230 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 21:11:26
直義って病死じゃなかった?
黄疸で死んだって当時の記録にも残ってるはずだし
>>66 >初代尊氏が所領を配りすぎて将軍直轄領が少なかったせいで基盤はもろく、
>義満の息子の代には早くも将軍が臣下に殺害されるなど権威失墜。
義教が殺されたのが直轄領と全く関係ないし・・・
むしろ義満以上に将軍専制下にあったはずだけど。
義満も触れなかった、鎌倉府を滅ぼした訳だ
(ただ義満の時代は鎌倉公方も自制する部分はあったから滅ぼす名目もないが)。
強大な所領を持つ守護家の統制策も上手くやってたし
(惣領一族の別家を優遇して、惣領を監視させるシステム、近習上がりに家督を継承させるなど)
将軍の気質激しさが、鎌倉公方を滅ぼせる事でタガが外れて、気に喰わない守護を殺すなど露骨な実力行使で、
守護を震え上がらせ、窮鼠猫を噛まれるオチとなったが・・・
232 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 10:28:27
歴史文化ライブラリーで「尊氏と直義」出たね。みんな買った?
234 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:14:59
age
>>233 わたし的には今年読んだ本No.1候補☆
しかし降将はみな許されてるから
尊氏が直義を毒殺してないと言う峰岸さんの推測はどうなんだろう?
237 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 07:42:00
たぶん直義は中国産ギョーザを食べてしまったんだろう
>>216>>217 北畠親子の奥州入りは後醍醐による左遷でもなければ戦略でもなく
北畠親房自身の望んだ戦略だろ
中央集権思考を持っていた後醍醐に対してモロに反対する奥州幕府構想は
左遷ならそんな権限与えないし、戦略なら基本から外れる
そして親房の理想が鎌倉幕府にあるのは彼の著書からも明かで、顕家の奏状もそれの延長よ
源頼朝や北条泰時を賞賛してるんだから、後醍醐のような天皇親政至上主義者とは一戦を画してる
後醍醐と尊氏の争いをこれ幸いと親房が自分の理想のモデルケースに選んだだけよ。息子と親王巻き込んで
だから親房っていうのは南朝における直義なんだよ。鎌倉幕府式の政治を再興しようっていうな
始め北畠親子の奥州府と直義の鎌倉府は並立して存在したし
降伏した奴は領地3分の1って言っちゃう親房より顕家は現実を見てたと思うけどね
郡検断システムは後から入ってきた吉良や畠山が真似しなきゃ奥州支配を確立できなかったし
>>236 尊氏には直義を害する理由がない。
勝敗は既に決しているのだから。
その上で命まで取るなんて道義的な非難の元となるようなことを尊氏がするとも思えないし、
何より血を分け苦楽を共にした弟ですし。
うーん、毒殺説の根拠も薄弱だけど、だから病死と言うのもどうかなあ
「上杉憲実」を書いた田辺久子は直義は兄弟了解の上、基氏の元服に合わせて自刃と言う見解だけど。
その場合でも処罰的な意味合いはないけどね
242 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 11:13:26
師直を選んで直義を死に追いやった尊氏の姿と、世襲批判に対して曲りなりに
対応しようとした自民党の動きが、どこか重なり合う。
>>241 うん、まぁ病死というのは私の希望的観測。
しかし師直殺害のちょうど1年後ってのが出来過ぎなのは事実で、
師直残党が報復として直義を害した、
尊氏は全くあずかり知らなかった、と私は理解しています。
>「上杉憲実」を書いた田辺久子
不覚にもその本未読です。読んでみます。
いずれにせよ基氏の存在が重要なのは確かで、
尊氏の次子(本当は三男)というより直義の猶子である基氏こそが
かつて「鎌倉将軍府」の「執権」であり、
且つ幕府開設地として鎌倉を主張した直義の後継者であり、
基氏の後見として法体の直義に東国の鎮撫を委ねたかった
というのが尊氏の真意だったのではないでしょうか。
基氏を尊氏三男と書きましたが、長男竹若、次男義詮、三男基氏、という理解です。
直冬が本当に尊氏の子なのかは今となっては誰にも分かりませんし、
DNA鑑定などない当時、「尊氏庶子」を称する直冬の登場は
世人からは胡散臭く受け止められ、尊氏・登子・義詮にしてみれば迷惑以外の何者でもなかったところ、
心優しい直義がこれを憐れんで養子にしたものの、
直義にとっての後継者は如意丸、その夭逝後は基氏ということです。
そうした満たされない承認欲求が直冬をあのような叛逆行為に駆り立てたことは察して余りあります。
そうそう、峰岸氏は、さった山体制は上杉氏排除の体制であると喝破されています。
高氏を族滅に追い込み、高−上杉の均衡を破った上杉氏を許せなかったと。
私もこの見解に同意します。
尊氏が排除したかったのは直義ではなく上杉氏であり、
従って尊氏に直義殺害の動機は皆無であったと。
247 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 21:45:26
>>240 尊氏・直義間の個人関係は修復できてもそれぞれの与党は元の鞘におさまるのは不可能だから、
後顧の憂いを断つ意味でも・・・
弱腰で優柔不断なイメージの尊氏
冷徹で邪魔者は必ず始末するイメージの直義
しかし最後の最後で非情に徹したのは尊氏だったという
249 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:00:39
どうして子供がいなかったの?
男色家だったの?
直冬とは衆道の契りがあったの?
250 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 22:01:03
如意丸という子供いたし。
北方謙三小説ではなぜかホモ設定なんだよな足利兄弟。
花一揆つくった尊氏はまあ仕方ないとして、
直義の男色疑惑が発生するような文献はないよね?
北方謙三はアホ
254 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 10:39:02
なんで直冬を養子にしたんだろう。
単純に情だけで養子にしたのか?
自分のシンパを増やしたかったっていうのもある?
どういう意図があったんだろう
足利
しかし一周忌に殺すのに、わざわざ毒殺しようと思うかね。
そこまでこだわってたら、普通に自刃しろと言うでしょ。
何だか仏事の後に食ってた料理が腐ってて兄弟で腹痛起こして兄は助かったとか、
意外と中国産ギョーザみたいな話じゃないの?
260 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 00:13:34
兄貴への当てつけ自殺かもよ
北条は腐って
後醍醐はいきあたりばったり
護良、楠木、新田は天皇バックにして敵視してきて
高は乱暴すぎ
兄貴は戦争、人心つかむのは上手いが政治家としては人良すぎ
苦労したろうよ・・
262 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:10:47
兄貴は無能確定?
>>262 あの戦の強さや時流読む力は無能ではないだろう>尊氏
ただ敵と戦って勝つことは出来るけど、敵になったはずの後醍醐天皇に未練たらたらだし
何より平和になったとき味方を切ることができない。
平和になったとき非常に徹して味方を切らないとその味方がいつ寝返るかわからないし
その味方の財産を庶民に分け与えて人心獲得する必要もある。
これができなかった点が漢の高祖や徳川家康、源頼朝と尊氏との大きな違い。
実際室町幕府では義満がなんとかこれをやったからちょっと長生きした。。
それこそ直義や高師直には味方切る資質あったかもしれんが。
でも仕えるなら尊氏だよね。
平和になった時が存在しない罠w
尊氏はライバルの南朝つぶしきれなかった
また、自軍を統率しきれなかった
頼朝は平氏、家康は豊臣、高祖は項羽を完全に潰した
自軍は完全に統率していた
自軍統率しきれなかったのが直義のせいじゃん>尊氏
NO2を早くから確定させておけばなあ。
ところがその尊氏が直義にぜんぶ任せると言って信頼しきってるんですな。
田楽に夢中で政務を任せ、困ると出家すると言い出す兄貴(高時の場合病弱なだけだったが)と
田楽なんぞとんでもない、酒も飲まない、責任は取る、公武協調に意を砕く弟
直義のせいだなんて言ったら佐藤進一師匠が黙っていないぞ
高師直もつらいよなあ
尊氏はのらりくらりだし
直義は真面目すぎ
結局やられちゃった。
直義の問題は極端な言い方すると武家版後醍醐だったところだろうか
鎌倉以来の坂東流の御家人・田畑中心志向で西国の悪党・商業の発展についていけなかった
270 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 01:07:27
age
271 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:42:55
>>251 早世した実子はいたが子供が少なかったからそういう話が出てくるのかと。
272 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:53:40
>>251 足利兄弟は前半一心同体のごとくに仲が良すぎ、
そして後半は高師直をはさんで尊氏をとりあって気味が悪すぎ。
兄弟で戦をして大勢の部下が死んでいるのに
それでも直義はなぜか降伏してきた兄を無防備に許したり。
不可解な結びつきの兄弟だから恋愛感情があって
妙にくっつきすぎたりすねたり恨んだりっていう風にしたのかな。
直義にも尊氏にもホモ説はないと思うけど。
>>271 尊氏は正室赤橋登子との間に最低3人(二男一女)、
その他側室や愛妾との間にも子がいたから特に少ない印象はない。
直義は実子がないために当初兄尊氏の庶子直冬を養子にしていたが
40歳過ぎてから正室に男子が初めて一人だけできた。
この男子は夭折したけど。
直義は子は少なかったけど、ホモではないだろう。
>>272 直義の嫡男如意丸って生没年分かってるんですか?
274 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 21:00:21
>>273 直義の嫡男は貞和3年(1347年)生。
母は正室の渋川貞頼女。
当時、直義と長年連れ添った正室はいずれも40代。
観応2年(1351年)に死亡。
275 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 10:16:23
>>271 尊氏の場合、花一揆はヤバいな。
特に饗庭氏直。
直義も、積極的にホモとする史料はないけど、否定する史料もないよな。
長年連れ添った奥方との間に
高齢になってから子ができているということが
普段から仲が良かった証拠だと思いたい。
子を残すためだけに女抱くなら
若い側室娶った方が出産のリスク的にもいいだろ?
277 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 22:43:18
>>276 それ、証拠になるの?
仲が良い=他に女性がいない、ということにはならない。
現代的な感覚で考えたらダメなんじゃないの?
>>277 直義はくそ真面目一直線の面白くない男だからなあ。
ばさら大名の対極だから。
関東が飢饉に襲われた時、宮方の結城なんかは領民から略奪横領して兵糧を集めたのに、
上杉憲顕はそういうことを一切せず、そのため参陣が遅れた。
直義は憲顕の行動は、我が意を得たものであると誉めたたえたぐらいだもん。
279 :
日本@名無史さん:
>>278 それと女性関係、或いはホモでも良いけど、
関係ないじゃん。