「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか12)

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952日本@名無史さん:04/06/04 10:06
953 :04/06/08 19:55
魏志の中の倭と倭人と倭国って
おなじ物をさしてるの
違うものならどういう風に違うの
954日本@名無史さん:04/06/08 23:16
>>953
倭=倭人=倭種
倭=倭地>倭國>女王國>邪馬台國
955日本@名無史さん:04/06/12 21:06
「たけしのこんなはずでは」というTV朝日の番組で、卑弥呼が魔鏡を使っていた、という再現TVRを流していた。

また捏造!
956日本@名無史さん:04/06/12 22:33
昔の金属鏡は粗雑な研磨の過程で、ほとんど魔鏡化するんじゃない?
957日本@名無史さん:04/06/17 00:38
886-888ですが
一ヶ月ぶりに登校しまつ。ちと仕事が忙しくてごめんね
俺>877の人好きやー。ええかげんなリーマン古代史ファソの俺に勉強を促してくれてるし。
>895も>896もそのとおりだと思うな。「露布」といって魏志ってのはさ、対外記事を書くときは
わざとオーバーに書くのさ。大本営発表と一緒。
「里」の10倍説の解釈はそれが根拠なのよ。でも「戸数」は実数のようだし。そこがたまらなく
ミステリーだったりして。
958895:04/06/17 02:14
いや、漏れのカキコは岡田英弘説には疑問を呈しているのだがな。
(かといって代案もだせずわからないといってるわけだが)

「露布」(10倍表記)は戦争中の情報戦の一環。
したがって戦争が終われば
少なくとも政府の記録には正確に残るはず。
それに魏志の短里は正確に7.6倍であって、
10倍という大雑把なものではない。短里が周代短里と寸法が
同じなのは偶然ではかたずけられないだろう。
959957:04/06/17 14:09
>>958勉強になりまつ。
でも司馬イ将軍の功績を称えるのに時代がかわっていて
もそのオーバーな表現を変えないと思うなあ。
賛同されてない意見と思うが。
960日本@名無史さん:04/06/17 20:11
>>959
いや、短里表記は実際そのような単位が使われていたなら
記事としてウソではないし、しかも見た目の数字(距離)
の上では曹爽の大月氏とも拮抗するから司馬懿への
おべんちゃらも成立して、一石二鳥ということなのでは。
961帰ってきた24歳無職:04/06/18 00:40
つうか普通に大和朝廷=邪馬台国だと
思ってるんだけど・・無理に邪馬台を
やまたいと読まなくてもやまとと読めば
万事解決じゃん
962日本史@名無しさん:04/06/18 23:00
そんな簡単なら論争なんて起こらないってw

じゃあ「ヤマト」ってどっから来たの?・・・・・同じ問題はどこにでもあるってこと。
九州にヤマト郡があるが、それと関係があるのか、それとも全く独自なのか、あ
るいはヤマタイなのかヤマイなのかヤマウィなのかヤマドゥなのか、等々。

色々ある罠
963日本@名無史さん:04/06/19 02:47
いや、邪馬台はヤマトだろ。そこまでは簡単な議論だよ
ただし、筑前国山門郷とかあるから…
964日本史@名無しさん:04/06/19 09:24
まだ当時の音韻の定説が確定していないから、それも本当かどうか。
「ヤマ国たい!」って博多弁がそのまま記録されてしまったっていう説もあるし。

学者が言ってるほど確定してることなんてない罠
それを無理に「こうだ」っていうからいい年した偉い学者が人を平気でののしった
りする羽目になる。ほんと藤村氏は壮大なパロディーだよな。この体質を変えな
いとダメポ。
965日本史@名無しさん:04/06/19 17:44
これって日-韓-中の3カ国語程度通しているんじゃないかな。日本語の
乙(?)から韓国語のオとアの中間、それが中国語でアとエの中間、更に
二重母音というように変化した。日本語の清音tが濁音にされるのが
どうも現代韓国とよく似ている。
966日本@名無史さん:04/06/19 20:34
だいたいね、魏志倭人伝には「邪馬台国」と書いてあるけど
「国」というのはあくまでもcountryを表す中国語であって
当時の日本はcountryのことを国とは言わなかったんじゃないかと。
強いて言うなら「和(環?倭?)」と言ってたわけで。
魏志倭人伝の邪馬台国というのは「邪馬台」という名前の「国」と
読むべきだと思う。つまり当時の倭人は自国のことを
「邪馬台国」ではなく「邪馬台」と呼んでいただろう。

ここで興味深いのは「大和」と書いて「やまと」と読むこと。
この漢字は音に対する当て字ではなく意味を表している。
「和」が国を意味しているのはいいとして「大和」は
統一されて「大きい」 「和(=国)」という意味。
そしてその国名は「やまと」
つまり「やまと」という名前の「大和(=統一国家)」
こう考えると魏志倭人伝中の「邪馬台」は「やまと=大和」の音に対する
中国側の当て字であるいうのが自然ではないでしょうか?
ということで「大和」=「邪馬台国」で畿内説を推したい。

・・・ここまではいいんだけど「やまと」ってなんだろ?「山人」かな?

967日本@名無史さん:04/06/19 20:49
>>966
漢文の「國」にはいろんな意味があるが
第一には「城郭都市」
英語のcountryはどちらかというと
「郷土」というニュアンスだからだいぶズレがある
968966:04/06/19 20:59
>>967
それは失礼したね。
混乱を避ける目的なので別にカタカナで書いても良かったんだが。
要は「国」を意味する、漢字でない単語であれば
なんでもよかったのは説明するまでもないと思う。
969日本@名無史さん:04/06/19 21:09
「國」は都市の意味だから邪馬台国を現代語に訳せば「ヤマト市」か
970966:04/06/19 21:14
じゃあ「国王」はさしずめ市長さんですか。
神奈川県邪馬台国 とか。
中国史には詳しくないけど、その時代中国には
えらくたくさん国王がいてみんな金印を持ってたのかな?
971日本@名無史さん:04/06/19 21:27
邪馬台がヤマトは分かるのですが、
日本人側が「大和・倭」をヤマトって発音してたのは
どうして分かっているのですか?現在まで言い伝わって来たのでしょうか?
972日本史@名無しさん:04/06/19 22:07
山峡、例えば大和川は平野と平野を山峡で結ぶ。筑後平野、熊本平野などが開ける
場所、という地理的用語じゃなかろうか。日本中にある。
973966:04/06/19 22:31
>>971
今まであたかも当然のごとく書き込んでおいていいかげんな話だけど、
寡聞にして俺は知らない。
もちろん現在そう伝わっているわけだけど、いつからというのは
知らないね。ずっと後世(といっても今から数百年前)の学者が
言い始めたのかもしれないし。
まあ、少なくともひらがな(あるいは万葉仮名)成立後は
漢字と読みを結びつけられる資料があるんじゃないかな?

いずれにせよ、歴史も言語も門外漢なもんで。

>>972
「山と山(の間)」の省略形とかW
974日本史@名無しさん:04/06/20 00:22
山が門になる=山門かもしれないね。そうすると、日本中にある地名だよね。
でも、そんなこともない。
つうかむしろ九州に問題の地名が多すぎることが非常に気になる。山門、日向、京都、伊勢、志摩、日本、
須磨、明石、他にも福岡=筑紫地方にはてんこ盛り。これは、当時一般名詞だった地名が、何か特別な事
情で近畿に移植されたと考えるべきなんじゃないかな?
975FAQ:04/06/20 00:57
「邪馬台」の読み
倭人伝の当時の発音が上古音なのか中古音なのか中国でも定説がないので不明。
いずれにせよ、日本語とは声の出し方からして違うので、はるかに後世の外国
の読みをそのまま割り振って「やまたい」とか読むのは、英語をBとVやLと
Rが区別できない日本語発音で読んで云々するのと同じナンセンスの極み。
976日本@名無史さん:04/06/20 01:06
>>970
おいおい、都市といっても現代日本の行政区画の「市」とはちがうってw
その頃の中国の都市は「県」。県の首長は中央から派遣されてくる官僚で「県令」という。
しかし異民族の世界の都市は中国ではないから本来の意味で「國」の字を使ったんだろう。
魏志にでてくる対馬國〜投馬國の国々は、
王がいなくて「官(つまり邪馬台国からの派遣官僚)」が治めていたわけだから
倭国の「県」みたいなもんだと思われ。
「王」かどうかは中国からみて代表権を認定されてるかどうかということ。
かつては奴國がそうだったので「王」としての金印を授かった。
3世紀には邪馬台国が倭国全体の王と認定されていたということで、
金印の頃の奴國と卑弥呼の頃の奴國が実態として違ってたわけではあるまいと思う。
977日本@名無史さん:04/06/20 01:11
「何か特別な事情」の代表格が「そこに政権が移った」だと思うけど。
「やまと」が何か複合語だとすると「や-まと」あるいは「やま-と」
(「や-ま-と」の可能性はちょっとおいといて)
やっぱり「やま-と」な感じ。
「やま=山」だとすると「と」は何か?
何かが訛って「と」となったとすると、もとの語は「と」「とお」「た」「たい」くらい?
「と」戸、門あるいは人かな?
「とお」遠かな?
「た」多?これは反則?
「たい」台、太 これも反則?

ここからはちょっと強引だけど、例えば「山多」あるいは「山太」だった場合
山の多い場所、または大きな山の場所という意味になるわけだが
そうすると次は「どこに比べて?」という話になる。
それはもちろん(言語的)故郷に比べてでしょう。
ということでやっぱり日本人のルーツは山の少ない南の島々・・・
妄想ふくらみます。W

その上「やま」が「やみ」「やむ」「やめ」の訛り(というのか活用というのか)
あるいは「や」は「あ」の変化だとか考えるともうえらい組み合わせですな。
978日本@名無史さん:04/06/20 01:52
>>FAQ
いずれにしても「邪馬台」は表意ではなく表音だと思うのですが
上古音、中古音だとそれぞれどんな発音になるんでしょうね?
そもそも、カタカナが外来語を正しく表記しない(場合がある)ように
漢字が音を正しく表しているとは限らないわけで、真実は更に闇の中。

(更に言うと、「邪馬台」自体が表音ですらなく中国側の造語で、実は
 日本人の誰一人として自国を「邪馬台」と呼ばなかったかもしれない。)

こうなると現存する地名から類推することに意味がなくなってしまうから
あんまりこの可能性は信じたくないな。
979日本@名無史さん:04/06/20 19:22
>>966
邪馬台が(仮に発音にズレがあったとしても)ヤマトに対する当て字である
というのには同意だが、それを根拠に畿内説を推すのには賛成できない。
なぜなら畿内の地名の大半は、北九州からそのまま持ってきたものだから。

たとえば、畿内大和郷の地名を大阪湾(難波津)から右回りに1周してみると、
住吉神社(近くに、額田−日下)−三笠山−春日−笠置山−田原−山田−上山田−
鳥見山−クズ((略))−天ヶ瀬−高取山−天の香具山−ミズマ(水間)−久米−
朝倉−賀美−長谷山−高田−雲梯−三輪−織田−三井−池田−平群−住吉神社

北九州の夜須町の地名を博多湾(那の津)から右周りに1周して並べると、
住吉神社(近くに、野方−草ヶ江)−御笠山−春日−笠置山−田原−山田−上山田−
鳥屋山−クズ(玖珠)−天瀬−鷹取山−香山−ミズマ(三潴)−久留米−
朝倉−加美−長谷山−高田−雲堤−三輪−小田−三井−池田−平群−住吉神社

これは、北九州から大和にある程度大規模な移民があったことを示している。
ただし、倭(和)が大きい倭(和)に発展したという推論は、すごく良いと思う。
(九州の豪族連合国が、西日本一帯を支配するようになったのだから。)

あと、魏志倭人伝には「邪馬台では鉄を使っている」とあるが、鉄器が良く出るのは北九州。
剣玉鏡を埋葬するのも北九州、東征と南征をして西日本を統一できるのも北九州、
畿内銅鐸消滅の謎を説明できるのも北九州説、九州から皇位継承者がやってきて
いきなり天皇に即位した事例が複数あるが、その謎を説明できるのも北九州説。

畿内説を推すには、せめて銅鐸消滅の謎くらいは解明して欲しい。
980日本史@名無しさん:04/06/20 20:59
うわー!よく調べましたね。それとも何か出典があるんですかね?

それとともに、近畿一円も同様な地名類似がありますね。
伊勢神宮なんかも明らかだと思いますが、そう考えると伊勢神宮に実は近代までほとんど
近畿天皇家は参らなかったという事実も興味深いです。

それと、九州に無いと思われる地名として、「とみ」というのがあります。鳥見神社はもとより、
鳥見山、登美の里、登美が丘、登美山・・・。奈良にも大阪にもあります。これは明らかに登
美の長脛彦の「とみ」だと思われますが、どうでしょうか。地名というのは相当寿命が長いよ
うですね。大阪の「登美」は、それぞれかつての河内湖の北岸と南岸に当たるところに位置
しています。
981966:04/06/20 21:43
地名のコピーが意味するのは、大規模移民どころか計画的な遷都だろうと思うのです。
1代か2代という短期間で広島岡山をすっ飛ばして移らないと、地名と位置関係を
精度良くコピーできないだろうから。
ちなみにこれは脳内妄想ですが、
ナニワ←ナノワ←那の和
 ↓    ↓
難波←←ナんワ
(ナンバ)
とか考えると那の津と難波津もつながりそうな。
もちろん「難波」には「海流が速くて・・・」みたいな意味も併せ持つでしょうが。
無学の強みでもうひとつ妄想すると、大阪から九州にコピーした可能性はないかな?

大阪で見つかる鉄器が少ないのは、その後の歴史の表舞台となった近畿では
実用品としての鉄のリサイクルが盛んだったんじゃないかな?と。
人の往来が多い所では埋まるほど長いこと放置されなかったかも。

邪馬台=(表音)やまと(表意)=大和 説の場合、邪馬台が卑弥呼の時代に大きな和であった必要がありますね。
大きさは程度の問題なので博多一帯、九州一帯、西日本一帯のどれでもアリでしょうけど。

大阪からだと東征は滋賀とか伊勢とか、南征は和歌山で熊野か。うーん。
銅鐸消滅の謎?ワカンネェ
982日本史@名無しさん:04/06/20 22:15
つうか大阪→九州なら西征と言われていただろうね
983日本史@名無しさん:04/06/20 22:28
遠見山、高地性集落、望楼の機能にあるが戦略的に重要な地点への外敵の
侵入を早期警戒する軍事目的の監視点であり、防衛軍司令官の直轄であった。
近畿銅鐸国の南北の要所に配備され戦闘専門の部族が警備に当たった。
984日本史@名無しさん:04/06/20 22:30
てな風に考えると神武というのはもろにこの警戒網に引っかかっている。ヤラセ?
985日本史@名無しさん:04/06/20 22:47
つーか、そういった防衛担当部族の伝承を収録したら神武メドレーが浮び上がり
時の皇室に諮ったら、「ウン、こりゃー物部をやっつける大義名分に向いてるぞ。
朕が更に手を加えてやろう。」等という秀才、才媛の天皇達がいたのかも。
986日本@名無史さん:04/06/21 00:50
「邪馬台=やまと」の話なんだが、もともと魏志にも後漢書にも「邪馬台」
なんて書いてないってのは有名な話だと思ってたんだが、違う?
魏志では「邪馬壱(いち)」、
後漢書では「邪馬臺(だい)」。
どちらも「やまと」とは読めない。
「壱」にも「臺」にも「と」という読み方はない。
そこで「壱」は誤字で、「臺」が正しいと決めつけ、
「臺」は発音の同じ「台」に置き換え、
ようやく作ったのが「邪馬台」という架空の国名。
そのうえで「台」は「と」と読めるから「やまと」だ、
と言うことにしているだけでしょ。
ここまでは古田武彦の受け売りです。
「やまいち」が正しいのか、「やまだい」が正しいのか
どちらも正しいのか(時代による国名変化?)
それを判断する能力なんて俺にはないけど、
すくなくとも「邪馬台=やまと」ってのは
強引なこじつけとしか言えないと思うなあ。
だってそんな国名は中国の原典にないんだもん。
987FAQ:04/06/21 01:33
魏志には「邪馬壱(本当はもっと画数が多い字)と書いてある

「現存最古とはいえ、原本の成立よりもはるかに後世の刊本の単なる誤植(版木だから誤刻)」
988FAQ:04/06/21 01:38
> だってそんな国名は中国の原典にないんだもん。

現存の刊本よりもはるかに以前の中国の歴史書に「魏志に邪馬台(表記は違う)と書いてある」
と書かれているから、「単なる誤植」でまず間違いなし。
989日本@名無史さん:04/06/21 02:05
>>986
あのね、「壹」と「壱」さえも本来は別字ですよ。なのに、「台」を批判して「壱」と書くんですか?

それに、後漢書、梁書、隋書、北史では「臺」。魏志だけが「壹」。
魏志も、隋書とかも、「魏略」(該当部分は現存せず)がネタ本なので、
同一の国を指しているとしたら、「壹」は間違い(あるいは意図的変更)と推定できるでしょ。

それに、女王「臺與」(台与)or「壹與」(壱与)のこともあるから、
別の国ではなく、同一の国を指している。つまり、ヤマイチ国なんて無かったんだよ。

確かに、邪馬臺は素直に読めば、ヤマタイ・ヤマダイ・ヤマイ・ヤマドなどで、ヤマトとは読みにくい。
ただね、外来語固有名詞の当て字というのはエゲレス・メリケンくらい発音がズレても普通だし、
ヤマト言葉の方も発音は変化しているから、「ヤマト」の大昔の発音が「ヤマト」とも限らない。
ヤマト国のトヨを意味する、ヤマタイ国のタイヨでも、ヤマド国のドヨでも別に困らない。

更に、中国の歴史書は、邪馬台と大和朝廷を倭の五王などを通じて連続した王朝と見ているしね。
990日本@名無史さん:04/06/21 02:19
出版関係者だが
単なる誤植はよくあるものだ。
気ぃつけてんだけどね
991日本@名無史さん:04/06/21 07:44
>>990
不覚にもワロタ
気ぃつけてください。
992日本史@名無しさん:04/06/21 09:39
>更に、中国の歴史書は、邪馬台と大和朝廷を倭の五王などを通じて連続した王朝と見ているしね

どの本ですかな?詳細キボンヌ
993日本@名無史さん:04/06/21 10:43
>>992
宋書、梁書、晋書、南斉書など。

ただし、当時の中国側が連続した倭と思っていても、
単なる中国側の認識であり、それが必ずしも事実とは限らない。
日本の研究者で大和朝廷と関係ない(九州王朝説)とする人もいる。

しかしながら、書いてある文字を素直に読めば、倭王の勢力は
西に広く、東もある程度あり、海を渡った北の大地にも相当ある。
(大和が首都で西日本全域と東は関東くらいまで。
 東北からは領土外で、朝鮮半島に進出していると解釈可能。)
かなりの大勢力で、当時の日本に、大和朝廷と九州王朝の両方があったとは、
個人的には考えにくい。(九州王朝説の人にも、それに対する言い分はあるだろうが。)

たびたび中国に朝貢して、安東大将軍とか鎮東大将軍とか
征東大将軍とかの官位を貰っている。

卑弥呼の親魏倭王時代から、いわば中国の属国であった倭の独立を、
隋に承認させた(隋は高句麗に苦戦していたので倭国に甘かった)
のが聖徳太子だが、彼も連続した倭国の王として記述されている。

なお大和朝廷側の歴史書は、中国の属国であったことを隠蔽している。
(独立承認の607年が第1回遣隋使とされているが、実は600年にも隋に行っている。)
その隠蔽が大和朝廷と中国に朝貢する王朝は別勢力と思われる主な原因だと思う。
994日本史@名無しさん:04/06/21 12:22
近畿の「海北」は沿海州になるわけだが。それと、論証の基礎として、倭の五王が大和朝廷の先人達だと
いう前提を証明しなければならないが?それに畿内勢力が遙か朝鮮半島に大兵を率いて渡海作戦を連年
遂行する必要が奈辺にあったのかということの論証も必要だし。

それと、旧唐書はどう評価するのかな?
995日本@名無史さん:04/06/21 13:58
1000
996日本@名無史さん:04/06/21 14:05
畿内勢力じゃなくて日本列島勢力もしくは西日本勢力でそ
997日本@名無史さん:04/06/21 15:37
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「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/
999
はい、おつぎの方、1000ですよ。
1000日本@名無史さん:04/06/21 15:52
10011001
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