1 :
宇摩志麻治命:
テンプレ以上です。
1か所コピペミス。
>>5の一番下の
>外朝帰化族について語る (日本史板)
は脳内消去して下さい。
あと、前スレ先に埋めて下さい。
埋まるまでここは保守プリーズ。
15 :
日本@名無史さん:05/01/29 15:41:53
>>14 勘注系図がないんでないか。
誰かあげるかな。PDFもっているけどあげると著作権ひっかかりそうだしな。
17 :
日本@名無史さん:05/01/29 16:15:09
>>16 どこ?出来れればURL提示してくれない?
18 :
日本@名無史さん:05/01/29 16:16:52
『神道大系古典編13』にあるはず。
都道府県立の図書館ならあると思われ。
と言うか>15氏のpdf、激しくupして欲しかったりもする・・・。
18のは簡略化してあるね。だから「準拠」なのかw
22 :
日本@名無史さん:05/01/30 00:32:39
物部氏スレなのに、どうしていきなり尾張・海部氏の話題から始まってるんだw
饒速日=天火明は、物部氏同族が捏造したんだろ。
>>24 今の所、勧注系図に資料としてに価値があるのに、それが閲覧出来るリンクがテンプレにない、というレベルの話がでているだけでは?
ま、ひとまず前スレから埋めていこうではありませんか。
27 :
日本@名無史さん:05/01/30 23:24:16
>>1-12 2ちゃん内のスレへのリンクもhを抜いたのは何故・・・
コピペ面倒くさ
>>29 えっ?2chブラウザなら読み込めたんじゃなかった?
マックだと知らんけど。
と言うか、鯖負担軽減だか何だかで、何処のスレでもみんなh抜きで貼ってないか?
漏れもいつもそうしてるし。
31 :
日本@名無史さん:05/01/31 12:34:53
>>22 まずは図書館行くことをすすめる
>>20に書いてある図書を探せばよい。
32 :
日本@名無史さん:05/01/31 22:06:54
33 :
日本@名無史さん:05/02/02 00:24:18
前スレ何時までにうまるんだろう?
とりあえず保守age
34 :
日本@名無史さん:05/02/02 00:27:36
石上氏って、結局どうなったの?
35 :
日本@名無史さん:05/02/02 23:32:51
石上神宮に奉仕
石上英一
六国史では並松で終わり。
38 :
日本@名無史さん:05/02/07 18:16:30
石上にも三年保守age
39 :
日本@名無史さん:05/02/07 18:20:12
中世以降の石上神宮の神職って石上=物部氏の一族?
島根の石見地方出身だが
近くに物部神社という名前の神社があったが
関係あるのだろうか?
42 :
日本@名無史さん:05/02/10 21:15:44
43 :
日本@名無史さん:05/02/13 11:37:12
前スレ何故かDAT逝きみたいだな。
急に埋まったのか?
44 :
日本@名無史さん:05/02/13 11:43:45
「はたおりべ」・・・機織り
「やまべ」・・・山の管理人
では、「もののべ」・・・???
「もの」って何を指す?「おおものぬし」や「おおくにぬし」との関連は?
「もののけ」の「もの」
「もののふ」の「もの」
46 :
日本@名無史さん:05/02/13 11:52:33
神武(あえて神武)以前の大和盆地の覇王の取り巻きだったのは
ある意味で事実なんじゃないのか。
記紀において結びつきを古くから載せているから。
たとえ仮に創作だとしても、「古い結びつき」と記載するには訳
がある。
編纂当時は相当弱体化しており、「磐井の謀反」や「蘇我の悪事」
を記載する材料としても弱いはずだが、それでも載っている。
もちろん、創作ではなく純粋に伝承と考えれば、より一層。
元明朝の左大臣様の御力で正史に捻じ込みましたとさ。
48 :
日本@名無史さん:05/02/16 08:24:30
武田元明もアナルに捻じ込みますた
49 :
日本@名無史さん:05/02/18 11:42:49
>47
誰でつか?>元明朝の左大臣
>48
こっちも誰?>武田元明
>元明朝の左大臣
贈従一位石上朝臣麻呂だろ。もと物部連麻呂。
壬申の乱のとき近江朝の大友皇子に最後まで従って、
のち天武持統朝では重用されて出世した過去があり、
饒速日神話はそれを反映したものと言われている。
51 :
日本@名無史さん:05/02/19 07:58:12
52 :
日本@名無史さん:05/02/26 17:34:02
さがりすぎだろ
53 :
日本@名無史さん:05/03/10 15:46:01
揚げ
54 :
日本@名無史さん:05/03/15 14:11:41
髷
55 :
日本@名無史さん:05/03/15 16:57:30
物部氏の末裔、東北方面に多いの?
56 :
万年救護大本尊の朴蓮:05/03/15 17:49:13
トニーたけざきによれば
ガンダムの「ダム」とは
ふくらはぎのくびれらしいぞ。
>>55 古代史料上でも、大和朝廷の勢力の及ぶ範囲なら、ほとんどの国に物部は分布しますよ。
陸奥にも少ないですが数例あったはず。
東北地方は、関東や北陸あたりに住んでたものが
時代とともに移り住んだ場合が多いらしいんで、高橋克彦に騙されないようにね。
>>56 キシリアの前でシャアが苦し紛れに考え出したんじゃなかったですか?
あ、違うじゃん。
ふくらはぎのふくらみが「ダム」だよw
59 :
日本@名無史さん:05/03/17 19:46:22
>>55 神功皇后の新羅征伐の時に東北に来たやつらがいたらしい。
>>60 唐松神社の物部文書は近世偽撰史書だから鵜呑みは禁物。
神社の由緒なんてどこもそんなもんかもしれんが。
62 :
軽皇子:05/03/20 00:31:19
高橋克彦の「炎立つ」「北の(よう)星 アテルイ」に物部氏とその末裔の話が出てくるけど、あれ本当なのかな?
63 :
軽皇子:05/03/20 00:32:27
蘇我本宗家に滅ぼされて津軽(東日流)へ逃れた、とある
64 :
軽皇子:05/03/20 00:33:31
>>高橋克彦に騙されないようにね
あ、やっぱし?
65 :
軽皇子:05/03/20 00:34:41
藤原泰衡も高橋克彦にかかっては英雄に昇格ですもんねー
66 :
日本@名無史さん:05/03/20 11:19:26
偽じゃなくてマジで物部氏の子孫の方はいらっしゃるのですか?
>>62 金売り吉次が物部氏の血脈だというのは高橋の妄想だよ。
「星封陣」も読めばDQN度がよく判ると思う。
>>66 源氏や藤原氏ほどではないけど、自称してる人ならたくさんいるよね。
物部氏の子孫は橘姓を仮冒する傾向があるともいう。
69 :
軽皇子:2005/03/24(木) 22:33:37
ねえ、秋田「物部文書」伝承って読んだ?今手元にあってこれから読むんだけど。
70 :
軽皇子:2005/03/24(木) 22:35:16
71 :
軽皇子:2005/03/24(木) 22:36:01
石上さんはその可能性高し
>>69 神社の由来を立派で大げさなものにするために、
中央の文献や事件に無理やり関係させたような内容だったね。
著者の進藤は地元民だけあって、全部史実だと思ってるようだが。
73 :
軽皇子:2005/03/27(日) 23:04:37
>>72 ふ〜む 東北人は高克もそうだけど思い込み激しいんかね
74 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 13:03:51
もののべ〜たち〜だけ〜♪
高橋と申しますが、私の先祖は物部なの?膳なの?
>>72 俺、地元だけど嘘ぽいと思ったよ。
子供のころ遊んだあの神社がねぇ?
>>75 「高」の字の上の口の部分がはしごならまがうことなき日本人です。
高知県かどこかに物部村てなかった?
なんか関係あるのかいな・・・・・
物部なんて全国にあるってw
81 :
日本@名無史さん:2005/04/22(金) 23:05:43
たとえばどこ?
83 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 01:32:49
・日本書紀の神武天皇時代
この饒速日命が物部氏の先祖である。
84 :
日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:37:13
>>18 母系制や欠史八代養子説だけどさぁ、
今年の世界不思議発見で、ベトナムだかどっかの東南アジアの国で
むかーしは、男性は漁に行って死ぬ事が多かったので、
それを前提に財産の相続も家族も何も全部女性中心に継承する女系社会
だった、って話があったろ
そこまではいいとして、だから?
86 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 14:46:59
だから、物部は、天皇家と対になる存在だったということ。
87 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 18:49:39
>>41 島根県の物部神社は 出雲を監視するために置かれた。兄弟神社は弥彦神社である。
と、石見一ノ宮である物部神社の神主から直接きいたことがあります。
この神社の紋章は日の丸のように赤い○のなかに鶴の絵柄です。
石見と出雲は仲が悪い。
88 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 18:52:04
物部守屋の後裔に蜷川氏がいるよね。
室町幕府の。
格闘家の「武蔵」は蜷川の子孫だから、守屋の子孫でもある訳だな。
89 :
鴨禰宜:2005/05/26(木) 19:22:36
弥彦は信州・諏訪とか、長野方面の監視にはいい場所だなー。
弥彦ではなく天の香具山が祭神だったのにはがっくりしたが。
90 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 20:13:56
>>88 蜷川氏が宮道朝臣姓であることは知られるが、これは物部氏族ではない。
古事記には建貝兒王(タケカイゴノミコ)が「宮首(道?)之別等之祖」と記され、
旧事紀には稚武王が「宮道君祖」と記される。建貝兒王と稚武王は別人と
見られるが、何れにしろ日本武尊の男で、称景行天皇裔氏族と分かる。
武蔵はヤマトタケルの子孫(・∀・)カコイイ!!
92 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 11:26:14
93 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 00:06:11
94 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 15:46:25
物部と大伴は源氏と平氏みたいだね。
武家の対立みたいな点が
95 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:33:13
石上贄古系
>>93 ローヤルゼリーは笑ったね。
古神道研究家だかなんだか知らんが、文献に拠らない現代人的な解釈で
十種神宝を読み解こうとすれえば絶対DQN説になる。
小河内ダムの設計は物部氏の直系の子孫と聞きましたが、
本当ですか。
土木は詳しくないのですが、小河内ダムの設計者は小野基樹氏で
物部氏とは関係がないと思います。
ただ、発案者の尾崎行雄東京市長の娘が物部家に嫁いでおり、もしかすると
このダムの建設に何か関係しているかもしれません。
余談ですが、尾崎行雄は最晩年、
「小河内ダムは失敗だった。あそこはじつは雨が降らないのだよ。」と
よく語ったということです。
99 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 01:45:43
よくわからんなあ。
100げっと
101 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 20:26:16
>>96 >ローヤルゼリーは笑ったね...
何のこと?
蘇我馬子の妻が物部守屋の妹でその間に蝦夷が生まれたとは正直驚いた。
高知県の物部村が、昔「忍穂の里」って呼ばれてたと
聴いたんですけど、誰か知りません?
ニギハヤヒ伝説の河内も、十三湊も知名がひっかかるし
物部村ちかくの剣山には、高天原伝説もあるんですよ。
104 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 18:38:59
十三湊ってなんてよむの?
105 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 18:40:21
とさみなと
>105 ありがとお
>>101 >ローヤルゼリー
天璽瑞宝のひとつ、「蜂の比礼」の力はこれだそうです
俺、児玉党(有道氏族)の子孫だから一応は物部姓。
久自国造?⇒丈部氏⇒有道氏(有道宿禰)⇒児玉党
改賜姓してるから、有道姓のはずだろ?
>>109 物部姓の有道氏族児玉党ってことでOK?
有道氏は常陸の豪族
『続日本後紀』によれば、天長10(833)年2月に常陸国筑波郡人の丈部長道・氏道等が
有道宿禰の姓を賜っている。 ただし、丈部は大部の誤りで、オオトモと訓む説がある。
物部氏族・・・→大部造姓(久自国造)⇒有道宿禰姓⇒「児玉党」
物部氏族の有道姓児玉党じゃないか。 この系で物部姓だったことは無いと思われ。
112 :
蘇我馬子:2005/08/12(金) 18:23:47
>>111 わざわざ調べてくれたんだ、ありがとね。
児玉党の各氏族の系図を見ると系譜は物部氏からつないでる。有道氏がそうだからね。
あと児玉党は、藤原姓児玉党と平姓児玉党の二系統にわかれてる。
藤原姓は脚色したもの。平姓は秩父氏との姻戚関係から。で俺の系統は藤原系w
ただ藤原系が児玉党の本流だけども。児玉党の本流は庄(のち本庄)氏。
113 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:24:48
蘇我馬子ってwww
間違いwww
114 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 09:30:04
物部なんて聞いたこと事もない、児玉なんて
いう地元民は知らない。
朝鮮人の子孫だね。
115 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 13:58:32
116 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 00:54:17
そう?
118 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:35:38
そう?
119 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 15:32:51
物部氏の女たちには、誰も触れていないな。
>>102くらいか。
国守(藤原宇合夫人、広嗣母)、鮪手(聖武夫人)、糸手、久米若売(乙麻呂情婦)...
120 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 22:14:45
>>119 >鮪手(聖武夫人)...
物部氏は大伴氏と並んで、理由は分らぬが天皇の妃賓は出せない家格では
なかったか?
>志斐弖
天一坊事件みたいだよね。
>>97-98 かなり遅いが
ダムで物部といえばダム建設や建築の耐震設計の基礎を作った
物部長穂という人物がいますよ
ちなみに尾崎行雄でなく尾崎三良という人の娘と結婚している
もしかして、この人とが別の人物とがごっちゃになっているのでは?
123 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 20:41:59
>>102 豪族同志が通婚するのは、古今不思議ではないと思うが。尾興の妻は、
誰だったかな。
物部倭古連女の阿佐姫と加波流姫
125 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 23:26:36
>>45 違う。
物部氏で日本書紀に最初に登場するのは十千根(確か)。
で、その時の記述が、皇族から宝物庫の番人の職掌を引き継ぐ、という内容。
つまり、倉庫番が元々の職掌。倉庫内の色々な「物」を扱うから「物」の部。
で、大和朝廷は西国を征服した際に、戦利品をかっぱらってくる。
西国では武器を神宝として祭る習慣があったが、当然その武器もかっぱらってきて
宝物庫にいれる。
物部氏は武器と神宝を同時に扱うようになる。
これが軍事と祭祀両方を職掌とする起源。
>>56 違う。
ガンダムは「ガンボーイフリーダム」の略。
トニーが知らないわけがない。
ふくらはぎは完全にネタ。
>倉庫番
蘇我氏の三蔵伝承を知らんのか?
>128
詳しく
>>122 物部長穂はマジらしい。
古くからある神社の神主の家出身で、その先祖らしき名前が
「陸奥話記」にでてくる。
「物部長頼為陸奥大目」物部長頼は出羽出身で前九年の役の論功で
陸奥の4等官の「大目(だいさかん)」になったとのこと。
物部長穂の唐松神社付近は、前九年に出てくる吉彦秀武の本拠である
現秋田県大仙市協和荒川の近く大仙市協和境だし。
部曲の物部じゃないの?
>138
蔵部(くらひとべ)は旧大蔵省の役人みたいなことをしてたんだよ。
物じゃなくゼニ。
ごめん138じゃなく>128
5世紀に銭があったの?
来ると思った。そりゃ銭そのものはないよ。
財務会計処理とかそういうことをしてたんだよ。
だからモノ(財物)だろ?
税収入で入ってくるものを扱うのと
一般に言う宝物を扱うのとでは役割が違ってくる。
宝には財部がおるがね
物部は蔵番じゃなくて基本は軍事氏族だって。
そう。祭祀の内容は軍事を前提としている。
142 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 16:10:07
age
143 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:27:00
というか祭祠をともなう刑罰にあたった。
単純な軍事は大伴氏が分掌
144 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 19:27:01
age
>>143 その通りだと思われ
物部氏は警察・司法系武力担当
そして当時の刑罰は神事(盟神探湯等)に
基づくから中臣氏と共に祭祀も担当
それに対して、軍事系武力担当は大伴氏や佐伯氏
146 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 10:59:57
そして中臣氏の祭祀は卜占によって行なうものだから、
呪咀系の物部とは性格が異なる
斎部は?
忌部は物部より格下の立場だった。
149 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 16:03:18
>>145 >軍事系武力担当は大伴氏や佐伯氏...
大和政権存亡の戦たる筑紫磐井との戦に出征した最高指揮官は物部荒甲で、
大伴金村の方は副指揮官ではなかったっけ。
150 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 16:43:28
>>149 大伴金村は任那四県の百済への割譲一件で
往年の威信が損なわれていた状況だった
大伴氏が純軍事系担当だった証拠は
大伴氏の氏族歌と言える「海行かば」の存在
うみ ゆかば みづく かばね
やま ゆかば くさむす かばね
おおきみの べにこそ しなめ
かえりみはせじ
大伴家持編纂した「万葉集」に載っている
152 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 18:07:53
>>151 >大伴金村は...往年の威信が損なわれ...
金村没落後の蘇我稲目政権以後は、その大伴氏配下の軍事部隊も、
大王の伴から、蘇我氏の私兵に転落したのでなかったかな。
153 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 18:09:09
鈴木善幸とか児玉清の祖先
穂積と有道ですか
155 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 10:23:30
物部系の人物には、二田造塩や榎井連シビなど警察的な職掌の者が多い
156 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 12:34:29
大伴も佐伯も当時新参系の渡来人が多かった豊の国出身でした。
今の皇族に物部の血は入ってるんですか?
158 :
遣唐使:2006/01/07(土) 20:42:21
159 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 20:45:38
警察か〜
そいえば警視庁も白を好む集団じゃなかった?
物部と同じ出雲系じゃん。
なんかスレ違いのような気もするけど、かまわず投下。
江戸時代の幕臣系図集『寛政重脩諸家家譜』によると、
物部氏の旗本は、平岩、荻生、稲生、勝の4家のみ。
いずれも寛永以降に幕臣となった新参旗本。
最後の勝家はあの勝海舟の勝家だけど、海舟の父の
代に水戸藩士男谷家から養子に入っている(海舟の父
が水戸藩士になったのは祖父男谷検校が株を買った
からという有名な話がある)ので、海舟自身が物部の
血を引いているわけではないと思うが。
162 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:14:39
物部氏の本宗は石上朝臣だと思うが、ほかにも連・造姓や無姓の部民などの諸氏がいたようだ
石上氏は古代の名族だし、中世以降の武士が名乗っても不思議ではない
蘇我部なんか長宗我部とか香宗我部みたいにいかにもって苗字になってる
石上部は磯部さんになりますた
164 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 05:19:40
いっておくがこいつ物部(鈴木、児玉)
は絶対に九州人じゃないからな!!
いい加減にしとけよ。朝鮮人共め!!!!!
165 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:49:36
物部とか蘇我ってかっこいい苗字だ。
だが長宗我部は秦氏だったりする。
167 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:09:26
そんなもの姻族関係結べば当然だろ
168 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:00:54
軍事氏族て紀氏じゃなかったっけ
軍事系氏族、大伴氏(+佐伯氏)、物部氏、巨勢氏
170 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:31:23
★古代カラ半島国家の歴史★
〜カラとは何か〜
加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の
大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」と
いう意味である。
カラの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄え
ていた。カラは倭人の世界だったのである。
現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から
南下してきたのである。
171 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:52:28
奈良朝以前で神宮といえば、石上神宮だけ 古代天皇が一番多く
参拝したのが、石上神宮 禁足地に入ってみたら火打ち石があった
古代では火打石は貴重品だったのだろう
現在の拝殿は京都御所の残材で作ったようだ 境内でニワトリを
飼っているのが印象的だ 日本最古の道の山之辺の道につながっている
物部の武器庫だったようだが、後世は祭祀氏族だろう
172 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 22:47:28
>>170 >カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である....
カラ半島の南端には、カラの他にアラ、タラもあるのだが。又それらを
カヤ、アヤとも呼ぶこともあるのだが。離る(カル)が語源で解釈でき
るかな?
173 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 14:57:56
>>172 カラ地方は、4世紀前期に、朝鮮人(の先祖)に乗っ取られただろう。
神功皇后の新羅征伐のエピソードは、シラキの正統な領有者であるヤマト人と
侵略者=朝鮮人の領土紛争だろう。
ヤマト側にとっては、シラキ解放の聖戦だよ。
カヤとか、アヤとかいうのは、
カラ、アラを正しく発音できない朝鮮人が、訛ってそう呼んだんだろう。
174 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 21:41:30
済州島の古名=耽羅(タンラ)は、元はタムラと発音した。
タムラの語源は、日本語古語の屯(タムロ)だ。
タムロとは、大勢の人間が集まる場所の意味。
タムラ島は、古代中国と筑紫(日本・九州)・百済の中継地だった。
人が集まる島だったので、日本人(大和人と百済人)が
そう名づけたのだ。
175 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 23:18:49
チェジュドにいってみたい
176 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 18:01:30
チェジウは日本では人気でないだろう。
日本人には受けない顔だ。
アメリカ人には受けるかもな。
177 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 18:55:23
新羅と志良岐は違う国じゃん。
新羅(シルラ)は313年以降に、朝鮮人=金奈勿一派が建てた国だろ。
志良岐(シラキ)は、稲飯命が建てた日本民族の国じゃん。
金奈勿が高句麗と手を組んで、志良岐王家を滅ぼし、新羅を建てたのが真相。
金奈勿は、もともとは志良岐王家に仕えていた役人だけどね。
178 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 21:59:20
物部麻呂が天武に内通していたのは疑いないよな
179 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 22:21:47
石上神宮ってなんで大社じゃなく神宮なの?
181 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 14:12:01
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は
朝鮮人の国だったと信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の先進文化を伝えた」
と主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。
朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は
倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『先進文化』なるもの
は存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。
先進文化ウンヌンという話は、日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ
フィクションである。
朝鮮人が古代日本史について語るときの基本パターンは、
古代日本と呉・越との深い関係を故意に無視し、満州地方を本拠地としたフヨ族と
日本民族を結びつけて語ろうとする事だ。
フヨの神話と日本神話には共通点がないにも関わらず、である。
日本神話は、むしろ越地方の神話と共通点が多いのだ。
★ 日本王権神話と中国南方神話 諏訪 春雄著(角川選書)★
【紀伊国屋書店ブックウェブ】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/bwtsea.cgi?STRCT=1&FLG=&REV-COD=OB22%2FO11
182 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 14:20:58
志良岐の国吉師(コニキシ)の家の一つである昔氏(セキ氏)は、
物部氏の石上一族の分家か。
183 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 14:23:30
イソ 50 五十嵐 石
シュメールの武神50の名との関係は?
184 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 16:58:32
物部氏の末裔ってまだいるの?
185 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 16:20:39
石上宅嗣の起こした芸亭院は、いつ頃なくなったのかな。
186 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 16:38:48
県立奈良うんてい図書館
>>178 その割りには石上麻呂は天武朝でも持統朝でも
それほど重用されていない
石上麻呂が台頭したのは文武朝になってから
>>187 榎井氏のが優勢だったしな
でも、雄君は直ぐ死んじゃったorz
189 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:56:02
★★ 和漢同盟と百済建国 ★★
4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について、皆さんの意見を書き込んでください。
和漢同盟があってこその、百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。
百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の役人や武将、
民間人が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。
190 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:09:24
【『嫌日流』まとめサイト】
http://homepage3.nifty.com/hakch/ マンガで描かれている日本人の顔と朝鮮人の顔がおもしろい(W
目が細く、目尻が吊り上った、一重マブタの、着物を着ている女二人組が
日本人だという。
1)目が細い
2)目尻が吊り上っている
3)一重マブタ
これらの特徴は、朝鮮人の顔に見られるものなんだが(W
逆に、マンガに登場する韓国人の女たちは、二重マブタ(笑)で、
目が大きい日本人顔で描かれているよ。
よく、
「韓国人が、日本人について語っていることは、すべて韓国人自身に
当てはまることだ」
と、言われるが、ニセ嫌日流は、まさに日本人と韓国人の容姿を逆転させて
描いているんだよな(笑
韓国人は、いつも、事実を真逆に語る(描く)よな。
嫌日流が日本で出版されたら面白くなるね(笑
191 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:17:15
越智氏の元は物部氏なの?
今まで孝霊天皇から出てると思ってた。。
7000傑みたいな書き方では誤解を招くよなぁ・・・
193 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 18:47:21
「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。
そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』
と言ってやる。(笑)。だけど、アイツ働かないからな(笑)」
【「正論」2003年号1月号81ページ 憲法集会での辛淑玉の発言】
↑
救いようのないバカ(嘲笑
★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。
194 :
ニューヴァージョン:2006/02/25(土) 19:22:36
「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。
そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』
と言ってやる。(笑)。だけど、アイツ働かないからな(笑)」
【「正論」2003年号1月号81ページ 憲法集会での辛淑玉の発言】
↑
救いようのないバカ(嘲笑
★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、
日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していた。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準のレベルに差があった、
などということはありえない。古代においては、日本列島もカラ半島南部も『倭人の世界』だったのであり、
同じ倭人どうしが交流していたのだ。朝鮮人は、古代日本とは何の関係もないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)ではない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、古代カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郷(現在のソウルの東方地域)に
住んでいた少数部族であるが、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に難民となって南下し、
日本領=シラキに移住したのである。後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、
王権を簒奪して志良岐を乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
朝鮮民族は、けして韓人(カラビト)ではない。 もちろん、倭人=日本人でもない。
辛淑玉は、日本人と朝鮮人を同族だと思いたいようだが、残念でした、何の関係もありません(笑
195 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 03:10:40
孝霊天皇出自にされてるのは出雲系が多いんじゃないですか。
196 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 18:06:00
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。
【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。
古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。
■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm
>>178 >物部麻呂が天武に内通していたのは疑いない..
壬申乱での挙動をみれば、近江側にありながら誼みを通じて
いたのは、紀氏だろう。大友の近習だった麻呂が内通者で
なかったのは、
>>187の指摘のとおり、天武政権での処遇を
みれば明らか。
198 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 14:38:45
天皇以前の大王家。
>>197 禿同
紀大人だけが御史大夫は解任されなかったから
大人が大海人皇子の内通者だった可能性が高い
また壬申の乱の時に大海人側についた大伴馬来田は
乱の終了後、御史大夫に任官されている
しかし物部(石上)麻呂は、天武朝でも持統朝でも
議政官(大臣、御史大夫)に任官してないから、内通者だとは
とても思えない
*御史大夫(大宝律令における大納言に相当する官職)
200 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 00:21:33
なぜ朴井連は主流派にならなかったのかな
>>156 >大伴も佐伯も当時新参系の渡来人が多かった豊の国出身・・・
とすると、主筋の大王家になる以前の天皇氏も豊の国出身って、
ことですか?大伴氏の本貫が豊国との出典は、何?
大伴や佐伯は紀伊出身やよ
203 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 16:19:54
>>202 物部氏と並ぶ天皇家の家政執事筆頭格の大伴氏の本貫が、紀伊?紀伊の
どの地方?先祖の武日命には、紀伊との関連記事はなかったはずだが。
宜化朝で物部内にクーデタって、原因は何?
295 :日本@名無史さん :04/07/01 00:26
安閑のときの大連は物部麁鹿火だが、
宜化のときの大連は物部押甲となっている。ちなみに押甲は麁鹿火の弟。
ところが、宜化の途中で物部内にクーデターがあり、
大連は物部荒山へ変更。ちなみに荒山は尾輿の父。
そして、欽明のときの大連は物部尾輿となるわけだ。
で、仁賢のときの大連である物部木蓮子や、
武烈のときの大連である物部麻佐良なども含めて、
物部麁鹿火や物部押甲まで、大連はすべて、物部布都久留の子孫であった。
しかし物部内のクーデターによって、
それ以降の大連はすべて、物部荒山の子孫となる。
ちなみに、物部守屋や石上麻呂などもすべて物部荒山の子孫である。
欽明天皇と周辺環境
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1083350482/295
旧事本紀の大連就任記事を全部ウノミにしていいもんかと。
でも麁鹿火・木蓮子たちは継体天皇擁立に賛成だったっぽいな。
ひきつづいて安閑宣化も支持したんだろう。
クーデターというか、尾輿は蘇我稲目たちと一緒になって
欽明擁立したってことだろ。
荒山って、親父と息子が目立つだけに地味だねぇ。
何も事績はないし。本当に実在?
クーデターなんてもともとないよw
麁鹿火が守屋と同世代というのも不審だな
209 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 23:45:33
島根県安来市に行ったことある?
あそこの和鋼博物館に古代刀の復元があるけど、
映画「もののけ姫」のアシタカが持っていたもの
はあれをモデルにしたんだって。
210 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:38:11
>>208 確かに、なんか妙な系図だよね。
系線の引き方が間違ってるような。
211 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 14:16:08
俺は滋賀県守山市立物部小学校出身です。
滋賀は物部とつく地名が多くて、滋賀県伊香郡高月町東物部などがあります。
大化5(649)年の創建と伝わる神社の勝部神社も
当初は物部郷のために物部神社といいましたが、そののち勝部(かつべ)という地名になりました。
212 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 04:29:36
継体天皇の地盤も近江だった。
213 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:13:00
・物部氏の祭祀した物って、銅鐸?銅鏡?のどっちだったのでしょうか?(それとも両方?)
・物部氏の神宝の「比礼」って銅鐸のことでしょうか?
・物部氏の神宝に鏡、剣、玉があるということは、最初、近畿に「三種の神器」を持ち込んだのは物部氏?
・考古学的に、銅鐸と銅鏡の併行している時期はあったのでしょうか?
214 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 00:52:02
神職の人に多いよ。
215 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:41:49
物部の末裔は?
216 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 23:40:17
>>215 四国の越智氏とか。
越智から出てる河野も物部系だな。
厚東とか浅井とか
218 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:49:08
浅井もそうなの?
物部宿禰か浅井直(漢人系)なんだろうと思うが
220 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 00:49:14
物部って渡来系だっけ?
舟に乗って天から降りてきたんだよ。
物部氏のご先祖様は。
しかも皇室の祖先よりも早く
223 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 15:35:34
あまり詳しくないんで教えてください。
天皇家、物部、蘇我とかは同じ時代に争ってた豪族で、結果
天皇家が勝ったが、物部が勝ち残ったら天皇家みたいな立場も
ありえたという事ですか?
224 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 18:53:57
先代旧事本紀では物部尾輿の妻は弓削氏の祖である倭古の娘と
いうことになっているけど、この倭古は
布都久留―木蓮子―目―倭古
の倭古と同一人物ですか?
たぶん
226 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 09:46:13
和歌山の熊野にもあっただろ?
228 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 10:47:53
イザナミの古墳?
229 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 00:22:15
230 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 01:54:03
物部氏と海部氏って、同族なの?
あと、和邇氏もどうなのよ?
物部と海部はともに神別だが、同族ではないだろう。
和邇は系譜上皇別だが、海部と同族の可能性あり。
>>231 海部や和邇は、物部が権力の座に就く過程で利用されたり、取り込まれた存在に過ぎないってことか?
海部はそう。 特に同族の尾張は典型的な仮冒例。
和邇も海部と同族だろうが、中央豪族として大王家と
の血縁を強めたので、物部より皇別の系譜を選んだ。
234 :
日本@名無史さん:2006/09/07(木) 07:17:48
>>233 つまり、原物部集団は丹後系集団と別ルートないし異なる時代に大和(河内)に進出し、その後に大和
入りしてから尾張を取り込んだ上に中央の権力争いから排除した。
和邇とは祟神朝までに友好(物部の方が強い)関係を確立し、共に石上神宮を奉った(伊香我色男の時)
という解釈になるの?
それとも、播磨辺りで両集団の第1次遭遇と同化(海部・尾張と原物部)があった後、原物部集団は河内
(現大阪城付近・旧物部神社)から河内交野(岩舟神社)、生駒饒速日山(平群・宝山寺付近)へと進み、
そこで長脛彦と同盟(饒速日が入り婿?)。
そして天理付近に進出して和邇と祟神朝までに友好(物部の方が強い)関係を確立し、共に石上神宮を奉った
(伊香我色男の時)という方が妥当なのか?
>>234 横レスだがちょっと落ち着け。
>尾張を取り込んだ上に中央の権力争いから排除した。
祟神どころか、その遥か後まで中央に影響を及ぼしてるから、ダウト。
妃も出してる。
あと、播磨は確かに物部の事跡はあるけど、そこで海部とってのはどう
だろう。
いわゆる古代丹後王国論の中には、東播磨まで勢力が及んでいたとする
ものもあるにはある。
236 :
日本@名無史さん:2006/09/07(木) 09:44:41
住吉大社の津守氏は尾張氏の系
237 :
日本@名無史さん:2006/09/07(木) 14:57:43
ウチの先祖は「物部の守屋」ってことになってる・・・。
諏訪だけど。でも周り「守屋姓」ばっかりだからなぁ。
238 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 06:02:37
>>237 一応進藤孝一氏が歴史読本に書いた記事によれば、守屋の子の那加世が
日本海沿岸に隠れ住み、秋田の仁賀保−鳥海山麓を越え−秋田県南部の
八沢木の波宇志別神社(物部を守屋姓に変え43年住み)天元5(982)境
の月出野(唐松神社付近か)に定住という伝承があるらしい。
上記『物部文書』は信憑性についてあまり評価が芳しくないけれど、
「仮に」一行が河内から近江・美濃を経て東山道ルートで東北に向かった
ならば、原初の東山道は宮田駅を過ぎてから北東へ向かい、杖突峠を越え
て諏訪郡へ出、更に東北進して雨境峠を越えるルートだったとする説があ
るから、諏訪に物部守屋の子孫が居た(居る)可能性はゼロではないかと。
ただ、今となってはロマンと妄想の世界になってしまうのは事実かも。
239 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 09:37:14
諏訪と言えば、出雲の国譲りで逃れてきたタケミナカタが、ミシャグジ神と争ってそれを征服
したという話が伝わっていますね。
このミシャグジ神の別名が"モレヤ"神だとも別々の神様だとも言われています。
上社の前宮は守屋山をご神体としています。
そして、諏訪大社の神長官はモレヤ神の子孫たる守矢氏が明治まで務めていました(諏訪氏は
大祝)。
『諏訪大明神絵詞』によれば、「洩矢は鉄輪を持してあらそひ」との記述があり、守矢氏と出雲
族の争いとは、鉄を巡る攻防であったとする説もあります。
ちなみに、信濃の枕詞「みすずがる」の「みすず」とは沼沢や湿原に生成される褐鉄鉱であるとも
言われます。
それと、関係あるかわかりませんが、石上神宮のある大和の布留川上流域の九頭神社の祭神が、
何故かタケミナカタだったりします。
オマケで「没落」は韓国では mol rak と言う。守屋である。守屋の父は尾興(オコシ)である。
興隆して没落するのである、というのもあります。(畑井説)
>>234 伊香我色男命に着目するのは面白いと思いますよ。
物部氏の系統はこの人を祖としているものが多いですから。
241 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 12:10:36
影媛あわれ
242 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 20:19:07
物部氏って凄く広いよね>分布
特定の氏族じゃないのか、それとも天孫族として広がったのか
243 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 23:48:17
>>232 『録』では神別の天神族が物部連、皇別が物部首でこれは和邇氏。
系譜の上で両者は別系統。
ただし、両者は共に石上に奉職していることから、近しい関係だったようだ。
>>239 諏訪のもう一つの大祝である金刺氏は神武後裔だね
245 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 11:46:51
かぐや姫は尾張氏。
求婚した5貴子の中には石上氏もいた。
だから物部氏は尾張氏に快く思われてなかったことが分かる。
246 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 12:21:07
>>245 海人だってのは読んだことあるが尾張氏って言い切れるのはどうして?
石上神主忌火様
物部首
248 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 14:19:44
ニギハヤヒのほうがニニギよりも先に日本に上陸してたのか?
249 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 20:26:04
>>248 んと・・・。
何でそうなるのかkwsk
250 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 22:22:54
>>239 >オマケで「没落」は韓国では mol rak と言う。守屋である。守屋の父は尾興(オコシ)である。
>興隆して没落するのである、というのもあります。(畑井説)
日本語と韓国語の語呂合わせを混ぜ合わせて恣意的に結論を導いてるから、アウトだな。
まあ、解って書いてるから”オマケ”なんだと思うけど。
251 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 09:03:58
>>245 かぐや姫は斎部広成の作だという説がある
252 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 14:44:37
んー、それをいうと、アジアに逆伝搬したことになりますが
253 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 20:33:09
先代旧事本紀の大連就任記事って、どの程度信用できるの?
ほとんど信用できない
255 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 07:12:40
ジコチュウ日本書紀のが信用できない
257 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 19:54:37
秋田県の大仙市に唐○神社があってそこの宮司の苗字が物部。
所沢の北野神社はホントは物部神社
259 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 21:45:18
所沢の北野神社は、昔は物部神社といい、祭神はニギハヤヒの尊。
後に菅原道真を合祀し、地名の北野をとって北野天満宮と名を変えられた。
260 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:05:41
↑ 地名ではなく、京都の北野天満宮から名をとって北野天神社となった。
261 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:39:30
ニギハヤって高麗系って本当?
263 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:44:39
間違えたw新羅系かって聞こうとしたんだw
>970 日本@名無史さん 2006/10/06(金) 01:27:54
>ニギハヤは新羅人だから
ってカキコがあったからさ〜
何かそうゆう説があるのかと思った。
早くから大和周辺の盟主だったニギハヤより、西から割り込んできたイワレ彦のがプンプンするな。
265 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:36:02
>>264 雰囲気におわすのはどうでもいいから
何を言いたいのか結論をハッキリいえよw
269 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 23:47:30
関祐二「物部氏の正体」読了。
小説家らしく、物部=吉備であるという「可能性」を膨らませて書いてあった。
それなりに楽しめたが、物部=吉備であるかどうかについては???
最後のまとめはお決まりの「全てを簒奪した藤原不比等は悪」
あのひと小説家だったのか…知らんかった。
さんざん出雲出自説を吹聴していたことを思うと、どうもスッキリしないな。
別に饒速日が出雲から来たと信じてたわけじゃないけど、
何か裏切られた気分だ。
吉備下道臣を処罰したのが物部三十人だったことについての説明もないし。
あれくらいの根拠でいいんなら、全国の任意の場所どこでも
物部氏のルーツに当てはめられるのでは。
物部氏の痕跡は広く残っているわけだから…
271 :
269:2006/10/31(火) 10:43:18
>>270 悪い、訂正しとく。
× 小説家
○ 作家
272 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 14:16:31
物部氏は、前2世紀ころマレー族が九州にたどり着き、その末裔が起こした氏族。
間違いない!
273 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 14:19:00
272追
マレーのモン族です。
八尾市立歴史民俗資料館歴史講座
11月25日(土)「物部氏の神話」
講師 歴史研究家 平林章仁氏
資料代200円必要。定員60名。先着順。
275 :
月光仮面:2006/11/06(月) 13:11:21
>>257 唐松神社 息長帯比売命、香具土命、宮毘姫命←これは長髄彦の奥さんと似ている。
天日宮 饒速日命、玉鉾大神、愛子大神←不明だが悲母観音のようなものか。
「この他、紀伊、筑前、筑後、丹波、といった処にも饒速日の降臨伝承があるが、もとも
とは大陸或いは朝鮮半島からの渡来系種族の、それぞれ集団毎の始祖神話が、その
土地に集約した形で創り上げられたようだ。」
http://www.nippon-bunmei.jp/tsurezure-10.htm 1.饒速日命が天の鳥船に乗り、繁木之本の鳥海山(出羽国鳥海山)に降り、国中を見
回り、逆合川の日殿山に宮をつくった。
2.神功皇后が新羅征伐の後、膽咋連(物部氏祖)の進言で北海・蝦夷の地に遠征し、
秋田雄鹿嶋に着き、海水を遡り、石見川をつたい上陸、舟玉神をまつる(今の舟玉社)。
また、今の唐松社あたりに「日と月」を祀る。(秋田には由利郡象潟町にも神功伝説が伝
わる)・・・この辺に新羅に内通するものでもいたのか。
3.物部守屋滅亡の時、尾輿の臣捕鳥の男速が守屋の一子、3歳の那加世を連れ、
東方蝦夷の地に逃れ、饒速日由緒の地を尋ね、月出野(仙北郡境)に姓を隠し、名を
改め、隠れ住む。
4.守屋滅亡後、日本海沿岸に隠れ住み、秋田の仁賀保-鳥海山麓を越え-県南部の
八沢木の波宇志別神社(物部を守屋姓に変え43年住み)-天元5年(982)境の月出野
に定住。
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ao1krmt.htm
277 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 16:08:29
278 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 16:12:02
280 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:52:21
281 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:30:39
物部氏と仏教の関わりって、どんな形だったの?
渋川廃寺っていうのが守屋の寺だったらしいし、国家としての崇仏には反対だったとしても
仏教の導入そのものに反対したわけではないわけだよね?
あと、物部氏が関わった宗派とか寺ってあるの?
物部氏については神社くらいしか知らんな
>>281 神仏習合に於いて、十一面観音=饒速日との説がある。
但し、言ってるのは小椋一葉女史。
その根拠は確か、大神神社の大物主=饒速日との前提に立って、大神の神宮寺である平等寺
の由緒の、「守屋討伐を三輪明神に祈願した聖徳太子が、戦勝後に十一面観音を刻んだ」と
いうのを、十一面観音=三輪明神の化身と解釈したもの。
ちなみに女史は、長谷寺の、通常とは異なり右手に錫杖を持つ長谷式十一面観音について、
饒速日=素戔嗚の子との前提に立った上で、地蔵菩薩=素戔嗚と十一面観音=饒速日の親子
一体となった姿が長谷式十一面観音である、とも言っている。
まあ、話半分・・・いや、話1/4くらいで参考までに。
物部氏ではなく石上だけども、芸亭があったのは、邸宅を改造した阿しゅく寺の敷地内。
天皇が仏教に傾倒した奈良時代の前と後では
世間の仏教に対する考え方もかなり変わっていたはず。
宅嗣みたいに高い地位でアンチ仏教なんていってたら
変人奇人扱いされる。
>>282-286 レスd。
ところで、こんなの見つけた。
>古墳文化は、7世紀末から8世紀をむかえる頃になると新しい葬制の仏教が入ってきて、
>次第に古墳が作られなくなります。
>この頃、西三河で最も古い歴史を持つ「真福寺」が創建されています。寺伝によりますと、
>物部守屋の子真福(まさち)が推古天皇の代、聖徳太子に許され、大宝元年(701)父の
>ために建立しました。
>物部氏は古代の中央豪族で、守屋は大和朝廷の大連(おおむらじ)(大臣(おおおみ)と共に
>朝廷における最高の執政官)でしたが大臣の蘇我馬子と対立して敗れ、守屋の次男、真福
>は三河国仁木郷に流罪の身になったが極めて裕福で長命であった、そこで真福長者と呼ぶ
>と、「真福寺元記」書かれています。真福寺は物部氏の氏寺的存在であり、後には足利氏
>とも深いかかわりも持つことになります。ほかに、村積神社、謁播神社、滝山寺、北野廃
>寺なども物部氏にかかわる伝承を持っています。
まあ、寺伝や社伝の類はアテにならんだろうが。
それにしても、西三河って、有力な物部同族が居たっけ?
288 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 04:08:41
289 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:11:22
291 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:14:19
292 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:33:00
まぁ実はウチは物部の家系なんだけど
1400年来絶対の秘密とせよってのが
数えで13歳になった跡継ぎへの家訓で未だに守っていますよ
ちなみに姉二人はこの家訓も知らないし
普通の神職の家系だと思っています
うちの方もそんな話があるんだけど、何でこの時代にも隠すの?
元祖日の出づる処の天子なのに日の目を見れないの哀しくない?
294 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:36:08
>>293 そもそも今更おおやけに公表する理由も無いし
今まで千年以上危機は有ったらしいが存続出来てたのに
今更ね〜伝統かもしれないし自己満足かもしれないが
公表する意義も意味も無い
>>294 本当かよw うそ臭いw
そんな歴史的に大きなことなのか?w
296 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:05:46
>>287 真福寺は物部ゆかりの寺だったんだ
真福寺本て古事記の最古の写本で有名だけど
この真福寺は尾張の西にあったんだよね
その後家康が名古屋に移築して今は大須観音て呼ばれてるけど
こらこら、尾張の真福寺は三河の真福寺とは全く無関係だぞw
もののふ の語源。
物部氏って、天皇家よりも前に
畿内領主だったのか?
日本書紀ではそうなってる
物部氏の伝承では、天照大神は男である。
そして、物部氏と天皇家は同じ男系の血筋で繋がっていて
物部氏のほうが畿内(高天原)本家、天皇家のほうが日向分家だった。
しかし、日向分家の神武天皇が、本家に入婿に入ることになった。
そして、記紀の作成時に、天照大神を女にする必要に迫られた。
何故なら、天皇家の万世一系・男系一系はそこから始まったということにするためである。
つまり、本家筋の物部氏と天皇家を男系では全く違う家系にするためである。
そのために、天照は男性ではなく、女性にすることになった。
303 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:26:11
>>294 おまえが公表しないから
歴史研究が混乱をきたしたままだ。
304 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:37:42
174 :日本@名無史さん :2006/12/21(木) 13:16:06
>>172 物部氏というのは、天皇家と同じで、イザナギの末裔を名乗っていて、
どちらも、元々は高木神を祭っていた。
そして、物部氏は日本全国に分家が多く居て
そういう意味では、神武天皇後胤の天皇家や蘇我氏や
中臣氏から分派した新興氏族の藤原氏を遥かにしのぐ勢力だった。
ひとつ違えば、神武天皇の後胤である天皇家を
屈服させる力があった。どちらも、同族だしね。
だからこそ、天皇家は自分の先祖にアマテラスという女神を挿入することによって
男系では物部氏と家系を断絶させる必要があった?
175 :174の続き :2006/12/21(木) 13:21:21
本来、高木神が皇祖だったはずの天皇家が
アマテラスという新興の女神を作り出すことによって
世間では、そちらのほうが皇祖ということにした。
そうすることによって、物部氏を皇祖の子孫から外した。
ただし、宮中祭祀では未だに高木神を皇祖と扱っている。
また、高木神のほうも昔と同じままではなく、
様々な神様を合体させることによって
高皇産霊神という意味合いが少し違う神様を作り出すことによって
元の原型を隠す必要があった。
305 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:34:12
古代の神話の時代の解明
アマテラスは男性で高天原(畿内南部の高天台)で家督を継いでいたが
跡取りの子供が居なくて、弟のスサノオ(須佐で分家していた)に家督を奪われるのを恐れていた。
で、兄弟は争ったみたいだが、最終的には仲直りして
その弟の子供の一人を養子に貰ってたみたい。
スサノオの須佐は現在の宇佐で、神武天皇もそこの出身でその子孫。
西暦1〜2世紀頃、神武はその須佐(宇佐)分家から
畿内(高天原)本家に婿養子に入った。
また、須佐(宇佐)は山戸の州都であり、その山戸は
後に魏志では邪馬台国と言われている。
西暦3世紀の邪馬台国は、高天原(畿内南部の高天台)本家の
宇佐分家の王朝であり、卑弥呼はそこの巫女だった。
宇佐(須佐)は、男王が政治をし、巫女が祭祀をする、政教分離体制を整っていた。
魏志に出てくる邪馬台国の時代は、スサノオや神武より後の時代。
…なあ、ここは仮にも「学問」カテゴリの板だ。
論拠も無しに自分の信仰を告白されても困るから、やめてくれ。
>>1にも
>※日本史板に飛び交う有害電波の侵入防止・排除のため、議論の際には
>できる限り根拠を示すよう心掛けて下さい。
とあるだろ。
307 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:01:07
308 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:39:22
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
>>303 つか公表したところで
>>295が普通の反応だろうね
受け継がれてるの物品が少なすぎて、何を持って証明となすのかなんて不毛なことになるだけだよ
310 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 06:12:24
ちょい質問。
巻向遺跡発掘の成果で、年代的に崇神天皇の実在の可能性がupしてるらしいけど、
ってことは、伊香色男も崇神に近いくらい実在の可能性があるの?
崇神の実在がアップしてるとか言ってる
トンデモ在野史家の世界ではどうなってるか知らないが、
学術的なほうでは、雄略朝に執政官の地位についたのは
何らかの史実を反映してるんじゃないかってのが主流だね。
ただし、目自体の実在は問わずにw
大前宿禰以前は一律に非実在。
実在が確実なのは、天孫本紀に名前だけ出てくるのとか除けば、
麁鹿火あたりからだろう。
物部氏の歴史が明らかにされますように
へぇ物部目の実在って怪しいんだ。
雄略天皇が三輪山の御神体を引きずり出したという話は
どこまで信じられる?
あれ、そもそも雄略天皇辺りからは実在ってことになってるんだよね?
それとも継体天皇から?
基本的には応神以前は非実在で、仁徳〜武烈がグレーゾーンって感じ。
雄略みたいに実在が確実視されるのがいるのはもちろん、
清寧みたく事跡少なくて存在感薄い・髪白いってだけで創作だと言われちゃうのもいるw
このあたりは論者によって見解がわかれてるところかな。
旧事本紀で雄略朝の大連は布都久留ってことになってるが、
石上朝臣とか奈良時代の有力な氏が目を祖として認識していたために、
そういった異伝の類は日本書紀から排除されたんだろう。
317 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:25:28
ほー
318 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 03:17:56
>>310 巻向で崇神天皇の実在性がアップしているのなら
その曽祖父の孝霊天皇の実在性までアップする。
なぜなら、巻向の卑弥呼論争では、崇神天皇の大叔母のモモソ姫の
存在について注目されるから。
当然、彼女の父親の孝霊天皇の実在性もアップする。
というと一見論理的に聞こえるが、
それだとどこまでも遡って、
国常立尊やら天之御中主神やらの親まで実在性アップするぞw
320 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 14:46:54
>>319 そこまではアップしないでしょうw
つーのは、孝霊天皇の場合、古事記に、吉備を平定した話があるし、
また、そのへんの神社の伝承には、もっと詳しくその話がある。
これが、卑弥呼擁立の切欠になった倭国大乱との関連性が
出てくるわけである。
321 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 02:51:39
物部は喪部とも書く
アップw
阿っ部?
物部は萌のの部とも書く(;´Д`)ハアハア
325 :
月光仮面:2007/01/25(木) 08:02:05
じゅう【戎】
〓戦争。また、兵器。「―衣」「―器」
〓古代中国で西方の異民族の呼称。えびす。「西―」「―夷
つまり、大陸の西方には兵器を持つ戎とよばれる集団がいたと言うこと。
東方の蛮族は東夷と呼ばれるが、これは武器の中でも弓が強調されている。
こうしたことから物部の物というのは兵器、武器、物部とは東夷社会に外部から
集団で山岳に磐船で降臨してくる戎のことと見られる。天岩戸の信仰を持ち
山戎がもつ女陰崇拝の変形であろうか。
近代に入っちゃうけど物部長鉾についての資料ぜんぜん無いな。
いわば後方支援のマイナーな軍人だからだろうけど。
327 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 07:43:08
円覚寺の鐘は良い出来
329 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 06:06:12
330 :
月光仮面:2007/02/18(日) 12:37:01
331 :
月光仮面:2007/02/18(日) 13:07:33
332 :
月光仮面:2007/02/18(日) 14:38:04
333 :
月光仮面:2007/02/18(日) 14:45:25
秋田物部は近畿物部の祖であることは、唐松神社のケレクスルが箕子が中原から
逃れたモンゴリア高原のものと同じで、日本には他の場所に類例がないことから
推察が付くが、鹿を放牧、狩猟する習慣も多分岩手方面から、鹿島香取、春日へと
流れると見て良い。そしてこれは安芸の宮島のものとも同じ思想によるもので、殷の時代
からの習慣であろう。
334 :
月光仮面:2007/02/18(日) 17:10:34
335 :
月光仮面:2007/02/18(日) 17:17:31
ターリム盆地、小河墓の白人女性シャーマンのミイラには仮面があり、その
鼻の先端は鹿児島のものと同様にとがっていた。その女性は蛇紋石の縫い取り
(韓伝にある)をしており、岩手の黒石寺も蛇紋石の産地。商族の本性を見る想いがする。
336 :
月光仮面:2007/02/19(月) 08:17:52
>>331 「雄島(おしま)にある老人嶋(おいとしま)神社は、天火明命をお祀りする丹後屈指の古社
で、かつては遠く因幡や出雲の漁師さんも参拝に訪れる程厚く信仰されていました。
おしま(Oshima)=おいとしま(Oitoshima)=おおしあま(Ohshiama)」
http://kammuri.com/s1/ohshiama/02.htm 「昔」という字を和訳するとこうなる。そしてこれは浦島太郎の帰還をも彷彿さす。新羅
脱解王のことではなかろうか。
337 :
月光仮面:2007/02/25(日) 09:37:40
トンデモの特徴
・史料批判をほとんどしない
・史料原文で語らない
・推論に推論を重ねていながら、何故か断言する
・結論が先行する
・何故か「現時点では不明」という結論に至ることが極端に少ない
・客観的検証に基づく「妥当性」ではなく、「可能性」で歴史を語る
339 :
月光仮面:2007/02/26(月) 18:05:01
340 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 20:26:53
>>339 >日本人なら無批判で知っておくべき基礎的情報
そんなものは何一つとして存在しない。
無批判での情報吸収は、被洗脳であり、思考停止であり、怠慢であり、権威主義であり、愚の骨頂。
>>340 一種の宗教でもある罠。
特に古代史は史料の間を妄想で埋める余地が大きいから、格好のネタになる。
学問を装って信仰告白されるのは、迷惑でしか無いな。
つか、この月光仮面ってプラム(=太国)だろ。
342 :
月光仮面:2007/02/27(火) 07:38:02
起立。礼。生徒は皆こういう態度を持って社会に出なくてはならない。要するに
日の丸、君が代がなくては話にならない。特に外国とのお付き合いは相手がそうなん
だからね。気持ちの問題ね。それとお靴の後片付け。人の靴を直してあげるような気持
ちになりなさい。・・・常識問題はこの辺にして・・・
物部忌神社というのは物部というのがなにかキモイように扱われている。戎を
通り越して物の怪のような感じだね。これってどうしてかな?
343 :
月光仮面:2007/02/27(火) 07:53:49
プラムさんとアルコールレスワインバーでいっぱいやりたいね。おつまみは
サラダ、トマト、キューリ等でどうですか。いい話が聞けそうだ。
344 :
340:2007/02/27(火) 08:51:51
>>342 アンタ、馬脚を現しまくりだな。
客観的、科学的検証を積み重ねて結論を導く「歴史学」と、個々の主観の最大公約数としての
精神論を同一視している時点で、アンタは学問の徒ではない。
>>341 この御仁(月光仮面)が「プラム」か「太国」か「がいやまん」かその一部か、全部か、
何れでもないか、それはわからん。
しかしながら、芸風は確かに似ている。
スレ違いを含む、空気を読めない連投といい、ネット上の記述から恣意的に抽出しつつ、
それを妄想で繋ぎ合せて断定する手法といい。
346 :
月光仮面:2007/02/27(火) 12:01:27
意識の流れのト切れを恐れる認知症の初期症状を呈したとか何とか、もっと
頭を使って悪口考えて見なさい。修行が足りんぞ(www
347 :
340:2007/02/27(火) 13:34:22
>>346 はいはい。
戯言ほざく暇があったら、さっさと有効な反論してね。
あと、自説の立証も行うこと。
348 :
340:2007/02/27(火) 13:38:48
ひとまず、これの立証をしてもらおうか。
>>331 >秋田唐松神社は円墳に似た円形の祭祀設備、これは神功皇后の時代、高良玉垂
>大社のような山城の建設が開始された時代のこと。
それから、上記引用文と、下記引用文の矛盾についても説明してもらう必要があるな。
>>330 >綾部の物部、西都原、秋田唐松神社に残る円墳
349 :
月光仮面:2007/02/27(火) 13:54:02
反論: 月光仮面は、大物忌神社の神楽を青銅刀子と同じ頃に渡来した等といっている
ようだが、南北朝の斉蘭陵王をモチーフにした伎楽がなぜ西周初期の縄文日本に伝達
するのか。そして、石器時代である縄文亀ヶ岡土器時代から現在に至るまで、その神楽の
衣装、楽器等の文化遺産はどうやって継承されるのか。
月光仮面: ムムー、これは厳しいご指摘ですね。この当時現代で言えば神社に相当する
ものはアルタイ、モンゴリアのケレクスルと呼ばれる石積み遺跡しかなく、それも満州方面
にまで拡散したのかどうか不明です。そして、青銅刀子というのはこの直後斉国、燕国では
貨幣に変化します。つまり、既に西周時代にも国際的ハードカレンシーとして使用されていて
雀居遺跡の亀ヶ岡東北縄文人にも貿易の決済手段として支払われたと解釈するのが妥当でしょう。言葉の行き届かなかったこと平にご容赦願います。
350 :
340:2007/02/27(火) 14:05:38
>>349 ああ、アンタもういいから。
聞かれたことと無関係な箇所について、意味不明な会話を勝手に設定されても、何の意味も
無いから。
ついでに言うと、一方的な書きなぐりなら、自分のブログでやれ。
アンタの自慰行為なんざ見たくない。
351 :
月光仮面:2007/02/27(火) 14:22:30
>>384 月光仮面: 裁判長、検事の発言は権力をかさにきて、被告人を威圧する意図が歴然
であります。
裁判長: 検事は正しい日本語をはなすように。
検事 わかりました。では、被告、先ほどの話を順序良くお話ください。
月光仮面 (内心・・・なんで俺が被告なんだよー・・・)
先ずは神功の三韓征伐でありますが、大きな敵は高句麗でありました。高句麗が
対日前面戦争となると樺太・北海道のアイヌ等を扇動して、南下してくる恐れが
あることがキャッチされたのです。そこで膽咋連は皇后にこの旨を相乗したところ、
正にその通りである。朕の腹帯を取らす(本当はも少し上品なお言葉であったので
すが、この腹帯とは天と地を垂らす帯という最高の呪具のようですね)。膽咋連は
これをもって出羽に帰り、唐松神社(カラマツというのは、沖縄のアカマタ、クロマタ、
岩手のクロマタと関係がありそうですね)・・・被告食事のため一時退廷。
352 :
月光仮面:2007/02/27(火) 14:24:49
>>350 都会でどんな生活してるんだ。親を心配さすような変な言葉は使うな。
>>351 >(内心・・・なんで俺が被告なんだよー・・・)
ハァ?
アンタが主張してるんだから、アンタが立証しなくて誰がやるんだ?
>神功の三韓征伐でありますが、
はい、前提として神功皇后の実在を証明すること。
その上で、
>大きな敵は高句麗でありました。高句麗が 対日前面戦争となると樺太・北海道のアイヌ等を扇動して、
>南下してくる恐れが あることがキャッチされたのです。そこで膽咋連は皇后にこの旨を相乗したところ、
>正にその通りである。朕の腹帯を取らす(本当はも少し上品なお言葉であったので すが、この腹帯とは
>天と地を垂らす帯という最高の呪具のようですね)。膽咋連は これをもって出羽に帰り、
以上の引用箇所の史実性について、根拠史料についての史料批判を交えながら論じ、証明せよ。
>>352 アンタ、さっきからただの1つでさえも、有効な反論、自論の立証が出来ていないんだが?
355 :
月光仮面:2007/02/27(火) 14:42:08
マタ明日にしてくれ、有効な反論、自論の立証という言葉はやめれ、テレビなら
ともかく。
>>355 はいはい、これに懲りてここでトンデモを垂れ流すのはやめましょうね。
それから、ネットであれ、テレビであれ、活字メディアであれ、フィクションであるとの名言
無きトンデモに対する批判は、等しく行われて当然。
358 :
月光仮面:2007/02/27(火) 16:12:48
>>353 「唐松神社は、本来「韓服宮」という名前。
三韓征伐後、つまり韓を征服した神功皇后の創建という意味。
新羅征討に参加した、物部氏・膽咋連(いくいくむらじ)が、
皇后の御腹帯を拝受し、当地に来て、月出野に、当社を創建した。
また、三韓征伐の帰路、神功皇后は男鹿半島から当地に立寄り、
石見川(岩見川)を経て、当地に上陸(船岡という)。船玉大神を祀った。
唐松神社の北東5Kmに、その船玉神社が祀られており、
祭神は神功皇后を援けた住吉三神。」
http://www.genbu.net/data/dewa/karamatu_title.htm
>>358 はい、全然
>>353の論証になってない。
神功皇后の実在、三韓征伐の史実性、唐松神社創建の経緯について、唐松神社の社伝や物部文書に
依拠するのは構わんが、それなら先に史料批判を行った上でする事だな。
まさか神社伝承の類は無批判に信じるべきものだとか言わないだろうね?
史料批判をせずに鵜呑みにして垂れ流すからトンデモになり、且つ批判の対象になる。
360 :
月光仮面:2007/02/27(火) 19:14:59
>まさか神社伝承の類は無批判に信じるべきものだとか言わないだろうね?
実はねー、信じるんだよ。しかも、大事なのは無批判なんだよ。そして、そうした方が
良いようだと垂れ流すんだよ。記紀なんかもそうだけどほとんど真実だと思うね。
こないだNHKで記紀の最後のほうに加筆、脚色ありとしたが、全部が全部ではないと
思うんだ。早く立派な先生方で調査の上、加筆訂正の部分に注釈をつけた本を出して
貰いたいねー。
|-`).。oO(月光仮面てこんなのだったのね。
|-`).。oO(漏れもあぼ〜んしとこ。
折角の良スレが・・・
2、3日前から変なのが沸いたと思ったら、こんなになってたのかw
おまいら、ああいうのはヌルーが基本でつよ
366 :
月光仮面:2007/02/28(水) 11:49:17
そんなこといったら、古田さんとか、漢籍を研究する方々の労作を捨ててしまえという
ことになるんじゃないか。記紀のできた頃から日本には邪馬台国論争というものはあ
った。そしてその労作は決して捨てられるものではない。
>>281 亀だけど、
日本書紀研究 第三冊 三品彰英編 塙書房
↑コレに、安井良三の「物部氏と仏教」って論文が載ってる。
たぶん、その辺の図書館にもあるんじゃないかな。
文献の記述や先学の成果を鵜呑みにすることと、
自分で先学の思考プロセスを追いかけてみて、妥当
であれば採用することとの区別が出来ない愚か者が
居るようで。
369 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 07:40:57
俺の近くに物部氏の子孫が…
370 :
281:2007/03/01(木) 18:35:07
例えば
月光ちゃんは油の浮いた泥水でも飲むような人
渋川廃寺や北野廃寺みたいに、守屋滅亡後のものでもいいのなら
千葉県匝瑳市の八日市場大寺廃寺も仲間に入れれ。
物部匝瑳連ゆかりの古代寺院だぞ。
373 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 03:55:46
>>372 >渋川廃寺
あれ?
守屋生前の建立っていう確証は無いけど、守屋死後の建立と断定できる材料も無いんじゃ?
でかい図書館行って発掘調査報告書読みなされ。
創建瓦は七世紀の第二四半期。早くても推古朝後半。
いや関西大学付属図書館やら大阪市立中央図書館やら
限られたところしか所蔵してないからw
376 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 21:11:38
ほほー
377 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:06:29
>>372 八日市場大寺廃寺について調べるにはどういう資料とか論文がありますか?
378 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 21:06:44
香取社はもののべ!?
かとり連は物部系
中臣に乗っ取られた
八日市場市大寺廃寺跡確認調査報告書
千葉県文化財センター編 1990
381 :
377:2007/04/17(火) 20:04:23
383 :
377:2007/04/30(月) 19:43:24
>>382 超亀レスですが、ありがとうございます。
384 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:42:53
乗っ取られたというか、大中臣と婚姻で結びついたんじゃなかったか?
香取連が積極的に斜陽の物部よりも、日の出の勢いの中臣の方に
乗り換えたのかもしれない。
385 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 03:01:33
1ヶ月近くレスがついてないなw
前スレの初期が懐かしいね。
大阪天王寺周辺・・元は物部氏の領地。
西成区の異様さはいまだに続く物部氏の嫌がらせかもしれない。
物部氏の「物」とは「もののけ」と同じ意味合いがあるらしいよ。
「もののけ」と同じ意味合いなんじゃなくて
「もののべ」の「もの」は、「もののけ」や「もののふ」の「もの」と
同じということ。
「もの」って霊魂みたいな意味合いだろうか?
最近用で東大阪の辺によく行くが、通る道に大聖勝軍寺があることと、
このスレ書いてから夢で一度も行ったことない石切神社の夢を見た。
ま〜これも「もののけ」だろうね。
390 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 02:04:48
もの=鬼=神
391 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 11:58:44
連って天皇の犬って意味?
392 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 12:12:53
臣も天皇の犬といえる
393 :
月光仮面:2007/06/13(水) 14:54:26
石上神宮の由緒からして、物は武器、物部は戦闘員、つまり、中国語の戎の和語。
臣=負け犬
連=飼い犬
>>389 たぶん石切神社は夢で見たのと現物とでは、かなり違ってると思う。
特に参道商店街あたり。
>>396 いやその商店街の夢を見たんだ。
石切神社ってほんとに腫瘍が治るのだろうか?
物部氏は悪霊を祓う魔力みたいなものをもってたと聞いたことあります。
大聖勝軍寺・・討ち取られた物部守屋の首を洗ったとされる池があるらしいが、
なんか怖くていけない。なんか前から首の具合が悪い〜
オカルト板行けよ。
いやオカルト板から追い出されてきたのだw
物部守屋には子がいましたっけ?
道鏡が守屋の子孫だったって説があるし、知り合いにも森屋くんがいるよ
401 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 15:00:22
名字と名前が逆?
三輪氏を滅ぼしたのが失敗?
402 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 15:12:04
>>402 かってな仮説として。
たとえばその息子が実は死んでおらず後の藤原鎌足だったり?
でも年代が600年頃だしどっかでバレてるわねーちがうか〜
>>403 物部合戦の逆恨みで蘇我氏を滅ぼしたって?
年齢も違うし、厳しいな〜
蘇我馬子は物部守屋は滅ぼしたけれども、守屋の妹を正室にしていて、
その意味では、蝦夷以降の蘇我宗家には物部の血が流れてるんだよね。
逆に、中大兄皇子や鎌足に協力した傍系の蘇我石川麻呂らは、
馬子の孫なんだけど、物部の血を引いてない。
馬子への逆恨みならば、物部の血を引く宗家を滅ぼして、
物部の血を引かない傍系とは手を結ぶ、ってことはしないと思うよ。
血の怨恨ではなく成り行きの歴史の流れか〜
でも気になることがあって大聖勝軍寺には守屋と太子が弔われてることと
また法隆寺の西円堂は物部氏を祀ってるという説もある。
敵同士が同じ寺に祀られるだろうか?
謎です。
関係ないけど、さてまたヤブ用で元祖「河内国」にいってくるべw
この前通りで見かけた「とろ〜りチャーシュー・八尾ラーメン」食ってきた。
大繁盛でうまかったけど、チャーシューのとろ〜り度が思ったほどなくて
僕のランク的には3番目くらいやったよw
406 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 07:25:19
物部氏って、ニギハヤヒの子孫だろう?
ニギハヤヒは、神武よりも先に
九州北部から畿内へ東征したんだっけ?
んで、一部でアメノホアカリ(神武の曽祖父ニニギの兄貴)と同一神と
物部氏は主張しているけど
でも、肝心のアメノホアカリの子孫である尾張氏・海部氏は
物部氏と自分たちは別だと主張してうぃるんだよな。
407 :
406の続き:2007/07/24(火) 07:28:24
そういうわけで、自分の推理だと
アメノホアカリとニギハヤヒって
一緒に東征したんじゃないのか?と思う。
つまり、ニギハヤヒ系は、アメノホアカリ系の譜代の家臣だったのでは?
408 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 09:51:12
物部氏の現在の当主って誰?
石上某さん?
個人的見解では物部氏は吉備の出だと見ているのですが、
そこで気になる昔話、桃太郎は実は物部の出雲征伐【国ゆづり】ではないかと妄想しています。
犬【隼人の犬人】きじ【ヤマトの白鳥】猿【吉備の猿田彦】を連れて出雲の鬼【もの】を退治する
・・・なんてどうでしょう?
吉備の出っていうと、関氏の著作の影響か?
仮にそうならば彼の物部=吉備説は、その著作中に登場する学者ですら
「その可能性が無いとは言えない」
という言い方をしているくらいで、あまりオススメ出来ない。
411 :
409:2007/07/26(木) 08:32:07
>>410 最初は出雲=物部だと思っていたのですが、どうにも物部が鬼延べ【出雲を抑えこむ】にしか思えなくなってしまってるんですよね、
むしろ蘇我が出雲っぽい、翡翠の管理や北九州への力加減などを考えると、やはり吉備に相応しいのは物部かと思うしだいであります。
>>411 >物部が鬼延べ【出雲を抑えこむ】
そういう語呂合わせの類は信頼性に乏しいから、ますますオススメできない。
413 :
がいやまん:2007/07/28(土) 10:22:12
>>408 森さんじゃなかったけ。市河臣の子孫、和邇氏族物部首(布瑠宿禰)の末裔を称する家の…
>>410 >その著作中に登場する学者ですら
>「その可能性が無いとは言えない」
Nさんは考古学専攻の「大学院在学」の人だろ。在学中なら学者ではないし、史学はアマチュア。
関本人を目の前にして、気を使ってこういう言い方をしたんだろねw
>>414 ああ、院生だったのか。
記憶が曖昧のまんま書いてもうた。
スマソ。
416 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 17:43:25
傍流ですが物部臣竹連の家系です。
曾祖父さんの代まで神職でした。
先祖は御岳衆として甲斐武田の合戦に協力していました。
肩野連?
418 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 12:50:51
物部系の神社、という言い方を聞いたりするんだけど、これどういうことよ。
419 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:11:33
蘇我氏は武内系の皇別氏族。
蘇我氏の畿内での所領は
武内系の嫡流である葛城氏が
失脚するまで持っていた所領。
>>418 祭神が物部氏の祖神である(あった)神社。
物部氏の一族が祀っている(祀っていた)神社。
上記2つならびに、
物部氏の祖神と同一視される祭神が祀られている(いた)神社。
物部氏と同族であると看做される氏族が祀っている(いた)神社。
421 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:30:24
物部氏の秘密って何だろうな?
教えて欲しいわな。
海部さんは、戦後、秘密を暴露したんでしょう?
それによると、やはり邪馬台国は崇神天皇のへんで
紀元元年前後が、ニニギやホアカリの時代。
422 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:34:11
>>420 早速ありがとうございました。
基本的に祭神が物部系ということかぁ。
うちのじいちゃんが神社の管理をしてるんだけど(別に先祖代々というのでなくて、管理者がいなくなったのでボランティア)、最近、その神社を調べたら、物部系って書いてたから何のことかと思った。
>>422 祭神方面は具体的にはニギハヤヒかウマシマヂかだろうね、大体。
例外的に物部守屋とかも祭神になってる神社があるけど、大体はそう。
あと、同一視される祭神っていうのは、火明命とかかな。
人によっては大歳神や大物主神をニギハヤヒと同一視している。
ただ、これは確証がない。
そのおじいちゃんと関わりのある神社の祭神は誰なの?
424 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 15:30:50
>>423 饒速日命 野間姫命
ほんまや。
ニギハヤヒでした。
>>421 >海部さんは、戦後、秘密を暴露したんでしょう?
丹後籠神社の伝承は貴重で尊重すべきだし、系図は「丹後國印」が代々の人名上に捺された重要な史料であるけれど、だからと言って天火明命がニギハヤヒと同一であると確定したわけではないし、その他の籠神社の伝承が史実であると確定したわけではないよ。
427 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 16:00:44
>>426 どうもです。
今まであまり興味がなかったけど、じいちゃんをきっかけに調べてみると、興味がもてた。
愛媛の方にも野間姫・・・
どう繋がってんのかな。。。
休みの間にちょっと調べてみたいと思います。
社殿(本殿)の向き(どこそこの山に向いてる、とか、古代物部氏(の一族)の本拠や古墳があった方角を向いているとか)
これとかも面白そう。
>>427 野間姫の方はどうだろうね。
一応上に貼ったurlには
>三代実録に「野間天皇神」とある神社
>伊豫国神名帳には、「濃満天皇神」
>他には、乃萬宮・乃萬神社・濃萬神社・乃萬社大梵天王宮
>いずれも「のま」と呼称されていたものだが、
>鎮座地は、大化前に「怒麻(ぬま)国」に属しており
>本来は、「ぬま」であったかもしれない。
>「天皇神」と記され、「てんのんさん」と俗称されているように、
>牛頭天王を祭神とした時代が長いようだが、
>現在の祭神は、飽速玉命・若彌尾命・須佐之男命・野間姫命の四柱。
ってあるから、ここからの勧請(分祀)かもね。
今治市ってのは古来瀬戸内の水運を牛耳るに当たっての要衝の1つだから、ここに物部氏の息が掛かっていた傍証の1つだね。
>>428 >ここに物部氏の息が掛かっていた傍証の1つだね
ここに物部氏の息が掛かっていた傍証の1つだと捉えると面白いね。
の間違い。
430 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:49:56
>>425 海部氏の子孫の方いわく
アメノホアカリとニギハヤヒの降臨伝説の話は
別ものの話らしいです。
実際に、尾張氏のほうも、物部氏を同族とは認めてません。
また、アメノホアカリの降臨伝説は、正しくは
アメノホアカリとアメノカグヤマの父子の降臨伝説だったみたいで。
>>430 『勘注系図』について書いてある「古代海部氏の系図 新版」
が手元にあるのでそれによれば、
>海部氏「勘注系図」巻首
>彦火明命の又の名は饒速日命、亦名神饒速日命、亦の名は
>天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、亦の名は膽杵磯丹杵穂命
>(いぎしにぎほのみこと)にして八州(おほやしま)を
>統(おさ)め給へり。
とあるよ。
そして、この書き下し文を書いたのが他ならぬ籠神社宮司の
海部光彦氏である、と、この本には書いてある。
おいおいいつもの過疎っぷりはどうしたんだよw
ワニ氏族を排除して、安定して大和から日本海側への経路を物部氏を含む王権勢力が確保できたのは、
5世紀末ころだろうから、籠神社のほうで同一視されるとしたらそれ以降だろね。
尾張のほうはもうちょっとさかのぼってもいいかもしれない。
尾張氏側にすれば物部氏が没落した6世紀後半以降には用済みの所伝だが、
物部氏族内部には残存していた可能性も。
>>423 フツノミタマの場合もあるんだが、経津主と同一視されることが多すぎて、
中世以降の香取鹿島信仰の影響の中に埋もれちゃうんだよな…
433 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 04:03:23
>>431 海部氏の人は他にもいて
その人は違うだろうと否定しているということ。
光彦さんとは違う人。
434 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 15:06:32
>>433 それってTVとかのインタビューか何かで言ってたの?
それとも直接話しを聞く機会があったの?
>>432 フツノミタマって確か元々は和邇氏の神だって説もあったな。
それ抜きにしても、ぐちゃぐちゃしててようワカラン神様だ。
436 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 23:46:58
フツという言葉の意味も、戦前は剣か何かで切断する音が語源でスッキリしてたのに、
播磨国風土記には麻布都鏡が出てるだとかで批判されて、
今では朝鮮語が起源というのが定説になっちまったニダ…
火、光る、赤い、の意味だというんだけど、漠然としすぎてますますわけわからんw
神の来臨をあらわすだけなら、他の神々とどうやって区別したのやら。
437 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 00:34:42
日本人は、なぜ、天と海をアマと言うのか?
それは、天皇家と日本人の原型となったアマヒト族が海洋民だったからであろう。
つまり、アマとは吾間なのだ。吾(ア)とは私であり、間(マ)は、島・山のマである。
マは、上代日本語で「場所」の意味である。
したがって、アマとは「私の場所」「私がいる所」という意味だ。
自分たちが生きている世界、存在する世界をアマと言ったのだ。
そして、自分たちの先祖=神がいる世界も、アマと呼ぶようになったわけだ。
438 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 21:20:39
防衛省の内紛で、物部守屋を連想された方もおられることだろう。
たぶん全然いないと思う。
ほとんど居ないだろうな。
鎌倉長谷寺の鐘を造った物部季重って、一族なのか部民の裔なのか判明してるの?
443 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 10:27:34
>>442 >物部姓鋳物師は、河内国丹南郡(大阪府南河内郡美原町付近)に
>本拠地をおいた鋳物師集団と考えられ、建長4年(1252)にはじ
>まる鎌倉大仏の鋳造のため、丹治・広階・大中臣姓の鋳物師らと
>ともに北条氏に招かれ、鎌倉に出職してきたものといわれていま
>す。
守屋粛清に始まり、弓削氏(本拠が河内といわれる)失脚(道鏡
追放)やら、河内源氏のゴタゴタやらがあったのに、古代からの
血を絶やさずに河内に住み続けたんだとしたら、結構凄いかもな。
あと、オレ的にはたたらじゃなく鋳物師ってのが面白いな。
444 :
443:2007/09/01(土) 10:54:21
東の物部、西の丹治。
446 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 13:10:31
>>438 毛野氏族の守屋氏があるから、守屋だけでは何とも言えない。
それに、物部守屋の子孫が守矢とか守屋氏を名乗ったっていうのは
伝承の域を出ないと思う。
特に諏訪周辺ではモレヤ神の末裔を称する人たちが名乗ったという
方が可能性が高い。
諏訪大社の神長官の守矢家には物部守屋の血を引いているという伝承があるよ。
祖神をモレヤ神と記述しはじめたのは最近(明治頃?)の事らしいと聞いたけどどうなんだろう。
戦国時代には守屋の苗字で武田へ武将を出していたし、
県内には物部守屋個人の武器庫跡も残ってるし、
傍の部落で祭られている神社の御祭神は物部守屋大神だし。
自分が気になるのは善光寺縁起(如来像を池に投げた者として)や
諏訪大社に残る古文書(建御名方神と争った者として)にある「守屋大臣」という表記で、
これはその当時「守屋大神」が近辺で祀られていて、
それを貶めたか婉曲したかの表現が「守屋大臣」なんじゃないかと思ってるんだけれど。
ただ大臣、大神を共に「だいじん」と読めるようになるには多分そう古くないよね。
>>447 神長官の守矢家自体が物部守屋の末裔という伝承を持ってるとは
知らなかった。
確かにググったら出てくるんだけど、モレヤ神と物部の関連がイマイチ
はっきりしないなあ。
モレヤ神=ミシャグジ=蛇≒大物主とすると、これは出雲だし。
物部氏は物部氏を名乗る以前から「出雲イジメ」はしてたけど、出雲
そのものとは思えないからなあ。
諏訪に於ける祭祀権の一部を手にしたと見るべきか、守屋側に諏訪も組して
いた結果と考えるべきなのか。
>>447 おまえ頭いいな。ダイジンつながりか…全然気がつかなかったわ。
450 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 18:51:40
やっぱり邪馬台国ネタ以外の古代史スレは考古の発見や新史料の発見がないとスレが寂れるな。
物部=吉備説も裏付けが乏し過ぎるし。
451 :
日本@名無史さん:2007/10/12(金) 21:02:50
石上麻呂って、どうして藤原京に取り残されたの?
石上大朝臣ってどうなったの?
子孫がいなくて一代で終わり?
453 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 00:59:13
不比等にとってジャマだったから
まさに一代限り。
宅嗣に子や孫がいたかどうかは不詳。
後世に作られたいいかげんな系図とかなら、いることになってるけど。
死んだときは贈正二位か。誰か蔭位に詳しい人、考察してくれ。
美奈麻呂は弟の奥継か従兄弟の家成の系統?
普通に石上朝臣に戻ったんじゃバツが悪いから石上大朝臣にしたのかな。
そもそもどうしてあの時期だけ物部朝臣なんて名乗ったんだか…
455 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 03:27:59
伊予越智氏が物部系とする説は何を論拠としているのかな
国造本紀
そういや越智氏が物部氏族というのは新撰姓氏録とか他の文献にもちらほら出てくるが
これが「伊予の」越智氏のことだってのは国造本紀以外だとどんな根拠があるんだろ
458 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 12:10:43
石上宅嗣は孫の宅人までは辿れるらしい
系図上は宅嗣の兄弟息継の子孫が代々石上神宮の神主を世襲して現代に至る
石上宅嗣の祖父石川麻呂の娘は藤原不比等の三男で藤原式家の祖藤原宇合の妻
宇合と石川麻呂の娘の間には藤原広嗣、藤原良継らがいる
藤原良継の娘乙牟漏は桓武天皇の皇后で、平城、嵯峨天皇の母
石川麻呂の血は女系で天皇家に入っている
>石上宅嗣は孫の宅人までは辿れるらしい
>系図上は宅嗣の兄弟息継の子孫が代々石上神宮の神主を世襲して現代に至る
近世の系図を根拠にされてもねぇ…神主は現代に到っていないし。
国盛が生んだのは広嗣良継のふたりだけなんじゃないの?
460 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 10:48:49
五輪原の物部守屋墳墓発掘すればよろし。
461 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 20:27:54
発掘できないの?
宮内庁の陵墓比定にあてはまってなければ
できるんじゃないの?
じゃ、461に資金提供と「墓を暴くなんてとんでもない」とかいってる爺さん達の説得を頼む。
勿吉→物部
勿吉(もつきつ)は、中国三国時代、高句麗の北、満州地域に住んでいた民族で
ツングース語に近い言語を使用。また、勿吉は、勇敢なことで知られ、周辺諸国を
頻繁に略奪し、北史では東夷最強と評されている。
その勿吉は、南北朝時代末期、隋時代以降は出現しなくなった。
どこに行ったかというと日本に渡ってきたのではないでしょうか?
ツングース語族ということで、いわゆる蝦夷に近い生活様式・宗教をもっていたため、
関東から東北地方に活動範囲を広げて行ったと考えられます。
464 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 23:00:39
あげてみる
実際、あの辺りの歴史というのはかなり謎だよな。
物部=イスラエル 蘇我=景教(原始キリストか?) なんていう説もあるくらいだし。
なにそのトンデモ
467 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 01:33:56
とんでもあげ
468 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 11:33:11
ひふみよいむなやこと とこやなむいよみふひ
ふるべゆらゆら ゆらゆらとふるべ
469 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 14:22:12
優良さん
470 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 04:24:13
講談社学術文庫の物部氏の伝承ってのを買ってみたんだが
現代(?)朝鮮語で神名とか解読しようとしていて萎えた
こういうのはナシだよな
そういうの昔流行ったみたい
守屋=滅亡を意味する、なんてあたりで読者はそのトンデモ度に気がつくという…
文庫化する前は三一書房という出版社から単行本が出てたんだがな、
まぁ「三・一運動」でググってみてくれ。これが社名の由来ニダ。
労働争議で揉めてたことでも有名なDQN出版社。
『物部氏の伝承』は一応買ってまだ読んでいなかったが、
そんな本だったのか・・・orz
講談社学術文庫の古代史は左翼全盛時代の著書が多いし、
上垣外の『倭人と韓人』のようなトンデモも少なからず。
しかし、文庫で安いと買ってしまう・・・
一応いっとくと、畑井は別に昔流行った「日本語の起源は朝鮮語だった!」とか、
「物部氏は朝鮮からの渡来集団だった!」みたいな話をしてるわけじゃないよ。
ただ、自分が思いついた結論に都合よく語呂合わせしてるというだけ。
この人も学界の人間だから、他の学者が物部氏について語るときに、この本を引用したりするんだけど、
ほとんど朝鮮語での解釈とは無関係な部分ばかりなのが笑える。
>>474 >自分が思いついた結論に都合よく語呂合わせしてるというだけ
程度の差はあれ、一緒だろ。
関祐二と?
>>476 違う。
関と畑井とは(酷い言い方を敢えてするならば)売文屋という点では程度の差は
あっても一緒とも言える。
良い言い方をすれば、2人とも「物部氏をネタに話題を提供している」辺りか。
ただし、畑井は曲がりなりにも学界の人という違いがある。
んで、
>>475で言いたかったのは関ではなく、
>>474氏言うところの、
>「日本語の起源は朝鮮語だった!」
の類。
万葉集は朝鮮語で書かれているとか、奈良はウリナラのナラとかいう類ね。
例えば奈良=ウリナラなんかは、「日本(人)の根は朝鮮」とかいう結論が先に
あって、その証明(になってないのは当然だがw)の為に持ち出される。
この構図と畑井説の語呂合わせ(としか思えないもの)は、結論先行という意味
に於いて
>>475ではないか、ということ。
畑井ははっきりいって物部氏が嫌いなんだろ。文に悪意が感じられる。
史料批判より先に物部氏批判ありきって感じ。
それから、本の表題が『物部氏の伝承』っていうのがズルイ気がする。
いかにも公平に物部氏の伝承を紹介か解説してるみたいじゃないか。
これって、広く読まれてるんだよね。最初が吉川弘文館、次が三一書房で、今度は講談社で文庫化?
表題に釣られて買った人も多いんじゃなかろうか。
古代史の基礎知識を持ってない人が、
「これ一冊で物部氏が理解できる」みたいな勘違いをして買うのが心配。
関祐二は…先行研究の取捨に偏りがありすぎ。
>「物部氏の正体」について、「常識的な学者」たちは、
>「それは北部九州出身」と、誰もが疑わなかった。
(『物部氏の正体』)
とか、まるで物部氏九州起源説が定説のように…
それをいってるのは、鳥越憲三郎(文化人類学者)や谷川建一(民俗学者)、
大田亮(戦前に活躍した学者)など、現在の史学界とは全然関係ない人ばかり。
今の主流派の史学者なら、北部九州起源説説も弥生時代起源説も絶対いわない。
狙ってやってるのか?
>>478 >関祐二は…先行研究の取捨に偏りがありすぎ。
ハゲ同w
でも、まあ関氏は「作家」だからね。
作家とは、つまるところエンターティナーの一種だろうからw
奴の藤原氏への悪意はものすごいよな
蘇我入鹿の怨念が憑依してんじゃねw
物部氏を同族扱いして巻き込むのは勘弁してくれよ。
蘇我入鹿は「蘇我物部大臣」なわけだよね?
これに関しては巻き込むとかじゃなくね?
単に父系か母系かの違いでしょ。
しかも当時の日本そのものが母系から父系への過渡期だったし。
何を基準に蘇我蝦夷・入鹿を見るかで解釈が変わると思うけど?
はいはい母系母系。
豪族間の婚姻のおかげで仲良しこよし、古代に権力闘争なんて存在しないのね。
いや婚姻で同族になるんだから、「氏」の境界なんてそもそも無いのかwww
あほか
あほちゃいまんねんパーでんねん
大物主と物部氏って主従関係あるの?
あほか(2回目)
つか、主従ってのは同時代に実在して初めてありえる話
神話と歴史を混同した上で、時系列を無視するなと
大物主は物部氏のペットみたいもの。
あほか(3回目)
491 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 14:10:46
大物主は親戚のオッチャンみたいなものさ。
492 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 16:13:33
賑速陽さまは30部族くらい引き連れてムーから日本に太古に移住というより前線基地(近畿など)。代表者が物部・穂積・鈴木など
天皇の青銅武器にはかなわなかったが、逆に天皇家の武器の管理人になれた
493 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 13:16:56
聖徳太子を祀る河内の叡福寺は物部守屋も祀られてるんだな。
494 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:17:09
>>483 物部合戦の時、守屋の妹は兄を裏切って
夫の馬子に付いたんだよ。
蘇我側の情報を兄に洩らさなかったらしい。
495 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 17:59:45
吉備の豪族の名前だけ出てこない点を、
みんな見落としてないかな。
吉備の豪族の名が記されてないのは、
吉備の豪族が当時の天下を取った
当事者だったからだと考えるしかないと思うよ。
つまり、吉備を中心とした豪族が物部氏。
最大勢力を誇った時期には、
25部もの配下を従えていたらしき痕跡がある。
北九州から奈良盆地までを掌握するというと、
平家と勢力範囲が重なることになるが、
とにかく、ヤマトの最大勢力だった時期があるらしい。
496 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 20:29:58
あと、注目したいのは、日本という国の成り立ち。
新羅=日本って説。
日本武尊は九州訛りの言葉を喋ってるんだよね。
熱にうなされて病死するときの台詞などに顕著かな。
日本と書いてヤマトと読むのは、どう考えても無理があって、
何か重要なことを隠蔽している可能性が高いよね。
(思わせぶりな書き方でゴメン)
新羅って国は、鹿児島の倭人が北上して興した国で、
新羅は日本と同一の国名だって点は、重要なポイントだよね。
天智(中大兄)は、新羅の武烈王金春秋と、表音上同一人物で、
当時の日韓の歴史書の記述は、表記方法が違っていても、内容はほぼ同じだし。
後になって日韓は犬猿の仲になったから、
海峡を隔てたお互いの国の正史では、それぞれ別人扱いになってしまってるけどね。
このあたりの日本の歴史観を大幅に軌道修正しないと、
当時の正確な世界情勢は見えてこないかもしれない。
497 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 20:46:27
だいたい、日本語と韓国語って、単語の音はかなり違っていても、
文法の基本部分はほぼ同じ。
つまり、もともとは、同一言語の民族なんだよね。
日本語のほうが、南方の島々の言葉が入ってたりするぶん違うけどね。
縄文時代に喜界カルデラが大噴火したとき、
多くの日本人が朝鮮半島に疎開して、民族や言葉が混ざって、
弥生時代になって日本に疎開先から戻ったときには、
アイヌとはまったく違う言葉を話すようになってたわけで。
まぁその頃から深い交流があったようだから、
日本って国が最初は、
日本列島と朝鮮半島の連合国家として誕生してたとしても、
不思議はないんだよね。
ま、日韓ともに、多くの人は、
日本の天智天皇=新羅の武烈王金春秋説を、
認めたがらないと思うけど、
このあたりから、物部って一族の正体も見えてきそうだね。
498 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 20:50:05
499 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 20:50:52
物部氏の、遺伝子の収集を進めてる人がいるみたいだけど、
結果が楽しみだね。
昔の皇室の姓は、「姫」だって書いてある文献を目にして、
それらしいデータの裏付けが得られたって思ってる人もいるみたいだし、
そのうち物部氏固有の遺伝情報が明らかになって、
面白い家系図が作成されるかもしれない。
500 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 20:52:02
>新羅って国は、鹿児島の倭人が北上して興した国
朝鮮半島から下ってきた人が日本を興したんじゃないの?
もう少し詳しく言えば、鬼界カルデラの噴火で
九州から朝鮮半島に避難した縄文人の子孫です。
ソッスカ
503 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 06:03:08
1.日本の関東エリアなどで縄文時代から大きな集落を築いて
勢力を持っていたのはアイヌで、アイヌ語を話し、
とうぜん、倭人などではない。
2.朝鮮半島の南半分と九州地方で活躍していたのは
海人(はいと)=漁業民で、
この人々は、韓国語の文法を持ちながら、
太平洋の島々の言葉の影響も受けた、
いわゆる日本語を話した、倭人。
九州から沖縄にかけての言葉が
古事記などに多数認められる(高天原などもその一例)
ことから、
この文化圏が日本国の母体となった可能性が高い。
3.中国人から見た倭国は、
漁業を主とし、灌漑農業を副とする東の僻地。
4.吉備の地域には昔から、朝鮮半島の倭人が来ていた。
●これらをまとめると、
物部氏は、吉備を基盤に勢力を拡大した、
倭人豪族の末裔。
>>503倭人の定義があいまいです。
倭人とは、揚子江下流地域、浙江、福建、広東、広西、海南、
ベトナム、ラオス、台湾、フィリピン、 沖縄諸島、九州、四国、
本州西部、朝鮮半島南部などに住んでいた、南方アジア系
の海洋民族の総称。稲作も行っていた。
ということでよろしいでしょうか?
506 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 09:25:20
倭人文化圏については、海に明確な国境線がないため、
定義しにくい面があると思う。
土器の分布とか、
言語の痕跡などから、推測する研究は多少読んで知ってるけど。
縄文式土器は、フィリピンあたりの畑からもたくさん出土していて、
喜界カルデラの海底火山の大噴火の火山灰で、
日本列島の農地が大打撃を受けて疎開した先が、
黒潮の反流に乗った赤道直下の地域にまで至っていたことは、
疑う余地もないし。
言語の痕跡としては、
ホゾを噛むとは、ヘソを噛むことを意味し、
おヘソのことを、ホゾに近い発音で呼ぶ地域を調査した人もいて、
太平洋の島々との関わりを示唆していたり。
浦島太郎伝説のルーツになった島も特定されてるし、
ペルーの山奥まで到達した縄文時代の避難民もいるわけだし、
まぁ、昔から、日本人は、双胴のカヌーに縄文式土器を積んで、
雨水と海産物を頼りに、大航海をやってたんですねぇってことでしょう。
507 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 09:31:51
物部氏系の特徴が顕著な神道文化の残骸として、
もっと注目されてもいいと感じるのは、
姫路に代表されるような、
牛頭天王という神様を祀った神社の存在。
牛頭天王(ごずてんのう)という神は、明治維新の時期に、
天皇と同じ読みをするのは不敬だとされて、
半ば無理やり、日本の神道のスサノオという神のことだと解釈されて
名前を変更されてしまったため、今では分かりづらくなっているが、
日本に古来から存在していた神ではなく、
朝鮮半島から来たものらしい。
この点、有名な歴史小説の大家も言及している。
天然痘の予防(病魔退散)の効力を発揮する、
血の色(赤色)に金文字を記したお札を配布する特徴がある。
京都祇園の八坂神社では、今もその名残のお札が売られている。
508 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 09:40:31
応仁の乱で焼け野が原になってしまった京都から
疎開という形で大量の古文書などが移された某神社の敷地内には、
十種神宝をマスターした天皇にしか開けることができない
特殊な封印が施された倉など、古い倉が幾つもあるとされている。
現在の天皇は血筋が正しいか怪しい問題があり、
十種神宝もマスターしていない様子なので、
この系統の倉の封印を解いて閲覧する権限を有していない可能性が高く、
現に開けてほしいという要請は、明治維新以降一度もないという。
その倉の管理を任されている神社の巫女さんは、
稚日女(天照大神の妹とも言われる)を祖とする
とされている祭祀一族の末裔で、
定められた十種神宝の神道の修業や
稚日女様と心身ともに一体になる業を終えているので、
封印を解除して閲覧する資格を有しているのだという。
年に一度、そういった倉の古文書を陰干しするときに、
開いて中身を閲覧できる立場にある巫女さん
(専門はバイオテクノロジーの研究らしい)が語ってくれた、
ここだけのナイショの話によると、
どうやら、牛頭天王のお札は、
本当に、病魔を退散させる神通力を発揮できる
可能性があるという。
これは、迷信ではなくて、
もしも現代のカルト教団がこの技術悪用したらやばすぎると、
製法を聞いてて背筋が寒くなった。
509 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 09:56:54
オカルトはどうでも良いが、最大のオカルトは中共だろ。
まともな考古、歴史が公表されてんのか?
510 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 10:42:24
>>508赤いお札に使われていたのは丹、つまり水銀でしょう。
硫化水銀には強い殺菌能力があります。赤チンもメチル水銀を薄めたものです。
稲荷神社の鳥居も朱色。
511 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 12:47:04
稚日女様(和歌姫という字を当てられることもある和歌の女神)は、
和歌山県で飢饉が起こったときに、
現地に赴いて和歌を詠みながら、(当時の古代和歌は農作業時の労働歌)
教え草(稚日女様がこの草の効力を民に教えたことが名前の由来)という
ハーブの煙を檜扇で扇いで、
病害虫を追い払って、枯れかけた水田の稲を生き返らせた歌姫伝説の持主。
和歌の言霊のパワーで、水田を生き返らせる奇跡を起こした、(と信じられた)
生前の業績を称えられて、
現神戸市にある生田神社に、和歌の女神、稚日女様として祀られたという。
(実際、音楽を聞いて生育が良くなる植物はあるらしいから、迷信ではないかも)
もともとは、稚日女様が幼少期の修行時代をすごした、
西宮の神の山(現西宮市甲山)を拠点に、
神道系の秘伝の修行方法を伝授する活動していた一族で、
神戸の生田神社は、修行場であった、布引の滝がある山の麓に建てられた、
修業道場の宮だったと、この一族の間では伝えられているらしい。
稚日女様と心身一体になる業について質問すると、
天照大神を神降しして、神掛かり状態になって御神託を得る方法が、
古事記にある天岩戸伝説の本当の正体で、
最初にこれを実行して、天照大神の替え玉を務めて、勅命を出した巫女が、
天照大神の妹で思兼の妻で手力男の母親でもある稚日女様だったと、
伝えられているという。
天皇家の神道を取り仕切っていた伯王家の者に、
天照大神と心身一体になる業を教授したのも、この一族という、
なんとも手前味噌の話になっている。
512 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 12:50:53
以上のような、変な由緒を持つ一族の管理下にある神社に伝承されている、
秘伝や神事を継承している巫女さんの推理では、
物部氏の興亡は、以下のような経緯を辿ることになるらしい。
1.牛の天然痘はヒトのものより比較的軽いので、
天然痘を発病した生贄に見立てた牛の首を、
作法にしたがって切り落として、
玄関先にその血を撒く風習が、朝鮮半島に昔からあった。
神様に生贄として、人柱の人間や牛などの動物を捧げるような
奇異な風習は日本にはなく、朝鮮半島から物部氏によって伝来したものらしい。
2.その血を用いて、秘伝の神事の作法どおりにお札を作って
神社で赤いお札として配布するようになった。
あらかじめこれに触れておくことで、
免疫を得て天然痘に罹らなくなる可能性がある。
3.朝鮮半島から日本に天然痘が入ってきて、流行り病が広がると同時に、
姫路の地域を支配していた豪族が中心になって、
このお札を作る秘術を用いて、お札の信仰を日本各地に広めて、
支配地域を拡大して、絶大な勢力を誇った。
しかし、日本古来からの神道を信仰する人々からは、
日本古来からの神道とは異なる異質なものと受け取られていた面があり、
とくに、物部氏が得意としていた、陰陽道に見られる呪殺系の技術は、
気味悪がられ、多くの反発を招いていた。
513 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 12:53:59
4.表向きは、蘇我と物部の間に、仏神戦争が勃発したことになっているが、
日本書紀は書かれた直後から百年間も封印されていたほど、
当時の人が読めばすぐに嘘と分かることが書かれている書物で、
稚日女様の末裔とされる一族に伝わる話とはまったく違っているらしい。
実際には単純な二極対立の構図だったわけではなく、
権勢を極め横暴さを見せていた物部氏の足元をすくったのは、
反感を募らせた東の勢力だったという。
5.物部氏は神道一本槍の集団ではなく、
朝鮮半島系の疫病を払う神を導入するにあたって、
仏教系の神である牛頭天王を用いていたらしい。
物部氏が神道のみを信仰する集団ではなかったことを裏付けるものが、
発見されたと考えている人物もいるらしい。
6.陰陽道に伝わる、表向き牛頭天王の秘術とされるものは、
よい方向に使えば、疫病の蔓延を防ぐことができるが、
悪用すれば恐ろしい結果を招くものだそうである。
現に、天然痘の病原体を用いた呪殺法で、藤原4子が暗殺されたらしい。
陰陽道を悪用しすぎたことが裏目に出て、
恐怖心を抱いた大衆から、鬼呼ばわりされて、
気味悪がられ、嫌われるようになっていったのだという。
長すぎ
515 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 14:04:48
>>510 赤いお札に丹=水銀を用いる説は、もっともな面もあると思います。
御指摘のように、朱塗りの神社は、丹由来だと思います。
丹に関する伝承は、中国でも日本でもかなりあり、
日本の水銀が採れる産地も当時からかなり調査されて分かっていたし。
ただし、
奈良の当時の疫病の流行のなかには、
水銀中毒と思われるものがあった点は、見逃せないと思います。
太陽神に見立てた大仏を、キンキラキンに輝かせる目的で、
水銀に金を溶かして塗りたくっていたようですが、
炎であぶって水銀を蒸発させていく金メッキの過程で、
水銀の蒸気を吸い込むことが原因で、
かなりの死者を出してしまったようです。
けっきょく、
この水銀汚染が深刻な問題となって、
平城京から長岡京へと、都を移す必要が生じたようです。
有毒な水銀が塗られた赤い札が、流行り病に効くという話はほぼ迷信なので、
牛頭天王信仰が広まる可能性は低かったと思います。
実際には、かなり広範囲に広まった痕跡があるので、
本当に御利益があるお札だったことが考えられます。
516 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 14:08:30
牛の頭の神様と、血塗りのお札の関係を説明するには、
病原体に犯された、牛の血を用いて疫病を避ける、
古い風習とセットで考えるのが、この場合は自然と思います。
西洋でも、天然痘を撲滅する技術は、
牛を飼う農家の環境で発見されて、確立されていった経緯があるようです。
病に侵された牛の体の一部を、人の皮膚に直接塗って、
人体に傷跡を残すような、西洋で発達した、問題性のある技法と違って、
日本の神社で魔除けのお札を買う方法は、よりスマートで高度な印象を受けます。
伝承されている作り方のあらましを教えていただきましたが、
発病した牛の血を筆で和紙にペタペタ塗るといった、単純なものではなくて、
精油成分などを用いて病原体を確実に不活性にする手法が採られていたようです。
日本の伝統的なお風呂の技術(昔は今と違って蒸し風呂が主だった)は、
生木や海草を、洞窟のような閉鎖空間で燃やして、
樹木から出る精油成分や、海草から出るヨードその他のミネラル分を含む蒸気を、
湯帷子(浴衣の原型)という専用の衣類を着たまま浴びることで、
皮膚や肺から摂取して、免疫力を高めるものだったようです。
これは、肌に軟膏を塗るタイプの風邪薬のような機能を持っていたようです。
この、昔日本で行なわれていた入浴技術を応用して、
牛が持つ病原体を不活性にして、免疫生成用のお札を作る技術には、
幾重にも安全対策が採られているそうです。
樹木が持つ精油の殺菌成分を用いた、
物部氏などが保有していた、当時の日本の病魔退散の御祈祷の技術が、
いかに高度なものだったか、窺い知ることができました。
517 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 10:48:02
7.得意の呪殺技術が裏目に出て、鬼呼ばわりされて恐れられた物部氏は、
日本の宮中に古来から伝わる、神道テゴイ系の武術(現合気道)や
陰陽道系の暗殺技術を駆使して皇室を守護する一族との間に
繰り広げられた戦闘にことごとく破れて、
表向きも政権闘争に敗れた形になって、直系の血が絶えてしまった。
かつては25部もあったという、物部配下の一族も危険分子とされて、
そのほとんどが、鬼退治と称して抹殺されていったらしい。
8.天然痘などの疫病が影をひそめたことで、
病気にかかった牛の血で染めたお札を作ることは出来なくなり、
ただ赤い色に染めただけの、
病魔退散の実効力がない、迷信化したお札を配布する、
形式的な信仰が今日まで残っている。
9.陰陽道の祖とも言われることがある吉備真備は、
牛を生贄として病原体を植え付けた牛を神前に捧げ、
一定の手順を経ることで、
血染めの札を得て疫病を払う秘伝の技を、絶やさないようにするために、
布引の滝や甲山を拠点に修業道場を開いて活動していた、
稚日女様を祖とする一族の者に託したと、言い伝えられているらしい。
その後、病魔退散のお札を製造する秘伝の技は、
昔から陰陽師や忍者などの間で盛んに使われていた、
ヲシテという神代文字(秘密の文字)で、平安時代末期頃に文書化されたため、
口伝だけでなく、門外不出の秘伝書が今日まで伝わっているらしい。
518 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 10:50:28
ここに登場するヲシテなるものは、
12世紀初期成立の類聚名義抄にも記載されているほど有名な神代文字の代表格で、
江戸時代になってから多数発見された、
忍者が戦国時代に使っていたと思われる他の文字よりも、
はるかに歴史が古いらしい。
戦国時代の忍者がメモ程度に使っていた、
いかにもにわか作りという印象が強い、
ほとんど使われた文献などが現存していない文字と、
ヲシテで記された文献の総量は明らかに違うため、
神代文字はすべて江戸時代に捏造された怪しげなものと
安易に結論を出すべきではないと考える研究者もいるらしい。
吉備地域の縄文時代の磐座遺跡に、ヲシテのオの文字が刻まれているほか
磐座に刻まれている、神の化身を意味する蛇の形の象形文字は、
ヲシテのエの文字のベースになっている可能性が指摘されているなど、
縄文時代から伝わる象徴的な図形をベースに作成された、
神道の秘伝を伝えるための文字の可能性が高いという。
519 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 10:54:54
ハングルと文字の組み立て方が似ている点も指摘されていて、
漢字伝来以前から存在した文字との説もあり、
朝鮮半島と繋がる倭人文化圏で、古くから使われていた文字の可能性もある。
生前の稚日女様が古代和歌を書きつけた直筆の檜扇なるものが
数多く残っていて、他の文献とも一致する歌が含まれているため、
下手をすると、弥生時代から本当に宮中で使われていた可能性すらあるらしい。
ヲシテで書かれた、日本書紀の原典の可能性もある大量の古文書が、
幾つかの神社から発見されていて、
和歌の理解度が、日本書紀の編纂者よりもはるかに上で、
記述内容が日本書紀よりも正確な点が指摘されている。
紫式部の手によって書かれる以前の、
ヲシテで記された先行版の源氏物語が、その神社に秘蔵されているらしいが、
血札の製作方法を記した秘伝の書と、同じ人物の筆跡らしい。
ハングルは15世紀に漢字が読めない馬鹿な大衆用に当時の李氏朝鮮の王により作られた簡易な表音文字
ハングルと似ているから古いというよりハングルと似ているから新しいと取るべき
521 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 12:51:53
訓民正音age
ハングル由来の「古代文字」なんて結構あるしね
武田信玄が保有した諜報機関として有名な
歩き巫女(女忍者)集団を実質的に従えていたそうなのだが、
神代文字ヲシテを用いて暗号化された、
牛頭天王の血札の製法が今日まで伝わっているらしい。
万が一天然痘などの流行り病が流行したら、
効力を備えた本物の赤いお札を作って神社から配布できるように、
一通り神事の作法を、伝承文化として習得しているが、
安全面を考慮して、お札を実際に作ったり配布する予定はないという。
私は近代的な設備を用いて、さまざまな研究ができる立場にありますから、
吉備真備様から預けられた技術は、
現代では実質的に意味のないものと思っています。
文化遺産の意味を持つ神事の一つとして子孫に伝えていくつもりです。
と、稚日女様と心身一体になった神掛かり状態で、巫女さんはお話になった。
神社に祀られている神様と、直接会話できることに奇異な感覚を覚えたが、
下のような説明を受けた。
神掛かりの神事の正体は、自己誘発性催眠です。
架空の人格をイメージして、自己催眠の暗示にかかって話しているだけなのです。
このように女神様から直接、科学的な説明をされてしまっては、
似非科学とかオカルトといった言葉を持ち出す隙がなく、
納得してありがたく拝むしかなかった。
物部氏や中臣氏、そして秦氏などに関わりを持つ、
牛頭天王の呪殺(本当の正体は病殺)技術を知った者は、
すべて私達の先祖の手で抹殺されたらしいので、
物部氏滅亡のきっかけになった秘術を伝承する秘伝の書は、
うちの神社にしか現存していないと思います。
と、病原体を用いた暗殺テロの手口について、あっさり説明されてしまった。
下手をすれば仕掛けようとした側が病原体に感染して、先に死ぬ気がする。
触らぬ神に祟り無しで、牛頭天王の秘術には触りたくない。
稚日女を祖とする一族に伝わる秘伝の一つで、
古事記にも記されているテゴイ系の武術は、
源氏を支援していたこの一族の手で、武田家に伝授され、
明治維新後に、武田氏の末裔の手で表の世界に出てきてから、
独自の進化を遂げて、現在は合気道の名で広まっているそうだ。
しかし、
陰陽道の呪殺系の技術は、カルト教団などに悪用されると
奈良時代に起こったような惨劇を再び招く可能性があるため、
古文書の所在を明らかにしたり、
具体的な内容を公開する予定はいっさいないという。
私は神降しされた稚日女様に対して、こう質問してみた。
蘇民将来の伝承を読めば明らかなように、
牛頭天王信仰は物部氏ではなく、
朝鮮半島から百二十県の人を率いて帰化した秦氏が
持ち込んだものではないのか。
赤い札は牛の血ではなく、丹土から水銀を取り出す技術を持っていた
秦氏が用いた丹の朱色ではないのか。
すると、
天照大神が支配した日の本の国は、倭人の国とは別の国だったと聞かされて、
唖然とした。
伊勢と呼ばれる政治哲学や、鈴鹿といった思想を持っていたが、
古事記や日本書紀にこれらが登場しないことからも、
文化的に異なる王朝であることが、客観的にも明白なのだという。
稚日女の一族は、昔から西宮にある神の山(現在の甲山)を、
修行の拠点にして活動しているため、
神戸の津に近いこともあって、海人(倭人)も支配しているらしい。
秦の始皇帝の時代から、
日本に不老長寿の秘薬を求めて渡来した人々がいて、
水銀を取り出す技術を海外から持ち込んだ秦氏も、
そういった目的を持って、繰り返し来日していたようだ。
稚日女の一族の招きで、日本の丹土を求めて帰化する形になったので、
日の本の国の太陽の女神である稚日女と、
かれらが信仰していた丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が合体して、
丹生都比売神社が建てられることになったのだという。
526 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 23:12:37
>>鉄郎さま
素晴らしい名著だと思いました。それから、三浦佑之著、「古事記を読む」なんかも私には良かったです。これでいくらかユダヤの呪縛から逃れられそうです。
物部氏の末裔で日本を代表する姓といえば熊野の鈴木氏
に伊勢の高橋氏。
どちらも無口で朴訥といった印象で、戦いとなればともかく、
都の貴族生活には馴染めなかったのではないでしょうか?
しかし、そういう庶民が結局は日本そのもの姿だと思いま
す。
>>527 なんつうか。
まず、高橋連は物部大新河の裔でこちらは確かに物部連の末裔だが、熊野の鈴木氏は物部連と同族だとしても末裔ではない。
つまり、穂積臣は、
饒速日命-宇麻志麻治命-(略)-伊香色雄命-大水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根命-穂積臣真津-(略)-藤白鈴木氏へ
となり、一度も物部連の姓を冠していない。
だから仮に物部連と同族としたとしても、「末裔」ではない。
饒速日命や宇麻志麻治命の末裔と言うのなら正解だけど。
ついでに言えば、穂積氏が本当に物部連と同族かについては諸説ある。
あと、下の4行はデムパそのもの。
しばらくぶりに覗いたら何か
>>495あたりからどこぞのトンデモが貼られてるし、何だかなあと。
仮に、鈴木氏が物部氏の末裔でないとしても、
鈴木姓の人で思い当たるのは苗族の人たちなのです。
体つきや顔かたち、風習がそっくりなんですよ。
童男童女数千人を伴って渡航した徐福集団は、その後も
呉や越の揚子江下流域の住民を日本に移住させたので
はないかと考えています。
しかし、それだけでは、根拠のない電波だと思われても
仕方がありませんね。 あくまで仮説ですから。
香川あたりの守屋姓って物部?
岐阜の親戚の家の住所が穂積です。
積木くずしは穂積だったよね。
たしか直木孝次郎が穂積氏は天武朝に物部氏同族になったとかいって、
亀井輝一郎もそれを踏襲していたような。違ったっけかな。
慎重すぎると批判して、6世紀後半くらいまで遡らせる説も
あったような気がするが…
あまりいいすぎると、畑井弘みたいになるか。
「物部氏という氏族は存在しなかった」とか、
この人は擬制的同族関係という津田左右吉以来の通説を知らんのかね…
実際の血縁だけが同族ではないのは、物部氏に限ったことじゃあるまいに。
物部は、その実態を調べれば、一族というより鎧兜や刀、
弓矢などの武器を中心とする「物」と作る職工集団だった
と考えたほうが妥当。
従って、一族というより中世ヨーロッパのギルドやハンザ
同盟に近い存在だったことが分かる。
>>529 >鈴木姓の人で思い当たるのは苗族の人たちなのです。
他の姓と比べて鈴木姓に特有の文化や身体的特徴があるなら教えれ。
それらと苗族の人に共通の文化や身体的特徴もね。
DNAの比較データがあれば尚良し。
それが出来ないならただのデムパ。
>>534 言ってる内容は、推論としては有りとは思うが、
>と考えたほうが妥当。
という論から、
>従って、一族というより中世ヨーロッパのギルドやハンザ
>同盟に近い存在だったことが分かる。
となるのが全く意味不明。
537 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 19:38:55
>>533 確か『日本書紀研究』に収録されてた奴だね。
かなり前に読んだから記憶が飛んでるけど。
>たしか直木孝次郎が穂積氏は天武朝に物部氏同族になったとかいって、
>亀井輝一郎もそれを踏襲していたような。違ったっけかな。
まあ、直木さんは史実の認定についてかなり慎重だよね。
538 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 10:17:29
>>529 鈴木さんが日本にどのくらいいるかわかってて言ってる?
>>538 鈴木姓200万の代表として申し上げます。
明治の新平民を含めて、鈴木姓は何らかの形で
物部の血を引いていると思って間違えありません。
鈴木姓の人は、生殖力が強く子だくさん、家族が
多いことが特徴です。戦前は5人10人も稀ではあ
りませんでした。
>>539 >明治の新平民を含めて、鈴木姓は何らかの形で
>物部の血を引いていると思って間違えありません。
血統は逆ピラミッド。
1200年ほど前に成立した鈴木氏の末の現代人に天皇や物部(氏)
の血が入ってない方がおかしい。
こんな当たり前のことをわざわざ「鈴木姓200万の代表として」言われ
ては、他の鈴木さんがかわいそうだ。
>鈴木姓の人は、生殖力が強く子だくさん、家族が
>多いことが特徴です。戦前は5人10人も稀ではあ
>りませんでした。
つまらん。芸でやってるなら他の場で精進しろ。
素で書いてるならオカルト板等々へ行け。
541 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 14:47:16
>>539 野球で有名な鈴木さんは生殖力がありません。
200万鈴木さんの中には、もちろん例外もいます。
しかし、出生率のわずかな差が、積もり積もって
日本最大の姓「鈴木さん」を形成したことは否定
できません。鈴木さん万歳。
ここは日本史板であって、自分の信仰を告白する場所でもなければ、バカを晒す場でもない。
544 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 20:20:14
物部氏(連のほうね)って、結局河内発祥なの?
仮に河内発祥なら、それ以前の痕跡が無いのって変じゃね?
北部九州からのいわゆる物部東遷説も今じゃ殆ど誰も言わないらしいし。
>>544 >それ以前の痕跡が無いのって変じゃね?
これは河内にということか?他の地域、例えば出雲や九州や吉備のことか?
というか、3世紀を想定しての何らかの勢力の東遷説ってのがもはや根拠に乏しく、ほぼ壊滅なんだが。
物部氏の場合も、ニギハヤヒ伝承はあくまでも神話。
元になった原物部集団の事績があったにせよ、それを東遷などと言うのは性急に過ぎる。
547 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 10:00:32
なぜ東遷説をわざわざ記載したのかが不思議
奈良や京都にも立派な山はあるだろうし、信仰されている山もあるだろう。
そのあたりの山に降臨したと書いとけばいいのに
>>542 中央では失脚しても物部は全国各地に勢力圏を広げていた。
繁殖能力云々ではなく、単に物部に支配された人間が沢山いた。
以上。
>>544 それ以前の痕跡が無いのがどうして変なのかおしえて。
五世紀以前の史料は相当限られてるし、
痕跡が必ず残っているという前提のほうが成り立ち難いのでは。
550 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:53:02
>>545 河内も他もどっちも。
>>549 他の氏族ならともかくさ、物部集団だったら規模がデカいっしょ。
なんたって八十物部っすよ。
その八十物部ってのはみんな河内に到着してからそこで初めて緩やかな結び
つきをしたか?
そんなんあり得ないっしょ。
特に、鵜呑みにはする気ないけど国造本紀とか見ると、河内に上陸してから
結びついた集団の分布にしては、河内近隣に地名なんかも含めた跡がない無
姓の物部とか大杉。
かといって、大集団が海なら瀬戸内海を、陸なら近江とか丹波とかを素通り
とも思えない。
だからどっかに何か根拠地なり中継地があって、そこにはいくらなんでも何か
あんだろと。
ってか、あってくださいよ。
じゃないとつまんないからってことで。
551 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 19:22:46
>>550 >八十物部ってのはみんな河内に到着してからそこで初めて緩やかな結び
>つきをしたか?
確かに、原物部集団が秦氏みたいに多くの小集団を率いていたとすれば、その状態で
河内に突如出現(成立)したというのはいかにも不自然だな。
ただ、そこまでの大集団(あくまで当時として)であれば、例えば瀬戸内海ルートだ
ったとしても、海人たちが玄界灘や関門海峡、瀬戸内の諸島を根拠に妨害或いは応戦
できたか疑問だし、仮に原物部集団が当時としての先端技術を保持していた場合、
その一端を供与するか、その成果としての武器等を供与することによって平和的に
河内に至る経路を通過できた可能性も考えられる。
もちろん、河内周辺のクニから自然に原物部集団が形成された可能性もある。
それと、八十物部というのはあくまでも『記』『紀』や『万葉集』に出てくる語であ
って、それがそのまま神話に記されるところの原物部集団の発生時(すなわち3〜4
世紀?)に適用できるとは限らない。
つまり、物部連が政治的優位に立った時期に取り込まれたか枝分かれしたのが畿内に
地名等の痕跡を持たない無姓の○○物部とかの連中であるとも考えられる。
ついでに、
>ってか、あってくださいよ。
>じゃないとつまんないからってことで。
個人的希望としては、まったく同意w
「物部」氏の規模が飛躍的にデカくなったのは、
その名が示す通り、部民制が始まってからの時代なのでは。
近年の通説では六世紀前半ころ。前段階のトモ制も含めると五世紀後半ころから。
たまたま部民制の隆盛期に、大伴金村失脚以後、蘇我腹皇子女の成長以前、
という欽明朝の物部氏全盛期が一致したんだろう。
つまり、王権内での勢力が大きかったから、制度を利用して各地に部民を設置できたし、
その部民を管掌する氏も出たし、それらの氏に大連と同じ系譜に結びつくメリットもあった。
物部氏独自の集団の力ばかり見ず、王権勢力の一翼を担った面も意識したいところ。
553 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 19:50:54
>>551補足
何故敢えて瀬戸内海ルートで考えてみた上で、「海人」という語を使ったかというと、
鵜呑みにはできない所伝ではあるものの、『紀』神武東征条で塩土老翁からの伝聞と
して、「天の磐舟に乗ってとび降りてきた者がある」と神武天皇が語り、その上で
「その地にとび降りてきたのは饒速日であろう」と言及しているから。
塩土老翁は同じ『紀』で塩筒老翁とされており、住吉大神として底筒男命、中筒男命、
表筒男命の名で住吉大社に祀られているのは知られているところ。
また、その住吉大社は大阪にあり、河内に近く、後の世に大和川の要地を物部が押えた
ことをもって、物部=川運とすれば、住吉大社を祀る尾張氏同族の津守氏を海運、難波
津をそれらの中継地として合理的に捉えることができるね。
壱岐に住吉神社と物部神社の両方が存在すること、尾張氏と物部氏の祖神を別神(それ
ぞれ火明命と饒速日尊)とするならばその習合神とも位置づけられる天照國照彦天火明
櫛玉饒速日尊の神名も傍証となるかな。
ただ、これらが史書に記されたのは7c以降であって、原物部集団の河内定住?がこの
流れで行われた根拠とはならないけど。
>>552 すると、河内での自然発生っていうのが妥当ってことになるの?
555 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:15:55
物部って「もののふ」とも云うけど武門の家柄か??
>>555 もともとは物(現代的な意味に近い物品としての物)
を管理してたんじゃないかなあ。
今風に言えば在庫管理・倉庫管理・物流部みたいな。
そんで、扱う物品の中に武器が含まれ、その武器が
祭器でもあり、って流れで武にも携わり祭にも関わる
ことになったみたいな。
>>554 5世紀前半〜中葉ころに、大阪平野の開発がかなり進んだらしい。
考古的には。
書紀の伝承でも、仁徳くらいに溝だか池だかいっぱい作ってる話が出てるけど、
これは関係あるのかな…?
大規模な古墳も築かれる点から、これを主導したのが王権なのは確か。
そういった、河内地域の開拓や、それとも絡む技術者集団の掌握といった点で、
物部氏は勃興の機会というか、王権内に地歩を築くチャンスを得ることができた、
といったところか。
あとは皇位継承争いがらみで大伴氏とともに雄略に武力を与えたりで、
最高執政官への道まっしぐら。
558 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:32:46
物部と云えば三輪山、大物主の尊の「十種の宝」
「十種の宝」と云えば殷王朝の十干、上旬、中旬、下旬、の十の太陽か。
弥生人の中に殷(商)の遺民も居たのかな殷は東夷らしいから、
夷とは大きな弓の事だし大きな弓と云えば和弓だな。
559 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:53:31
要するに、物部氏とは、天孫族が日本に来る以前に日本に住んでいた渡来人。
徐福の子孫を代表とする呉や越からの渡来系職工集団ということです。
邪魔なのはお前のほうだよ。糞して氏ね。
十種神宝といえば、
たくさんの神宝ということで、
豪族達から没収してきた神宝を石上神宮で
たくさん管理していたということから
案出されたんだろうね。
>大物主の尊の「十種の宝」
↑こんな電波飛ばす奴は邪魔
ここは学問カテ
ていうか、名無しで書いててもバレバレだし。
いろんなスレ荒らすのいい加減やめろと。
このスレっでも前にみっともなく論破されてたろうに。
>>562 とりあえず、出雲から神宝を巻き上げてたような。
遣忍壁皇子於石上神宮。以膏油瑩神寶。即日勅曰。元來諸家貯於神府寶物。今皆還其子孫。
(『日本書紀』巻二九 天武天皇三年八月庚辰)
567 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 17:22:22
十種の神宝はアメノヒボコの物でしょ。
>>566 豪族に納めさせた宝は豪族に返せっていう詔ですな。
でも、七支刀などは石上に残った。
>>568 返却先になる百済自体が無くなってたからなのか、
そもそも服属儀礼とは無関係に贈られたものだったからなのか…
泰和四年=369年説を採るとして、石上神宮が成立する五世紀後半までには時間があるから、
その間に百済が倭国に服属したときの宝物として曲解されたのかもしれん。
570 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 07:41:16
普通に百済からの貢ぎ物だから返す必要なかったんじゃないかい?
そういえば七支刀は何で酸化してボロボロにならずに済んだんだろ?
今では単なる神宝だが
近世には摂社の出雲建雄神社の神体として大切にされてたらしい。
573 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:52:20
>石上神宮が成立する五世紀後半
この成立時期の根拠を教えてもらえませんか?
>>573 禁足地と地下への祭器埋納という特異な状況から、
禁足地の成立を石上神宮の成立と見るのが一般的。
歴史学者で言及してる中だと、和田萃が『大系 日本の歴史2 古墳の時代』などで
五世紀後半を最初の埋納時期と言ってるのが一番知られている。
元になってるのは考古学者の置田雅昭の見解で、
布留遺跡の発掘の成果と、明治に菅政友が禁足地を掘り返したときの記録を
分析した結果。
といっても、置田は「古墳時代中期前半のある段階」としか言ってなくて、
絶対年代には口を出していないんだが…
だいたい五世紀中葉〜後半ころで間違いない。
布留遺跡の状況っていうのは、縄文時代から細々と続いてきたものが、
この時期になって、急に運河やら鍛冶工房やら豪族居館やらを持つ
大型都市に変貌することを指すんだと思う。
つまり、五世紀中葉〜後葉のころに物部氏が石上神宮周辺に拠点を
持つようになって、
五世紀末ころから杣之内古墳群や石上・豊田古墳群で継続して大型古墳が
築かれるようになるのは、その結果という流れになるんだろう。
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448085410X とりあえず分かりやすいところでこの本の置田「禁足地の成立」読め。
575 :
573:2008/09/06(土) 22:51:54
576 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:20:40
小学館の「週刊 戦乱の日本史」ってやつ買った人いる?
勢いで「蘇我・物部の決戦」と「前九年・後三年の役」と「壬申の乱」買ったんだけど、
この手の週刊○○の類いに対して抱いてたイメージを良い意味で裏切ってくれたかも。
もちろん専門書や論文には遠く及ばないにしても、それなりにまとまってる感じはした。
あと、侵攻ルートとか関連地図の類いは使えるかな。
で、上記3冊とも、関係豪族が陣営別に載ってて、結構マイナーな物部氏の人物もちゃんと
載ってたりする。
まあ、詳しく載ってるわけではないけどね。
>>576 「本号の主役 聖徳太子」とかデカデカと書いてあるくせに、
太子の扱いはなおざりなアレな。
そんなことより、歴史読本の11月号がスゴイ。
先代旧事本紀の全文訓読とか、企画がよく通ったなと。
578 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 17:05:57
蘇我・物部の決戦って、聖徳太子が参戦したアレ?
先住民と在日の決戦ですかねえ。
579 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:47:23
>>577 >「本号の主役 聖徳太子」とかデカデカと書いてあるくせに、
>太子の扱いはなおざりなアレな。
そうそうw
>そんなことより、歴史読本の11月号がスゴイ。
>先代旧事本紀の全文訓読とか、企画がよく通ったなと。
購入ケテーイw
今なぜ旧事本紀なのかワカランが、うれしい企画じゃないか。
580 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:23:02
出版を業としていると、売れそうな企画は何でも通しちゃう。これは悲しいサガ。
すべて正しい必要などない。売れることこそ正義です。
>>577 先代旧事本紀の特集ってのは、時代の移り変わりを感じるねえ。
しかも、2巻連続の特集だもんな。
本屋行って来た。
旧事本紀の訓読といえば、原田常治説信者のアマチュア郷土史家が出した、
8400円もするボッタクリ本がこれまで唯一だったけど、
これでプロの書いたものを読めるわけだ。
>>554,
>>573 156ページに、物部氏が石上に進出したのは、
「多くの研究者が述べているように、石上神宮との創祀との関連で
とらえるべきで、五世紀中頃に遡るとみてよいだろう。
また、物部氏本来の本拠地を河内国渋川郡、若江郡あたりとするのが
有力であり、一族の有力者を石上神宮、ならびに大和朝廷の武器庫の
管理者として派遣したとする説が妥当であろう」
なんてまとめてあった。
やっぱり、こういうのが有力な説なのかな。
一般の古代史ファンの認識とは、かなりギャップがあるような。
583 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:45:37
ヤマト トトヒ モモソヒメ!
584 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:02:49
>>582 素直に考えると天皇の祭祀を取り仕切っていたのなら、崇神の頃にはヤマトに進出していたとする
べきなんだろうね。河内から毎回出張して祭祀をしていたとは考えにくい。
しかし、ニギハヤヒあたりの古い伝承は信用できないというのが、戦後の古代史の趨勢だから、
確実に確認できる基点を出発点にすると石上神社になってしまう・・
蘇我氏も武内宿禰からの派生を認めずに、朝鮮の木満知だったかが帰化したのが始まりという
説すらあったわけだし。
>>581 94頁以下の「ウマジマヂ」の話は論理がおかしいね。
A、物部は自己の勢力伸張のために独自の伝承を創作した。
B、その創作は記紀をもとにして一部を改変したものである。
この考えは、基本的には記紀の古い部分(神代)は、創作であるという説の延長のようである。
しかし、Bの前提は、改変の元になった伝承である記紀は創作ではなく、実際に伝承されてきた
民族の歴史ということになる。
これでは、記紀を正当な伝承とする前提に立ちながら、記紀捏造史観を先代旧事本紀だけに
適用するという罠にはまった感じがする。
しかも、紀の「一書」には異伝が多数書かれているから、伝承が異なるというだけで創作とする
のは根拠が弱すぎる。
天上系の地位だけで祭祀を取り仕切ったほうが地上系を混入させるより上ともいえるから、
論理そのものも我田引水の感がある。
>>585の続き、何が言いたかったのかというと
物部の伝承に物部の活躍が書かれているのは当然で、この点を指摘して創作というのは、論外。
物部の伝承だからといって、一概に記紀と違う部分が全て物部に有利なことではなく、物部の
伝承をそのまま書いたが為に、有利とは思えない所とか、ちぐはぐな所があるとする方が適切。
その伝承が創作である根拠を述べるならば、紀の異伝から洩れていることの指摘の方が適切。
紀の異伝に書かれなかったのは、国家事業として紀を編纂して広く伝承を集めた時点で
存在しなかった可能性がかなりある、といえる。
ただし、物部のみに関連する伝承は異伝としても書かれなかった可能性がある。
対して、内容が物部に有利だから創作という論理は、論理それ自体が的外れじゃないかな。
>>584 やっぱり四世紀以前には物部氏自体が存在しなかったと
見られてるのかな。
もしくは原集団は存在していたけど、まだ独立色の強い土豪で、
僚臣化する前だったか。
天皇も応神以前は非実在ってのが有力らしいし。
崇神の実在説が幅をきかせていた時代も遠くなった…
天皇や皇族が祭祀なり軍事なりの仕事を直接管理してたのは
いつごろまでなんだろね。
天皇家の家政機関が発達して伴造系連姓氏族の前身みたいものが
生まれて、臣下に何でもかんでも丸投げするようになる時期。
部民制の成立も、昔は五世紀初頭くらいが有力だったのに、
近年は段々時代が下ってきた。
早く来月号売ってくれ。
国造本気
590 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 12:58:11
とりあえず訓読は付録の小冊子にまとめて欲しかった。
巻1〜4だけ小冊子で5だけ誌面本文内だと、後で使いづらい。
>>590と違って、天孫本紀と国造本紀を注なしで読みこなせる人は、
いつもの歴史読本の読者レベルではそうそういないんだよ。
しかし小冊子だけ紛失したのが古本屋に流通して、
序・巻一〜巻四と巻六〜巻九を読めない人続出の予感。
バックナンバーの在庫が切れる前に確保できた俺らは勝ち組。
592 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 16:17:35
敗者である物部が、神武以前の王であったと厚遇されてる理由は?
中臣鎌足が、物部氏本家の嫡男なんて言う伝承はある?
バラバラに成立した畿内に天降った神の話(物部氏伝承)と
高千穂に天降って東遷した話(皇室伝承)を、ひとつの史書にまとめると、
結果として神武以前の王であるかのように見える。
> 鎌足
ある?と疑問質問形式にしつつ、
新たな電波を広めようとしてるんですね、わかります。
つーか縄文系の王族が大和朝廷の部族社会合議政治システムに入っただけでしょ
機内の土着有力者の成れの果てじゃろう
弥生人優位の大和朝廷内での正当性主張が畿内に天降った神の話だが
実際のところはどう見ても縄文だ。
始祖ニギハヤヒは長脛彦の妹を嫁にして物部に連なると自称してんだからさ。
物部の祭祀とか武器を司る話だけど
物部は王朝の正式祭祀でなく
加持祈祷とか後世の陰陽師的な意味での呪詛方面をやっている。
武器や武具とのかかわりも、ケガレ仕事という意味合いが強い。
そもそも氏族の○○部は職能の役割をさしているものだが、物部の「モノ」は
モノイミ(物忌)やモノノケ(物の怪)にあらわされたりするように、ネガティブな神霊的な現象を指す言葉。
モノノフ(武士)やモノノグ(武具)からモノとは鉄を表す!と言った考古学者が居るけど
モノノフもモノノグも殺しという穢れ仕事なのでネガティブな意の「モノ」なのだ。
もうちょい後代のもののあはれ、ものがなしいなどでもそうだけど、モノはネガティブな場合に使う。
これまた物部の根拠地でもある桜井市にある大神神社に奉られるオオモノヌシが
祟りに関係すると伝えられてきたり、創建由来が祟神天皇にオオモノヌシの神託が下ったからという伝説も
全て一本に繋がる。
つまり物部氏とは、大和朝廷内において、汚れ仕事である呪詛的な役目や
同じく汚れ仕事の武器の取り扱いなどを担った部族ということ。
縄文系なのでやらされた部分もあるのだろう。
しかし武器や呪術を占有するのだから強大化していき
呪力において対抗上、仏教を用いて蘇我や聖徳太子が戦ったということだろう。
この時代、かつて使われた阿蘇ピンク石がいきなり復活しているのだが
蘇我や聖徳太子が阿蘇からわざわざ石運び込んでるように、弥生への復古運動をしたということ。
蘇我や聖徳太子は弥生系の神話をまとめなおしたりしてるし、これは仏教という強力な呪法を対抗上使った弥生復古運動だよ。
そして物部の聖地にことごとく寺を建てて封じている。
最も代表的な例では四天王寺は元の磐船神社があった地とされている。
磐船神社、つまり始祖ニギハヤヒ降臨地であり最大の物部の聖地といっていい。
そして四天王寺でも阿蘇ピンク石がなぜかあるのである。
四天王寺と物部の話でおもしろいはなしが
元々四天王寺の地名はアラバキとかアラハカとか言ったと書かれているのだ
今の山号も荒陵山四天王寺ですが。
他にも物部の邸宅あとは全てことごとく物部の人を徴用して寺を作らせている
聖徳太子の廟があるという叡福寺だって、あそこ物部の聖地だしね。磐船神社が現在あったりする。
仏で物部の神の呪力を封じているのだ。
埼玉大宮の氷川神社は客人神として謎の神アラハバキが奉られてる代表的な神社ですが
この神社の一族は物部氏の末裔という言い伝えを持っている。
東国のアラハバキ信仰について、縄文のかなり古い時代の信仰が言われるが
物部氏が近畿でかなりの時期までアラハバキ信仰を持っていた可能性があると思う。
守屋派残党の東国への逃避行の結果だろう。
そして、オオモノヌシ=アラハバキではないかとも思う。
あと気になるのは祟神天皇の正体。もしかして物部と関係する?
598 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:20:29
歴史読本の2号連チャン特集の真っ只中にそんな電波出したって誰も相手にしないだろうな
599 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 11:22:33
600 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:20:13
出雲から歴史を眺めると、蘇我、物部はよく分かる。
出雲には弥生時代後期にすでに古墳時代を先取りするような
精巧な墳墓である四隅突出墳丘墓を発達させ、それと同時に
鉄器の製造が盛んになった。この時代、出雲には西谷と安来と
いう二極の勢力があり、西谷では全国最大級の四隅突出
墳丘墓を作るが、古墳時代にはいり衰退する。一方安来の勢力
は古墳時代前期には全国最大級の方墳をつくり、その後古墳は
小さくなってゆく。安来にはスサノオ伝説が風土記に書かれて
おり、スサノオ=蘇我という図式が成り立つかもしれない。
一方、西谷は出雲大社の近くつまり、西谷=大国主=大物主と
いう図式が考えられる。
これらを整理すると
安来=スサノオ=蘇我
西谷=大物主=ニギハヤヒ=物部
という本貫が見えてくる。西谷の勢力が
古墳時代に入り勢力が衰えたのは、ヤマトに
移住したからでプレヤマト王権を作った。
安来は遅れて、ヤマト政権に参画したため
ヤマトにおける力関係は物部>蘇我となった。
蘇我の本貫安来では古くから教昊寺なる特別な
寺院が作られていたことが分かっており、
蘇我氏の仏教好きが伺われる。
歴史は、蘇我の勝利としているがそう甘くは
無い。その後、勢力を握った藤原は物部の流れ
であり、このころ多くの歴史書や神社の起源は
定まり、杵築大社が建立された。そのため、
山陰のド田舎にしては大きな寺院である清水寺
以外、安来には確たる古代の繁栄の余韻はなく
ただ、遺跡がざくざくと発掘されるのみとなった。
これは、出雲地域の古墳に埋葬された倭刀と
舶来刀の分布によっても確かめられる。
>>601 ゴメン。書いた本人も2箇所で明日(今日)といわれたw
表紙を見たら、発売日を一日間違えたくらいどうでもよくなるよ。
「皇孫から皇帝へ」
って、いつから巻九は皇帝本紀になったんだ。帝皇本紀だろw
>>603 むしろオレは11月号が「神代から天孫へ」で、きっちり巻一から五をサブタイにしてたから、
「皇孫から国造へ」ってなってるのを薄々期待したわけだが。
で、「皇孫から国造へ」を見て、「没落かよ!」と心の中でツッコミを入れてから買う予定で
居たんだが、見事に裏切られたw
>>600 教昊寺からも分かるように、蘇我=出雲の王族というのは俺も同意。
しかし物部が出雲由来かというと正直疑問だ。
物部氏自身の創生神話が、大和に天孫降臨したニギハヤヒが始祖で
生駒長脛彦討って大和朝廷に恭順。しかも長脛彦の妹娶ってその子孫つーのだから
大和土着の縄文系王族で、恭順したのが物部になり、抵抗したのが長脛彦でありやがて蝦夷となったということではないだろうか。
オオクニヌシ=オオモノヌシは語感だけの後付けの蘇我氏の歴史編纂における工作じゃないのかな?
蘇我氏&聖徳太子は「天皇記」「国記」の編纂をしたわけで。
オオモノヌシのモノと、オオクニヌシのクニって音が似てるだけで全然別の意味合いでしょ。
元から大和地方にいた王族で大和朝廷入りした連中が全く居ないというのは不自然だし
何らかの氏族として居るはず。
それはやはりニギハヤヒの伝説を持つ物部しか居ないと思う。
出雲神話と大和神話を意図的に混ぜて合体させてるのではないだろうか。
出雲が舞台の神話は多く入ってるのに、大和が舞台の神話は長脛彦のくだりが有名なくらいで
ほとんど無いのもあまりに不自然だし。
蘇我氏による物部の痕跡抹殺の結果なんじゃないかな。
「天皇記」「国記」において焚書的なことが行われた可能性がある。
つまり蘇我=出雲神話ばかり残って、物部=大和神話は大半が失われたと。
607 :
大和島根:2008/11/01(土) 22:57:32
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
608 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 23:09:36
京都には出雲路とか出雲高野神社とか出雲のつく地名や神社がかってはあったという。
出雲族はもしかするとここから山陰へ向かったのでは?
609 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:15:10
ちゃんと責任とって自演続けろと。
610 :
考古学ファン:2008/11/13(木) 19:09:28
>>600 しかし、肝心の西谷は弥生時代終末期にはすたれていたと
いう考古学的事実からすると、強大な権力を誇示していた物部の
本貫はやはり安来ではないか?
611 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 19:43:38
安来ww
612 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 21:19:37
安来は出雲国風土記にもその名があるが、安羅から来たという意味じゃないのかな。
613 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:10:55
記紀には創作が含まれているが、神代はとくにそれを強く感じる。
出雲国風土記に出て来る大国主やスサノオの行動は記紀初出の創作、
したがって大国主やスサノオにあやかった地名は怪しい。
出雲大社の創建も奈良時代という説も本当だと思う。
天皇家、出雲氏、物部氏、大伴氏、賀茂氏、蘇我氏などは血縁関係の濃い同族集団だろう。
身内の後継者争いがあっただけで、そのことは、
桓武天皇が出雲氏、物部氏、大伴氏、賀茂氏を重用していること、
茂氏の氏神を祀る賀茂大社と秦氏の氏神を祀る松尾大社とを大切にし祭祀したことで推定できる。
賀茂氏も秦氏も桓武天皇の姻族でもある。
614 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:30:56
山城には出雲氏と賀茂氏と重なり合うあるいは隣り合っているが、
出雲地方もやはりこの出雲氏と賀茂氏がいる。となると、
山城と出雲のどちらに両氏が先に進出したのかという疑問がわくが、
記紀の編纂時に大国主と女性神天照大神が創作され、
その創作話に合わせて熊野大社、出雲大社が作られ、伊勢神宮が手直しされたとも推定できる。
615 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:34:58
崇神天皇は物部一族でもある。
崇神天皇の息子の後が物部の姓を朝廷からもらっていることでもわかる。
616 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:43:04
蘇我氏は物部氏ではない、蘇我氏は百済では書紀では木氏と呼ばれている。
また百済物部氏も書紀に登場する。
617 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:56:30
箸墓の主は卑弥呼、その後に登場するのが任那から来た崇神(神武)だろう。
当初は大和という限定された地を支配しているだけで、列島には各地に独立国家がある。
相変わらずageで必死に自演しても、誰にも相手にされてないみたいだな。
まあ、気が済んだら一言「おわり」等の目印を付けてくれ。
全部あぼーんするから。
619 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 19:15:50
>>618 知識もないのがなにをほざいているww
「あぼーんするから」ってバカ?
620 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 11:13:30
参考程度に。
出雲市のお隣、石見の大田市(昔は安濃郡)には物部神社があります。
ある話によると、大和から物部族が上陸してこの神社を創建(6世紀初め)したらしいのですが、
実はニギの祖先が三瓶山(さんべさん)周辺の出身であった、とも言われています。
この三瓶山は別名、佐姫山、若しくは国引き山(現在国立公園)と言われ、神話にも登場する山です。
621 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 13:50:59
>>620 出雲に賀茂氏、出雲氏が移動したのもそれくらいかもっと後かもしれない。
どうも記紀の創作に合わせて移動した可能性もある。
出雲風土記も同じ、記紀の創作に合わせている疑いがある。
出雲大社なんか奈良時代の創建ともいわれている。
622 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 02:48:47
>>621 確かに、今の出雲大社はおそらく奈良時代の創建(立替は数回)でしょうね。
(ちなみに、あの周りには弥生時代の集落が点在しています)
ただ、なぜあの場所、あの時代に建立したのか、そこにはとても大きな意図があるんです。
すべての時代背景を読み解く力が必要になると思います。
大社以前の話は、ここで申し上げると色々な方にご迷惑がかかりますので、やめておきます。
最後に、出雲と物部の関係ですが、わかっている範囲ですと、
風土記(8世紀初)には領地を管轄している中に、物部氏の名前が列記してありましたね。
623 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 08:26:24
>>622 物部氏は賀茂氏、出雲氏と同族とまでいかなくとも同グループでしょう。
崇神系であることは疑いもないでしょう。この崇神の出自は・・
それとは別に出雲に大和から各氏族が分派して行く前(喧嘩別れではなく天武あたりの委託と思う)、
出雲にいた土着民は弥生時代に渡来したやはり同グループだろうと思いますね。
多少の抗争はあったと思いますが、大挙して押し寄せた大和勢にはなす術もなかったでしょう。
出雲風土記にある地名の多くが記紀の創作の神々に関係しているのは、
出雲が記紀に合わせて作られたということだと思います。
出雲大社が奈良時代の創建であれば熊野大社(火の神)も同じですねwww
624 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 09:50:23
同グループという表現もおかしいかもしれない。
古代は大王が死ぬと後継者争いが激しい。骨肉の争いとなる。
だが、後継者が決まれば争いもおさまる。身内の争いのようなものww
蘇我馬子と物部守屋の争いで守屋が殺されたが物部氏は残っている。
もっとも大化の改新で蘇我氏は滅び蘇我の名は消えた。
滅んでないし消えてない。
626 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 20:45:20
627 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:21:27
蘇我氏も残っているww やはり内輪もめだ
守屋が負けて物部氏が滅んでないように、蝦夷・入鹿が死んでも蘇我は滅んでない。
629 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 18:03:18
>>615 祟神は物部というよりも、大和土着の縄文王家だったはずの
物部の操り人形ってとこでしょう。
オオモノヌシを祀る大神神社を建てたから祟神天皇だが。
オオモノヌシが祟り神というてるわけで、
呪術を担うって意味の物部と関係あるのは否定できないが
呪術を担う物部に天皇家が乗っ取られてたのではないかと思われる。
藤原氏が天皇家と外戚関係になって支配したようにね。
そういう縄文優位になってしまった朝廷の原理主義革命こそが
聖徳太子・馬子vs物部守屋だったと思うよ。
太子は仏教を物部の呪術の対抗として使ったのだろう
聖徳太子、馬子は弥生由来の神話編纂なども力入れてやってるし
天皇家復興的なニュアンスのほうが強い。
630 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 19:37:22
>>629 とんでもか?縄文時代に天皇なんかいないぜ、崇神もなw
崇神、物部、ニギハヤヒ、大国主は同族だよww
それに藤原氏は中臣氏から出ているが、この中臣氏も物部の支流ともいわれている。
祭祀を担っているからな。
631 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 20:30:55
ついでに言えば、崇神は卑弥呼と同時代か連なる時代の存在だ。
箸墓古墳は卑弥呼の墓だよ。
632 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:24:33
>>630 誰も縄文時代に天皇が居るなんてはなし書いてないだろう。日本語読める?
物部の由来神話は縄文系が氏族として加入したことを示しているように
縄文系が平和的にかなり入っているのは間違いないだろう。
現代日本人のDNAマップはいろいろなデータがあるが
どれもこれも単純に置き換わったのでなく、戦わず融合した歴史を示している。
日本古代史を見る場合、決して縄文系を軽視してはいけないよ。彼らは普通に入り込んでる。
633 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:52:58
>>632 百済物部氏を知ってる?書紀に出てくるよ、物部の由来神話?
記紀の神代は書紀の創作だぜ、いい加減に目を覚ませよw
634 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 23:58:20
中臣氏=天照系と物部氏=出雲系はまったく違うよ
古代の神道には、天照系とスサノオ出雲系の2種類があって
日本書紀でもあちこちで確執が見られる 天照が伊勢に引っ越したり
物部系の武王がボロクソに書かれてたりする 仏教渡来で共闘しただけ
635 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 23:09:07
蘇我馬子と聖徳太子がまとめなおした神話伝承の罠にみんなはまってんだよ
出雲神話と物部が本来持ってたはずの元大和神話が意図的にミックスされている
物部は一族の持つニギハヤヒの祖先話しでも明らかなように、大和土着の王族だ。
その神話がほとんど入っていず、出雲神話ばかりになっているあたりに
蘇我氏の意図を読み取るべき。
蘇我氏=出雲王家だ。
物部の神話=元大和の神話は消されたり、出雲神話として入り込んでいる。
このあたりに騙されて、物部=出雲とすると見誤るよ。
排斥された物部の神話を異常に大量に蘇我氏が国史に入れ込むはずがないだろう。
物部は出雲とか無関係だ。
636 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 23:13:54
637 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 23:51:00
蘇我氏が出雲を持ち上げるのは古代出雲が半島とのつながりが強いからじゃないのか
638 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 00:03:39
氷川神社の宮司の角井って物部朝臣だよね
武蔵国造のやつは物部直だから、中央の物部連とは直接関係ない。
640 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 09:38:57
>>639 ソースは?
出雲に進出していている顔ぶれ出雲氏も賀茂氏も忌部氏も秦氏も関東に進出しているし、
姓を変えてもいる、普通に考えられるよ。関係おおありだね。
641 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 20:32:41
どういう関係?
642 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 21:49:05
ソガだのスガだのスサだの
同じ言語系統だと思うよ。
全部出雲にゆかりの地名だし。
母音交換
SOGA
SUGA
SUSA
ASO
USA
ISE
OSI
644 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 22:05:49
出雲の加茂の神原古墳から卑弥呼時代の鏡(卑弥呼の鏡?)が出ていますね。
加茂町は、出雲の政庁があった三屋(三刀屋)の一宮社がある
隣接地。
スサノオ一族により、出雲が開拓された最初の中心地が、
この今の雲南市辺り(奥出雲)だといいます。加茂の隣接地三刀屋にはまた、
古代の軍団もあった。熊谷軍団という。
雲南市の神社伝承を調べてみれば、プレ物部氏といいますか、
いろいろ分かると思います。
物部とは、多くの物部連の集まったもので、
「天皇家に 降伏して軍事を職掌として担うようになったときの名前」
だということですから、
各土地の豪族の集合体だと思うのですが、いかがですか?
645 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 23:55:50
>>151 その歌は、神武軍との戦もしくは、大君の勢力を
大和から追い出した天皇勢との戦に寄せて歌われたものでは。
また、「君が代」の元の形は、「我が君は」が原型だったのが
後の世に変えられたと聞いたことがある。
大伴氏のこの歌に歌われる「君」とは、
天皇のことではないのでは。三輪の君のことでは。
ageで書き連ねてる人へ。
少しは論文も読んでみましょう。
あと、カバネについて学びましょう。
『新選姓氏録』などから、物部連と物部首、物部直、らの違いも学びましょう。
それから、神社伝承も各種史料と同様に検証作業を経てから、初めて史実と認められます。
未検証の歴史や神話を継ぎ接ぎしても、「歴史」にはなり得ません。
そもそも、根拠としている「神話」なるものがいつ誕生したのか、根拠としている神社伝承
がいつ誕生したのかの検証が抜け落ちていては、これらを古代史を語る上での根拠とするこ
とは、信憑性が分からないのでできません。
最悪の例を挙げるなら、とある神社の創建年代の根拠を社伝に拠り、同時にそこの神社伝承
の成立を創建年代としてしまうパターン。
もちろん、これをやってしまう人のほとんどが無批判、無検証。
>>359-371を読んで、反面教師としましょう。
>>646 >未検証の歴史や神話を継ぎ接ぎしても、「歴史」にはなり得ません。
○未検証の伝承や神話を継ぎ接ぎしても、「歴史」にはなり得ません。
648 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 10:58:58
>>646 抽象論はいいから、具体的に、
たとえば物部連と物部首、物部直、らの違いも書けよ、
>>647 古代はいろいろあってもいい。資料が少ないので専門家もとんでも話が飛び交っている。
推論は大切だよ、想像力がないやつは古代史はやらんほうがいいwww
>>648 推論=前提となる史実を検証、精査した上で得られる推測。
妄想=何ら検証、精査を行わず、何かを鵜呑みにしたり、偶然接した情報を継ぎ接ぎした
だけのストーリー。
自己の妄想を、推論であると取り違える、あるいはそう吹聴することによってトンデモが
成立することが、特にネット上では多い。
650 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 12:38:33
>>649 史実を検証、精査といっても各人各様の意見があるのが古代史www
わかってないな 自分がトンデモと思えば笑えばいいだけ
でもその自分がトンデモを信じている場合もあるw
651 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 12:46:29
>>649 具体的に示してやろう、WIKIでも書いてあるが、
越の表記は日本書紀が初出、それ以前は高志あるいは古志と呼ばれている。
そのことは文献や木簡などを調べての上だ。
WIKIやおればかりの意見ではなく、故福永光司が書いている。京大・東大の教授だった。
それをトンデモ呼ばわりする人が大半だが、反論する資料をまったく示さない。
ただ、それまで疑問も抱かなかったことが覆されてやみくもに否定しているだけ。
トンデモと笑うにはそれだけの根拠を示せよ、おっさん
史実を検証、精査した上でなwwww
武蔵国造家は丈部直なんだが?
>>650 >各人各様の意見があるのが古代史
意見を持つのは自由。
また、どのようなストーリーを個人的に信ずるも自由。
しかし、その「意見」とやらが如何なる思考過程を経て出てきたものなのか、
前提となる史実や考古の成果についての検証は経ているのか、等の内容を踏ま
えて、初めて歴史学の俎上に乗せるに値するものになる。
その上で、異なる「意見」と付き合わせたりしながら、「妥当」な史実を模索
していく。
個人的な好き嫌いや、郷土意識、信仰などと歴史学は切り離されて当然。
それから、
>>651の話はスレ違い。
あと、そのいちいち煽り口調で書くのは見苦しいから止めた方が良かろう。
ついでに、どうやら無理やりでもこのスレッドを盛り上げようとしているのかも
知れないが、トンデモを並べたとて、長期的には中身のまるでないスレ内容に見
向きもしない人を増やすだけだろう。
それから、このスレッドには出版業界の者も半ば宣伝のために書き込んでいる
ようにも見受けられるが、仮に商売のためにトンデモを流布せんとするような
邪な輩が自己正当化を図っているのならば、そんなものは未来永劫歴史学上の
評価は為されないだろうとだけ書いておく。
655 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 17:30:04
656 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 17:38:06
>>539 すすき→穂積→物部→賑速陽は、ムー大陸系南方移民ないしは日本管理(開拓)者たち数十部族(三輪など)の代表格。 天皇家はずっとあとに渡来され、朝鮮系は早々天皇家軍に屈服し(大国主など)、
賑速大部族群は、柔軟に天皇側と妥協存続策を続けた(勿論戦闘も) 曾我は天皇側の代表
658 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:31:08
ひめたたらいすすきひめ
たたら→タタラ→製鉄 出雲とのかかわり
659 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:34:21
電波っぽい流れ乙w
661 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 17:02:21
662 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 03:47:10
>>572 出雲建雄は、神宝を献上させられ、攻め込まれて殺された
イズモタケルと同一神でしょうか?
尾張氏とか物部氏の系譜に闕史八代に合致する人物がいるとか
卑弥呼や台与に合致する人物がいるとか言う説があるけど
信憑性はどうなんでしょう?
どこか詳しく載ってるサイトとかあります?
664 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 11:37:01
結局、三輪との関係はどんな感じなんですか?
665 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 19:26:44
>>664 伝承の上では伊香色雄が崇神のもとで神班物者になったとある。
その際に「他神」を占うのは凶とでている。
ここでいう「他神」とは、大物主以外の神。
必然的に伊香色雄が神班物者として奉げ祀った神は大物主ということになる。
祭主は太田田根子。
あとは三輪逆と物部守屋の絡みとか。
三輪逆は守屋らと共に蘇我馬子に仏像の廃棄を迫って拒否されてる。
あとは穴穂部皇子が敏達天皇の皇后であった炊屋姫を犯そうと殯宮の開門を迫った
とされる事件の際には、三輪逆は門を閉じてこれを拒んだ。
結果、これを「不遜」であると穴穂部皇子が守屋と馬子に告げ、穴穂部皇子の命に
よって守屋の手で殺された。
あとは饒速日尊と大物主神が同一だとかいう、古田説に端を発した推論?が出回っ
てるくらいか。
666 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 22:56:09
三輪山に饒速日が祭られてるのは何でなの?
>>666 >三輪山に饒速日が祭られてる
質問する前にこれのソースを出しな。
話はそれからだ。
ウィキペより
「大神神社 - 最古の神社といわれる。(祭神の大物主大神は別名倭大物主櫛甕魂命であり櫛甕魂=櫛玉命となりニギハヤヒの別名との説がある)」
説があるw
磯上物部神
主流じゃなくても一説にはあるなら
それって荒らし行為じゃないか?
672 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:59:21
元に戻しなさい。670
673 :
670:2009/02/25(水) 19:37:57
な、なんだよ…おまいら…
そういう一説があるという部分は消してないぞ、
大神神社の祭神がニギハヤヒだという部分を消しただけだぞ。
大神神社では祭神を饒速日命の別名とはしてないじゃん。
神職の人に「ニギハヤヒですね」と訪ねたら迷惑がられるぞ。
記紀等にも載ってない。明治の頃の祭神比定でもそんな説は無かった。
となれば、百科事典としての公平性を確保するために、
電波説を削るのは正しいことじゃないか。
ま、まさか…俺触れてはならないところに触れてしまったのか…
ニギハヤヒ…
>>673 いや、GJだよ。
たぶん、「これでおk」と思ってる奴は何も書かないからこうなっただけかと。
大神神社の祭神が饒速日尊とかロクな根拠も無しに書くのはいろいろ失礼。
古田は罪深いね。
それにしても、トンデモ説と通説を併記出来てしまえるところがウィキペディアの欠陥だな。
675 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 00:30:56
おいおい、石上神宮で放火があったらしいじゃないか
元々あまり関連ないのを拾ってあげたような摂社さん? いずれにせよ穂積鈴木一族の格は高いですね 天皇家御渡来以前に 大和を悠然と陶冶されていた 元日本支配者ですから 出雲は朝鮮族 穂積鈴木一族は南方
私の知り合いの鈴木さんは在日ですけどね。有名な方ですよ。
在日台湾→南方
681 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 18:01:14
【中央日報】聖徳太子は聖王の生まれ変わりなので百済系王族
百済第27代王・威徳王の息子、阿佐太子が西暦593年にもたらしたという救世観音像と
百済系渡来人が作った百済観音像だ。 救世観音像は「威徳王が新羅(シルラ)との
戦闘で亡くなった父の聖王の姿を作ったもので、法隆寺を建立した聖徳太子は聖王の
生まれ変わり」という過去の記録が伝えられる。
このため韓国テレビの歴史ドキュメンタリー番組が百済の聖王の姿を3次元(3D)で
再現しながら、観音像の顔を使用したこともある。
聖徳太子も日本古代王家で百済系の王族に分類される。
奈良公園内にある東大寺も百済と関係が深い。
この巨大な仏像を作る造仏師として百済滅亡後に日本に渡ってきた百済の流民が
多数参加したというのが、東大寺の僧侶の説明だ。 大仏造成の責任者だった
僧・行基も百済系という。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=112668&servcode=A00§code=A10
百済の史料が残ってないからなんとでもいえる、
というのが朝鮮の大学のなんとか教授とかいう肩書きのの人物さえ妄想垂れ流し。
マスゴミなどホルホルしたいだけ。
何もない国のコンプレックス丸出し。
東大寺も唐招提寺も法隆寺もない。
せめてその一つくらいあればもっとまともな国と評価されたのだろうが。
古代に限っても話にならないのに、その他の時代を含めれば、
1/1000もないのだから、これじゃあコンプレックスを持つなといっても無理だ。
あったけど、豊臣秀吉が全部焼いたんだよ。
その程度しか無かったのかとか
再建しなかったのかとか色々言いたくなるけど黙っておくか
685 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:44:25
ほほー
686 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:51:13
687 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 16:48:35
守屋って何歳で死んだの?
物部氏は、真の日本建国者である神君スサノオと真の天照大神ニギハヤヒ父子の直系であり、真の日本国の王家。
守屋公はその本家の最後のお血筋を引かれた由緒正しき日本国王陛下である。
守屋公を討った蘇我氏・厩戸(聖徳太子として美化される)は、入鹿の代で滅び、現天皇家(偽の天照大神)に取って替わられてしまった(乗っ取り)。
よって物部守屋公の無念をお晴らし、物部氏の名誉回復を図ることこそ、現天皇家と藤原氏によって歪められた古代史を修正し、未来を考える日本人を作る事につながるのである。
なんだこの電波は
691 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:53:24
ムーの今月号で物部の秘密が解明されてますよ。
692 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 20:03:49
主な内容
★総力特集
唯一絶対神の信仰を古代日本に持ち込んだ徐福集団の正体とは!?
封印された物部神道秦始皇帝とユダヤの秘儀
奈良時代、政争に敗れ、没落した古代豪族「物部氏」の神道が今、長い封印を解かれ、
極秘伝とともに、その全貌が明らかになってきた。
知られざる物部氏の正体、それは古代ユダヤの秘儀を手にした徐福集団だった!!
さすがムーだw
というか、板違いだがなw
694 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:57:09
古代イスラエルは大和石上に復活する!
物部は企業グループ
(笑)
>>692 蘇生術など高度な医療技術を持つ物部大王家の始祖スサノオ=不老不死の薬を求めて日本に渡来して王となった徐福(始皇帝の特使)
というこつ?
698 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 18:58:04
物部大王家→大連
蘇我大王家→大臣
に書き換えた天皇家。
699 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:30:09
初代宇摩志麻治の祖父・スサノオは日本のカエサル!
>>697 徐福がスサノオと改名して日本の王になったか…さすがはムー。夢があるなw
>>698 そう言えば、守屋が討ち死にした587年(6世紀末)から前方後円墳がパッタリ造られなくなるが、
前方後円墳は物部大王家の墓なのか?それなら宮内庁が学術調査すらさせない理由も納得だなw
701 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 19:07:58
先日亡くなった歌手のジャイケル・マクソンさん(50)を物部氏お得意の蘇生術で生き返らせてくだちい!
ふるべ ふるべ ゆらゆらとー
って歌いながらムーンウォークをするです。
703 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 12:00:32
>>699 ワロタ!スサノオが日本のシーザーなら、その3男ニギハヤヒ(大歳、布留)は日本のアウグゥトゥスか?w
>>700 大和朝廷の大王家(物部氏)が前方後円墳造り過ぎちゃったんだよ。民百姓の負担も考えずにさ。
道教だか神仙思想だか知んねぇけど、死んだ大王を確実に天国に送っろうてんで、銅鏡とか鉄剣とか桂甲とかいっぱい副葬してよ、
「父ちゃん、大きな墓作ってやったんだから漏れを天国から見守ってくれよ!」ってんで、天国から見えるようにとどんどんどんどん巨大化してってさ。
いつのまにか、物部大王家では父の前方後円墳は祖父より大きなものを造るのが子の甲斐性っていう不文律ができちゃった。
王墓ばかり立派で天下国家が疲弊しちゃ元も子もないだろ!墓なら寺院で代用すりゃいいじゃん!ってことで
蘇我馬子と厩戸が物部大王家の守屋を下克上して、大和朝廷(物部大王家)から飛鳥朝廷(蘇我大王家)に取って替わったってわけさ。
704 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 12:03:52
【訂正】
アウグストゥス、魔除けの(銅鏡とか鉄剣とか鎧とか副葬)
飛鳥朝廷の蘇我大王家を下克上したのが天智(天皇家)で、天武の代で日本初の条坊制都市、藤原京を作って天皇を名乗り、律令制で天下統一。
だから初代天皇は天武であって、神武〜推古〜天智・弘文までは天皇じゃないよ。
大和朝廷、飛鳥朝廷での天皇家は、物部大王家、蘇我大王家の家来だったから、古事記や日本書紀でそれぞれ大連、大臣として貶めなきゃいけなかった。日本の王朝史をまとめると↓こうだ!
古墳時代 飛鳥時代 奈良時代〜現代
大和朝廷 飛鳥朝廷 藤原朝廷
物部大王 蘇我大王 天皇家
>>701 奈良県天理市にある石上神宮に依頼してくだちい。
>>704 よく「当時、物部氏(蘇我氏)の権勢は天皇家もしのぐものだった」とか言われるけど、
当時は天皇家のほうが物部氏(蘇我氏)の家来だったとすると、当たり前と言えば当たり前だな…
707 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 13:29:58
>>704 古事記とか日本書紀とかって、平たく言うと、
株式会社「大和朝廷」の創業社長(物部守屋)が専務(蘇我馬子)に殺されて社長(大王)の座を奪われ、
その孫社長(蘇我入鹿)も、専務(天智・中臣鎌足)に殺されて社長の座を奪われ、新社長の弟の天武によって、
創業社長一族(物部氏)も前社長一族(蘇我氏)も、創業当初からずっと自分とこの部下でしたよ、と社史に書いたみたいなこと?
708 :
707:2009/06/29(月) 13:36:12
大連→専務、大臣→常務
みたいな?
709 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 14:56:15
また電波が湧いたか
711 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 17:51:00
そういえば、蘇我入鹿は物部大臣と名乗っていたな。
それ弟だろ。敏傍だっけ?
713 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:07:27
物部氏も蘇我氏もユダヤです
714 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:18:32
金足ろウ誰が殺した?
>>703 それが事実なら、現代日本人の先祖崇拝も北枕も、物部氏が中国から導入したことになるな。
ユダヤにはそういう風習あるのきゃ?w
両スレ認定。
物部氏が天皇家より重要な一族だということはなんとなく判った。
717 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 19:49:29
イワレ日子は物部(ながすねひこ)家に養子に入ったんだよ。
つまり、婿殿。
長脛彦は生駒の大豪族。物部氏ではない。
そこへニギハヤヒが父スサノオの命令で十種神宝と32人の部下を連れて出雲から河内に赴任してきて、統一国家の必要性で意気投合した長脛彦と協力して建国したのが大和朝廷。
ニギハヤヒと長脛彦の妹との間に生まれたのが物部氏初代・ウマシマジ
>>1。
大和朝廷は、建国の英雄であるニギハヤヒ&長脛彦の血を引くサラブレッド・ウマシマジの代で東西日本の統一を成し遂げた。
神武は九州大分から大和朝廷の一角に夜逃げしてきただけ。
天智の代まで大和朝廷(物部大王家)→飛鳥朝廷(蘇我大王家)配下の一豪族だった。
719 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 16:03:17
ってことは、物部氏にはトミー(ナガスネヒコ)の血が入ってるんだよね。
ニギハヤヒはなんで唯一無二のパートナーであるトミーを殺しちゃったの?
記紀の捏造?
720 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 04:40:06
物部氏ってスサノオの子孫だっけ?
じゃあ大物主との関係はどうなるん?
床屋にムーがあったwので読んでみた。
2〜3年前、歴史番組で、失われた十支族を探してるイスラエルの神学者達が、
諏訪湖のほとりにある守屋山を訪れ、イスラエルにもモリヤ山があるし、天狗はユダヤ人にそっくりだ!石灯籠のカゴメ紋はダビデの星、諏訪大社の神紋が聖なる燭台だってことで、
失われた支族は日本に来ている!と断定していたが、彼等が白羽の矢を立てたのが、徐福(スサノオw)を始祖とする物部(守屋)氏ってことじゃまいかwww
それを飛鳥とかいう正体不明の老人の言葉として受け売ったとw
とにかく買わなくてよかったww
成城大学文芸学部www
自作自演乙ですw
普通にお礼なんだけどな
すぐ自演とか書く奴の神経がわからん
大勢としては6世紀中頃(欽明朝)をニギハヤヒ神話の成立期とみなす説が有力なんだな。
大伴氏が失脚して、大連は物部氏だけになって勢力を増したとか、
そのあたりの事情を勘案してるんだろう。
石上麻呂といえば、むかし直木孝次郎が、壬申の乱の最終局面で大友皇子の首を刎ねて
天武に従ったのが、神武東征の最後に長髄彦を殺して神武に帰順したニギハヤヒに似ているとかで
壬申の乱の麻呂の行動をもとにニギハヤヒ神話も作られたとかいってたような気がする。
あまり支持を得られなかったみたいだけど。
篠川の説もどうなんだろうな。
去年の歴史読本旧事紀特集とか読んでると、国文学の研究者も頑張ってるみたいだし、
史学だけの成果では限界もあるような気がする。
729 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 20:46:51
ながすねひこ ⊂ シュメール
ニギハヤヒ ⊂ ユダヤの一種族
ニニギ ⊂ ユダヤの別種族
うましまじ(物部) = シュメールとユダヤの混血
ユダヤは母系社会、母親がユダヤ人であればその子はユダヤ人
壬申の乱はユダヤと中国系との戦い
藤原は中国系
730 :
728:2009/07/19(日) 21:41:23
ごめん、直木説は壬申の乱じゃなくて、継体天皇の大和入りだったわ。
やはり反映説はダメだな。類似点さえあれば何でも有りになる。
もっと伝承の形成過程を段階的に分析するようなやり方じゃないと…
物部氏は偉大な建国御三代(スサノオ→ニギハヤヒ→ウマシマジ)の直系であるため電波は常に沸いているが、古代史最大の電波は古事記・日本書紀であることを忘れずに。
記紀は信用できない、といいながら
記紀に載ってる神(人)でしか古代史を再構築できない人って
なぜ多いんだろう?
まぁ文献に出てこない神様をオリジナルで命名したところで、
誰も話を聞いてくれないのだろうけれども。
言う者は知らず、知る者は言わず。
734 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:17:00
高句麗の建国者朱モンの子はオンソとフル、オンソは百済を建国、
石上神宮のご祭神はフルの御霊
735 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 16:47:43
>>728 記紀は16世紀に成立説はどうだろうか?
祟神は織田信長の焼き写しで四道将軍は
北陸: 大彦=柴田勝家
山陰:丹波道主=丹羽長秀
山陽:吉備津彦=羽柴秀吉
東海:武淳川別=滝川一益
秀吉→サル→桃太郎のサル(前田→犬千代→イヌ、雉が坂→キジがさか→キジ)→吉備津彦
滝川→たきがわ→たけかわ(武川)→たけぬなかわ→武淳川別
徳川家康→建埴安彦
明智光秀→吾田媛
徳:TOKU
母音を一つずらす(A→I→U→E→O→A)
健:TAKE
建=徳川
『いへ』やす=《はに》やす
『い』ろ《はに》ほ『へ』 『いへ』→《はに》
埴安=家康
明智 あけち
吾田 あたひめ
本能寺の変=建埴安彦の乱
神武東征神話の成立期は幕末〜明治と見なす説が急浮上
徳川氏が失脚して、薩摩長州の勢力を増したとか、
そのあたりの事情を勘案してるんだろう。
せめて現存する写本よりも古い時代でやってください。
豪族が殺された事に関して触れないの?
739 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 23:22:06
>734
2文字の洒落はヨシモトでもやらんぞ。
せめて3文字は入れろ。
741 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 21:46:48
>>740 内容は知らんが、
物部氏は4世紀以後からだろ。
それ以前に物部氏がどうしたこうしたと書いてる本は信用に足らん。
アラハバキ
鉄のプロもののべ
ニギハヤヒもアラハバキもトンデモ電波のオモチャにされて気の毒。
みんなの頭の中で物部守屋ってどんなイメージ?
大阪府八尾市の大聖勝軍寺にある守屋公木像は非公開だし、まんがイメージ(長身痩せ型のロマンスグレー⇔蘇我馬子は太ってて醜い)しかない。
漏れ的にはアンドロメダ艦長↓を痩せさせた感じ。
http://www.youtube.com/watch?v=7o329kcZQEI 時代遅れの大艦巨砲主義と、伝家の宝刀・拡散波動砲発射!【物部の布都御魂大神(スサノオ)の矢!】と叫んで、最終的にやられてしまうところもそっくりな希ガス。
746 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 17:50:42
>>744 物部氏の氏神、石上神宮(奈良県天理市)の御祭神
主祭神=【布都】御魂大神…スサノオの父(フツ)
【布都斯】御魂大神…スサノオ(天王)
【布留】御魂大神…スサノオの子(ニギハヤヒ)
宇摩志麻治命…スサノオの孫(山王)←物部氏初代
原田常治も自分の妄想がこんなに広まるとは思っていなかっただろうな・・・
物部守屋「(刀を腰に下げた太った馬子を見ながら)まるでふくら雀を刀で串刺しにしたようだw」
VS
蘇我馬子「(緊張で震える守屋を見ながら)あの刀に鈴を付けたら、さぞいい音がするにちがいないw 振るべ振るべゆらゆらと振るべとw」
後に天下をとった天皇家や藤原氏が、厩戸に「日出ずる処の天子」(九州王朝の大王)や馬子の「憲法十七条」「冠位十二階」という他人の功績を被せて、「聖徳太子」と喧伝しているのは、
蘇我入鹿を悪役に仕立てるためと言われてるけど、本当は厩戸が(自分たちにとって目の上のたんこぶだった)物部本家(守屋)を滅ぼしてくれたからジャマイカ?
その後、物部大王家ほどのブランドバリューがない新興の蘇我大王家(入鹿)を消して、まんまと王権を手に入れることに成功したわけだし。
だから自分たちの天下取りの前準備をしてくれた厩戸を聖徳太子として粉飾。
「聖徳太子」の子孫を名乗る者が皆無なのがその証拠と。
そうなると天皇家は蘇我氏から皇位簒奪したことになるなw
>>750 おお、サンクス。宝田守屋の七支刀(E)。レプリカ欲すぃな…
754 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 20:40:25
ふうん
>>717 大和土着の長脛彦族に婿入りしたのは、先発天孫族ニギハヤヒの方だろ。そして四世紀なかばに
後発天孫族の天皇家の協力者というか臣下になったのだろ。
”物部氏の本拠地は、纏向の北方石上にあった。かれらは、大和朝廷成立以前から
その地を治めていた豪族であった。四世紀なかばに物部氏は大王に従った。そして
大和朝廷の全国支配の有力な協力者となった。
物部氏と大王が結びついたときに、「鎮魂」という祭祀がつくられた。「みたま」と
呼ばれる三輪山の神の力は、太陽の光が最も弱くなる冬至に・・・・・”
地図で読む日本古代戦史 平凡社新書272 武光誠 2005/05 p51
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=85_272
とりあえず鉄を握っていた
日本のヒッタイトなんだろ?
757 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 09:36:54
ほほー
758 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 19:12:23
中世の長門国守護、厚東氏が物部守屋の末裔だったらしいけど、どの程度、信憑性があるのかね?
759 :
日本@名無史さん:2010/03/04(木) 20:44:30
スピリチュアルとか言って既存の信仰を歪めていくのって
気持ちが悪いよね
761 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:00:19
へえ
762 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:18:15
まじかよ
763 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:25:23
海部、尾張、吉備、宇佐、
これらは物部氏族らしい。
越智もそうかも知れない。
764 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:34:14
【聖徳太子は蘇我馬子であり、
物部の大王であった】
聖徳太子は天の(海部)タリシヒコである。
日本建国の秘密を封印し、自らの存在も封印した。
765 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 02:58:52
箸墓=卑弥呼の墓としよう
何故、ハシ墓などと呼ばれている?
ハニシからきたものではないのか?
何故菊花紋が使われている?
何故土師は河内(物部とお隣)を陣取り、何故岡山、北九州を陣取っている?
彼らは天皇同族、あるいは古来の王だった可能性は?
河内は天皇の近親者もしくは非常に強大な勢力が陣取るものだと思っていたが?
家紋も本来斧付菊花紋だったようだが?
あまり注目されていない氏族だけに、おもしろいかと思い今調べ中です
土安彦との関連性はあるのだろうか?
何故、卑弥呼の墓とも言われるハシ墓古墳はハシと名づけられているのか?
何故、出雲臣と同じく天孫に分類され天穂日命が祖とされているのか?
なぜ菅原道真は左遷させられたか?
物部と土師は似たような地域に分布している
筑後川流域、吉備、河内を押さえている
どちらも同族しか携われないだろう天皇祭祀に関わっている
武系天皇までの活躍が目立つが、武系=古来からの正当な王家=出雲系、中大兄系が国譲りを称し祟りを恐れる半島系
同族でもない乗っ取り半島系を祭れないわな
この視点新しいだろ
祭りに関わる者から、系統がすげかわったことを間接証明する方法
766 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:13:18
11月22日、宮中で天皇陛下自らが行う鎮魂祭は、物部系の物部神社(11月24日)、石上神宮、弥彦神社でも行われてる。
この「鎮魂」こそが、天皇制を理解するキーワードとなる。
現在、「鎮魂」という単語は、鎮魂歌(レクイエム)ですっかりおなじみのように、「慰霊」という意味で使われているが、
初代・宇摩志麻遅命が創始し、現在に至るまで物部氏が司っている「鎮魂」というのは全然違う意味で、
死者の魂を生者の肉体に鎮める(注入する)という意味なのである。
具体的にいうと、大和朝廷初代大王&物部氏の始祖であるニギハヤヒ(大歳、布留御魂大神、大国魂大神…etc)の霊魂(天皇霊)を、
天皇陛下の身体に鎮める(注入する)という意味なのである。
鎮魂=天皇霊を天皇陛下の身体に注入すること
天皇陛下=ニギハヤヒの霊の肉体的な憑代(よりしろ)
鎮魂祭=天皇陛下がニギハヤヒになりすます祭
国民は天皇陛下の肉体を通してニギハヤヒに平伏しているわけである。
つまり毎年鎮魂祭をやらなければ、天皇霊(ニギハヤヒの霊魂)を注入されていないのだから、天皇陛下はただの「ニコニコおじさん」なのである。
767 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:25:57
逆に言えば、
おまいらでも、世間が認めてくれて、十種神宝で鎮魂祭さえやってもらえば、11月23日から天皇陛下なのである。
ニギハヤヒの天皇霊を身体に宿してるわけだからw
前方後円墳の上で行われていた首長霊の継承儀式も、先代首長の霊魂を若君の肉体に宿らせるためのものなのかな?
後円部で取り出した首長霊を、前方部で待つ若君の身体に移すための祭祀、それが物部古神道の本質、みたいな?
ヤマト朝廷を6段階に分けるとすると、物部氏の歴史はこんな感じ?
祖王朝(ニギハヤヒ)→王権中枢
先王朝(神武朝)大和→初代ウマシマジが臣籍降下、古墳(王権)祭祀を担当する物部氏を創始。
古王朝(祟神朝)三輪→朝廷の軍事も担当し始める。本拠地・石上神宮=朝廷の武器庫となる。
中王朝(応神朝)河内→?
新王朝(継体朝)近江→九州筑紫磐井を平定→守屋、蘇我馬子に敗れる。
現王朝(天武朝)→石上氏(分家は穂積、鈴木など)と改称する。
学者先生たちの言ってるのをまとめると、物部氏の歴史はこんな感じ?
五世紀前葉→河内で氏として組織される
五世紀中葉→大和に進出。石上神宮の祭祀はじまる。
五世紀後葉→雄略朝下で執政官を出すようになる。
六世紀前葉→磐井を平定。九州などに部を多数設置。瀬戸内海沿岸に分布を残す。
六世紀中葉→大伴金村の失脚により全盛期。
六世紀後葉→蘇我氏と権力闘争。敗れて衰退。
七世紀前半→依網氏がマエツキミとなるも低迷。
七世紀中葉→孝徳朝に宇麻乃登場。復興物部氏。
七世紀後葉→麻呂登場。このころ穂積氏が同族化。石上氏の時代へ。
>>741 >物部氏は4世紀以後からだろ・・・・
称した時代以前にも、その氏族の先祖は実在していたのだから、
その有り様を考察するのは別段不適切ではないと思うがね。
前スレでニギハヤ族と仮称しようみたいなことを言い出した人がいたけど、
誰一人として賛同しなかった。
あのころは住人も大勢いたのに。
ちなみに今一番有力な見方だと、部民制の成立は六世紀前半だから、
「物部」の呼称もそれと同時に生まれたとされるはず。
どうせはっきり線引きなんてできないんだから、
五世紀も物部氏と呼んでいいんじゃない?
四世紀は原集団自体が存在していたかどうかが立証されていないから何とも…
北九州・邪馬台国傘下の奴姐国(現在の大分県)出身の神武・祟神朝の歴代大王は、物部氏から后を貰っていた。
このことは、大和の大王ニギハヤヒと物部氏が王権中枢を担っていたことを示すのではないか?
物部氏ってニギハヤヒの落胤?直臣?どっち?
物部氏が崇めていた神が祖先化した
776 :
日本@名無史さん:
蘇我が物部たたきつぶした戦いって信貴山?