■  昔から疑ってかかっていた日本史の通説  ■

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192日本@名無史さん
>>179

まず鉄砲三千なのだが、これは現在では一千丁程度だったのではないかというのが定説になっている。
鉄砲の数を三千と記しているのは小瀬補安が江戸時代に書いた『信長記』だけである。
信頼に足る資料には鉄砲衆一千がかき集められたと書かれているのである。
つまり鉄砲衆は諸国の大名からかき集められた混成部隊であり、交代で射撃するなどという戦法の訓練を受けられたはずがないのである。

そして長篠の戦いが実は八時間に及ぶ激闘だった事も重要なポイントである。
例えば、八時間の戦いの内の半分の四時間射撃をしていたとして弾丸の数と火薬の量はいったいどれほどになるのだろう。
1分で一発発射したとして四時間で240発。
火薬の量も半端ではないだろう。
それだけの弾丸を鉄砲足軽ひとりひとりが持っていたとは考えづらいのではないだろうか。
しかも銃身そのものも、当時の鉄砲の銃身がそれだけの長時間射撃に耐えられたとは思えない。
そう考えると鉄砲はピンポイントで使用されただけであって、戦いそのものはオーソドックスな白兵戦が行われていたのではないだろうか。
つまり戦いの経緯は『長篠合戦図屏風』で描かれている通り、槍兵が馬防柵の前で武田軍と一定の戦いを行い柵の近くに誘い込んだ後鉄砲隊が射撃を行い武田軍が退却、
というのが延々と八時間繰り返されたのではないだろうか。
193日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:21:25
3段撃ちってNHKの「そのとき歴史が動いた」で実際
シミュレートしてやってみてたけど、とってもしんどいらしいね。
しかも長篠では雨だったので視界も悪るいし、雨でぬかるみはできるしで、
とても鉄砲撃つには不向きだったとか。
194日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:21:34
そういえば一斉射撃は意味が無いというのも聞いたことがある
一斉射撃にすると準備の一番遅い射撃手に合わせる必要があるので非合理的だというのだ
195日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:23:41
でも映画だと弓矢でも鉄砲でも篭城している守備側は一斉射撃しているな
なんでだろうか?
196日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:27:19
>>195
一番最初に撃つ射撃は必然的に一斉になるでしょ
197日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:27:53
長篠の戦いで勝敗を決したのは、戦術面では鉄砲より野戦築城が大きいと思います。
織田・徳川軍が野戦築城したため、防御力が上がったのです。

ちなみに、このことを学習したのは、豊臣秀吉と徳川家康です。
後の小牧・長久手の戦いでは、双方とも野戦築城したため、正面決戦ができなくなりました。
(しびれを切らした秀吉が陣地を出て迂回攻撃に出ますが、それを見破った徳川家康に、あっけなく撃破されています)

あと作戦面では、鳶ノ巣砦の攻略が大きかったと思われます。
198日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:33:26
>>197

長篠の戦い(本来の場所は設楽原らしい)の騎馬隊や鉄砲の三段撃ちは良質の資料には記載がなく、後世の講談まがいの軍記にあるだけです。
この時代、騎馬専門の部隊などどの戦国大名にも存在せず、武士が騎兵(騎馬弓兵)であったのは、せいぜい鎌倉時代までで、
それも馬で突撃すねようなことはなく、弓を射あうだけで、兵力もせいぜい数十から数百人程度でした。
その後、戦闘の規模が大きくなると徒歩兵が増え、馬に乗るのは士官クラスだけとなり、それは武田軍も同様でした。
鉄砲については織田方の鉄砲も千丁ていどでしかも信長直属の鉄砲隊ではなく統一した訓練がされているわけではなく三段撃ちなど危険でできませんでした。
武田軍の敗因は本来の兵力差からいえば武田軍はこのさい撤退するべきであるのにどういうわけか戦いに出てしまったということが最大で、
兵力は多くしかも野戦築城までして準備している織田・徳川連合軍が勝つのは当然でした。