倭王権の起源を語ろう

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1関大院生
つーことで語りましょう。自説を語る時は、できるかぎり、
考古学上の成果や記紀、倭人伝など文献資料を引いていただ
ければ幸いです。

なお、アズマ、チョソ、古田信者、西都信者、津田信者、
江上信者など電波野郎の入スレを固く禁じます。
2日本@名無史さん:02/05/12 20:53
2
3日本@名無史さん:02/05/12 20:59
倭王権って誰やねん?
大和王権じゃなくて?
4日本@名無史さん:02/05/12 21:00
アズマ=オウム
5>3:02/05/12 21:01
どっちでもいいです。
最近は、「倭」を使うことが多いようなのでそうしただけなんで。
6日本@名無史さん:02/05/12 21:15
大和王権の起源は呉(三国志の呉じゃ)にあります。

晋に攻められて滅亡寸前の呉から逃げ出した人々が日本に上陸し、
倭と同化したのです。
7>6:02/05/12 21:24
証拠は?
8日本@名無史さん:02/05/12 21:30
>>6
騎馬民族征服説?
古墳の形の大幅な変化が元なんだろうけど、無理ありすぎじゃ?
9日本@名無史さん:02/05/12 21:38
俺の考えは、呉と考えるより魏もしくは晋と考えるほうが
自然のような気がする。余談だが神武東征伝説に登場する
赤い馬に乗った神というのは、もしかすると関羽ではないだろうか?
10日本@名無史さん:02/05/12 21:38
関大の院のレベルがよくわかる。
こんなスレたてて喜んでいるとは。
11日本@名無史さん:02/05/12 21:40
しかし、最近江南と日本の関係を云々する学説がふえましたね。
ショウヨウ樹文化圏とか
12日本@名無史さん:02/05/12 21:40
おまえ等、妄想だけはどんどん広がるようだな。
証拠はあるのかよ?
13日本@名無史さん:02/05/12 21:42
証拠がありゃ苦労しねーよ
14日本@名無史さん:02/05/12 21:47
>>11 最近か?
15日本@名無史さん:02/05/12 21:52
三角縁神獣鏡=呉との関連性が指摘される

前期古墳群から鉄剣などは出土するが馬具は無い=騎馬民族説否定

大和地方の銅鐸文化も北九州の銅剣銅鉾文化も3世紀頃に消滅して
前期古墳群から出土するような鉄器文化へ
=技術の渡来とかなりの人口移動があった

よって日本にこのような変革をもたらしたのは呉からの渡来であると。
16日本@名無史さん:02/05/12 21:55
>>15
呉の勢力を利用した一族が台頭した可能性は無いのかな?
呉から渡って来た勢力がそのまま倭の王権を簒奪すると考えるのはどうだろ。
17日本@名無史さん:02/05/12 21:57
http://www.asahi.com/national/update/0508/029.html
大手パチスロ機メーカー「アルゼ」(本社・東京)は8日、
前警視総監の前田健治氏(62)を
10日付で同社常勤の人材育成担当顧問として招くと発表した。

パチスロ機メーカーは警察の直接の指導・監督対象ではないが、
製品のパチスロ機については都道府県の
公安委員会から委託された団体によって検定を受ける制度がある。
検定基準は国家公安委員会が定めている。

前田氏は「私の経歴と会社の業種で考えることはあったが、
警察を離れて2年半になるし、アルゼの業務には
直接かかわらないので問題はないと思う」と話している。

前田氏は宮内庁総務課長や大阪府警本部長などを経て、
96年から99年まで警視総監を務めた。
昨年4月からは、企業戦略に関する情報収集、
分析の専門家を育成する団体「SCIP JAPAN」の代表。
アルゼは「優秀な人材の育成に対応するのに適任と判断した」と説明している。

※関連リンク
<社会>パチスロ機メーカー・アルゼへの追徴課税17億円が取り消される
http://news.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1019653336/

18日本@名無史さん:02/05/12 22:00
とりあえず>>6を読んで「騎馬民族征服説」だと思った
>>8は面白すぎ。

>>16
まあそれでも説明はできるんだけど、どうせだから
天照大神=ヒミコ
神武天皇=呉から渡来した新勢力

に仮託して神話から史実を読み解こうと・・・
19日本@名無史さん:02/05/12 22:10
江南云々の文献上の証拠は、「呉の太伯・・」の一文だけでしょ。
しかし文化上つながりが大きかったことは、考古学的に見るとたしかでしょうね。
つい最近もDNA鑑定で稲の伝来は江南地方と証明されましたしね。
20日本@名無史さん:02/05/12 22:13
スレタイトルは

倭(ヤマト)王権の起源を語ろう

と読むのかな?
21日本@名無史さん:02/05/12 22:18
ちなみに松本氏の研究では江南地方中国人と日本人の血縁関係はほとんどないそうですな
はいった人は、少数だったが、影響が甚大だったと言うことでしょう
22日本@名無史さん:02/05/12 22:27
>>11
ショウヨウ樹文化圏て何?

気候が似ていたら植生も似るのは当たり前じゃないの?
文化圏とどうつながるんさ?
23日本@名無史さん:02/05/12 22:33
>>19
>しかし文化上つながりが大きかったことは、考古学的に見るとたしかでしょうね。

たとえばどんな証拠?

>つい最近もDNA鑑定で稲の伝来は江南地方と証明されましたしね。

一旦朝鮮半島南部を経由してるんではないかな?
稲の原産地と倭王権がどうつながるのかよくわからんが。
24日本@名無史さん:02/05/12 22:33
>>22
今の世には簡単に検索できるインターネットというものが
あります。ご自分でお調べ下さい。
25日本@名無史さん:02/05/12 22:45
>22
照葉樹圏にひっかけて日本と江南の文化的類似を語る本が最近多いのです。
文献上の証拠はほとんどないのですが。

>23
その説の人たちの主張を見ると鳥型の飾りであるとか鳥居であるとか
棟持ち柱とか建築の類似や服装の類似を証拠としてあげておりますねえ。

稲についてはかつて朝鮮半島経由説と江南起源説とが対立しておったのです。
でDNA鑑定を行った結果、江南のものであったわけ。
26日本@名無史さん:02/05/12 22:52
>>19
三国志の時代、呉の孫権は兵力不足を補うために、
東の海のかなた「夷州(台湾?)と亶州(九州?)」で原住民狩りを
行っています。
一万の正規兵を送って、帰ってきたのが二千の正規兵と三千の蛮族。
差し引き八千が蛮地に残った。この時代の東アジアでは、半分の
4千人でもかなり大きい人数。

#同じ時代、魏は遼東の公孫氏を撃つために、倭(卑弥呼)と交渉
27日本@名無史さん:02/05/12 23:02
>>26
なんかむしろ損をしているところが(・∀・)イイ!
28日本@名無史さん:02/05/12 23:34
>>11
稲作の起源はは少なくとも長江中・下流説が有力です。
これはイネ科植物の葉に含まれる機動細胞珪酸体に含まれる
微小化石からも分かります(つまり>>19さんほかのおっしゃるように、DNA鑑定ですね)。
29日本@名無史さん:02/05/12 23:47
呉の太伯云々は意外に事実と近いと言ってみるテスト。
華北→呉→日本のコースで移住したのを反映したとか。
30日本@名無史さん:02/05/13 00:03
>>26
>東の海のかなた「夷州(台湾?)と亶州(九州?)」で原住民狩りを行っています。

これアウト。
夷州にはなんとかたどりついたけど、亶州には辿りつけなかった。
台湾ぐらいなら何とかなったけどそれより遠くはさっぱりという、
むしろ、呉からの直接の渡来は難しいということを示している好例だね。
31日本@名無史さん:02/05/13 00:08
戊辰、陶濬従武昌還。即引見、問水軍消息、対曰、蜀船皆小。
今得二万兵、乗大船戦、自足撃之。於是合衆、授濬節鉞。
明日当発、其夜衆悉逃走。而王濬順流将至、司馬伷・王濬皆臨国境。

『三国志』「呉書・三嗣主伝」

この時(280年)逃げた連中も黒潮に乗って
倭を目指したんじゃないかとかなんとか。
32日本@名無史さん:02/05/13 00:21
>>25
>その説の人たちの主張を見ると鳥型の飾りであるとか鳥居であるとか

それと倭王権の成立とどう関係するの?
弥生時代や、下手をしたら城門以前まで遡っても不思議はないんでないの?

>棟持ち柱とか建築の類似や服装の類似を証拠としてあげておりますねえ。

上に同じ。

>稲についてはかつて朝鮮半島経由説と江南起源説とが対立しておったのです。
>でDNA鑑定を行った結果、江南のものであったわけ。

だから、原産地とどういうルートできたかは別問題でしょ。
韓国で出土した炭化米もDNA鑑定でジャポニカ種と判断されたらしいけど。

で、倭王権の成立とどう関係あるの?
倭王権が成立した頃、3〜4世紀ごろからその江南のDNAを持った米が激増でもするのかな?

ここは倭人の文化の起源じゃなくて、倭王権(=大和朝廷)の起源でしょ。
33日本@名無史さん:02/05/13 00:24
日本に米をもたらしたのは徐福の一団だと聞いた。
34>32:02/05/13 00:28
いや、彼らは、大和王朝が江南などということは、言っていませんね。
ただ、稲作などの先進文明が江南起源だと主張しているだけです。
人口的には少数であることがGM遺伝子の解析では明らかなので
権力集団の移動はないでしょう。
35日本@名無史さん:02/05/13 00:49
>>34
いや、だからこのスレタイトルは『倭王権の起源を語ろう』なんだが。

『おれたちは日本文化の起源を論じてるんであって、倭王権とは無関係の話だ』
とはっきり宣言してくれれば、さっさと引き下がるよ。
36日本@名無史さん:02/05/13 00:55
1さん、ちょっと介入してください。
ご自慢の知識で。
37日本@名無史さん:02/05/13 23:31
昔から、日本は、朝鮮から文化を輸入してきてるでしょ?
または、中国→朝鮮→日本という風に・・・
秀吉などは、朝鮮から優れた技術者を大勢さらって来たり・・・
それに、古代の日本人は、朝鮮系北方民族と南方民族の混血民族だと聞いてるぞ。
さらに、南北民族を比べた場合、高い文化は、北方民族が持ち、
日本は、古代から、北方系に支配されていたという仮説もあるそうだ。
故に、古代の支配階級は、朝鮮系だったと考えられる訳だ。
最近では、DNA鑑定調査もされてる筈じゃないか?
隣国に敵対心を抱くのは、世界的にもありがちだけどさ。
君の言ってる事よく分からないよ。


38日本@名無史さん:02/05/13 23:49
大まかに言うとだな、大和王朝の起源としては、

@もともと奈良におった
A北九州から来た
B吉備から来た
C朝鮮から来た
つーのが多いな。

@は、邪馬台国畿内説と結びつく多かったが、奈良盆地の弥生遺跡がしょぼすぎる
ので最近は、衰えとるな。
Aは、邪馬台国九州説と結びつくのが多かったが、最近は、畿内説でもいるな。
九州説はもはや滅亡寸前だがな。文献の連中も多いな。
Bも今はやりだな。考古の連中には多いな。文献上の証拠がないのが欠点だがな。
Cは、マトモな学者は誰も相手にしていないが、町の電波学者には人気のある不思議な
説だな。なぜかは知らんが。



Cは、学界では無視
39日本@名無史さん:02/05/13 23:50
>日本は、古代から、北方系に支配されていたという仮説もあるそうだ。

江上か? 出直せ(w

>故に、古代の支配階級は、朝鮮系だったと考えられる訳だ。

論理が飛躍しすぎ。
40日本@名無史さん:02/05/13 23:52
>>38
箸墓古墳など年代が3世紀後半まで遡れてしまうというぐらいで、
弥生時代後期と古墳時代の境目ごろに大和の地に何が強大な
勢力が存在したことは間違いないと思うが。
41日本@名無史さん:02/05/15 00:14
邪馬台国はどこだ!なんて論争ずっと長い間続けているけど
結論から言うと邪馬台国=ヤマトで奈良県にありました。
女王卑弥呼は日巫女で太陽信仰の巫女にすぎない。
当時、戦争や政治の重要なことは神にお伺いをたてない
となにもできなかったのです。それで外から来た人には
まるで巫女が実権を持っている女王のように見えたのでしょう
42日本@名無史さん:02/05/15 00:33
結局、古事記に書いてあるとおりの平凡な歴史が真実だってことでしたな。
それにしても長い回り道でしたな。
43日本@名無史さん:02/05/15 01:25
>>42 古事記のとおりでも「エラく突飛な」な真実が誕生してしまうで(w
44日本@名無しさん:02/05/15 02:12
日本書紀の方が真実に近いと思うが
45@ ◆XuQ7kH8E :02/05/15 02:18
>>37
DNAでも、朝鮮系というのは無いんだけど。

倭人系と縄文系でしょ。朝鮮半島は倭人の勢力が日本と
同様に侵入したからね。初期の半島人は縄文人だし。
46日本@名無史さん:02/05/16 00:27
縄文系だろうが、弥生系だろうが、遺伝子上の差は、ないことが松本秀雄の研究
で明らか。その区分はもはや意味なし。
文化的にいわゆる「弥生人」の影響が強いことは確かかも試練が


47日本@名無史さん:02/05/16 01:04
>>44 何か根拠でも? それとも単なるヒラメキ?
48日本@名無史さん:02/05/16 01:13
日本書紀は初期の天皇を中国に倣って紀元前660年まで
引き伸ばしてしまったのが問題で、話の内容自体は
それほどトンデモだとは思わないけどな。
49日本@名無史さん:02/05/16 01:19
>>48
ということは政権が南から(九州から)来たことは支持?
50電波系:02/05/16 01:22
>>49
三世紀末に九州に上陸した江南系の一団が東に向かって邪馬台国と
合流同化したと考える。
51日本@名無史さん:02/05/16 01:30
>>50
河内でケンカしたのでは?
52日本@名無史さん:02/05/16 01:52
>三世紀末に九州に上陸

それはないだろ。

具体的にどんな連中が、どんな経緯が向こうにあってやってきたんだ?
そこらをちゃんと証拠だてて(推論でもいいが)向こう側の歴史との齟齬をきたさずに
説明できるのか?
53日本@名無史さん:02/05/16 02:36
>>47
日本書紀の神代紀(神武以前)は本文の他に「一書に曰く」って
段によって4つから11くらいまで異説を載せてるでしょ。
その中に各段とも古事記に対応する一書があるんだけどさ。
これらの本文ないし異説の中に真相が結構隠れてるんじゃないかと。
54@ ◆XuQ7kH8E :02/05/16 02:47
>縄文系だろうが、弥生系だろうが、遺伝子上の差は、ないことが松本秀雄の研究で明らか。

??ないんじゃなくて、わずかだなら、わかるけど。
縄文系と弥生系の遺伝子上の差はあるよ。
55日本@名無史さん:02/05/16 02:50
孝元天皇に鍵があるように思うんだ。
古代の氏族って神別とか皇別とかそれぞれ起源を持ってるけど、
皇別の氏族は孝元天皇の分れを主張するのが多いんだよ。

神武即位をBC660年に引き伸ばしたのを皇暦と言って
メチャクチャなインチキと思いがちなわけだが、
古代にはあれが「公的な年代」とされていたわけだ。
すると、自分らの先祖が何百年前に来ましたって氏族内の説話を
「公的な年代」に当てはめたら孝元天皇になっちゃったんだな。

皇暦での孝元天皇の在位はBC214〜158。
これを事実としての考古学年代に当てはめると、
ちょうど弥生時代前期と中期の境になる。
北九州の遺跡は弥生の前期と中期でガラッと様相が変わる。
つまり、中期になると遺跡から三種の神器セットが出てくる。

三種の神器を奉戴する集団がやってきて、
それまでの支配者を駆逐したのがこの時代。
皇暦に換算すると孝元天皇の時代になるわけだ。
もちろんやってきたのは孝元天皇じゃない。ニニギだ。
56日本@名無史さん:02/05/16 05:01
それを言うなら開化だろう。
皇別氏族のうち、孝元以前の皇裔は公姓、開化以降は臣姓を授けられている。
これは八色の姓において、継体(その実ワカヌケ)以降の皇裔が真人姓を賜ったのと同様である。

これは賜姓当時から見て皇祖的位置にあるからなのだろう。
新王統の創始者といってもよい(よくないか)。「開化」。謚号からしてそれっぽいではないか。
年代的には卑弥呼の頃である(なんちゃって)
それに比べて孝元は孝昭・孝安・孝霊など前代を引きずっている。

諸氏族の説話は「何年前」というのではなく、「何天皇の御代」
にかけられて伝えられるから、55はなりたたない。
57日本@名無史さん:02/05/16 19:06
開化を始祖とする氏族なんてほとんどないだろ。
孝元起源が多いのは自家に伝わる「何年前」を「何天皇の御世」に換算したから。
ちゃんとそう書いてあるけどな。
58日本@名無史さん:02/05/16 19:31
>>57 どこに?ちゃんとソース書いてね。
59日本@名無史さん:02/05/18 09:02
オオビコさんも孝元天皇の子供だったな
60日本@名無史さん:02/05/18 09:43
神武天皇は、架空ってのが戦後の風潮だけど、名前が後世風(津田)
というのはウソだし、崇神=神武だとするとマキムク遺跡の始まり
の年代と合わないね(2世紀後半〜3世紀初頭?)
実際のところ、畿内の在地政権とマキムクは断絶しているから、
「神武東征」がないと困るんだよね。

何を根拠に神武天皇を否定しているかというと政治的イデオロギーで
「否定しないといけない」という以外にないような気がするね。
61日本@名無史さん:02/05/18 10:25
呉の太白が沖縄通って宮崎に入って、太白の子孫が近畿まで攻め込んで大和朝廷誕生はどうよ?
62日本@名無史さん:02/05/18 18:11
前にも書いたけど、古代中国人の書いたヨタ(に近い話)を
真に受けて、一字一句を取り上げ、現代日本人がケンケンガクガク
するのは笑止の極み。
ずっと後代になるが、マルコポーロが(当然、当時の中国人からだろうが)
取材しても、あのていたらく。まともな日本知識を期待できるか?
すべからく、邪馬台国論争は封印すべきだね。時間とエネルギーが
もったいない


63日本@名無史さん:02/05/18 18:16
モー娘板で以前こんなの見たけど本当なんですか?

加護・名護という名は百済の祭祀のひとつで白村江の戦いの後、
加護氏は近畿へ名護氏は琉球へ逃れた。
大体こんなことでしたけど。
64あげまくり:02/05/19 01:16
ええ
65日本@名無史さん:02/05/19 02:08
倭(わ)王権を倭(やまと)王権と読む人は、河内と大和の力関係をどう考えてるんでしょうかねぇ?
66日本@名無史さん:02/05/19 03:42
当時の河内は、ほとんどが湖の底。
「河内王朝説」は、湖の底の幻でした
地形学が進んでいなかった時代の電波説ですね
67日本@名無史さん:02/05/19 06:17
源氏は新羅系
平家は百済系
藤原はカヤ系
天皇は高句麗系
68日本@名無史さん:02/05/19 10:00
>>66

じゃ、「和泉王朝」って言ってね。 

だいたい「地形学が進んでいなかった時代」って何時のことだよ・・・
69>68:02/05/19 10:06
当時は、「和泉」なんて地名はない。
もっと勉強するように

7068:02/05/19 11:10
>>69
レスをちゃんと読めよ。
そんなことは、「河内」が「ほとんど湖の底」って言った>>66に教えてやれや。
71日本@名無史さん:02/05/19 11:26
応神陵や仁徳陵は、古代湖の中に築かれた。

湖に浮かぶ巨墳群、さぞや壮観であったろう。


72日本@名無史さん:02/05/19 14:22
ワロタ ! ! !
73日本@名無史さん:02/05/19 21:49
河内王朝なんてヨタはまだ生き残っていたのか。
江上の騎馬民族説に匹敵する電波と思っていたが
74日本@名無史さん:02/05/19 22:02
泉=イリではないか?
イリカスミのイリ、イクメイリヒコのイリ。
75日本@名無史さん:02/05/19 23:02
「倭」「ヤマト」を大和の意に限定すると天武朝成立前は辛いな。
76日本@名無史さん:02/05/22 01:00
>>62
マルコポーロは元なんぞに来ていないちゅう説もあるよね。
77日本@名無史さん:02/05/22 03:31
継体からでイイんじゃないの?それ以前ってなんかバラ、バラしたイメージ
しかないよ。王権としてって言うか、むしろホントに繋がった流れなのかなと。
56の言うように開化で切れてるだろ、その後景行か成務で切れてる。で継体
の前。なんかそれぞれが別勢力だったんじゃないか、って印象が拭えないよ。

ついでに >50 以前で呉から、だとか稲作が、とか言ってる方々。NHKスペの
「日本人はどこから来た」の再放送を見ましょう。いつやるか知らんけど。(w
どっかにスレも立ってたぞ。去年の年末OAだったからそろそろやるんじゃないか。
それ見たら一発解決だな。
78日本@名無史さん:02/05/22 05:45
昨日の産経新聞に、例の天皇発言のことが書いてあった。
それによると、桓武天皇の生母の先祖が百済王であったというのが天皇発言だが、
その当の百済王の父王は倭から来た人であった、と百済の歴史に書いてあるという。
こうなると「天皇は朝鮮系」と言うのもまさに話半分ということになる。

それよりも百済王家と倭王家の関係はぐちゃぐちゃだね。
同盟国としてつきあいが深かったからこうなった、という考えが成り立つのか?
もともと親戚同志であったと考える方が妥当ではないか?
もしそうなら、まさに天皇族は扶余系。
79 :02/05/22 06:20
>>78
日本書紀や三国史記など、歴史資料をちゃんと読みなさい。
噂話を開陳しても、バカにされるだけ。
80日本@名無史さん:02/05/22 17:01
>>77
一つの説でしかないぞ<NHKスペシャル
81日本@名無史さん :02/05/22 17:30
>それ見たら一発解決だな。

なにが?
82日本@名無史さん:02/05/22 17:34
NHKも特定の歴史観を根付かせるために必死だよね(w
8377:02/05/22 19:03
>50までの流れを見て言ってるか?
あまりにムチだから薦めたまでだ。要はその程度は勉強しなよってコト。
初心者にはほどよいレベルだと思うが?悪い指摘はしてないと思うぞ。
勿論自分で本開いて調べる人ならこしたことはないが。
84日本@名無史さん:02/05/22 20:04
マルコポーロ著「東方見聞録」なんてねえよ!
85日本@名無史さん:02/05/22 23:29
三角縁獣神鏡は呉の鏡の色んな部分のミックスだったり。
86:02/05/24 18:16
水野祐氏の説は、どうなんですか?
87日本@名無史さん:02/05/24 20:10
イザナギ&イザナミの神話は南方系の神話と同じ
オセアニア辺りとかぶる、元はインドネシア系
大和の建築様式は南方系、弥生支配地域は大陸系
当時九州だけでもいっぱい国があったので大和以前の国はあまり参考にならない
スサノオが嫌われているのは南九州系ではなく北九州系だから
政治改革、土地改革と活躍したが九州から出て朝鮮半島に渡ったあと出雲ヘ
土地整備、河川整備、森林整備をして褒美として嫁さんやら剣やらもらった
南九州から畿内に移った大和王朝は西日本、九州征伐、そして統一。
88日本@名無史さん:02/05/24 20:13
王朝交代説ね。ご本人とともに御亡くなりになった感もあり。

日本書紀編纂時の政治状況では、無理やり三王朝を継ぎ接ぐ必然性は見当たらない。

単に継体をそのまま高天原に繋げてしまえば良いだけだから。

だから、今の王統が捏造だとしたら、まさしく継体の時だと思うが、スレ違いの話になるな。
89日本@名無史さん:02/05/25 00:34
>>87
神話のネタを調べるのは面白いよね。
縄文時代ってレトロなくせに海流とかにのって思わぬ遠隔地に渡る
ヤツがいたみたいだしね〜
90日本@名無史さん :02/05/25 00:59
初歩的な質問になるけど、このスレ盛り上げる為と思って
できたら教えて。
87>スサノオ はどっちの渡来系になるの。大陸か半島か。
>南九州から畿内に移った大和王朝
統一していく過程で、一派ひとまとまりと見ていい?それとも他の人が言う
ように複数派として考えるべきか。王権起源の会話になっていきそうだし。
91日本@名無史さん:02/05/25 01:02
92日本@名無史さん:02/05/25 01:13
ありがとー。なんか量たっぷりありそうだナ
時間かかりそう(ワラ がんばってみる
93電波:02/05/25 01:54
天照大神の話に天香具山が出てくるから高天原は大和地方

だとすると大和から日向に行って大和に帰って来たことに(w

個人的には大和系と南九州系を統一神話に収めるための
「技」であったのだろうかと。
94日本@名無史さん:02/05/25 02:03
>倭王権の起源を語ろう

西暦元年から語ろう。

95日本@名無史さん:02/05/25 02:07
92なんですが。あのー教えてもらってて何ですが、
>91のページ読んでて、質問したいところ山ほどでてきたんですが。w
...ここで言ってもしかたないか。王権の考え方が...どうなんだろ。
96>86:02/05/25 02:09
水野の説は、トンデモだね。
孝徳天皇も難波の宮にいたが、これも「河内王朝」かね?

宮殿や陵墓の移動を王朝の移動とする電波説が大いにはやった時代だから
彼だけを攻めることはできないが、何の証拠もないから学問としては
ダメだね。継体で断絶云々というのも何の証拠もないね。


97日本@名無史さん:02/05/25 10:02
このスレは「倭王権の起源」を語るんであって、天皇家の起源を語るところじゃないよな。

それは、同じことだと言う考えも有るでしょうけど、他スレとの差別化を図るためには、

西日本全体の勢力を統率して対外的な代表権を行使した勢力が、どういう変遷を経て、

成立したのかと言う点にテーマを絞ったほうが良くない?
98日本@名無史さん:02/05/25 11:10
>>96
継体天皇が応神天皇5世孫というほうが、よっぽど信用できない。
99日本@名無史さん:02/05/25 11:29
纒向が、唐古・池上曽根・東奈良あたりを滅ぼした時に倭王権は成立した。
100>98:02/05/25 11:52
だから、文献なり考古学なりの証拠をあげろよ。
101>97:02/05/25 12:27
在地政権が、そのまま発展したという線は、ほぼ消えたな。
皇室の先祖は、九州から征服者としてやってきたということだろうな。
無論邪馬台国は、もっと後の時代だね。
吉備の関わりは検討が必要だな。考古(庄内式土器、楯築、特殊台器)でも
文献(神武東征で滞在)にも証拠があるからな。
その前ということになると平原だろうな。例の鏡は、伊勢のご神体と同じだしな。
その前は、古事記を正直に読むと福岡平野の奥なんだろうな。
考古でみても超大型の弥生部落は、筑後川流域だわな(吉野ヶ里、平塚)。
日本書紀は、宮崎にしているが。
ここは意見が分かれるところだが、古事記の方が古い姿ではなかろうか。
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>>98 いや、だからキレてるってばサ!継体サンの前で。

>>101 >無論邪馬台国は、もっと後の時代だね。
エッ!前でなくッテ?後なの?すると
>在地政権が の在地政権って・・・ダレの政権?
伊勢にいった後は、福岡平野の奥?なんか時空飛びすぎでナイ?
日本書紀は南九州系の王権勢力が主編纂したってことでイイんじゃ?
104日本@名無史さん:02/05/25 19:22
このスレ、古代史の人間があまりいない様なので一言。
つまり「倭王権」という言葉自体の使い方が理解出来ていない。
ってか現在、普通古代史ではこの言葉は「九州王朝」にしか使
え無いのが常識。21世紀になってもいまだに畿内中心史観的
考えが時折見受けられる、これを不幸と言う。記紀の記述を科
学的批判もせずに、ああだこうだと言っても進歩が無い、宋書
倭国伝に云う倭の五王を九州地方の王と認めたうえで、その盛衰
から大和王朝へのことを語るのが本筋。古代史に必要なのは、
今後ともますます確実に多元史観、地方史観的理解力だと思います。
105>104:02/05/25 19:47
古田信者は、立ち入り禁止
1を読め。
106厨(86):02/05/25 20:26
みなさん、答えていただいてありがとうございました。
スレ違い気味なのでsage
107日本@名無史さん:02/05/26 02:13
fa
108日本@名無史さん:02/05/26 15:03
B.C.4〜500年ごろ遠賀川水系に住みはじめた、渡来系の人々がB.C.300年頃、濃尾平野まで一挙に到達したことは様々な考古学的成果からもはや事実といっていいでしょう。

個人的には、神武伝説はこの事実の投影だと思います。
「日向」に関しては、クシフル日向(ひむか)を、応神仁徳期にプレゼンスの増大した日向との混同、あるいは意図的差換え、だと思います。
あくまで、推論だけどね。
あるいは、日向は、大和盆地にありながら、なかなか倭王権と異なる墳式を採用しなかった、葛城氏の故地だったのかも。
109日本@名無史さん:02/05/26 15:22
>>101

弥生中後期の集落の規模で言うと、佐賀平野は小さい小さい。
伊都国、那国の福岡平野、あるいは直方平野の方が大きい。
そして、摂津尼崎の方がさらに大きい。
最大は唐古・鍵遺跡。大和盆地のね。

108とあわせてこれが101へのレスポンスになると思う。
102、104はトバシ。
110日本@名無史さん:02/05/26 17:18
>>109

池上曽根の方が、断然大きいのだが、貴方の区分する「弥生中後期」には、入らないのね。

それに、唐古は、時代によって環濠外線が移動してると思うので、最大人口は、言われているより少ないんじゃないかな。

九州ファンの人もそっちで大きく見積もれそうな遺跡候補あったらおせーてね。
111日本@名無史さん:02/05/26 18:31
>>109,110
福岡平野の須玖岡本遺跡群、那珂比恵遺跡群が弥生集落では最大級で、遺物の質や集落の計画性がダントツ。
糸島の三雲遺跡も匹敵する可能性があるが、調査範囲が少なく不明瞭。これらは規模的にマキムクに匹敵する。
これら3遺跡は弥生中期中ごろに巨大化し、須玖は弥生終末まで、他は古墳前期にも繁栄が存続するようだ。
唐古鍵遺跡は30ha、須玖岡本や那珂比恵は100ha以上。
那珂では2kmの直線道路痕跡が存在するらしく、また須玖岡本の青銅器鋳型の出土数や出土頻度は唐古とは比べ物にならない。
福岡の研究者に言わせると、吉野ヶ里と唐古鍵が同程度の規模と構造と言う。
あと、壱岐の原ノ辻も同じぐらい。
邪馬台国は大和でもいいけど(マキムク出現以降ね)、畿内派は九州のこともよく調べておいてね。
あと九州派の人も、伊都国、奴国が質的規模的に最高ランクで、他地区はその下であることをわかってね。
112日本@名無史さん:02/05/26 19:13
箸墓古墳が3世紀後半まで遡れたのでヒミコの墓はこれじゃないかな。
113日本@名無史さん:02/05/26 19:56
>>112
箸墓って結局卑弥呼の墓という決定的証拠は出なかったんでは?
114日本@名無史さん:02/05/26 20:09
魏志によれば倭人の墓は、棺は有ってもそれを被う槨は無いことになっています。
纏向では、槨無し墓は見つかってないし、吉備でも楯築には有るらしいから、
素直に纏向=3世紀、箸墓=卑弥呼の墓説を認めずらいのですが・・・
115日本@名無史さん:02/05/26 20:35
はあ?
当時の九州の遺跡に比べたら池上なんぞぜんぜん小さいぞ。
弥生期に九州の巨大遺跡がないというのは吉野ヶ里以前の話だろが。

116日本@名無史さん:02/05/26 20:45
石野博信「邪馬台国と古墳」を見ると、

唐古・鍵=400×5000
池上曽根=400メートル級
吉野ヶ里=長径一キロ、40ヘクタール
平塚川添=隣の集落を同一遺跡と見て50ヘクタール

とのことです。

 
117失礼:02/05/26 20:47
唐子・鍵=400×500でした
118>113:02/05/26 20:50
多くの学者がやまとももそ姫=卑弥呼としているので卑弥呼の墓=箸墓に
なるというわけなのです。今のところ確たる証拠はないのですが。

119日本@名無史さん:02/05/26 21:04
>>118
円墳側を掘れば何か出てくるかもよ・・・といってみたりするテスト
120日本@名無史さん:02/05/26 21:06
畿内の遺跡が大和王朝と関係がないとされるのは、大きさや弥生末期の
一斉絶滅の他に、後の古墳文化とつながるものがほとんどないからだねえ。

121日本@名無史さん:02/05/26 21:08
>後の古墳文化とつながるものが

無いの?
122日本@名無史さん:02/05/26 21:12
高床とかしかないねえ。
池上の復元はちょっと神社に似ているな。
123日本@名無史さん:02/05/26 21:13
古い古墳はいくつかあったな。三世紀ぐらいと鑑定されちゃったやつが。
124日本@名無史さん:02/05/26 21:17
>>114
大和に槨のある墓は一つもあーりましぇーん!
125>123:02/05/26 21:18
最近の考古では3せいきは古墳時代なの
126日本@名無史さん:02/05/26 21:32
>>125
一番古い古墳時代の墳墓はどこの何てやつ?
127日本@名無史さん:02/05/26 22:32
128日本@名無史さん:02/05/27 01:55
>>108以後、とたんに発掘あるある系の話になってんぞ。
この方面で続けんのか?王権の話はしねーのか?だったら逝くけど。
129日本@名無史さん:02/05/27 19:42
大和の建築様式は南方&南九州系なのだ
西日本さえも制覇した弥生人でも、数千年前から東南アジア&オセアニアと
交流が有り、社会的発展を遂げていた南九州地方は攻め滅ぼせなかった
南九州からは弥生土器が見つからない事が証明している
倭王朝は少なくとも九州で一回、大和地方で2回都を移している
地名が重なる事がその事を証明している(漫画ヤマタイカでも読め)
130日本@名無史さん:02/05/27 19:48
漫画レベル
131日本@名無史さん:02/05/27 19:50
>>127
アラアラ!あれが槨に見えるの?
ちょっとは勉強してね。
132日本@名無史さん:02/05/27 19:55
>>131

アナタ、天下の橿考研、K大先生の発表にたて突くつもりなのね。
133日本@名無史さん:02/05/27 19:59
↑ばかだなー!!ほんとにばかだなー!!!

考古学用語の槨と歴史上の槨をごっちゃにしてヤンの!
134日本@名無史さん:02/05/27 20:19
「スフィンクスはギリシャ神話だからエジプト人が作ったはずがない!」とか言い出すレベルですね。
135日本@名無史さん:02/05/28 01:13
136日本@名無史さん:02/06/02 00:02
天皇の他に、関東大王や筑紫大王が同時にいたと言うことを忘れては
ならない。
137のすとらだむ〜す:02/06/02 00:03
恐怖の大王
138日本@名無史さん:02/06/02 01:51
倭の極南界は倭奴国である、ものの本にかいてある。
で、倭奴国は北九州にあったとされている。
だから、この当時には倭の国王は北九州以北〜朝鮮半島南部の間に存在したことになる。
139日本@名無史さん:02/06/02 01:55
続日本紀に銅鐸(と現在我々が呼んでいるもの)が出て何じゃこりゃって記事がある。
大和朝廷と弥生時代に大和を支配していた勢力とは無関係ってことだね。
140日本@名無史さん:02/06/02 05:09
500年もたって覚えてるわけないだろ馬鹿
141日本@名無史さん:02/06/02 05:46
>138
それって、もしかしてチェジュド?
それとも対馬?
142日本@名無史さん:02/06/02 06:06
そもそも邪馬台国以外の国名と実際の場所の特定は本当に正確なの?
143日本@名無史さん:02/06/02 06:11
もち不正確だ。
144日本@名無史さん:02/06/02 10:12
倭人伝から離れたほうが、他のスレとの差別化ができると思われ。

文献だったらイワレビコかミマキイリビコあたりが、いいんじゃない?
145日本@名無史さん:02/06/02 16:42
大和の王権が倭を代表するようになったのは奈良以降でしょう
17世紀政権が上方から江戸へ移ったようなもの
近畿の盆地の中での出来事を議論するんだったわかるけど
それ以外の地域に対する推論は可笑しいよ
146日本@名無史さん:02/06/02 21:50
倭人傳を素直に読むと、クヤカン國やイト國から、遠くに、遠くにあると書いてあるように思える。
水行一月を水行一日に読み換えるのは無理だよ。
方位を間違えるのは自然だが、距離は間違えにくい。

まあ、そういったことを別として、3世紀になると、朝鮮半島南部の出土物が北九州系から畿内系のそれにすっぱり切りかわり北九州系のものはほとんどでなくなってしまっていることが最近判明している。
この事実からしても、大和の王権が倭を代表するようになったのは3世紀以降でしょう。
それ以外の地域に対する推論は可笑しいよ。
147日本@名無史さん:02/06/02 22:31
>>146
>方位を間違えるのは自然だが、距離は間違えにくい。

逆ですよ。天体を見れば方向は分かりますが、航行にかかった日数や
歩数で計ると、間違いが多いです。
特に、倭の未熟な航海技術や、山島で道路が整備されてない日本で
中国式の距離の測り方を杓子定規にやるとまず正確に出ない。
148日本@名無史さん:02/06/02 22:32
当時の中国の概念では日本は対馬・九州・本州と
南方向に一直線に並ぶものだったんじゃないの?
149日本@名無史さん:02/06/02 22:53
古代天皇が全て血縁でつながっているというのは古代人の概念によるもので、
彼らは実際にそうでなくても特定の職業の継承者についてはそうみなす
ことがよくあるらしい。
150日本@名無史さん:02/06/02 23:16
だいたい、北斗七星やカシオペア見りゃ、誰でも北はわかるよ。
古代人はそういう知識は誰でももってた。
151日本@名無史さん:02/06/02 23:22
夜に、星空を眺めて北を確認。
就寝。

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

起床。
明るいうちはひたすら移動。
到着。
メシ。

星空を眺めて再度北を確認。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さあ、どちらの方角にどれだけ移動したかわかるかな?
152日本@名無史さん:02/06/02 23:27
日本が会稽の東冶の東方海上にあると思ったのは、距離を過大に間違えた
ためであって、方向を間違えたためではない。行程をみると、南下が多いため
距離を間違えると南のほうにあると思うのは当然だ。
153日本@名無史さん:02/06/02 23:29
>>151
君は朝日の昇る方向を知らないのかね?
後太陽の方向で方角を知る方法を知らないの?
漂流したときに生き残れないかも。困ったもんだ。
154日本@名無史さん:02/06/02 23:33
朝に、太陽を眺めておおよそ東を確認。

明るいうちはひたすら移動。
到着。
メシ。

夕に、太陽を眺めておおよそ西を確認。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さあ、どちらの方角にどれだけ移動したかわかるかな?

155日本@名無史さん:02/06/03 00:01
「4キロほど西へ歩いた」で、4メートルと間違う人はいないが、南へ向かっていることは当たり前にある。
それに、考古学的事実について答えていない。
大体森浩一とか、九州説に符合しない考古学的事実は「偽者だ」で片付けてる、御仁じゃないか。
九州説は、もう唱えてるだけで恥ずかしいよ。
156日本@名無史さん:02/06/03 01:02
>>1
 立て逃げだね。

 責任をとってちゃんと仕切れよな。
157日本@名無史さん :02/06/03 01:05
キミ達ってほんと不思議だね。(w
何でヤマタイスレで倭人伝語らんのに、こっちの倭王権スレで語るの?
オカシイだろ(w マジ笑った(w
>>152 会稽東冶については「邪馬台国はどこ?パート6」>800辺りへ逝け。
さんざん書いただろーが。
>>146 君の口調からして>すっぱり、ってのは怪しいな。どうすっぱりなのか
説明キボーン。ついでに3世紀までにどういう過程で、
>大和の王権が倭を代表するようになった、のかもね。倭の五王とそれ以前の
天皇の系図に矛盾が生じないよう、せいぜいガンバってくれたまえ。(w
158日本@名無史さん:02/06/03 01:10
>>157

アナタ、この板ではビギナーでしょ。(w


159日本@名無史さん:02/06/03 01:58
>>158 いいえぇ。レス番2桁の時から発言してますが。両方に顔出してるよん。(w
こっちが停滞気味だったからちょうど良かったんでないかい?
三角縁スレにはサスガに行かんけど。あそこが一番つまらんね。(w
160日本@名無史さん:02/06/03 21:30
>>155
はあ?
ご自分が方向音痴だからといって他人もそうだと思わないように。
西日に向かって歩いて、今どこに向かって歩いてるか、分からない
ようでしたら重症ですぜ。(W
161日本@名無史さん:02/06/03 21:38
『西日に向かって歩』くなんていう特殊条件じゃなけりゃ、それが普通だろ。
特殊な条件を一般に敷衍するという、
いわゆる『部分より全体に及ぼす誤り』という詭弁術の一種ですな。
162日本@名無史さん:02/06/03 21:41
その
>はあ?
という愚鈍そうな返答を聞くと毎度レス書く気力が失せるよ。
163>>159:02/06/03 22:04
いやいや、スレじゃなくて板の話ですよ。
164日本@名無史さん:02/06/03 22:26
>>161
特殊な状況って?
西が分かれば東西南北分かるでしょ?


>>162
君の方向音痴をなじってるわけじゃないんだが。(W

165日本@名無史さん:02/06/03 22:57
>>164
西日。

古代人は夕方しか歩かなかったのか?
166日本@名無史さん:02/06/03 23:31
何でそんなどうでもいいこと議論してんの。
王権はどうなったの。
167日本@名無史さん:02/06/03 23:32
>>166
古墳時代とリンクしているなら大和王権の起源は大和盆地。
168日本@名無史さん:02/06/03 23:49
西日クンな何故いつも笑ってるの?(たりないのかな)
169日本@名無史さん:02/06/04 00:16
>>167 それは大和じゃろ。倭を語るんでなかったかのお。
のお、>1さんよ、>97さんよ。ちごおたかいの。
170167:02/06/04 00:19
>>169
「倭」王権と言われてもねえ。
171日本@名無史さん:02/06/04 00:42
>3 名前:日本@名無史さん 投稿日:02/05/12 20:59
>倭王権って誰やねん?
>大和王権じゃなくて?

に対して

>5 名前:>3 投稿日:02/05/12 21:01
>どっちでもいいです。
>最近は、「倭」を使うことが多いようなのでそうしただけなんで。

と答えているので、>>1の意図したのは倭=大和で『倭』はヤマトと読む。
172日本@名無史さん:02/06/06 07:44
神武即位に決まってるだろ
173日本@名無史さん:02/06/06 15:11
>>172 何年?

架空の人間出しちゃいかんなあ。
174日本@名無史さん:02/06/06 19:44
架空とはいわんにせよ(火の無い所に煙は立たず・・・とも思うので)
まあ毛筋ほどの証拠にもならんな<神武

大和と同義でいいならやはり古墳時代の遡れる上限、3世紀ということで
終了でしょう。
175日本@名無史さん:02/06/06 19:57
なして終了なの?
“ヤマト”はいかにして成立したかが最大のテーマだと思うのだが。
176日本@名無史さん:02/06/06 20:12
A.D.107の倭面土は「ヤマト」だって説はどうよ?
177日本@名無史さん:02/06/06 20:30
衍字。
178日本@名無史さん:02/06/06 20:57
ヤマトって言葉の語源教えて!(電波でも可
179日本@名無史さん:02/06/06 21:05
山路の入り口
180日本@名無史さん:02/06/06 23:00
イワレビコと呼ばれる男の生い立ちについて騙れ。
181日本@名無史さん:02/06/06 23:01
yiyada
182日本@名無史さん:02/06/06 23:51
>>178 「地名の由来教えて」とかいうスレ無かったか。
沈みかけてるのか(W
あっちで聞いてageてあげれば。
183日本@名無史さん:02/06/07 02:48
>>172
天皇家の王権は神武即位からだが、
長脛彦 にぎはやひ以前にも、ヤマトには王権があったと思われ。
184日本@名無史さん:02/06/07 04:52
>>178
新羅の元号です<大和

ですから、新羅の支配下にあったのでは?
185日本@名無史さん:02/06/07 06:42
新羅に元号があったって証拠は?
186日本@名無史さん :02/06/07 15:03
>>183 架空かどうかは別にして、神武はやっぱり九州系。
ナガスネはやっぱり在地(大和)系。・・・ニギハヤヒは?
九州の一派と見るべきか・・・それとも出雲?

ま、こんな風に王権が統合していく様を語ればよいのかな、のお>>175さん。
弥生中期までは温暖な気候であったため、九州西北部は温帯ジャポニカもよく育ち、良好な港を
有していたので、大陸や半島とも交易が盛んでおおいに繁栄した。
ところが弥生後期になると寒冷化がすすみ、米の収穫量がかなり落ちてきた。港(前原や那の津)
も海岸線が後退し、堆積した砂地が露わになり大型船の着岸もままならなくなってきた。

政治や経済の中心は瀬振り山を越えて有明沿岸(佐賀平野)に移って行った。半島との窓口は唐津と
なり、松浦川、厳木川沿いの陸路が玄界灘と有明沿岸を結ぶ重要幹線となっていった。
そのころ半島はより寒冷となり米作の環境では無くなっていただろうと思われ、倭地においてさらに
広大な農地が要求されるようになった。
そしてより温暖な熊本平野(投馬)も開拓が進み、さらに各国の目は競って日向(宮崎平野)へと
向けられ、倭国大乱に発展していった。
そのころ、恐らく半島出身の卑弥呼が鬼道をもって民衆の絶大な支持を集めていた。それは伊都だけ
ではなく倭地全般に浸透していたであろう。
(世情不安の時は、怪しげなカルトが流行るのは現代とちっとも変わらない)
ようやく卑弥呼を女王(法王というべきか)として共立し、日向のある地を都とした。そして信仰の
柱として霊峰高千穂の峰を祭り上げた。
ここに邪馬台国(邪馬壹国、祁馬台国)の始まりを見るのである。
そして、その当時の最大国であったろう伊都の王も法王卑弥呼に帰依し、代々受継がれていった。

薩摩、大隅(狗奴国)においては良好な田畑が少なく、北方諸国もここに手をつける必要は無かった。
従って邪馬台国に属することなく、隼人として独立を維持できたのだが、今まで同じ隼人として良好な
関係を保っていた日向が敵地となり、狗奴国の不満は絶大なものとなっていった。

北部九州でも東部の宗像、遠賀川流域などは西北九州とは一線を隔していただろうと思われる。
半島との交易経路として沖ノ島、神湊、遠賀川河口を有していたからである。
その上流の飯塚地方の立岩堀田遺跡なんかはその文化の独自性を物語っている。


一方、畿内においては出雲を経由した日本海ルートのもと、唐子・鍵が東西の交易拠点として隆盛していた。
さらに、吉備を経由した瀬戸内海ルートの拠点として、和泉地方にも一大勢力が発展していた。

そして大和は・・・
188日本@名無史さん:02/06/07 23:15
>>187
「そして大和は・・・」で終わられると、前振りの「唐子・鍵」の立場がないわな
189日本@名無史さん:02/06/07 23:46
>>184
新羅の年号に「大和」があったとして「ヤマト」と読むのか?
「ヤマト」という音が先で字は後付けだろ。
190日本@名無史さん:02/06/07 23:48
>>189
そもそも大倭で大和じゃないしね。
大和と書くようなったのは、時代的にずっと後じゃないか?
191日本@名無史さん:02/06/08 00:27
>>187 実に興味深い理論だが、
>そのころ、恐らく半島出身の卑弥呼が

のところぐらいから、感情がこもりすぎてるぞ、と感じるのはワシだけか?
192日本@名無史さん:02/06/08 00:33
>>178,188,190
見え見えの自作自演もなんかほほえましい。
でも,内容が無いからね・・・悲しい
193日本@名無史さん:02/06/08 01:03
ありゃー 188じゃなくて189だよ〜〜
間違えるとサッパリだね・・・いてきます〜。
194日本@名無史さん:02/06/08 02:35
>>187
卑弥呼が半島出身なら、卑弥呼、ヒコ、ヒナモリも半島系の言葉?
195日本@名無史さん:02/06/08 02:43
>>192
勝手に自作自演にしてるし(w
おめでてー
196日本@名無史さん:02/06/09 01:49
書記の日向に天下ったというのは、仁徳天皇の后の関係で後で付けくわわった話だね
考古学的証拠がない。古事記では「この地は朝鮮に相対し」とあるので福岡平野だな
197日本@名無史さん:02/06/09 14:24
yrt
198日本@名無史さん:02/06/09 22:09
ew
199月光仮面:02/06/10 19:13
後漢書には「倭の極南界は倭奴国である」とある。倭奴国は北九州に位置していた。
したがって、当時の認識としては、「倭国」とは朝鮮半島南部から九州北部までの領域を考えていたものと思われる。
さすれば、「畿内」は倭国の範疇にないことになる。

200日本@名無史さん:02/06/11 00:07
だからどうした。
201日本@名無史さん:02/06/11 05:56
>>146
3世紀に「倭国」は畿内となった。
>>188 唐子・鍵」の立場とは何じゃろか?
>>191 恐らくお宅だけではないと思うけど、つい熱が入っちゃうのよね。ご勘弁を。
>>194 古代の言葉についてはわかりません。悪しからず。

畿内が「銅鐸教・・・仮称」にまとまり繁栄していたころ、徐々に寒冷化が進んでいた半島では、新天地を
求める気運が高まっていた。
楽浪では鬼道に長けた卑弥呼を九州に送りこむことで、とりあえず食糧危機を免れていた。(180年頃)

一方、半島南部弁韓、辰韓でも徐々にその危機がせまりつつあった。豊富な鉄資源に裏打ちされた
武闘派集団がついに倭地をめざすにいたり、出雲を経由して畿内に攻め込んだ。たいした武器を持たない
銅鐸教諸国はあっさりと征服され、銅鐸文化もここに絶滅するのである。
この畿内マキムクに乗りこんだ半島出身の武闘派集団こそが大和の始祖であり、その中心にアマテラスがおり、
大型銅鏡を御神体とし、三輪山を霊峰として祭り上げたのである。(200年頃)
唐子・鍵を中心とした銅鐸文化圏は呪術支配によるゆるやかな連合というか共存というべきものであったが、
大和はあくまでも呪術より武力支配を旨としていた。
東西の交易拠点を支配下に置いた大和は、豊富な財力のもと半島南部との交易を活性化させ、食料を
送りこむ見かえりに、大量の鉄資源を獲得していった。そしてより強大な軍事国家を形成していった。

そして日本海、瀬戸内海ルートの確立のため、もともと大和と同系であった出雲の国譲りを成立させ、
次にアメノオシホミミを吉備に送り込んだ。

そのころ日本列島でも寒冷化が押し寄せてきており、畿内周辺での米の収穫量が落ち込んでいた。
そこで、大和はより温暖な徳島、高知さらに九州日向の獲得に乗り出した。(240年頃)
四国を制圧したニニギは臼杵に上陸し、邪馬台国と敵対していた狗奴国(薩摩、大隅)と同盟を結び、
挟み撃ちによってついに邪馬台国を滅ぼし、大穀倉地帯日向を獲得したのである。(270年頃か?)
そして鬼道支配のシンボルであった霊峰高千穂の峰に矛を打ち込み、呪術支配を断ち切った。
これがニニギの天孫降臨である。ニニギはオオヤマヅミの娘コノハナノサクヤヒメを娶り、狗奴国までも
支配下に置くことになった。この後日向は西都原を中心に屯倉(三宅)として畿内大和と密接な関係を
保ちながら繁栄していくのである。
片方では、邪馬台国の滅亡とともにその主要連合国(西北九州、有明海沿岸諸国)は分裂し、衰退の一途
をたどることになるのである。

一方畿内ではニギハヤヒ、ナガスネヒコを中心としたクーデターが成立し、正統大和王権は断絶を余儀なく
されていた。そして神武(=崇神)東征が始まる・・・。

宇佐や筑紫の崗の水門(遠賀川河口)に立ち寄ったのは、半島との交易拠点としても瀬戸内海ルートの拠点
としても九州東北部は絶対に押えておく必要があったためである。さらに敵対する伊都、奴国への牽制も
意味していた。玄海灘の制海権を手中にした神武はついに瀬戸内海を東進するのである。
血縁筋であるアメノオシホミミが平定した吉備を軍事拠点とし、北は出雲をも統制下に置き、ナガスネヒコ
を打ち破りニギハヤヒを孤立化させて、ついに畿内大和の奪回を果たした。(300年頃)
聖地マキムクに入り、ここに正統大和王権の復活と大和朝廷の始まりをみるのである。
神武は崇神であり、ハツクニシラススメラミコトであり、ミマキイリヒコ(聖地マキムクに入る日子)である。

「4世紀の空白」の実態とは
邪馬台国が呉越文化や楽浪郡の影響を強く受け、中国を重視していたのに対し、畿内大和は出身地である
半島南部との関係を重視していた。
しかも中国の冊封体制下にあった邪馬台国を滅ぼした大和は、大陸の怒りを買い拒絶されていた。
それよりもなによりも初期大和朝廷はまず東国の征圧と不満のくすぶる九州征圧が第一であり、中国なんか
は二の次だったのである。
そうこうするうちに高句麗の台頭により楽浪、帯方2郡が滅亡し、中国との接点が完全に断たれたのである。
こうして倭国は約100年にわたり中国の正史から姿を消すことになったのである
204日本@名無史さん:02/06/11 22:59
>>202-203 おお!ヤマタイスレで北九州説を孤独に語る俺にとっては
興味深い人があらわれたぞ!どれどれ、じっくり読ませてもらおうかな。(w
向こうの298-300なんかより、よっぽどまともに読めるよ。(w
疑問、反論はゆるゆるとさせてもらうよ。
これでこっちのスレも盛り上がるとイイんだけどな。(w
205日本@名無史さん:02/06/12 16:04
>>204
>北九州説を孤独に語る

畿内説のアホって言ってるだけで九州説なんか語ってないじゃん。
あ、騙ってるのか。
206日本@名無史さん:02/06/12 19:21
起源はポリネシア文化をパクッた縄文人の中の一番の勢力を持ってた人達
弥生人も半島人も北方アジア騎馬民族も全く関係無し
弥生人に北九州だけでなく西日本も占領されてしまった彼等は
一発逆転を狙って先ず日向に下がり力を蓄え、気付かれないように畿内
に船で移動、その後の彼らの活躍は語るまでも無い
207日本@名無史さん:02/06/12 19:23
俺は北海道説提唱中・・・
208日本@名無史さん:02/06/12 20:43
「ヤマト」とは「山の戸」の意味で、「聖地」を指す言葉だった。
春分の日に三輪山の頂きから太陽が登る事から来ている。
(と言うか、三輪山をそういう使い方をした)
三輪山が、まず「ヤマト」であって大和政権の聖地。
大和政権自体も、日本の聖地の自負を持ち、ゆえに「ヤマト」と称した。
2重の意味が込められているんだね。
209日本@名無史さん:02/06/12 22:19
魏志倭人伝を読む限り、宗教の名前だったような気がする。
邪馬台教ね。それが、後年国の名前になった。
210204:02/06/13 01:09
>>205 ヤマタイスレの流れちゃーんと読んでる?
何回も告知してるよ、おれ。(w
>>208氏は向こうの298-300の人かな?こっちへ来たのか(w
・・・確かに向こうよりはこっちのほうが内容的にあってるかもね。

さて、では>>202-203氏への疑問反論といかせて頂きましょうか(w

まずは天照と三輪山の関係について。私はこの二つは相反する存在だと思うんですが。
神武=祟神説を唱える人は結構いると思います。ただ私は上記の事から、この二人は
別人であったと考えたい。祟神は基本的には大物主(在地系、国津神)を信仰してい
たはずだ。確かに彼は一時天照を祭ったが、すぐに笠縫邑に移してしまっている。次の
垂仁はさらにこれを伊勢に遠ざけた。景行に至っては、ヤマトタケル(息子と言
われてはいるが・・・実際は九州、渡来系では?)に天叢雲剣まで預けてしまって
東方に向かわせている。
(天叢雲剣はヤマトヒメからもらった事になってるが・・・ヒメも渡来系なんだろうな。
 天叢雲剣については出雲の渡来系の事も書かにゃならんが、ちょっとまってねw
 ややこしくなるから後日折をみて。)
要するに祟神〜景行のラインは畿内の在地勢力であろうという事だ。東征後、九州
勢は天照信仰と神器文化にを畿内側に薦めた。しかし畿内勢はこれを良しとせず、
政治的に抵抗をした結果、このような行動にでたのではないだろうか?
次にニニギについてだが。
これもわざわざ畿内から九州へ降臨したと読まずとも、そのまま半島より渡来し九
州系の祖となった、と読めばいいのではないですか?一度畿内まで来てまた戻るよ
うな面倒な事させなくても。(w
ニニギを祖とする神武は東征を行った。しかし先に述べた通り、神武はこの時点で
はまだ畿内を完全に掌握できなかった。腹心の部下である、物部系(ニギハヤヒ
を祖とする。別途渡来系か。または出雲系の渡来人か)大伴系(神武と同じ九州
勢の一派)を派遣し、三輪山を南北から挟み、畿内王室の両脇を抑えた。だが政
治的には在地勢力にかなり押されていたと考えられる。
九州勢VS畿内勢の政治的な争いは、この後100年単位で続いていったのではない
だろうか。大伴の失脚(同じ九州系の鎮圧に失敗)、物部の敗北(天照信仰の敗北、
出雲国津もか?)、畿内勢である蘇我の台頭(政治改革に仏教を導入)などの流れ
を見ると、水面下で九州対畿内の政争が行われていたように思えてならない。
211204:02/06/13 01:17
続いて軍事の面からですが。
仲哀〜神功〜応神に至る半島への進出は架空とする説があるが、好太王の碑文
(これも改ざんの説があるから説得力に欠けるなw)と合致して読むとするな
ら、その際、軍はどこから派遣されたかという点が疑問になってくる。
九州勢は実際の勢力を九州に駐屯させていたのではないだろうか?
畿内は銅鐸文化が象徴するように、それぞれのクニが共同体として集団を構成
していた社会だ。これは東征後も同じで、先に述べたヤマトタケルが東方に向
かう際、鏡と剣で相手を服従させていったやり方は、考えてみれば銅鐸と鏡が
入替わっただけで、威圧するというよりは共同体としての再認識を利用した
ものだとも考えられる。
一方九州は戦乱が多く、常に緊迫した状勢が続いていたはずだ。単純に考えれ
ば半島に進出した軍団は、やはり九州から派遣されたものだとするのが筋だろ
う。5世紀にかけての西都原古墳群などはその勢力が存在した証だとも言える。
さて、高句麗の登場によって半島への進出が困難になり、倭王こと九州の王は
政策転換を迫られる事となった。半島進出は諦め、ここでようやく本格的な倭
の統一へと向かうわけである。
対外政策としては、北へ進めぬ事から、大陸の南朝に朝貢する政策を取ること
となった。100年空いてようやく宋書などに倭国が再登場するのである。

以上、いわゆる空白の4世紀とはこんな時代だったのではないでしょうか。
半島進出を伺う九州勢力が、国家としての倭を強調する為、九州、出雲地域だ
けでなく、畿内勢力をも取り込もうとした。(軍事というよりは政治的な意味で)
一方畿内勢力は、これまで続いてきた共同体的なクニ集団社会を維持したいと考え、
ある点は妥協し(ニギハヤヒの婿入りなど)、ある点は反発し(伊勢への遷宮など)
進退繰り返しながらも、やがては九州・渡来系を受け入れていった。
212日本@名無史さん:02/06/13 23:10
>>210
>何回も告知してるよ、おれ。(w

もう一度書けといわれて逃亡したくせに。
書けるもんならもう一度書いてね。ここじゃスレ違いだからあっちに。
邪馬台国の場所と、どういう行程でそこにたどりつくのかは最低限明記してね。
213月光仮面:02/06/15 00:33
>>200
だから、魏志倭人伝は九州のことについて述べてるわけ。わかった?
決勝トーナメント出場バンザーイ!!

>畿内マキムクに乗りこんだ半島出身の武闘派集団こそが大和の始祖であり、その中心にアマテラスがおり、

これは確かに間違いであった。
大和草創期では三輪山自体が御神体であり大国主命(大物主神)が最高神であったというのは事実だろう。
アマテラスを最高神とした高天原神話は後世に創作されたものと言われており、おいらもそう思う。
(従って伊勢神宮の遷宮と政変には、なんの係わり合いも無いものと思われる。)
そうは言ってもスサノオ、オオクニヌシ、オシホミミ、ニニギなどは地上に降り立った神であり、その内容
から全くの創作というわけではなく、なんらかの史実が反映されているということを前提に推論を進めるの
である。考えてみればオオクニヌシあたりが大和(マキムク)の始祖だろう。
まず第一波渡来系が先住民と融合し、出雲や唐子・鍵で銅鐸文化を発展させた。第二波渡来系がオオクニヌシ
であり鉄製武器をもって出雲から大和を凌駕した。
以来、出雲では代々首長をオオクニヌシとし出雲王朝として君臨した。当初は大和(マキムク)はまだ出雲の
出先機関であり、オオクニヌシを最高神とし、三輪山に具現化して信仰の対象とした。
やがて東西の交易拠点として繁栄した大和は、経済的にも軍事的にも大国となり列島制覇への野望が膨らんで
いった。そして出雲の国譲りから中つ国平定、天孫降臨、神武(崇神)東征へと時代は進む。
その後、大和朝廷が確立し皇国史観のもと万世一系の高天原神話が発生した。(6世紀はじめ)
それでもオオクニヌシは大和の源流であることから排除されることなく、後世まで厚く信仰の対象とされ
出雲も繁栄した。

>>210-211
ごめんよ、言ってることがよく判らん。邪馬台国とニニギ天孫降臨の相互関係が全く説明されてないし、
壹與の最後の朝貢(266年)から楽浪・帯方滅亡(313年)まで約50年あるが、この空白はどう説明するの?
大和王権が邪馬台国の延長であるとするならば、この空白(断絶)は説明しようが無い。
これは従来の畿内説、九州説いずれも同じこと。
それと (w ってのは止めてくれないか?
いつもヘラヘラ笑ってるやつとはあまり話したくないんだけど・・・。
215日本@名無史さん:02/06/15 12:50
202〜214

電波は、入スレ禁止
1を見ろ
箸墓古墳についてだが、出土した特殊器台形埴輪・特殊壷・特殊円筒埴輪などから吉備色が濃いとされている。
オシホミミの吉備平定を考えれば、年代的には箸墓をオシホミミの墓としてもおかしくないのではないか。
(年輪年代などからして、卑弥呼をも遡る可能性が出てきたことだし)
オシホミミはアマテラス(創作)の子とされていることから、実際はオオクニヌシの子ということも出来る。
そうすればオシホミミは大和建国の祖とすることもできるわけで、巨大古墳箸墓の主体としてもおかしくはない。
一方、嫁さんであるトヨアキツシヒメはオオクニヌシ(=大物主=三輪山)とともにオシホミミを手厚くお祭りした。
モモソヒメ伝説を考慮すれば、箸墓はオシホミミとともにトヨアキツシヒメの墓ということも考えられる。
217日本@名無史さん:02/06/15 22:45
俺も言っとこ。決勝トーナメント進出おめでとーッ!
ついでにイングランドと当たるまでガンバレー!

あのー>>214サン、私のw、は決して侮蔑でやってるんではないんですよ。
自論を強く主張しすぎたかなーと思った時に丸めの意味で使ってます。
ただ嫌いなら以後は控えるようにします。
内容にいきましょうか。
三輪の大物主ですが、大国主(オオナムチ)というよりは、やはりここは
同じ流れを組む三番目の祭神、少名彦の要素の方が強いのではないですかね?
お酒の神様でもありますし。古事記にあるように少名彦が消えて(畿内へ移
った?)奉じた流れがありますからね。分家と言うと語弊があるけど、出雲
の一部が畿内に入って大きく栄えたとするのはあなたと同意見です。

ただ古事記を一気に直線読みする点はどうかなあ。大国主の国譲りの後、ニ
ニギの降臨のとこは切るべきじゃありません?大国主は出雲系、スサノオの
系列(もっと詳しく言うとさらに別れるんだけど…なんせ出雲は奥が深いか
らね。ちょっとづついきましょう)だからね。ニニギは天照の直系、即ち直
接渡来の九州系ですよ。この2派が畿内に進出してくる過程を古事記は物語
ってるのですから。縦に続けて読むと確かに一本化しちゃいますよね。

あとヤマタイについて触れないといけませんか?(荒れそうでコワイんすけどw)
266年の使者は殆ど挨拶がてら(晋の成立による)で、まともな使者は248
年以後無くなっています。これは単にヒミコが死んだから、というだけでなく
倭の外交に対する考え方が変わったからでしょう。
先の>>211でも言ったけど、九州勢(南方)は倭を一国家として政治的に団結
された集団と位置付けたかった。(半島進出を覗ってたのだから)しかしヒミコ
がやった事は逆で、それぞれのクニは事実上バラバラだし、何かあったら魏
に助けてもらおうや、という安穏とした考しか持っていなかった。彼女の死後、
争いが起り、実際権力を握ったのは南九州勢(降臨渡来系)と思われる。故に
その後、五王の使者達は位をくれ、半島の利権を認めてくれ、とは言ってるが、
何かあったら助けてとは言ってない。いや、言えないよね。強い国家を打出した
いんだもの。だからヤマタイが倭王権に直結すると、政治的な矛盾が出てくるん
だよ。ヒミコが死に、ヤマタイ体制が衰退して、倭王権の一派、南九州系が台頭し
てきた。ま、もともと南は強大なクニではあったんだろうけどもね。

あと九州VS畿内の政争について補足ですが。解りにくそうなので。そんな政変
みたいな意味じゃないんですよ。現代で言うなら、自民党の派閥争いをイメー
ジして貰えればよいかとw。改革改革と叫ぶ小泉さんが言わば九州勢。国民大
多数の支持があるにも関わらず、党内最大派閥の橋本派(畿内勢ね。青木、野中
ムネオなど)の顔色を伺わないといけない。総選挙(海外とのいくさ)します
よーって時は、ホイホイ祭り上げるくせに。幹事長には盟友山拓(大伴ね)を、
官房に福田(ニギハヤね、どっちの味方かわかんないしw)をつけたが、彼等
はどうもうまく動いてくれない……とこんなイメージかな。
そういう意味じゃ日本って結局、昔から保守王国なんだよねえ。


218日本@名無史さん:02/06/16 12:15
すげえ電波だな
219日本@名無史さん:02/06/16 12:43
俺の説は、一番倭人伝を忠実に読んでいる・・・・・・・・・・・って豪語してるヤツほど電波度が高い











































という、邪馬台国論争の定説を見事に証明してるな。
220日本@名無史さん:02/06/16 13:07
でも、まったく魏志倭人伝読まない電波よりまし。
>>217 (w は自嘲の意味があったのね。でも紛らわしいからやめたほうがいいでしょう。

おいらは自説を他人に強要するつもりは一切無い。単なる自己主張かな。そうしてると結構勉強になるし。
で質問ですが・・・

スサノオ(出雲)系とアマテラス〔南九州)系にわけるのね?高天原が半島というわけか。
どんな経路で南九州に天孫降臨したと言われるのかな?
北部九州(伊都国、奴国など)はどうしたの?征服したの?それとも迂回?
肝心要の邪馬台国は?征服?同盟?それよりもどこだとお思いか?

それと九州と畿内がその時点で連合してたとおっしゃってるのかな?それで派閥間の内輪もめ?
それとも南九州勢が最終的に列島制覇?
ますます言ってることがわかんね。???ばっかしでごめんよ。

倭王権を語るには倭人伝はもちろん鏡も墓も土器も避けて通ることは出来ないと思うよ。
思い切り自説をぶちあげちゃったらいかがですか?
222日本@名無史さん:02/06/16 21:53
>>219 って言うより、倭人伝そのものが、当時であっても電波。
223日本@名無史さん:02/06/17 00:24
倭人伝なんて史料価値あんのか?
だいたいそんなにご立派なもんならこんなに延々論争がつづくわけない
無視して考古と記紀でやった方がいいと想う
224日本@名無史さん:02/06/17 01:21
記紀も電波。そして考古も電波。日本史は電波の歴史。
225日本@名無史さん:02/06/17 01:58
だから何も結論は出せない、っつうなら、それはそれで一つの見識だが、
おそらくそうではあるまい。

自分の説だけは、何の根拠もないけど正しいんだよな。
226日本@名無史さん:02/06/17 02:01
まずは訂正から。
スクナヒコナは少彦名、が正解ですねw。カタカナは長いなー、と思って
順繰りに変換したらああなっちゃいました。スンマセン。
>>221
自論としては、そうですね。先に書いた通り、渡来してきた勢力、大きく分
けて九州系と出雲系(これも繰返しになるけど分けると細かくなりますが)
の2派が畿内に進出してくる過程が倭王権への流れと考えています。
だけど勿論、私も強要するつもりはないですよ。ただ疑問が生じた時は、先レ
スのように質問・反論させてもらっています。
北部九州は征服と言うより靡いたんじゃないですかね。戦は起ってるけれど、
これも前述の通り、目標はあくまで半島の利権(利権ルートの確保、の方がいい
のかな?よけいヘンかな)ですから。同様に東征時にもそんな大群勢では動いて
いないと思われます。時期的に三韓が成立していく年代でもあるし、身内でゴタ
ゴタしている状況ではなく、早いとこ倭も団結し、一国家としての概念を確立し
なければならない、いわば一つの転換期だったと言えるでしょう。
あと九州と畿内の政治確執は>>210の後もさらに続いていったと思われます。
その後、蘇我氏は殺られちゃいますよね。殺った側の中臣(藤原)鎌足はタケ
ミカヅチが祖でしたっけ?…あー手元に資料がないんスよ、今。国譲りに出て
きた雷のやつね。という事はやっぱ渡来系だし。あと解り易いとこでは時代前後
するけど、太子なんかはその対立を立ち切ろうと政治改革を打ち出しますが、
今度は新羅に偏りすぎて、結局一族が滅んでしまう。
先に自民党の例を出しましたが、分裂するのは容易だけど、2派が一本化する
なんてのは相当な難儀ですよ。記紀が成立した年代ぐらいにようやく、争いも
下火になってきたんじゃないですかね。7世紀終盤からは日本の政治も本格化
します。唐のそれに習ってね。(という意味ではやっぱ太子はエライのかw)
それまでの血族の闘争からより政治色の強い政争へと時代が転換していく訳
ですね。

ただこれはあくまで中央政治のことを言ったまでです。天下取ったとかそうい
う意味とはまた違います。倭王権の成立ですからね。列島制覇とか本格的な統
一の話は南北朝から戦国期の話だと私は捉えています。
227日本@名無史さん:02/06/17 07:03
>>226を追い詰めると西都原ぁーって荒らし始めるぞ。気をつけろ!
228日本@名無史さん:02/06/19 17:47
日向小次郎
229>194:02/06/19 18:11
ヒキコモリと言う言葉は半島起源です
230日本@名無史さん:02/06/20 23:44
607年遣隋使を送った時は倭国は「日出ずる処」とした。
670年韓半島では「三国史記」に「日本」への国号変更が記されている。
701年の遣唐使においても「日本」への国号変更を宣言している。
さて、その時日本の使者は「日本」を何と発音したのだろうか?
「ひのもと」or 「にほん」 or 「 にっぽん」 or 「ヤマト」??
俺が持ってる本では都合良くこの時だけふりがながふられていない。
著者もわからなかったんだろう。
まじめなご意見を求む。
231日本@名無史さん:02/06/21 15:20
>230
当然、その時の唐の発音で発音したでしょう。
232日本@名無史さん:02/06/21 18:19
南朝ふうの発音じゃねえの?
233日本@名無史さん:02/06/21 23:58
もともと「ヤマト」なんてのはその時点では無かったんでないの?
隋書倭国伝の研究から「邪馬台国 = ヤマトァ」の存在が発覚。
急遽、倭を「ヤマト」と読むことにし、日本をも「ヤマト」と読む
ことにした。記紀の内容の乱れようからしてそう思うのは俺だけか?
234日本@名無史さん:02/06/22 00:00
わかってるじゃん。あんただけよ。
235日本@名無史さん:02/06/22 00:23
「邪馬壱国」はなんと読むのですか?
236日本@名無史さん:02/06/22 05:32
隋書倭国伝

「其の地勢は東高くして西下り、邪靡堆に都す、則ち魏志の所謂邪馬臺なる者なり」

隋の時代の「日の出ずる国」の都は「邪靡堆に都す=大和に都す」だから、
ちゃんと邪靡堆=大和=邪馬臺と答が書かれてあるじゃないの。何を争ってんの?
237日本@名無史さん:02/06/22 06:46
なんだ、俺だけか、つまんね。
238日本@名無史さん:02/06/24 11:15
>>236
ふんふん、なるほど。答えが出てんのねん。
ここに、「隋の記録は、誤って 邪馬台=大和 を直結した」と言い出すと切りが無くなる。
239日本@名無史さん:02/06/24 11:39
わざわざ「堆」という別の字を使って発音を示したのでは?
240日本@名無史さん:02/06/24 12:04
>>239
では「ヤマタイ」と読むのかな?
241日本@名無史さん:02/06/24 13:06
午後は皇太子さまお気に入りの「2ちゃんねる」で催される吉野屋
オフに参加されるなど、庶民的な一面を覗かせました。
愛子様の頭にやさしく手をおかれ定番の特盛りを注文なさる皇太子様、
雅子さまの「お茶キボンヌ」の声に、周囲がどっと沸き返るというような
一幕も見られ、会は終始和やかに執り行われました。
皇太子様ご夫妻はとても満足されている様子でいらっしゃいましたが
報道陣に向かって「もう少し、殺伐とした雰囲気が欲しかったかもしれません」
などと明るく冗談まじりに仰っていました。
242素人天皇:02/06/24 20:01
故大毘古命者隨先命而罷行高志國爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共往遇于相津故其地謂相津也。
是以各和平所遣之國政而覆奏爾天下太平人民富榮於是初令貢男弓端之調女手末之調。
故稱其御世謂所知初國之御眞木天皇也。
243世界@名無史さん:02/06/24 22:01
>236
「靡」にマなんて読みはないぞ。ビだ。
それに隋の時代、隋書が書かれた唐の時代は中古音だから「邪」もジャ。
ジャビタイ国。
244日本@名無史さん:02/06/24 22:57
>240
「堆」でわかるのは「台」であって「壱」ではない、ということだけ。
しかし「靡」も「馬」と同じと言っているのだから「摩」かなにかの誤記ではないか?
「邪」を「ヤ」と読むのはたしかに強引だと思う。
「邪」が「ヤ」と読めないなら「邪馬台国」は「ヤマト」ではない。
245日本@名無史さん:02/06/24 23:20
はいはい! で、「邪」が「ヤ」と読めないってのは誰のトンデモ説?
246日本@名無史さん:02/06/25 00:34
>243
244の続き。
現代中国語の「邪」は「ジャ」にあたるxieの他に同音異義としてyeがあるね。
これにあたる昔の音が「ヤ」にあてられたとすれば「邪馬台」と「ヤマト」は
子音において一致するから、「邪馬台=ヤマト」はあながち無理とは言えない。

それともう一つ。隋書が書かれたのは唐の時代だから中古音、というのは言えるのか?
例えば清国の時代に作られたと思われる「亜州」(アジア)の「亜」は現在の音(ya)
によっていない。同じく「紐約」(ニューヨーク)の「約」は明らかに現在は発音され
ない末尾のkを意識している。音標としての漢字の使い方には案外保守的古典的なところ
があるのではないか?
247日本@名無史さん:02/06/25 00:51
↑訂正:
同音異義 → 同字異義
248二音@名無史さん:02/06/25 01:37
問題はタイはトではないということだな。
249日本@名無史さん:02/06/25 14:38
>248
「台」の昔の音がどのような定説になっているのか、知らないが、北京語より
は昔の音をよく残していると思われる広東語では「トイ」だ。
この「トイ」の母音は発音記号で言えば英語のexploit の oi と同じ。

そうすると残りの問題は末尾の「イ」が余計、ということだが、漢字による
外国語固有名詞の表記にそこまでの一致を期待するのは無理ではないかな。
現在の地名の表記でも、もっとひどいのはいくらでもある。
250名乗って:02/06/25 18:18
元々は宗教的な王権と成立したのものが
半島情勢の変化に対応して、次第に軍事力を背景とした
王権へと変わっていった
それまで、巫女を中心とした緩やかな連合政権だったものが、
半島からの渡来人達の増加で、勢力分布に変化が生じ
東→西へと勢力の移動が始まる…
ってのが、イワレヒコ、ミマキ、イクメ辺りの記に現れている…と思う
251日本@名無史さん:02/06/25 19:24
>250
さっぱり具体的なイメージがわかない。
252 :02/06/25 21:29
「働」の漢字は日本人が創ったんだよ
253日本@名無史さん:02/06/26 00:09
>250
具体的なイメージが全くわかない。
254226:02/06/26 01:37
>>250 私は分かりますよ。(おっしゃる意味はね)

そうするとイワレヒコだけでなく、ミマキ、イクメも九州系と言う事ですか?
私は>210で垂仁は在地系だと言いましたが、確かに久米と聞くとそちらにも
一理あると思います。古事記の神武の皇后を決める下りはまさにそうですよね。
久米の祖(何だったかなw、また忘れちゃった)が大物主に縁を持つ姫を紹介
しますよね。つまりこの姫の生んだ子から派生する系統(子か孫かまでは解ら
ないけど)に垂仁がいるのではないかと思います。
要するに九州派の久米が立てた在地の血統を持つ王という訳です。しかし>210
にも述べたように、九州派が立てたにも関わらず、畿内派の圧力を受けてます。
自らの大物主を祭り、九州の象徴天照を遠ざけているからです。九州派には未だ
この時点では畿内を牛耳るだけの政治力はなく、また軍事力も九州から動かせな
かった(半島状勢から)のではないかと思われます。
255名無し:02/06/26 02:32
畿内の在地勢力
日子坐王、息長宿彌、多遅摩守、磯城県主…
に元々の畿内王権の実像が隠されている気がする
256日本@名無史さん:02/06/26 15:54
日本列島は、太古より諸民族の流れ着く先であった。
縄文、弥生、古墳時代、上古までも続いた。
大陸の生存競争に敗れた民族は、日の昇る方向、東に向って流浪し落ち延びた。
日本列島より先には、もう陸がない、諸民族の吹き溜まりと言って良い場所だ。
何時でも背水の陣、逃げ出す所はない。そんな環境が、日本人の幾つかの美徳を生んだ。
257 :02/06/26 19:30
日向と畿内2朝っすか
258sage:02/06/27 00:33
259日本@名無史さん:02/06/27 01:57
>>257
出雲や吉備も忘れてはいけませんな。
260  :02/06/27 15:36
どうして吉備が関係あんのさ?
261日本@名無史さん:02/06/28 21:34
後漢書倭伝に
大倭王居邪馬台国(案今名邪摩惟音之訛也)とある。(字が小さいからはっきりわからないけど)
邪馬台は邪摩惟(ヤマイ)のなまりであると言ってるような気がするんだけど、
邪馬台っていったいどう発音するの?本当にヤマトなの?
262日本@名無史さん:02/06/28 21:49
ヤマトだよ。
263日本@名無史さん:02/06/28 22:28
なんでヤマイがヤマトになるの?
お得意の定説ってやつですか?
264254:02/06/29 00:42
まずは>254の補足から。久米が立てた、としましたが考えてみれば大伴が率
いていた一派ですもんね。実力から言って大伴が立てた、とした方が説得力が
あったのかなあと後で気がつきました。
>>255
日子坐王、息長宿彌あたりは同感ですね。(日子坐王の記述差なんかはどこか意味
ありげだよねw)ただ多遅摩毛理にはすでに渡来の血が入ってるのではないでしょ
うか?彼の曽祖父(だよね?)にあたる多遅摩俣尾の方ならば納得するのですが。
磯城県主についてもニギハヤヒの流れを組んでいる所から、物部と同じく出雲か
又は別途の渡来系として、九州派よりも先に畿内に定着していた氏族かと私は考
えます。
>>260 少なからず吉備も畿内王権に関与していたと思われますよ。
ようやくここで箸墓の本筋に触れられますなあ(w。箸墓から出土した特殊器台
(埴輪の前身と言われている)は吉備地方の風習と深く関わりを持つ出土物です。
更にこの箸墓に埋葬されたと言われるヤマトトトヒモモソヒメはあの吉備津彦の姉
にあたると記紀にあります。ヒメは大物主の嫁として登場するのですが、残念な
ことに、その最期は真っ当な死に方ではなかったようですね。哀れに思った弟
こと吉備津彦は、彼女の埋葬の際、吉備の風習に用いられた特殊器台(埴輪)
をわざわざ畿内へ送らせたのではないでしょうか。なんと泣かせる姉弟愛じゃあ
りませんか(w
年代的にも崇神(四道将軍の派遣)〜垂仁(野見宿彌の埴輪導入)期にこれらは
当てはまりますし、墓の成立年、出土物、文献とどれをとってもまず吉備との
関係を無視する事はできないと思われます。箸墓とヒミコを直結する説がありま
すが、その前にこの点をよく吟味する必要があると私は思いますね。
265日本@名無史さん:02/06/29 18:42
>261
「邪馬台国」の文字について、どれか一つの文献の表記を取り上げて
論議してもらちがあかないから、表にして見た。

文献      成立年    記事
魏志倭人伝   285   南至邪馬壱国、女王所都

後漢書倭伝   432   其大倭王居邪馬台国

梁書倭伝    636   至邪馬台国、即倭王之所居

隋書倭国伝   656   都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬台者也

北史倭国伝   659   至邪馬台国、即王所都

通典辺防門倭条 801   其王理邪馬台国、或云邪摩堆

太平御覧倭条  1003  倭王居邪馬台国、倭今名邪魔惟音之訛反

以上。互いに食い違いがあってなんとも断定できないが、全体を通して見れば
邪馬台=邪摩堆 
あたりが妥当な所として浮かび上がって来るのではないか?   
266日本@名無史さん:02/06/30 00:33
宋書倭国伝(488年)では倭国(ワコク)以外の表示は無いようだ。
また梁書倭伝(635年)では祁馬台(キバタイ)となってるぞなもし。
聖徳太子が最初に遣隋使を送った時(607年?)は「日出ずる処」。
つまり、この時点ではまだ「ヤマト」という地名はどこにも無いんだな。
自然な考え方をすれば「邪馬壹=ヤマイ」が「邪馬臺=ヤマタイ」に誤植され、
6世紀以降の日本の皇国史観にもとづく「邪馬臺=倭=ヤマト」という世紀の
大捏造がなされ、隋書倭国伝以降「邪馬臺=ヤマタイ=邪摩堆=ヤマト」が
市民権を得たということではないか。そう考えてもどこにも矛盾が無い。
267日本@名無史さん:02/06/30 00:55
なぜ後漢書を見てみないフリをする。

>また梁書倭伝(635年)では祁馬台(キバタイ)となってるぞなもし。

壹ではなく臺であったいう証言だな。
祁と邪の違いをもって、壹と臺の違いを無視するとは、まさにペテン師。
268日本@名無史さん:02/06/30 01:02
後漢書の無視と壹臺の違い無視でダブルペテンっすね。
269日本@名無史さん:02/06/30 05:35
>266
遣隋使が持って行った国書なんて残ってない。あるのは中国側の引用文だけ。
だからどんな国名を使ったか分からない。
もっとも私も「ヤマト」ではなく「倭国」だったと思ってるがね。

なぜなら現在も含め、倭/日本は「ヤマト」という国名を対外文書で
使ったことはないからだ。
270名無し:02/06/30 06:25
魏史の時点ではいわゆる旧国名は全然成立してなくて
イト、マツラ、ナ…等々地名がそのまま国名になってる感じがするね
隋書では、筑紫、秦王国(スオウ?)など旧国名が成立しかけてる
感じで、恐らく畿内大和国も成立してたんだろう

ヤマトって神話にもあまり出てこないね
天皇の名前にも(初代〜9代まではともかく)関係ないし
それにしては、なぜ代々、王都は「ヤマト」にある
と中国の使者、史書編者達には考えられていたのか…?

一応、旧唐書かなんかには、神武まで筑紫に都があった
とか書いてあった気がするけど
畿内大和の旧名って、多分「イワレ」だったと思うんだよね
神武(と思わしき人物とその一団)がヤマトの名称を
畿内に持ち込んだのかな?
271日本@名無史さん:02/06/30 09:25
>267
>>261を見てごらん。ヤマイと書いてあるでしょ。
それと俺は祁馬台(キバタイ)でもいいんだけど。
ようするに、魏志倭人伝のころは「ヤマト」は存在しなかった
ということを言いたかっただけなのよ。
272日本@名無史さん:02/06/30 13:03
魏志倭人伝に

南に進んで邪馬台国に達する。ここは女王の都しているところで、水行十日と
陸行一月の日数がかかる。
官に伊支馬があり、次を弥馬升、次を弥馬獲支、次を奴佳テイ(革是)といい、
七万余戸の人家がある。

とあり、
伊支馬(イクマ)はイクメイリヒコ(垂仁)、弥馬獲支(ミマカキ?)はミマキイリヒコ
(崇神)と関係があるように思います。
273日本@名無史さん:02/06/30 13:52
>270
だから九州説はヤマタイ/ヤマトという地名が九州にもあったと考える。

それと、「ヤマト」という国名はなくても「倭国」という国名はあった。
イト国、マツラ国、ヤマタイ国等と「倭国」とでは「国」の意味が違う。
前者は部落国家の意味、後者は全体名称。
274日本@名無史さん:02/06/30 14:58
大和=大いなるワ(倭)人の国

ヒミコ亡き後、戦争に負けて西上し畿内に定着。
よって九州説・畿内説どっちも正解。
275日本@名無史さん:02/06/30 15:07
えっと、総合すると、日本の地名から「キバイ」を探せば
いい、ということなんだね。
276日本@名無史さん:02/06/30 16:32
>274
>ヒミコ亡き後、戦争に負けて西上し畿内に定着。

それが九州説。
ただし戦争に負けてか勝ってかはわからない。
277日本@名無史さん:02/06/30 16:42
神武東征とは邪馬台国の移動のことなんですよ
278日本@名無史さん:02/06/30 16:53
卑弥呼の前の男王は、ダメなのか?
279日本@史立寄さん :02/06/30 23:35
>>265
7世紀の、それも中国の書物出してきたところで仕方がない罠。
>>270
語呂合わせなんかしていたら記紀の中身は同一人物だらけ。

邪馬台国は別でヤレよ。
280日本@名無史さん:02/07/01 01:00
>>270
>それにしては、なぜ代々、王都は「ヤマト」にある
>と中国の使者、史書編者達には考えられていたのか…?
考えられていたっていうか、やって来た「倭人」がそう言ってたんだろ(w
281日本@名無史さん:02/07/01 02:21
>>270 九州系が倭名を持ちこんだという点には同意。
但し人名としてまで。
漢籍の原文読んだ訳ではないから>280の真意はわからないが、
都市の読みについては、漢籍の書き手の意図を考慮する必要がある。(記述の前後を)
>279の言うように、確かに7世紀にもなってその読みをしている事自体が
不自然である。
282日本@名無史さん:02/07/01 06:36
奈良は昔からずっとヤマトなんだからしょうがないじゃん。
283日本@名無史さん:02/07/01 21:36
「ヤマト」(音は当時と違うと思うが)の言葉には、本来は、
1.「山の戸」の意味と、
2.「ヤ」+(何かの装飾語尾)
のどちらかだろう。
1なら、なぜ山に拘ったのか解らん。
(三輪山とは関係あると思うが)
2なら、「お宮」という言葉の成因と関連している。
「お・み・や」は御+御+「ヤ」だからだ。
当然、「ヤ」は「神気を帯びた場所」ていどの意味である。
或いは、「ヤマ」という言葉は、「ヤ」と「マ」(間・はざま)の合成語かもしれない。
「神聖な天に向って隆起し、天空を2分するモノ」という理由から。
どちらにしても、「ヤ・マ」までは太古より温存しているよ。
284日本@名無史さん:02/07/01 21:40
>>271
君は、ダンボウか !

案今名邪摩惟音之訛也

これは、唐の李賢註。『今の名』とは唐初の倭の都の呼び名で、
ヤマトである事を疑う必要はない。隋書に

都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。

とある通り。後漢書の方は誤刻。

李賢は、唐代の音で『邪靡堆』と『邪馬台』が異なっているので、
魏から唐までの間に音が変化したのだろうと推測しているのだよ。

>ようするに、魏志倭人伝のころは「ヤマト」は存在しなかったということを言いたかっただけなのよ。

ようするに、まったくの的外れ。

よしんば、李賢註が誤刻ではなかったとしても、
『唐初の倭国の都がヤマイ(邪摩惟)で、
これは古い時代のヤマト(邪馬臺)から音が変化したためである。』
ということにしかならない。(これが馬鹿げているのはいうまでもないが。)
285日本@名無史さん:02/07/01 23:22
後漢書の別の写本では(邪摩推)になってるしね。これで邪馬台はいま
ヤマユイ(後漢書注)
ヤマスイ(後漢書注)
ヤミタイ(隋書)
ヤマタイ(北史)
だって4証言がでたわけよ。
結果−多数決でヤマタイ
286日本@名無史さん:02/07/02 01:00
>284
今回は素直に退散しましょ。(屁理屈がないこともないけど)
また攻め方を変えて出なおしますわ。ありがとね。
287日本@名無史さん:02/07/02 03:26
>>283
なぜ山にこだわったのかわからんと言うけどさ、
日本語は音が先にあって漢字は後から当ててるわけよ。
福岡県には山神社ってのが分布してるぞ。
ヤマトがヤマの入口だとすると、
福岡市西区に下山門・上山門があり、
大牟田の方には山門郡があるわけだから
ヤマは福岡県だという推理も成り立つだろう。
厳密には小倉・行橋のあたりは含まない筑前・筑後だけどね。
これは今山製石斧の分布とも一致している。
石斧ったら縄文時代だ。
その頃からヤマと呼ばれる地域があったと考えると楽しい。
288日本@名無史さん:02/07/02 05:01
山戸?

音読みじゃん。
矢的だよ。
289日本@名無史さん:02/07/02 05:38
音読みしたらサンヘだろ、山戸。
290日本@名無史さん:02/07/02 06:03
あんまり言葉や音の正確さにコダワルなかれ。
「What time is it」が「掘った芋穿るな」でも通用することや、昔は
当て字が多かったことを考えませう。
291 :02/07/02 19:13
弥生人か縄文人どっちかだと思うよ
ただし畿内に移ってからは出雲系勢力も影を見せている
弥生人が渡来して来る以前から九州で勢力を持っていた蛮族の末裔だと思うが
292264:02/07/03 21:54
>>290 私もそう思う。前にも言いましたが、そもそも言語学上、日本語はどの語族
に属するのか未だはっきりしていませんからね。今のところは確かアルタイ語族に
分類されていたように思いますが。この語族にはトルコ系、モンゴル系、ツングース系
と遊牧民に系統を発する民族が多いようで、朝鮮、韓国もこの語族だとされています。
一方、漢民族やチベット、ビルマ、ベトナム等はシナ・チベット語族に、またインドネシア
や南方海洋民諸国はマライ・ポリネシア語族に分類されます。
>>256氏の言うように、太古の日本に流れ着いた人々は多種多様いたでしょうから、
言語的にはこれらが深く混ざり合ってしまい、その事が現代になっても日本語の正体
を掴むことができないという結果になっているのでしょうね。
人名としての倭、ですが。
久々に古事記を開きましたよー。自分でもあまりに忘れてる事が多いもんで(w
系図を見る限り、倭の法則性はあんまり感じられないのですが・・・
よっぽど深読みして、妻の方に何かあるのかなあ・・・ぐらいですかねえ。
あと>>264で触れた吉備氏のからみでは結構よく出てきているのかも?

ま、とにかく言葉や音に頼るのは難しいですよ。歴史以上に言語学の専門知識が
必要かと思われます。
293日本@名無史さん:02/07/03 23:35
素人ですが質問させてください。
3世紀に銅鐸文化や銅剣文化圏が消滅し、変わって前方後円墳と銅鏡の文化が
広がったというのは間違いないんでしょう?
で、その銅鏡文化の主体が倭王権だとすると、
倭王権の起原の秘密は銅鏡特に
三角縁神獣鏡に隠されているのではないかと思うのですが、
どうでしょう。
294日本@名無史さん:02/07/03 23:57
同意
295日本@名無史さん:02/07/04 00:20
銅鏡も銅鐸も、光と太陽の信仰に関係あるものなんだよ。
その点では、両文化とも、全く異質の宗教感ではない。
同じ土地で、そんなにガラリと別の観念が受け入れられるものか?
296日本@名無史さん:02/07/04 10:40
こらー。>294
誰もいないからといって自分で同意しちゃいかーん。

銅鏡文化の他にも倭王権の信仰文化ってあったよな。
297日本@名無しさん:02/07/04 11:43
しかし誰の意見を見ても神武東征が問題とされていないのが疑問。
確かに神話という面はそれだけで荒唐無稽とか否定されそうだけれども少しは見る面が
あるとは思う。
神武の存在自体は疑問視だけど、東征があった可能性は否定できない。
征服側にとって見ては自分たちの成功の記述は誇るべきものであって、これに関しては
嘘を書く必要がない。まさか権威付けのためだけに在りもしない東征を書くことはない
だろうし、もし権威付けに嘘を書くとするならば西征になるだろう(古事記には太陽の方向、 
すなわち東に対する攻撃は慎むべきとの記述がある)。
つまり神武東征の記述はそれに近い出来事が在ったというものであり。その過程の中で
高天原という地域が何らかの重要拠点であったという考え方もすてられないのではないのかと
思う。
298日本@名無しさん:02/07/04 12:10
>>296
高天原ではなく高千穂でした。
すいません。
299日本@名無史さん:02/07/04 12:43
遣魏使、遣晋使、…、遣隋使、遣唐使で倭人の使者の中には伊都國の時代から
「中国語」を解する者も居たんだよね?それとも「倭語」を解する通訳は中国
側だけに居た訳?まさかね。或いはお互いに漢字で筆談?邪靡(摩)堆 = 邪馬臺
と倭人が(漢字も理解しつつ)言ったという事はありえないかな?
>>297

神武は扱いが難しいと思う。漏れも東征(あるいは東遷)に反対ではないが、何時のことなのか?
よく邪馬台国東遷説なんてのがあって、漏れも以前ははまっていたけど、ある勢力の東遷が何時かは分からないとしか言えないのではないかなあ。
現在の学会では邪馬台国大和説が有力になってきていて、古墳の研究などからも納得できるんだけど、あまり神武伝説を真面目に取り上げていないんだよね。
邪馬台国時代でなくとも、例えばその数世代前に東遷のようなことがあった可能性は否定できないだろうけど、証明も現状ではできないんだよね。
301日本@名無史さん:02/07/04 15:36
>297
私は高天原とはカラのことだと思う。

天照大神だったか、ににぎのみことに「この国はカラ国に向かい合う
良い国だから行って治めよ」という意味のことを言うが、わざわざ
カラ国のことを言うところがあやしい。

私は天孫降臨とは九州侵略のことだと思う。
この第一段階と、第二段階の神武東征が、日本書紀前半の二大テーマ
だ。
302日本名無しさん:02/07/04 19:36
>>300
>>301さん
丁寧なレス有難うございます。
東征は確かに神話という側面がある以上どこまでを信じてよいのか分からないけど、
とある勢力の侵略過程を描いたという事は間違いないかと思う。
その征服勢力だけど、最近では騎馬民族による外征説が有力みたい。
しかし私はそれに疑問を覚える。もしも騎馬民族による征服ならば、日本史に
おける馬の位置がもっと高くなっており、馬による農業などによって全国的に馬が
広がっているのではなかろうか。
騎馬文化の発展が日本では見られない以上。騎馬民族征服説は的を得てはいないのでは
ないだろうか?
303 :02/07/04 19:42
騎馬民族が天照大神をたたえるようになりますかね
北九州に上陸しただけで弥生人に抹殺されてます
304日本@名無史さん:02/07/04 19:43
>最近では騎馬民族による外征説が有力みたい。

最近っていつのお話ですか?
305日本名無しさん:02/07/04 19:51
>>304
最近というか大学の講義で聞いた学説だからなんとも・・・。
その教授が「これが最新のものだ!」とか誇らしげに言っていた。
ちなみに自分は騎馬民族説など全く信じていないけど。
306日本@名無史さん:02/07/04 19:56
>305
その教授の実名を晒してくれ!
307日本名無しさん:02/07/04 20:00
>>306
山本だったか山木だったか。日本古代史の講師だった気がする。失念した。
ところで最新の学説はどうなっているの?
308日本@名無史さん:02/07/04 20:16
>307
騎馬民族説って、戦後間もなくに提唱されていて、一般受けは
極めてよかったけど、専門家の間ではほとんどまともに相手に
されていなかったんだよね。

近年では、専門家による一般向け批判本も出されていて、古代史
ファンの間でも、過去の遺物といった感じ。ヤマト王権は、日本列島
内で誕生し成長したというのが一般的ではないかな。
309日本@名無史さん:02/07/04 20:21
騎馬民族が天照大神をたたえるようになりますかね
北九州に上陸しただけで弥生人に抹殺されてます

310日本名無しさん:02/07/04 20:21
>>308
ありがとう。
あの教授・・・。ろくでもないやつとは思っていたが・・・。
311忍者部隊:02/07/04 20:29
神武が満州から九州に侵略して伊都国を建てた。

ところで神武は扶余族の王(仇台)であったが、扶余族は、馬は持っていたが乗馬はしなかった。
したがって騎馬民族説は誤りである。
312日本@名無史さん:02/07/04 20:33
>293 倭王権の主体は漢人特に公孫氏とのつながりが強い。
銅鏡の研究からこれを否定するのは無理です。
巻向遺跡が始まる頃公孫氏の一部が畿内にやってきて
(これが神武東征、実は逃亡だった。)
やがてその文化が広まっていったと考えられます。
313292:02/07/04 21:08
>>297、300 私もここまで多少、東征に触れてきたつもりなんスけどね・・・解りにく
かったかなあ。
>>291 出雲についてどう書こうか色々考えたんだけれども。流れを読むとやっぱり
信仰的な所から触れるのがイイのかな?
諏訪の御柱祭りって知ってます?(突然だけど、これが解りやすいかとw。できるだけ
全国にネタを絡めたいしね)7年に一度しか行われない長野の諏訪地方に伝わる古〜い
お祭り。(毎回死者がでる日本一危険な祭りとも言われているネw)あの祭のように
言わば木(柱)や山を御神体として奉じていたのが出雲の信仰文化だったと思うんで
す。斜面の上から御柱を滑らせる・・・これって大国主の受難の下りに似ていると思い
ませんか?また出雲大社は現在でこそ平地に立ってますが、元々は九つの大柱の上に
そびえ立つ神殿だったそうです。
諏訪大社も御神体は大神神社(三輪)と同様に山(守屋山)なんです。祭られてい
るのは大国主の子、建御名方とその妻八坂刀売命です。
これは国譲りの際、タケミカヅチが彼等を追い詰め、諏訪の地から出ない事を約束させた
という経緯がありますね。ただ諏訪にはそれよりも先に土着の人々による信仰や文化が
ありました。御左口神(ミジャグジ)というやつです。御左口神とは蛇神で、言わば
日本の信仰文化の源とも言われる、縄文的な信仰です。おそらくこれは太古の日本全体に
分布していた(勿論出雲畿内にも)と考えられ、不可解な石像文化や石柱遺跡等もシャー
マニズム的側面を持つこの信仰の名残ではないかと言われています。
スサノオのオロチ退治や大物主の正体が蛇であった等の記述から、出雲系の渡来人たち
は先住土着民と合い入れながら、東へ東へとその影響力を強めていったと考えられます。
畿内に入ってからは一旦落ち着き、大国主の分家という形でスクナヒコナを大物主として
ミジャグジに変えて三輪に祭ったのではないでしょうか。(諏訪大社はこのパターンです)
314日本@名無史さん:02/07/04 21:23
>311
とんでもない。
扶余と自称する高句麗の戦術は人も馬も装甲した装甲騎兵戦術だった。
高句麗の古墳にはその装甲騎兵の姿が誇らしげに画いてある。

そのための馬鎧、馬兜はカラの古墳からも出るし、日本の千葉県の古墳から
も出る。
千葉県の古墳から、なにかわからない螺旋形の鉄製品が出たことがある。
その正体は高句麗の古墳壁画からわかった。
鞍の後ろにつけて旗さしものを挿す、旗竿受けだった。
このようにディテールまで一致している。
日本にも装甲騎兵戦術は来ていたのだ。
315日本@名無史さん:02/07/04 21:28
単なるキャッチアップだけどねね。
316忍者部隊:02/07/05 01:25
>>314
扶余と高句麗は別種。
高句麗はチュルク(トルコ)民族。
317日本@名無史さん:02/07/05 01:40
倭王権から話題がズレちゃおらんか?
318日本@名無史さん:02/07/05 05:55
>316
なるほど、「高」は「高氏の〜」という接頭語だからはずせば
「句麗」=「チュルク」は音が合っているね。

しかし高句麗、百済の支配者は己を「扶余」であると歴史に書いて
いるが扶余と高句麗・百済の関係は?
319313:02/07/05 14:04
>>316、318 えー?うそぉー。
高句麗はツングース系じゃないの?ちなみに扶余もツングース系だよ。
私が>292の言語の為に借りてきた山川出版の本が間違いじゃなければね。
これによるとまずハク族が扶余を建て、その扶余の一部が高句麗を建てた事にな
ってますね。
ついでに百済の王家に扶余の血が入っているというのは、伝承的なものだとここ
には書いてあります。(言語の本なのであんまりあてにできませんがw)
320名無し:02/07/05 20:02
東征というか、畿内を舞台にした
権力者の交代は、3〜4世紀に実際に起こったことなのでは、と思う
ただ、それがどの大王の御代にあったことなのかってのは
伝承でははっきりしていなかったんじゃないかな
例えば、ある氏族にとっては、それが国譲りの伝承となって伝えられたかも
しれないし、ある大王、たとえばミマキ王の事績には
(外地から来たと思われる)疫病の流行や、旧権力である大物主のタタリ
が記録されていたり
あるいはナガズネヒコや、兄磯城、弟磯城を征伐する話になっていたり、と
同一の事象(東征)が様々な伝えられ方をされたため
書記編者達は、その中から幾つかの説話を選んで、地名説話などを
盛り込み、神武東征談を作ったのではないか、と思う
実際、(神武東征の)日向から難波あたりまでと、
それ以降の軍事作戦の話とでは
本来の別の伝承だったのではないか、という説もあるし
321日本@名無史さん:02/07/05 22:01
三世紀に祭葬方法が大きく変化しました。
しかしこれは日本人の宗教が変わったのではなく
方法が変わっただけだと思います。
日本人の宗教観の基本は祟り神信仰にあると思え、
銅鐸はその音により、
銅剣はその鋭い切っ先で魔除けとして
利用したものと思います。
で、銅鏡は画期的で祟り神封じ込めにあるのではないでしょうか。
古墳にあれほど大量に出てくるのも
鎮魂のためというより閉じこめるためにあると私は思っています。

今一人の女性が死期を迎えています。
その女性はあの祟り神と恐れられた大物主の妻です。
この汚れた死体をどのようにして埋葬するか、
もし大物主のさしがねで祟り神として復活すれば大変なことになります。
何とかしなければ、日本中がこの話題で持ちきりとなりました。
その中で中国系帰化人が新しい方法を提案しました。
そこで最新の魏鏡百枚を取り寄せ、封じ込めることにしたのです。
この葬儀の祭主を勤めた中国系帰化人はその国の王となりました。
322日本@名無史さん:02/07/05 23:43
高天原神話や神武東征伝説が作られたのは継体朝の時代(6世紀初め)であろうと言われる。
この時代、強い勢力をもっていた渡来系の東漢氏が、朝鮮半島統一を物語る檀君神話や
百済建国神話を持ちこんだのであろうと、ものの本で読んだ。
諸々の考察により、国生みから神武、欠史8代はほとんど創作であると考えて間違い無い。
(この先、考古学的にも文献的にも決して証明されることは無いだろうから)
アマテラス以下高天原の神々を歴史上の人物に比定するのは具の骨頂ではないか。
ヤマトトトヒモモソヒメとかヤマトヒメとか、おおよそヤマトと名の付く人物はすべて架空。
ヤマトヒメに至っては有りもしないアマテラス(伊勢神宮)の遷宮を行っている訳だし。

そうは言っても神武東征については記事が具体的であり現実的な面が多いことから、なにかの
史実を反映しているだろうことは俺も否定しない。(でないと議論にならんし)
そして、高天原至上主義の中でも、出雲建国の祖である「大国主=大己貴=大物主=三輪山」
が大和の地で今でも最高神として鎮座している事実はみのがすことは出来ない。
大和の源流が出雲にあることは疑う余地がない。そして出雲の源流はどこかというと、
半島南部それも蘇塗の住人(荒くれの食い詰め浪人)でないかと思う。
323忍者部隊:02/07/06 02:18
チュルク(トルコ)族はアルタイ山脈から出発し、アレキサンダー大王が中国に侵入しクブダン(長安)を建設する以前は、中国を
植民地にしていた。アレキサンダーに追われたチュルク族は満州に逃れ、ツングースと混血しやがて同化した。
要約すれば匈奴の別派が高句麗といえる。

扶余族には2系統あり、シルクロード系の前期王朝と南海系の後期王朝がある。
神武はシルクロード系。ニギハヤヒ(物部氏)は南海系。
「三国史記」が、高句麗から百済が分かれたするのは、高句麗を偉大に見せかけるための作り話。

百済の祖王は扶余族の仇台(神武)であり、福岡地方に伊都国を建てたが、4代あとの扶余王依羅が鮮卑に敗れて、数千人を連れて伊都国に逃げてきた。
そして、この地を百済の分国地とするとともに、倭人の王として共立され百済の近肖古王となった。これが日本史の崇神天皇である。
のちに、渤海が日本と通交する根拠となった。
324日本@名無史さん:02/07/06 02:29
>322 高天原伝説は渡来人の伝説で出雲伝説は在来人の伝説だと思うのですが、
人代以後つまり神武東征からは何らかの歴史的事実の反映ではないでしょうか。
325忍者部隊:02/07/06 02:29
依羅は扶余前期王朝の後身である東扶余の子孫。
父依慮の子弟は、沃祖の地にのがれて渤海となり、聖武天皇のとき来日し、自分たちは本国、日本は枝国と主張した。
326日本@名無史さん:02/07/06 04:58
>323
前半は色々あり過ぎて何とも言えない。

後半の、日本は百済の分国が始まり、というのは賛成。
ちょうど、ノルマンジーと英国の関係だ。
ところで日本書紀によれば雄略は百済王の即位に干渉しているみたいだが、
このころの日百関係をどう見る?
327日本@名無史さん:02/07/06 05:18
日本書紀はどうやって信憑性を確かめてるのですか?
328>322:02/07/06 05:54
おい、チョソ
壇君神話というのは10世紀以降に捏造された伝説だろ
電波飛ばすなよ。
329日本@名無史さん:02/07/06 10:38
>327
信憑性なんか確かめない。
そのように書いていることはなにか理由があるだろう。
実態はどうだったと考えるか?
ということを聞いているのだが。
330日本@名無史さん:02/07/06 12:55
>>323
>>神武はシルクロード系
経路は?
民族的には、海洋性?内陸性?
朝鮮半島は経由したのかな?
331319:02/07/06 14:48
>>323 忍者部隊さん、申し訳ないのですが匈奴が何族だったかはまだ確定
されていません。現時点ではモンゴル系が有力です。ハク族扶余系の高句麗とは
直接関係はございませんですよ。

>>326 英国とノルマンディ半島の関係の例え、おみごとです。
ただこの場合は、島国のイングランドの方が主各になりますね。
332319:02/07/06 14:55
>>320、322 確かに記紀は物語要素が濃く、全てを史実と受け取るには確かに無理
があるかと思います。ただもう一方で、日本で最も古い史書なのですから、これも
全てを作り話だと受け取る訳にもいかないのです。結局は読み取る我々の力こそが
一番重要なバロメータになってくるかと思われます。
>313が少しまとまりを欠いたので、補足します。
313は日向族が渡来してくるより少し前の出来事です。つまり東征時の畿内在地政権
には、既に出雲族が深く入り込んでいただろうという事を言いたかったのです。時代
区分で言うと弥生の前期〜中期に差し掛かる手前ぐらいと推測します。
日向族はこの出雲支配を熟知していて、渡来前に釘を差しに行ったのでしょう。それが
国譲りなのです。倭のトップ(当時はまだ大王という意識も無かったでしょう)である
出雲を抑えれば、倭の国全体を手中にできる、と踏んだのでしょう。(中原では成立
しそうな理論ですけれど)で、日向に渡来してきた。ところが。
実際フタを開けてみれば、畿内も、吉備も、さらに東の国々も皆そっぽを向いた訳
です。出雲以外、誰も言う事をきかない。大誤算だったのです。出雲族が支配して
いたとは言っても、実際の権力は各地の王が握っていた。これが倭国の共同体意識
だった訳です。(>>210-211参照。ヤマタイにもみられるように、トップとしては
立つけれども、自治は各王に委任した)
211で書きましたが、日向族(降臨渡来系)は倭を一国家として団結させ、半島勢力
と対等に渡り合うのが目標な訳です。ところがこの現状では。今更渡って来た道を
引き返す事もできず、結局ニニギ〜イワレヒコに至るまで、九州内で実権力をつけ
なければならなくなったのです。南の熊襲を相手に消耗するよりも、北のヤマタイ
連合を抑える方針を採り、半島への道を確保、そして万事整ったイワレヒコ(神武)
の頃、九州派はようやく東征に向かって行ったのでしょう。
333日本@名無史さん:02/07/06 15:55
なんか空想的スレになってる。
>>323
アレクサンダー大王が中国に進入して長安建設した? ハァー。
トルコ族が中国を植民地にしてたの? ハァー。
334日本@名無史さん:02/07/06 16:14
徐福=神武天皇 これ中国の定説
335日本@名無史さん:02/07/06 16:31
>331
時間的な経過を見れば同じだと思います。
英国王もはじめはノルマンジー/フランスにまだ本拠があるつもり
だったでしょうが、やがて英国の方が本拠になってしまった。

百済/日本も、最初は日本(倭)が分国だったが、やがて倭のほうが
百済を属国扱いするようになった。
(しかし最後まで本家ないし出身地としての意識はあったから、白村江に至る
泥沼に巻き込まれた)
336331:02/07/09 01:17
あ、そうか。ノルマンコンクェストのところですね。私はてっきり百年
戦争の辺りを想像してました、スンマセンw。
私もその例え使いたかったんですよねー、ワールドカップもあったことですし。
先を越されちゃいましたなあw。
ヨーロッパ諸国はこういう民族の歴史ってきちんと整理されてるんですよね。
(不明な点ももちろんあるけど。)それに比べて我が国は・・・どうして隠してしま
おうとするのか、一国民としては非常に残念に思ったりします。国家のルーツに
関わることなのだから、なんとか古墳をもっと調査、発掘するなり、宮内庁が伏せ
ている(あると思うよw)事実を公表するなりして欲しいですよね。
大化の改新の折に、天皇記と国記が焼失した(蘇我氏が燃やしたことになってます
が・・・畿内派に汚名を着せたのかも?)とされていますが・・・実は残っているんじ
ゃないのかなあ。怒らないからもし残っているのなら、ちゃんと出して欲しいですよねw。
337..:02/07/10 00:04
古代史って、稲荷山古墳の刀剣並の大発見でしか進歩出来ないんじゃないの。
結局のところ。
338日本@名無史さん:02/07/10 00:27
>>335
>百済/日本も、最初は日本(倭)が分国だったが、やがて倭のほうが
>百済を属国扱いするようになった。

朝鮮ではそういう説が主流らしいですが、何の証拠もございません。
同盟国つまり同格だったという可能性もございます。
339日本@名無史さん:02/07/10 03:02
中国/朝鮮(古朝鮮)も、最初は中国(周)が属国だったが、やがて中国のほうが
朝鮮を属国扱いするようになった。
340日本@名無史さん:02/07/10 04:44
北朝鮮の歴史家の説では
紀元前には漢と楽浪が世界の2大強国で
それを漢書が漢の一部であるかのように楽浪郡と書いたので
正しい歴史がわからなくなってしまったらしい。
ソースは昔読んだ金錫享・朴時享どちらかの本
341日本@名無史さん:02/07/10 06:34
檀君朝鮮の属国の商の属国の周
342日本@名無史さん:02/07/10 18:48
おいおい、また話しがあさっての方角へ向いてるゾ。

倭王権だよ、倭王権。
343忍者部隊:02/07/11 03:40
シルクロードの覇者であったウラルトゥを「伯」と表現するが、ウラルトゥはトルコのヴァン湖周辺に国家をつくり、BC1300年頃のアッシリアの碑文に初見される。
このウラルトゥ王国が日本史のウガヤ王朝のことであり、BC9世紀のアラメ大王を、天照大神として道鏡が日本書紀を書き換えた。

ウラルトゥの国民の多くは、フッリ人で構成されており、扶余族の「扶」は「フッリ人」を意味するのであろう。
BC5世紀頃、シルクロードを伝わって中国に扶余族としてウラルトゥがやって来た。
その中から神武(仇台)が現れたのである。

344日本@名無史さん:02/07/11 05:40
壇君朝鮮が商の宗主国であったように、百済は日本の宗主国というのが
学界の定説だよね
345>338:02/07/11 06:12
到底同盟国と言えるもんじゃありません。
百済は、限りなく日本の属国に近い存在。
特に雄略天皇の支援で再興されてからは、完全な属国と見ていいでしょう。
346日本@名無史さん:02/07/11 06:19
>>343
参考ソース プリーズ
347日本@名無史さん:02/07/11 07:31
>>344
北朝鮮の学会??
348日本@名無史さん:02/07/11 11:21
>>忍者部隊
もう少し詳しく教えて下さい。
349日本@名無史さん:02/07/11 14:49
>>323>>325>>343>>忍者部隊
世界史好きみたいだが、頭の中で全く整理できていない。
テスト受ければおそらく赤点必至。
空想力にも乏しく、興味あるところをつなぎあわせてるだけ。電波にもなってない。
資料文献読む姿より、なめるように、必死に世界地図だけ見てる姿が目に浮かぶ。
350世界史板住民:02/07/11 18:59
世界史を少しでもかじった事がある人間には通用しない >>忍者部隊さん
351忍者部隊:02/07/12 00:09
ふむ、世界史板住民とは脳内敗血症部族のことか。
352日本@名無史さん:02/07/12 00:19
ちょう○人はめげないな
353日本@名無史さん:02/07/12 00:30
むしろ百済が日本の分国じゃないのかね?属国扱いされてるし。
354忍者部隊:02/07/12 21:59
WEB上の脳他林一族や脳内敗血症部族に真実の歴史を教えても、「豚に真珠」の様相であるが、そうではない人々のために話しを続けよう。

匈奴にはキンメリ人の刀慢部と、チュルク族の伊逗部があったが、BC600年頃ウラルトゥは二つに分かれ、キンメリの匈奴刀慢部と連合するものと、アケメネス朝ペルシャに臣従するものとになった。
ウガヤ王朝が51代続いたとする「宮下文書」の記事は、このウラルトゥ王国のことであり、39代目の丘勿のとき、「大扶余」を遼寧省のあたりに建てたのである。

355岡由克彦:02/07/12 22:13
>>354
あっぱれ世間の見世物でございます。
356日本@名無史さん:02/07/12 22:29
おい、赤点忍者部隊。荒すなよ。
いいからお前は引っ込め。スレ違いだろ。世界史レベルでも低いんだよ。
狛も夫も、渤海の成立もアレクサンダーも全部ウソじゃねーか。
シルクロード系?南海系?なんだそりゃ。
ウラルトゥがそんな東へ来るか。アッシリアのBC1300の碑文?まだ立国してねーよ。

それでもまだ続けるつもりなら、世界史板に名前入れてスレ立てろ。
ちゃんとそこで相手して、論破してやるよ。
357日本@名無史さん:02/07/12 22:30
他の皆様方にはもーしわけアリマセン。

倭王権について、どうぞ議論再開して下さい。
358日本@名無史さん:02/07/12 22:42
助詞の使い方と改行の入れ方覚えたらまたおいで。
359忍者部隊:02/07/12 23:43
ふむ、脳他林一族がわめいているわい。
360日本@名無史さん:02/07/13 20:01
おい、1を読め

チョソと西都信者は、入スレ禁止だ。
361忍者部隊:02/07/13 22:47
>>360
キミも脳他林一族だね。
他説を論駁できないことを隠すために、揶揄しかできない腰抜け者。<無能力者の特徴
362日本@名無史さん :02/07/14 00:59
最近の発掘成果により古墳時代がさかのぼって魏志倭人伝の時代とかぶりつつあります。
”倭王権”は渡来系ではなく倭の小国の一つ、もしくは複数の連合が徐々に力をつけたものだと思います。
魏志倭人伝の段階で小国に分かれていたとはいえ、国同士に明確な序列があったようでし、
渡来系がいきなり支配するのは無理があると考えています。
363忍者部隊:02/07/14 02:29
>>362
>”倭王権”は渡来系ではなく倭の小国の一つ、もしくは複数の・・・

ま、思うのは自由だが、キミの思いこみは、倭人は日本にしかいない、と思っているね。
ちがうんだよ。
倭人は、漢民族より早く中国大陸に先住していたんだよ。そして遼東、朝鮮半島、九州、と南下して行ったんだよ。

「倭の極南界は倭奴国である」この文章の意味わかるかな?

364日本@名無史さん:02/07/14 05:35
どういう意味なの?
Q1)
   蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕(山海経海内北經)
 
366日本@名無史さん:02/07/14 20:51
上の方で高天原神話が作られたのは6世紀初めという意見があるが、気なることがある。
昔からよく言われている説かもしれないが魏志倭人伝の邪馬台国・卑弥呼の話と高天原神話は類似点が多い。
私は、おそらく3世紀かもっと前から高天原神話の原型があり、
倭王朝が高天原神話を公式に採用することに対して7、8世紀の人々が納得できる程度の関係が倭王朝と高天原神話の間にあったと考えている。

昔の人々は決して馬鹿ではない。
特に日本では、失礼、倭では一般の民が歌を詠むほどである。
歌を詠むためには神話・伝承の素養が必要である。
まったくの作り話を「公式神話」に採用しようとすればたとえそれが支配者でも
「デムパ、ハケーン」と馬鹿にされ、権威を失うのは避けられまい。
367忍者部隊:02/07/15 04:38
>>364
「倭の極南界は倭奴国である」

これは光武帝が、AD57年に倭奴国に金印を与えたことを示す後漢書の記事ですが、
「倭国」の中心は、弁辰諸国のある朝鮮半島南部にあり、日本列島の倭国(九州北部の倭奴国)は、倭国の中心グループからはずれた南限にある、といっている。
つまり、1世紀における中国側の認識は、主要な倭国は朝鮮半島南部にある、という認識であった。

>>365
蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕(山海経海内北經)

ふたつの読み方がある。
ひとつは、脳他林一族の読み方。
「蓋國は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」

もうひとつは、正しい読み方。
「蓋國は鉅燕に在り。南倭と北倭は燕に属す。」

南倭は、沖縄方面から九州に来た倭人。北倭は、満州から来た倭人。
蓋國とは、穢国のこと。「燕」は「奇子朝鮮」のこと。奇子朝鮮は秦人とともに畿内へ移動し、被差別民とともに「秦王国」を建てた。これが「大和朝廷」のこと。

では私も質問。次の文章を訳してくれ。重要なものだ。>>365


「晉書」巻97、四夷傳の倭人傳。

「舊以男子爲主、漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
 
 宣帝之平公孫氏也。其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢 」

368解決黒頭巾 ◆Kvmqq0Bs :02/07/15 06:37
宣帝(=司馬仲達・晋の武帝の祖父)、公孫氏を平らぐや、
其の(=倭の)女王、使を遣わして帶方に至らしめて朝見す。

其の後、貢聘は絶へず、文帝(=魏の文帝・曹丕)相をなすに及び、
また數えたり。泰始の初に至りて、使を遣わして譯を重ねて入貢す」
369日本@名無史さん:02/07/15 15:48
おいおいー、忍者部隊ー、ここも自作自演スレにするつもりか?
やめろよー。だいたい電波以前にウソだもんよーアンタはよー。

>>367の364あて
魏志倭人伝読めよー。次有奴国 、此女王境界所盡ってのがあるだろうがよー。
アンタの言う奴国とは別ものだろうがよー。
>>367の365あて
だいたい山海経自体がいい加減な書物じゃねえかよー。
当然倭も燕も、どの地域どの民族に当てて書いてんのか分からねえよー。
燕で分かるだろうがよー。何回同じ国名出てくると思ってんだよー。
その度ごと民族が違うじゃねえかよー。
それに秦が入ってくるのは奈良時代だろうがよー。

もーウソばっか書くなよー。全っ然為にならねえんだよーアンタのはよー。
スレ違いだろーがよー。
倭王権の話しろよー。
>>367

・・・名曰卑彌呼。   宣帝之平公孫氏也。      其女王遣使至帶方朝見・・・・
・・・名を卑彌呼と言う、宣帝の公孫氏平定したるとき、其の女王は、帶方郡に使を遣し、朝見した・・・

ところで、「鉅燕」ってナ・ン・ダ ?
371日本@名無史さん:02/07/15 22:06
あほくさい!
大体中国の史書で”倭王朝”の起源を推察すること自体無理がある。
当時の史書の執筆者の手に入れた情報なんぞ伝聞の伝聞のそのまた伝聞じゃねーか。
史書に記録した時点で”遠い異国の昔話”なの。
おまけに精神的にも遠い。
当時の中国人の日本に対する関心なんぞ、
現代日本人のジンバブエや仏領ポリネシアに対する関心以下だ。

魏志倭人伝でも原稿用紙4、5枚の分量だぞ。おまけに内容不正確。
邪馬台国畿内説だと方角に誤りがあり、九州説だと距離に誤りがあるらしい。
どちらにせよ、間違えなんじゃー!
方角(or 距離)は間違えたがその他は全部正確なんて誰が保障するんじゃい。

史書の日本に関する記述は発掘や他の文献で裏が取れたやつだけ信じろ!
残りは全部眉唾だ。
卑弥呼なんぞに踊らされるな。

372世界@名無史さん:02/07/15 23:07
>>370
マジレス。
「鉅燕」は
「鉅」(=河北省西南部)
「燕」(=河北省北部)
と読むのが正しい。つまり現在の河北省に該当する地域を指す。

スレ違いなんでsage
373日本@名無史さん:02/07/15 23:09
畿内の土着信仰(銅鐸?)が、北九州を中心としていた
日の神様信仰(3種の神器?)に取って代られるようになったのは
Q1.どの年代の出来事なのか?
 また、それはどのくらいのスパンで起こったのか?
宗教的な王権から、半島とのパイプをバックにした
武力的な王権の成立への移行は
Q2.いつ頃の出来事なのか?
 そして、その中心になった勢力とは何?

374>>372:02/07/15 23:22
燕は、国名か?地名か?どっちかにしてくれい。両用はダメよ。
375世界@名無史さん:02/07/16 00:11
>>374

「倭は燕に属す。」
・・・ここでは「燕」とは、「倭」が従属している政権名(=国名)のこと。

>燕は、国名か?地名か?どっちかにしてくれい。両用はダメよ。

中国の政権(=王朝)名は、基本的に「本拠地の地名」に由来するのだが・・・

またもやスレ違いなのでsage
つか、寝る。


376忍者部隊:02/07/16 03:58
>>368 も >>370 も共に読み方を誤っている。
また、>>368の「解決黒頭巾 ◆Kvmqq0Bs 」は偽物。

卑弥呼と公孫氏の関係だが、

「乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
 
 宣帝之平公孫氏也。其女王遣使至帶方朝見」

正しい読み方は、次の通り。

「乃ち女子を立てて王となし卑弥呼と名づく。宣帝の平らげたる公孫氏なり。
その女王遣使して帯方に至りて朝見す。」

”宣帝之”の”之”は、「名詞と名詞」あるいは「名詞と動詞」の結合に使われるもの。

”其女王”は前文の”公孫氏”を指す。”其”は一般に前文の中の名詞を指す。

したがって、卑弥呼が”公孫氏の女”であったことがはっきりした。


また、「鉅燕」は”智淮氏燕”たる奇子朝鮮であり、穢国(のちに扶余に合体した物部氏の国)が、奇子朝鮮のある大凌河流域にあったことがわかる。
勿論、燕も奇子朝鮮のことであり、南倭(九州の国東半島)もそれに属していた。”奇”は”カルディア”の意。
おわかりか?>>369


377日本@名無史さん:02/07/16 05:27
ろくに漢文も読めない無教養さんが捏ね上げた珍説ですね。
378>375:02/07/16 08:40
蓋國は地名の燕に在り、倭は国名の燕に属すのね。
わずか11文字の文の中で器用に使い分けるね(w

>>377 忍者部隊さんはネタでしょ。
379忍者部隊:02/07/16 12:08
>>377
なるほど。「誤った知識、考え方」であっても教養というのか。
380369:02/07/16 16:19
もういいって、忍者部隊。
キミが日本史、世界史に続いて漢文についても赤点だってことは十分にわかった。
訳については>368>370が正解。
忍者部隊は年表が頭に入ってないからそんなトンデモ説になるんだよ。

公孫淵が独立して燕王を名乗るのは237年のこと。いわゆる邪馬台国の卑弥呼が
それ以前から魏に朝貢しているのは倭人伝でも明らかだ。
晋書は司馬氏側に寄って書かれてる書物なのだから、魏志と違って倭国の登場が
こんなふうに表現されるのは当然だろう。魏志では斉王(曹芳)を持ち出したよ
うに、晋書が宣帝(仲達)文帝(司馬昭)を持ち出したに過ぎない。よって、
宣帝之平公孫氏也、は司馬氏のエピソードとして挿入されているだけで、倭と
公孫氏(燕)をつなぐ文章では断じてぬゎあい。(w

ついでに言っとくが、晋書の成立は7世紀になってから。先にも言ったが、
既に大和朝廷が成立している時代の、それも中国の文献引っ張ってきても
説得力に欠けるよ。(w
381日本@名無史さん:02/07/17 17:33
倭王権の起源は、大和、北部九州、吉備に絞っていいでしょうかね。ほかは電波って
事で・・・。
弥生時代後期は、畿内は銅鐸文化圏、瀬戸内は円墳の両側が方形に突出した墳墓(名前
忘れた)文化圏、北部九州は銅鉾文化圏だったのが、3世紀前半に畿内、瀬戸内、北部
九州が前方後円墳の文化圏になる事は一体何を意味するのでしょうか?
初期の前方後円墳には、瀬戸内との関連性が有るものが多いようですね。
382日本@名無史さん:02/07/17 22:20
倭とは何か、王権とは何か、倭王権とは何か、王権の起源とは何か、
しこうして何をもって倭王権の起源とするか。
そのような与条件の整理をした上で議論をしないかぎり、
議論のしかたそのものが、電波。

だいたい、大和-北部九州という全く異なるクラスを並置する厨房め。
歴史なり考古学なりを議論する基本的素養を身に付けて出直して恋。
383日本@名無史さん:02/07/17 22:50
>>382 
それは>1に言うべき事では? というかそれを言うのならば、まずあなた自身が
何をもって王権と言うのか、申告しないといけないよね。
>>381
荒れないよう配慮してその地域にとどめたんだよね。でも出雲は入れといてよw。
384日本@名無史さん:02/07/18 21:11
>>380
>公孫淵が独立して燕王を名乗るのは237年のこと。いわゆる邪馬台国の卑弥呼が
それ以前から魏に朝貢しているのは倭人伝でも明らかだ。

じゃ公孫氏が亡ぶ前から魏に朝貢してたっていうの?
トンデモ説だね!
385日本@名無史さん:02/07/18 22:20
>>384 絶対その点に絡んでくると思った(w

ほほーお。では魏という国は、得体のしれぬ初めて来る小国であっても朝貢しさえす
れば金印とか紫綬を簡単に授けちゃうんだ。親魏倭王、とか与えちゃうのね。
・・・ンなこたぁない(w 常識で考えるならね。

空想力というのはこういう所で発揮しないといけないよ。例え魏であっても、他の
国家であっても、初めてきた国においそれと王位を与えたりする?空想とはそうい
う常識がかった範囲で行わなければだめだよ、って事を言いたくてエサをまいてみ
ました(w 
でも悪くとらないでね。実際それ以前から交流があった事は、倭人伝初めの数行に
書いてあるし。ただ確かに朝貢、とまでは書いてないわな。使訳とあるだけで。
そこをどう解釈するか(空想するか)がそれぞれ個人の判断力によるものだと言い
たかったのであります。
386日本@名無史さん:02/07/18 22:23
「倭人伝でも明らかだ」が「書いてないわな」になりました。(苦笑
387日本@名無史さん:02/07/18 22:28
最初の数行って、これか?

倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國

どこのことだ。

漢時有朝見者は漢代のことだから

>いわゆる邪馬台国の卑弥呼がそれ以前から魏に朝貢しているのは

ではないな。さあ、どこだ?
388日本@名無史さん:02/07/18 22:40
トンデモさんはみんな自分が常識だと思っています。
「常識で読めばこううなるんだ!」とおっしゃいます。

しかし「明らかだ」が「(空想するか)がそれぞれ個人の判断力」になったのは
>>385の感じてるバツの悪さを表してます。
間違ったと自分で気づいても誤魔化そうとする人はトンデモさんというよりsagisi!
389日本@名無史さん:02/07/18 23:02
380のアホが余計なことを言って話をややこしくしてるようだが
魏に公孫氏が滅ぼされて卑弥呼が朝貢してきたってことでいいんだろ?
ようするに忍者部隊も380も程度の差はあれ電波だから出てけってことで
390大室寅之スレ:02/07/18 23:10
どっちでも、いいけど。まだまだ終わらないよ。浩飲み屋に男児が生まれるまでは。

※橋本宮 六本木天皇

次の次の天皇が誰になるか興味あるところだが、もちろん有栖川宮でも北白川宮でも
誰でもいいが、時の権力者にリンクしてなきゃ。水戸斉昭の息子が中川宮なら当然慶喜が総理になれば兄貴の中川宮
を玉(天皇)にしないと意味がない。奇兵隊の足軽の寅を慶喜が玉にしても意味がない。
寅を玉にしてとくするのは伊藤博文な訳でなるほど彼は総理まで上り詰めたわけ。

さて平成日本の最高権力者だが今の所、橋本龍太郎、久美子らしい。
で、2番目に力があるのが今上陛下と美智子様。兄の正田巌。
3番目に力があるのが曽根綾子。皇太子様。雅子様。鳩山邦夫。(ただし曽根と鳩山は笹川良一の子という噂アリ)

で、今上陛下はまだ天皇になられて14年。橋龍は40年近く議員をやっているから、橋龍の方が力あるわけさ。
大室寅之祐の弟庄吉の娘ヨネと橋本卯太郎の間の子が龍伍。だから龍太郎の娘寛子が広の宮とお見合いし
2人が互いに嫌がった。浩宮は久邇宮晃子ともお見合いしたが実らなかった。
2度目は1996年2月に公にならなかった雅子様の妊娠騒動があった。これは橋本内閣の時、2女の厚子
の子を養子にやろうとして失敗。厚子の子は1996年12月生まれで3つ子。ホルモン注射による人工的な
妊娠でもない限りこうはならない。3度目は2000年8月出産予定だったが流産。
橋本龍太郎の長男龍の次男が2000年8月生まれでもうわかりますね。
4度目は橋龍の娘和子の娘が2001年12月生まれで例のことです。

4度目というと実は橋龍が総理として名前が挙がった回数ですね。
一度目は、ポスト宇野の時。2度目は河野さんが結果的に総裁になった時。3度目は橋本内閣。
4度目は小泉、橋龍選挙の時。
だから常に天皇=玉と権力は結びついてるわけですよ。
次は2005年12月あたりに雅子様の子が生まれるはずです。
3女橋本旦子は今、20歳。学習院の仏文科に在籍しております。
391日本@名無史さん:02/07/18 23:35
>>389
>ようするに忍者部隊も380も程度の差はあれ電波だから出てけってことで

ピンぽ〜〜〜〜〜ん
392日本@名無史さん:02/07/18 23:46
(w厨は電波
393380、385:02/07/19 00:13
それじゃあお尋ね致します。>>386から391まで、全ての人に対してお聞きします。

公孫氏が滅んだ後、238年6月にヒミコは朝貢し、その年の暮れ12月に斉王は詔を
発し、金印と紫綬を送り、ヒミコを親魏倭王に封じた。
私が>>385で言ってるのは、これが初回の朝貢なのだろうか、って事だ。
238年の6月、この一回の朝貢だけで、斉王は金印を与えたのですか?
更に言うならば、親魏倭王にたった一度の朝貢でなれると言うのですか?
それはありえんでしょう、と(w
ただ確かに倭人伝最初の3行は「朝貢」とは書いていない。だからここは各個人の
推理になるということ。私の場合はそれ以前から「あきらかに」朝貢していたか
らこそ、この魏の詔があったのだろうと考える。あ、別にこの説は押し付けよう
とかじゃないですよ。ただ皆さんはどう思われますか?

もしそういうケースがあるのだったら教えて欲しいんですけど。たった一度の朝
貢で王になった人物、或いは国家があるのであればね。
394日本@名無史さん :02/07/19 00:18
あ、書いてるうちにもう一人。>>392もね(w
395日本@名無史さん:02/07/19 00:24
漢委奴国王、大月氏波調。
396日本@名無史さん :02/07/19 00:32
ん〜?>395は答えなの?どういう意味?もうちょい詳しく。
397日本@名無史さん:02/07/19 00:56
だからさあ、380はそこを問題にしたいの? 忍者部隊はそこを問題にしてるの?
以前から魏に朝貢云々に固執しなけりゃあんたの言うとおりだと思うよ
さほど重要でない自分の節の枝葉部に拘るのは電波の症例だと思うがね

ちなみに、あきらかに朝貢してるでしょ、漢に
魏に朝貢してるかどうかは知らないが、当時の人間にとって倭は
まったく知らない辺鄙な小国ではないわけです
398393:02/07/19 01:17
>>397>問題にしたいの?
いえいえ、違いますよ。ネタをふったのは一昨日だし、その後流れが変わって
383(=私)を書いた時点で、これで話しが戻るかなーと思ってた。

393がズレるようなら置いといてどうぞ先へ進めて下さい。
流れ的に書かないといけないのかなーと思っただけですので。
399日本@名無史さん:02/07/19 01:18
>>393
>ただ確かに倭人伝最初の3行は「朝貢」とは書いていない。

魏代でかつ237年以前だとも書いてないな。

>公孫淵が独立して燕王を名乗るのは237年のこと。いわゆる邪馬台国の卑弥呼が
>それ以前から魏に朝貢しているのは倭人伝でも明らかだ。

と書いたお前は、明らかに間違ってる。すなおに認めろ。
400日本@名無史さん:02/07/19 01:32
>>395
いずれも、初めての朝貢で王になるわけはないから、史料に書かれてなくても
それ以前に朝貢があったことは明らかだって答えが帰ってくるのは、それこそ明らかだよ。

初めから結論は決まってるからね。それが電波の電波たる由縁。
真面目にあいてするだけ凶。
401日本@名無史さん:02/07/19 06:20
あのー、この話ってNHK的には
卑弥呼の「時代を読む力の確かさ」を強調するエピソードって
ことで放送したんですが……
402日本@名無史さん:02/07/19 06:52
デムパ相手に個々の間違いを指摘しても、粘着厨という罵声が返ってくるだけ。
403日本@名無史さん:02/07/19 13:30
>>381
質問。
九州の3世紀前半の前方後円墳を一つ以上挙げてください。
404日本@名無史さん:02/07/19 13:48
チョソとか自民族主義とかはどうでもいいから
真実を教えてくれ!
405日本@名無史さん :02/07/19 18:33
大辞林 国語辞典より
「王権」・・・・・・国王の権力。君権。強大な国

・・・全然参考にならなかったか・・・
406忍者部隊:02/07/19 22:17
脳足りん学派、脳足りん一族が、いかに否定し誤魔化しても卑弥呼は「公孫氏の女」であり、
神武は「扶余王仇台」であり、扶余族はウラルトゥから出来たのは間違いない歴史である。

また、ウラルトゥの国民の多くはフッリ人であったが、王家はアーリア人であったから、神武を戴く日本人の中に、わずかではあるがアーリア人の血が混じっていることになる。
さらにまた、のちに述べる物部氏の先祖も、バビロニアの古都「ウル」を発祥の地としているから、
倭人国家と、その王権を明らかにするためには、日本史と世界史は切り離すことが不可能なのである。
407日本@名無史さん:02/07/19 22:32
脳足りん一族ってキミたち?
408デムパは氏ね:02/07/19 22:38
人じゃ舞台さんガムバ!
君以外の人間が君の意見を理解するまで、ねっ!
409日本@名無史さん:02/07/19 22:39
さあ、もういいでしょう。

倭王権、倭王権。本題に戻しましょう。
410日本@名無史さん:02/07/20 00:02
380と忍者部隊の電波コンビが消えれば、自然に戻るだろ。
411日本@名無史さん:02/07/20 00:12
倭王権の起源の話とはズレますが、
群馬県で豪族居館の遺跡が見つかったそうです。

 巨大な古墳を築いた豪族の住まいが千五百年をタイムスリップしてよみがえった。
 群馬県群馬町の北谷(きたやつ)遺跡。その姿は、「水に浮かぶ要塞」のようにも
 見える。一帯は大和政権を支えた上毛野(かみつけぬ)氏と呼ばれる豪族が本拠と
 した地域。朝鮮半島からの渡来人たちの集落も近く、古代のハイテク土木技術に
 よって造り上げられた可能性が強い。

―だれが造営「水上の要塞」群馬・北谷遺跡―
http://www.sankei.co.jp/news/020717/evening/e18nat002.htm
―主張 今度は破壊から守りたい―
http://www.sankei.co.jp/news/020718/morning/editoria.htm
412日本@名無史さん:02/07/20 00:14
>>404
その「真実」とやらが分からないから、ああだこうだと議論になっている。
413日本@名無史さん:02/07/20 01:28
アッカド王国末期のグティ人の支配が排除された後、
BC2112ウルナンムがウルを首都として創建したのが、シュメール人最後の統一王朝、
ウル第三王朝である。ウルナンム法典は現存最古の法である。
しかし法の萌芽はウルイニムギナの改革碑文にすでに認められる。

ウルイニムギナはシュメール初期王朝末の、都市国家ラガシュの王である(BC24C)。
先代王から王位を簒奪し、神政に戻す旨の改革碑文を残すが、
実際は世俗王権の伸張を進めた。のち隣都市ウンマのルガルザケシに敗北した。
ルガルザケシはウルクの王位も奪取してシュメール全土の制覇を目指したが
アッカド王国の創建者サルゴンに敗れた。

ラガシュはアッカド王国衰退期に第7代グデア王などが再興したが
ウル第三王朝期にウル王の支配下に入った。
ウル第三王朝の最盛期は第二代シュルギ王時代で、対外遠征を繰り返して版図を拡大、
官僚制度・度量衡・貢租徴収・中央集権、行政の組織化、法制の整備を進め、
内政に力を注ぎ支配体制を確立した。アマル・スエン王、シュ・シン王も
その維持に勤めたが徐々に衰微し、第五代イッビ・シン王のときエラムの侵攻により崩壊。

エラムはBC12Cシュトルク・ナフンテ王が最盛期。
BC13Cにはウンタシュ・ナピリシア王によってチョガーザンビールが建設された。
ウル崩壊後はアモリ人による二王朝が覇権を争うイシン・ラルサ時代が続いた。
バビロン第一王朝はBC1894、開祖はスム・アブム。
第六代ハンムラビが飛躍的に版図を広げて黄金時代を築いたが
その後急速に衰退し、第十一代サムス・ディタナ治世時に
ヒッタイト王ムルシリ一世の急襲にあい崩壊した。

ウルクはウバイド期に後続するウルク期(BC3500−3100)の標準遺跡。
ウバイド期(5000−3500)はハラフ文化に後続する。
ナトゥフ文化はBC10000ー8000の中石器文化。
414日本@名無史さん:02/07/20 01:33
>>413
授業で習ったばかりですか?
入力大変だったと思いますが、残念ながら板違いです。
世界史版へお願します。
415日本@名無史さん:02/07/20 01:48
忍者部隊、または別人だとしても>>413

>356に書いた事覚えてるだろうな?俺は世界史板で待ってるんだぞ。
早くあっちにスレ立てろよ。そこでちゃんと答えてやるから。

スレが立てれんのなら、同じような民族スレあるだろ、そこを指定しろ。
かなり多様に立ってるからどこか使える場所があるはずだ。
416日本@名無史さん:02/07/20 02:05
メソポタミアの都市国家の興亡・様相も参考にはなるだろう。もちろんギリシアも。
殷・周初もなりうるが、いかんせん史料が‥‥。
我が国でも1世紀には奴が最強国だったりして、
耶麻台が結果としては後に繋がったが、他の国の可能性もあった。
ギリシアのポリス、アテネ・テーベ・スパルタ・コリントスはいうまでもない。
メソポタミアにもウル、ウルク、ラガシュ、バビロン、イシン、ラルサ、などなど
様々なテル都市国家があり、覇権はその時々によって
417日本@名無史さん:02/07/20 18:23
>覇権はその時々によって・・・

・・・おいおいコピペだったのか?途切れたところでちょうどいい。
早くスレ名指定しろ。続きはそこで書け。見に行ってやるから。
ここでそれ以上やると、どこかと同じ、コピペ荒しとみなすぞ。
418関連地域(少なくとも):02/07/23 02:04
日向、筑紫、豊国宇沙(佐)、阿岐(安芸)国、吉備国、速吸(豊予海峡?明石海峡?)、
浪速、和泉、紀国、熊野、阿陀、吉野、宇陀、忍坂、伊那佐、大和。
419その他の地域:02/07/25 00:10
出雲、石見、稲羽(因幡)、伯岐、多遅麻(但馬)、針間(播磨)、丹波、
山代(城)、淡海(近江)、三野(美濃)、伊勢、尾張、讃岐、等々。
420日本@名無史さん:02/07/25 00:48
BC20数世紀の都市国家の歴代王名や
国政の様子が分かってるところもあれば
どこやらのように、各都市国家の場所すら分かってないところもあるんだねw
421日本@名無史さん:02/07/25 13:00
>>419 磯城が入ってないよ
422日本@名無史さん:02/07/29 18:18
大倭根子日子の根子って、根の国だからやっぱ出雲の事を指すんだろうねえ。
孝霊〜開化は山陰に地勢力を持つ大王だったということか。
孝霊の兄弟、子供達には吉備の名を持つものが多いし…
>419みたいに現代の地理に置き換えたなら、今の明石・姫路(播磨)から岡山
(吉備)を通って、米子・出雲方面へ北上するルートに、同系勢力というか、同
族文化圏が存在してたということになるのかな。
423日本@名無史さん:02/08/01 01:07
帯日子、帯比売ってのはどうなんだ?渡って来た人なのだろうか。

…新羅系入ってそうなのだが、
424日本@名無史さん:02/08/02 23:07
あからさまに新羅というのはどうだろう。
新羅を支持した、ぐらいがちょうどいいんじゃないの。
425日本@名無史さん:02/08/03 05:03
根の国と魏志倭人伝の奴国って関係あるの?
426日本@名無史さん:02/08/03 07:12
ネエヨ
427日本@名無史さん:02/08/03 12:45
>>422
大倭(タイワ)は魏志倭人伝にでているように、伊都国に常駐する
邪馬台国の官名です。
ちなみに、イクメ(垂仁)、ミマツ(孝昭)、ミマキ(崇神)も邪馬台国
の官名として記載されています。ちなみに、天皇でないのはヌカテ
(額田?)のみです。

428427:02/08/03 12:48
私は上の事実から、記紀の古代天皇は邪馬台国の
有力者を系譜のように、つなげて並べたものではな
いかと思います。
429日本@名無史さん:02/08/03 13:17
ところで、中国本来の都市国家は城壁がつきものと思うのですが、日本では
城壁の遺構の発見例はあったのでしょうか?
水の豊かな日本では、環濠に変化したと言うことでしょうか?
漢末や三国の戦乱で、人口の激減があったという研究があったと思いますが、
全て死んだと思えず、日本への流入もかなりあるのではと推測しますが、
やはり王権に影響ある程の組織的な移動はなかったということでしょうか?

430日本@名無史さん:02/08/03 13:26
環濠は壁付き
431日本@名無史さん:02/08/03 13:56
夏休みでお暇な人たち、>427のボケに誰もつっこんでやらんのか?
432日本@名無史さん:02/08/03 14:13
>>429
日本は大将を取ったら戦は終わり。攻方の総大将が徴税権を奪って配下に
分配する。
こういう作法があるから、民衆を殺さず、生産力を温存。守りが必要なの
は支配階級だけ。だから、邑里には城壁が要らない。

中国やヨーロッパでは、兵士の報酬をその場で払う慣例があり、戦利品と
して備蓄食糧や財貨、また、住民までもが略奪の対象となっていた。
当然、民衆が自衛する必要があった。
433427:02/08/03 15:11
>>431
たしかに、大倭は伊都国だけではないですね。

國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、
特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、
於國中有如刺史。

天皇の名前が出ているのは、以下のくだり。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、
可七萬餘戸。

434427:02/08/03 19:16
官名       読み       天皇名
伊支馬      イクマ      イクメ イリヒコイサチ(垂仁)
彌馬升      ミマシ      ミマツ ヒコカエシネ(考昭)
彌馬獲支    ミマカキ     ミマキ イリヒコイニヱ(崇神)
奴佳[革是]    ヌカテ      ?(額田氏か?)
435427:02/08/03 19:18
官名       読み       天皇名
伊支馬      イキマ     イクメ イリヒコイサチ(垂仁)
彌馬升      ミマシ      ミマツ ヒコカエシネ(考昭)
彌馬獲支    ミマカキ     ミマキ イリヒコイニヱ(崇神)
奴佳[革是]    ヌカテ      ?(額田氏か?)
436427:02/08/04 01:23
結論として、考昭、崇神、垂仁天皇は実在の可能性が
あるということです。ただし、邪馬台国の有力者として
記録されているということです。
437日本@名無史さん:02/08/04 02:58
アフォか
根子は地名に付く称号
難波根子・山代根子‥‥

ヴァカか
イクメイリヒコのイクメは生駒
久米という安易な学説も以前あったが
近年国語学・音韻学の方面から実証された。
438日本@名無史さん:02/08/04 04:58
音韻学ってすごいのね。
音が似てるからとでたらめに当てはめていた時代が懐かしい。
439日本@名無史さん:02/08/04 10:04
いまどきそういうことをやって古代の解明だとか気を吐いてるおばかさんも多いのよ。
440427:02/08/04 10:22
中国人が聞いて書き取ったものと、日本人が
書いたものを混同しないでくださいね。
音韻学以前の問題ですよ。
441 :02/08/04 14:21
言ってもわかんねーよ、そいつもサイコだから。

叩いてもまたすぐにでてくる。精神病院からノートで参加してるらしいな。
442日本@名無史さん:02/08/04 15:25
どー考えても、「邪馬台国」の呼び名は「やまとのくに」だろ。
マジレスキボンヌ。
443 :02/08/04 16:48
マジもなにも音韻で解決しようという発想そのものがイイカゲン。

最も安易で幼稚な処理方法だな。
444忍者部隊:02/08/06 02:34
>>442
「邪馬壹国」が正しく、表音は「ヤマ」「ヤマイ」あるいは「ジャバイ」。
”壹”は「国」を表す字。
出身地は、文字通りインドネシアの「ジャワ」。
445日本@名無史さん:02/08/06 02:47
ヤマイなんて音韻にもなっとりまへん。もう病だす。
446日本@名無史さん:02/08/06 03:58
447日本@名無史さん:02/08/06 19:37
日本の古代って、何でこうも五里霧中なんすかね。
記録好きの中国人とエライ違い。
自分達の歴史も正確に(或いは矛盾の無いものとして)残せんとは。
古代日本人には、プライドつーもんがなかったのかえ。
バナナ食ってボーッしとるポリネシア辺りの民と同じだな。
僕は、初期の日本国家はそんなものだと思っとるが・・・。
448忍者部隊:02/08/07 01:45
ヤバイ。
449日本@名無史さん:02/08/07 02:17
4000年も前の国家の歴史が分かるほうが不思議。
国家などという枠に縛られてないことは
プライド云々とは無関係な話。
450日本@名無史さん:02/08/08 23:57
>>446
「百済も倭も大陸に拠点があった。」と言うのは、主客逆転。
元々中国に住んでいた倭人が、漢人の圧迫を受け、日本韓国に逃げてきた。
それぞれの地で作った代表的な国家が倭国であり百済国である。
中国側の倭人分布は山東半島より南部の東シナ海沿岸部。
そこに、韓国日本の倭人とよく似た民俗様式をもった人々が住んでいたことを述べているだけ。
百済国倭国の出先機関ではありません。
451日本@名無史さん:02/08/09 00:08
アフォか。
そら太古に大陸から渡ってきたのはそうやが
そんなもん倭や百済なんてもんが出来るのより
遙か昔の話。
452忍者部隊:02/08/10 16:38
卑弥呼の公孫氏と、神武(仇台)の扶余王家は対婚関係にあったから、卑弥呼が今の宮崎県西都市に、神武が福岡県に、と
九州に邪馬壹国を作った結果、倭国と百済は複合国家として「ひとつの政治圏」となった。

この複合国家が分解したのが、白村江の敗戦のときである。
453日本@名無史さん:02/08/10 18:26
わ,輪,環(村の輪、家族の輪)→倭(倭人伝)→和「漢字の意味いいねぇ」
→大和(と書いてヤマトと読む!日本独自の当て字文化!勢い推し!)
と、かなり柔軟に変化してるわけです
454日本@名無史さん:02/08/17 17:20
亜毛
455日本@名無史さん:02/08/25 18:31
毛野との政略結婚とかなかったんだろうか?
456日本@名無史さん:02/08/26 15:20
>452
その説におおすじで賛成(西都か八女かは措くとして)ですが、
マキムクに代表される畿内の勢力はそのどちらの系統と考えますか?
457日本@名無史さん:02/08/27 04:31
だからさ、百済と大和朝廷の話したらどのみち教科書の答えにしかならんでしょ。
新羅と出雲を始めとする山陰勢力。この点を考えないと本当の畿内や倭王権の真相
なんて見えてこないよ。
458日本@名無史さん:02/09/02 02:23
物部氏が鍵を握っている・・・!?
459名無し:02/09/02 02:28
ここでもお願いさせてください。<m(__)m>
夏休みの宿題をやってるのですが 分けわかんないのと終んないのとでモウダメポ
心優しい方手伝ってくれませんか?友達にプリントをうpしてもらいました
http://www56.tok2.com/home/tamariba/top.htm
対象を保存 で見れるはずです
460>452:02/09/02 02:48
おい、チョソ
妄想はいいからその珍説の証拠を出せよ
461日本@名無史さん :02/09/03 02:16
言うだけ野暮だよ、忍者部隊には。相当思い込みが激しい人みたいだから。

世界史板でずっと待ってるのにな、俺。そこでやってくれりゃあいいものを。
そうなると今度は出てこなくなるんだよな。相手にするだけ損だよ。
462日本@名無史さん:02/09/05 16:03
だいたいなんで神武が福岡なんだよ。宮崎だろー

思い込みをもとに、つじつま合わせようとするから混乱するんだよ。
西都説と公孫氏説を優先するから神武を福岡に持っていくしかない罠。
白村江にしても何代、何百年空いているんだ?トンデモが過ぎるね。
463日本@名無史さん:02/09/05 16:10
>>456
これもなんで賛成なんかできるのだ?
だいたいマキムクの立地場所を知らないんじゃないのか。
九州派の場所じゃないだろー
まだその下>>457の出雲の場所と言ったほうが納得がいくわ。
464日本@名無史さん:02/09/07 00:39
自演だろ
465日本@名無史さん:02/09/07 15:59
はァ?
462と463は俺だが分けてレスつけると自演になるのか?
前のほうからずっと読んできてみ。
忍者部隊にあきれているのは1人や2人じゃないよ。
466日本@名無史さん:02/09/07 16:43
>>465
いや、賛成してるやつが自演なんじゃないのって意味
467日本@名無史さん:02/09/12 14:34
ああ>456な。
巻向はどっちかというと>419方面との関わりが強いというか。
発掘されたもの考えても九州とは違うんじゃねえの。
468忍者部隊:02/09/14 03:28
>>456
>マキムクに代表される畿内の勢力はそのどちらの系統と考えますか?

畿内勢力は邪馬壹国とは縁もゆかりもない。したがって「日本書紀」にもその事は記されてない。
畿内勢力の「核」は、滅亡した「秦帝国」の残党と満州にあった「奇子朝鮮」の残党であり、ともに朝鮮半島南部の秦韓を経て九州に上陸し、
吉野ヶ里から鳥栖にかけての領域に国をつくった「倭奴国」である。

「倭奴国」は、のちに朝鮮半島から九州に侵略してきた仇台(神武)に国土を譲り、九州から中国地方、大和地方へと移動し、小国をつくった。
これが、『北史』にある「秦王国」であり、日本書紀にある「別倭」である。

白村江の戦いでは、九州の倭国(邪馬壹国)は百済側についたが、畿内の秦王国は新羅側に味方して勝ち馬に乗り、戦いが終わったあと、新羅の命令で九州の「倭国」と畿内の「秦王国」が合体して、「日本」となった。

これが古代史の核心である。

469日本@名無史さん:02/09/14 03:57
プッ 満州にあった奇子朝鮮かよ
檀君電波は逝け

>白村江の戦いでは、九州の倭国(邪馬壹国)は百済側についたが、畿内の秦王国は新羅側に味方して勝ち馬に乗り、
>戦いが終わったあと、新羅の命令で九州の「倭国」と畿内の「秦王国」が合体して、「日本」となった。

どんな史料をどう解釈しても誰にも証明できんがな。
近代の捏造書を珍重しつつ、その捏造書の趣旨とはさらに無関係な電波を発するのが鹿島電波の特徴。


470名無しのオプ:02/09/14 04:40
>>忍者部隊

あのね、どうでもいいけど「満州」なんて稚拙な用語使うなよ。
「幹」が電波なんだから、「枝葉」ぐらい正しく書いて。な?
471日本@名無史さん:02/09/14 05:27
>>468
おしいな。部分的に間違ってるよ。

「秦帝国」の残党と満州にあった「奇子朝鮮」の残党が朝鮮半島南部の秦韓を経て
九州に上陸してつくったのは「宇佐国」だ。だから宇佐八幡宮やその他の八幡宮は
稲荷を信仰するんだ。これは秦氏族の特徴だ。

「宇佐国」は、のちに神武が東征の途中ここを通ったときに
娘を神武の家来の天種子命に嫁がせて婿とし(このことは記紀にも書いてある)
二人の間に子供が産まれる。この子孫が中臣氏つまり藤原氏だ。
そして神武についていって畿内に移り、枚岡神社(種子の祖父、天児屋根命を祀る)を立てた。
これが、『北史』にある「秦王国」であり、日本書紀にある「別倭」である。

道鏡事件では、九州の倭国(宇佐八幡)は道鏡側についたが、
畿内の秦王国は藤原氏に味方して勝ち馬に乗り、戦いが終わったあと、
新羅の命令で九州の「倭国」と畿内の「秦王国」が合体して、「日本」となった。

これが古代史の陰核である。
472日本@名無史さん:02/09/14 08:25
自演すんなよ
473日本@名無史さん:02/09/16 00:11
B.C.108年 漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・臨屯・玄菟・真蕃の4郡を置く。
A.D.196年 この年、朝鮮に帯方郡が設けられる。
367年     百済王の使者、日本に朝貢する。
         朝廷、千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献物を途中で襲った事を責める(日本書記 神功皇后47年上)
369年 3月、荒田別鹿我別を将軍とし、新羅を征めようとして、木羅斤資と卓淳に集まり、新羅を破る。
        ヒジホ(昌寧の地)・辟中(ヘチュウ 金堤の地)・布弥支(フムキ 忠南公州郡維鳩里の地)・
         半古(ハンム 潘南面の地)の4邑を平定する(神功皇后49年条)。
371年     百済、高句麗を侵し、平壌城を攻める。
382年     新羅が朝貢しないので、日本、襲津彦(そつひこ)を遣わして新羅を討たせる(神功皇后62年条)。
391年     高句麗の広開土王が即位する。日本、百済・任那(加羅)・新羅に兵を派遣して臣属させる(広開土王碑)。
412年     百済の広開土王が没する。
414年     広開土王碑が鴨緑江畔に建てられる。
430年     高句麗、平壌に遷都する。
443年     倭王・済(允恭天皇)、宋に使を遣わし奉献する。安東将軍倭国王を授けられる(宋書 宋文帝元嘉20年)。
451年     倭王・済、宋より使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓の六国諸軍事を加授される(宋書)。
462年 3月、宋の孝武帝、詔して倭王・興(安康天皇)に爵号を授け、安東将軍倭国王とする(宋書)。
479年     倭王・武(雄略天皇)、南斉の高帝より鎮東大将軍を授けられる(南斉書 南斉高帝建元1年)。
474日本@名無史さん:02/09/16 00:12
502年     倭王・武、鎮東大将軍を授けられる(梁書武帝紀 梁元監1年)。
508年     百済、耽羅島(済州島)を征服する。
512年12月、任那の4県を百済にあたえる(日本書記)。 
527年 6月、日本、近江毛野臣に衆6万を率いて任那に往かせ、新羅に破られた地を復興しようとする。
537年10月、大伴大連金村に詔し、その子を遣わして新羅を討たせ、任那を救わせる(日本書記)。
538年 3年、百済、扶余に遷都する。
554年 2月、百済、使を遣わし援兵を請う。
556年10月、百済人・高麗人を倭国高市郡の屯倉に置く(日本書記)。    
560年 9月、新羅、入貢する(日本書記)。
562年 1月、新羅が任那の官家を滅ぼす。
      7月、紀男麻呂宿禰を大将軍とし、任那の地に赴かせる(日本書記)。
     11月、新羅、入貢する(日本書記)。
568年     新羅王・興王、咸興その他に巡狩碑を建てる。
571年 4月、欽明天皇、任那再興を詔する(日本書記)。
572年11月、新羅、使を遣わして調を進める(日本書記)。
577年11月、百済王(威徳王)、経論若干巻および律師・禅師・比丘尼・咒禁師・造仏工・造寺工6人を献ずる(日本書記)。
597年 4月、百済王、王子阿佐を遣わして朝貢する。
475日本@名無史さん:02/09/16 00:13
600年 8月、この年、新羅と任那が戦い、任那救援の境部臣ら大いに新羅を破る。隋に使を出す(隋書)。
     11月、新羅討伐を計画する。
602年 2月、来目皇子を撃新羅将軍として2万5千の兵を動員する。
603年 2月、来目皇子、筑紫に病死し、征新羅軍を中止する。
608年     この年、新羅人多く帰化する。
609年     この年、肥後国に百済人80人余漂着、帰化希望者を元興寺に置く。
610年10月、新羅・任那の使が入京する。
645年 9月、高向玄理を新羅に遣わして質を取らせる。任那の調をやめる。
651年12月、この年、新羅使の唐服着用を責めて、筑紫より返す。
660年 9月、百済、新羅と唐が百済を滅ぼそうとすることを訴える。
     10月、百済の鬼室福信、使を遣わして救援を乞う。
     12月、百済救援軍を派遣することを決める。
661年 8月、阿曇比邏夫、阿部比羅夫を遣わして百済を救わせる。
662年 1月、百済の鬼室福信に、兵器・食料を送る。
      3月、唐・新羅が高句麗を討ち、高句麗は日本に援助を求める。
      5月、大将軍・阿曇比邏夫は百済皇子・豊璋を送って、王位につかせる。
663年 3月、上毛野稚子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。
     8月、日本の水軍、白村江において唐軍に敗れる。百済王は高句麗に逃れる。
476日本@名無史さん:02/09/16 00:13
663年 3月、上毛野稚子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。
     8月、日本の水軍、白村江において唐軍に敗れる。百済王は高句麗に逃れる。
      9月、日本軍は百済の棄民と共に帰国する(これより日本は半島の権利を放棄)。←いわゆる『渡来人』
665年 2月、百済の男女4百人余を近江国神前郡に置く。
      8月、百済の遺臣をやって長門・筑紫に城を造らせる。耽羅(済州島)の使、来朝する。
666年 1月、高句麗の使、来る。耽羅王子、来朝する。この冬、百済の男女2千余人を東国に置く。
669年10月、百済の男女7百人余を近江国蒲生郡に置く。
676年10月、新羅に使を遣わす。11月、新羅の使、来朝する。
681年10月、新羅が朝貢する。
683年 5月、百済の帰化僧らを武蔵国に置く。
687年 3月、高句麗の帰化人を常陸に、新羅の帰化人を下毛野(下野)に置く。
689年 4月、新羅の帰化人を下毛野(下野)に置く。
690年 1月、新羅の帰化人を武蔵に置く。
      8月、新羅の帰化人を下毛野(下野)に置く。
695年 3月、新羅の王子が来て国政を奉請する。
      9月、新羅に小野毛野らを発遣する。
477日本@名無史さん:02/09/16 00:14
716年 5月、駿河など7国の高麗人を武蔵国に移して、高麗郡を置く。
759年 6月、大宰府に新羅を討つ用意をさせる。9月、新羅征伐のため、諸国に舟5百隻を造らせる。
760年 4月、帰化の新羅人を武蔵国に置く。
761年 1月、新羅討伐のため、美濃・武蔵2国の少年に新羅語を習わせる。
      7月、九州諸国に武器を準備させる。
     11月、東海・南海・西海3道に節度使を置き、舟393艘・兵4万7百人を動員して訓練する。
762年 4月、大宰府に弩師を置く。11月、香椎宮に奉幣し、新羅征討軍を調練する。
774年 3月、新羅大使が大宰府に着いたが、無礼の為しりぞける。
811年12月、新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
813年 2月、新羅人百人余、肥前小近島に来て土民を殺傷する。
814年10月、新羅商人が長門に漂着、また帰化を求めて博多にも来る。
816年10月、新羅人180人が帰化する(このころ新羅人の帰化が多い)。
820年 7月、新羅人40人が帰化する。
863年11月、丹後・因幡に漂着した細羅人・新羅人に兵糧を与えて返す。
864年 2月、石見に漂着した新羅人を返す。
869年 5月、新羅の海賊、博多で掠奪する。
     12月、新羅の海賊に備えて諸国の俘夷を大宰府に在番させる。
870年 1月、壱岐島に武器を供与する。2月、大宰府管内および山陰道諸国の海防を厳重にさせる。
     6月、対馬に選士50人を置く。筑前・肥前・壱岐・対馬に不慮の事態に備えさせる。
478日本@名無史さん:02/09/16 00:16
880年 2月、因幡・伯耆・出雲・隠岐に警備を厳重にさせる。
885年 6月、肥後天草郡に来た新羅使を放逐させる。
893年 5月、新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
894年  月、新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
972年 9月、大宰府が高麗使の対馬来着を報ずる。10月、大宰府に命じて高麗に返書を与える。
997年10月、南蛮人が壱岐・対馬を襲う。11月、大宰府より南蛮人追討を報ずる。
998年 2月、大宰府、異賊を追討する。
999年 8月、大宰府が異賊追討を報ずる。
1006年7月、この年、異賊船来る。
1019年3〜4月、女真人、対馬・壱岐・肥前・筑後に入寇し、大宰権使藤原隆家・大蔵種材ら撃退する(刀伊の乱)。
1020年12月、南蛮の賊が薩摩に来て、人民を捕え去る。
1049年 9月、対馬、高麗の漂民20人を送り返す。
1080年 3月、高麗国、医者を求める。
     10月、断る。
479日本@名無史さん:02/09/16 01:05
忍者部隊、自分の正体を明かしているようなもんだぞ。
おまえやっぱりその筋のものか。
480忍者部隊:02/09/16 04:54
その筋とは?
481日本@名無史さん:02/09/16 08:29
畿内、山陰、九州で覇を争ってたのかな? 鳥取かどこか(忘れた)の遺跡で、戦で死んだ人の骨が出たらしいし?
482日本@名無史さん :02/09/17 01:38
>>473〜478は何?何の意図があるんだろう。
忍者部隊氏ではないような気も。
ただ>>471は彼の自演っぽいよね(w 内容が同じ方向へ行ってるから。
氏の努力は認めるんだけど、どうもごっちゃで考える傾向が強いみたいだなあ。
だいたい八幡宮、お稲荷さん、枚岡神社、これって全然系統が別ですよ。
枚岡は中臣が祖先を祭ったところ、お稲荷さんは秦氏が創始したと言われているもの、
八幡は(一説にヤマタイ論もあるが)応神・神功に元々言われがあるもの(確かに
道鏡事件や、後に源氏や武士に関係してはくるが)

氏は>>462にも指摘されてるけど、先に地名から入ってるでしょう。
この場合「宇佐」から考え始めてるんじゃないか?だから三者がごっちゃになるんだよ。
つまり、>宇佐八幡宮やその他の八幡宮は稲荷を信仰する
・・・・・大ウソ言っちゃいけません。八幡さんとお稲荷さんの区別ぐらいできるように(w
で、>天種子命に嫁がせて婿とし(このことは記紀にも書いてある
・・・・・どこに?書いてたかい、そんな事。
さらに、>二人の間に子供が産まれる。この子孫が中臣氏
・・・・・中臣になるまでに、この後の方が転々と、すごーく時間かかってるのは御存知で?
それから、>宇佐八幡は道鏡側・・・・・とは言えないでしょう。
最後、>九州の倭国と畿内の秦王国・・・・・8世紀も半ばを過ぎて倭、ですか(w

宇佐について研究した、というのはよぉーく解りました(w
しかし何でもかんでもドッキングさせちゃあいけませんワナ。
483日本@名無史さん:02/09/17 05:37
陰核に、なにマジレスしてんだか
484日本@名無史さん :02/09/18 02:41
別にマジとかいう感覚はないよ。書いてて自分が勉強になるし、楽しいもん。(w

で、君は忍者部隊クンだったのかい?
485日本@名無史さん:02/09/26 14:18
宮崎で国内最大級の木槨跡が発掘されたそうな。
http://www.nhk.or.jp/news/2002/09/26/k20020926000069.html
486日本@名無史さん:02/09/29 08:06
>>485
邪馬壹国が宮崎県にあった証明だな。
487日本@名無史さん:02/09/29 09:52
>>485
西都ヴァカ再来の予感・・・(w
488日本@名無史さん:02/09/29 20:50
489違うな。:02/09/29 21:35
>>488
念のために確認しましたが、表記のBBSの人は西都クンじゃないですね。
まず、文章力が違います。我らがアイドルの文章は、もっと悲惨です。
それに、アクセス元のサーバも違ったように思います。(俺も暇やな・・・
>>488
いんや、こりは西都ヴァカではありまへん。
こんな謙虚な書き方は彼には出来ませんから(w
491日本@名無史さん:02/09/29 22:18
>>488で紹介された人、西都くんとまちがえられて災難だなぁ
492日本@名無史さん:02/09/29 22:48
でも488の根拠や行程がサイトクンそっくりなんですが
489、490は自作自演?
493485:02/09/30 19:21
NHKの方はもう見られないので毎日の記事をはっときます。
http://www.mainichi.co.jp/news/journal/photojournal/archive/200209/27/27-13.html

>>486
石野博信氏が関わっているので、その線は浮かびようもないかと・・・
>>492
違うよん。
漏れは「西都くん」なんてお上品な言葉は使いません。
きゃつに対して使う名称は「西都ヴァカ」「GK」のどちらか。
それに西都ヴァカの使っている鯖はOCNではありまへんしな。

なんでおいらがこんな事知っているかって?それは秘密でし(ウソ)



495>>494:02/10/01 01:44
あなたが本人か(ムキになって何度も否定するところがサイトヴァカの性向に似てる)
、もしくはサイト君が少し利口になってサーバーを使い分けているかどっちかですよ(藁)
http://www.ha-kodai.com/ronsou/trees.cgi?log=&v=871&e=res&lp=871&st=
これを見れば、ますますサイトクンと言ってることが全く同じなんですが、(藁)
誰か、その掲示板に行って、卑弥呼の墓はオサホ塚ですか?と誘導して見たら分かるよ!
496日本@名無史さん:02/10/01 02:16
別スレよりコピペ
>西都バカ(荒らしのプロ、自称皇族、鹿島昇帰依者)のHN一覧

>@大室寅之スレ、
>AGK、
>B月光仮面、
>C解決黒頭巾、
>D解決黒頭巾先生 に質問!!
>E勇気をもって!!
>F天
>Gw
>Hあ
>I田布施町民
「大室寅之スレ」のハンドルであることから、>>494はやはりサイト
http://www.ha-kodai.com/ronsou/trees.cgi?log=&v=871&e=res&lp=871&st=
の「ヒューガ」は日向で、=西都であるのは非常に分かりやすく、
問題の投稿のIPは、山口、宇部で、田布施町の近隣(接続業者が田舎の田布施にはないのでしょう)
だから、バレバレ。素直に認めたら?
497日本@名無史さん:02/10/01 02:36
http://mentai.2ch.net/history/kako/1004/10048/1004864296.html
このスレッドを読むと、>>492の言うように、問題の掲示板の内容とサイトクンの根拠や行程が全く一緒なことが分かります。
>>495
>>496
お褒め頂きありがとうございます。おいらにとって
「お前サイトだろ!」と言われるのは最高の名誉でございます(w

ほいじゃおいらは寝ますんで。あとはよろしう。
バイブガールズ@YASUKUNI マンセーっと(w
499日本@名無史さん:02/10/01 06:51
開き直りやがった、、、(劇藁)
500岡田克彦 ◆PXG5trJ2 :02/10/01 10:43
500ゲットはょういたしぶす。
501日本@名無史さん:02/10/04 14:11
>>496
>>498
よ-するにここにくる奴のアドレスを抜いてたって事か。
昨日TBSの6時のニュースでやってた。
ニュース速報板でもやってるけどな。
502またIP厨か:02/10/04 16:50
リンク先の表掲示番に出てるだろ。正確にはIPじゃないけどな。
503日本@名無史さん:02/10/06 00:26
サイト馬鹿ってチョソの工作員ですか?
504日本@名無史さん:02/10/20 17:33
耽羅国がカギを握ってると推測するのですが、
みなさまは耽羅国についてはどうお考えでしょうか?
505日本@名無しさん:02/10/20 19:58
此のスレ噂には聞いてたが、ものすごい妄想のワンダーランドですね。
506日本@名無史さん:02/10/21 21:44
だな
507日本@名無史さん:02/10/21 22:12
日本史板も工作員だらけなんだね
508日本@名無史さん:02/11/02 15:30
>>504
なんで耽羅国の話がでてくるのかわからない。説明汁
509日本@名無史さん:02/11/14 03:23
耽羅国(済州島)での言い伝えでは、始祖3人の妻(3人)は日本出身とのこと。
510日本@名無史さん:02/11/14 11:52
うんこ
511日本@名無史さん:02/11/25 21:39
耽羅国と朝鮮半島ではまったく異なっていたそうだ

耽羅国にカギがあると見たね
512日本@名無史さん:02/12/03 22:41
済州島を日本領へと取り戻そう!
513日本@名無史さん:02/12/14 22:32
済州は朝鮮王朝の衰亡と同時に日本の植民地となり,
1914年には植民地の基本資料として土地測量を始めた。
済州はその時に標本の地区になり細部測量をすることになる。
この年の5月15日から9月15日まで道民たちに所有した土地を申告するようにし,
漏落した土地は日本の官吏たちが横領または公有化までしてしまった。

もちろん日本が植民地化の手段としてのことだったが,
この時代にはまず一周道路の開設・拡張(1912?1917)と
済州港の築港工事(1927)等大変な変化が予告された時期である。
その時まで眠っていた済州の全地域が,甚だしく
山と海に至るまで眠りから覚めた時期だと言える。
倭王権は、中部地方が元だったという
説も出てきてる。
515日本@名無史さん:02/12/26 15:37
667 日本に王子を派遣,貢献する。
669 日本に派遣。帰国の時に錦,纈,紺布,桃染布,斧,月子等を得てくる。
674 日本に王子を派遣して貢献。五穀種子を得てくる。
676 日本に王子を派遣,朝貢を捧げる。
677 王が日本で難破,大阪に到着。
678 日本から船一隻をもらう。
679 日本に王子を派遣,朝貢を捧げる。
688 左平職を日本に派遣,朝貢する。
516日本@名無史さん:02/12/26 15:58
>>515
つまり日本とは明らかに別に国だったわけだ。
517新井満子:03/01/05 02:58
>>516
そう、済州島は日本に朝貢しているし、朝鮮とは別の人々が住んでいたみたいね。
518山崎渉:03/01/11 16:57
(^^)
519日本@名無史さん:03/01/13 04:51
済州島を日本に取り戻す方法はないだろうか……
520日本@名無史さん:03/01/13 05:02
単純に物理的利益だけでいえば、日本領である方が韓国領であるよりも
トクなのは済州島人も、よほどわかってるよ。

あとは日韓双方から「あいつらは利益につられて祖国を裏切った」とか
「金目当てで日本人になった連中、『元チョン』だ」とかいわれて
差別される心配がないと確信すれば、自然と日本領になっていく流れができるだろう。
でも日本人も韓国人も、結局差別はするだろうけどな。だから無理。
521日本@名無史さん:03/01/13 05:03
世界各地で弱小民族が利益を度外視して独立紛争おこすのは
こういうわけだな。
522山崎渉:03/01/16 08:49
(^^)
523日本@名無史さん:03/01/17 05:31
自国のアイデンティティを保つために反日してる国の立場は?
524日本@名無史さん:03/01/22 23:28
そんなわけわからん国のことなど知らん
525日本@名無史さん:03/01/24 00:45
初心者でスマソ。
奴国も伊都国も邪馬台国も倭国の一部ってことでいいんだよね?
その場合の倭国って何?単に同じ言葉をしゃべる人々の国の総称?
それともEUみたいに「倭国連合」みたいなのがあって、
たまに奴国や邪馬台国から代表が集まって会議でもしてたの?

なぜこんなことを聞くかっていうと、
倭国には少なくとも朝鮮半島の一部が含まれてたんだよね。
もし「倭国連合」があったのなら別に問題ないんだけど、
仮にただの総称とした場合、
どうして地理的に明確に分離している朝鮮半島と日本列島
(少なくとも九州)を総称する必要があったのかな?
やっぱり同じ言葉を話してたから?
526日本@名無史さん:03/01/24 02:44
>地理的に明確に分離している

海によって人が隔てられていると考えるのは、近代性に毒されている証拠です。
昔は陸運より遙かに海運(水運)のほうが、人々を結びつけていました。
対馬と釜山なんて50キロです。
527日本@名無史さん:03/01/24 19:20
>>525 前半の倭国と、後半の倭の意味が違うんじゃないの。

前半は邪馬台国とその取り巻きを指す倭国だろ。
後半は倭種という種族的意味での倭。

並立して書くと、混同しているのかと勘違いするが。
528日本@名無史さん:03/01/24 23:59
>>526
それでは「韓」と「倭」を分けたものはなんだろう。
その境目は、朝鮮半島の内にあったわけだけど。
言語?商圏?それとも明確な文化の違いがあったのかな?

>>527
なぜ「邪馬台国とその取り巻き」を総称する必要があったのかな?
「取り巻き」の国は邪馬台国に朝貢でもしてたのだろうか。
それと、「倭種」っていうものがあったのなら、
上のなぜ朝鮮半島内に「倭」と「韓」の境目があったかという問いの答えは
それは「種」の違いということになるね。
529日本@名無史さん:03/01/26 02:19
↑邪馬台国は首都。
ものすごくわかりやすくいうと倭と邪馬台国は、日本と東京みたいな関係。

朝鮮半島内に「倭」はない。倭人はいたけど。
半島にあったのはあくまで「韓」。その韓が、倭に服属していた。
530日本@名無史さん:03/01/26 16:38
age
531日本@名無史さん:03/01/26 16:57
>>529それも一つの説ではあるが、半島内にも「倭」があったとする説もあり、断言は今のところ出来ません。
532日本@名無史さん:03/01/26 17:01
魏志倭人伝に「其(倭の)北岸狗邪韓国」とあるぞ。
やっぱり日本列島+朝鮮半島の一部は倭人の居住地であり、
これが一体として「倭」と認識されてたってことだよね。
533529:03/01/26 17:08
>>531
それはちがうんじゃない?
魏志韓伝の70余国は現在の半島南部の全域に地名が比定されており、倭国が存在する余地はないよ。
具体的に半島のどのあたりが「倭」だったというのか今の地名でさしてくださいよ。

半島内に倭があったという説は鮮卑伝の檀石槐のとこにでてくる話だが
あれは半島じゃなくて満州方面だし、山海経の倭は山東省方面。しかも時代がちがう。
3世紀の半島に倭があったというのは井上秀雄の電波説でしょ。

半島内に韓と倭が別々にあったというのは少なくとも3世紀に限っていえばムリ。
あくまで韓が韓として、倭に服属していたのであって、半島で並立していたのではない。
534日本@名無史さん:03/01/26 17:18
>>532
だから、狗邪韓国(今の釜山)は狗邪“韓”国でしょ。これは倭じゃなくて韓。
種族としては「韓」だけど、政治的には倭国に服属していて倭国の属領だったんでしょう。
535日本@名無史さん:03/01/26 18:02
>>534
オマエのいう「倭」って何よ。
邪馬台国が単なる首都なら、卑弥呼は都知事?
「倭」の政治形態はどうなってんだ?
536日本@名無史さん:03/01/26 18:13
>>535
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく倭国の女王。
たとえば天皇を「日本天皇」とはいうけど「東京天皇」とはいわないだろ。

あと、あんまり漠然とした質問は答えにくいな。具体的にお願い。

サーバの負荷が高くて書きこめない時間になったようなんで
今日は落ちます、また後日ね。
537日本@名無史さん:03/01/29 05:59
>>535
連合国家だよ。ギリシアが近いかな。その時々によって
アテネやスパルタ、テーベと覇権が移ったでしょ。あんな感じ。
倭も奴が有力だった時期もあったりして。
ま、結局邪馬台国に最終的には落ち着いたみたいだけど。
ハプスブルクも近いかもね。あれは選挙だけど。
538日本@名無史さん:03/01/29 19:42
卑弥呼を女王に立てて内乱が収まった。と伝わるが、その訳は?
彼女が巫女として占いが良く当ったから?
政治力が優れていたから?
邪馬台国が覇権を得たから?
戸数7万余という最大規模の国だった様だから、理由は3番目だろうな。
539日本@名無史さん:03/01/29 21:20
概出ならごめん。
崇神天皇(ミマキイリヒコ)は夫余の依羅であると言う話は?

三国史記?によれば依羅は鮮卑に敗れて海に逃れ倭人を定めて王となった。
3世紀末の事である。
540日本@名無史さん:03/01/29 21:31
>>539
三国史記のどこに載ってるんでつか?
541日本@名無史さん:03/01/29 21:45
どうやら桓檀古記に記載されているようだな。


★「桓檀古記〜大国本震国本紀」
依廬王は鮮卑の慕容鬼#に敗れ、逃れて海に入り還らなかった。
子弟は、走りて北沃祖を保った。明年、子依羅が立つ。再び
慕容鬼#に敗れ、衆数千を率いて海を越え、倭人を定めて王と
なる。

http://www.intacc.ne.jp/~kiya/sehaci/kiya31_b.htm

桓檀古記は偽書として有名。
542日本@名無史さん:03/01/29 21:54
543542:03/01/29 22:00
同一内容のものが「東アジアの古代文化」1990冬・62号に掲載。
日帝下で朝鮮の民族主義者によってかかれたものとされています。
544日本@名無史さん:03/01/29 22:19
古事記も似たようなもんだろ。
平安時代に書かれた。
545日本@名無史さん:03/01/29 22:27
晋書にも似た事が書かれている。

倭人を定めて王となる。

のくだりはないが。

546日本@名無史さん:03/01/30 00:27
晋書にかかれているのは夫餘が高句麗に滅ぼされたというだけ。
滅亡した時、夫餘の王が逃れて倭国にわたり崇神天皇になったという話は
江上浪夫の「騎馬民族征服説」がでてから取り入れられた話で、露骨なデンパ。
547日本@名無史さん:03/01/30 00:29
おいおい、待て待て。漏れは535だが537ではない。
536からの質問は漏れ宛の質問だが、
537の回答は漏れの考えとは全然ちがうぞ。
537は「連合国家」というが、漏れは中央集権国家だと考えている。
548日本@名無史さん:03/01/30 00:37
中央集権?
複数の国があって、それぞれに王がいるのに?
それとも倭じゃなくて各国のこと言ってるの?
549542:03/01/30 00:44
>>546
そうなのか。すると成立はもっと下るわけか。
550日本@名無史さん:03/01/30 01:39
>>548
横から口を挟んで恐縮だが、魏志倭人伝には

租税制度に関して「收租賦、有邸閣。」
市場の監督について「國國有市、交易有無、使大倭監之。」
北の国々の監視について「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。」
特に大陸との玄関になる伊都国での交易の監視について
「常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、
皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

といった具合に書かれている。単なる連合国家には留まらないだろう。
この時期に始まる前方後円墳が全国的規模で拡大することも一つかな。
551日本@名無史さん:03/01/30 02:07
>>548
あほか。古典漢文の「國」の字は現代語の「国」とか意味がちがう。

>それぞれに王がいる

お前は魏志倭人伝よんでないだろ。
王は大倭王卑弥呼のぞいては反乱勢力の狗奴国王と有名無実の伊都国王しかいない。
この二国は例外で他の国々には「王」などいない。治めているのは「官」だとはっきり明記されている。

>>550が引用してくれた文面はことごとく「強力な中央集権国家」の証例であって
「連合国家」なんていうイメージとはほど遠い。
552日本@名無史さん:03/01/30 03:37
強力な中央集権国家?
このあとの前方後円墳体制の時代すら、中央集権には程遠いのに?
租税制度・市場の監督・国々の監視・交易の監視、そりゃやるよ。
一つの国を構成してるんだから。やらなきゃばらばらだよ。
そんなのは中央集権の指標にはなんないよ。
むしろ監督を必要とするような、各国の自立性すら存在するってこったよ。

連合国家ってのは誤解を招く表現だったかもしれんが
かといって強力な中央集権国家なんかでもないよ。
ましてや君らの言ってることは女王以北の数国に当てはまる話で
他の20国を合わせ考えれば、30国からなる諸国同盟の盟主的存在だよ、邪馬台は。
もちろん次第に中央集権的になっていったことは否定せんが
それはまだまだ先のお話。
553 :03/01/30 04:40
今の時代でも中央官庁は各都道府県を監督しているが
都道府県の自立性すら存在するといえるのか?
推測と飛躍が入ってないか?
監督していたということは中央の統制の元にあったと素直に読むべき
だと思うが?
554日本@名無史さん:03/01/30 05:04
中央集権ってのは、中央に全権力が集まってんだよ。
あんな3世紀の倭みたいなのが中央集権だったら、
歴史上ほとんどの国が中央集権になっちまうよ。
別に学者並にしろとは言わないが術語はもうちょっと
正確に使ってもらわないと使う意味がない。
ところで553さんは現代日本が中央集権だと言うわけね。
だったら議論かみあわないわ。逝くわ。
555日本@名無史さん:03/01/30 05:09
>>533
「魏志韓伝の70余国は現在の半島南部の全域に地名が比定されており」
これ嘘だろう。
比定がネットで見れるのであればソース教えてください。
特に、月支国がどこにあったのか教えてください。
556日本@名無史さん:03/01/30 14:28
>>552
>このあとの前方後円墳体制の時代すら、中央集権には程遠いのに?
中央集権体制があったから巨大古墳もできたんでそ。

>租税制度・市場の監督・国々の監視・交易の監視、そりゃやるよ。
>一つの国を構成してるんだから。やらなきゃばらばらだよ。そんなのは中央集権の指標にはなんないよ。
じゃなにが指標なんだい?

>むしろ監督を必要とするような、各国の自立性すら存在するってこったよ。
査察官の存在が「中央集権でない証拠」なの?
なければないで、官僚制とは程遠い未発達な段階とかいうんでそ。
あったらあったで、各国の自立性が存在した証拠かい(w
「於國中有如刺史」の刺史は中国での監督官だが、
郡の太守は監督を必要とするような自立性をもってたから中国は中央集権ではないわけだな。

>ましてや君らの言ってることは女王以北の数国に当てはまる話で
>他の20国を合わせ考えれば、30国からなる諸国同盟の盟主的存在だよ、邪馬台は。
女王以北は「“特に”一大率を置いた」んで、他の地域はほったらかしなら
“特に”という表現は不要。他も支配下だったんだよ。
20国だろうが30国だろうが同盟の相手になるような自立性はない。
だって王がいないんだから。どの国も支配してるのは「官」。
そもそも漢文の「國」の字には都市の意味があって、独立した政治主体という意味で使われるとは限らない。
その「國」がどういうものなのかは文脈の中で判断しなければならない。
現代語の「くに」とは意味の範疇がちがうんで、国々とあるから即連合だの同盟だのというのは短絡。
ちなみに倭国が中央集権体制だというのは中国の歴史学者王金林も唱えていた。
557日本@名無史さん:03/01/30 14:29
>>554
>中央集権ってのは、中央に全権力が集まってんだよ。

そんなの共産主義国家くらいだろ。勝手に定義すんなアホ。

>あんな3世紀の倭みたいなのが中央集権だったら、歴史上ほとんどの国が中央集権になっちまうよ。

「あんな」ってどんな? あなたの先入観と魏志倭人伝の記述が乖離してるだけだと思うが。

>別に学者並にしろとは言わないが術語はもうちょっと正確に使ってもらわないと使う意味がない。

あなたはまず魏志倭人伝くらいの漢文よめるようになってから。

>ところで553さんは現代日本が中央集権だと言うわけね。

現実そうじゃん。だから問題になってんだろ。たまには新聞でも読め(w

>だったら議論かみあわないわ。逝くわ。

二度とこなくていいです(w
558日本@名無史さん:03/01/30 14:35
>>555
>「魏志韓伝の70余国は現在の半島南部の全域に地名が比定されており」これ嘘だろう。

うそじゃないよ。馬韓50余国は少し古いが李炳涛の説。細かいとこでは異論もあるが
これは北から南へほぼ魏志韓伝の記載順に比定されていて妥当に感じるところが多い。
弁辰韓24国の比定地は李炳涛だけでなく日本の学者も何人も案を出しているが、
細部でくいちがいが多い。大筋はいっしょ。ただし韓伝の記述と配列が不規則。

>比定がネットで見れるのであればソース教えてください。

知らない。たぶん無い。李炳涛の「韓国古代史」は大きな図書館にあるよ。
あと弁辰韓だけなら井上秀雄「古代朝鮮」NHKブックスがある。

>特に、月支国がどこにあったのか教えてください。

忠清道稷山。この場合は後漢書の「目支国」が正しい表記とする説。
全羅道益山とする説もあるが、益山は乾馬国に比定される方が多い。
559527:03/01/30 15:24
なんかすっかり倭人伝ペースだなや。

わっち(527)の前半後半ってのは525氏の文章内容だで。
魏誌の話ではないだよ。(てかいーよ、もう魏誌わ)

525氏がまんず「倭」の意味を混同しとらんかいって、聞いてみただよ。
よって中央集権であるわけがないッス。ついでに連合というのもまだ遠いだな。
>537氏のが比較的わかり易いかもしれんが。(でもギリシャも後期は選挙だで)
それにポリスってのは、植民的要素、隷属的要素のが強かったからね。
倭の本姿とはどれも異なりそうだなやー

あと魏誌には、まず中原の史観が入っている事をお忘れなく。
「国」にしろ「官」や「一大率」にしろ、向こうの感覚で書いただけ。
だって数千戸で国ってのもおかしいべさ。イコールで考えちゃいかんだよ。
560555:03/01/30 16:12
>>558
ちと書き方に礼を失した面があったな。書いてから反省した。
なるほど、参考になりました。
561日本@名無史さん:03/01/30 20:21
>あと魏誌には、まず中原の史観が入っている事をお忘れなく。
>「国」にしろ「官」や「一大率」にしろ、向こうの感覚で書いただけ。

やれやれ、今度は「魏志の方がまちがっている」と?
そこまでして「自分の倭国イメージ」にしがみつきたいかね?

漏れも魏志が一から十まで正しいかどうかは自信がない。が、
どこまで正しくてどこがどう間違っていているのか判断の基準はどっからもってくるの?
無根拠な先入観を優先させるよりは字づらどおりとった方がましだろう。

>向こうの感覚で書いただけ。

そのとおり。向こうの感覚では中央集権的と判断されたんだな。
もし連合とか同盟とかの自立性の高い集団の集まりなら、
諸国のそれぞれの支配者は「官」ではなく「王」か、せめて「稗王」とか「侯」と書かれたろう。

>だって数千戸で国ってのもおかしいべさ。イコールで考えちゃいかんだよ。

なにがどうおかしいの? まったく理解不能だが。「国」の定義は人口の多寡か。初耳だな。
562日本@名無史さん:03/01/31 07:14
あのね556さん、別に俺は「国」っていう字面で話してるんじゃないわけ。
あんたの言うようなことは百も承知だよ。
国と国とがどうゆう関係だったかってことでしょ、結局は。

>中央集権体制があったから巨大古墳もできたんでそ。
>現実そうじゃん。だから問題になってんだろ。たまには新聞でも読め(w
>二度とこなくていいです(w

うん、こりゃ全然話しかみあわんわ、ほな。
563日本@名無史さん:03/01/31 13:38
>>561 「官」でわかったのなら「国」も同じことだでよ。

分かりやすく言えば、「国」と「中央集権」の捉え方に(自身の内で)差異があるだよ。
数千戸しかない「国」を、「中央集権」するだか?
な〜んかそりゃヘンだべ。それは集権とか連合とか言わないべさ?
「倭」についてもそうだべ。
種族を指す意味と、一定の地域を指す意味を区別しとらんでよ?

あー、それからわっちは魏誌が間違えてるとは全然思っとらんよ。
ただ「他国の人が」書いた感覚、そして「現代人として」読んでいる感覚、
これをよく考慮せんと、どうどう巡りだで〜、と言いたいだけだわ〜
564日本@名無史さん:03/01/31 18:47
563は「魏誌」をもとに語っている。
他のみんなは「魏志」をもとに語っている。話がかみ合わないのは当たり前。

人口が多くても中央集権ではない国家、人口が少なくても中央集権である国家
を想像する事はできないんでしょう。

むきにならずにテキトーに遊んであげてください。
565日本@名無史さん:03/01/31 19:11
>>564 ウマイ!
座布団1枚!
566日本@名無史さん:03/01/31 22:26
横からスマソ。
ざっと見た感じ、中央集権の定義を明確にせんとおえりゃぁせんぞな。
とりあえず、lycosから

http://dic.lycos.co.jp/ecp/result.html?query=%92%86%89%9B%8FW%8C%A0&id=0015166200&encoding=shift-jis&th=1&th=1

中央集権
ちゅうおうしゅうけん

ある政治共同体において、一つの権力、一つの政府、一つの法律に基づいて政治が統一的に行われること。
この意味では、現代の国家はすべて中央集権的統治形態をとり、封建社会におけるような領邦国家の群立する分権的支配とは異なる。(ry
567日本@名無史さん:03/02/01 19:24
近代国家の話してもしょうがない。普通、前近代の東アジアで
「中央集権“的”」といえば「郡県制“的”なもの」、
「地方分権“的”」といえば「封建制“的”なもの」をさすと思うが。
地方を治めるのが「官」なら郡県制、「侯」なら封建制。

ところで漏れがいってる「倭国が中央集権だ」ってのは、
女王に集権されてて他の国々が治められてるといってるわけだけど。
>>563は「わずか数千戸で国というのはおかしい」というから何をいってるのか理解できなかったが
どうやら「わずか数千戸の国の“内部で”中央集権はおかしい」といいたいらしいな。
どうしてそんな反応できるのか? >>550-561をろくに読んでなさそうだなあ。
568日本@名無史さん:03/02/05 01:33
>>551
「漢委奴國王」と「親魏倭王」の違いが気になる。
なんで前者は「倭王」じゃなくて「奴國王」なんだ?
569日本@名無史さん:03/02/05 07:47
>>568

 「奴國」だとは限らんだろう。「委奴國」を「委(=倭)」の「奴國」と分けて
解釈するのは一つの解釈に過ぎないんだから。「委奴」が「伊都」のことだという
説は音韻に難点があるが、そうじゃなくて、そもそもこの金印に書かれた国がその
まま魏志倭人伝にも登場している、という保証はないよ。なんせ、魏志倭人伝より
前の時代のことなんだから(つまり例えば委奴國というのは倭國の旧名だったとか、
他の可能性だってある)。
570日本@名無史さん:03/02/06 00:38
朝鮮半島の一部も倭国の領土だったという理解でよかですか?
571日本@名無史さん:03/02/06 00:51
中国の書物

後漢書東夷伝倭伝では『去其西北界拘邪韓國七千餘里。』となっており、倭の北西
界が拘邪韓国であることが書いてある。すなわち、拘邪韓国は倭の領土。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gokan-toui.html#wajin

一方、三国志東夷伝倭人伝では『到其北岸狗邪韓國、』となっており、拘邪韓国が
北岸、すなわち北の対岸であり倭の領土ではないとも読めるが同じく三国志東夷伝韓
伝に『其toku[偏水旁賣]廬國與倭接界。』となっており、tokuro国が倭と接している
ことになり、やはり後漢書とおなじく拘邪韓国が倭の領域であることが推定される。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#wajin
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#kann
572日本@名無史さん:03/02/06 05:26
金印をもらった奴国と、卑弥呼の支配下にいる奴国は、領土は同じ場所でも政権がかわっているんだろう。
後漢の初期の頃、奴国には王がいて独立していたが、その後、倭国の中央政府に吸収されて王はお家断絶、
かわって官が派遣されてきて治めてたわけだろ。
573大和御中:03/02/13 19:07
ここの主流は、邪馬台国畿内説ですか?
574九州王朝あったかも?:03/02/13 19:19
漢の倭の奴国という形自体が、宗主国・中国側からしても考えられない。
超大国・漢にとって、中間に倭国が介在するような形で印綬という最重
要の政治道具を与えるのは不自然きわまりない。読み方について諸説あ
るにせよ、「奴国」ではないと思う。
575日本@名無史さん:03/02/13 19:36
>>574
疑問の第一として、
そんな重要な金印が何で畑の中から忽然と見つかるんだ?
土地のお百姓さんが仕事していて、鍬の先にコツンと当る物があった・・・
そんな形で発見されるものかなぁ。
墳墓でも遺跡でもなく、しかも何の入れ物にも入っていない姿で。
鍬の当った傷跡でもあるのか?
576q:03/02/13 19:43
ネットで企業のモニターみたいなことして、
収入を得たい人は一度みてみるといいですよ。
ちなみに私はアンケートに答えたり、メールを受信したり
して、月の収入は4万円弱です。
http://zoetakami.fc2web.com//
577日本@名無史さん:03/02/13 20:08
なんか中国で、同じ蛇の銀印出土してませんでした?

日本の金印と同じ形(?)だったので、日本のモノも本物だろう・・・
みたいな事を中国の学者が言ってたとか、なんとか・・・
578日本@名無史さん:03/02/14 06:47
金印は偽物。
その手の日中の骨董的金石文がもてはやされて
類似の偽造品があふれていた頃にちょうど発見されたというのがいかにも怪しい。
後漢の光武帝が倭王に授けたという金印も当時は何種類も知られていた。
すべて偽物として消えていってしまったのに、なんで一つだけ残る?
どう考えてもこれも偽物の一つとしか考えられないが?
579日本@名無史さん :03/02/14 13:54
文章内容に矛盾のある奴多いな。

>後漢の光武帝が倭王に授けたという金印も当時は何種類も知られていた、

のなら偽物とかどうだっていいだろ。そんだけわかってれば。
中国側の見解からばかり話しするからだ。

そろそろまともな、自国の、王権起源の話し聞きたいもんだね。
580578:03/02/15 05:23
当時ってのは後漢時代のことじゃなくて骨董ブームの時代=江戸時代ってことなんだが。
581日本@名無史さん:03/02/15 13:01
妙な理屈だなぁ。
骨董っていうのは、贋作が山ほどあるもんだけど。

贋作が山ほどあってことごとく消えていったから、
真作とされるもんも“どう考えても”偽者に違いないってのは、
頭腐ってるよね。
582日本@名無史さん:03/02/16 18:48
ひとつぐらい残ったからって何の不思議もないだろ。
そもそも後漢時代の金印がでてくること自体奇跡的なのに
丁度その手の贋作が流行してる時に発見されるなんておかしいに決まってるだろ。
583日本@名無史さん:03/02/16 20:37
金印の疑問
1)なんで「漢〜」とついているのか?「穢王之印」や「シ眞王之印」には「漢〜」がついてない。
2)なんで「〜王」でなく「〜国王」なのか。当時は「〜王」が普通で「〜国王」という表現はないはず。
3)なんで末尾に「璽」「印」「章」のどれもついてないのか。これは漢の制度に反してないか?
584577:03/02/21 03:06
>>578
えっと、たしか中国の方の銀印は最近出土したモノだったのでは?
それが、日本で出土した金印と同じ形だったとか・・・(ソース無しの伝聞形でスミマセン)
585日本@名無史さん:03/02/26 23:03
金印を偽物にしたがる人々はどういう派閥方面なの?
586日本@名無史さん:03/02/26 23:09
なんでも偽者にしたがる奴はいつもいるわけで。まあ、日本なんかゴミだという
中国崇拝思想派では?
587日本@名無史さん:03/02/26 23:10
トンデモ派
588フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/02/27 10:25
こんな事 し放題だったと。
ttp://202.212.234.195/cgi-bin/waki/img/144.jpg
西に良い娘あれば人を遣わせ「喜べおまえの娘を・・・。」
東に逆らう部族いれば皆殺しにして娘を・・。
ttp://nightz.jpn.ph/uploader/source/up0008.wmv
589日本@名無史さん:03/02/27 11:19
>>585
チョンは「ウリが日本を作った」「ウリが文化を教えてやった」
「ウリの方が格が上」などとほざいており、
金印を貰っていない事を内心あせっている。
故に金印を模造品とする事に必死。

最悪の場合、盗難される危険性あり。
590日本@名無史さん:03/02/27 15:20
>>569
中国の文献に「倭国はいにしえの倭奴国なり」「奴国は倭国の極南界なり」という記述がある。
つまり、本来、倭国とは、任那と九州北部の連合体を指し、やがて邪馬台国=ヤマトの
軍門に下ったということじゃないの? 中国文献では、任那は明らかに倭国領。
「魏志倭国伝」じゃなくて、「魏志倭人伝」であるのは、倭国と倭人を区別しているからだと思う。
邪馬台国の支配地域より西にも倭種が住むと書いてあるのも傍証。
591583:03/02/27 17:59
おいおい、チョンよばわりかよ(w
ちゃんと具体的な反論はないの?
592563:03/03/06 00:46
>>590 同感だでよ〜
(軍門に降った、、、の辺りは除いて。あと西ってのは東でないの?)
やーっと分かる人が出てきたなや。
倭種全体から見れば、倭人伝に書かれている奴国等は一部地域の事象でしかないもんねえ。
ずばり言っちまうと半島〜九州の話しかしとらんべさ?

わちらの国には、他にもまだまだ王権に繋がる地域はあるでしょ?
その話もせんと倭人伝の話だけしたってしょうがないッス。
中原から使者が来た地域だけが倭ではないでよ。その東にもずーっと倭はあるのだでよ〜
593日本@名無史さん:03/03/08 04:13
ない
594 タモリ:03/03/08 22:22
>>593 ないこたあなぁい、、、
595フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/10 11:45
596日本@名無史さん:03/03/12 09:08
どの発展段階で「起源」とみなすのか決めないと議論が混迷するな。
597曲学の徒:03/03/12 23:59
神武東征は一世紀末の史実。
というような怪しげな説を展開しております。
ご批判を。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/
598日本@名無史さん:03/03/13 00:45
徐福
599日本@名無史さん:03/03/13 00:51
>>55
>三種の神器を奉戴する集団

これは何なのか分かってるんでしょ
600むら:03/03/13 03:52
600です。
おめでとうございます。
601日本@名無史さん:03/03/15 01:53
保守
602日本@名無史さん:03/03/15 05:00
>>597
ほぼ正解95点
603フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/15 14:48
各部族から すでに妻となっている女も
略奪した
ttp://nightz.jpn.ph/uploader/source/up0017.rm
そのあと ゆっくりと愉しんだ
604日本@名無史さん:03/03/15 23:49
>>1なお、アズマ、チョソ、古田信者、西都信者、津田信者、
江上信者など電波野郎の入スレを固く禁じます。

自分で禁止してどうする!
605フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/17 18:34
王にのみ許される愉しみ
ttp://nightz.jpn.ph/uploader/source/up0023.mov
606フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/18 16:42
607日本@名無史さん:03/03/19 03:19
倭人って、縄文人?、弥生人?、古墳人?
608フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/19 15:03
王は飽きもせず食い尽くした
ttp://nightz.jpn.ph/uploader/source/up0029.rm
609日本@名無史さん:03/03/19 17:37
スサノオは縄文人だったのか
610bloom:03/03/19 17:38
611日本@名無史さん:03/03/19 17:45
>>スサノオは縄文人
そーさのぉー(スサノオ)、どーずらのぉー
612フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/22 12:19
アドレス変更1


各部族から すでに妻となっている女も
略奪した
ttp://nightz.jpn.ph/uploader/source/0017.rm
そのあと ゆっくりと愉しんだ
613フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/22 12:19
アドレス変更2


王にのみ許される愉しみ
ttp://nightz.jpn.ph/uploader/source/0023.mov
614フーミン=もしもツアーズ=師走=後小松天皇:03/03/22 12:20
アドレス変更3


王の仕事は
ttp://nightz.jpn.ph/uploader/source/0024.rm
忙しい
615日本@名無史さん:03/03/31 00:50
奴国は倭国の極南界なり
616日本@名無史さん:03/03/31 14:39
>607
倭人は倭人…定義は中国人に聞かないと。
617日本@名無史さん:03/04/06 00:42
加羅は倭国であると明記されている以上、
倭人が半島にいた事実も加味すれば、結論は出ていると思うのだが。
618日本@名無史さん:03/04/14 23:44
ようするに、倭人が半島から追い出されたのが痛い。
619 :03/04/15 07:45
刺青ほって日本語喋っていた連中だろうな。
刺青は古代におけるIDでもあるしな。
620山崎渉:03/04/17 13:22
(^^)
621日本@名無史さん:03/04/18 01:43
622山崎渉:03/04/20 01:58
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
623日本@名無史さん:03/04/26 01:21
>>619
当時の倭人の習慣だそうですね。>入墨
624日本@名無史さん:03/05/02 01:09
刺青とか銅鐸とか、ブームが終わったらそれっきりですな。
625日本@名無史さん:03/05/02 01:11
入墨
626 :03/05/02 01:22
ブームとはいえ、かなり後まであったみたいだね。
「其國近倭、頗有文身者。」と梁書にもある。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/ryo-syoi.html#kudra
627 :03/05/02 01:23
縄文時代からの名残でしょう。
628 :03/05/02 01:27
ちなみに三国志では辰韓につき、
「男女近倭、亦文身。」ともあります。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#kann

追記 >>626 は百済についてでした。
629日本@名無史さん:03/05/02 02:15
>627
弥生時代は?
630__:03/05/02 02:15
631 :03/05/02 02:39
>>629
三国志は弥生時代でしょ。
632 :03/05/05 22:48

飽きたな。ワニでいいんじゃないのか?w
633日本@名無史さん:03/05/05 22:53
3世紀半ばはもう古墳時代
634 :03/05/05 22:58
古墳時代でも弥生時代でもいいけど倭に刺青という風習があったということでしょ?
635日本@名無史さん:03/05/05 23:10
刺青と王権になんの関係が?
636 :03/05/05 23:29
>>635
よくしらないけど文化圏の確定に関する話ではないのか?

刺青はちなみにIDではあるな。
637日本@名無史さん:03/05/17 18:56
縄文人にも色々な種類がいて、入れ墨をするものとしないもの。
638 :03/05/17 19:11
魏志倭人伝には
「男子無大小皆黥面文身」
「諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差」
とあるな。
縄文時代の名残でしょう。
639日本@名無史さん:03/05/17 19:22
刺青をする意味。どう云う思いが込められたか?
当然、その意味が無くなれば風習は消える。
640山崎渉:03/05/22 03:09
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
641日本@名無史さん:03/05/23 10:05
642山崎渉:03/05/28 11:06
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
643>:03/05/28 22:43
er
644日本@名無史さん:03/06/08 01:16
ワカタケル以前に熊本から埼玉まで支配できていたというのが証明されたわけだ
645日本@名無史さん:03/06/18 21:21
646日本@名無史さん:03/07/03 00:46
三種の神器を奉戴する集団??
647日本@名無史さん:03/07/08 22:48
九州では八世紀にも刺青があった。
隋書にも男女多文身とある。
やはりアマタリシホコは九州に居たんだろうね。
648日本@名無史さん:03/07/08 23:37
>>609
スサノヲは半島系だと思う。
649日本@名無史さん:03/07/11 13:02
神武は刺青していなかったから倭人じゃない。
半島人なんだろう。

継体天皇は刺青していたんだろうか?
応神天皇は?
650日本@名無史さん:03/07/12 11:43
>>639
アイヌの刺青に良く似る、台湾高砂族の刺青の理由に、
あの世で、家族とまた一緒に暮らしたいからというのがあった。
刺青を消すと、自分の所属が分からなくなるという恐れらしい。(女性の話)

一方、縄文の屈葬や甕棺は、勾玉の形が示すように子宮内胎児の形で、死生の考えを
強く意識したものと言える。(おそらく、墓内を朱くするのも)

これは、再生希望か?産まれた場所(あの世)に正常に戻る様にか?になると思うが、
漏れは後者だと思う。なぜなら、あの世に正常に戻れない者は、この世ものでなくあの世の
ものでない、さまよえる魂、物の怪、妖怪、幽霊となるという、怖さや穢れの考えは、
あの世で会おう、という考えと共に、日本に色濃く残っていた訳だから。

刺青には、相手に脅威を及ぼす他に、同属意識、それに伴う死の概念もあったんでは
なかろうか?

とすれば、同属意識(統一国家)の広まり、武具の発展(戦闘脅威)、異宗教(仏教)の普及
文明の発展(自然からの保護)により、風習は消えたと考えてはどうでしょう?
また、中国では罪人の刑でもあるわけだし、その認識の広まりもあるんでは無かろうか?
ただ、防護又は脅威を売り物にしたい、一部の人達(漁師&893)は必要上残っていたとか。

年代的には、半島の覇権をめぐり、中国に激しく認めてもらいたいと思った時期。
応神朝あたりから、消えていったのではないでしょうか?
それ以前として、土器にモンモンを入れない(ノッペリに魅力を感じた)のも影響があったかも?
いつの時代でも舶来一番、折衷、でも自分流に普及、は日本のお家芸。

蛇足
伸展葬も縄文中期から並立してくるが、外来とした場合、今回の新年代とのからみ、
抜歯風習の普及(縄文後晩期)と共に考えても面白い。

王権と関係無いんでsage
651山崎 渉:03/07/12 11:43

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
652日本@名無史さん:03/07/13 01:06
上層部による刺青が倭から消えたのはいつごろ?
653日本@名無史さん:03/07/13 05:34
梁書 百済
「其國近倭、頗有文身者。」(其の国倭に近く、すこぶる文身者あり)
654日本@名無史さん:03/07/13 05:35
失礼。
梁書 百済
「其國近倭、頗有文身者。」(其の国倭に近く、すこぶる文身者あり)
とあるから、かなりあとまであった模様。
古墳時代の埴輪にも彫られている。
655日本@名無史さん:03/07/13 05:40
日本側の記述では久米の鯨ける利目くらいしか書いてなかったと思った。

656日本@名無史さん:03/07/13 05:52
ああ、「隋書」にあるな。
「男女多黥臂點面文身、」
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/zui-toui.html#wakok
657日本@名無史さん:03/07/13 06:19
南方すぎじゃないか?ハヤト系じゃ在るまいし。

中国のヨタ話真に受けんでも。
658日本@名無史さん:03/07/13 08:57
刺青はハヤトとか南方系の習俗。
古墳時代のハニワなんかにあるのは刺青じゃなくて
アフリカや北米インディアンとかにあるペインティングだろう。
ただ、中国人からみたらみんな一緒に見えていた可能性はある。
659日本@名無史さん:03/07/13 09:02
刺青はアイヌにもあるだろう。
ま、こんなことどうでもいいが。
660日本@名無史さん:03/07/13 09:14
アイヌも南から来た。ハヤト系は華南だし。アイヌがハヤト系の先輩。
661世界@名無史さん:03/07/13 09:23
アイヌって、ブリヤート系でしょ?
662日本@名無史さん:03/07/13 09:35
ブリヤート系は、久米宏おそらく半島経由か?
アイヌ系に北方起源の母系混入じゃない?
663日本@名無史さん:03/07/13 09:39
664日本@名無史さん:03/07/13 09:40
これみてアイヌを南方系とするのはむりあるんじゃないの?
665日本@名無史さん:03/07/13 09:41
また、ブリヤートを半島経由とするのも無理がありそうだ。
細石刃の分布ともあわなくなる。
666日本@名無史さん:03/07/13 09:44
縄文人のmtDNAからもブリヤート人との関係が言われたな。
667日本@名無史さん:03/07/13 09:56
なるほど、時系列的には、久米が先でアイヌが後?
668日本@名無史さん:03/07/13 10:07
>>667
そうじゃないのかな。
669日本@名無史さん:03/07/13 10:21
半島経由の久米が倭系だと思ったもんで。
670日本@名無史さん:03/07/13 11:14
アイヌも縄文人も弥生人も遺伝子・人種系統は北方系。
アイヌも縄文人も弥生人も文化系統としては南方系。
アイヌ語も日本語も北方より南方との関係の方が深い。
遺伝子・人種系統は万年単位の話、文化や言語は千年単位の話。
なので人種と文化の系統が別々でもべつに不思議はない。
671日本@名無史さん:03/07/14 05:01
>>669

「東に向かった一群はモンゴロイドの祖となる。アジアの母たちの故郷の一つがシベリア。バイカル湖の辺で暮らすブリアート族には、きんさんの一族や、縄文人と一致するmtDNAを持つ人々がいる。2.3万年前、シベリアの旅人はマンモスを追い、日本を目指したのだ」
http://www.tv-asahi.co.jp/kioku/contents.html
672日本@名無史さん:03/07/15 02:40
じゃあ、ハヤト系は縄文、弥生に関係ない集団だな。
673山崎 渉:03/07/15 11:38

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
674日本@名無史さん:03/07/17 04:10
古墳時代のハニワなんかにあるのは刺青??
675日本@名無史さん:03/07/22 21:20
三国志では辰韓「男女近倭、亦文身。」

辰韓と倭は同じ縄文海洋族文化権
676???:03/07/22 21:21
               ∧∧
                (゚A゚ )
                |   ヽ
                (UU,,,)〜
     q∧ ∧ 
     (*゚ー゚)
     / ||y||ブ
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!!!!! ━━━━━━(゚∀゚)b━━━━━━ グッジョブ!!!
677日本@名無史さん:03/07/24 22:29
やっぱり朝鮮から来たんですか?>倭王
678日本@名無史さん:03/07/24 22:52
やっぱり密航で朝鮮から来たんですか?>>677の爺さん
679日本@名無史さん:03/07/24 23:41
>>677
高天原から来たのだ>倭王
680日本@名無史さん:03/07/24 23:44
高天原=朝鮮半島
681日本@名無史さん:03/07/25 03:43
>>680
日本書紀の記述が正しければ
時代的に高天原はアフリカ大陸ではないですか?
天孫降臨が180万年前
682日本@名無史さん:03/07/25 03:44
じゃあ天照大神は黒ん坊!  いや〜ん
683日本@名無史さん:03/07/31 21:02
684山崎 渉:03/08/02 01:13
(^^)
685日本@名無史さん:03/08/02 17:45
え〜と。刺青についてですが、名残を少し考えてみたんですけど、

お公家さんの眉や祭りの稚児のほくろみたいな造り眉がありますよね。
あれなんか、顔の刺青の名残と考えられませんかね?
まぁ化粧ですが、あの美意識は何だと考えた時、ステータスを表すものとすれば、
結構記述とあってます。

とすれば、刺青を持って倭人と判断した古代中国官僚を信じれば、
日本の政権の中軸を占めた公家の文化的のルーツは、古書の倭人そのものとなりますな。
686日本@名無史さん:03/08/02 18:07
ヤマトからは、華南系母系はでないんじゃないか?
687日本@名無史さん:03/08/02 18:40
>>685
「お公家さんの・・・造り眉」は12世紀くらいに広まった風俗ではないかえ?
1000年前の美意識が復古したと言う可能性を否定できるものではないけど。
女性の方の眉墨は、中国のコピーだが、「お歯黒」ならかなり遡れると思う。
688日本@名無史さん:03/08/07 00:07
689日本@名無史さん:03/08/07 06:27
>>687
そうか、源氏物語のころは造り眉はなかったのか。
それなら一つ安心して読める。
690日本@名無史さん:03/08/07 07:14
あの〜筑紫〜日向〜って宮崎のことじゃないの?
ttp://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper31.html
自分は全くの素人さんですけど、↑の人は結構有名?
691日本@名無史さん:03/08/07 20:21
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692日本@名無史さん:03/08/07 20:47
>>690
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694日本@名無史さん:03/08/09 20:05
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695日本@名無史さん:03/08/09 22:42
恐怖の大王


696日本@名無史さん:03/08/15 01:10
697山崎 渉:03/08/15 12:17
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
698日本@名無史さん:03/08/15 16:14
刺青はアイヌにもあるだろう。
699日本@名無史さん:03/08/17 05:15
テレ朝の某番組は、北方からの母系をアイヌの人達としてたが
華南系のどれかも在るじゃないか?南からの方が主流では?
700日本@名無史さん:03/08/19 22:02
長江文明の存在がわかって以来、他の文明と異なり日本的な要素に注目があるね
701日本@名無史さん:03/08/26 22:32
702日本@名無史さん:03/08/27 06:10
高天原=天
天皇家は土着の倭人。
703日本@名無史さん:03/09/03 22:32
根っからの土着の倭人なんて存在したのか?       
704日本@名無史さん:03/09/03 22:42
天皇家が渡来人だからこそ天孫降臨神話が必要だったんじゃないの?
705日本@名無史さん:03/09/03 22:53
♪南方系! 南方系! 奈良の磯城、
♪南方系! 南方系! 奈良の磯城、
♪そこに後から入ったのが これ万世一系!
♪南方系! 南方系! 奈良の磯城、ミマキー
706日本@名無史さん:03/09/03 23:01
↑アタマ悪そうだな(w
707705:03/09/03 23:18
♪南方系! 南方系! 奈良の磯城
このフレーズに嵌ったのでした。
ミマキも南方経由だと思う。
708日本@名無史さん:03/09/03 23:39
古代イスラエルの民
709日本@名無史さん:03/09/03 23:42
>>1
またチョンか・・・・・
710闇の古代史さん:03/09/04 00:34
倭王権、つまり九州王朝ですね。
711日本@名無史さん:03/09/12 00:24
712日本@名無史さん:03/09/18 01:28
マジ? 
713日本@名無史さん:03/09/26 01:22
714日本@名無史さん:03/09/26 03:23
ナラ、シキ、ミマキのうちどこに南方系の要素があるのやら。
715日本@名無史さん:03/09/28 21:39
>高句麗語の再構築の方法の概略についてですが、
>三国史記の地志で旧高句麗領地の地名を新羅の景徳王が変更した、
>という記事が多数出dてきます。これで、高句麗語地名の漢字表記と新羅地名に
>変換後の漢字表記を対比することが可能となるわけです。
>例えば「兎山郡、本、高句麗、烏斯含達県」というのがあり、
>「達」が「山」に対応するので、「烏斯含」が「兎」対応するものと考えられます。
>そうすると「烏斯含」の音はosieGemなので、日本語 wosagi に対応する、と。
>現代日本語で強いて読めば、烏斯含達=うさぎだけ(兎岳)。
>まぁ、こういうふうな対応づけの結果、高句麗語には日本語とおそるべく一致する
>語彙が多いことが判明したのです。

この珍説は、安本美典というアマチュアの電波学者が自分のオナニー雑誌である
「季刊邪馬台国」という雑誌に自ら投稿したものです。
もちろん学会では全く相手にされていません。

716転載くん:03/09/28 22:48
>>715

75 名前:日本@名無史さん 投稿日:03/09/28 22:44
>73
あほか。高句麗語と日本語の類似は日本の戦前の学界からある古い説。
安本のオリジナルな部分はまったくない。李基文のオリジナルですらない。
717日本@名無史さん:03/09/28 23:14
       /:::::::::::::::::::::::人:::::::::::::::::::::::::\
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    |:::::| ∴∴  -二二二二- ∴∴ |:::::::|  < 寄り目キムチジュセヨ
    |:::::|                  |:::::::|    \___________
    |:::::::ヽ      -_    _-     ノ::::::::|
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    |::::::::::| \_______/ |::::::::::::::::|
718日本@名無史さん:03/10/09 00:48
719日本@名無史さん:03/10/15 21:06
720日本@名無史さん:03/10/15 22:19
倭王 それは中華が呼んだ名前。
国内では、万世一系の天皇家
天皇家は祭祀であって統治者にあらず。
日の巫女は、祭られ王を兼任することとなる。
そのルーツは1万年をさかのぼるのだ。
721日本@名無史さん:03/10/16 01:20
>>704
漏れも始めはそんな感じだったんだが、少し違うんじゃ無いかと。
征服神話ではあるが、外来と捉えるのはまだ早いでしょ、倭種同士とも考えられる。

日本語に明け(アケ)と暗(クラ)いという言葉があるが、
明けは明サ/日留太陽を現し、神話でも高天原、天照とし、水田と文明の高さを示している。
一方暗いは、神話では黄泉として位置づけ、黄留(ヨル)の言葉となるんじゃ無いかな?
月黄泉もいるしね。また、日をさえぎる雲にも例えられる。しかも隅(クマ)に位置付けた。
で、出妻(イヅマ)とか大隈とか w。

これを、史書であたれば、鏡を大切にした卑弥呼側を天津系と見立てても良いんじゃない?
とすると、狗奴(クナ/クヌ)側が国津系。これを、当時の中国人は両方倭種として扱っている。
でなくとも、官名や名前が両方同じ様な名となっているので、先ず同族でしょう。
(馬は居なかったぞ!食な族は南だそ! は梨)

文明の摂取の早い方と、遅い方の違いとして見ている。
当然、中国と同じで、他民族との出会いが多い方が文明は発達する。
ということで、ヤッパ島国は、海(アマ)系、洋行外遊の人が有利だね。
(弥生前期の一部の形質の違う人たちは別スレで)
722日本@名無史さん:03/11/06 22:33
723日本@名無史さん:03/11/24 00:49
氏(うじ)と姓(かばね)の起源がやはり密接にリンクしてるようですね
724日本@名無史さん:03/12/20 04:17
連(むらじ)はどうよ?
725日本@名無史さん:03/12/21 03:26
「どうよ?」って?連の何がどう「どうよ?」なんだ?
726日本@名無史さん:03/12/21 10:10
倭王権?
三輪王朝のことか?
何を指して倭なのかさっぱり解りませんな。
727日本@名無史さん:03/12/22 11:43
邪馬台国の卑弥呼だってとりあえず倭国の王権にはちがいないわけだが。
728日本@名無史さん:04/01/01 23:05
>>187,>>202,>>203
>農地が要求されるようになった...
のが、水稲耕作を生業とする定住農耕民にとって、唯一の集団移住の動機だったでしょうね。
生存を脅かされる政治的迫害以外では。その契機に当時の気候変動を指摘されたのが興味深い
ですね。古色蒼然とした文献史学者の頭からは、出てこない着想だと感じました。
貯蔵穀物という富から派生した統治専業集団の中で、水上交通に長けた集団および当時のハイテク
軍事技術だったろう鉄器製造集団と協業した集団が勝ち残り、イワレヒコを系図上の皇祖とする
大和政権を創業したのでしょう。
このスレの多数の方は、その創業者集団の人種的出自や地理上の出発地の特定に情熱を注いでおられ
ますが、私にはその特定にさほどの意義が感じられません。出自などより、先代の人々がどのような生活
行動をし文化を産み出したか、その連綿過程への省察を現代社会に活かすのが、歴史考究の意義と思います。
729あぼーん:あぼーん
あぼーん
730日本@名無史さん:04/01/18 14:19
あきらかに複数なのに一系としてつたえようというには特異だ
731日本@名無史さん:04/01/18 14:23
イリや万世複数の天皇家はこれを多数に分散する。
732日本@名無史さん:04/01/31 19:05
名前の与える印象。
01 神武 カムヤマトイワレヒコ 町長クラス。    
02,綏靖 カムヌナカワミミ  新潟県知事が県知事会の会長に就任。
03,安寧 シキツヒコタマテミ 町長クラス。
04,懿徳 オオヤマトヒコスキトモ 大和川水系首長連合の長。
05,孝昭 ミマツヒコカエシネ  渡来吉備系で東海地方も統合した銅鐸圏の首長。
06,孝安 ヤマトタラシヒコクニオシヒト 権力が奈良県に限定されてしまったような感じ。
07,孝霊 オオヤマトネコヒコフトクニ 銅鐸圏西部国境司令官上がりか。
08,孝元 オオヤマトネコヒコクニククル 上記と似たもの。
09,開化 ワカヤマトネコヒコオオヒヒ 上記北部地域司令官。
733日本@名無史さん:04/02/01 11:59
カムヌナカワミミ-諏訪を中心とする縄文色の強い文化の影響下にあった時代。ミマツヒコカエシネが諏訪にまで
影響を及ぼすようになり邪馬台国(オオヤマトクニ)という弥生文化の首長連合圏ができたのではないか。
こういう動きは九州北部の奴国、後漢、楽浪郡の没落、倭国乱の頃のことであろうか。
734日本@名無史さん:04/02/01 19:08
部族長かぁ
735日本@名無史さん:04/02/01 19:15
脳内妄想

最初に九州に邪馬台国ができる→
邪馬台国から奴国が分離→
奴国が一大勢力を誇り金印をもらう→
奴国衰退→
倭国大乱開始→
出雲・吉備が隆盛を極めるが沈静化→
邪馬台国に対抗する勢力として畿内に狗奴国が作られる→
邪馬台国が狗奴国を滅ぼす→
邪馬台国が畿内に遷都して倭国大乱終了

正直すまんかった・・・・・・・。
736日本@名無史さん:04/02/01 20:58
上記の銅鐸圏には倭姫巡幸のように社を何年かごとにぐるぐるまるで神輿のように回す慣習があり、今でも
伊勢神宮の式年遷宮だの、諏訪神社の御柱などがあるが、これは狩猟民がキャンプを変える遠い昔の慣習
の続きではなかろうか。要するに銅鐸圏とは一皮剥けば縄文人の領域だったのでは。他方玄界灘、東シナ海
沿岸部は前1000年頃から大陸文化の流入が続いている。
737日本@名無史さん:04/02/02 23:55
邪馬台連合の盟主伊都国の横暴に嫌気がさした奴国の先進技術陣は、スクナ
ヒコナに率いられて出雲に上り、オオクニヌシと合流して奈良盆地へ進出、
纏向開発の技術担当として活躍した。そして多くの奴国の地名を纏向周辺に
残した。その後大いに発展した畿内勢力が九州邪馬台国を制圧(天孫降臨)
し、日向王国(西の都)を築いて列島制覇の足掛りとした。ここで江南文化
を吸収した神武が西国を平らげながら東征し、逆賊ニギハヤヒを下して祖国
纏向を奪還し、倭王権の礎を築いた。

僕は「古田信者」ではありませんが、
このスレの流れには入り込めませんネ。
739日本@名無史さん:04/02/04 13:16
金印は漢の倭の奴の国となっているが、これは奴国が後漢に国名をそうしてくれと申請したものだろうか。
すると既に当時から奴国は倭の国の構成要素であるが、代表国ではないと断りを入れなくてはならない
ほどの地位に過ぎず、倭国内には同等、ないし、奴国以上の国力のある国があったということか。
740日本@名無史さん:04/02/04 14:06
もうさ、真なる大和は畿内で、女王の邪馬台国は
騙りだったてことでいいじゃん。
741日本@名無史さん:04/02/04 17:43
後漢が楽浪郡の機能縮小に伴って、機能の一部を周辺異民族に分配する
必要があったためと、後漢王朝を開いた光武帝が異民族から承認されて
いるという国内向けの政治ショーというふたつの理由。
つまり奴国に金印を与えたのは中国側の事情であって倭国側の事情では
ない。倭国の中で奴国が選ばれたのは北九州(単に中国に近い)の国なら
中国にとってみれば対馬国でも伊都国でも末廬国でもどこでも良かった
と思われ。奴国の首長は倭の諸国の中では野望をもっていたのかも
知れないが。
742日本@名無史さん:04/02/04 20:48
奴国は倭国の極南界なりということは、漢にとっての倭国とは漢半島南部の
伽耶あるいは狗耶韓国と対馬、壱岐そして九州北部しか認識していなかった
のではないか。そしてその北部九州全域(筑前、筑後、肥前)を奴国と称して
いたのだろう。その後、末盧や伊都、不彌など地方政治が成熟し、独立した
国の体を成す様になった。傍国に〜奴国が多いのも2つの奴国があるのも、
そのような地方の成熟分化の過程があったからではないか。
卑弥呼時代は地の利を活かして伊都国が台頭するが、2つの奴国との利害関係
を掘り下げていくと、北部九州が一枚岩でなかったことがわかる。
743日本@名無史さん:04/02/04 23:06
女王國自り以北、其の戸数・道里、得て略載すべし。其の余の旁國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
次に斯馬國有り。次に已百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。
次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。
次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。
次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。
 其の南、狗奴國有り。男子王為り。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。
744日本@名無史さん:04/02/05 00:03
奴国が極南界ということは、物理的・地理的にありえない。狗奴国もあるし。
これは中国の使節が実際にいったのは奴国までであって、
それは奴国=女王国だったから。一万二千里というのも奴国までの距離。
745日本@名無史さん:04/02/05 07:51
起源段階の倭王権とは纒向遺跡の開始年代であろう。つまり、伊都国が終り、纒向に吉備、東海を主力とする
邪馬台国を建設するときのこと。伊都国は後漢の政策によって金印を与えられた他動的に地位をあたえらられた
国だったが、邪馬台国は共立によるものであった。この建国は恒霊倭国乱147-188年というが、黄巾の乱184年に
始まった中国の内戦激化対応したものだろう。この邪馬台国を倭王権の起源だとすればそれは吉備津彦と
モモソヒメが兄弟関係におかれる時代のことと見たい。期限段階の邪馬台国にはホケノ山古墳の被葬者がモモソヒメ
と共に活躍したものと見られるが、記紀第5代天皇ミマツヒコ・カエシネを官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、
次曰奴佳テの彌馬升としてみたい。彌馬獲支、伊支馬に崇神、垂仁を代入すると孝安、孝霊、孝元、開化をどこかに
入れなくてはならないが、邪馬台国建国を200年、卑弥呼はその約50年後に歿するわけであってこの間4人制内閣が
2回あったと思えばいいんじゃないか。
746日本@名無史さん:04/02/05 08:13
誤字があったので訂正かたがた再説すると、邪馬台国の卑弥呼の黒子はホケノ山に葬られた孝昭天皇で
この人が吉備と東海をまとめたんじゃないかということ。
747日本@名無史さん:04/02/05 09:07
記紀に安直にこじつける議論は素人くさくてついていけない
748日本@名無史さん:04/02/05 10:34
孝昭天皇の皇后・尾張の世襲足媛が実在の人物とすれば前方後方墳
ノムギ古墳http://www.kashikoken.jp/from-site/2003/nomugi.html
がその墓ではなかろうか。卑弥呼と同時代に死んだことになる。
四日市、上野経由この地に嫁に来たのかな。それともああ、上野駅
的感覚で墓を築いたのか。
749日本@名無史さん:04/02/05 11:11
「親魏倭王」の金印てどこに消えたんだ?
かなり後世まで王権の象徴となってもおかしくないと
思うんだが・・・?
750日本@名無史さん:04/02/05 11:12
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和・・・倭人伝は簡単にこういっているが
邪馬台国は鏡、前方後円墳、青銅祭祀の禁止などを行なう宗教改革を行い、いわば
国境を定めたところ、「狗奴國」ではこれに反して前方後方墳に固守した。狗奴國男王
卑彌弓呼というのはそうした邪教の頂点に立つものであり、邪馬台国の目の上のたんこぶ
であった。首長は「狗古智卑狗」というから久我(京都)地方に本拠があったのかもしれない。
そこでこの国を攻めることとしたが、この戦争は代を経て崇神の世に日子坐によって決着を
みたのであろう。
751日本@名無史さん:04/02/05 17:31
記紀に安直にこじつける議論にはまともな根拠をあげた例がない。
それもそのはず、無根拠な思い付きの域を出てないのだから。
752真髄:04/02/05 18:18
倭とは、漢代においてのみ、日本を指す言葉である。
同時に、漢代においては
倭王と百済王は、漢連邦の大将軍である。
漢連邦諸族は、倭以外はアジアから全滅し、
漢連邦の生き残りの倭王は、
漢連邦の呼び名「倭」を改め、「日本」とし自らを天子とする。

大陸は、北蛮族連邦が支配し中国となる。
以後中国は、漢連邦最後の生き残りの倭=日本を
自らの及ばない外国と認知することとなる。


753日本@名無史さん:04/02/05 18:34
中心性も北方に、移してもらえると助かるんだがな、中国様。

期待は出来んな、、、。
754日本@名無史さん:04/02/07 18:05
日本書紀はどこからが史実なんでしょう?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/988620461/l50

■◆最初の天皇はどうやって天皇になったか◆■
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1003669384/l50

邪馬台国は大和朝廷になったのか
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/l50

倭王権の起源を語ろう
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1021204387/l50

弥生時代の遺物と漢字
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1027923448/l50

「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか12)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1064621137/l50

【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/l50

※九州王朝はあったか?※ 8
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1074276043/l50
755日本@名無史さん:04/02/09 04:17
委奴国=日向国ってどうよ?
日向(ひな、ひなた)
倭国の極南界と言えば南九州しかない!
756日本@名無史さん:04/02/09 09:32
日向のメサホ塚というのが応神天皇の后、中津媛のものと同じだという。オサホ塚は履中天皇の古墳と
同じだと。日向にある古墳で比較的に大きいのはこの2つ。
757日本@名無史さん:04/02/09 09:37
日向のオサホ、メサホは大和朝廷による九州征伐に功績のあった地元の首長の
栄誉をたたえて建造を許可したものだろうか。
758日本@名無史さん:04/02/09 10:59
しかし、応神の頃、倭国は半島で高句麗と覇権を競うほど国内は統一されていたので
九州征伐とは関係なく、対高句麗戦争の関係者、功労者かもしれない。いずれにせよ
トピズレなのでこの辺にしておく。
759日本@名無史さん:04/02/10 08:54
倭人伝には女王以外に倭王、男弟(変な言葉)、男子一人、飮食を給し辭を傳へて出入すなどがあり、
官にはイキマ、ミマカキ、ミマツ、ナカテ等がある。イキマは垂仁、ミマカキは崇神、ミマツは孝昭と似ている。
倭王と男弟は同一人の気がする。男弟というのは実弟ではなく義弟(ヤーさん用語)という意味であろうか。
男一人は官房長官どころではなく、卑弥呼が痴呆症にでもなっていたら、実質の王(介護人)である。
ナカテというのはこれかな。しかし、イリヒコイニエというのはイリビタッテいる感じもするし。
イニエ=A bow shooter for holy games offerable to gods とはとれないか。
760日本@名無史さん:04/02/10 11:09
イキマは垂仁、ミマカキは崇神、ミマツは孝昭とすると記紀には他にその前後に4人ずつの天皇がある。
これは卑弥呼時代は4人制の第2ラウンドで卑弥呼の後にも更に一世代あって景行へと続くのかな。
761日本@名無史さん:04/02/10 11:20
日いずる国が日の沈む国に朝貢していた。鏡を貰っていた。生口を献じていた。
記紀編集者がこれを読んでいたのは事実だ。だから、特高警察が検閲するように
卑弥呼等、国を冒涜する漢字とか史実は削除し、立派なアマテラスなどでぼかし、
神武で九州との整合性をとり、崇神で実質初代などとし、神功皇后を入れたんじゃ
ないか。
762日本@名無史さん:04/02/10 18:40
アホかよ。なんで日本書紀に魏志倭人伝の引用があるんだ?
律令時代の大学寮で三国志の購読してたのに何が特高警察だよ
意味ないじゃん
763日本@名無史さん:04/02/10 19:03
764日本@名無史さん:04/02/10 19:44
参考になりまへん
765日本@名無史さん:04/02/10 21:31
ごめん。話しかえるけど「仲哀天皇を殺したのは、神功皇后と武内宿禰というのが通説のようですが、
私は応神天皇と神功皇后が犯人だと考えています」・・・これってサスペンスみたい。あの頃の大学寮
でも夜遅くなるとこんなこと言ってたのかなーって感じがする。作文を重ねているうちにテレビを見て江いる
気持ちになったのかね。ヨー、先輩!
766日本@名無史さん:04/02/10 21:55
江戸時代に見つかった金印の「委奴国」とは伊都国のことである
という説は、余り支持されていないのでしょうか?
漢の倭の奴国王っていう読み方は、まどろっこしいし…。
767日本@名無史さん:04/02/11 01:20
>>766
あまり支持されてないどころかまったく支持されてないよ。
後漢の時代の「委奴」と三国時代の「伊都」が同じというのは
音韻的にムリ。まずほとんどつーか絶対ありえない。
768日本@名無史さん:04/02/11 04:05
>>765
別に通説じゃない
769日本@名無史さん:04/02/11 07:19
>>767 「奴」を現代中国語の「之」、現代日本語の「の」の意味で使用するっつーことは
当時の倭国の言葉遣いを魏王朝の中枢部全体が認識し、迎合していたっつーこと?
それとも、倭人の発音をそっくり真似たの?
770日本@名無史さん:04/02/11 07:50
↑なにを逝ってるのかよくわからないが?
「奴」は「な」であって「の」ではないだろ。

>現代日本語の「の」の意味で使用する

じゃ「漢委の國王」なのか?
なんで中国語の印文に「の」が入るのかよくわからないが?
771日本@名無史さん:04/02/11 12:09
通常は「漢の倭の國王」と読まれているが、「なんで中国語の印文に「の」が入るのかよくわからない」
からたずねたもの。誰か他の人わからない?
772漢委奴國王蛇紐金印:04/02/11 12:36
「の」っては、当然刻まれていません。
漢文を読み下す時に使う単なる決まりごとです。

「漢」の「委奴」の「国王」って読む人もいるし。
「漢」の「委」の「奴」の「国」の「王」と読んでも間違いじゃないよ。
773日本@名無史さん:04/02/11 14:26
>>771
通常は「漢(かん)の倭(わ)の奴(な)の国王」と読まれてると思うが?
774日本@名無史さん:04/02/11 16:08
漢から倭(倭族の住む地域、西日本 九州、半島南部)にある奴国の国王へ

という解釈でいいんですか?
775日本@名無史さん:04/02/11 16:22
>>774
「漢から奴国王へ」じゃないよ。
印面の刻字は、使用者の地位を表すんだから、剣とかに書く由来文とは違います。
「漢に属する委の奴国王」ってことだ。
このスレでこんなこと書くのはなんだが、「王」ってのは「皇帝」の臣下である身分ね。
あの金印は、漢皇帝が東夷の一族長を奴国王に任命した証なんだよ。
776日本@名無史さん:04/02/11 18:31
日本「国王」は「皇帝」の臣下だからね。
それとは独立しているのが「天皇」。
777日本@名無史さん:04/02/11 21:38
漢皇帝が東夷の一族長なんていい方で一つの島の中の小さな村長程度の人間相手に
威張っていたんだからチャンチャラ可笑しい。マー、当時はまだオール倭国なんて考えも
出てこない野蛮な時代だからね。天皇なんて何百年も未来のことだ。
778日本@名無史さん:04/02/11 21:50
とは言うものの倭国における卑弥呼の共立----これは革命なんてものじゃない。
宇宙の創造---ビッグバンそのものだ。誰か一人の人間がいてこれを纏めたとは
考えられない。偶然というか、期が熟したというか。この時代伊都国、出雲、吉備
では古墳の上で「秘儀」が営まれた形跡があるという。その後、前方後円墳が畿
内に集中する。ここに大きな謎がある。これは建国の秘密だ。
779日本@名無史さん:04/02/13 11:10
邪馬台国建国は銅鐸圏宗主国の尾張を筆頭とし、吉備の宗教を入れる形。吉備系と
尾張系が対立。尾張と加茂族は京都府南部に狗奴国を建設しながらも更に対立。
日子坐による制圧。オキナガ系の台頭。佐紀タテナミ時代。カツラギ系がオキナガの
内紛に乗じ、河内の豪族と結託し、河内に政権を移動。北陸地方から継体が興る。
これがその後のストーリー。
780日本@名無史さん:04/02/13 11:18
倭国は魏の周辺統治政策に便乗、邪馬台国に変身。その後は時には高句麗とも戦いながら
半島の鉄資源によって次第に強国となり、新羅、唐には敗れることがあったが、その頃を期に
国としての形を整えていった。思えば狗奴国との戦いはチャイニーズ系とアルタイ系マフィア
の代理戦争であったのかもしれない。
781日本@名無史さん:04/02/13 18:12
代々木勢力に毒された立命館は最悪だ!!
共に闘おう!!
これからは立命評論だ!!
http://www.infoseek.livedoor.net/~rituhyou/
http://bbs6.otd.co.jp/611457/bbs_plain
782日本@名無史さん:04/02/14 13:27
>>781
立命館は、韓国マンセイだろ?
783日本@名無史さん:04/02/14 13:37
立命館は共産党の巣窟でしょ。
784日本@名無史さん:04/02/14 13:50
日本一の極左反日大学
785日本@名無史さん:04/02/14 13:54
共産と社民の内ゲバなんてどうでもええ
786日本@名無史さん:04/02/16 08:20
九州北部玄界灘沿岸の伊都国、奴国を中核とする倭国はその後の近畿を中心
とするオオヤマトクニの原型となったが、既に九州倭国の段階において、九州島
全域を掌握していたものではなく、周防灘沿岸から大隈半島にいたる九州島
瀬戸内沿岸は残余の日本列島と同一の縄文文化の名残の内にあった。大きな
外野、外様が中心部を取り巻く構造は台風の目が畿内へ移動してからも変わら
なかったが、国家として機能していく上では不安定要素であり、辺境部の統治に
四道将軍の派遣を始める頃が倭王権の始まりといえるのだろう。これに対し
オオヤマトクニ、つまり、倭国連合の成立は祭祀、神話の共通化を伴ったもので、
九州北部、最果ての日向、僻地出雲の神話の神話などが集大成され、
シームレスにするために東遷神話が創作されたのだろう。
787日本@名無史さん:04/02/16 08:28
九州南部は大和朝廷の服従しない熊襲がいてたびたび反乱を起こしているが
言葉が当時大きく違っていたんでないか?。
現代も鹿児島や熊本南部と九州北部は方言が大きく違う。
788日本@名無史さん:04/02/16 08:32
日本列島をトンボと見る発想は日本人には不可解だ。
でも、対馬、壱岐辺りの海人族としてはトンボの右の
上の羽は朝鮮半島黄海沿岸と同日本海沿岸、下の羽は
九州東シナ海沿岸と瀬戸内沿岸、尻尾は本州島、
自分たちはトンボの目玉乃至は頭ということになって
極めて明快。彼らの認識では倭とは朝鮮半島プラス
北海道(アイヌ)を除く日本列島ということであったのだろうか。
789日本@名無史さん:04/02/16 08:42
上記のトンボの羽の比喩は海流を中心に航行する東夷の海人族にとっては
極めて巧緻な喩えであり、同時に民俗、民族、風習、歴史の差を表しているのが
秀逸である。
790日本@名無史さん:04/02/16 08:48
鹿児島上野原遺跡等は本州最北の東北との強いつながりを示すという。
津軽弁と鹿児島弁は難解な点では似ているが、現在日本人には縁遠い
縄文時代のアクセント、アーティキュレーションが残っているのかも
しれない。
791日本@名無史さん:04/02/16 09:36
関東以北の東北弁、九州南部とこれらの地域は縄文系の多い地域だったんでないか?。
それが現代まで分かり難い方言として残っている?。
792日本@名無史さん:04/02/16 09:41
どうもその気がするが、アイヌ語の研究者は多いようだが、歴史的方言学者、言語学者というものは
少ないようでこの分野からの研究、解明は今後の課題。
793日本@名無史さん:04/02/16 18:57
縄文、弥生、母系がはっきりすれば、判るだがな、判ってて隠してんのか?
794日本@名無史さん:04/02/20 04:18
なんで隠す必要あるんだよ。学者が隠してるのと言い出す奴は
たいてい電波かキチガイ。
795日本@名無史さん:04/02/20 10:47
歴史的方言学などという分野は今後若い人たちが研究を延ばす分野ではないかと思う。
ch2でこうした可能性が絞り込まれるのだから、それを積極的に追求して行くのは面白いこと
じゃないか。全ての成功者は人のやらないことをやっている。
796日本@名無史さん:04/02/20 11:51
どうも厨臭くなって来たな

書かないのに「の」を読むのか、とか。日本史の基礎だろ、そんなもん。
ある程度、古文や漢文も押さえとけよ。
人名だって、「の」を入れる時代が長く続いたよ。
「柿本人麻呂」→「かきのもとのひとまろ」

あと、東北と九州の言語の件についてもさ、柳田先生の「同心円理論」
を知ってて言ってんの?
場合によっては金田一先生の「アイヌ語論」も参考に。

ワシはミーハーか?
797日本@名無史さん:04/02/20 16:25
>>777
別に、アナタが考えるような可笑しい皇帝の威張りじゃないでしょ?

漢(それも辺境:楽浪郡とか)の役人1:
「この前の約束どおり、野蛮人の長から貢ぎ物が届きました。」
漢(それも辺境:楽浪郡とか)の役人2:
「おお、あいつからだな?どれどれ。」
漢(それも辺境:楽浪郡とか)の役人1:
「これでまた、隣の(領地の)OO殿よりも立派なものができますなあ。」
798日本@名無史さん:04/02/20 16:27
漢(それも辺境:楽浪郡とか)の役人2:
「よし、来月(に奴国の使いが帰るので)、褒美をやっておけ。」
「ヤツら(=奴国の使い)に、今後もいいものを持ってくるよう伝えよ。」
漢(それも辺境:楽浪郡とか)の役人1:
「かしこまりました。あそこは常にいいものを持ってくるので金印でも。」
漢(それも辺境:楽浪郡とか)の役人2:
「そうだな。早速(職人に)作らせて、ヤツらが帰る時にくれてやれ。」
「ヤツらは喜ぶだろうな。もっと周囲の地を暴れまわって欲しいものだ。」
799日本@名無史さん:04/02/20 16:29
漢(それも辺境:楽浪郡とか)の役人1:
「そうですなあ。もっと珍しいものが送られてくるかも知れませぬ。」
「なによりも生口(=奴隷)が増えますからなあ。」
(続く・・?)

だろ?違うか?
800日本@名無史さん:04/02/20 16:30
話が元どおりに「倭王権の起源」に戻ることを祈念して、揚げ!
801日本@名無史さん:04/02/20 17:51
倭王権の起源は、
やはり、応神天皇ではないか?
と、書いてみるテスト。
802日本@名無史さん:04/02/21 09:43
男性的になるのは応神以降、それ以前は女性的、つーか、女系社会ってな感じだけど。
まちがってる???
803日本@名無史さん:04/02/21 10:45
応神天皇の母が、神宮皇后だけど、
彼はそれ以前の王朝とは別の存在だと思う。
仲哀天皇という名前が、
以前の王朝が哀れにも滅んだことをあらあわしている。
804日本@名無史さん:04/02/21 14:37
哀れにも滅んだことをあらわにもなんて---そういうところに古代人の本音があるね。
805日本@名無史さん:04/02/21 17:05
あほか。
漢風諡号を当時の名前だと思ってるような真性の厨は逝けよ
806日本@名無史さん:04/02/21 17:37
漢風諡号の時代の古代人の本音さ。古代人といっちゃ誤解されるかね。
807日本@名無史さん:04/02/21 17:43
漢風諡号の時代の連中が哀れにも滅んだなんて注釈的なことを言うのは単にアドリブ的なものなのか。
又は何か裏の事実を知っていたからなのか。どうじゃ。
808淡海三船:04/02/21 18:42
「仲哀」もそうだが、神・聖・賢・文・武等々の美諡を含まない「継体」「推古」「持統」などは意味深な諡号なんだよ。
系譜上の位置付けをワシが読み取ってつけたんじゃよ。
809日本@名無史さん:04/02/21 20:12
いやー、意味深だ。記紀の編者はただものじゃなかったんだ。
810日本@名無史さん:04/02/21 23:26
つまり、南方習俗がまだ濃厚に
残っていた古代天皇は
建前的には北方的な血統を重んじながらも
皇位を継承したものは血縁がなかった
あるいは薄いとしても先代との血縁関係があるとみなされたのです。
811日本@名無史さん:04/02/22 00:52
恭人短折、曰哀。(逸周書)
早弧短折、曰哀。(史記正義)

王朝が滅んだという意味で使ったとは限らんね。
淡海三船は漢文家なんだから、諡号としての
意味を踏まえてつけてるとみるのが自然。
812淡海三船:04/02/22 01:35
>>811
「諡号としての意味を踏まえてつけてるとみるのが自然。」
  ↑
イマイチ意味不明ですな。

「王朝が滅んだという意味で使ったとは限らんね。」の主張の補強のつもりかのぉ。

813日本@名無史さん:04/02/22 01:56
藻前の方が意味不明
814日本@名無史さん:04/02/22 08:12
恭人短折、曰哀。(逸周書)
律儀な人が短命で世を去るのを哀れという。
早弧短折、曰哀。(史記正義)
若くして身寄りをなくしたものが短命で世を去るのを哀れという。

こんな解釈でいいだろか。
815日本@名無史さん:04/02/22 10:05
>801
源氏な自分達の始祖である応神天皇を
深く崇敬していました。
816日本@名無史さん:04/02/22 11:22
応神は八幡様であり、神の「美諡」を含むので、一種の始祖天皇、つまり、神武、崇神
等と同格のものと思われる。尊氏が「逆賊」とされたように先の王朝を転覆させた天下の
大罪の禊のために八幡様の御威光を借りたものか。時の英雄ではあったのでろう。
神功 が建内と密通したという伝承が住吉神宮にあると聞く。応神によって由緒が消えた
八幡様であるが、単なる宇佐の神ではなく列島全域に広がる神であったのではとの感が
するのだが。
817日本@名無史さん:04/02/22 11:28
読者のためにかなを振るのを忘れていた。
美諡=ビシ ごめん。
818日本@名無史さん:04/02/22 11:48
八幡の八は四の倍数、四方を意味する。これは前方後方墳と関係あり。幡、これは幟、黄幢等が起源となった
のか、いずれにせよ軍旗的なものだったんだろう。屋台これはだんじりなどに変化、みこし・・・この背後には
宮大工、寺大工等の高度に発達した木工技術、鉄器文化がある。すると八幡様は地理的には中部日本(木工)
歴史的には古墳の末期時代に起こった感じがする。宇佐起源とは思えぬ。
819日本@名無史さん:04/02/22 13:56
対馬海峡両岸では朝鮮の支石墓は日本に伝播し、縄文時代晩期後半から弥生時代中期中葉にかけて、
北西部九州を中心に、一部は南部九州にまで分布する。当初は、渡来人の営んだ墳墓であったが、消滅期には
、在地性の強い大型甕棺墓群のなかにあって、ごく一部で標識的に巨石が置かれるといったように、変容する。

820日本@名無史さん:04/02/22 13:56
♪海が割れるのよ 道ができるのよ
島と島とが つながるの
こちら珍島から
あちら芽島里まで
海の神様 カムサハムニダ
霊登サリの 願いはひとつ
散り散りになった 家族の出会い
ねえ わたしここで 祈っているの
あなたとの 愛よふたたびと♪
821日本@名無史さん:04/02/22 14:23
日本では韓国からお姫様が逃げてきたという伝承が各地に広がっているが、本場の韓国では
島においてあった老婆を迎えに行く話であって、卑弥呼の年齢などを考えると、若いお姫様に
なったのは時代が下ってからのことであり、昔は韓国同様老婆が巫女を務めたのではないか。
宇佐の近辺には姫島があり、伊勢のアマテラス同様狐が付きまとう。
822日本@名無史さん:04/02/22 22:52
>>816
宇佐神宮託宣で隼人鎮圧の助成の功績により、朝廷の信任を得たのが大きいのでしょうね。
しかし、最初からメジャーを目指していたか疑問の残るところです。それよりも神宮支配が物
部から中臣に移ったのが大きな要因と捉えたい。
823日本@名無史さん:04/02/23 03:06
>>821
洛東江の東側の辰韓、後の新羅の地から渡ってきた秦の一派とされている、辛嶋一族
が九州の香春岳に素盞嗚を祀り、さらに南進したことは宇佐の託宣にもありますが、
当初は「豊の国」の中心地の中津あたり、おそらくは大貞の薦神社で行われていた
比筒゙女神事に関わるようになり、一時は筑紫野君磐井の乱で薦神社の地位は没落
するものの、宇佐郡稲積山の麓に拠点を移した辛嶋一族により再興されこれに蘇我
氏と関わりの深い大神氏が571年頃に神仏習合を持ち込み鷹居社を、土豪宇佐氏の
力を借りて小山田社を、さらには725年に現在地の宇佐亀山に社殿を建てます。
719年の大隅・日向の隼人の乱で薦神社の真薦で枕を作ってご神体にして隼人を
鎮めることが出来たというのは、実は隼人の乱の裏で708年に創建した辛嶋氏分家
が中心の大隅(八幡)神社が裏で糸を引いていたからだと思います。
つまり、本来なら宇佐神宮は辛嶋氏が比筒゙女を持ち込んだのに、大神氏がこの座を
奪い、頭に来た辛嶋氏の分家が、大神氏主導の宇佐神宮ではなく、ウチが本家だ、と
主張したわけですが、残念ながら薦枕は大隅神社には作れるはずもなく、宇佐を
本家と認めざるを得なかったのだと思います。
朝廷の信任を得たのは、奈良の大仏建立の際の金山発見の予言が大きいのでは?
824日本@名無史さん:04/02/23 16:46
823ですが、済みません。
11行目の「比筒゙女を持ち込んだ」ではなく、元々先住の秦氏が比筒゙女に神の託宣
させていた所に、後から割って入った可能性があるので、単に「比筒゙女により神の
託宣を行っていた」とした方が誤解を生まないで済むかと思います。
秦氏だけでは八幡神に成り得ず、素盞嗚を祀り、先住の秦氏よりも戦闘に秀でた一族
が加わったことが、八幡大菩薩の創出に成り得たのだと思います。
中津地方には神主を川に投げ込む神事があり、その昔は龍神に娘を人身御供していた
話も聞きます。
これは邪推ですが、ヤマタノオロチは実は八秦のオロチで、人身御供させていたのを
素盞嗚を先祖と仰ぐ辛嶋一族が武力を用いて止めさせた、そして香春岳の銅山を頂戴
し、中津薦社に入り込んだのではないか。そして一部は出雲へ分かれ、そちらで暮らす
ようになったのではないか、などと思いめぐらせていたりします。
そうでなくては、出雲の人々の、特に出雲風土記のスサノオに対する冷淡なまでの扱い
方は、その功のことを考えると、納得が出来ません。
825日本@名無史さん:04/02/23 19:37
つーかもともと出雲大社ってのは大国主を祀るためのものであって
スサノオを祀るためのものじゃないのだがな。
826日本@名無史さん:04/02/25 20:29
私は九州の秦一族だと考えていましたが、現在の豊浦郡あたりに在住の秦一族が出雲
方面へ出かけて行ったと考えると辻褄が合うようですね。失礼致しました。
私は出雲関連には不案内なせいか、大国主命の国譲りの年代について、どうもピンと
来ません。そしてオロチ退治の年代についても。
良い資料などがありましたら、どなたかご教授いただけたら助かります。
827日本@名無史さん:04/02/25 20:51
年代って・・・・神話に年代も糞もあるかよ
ヤマタノオロチはペルセウス型神話、
国譲りはそのまんま国譲り神話、
どっちも世界中に分布してる典型的な神話の類型パターンだよ
これら全部歴史上の事件だとでも思ってんの?
828日本@名無史さん:04/02/25 21:13
純粋の神話には年代はないが、時代考証的なこと、例えば、剣を持っているか、石器を持っているか
等で執筆の年代、又、物語テーマなどで、物語のできた地方、年代などがある程度わかると思う。
オオクニヌシは活動範囲が四隅突出型古墳の分布地域と一致しているが、その頃の話が含まれて
いるとすればそれは2世紀頃となろうか。オオクニヌシの国譲りというのが纒向建設より余り前ではない
感じがするので、恒霊の間あたりであろうか。いずれにせよオオクニヌシ神話は日本海沿岸の糸魚川から
出雲にかけての一帯が統合されたことを意味するのではないだろうか。興味深いのはスクナヒコナの形で
纒向地方の言及があり、三輪山の地名をミムロ山と呼ぶような古い時代のことであることだ。
829日本@名無史さん:04/02/25 22:15
その神話の執筆時期は、時代考証的に6世紀だな(w
830日本@名無史さん:04/02/25 22:55
でも語り部というのは神話を現代でいえば、聖書やお経、戦前なら軍人、教育勅語
、それ以上のものかもしれないが、相当畏怖の念を持って語り継いできたんだと思う。
まかり間違えば神罰が下るからね。
831日本@名無史さん:04/02/25 23:34
八幡=ヤハタ=邪馬台、って思ってました。
欽明天皇の時、魏志に出てくる邪馬台国の記述も織り交ぜて、
応神を始祖とする伝承が創り上げられたのでは?
欽明にとって、応神は直接の先祖だし、神格化する必要があった。
記紀の編纂者はそれを踏まえて、神功=卑弥呼の記述をした、と。
832日本@名無史さん:04/02/26 00:05
170〜180年ころ地球は最後の小氷期であり冷え込んでいました。北方経由で
鉄文化を持っていた越のオロチ族は、その武力に物を言わせて毎年のように
出雲地方に攻め込んで食料の簒奪を行っていました。そのような背景を考え
れば、スサノオのオロチ退治は180年ころでしょうか。このころから日本海
沿岸は韓半島南部および北部九州の影響が大きくなったと思われます。
その後オオクニヌシが日本海沿岸を統括し、半島南部や北部九州の技術援助
を受けて纏向開発の主導権を握ります。大方開発が成就したころ、他の開発
メンバーである吉備や東海勢力がオオクニヌシの追い落としを図ったものと
思われます。とすれば国譲りは吉備色の濃い箸墓の建設前ということになり
250年ころではないでしょうか。
833日本@名無史さん:04/02/26 00:59
>>831
応神前後って、年代を並べてみると非常に面白いですよね。
131年〜190年成務天皇在位
188年倭国大乱
189年卑弥呼女王に共立
192年〜200年仲哀天皇在位
200年神宮皇后新羅遠征
248年卑弥呼死す
270年応神天皇即位
310年応神天皇崩御111歳
この年代がどこまであてになるかは別として、応神天皇が即位するまで70年間、
皇位が不在であることを特に隠すでもなく、妊娠している皇后自ら新羅征伐に向かう
というのも何か、ヘンです。武内宿禰と皇后はデキていたと言う話もあり、気長足姫尊
=息長帯姫で、新羅の「王子」アメノヒボコの後裔と古事記にある神功皇后と香春神社
に祀られる辛国息長大姫大目命との関係も調べてみると面白そうだし、いろいろあり
過ぎて困ってしまいます。(笑)
それに継体天皇を応神の5代後、としていますが、果たしてどうでしょうかねぇ。
敦賀の新羅系、気比神社で『書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換
して大神が去来沙別(いざさわけ)の神に、 応神は誉田別尊としたとあります。
となると、応神の元の名前は去来沙別? じゃぁ、天日槍と関係がある?
継体帝は武烈天皇の妹の手白香を得てようやく大和に入ることが出来たと言うし…。
もう、ぐちゃぐちゃですね。
834日本@名無史さん:04/02/26 01:15
>>832さんのお書きになったものを拝見し、ふと、応神天皇が即位したのと、
出雲の国譲りのあたりが一致するのではないか、なんて思ってしまいました。
応神天皇は北陸方面にも有力な協力者が居て、吉備武彦の末娘の兄媛(えひめ)
を妃に持っていますし、九州から山口にかけては地元?だし、出雲を征服する
条件は揃っていたように思えますね。
835日本@名無史さん:04/02/26 01:20
>>833で年表の神功皇后の名前が神宮になっている(^^; ごめんなさい。
836日本@名無史さん:04/02/26 01:22
私も、応神が倭王権を語る上で重要な人物であると思います。
高句麗南下による半島の政治勢力の緊張。
対外政策に消極的な仲哀は殺され、半島利権に固執する九州豪族に
担がれた応神が、倭国王の位を簒奪したのでは、と考えてます。
あと、記紀で何故か多くのスペースを割かれて記述されている
「物言わぬ子」ホムツワケ説話。継体の本当の先祖はこの人では
と思います。出雲─越ラインで考えてますが。
837日本@名無史さん:04/02/26 11:20
仲哀崩御直前の神功 との政策論議は管直人対小泉純一郎的な極めて政治色が
高く個人色が少なく、おおよそ、万葉以前の人の発想とは信じられないところがあり、
かねがね、あの辺は倭国首長政策会議の議事録的な感じがするなーとは思ってい
たんだが。
838日本@名無史さん:04/02/26 13:42
サホヒコ・サホヒメを攻めた垂仁天皇
ヒミコを攻めた狗奴国男王
アマテラスを攻めたスサノオ
アマテラス(ニギハヤヒ+ナガスネヒコ)を攻めた神武
蘇我家を攻めた天智

何かこういうシチュエーション繰り返し出んね
839日本@名無史さん:04/02/26 15:47
>>837
ということは、厨愛天皇は、存在しなかったと考えたほうが良いかもね。
840日本@名無史さん:04/02/27 01:44
>>839
いや、ちゃんと仲哀天皇は存在したんだと思いますよ。
ただし、カミさんが武内宿禰に寝取られた存在として。
武内宿禰と言えば、御年三百六十余歳で因幡に下ったような、生物学的に120歳を
限度とする人間の肉体を超越した怪物ですからねぇ。
応神天皇がその子供だったとしたら、111歳くらい、お茶の子だったかも。
新羅征伐を神功皇后に願い出たのも、武内宿禰だったかも知れません。
841日本@名無史さん:04/02/27 02:33
倭は半島系、弥生は大陸系、縄文は日本古来種
842日本@名無史さん:04/02/28 11:13
武内宿禰は第何代武内宿禰という場合の第何代が抜けているようだ。今でも何とか総業なんて会社とか
大体日本人\はこういうのが多いよ
843日本@名無史さん:04/02/28 11:18
>>842
何気に鋭い意見だな(w
844日本@名無史さん:04/02/28 13:55
「宋史」日本伝に984年日本国の僧が献じた「王年代記」つーのが
載ってるんだけど
「〜次は仲哀天皇。国人言う、今、鎮国香椎大神となすと。
 次は神功天皇、開化天皇の曾孫女なり、またこれを息長足姫天皇と
 いう。国人言う、今、太奈良姫大神となすと。
 次は応神天皇、(中略)今、八蕃菩薩と号す。(以下略)」
この3人だけ特別に神号がついてんだよね
845日本@名無史さん:04/02/28 17:30
>>842
あははは……。
今どき、マジで360歳なんて信じる香具師は居ませんって。
おそらくその間、10世代くらい居るんでしょうね。
仲哀さんが亡くなるとき、その側に居たのは武内宿禰と神功皇后だけですからねぇ。
宿禰のダンナが恋敵の仲哀さんを抹殺したと考えてしまうのは、私だけでしょうか?
846日本@名無史さん:04/02/28 20:15
何もあんな思わせぶりな、サスペンスのような書き方をしなくてもよさそうなもの
なのにねー。読んだ人は神功 、武内を怪しみ、仲哀贔屓になるし、編者自身
仲哀なんて実に思わせぶりな書き方。これで密室殺人と勘ぐらない人がおかしいよね。
まさに大きななぞだ。
847日本@名無史さん:04/02/28 23:54
天照大神=神功皇后 高木神=武内宿禰 神武=応神 
848日本@名無史さん:04/02/29 00:42
>>847
天照大神=神功皇后=卑弥呼だったりして。
神功皇后が活躍するのは九州が中心。
最初に大和を統一したのは崇神で、九州から大和へ向かった応神。
応神の足跡を神武と重ねて神武神話を創り上げたんでしょうが、応神自体もその出自たるや、
非常に怪しいですからね。
神功皇后にしても、新羅に攻められ故郷を捨てて辰韓あたりから渡ってきた王族の
一人で、仲哀さんを色仕掛けで落として妃の一人になったものの、新羅征伐に消極的
だったんでプッツンして新羅征伐派の宿禰のダンナに体を許してしまう。
そして邪魔になった仲哀さんを暗殺しちゃった、なんて邪推したりして……。
それにしても、ほぼ同じ時代に居た筈の卑弥呼のことを、記紀はまったく言及しない
というのは、むしろ意図的に卑弥呼の行動を神功皇后の行跡に書き換えて、卑弥呼を
歴史上から抹殺してしまったように思えてならないのですが、考えすぎでしょうかね。
849日本@名無史さん:04/02/29 10:52
景行、仲哀はみずから九州に親征し、しかも数年間駐在するが、こんなこと
をやる天皇は後にも先にもいません。
むしろ九州が本拠だったのはないか。
景行、仲哀は九州を服属させた金官加羅の先遣隊の長。
神功は新羅を服属させた後、九州に来て応神を生んだ金官加羅本隊の長。
と考えるとわかりやすい。
850日本@名無史さん:04/02/29 15:25
いや違う、加羅諸国からは新羅・百済の圧迫を受け日本への渡来が絶えなかったと思われる。
渡来民は縄文人と混血しながら縄文勢力を九州南部や関東以北に追いやりながら九州北部から近畿に小国を次々建国。
その時期、加羅諸国が存亡の危機。倭の諸国は神功を盟主にして救援軍を送る。
天皇家は元々担がれる存在だったと思われる。推測です。
天皇は祖国救援の旗手だったので加羅諸国が滅んでなんらかの権威が欲しかったのが古事記であり、日本書紀だったのではと。
天皇家が特別な血統だったのは継体が担ぎだされたことからも間違いないと思う。
851日本@名無史さん:04/02/29 21:11
4世紀、金官加羅は倭に先んじて北方的な騎馬戦術を持ち、周辺の加羅
諸国の盟主であり、新羅を圧迫していたことが発掘からわかっている。
このような支配・被支配関係がそのまま天皇家と半島諸国との関係に
持ち越された、と考えれば、古代の日朝関係は実にわかりやすい。
金官加羅が天皇家の「祖国」だとは、まさにその通りだと思う。
852日本@名無史さん:04/03/01 03:24
騎馬民族電波はいつまでもしつこいね
853日本@名無史さん:04/03/05 18:37
>>847
>>848
アマテラス?=女性だと考えると、
天皇家=アマテラスと考えにくいのだが、
高木の神=タカミムスビ=基本的に天皇家の先祖。
と考えると、
竹之内のすくね=高木の神=タカミムスビとかんがえてもいいね。

いずれにしても、
天の王朝というのがあったのだと思う。
天=海または、海部だと思う。
854日本@名無史さん:04/03/06 17:13
高木の神(高皇産霊尊)は江南文化の上陸地である有明海の西海岸高木地区を
起点とし、中・南九州、南・東四国、東海、関東へと黒潮文化圏を築いた大陸
系部族の象徴と考えます。祖にタクハタチチヒメ(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)
がおり、その子孫に神武(崇神)、垂仁を輩出しており、確かに天皇家の先祖
とも言えます。
出雲神話で登場するスクナヒコナや三輪山に祭られる渡来神は、神産霊尊(カン
ムスヒ)という韓神(加羅神)系であり、アメノヒボコ、ツヌガアラシト、ヒ
コイマス王なども日本海沿岸を開発した韓神(加羅神)であり、半島南部に生
まれ育った倭人であると考えています。その子孫に景行以降のタラシ系天皇や
神功皇后が出現し半島南部を含む倭国の統一を図ります。
前後して韓神系と大陸系および在来縄文系が混血して現在の天皇家へつながる
のであり、その象徴として統一祖先アマテラスが創造されたのでしょう。
855日本@名無史さん:04/03/06 19:35
イザナキとか天照大神はもともと海人族たちの神だったと思う。つまり縄文系
856日本@名無史さん:04/03/07 06:08
海照らす的なシーンがあったよなー。あれって、照らすって支配するって
いう意味なんかなー。そうすれば海上支配者ということ。イザナギのイザ
とかイソというのはエサ、収穫物、ナギはナンナギ、ネギなどからすると
シャーマンの感じがする。長ったらしいのにニギハヤヒがあるが、あれは
ネギ、ナギとハヤヒ、ハヘ---これってフィリッピンで吠える人っていうのが
キャバレーの呼び込みやみたいな商売になっているが、ハヤトなんていう
のは熊除けにおまじないのように叫んでいたのかなーって思ったりするん
だけど。
857日本@名無史さん:04/03/07 08:28
縄文と弥生の関係を成長曲線的に1系統で理解せずに
異文化の攻防と捕らえると、邪馬台国は弥生文化と固定する
必要はなくなる
マイナーかもしれないが(真実はマイナーに明かされてる場合もある)
青森の三内丸山遺跡を見てると、原日本人の首都は東北にあったのではないか
とマジに思う。機内、九州説が当たり前かしてるが
東北説もはずせない。朝鮮半島からの渡来人が乱入する前の
日本統一体制が実は東北中心にあったんではないか
渡来系の天皇系が力を持つにつれ史実は権力により書き換えられてきた
鯨さんの小説じゃないが、いわれひこのくに=いわれ県、
邪馬台国=やまたい=やわたい=八幡平・・・魏志倭人伝の倭国の
記述は方角が間違っていただけで、距離と日数は正しいとすれば
「女王国の東、海を渡ること千余里、また国あり、皆倭の種なり
又、朱儒国有りて、その南にあり、人の丈、三四尺」は東北に
隣接した北海道のアイヌとコロポックルの話ということになる
原日本人の文化の中心地は東北にあり、邪馬台国は縄文文化から発展し
首都は東北にあった。日本書紀等の記述と合わないのは
天皇系は関西以西を制圧した外来系の征服民族系で
歴史を捏造した後の文献しかないためだ・・・
とだんだん本気で思うようになってきた

858日本@名無史さん:04/03/07 08:59
>>857

>朝鮮半島からの渡来人が乱入する前の
日本統一体制が実は東北中心にあったんではないか

6300年前の喜界カルデラで東北より南の北東アジアに地球規模の降灰による
動植物相への影響が出ており、屋久島のニホンザルの遺伝子にもその影響がある
(メス1頭しか残らなかった)。中国神話に海進によって山崩れが起きるなどとある。

>日本統一体制が実は東北中心にあったんではないか

これは平安末期、鎌倉時代から関東に中心が移ってくるが、潜在的にそうしたベクトル
があるとおもう。

>人の丈、三四尺」は東北に隣接した北海道のアイヌとコロポックルの話ということになる

通訳が下手な場合、「唐傘など要らぬ」秋田名物の大きなフキが力点を失い、人に力点
が移り、倒錯の通訳となるのは現在でもよく起きる現象だ。



859日本@名無史さん:04/03/07 09:43

◎朝鮮人は日本人と満州人の混血人種


朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人に
もっともよく似ている。身長、頭形、顔形、血液型、指紋などでは、
日本人と満州族とにもっとも関係が密で、中国人とはそれほど類似して
いない。北部の朝鮮人は満州族に、南部は日本人に似ているが、
例外として、モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に
近く、平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い。
ツングース族に属する満州族や東部シベリアの古アジア諸族などが、
前40世紀ごろから朝鮮半島に移住し、これより前に南方から移住してきた
人々と共存していたとも考えられている。(世界大百科事典/平凡社)
860sage:04/03/07 10:57
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_8&nid=768019&work=list&st=&sw=&cp=14

607年に聖徳太子が隋の皇帝に国書を送り、以後事実上倭が中国と
対等な扱いをされていたと思うのですが、この韓国人は認めたくない
みたいなんです。

倭が中国から独立した事と、天皇号の使用を中国が認めたという
決定的な証拠ってありますか?上のサイトでは聖徳太子が送った
国書の内容では納得できないみたいなのですが・・・・
861日本@名無史さん:04/03/07 13:57
当スレは一応科学的な議論が主であり、国粋的というか、科学的色彩の少ない
地域の主観的意見は取り扱っていないようである。そうしたものは余り気にせず
あくまでも日本国民の科学的論議に専念するのが趣旨かと。
862日本@名無史さん:04/03/07 17:01
読んだよ。
まあ、この韓国人は基本を知らないので、
史実を再現してみましょう

1・日本はそもそも隋(北方胡族)とは歴史的に対立者であって
日本が交流していた漢帝を滅ぼしたのが隋です。

2・漢文化に浴する日本の天子にとって、
漢を滅ぼした大陸の天子こそ、新参者ですが?
なんせ、相手は胡服(蛮族服)です。

3・参考までに、
半島の王(百済以外)は北朝に朝貢していたので、
北朝が大陸の覇者となれば、そのまま臣下の国の扱いとなってしまったのです。
朝鮮が、中国を兄と見る力関係はこの経緯があり当然なのです

4・日本は、南朝(漢)に朝貢してたので、大陸から兄にあたる政権が消え、
歴史観として、中国を兄と見る力関係は生まれなかったのです。
これが、朝鮮の歴史と日本の歴史の中国に対する違いです。

日本は、同じく漢臣(漢文化)だった百済難民を吸収したのち、
国名を日本国とし、
結局、隋、唐と続く鮮卑系中国から対等関係(天皇制)を壊すことなく
現代まできたのです。






863日本@名無史さん:04/03/07 19:39
>>854
アマテラスが、海テラスとか、
天の王朝とかに関係あるとしたら、」
中国の江南地方との交流から、
何か意味があるのかもしれませんね。
中国では、揚子江付近で、
文明が発達したということですから、
中国に、アマテラスの源流があったのかもしれませんね。」
今の中国とは、
かなり違っていたようですね。
864日本@名無史さん:04/03/07 20:30
>>862
遣隋使も遣唐使も朝貢形式で臣下の礼をとってます。
一度、歴史専門書をどうぞ。最近は薄い本もありますよ。
国内で対等と見せかけて、実は違かったというダブスタが面白いよ。
中国からの返書を、見せられなくて、盗まれたとか言い訳したりとかね。

「天皇」号は、聖徳太子の時代に存在したかどうか、専門家でも意見が分かれる所。
書紀の記述は信頼しかねるよ。600年の遣隋使がアホ扱いされたことも書いてない。
このあと、あわてて官位と政治体制を作り(遣隋使権威のための官位)、再遣隋使派遣。それが607年。
ちなみに、608年に小野妹子は前年の「日出ずる所の天子」国書を書き直して、
再提出している。文面は「敬しんで曰く」に変更されている。

対等外交とは、双方がそう認識したとき行われる外交。
アメリカと日本が対等でないように、
隋・唐は、一度たりとも日本と対等に付き合った文書・儀式も一切ないはず。
だから、臣下の礼をとらなかったときに、中国からの使者は起こって帰国している。
対等なら怒って帰らんだろw。
865日本@名無史さん:04/03/07 23:19
>>864
穴がいっぱいで見すごせないなー
臣下の礼はとってない。国使が先方に礼を尽くすのは
後の唐書に書かれるように、日本が東の礼の国として賞賛されるゆえんであり、
曲解しすぎ。
中国の返書が無礼なのは当然。 煬帝が怒ってるように。
これが逆に日本側に中華の無礼な国書が渡って保存されてるようだと、
日本側はそれを受け入れた事になる。
妹子の敬白を、再提出と解釈するのは悪意のある曲解。
それに、その文章でも東の天皇と西の天皇 になっていて
日本側は全く懲りてないが、そこはスルー?

両国とも唯我天子主義なので、交易上ダブルスタンダードになるのは仕方ないが、
通貨をみてもアジアで日本だけが独立を果たしているように、
日本は完全に対等関係である
866日本@名無史さん:04/03/07 23:23
光仁くんは土下座したしうだが。
867日本@名無史さん:04/03/07 23:24
↑ 訂正
光仁くんは土下座したそうだが。
868日本@名無史さん:04/03/07 23:30
ここは都内屈指の図書館なので、探せば専門書が見つかるだろう。

その光仁くんが土下座した という原典名をお聞かせください。
その曲解をといてあげよう
869非864:04/03/08 00:09
>>865
「臣下の礼はとってない」・・・隋の外交方針なら「臣下」の礼をとらにゃ「国書」も受け取ってもらえないだろう。
「東の天皇と西の天皇」・・・東天皇西皇帝だろ、これでも「失礼」だが・・・
「交易上ダブルスタンダード」・・・交易と言えるようなものが在ったのだろうか?魏代と同じく圧倒的に相手側の持ち出しになってるんじゃないかな。
「通貨をみてもアジアで日本だけが独立を」・・・何時の時代をもって言い切ってるのかわからないが、日本で貨幣経済が成立するのはかなり後代のこと。

>>864
対等に振舞うよう努力をはしてんだから・・・細かいとはいいじゃんか。
870日本@名無史さん:04/03/08 01:22
臣下の礼でなきゃ、国書も受取らない?
あなた書いてる意味判ってる? 
隋の煬帝へは国書じゃないの?
それとも天子宣言は臣下の礼なの?
言葉遊びが多いスレだなー

和同開珎だろ。 遣唐使の初期から中期か
871日本@名無史さん:04/03/08 01:32
アフガニスタンに義足を
http://www.gisoku.com/
872日本@名無史さん:04/03/08 10:25
唐が天皇号の使用を黙認していた事はどうですか?
「皇」の字に非常に固執する中国が何故日本の天皇号に文句を
言わなかったのかな?それと唐以降の中国の文章に「天皇」を
認めるような文字は入ってますか?
873日本@名無史さん:04/03/08 22:40
なんだかもめてそうなので、少し前の話題の妄想をカキコしてみますね。

>>833さんのカキコにインスピレーションを感じて、妄想します。
以下妄想

事蹟を沢山載せようとするあまり、年齢を延長せざるを得なかった王族が多いのでは?
という可能性を考えてみた。そして、即位年・即位年齢・仁徳系3兄弟帝(この場合、
全員兄弟と考える)の生年等を勘案して推理してみた。なお、全員同じ一族であるとの
考えである。なぜそう考えるのかについては後述する。
(以下、西暦)
崇神天皇・・・163年生189年即位209年崩御
(倭国大乱の覇者:「垂仁天皇、崇神天皇29年生」→「垂仁天皇、崇神天皇29歳の年の生」
天照大神に仕える巫女「みまきひめ」=<魏誌に初登場する第1のひみこ>の神託により、婚姻
を結び即位)
※「みまきひめ」は170年頃生230年頃薨?その後の2大王の即位にも関連?
垂仁天皇・・・191年生210年即位226年崩御
(19歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
景行天皇・・・207年生227年即位263年崩御
(20歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
874日本@名無史さん:04/03/08 22:42
(読みにくいので重複させる)
垂仁天皇・・・191年生210年即位226年崩御
(19歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
景行天皇・・・207年生227年即位263年崩御
(20歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
日本武尊・・・226年生(即位せず)249年薨去
(?たらしひこ?この人の姉が「いおのひめみこ」=天照大神に仕える巫女=<第2のひみこ>)
※「いおのひめみこ」を223年生248年薨とすると、その後の15年間に有力王子と大王が
相次いで亡くなっている。そしてその後、即位10年で亡くなった大王が2名。初期朝廷の混乱
を彷彿とさせ、魏誌の記述に決して反していない。
875日本@名無史さん:04/03/08 22:43
成務天皇・・・227年生264年即位273年崩御
(37歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
仲哀天皇・・・245年生274年即位283年崩御
(29歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
<神功皇后の7年>
(空位70年は漢書に倣ったデフォルメ、実際は7年、「おきながたらしひめ」と後に謚され
たこの人の本名が「とよ」)
応神天皇・・・270年生290年即位338年崩御
(即位年と伝えられるものは生年、仲哀帝崩御1年後産ではなく仲哀帝即位1年後産)
仁徳天皇・・・323年生341年即位399年崩御
(王族内の後継者問題で3年のトラブルがあったのは事実とみる)
876日本@名無史さん:04/03/08 22:44
これ以降の大王は、ほとんど実際の年齢でしょう。

では、なぜ、「一族」と見るかというと・・・。
877日本@名無史さん:04/03/08 22:47
それは古代天皇家の原点を「霊験あらたかな巫女を輩出する一族」と考えるからです。
それゆえ、この家系の男性有力者は「王」の上を行く「大王」になれた。
もっといえば、応神天皇が大王になれた要素には巫女の子だったこともあるわけです。
878日本@名無史さん:04/03/08 22:55
全ては2世紀随一の巫女「みまきひめ」からはじまると考えます。
「いにえ王」は「みまきひめ」に招かれて婚姻、大王になりました。
なので、天皇家にははじめから姓がないのです。

以上、妄想おわり。
879(倭王権873〜878の妄想人):04/03/09 00:35
一部訂正。
※「いおのひめみこ」を223年生248年薨とすると、その後の15年間に有力王子と大王が
相次いで亡くなっている。そしてその後、短期の在位で亡くなった大王が2名。初期朝廷の混乱
を彷彿とさせ、魏誌の記述に決して反していない。

成務天皇・・・227年生264年即位268年崩御
(37歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
仲哀天皇・・・240年生269年即位283年崩御
(29歳頃に立太子との言い伝え→実は即位)
880(倭王権873〜878の妄想人):04/03/09 02:35
追加妄想。
景行天皇の母と神功皇后はタテに系譜がつながるものと思われる。
また彼女たちは「いにえ王」・「みまきひめ」どちらとも血縁。
「いにえ王」自身の政治力や軍事力・経済力もさることながら、
その祖先(倭国大乱時の豪族のひとつ)が「みまきひめ」の一族
の力を利用していたことは十分考えられる。
何かと血縁を通じて基盤強化を図っていたのではないか。
この頃はまだ葛城氏の出る幕ではないので十分、考えうる。
そして大乱の覇者となった「いにえ王」は「みまきひめ」の神託で
婿入りし、「おおきみ」となった。
追加妄想終了。
881日本@名無史さん:04/03/09 02:49
藻前の糞な個人的妄想ははっきりいってどうでもいい訳で、
長々と続けたら迷惑だろ。
882日本@名無史さん :04/03/10 01:34
>>881
一度に書き込めなかったからじゃないのか?
多分「妄想」ってココ独特の意味じゃない?(w

話を元に戻そうぜ
883(倭王権873〜878の妄想人):04/03/12 21:59
>>881
糞ですみませんでしたな。
>>822の直前まで、本来の趣旨とは違う険悪なムードになっていると感じたので
書いてみたんですが。
長くなったことはお詫びします。
それにしても800番台前半のカキコには全くコメントもつけずに、私の意見なら
糞ですか>>881
以前、他のスレで「証拠がどうのこうの」とか「証明の定義は」とか揉めてたの
で、妄想という言葉を使いましたです。
確かに私は>>881を書き込んだ人のような歴史学者という職業の者ではありません。
門外漢が申し訳なかったですね。さようなら。
私のカキコが原因で混乱したのなら申し訳ありません。ここにはこのハンドルは
使いません。
884日本@名無史さん:04/03/13 07:18
あほか。
なんの説明もなく他のスレの、しかも以前の話をもちこまれても
わかるわけないだろ

妄想とことわればいいということじゃなくて
証拠も証明もないのがそもそもよくない。
妄想それ自体が不可
885日本@名無史さん:04/03/13 13:22
>>884
まあまあ、熱くなるなよ。主張を読むに857-859とか、***(電波系)に刺激されたんだろう。
彼にはこういったナビゲーションが一番。

>>883
ここに逝け。仲間がいるぞ。
ttp://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1073766541/l50

ところで>>866の土下座って何?原典は?
886日本@名無史さん:04/04/02 17:14
887日本@名無史さん:04/04/24 23:50
倭王なんか使うな
天皇と呼べ
888日本@名無史さん:04/05/06 01:02
1世紀の倭奴王のときに、すでに、倭人としてのまとまりはあったとは思う。
889日本@名無史さん:04/05/15 05:40
倭人としてのまとまり?絶対言葉としておかしい。
倭人としてある集団が認知されてた。だろ。
890日本@名無史さん:04/05/15 14:04
どうちがうのかよく和歌乱w
891日本@名無史さん:04/05/15 17:29
倭人はひとつの民族だったといえるだろう
892日本@名無史さん:04/05/16 07:19
何の根拠もない>>891
893日本@名無史さん:04/05/16 14:11
>>892
ひとつの民族だから、ひとつの「倭」という名で呼ばれるのだろ。
たいていの本では「倭韓」は普通、倭と韓という二つの民族と解釈されてる。
「倭韓穢」なら倭・韓・穢という三つの民族だろ。
普通の解釈に異論をだすのはかまわないが、それならまず藻前が考証して
みせないとな。
894日本@名無史さん:04/05/17 21:11
誰が呼んでいたのか
本人たちはどう自称していたのか

研究者の数だけ「民族」の定義は存在すると言いますな
普通の解釈って?
895日本@名無史さん:04/05/17 22:37
三国志を普通に読めば、ってことだよ。
陳寿が倭をひとつの民族としていたことは議論の余地がない。
むろん陳寿のその考えがまちがっていたのだという説はあってもよい。
896日本@名無史さん:04/05/30 02:57
倭人が半島へ進出していたという記事はあるのに、
逆はないの?
897日本@名無史さん:04/05/30 16:03
アリエナーイ、メッシュ、ダッシュ、又来週。
898日本@名無史さん:04/05/30 16:12
>>896
我が日の本は 来る者を拒まず
899日本@名無史さん:04/05/30 16:20
遅くとも西暦の紀元前後から、日本列島の大部分には日本語を話す
単一の民族が住んでいた。小規模な渡来人の定着はあったが、
日本人には大規模な人種の混合は起こらずに今日に至る。
人種と言語の単一性は、日本の歴史の特徴の一つである。
900日本@名無史さん:04/05/30 16:28
900
901日本@名無史さん:04/05/30 16:37
とりあえず、応神天皇の正体は金官加羅から来た傭兵隊長だったってことでOK?
902日本史@名無しさん:04/06/02 17:39
倭とは国名でもあり、地域名でもある。当然エリア内の多民族を包含する。
そんなこと中国では当たり前。凶奴でも古くから漢人との混血もあったが、やっぱり凶奴と称する。

>遅くとも西暦の紀元前後から、日本列島の大部分には日本語を話す  
  単一の民族が住んでいた

その根拠キボンヌ。西暦紀元後も人的交流は盛んだし、人口規模考えると、たとえば中国からの大
量の政治難民が到来するだけでもDNA構成は変わってしまうような時代。また、海人族は非常に
広い範囲を移動していたから、簡単に線を引けないし、彼らの移動動態はまだ不明。

>人種と言語の単一性は、日本の歴史の特徴の一つである

これもソースキボンヌ。古語自体まだわかっていないのに・・・・・。
903日本@名無史さん:04/06/02 17:42
弥生時代は渡来人。
彼らがBC300年には西日本に全面展開。
東日本でも混血が始まっている。
904日本@名無史さん:04/06/03 22:40
>>903
出土人骨の平均値がサンプル値を変えてても混血の証拠にはならんだろう。
905日本@名無史さん:04/06/24 01:27
白の遺伝子はどうしてやってこなかったんだろう?
906日本@名無史さん:04/06/24 07:39
>>905
やってこなかったというより、消滅したんじゃ・・。

あのGMは、白の地域では黄や赤がほとんど無いなど、色が排他的に選択されている
ような感じ。黄と赤は共存しているけど。

少数派となった遺伝子は、なんらかの理由で一気に消滅に向かうのじゃないかと・・。
907日本@名無史さん:04/07/22 22:53
秋田美人の理由ではないの?
908>869:04/07/23 00:07
国書で天皇が、臣と称していたといいう証拠はありません。
逆の証拠はありますが。
素人ばかりだと思って、いい加減なことを書かないように。
向こうがどう思ったかは別ですが。
909日本@名無史さん:04/07/31 00:08
福岡平野の須玖岡本遺跡群、那珂比恵遺跡群が弥生集落では最大級で、遺物の質や集落の計画性がダントツ。
糸島の三雲遺跡も匹敵する可能性があるが、調査範囲が少なく不明瞭。これらは規模的にマキムクに匹敵する。
これら3遺跡は弥生中期中ごろに巨大化し、須玖は弥生終末まで、他は古墳前期にも繁栄が存続するようだ。
唐古鍵遺跡は30ha、須玖岡本や那珂比恵は100ha以上。
那珂では2kmの直線道路痕跡が存在するらしく、また須玖岡本の青銅器鋳型の出土数や出土頻度は唐古とは比べ物にならない。
福岡の研究者に言わせると、吉野ヶ里と唐古鍵が同程度の規模と構造と言う。
あと、壱岐の原ノ辻も同じぐらい。
邪馬台国は大和でもいいけど(マキムク出現以降ね)、畿内派は九州のこともよく調べておいてね。
あと九州派の人も、伊都国、奴国が質的規模的に最高ランクで、他地区はその下であることをわかってね。




910日本@名無史さん:04/07/31 00:11
>トトヒモモソ姫あたりの大王家が、吉備王家と縁が深いのは確かだけどね。
>吉備と畿内らの連合は、対北九州戦略から。強国と対抗・対立するためには、
>連合の必要があった訳です。
>対して、倭人伝を読む限り、北九州は国が乱立しおり一枚岩ではなかった
>(連合できなかった)。北九州諸国は畿内・吉備らの切り崩しに遭い、徐々に
>勢力を失っていったのだろう。

巻向型前方後円墳は、畿内に最初に発生の後、非常に早い時期に北九州で発生して
います(津古生掛、那珂八幡など)。
このため、巻向の成立と同時に北九州〜畿内に至る政権が成立しているとされています。
吉備との関係が強化される(であろう)と考古学的に言えるのは、宮山式特殊器台が
大和に入る時期、つまり布留期以降なので、そういう考えは難しいんじゃないでしょうか。


911日本@名無史さん:04/07/31 00:11
>トトヒモモソ姫あたりの大王家が、吉備王家と縁が深いのは確かだけどね。
>吉備と畿内らの連合は、対北九州戦略から。強国と対抗・対立するためには、
>連合の必要があった訳です。
>対して、倭人伝を読む限り、北九州は国が乱立しおり一枚岩ではなかった
>(連合できなかった)。北九州諸国は畿内・吉備らの切り崩しに遭い、徐々に
>勢力を失っていったのだろう。

巻向型前方後円墳は、畿内に最初に発生の後、非常に早い時期に北九州で発生して
います(津古生掛、那珂八幡など)。
このため、巻向の成立と同時に北九州〜畿内に至る政権が成立しているとされています。
吉備との関係が強化される(であろう)と考古学的に言えるのは、宮山式特殊器台が
大和に入る時期、つまり布留期以降なので、そういう考えは難しいんじゃないでしょうか。


912日本@名無史さん:04/07/31 00:12
北九州の鉄の独占により、搾取され続けた吉備・畿内が連合したと思う。
連合→統一政権って、何か強い相手に立ち向かう時でもないと、なかなか達成できないものだよ。
既得権益を守りたい守旧派というのは、いつの時代にもいるものだ。
畿内の強みは、東海・関東を従えていたこと。彼らは地勢的に、鉄のためには畿内に頭を下げざる
を得なかった。後世ニギエビスと呼ばれる彼らの戦闘能力の高さは(狩猟で鍛えているからね)、
北九州諸国にとっては脅威だっただろう。
つまり、縄文時代から続く人的資源の豊富さで、畿内は北九州を圧倒していた訳
だよ。後世の防人にしろ、畿内政権による東国の搾取・支配・徴発は恐ろしく長く続いた。
鎌倉政権の成立まで。
北九州諸国は、鉄・富を奪いに連年攻め込んでくる熊襲の猛威に悩まされて
いたのではないか。また相次ぐ内乱で人口が激減していたとも考えられる。

913日本@名無史さん:04/07/31 00:13
魏に合わせるなら、墓の形態も魏に準拠するだろ。
東日本や出雲よりも早く、畿内の前方後円墳(+吉備の埴輪)体制に組み込まれた


914日本@名無史さん:04/07/31 00:20
>ただ、マキムク遺跡で九州の土器の出土が極端に少ないことから、九州主体を想定
>できないんですよ、
これは、前に以下のようにお答えしています。
「巻向の外来土器の性格は、通常、供献土器か労働力の移動に伴うものと主張されています。
 このような説を採用する場合、外様的地位にある(たとえば東海)の土器が多く、権力中枢である
 九州の土器が少ないのは別段不思議ではありません。
 逆に東海が地域の土器が多いからと言って、東海の勢力が倭王権成立の主導を行ったという学者
 はいません。」
 
>同じ「畿内→初期大和政権断絶」説にしても、まだ、
>吉備の大和侵攻の方が説得力がある。あなたの説は「なぜ北九州が主体でなければ
>ならないのか」の論拠が弱いように思います。当時、北九州が先進地域だから、
>って声高に言われても。
北九州というのは、寺澤氏が提唱された巻向型前方後円墳が畿内に次いで多い地域
であって、庄内期といわれているものも複数あるわけですね。従って、この時代あ
るいは少し前には、北九州と畿内に別の勢力が並列していたとは考えにくく、西日
本については統一的な政治形態ができた、そしてそれがイコール巻向遺跡の誕生と
考えられます。
ご質問は、その主導をどのような勢力が行ったのかということかと推測します。
畿内在地勢力と大和政権の断絶については、前にみなさんがさんざん書いている
とおりです。
この時代に、北九州のほか、王権的なものを誕生させていたと想定される地域には、
さまざまありますが大きなところでは、ご指摘の吉備、四国東部、山陰地方など
でしょうか。
これら勢力の関与を否定しているわけではありません。当然協力があったであろうと
思います。しかし、「主導」したかということになると、なぜ圧倒的な国力と権威を
持つ北九州の「(イト)倭王権」が主導されねばならないのかという根本的な疑問が生じますね。
ちなみに私は、当然のことながら、邪馬台国九州説は、主張しておりません。


915日本@名無史さん:04/07/31 00:21
>ただ、マキムク遺跡で九州の土器の出土が極端に少ないことから、九州主体を想定
>できないんですよ、
これは、前に以下のようにお答えしています。
「巻向の外来土器の性格は、通常、供献土器か労働力の移動に伴うものと主張されています。
 このような説を採用する場合、外様的地位にある(たとえば東海)の土器が多く、権力中枢である
 九州の土器が少ないのは別段不思議ではありません。
 逆に東海が地域の土器が多いからと言って、東海の勢力が倭王権成立の主導を行ったという学者
 はいません。」
 
>同じ「畿内→初期大和政権断絶」説にしても、まだ、
>吉備の大和侵攻の方が説得力がある。あなたの説は「なぜ北九州が主体でなければ
>ならないのか」の論拠が弱いように思います。当時、北九州が先進地域だから、
>って声高に言われても。
北九州というのは、寺澤氏が提唱された巻向型前方後円墳が畿内に次いで多い地域
であって、庄内期といわれているものも複数あるわけですね。従って、この時代あ
るいは少し前には、北九州と畿内に別の勢力が並列していたとは考えにくく、西日
本については統一的な政治形態ができた、そしてそれがイコール巻向遺跡の誕生と
考えられます。
ご質問は、その主導をどのような勢力が行ったのかということかと推測します。
畿内在地勢力と大和政権の断絶については、前にみなさんがさんざん書いている
とおりです。
この時代に、北九州のほか、王権的なものを誕生させていたと想定される地域には、
さまざまありますが大きなところでは、ご指摘の吉備、四国東部、山陰地方など
でしょうか。
これら勢力の関与を否定しているわけではありません。当然協力があったであろうと
思います。しかし、「主導」したかということになると、なぜ圧倒的な国力と権威を
持つ北九州の「(イト)倭王権」が主導されねばならないのかという根本的な疑問が生じますね。
ちなみに私は、当然のことながら、邪馬台国九州説は、主張しておりません。


916日本@名無史さん:04/07/31 00:21
まず樋口康隆なんてまともな学者じゃない、論じるに値しない。
彼の説は噴飯もので誰も相手にしていないし
今では電波説となり、価値のなくなった意見を唱えている(いた)。





917日本@名無史さん:04/07/31 00:23

1、畿内・九州並列説
 (a)畿内が併呑
 (b)九州が併呑
 (c)最後まで独立・争い
2、九州→畿内説
 (a)九州本家もその後連続して存在
 (b)東遷説
 (c)その後九州が衰退説
3、畿内→九州説
 
918:04/08/01 21:06
さきほど教育テレビで紹介されていた
映像に驚愕した。
今、奈良国立博物館というようなとこで
新羅の黄金文化の展示をしてるらしいのだが
北方騎馬民族の影響を受け成立したとされる
新羅の黄金文化の金冠。
その冠には日本古代王権のシンボルの一つでもある
マガ玉が鈴なりに!
919日本@名無史さん:04/08/02 06:08
>>918
有名な話だ。もちろん日本産
920日本@名無史さん:04/08/02 07:08
>>918
「新羅も百済も、皆、倭を大国で珍しい物が多いとして、
倭を敬仰し、常に通使・往来している(隋書・倭国伝」」

新羅の伝記には倭人が新羅の王となった伝説もあり、その逆に
新羅の人が倭に「渡り来たりつ」ことも古事記に書かれている。
もともと同じ倭人の居住地域から分かれて別国になったわけだから
不思議じゃないですよ。

921日本@名無史さん:04/08/08 16:52
それは本当ですか?
あの新羅のマガ玉は日本製?
だとすると金自体も日本製では。
たしかに新羅には金脈がないので
黄金文化を支えた金は他からもたらされたと言ってました。
922天之御名無主:04/08/08 19:46
>>新羅の黄金文化の金冠。
>>その冠には日本古代王権のシンボルの一つでもある
>>マガ玉が鈴なりに

つまり新羅は倭に鉄を輸出、対価を勾玉で受けていた。すなわち鉄鉱鉱山乃至は
産地は新羅の権力下にあった。確か、秦韓といわれた頃に経営権を得たのじゃな
かったっけ。
923日本@名無史さん:04/08/08 21:51
新羅はローマ人の国ですから、黄金文化なのは当然
924日本@名無史さん:04/08/11 23:33
ここには西都厨はこないな。
925日本@名無史さん:04/08/14 09:26
926日本@名無史さん:04/08/17 09:45
ww
927日本@名無史さん:04/09/09 05:40
新羅王の傍系ってこと?
928日本@名無史さん:04/09/09 08:53
↑なにが?
929日本@名無史さん:04/10/01 21:59:56
包茎
930日本@名無史さん:04/10/02 14:37:54
こだわるとこ、見ると、最近まで悩んでいたんでは
931日本@名無史さん:04/10/23 22:43:20
金官加羅から来た傭兵隊長なんだろ。
932日本@名無史さん:04/10/23 23:35:03
万世一系ではなく、王朝が交代してるというのは確実なんでしょうが、そこで疑問。
何故滅ぼした前王朝の君主も「天皇」だった事にして系譜を繋げる必要があるのか?
つまり応神が仲哀を滅ぼしたのなら、応神が初代天皇と書けばいいだけ、別に仲哀「天皇」にする必要は無い。
いくら万世一系といっても、オオクニヌシとかニギハヤヒといった大和朝廷以前に畿内の王だった
存在は記述されているのだから、何故応神以前の王朝もそれと同じ扱いにならないのか?
933日本@名無史さん:04/10/25 04:33:03
>>931
誰の説?
934日本@名無史さん:04/11/07 12:55:10
仲哀は応神が継承した王権の先代の王者だから天皇扱いになったんじゃないの?
935日本@名無史さん:04/11/10 23:15:24
仲哀なんて大王は実在しないんだが・・・
936日本@名無史さん:04/11/10 23:33:08
応神は金官加羅から来た傭兵隊長
937日本@名無史さん:04/11/10 23:55:18
神武〜仲哀が全部実在していないとしたら
記紀の筆者は現在で言えばノーベル文学賞もらえてるなw
神武から決死8代まではあやしいが、少なくとも
モデルとなる人物はいたと思う。
938 ◆DQR3XSYjuU :04/11/10 23:55:46
939937:04/11/11 00:03:32
ニギハヤヒやオオク二ヌシの国が畿内にあったことは事実だが、
次第に畿内各地の部族の力が台頭してきたので、王は共同で
擁立する体制に移行したというのが真実に近いと思う。
それが神武〜欠史8代まで。10代天皇の崇神天皇の時代に
おそらく世襲制に移行したと考えられる。そして崇神王朝の時代に
九州の邪馬台国と合併して西日本全域に渡る統治権をえた。
仲哀から応神への移行は、神功皇后が邪馬台国の一派であり
皇統が畿内崇神系から邪馬台国系へ移行したことをあらわしている。
なので三輪から河内に王朝が移ったし、宇佐神宮に、比売大神=卑弥呼と
応神天皇、神功皇后が祭られていて、道鏡事件の際宇佐神宮にいった。
継体天皇は薄くではあるが応神天皇の血をひいている。
940日本@名無史さん:04/11/27 13:13:50
饒速日に国を返すべき
941日本@名無史さん:04/11/27 18:50:32
小説ですが「倭王の末裔」を読みました。
説としても小説としても非常につまらなかったです。
騎馬民族征服説も強引だし、登場人物も中途半端だし。
空想古代小説なら「火怨」のほうがずっとまし。
942日本@名無史さん:04/12/03 11:28:52
とりあえず今の天皇家は継体天皇の子孫。
単なる福井の豪族の子孫ってなだけ。
天孫降臨もなんの関係もないw
943日本@名無史さん:04/12/04 06:06:24
福井じゃなくて滋賀県だよ
944日本@名無史さん:04/12/05 17:07:43
天叢雲剣って銅剣?鉄剣?
鉄剣だった出雲安来の大成古墳からでた素環頭大刀
みたいなものだったのではと想像してしまうのは
私だけか?
945日本@名無史さん:04/12/06 13:08:33
天叢雲剣は、一尺五寸にちと余り、握りは柄頭を含めて一拳半、
刀身は両刃で笹の葉っぱの如き姿、鉄剣で柄まで共金である。
握りには麻布を巻いて持ち易くした形跡があり、
柄頭には手貫緒を通したと思われる小穴もある。
946日本@名無史さん:04/12/06 16:43:26
天皇は福井出身だったんだ。朝鮮系って聴いてたからちょっと安心しますた。さんくす
947日本@名無史さん:04/12/26 09:15:31
福井出身ってゆっか、傍系皇族が越方面に勢力伸ばしただけだよ。
948日本@名無史さん:04/12/26 09:37:47
継体は福井の在日オヤジだよ。
日本海を越えて渡ってきた朝鮮人の末裔。
949日本@名無史さん:04/12/26 22:17:38
福井じゃなくて近江だから滋賀県。近江を中心に北は越前、南は尾張まで勢力があった。
仮に皇族じゃなかったとしてもただのおっさんとはいえないだろ。
(今は皇族説みとめるのが学界の趨勢だと思うけど)
950日本@名無史さん:05/01/09 09:52:07
滋賀県が母親の出身実家の支配地だっけ
951日本@名無史さん:05/01/11 16:35:32
そうじゃなくて母親の実家が福井県。滋賀県は父親の実家。
952日本@名無史さん:05/01/23 22:12:25
嫁さんの実家が愛知県?
953日本@名無史さん:05/02/10 17:10:42
このときの尾張家って、熱田神宮と関係あるんだろか?
954日本@名無史さん:05/02/11 02:02:46
むろん大有り。ヤマトタケルの嫁さんのミヤズヒメは
尾張連の祖先の一人。尾張連氏は継体の嫁さんの実家。
955日本@名無史さん:05/02/12 18:23:04
このスレまだあったのか!
956日本@名無史さん:05/02/12 19:56:57
Japanese Apricot
957日本@名無史さん:05/02/24 00:46:45
958日本@名無史さん:05/03/11 15:32:12
932、937の問題提起は、核心だと思う。
しかし欠史八代は議論しようがないだろう。創作と考えるしかない。
するとそれ以前の神武も、モデルはあるにせよ創作の部分が大きいと思われる。
問題は、崇神、垂仁、景行が創作なのかどうか?
崇神陵、景行陵の造営は、4世紀前半にうまくあてはまるのか?
河内王朝が、九州から畿内に攻め上がる構図は神武東征と重なっている。
河内王朝に倒される忍熊皇子は、三輪王朝の最後の王だったのか?
959日本@名無史さん:05/03/11 16:32:28
神武説話に何らかの史実の反映を見るなら、別に「九州の勢力の移動」に拘らなくてもよい。
考古学者が主張しだした吉備の東征と、九州からのスタートは矛盾しない。
九州から来た小グループが吉備からの人的援助で東征したのなら、両方が成立する。

案外、神武(のモデルグループ)は九州から追い出された負け組だったんじゃないかと思う。
それなりの身分はあっただろうが、亡命者でなければ、安芸や吉備で時間かけすぎだ。
地盤がなかったことの証拠だと思う。
960日本@名無史さん:2005/03/31(木) 19:03:59
安芸や吉備で時間かけたところが実話っぽい
961日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:40:50
>>958
>しかし欠史八代は議論しようがないだろう。創作と考えるしかない。

この辺りは全く意味不明。
欠史だから議論のしようがないというのは分かるが、なぜそれが
「創作と考えるしかない」になるのか。
創作ならもっと色々書くだろ。【神武東征】みたいに。
逆に伝承が無かったからこそ何も記述しなかったんだろうし、記紀編纂者の
歴史家としての矜恃が伺えるのでは?
962日本@名無史さん
俺の妄想
東征には数世代かかった。
この辺りの詳しい経緯は記紀編纂の時にはよく分からなくなっていた。
つまりどの代で東征がどこまで進んだかという詳しい進捗度は分からなくなっていた。
だから神武に東征の役割を割り振り、崇神にそれを安定させる役割を割り振り、その間に8代を適当に挟み込んだ。
あるいは本当に8代だったのかもしれない。(直系かどうかはともかく)
とにかく東征が完了したのは崇神の代で、それ以前の詳しい経緯は記紀編纂の時にはよく分からなくなっていた。