代などは結構地方の国人クラスにも官位を与えていますが、ちゃんと管理していたのでしょうか?
例えば、○○守を与えたら以前与えた人にあなたは前○○守になりましたと連絡したりとか、○○守は既にいるのでダメですって与えるのを拒否したりとか。
>>635 けっこう慣例やら血縁やらの重視で整理してたと思う。
寄進してれば効果倍増。
638 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 17:11:43
>>635 室町の段階で、武家では同じ官名を特定の家系が世襲している傾向が強い。
あと自称を含めれば、同時に同じ官名を名乗っている者が何人もいる。
さすがに自称で征夷大将軍を名乗るバカは
いなかったみたいですね
640 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 19:20:04
いま現在活躍している政治家、文化人、芸能人などの有名人のなかで、
由緒ある家系の末裔といえば誰がいますか?
641 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 19:27:02
麻生太郎とか安藤和津とか、腐るほどいる。
642 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 19:27:33
643 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 19:28:27
炭鉱屋ふぜいや政党政治家の妾の子が由緒あると言えるか疑問だが。
644 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 19:33:18
麻生って吉田首相や三笠宮との縁で名門扱いされるけど、麻生家自体はたいしたことない。
中世の武家の子孫っていうけど、その程度なら地方の旧家にいくらでもいるしな。
明治までは福岡藩領の庄屋かなんかで、明治になって炭鉱屋で成功したというだけ。
そんなご大層な家柄じゃない。
吉田にしても、土佐の郷士の妾腹の子が成り上がりの貿易商の養子になっただけだし。
645 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 20:39:27
>>644 牧野と大久保についても触れてあげてください
.
>>635 >室町の段階で、武家では同じ官名を特定の家系が世襲している傾向が強い。
>あと自称を含めれば、同時に同じ官名を名乗っている者が何人もいる。
私称の場合同一の官職がダブる例があるのは知っていますが、あくまで正規の官職の場合です。
修理大夫とか左京大夫とか一杯いるなあと思ったもので。
>>631 お前があほ。
わざわざ間の行省いて捏造して脳みそ腐ってんだろw
648 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 02:48:47
>>646 朝廷の官職の定員とは別に、武家を任官させている例は実際には室町くらいからあり得ます。
649 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 04:30:43
650 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 05:21:49
このスレって貧弱な知識の持ち主しかいないんだな。
レベル低すぎ。
>>648 >朝廷の官職の定員とは別に、武家を任官させている例は実際には室町くらいからあり得ます。
なるほど、江戸時代に限ったことでは無いのですね。回答ありがとうございました。
652 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 09:07:44
スレチかもしれませんが、回答頂けたら嬉しいです。パソコンか携帯で日本史を勉強したいのですが、おすすめのサイトがあったら教えて下さい。
>652
目的は何?
金に触ったら手を洗う習慣があるのは日本だけって本当ですか?
なんでも金銭を穢れたものと捉えるとか…
655 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 15:26:22
江戸時代に高度な計算はどのように行っていたのでしょうか?
算盤や算木だけとは思えないのですが。
656 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 21:25:21
戦国時代の大名同士の人質の差出や政略結婚は、裏切り防止や友好関係の構築に実際に役に立っていたので
しょうか?
徳川家の千姫→豊臣に嫁ぐも戦争防げず
お市の方→浅井長政と結婚しても裏切りを防げず
人質を差し出した方も、人質を最初から見捨てる前提で出していたらそもそも人質の意味がありませんし。
>655
経理のことは全く知らないから↓がどの程度のレベルなのか分からないけど
石田三成は今日でいうところの複式簿記を算盤でやっていたらしい
堺屋太一が感心していたよ
堺屋は歴史考証のリサーチは甘いけど、経理のことはド素人の漏れより詳しいと思う
でも、あんまり参考にはならないか(苦笑
堺屋は複式簿記は近江では早くからやってたって言ってる
659 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 03:46:17
660 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 04:00:55
>>639 宣旨職って、あまり自称されることはないよね。
>>654 金は不特定多数の人が触っているから、衛生的な理由じゃないか?
と言うか、子供の頃そう教育された。
662 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 16:42:30
653さんへ
日本史が苦手なので、携帯などで見て学習の習慣をつけたいからです。もしマンガなどがあれば、日本史に親しみやすくなれると思ったからです。
663 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 17:36:36
>>662 普通に各社から出ている漫画による日本の歴史のシリーズでも読めよ。
664 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 18:50:53
>>650 でも君よりレベルの低い人は、そういないから安心していいよ。
665 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 18:53:44
問1 文永の役におけるモンゴル軍の出兵の目的を答えなさい
問2 鎌倉幕府の御家人が13世紀の後半に貧しくなった理由2つ答えなさい
問3 14世紀の後半に、明の皇帝から最初に日本国王と認められた勢力を答えなさい
問4 足利尊氏が京都に幕府を開いた理由を2つ答えなさい
問5 15世紀の初めに、朝鮮国王が対馬を突然、武力占領した理由を答えなさい
中間テストでこのような問題が出てきたのですが
答えがわかりません どなたか教えてくれませんか?
667 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:19:41
>>654 そんなことはない。海外にも普通にある。
>>661 ところが、お金は実は言われているほど不衛生ではない。
>>666 問1 元朝の領土拡大政策の一環、もしくは通商(朝貢)を断られた報復
問2 高い費用を払って元を追い出したはいいけど、得るものがなかったから
問3 九州の南朝勢力
問4 吉野朝の牽制、北朝の擁護
問5 倭寇の本拠地だと思ったから。
>>668 ありがとうございます
よろしければもう少し詳しく教えていただけませんか?
670 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 20:34:45
671 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 20:41:57
>>666 問1 南宋との経済的文化的な結びつきの強い日本に対する牽制
問2 徳政令の悪循環
問3 日本国王良懐こと征西将軍宮懐良親王
問4 『建武式目』『梅松論』等参照
問5 対馬守護宗氏への臣従要求のため
>>666 >>668が教科書的回答なので、日本史板的に
問1高麗の弱体化と元宋兵の棄兵
問2分地相続制度の破綻
問3征西将軍府
問4
>>668と同じ
問5占領していません。撃退されました。
問1 文永の役におけるモンゴル軍の出兵の目的を答えなさい
モンゴルの膨張政策。日本で産出される金銀。朝鮮による使嗾。
問2 鎌倉幕府の御家人が13世紀の後半に貧しくなった理由2つ答えなさい
貨幣経済への未対応。人口の偏在。
問3 14世紀の後半に、明の皇帝から最初に日本国王と認められた勢力を答えなさい
パス。
問4 足利尊氏が京都に幕府を開いた理由を2つ答えなさい
尊氏の無定見。直義の固陋。
問5 15世紀の初めに、朝鮮国王が対馬を突然、武力占領した理由を答えなさい
李氏朝鮮の国民へのガス抜き。
朝鮮の頭越しに勘合貿易が行われ始めたことへの不満。
明の倭寇討伐により日本の防衛力が損なわれたとの錯覚。
阿倍仲麻呂の歌で百人一首にもある、天の原…の歌ってなんで日本にあるんですか?
結局帰れなかったんでしょ?
なんで徳川氏は大阪城に、既にある石垣をわざわざ埋めて
その上に新しい石垣を建てたのですか?
676 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 02:50:08
>>676 妙な所に食い付いたな。問1か問5あたりに来るかと思っていたが。
じゃあ、菊池・名和・忽那などの私貿易に利権を持つ豪族に支えられていた為、
朝貢貿易の確立に敵対的で、明の中華的な外交文章に「無礼だ」といちゃもんをつけた、
当時北九州しか支配していなかった征西将軍宮懐良親王。
黒田清隆の超然主義演説についてなんですが、
憲法は敢て臣民の一辭を容るヽ所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、
其合同する者相投して團結をなし、所謂政黨なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり。
然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政黨の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす。
各員宜く意を此に留め、不偏不黨の心を以て人民に臨み、
撫馭宜きを得、以て國家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり。
のだいたいの意味を教えて欲しいです
679 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:21:47
すいませんage忘れました
680 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:59:16
今は自主独立のために「公正」な政策を継続しないとダメな時期だから政党の言うことはききません。
だって政党って一部の国民の利益を代弁してるだけで公正じゃないもんね。
ってこと
682 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 08:54:22
質問です
宮本武蔵が巌流島に向かうときに乗っていた船頭は船の前と後ろどっちにいてどのように漕いでいたのでしょうか
>>682 艪漕ぎの船で移動したとか。向きは映画などを見て下さい。
ところで武蔵は下関阿弥陀寺町の船宿からこの島に渡ったそうですが、
この辺りは潮流が速いので有名なところ。(壇ノ浦の戦いの話を思い出してください)
武蔵が遅刻したのは、生憎潮の流れが悪かったため変わるのを
待っていたからだという説があります。
艪漕ぎで潮に逆らって移動するのは大変ですからね…
684 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:42:34
>>678 大体の意味程度なら、貴方が日本語不自由な帰国子女とかでない限り、ちゃんと
読めば分かると思いますよ。
それ以上、一字一句の厳密な意味を知りたければ、辞書を引いて下さい。
てゆうか近代は日本近代史板の範疇なので厳密には板違いですが。
享保・寛政・天保が「江戸の三大改革」と言いますが、
この3つを三大改革だと言い出したのは誰ですか?
686 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 01:39:11
教えてください。
今度仕事で、大量の日本史の入力を
することになりました。
パソコンの入力辞書でおすすめの、
または、定番はありますか?
ぐぐってみると、有料のもの無料のもの、
けっこうたくさんあり、
こちらで教えていただこうかと。
よろしくおねがいします。
688 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 10:00:38
なんで平安時代の著名人の墓ってあんまりないの?
藤原道長なんか、あんなに絶大な権力者だったのに葬られたところすら不明だとか…
管理がおざなりになったせいです。
没後100年ほどで嵯峨天皇の墓の位置も分からなくなったそうですし。
691 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 07:30:46
天皇の場合はそうだが、貴族だと蝕穢との関係がある。
貴族は自分の身内でも葬送に加わるのは異例だったから、埋葬場所も禄に知らないケースは多い。
ただ、道長の墓所は大体推定できた筈。むしろ、それ以外のほとんど全員が宇治の木幡山山中に葬られたという以外に全く不明。
牛飼い童は大人であっても童形だったって本に書いてあったけど
そもそもなんで童形じゃなきゃいけないの?
牛飼いが大人の格好すると何がまずいの?
なんで坊やの文体は
なんで〜なの?+1文なの?
694 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:04:59
戦国〜江戸時代まで、ず〜っと同じ家が治めてて、
しかも内政が飢饉でもない限りず〜っと安定していた
…そんな大名の鑑のような藩ってありませんか?
「なんで」がないだけで
短文の疑問文+1文の構造を
なんで変えないの?
696 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:29:17
697 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:29:20
大室寅之祐が明治天皇にすげ代わったって説はトンデモなんですか?
698 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:32:58
>>696 民営化前の国営企業みたいな危機的な財政の
どこが安定していた藩なのかと
699 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 18:57:54
幕末は板違い
700 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 18:59:15
>>698 支配は安定しているだろ。内部から島津氏を倒そうというような勢力は出ていない。
>>692 日本史板で聞くより民俗板で聞いた方がいい答えが返ってくると思うよ
ちなみに牛飼い童が童形な理由として自分が見たことあるのは以下の二つの説かな
1.民俗学的な、童形を「小さ神」と関連づけて説明する考え方
常人とは異なる存在、または「神聖な存在」が幼い子供の姿で現れる、といういうもの
2.子供のような従順さを望まれていたため
>>700 安定しているどころか、分家同士の争いを勝ち抜いた家が本家を乗っ取ったようなものなんだけど。
戦国時代に内輪で争ってない家自体が思いつかないが。
関が原の戦いの時、毛利や吉川、長宗香部は南宮山・栗原山から家康に攻め下らなかったのはなぜですか?
高所かつ背後で絶好の布陣だと思うのですが。
吉川軍が一番前だったのだが、その吉川が内通していて動かなかったから
後ろの毛利軍はどうにもできなかった
708 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 03:35:22
>>703 戦国以降から近世ということなら、貴久の宗家相続以後だろ。
山川の日本史研究読んだだけの素人が
大学レベルの日本史を勉強するなら、
どんな参考書がおススメ?
本屋だといろいろ全集とかあるけど、
どれがオーソドックス?
他人を装っても文体は変わらない。
短文の疑問文−なんで+1文
711 :
709:2007/11/04(日) 09:02:52
>>710 ??
俺のこと?
そうだとしたら誤解
このスレどころかこの板に書くのも初めての
ただの理系大学生です。
正直すまんかった。
どの参考書がいいかは他の達人に譲るとして、
参考書等で問題の核心をぐるぐるまわるのはよくない。
いきなり問題を解いて最短距離で切り込むのもひとつの方法だと思う。
参考書は辞書の代わりに使う。問題から参考書へ。
713 :
692:2007/11/04(日) 10:34:16
>>701 ありがとう。個人的に2の説より1の説の方がしっくりくる気がする。鬼に「〜丸」という子供のような名前がついてたりするのも、やっぱりちょっと人とは違う者として認識されていたからなのかな。
異形に関する民俗学の本とか読んでみます。
>>693ってただの煽りだと思ってたけど
>>712の反応見ると私の方が煽りだと思われてた?
質問する時ちゃんと丁寧語使ってなかったのはこっちも悪かったけど
>>692しか書き込んでないです。
それ以外の人とは別人です。
714 :
709:2007/11/04(日) 13:18:45
>>712 サンクス
問題を解いていく方法もあるのかあ、と参考になった。
俺は自分の専門分野でも本ばかり読んでいるから、
自分で計算問題を解くことの重要性を痛感していた。
日本史も問題を解くことが重要だとすると
意外と文系も理系も勉強法は似ているのかなあと思った。
明治以前に知的障害者っていたの?
そりゃ居たんだとは思いますけど、いつの時代の資料にも載ってないような・・・
高校生のときに日本史の授業で、大学別曹を習ったときに
藤原は勧学院、橘は学館院、和気は弘文院、在原は奨学院と覚えたんですが
時代を下ると、源氏長者の称号の一つに「淳和奨学両院別当」ってのがあります。
在原氏は別当をクビになってしまったんでしょうか?
717 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 14:52:12
>>715 そういうのは、座敷牢にぶち込まれてる。
徳川家綱の代がわりの武家諸法度
ってどういういみでしょうか??
武家諸法度っつうのは将軍が代わるごとにマイナーチェンジするんだよ
>>717 記録ぐらいあってもいいと思うがね〜
社会的に消されてたんだろうか?
>>716 奨学院を設置するように提案したのは在原行平だけど、入学対象者は皇族と姓を賜り臣下に下った皇胤(だから平氏などからも入学する)
別当職は皇胤のなかで官位が一番高い人が就任するのが通例だったので、在原氏など他の氏族が没落して源氏を官位面で上回ることがなくなり、
別当職を源氏が独占することになった。
そのうちに源氏の官位が一番高い人(源氏長者)に伴う役職と認識されるようになった。
722 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 01:21:50
昔の円の価値が現在の価値でどれくらいにあたるか、ということはどのようにして調べればよいのでしょうか。
具体的には、明治29年の265円が現在では何円にあたるのかです。
>>722 10kgあたりの米の値段でいくと明治29年は64銭
平成16年が3536円で5525倍になってます。
なので265円は146万4125円となります。
賃金ベースで言うと明治25年と今では5000−6万5000倍ぐらいと
結構差があるので、かなり強引ですが4万倍と考えると1060万円
ってことで最低でも140万 多ければ1000万超ぐらいというすごくあいまいな数字になりました。
ちなみに明治29年当時の265円を今銀行に持っていけばやはり265円のはずです。
724 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 01:44:20
>>720 はだしのゲンでも、知的障害者じゃないが、ピカドンでやられた弟を家の中に押し込め、放置している描写があるでしょ。
まぁ、あんな感じで、家族からもやっかい払いされて、存在すら否定されているんでしょ。
>>722 何を基準にするかで、額が全然違う。
>>721 ということは、平氏政権の時の清盛は奨学院別当だったこともあるのかな?
>>725 >ということは、平氏政権の時の清盛は奨学院別当だったこともあるのかな?
院政期に入って大分経ったころだから、なってないんじゃないですかね。
官職の世襲化とか、家柄の固定化がかなり進んでいるから。
727 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 20:08:50
弓矢についての質問です。
アーチェリーの講演で
「矢に適した枝は基本的に無い。矢は貴重品だった。」
「木を裁断して整え矢を作るのは大変な作業。竹も扁平であるのを整える問題や強度に難がある。」
「矢は木目に沿わなければ折れ易い。」
「矢では致命傷を与えにくく石を投げた方が効果的。」
等の話がありましたがホント?
>>727 本当…と思われますが、貴方はこの話のどこに疑問をお持ちになったのでしょうか。
729 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 21:41:41
矢が貴重品なら撃てないし
矢で致命傷が与えられないなら武器にならない。
根本的におかしいと思う。
>「矢では致命傷を与えにくく石を投げた方が効果的。」
こんな説あったっけ?
戦場での負傷状況を分類して投射武器(弓・投石) > 槍 > 刀 つまり遠戦志向が強かったって主張は聞いたことあるが。
それに対して、上記のデータは負傷に限るので死亡例が含まれていないという批判もあったと思う。
(組討ちまでいったら死亡率が高いはずなので、実際の被害は異なるという主張)
問屋制家内工業と工場制手工業の違いを誰かわかりやすく説明してもらえませんか?
>>732 問屋制家内工業 = 内職
工場制手工業 = 町工場
734 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 18:53:20
江戸期の藩主クラス以上の人物が書いた和歌集などの著作物の名前を
一覧にまとめたような本やサイトってありませんか?
735 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 21:05:42
戦国時代の武功で「首六級」の武勇とありましたが、
これは身分の高い6人の敵の首を取ったということでしょうか?
>>732 個々の家でやるかひとつの場所に集まってやるかの違い
>>729 >>730 破壊するには大質量をぶつける。これが鉄則です。
例え運動エネルギーが等しくても、小質量の弾ならば弾のほうが壊れるだけ。
壊れないように丈夫にすれば貫通するだけなのです。
人体に対してもやはり同じことでして、石をぶつけたほうが致命傷になりやすい。
一撃であっても骨を砕き、脳や内臓を破壊・破裂させることができるからです。
逆に矢でそれは難しい。眉間や心臓などの急所に当たらなければ絶命させられない。
弁慶の立ち往生の話をご存知でしょうが、つまるところ一本二本当てたという程度では
なかなか死なないということなのです。
それでも、弓矢は武器として重宝なものでした。
遠戦が可能な武器であるというばかりではなく、携帯性に優れていたからです。
また逃亡や進撃を食い止め、戦闘力を奪うだけならあの程度の攻撃力で十分だから。
尤も、より効果を出そうと思うのなら毒(矢)の助けを借りることになってしまうのですが。
石(スリング)はとにかく手元にないと攻撃になりませんし、そうかといって多数を
携帯するわけにもいきませんから。
738 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 03:30:59
>>725-726 清盛は一応、官位・家格の面で清華家と同格に近いところまではいったけど、
どうなんだろう?
まあ最終的には、官位・家格の両面で清華家を完全に凌駕して、摂関家と同格か
それ以上というところまで地位を上昇させた足利義満に至って武家側が手にする
わけだけど。
739 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 03:51:17
>>737 飛距離の問題もあるだろう。
戦争といっても、お互いに接近戦はやりたくないわけだから、飛距離の長い
武器が好まれるという側面もあると思う。
確かに質量の大きいものを投げ飛ばせて命中させれば、かなり大きな損害を
敵に与えることが出来るだろうけど、質量の大きいものを飛ばすということに
関しては、火薬兵器が登場するまでは飛距離の問題がクリア出来なかったのでは
ないかな?
740 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 08:55:44
>>738 足利義満は摂関にはなっていないので、
武家が五摂家と肩を並べたということではないだろう。
義満が就任した太政大臣は清華家の極官。
嫁を天皇の養母として女院としたり、
息子を天皇の御前で元服させたりするのは、
摂関というより天皇家に近づこうとしたとは見て取れる。
ただ、後円融天皇の従兄弟である義満一代の発想で、
以後の足利将軍家はこの考えを踏襲しなかった。
>>737,
>>739 武器は何がいいかというのは、戦いの起こり方や戦い方(野戦、篭城戦など)によっても
有利不利がある。百姓が戦うのには、石しかないこともある。相手が弓矢でも
占めている場所や人数によっては、石の方が有利ということもある。
北条の山中城での戦いは鉄砲の時代になってて、半日で落ちた。
それ以前の小田原本城の方は、信玄、謙信に攻められても落ちなかった。
アト、戦争と戦闘は分けて考えないといけない。戦争は外交手段の一つ。
ヒトラーの時代から相手を全滅させるということが起きたが、それまでは相手が
逃げれば終わりという状況だった。(動物の戦い方がこれ)
またよく言われることであるが、戦闘では、部隊の2割が機能しなくなると戦闘を
継続できないと言われる。(ゲリラ戦や白兵戦はこの限りではないと思われるが
組織的な戦いではない。)
同様に、国民の2割に戦争被害が及ぶと厭戦気分が広がると言われる。
弓矢がどうの、って話からヒトラーだの厭戦気分だのズレすぎ。
743 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 13:03:43
>>740 わざわざ義嗣の元服に言及しているようだが、義満本人や義持の元服は基本的に摂家と同形式だったってのは、分かってる?
744 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 15:25:31
>>743 義満や義持の元服はそれまでの将軍家の伝統にのっとったものだったでしょ。
摂家と同形式とは、どの史料のことを言っているの?
イチローなら100m以上遠投できるし射程距離は問題なし
>741
>百姓が戦うのには、石しかないこともある。
素人?とんでもない思い込みだね
>相手が弓矢でも占めている場所や人数によっては、石の方が有利ということもある。
どういう場所?
>北条の山中城での戦いは鉄砲の時代になってて、半日で落ちた。
>それ以前の小田原本城の方は、信玄、謙信に攻められても落ちなかった。
この二つを比較するのは無理があるかと・・・
>アト、戦争と戦闘は分けて考えないといけない。戦争は外交手段の一つ。
戦争を辞さない。もしくは戦力を誇示することで示威行為をおこなうことを外交手段として認識することと
戦争を外交手段の一つと認識することは全く違う。
>ヒトラーの時代から相手を全滅させるということが起きたが
ヒトラーは国ごとに戦争目的をカテゴライズしていたが相手を全滅させようと考えていた国はない
>それまでは相手が 逃げれば終わりという状況だった。
アイヌやネイティブアメリカンの話に限定するのであればこの文は正しい
>(動物の戦い方がこれ)
違う
>国民の2割に戦争被害が及ぶと厭戦気分が広がると言われる。
戦争被害が及ぶというのは意味が曖昧
死亡・行方不明との意であるならば、その国家は既に崩壊している
どのみち一般則では無い
>737
投石で矢を凌駕する運動エネルギーは出せない
なによりも命中率が違う
747 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 01:33:09
>>746 でも、百姓が石を投げて戦った合戦もあるじゃん。
748 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 03:29:12
>>744 面倒だから大日本史料でも見て。
編纂所のデータベースで見れるから。
749 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 00:09:30
質問です。
前にNHKで題名忘れたけど津川雅彦出演で、現憲法制定過程を描いたドラマを見たんですが、
あの当時の日本の政治家って今よりそれらよりは英語が出来た人多かったんですか?GHQの
担当者相手に日本側の連中に通訳なしで英語で喋ってるような場面が多かったように思えますが。
やっぱり帝大出身者が多数いたからですか?
>>749 幣原喜重郎も吉田茂も外交官畑の人間だから英語面では問題なかったんだろう。
特に幣原は『英語の大家を以て自他ともにこれを認めている(吉田茂・談)』くらいだし。
751 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 00:50:26
>>750 レスどうも。「私の名前の由来は、父がジョージワシントンを尊敬してたので」と松本蒸治(津川雅彦)や近衛文麿役(江守だったか?)もたどたどしく英語を喋ってるの見ても
おおっと思ったんで。やはり今の政治家よりは結構喋れる人多かったんですな。
752 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:02:24
>>751 英語圏への留学経験があったりする人も多いんじゃないか?
そのクラスの政治家だと。
軍人の場合は、英語よりも独語のほうが話せる人が多かったようだけど。
どっちかというと、GHQ対策で英語が出来る人間が重宝されたのが近い。
戦前だと、今みたいにまず英語、その次に〜という感じではなく、
英語、フランス語、ドイツ語あたりがメジャーな欧州語として併存していた。
(昭和天皇も英語よりフランス語の方が得意だったとか)
だから、まぁエリート層は”外国語”は今よりも出来たと思うけど、
それが英語であるかどうかはその人次第だった。
あとは、当時の幣原首相は語学ができる人が好みだったせいもあるかもしれない。
(幣原は語学が出来る人を重宝した。だから私はあまり覚えが良くなかった〜
と吉田茂は書いている。あくまで吉田の印象であって実際どうだったかは分からない)
754 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:43:19
>>752 なんか旧制高校に入ればあとは、よほど成績が悪くない限りどこかの帝大には
ほぼ確実に行けるからその余裕から語学に打ち込んだもの多数とも聞きます。また実
際あの当時の旧制高校の人は会話はともかく外国語読解力は凄いみたいだし。もっとも
一方ではマルクスに傾斜するヤツもいましたが。そういう「下地」があるから語学でも
まあ出来る人が多かったのかも。
>軍人の場合は、英語よりも独語のほうが話せる人が多かったようだけど。
陸軍はドイツ語、海軍は英語という傾向があったようです。
755 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:48:41
>>753 政友会→自由党系の吉田と、民政党→進歩党系の幣原は、単に政治家としての
系統が違うだけなんじゃ?
ってゆうか、この板で近代の話をあまりやると板違いになるな・・・。
756 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 03:19:21
>>753 あと、吉田の伝記・小説系で良く出てくるのは、幣原が書道の達人で下から上がった文書を必ず構成してからサインするので、吉田が拗ねて「先に大臣から決裁を貰ってきてくれ」と皮肉を言ったら幣原に伝わったという話。
757 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 03:21:44
構成×→校正○
あと、幣原外相・吉田次官の話ね。
なお、吉田は田中義一政友会内閣の次官だったんだけど、民政党浜口内閣に交替して幣原が大臣になった後も在任期間が短いということで次官留任となった。
758 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 04:43:54
近代は板違い
五世紀の倭国は朝鮮に進出していましたが、このとき百済の辺りの言語と
九州の言語は同じだったんですか?また、当時の倭の首都(?)はどこにあるんですか
こ、これは荒らしを呼び込む為の釣り質問か!
変なのが来ないことを祈りつつ…
・現代朝鮮語と現代日本語は、文法は似ているが基礎語彙の違いが大きいので、
少なくとも同系統の言語ではない。
・現代朝鮮語の源流となったのは、古代新羅語である
・古代、新羅と百済は異なる言語を話していたらしい。
・古代百済語がどのような物であったかは、史料が少ないため分からない部分が多い
言えることはこれくらいだろうか
相対済まし令とはどういう内容のものなのでしょうか??
763 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 02:47:00
764 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 03:10:00
>>761 百済は、支配者階級と庶民の言語が異なっていた可能性もあるらしいね。
前者は高句麗語に近く、後者は新羅語に近いとか。
そもそも百済って、王家の祖先が高句麗と同系ともいわれているらしいし。
765 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 03:11:02
>>762 訴訟を当事者主義に任せるってことじゃね?
まあ中世には当たり前のことだったわけだけど。
日米通称修好条約と安政の五カ国条約って何が違うのですか?
767 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 06:00:03
残り4か国
768 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:29:54
じゃあ和親条約のときは嘉永の4ヶ国条約っていうの?
769 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:37:38
嘉永のときにフランスが入っていないのは、二月革命の直後で本国が混乱していたから?
770 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 22:03:13
>>761 古代高句麗語は断片的に分かるんだよね?
771 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 04:31:17
>>741>>746 それ以前に前近代の戦争は、近現代の戦争と違って全ての国民を巻き込んだ
総力戦ということには、まずならない。
だから戦争といいつつ一般国民はそれほど大きな損害を蒙らない。
逆にいえば、近現代の戦争は全ての国民を巻き込む。
だから近現代の独裁政権は、前近代の独裁政権よりも遙かに罪深い存在といえる。
>逆にいえば、近現代の戦争は全ての国民を巻き込む。
>だから近現代の独裁政権は、前近代の独裁政権よりも遙かに罪深い存在といえる。
独裁政権=戦争 と理解すればいいのか
773 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 05:19:13
徳川慶喜が処刑されて、江戸城無血開城がなかったら、
明治維新ではなく、明治革命と言われたんですか?
>771
>>741の最後の一行はWWUのみを念頭に置いているのでは?
そもそも総力戦という用語は近代の戦争を表現するためのものなのだから771の言っていることは自明のこと
独裁政権云々に至っては意味不明。
ここは質問に回答するスレであって素人の思い込みを表明するスレでは無い
>前近代の戦争は、近現代の戦争と違って全ての国民を巻き込んだ総力戦ということには、まずならない
つ(第二次)第三次ポエニ戦争。キンブリ・テウトニ戦争
祖国防衛戦争や民族を引き連れての戦争では、最終段階にて全ての国民(市民)を巻き込むことになると思うが・・・
>>前近代の戦争は、近現代の戦争と違って全ての国民を巻き込んだ総力戦ということには、まずならない
>つ(第二次)第三次ポエニ戦争。キンブリ・テウトニ戦争
>祖国防衛戦争や民族を引き連れての戦争では、最終段階にて全ての国民(市民)を巻き込むことになると思うが・・・
判っているけど、あえて批判しているように思えますが、何事にも例外はあるから。
そもそも近代以前は国家とか民族というものがあいまいだから。
>775
>何事にも例外はあるから
古代では戦争の最終局面にて国民全員を巻き込むことの方が多いと思うが?
>判っているけど、あえて批判しているように思えます
他のスレなら三戦厨が愚かな書き込みをはじめた時点でこちらが身を引くが
質問スレだけは誤りを正そうとする気力がまだ残っているのでね(苦笑
もう一つ私見を追加しとくと、現代(二十世紀末以降)では総力戦は先進国では起こりえない
>771はダニガンの『戦争のテクノロジー』を読んでくれ理由が書いてあるから
>>774 前近代の戦争でその地域の住民が皆殺しにされたとかままあるよね。
>>762 そもそも明治以前は公法優先の社会だから。
だから、刑法にあたる「律」や行政法にあたる「令」はあっても民法にあたる法律はない。
779 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:11:03
>>773 Meiji Restoration です。
780 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:33:31
>>778 中世の式目なんて、条文の大部分が民法か民事訴訟法のような内容だが。
781 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 19:17:17
>>771だけど、半日でこんなに釣れるとは思わなかったよw
>>780 全ての民衆が対象なんじゃないことくらい知ってて言ってるよな?
783 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 20:53:50
法律があるから民衆が裁判で救済されると考えているとすればゆとり。
室町時代の民事訴訟→奉行人に礼銭(賄賂)を渡さないと次の裁判の日程すら決めて貰えない。
江戸時代の民事訴訟→刑事裁判を処理するために民事は後回しかスルー。その法制化が「相対済令」。
>>783 中世ならどの時代でもそうだよ
後期で対象が増えたとしても
786 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 00:52:39
はじめまして。
非常にマイナーな人物について質問したいんですが、どちらのスレで質問すればよいでしょうか?
788 :
741:2007/11/12(月) 08:56:55
短く書けるものでもないのにいろいろ書いて混乱させた見たい。陳謝。
渡辺昇一の「ドイツ参謀本部」って新書があった。あれとメッケルだかの「戦争論」
などにもいろいろあった。自分は海軍出の人に持論を聞いたことがある。
厭戦気分については、ヴェトナムのときも死傷者50万で米国民のだれもが身の回り
に関係者が生じてからと聞いたことがある。人口2億で50万なら、5/2000で
400人に1人。町内に誰か犠牲者がいるって感じか。
「他人の不幸は蜜の味」って謂いがあるが、蜜の味で済まなくなるレベルじゃないか。
同じ交叉点で10人死ぬと信号機が付くとかもある。
弓矢の話なのに戦争の話へずれたが、戦いと致命傷とはちょっと距離がある話かなと
言うのを言いたかった。
については、日本語の戦争とか戦いという関係の用語は曖昧なところがある。
英語では、war, battle, fight, combat, issue, ... などいろいろある。
考えて見たら、受験戦争なんて恐ろしい用語だ。確かに敗れて致命傷になる人もいる
かも知れないが。
何この支離滅裂な散文↑
白い恋人だ
792 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 19:55:03
>>790 ここは専門的な学問板です
ネタ質問は他を当たってください
>>789 渡辺昇一の本を読んでいるのは
こういう馬鹿ですつーネガキャンだろ
相手にするな
渡部昇一の本は完訳版「紫禁城の黄昏」以外は学問的に意味はないな。
795 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:14:55
>>784 室町期の裁判における奉行人は、現代でいうところの弁護人のような存在だろ。
だから訴人方(原告側)と論人方(被告側)の双方にそれぞれ奉行人が付けられる。
訴訟の当事者が自分の弁護人(奉行人)に弁護報酬(礼銭)を支払うのは現代の裁判でも当たり前。
>>792 お前の目は節穴らしいってことは分ったw
この和漉と木版変体仮名みて本当にそう思ったのか?
>>790 人丸山は江戸中期以降、現在の明石市にあった名所だ。
>>787 ネットで調べても一件しかヒットしないからここで聞きたかったのに…(´・ω・`)
798 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 05:03:29
>>797 とりあえず、質問しろ。
話はそれからだ。
799 :
741:2007/11/13(火) 06:39:18
また出てきましたですよ。
弓矢の話題で、致命傷にならなくてもそれなりに意味はあるという程度に思って
いたんだが、通りかかった本屋で、講談社学術文庫の「合戦の文化史」(二木謙
一著)を見ていたら、「保元物語」に鎮西八郎為朝は、五人張の弓を使い、一矢
で2〜3人を射通し、伊豆大島の合戦では敵の船を一矢で沈めたとあるという。
面白そうなので買って読んでいたら、奈良時代の防人は一日置きの勤務で非番の
日の半日は訓練で、中に「投石」があったという。
なんかの規約の適用を避けるために宣戦布告しなかった戦争は何でしたっけ?
馬韓・辰韓・弁韓の時代から新羅の統一までの朝鮮半島の歴史が全く理解できないのですが
どうすればいいんですか?なんか日本もかなり噛んでたらしいし…。
803 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 23:30:29
馬韓を構成していた国の中の百済国が強勢となり、馬韓を統一。
同様に辰韓は新羅が統一。弁韓は統一されず、加羅国などの小国の
分立状態。半島の北方には高句麗。この国が一番強勢だったが、
中国に接していたため何度も戦争をしかけられ、ついに滅亡。
弁韓(日本名は任那)は百済と新羅によって裂き取られ併合され滅亡。
日本は近攻遠親策から新羅と敵対し、百済と同盟していたので、
唐・新羅連合軍が百済を攻めたときに百済救援のため出兵して戦ったが
惨敗(白村江の戦)。百済は滅亡し半島は新羅が統一した。
805 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:08:37
>>800 当時の裁判における奉行人のやっていることは、どう考えても現代でいう
ところの弁護人に該当するようなことだと思うが。
当事者の依頼によって訴人方・論人方の双方にそれぞれ付き、その依頼人が
有利になるような証拠を集めたり、裁判での弁論を代行したりするのが仕事。
やっていることはどう考えても法律の専門家としての弁護業務。
逆に最終的な裁判の判決を決定するような権限は奉行人にはない。
800は江戸時代のお奉行様と勘違いしてるんだよw
807 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:52:10
>>778 「令」は民法と行政法が混在している。民法に当たる法律が全くないわけではない。
なお古代の中国では、刑法に当たる「律」のほうが「令」よりも古くから存在したといわれるが、
日本では「令」のほうが先に整備されたという特色がある。
令に民の権利云々の規定はない。現代民法と比較するのは無意味。
六法よりも、むしろ戸籍法などの手続法のほうが近い。
809 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 06:39:38
大塩平八郎の乱は幕府崩壊の原因の一つと言えるでしょうか。
810 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 16:56:10
原因の一つというよりは現象のひとつ
商工業資本に農業資本が負けたわけだ。
コップからあふれた水が大塩とか博徒横行で、コップが割れたのがその後の倒幕運動。
タガがゆるめば色んな事件事象がでてくるよね
それはそれとして
古い文献にルビになるのか?よく判らんが、(ママ)というのがよく付いてくるが
コレは一体何の意味があるのでしょう?
直接引用した文献で明らかに誤った表記が認められるが
引用者はそれを知っていても引用文献には手を加えられないから
読み手に対する情報として「これは私が間違って写したわけではなくて
文献その『ママ』に引用してあるんだよ」と与えるもの。
>>810 今の書籍では『原文ママ』と書かれることもある。
>>私は811ではないが、敷衍しておく
813 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 17:54:42
旧武田家臣についてですが
徳川家臣団に多いそうですが信憑性は高いのですか?
東北諸藩にも多いそうですが、こちらの信憑性は?
武田家臣団って言うと農のイメージが大きくて山梨や長野の庄屋あたりなら
旧武田家臣っと名乗っても納得できるのですが兵農分離された純粋の士であろう
あちこちの諸藩で散見されるものについての信憑性はいかに?
814 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 18:43:10
810です。
>>811>>812お二方、早速のレス有難うございます。
疑問も氷解し今後は気持ちよく文献に向かえます。
815 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 19:25:53
>>808 てか民法って、民の権利に関する法律というわけでは必ずしもないのだが。
そうした戸籍などの民事的な案件についての大枠のルールを定めたものだぞ。
無論、細かな手続法や施行細則なんかは別途定められることもあるが。
816 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:37:31
>>815 そもそも戸籍は法学的に公法分野であって行政法系統じゃないか?
817 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:39:36
そもそも前近代の法律において民法と行政法の区別は不明確。
818 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:43:19
>>810>>812 「まま」と書くとルビと誤解される可能性があるので、「ママ」と表記しているんだよ。
819 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:59:09
括弧を付けて
(ママ)
とかけばルビと誤解されることはない。
>>.813
武田が滅んだあと、その領地は徳川家が大部分を支配した。
(織田氏の部将たちは本能寺の後、殺されたり逃げたので)
のちに羽柴氏と徳川氏が争ったときに、家康の重臣だった石川数正が羽柴氏に出奔、
軍事機密が流出したということで徳川氏の軍法を武田氏の方式に変更した。ってことは経験者は仕官に有利。
家康が、自分が負けたことで武田氏のことを評価していて、遺臣を積極的に登用した。
これらのことが重なって、徳川氏には武田氏から流れた武士が多いのではないかと。
東北は良く知りませんが、越後の上杉氏(江戸時代は米沢)は武田が滅亡する直前同盟関係(信玄の娘が上杉景勝の正室)になっていたことや
織田氏と敵対していたので、こっちに逃げた人も結構います。
そのことを指しているのかな?
821 :
797:2007/11/15(木) 23:01:03
822 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 07:57:57
>>820 まあ徳川氏が甲斐・信濃に進出するに当たって、その地域の旧来からの
慣習などを熟知している武田氏の遺臣は、徳川氏側としても是非スカウトしたい
人材だったということだな。
元々その土地にいた者を採用するということは、現地の民衆の人心を
動揺させないという点でも効果的。
それに徳川氏は駿河を勢力下に収めた時点で、岡部正綱などいったん武田氏に
下っていた元今川氏の遺臣層の多くを吸収しているから、こうした者達を通じて
甲斐や信濃にいた武田氏の遺臣達に対しても徳川氏への仕官を呼びかけていた
側面もある。
>>813 米沢以外の東北だと、戦国期の甲斐武田氏とは直接的に関係はないけれど、
南部氏や松前氏のように祖先が甲斐源氏だというような家系伝承を持つ大名家が
あるので、そうしたところにいる人達が武田氏との縁を主張しているような
面もあるんじゃないかな。
会津藩も初代藩主が保科を名乗っていたりして、(保科家の未亡人に育てられたんだっけ?)
武田旧臣にゆかりがあるな。
保科家の養子
仙台伊達家の家臣に、真田家の縁者がいなかったけか。
>>825 仙台真田家のこと?
それとも幸村の娘婿だった片倉小十郎のこと?
827 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 19:52:42
本能寺後の甲斐国人一揆に参加した武田旧臣の名前とか
あと、一揆が鎮圧されるまでの過程とかがわかるサイトって無いですかね?
あんまりぐぐっても出てこないんだよね・・・・
河尻を討った、三井弥一郎くらいしか出てこない。
あと、この一揆の規模ってどんなもんだったんでしょう?一揆側の動員兵数とか。
>>797 そもそも何について調べたいんだ?
分子相続の禁止について?
着到状の筆跡について?
鎌倉への忠誠心?
829 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:46:12
830 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 09:16:26
今さらだが、
>>800のレスがドキュソ過ぎて笑えるw
831 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 15:11:01
今川氏真ってどうして将軍から偏諱を貰っていないんだろ?
832 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 16:00:20
結局徳川譜代って、三河時代以来の者を除くと、基本的に今川・武田・北条の旧臣で構成されているんだね。
833 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 22:25:52
前、某鑑定番組で幕臣の子孫が武田信玄からもらったとされる書状を鑑定してもらったが
偽物。なんでも江戸後期に自分たちの出自に関する事に興味がいき偽文書が大量に作られたらしい
幕臣でさえこの有様では市井にある武田関係文書なんて・・・
834 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 04:58:02
>>833 いや、あの書状って素人目に見ても、明らかに偽文書だろうって感じがしたぞ。
あんなものを何の疑いもせずにテレビの前に出した子孫こそアホ。
先祖が偽文書つくってました、なんてわざわざ全国の視聴者の前で晒さなくても
いいだろうw
てかあんなものを見せられると、そもそもあそこに出てきた人が本当に
武田旧臣の子孫なのかという、そっちのほうにも疑いを向けたくなるよ。
835 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 12:15:24
>>831 偏諱を貰っていれば、名前は「義真」になるのかな?
>>834 江戸時代初期に多くの大名家が家系図の偽造を行なったことを思えば
よくある話なんでは?
837 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 14:38:33
>>836 だとしても、何の疑いもなくそれを出してくる子孫がアフォなのに変わりない。
江戸時代の町道場の先生って、身分上はなんだったんですか?
町人とかだったりしたら、勝手に名字帯刀していいんですか?
>>837 まあ、この書状は信玄公から我が先祖が賜った家宝、子々孫々大事にせよってことだろうから。
偽造しましたなんて家伝は残ってないだろうし。w
840 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 20:01:06
>>834 確かに武蔵国でなぜ武田?と思った。
むしろ甲斐側の小山田が武田・北条両天秤をかけていたのに。
>>829 そんなの調べるのめんどくせーから
ここで聞いてるんだろ。何も詳細を求めているんじゃない。
「だいたいこんな感じ」ってのがわかればいいんだが
842 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 20:33:36
843 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 21:07:38
844 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 21:15:43
あ はい・・・ すいませんでした
845 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 21:19:16
某公共放送で江戸城は世界一の巨城っと言っておりましたが
何が世界一なのでしょうか?
規模
>>846 何の規模よ?
城郭の総延長距離?
場内への収容可能人口?
それとも経済圏?
江戸の人口って世界一だっけ?イスファハーンとかバグダットのほうが多い?
850 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 00:10:28
ageわすれたorz
連レスでもうしわけない・・・
851 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 07:56:13
852 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 10:29:03
853 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 10:39:48
한성のほうが多い。
釣り目的の馬鹿はスルー汁
855 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 12:19:03
우리 나라 만세!
856 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 15:54:27
初期の大奥と徳川家光の正室・側室について知りたいのですが
難しい史料じゃなくて図書館や本屋で手に入りそうなもので
お勧めの本ってないですか?
857 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 17:34:41
江戸時代に各藩(藩は明治以降らしいですが・・・)が
どうやって町や村を治めていたか教えて下さい。
住民を取りまとめる機関が役場なんですか?役場以外に施設はあったんでしょうか?
あと、その施設の偉い人の役職名ってなんでしょうか?
>>857 思い切り大雑把に言うと、都市は町奉行、農村は勘定奉行、それ以外(後述)は寺社奉行の管轄でした。
従いまして、最終的に取りまとめる官庁は奉行所や代官所です。
この枠組みは幕府直轄領でも各藩でも大差ありません。
町奉行が監督するのは、町名主(年寄)、元締や町代・手代という人々で、まとめて町役人(町方三役)と呼ばれます。
役人とついていますが、彼らは町人です。
落語や時代劇によく出てくる大家さんや親分さんといった人々です。
勘定奉行が監督するのは、名主(庄屋、肝煎)、組頭、百姓代という人々で、彼らは村役人(村方三役)呼ばれます。
彼らは農民です。
彼らの権限は広く、徴税や治安など、今の我々が想像しうる一般行政サービス全てを行っていたといっていいでしょう。
寺社奉行は本来、寺請制度(檀家制度)によって各人の宗門(宗教)を管理するものですが、
同時に門徒(によって作られた門前町)、教団全体の管理も行いました。
また寺や神職のみならず、歌人・修験者・陰陽師などの芸能民も寺社奉行の管轄でした。
香具師や行商人もここに入るのでしょうか、ちょっと判りませんが…
ともあれ、この「三奉行」が政治サービスの柱だったのです。
>>838 出自・身分は様々ですが、敢えて言うなら「浪人のようなもの」でしょう。
もし藩に師範として雇用されたら武士になっちゃいます。
勝手に名字といいますが、アレはあくまで「芸名」なのでして。
860 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 09:39:13
>>856 難しい史料じゃないってことは、活字に翻刻されている史料かな?
そういうものなら一般的なの図書館とか本屋にも普通にあるよ。
861 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 10:21:20
aeg
862 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 14:00:51
江戸時代、病弱や早世したわけではないのに正室腹の男子が
いながら側室腹の子が後を継いだ大名っていますか?
それともそんなに珍しいことでもないですか?
分からないんだが
何故、日本は真珠湾では航空編隊による次世代の戦闘をしたのに戦争後半は大艦巨砲主義に固執したんだ?
軍部内での相違?
>>863 「奇襲」をするがゆえの、機動部隊の選択。
正攻法なら長門突撃しかないでしょーが。
それに、後半において大艦巨砲主義に固執していたわけではない。
マリアナ→台湾→フィリピンで航空艦隊が壊滅したから。
865 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:55:40
866 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 01:04:11
867 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 03:13:02
>>859 浅利叉八郎とかアサリを売ってた町人だったらしいな。
なんで、一色や吉良は足利に近い血縁なのに
管領家に入れなかったんですか?
>>868 吉良は直義派だったから、一色は幕府創世期に一度失脚した(九州探題で成果を上げられず更迭された)からでは。
まあ斯波も直義派だったし畠山も関東で失脚した後、中央で復活しているけど。
就任する機会がないうちに、管領家という家格が成立しちゃっただけってことかも。
870 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 11:32:49
斯波は、南北朝初期から京都に近い越前に根を下ろして、当時の守護としては
かなり強固な支配基盤をつくってしまっていたから、幕府側としても懐柔して
取り込まざるを得なかった。
一色は、もともと九州探題になりたくなくて、早く解任してくれと尊氏に
泣きついていたような状態だった。
吉良は、観応の擾乱が原因となって家が分裂(西条と東条に分裂)している。
関ヶ原敗戦の責で直接処刑された大名は、石田・小西・安国寺ですが
首謀の石田三成はともかく、なんで改易・流罪にされた大名は数多いのに死刑に処せられたのは
これだけなんですか?
872 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 20:06:40
徳川氏による支配を早期に安定化させるためには、あまり過酷な処罰は
できない。
過酷な処罰をしようとすれば、処罰される側も徹底抗戦の構えを見せるで
あろうが、そうした勢力を一つ一つ潰していったら何年かかるか分からない。
石田・小西・安国寺に関しては、いずれも豊臣政権による取り立て大名で、
日も浅くそれほど強固なバックグランドもないので、首謀者の処罰という体裁を
整えるために、この3人を処刑した。
また処刑はされなくとも改易された大名に関しても、基本的に中規模以上の
勢力で改易処分になっているのは、大部分が織豊期に急成長した大名。
歴史が古い大大名は、明確に敵対していても、せいぜい減封程度のケースが多い。
なんで幕末では、藩の下士が台頭して活躍できたんですか?
明治維新の指導者って、郷士だの足軽だの馬廻り等の出身ばかりですよね。
島津や長州の大藩ですら、藩主や家老は目だった活躍もなく大久保だの桂にいいとこ取り
されてるし…
>>873 土佐の板垣とか後藤は、けっこう上層部の出身、長州の桂も低い身分じゃないです。
伊藤博文とか山県有朋は下層身分ですが。
彼らに関しては、維新のころは対して大物でもない、上が死んじゃったおかげで出世した、
維新後に政治的な手腕を認められて出世したという側面はあると思います。
長州征伐や禁門の変で戦死したり切腹した人も多いですし。
長州・薩摩とも藩政改革と内部抗争を経過しているし。
改革派の中では、長州では周布政之助、薩摩では小松帯刀なんかが
上級の家柄出身で執政・家老などの役職に就いていたんじゃなかったっけ。
そういう人物がいてこそ、下級武士の革命プロパーが自在に活動できたわけで。
維新後彼らが中央で活躍しなかったのは、旧藩の主の運命に付き従った、という感じ?
876 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 13:20:50
877 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 14:45:03
桂は大江朝臣を名乗っているから、毛利一族という意識なんだろうな。
>>875 長州の場合蛤御門の変と第一次長州征伐で執政クラスは戦死したり切腹させられたりして全滅。
生き残った勤皇派の中で最も身分が高かったのが桂(高杉晋作は家格は高いが身分は部屋住み)
小松帯刀は維新政府に参加するがすぐに(明治3年)病死。
島津幕府じゃないけど、なんで自分達の伝統を無視した政策を取り続けた
新政府に、雄藩藩主は文句言わなかったんだろ?
そもそも官軍の兵装諸々の輸入だって殿様の金で賄ってたじゃないか。
880 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 23:14:13
>>878 井上馨も藩主毛利敬親の小姓だかをしていたんだっけ?
>>879 島津久光は不満タラタラだったらしいけどね。
881 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 01:27:28
不満タラタラでも、何か事を起こすような行動力はない。
それに廃藩置県のときに藩の借金を帳消しにして貰っているから、新政府に対して負い目もある。
882 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 03:47:16
歴代執権は五位、四位止まりなのが多いのは何故なんですか?
883 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:24:43
侵攻(新興)勢力に対する差別&区別。
その後は寄り切られて黒星続き。
884 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 11:46:48
>>882 室町幕府の管領、江戸幕府の大老も似たようなものだろ。
>>881 もう明治の時点では、藩主のいう事なんか誰も聞かなかったの?
士族反乱も、藩主を拉致してくれば違った結果になったかな?
886 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 12:11:45
日本の歴史を知る漫画でオススメなのありますか?
大宝律令は刑部親王や藤原鎌足により編纂され…
この記述は藤原鎌足ではなく藤原不比等ですよね?
>>885 士族反乱は藩政復古を目論んだ反乱というわけではなく、
思想で固めた何とかいう党が県令らを襲うという一揆でしたから。
>>882 北条氏が幕府の実権を握っていても、立場上は一御家人でしかないから。
なので、執権でも相模守程度の官位でしかない。
891 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 18:46:54
律令制度に関して祭祀をつかさどるのが神祇官、宮城などを警護にあたる太政官。
では、官吏の観察を行う( ? )、一般の政府をつかさどる( ? )
この2つが分かりません、分かる方いますか?
892 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:41:31
>>885 旧藩主から見れば、家臣同士の争いみたいなものだから、そんなものに自分が巻き込まれるのはゴメンだということ。
893 :
高校生:2007/11/24(土) 19:44:03
10世紀頃から荘園や公領の中で、耕作請負人の名をつけた田地をなんとよんだか?
の問題の答えが名田なんですけど、負名ではないのでしょうか???
あと奥州藤原三代の栄華の基をつくったのは藤原(清原)清ひらですが、藤原(清原)ってゆーのは何故でしょうか???結婚でもしましたかね???
894 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:49:06
>>882 将軍とその親族以外の武家が三位以上に上ることはかなりのレアケース。
但し平氏政権と豊臣政権の時期を除く。
895 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:52:48
>>891>>893 ここは学問文系のカテゴリーにある学問としての日本史を語るスレ。
厨房工房の受験勉強としての日本史は板違い。
キトラ古墳の「キトラ」とは何のことなのでしょうか?
ご存知の方、お教えください。
>>894 三位と四位・五位の間には大きな差がありますからね。三位以上だと公卿。
>>893 負名は田堵のことな
清衡のお父さんは藤原
実父は清原に殺されて母と清衡が清原氏の庇護下になった
だから清原清衡になったんだけど,後三年役後に藤原に戻した
900 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 23:06:08
>>898 「参議は?」という突っ込み待ちですか?
律令期なら境界は4位と5位の間じゃね
>>901 煽りではなく、普通に質問なんですが、
4位と5位でどのような大きな違いがあったんですか?
903 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 00:39:59
「〜朝臣」付きで呼ばれるか、呼び捨てになるか、の違いとか?
>>903 それは、3位以上+参議と4位以下の非参議で分かれるみたい
905 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 03:17:30
>>904 それは公卿か否かだろ。
四位は参議・非参議を問わず朝臣付きが普通じゃないの?
>>905 ああ ちょっと勘違いしていた。
公卿だと ○○朝臣●●公で、
4位非参議だと○○●●朝臣なのね。
907 :
906:2007/11/25(日) 03:55:26
また違ってた。
公卿だと○○朝臣●●公または○○朝臣●●卿か。
908 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 12:59:25
さあどうかな?
自由民権運動の理論的指導者の植木枝盛が翻訳したのってルソーの「民約論」?
910 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:03:50
幕末以降の話題は近代史板へどうぞ。
911 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:40:41
大阪湾が埋め立てられたのって、いつ頃から?
912 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:40:52
>>902 律令がちゃんと機能していた時期に限定されると思うが
4位以上は門閥というかほぼ固定された氏からしかなれない
5位から「貴族」の一員なんだけど,5位の門戸は結構開かれてる
有力じゃない氏族の限界出世が5位
914 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:53:12
海野平の戦い(天文10年 1541年)における原美濃守虎胤の役職ってわかりますでしょうか??
>>910 そんな板あったんですか、そっちに移動します
916 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:12:00
「憤死」した日本史上の人物を教えてください。
どうしてみんなそんなに頭がいいの?
いい参考書とかあるの?
>>913 階級が違ったということですか。ありがとうございます。
920 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 09:53:56
921 :
896:2007/11/26(月) 21:26:53
>>920 どうもありがとうございました!
カタカナなので不思議に思い
「キトラ 小字」でぐぐったら、「北浦」がなまったものだそうですね。
922 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 00:11:58
いえいえどう致しまして
ちなみに飛鳥の近所の高野山は本来は「たかの」。
「たかの」「よしの」「くまの」・・・異界の言葉かもね。
異界との出入り口に飛鳥京。異界を押さえる為か、交易交流の為か?
後の後醍醐が「よしの」を拠点にするのもなにやらありそうです。
923 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 13:36:15
何で室町には一騎討ちが衰退したの?
室町以前から、一騎打ちは盛んではありません。
盛んでないから、衰退もしてません。
戦国時代の守護代についてですが、武田氏、今川氏、島津氏など
守護が戦国大名化したようなところは、守護代の影が薄い感があり
ますが、誰が守護代を勤めていたのでしょうか?
大内氏の場合は、杉氏や陶氏が義隆の時代の守護代ですが・・・
>>925 甲斐守護代は跡部氏。(禅秀の乱の後始末で信濃から入国)
武田氏の当主が早死にしたりして基盤が安定していなかったので、一時は武田氏と互角に勢力争いをしていた。
鉄砲三段撃ちが戦術革命なら何故その後組織的鉄砲戦術が主流にならなかったの?
鉄砲三段撃ちが眉唾ってことかな。
929 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:34:14
教科書では鉄砲三段撃ちは認定されている。
つまり通説。
931 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 22:15:17
同じ鉄砲の質問なのですが当時の鉄砲ではとても狙撃など
できないと聞きました。ですが一方で狙撃されて死傷した武将がいるとも聞きました。
一体どちらが本当なんでしょう?狙撃手がよほど腕がよかったのでしょうか。
それとも狙撃と言える距離ではなかったのでしょうか。
>>931 では訊くが
火縄銃は猟銃としても使われた
…このことを、君はどう考えるかな?
まぁ種を明かせば、緩発式・瞬発式という、火縄銃の形式のことも絡んでくる。
ここから先は、ググるなどして調べてみてくれ。
933 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 00:04:54
>>933 確かに教科書は都合のいいことだけ書いてる。
遣隋使小野妹子が隋の国書を紛失したことは
教科書では伏せてある。
935 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 00:19:28
>>934 そういうことじゃなくて……。
例えば、三光作戦なんて掲載しているけど、あんなの全くのでたらめじゃないか。
黒田節で有名な槍・日本号は、今は現物は福岡市博物館所蔵だそうです。
そこまでは分かるのですが、文化財としての扱いは何になってますか?
国宝や重要文化財では無いようなのですが…。
>>936 国宝でも(国指定)重要文化財でもなければ、県指定の文化財なのでは?
938 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 02:07:33
源・平・藤・橘の四姓で順位をつけると
順位はどうなるのでしょうか?
939 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 02:21:42
源>藤>>平>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>橘
940 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 10:21:40
>>933 教科書の嘘は目に余ることはあっても、嘘ばかりじゃないだろう。
嘘ばかりとは、本当が全くない状態を言う。そんな教科書を売ったり
買ったり使ったりしているとは、ちょっと思えない。最近見たことは
ないが。
教科書って読んだこと無かったんだけれど、
そんなに出鱈目ばっかなのか?
江戸時代の講談や戦前のアホ史観で出来上がった
「通説」はなかなか払拭されないな
942 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 12:24:29
>>940 >嘘ばかりとは、本当が全くない状態を言う
違う。嘘が比較的多い状態のことを言う。
by国立国語研究所
教科書、資料集は最新の研究の成果よりも10年単位で遅れると言われる。
まあ教科書の記述は10年くらい前は通説だった、くらいに捉えるのが無難。
>>943 学術関係に関しては最新の研究成果であっても,後に誤りが判明することも
あるわけだから,教科書に早々と載せるわけにも行かないんだろう?
オレは理系だが,例えば毎年この時期に刊行される理科年表は,トピックス
として掲載するものの,データの更新は通常2-3年後になっている.
945 :
940:2007/11/28(水) 23:24:33
>>934 それは違うな
いわゆる通説を載せているのであってお前の偏った視点ではそう見えるだけ
奥州で伊達政宗が福島へ侵攻し本庄繁長と戦った
松川合戦について知りたいんですが、結局どのような合戦だったのでしょうか?
2chではどっちが勝ったかで荒れていましたし、wikiでは伊達方優勢で
推移したというように編集されていました(ただ、伊達方の
資料の引用が殆どでしたが)。また、ネットでググる限りだと
本庄が勝利したという記事が多く出てきて、一致しません。
なにかこの合戦の推移、実像についての良書があれば
教えて頂きたい。
>>944 まあそうだな。
史学ではないが歴史教科書に載る範囲だと「神の手」の発掘の成果が
翌年の教科書や資料集に載せられても困る。
949 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 09:38:01
とりあえず、三光作戦は教科書から削除すべきだろ。
事件の存在を否定されているんだから。
>>947 とりあえずウィキスレでも問題ある過ぎと言われた記事だな。
951 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 22:27:28
戦時中「一億○○」という言葉(例:一億火の玉、一億玉砕)がありました。
その一億とは、内地人6000万、朝鮮人3000万、台湾人1000万の総計だそうで。
それならなぜ、「内鮮一体」などという言葉が作られたのでしょうか?
台湾人はどうでも良かったんでしょうか?
952 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 23:56:42
低レベルですいません。
日米安全保証条約って
何なんですか?
953 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 00:37:54
954 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 01:31:05
>>953 わざわざありがたいんですが、携帯からなんで見れないみたいです…(:_;)
956 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 11:24:47
というかそもそも現在の教科書には三段撃の記述など載っていないのだが。
むしろ俺が使っていた副教材にはコラムとして三段撃は捏造の可能性が高いと書いてあった。
研究の進展により記述内容が変化するのはよくあるのに、どうして自分の世代の教科書に載っていたことを
引き合いに出して「教科書は嘘」などと批判するのかねえ
958 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 03:47:24
三光作戦は、いまだに書いているな。
959 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 09:23:07
戦国期の場合、城主は城から遠いとこに住んでる事は多いの?
なんで幕末に治安維持を目的として結成された○○隊・組(新撰組とか)
はほとんど洋式化されなかったんでしょうか?ゲベール銃・ズボン装で連隊を基にした
洋式歩兵戦術は既に御家人の間では作られてましたよね?
治安維持の最前線で戦う彼らにこそ必要だったと思うんですが…
>>959 城と住まいが遠くに離れているというか、
城は不便だけど防御力が高い山頂などに築いて、普段の住まいは麓の平地に近いところに館(防御力はあまり高くない)を建てていたってこと。
山頂だと、スペースが狭いのであまり大きな館は建てられないし、城勤めの武士がいちいち登城するにも不便なので。
城は非常時に立てこもるもので、普段住むわけではなかった。(無論例外はあります)
山城は鉄砲が普及すると、相対的に防御力が落ちたので、平地や低い丘に石垣造りの大きな城を築くことが多くなった。
そのほうが、多数の兵士を収容したり、交通や経済的に重要な地点に築城できるというメリットがあります。
962 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 10:30:58
>>961ありがとうございます。
実家近くの山城の城主はかなり離れたところに住んでいたようで不思議に思いました。
ただ、郷土史によるとかなり遠くの今は市街地に住んでいたことになってるのですが
宗家といわれる家は何故か城跡近くに住んでる・・・・不思議だ。
>>961がいう山城を詰城といいます。
典型的なのが甲斐武田氏の要害城。有事の際に立て籠もって戦うためのもので
平時の居館はご存知の躑躅ヶ崎館。
でもこれは本拠地の地勢や周辺事情の必要あって、こういう組み合わせにしただけにすぎません。
航路が開かれたら泊地に移ったほうがいいんじゃないとか、領地内でも主敵から守るポイントに
山城(砦)をおくのはいいけど、そこからだと総領としての勤めはやりにくい…とかね、
いろいろあると思いますよ。
964 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 12:08:24
>>960 治安維持と戦争行為は重さが違うしね。
いくらオウム(坂本・大久保など)が反政府ゲリラとはいえ
そのアジトである貸しビル(寺田屋)に戦車砲を撃ち込む訳にはいかんだろう。
なんといっても現政府自らが破壊行為をするわけにはいかないのである。
「大雑把に言って」、政権は成立した瞬間から破壊(攻め)の組織から現状維持(守り)の組織になる。
倒幕側は破壊が目的、幕府は現状維持が目的。時代は白人の奴隷になるかどうかの瀬戸際。
いい知恵(戦略)は現状破壊側からしか出てこない、ボケッとしてる現状満喫側は
この先ダメとわかっていても動け(か)ないニートみたいなもんですね。
でも、コレじゃ答えになってないか・・・
結局は気分(意識)の問題だろう。
それまでの日本の形は社長(天皇)が経営を委任した社長代理(徳川)が運営している。
で、社長代理は誰でもOK。時代に対応できない現社長代理を引きずり降ろそうとした。
それは嫌だというので現社長代理とその側近(一流大卒)は、社長代理室に
最新の武装バリケードを築いたと言うお話。
では、エアコンも効かない社屋外のドタバタ(攘夷倒幕運動)の対策は平社員や
テキトーなエサで釣り上げた三流大卒〜中卒の派遣・バイトにやらせておく。
渡した機械工具は時代遅れの中古。
最新のものでは内ゲバ・ライバル会社へ転職されるとコワイから渡さない。
人間、儲かってる時はバンバン金使ってそれでさらに拡大していくけど
落ち目になると一円でも始末するもんだ。
200年架けてここぞと言う時に知恵も力も出せないヤツに成ってしまったんだろう。
「無職・だめ板」の上の絵みたいに・・・・
>>961 ということは,信長の岐阜城も普段はそこに生活していたわけではないのか?
966 :
951:2007/12/02(日) 15:28:54
ヨロピク
967 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 17:30:57
すいません。日米安全保証条約の質問をした者です!ググっても出てこないんで…。ではこの条約の内容ってどれですかね…?
ア)日本が他国に攻め込む場合、日米共同して侵略戦争を行える。
イ)アメリカが他国に攻撃された場合、日本の自衛隊が出動する。
ウ)アメリカが核兵器を使用する場合、日本へ核攻撃はせず安全を保証する。
エ)他国が日本の領土を攻撃してきた場合、日米共同して対処する。
長々とすいません…(:_;)
968 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 17:53:47
全くのシロート質問で恐縮ですが、遺跡発掘の際に古代の地表を掘り出すときには、
どうやってその時代の地表を掘り出すのでしょうか?
多分、土の色で見分けるのでしょうが、違う時代の地層とか柱の穴の中の土とかは、
雪かゴミを取り除くような感じでサクサク取り除けるのでしょうか?
上に堆積した土と、お目当ての時代の土を、きれいに区別できるのが不思議です。
また、歴史の本の写真を見ると、異なる時代の遺跡が重複してるものがありますが、
その場合、下の地層を掘り出すために上の遺跡を破壊することになるのでしょうか?
969 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:24:55
>>968 その遺物が埋まっていた地層によって時代を判断するか、あとは炭素14なんかによる年代測定法を使う。
>その場合、下の地層を掘り出すために上の遺跡を破壊することになるのでしょうか?
どうしても下の遺跡を掘り出したい場合は、そうなる。
どの時代のものを一番残したいかによる。
てゆうか、これって日本史板より考古学板で聞くべき話題じゃないの?
970 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:51:36
地層の年代の測定をしたとして、土を取り除くのってけっこう難しくない?
上にもあるように除雪やゴミを片付けるのと違って、土が堆積してるわけだから、
間違えて掘りすぎたり、肝心の地表を傷付けたりしないの?
971 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:59:17
考古板で聞いたほうが詳しいレスが来ると思うぞ。板違いを指摘されてるのに、ここに書くなよw
なんか歴史教育って最近はゆったりしてる感じ。
俺等が受験生の頃は日本史の最初の授業は炭素測定法からだった。
近現代史は大まかにしかやらなかった。
最近は近現代史を詳しくやってるのかやたらと戦争の記述を問題にしているのが不思議。
論争になるような正誤が付け難い問題は受験では出題されなかった。
そもそもほとんどの学校で近現代史まで授業は進まなかった。
詰め込み教育でカリキュラムをこなせないのがあたりまえだったからだ。
973 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:37:21
江戸時代の人々の生活や風俗など、文化的なことを専門に学びたいのですが、これって歴史学・民俗学・社会学のどれに分類されますか?
974 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 20:06:18
歴史学
975 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 20:36:01
>>974 わかりました!
ありがとうございます!
976 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 21:56:05
>>972 今の歴史教育だって、たぶん高校の日本史で近現代までしっかり消化できている
学校は少ないと思うぞ。しかしそのくせ近現代重視傾向が強くなっているため、
結果として予備校とかの受験産業が大流行。
あと受験勉強としての日本史の場合、例え論述問題であったとしても、
“教科書的にこれが正しい”ということが確定できないような問題は
出題されないはず。もちろん正解が複数あって、そのうち一つでも書ければ
正解というスタイルの場合は、その限りではないが。
>>976 そうだね。鎌倉幕府成立の年代みたいなのも、今では出されないはず。
>>965 信長の岐阜時代は、山上と麓の両方を使い分けて住んでいたみたい。
京都から公家が来たとき信長は山上の館にいて、「登って来るのは大変でしょう。数日後に麓の館に移る予定なのでそのとき会いましょう」ということになった話があります。
取次役の家臣は、麓に屋敷があったようなので家臣はいちいち山上まで登っていたようです。
城主が城内に住まないで城外に屋敷を作って居住しているってのは後に築かれた城でもみられます。熊本城とか。
一応本丸にも御殿があって生活可能なはずなんだけど。
979 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:33:47
>>972 >>976 俺も受験戦争の時代だった。私大志望で国・英・日本史が科目だった。
近代史は河合塾で私大別で勉強した。
昔の教育を日教組の反日教育だったなんて言う人がいるけど、
近代史なんてやってる暇なかったよ。
今のように大学全入じゃないから受験勉強に必死だった。
大学によって就職先も決まる学歴社会だったから右翼だの左翼だのイデオロギーは無かった。
イデオロギーに染まるのは大学入学後。
東大・京大・阪大・広島大などは左翼的で有名だった。(教授陣が左翼そのもの)
右翼は国士舘とか京都産業かな?
だから未だに左翼は賢いってイメージが残っているんだろうな。
若い人に勘違いしてほしくない事は昔の教育は左翼教育ではないって事。
981 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:29:51
>>980 多分、今の若い人はあなたが普通に思っている常識的な事ですら左翼だと思っているのでは?
982 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:59:41
お城に強い人がおられるようなので聞いて見たいんだけど、
安土城は、山の頂上に天守閣や屋敷があったようだけど、飲み水などは
麓から誰かがかついで運んだんでしょうか。
森蘭丸の屋敷なども、側に水が湧くようには見えなかった。
983 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 01:07:43
>>982 水はね、山の上から麓に流れているもんなんだよ。
984 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 11:37:01
生田万の乱って、数人が代官所乗り込んだだけでしょ?
なんで乱とかつけれて仰々しく教科書に載ってるんですか?
>>982 >麓から誰かがかついで運んだんでしょうか。
水が切れるのが、落城の大きな原因の一つだから大名の居城などの城ではそういうことはないでしょう。
国境などを見張るための小さな城で、敵が来たら城を捨てることが前提ならそういうこともあるでしょうが。
山上でも、尾根と尾根の間のくぼ地など水の出やすい地点に井戸を設けるか、深い井戸を掘るのが普通かと。
987 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 23:46:33
飛騨は何故、江戸幕府の天領になったんですか?
988 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 00:48:49
幕府が飛騨の材木が欲しくなったから。
989 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 02:20:28
990 :
982:2007/12/05(水) 10:53:39
>>986 レスをどうも。
安土城の井戸の記述↓を見つけました。
このページの書いてある場所から見ると廟所近くみたいですが、城跡の詳しい
地図が見つからず、場所が分かりません。
場所もさることながら、一山に大勢いて、それらをまかなう水はたくさん必要
だったと思うと、各屋敷ごとに井戸があって、しかるべきなのに井戸の話は
ない。見に行く人は気にしてないということでしょうか。
h
ttp://suzurin.net/shiro/19990521/index.html 飛騨ではないけど、郡上八幡のお城の井戸は天守の一段下でしたね。
991 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 16:10:06
武田が家来、馬場信春を討ったとされる人物・岡三郎左衛門は誰の家来で、またどのような役職だったのでしょうか?
992 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:09:57
潰す
993 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:10:29
潰す
994 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:11:04
潰す
995 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:16:03
潰す
996 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:17:46
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997 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:50:56
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998 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:51:28
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999 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:52:53
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1000 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:54:31
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