782 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 15:47:44
この家族で田村王だけが存在感無いな。
単に皇極の夫、天智天武間人の父、のイメージしかない。
舒明紀は即位前紀だけやたら描写が詳しく
あとは付け足しみたいなもんだからな
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
田村皇子にスポットライトが当ったのは、山背大兄王との
皇位継承争いの時だけw
しかもその時でさえ、山背大兄王と蘇我蝦夷の交渉過程の方が
綿密に記述されている始末
その上、死亡記述もシンプルで、ライバルの山背大兄王死亡の方が
遥かに劇的に記述されている
日本書紀の編纂総裁だった舎人親王は田村皇子の男系では孫
母系では曾孫なのに、自分の祖父(曽祖父)より、そのライバルだった
山背大兄王の記述に力を入れている有様
正に哀れなり、舒明天皇(田村皇子)
786 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:03:27
大津京を作った人・・
>>659 >1、額田姫王が采女であっという史料が皆無であること
三采女の一人(薬師寺縁起)『万葉集辞典』中西進編 講談社文庫(P260)
>2、額田姫王が鏡王の娘であること
鏡王は系統も不明であり実在の人物という確証が無い。
>3、氏姓の記述が無く、姫王と尊称される人物は
皇族以外にはあり得ないこと
『日本書記』では、遠智娘ら四人の天智天皇の妃をミメと記しているが、
天武紀では大臣の娘は皆夫人(ミメより上の地位)となっており、
ミメとされた橘娘も天武紀では阿倍夫人と記されている。
『書紀』は天智の妃を天武の妃より低い身分に貶めているのである。
このような身分の改竄を意図的に行っている以上、
天武妃の一人である額田が姫王と尊称されていても、それを鵜呑みにすることはできない。
788 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 14:22:06
そうなのか
>>78 天武の血統が皇統から外れた以降の史料にも
額田王に氏・姓が記述されてない以上
額田姫王は皇族だと言える
また鏡王に関しても、日本紀、続日本紀、万葉集には
出自不詳の皇族が多く記述されているから
鏡王が出自不詳であっても、皇族で無いと言う
証明にはならない
したがって、額田姫王は皇族である
氏・姓を持たない人間は、皇族、僧侶など
例えば藤原朝臣不比等の、藤原が(氏)、朝臣が(姓)、不比等が(名)
しかし額田姫王には、(氏)も(姓)も無く、額田という(名)と
(姫王)という女性皇族を示す尊称だけがある
792 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 13:11:29
あかねさす
793 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 19:40:40
大河ドラマ化しろ!
794 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 23:54:54
ホニャララ
795 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 21:43:36
ンガフフ
796 :
日本@名無史さん:2006/07/22(土) 13:34:39
大河ドラマ化は難しいと思う。諸説拮抗して笑えないところがある。
NHK2時間ドラマ「大化改新」はあったと思うけど、どなたか見た
感想キボンヌ。
797 :
796:2006/07/22(土) 13:40:52
ちなみに、板タイトルの
スーパーヒーローってのはどうよ
皮肉だろ
799 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 08:09:01
そうなん?
800 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 11:24:13
京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、
歴代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになってい
ます。と言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、
聖徳太子の祟りを恐れて慰めるための行事だと分かります。
聖徳太子の正体は用命天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になりま
す。
根拠
「日本書紀」によると、用命2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用命天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると特定できます。
なぜ、聖徳天皇の業績が残らなかったのか。聖徳天皇を暗殺した事実を隠
蔽するためなのです。645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)
は、三韓の使者の挨拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)
と中臣鎌足(新羅の武王)によって殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られ
てしまったのです。
大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてしまいました。
中大兄皇子は祖国復興のために、日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。
801 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 20:38:10
>スサノオは、黄泉国に行く前に、姉のアマテラスに別れの挨拶をしようと天上に昇る。
>スサノオが天に昇るとき、海は轟きわたり、山も鳴りひびいた。このあまりの猛々しい登場ぶりに、
>アマテラスは、スサノオが国を奪いに来たのかと男の姿で武装してのぞむ。
★日本神話におけるアマテラスとスサノオの関係★
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/1067010993/148-150 古代日本の二大勢力、日向族と出雲族の戦争が、神話に投影されている。
>スサノオの行いがひどかった。
>アマテラスが機殿で神衣を織っているところに、屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を投げ入れるという
>スサノオの暴挙に対し、それまで我慢していたアマテラスもとうとう怒る。
>アマテラスは天の岩屋戸に閉じこもり、世界は暗闇につつまれてしまう。
スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。
802 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 20:56:24
舒明は義慈元年に倭国に派遣された男らしいよ。
天智が余豊なのは確実。
803 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 16:35:06
天皇家はフリーメーソンだった
狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。右左で阿吽の形になってい
る。
古代のイスラエルは北王国ヨセフと南王国ユダの二つに分裂していて、ヨセ
フ王国の紋章が一角獣(ユニコーン)であり、ユダ王国の紋章が獅子である。皇
室に伝わる紋章には右に獅子が、左に一角獣(ユニコーン)が描かれ、中央には
12匹の獅子が描かれている。これはイスレエル12支族を表している。
ヨセフ王国の10支族が中央アジアに移った。彼らは肌の色が白いことから
白狄族と呼ばれ、ヘブライ文明の高い技術力で騎馬軍団を組織して中国を制覇
し、秦帝国を築いた。秦帝国滅亡後、北魏を建国した。後に朝鮮に移って百済
王家にとって代わった。
百済王子豊璋と新羅王武王が三韓の挨拶の時に聖徳天皇を殺害し、中大兄皇
子(百済王子豊璋)は一時難波へ逃れ、聖徳太子の子高市皇太子と孫長屋親王を
殺害して、草壁皇子にすり替わったのである。その前は中大兄皇子に化けてい
て、大化の改新の後ずっと、天皇に成れなかったのは聖徳太子の子が天皇に成
ったためで、推古、皇極天皇などの女帝は虚構で、その後に天智天皇となり、
自分の子を文武天皇にしたのある。こうして、日本はフリーメーソンの陰謀に
よって乗っ取られたのです。
804 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:52:35
日本書紀に隠されていた暗号
なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると敏達天皇が亡くなればその皇太子が天皇になる
から、用明天皇の存在が消えてしまうのである。敏達天皇と広姫皇后の皇太子
押坂彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、用明天皇と広子の長男も麻呂
古皇子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じであると言う事は入れ替わった
と言う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇子(朝鮮人)に入れ替わったの
である。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡くなったのか分からない。ま
るで聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子で、皇位
継承第1候補者で天皇になっていた。このことを隠すための嘘の女帝が推古天
皇である。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に卑しめて、天皇になれなかっ
たとするための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮人を妻とする筈がない。
805 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:55:17
朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。
二人は天武天皇の血筋ではない。
天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。
806 :
日本@名無史さん:2006/09/13(水) 22:43:35
天智って慇の厨王の別名らしぜ。かなり評判悪かったんじゃないのかなー
808 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:53:36
でもないよ
809 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 23:47:44
810 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:55:48
>>807 確かにそういう説もあるが、単純に天武と対照的にされたとも考えられる
「天」も「智」も、良いことをしたり徳のあった王におくられるものらしい
811 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 12:06:19
そうけ?
812 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 21:53:09
813 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 21:58:45
>>766 たまにそれ言う奴いるけど、それはまずない。
だったら旧唐書か新唐書にそう書かれているはず。
まあ、唐のほうが断然威張っていたのは間違いないが、政治の主権まで犯されてない。
814 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:21:43
保守
815 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:36:39
816 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 02:38:32
817 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 14:11:56
スレタイが検索で引っかからないから過疎るのかな。
中大兄は大和蘇我勢力の伸張を喜ばない九州宗家の指図でクーデターを起こした
819 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 22:35:07
ほっほ
820 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 20:24:44
屁
821 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 22:08:25
天武天皇のあとを継いだ持統天皇って、中大兄皇子の娘っていう説もあるよね。
だとしたら、天武系から天智系に皇統が移ったのは通説よりもだいぶ前、ということになるね。
822 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 22:24:37
アリの巣コロリってあるじゃん。
蟻の行列にポンと置くと、一瞬ビックリして列が乱れる。
邪魔だなと言わんばかりに迂回する列が出来る。
そのうち好奇心旺盛な一匹がアリの巣コロリに入る。
そいつをマネして何匹も入る。
毒とも知らずにツブツブを運び出す。一匹が一粒づつ。
いつのまにか行列はアリの巣コロリが折り返し地点になる。
黄色い粒と黒い蟻が作り出す模様は綺麗で見てて楽しい。
一匹が一粒づつ、丁寧にせっせと毒の粒を運ぶ。
せっせと、せっせと、せっせと、せっせと。
蟻さんって働き者だなと思う。俺も頑張らなきゃなと思う。
次の日、あれほど沢山いて俺を困らせた蟻が一匹もいない。
ほんとにいない。探してもいない。泣きたくなった。
このレスを見た人は4日後にあなたの大切な人がいなくなるでしょう・・・・
それが嫌ならこのレスを5つの板にコピペしてください。
信じるか信じないかはあなた次第です。
823 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 20:41:14
額田女王は豪族の娘ではないと思う。
十市皇女の扱いから考えたら、皇族の娘である可能性が高い。
天智は十市を大友の正妃=将来の皇后に迎えたし、十市に関する文献は多い。
天武は子どもの時の話があまり無い人で、本当に弟かという説も根強い。
十市皇女と結婚することで高市が天皇になってしまうので、持統は2人の仲を引き裂いたという説もある。
天智は正妻と子どもが作れなかったので、皇族の女性が欲しかったと思う。
中大兄皇子は激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の入鹿を除かなければならぬと決意した。
中大兄皇子には政治がわからぬ。中大兄皇子は、皇極の息子である。
鞠を蹴り、鎌足と遊んで暮して來た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
> 來た
?
826 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:44:03
>821
持統天皇は中大兄皇子(天智天皇)の娘でガチですよ。
そもそも天武天皇には天智天皇の娘が4人も嫁ぎ、
皇太子草壁皇子の正妃もまた天智の娘であったため(元明天皇)、
はっきしいって、天武天皇以降も、
天智の娘や、天智の血を女系で引く皇子が天皇になっています。
光仁天皇の代で天武→天智へ皇統が移行したというのは、あくまでも男系。
その光仁天皇も、天武系の聖武天皇の皇女井上内親王を妃にしているというのが
登位の大きな理由の一つだった(井上内親王はのち失脚させられ、皇子とともに死亡)
828 :
2:2007/06/19(火) 04:50:44
天智の和風諡号
天命開別(アメミコトヒラカスワケ)
いつおくられたのか解からないが何か初代のスメラミコトみたいな感じ
神武即位の年を考えると日本書紀の紀年の基準になってる気がする
829 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 09:50:23
>823
額田王が大海人皇子との間に十市皇女を産んだのは事実だけれども、
天智の愛人になったというのは近年、覆されているよ。
「人妻ゆえに・・・」の例の歌は、万葉集に「皇太子作」と記され、
従来、天智の皇太子(=大海人皇子)が読んだものと解釈されてきたが、
天智の皇太子(=大友皇子)であったと解釈すると、大友皇子がよんだ歌ということになり、
妻の母である額田王に、人妻ではありますが、まだまだおきれいですよ、
とよんだ歌になるそうだ。
額田王が皇族であった可能性はあるが、
この当時、皇族とは五世王までなので、落ちぶれていた皇族もいる。
実際、額田王は天武天皇の皇后にはなれなかったわけだし(当たり前だが)、
仮に皇族であったとしても、有力ではなかったのだろう。
830 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 13:24:13
持統天皇は新羅人に育てられた新羅派だから、天武を裏切ることはなかった
831 :
日本@名無史さん:
巨勢を使って、蘇我氏に山背大兄王暗殺を唆して
世間がこれに反感を抱き始めた頃に、蘇我打倒を実行した
巨勢は勿論、皇子側の工作員なので大化の改新実行において皇子側に加担した
結構、エグイ手をを使う人だったらしいな