■◆最初の天皇はどうやって天皇になったか◆■

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889日本@名無史さん:2005/07/06(水) 01:53:36
実在するよ。
890日本@名無史さん:2005/07/06(水) 02:00:13
>>888
>ヤマトタケルは実在すんの?
しません。
891日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:21:04
ヤマトタケル伝承は存在する。
しかし過去の人間は過去の歴史の中にしか存在しないわけだから
ヤマトタケルが存在したといってもそんなに間違いではない。
892日本@名無史さん:2005/07/06(水) 22:24:13

落ち着いて自分の書いたもん読み直してみなさい。
893日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:28:34
読んだよ
894891:2005/08/08(月) 03:49:36
>>893
誰だよ、もまえはw
895日本@名無史さん:2005/08/08(月) 04:06:54
>>894

>>891>>894=ヤマトタケル
>>893=ヤマトタケル伝承
896891=894:2005/08/10(水) 05:43:21
>>893=>>895
意味がわからん。もれはもまえではない。
897世界平和を願い続ける地球市民☆:2005/08/11(木) 18:54:14

社民党に愛と平和の一票を!!


民主党も自民党も改憲派です!!!

地球市民の皆さん!  忘れてはいけません!  真の護憲派平和主義政党は社民党だけです!

民主党も自民党も改憲派です!!!


民主党もその本質は自民党と同じ平和憲法を破壊する反動右翼政党です!!

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今回の選挙では社民党の議席が無くなってしまう危険性がかなり大きいのです!!



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愛と平和の尊さを忘れていない地球市民のみんな!! 社民党に一票を!!
898日本@名無史さん:2005/08/20(土) 07:27:31
◆山口県田布施町麻郷の大室さん
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)
についてお話します。
そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、
田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ
かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、
しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から
なかったが本質は、

A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から
麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? 

B本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。

その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の大室家)は1800年頃から始まり、
文政時代に初代大室家当主が死去(系図には大室家初代某の父は麻郷某と
いうかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目大室文右衛門が家督を
継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、
大室家の家系図が整備された。文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。
子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の
息子大室弥兵衛(1813年6月14日〜1879年)が文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日〜1903年2月1日)
と結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を
継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し
2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)

(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)


899日本@名無史さん:2005/08/20(土) 07:28:12
Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。
地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に
京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明〜1887年4月24日)
と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)
と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは
長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に
戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。
この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。
(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。
1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)




900日本@名無史さん:2005/08/20(土) 07:29:53
>>その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。
長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。
大谷(興正寺)昭坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)
長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。
(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)1855年1月?頃
(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。
スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)
地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。
1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、
スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)
(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。
文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。
大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった)
そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。
1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は
三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常に
かわいがって日々をすごしたという。(1863年8月〜9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。
1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。

901日本@名無史さん:2005/08/20(土) 07:31:07
1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに
行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。
弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。
この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を
麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し
松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)
この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。
麻郷村の人間が手分けして探した。
(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを
受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、
遂に行方を白状しなかったという。)
そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)は
このころ大室寅助と改名し一時、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため
俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は
田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が
上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、
麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが
岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、
二本松の島津屋敷に入った。
902日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:06:55
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。

「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。

九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。

ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。



http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/



171
903日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:11:40
しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し
亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。
西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、
田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。
それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と
書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ)
1867年11月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し
兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの
五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。)
11月13日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の
巨船にのって西宮に上陸。(1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、
山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)11月25日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に
分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した。


904日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:12:11
先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。
大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような倒幕軍の
進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて
「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)
(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。
このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという
のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。
その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。
1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。
1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が
京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の
某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。
旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。
この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。)
慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。
15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。
905日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:17:00
最初の天皇は白村江で唐・新羅連合軍に
大和朝廷が屈したあと、地上戦に突入して
大和を占拠されそして唐の属国として
天皇が擁立された。
906日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:18:58
で、結局まとめると?
907日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:28:29
万世一系って実際ありえる?
908日本@名無史さん:2005/08/20(土) 18:00:56
>>861
ベスト新書
「天皇家はなぜ続いたのか」
梅澤 恵美子著
と言う本があるで、読んでみ。

909日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:21:38
>>861
馬子が推古殺さなかったっけ
910日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:34:24
推古じゃなくて崇峻だよ。
911日本@名無史さん:2005/08/26(金) 16:15:31
>>907
継体以降は少なくとも血のつながりはあると思うな。世界中の首長や国家元首、その他全ての
支配層の家系として最古なのは間違いない。
912日本@名無史さん:2005/08/27(土) 05:33:56
>>907
>万世一系って実際ありえる?
ありえません。今の天皇と中世の天皇と古代の天皇は、
貴方や私が、それぞれの時代の天皇と血がつながっている
程度のつながりと同等程度しか有りません。DNAなどでの
検証は事実上は不可能だし、検査したとしても、それ以上の
結果は求められないでしょう。常識的には、天皇の血統なんて
代物は、この世には存在しません。

もっともファンタジーとしてなら、なんでもありです。
イエスが処女から生まれて処刑されてから蘇るのと同じです。
麻原が蓮華座組んで空中浮遊ができたりするレベルのお伽噺です。
金正日が生まれた時に地球全体が祝福して奇跡が起きまくったとか
いう北朝鮮の教科書レベルのヨタ話です。
913日本@名無史さん:2005/08/29(月) 22:40:56
>貴方や私が、それぞれの時代の天皇と血がつながっている
>程度のつながりと同等程度しか有りません。

世代数は同じなんだから当たり前だと思うが。
それだけつながってたら十分だろ。
914日本@名無史さん:2005/08/30(火) 05:21:29
ようするに数世代前から日本に住んでる家系の者なら
誰が天皇になっても同じ程度の正当性があるということだ
915日本@名無史さん:2005/08/30(火) 20:31:09
皇族じゃなきゃダメだろ。
916日本@名無史さん:2005/08/30(火) 20:43:38
俺は皇帝になりたいんや!
917日本@名無史さん:2005/08/30(火) 20:59:26
万世一系なんて現実には有り得ない
世界のどの国の歴史にもない
古事記、日本書紀などで万世一系をうたったもんだから、
ツジツマあわせに歴史を捏造、最初から狂ってる
明治以降は狂った歴史を狂ったように宣揚しものだから国全体が狂った
事実に基づいた歴史に作り変えないと、いずれ国が思想的に破綻する
御用歴史学者の罪は重い
918:2005/08/30(火) 21:03:07
>>912
余には貴殿の論を打ち崩せるものがある。皇統は萬世一系に続くのだ。
919:2005/08/30(火) 21:07:12
>>917
皇統は萬世一系に続いている。これは万年経っても皇統は倒すことはできない。
皇統は金甌無欠であり、日本の天皇にラスト・エンペラーという語は存在しない。
920日本@名無史さん:2005/08/30(火) 21:09:39
>>1

初代天皇ってユダヤ人じゃないのか。
921日本@名無史さん:2005/09/27(火) 20:55:38 0
>>1
おそらくクジ引きだろう。
天皇なんて、神社の氏子総代みたいなものだから。
922日本@名無史さん:2005/10/04(火) 12:35:16
やっぱりクジ引きだよね
923日本@名無史さん:2005/10/04(火) 13:13:25
人類の代表として必然から存在するのだよ。
924日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:19:40
中国の秦という地名が最南端。
中学の地図にも載ってるよ。
シルクロードを渡ってね。>1
925日本@名無史さん:2005/10/26(水) 09:55:46
皇統は萬世一系
926日本@名無史さん:2005/11/07(月) 00:33:37
皇統は萬世萬系
927日本@名無史さん:2005/11/07(月) 01:07:15
ロト6買って当てた成金つうわけねえから、
周囲を支配ないし代表する存在ではあったんだろうな。
萬世一系って、ちゃんと後継ぎを確保して記録さえ怠らなければ
どこの家庭でも可能だろ。まあどこかでキノコみたいににょきにょき
地面から出てきたような奴ならムリだけど。
928日本@名無史さん:2005/11/10(木) 11:33:24
↑その通り
929日本@名無史さん:2005/11/11(金) 20:06:00
実は‥

ここだけの話‥   北 鮮の金 日も万世一系なんだってさ
930日本@名無しさん:2005/11/11(金) 20:19:15
万世でなくて、二世(ニセ)だけれどね。
931日本@名無史さん:2005/11/11(金) 20:48:38
>>921
神社の氏子総代を籤引きで決める神社って、お前の住む地区はどうなってるんだ?(笑)
932日本@名無史さん:2005/11/11(金) 21:14:09
古代は後継ぎを神託で決めたりもしてた。
籤引きってのはほんとにあった。
皇學館でならったよ。
933日本@名無史さん:2005/11/11(金) 21:17:42
神主と同じで、代々やるもんだよ。
934日本@名無史さん:2005/11/21(月) 00:43:13
最初の天皇は、天智が死んでから、壬申の乱を起こして、即位した。
これが最初の天皇、天武である。
935日本@名無史さん:2005/11/21(月) 11:27:06
皇統は万世マンコ
936日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:11:11
>>935
やめてください
937日本@名無史さん:2005/12/10(土) 02:00:09
938ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY
     //
   _//
/ ||_ノ          __________________
\/// ̄\      /
 |> <_> \     | 我々の要求は、沖縄県における最大規模の大図書館の建設だ。
 く\___|    <
 |∇     \   | 明日宮内庁を爆破する。
  \__/       \
    |≧||≦ ̄|       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

天皇制と文明論 〜恐るべき国民統制のカラクリ〜
天皇制の実質的な地位は、明治政府の意図した絶対的権力に基づく国家思想そのもので
あり、社会整備や、教育現場における最高権力であった。しかしながら、その時代背景
には、権力者が独占的に政治と資本を支配し、その結果、国民の無権利や、不平等格差
が非難され、政治家への暴行、及び暗殺事件が多発していたことからも示されるように、
天皇制絶対主義という位置づけがなされたのである。
さらに、日本が軍事国家として巨大化していくうちに、天皇制絶対主義はこれとは違うもう
ひとつの様相を有してきた。それが世界でも有名な、植民地支配の象徴である。日本国民
はそれまでの不平等格差を政治家や天皇に向けるのではなく、侵略することによって解消
し、それこそ子供だけでなく大人までもが、天皇制の意義を見出すようになったのである。
世紀の大混乱の中で支持された天皇制絶対主義とその思想文学は、現代においても侵略的
意義(琉球民族とアイヌ民族の国家的侵略)の組み込まれた大和民族のアイデンティティー
そのものであり、他民族圧殺という民主主義プロパガンダを脈々と流しつづけているのである。