214 :
日本@名無史さん:04/08/10 09:33
215 :
日本@名無史さん:04/08/13 17:22
217 :
日本@名無史さん:04/09/04 17:19
ここ1〜2年で日本史で最も研究が進んだのがこの分野だね。
今では1の言っている事が全くのデムパにしか目に映らないよ。
この1〜2年という短い間に、いったい何があったの?
ソースヨロ。
教えるまでもない。
時の経過がしっかりお前に教えてくれよう。
やっぱりハッタリだったか・・・・よくある話だが。
221 :
日本@名無史さん:04/09/05 19:37
★★★★★★★★★★★★★★★荒らしの心理学★★★★★★★★★★★★★★★
心理学者アルフレッド・アドラーの言葉を引用するまでも無く、なんらかの劣等感に
強くさいなまれる者は、それを補償しようとして『権力への意志』を強める傾向にあります。
しかしひとたびそれが失敗すると無為、逃避、破壊衝動に陥いることになってしまう…。
つまり、荒らしとは劣等感に悩み、克服するためにひとかどの人間になろうとしたが
それに挫折してしまい、他者の尊厳をむしり取ることで自らを慰めている人たちなのです。
そんな荒らしを私たちはを軽蔑するのではなく、むしろ憐れむべきではないでしょうか。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
222 :
日本@名無史さん:04/09/12 00:01:57
滋賀県長浜市の大戌亥・鴨田遺跡で出土した3世紀中ごろ(古墳時代初め)の土器にある刻書が国内最古級の文字とみられることが分かり長浜市教育委員会が8日、発表した。
長浜市の大戌亥(おおいぬい)・鴨田(かもだ)遺跡で見つかった「卜(ぼく)」の字のような刻書がある古墳時代初め(三世紀半ば)の土器。
邪馬台国の女王・卑弥呼が活躍した時代、大陸から伝わった文字という先進文化に、長浜の人々が触れていた可能性がうかがえ、
地域の先進性が改めて浮かび上がった。専門家は、謎に包まれている古代の文字文化を探る糸口として、わずか〈二画〉の小さな刻書に注目している。
「文字のように見えるが、記号かも知れない」
一九九九年十二月の雪の降る日、遺跡内から偶然見つかった奇妙な土器。調査を担当した市教委歴史文化課主査の西原雄大さん(39)は
数十人の専門家に問い合わせたが「分からない」「ほかに類例が見つかるのを待ちなさい」という返事ばかりだった。 “正体”がつかめたのは今年七月。
各地の刻書や墨書を研究していた東野治之・奈良大教授(日本古代史)に依頼した鑑定で「線の柔らかさなどから、文字として刻まれた可能性が高い」と判明した。
「『川の水量を抑えて下さい』とか『もう少し水を流して下さい』とか、人々が祭壇で『卜』の文字の付いた土器を使い、神に祈ったのかもしれない」
西原さんは想像を膨らませる。「卜」は中国の古代王朝・殷の時代から使われている文字。カメの甲を焼いて王が神の意志を問うという意味があるという。
古代の日本人が文字に接し始めたのは、中国との外交や交易が始まった紀元前後ごろと言われる。一世紀には「漢委奴国王」と刻まれた金印が中国から贈られ、
中国の史書・魏志倭人伝には、魏から邪馬台国に詔書が届けられたことが記されている。 早い時期に日本人が文字に接していたことを裏付けるように、
三重県安濃町で二世紀末ごろの「奉」の字のような刻書がある高坏(たかつき)、福岡県前原市では三世紀中ごろの「竟」の字とみられる刻書があるかめなど、
各地で刻書や墨書のある二〜四世紀の土器が相次いで出土している。 水野正好・奈良大教授(考古学)は「港町では、船の荷物の積み降ろしに関する記録が必要。
当時の長浜には文字を使う人々が集まった可能性がある」と話している。
223 :
日本@名無史さん:04/09/12 00:22:35
先日、ちばテレビの「楽浪遺物のある風景」という番組を見た。
北朝鮮の平壌に飛んで、最近の楽浪郡遺跡での発掘作業を映していた。
楽浪郡遺跡から出てくる遺物は北九州や出雲の弥生遺跡の遺物と
ほとんど同じものばかりだった。
やはり華北人が占領朝鮮を通して弥生期の日本に渡来したものが
弥生人である事を裏付ける遺物ばかりであった。
224 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:20:46
225 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:19:50
で、弥生人は漢字を使えたのか?
226 :
日本@名無史さん:04/10/21 19:52:21
使えるわけがない
227 :
日本@名無史さん:04/11/07 23:36:18
使えたヤツもいただろ
228 :
日本@名無史さん:04/11/27 07:56:55
弥生人が大陸から来たとして、
当時の大陸の漢字は甲骨文字や金石文字だろ?
書体が全然違うじゃないか!
229 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:14:57
ようするに、今のような漢字の形に落ち着く前に、
日本列島へ渡ってきてしまったんだね。
230 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:19:35
とはいえ、当時の文字(篆書?)のある遺物の出土例もほとんどない以上、
やはり文字は使われてなかったんだろうな。
231 :
日本@名無史さん:04/12/13 23:16:54
縄文時代のリーダーと弥生時代の族長の違いのレポートを
書きたいのですが、ご存知の方おられましたらご教授お願い
できませんでしょうか(゚*゚)
232 :
日本@名無史さん:04/12/29 08:12:48
縄文時代のリーダーってなんだそりゃ…
233 :
日本@名無史さん:04/12/29 08:16:00
集落のリーダーってことだろ?
考古学板で聞いたら?
235 :
日本@名無史さん:05/01/10 10:56:38
漢字がまだ象形文字だった頃に移住したとすれば、成り立つかな?
236 :
日本@名無史さん:05/01/25 22:51:55
よーするに、象形文字から漢字になる筋道が、大陸と日本で異ったわけだ。
237 :
日本@名無史さん:05/01/28 18:08:23
弥生人が漢字なんか使えるわけないだろ。
238 :
日本@名無史さん:05/01/28 23:47:26
>>237 100年程前でも識字率10%程度の国も有るくらいだから
日本とはいえ2000年前なんて寺子屋なんかなかっただろうし、
、、、使えるわけないよなぁ。
そもそも中国の識字率が低い。そこからきた弥生人も字の読み書きできない。
240 :
日本@名無史さん:05/02/17 11:07:20
>>239 おれもそう思う。
てゆっか、中国とひとまとめにするのは意味がなくて、
ものすごい多様な民族が展開していた時代。
(今も少数だが民族数はものすごい。)
それらの多様な民族のいくつか複数から順次移住だとすれば、
漢字を使っていなかった人々の蓋然性の方が高い。
241 :
日本@名無史さん:05/03/01 01:00:55
242 :
日本@名無史さん:05/03/03 06:02:23
土器にはドーリア人と共通の柄(記号)が見られます。
243 :
日本@名無史さん:2005/03/21(月) 12:53:03
ドーリア人って、何系?
244 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 00:03:22
欧印族じゃないっけ
245 :
日本@名無史さん:2005/04/24(日) 14:26:23
ウホウホ言ってた弥生人が漢字なんて使えるわけないだろw
246 :
日本@名無史さん:2005/05/12(木) 19:39:35
とすると、漢字文明圏以外から弥生人は来たということか。
漢字文明圏の中の人たちの識字率はおそろしく低いわけだが。
248 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:32:04
建築家の渡辺 豊和氏の説に寄れば、高床式・校倉造りなどの住居形式は北ユーラシア系のものらしい。
ttp://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/watanabetoyokazu.html >日本でも縄文の竪穴住居は土室だった。しかし日本は湿気が強いため日干しレンガはできない。
>そこで私達の先祖が考えたのは木を構造とし面を土とする土蔵風のものであった。
>このことに気付いて『神殿と神話』(原書房 83年)に書いたし歴史家や建築史家にことあるごとに
>このことを力説したがそのごとに冷笑をあびるか無視された。
>ところが最近、青森の三内丸山発掘以後ようやく竪穴住居の屋根は土でできているといわれはじめた。
>3年前(99年)今や考古学界の重鎮佐原真にそのことをいうと
>そんなに早くわかっていたなどとても信じられないといった風であったが本を見せてはじめてわかってくれたということがあった。
>佐原の他の考古学者にはみられない柔軟さ真摯さには好感がもてたことを強く記憶している。
>縄文の竪穴住居は1メートルほど土を堀りその土を使って建築とするのであるが
>前方後円墳と全く同じ形をした家屋なのである。前方部が入口、後円部が住まいである。
>このことはまだ考古学者はわかっていない。
>秋田県横手市の雪室「カマクラ」こそ竪穴住居の記憶であろう。
>これと関連づけてみるぐらいの柔軟さがほしいが登呂遺跡の復元竪穴住居のイメージからぬけきれていない。
>ついでに同じ『神殿と神話』で正倉院校倉は北ユーラシア渡りの建築形式と明言したが
>これもようやく三内丸山発掘で高床とおぼしき住居か倉庫が出てきたため気付きはじめたようである。縄文の高床は校倉なのである。
>校倉は丸太を横に積む形式で極寒に耐えうる唯一の木造高床形式なのである。
>ロシアなどの北ユーラシアの住居は現在でもこれは主流なのである。
249 :
248:2005/05/18(水) 01:42:08
採集・漁労の点で落葉広葉樹林は照葉樹林と比べ遥かに食料が豊富だから、
縄文時代の日本列島の人口はほとんど東日本に集中していて、
西日本にはほとんど人は住んでいなかった。(遺跡の分布でも明か)
そこへ焼き畑の技術なり水田の技術を持ち込んだのだから、
実際には縄文文化と弥生文化の衝突はほとんどなかったと思われる。
弥生文化が関東・東北にすぐに広まらなかったのは、
東北地方においては、初期の水田稲作の弥生文化より、
採集漁労の縄文文化の方が食料生産が上回っていたらしい。
それに、縄文文化か弥生文化か、照葉樹林文化かナラ林文化か、
という対比は単純すぎると思う。
日本語の起原も南方系のオーストロネシア語に北方のツングース語系と同祖の言語が混入したもの、
という説がいまのところ有力みたいなので、いちがいに新旧の対比ではくくれないだろう。
日本語の起源については以下参照。
ttp://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/wissenshaft.htm#basic
250 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:46:27
そもそも漢字というものは、古代中国においてそもそも一般人が使用するようなものではなかったので、
遺物に残るかどうかは疑問だ。
251 :
tociguri:2005/05/18(水) 03:09:02
現在の中国の少数民族でも身の回り品に漢字などは書かないだろう。
書くとすれば現在の日本人がティーシャツにローマ字を書くような装飾物として
使うくらいではないか。
倭人は中国の少数異民族だったので漢字とは無縁の生活をしていたのだろう。
そして土器を作るような職人は奴隷のような身分で漢字を知っているはずがない。
そう言えば銅鐸に書かれた絵が絵文字ではないかという説があった。
252 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:43:01
典拠は?
253 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:56:18
例えば、ありえないけど、北狄といわれた北方諸民族も、三国時代程度ではまだ漢字を使っていないね。
もちろん、そんな北方諸民族も、北魏・隋・唐と、メインストリームになっていくわけだが。
公表されてる「漢字を記した弥生時代の遺物」もうさんくさいが、
漢字と言い張る考古学者もうさんくさい。
255 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 16:22:29
朝鮮半島や日本列島へ漢字が伝わるのが1000年も遅れたということは、
大陸の中でも、何百年も遅れたところもいっぱいあったに違いなく。
ましてや、弥生時代に漢字を用いない大陸人はやまのようにいて、
日本列島へ渡ってきた人々もそうではないかと。
256 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:28:59
そうではないよ。
257 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 08:17:08
ウホウホ言ってた弥生人が漢字なんて使えるわけないだろw
259 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:39:36
うほっ
260 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:51:09
BC108、漢の武帝による朝鮮侵攻。楽浪郡など4郡設置。
倭人は渡海して楽浪と積極外交。
漢字が伝わったのはBC1C〜AD1Cの間。
261 :
tociguri:2005/08/24(水) 22:57:57
中国大陸の少数民族なら現在でさえ漢字を使わないのが普通だろう。
漢字は漢民族にしか通用しない文字(特に漢字の8割を占める形声文字は
中国語の発音を表記する表音文字なので、少数民族には理解不能な文字だ)
だった。
262 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 02:31:52
おそらく識字率の低い国から、大量にどこかの土地に移住したとしても、その国の文字や
文化の多くは、数世代で忘れ去られてしまう。
社会のシステムがないのに、文字を維持できると考える方がおかしいのでは。
263 :
tociguri:
>>262 中国にアルファベットのような簡単な文字があったら、持って来た可能性も
あったのでは?