倭王権の起源を語ろう

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913日本@名無史さん:04/07/31 00:13
魏に合わせるなら、墓の形態も魏に準拠するだろ。
東日本や出雲よりも早く、畿内の前方後円墳(+吉備の埴輪)体制に組み込まれた


914日本@名無史さん:04/07/31 00:20
>ただ、マキムク遺跡で九州の土器の出土が極端に少ないことから、九州主体を想定
>できないんですよ、
これは、前に以下のようにお答えしています。
「巻向の外来土器の性格は、通常、供献土器か労働力の移動に伴うものと主張されています。
 このような説を採用する場合、外様的地位にある(たとえば東海)の土器が多く、権力中枢である
 九州の土器が少ないのは別段不思議ではありません。
 逆に東海が地域の土器が多いからと言って、東海の勢力が倭王権成立の主導を行ったという学者
 はいません。」
 
>同じ「畿内→初期大和政権断絶」説にしても、まだ、
>吉備の大和侵攻の方が説得力がある。あなたの説は「なぜ北九州が主体でなければ
>ならないのか」の論拠が弱いように思います。当時、北九州が先進地域だから、
>って声高に言われても。
北九州というのは、寺澤氏が提唱された巻向型前方後円墳が畿内に次いで多い地域
であって、庄内期といわれているものも複数あるわけですね。従って、この時代あ
るいは少し前には、北九州と畿内に別の勢力が並列していたとは考えにくく、西日
本については統一的な政治形態ができた、そしてそれがイコール巻向遺跡の誕生と
考えられます。
ご質問は、その主導をどのような勢力が行ったのかということかと推測します。
畿内在地勢力と大和政権の断絶については、前にみなさんがさんざん書いている
とおりです。
この時代に、北九州のほか、王権的なものを誕生させていたと想定される地域には、
さまざまありますが大きなところでは、ご指摘の吉備、四国東部、山陰地方など
でしょうか。
これら勢力の関与を否定しているわけではありません。当然協力があったであろうと
思います。しかし、「主導」したかということになると、なぜ圧倒的な国力と権威を
持つ北九州の「(イト)倭王権」が主導されねばならないのかという根本的な疑問が生じますね。
ちなみに私は、当然のことながら、邪馬台国九州説は、主張しておりません。


915日本@名無史さん:04/07/31 00:21
>ただ、マキムク遺跡で九州の土器の出土が極端に少ないことから、九州主体を想定
>できないんですよ、
これは、前に以下のようにお答えしています。
「巻向の外来土器の性格は、通常、供献土器か労働力の移動に伴うものと主張されています。
 このような説を採用する場合、外様的地位にある(たとえば東海)の土器が多く、権力中枢である
 九州の土器が少ないのは別段不思議ではありません。
 逆に東海が地域の土器が多いからと言って、東海の勢力が倭王権成立の主導を行ったという学者
 はいません。」
 
>同じ「畿内→初期大和政権断絶」説にしても、まだ、
>吉備の大和侵攻の方が説得力がある。あなたの説は「なぜ北九州が主体でなければ
>ならないのか」の論拠が弱いように思います。当時、北九州が先進地域だから、
>って声高に言われても。
北九州というのは、寺澤氏が提唱された巻向型前方後円墳が畿内に次いで多い地域
であって、庄内期といわれているものも複数あるわけですね。従って、この時代あ
るいは少し前には、北九州と畿内に別の勢力が並列していたとは考えにくく、西日
本については統一的な政治形態ができた、そしてそれがイコール巻向遺跡の誕生と
考えられます。
ご質問は、その主導をどのような勢力が行ったのかということかと推測します。
畿内在地勢力と大和政権の断絶については、前にみなさんがさんざん書いている
とおりです。
この時代に、北九州のほか、王権的なものを誕生させていたと想定される地域には、
さまざまありますが大きなところでは、ご指摘の吉備、四国東部、山陰地方など
でしょうか。
これら勢力の関与を否定しているわけではありません。当然協力があったであろうと
思います。しかし、「主導」したかということになると、なぜ圧倒的な国力と権威を
持つ北九州の「(イト)倭王権」が主導されねばならないのかという根本的な疑問が生じますね。
ちなみに私は、当然のことながら、邪馬台国九州説は、主張しておりません。


916日本@名無史さん:04/07/31 00:21
まず樋口康隆なんてまともな学者じゃない、論じるに値しない。
彼の説は噴飯もので誰も相手にしていないし
今では電波説となり、価値のなくなった意見を唱えている(いた)。





917日本@名無史さん:04/07/31 00:23

1、畿内・九州並列説
 (a)畿内が併呑
 (b)九州が併呑
 (c)最後まで独立・争い
2、九州→畿内説
 (a)九州本家もその後連続して存在
 (b)東遷説
 (c)その後九州が衰退説
3、畿内→九州説
 
918:04/08/01 21:06
さきほど教育テレビで紹介されていた
映像に驚愕した。
今、奈良国立博物館というようなとこで
新羅の黄金文化の展示をしてるらしいのだが
北方騎馬民族の影響を受け成立したとされる
新羅の黄金文化の金冠。
その冠には日本古代王権のシンボルの一つでもある
マガ玉が鈴なりに!
919日本@名無史さん:04/08/02 06:08
>>918
有名な話だ。もちろん日本産
920日本@名無史さん:04/08/02 07:08
>>918
「新羅も百済も、皆、倭を大国で珍しい物が多いとして、
倭を敬仰し、常に通使・往来している(隋書・倭国伝」」

新羅の伝記には倭人が新羅の王となった伝説もあり、その逆に
新羅の人が倭に「渡り来たりつ」ことも古事記に書かれている。
もともと同じ倭人の居住地域から分かれて別国になったわけだから
不思議じゃないですよ。

921日本@名無史さん:04/08/08 16:52
それは本当ですか?
あの新羅のマガ玉は日本製?
だとすると金自体も日本製では。
たしかに新羅には金脈がないので
黄金文化を支えた金は他からもたらされたと言ってました。
922天之御名無主:04/08/08 19:46
>>新羅の黄金文化の金冠。
>>その冠には日本古代王権のシンボルの一つでもある
>>マガ玉が鈴なりに

つまり新羅は倭に鉄を輸出、対価を勾玉で受けていた。すなわち鉄鉱鉱山乃至は
産地は新羅の権力下にあった。確か、秦韓といわれた頃に経営権を得たのじゃな
かったっけ。
923日本@名無史さん:04/08/08 21:51
新羅はローマ人の国ですから、黄金文化なのは当然
924日本@名無史さん:04/08/11 23:33
ここには西都厨はこないな。
925日本@名無史さん:04/08/14 09:26
926日本@名無史さん:04/08/17 09:45
ww
927日本@名無史さん:04/09/09 05:40
新羅王の傍系ってこと?
928日本@名無史さん:04/09/09 08:53
↑なにが?
929日本@名無史さん:04/10/01 21:59:56
包茎
930日本@名無史さん:04/10/02 14:37:54
こだわるとこ、見ると、最近まで悩んでいたんでは
931日本@名無史さん:04/10/23 22:43:20
金官加羅から来た傭兵隊長なんだろ。
932日本@名無史さん:04/10/23 23:35:03
万世一系ではなく、王朝が交代してるというのは確実なんでしょうが、そこで疑問。
何故滅ぼした前王朝の君主も「天皇」だった事にして系譜を繋げる必要があるのか?
つまり応神が仲哀を滅ぼしたのなら、応神が初代天皇と書けばいいだけ、別に仲哀「天皇」にする必要は無い。
いくら万世一系といっても、オオクニヌシとかニギハヤヒといった大和朝廷以前に畿内の王だった
存在は記述されているのだから、何故応神以前の王朝もそれと同じ扱いにならないのか?
933日本@名無史さん:04/10/25 04:33:03
>>931
誰の説?
934日本@名無史さん:04/11/07 12:55:10
仲哀は応神が継承した王権の先代の王者だから天皇扱いになったんじゃないの?
935日本@名無史さん:04/11/10 23:15:24
仲哀なんて大王は実在しないんだが・・・
936日本@名無史さん:04/11/10 23:33:08
応神は金官加羅から来た傭兵隊長
937日本@名無史さん:04/11/10 23:55:18
神武〜仲哀が全部実在していないとしたら
記紀の筆者は現在で言えばノーベル文学賞もらえてるなw
神武から決死8代まではあやしいが、少なくとも
モデルとなる人物はいたと思う。
938 ◆DQR3XSYjuU :04/11/10 23:55:46
939937:04/11/11 00:03:32
ニギハヤヒやオオク二ヌシの国が畿内にあったことは事実だが、
次第に畿内各地の部族の力が台頭してきたので、王は共同で
擁立する体制に移行したというのが真実に近いと思う。
それが神武〜欠史8代まで。10代天皇の崇神天皇の時代に
おそらく世襲制に移行したと考えられる。そして崇神王朝の時代に
九州の邪馬台国と合併して西日本全域に渡る統治権をえた。
仲哀から応神への移行は、神功皇后が邪馬台国の一派であり
皇統が畿内崇神系から邪馬台国系へ移行したことをあらわしている。
なので三輪から河内に王朝が移ったし、宇佐神宮に、比売大神=卑弥呼と
応神天皇、神功皇后が祭られていて、道鏡事件の際宇佐神宮にいった。
継体天皇は薄くではあるが応神天皇の血をひいている。
940日本@名無史さん:04/11/27 13:13:50
饒速日に国を返すべき
941日本@名無史さん:04/11/27 18:50:32
小説ですが「倭王の末裔」を読みました。
説としても小説としても非常につまらなかったです。
騎馬民族征服説も強引だし、登場人物も中途半端だし。
空想古代小説なら「火怨」のほうがずっとまし。
942日本@名無史さん:04/12/03 11:28:52
とりあえず今の天皇家は継体天皇の子孫。
単なる福井の豪族の子孫ってなだけ。
天孫降臨もなんの関係もないw
943日本@名無史さん:04/12/04 06:06:24
福井じゃなくて滋賀県だよ
944日本@名無史さん:04/12/05 17:07:43
天叢雲剣って銅剣?鉄剣?
鉄剣だった出雲安来の大成古墳からでた素環頭大刀
みたいなものだったのではと想像してしまうのは
私だけか?
945日本@名無史さん:04/12/06 13:08:33
天叢雲剣は、一尺五寸にちと余り、握りは柄頭を含めて一拳半、
刀身は両刃で笹の葉っぱの如き姿、鉄剣で柄まで共金である。
握りには麻布を巻いて持ち易くした形跡があり、
柄頭には手貫緒を通したと思われる小穴もある。
946日本@名無史さん:04/12/06 16:43:26
天皇は福井出身だったんだ。朝鮮系って聴いてたからちょっと安心しますた。さんくす
947日本@名無史さん:04/12/26 09:15:31
福井出身ってゆっか、傍系皇族が越方面に勢力伸ばしただけだよ。
948日本@名無史さん:04/12/26 09:37:47
継体は福井の在日オヤジだよ。
日本海を越えて渡ってきた朝鮮人の末裔。
949日本@名無史さん:04/12/26 22:17:38
福井じゃなくて近江だから滋賀県。近江を中心に北は越前、南は尾張まで勢力があった。
仮に皇族じゃなかったとしてもただのおっさんとはいえないだろ。
(今は皇族説みとめるのが学界の趨勢だと思うけど)
950日本@名無史さん:05/01/09 09:52:07
滋賀県が母親の出身実家の支配地だっけ
951日本@名無史さん:05/01/11 16:35:32
そうじゃなくて母親の実家が福井県。滋賀県は父親の実家。
952日本@名無史さん:05/01/23 22:12:25
嫁さんの実家が愛知県?
953日本@名無史さん:05/02/10 17:10:42
このときの尾張家って、熱田神宮と関係あるんだろか?
954日本@名無史さん:05/02/11 02:02:46
むろん大有り。ヤマトタケルの嫁さんのミヤズヒメは
尾張連の祖先の一人。尾張連氏は継体の嫁さんの実家。
955日本@名無史さん:05/02/12 18:23:04
このスレまだあったのか!
956日本@名無史さん:05/02/12 19:56:57
Japanese Apricot
957日本@名無史さん:05/02/24 00:46:45
958日本@名無史さん:05/03/11 15:32:12
932、937の問題提起は、核心だと思う。
しかし欠史八代は議論しようがないだろう。創作と考えるしかない。
するとそれ以前の神武も、モデルはあるにせよ創作の部分が大きいと思われる。
問題は、崇神、垂仁、景行が創作なのかどうか?
崇神陵、景行陵の造営は、4世紀前半にうまくあてはまるのか?
河内王朝が、九州から畿内に攻め上がる構図は神武東征と重なっている。
河内王朝に倒される忍熊皇子は、三輪王朝の最後の王だったのか?
959日本@名無史さん:05/03/11 16:32:28
神武説話に何らかの史実の反映を見るなら、別に「九州の勢力の移動」に拘らなくてもよい。
考古学者が主張しだした吉備の東征と、九州からのスタートは矛盾しない。
九州から来た小グループが吉備からの人的援助で東征したのなら、両方が成立する。

案外、神武(のモデルグループ)は九州から追い出された負け組だったんじゃないかと思う。
それなりの身分はあっただろうが、亡命者でなければ、安芸や吉備で時間かけすぎだ。
地盤がなかったことの証拠だと思う。
960日本@名無史さん:2005/03/31(木) 19:03:59
安芸や吉備で時間かけたところが実話っぽい
961日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:40:50
>>958
>しかし欠史八代は議論しようがないだろう。創作と考えるしかない。

この辺りは全く意味不明。
欠史だから議論のしようがないというのは分かるが、なぜそれが
「創作と考えるしかない」になるのか。
創作ならもっと色々書くだろ。【神武東征】みたいに。
逆に伝承が無かったからこそ何も記述しなかったんだろうし、記紀編纂者の
歴史家としての矜恃が伺えるのでは?
962日本@名無史さん
俺の妄想
東征には数世代かかった。
この辺りの詳しい経緯は記紀編纂の時にはよく分からなくなっていた。
つまりどの代で東征がどこまで進んだかという詳しい進捗度は分からなくなっていた。
だから神武に東征の役割を割り振り、崇神にそれを安定させる役割を割り振り、その間に8代を適当に挟み込んだ。
あるいは本当に8代だったのかもしれない。(直系かどうかはともかく)
とにかく東征が完了したのは崇神の代で、それ以前の詳しい経緯は記紀編纂の時にはよく分からなくなっていた。