おっさんさんへ
スレまたぎになります。
私もレヴィ経由です。そして、レヴィ的(つまり方法論的)でなければ使う意味がないと思います。
彼と私の絆というよりも、彼が常にそういった振る舞いを選択するだけの話です。
閑話休題。
日本では、血縁や地縁などという固定的な特性よりも、事実性が原理として選択されることの方が多いのです。
内縁の妻を(実際の夫婦関係)を手続き上の妻(法的な夫婦関係)と同じように認める。などいくらでも例をあげられるで
しょう。
プラグマティズム的ということができると思います。なぜ、的なのかというとプラグマティズムという主義でさえ場合によっ
ては棄却して原理主義的にふるまうことを選択したりもするからです。
実際的、実用的といった方がいいかもしれません。
なぜ、西洋(主にヨーロッパ)では正しい説明こそが説明なのかを考えると、日本が見えてくるかもしれません。
聖書(ロゴス)があったから。というのが端的な答えなのでしょう。聖書という説明の体系があったからこそ、その体系
から抜け出て説明するためには論理という手続きが必要だった。そう考えると辻褄が合います。(ああ日本的)
我々にはすべてを説明しつくすような体系はありませんでした。というよりも、説明しつくすような必要がなかったの
かもしれません。目の前に犬がいれば、犬だと考えておく。
素朴理論で解決がつくならそれはそれでよい。地球が回ってようと、お天道さんが回ってようと、関係ない。
(えっと、天の道を行くわけだから天動説って考えもありって考えていたわけですね。)
もちろん、こういった行き方(方法論)はシステムが大きくなればなるほど問題を引き起こします。
何に合わせるのか(適合の対象)が機会的(都合によって)になり、その結果、利己的目的によって行為が選択され
がちになるので本来の役割を果たさないことが多くなるからです。
だから、日本では仕事では原則主義というか、職人気質を尊ぶ。技術主義を尊ぶ。という態度をとってきたのだと
思います。(きちんとバランスをとっていた。としか考えられない。社会が回るという基準がきちんとわが国にはずっと
あったと考えた方がまさに合理的だし、論理的。)
真面目に議論しているようで、糞スレ
4 :
おっさん:2007/07/11(水) 18:16:18 ID:qb/zTPA8
>712 「あ」さんの「説明というものは合理的であればよい」論を検討する その1
「あ」さんの意見を検討する前提として、まず「論理的」「合理的」という基本的な概念について確認しておきたいと思います。
《「論理的」について》
これは、「あ」さんが定義していますね。
「一貫した内容を、根拠を示して(つまり筋道)表現する。ぐらいのこと」
「筋道を使って表現するということは、形式論理に準拠すること」
ここで、「論理的」であることの条件をおさえると
・一貫した内容であること
・根拠を示していること=つまり筋道があること=形式論理に準拠すること
「ぐらいのこと」ですから、それほど厳密な話ではないと思いますが、疑問があります。
・根拠を示すこと=筋道があること=形式論理に準拠することとは、ならないでしょう。
・形式論理は命題間の形式的な関係を問題にすることで、「根拠を示すこと」は内容的な問題が絡みます。
また、「筋道」は形式論理よりも広い概念だと思います。
そこで、「論理的」な表現とは、「根拠を示し筋道を通して表現すること。その際、形式論理を重視する。」
「ぐらいのこと」でどうでしょうか。
5 :
おっさん:2007/07/11(水) 18:17:30 ID:qb/zTPA8
>712 「あ」さんの「説明というものは合理的であればよい」論を検討する その2
《「合理的」について》
「あ」さんの論を構成するためには、最も重要な概念だと思います。
が、これがちょっとやっかいです。
「あ」さんの文を引用しながら、検討してみます。
○「日本人は論理的よりも合理的な説明を求めている」
「合理的」とは日本人にだけ適用される特殊な概念なのか。それとも、一般的な概念で、日本的「合理性」、フランス的「合理性」、アフリカ的「合理性」などという使い方をする概念なのか。引用文では前者のように読めてしまうが。
○「行き方をわかりやすく知りたいというニーズに対して、行き方を正確に教えるサービスは非合理的です。」
・コミュニケーションの場で相手のわかりやすく知りたいというニーズに応えること=合理的
・上記のような場において正確に教えること=非合理的
ここから、次のようなことが言えるでしょうか。
・具体的な場に応じた表現の適切さ=「合理的」
特定の相手の特定のニーズに適切に応えること
・具体的な場からは独立した内容の正しさ=「論理的」
一般的、普遍的な正しさを求めること
○「日本人は非合理的だなんていう話もあったけど、あれは大間違い。人のところを少し掃除しておくというのは実は社会的なニーズに対してのとてもすぐれた解であった。その非合理的というの実は「非個人主義的」ということだったのだ。」
・日本人の合理性の例=「人のところを少し掃除しておく」=社会的なニーズに応えること
・「非合理的」=「非個人主義」(という見方)→「合理的」=「個人主義」(という見方)
これは、近代ヨーロッパ的な合理性であり、日本的な合理性ではない、ということかな?
○僕なりに整理してみます。
・一般的な意味での「合理的」(「論理的」に対する概念)
「論理的」…一般的普遍的な正しさを求めること。
正確さが重要。
「合理的」…具体的な場(特定の状況、特定の相手、特定のニーズ、特定の民族や言語)に適切に応じること。
わかりやすさが重要。
整理していただきありがとうございます。
その整理で異議はありません。
一つつけたすなら
西洋の合理的っていうのはやはり契約説的なのだと思います。
だから個人主義的なにおいがしているのではないでしょうか。
それは合理的の裏側に必ず理性的な判断をするに違いない主体としての個人というものが見え隠れしています。
(だからこそ論理という道具が有効だっていうことですよね。)
一方に日本の合理的は実際的・実利的・実用的です。
うまくいくのが一番正しいと考えることです。(実際、我々はこう考えてますよね。だからどちらかというと結果オーライ
ぎみです。)
ちなみに大字林では
ごうり‐てき〔ガフリ‐〕【合理的】
「ごうりてき」を大辞林でも検索する
[形動]
1 道理や論理にかなっているさま。「―な自然界の法則」
2 むだなく能率的であるさま。「―な処置」
どっちもありみたいな書き方になってます。ということは日本ではどちらでも使われてるのでしょう。
ただ、わたしは英語圏では1しかないような気がします。
ra・tion・al・i・ty[ rnlti ]
[名]
1 [U]合理性, 純理性;道理をわきまえていること;良識;理性の働き, 推理, 推論.
2 ((通例-ties))合理的見解[行動], 理性的活動.
ですからねえ。
7 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/11(水) 22:35:16 ID:26miisN7
>>717 おっちゃん
「あ」のストロースなんて、まるでトンデモです。
ストロースとは、一つのオリエンタリズム(サイード)です。
すなわち”西洋”のための/からの「未開」に他なりません。
ストロースの構造とは、ブルバキのヴェイユの群論による構築です。
西洋中心主義を撃つのに彼は数学を使いました。
位相の変換によって構造の普遍性を数学(の普遍性)によって裏付けたのですね。
私はストロース自身がある種の周縁であったと思います。それが大きなモチーフに
なっていると考えています。穿った見方をすれば、彼は中心に至る方便として未開を
利用したのだと思います。結果、彼はパリ大学です。
私がストロースに見出す可能性の中心(w)とは、数学に他なりません。
彼は、『反』パッチワークです。ストロースは数学のおかげでソーカル批判を免れています。
彼の数学援用はプロパーからおすみつきをもらったんです。
しかし、彼はその数学のためにデータを改竄したしたようです。
ソーカル批判というのは、そんなことはどうでもいいんですね。所詮、彼らは演繹体系における
論理実証主義において真偽判定を行うだけです。
我々の「現場」というのは常に「反」数学です。
数学という言語による記述とは、その時点で既に多くのものを捨てています。
数学とは捨てることで達成=利用されるものだし、数学の意義とは捨てさせるところ
だと思います。
ストロースの意味とは数学です。それを出さずに何もありません。
所詮、「あ」スペックとはそういうものです。
我々はストロースによって、数学の限界と同時に可能性の中心を見出します。
数学の持つ普遍性は麻薬のような魅力であって、同時に一つの狂気です。
私たちの社会的諸関係を数学によって記述することの可能性/不可能性とは何か。
そのあたりに「あ」はまるで触れませんね。阿呆だからです。彼は常により阿呆に
向かって叫ぶ意識を持ちます。それを小学校スペックと呼びます。
西洋を撃つということは一種の西洋思想です。いくらでもあります。
ストロースによって初めて数学が用いられました。そこがすべてですよね。
8 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/11(水) 22:37:28 ID:26miisN7
「論理」と「合理」を分ける議論
それは 論 理 以外の何ものもでもない。
さて、英語から検討しようか、「あ」の馬鹿ww
9 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/11(水) 23:03:21 ID:26miisN7
ほんま、お前はどこまでもパッチワークでの思いつき
rational とは「数学」なんだよ。そこから立ち上げないで何を勝手な妄想を
してるんだ?w
>西洋の合理的っていうのはやはり契約説的なのだと思います。
お前、こんなのばっかww
辞書を引くけど何も分かってない。
英語を必ず出すけど、まるで分かってない。
小学校ではこういう騙しが
合 理 的 =実際的・実利的・実用的
なんだろうねw
10 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/11(水) 23:09:50 ID:26miisN7
おっちゃん
論と人を分けるのは賛成です。常にそういう立場です。
「あ」も稀に何か言う。理解できることだけで意味はないが。
他は単にトンデモか騙し、嘘、妄言
そういうレアケースで 人 を正当化できない。
愛するということ。
アウシュビッツということ。
革命ということ。
肉親であること。
生きること。
一つお聞きしたいんですが、「全的」と言った、あなたの意味を
最深部で教えてもらえませんか。
11 :
おっさん:2007/07/11(水) 23:21:34 ID:qb/zTPA8
>712 「あ」さんの「説明というものは合理的であればよい」論を検討する その3
道順の説明について
例A「ここは○○です。左の道を300メートル進むと酒屋さんがあります。○○商店です。 そこの角を右へ折れて100メートル行くと大きな通りへ出ます。○○通りです。その通りを左に向かってまっすぐ進めばありますよ。」
例B「左へ行って、○○商店で右に回って、○○通りに出て左まっすぐ」
「あ」さんの考え
例A…論理的だが非合理的。正確。
例B…非論理的だが合理的。わかりやすい。
「合理的」…道順を尋ねる相手のニーズ=わかりやすい説明
(これが日本的「合理性」)
○例Aは「論理的」で例Bは「非論理的」か?
どちらが「論理的」な文か、ちょっと僕には判断できかねます。
「あ」さんがそう判断するのは、論理的であると「足し算」的になるという観念があるからではないでしょうか?
もしそうだとすれば、論理的であることと文章の長さを関係ないでしょう。
非論理的な文章でいくらでも長くかけるでしょう。
むしろ、この場合、どこまで詳しく説明するかという問題だと思います。
詳しいほど論理的とはなりません。この例の場合、どちらが論理的かを示す例にはならないと思います。
12 :
おっさん:2007/07/11(水) 23:26:33 ID:qb/zTPA8
(つづき)
○説明にとって必要なものは「わかりやすい」ことか?
例Aが例Bよりも詳しい説明であるのは確かです。
説明が必要以上に詳しい場合、わかりにくい。
たずねた人が説明された内容をわからなければならない。これらも認められます。
文章としては、例Aよりも例Bのほうがわかりやすいでしょう。
しかし、たずねた人が例Aの文章の内容を理解したにもかかわらず道に迷った場合、その説明はわかりやすくてよかったと言えるでしょうか。
もちろん、それはまずい説明だったのです。
説明にとってこの場合、何より必要なのは正確さです。
正確さとは「現地」にことばがいかに正しく対応しているかなのです。
例えば、右に折れてからの100メートルの間に何本もの大きな通りがあり、通りの名前を発見しにくい場合、
100メートルという距離の情報は重要になります。
例Aも例Bも「現地」に正しく対応しているという隠れた前提があって、例Bのほうがわかりやすくてよいと言えるのです。
道をたずねる人の本当の第1のニーズは、正確さです。その上でわかりやすいことです。
どの程度詳しい説明が必要かを決めるのも、まずは正確さです。
複雑な対象を説明する場合、単純なものよりも詳しくなるでしょう。
正確さを犠牲にしない限りにおいて、できるだけ情報を削りわかりやすくしなければならないのです。
○「日本人は論理的よりも合理的な説明を求めている」のか?
説明の「正確さ」は、会話の相手との関係で決まるのではありません。
説明の「正確さ」は、その対象との関係で決まることです。
これは、説明の内容が対象をしっかりと根拠としている、つまり「論理的」ということではないでしょうか。
日本人であっても、道をたずねる場合、まず「正確さ」を求めることには変わりがありません。
つまり「論理的」な説明を求めるのです。
また西欧の人々も、「正確さ」だけではなく、説明の「わかりやすさ」を求めるでしょう。
民族人種に関係なく、説明にとっては、「論理的」で「合理的」であることが必要なのです。
この例からは、以上のことが言えると思います。
13 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/11(水) 23:29:10 ID:26miisN7
「あ」の馬鹿へ
>日本人は<論理的な説明>というものを求めていない。
これには、おっちゃんもこだわっていたんだが、引き算というメタファーで誤魔化すだけだ。
お前な、都合のいいときは組織の駒として働かざるをえない口実を言うくせに、まるで
従ってない。ほんま、馬鹿ウヨまんまw
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/03091202.htm >高次の情緒力と論理的思考力の育成を中心に国語教育を
ま、よくあるバランスを説いているわけだが委員会の流れは「武士道」とか、
トンデモが連呼された。役人の苦労がしのばれる。
このバランス論にさえも、専門家からは「情緒的」だと非難された。
しかし、それでもこのあたりの落としどころだったわけなんだ。
お前が完全否定する根拠を聞きたい。さすがに、そういうことを言ってる馬鹿は
あまりいないと思うんだがね。
もちょっと国家(権力)に従えよw
お前、自称”犬”なんだろwwww
主人が黙れって言ってるのに吠えるなってw
14 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/11(水) 23:32:06 ID:26miisN7
今、気づきました。
おっちゃん、頭が下がります。
私も昔はそういうことをやってました。なつかしい・・・
「全的」な問題だとづくづく思った次第です、すいません。
15 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/11(水) 23:49:01 ID:26miisN7
日本人は論理的でなくて合理的www
ま、それが西洋まんまw
いつまでたっても大和言葉で語らんww
方便としての西洋をまっしぐらに突き進む馬鹿。
そうそうなんだと言うと、いや違うとほざく。
「あ」の問題とは全的な問題なんですよ。
核心は阿呆だということ。もちろん阿呆でも稀に理解可能なことを口にする。
だからといって、阿呆でないことにはならない。もちろん、他のほとんどのトンデモも
正当化されない。
個々の問題ではなく全的な治療の問題だと思ったわけです。。
16 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 00:05:06 ID:TRnPqEYh
さて、ストロース自身は次のように言ってる。
『私が「野生の思考』といっているものは、それによって「他者」を「わたしたち」に
翻訳したり、またその逆をおこなうことができるようなあるコードを作り出すのに
必要な前提や公理の体系であり・・・
私の意図においては、彼らの位置に自分を置こうとする私と、私によって私の位置に
置かれた彼らとの出会いの場であり、理解しようとする努力の結果なのです。」
「教える ー 学ぶ」の転倒(しようとする意志)に同様なものを見出すことができる。
一緒に学ぶとはよく聞く社交辞令である。あるいは、学ばせていただこうとする”教師”
のために賛辞はあるのかもしれない。
しかし、一度たりとも転倒したためしがない。
大村はま はそういう馬鹿なことを言わなかった。
そういうレトリックにひそむ狡猾な逃げ道をふさぐことに矜持を見出したからだ。
決して転倒しない決意を持つ人間だけが、転倒の軌跡にめぐり合うだろう。
単に馬鹿であったなら瞬時にして転倒するもんだ。
そういう転倒は単に転んだだけで、そこからは誰も何も学ばない。
ストロースがなぜ数学で地平を切り開いたか、そこにだけ意味はある。
はま はなぜ転倒「しない」ことに情熱を傾けたのか、そこにだけ意義がある。
そこには、おそらく「全的」な問題があると思うんだけど。
>10
>論と人を分けるのは賛成です。常にそういう立場です。
いや、だってお前さんの振る舞いを見てるととてもそんなふうには見えないよ。
だーって、お前「敵」には何してもいいって立場だろ?
これで何個目の嘘だ?
18 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 00:12:49 ID:TRnPqEYh
砂と砂鉄が混じっている。分けたい。どうすればいいか。
「砂は砂、砂鉄は砂鉄に分けるんだ」
そんなことで解答になるのか。
磁石で砂鉄「だけ」拾え。終了
鈴木「ことばと文化」にも書いてあったこと。
西洋では料理を一種類ずつ平らげる。コース料理で分かること。
日本では一斉に等しく食べていくのが基本(らしい)。
でもな、最初に口にするのは何かって聞いてるんだよ、カス。
>>17 読んでから言え。お前の粘着する問題なんてとっくの昔に終わったことだ。
で、お前は何かされたことの逆恨みからだけで言ってるだけだろ。
まあ、それでもかまわん。とにかく意味のあることで反論罵倒してくれ。
いつも浅い。
19 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 00:19:56 ID:TRnPqEYh
>文化審議会国語分科会国語教育等小委員会の意見のまとめ
情緒「力」って何よww
馬鹿な委員がそういうトンチンカンを言ったからといって
そんな自家撞着を載せてどうすんの。
「情緒」って、『反』力だと思うんだけどね。
どう考えても、そうだとしか感じない。
情緒「力」
これって、西洋まんまw
国語ってこんなのばっか
大和言葉の「力」wなんてもうどこにもないんだろうね。
ほんと奇怪な国語w 鈍い情緒力w
20 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 00:22:11 ID:TRnPqEYh
軌跡→奇跡
21 :
おっさん:2007/07/12(木) 00:47:43 ID:gUs83yHj
>7 よくわかりません(笑)
昔もそんな話があったような気がします。
僕の記憶にあるのは、
レヴィ・ストロース的な構造というのも、
超越論的な視点(主体?)がなければ構成されないものだ、みたいなこと。
たぶん、そんなことと関係があるのでしょう。
「全的」の意味ですね。
具体的な話をまずしてみますね。
「ごんぎつね」に次のような文章があります。
ごんは、「おねんぶつがあるんだな。」と思いながら、いどのそばでしゃがんでいました。
しばらくすると・・・
(場面が変わる)
ごんは、おねんぶつがすむまで、いどのそばにしゃがんでいました。
これは、兵十が加助に誰かがくりやまつたけをくれるという話をしている、
それをきいたごんが二人の後をつけてきた場面の文章です。
この文章をどう読むか。
鍛えた子供たちなら次のようなことを言うでしょう。
・村のことをよく知っていたから、ごんはお念仏があるとわかったんだ。
・お念仏がすむまで待ったのは、どうしても兵十の話が聞きたかったんだ。
・兵十がくりやまつたけをくれたのが自分だと気が付いてくれるかもしれないと
期待したんだと思う。
・井戸のそばでしゃがんでいたのは、見つからないようにしていたんだと思う。
・村人に見つかったら殺されてしまうから。
・兵十のお母さんの葬式の時もおじぞうさんのかげにかくれてたよね。
・それでも兵十の話を聞きたかったんだ。
これらは、ごんの「気持ち」を想像したことになります。
ただいい加減な想像ではありません。
物語のこれまでの内容、ここに書かれた言葉をもとにしたものです。
・繰り返される表現に注意する。
・繰り返される行動に注意する。
・行動の意味を考える。
・関係のありそうなことを思い出す。
こうしたことを読みの観点として学び、鍛えられていれば、
以上のようなことは子供たちでも書き込み、発表できます。
ただ「全的」な読みとしては、まだ足りないと思います。
そこで、僕は子供たちにたずねます。
「お念仏って、どのくらいの時間かかると思う?」
子供は考えますがもちろんわかりません。
「2時間くらいもかかったそうです。」
2時間、井戸のそばでしゃがんでいた姿を想像させます。
(小学校では動作化ということもさせたりします。)
先ほど読み取ったごんの気持ちがリアルに感じられるはずです。
兵十への思いが言葉として理解するだけでなく、強度や質感をもって感じられるはずです。
そして、そんなごんへの自分の思いが喚起されるはずです。
さらに表現的な音読を鍛えていれば、この後の音読を工夫するはずです。
「全的に」作品の言葉に触発され、反応する、ということをそんなふうに考えています。
茂木の「クオリア」という考え方が気になるということがわかってもらえるでしょうか?
昔からなされてきた読解の授業です。
僕にとってもいい機会ですので、理屈めいたことも考え、
その内、書けたら書いててみたいと思います。
猫ってのはね、対話において人の反応を極めて浅く見積もってるのさ。
で、その見積もりになぜだか絶対の自信を持ってんの。
それを邪魔されると、怒る切れる喚く罵倒する決め付ける、という流れで
壊れていくんだよ。だいたいパターンが見えた。
>お前の粘着する問題なんてとっくの昔に終わったことだ。
そりゃお前は終わらせたいだろ。
でも、お前はまだ小学校教師氏に謝罪してないもん。
おれは終わらせるつもりはないね。まあ、氏の方はもう拘ってはいないだろうけど。
>お前は何かされたことの逆恨みからだけで言ってるだけだろ。
根拠は?
お前はさ、もう少し自分を見つめなおさないと駄目。
前スレ>677 を読み直すように。
>18-20
ほらほら、また独り言を言っている。やばくなる前兆だな。
おっさん、邪魔して悪いね。
>>11 >>12 たいへん丁寧な論考ありがとうございます。
問題点を指摘していただき目の覚める思いです。
簡単にまとめると
・道順の説明の目的は目的地に着くこと。その目的を達成できない説明は<よい説明>ではない。
→つまり、相手が何を知っていて、何を知らないかがわからないと説明の目的は達成できない。
・説明の<正確さ>とは説明の対象との合致である。
→写像。…でも、その対象との合致を誰が検討するのでしょう。対象の構造が話者(筆者)と聞き手(読者)
の間に共有されていなければ検討不能ではないでしょうか?
道順の説明でいえば、結局、本当の道路ではなく、<地図>というもう一つの写像との照応なのではない
でしょうか?地図という概念が共有できない場合。つれていくという行為しか目的は達しえないかもしれま
せん。
つまり、この道順における<地図>の役割をしているのが形式論理なのではないでしょうか?
対象を分析するコードと対象を再構築させるコードを提供すること。
FAXやモールス通信の原理です。
ところが、日本では「ことば」の中そのようなコードを普遍化させているでしょうか?
あるのは道順でいえば、目的地までの時間的な経過による変化の順序のような順序性。因果の順序。
役割とその目的というような対応。(これらはまさに物語性に収斂されそうですが。)
数学的な構造性がコード化されてるようにはどうも実感としてもてないでいます。
たとえば、植物を説明する場合。根、茎、葉、花、実という部分の検討からはじめ、それがどのような形態
をもつのかを説明することで、種類と名称を調べることができるはずです。それは分類(集合)という思考です。
果たして一般的にこのような分類という方法が日本語の場合なりたっているのでしょうか?
(注、根のない植物は、根がなくてと表現できる。根も茎も葉も花もなく実が胞子であるもの。胞子の色は緑で
ある。といえばそれは菌類であり、緑カビではないかということだ。)
説明の合理性とは相手のニーズに答えること合目的性だとすれば、論理性はやはり相手によりけりということ
になるのではないでしょうか?
とりあえず、説明の手順というものを中心に説明を組み立てるのが論理的な説明であると勝手に定義してしまいます。
相手のことは考えません。コードは共有されているものとします。1+1=2なのです。
そして、相手が理解するという目的を中心に説明を進める。(組み立てることはできない。計画は役に立たないから。)
相手に何を知っているかを確かめながら、相手の理解できる情報を与えていく。ことばでだめなら、地図を書く、それ
でもだめなら連れて行く。そのような説明の仕方を合理的説明であると勝手に定義してしまいます。
あきらかにこの二つは同じものさしの上にならんでいないような気がします。
(少なくとも、おっさんさんが私にした説明は合理的であろうとしていました。猫のそれが論理的であろうとするのとは
違って。)
やっとここでブリコラージュと論理と合理が出会うわけですが…ここでちょっと力つきてます。藁。
私は合理的が達成して見出されるのが論理性なのではないかと思うのです。相手と対象をつなぎあわせる作業が
説明であるなら、相手の構造と対象の構造との間に新たな構造ができ、その構造のしくみが論理ではないかと。
つくるときにその論理が事前に予測できるのかといわれれば、その現場にいるわしには「わからん。できるときも、
あれば、できないときもある。相手次第。」としか答えられません。
だからこそ、相手から引き出す引き算の説明が大事になるのではないでしょうか。
○○って知ってる。○○ってこうなるよね。これもそうだとしたら、どうなると思う?
このような対話を使って説明をする/させること。
計算のやり方を「することだけで説明すること」
1から10までの図を示し、それぞれの形を覚える。
1+1は1の形と1の形をあわせてみる。
どの数の形になったのかくらべる。
それはなんという形か。
それが足し算の答え。
意味が引き算されています。意味を教えることも大事ですが、できるようになってからでも教えられます。
逆に答えがわからないのに計算の意味が成立するでしょうか?
教える―学ぶモデルとは、一方で合理的に行動するであろう人間ということが教える側に設定されており、
片方で合理も論理も知ったことではないという学ぶ側が設定されていることだと思うのです。
自覚―無自覚と照応させてもいいかもしれません。
ごんぎつね とてもすぐれた作品なのですが、どうも今の小学生に読ませる話かは この頃、ちょっと疑問です。
わたしらのときには忍者ごっことかチャンバラごっことか時代劇で描かれる侍の時代というもののイメージがある
程度ありました。(それはあくまでの想像の産物であるし、TVによる作られたイメージですが、百姓、町民、悪徳
商人、お代官さま、みたいな。)
百姓といわれて?になる現在、果たしてごんぎつねが読めるテキストなのか?一つの花もそうですね。
おかあさんの木もそうだと思うのです。
あの戦争を具体化するためには、返ってありもしないファンタジーの中の戦争・戦・闘争を読み取る経験をしなければ
ならなくなってます。
感情移入という方法で作品を理解しようとするならそうなるしかありません。
文化遺産を伝えるとい側面も教育にはあるのでごんぎつねを読むことに意味はないとはいいませんが、ずいぶん
準備をしないと<説明で終わる>ことが考えられます。
ごんぎつねに到達する読書計画というものが必要かもしれません。
ちなみに私はごんと兵十との距離(心理的そして、物理的)をものさしにしてこの話を読ませています。
投げ込む。置く。影法師をふみふみ。土間。など距離を表すことばがたくさんあるのでそれで読み取らせます。
あまり形象にこだわることはやめています。美しさや残酷さのようなものは、一人一人の感性に任せっぱなしです。
感想ででてくれば、すばらしい読みだねえとよい点を上げて「目のつけどころ」を指導しますが…。
それは作文の方で指導しちゃおうというのが現在の思惑です。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 08:43:58 ID:5RUNkahb
29 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:10:23 ID:gUs83yHj
「あ」さんの「説明というものは合理的であればよい」論を検討する その4
その3では、「あ」さんの道順の説明という例を検討した範囲での暫定的な結論を出しました。
そこで「あ」さんからそれに対する反論がありました。
これから書こうと思っていた方向と「あ」さんの反論が関連しています。
予定を変更して、「あ」さんの反論の方を検討してみたいと思います。
先に取り上げた「あ」さんの「道順」の話で僕が思い出したのは、この間も話題になっていた一般意味論の「地図は現地ではない」という原理的な命題でした。
このフレーズを少し使ってみます。
(このフレーズしか憶えていません。とうてい以下は一般意味論的な論ではとは言えませんが)
30 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:12:44 ID:gUs83yHj
次の「あ」さんの文章から検討してみます。
>説明の<正確さ>とは説明の対象との合致である。
→写像。…でも、その対象との合致を誰が検討するのでしょう。
対象の構造が話者(筆者)と聞き手(読者)の間に共有されていなければ検討不能ではないでしょうか?
道順の説明でいえば、結局、本当の道路ではなく、<地図>というもう一つの写像との照応なのではないでしょうか?
地図という概念が共有できない場合。つれていくという行為しか目的は達しえないかもしれません。
まず、少し基本的な用語・概念を整理してみましょう。
○「地図は現地ではない」という命題をもとに
・現地=実在する町や道=「対象」
「あ」さんが「その対象との合致を…」「対象の構造」という時の「対象」
・地図=説明における言葉・「説明」
31 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:16:50 ID:gUs83yHj
○「写像」という言葉をもとに
「写像」は、一般的な言葉、物理学的な用語、数学的な用語それぞれで指示しているものが違っています。
その違いが便利です。国語辞典で確認します。
1.対象物をあるがままに写して描きだす事。
「対象物」=現地 写して描き出す事(写像)=説明という行為
(指示しているもの=描き出す行為・道順問題における行為としての説明)
2.物体から出た光線が鏡やレンズなどによって反射または屈折されたのち、集合して再びつくられる像。
「物体」=現地 「像」(写像)=地図・説明
(指示しているもの=像・地図・表現としての説明)
3.数学で、二つの集合A,Bがあって、Aの各要素aにBの一つの要素bを対応させる規則fをAからBへの写像という。
「A」=現地 「B」=地図・説明 対応させる規則(写像)=対応規則
(指示しているもの=規則・道順問題における現地と説明の対応規則)
○基本的な範疇
基本的な用語、また範疇を整理しておきます。
・「話し手」−「聞き手」 「説明」−「理解」
・「現地・対象」−《対応規則・言語規則》−「地図・説明」
32 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:19:11 ID:gUs83yHj
ここから、先の「あ」さんの文章の検討です。
○「あ」さんの言う「写像」、「<地図>もう一つの写像」とは?
最初の「写像」は、「説明」(一般意味論での「地図」)、
あるいは「現地と説明とを対応させる行為=説明すること」だと思います。
では、「もう一つの写像」とは?
一般意味論の命題に言う「地図」は「説明」を指しますが、
「あ」さんは「説明」という写像とは別に「もう一つ」の写像を立て<地図>と言っています。
さて、「地図(説明)」とは別の<地図>とは?
33 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:27:05 ID:gUs83yHj
○話し手と聞き手が共有するのは「対象の構造」か?
「対象の構造が話者(筆者)と聞き手(読者)の間に共有されていなければ」、これはそのまま了解するわけにはいきません。
「対象」と主体(人間)は区別されなければなりません。
「対象の構造」を有しているのは「対象」であって、主体(人間)がそれを有することはできません。
主体(人間)は、それを有するのではなく、それについて知るのです。
現地の構造を話し手や聞き手が共に有するのではなく、現地の構造についての知識を共に有する、と考えなければなりません。
それでは、話し手の説明を聞き手が理解する、
これは二人が共有する「対象・現地の構造」についての知識に照応させながら行われるのでしょうか?
これは、おかしい。
説明以前に現地についての知識が共有されているならば、「道順を説明する」必要はなくなってしまいます。
「道順を説明する」という状況の設定では、
当然一方はそうした知識を持ち、もう一方は持っていない、と考えるべきでしょう。
二人が共有すべきものとして、「対象(現地)の構造」の知識を持ち出すことは、
この例のような設定にとっては、ナンセンスなことになってしまいます。
もしも、聞き手にもいくらかの知識があって、それが説明と理解に関与する条件になるならば、
そのことは明示しそれを前提として例をあげなければなりません。
そうなると、二人が共有する「<地図>というもう一つの写像」、その「地図の概念」とは、
「現地の構造」の知識のような「対象・現地」と聞き手・話し手との関係とは、別なところに求めなければなりません。
34 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:32:09 ID:gUs83yHj
○話し手と聞き手が共有すべきものは?
二人が共有すべき「<地図>というもう一つの写像」「地図の概念」は、「対象・現地」と話し手・聞き手との関係にではなく、
「対象・現地」と「説明・地図」との関係、そしてその関係を繰り込んだ「説明・地図」の中にあると考えます。
一方の知識を一方への伝達することを可能にするもの、つまり話し手の説明と聞き手の理解を媒介するものです。
それは、対象の要素(またその構造)と説明の要素(またその構造)との「対応規則」などを含めた「言語規則」(日本語のコード)でしょう。
「○○商店」という語と実物とを対応させられること、語と語との連なる文を理解できること、
二人が共有するこうした言語規則を媒介として、説明・理解が成立します。
そうした言語規則を「地図」と呼ぶのは不適切です。
「説明・言葉」と「言語規則」とは区別し、「地図」は「説明・言葉」に対応すべきです。
二人が共有すべきものを「地図」と呼ぶことは、「説明・言葉」と「言語規則」との区別をあいまいにします。
35 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:34:12 ID:gUs83yHj
次は、以下の「あ」さんの文章を検討していきます。
>つまり、この道順における<地図>の役割をしているのが形式論理なのではないでしょうか?
対象を分析するコードと対象を再構築させるコードを提供すること。
FAXやモールス通信の原理です。
対象の構造にたいする知識であっていいと思いますが、道とか交差点など構造を形成するものやその配置を指し示す
方法その構造といういいかたならわかっていただけるでしょうか。
そして、それは我々の中にあっては、地図と形に収斂されていると思います。
そして、肝心なのは構造というものは、入れ替え可能だということです。上と下という構造で考えれば、上と下に何を入
れても上と下という構造は何も変わりません。
地図という構造について知っていれば、たとえ現地を知らなくても、説明は理解可能です。
37 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:41:37 ID:gUs83yHj
○話し手と聞き手が共有するのは「形式論理」か?
「あ」さんは、これまで話し手と聞き手が共有すべき「対象の構造」=<地図>を、次のように言い換えます。
<地図>=形式論理=「対象・現地」を分析するコードと対象を再構築させるコード
=FAXやモールス信号の原理
ここで提示されているのは、先ほど僕が言った「言語規則」に相当する概念です。
つまり、<地図>の内容が「対象の構造」(現地)から言語の中のコードに変わっているのです。
僕が「言語規則」として考える内容は、僕自身うまく整理できませんが、
文法論的な規則、論理的な規則、意味論的な規則などがあると思います。
「形式論理」もその中に含まれると思いますが、それはごく一部です。
「形式論理」は、「対象」を分析するコードそのものにはなならにと思います。
「分析」が「形式論理」に規制されることはあるでしょう。
しかし、「形式論理」だけで内容的な検討を抜きに「分析」は成り立ちません。
例えば、「○○商店」という内容的な選択は、対象の分析のでしょうが、
その選択のコードは「形式論理」ではありません。
また、そうした対象の分析は、言語内部ではなく、認識の領域で考えるべきでしょう。
もちろん、認識が言語によって拘束されていることは見逃せませんが。
対象の再構築が「説明」を意味するなら、そのためのコードは、ここに含めてもいいと思います。
しかし、それも「形式論理」だけによるものではありません。
さらに、例としてFAXやモールス信号を出していますが、これらそれ自体にコード性はありますが、
記号以前の全く信号的なものです。例としては不適切でしょう。
38 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:44:12 ID:gUs83yHj
今度は、次の文章です。
>ところが、日本では「ことば」の中そのようなコードを普遍化させているでしょうか?
あるのは道順でいえば、目的地までの時間的な経過による変化の順序のような順序性。
因果の順序。役割とその目的というような対応。
(これらはまさに物語性に収斂されそうですが。)
39 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:46:50 ID:gUs83yHj
「あ」さんの反論の論理展開を確認しておきましょう。
「あ」さんの意図は、以下の僕の主張を否定することであると推察します。
・民族・言語によらず「(道順の)説明」で最も大切なことは対象との対応の「正確さ」である。
「あ」さんのここまでの論は、次のように要約されると思います。
そうした「正確さ」が保障されるためには、
話し手と聞き手とが「対象」と「説明」を対応させるためのコードとして「形式論理」が共有していなければならない。
これを踏まえて、「日本では『ことば』の中にそのようなコードを普遍化させているのでしょうか?」
となるわけですね。
40 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:49:17 ID:gUs83yHj
では、これまで僕が論じてきたことを要約します。
・話し手と聞き手の間で、説明と理解が成立するためには、「言語規則」の共有が必要である。
・「言語規則」は、その一部として「形式論理」を含むがもっと多くのものを含んでいる。
これらを前回論じた「正確さ」と結びつけると、「形式論理」も含んだ「言語規則」によって、
「説明」の「正確さ」は支えられる。
「形式論理」だけで支えられるわけではない。
そして、これは日本語だけではなく言語一般に言えることである。
もうおわかりだと思いますが、日本語では「形式論理」があまり普遍化(?)されていなくても、
僕の主張は否定されません。
日本語にも当てはまる言語一般のレベルで論を展開しているからです。
日本語の「説明」だけが「正確さ」よりも「わかりやすさ」を求めるには納得できません。
日本語、日本的な文化の特質はある、と思います。
しかし、今までのところ、「あ」さんの概念のシステムでは、
それを論理的・合理的に説明できていないと思います。
41 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:53:43 ID:gUs83yHj
日本語に普遍化していないと言う「形式論理」が
今度は「数学的な構造性」「分類(集合)という思考」に言い換えられています。
こうした言い換えも問題があります。
「形式論理」は現代化され、数学化されたと思いますが、
それも「数学的な構造」の一部にすぎないのではないでしょうか。
そして、それは、日本語に普遍化していないと言えるでしょうか?
日本人の数学の能力は低いのでしょうか?
また、「分類(集合)という思考」と述べていますが、
牧野さんの仕事などはどう評価したらよいのでしょうか?
ここでは、わざと日本語と日本人、個人の仕事を短絡させています。
そうした短絡によって論を展開させていくことが「あ」さんには少なくないと思います。
例えば、ここで「分類(集合)という思考」とありますが、先ほど「分析」のところでも述べましたが、
言語レベルの問題と認識レベルの問題とは区別すべきだと思います。
やはり、「あ」さんの概念システムに問題があるように思うのですが。
(その4終了です)
42 :
おっさん:2007/07/12(木) 18:59:26 ID:gUs83yHj
>>36 「構造」的な認識力、「構造」についての知識・理解力のことだと思いますが。
そうなるとやはり認識レベルの問題です。
日本語のコードという言語的レベルの問題ではありません。
あーそこか。わしは形式論理学こそ数学に先立つと思ってるんだ。
数学が先じゃなく、形式論理学の方が先みたいに考えてる。
ちなみに辞書的にはこうらしい。
けいしき‐ろんりがく【形式論理学】
「けいしきろんりがく」を大辞林でも検索する
正しい思考の構造および過程を、思考の内容を捨象してもっぱらその形式・
法則の面から取り扱う学問。一般に、アリストテレスに始まり中世を通じて演
繹(えんえき)的論理学の体系としてまとめられた伝統的論理学をさすが、現
代では記号論理学をもさす。
wiki
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E7%90%86%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6 形式論理的な思考こそ数学の本質だと思ってる。数学的な構造とは、そもそも形式論理学
によってもたらされたものだ。と考えてるのだ。そのあたりはもうちょっとつめるべき。
飛躍するにしても段階が必要なのだろう。
それともスキーマ(ちょっとあいまいで今一日本語化されてないような気がするが)に
統一した方がいいだろうか。これだと地図という比喩も重なってくる。
あーそこもか、わしは言語のレベルの問題は認識のレベルの問題の合一だと思ってる。
これは思ってる。
その両者を切り離す、分断する線が見つからない。
それはわしの思い込みかもしれない。でもことばと認識というものは常に同時に成り立つと思っている。
信号(サイン)は言語ではないというのは、わしにはごめん、同意しかねる。
それを劣った言語と考えることも。
あと牧野氏の仕事は専門家としての仕事ではないでしょうか?わしがいいたいのはそのような集合論的
な論理のようなものが一般化しているだろうか?ということなのです。
45 :
おっさん:2007/07/12(木) 20:37:36 ID:gUs83yHj
数学と形式論理のどちらが先か、ということではないんです。
伝統的な形式論理学は、数学化された記号論理学に吸収されました。
そして、それは、様々な数学的な構造の一部にすぎないということを言っているのです。
だから形式論理学を数学的な構造に言い換えるにそれなりの説明を要すると思います。
もし先という問題を考えるにしても歴史的な事実のことなのか発生論的なことなのか、
考えなければ意味がありません。
それから言語と認識はあきらかに混同はできません。
しゃべれない赤ちゃんにも認識はありますし、動物にも認識はあります。
認識が言語に拘束される、というのも言語と認識を区別するからこそ言えることなのです。
大きな肉と小さな肉があったら大きな肉を選ぶ。
これは言語がなくとも可能な認識です。
認識の構造と言語の構造と同一ならば言語学と認知心理学は同一になってしまします。
46 :
おっさん:2007/07/12(木) 20:45:25 ID:gUs83yHj
モールス信号は、記号ではありませんし、言語ではありません。
モールス信号を言語音などに対応させているだけです。
翻訳された言語音の連なりは、もう言語です。
モールス符号自体には意味はありません。
47 :
おっさん:2007/07/12(木) 20:47:57 ID:gUs83yHj
モールス信号に対応するのは言語音ではなく文字ですね。
パロールだって、いくつかの音節の連合にすぎませんよ。
そしてその音節の結びつきも恣意的なものにすぎません。
違いは自然言語か人工言語がということでしかないと思います。
モールス信号が文字との対応を恣意的に設計されコードとして人工なものだとしての
ある現象がそこにないものを表すという意味ではすでに言語であると考えます。
それと認識というものの捉えがどうもちがうのかもしれません。
私は認識というのは
にん‐しき【認識】
[名]スル
1 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。
2 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、
事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。
だと思います。
カエルは認識をしているのか?知覚しているだけではないのか?知覚と認識は同じもの
なのか?どうも違うような気がします。
数学の根っこにある抽象化そしてその関係の簡便な記述ということは形式化なしにはなしえないと
思いますが?
あと認識で、大きな肉も小さな肉も選ばれないことがあります。牛は選びません。
つまり、どんな知覚に基づいて食物を選別しているのかということが問題なのです。
なぜ牛は肉を食べず、狼は草を食べないのか?
それが知覚そのものの違いに左右されているのだとしたら、つまり感覚器官の成り立ちによって
決定されているのだとしたらそれは認識ではありません。
カエルの目玉は動いているものしか見えないのだそうです。はたしてそれは認識なのでしょうか。
50 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 22:26:48 ID:TRnPqEYh
>>21 「ごんぎつね」はここでも話題になりました。詳しい話をまたお聞かせ下さい。ぜひ
「あ」の馬鹿ということについて
論理的と合理的をことさら区別する意味や意図。
「形式!w」論理と数学の差異にこだわる意味や意図。
認識と言語のレベルを「合一」ですます意味や意図。
それらのすべては単に思いつきなんですね。だから、相手の話でコロコロ変ります。
どうです?論の問題ではなく全的な問題だという私の理解は間違っていますか。
数学が出てくるけど、現代数学において何が根本的に変わったかという核心には触れません。
「形式化の諸問題」とは、そこに見出されるものなんですけど。そうです、『隠喩としての建築』の
ずっと後ろでデタラメなことを足りない頭でムニャムニャしているわけです。
形式論理学、記号論理学、数学
核心において議論すべき問題だと思います。すなわち、基礎とは何か。
そして徹底化の果ては何か。もちろん徹底化(というプロセス)とは論理ですよね。
で、それらの話しと「合理」にこだわる部分はまたもや誤魔化しなのが気になります。
低レベルは自分の頭も足りないものにする危険性があります。相手に合わせないように。
51 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 22:29:01 ID:TRnPqEYh
>数学の根っこにある抽象化
出たw 白痴の妄言
何をどう抽象化するんだよw お前はほんまに阿呆やな。
知らんことは黙った方がいいのが分からんか。
プロセスは論理じゃないだろ。
じゃなければ言語が恣意的な体系にはならない。
犬ということばがあの動物を指し示すのは歴史的な過程(プロセス)や社会的な過程(プロセス)
を経て決定された。そこには論理などはない。出来事があるだけだよ。
プロセスの結果出てきたものは必然にしかみえないというだけだ。
論理はあとから見出される。
副引きで次に何が出るかは確率でしか表すことができない。ガラガラポンという過程にどのような論理が
あって、今出てきた玉の色が決定されたっていうんだい。
分離量 連続量 そもそも1だって抽象化だよ。
そのそのあることがらの関係を関係だけ取り出すというのは抽象化とはいわないのかい?
関数にしろ写像にしろ抽象化しなくちゃ成り立たない。
…とする。ということなしには一つも成立しないのが数学だ。
54 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 22:40:52 ID:TRnPqEYh
>26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 05:45:22 ID:TuxryKu/
> 教える―学ぶモデルとは、一方で合理的に行動するであろう人間ということが教える側に設定されており、
>片方で合理も論理も知ったことではないという学ぶ側が設定されていることだと思うのです。
> 自覚―無自覚と照応させてもいいかもしれません。
ほんと、全く分かっていない。
関係性の問題なんだよ。お前、構造とか分かってるのか。
ソシュールを出すけど、なーんも分かってないw
お前は足りない頭で当方の論を曲解して、しかも援用したな。
ちょっと言っとく。
当方は構造(関係性)に力を意識して加味した。
もちろん「構造と力」wだ。
お前は随分昔の常識さえ知らんようだ。
ほんとスキーマを共有しない人間には通じないんだな。
55 :
おっさん:2007/07/12(木) 22:46:51 ID:gUs83yHj
記号については様々なとり方があるのでおいておきましょう。
信号(最近はモールス符号なんですか)も広義の記号のひとつではあります。
確実に言えるのは、モールス信号は言語ではありません。
言語との対応を考えるなら、文字に相当するものです。
モールス信号の体系の中には文法とか意味とかのコードはありません。
それはアルファベット(だけ)の体系に文法とか意味とかのコードがないのと同じです。
文字の体系=言語の体系ではないですよね。
それと同じです。
恣意性とか自然言語かと、それは私は問題にしていません。
当然、言語もモールス信号も恣意性はあります。
エスペラントは人工ですが言語です。
それらは、ここでの議論に無関係なことです。
認識についても、言語との関係で言っているのです。
言語に対する認識という水準での認識の中には知覚も入ります。
僕が言いたいのは、人間の外部に存在する言語というもので話題と
人間の内部における認識というものの話題とが区別されるべきだ。
こうした概念のシステムを僕は立てた上での議論なのです。
「あ」さんにはそうしたシステムはない、と言っているのです。
そうした概念のシステムに対応した
言語学と認識を扱う心理学などの区別を僕は指摘しました。
また、言語なしでも認識が成立している例も指摘しました。
「あ」さんが言語=認識だと言うならば、それを説明しなければいけません。
その際、知覚など持ち出しても仕方ありません。
あくまで言語と認識との関係で論じなければなりません。
また、僕の出した例について反論できなければなりません。
(僕はそれをやったつもりです。)
56 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 22:50:03 ID:TRnPqEYh
数学基礎論をやり直せ。
お前の思いつきは聞いてない。
数学はそういう抽象化に基礎を持たないことによって飛躍的に発展した。
そんなの常識だろ?なんなら、いろいろ引用しようか?
お前と違って出まかせではないことはもう骨身にしみているだろw
57 :
おっさん:2007/07/12(木) 22:56:08 ID:gUs83yHj
>>55 誤字、文の乱れなど間違いが多々あります。
訂正しながら読んでいただければ助かります。
「あ」さんへ
議論の枠組みとか文脈を踏まえて反論してみてください。
関係ない観点を持ち込んでもそれていきます。
58 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 22:56:47 ID:TRnPqEYh
>そのそのあることがらの関係を関係だけ取り出すというのは抽象化とはいわないのかい?
白痴
数学という演繹体系がたまたま構造の記述に使える言語として機能するということだ。
何かから抽象化されて数学ができているっていう理解は何を根拠にしてるんだ?
59 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 23:05:16 ID:TRnPqEYh
ストロースを読まんで口にする馬鹿は柄谷さえ読まずに援用するw
一つヒントをやろう。
「数学を発展させてきたのは、建築的な厳密さではなく、点や線というような
自然言語あるいは知覚にもとづくあいまいさだったのである。」
(柄谷「隠喩としての建築」p.16)
もちろん、これはユークリッド幾何学の圏内の話しだ。
ユークリッドの「原論」を精読したことがある。それはもう詩集に他ならないと
ほんとに思ったよ。ウィキでも一部は読める。得意の検索ゴーw
さて、そんな数学に「危機」があったよな。で、どうなった?w
60 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 23:13:28 ID:TRnPqEYh
もちろん、フッサールの「危機」とは同じ地平からの反転なんだけどね。
そこにからませたら、面白い論になるよ。これもヒント、その2
おっさんさんへ
知覚と認識は違うというのはとても大切なことじゃないかと思うのですが?
その上で知覚というのは身分けであり、言分けではない。
認識というのは言分けの次元の出来事であると思います。
言語レベルの問題はあきらかに認識レベルの問題なのです。
話しをもどせば、
果たして相手のことを知らないで説明ということは成り立つのかということに
なるのではないでしょうか?つまり論理的説明というものは万人に通じるの
か?
通じない説明を論理的であるということは合理的なことなのか?
そして相手のことを知るということは、果たして論理的な取り組みなのでしょうか?
62 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 23:21:06 ID:TRnPqEYh
リンゴ1個、2個、3個・・
みかん1個、2個、3個・・
そんなことと数学は何の関係もない。
文字を持たない言語でさえ数を表す語はある、概念もあるぞ。
記号化以前の数量概念に関しても実証的研究はある(「脳の学習力」参照)。
自然言語と数学の関係。
そして、それゆえの危機。
離脱による解放としての現代数学。
そしてフッサールの「危機」
63 :
おっさん:2007/07/12(木) 23:32:39 ID:gUs83yHj
厳密な言葉は忘れましたが・・・。
抽象も外部とのつながりのひとつです。
直観という方法も。
そんな外部とのつながりなんて捨てちゃえ、と。
それがヒルベルト(?)の夢、体系内部の無矛盾性。
ところがその夢もゲーデルによって打ち砕かれる。
内部に宿った決定不能な裂け目。
みたいな。
そんな物語を柄谷から聞かされたような気がします。
今の自分には、昔話を思い出すようで懐かしい気さえします。
結局、物語以上に自分の思考する武器になっていません。
数学に関しては、実際のところ、算数の力しかないでしょう。
きっと「猫」さんにとっては、物語ではなく、
思考の問題なんだと思います。
物語ではなく思考の問題として僕にもわかるように教えてください。
「あ」さんの論については、
これでだいたい前提的な議論はし終えたかなと思っているのです。
「あ」さんが本当に問題にしたいのは、
これまでの場所にはないはずなのです。
とりあえず、そこではないよ、という整理をしたかったのです。
64 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 23:35:11 ID:TRnPqEYh
65 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/12(木) 23:38:39 ID:TRnPqEYh
認識・知覚と言語の問題
これは位相が違う。カテゴリーが違う。もう無茶苦茶でんがなって。
言語が認識・知覚とどういう関係にあるかを、まさに隠蔽するトリックとしての
「合一」なんだよな。
言語が知覚や認識をドライブするっていうことでんな。終了。
66 :
おっさん:2007/07/12(木) 23:54:45 ID:gUs83yHj
あのですね、
僕が設定した概念のシステムは
・人間の外部に存在する言語
・人間の内認での認識(知覚、思考など)
というものです。
そしてそれぞれにそれぞれの規則性があると言っているのです。
言語と認識、人間の内と外とで実体的に別物でしょ。
というのがまずあります。
丸山が身分けとか言分けとか言っていますが、
認識が言語にいかに拘束・規制されているか、という話なのです。
一緒なら拘束も何もないのです。
丸山の言う身分けというのは人間の本能的な認識の在り方で、
それが感覚や知覚レベルでもぼくの概念のシステムでは今は全然関問題ありません。
(別の文脈で認識内部の構造などを議論するなら、それは違ってきます)
また、知覚レベルまで言語によって拘束されているというのは
昔から言われていることです。
だからそれに全然反対はしませんよ。
言語と認識とは別物であるにもかかわらず、
「あ」さんは、言語のコードの話が
いつもまにか思考のコードの話になってしまったりするのです。
それは、まずいといっているのです。
別物である言語と認識とが一緒であるとか、
言語のコードと認識のコードが一緒であるとかいうならば、
それを説明しなければなりません。
67 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 00:05:27 ID:IG0CJkCm
>>63 >抽象も外部とのつながりのひとつです。
そうですね。しかし、数学とは無関係です。
外部を抽象化させて数学が出来上がったわけではありません。
ここは正確にいきたいところです。
数学が自然の記述に使えたということは別の問題です。
>直観という方法も。
ユークリッドの定理・公準を読めば分かるんですが、直感で停止です。
そこからの抽象化は何もありません。定理・公準からの演繹は抽象化では
ありません。このあたりを味噌糞にするのには耐えられないんです。
>物語ではなく思考の問題として僕にもわかるように教えてください。
私は自分が分かっていることを分かっているようにしか言えません。
ごめんなさい。ただし、それは「大きな」物語ではなく小さな武器です。
スレタイを意識して言うと、数学って言語の問題なんですね。直観を自然言語に
よって記述することからユークリッドの幾何学は誕生しました。
現代数学は、そのような直観からの離脱によって飛躍しましたね。
外部との関係を一切絶つようなことで救おうとしたんです。
数学は抽象化によって外部とはつながっていません。その逆です。
外部との遮断を徹底させることによって内部で充足しないことを示したのが
ゲーデルです。
それが、例えば自壊とか(外部への)亀裂とかいろいろ暗示するでしょう。
私は思考の武器としてそういうものにヒントをえていることは確かです。
論理に徹底するモチーフもそこに(部分的にであれ)あるのもその通りです。
論理の限界は自壊させることによってもたらされます。外部から撃つのは無理です。
その実例が「あ」の馬鹿です。つくづく論理に徹底しないといけないとおもいませんか?
これは現場でも基本的には同様です。
おっちゃんは、教育においては「全的」を強調されていると思いました。
しかし、言論においては逆に全的なものを避けたいという態度を表明されました。
道徳的「善」が予感されるものは「全的」で
邪悪なものだという道徳的前提を感じる場合は「部分的」なわけです。
私は、意識的にその逆を行っていると言えるかもしれません。
従って予想される以上の反発は当然あるわけです。
善ならば全的であろうとする一つの思考停止への反駁です。
しかも合理的=現実的です。
死刑判決の犯罪者も善き事を行ったはずです。しかし、それは捨象されます。
すなわち抽象化ですよね。全的とは常に抽象化です。何かを捨てています。
捨てる意味とは善悪の彼岸です。
捨てることの意味を自らに、そしてすべての人に問うているつもりです。
そのことから捨てないことの大事さが際立ちます。
捨てることが余儀なくされる限界も見出せるかもしれません。
>論理の限界は自壊させることによってもたらされます。
だからといって、壊れた論理ではじめても仕方がないと思うんだ。
これは猫に言ってんだよ。
69 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 00:37:35 ID:IG0CJkCm
>>66 そういうことですね。そして、それを何度ていねいに長文で繰り返し説いても
いっこうに止まない。ですから、味噌糞だし、全的な問題=馬鹿・白痴の問題だと
なるのです。
それが不適切なら、どう表現するのが適切でしょうか。
部分の問題でしょうか。そう思います。
>「あ」さんが本当に問題にしたいのは、
>これまでの場所にはないはずなのです。
>とりあえず、そこではないよ、という整理をしたかったのです。
彼が保守し、かつそれを隠蔽しようとするもの、その一点に絞っています、
私の関心は。他はどうでもいいことです。正直何も学ぶことはない。
反論が最深部を揺るがすようなものであって欲しいとは思います。
(彼の)小学校の現場におけるハウツーに関しては、私はコメントをしません。
「あえて」しません。されれば、しますが。
そのテクには学ぶことはあるでしょう。ですから、それを開陳することは
それはそれで意味があると思います。
でも、そのテクの正当化にオカルトはいけません。そこが問題です。
よく分からんことは言わなければすむ問題なんですね。しかし、言う。
それは意外と大きな問題だと感じるのです。そして、それは全的な問題では
ないでしょうか。その問題とはテクの有効性より大きな「悪」です。
なぜなら、子どもに伝わるのはその「悪」なのですから。
それは沈潜し、後になってジワジワ出てくるものでしょう。
おっちゃんが、例えば向山に感じているものとパラレルなんじゃーないかなって
思いました。
そしてそして、おっちゃんが吉本や廣松に回帰する(したい)理由もそのあたりから
出てきてるんじゃーないかなって。
最後の方は勝手な思い込みかもしれません。でも、そう思いますよ。。
70 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 00:49:05 ID:IG0CJkCm
おっちゃん
何度か「驚きはしない」という意味のコメントをもらいました。
全くその通りなんです。私は珍奇なものを好みません。
ですから、オーソドックスなもの(もっと言えば勝ち馬に乗る・・)に
できるだけ依拠しようとします。
大勢の方向性にも敏感なつもりだから、けっこうズルイとは思っています。
何度もコードが出てきました。
しかし、ここでは常識が共有されないんですね。例えば、
>>66のようなことは
常識だと思います。それを踏まえて議論したいけど、その常識をグチャグチャにする
ようなところでいつも始まり=終わります。
論理と合理・・・微細にこだわる。
でも、国語と日本語にこだわることはいけないんだって。
こんなのばっか。
さてさて、今現在の展開をうやむやにせず、何らかの楔を打ち込みたい
(んで欲しい)と思います。私には無理でした。力量不足・・すいません。
なお、当方の論に関しては遠慮なくゴンゴン暴言を解放してください。
よろしくお願いします。
と、>22 をうやむやにする猫が申しております。
猫、営業うまいじゃないか。
それは類縁、微妙な違いこそが決定的であるからですよ。
合理的の説明で一番簡単のものは、理に適っている。理屈に合っている。です。ところが理については不問なのです。
郷に入っては郷に従えという教訓があります。理というものは場所、人、時代で違うということでしょう。
論理というものは<普遍>なんです。場所にも、人にも、時代にも縛られない理こそ論理である。
(現在ではそれは科学的思考と呼ばれるわけですね。)
ところが、日本にはこの普遍なものというのがない。というか<変わらないものはない>という無常という概念こそが
普遍なのです。本居の「もののあはれ」はだからこそ普遍的な方法なのだと言いえたのです。
日本人が理と考えるものの中心に日本語があるのは間違いないと思います。
だからこそ、論理的な日本語の構築が必要だ。という主張も間違ってはいないでしょう。一体その場合の論理とは
何をもってくる気なのかです。
数学が論理である。普遍的である。というのは、ルールしかないからです。…とする。というたった一つの階段を引き
抜いてしまえばその体系は作れません。数学は虚構である。と宣言するなら、虚構であるから普遍であるという、普遍
そのものの価値が転倒してしまうでしょう。(転倒させるのが好きな人もいるけど。)
人間は社会的に必要なものを発明し採用し実体化してきました。言語にしても数学にしても貨幣にしても、あきらかに
ルールでしかありません。虚構です。しかし、それは社会の中では社会的実体をもっています。もたせないと困るから
なのですが、じゃあ、その行動は論理的かときかれれば、私は論理ではなくて合理で動いていると答えるのです。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 06:43:09 ID:oHTnxmqa
あ
とにかく
論理
という言葉は認めない
という理にかなわない姿勢を貫く
論理を認めないわけじゃない。
どんな論理なら日本語できちんと表現でき日本語の原則に無理なく当てはまっていくのかについて
考えてるだけ。
西洋的な説明の体系をもってきてそれでよしという気持ちにはならない。なぜなら、それは明治に
一度試みられている。和魂洋才。
そしてその結果もよく知っている。大東亜戦争。
かといって「もののあはれ」じゃ困る。システムが対象となるときそれをなんとかすることばがない。
だからこそ論理の中身にこだわるだけだ。合理は簡単なの合目的性で解決するんだから。プラグマティズム
だ。
科学は基本的に数式を言語とする。だから日本語ではない。寺田寅彦博士の随筆は好きだが、あれが論理
的なのかといわれたら…ちょと違う。記録的なのかもしれない。「茶わんの湯」とか。
そういう問題の立て方なのだ。道具は道具にすぎないとはわしには思えないので。
76 :
おっさん:2007/07/13(金) 07:07:54 ID:TJn9PTOj
「あ」さんは、問題を提起し、主張していますよね。
だから、僕が批判できるのです。
とても価値あることだと思います。
ただ問題が正しく提起されていないように思うんです。
昨日は、その要因として「概念のシステム」をあげました。
今日は、だいぶすっきりしてきました。
例としてあげる知識には、もっと慎重であってもいいと思います。
例えば、宣長については、僕は小林を読んだだけですが、
「無常という概念」の例としてあげるのはためらわれます。
「無常という概念」、これは仏教的な概念ですよね。
「あ」さんの例のあげ方があきらかに間違っているというだけの知識は、
自分にありませんが、ひっかかります。
自説を補強する知は、それを叩かれると逆効果になってしまいます。
そうした知識のあげ方にも結びつくのですが、
観点や論点が移動し論が拡散して、
焦点が見えなくなったり、自己矛盾を起こしたるしているようにも思えます。
一度、自分の主張を、不可欠な概念を絞って簡潔にまとめてみたらどうでしょう。
そして、自前の小さな例、例えば「おーい、お茶」なんかを使って、
緻密に論を展開してみてはどうでしょう。
こうした簡単な例でどれだけのことが語れるか、が大切だと思います。
(ただし、論点はあまり拡散させず)
こうした作業によって、自分の主張が確かになっていくと思います。
また、自分の思考がどれほどのものか検証できます。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 15:47:19 ID:0rjEwpxj
教えてください。
召される、という言葉は悲しみや苦しいみには使わないのですか?
天に召される、と言えばキリスト教では幸せなことですが、
地獄に召される、というような使い方はおかしいですか?
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 16:03:13 ID:p1+kxaZG
国語教師は美しい日本語で喋ってください。
召されるということは招聘する存在が仮定されてます。
で、死後どこへ行くかは神が決めることで、悪魔が決めることではないのです。
だからこそ、地獄へ落とされるという表現になるわけです。
じゃあ悪魔は何をしているのかというと「誘惑」です。
神のいない日本では「行く」と表現しますね。
80 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 22:48:01 ID:IG0CJkCm
「あ」の馬鹿へ
玉勝間
『13 からごゝろ[二五]
漢意(カラゴコロ)とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、
萬の事の善惡是非(ヨサアシサ)を論ひ、物の理リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(カラブミ)の
趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、
同じこと也、そもからぶみをよまぬ 人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國をよしとして、
かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬ れば、おのづからその意(ココロ)世ノ中にゆきわたりて、
人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、
當然理(シカアルベキコトワリ)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そもそも人の心は、
皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなければ、別 (コト)に漢意といふこと、
あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、
のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの國もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、
からぶみにいへるおもむきは、皆かの國人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、
眞(マ)心にあらず、かれが是(ヨシ)とする事、實の是(ヨキ)にはあらず、非(アシ)とすること、
まことの非(アシキ)にあらざるたぐひもおほかれば、善惡是非(ヨサアシサ)に二つなしともいふべからず、
又當然之理(シカアルベキコトワリ)とおもひとりたるすぢも、漢意の當然之理にこそあれ、
實の當然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬ れば、
おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、
さとることの、いとかたきぞかし、』
81 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 22:52:15 ID:IG0CJkCm
「あ」よ、お前が宣長のいう漢意(カラゴコロ)なんだよ。
>我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、
>當然理(シカアルベキコトワリ)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし
ということの意味を考えろ。
論理と合理にこだわる。認識と知覚の差異を妄言で粉飾する。
数学にとらわれ、なおかつそれを否定しようとする。もう、お前の姿が西洋なんだよ。
何一つ日本は残ってない。
でな、お前は宣長の何を読んだ?何を知ってる?
お前の問題とは常に全的な問題なんだ。病名は白痴。症状は知らないこと
分からないことでも平気で垂れる。
82 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:09:03 ID:IG0CJkCm
「あはれ」を身体論から語らない痴呆スペック。
そもそも、自ずと出る嘆息が「あはれ」だろ。
そこからなぜ説かない。
宣長、あるいは「あはれ」と無常はまるで関係ない。
無常とは大陸を教条とした人々が必死に内面化することで達成されたイデオロギー。
お前、小林秀雄を曲解することでしか語れんのか。新潮文庫とか持ってるだろ?
原典に当たれって。沈思黙考しろ。
でな、玉勝間の引用文でも分かるように、宣長はお前のように浅くない。
彼のパラドキシカルな深さと真淵批判の本意を考慮しろ。
宣長の現状肯定とは、「儒」の肯定にも反転する。
しかも、支配的イデオロギーを撃つ。そう、権力とは現状に対して手かせ足かせだからな。
「鈴屋答問録」も参考にしろよw
83 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:18:09 ID:IG0CJkCm
しゃーない、真淵批判とは例えばこれだ
『39 おのれあがたゐの大人のヘをうけしやう[一〇五]
宣長、縣居ノ大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、
その後はたゞ、しばしば書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける、
そのたびたび給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、
いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつととらせけるほどに、
今はのこりすくなくなんなりぬ る、さて古事記の注釋を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、
その上つ巻をば、考へ給へる古言をもて、假字がきにし給へるをも、かし給ひ、又中ツ巻下ツ巻は、
かたはらの訓を改め、所々書キ入レなどをも、てづからし給へる本をも、かし給へりき、古事記傳に、
師の説とて引たるは、多く其本にある事ども也、そもそも此大人、古學の道をひらき給へる御いさをは、
申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら萬葉にちからを
つくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむかへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、
くはしからぬ 事どももおほし、されば道を説(トキ)給へることも、こまかなることしなければ、
大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はしばしいさゝかづゝのたまへるのみ也、
又からごゝろを去(サ)れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、
まれまれにはのこれるなり、』
縣居ノ大人・・得意の検索では難しいか?www
玉勝間は学問に対するエッセーだな。
でもって本居がいいたいのはどの国の人間でも心情というものは似たりよったりなはずだ。
ところが千年も学問によって善いとか悪いとかの基準を作ってくれば、それが当然であり理に
適っていることだと思ってる。そういう考えが中国からやってきたものだということを失念して
しまう。そのような善い悪いという判断を抜きにして物事を見つめることが心情というものを理解
することのはずだが、なかなかそうはいかない。
ってことだぞ。
問題はこの後でじゃあどうやって心情(まごころ)というやつを観察するのかっていう学問の方法
が出てくるわけだ。
でそれが学問であるということは漢意なんじゃないの?というつっこみを基本的には本居は自覚
してたと思うよ。
で結局は新しい歴史教科書の会みたいな話がでてきちゃったりする。
あと…それ真淵批判じゃないぞ。
…きちんと訳してみ。
本居が可哀想だぞ。
流れを読まない書き込みですが、
常用標準中国文字、1年200字、2年450字、3年1000字
4年1550字、5年1900字、6年2100字だそうです。
日本人から見ると凄い詰め込み量で、負担も大きく感じるんだけど、
中国人から見ると実際のところどうなんだろう?周りが漢字だらけだから、
比較的簡単に習得できるのかな?
またそれだけの漢字を覚えるとシャープな脳になりやすいとかあるんだろうか?
多角的視点を持つことが創造性と大いに関係すると思うのだが、、、、その点で言えば、
漢字もたくさん覚えようと思えば、部首による関連づけがキーポイントになる。そして、
その関連付けが創造力を養うことに役立ちそうな、、、。
中国の実情や脳の機能など、、詳しい人教えて。
88 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:31:56 ID:IG0CJkCm
>>76 そのような譲歩構文、あるいは「Yes-But法」では治療どころか自覚症状にも至らないでしょう。
彼は何も提起していませんよ。社交辞令でなければ、彼が提出した「提起」を教えて欲しいです。
私は残念ながら気付きませんでした。
猫よ、本当はキミの上げたかったのは、
「 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事[四]」じゃないのか、これでも万葉批判じゃないぞ。
古文だめ?じゃあ取り上げなきゃいいのに。
90 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:35:18 ID:IG0CJkCm
「あ」の馬鹿
お前の無知と理解力のなさにはホントあきれる。
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~kokikawa/culture4.html >§新古今集及、源氏物語に於ける「もののあわれ」
> 田安宗武や賀茂真淵によって重んずる万葉主義の歌論の重要な見解が主張されたのに対し、荷田在満や本居宣長によって形式技巧を尊重する新古今主義という立場が主張された。
「鈴屋」を読め。引用は面倒だ。
まあ、いい。珍説を垂れろ。きっと、クネクネあたりが擁護してくれるだろうから。
あれも白痴だからどんな妄言もOKだ。営業トークならww
漢字で一番多いのが意味を表す合意や象形ではなく形声文字です。
音記号とその漢字の属を表す部首からできる文字です。
で漢語は膠着言語ではなく孤立語に近いので、頭の中でやってること
は英語圏の人々と同じことです。
日本語は膠着言語なので違った使い方をしています。
92 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:42:39 ID:IG0CJkCm
>>89 そんなハッタリは止めろ。かまわん、どんどんあげろww
『1 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事[四]
からごゝろを清くはなれて、もはら古ヘのこゝろ詞をたづぬるがくもむは、
わが縣居ノ大人よりぞはじまりける、此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、
歌もたゞ古今集よりこなたにのみとゞまりて、萬葉などは、たゞいと物どほく、心も及ばぬ
物として、さらに其歌のよきあしきを思ひ、ふるきちかきをわきまへ、又その詞を、今のおのが物
としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりしことなるを、今はその古ヘ言をおのがものとして、
萬葉ぶりの歌をもよみいで、古ヘぶりの文などをさへ、かきうることとなれるは、もはら此うしのを
しへのいさをにぞ有ける、今の人は、ただおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の
御陰(ミカゲ)によらずといふことなし、又古事記書紀などの、古典(イニシヘノフミ)をうかゞふにも、
漢意(カラゴコロ)にまどはされず、まづもはら古ヘ言を明らめ、古ヘ意によるべきことを、人みなしれるも、
このうしの、萬葉のをしへのみたまにぞありける、そもそもかかるたふとき道を、ひらきそめたるいそしみは、
よにいみしきものなりかし、』
そうだ、その記紀や万葉から演繹されることが大事なんだよ、白痴君w
「古ヘのこゝろ」とはな、「うんうん、気にせず進みなさい、成り行き任せで」
っていうことだと宣長は読んだ。これは常識だと思うけどな。
だから、真淵のように固執する姿勢を批判した(鈴や)。
お前、いつも常識を無視するけど、治療の予定はないのか?w
93 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:49:18 ID:IG0CJkCm
ほんま、手間がかかる阿呆
五万回音読しろ
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/5293/tamakatuma.htm 『(一三)一、やゝもすれば老子の意に流ると思召候こと、御ことわりに侯。
まづ老子の自然をまをすは、眞の自然には候はす、實は儒よりも甚しく誣たる物に候也。
若眞に自然を尊み候はゞ、世中はたとひ如何樣に成行共、成行まゝに任せて有べきことにこそ候へ。
儒の行はるゝも、古への自然のそこなひ行も、皆天地自然のことなるべきに、それをあしとて、
古への自然をしふるは、返りて自然にそむける強ごとに候也。此故に其流をくむもの、
莊周などを始めとして、自然を尊むといひて、其いふこと、することは、皆自然にあらず、
作りごとにて、たゞ世間にたがひて異樣なるを悦び、人の耳目をおどろかすのみ也。
わが神道は大にそれとは異に候て、まづ自然を尊むとまをすことは候はず。世中は、
何ごとも皆神のしわざに候。是第一の安心に候。もし此安心決定せずして、
神のしわざとまをすことを假令の如く思ひ候ては、誠に老子にも流るべく候。
さて何事も皆、神のしわざにて、世中にわろきことゞものあるも、皆惡神のしわざに候へば、
儒佛老などゝまをす道の出來たるも、神のしわざ、天下の人心それにまよひ候も、
又神のしわざに侯。然れば善惡邪正の異こそ候へ。儒も佛も老も、皆ひろくいへば、
其時々の神道也。神には善なるあり、惡なるある故に、其道も時々に善惡ありて行はれ候也。
然れば、後世、國天下を治むるにも、まづは其時の世に害なきことには、古へのやうを用ひて、
隨分に善神の御心にかなふやうに有べく、又儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、
儒を以て治むべし。佛にあらではかなはぬことあらば、佛を以て治むべし。是皆、其時の神道なれば也。
然るにたゞ、ひたすら上古のやうを以て、後世をも治むべきものゝやうに思ふは、人の力を以て、
神の力に勝むとする物にて、あたはざるのみならず、却て其時の神道にそむく物也。是故に神道の行ひとて、
別に一つはなきことゝまをすは、このことに候也。然れども其善惡邪正をわきまへ論ずるときは、
上古の世は惡神あらびずして、人心もよかりし故に、國治まりやすく、萬のこと善神の道のまゝに有し也。
後世は惡神あらびて、上古のまゝにては治まり難く成ぬる也。かくの如く時有て惡神あらび候へば、
善神の御力にも叶はぬことあるは、神代に其證明らか也。然れば人の力にはいよ/\叶はぬわざなれば、
せむかたなく、其時のよろしきに從ひ候べき物也。これ、いかでか老子が自然をしふるとひとしく候はむ。 』
94 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:51:07 ID:IG0CJkCm
古への自然をしふるは、返りて自然にそむける強ごとに候也
古への自然をしふるは、返りて自然にそむける強ごとに候也
古への自然をしふるは、返りて自然にそむける強ごとに候也
古への自然をしふるは、返りて自然にそむける強ごとに候也
古への自然をしふるは、返りて自然にそむける強ごとに候也
>>91 > で漢語は膠着言語ではなく孤立語に近いので、頭の中でやってること
は英語圏の人々と同じことです。
漢字を覚えるのは、英単語のスペルを覚えるのと同じくらいの負担ということでしょうか。
96 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:56:32 ID:IG0CJkCm
おっちゃん
> ところが、日本にはこの普遍なものというのがない。というか<変わらないものはない>という
>無常という概念こそが普遍なのです。本居の「もののあはれ」はだからこそ普遍的な方法なのだと
>言いえたのです。
こんなことをいう人間がまともな教育を行えますか?
全的にお考え、かつコメントをお願いします。
97 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/13(金) 23:57:53 ID:IG0CJkCm
>>91 は嘘デタラメです。
根拠が要るか?
これも常識なんだがね。
98 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 00:02:31 ID:O2l+lCgO
>>95 デタラメを根拠に考えてはいけません。
従って、英単語と漢字は違います。感じはむしろ図形です。
一次元と二次元という切り口でお考え下さい。
なお、これは実証的研究によって明らかにされています。
例えば、日本人は漢字習得が図形の認知をより容易にしてくれているという
結果が報告されています。
英語圏ではスペリングコンテストが行われます。
表音文字といいながら、音を聞いてそれを文字に書くということがとてつもなく難しいらしいのです。
同じことが中国語でもいえるでしょう。
音だけを聞いても、それがいったいどの字であるかは、何を指し示しているのかを考えなければ
決定できないでしょう。
それが脳の働きにどのような影響をあたえるのかは、もはや脳科学の分野ですね。
猫、日本は漢字かな混交だよ。
中国語とは違う。日本語における漢字の役割と中国語におけるそれはまったく別物だ。
101 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 00:15:44 ID:O2l+lCgO
>漢字を覚えるのは、英単語のスペルを覚えるのと同じくらいの負担ということでしょうか。
というポイントを中心に考えろ。
お前はいつもずらす。阿呆のやることだって言われてるのが分からんか?
>日本語における漢字の役割と中国語におけるそれはまったく別物だ。
詳しく聞くぞwどうぞwww
102 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 00:16:45 ID:O2l+lCgO
「あ」の馬鹿へ
宣長の問題はどうした?ムニャムニャにしたいのは分かったけど。
>>98 一次元、二次元が出てきたので聞きますが、それは3次元にも
繋がりますか?
イメージ力=立体を頭の中に思い描く力。として、
これを身につけている人は一部の人に限られるように思うのですが、どうでしょう?
これができるともの凄く視点を広げられますよね。
回して想像したり、展開してみたり、切ってみたり、影絵を想像してみたりと、、、
そしてこのイメージ力が創造力に貢献する(高濱正伸)ようなんですが、実際どうなんでしょう?
見解を知りたい。
104 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 00:39:24 ID:O2l+lCgO
>>103 二次元→三次元 は多義的で決定不可能です。
その決定不可能性に挑むことを「想像」と呼ぶのでしょう。
そもそも視覚とはそのような構造です。
二次元として入力して三次元だと解釈しています。網膜から考えれば分かります。
その決定不可能性から一義的に追い込むのは様々なコンテキストです。
しかし、そこには常に錯誤や倒錯があります。そのようなメタ認知を前提にして
>イメージ力=立体を頭の中に思い描く力
は有効でしょう。
もちろん、メタ認知なしに想像することはあります。しかし、それが妄想と
区別できないことを知るべきです。ただし、絵画はそういう妄想にこそ依拠する
ことが”自然”であったりします。遠近法とは一つの倒錯です。
倒錯と知りつつ、遠近法の”自然”に生きることを引き受けないとならない。
それが私の立場です。
消失点の向こうを見るのもまた一つの想像だし創造でしょう。
論理の徹底の彼岸に立ち上がる想像/創造に「だけ」興味はあります。
画家は始原において彼岸を見るんでしょう。凡庸な私にはそれは不可能です。
白痴もまた可能なことでしょうが。(天才と・・・は・・・)
実は白痴とは一つの幸せです。私は凡庸の悲劇を引き受ける方法論として
論理の徹底を提案します。
105 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 00:42:32 ID:O2l+lCgO
とにかく、まずイメージだ。そういう連呼には興味ありません。
それは天才か白痴に有効です。簡単にはそういうことです。
あなたは凡庸さをどのように受け止める立場ですか?
GAKKEN MOOKの「頭のいい子の育て方」と言う雑誌を見て質問しています。
その中で高濱さんが空間認識力(さっき上げたイメージ力)こそが、算数、数学の問題、
さらにはすべての問題を解くカギであると唱っているので、そのへんどうかぁっと思っての質問です。
実際わたしは空間認識力が弱いようだ。そのことと高校数学での伸び悩みも関連するのかも知れない。
そこら辺が知りたくて、、、。
天才、白痴、凡才ですか、、、凡庸が一番でしょう。ただ、比較的優位な位置を占められる凡庸でありたい。
>>103 をい をい
次元がなんたらといいだしたのはキミだぞ。
一次元の定義、二次元の定義をして、三次元は実は認識外みたいな話にならないと
意味がないのじゃないか。
網膜=2次元みたいな話はそれこそ、カメラは立体を平面に落としこむ装置みたいな
話であって何もいってないんじゃないか?
裏側が見えないから二次元っていうんじゃないだろうな。あのね。人間には手があるの
三次元というのは触覚で見る世界だよ。あるいは距離で計る世界
手の中ににぎっているボールは見えないがそのボールの三次元性を握っている人間は
認識してないとでも?
108 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 01:10:07 ID:O2l+lCgO
「あ」の馬鹿へ
馬鹿にも分かるように、もう一度言うよ。
宣長は「あ」先生に従わなくてはいけない、そう言ったんだ。だから、宣長は
「あ」先生の言ってることの一番大事なところを正確に理解しようとしたんだね。
すると、「あ」先生の言ってることって
『いいですか、今の私にだけこだわるのではなく前に進みなさい。肩の力を抜いて
身を任せつつ前に進みなさい。迷ったら、いいと「そのとき」思った方へ進みなさい。
その結果、今の私とは違った方へ行ってもそれはいいんだよ。気にしないでね。』
と、こういうことだったんですね。
その理解のおかげで宣長は「自然に!」いいものはいいって言えるようになった。
違うかなって思いながらも守らなくてはいけないものはなくなったんだね。
技巧や作為もまた古への”自然”なんだね。だから、宣長は新古今がいいと言った
んだ。
あまり、お勉強してない人はこのあたりがよく分からなくて困るんですよ。
でも気にしないで。みなさんの思ったようにすればいいっていうこと。
あなたが「いい!」って思うことをすればいい、ただそれだけのことなんですよ。
うん、分かった!
109 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 01:15:27 ID:O2l+lCgO
>>106 それって、知能テストみたいなもので終わるんでしょ。
所詮、学研ww あそこは基本が”騙し”
>空間認識力(さっき上げたイメージ力)
を磨く・鍛える訓練法とかドリルみたいなのが載ってたんですか。
「脳の学習力」(岩波)あたりをお読みください。
本当の専門家は、そのような学研を憂いています。
110 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 01:19:04 ID:O2l+lCgO
1)宣長の続き
2)論理と合理の続き
3)認識・知覚と言語の続き
をまだ聞いてない。
幸運にも得意なところだ。期待してるw
>>108 どこが「真淵<批判>」なんだ?
キミは批判といったんだぞ。評価ではないぞ。
うーん。そんなことにこだわらずにいいたいことをいえばいいんだ。
っていうのは…宇宙の電波の話をする人はどうしたらいいわけ?
本居はそんなことをいってないよね。
わしは彫塑をやってたから、頭の中に立体として像を結ぶことができるぞ。
その上で回転させたり、視点の移動もできる。
これは絵画をやっている人間にはできない。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 02:17:29 ID:Cxn600VM
猫、おっさんといういい話し相手ができてよかったな。
二人に共通しているのは暇人ということ。
そして、人間的魅力が無いということ。
でも、いい加減にしにとな。
国語教育とどう関係があるんだ。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 02:21:24 ID:Cxn600VM
忘れてた。
「猫」と「おっさん」の馬鹿へ
>>109 >それって、知能テストみたいなもので終わるんでしょ。
お勉強のハウツー雑誌なので明確には言及してないけど、
多角的視点にこそあらゆる意味での思考力のカギがあると分かっているみたいです。
その導入口として立体図形が最適だといわれると、チョット疑問です。
インド人だったらいろいろな計算法が多角的視点になっている可能性があるし、
フィンランド人だとマインドマップみたいなもので多角化しているのかもしれないし、
それが中国人だと漢字の部首がそんな役割を果たすのかななんて思ったりします。
もちろん国によって異なると言うより、複合的なきっかけで多角的視点を獲得できる人と
ひとつの視点で安住してしまう人とに別れるんだと思う。
要は課題に対して複数考える思考習慣が身に付くかどうかなんだと思う。
>>115 それよりも現実を<多角的にみて>問題点をみつけることの方が大事です。
正しく問題を立てられたら、回答は出しやすくなります。答え方の問題ではないのです。
>>108 猫 今後 古文を語ることを禁じた方がいい。この文章が読めないようでは、玉勝間の原文を載せていようと
理解できてないということだ。
正しい抄訳
先生に学び、先生に恩があり、先生が好きだとしても、先生の学問的成果に誤りがあると思ったときには、
それを指摘し、正しさを求めて研究することこそが大事である。また、そうすることが、先生と学問を共にす
ることなのである。
そうすることが、恩知らずだとかいうのは無視すればいい。
あーという、まさに学問的態度のことだよ。研究に対する誠実さが大事であって、人間関係じゃないよと。
古の道といいながら本居だって儒からは逃れていない。
「こうありたいものだ」ということを「こうでなければならない」として受け取ってしまえばそれこそ漢意じゃな
いか?
本居が古今を取ったのは技巧からではない。
それこそ漢意になるだろ。
感動の中心を的確に詠むという一点において万葉の雑さより、古今の洗練を取っただけ。
玉勝間よりもこの俳句の方で考えてみるのもよかろう。
あぜ溝を飛び越えつむや、やっとこな
こんなことは日本人しか詠まないだろう。
作者は後水尾天皇である。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 08:10:27 ID:as9LFtDr
教育学部なにやってんのかなぁああとか思ってたずねてみて言葉を失った。
ごっちゃごっちゃ考えてて、「個性を伸ばすには」とか糞くだらないこと研究してんのよ。
論文の中意味不明。少なくともこいつらは役立たずだと感じた。
いい?必要なのは教科を確実に理解できるように段階を省かずに書かれた教科書と、
安定した環境だけよ??わかってんの教育学部(爆笑)の連中wwww
まじ役立たずだわ こんな奴らに給与やらなくていいよ。何もわかってない。
>>120 その段階を計測し記述するのは教育学部以外には存在しないのだが…?
それをもとに教科書を作るしかない。
何の安定なのだろう。安定していればどうにかなるのだろうか?
一般的に能力や認識の発展というものは動的な均衡への衝動によって
個人の内部では始まるはずだ。
安定がもたらすのはできあがったコードをつめこまれた自動人形じゃ
ないのか?
というようなことを臨床的に研究するのが教育学部なのだが。
教員養成学部になっちゃってるのが問題ね。
古学という発想なしに果たして本居は古道だとか「かんながらのみち」へたどりつけたのだろうか?
漢学の論理なしにそもそも古文の解読がなしえたのか?漢意を退けて、論理という方法だけ利用したと
でもいうのだろうか?
(もちろん、そうじゃない、本居が実際に生きていて、彼が属していた理がそういうものだったということなのだ。
本居は果たして日本の普遍を語りえたのだろうか。)
でさ。結局、4スレもつきあってくれてる人には<またか>なんだけど写生ってことになるわけだよね。
猫はそのことに気づいているのだろうか?お釈迦様の手のひらから逃げようとした青天大聖のようだよ。
本居を現代的にとらえれば、
表層しかない。ことばの向こう側(意味)を吟味したり、その意味によって評価したりするな。
目の前で、あるいは耳に入ってくる、文字や音の連なり、連続と非連続の中で浮かび上がる<それ>を手にしろ。
そのテキストで<それ>が手に入らないなら、次を手にしろ。ことなった速度で同時に。わたしでも、あなたでもなく。
空白だらけの地図の上を旅することなく旅を。
<それ>は新鮮なうちに。 決して、箱にしまわぬこと。
<それ>とともに人はいき、とまり、しぬ。
ぐらいで全部いいえてる。
あえて解説はしない。解説が必要だと思った人は↑このテキストを忘れていい。
そこにあなたの<それ>はない。
別のをどうぞ。
>>116 システム論の発想なのかな。
問題設定が大事だというのは同意です。
だけど小学生の頭をいかに賢くするかという文脈での意見ですので、
問題設定は小学生には高度過ぎます。
問題解決(それは小学生にとってはテスト)にばかり力点が置かれ、
解決できたか否かでことが終わってしまっている場合がほとんどでしょ。
日本では別のアプローチを探ることの大事さへの認識はいまいちだと思う。
>>125 だからこそ総合的学習の時間が設定されたのですが…。
うまく機能しないのは現場の意識が今一、講座型の授業から脱却できないというか
教師の適応の問題、学校の施設の問題、学校をバックアップする地域の問題と
いろいろあるのです。
今の教科書は問題を設定させる方法にあります。
128 :
おっさん:2007/07/14(土) 14:07:33 ID:/qv1f1Qv
本居論争、僕には言及する資格がありませんが、
時枝の文法論は、宣長系統の「てにをは」を玉と緒に
例えた論に影響を受けたそうです。
宣長自身に「てにをは」を主題にした著述もあったと思います。
文学と言語学を二分して考えるのも近代以後かもしれません。
例えば、説明文の読みの指導は、「あ」さんの言う「ことば」の指導ですか?
また、話す聞くにおける「ディベート」の指導や作文指導は、
「ことば」を教えているのですか?
学習指導要領で言う「言語事項」と「あ」さんの言う「ことば」の指導とは
どのような関係になりますか?
「感情移入」というのは、どこかで話題になっていましたか?
129 :
おっさん:2007/07/14(土) 14:19:41 ID:/qv1f1Qv
>>77 いい疑問ですね。そう言えばそうですね。
「あ」さんの解説でつきているかもしれませんが、
調べた中でおもしろい記述があったので貼っておきます。
Wikipediaの『昇天』の項です。
『昇天』は、キリスト教では、キリストの復活のとき天に昇っていったことだそうです。
キリスト教はそもそも信仰上の理由から死を忌む事が少なく、そのまま「死亡」「死去」「逝去」などの語を用いるが、
何らかの配慮が必要な際には逆に死生観の異なる仏教や神道に基づく表現を使うわけにいかず、不自由することになる。
使えない語としては、成仏はもちろん、転生を意味する往生、霊界の存在を明示する他界、鬼籍に入る、
復活の教義に抵触する永眠などがある。
そこで独自の表現を用いることになるが、上記教義上の区別により「昇天」は厳に避け、
「召天」(しょうてん、天に召される)「帰天」(きてん、天に帰る)などの語を用いる。
但し、「召天」は戦後に、人の死去に対し「昇天」を用いる神学的問題とキリストに対する不遜を避ける遠慮から
音を合わせて造語されたものであり、
漢文に親しんだ世代からは「『天を召す』としか読めない、
間違っている上にかえって不遜な表現である」という批判がある。
130 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 14:45:27 ID:O2l+lCgO
131 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 14:49:09 ID:O2l+lCgO
「あ」の馬鹿へ
お前が無常と宣長を得意気に出したんだろ。白痴はこれだから困る。
132 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 15:00:16 ID:O2l+lCgO
>>128 >文学と言語学を二分して考えるのも近代以後かもしれません。
歴史も含めて、一緒くたであったということの意味を「あ」はまるで
考慮しない。しかし、ニュートンのときは”科学”はなかったということを
大仰に言いますw
彼の知識は非常に表層的で曲解も多いから、全く思考に寄与しません。
だから、何のために宣長と無常を出したか、それが分からないばかりでなく、
彼はその後の展開でその出だしをなんとか覆い隠そうとするだけです。
いつものパターンです。
そのあたりも含めて当たり前のことを当たり前に理解し前提する人をお迎えできて
うれしく思います。
133 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 15:18:42 ID:O2l+lCgO
>>125 問題「設定」とは問題「発見」というタームと同意で使っているという
理解を前提にしてもいいでしょうか。また、それらは問題解決ということとの
セットで考えるべき・・よくある・・ものだという理解でいいでしょうか。
問題発見(設定)という言葉は、そのことばを出せば何かが解決できたかのような
錯覚があるようで困ります。典型は次のようなものです。
>正しく問題を立てられたら、回答は出しやすくなります。答え方の問題ではないのです。
このような馬鹿にならないような方策を考えなければなりません。
問題の発見(設定)が何によって正しさけっていされるのかという重大なポイントは
なぜか問われませんね。
多角的に見ることと、一つを選択する正しさをつなぐものをむしろ隠蔽するような
思考=言説がここでは多いですから要注意です。慎重にいきましょう。
また、正しさが一つに決められないようなことも結果として出てくると思います。
そのような練習として、テキストの構造分析は役に立つでしょう。
三森らを参考にしてください。なお、PISAが求めている読解力や
思考力の一つにもこういうことで対応できると思います。
問題が立てられる過程の中で答えはほとんど見つかっている。
答えの中には、「不能」も「不定」もあるのだ。
「問うこと能わず」もまた答えである。
情報を整理し、何がわからないのかがわかった時点でどんな答えが
存在しうるのかは推論可能なのだ。
たとえば、どうして地球には生命が誕生したのか?という問いに
生命が誕生する条件は答えることができる。しかし、どうして地球に
その条件が揃ったのかは答えることができない。
それは<歴史的事実>としてしか示せない。不可逆的な事件の
存在を示すことしかできない。
でもそれは<どうして、地球に>という問いに答えてはいない。
「わからない」という答えがそこに用意されているのだ。
沈黙するしかない問いというものがあることを猫は忘れてる。
おっさんさんへ
できるだけ簡略化すれば、説明するためにはどのようなことばを選択し、どのように運用すべきなのか
ということを学ぶのが説明文の勉強ではないでしょうか。
考えてもみてください。2年生の教科書に載っている説明文が2年生にストレートに理解できなければ、
その説明は間違っていると思いませんか?
説明文で<内容を正確に捉えようと読む=読み取る>ことをどれほどがんばっても無駄だと思います。
正確に伝えるためにどのようなことばが選択されたのかを学ばなければなりません。
また、選択したことばをどのようなセンテンスにまとめるのか。そしてそのセンテンスをどのような順番に
提示すればいいのかを学ぶことが大事なのです。
ですから、説明文の後には、その説明の仕方を生かした演習がセットされているはずです。
最近わしは「日本語の文法」というのは「ことば」に属しているのではなく、「間柄」つまり社会的な関係に
属してるんじゃないかという思いに囚われている。
品詞だとかいくら分析しても無駄なんじゃないかと。
いなくなってしまったが、故三上章氏に師事したいと切に思う。その場、その人、その時で常にルールの
微妙な変更が易々と勝手に行われ、しかも、誰もルール違反だといわない。そんなものじゃないのかと。
連歌の座。そういうものが日本語の現場なんじゃないだろうかと。
だったら「きまり」ではなく「ことば」を中心に教えていこうとしているわけだ。
あとね。猫。文献、文献っていう人間が、WEBの個人ページの記述を根拠然として差し出すのはどうだろう。
玉勝間をコピペするのはまだ納得できる。
だけど、その後のリンクはまったくダメだ。
それをいってるのはわしだけじゃないもん!…だからどうした?それが根拠になるなら、本居もひックリ
返ることだろう。なぜって、教えにこだわるなということが大事です。正しさ、納得できることを追及するのが、
学問です。といってるのだからな。
そういう身のこなしが信用失墜行為なんだということにそろそろ気づいた方がよくないか?
どうせリンクするならこちらの方が面白い
ttp://www.norinagakinenkan.com/denshi-data/ 宣長電子データーの会2001
万葉集を宣長がどう思ってたかなどということは、わしのいいたいこととは
全然関係ない。
けれども、万葉集を宣長がどう扱ったかについては知っておいた方がいい。
ちなみに年譜のあるので「破門」されたという事実があれば、何年の何月なの
か調べてみるといいだろう。
(わしにとってはそんなことどーでもいいことなので膨大でやる気にはならない。
そんなことを知ったからといってわしの言いたいことはまったく変わらないからだ。)
なんで猫は知ってることを羅列しないと気がすまないのだ?別に本居が大事だ
なんていってないぞ。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 18:28:38 ID:c6hBadm+
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 19:11:29 ID:38xftSo5
あ
紆余曲折
ウヨクッセツ
紆余曲折
ウヨキョクセツ
屈折してるの?
骨折してるの?
我屈っせず?
あ 我関ぜずか?!
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 20:15:04 ID:38xftSo5
あ
小学校だから許されるw
子供騙し
143 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 22:18:32 ID:O2l+lCgO
>>136 さすが、白痴だ。またもや歪めて悦に入る。三上もきっと憤怒するであろう。
>常にルールの微妙な変更が易々と勝手に行われ、しかも、
>誰もルール違反だといわない。
コンテクストに依存するということはそういうことではないんだよなー
西洋の文法規則を絶対視し、その中心主義によって見下すから、そんなへんてこな感想に
なる。こういう無自覚に西洋ズッポリなカスを作らないためにも、方便として
自覚的に西洋としっかり取り組むべきなんだ。何度言っても阿呆は分からない。
というか、既に分かっているんだが、素直に認めない。
おちゃんが甘やかすことにも責任はあるんだろうかなあ。
猫、わかってないといいながら、何も語らないのは、もっとわかってないからじゃないだろうか?
まるで裸の王様みたいだぞ。
それに、キミが自覚的に西洋と取り組んだのをみたことがないのだが。
その場合西洋とは何なのだろう。
かつて、わしは日本語には論理がある。西洋の論理としくみが違うだけだといった。
その考えは今も変わらない。
A⇒Bも真理なら、パラドクスが存在するという指摘も真理。そういう関係を記述でき
ればそれで用は足りるはずである。
日本語の論理の根っこにはやっぱり合理性というものがあると考えるとすっきりする。
わたしという語り手がはっきりしている場合、わたしが、わたしの、わたしをなどと繰り返し
のべることは合理的ではない。省略が行われる方がエネルギーを最小にするという意味
からも自然である。
というわけで記述文法へ接近中ってことなんだろうな。わしは。
猫もやった方がいい。それは間違いない。
146 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/14(土) 22:50:57 ID:O2l+lCgO
>常にルールの微妙な変更が易々と勝手に行われ、しかも、
>誰もルール違反だといわない
お前、ほんとに足りないんだなw
>記述文法へ接近中ってことなんだろうな。わしは。
具体的にどうぞw
>>146 オマエ、ほんとに足りないんだな。
なぜって、ほんとって何?
ほんとうの音変化だ。キミがわしのいってることを易々と証明してくれてるよ。
でなぜ本居が「たおやかめ」に注目していったかはとっても簡単。
なぜか日本語では素直に感動(もののあわれ)を表そうとするとをんなことばか
こどもことばを使った表現の方が的確に伝わりやすい。
伊勢物語にしても日記物にしても源氏物語にしても…
橋本治もきちんと賛成してくれると考える。桃尻娘だしね。
谷川俊太郎も実験してる。万葉集がどうのこうのというのが問題じゃない。
あとオマエはお前であり御前である。
本来は尊敬称号であるところのものが侮蔑表現として使われる。
さて、自覚的でないのはどちらだろうか?
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 01:51:42 ID:D6cSK1nH
猫、貴様の負け
ちょっと面白い本を見つけた。
「ハラスメントは連鎖する」(安富歩・本條晴一郎:光文社新書)
まだ半分しか読んでないけど、
おっさん氏は、「気持ち」を子供に読ませたい根拠がはっきりするかもしれない。
小学校教師氏は、「日本的」と思っている事柄が、割と普遍的なものであることに
思い至るかもしれない。
他の人については、猫と話すとどうして消耗するのか、そのメカニズムが理解できる
かもしれない。一言小僧君は必読。
猫は…我流に解して、自分のことが書かれているとは気づかないままだろうね。
ごめん、いまハラスメントした。
内容はぐぐってください。
これはいいえて妙。
>
自尊心を完全に満足した状態で健全に成長した人間は、学問に携わろうとは考えない。
他者から受けた被害が人間を学問的研究に向ける。十分に自分を受け入れられていれば、
あるがままの自分で満足するので、そのような人間が「たまたま」学問に携わる可能性は、
皆無と言ってよい。
>
学問(真理)への隠れた動機ということなんだろう。
>
一般的に能力や認識の発展というものは動的な均衡への衝動によって
個人の内部では始まるはずだ。
>
と同じことだ。下から上への運動によって落っこちたものを引き上げようということなんだから。
わしは意図的にハラスメントをしてるけどね。ハラスメントに対してカウンターをしなければ、困るでしょ。
本当は感情的にならずに相手に<その行為の意図>を確認するのが一番いいんだけどね。
パワーハラスメントは難しい。指導なのかハラスメントなのか…。結局は信頼の度合いになってしまう。
愛の鞭だって<鞭>なのだ。
結局は、相手が何を知ってるか、どんなことばを使ってるのかを知らなければ、説明は成り立たないってこと
に自覚的であればハラスメントをする側にはならなくてすむと思う。
でもね。猫はだいぶ地上に降りてきたよ。それは認めてるんだ。本当は誰にどうしてほしいのかにもっと早く
気づくといいんだけどね。そして、猫に同じように何かをして欲しいと思っている人がいるってことにも。
ママンはわかんないな。バリアをはるのをやめれば、いいんじゃないかな。それだけでもだいぶ違うと思う。
153 :
また変なの:2007/07/15(日) 08:55:58 ID:Mic6I37i
ところがどっこい、この本の主張は
教 育 も し つ け も ハ ラ ス メ ン ト だ あ!
というところにある。「愛の鞭」なんてのは最悪のハラスメントなんだって。
極論もいいとこだし、どういう読者が飛びつくかもみえる気がするけど、
それはさておいても、読む価値はあると思う。
まあ、素人が言うのもなんだけど。
猫の主張に似たところもあるな。まあ猫の「どの主張」をとるかによるけど。
読んで面白いのはp.46からの大学教授の話。
理論的な部分は三・四・五章あたり。このスレの内容に関係しそうなのもここ。
悪口の言い合いに使いたいなら、猫を見て書いたとしか思えない部分が
あるから、適当に引用合戦をしよう。
ただ、俺に当てはまるところもあって、引用の仕返しをされそう。
というわけで、お勧め。
子どもだってハラスメントを大人に対しても、子どもに対しても行うからなあ。
でも、それって<教育の問題>なのかなあ?
モラルハラスメントを防ぐ方法は、二つ。
一つ、注意をする権限の運用者の固定と限定。(子ども同士注意させない。ちくらせない。)
一つ、モラルによって統治しない。(えー!)例外を認める。(規範によって単純に裁かない。)
きまりで統治するが、「きまりだから」と言わないで、功罪を論証する態度で統治を行う。
(って可能なのか…)
そこから透けてみえるのは、根源的に人間と人間の関係には暴力がつきまとっているし、
暴力をなくそうということだってある種の暴力を通じてしか行えないってことだろう。
暴力ということについての耐性と適用の意味をきちんとわかってるってことは大切なんだろう。
それだけの話じゃないかな。あまり、そこにつっこんでっても、家族が一緒に住むからDVが起きる。
みたいな話になっちゃうだけ。
民主主義にはハラスメントがないってことじゃないからね。でも、それと「日本語」との関係や、こと
ばとの関係がみえてこないなあ。
傷つけることが即 悪であり、 いじめであり、ハラスメントである。
というテーゼを是とできる人なんかそんなにいないでしょ。
でも、この本の流れは基本的にそうなってるんじゃないかねえ。
わしの結論を書いておこう。
「笑わせて勝て」…「笑ってごまかしてはいけない。」
で慰安婦問題はないとわしがいってるように勘違いする人がいるが、そんなこといってない。
わしは最終的には売春婦という職業という問題に収斂するといってるの。
あ、これもつけたしておこう。
「笑われるような人にはなるな。」
ラベリング問題は勘弁な。
名づけって行為は「愛」か「支配」か。え。「愛」が「支配」だって?さも、ありなん。
いじめの連鎖。虐待の連鎖。ハラスメントの連鎖。っていうのも都合のいい物語って気がするよ。
そもそも善き人は本なんか読まないと思うな。
「イワンの馬鹿」。
救いなんか求めるな。癒しという事件に出会うことがあっても、癒しというサービスを求めるのは
やめよう。代金の支払われないサービスというものは、ない。何を支払うのか考えよう。
って、済みませんが、前思春期や思春期の子どもへの対応やプログラムのコンセプトを作ってる
ような気持ちになってきたので、この件は、わしはこのあたりでF.O。
160 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 13:35:42 ID:EsmqWGSY
161 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 13:50:30 ID:EsmqWGSY
>>153 >ところがどっこい、この本の主張は
> 教 育 も し つ け も ハ ラ ス メ ン ト だ あ!
>というところにある。「愛の鞭」なんてのは最悪のハラスメントなんだって。
>極論もいいとこだし、
なぜ、それが「極論」になるかは言わない。言えない。
ちょっと足りない多くの論者は道徳的にそういうことを言ってる。かなり古いカルトだけど。
お前が「極論」と断定するその正反対において、実にくだらん素人談義だと思う。
実はそういう妄言で日本も世界も惑わされてきた。例えば、トラウマ。最近、あまり
聞かれないようになったと思わないか?そのインチキ出鱈目がハッキリしてきたからね。
トラウマ理論の被害者は、例えばアメリカでは団体を作って活動してるぞ。
トラウマ理論なんて出鱈目だととっくの昔に実証されている。
そもそも我々の記憶とは一つの恣意的な想像であり、能動的構築であって、
事実の全体ではない。事実とはかけ離れている場合も少なくない。
そういうこともあって、PTSDとか言い換えが普通になった。
より科学的な装いだけが重要なんだよね。他はまるで無意味。
先日小学校で飛び降りた女の子がいたね。
直前に専門のカウンセラーにカウンセリングを受けた。
そのカウンセラー個人の問題を問いたいわけじゃーない。だいたい、いつも同じ
パターンだから。あのサカキバラもそうだったんだ。所詮、その程度。
そもそも日本のカウンセリングやセラピー、精神分析ってユング派が主流。
もうその時点で壊れてるって。
人間や精神を軽く見すぎ。だけど、阿呆はすぐ飛びつく。
162 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 13:58:45 ID:EsmqWGSY
現場でまともに考える人間は医師免許を持つ人を勧める。
心療内科とか精神科とか。それで何か解決すると思ってるめでたい人間はいない。
ただ、加持祈祷よりマシだと思うからね。
でも、その心療内科や精神科でも全然違う場合が多い。
だから、そのようなことを論じたまっとうな雑誌や本では複数のところに
行くことを勧める。自分に合うものを探そうって。
ええつ、結局、医者も同じ??ま、そういうこと。
今では、ビシビシ厳しくやる専門医も多いことを知らんのかな。
ま、素人談義で分かったように思いたい阿呆に消費されるのを待つ
ものもあるというのは分かった。
>>161 猫。うん。地上には、いる。
だけど、どうして自分の手鏡に向かってしゃべってるの?
相手の目をみてはなしなよ。
メモみてよんじゃだめだよ。声は小さくたっていいんだからさ。
ま、とりあえず、天気とかさ、今日何食べたぐらいからはなしなよ。
164 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 14:08:32 ID:EsmqWGSY
ま、味噌糞がここでもいけないということには変わりない。
実際、ストレスが脳の生物学的構造を変化させその後遺症が後々まで残ることはある。
しかし、ほとんどの場合そこまで見極めることはしない。しかも、その原因に
なると事後的な捏造も少なくない。
大地震や列車脱線のような因果関係が明白な場合と他は峻別するのがいいだろう。
ハラスメントねw 流行w それだけw
ハラスメント「される」ことはむしろ武器になる。ここは肝要だ。
弱者利権と同じ構造だ。
重大なのは、そういう言葉と引き裂かれた人がいるということだ。
彼らにも武器を与えないとならない。すべての人に武器をw
ならば、本物だけが残るだろう。
ハラスメントw
「暴力」で語らない/れないあたりが阿呆スペック
>>160 えっと、単純に自分を守ろうとすることは正義。殴ってきたら殴り返すぞ。これすんなっていってるのに
やったら殴るからね。
つまり法という暴力だろ。だって神がいなかろうといようと正義は執行されてきた。問題は誰が執行して
きたかだよ。(難しく語ろうとしすぎ、問題の立て方がへただよ。整理整頓すべきだよ。っていうかメモに
すぎないブログじゃしかたないね。)
家長夫制であろうと、でなかろうと、正義の執行は家庭から始まっている。当たり前だが部族から人間の
社会ははじまってるってことぬきになにを語ろうとしてるの?ことばのつかいすぎだね。
評価 C
日曜社会学は好きなサイトだった。基本的には文章力がありわかりやすい。
で読めばそれなりにためになる。
けれど…もともと多くの社会学文献を知らなければ、なんでそんなこと気にしてんのということすらわからない。
評価 あえてせず。本人が一番知ってるし、きちんとサイト紹介にも書いてあります。
で何で猫は何もいわないの?立ち位置から見える景色を書かなくちゃ、内容が存在しないじゃないのさ。
例えば…ってなんだろ。立ち位置が例えばなの?じゃあ本当はどこに立ってるの?文章力をつけようね。
166 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 14:17:59 ID:EsmqWGSY
>>150 「ハラスメントは連鎖する」(安富歩・本條晴一郎:光文社新書)
んだったら、お前が断ち切れ。お前が連鎖の中心で/を叫んでどうする?
よほど足りない頭なのか、それは知らんが困ったことなんだ。
少なくとも自分の言っていることに違わないようにだけ生きろ。
他人に言う前にだ。
そう、このようにハラスメントは武器になる/するんだよね。
ここが最大に重要。この武器を持った子どもはもうやたらめったら使いまくる。
いいものが手に入った。やったー
そこまで考えてものを言わない阿呆が
「マターリ」
としたものを地上から奪っていくんだね。
167 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 14:21:02 ID:EsmqWGSY
立ち位置 三つ目
そこから逃れるのも暴力なんだね。
だから暴力革命は理論的可能性としては保証されることになる。
「殺される側」の暴力
そういうことに無頓着なカスには暴力をwww
>>166 そのお前は誰?あーどうしてこういう書き方になるかなあ。
伝わらないよ。
整理整頓して。はい。
著者であれば、そのために対談にし書籍にしましたよ。ってことだろうし。
話題提供者であれば、そのために提供したんだけど。
ラベリング問題はそれこそ猫はどう思ってるわけって質問が飛び出すよ。
マターリは個人的な問題。考えていないのは…誰だろうな…口笛♪〜
169 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 14:24:57 ID:EsmqWGSY
>>165 お前な、よく読んで書け。
それとな、ハッキリ言ってここはぬるいんだよ。
オイラはな、他で鍛えられた。いろんな意味で。
所詮、アンタもボンボンだ。しかも、あまり学ぶことを言わない。
気の利いたことを言え。阿呆を想定してものを言うな。
おっちゃんとの対話から何を学んだんだ?
(遠まわしに「阿呆」だと言われても平気なのかw)
マターリを奪うことを批判しておいて、
「ここはぬるい」…うーん。いいたいことがわからないよ。
じゃあここはスルーでいいわけね。
あのさ。引き篭もりのニートが母親に「くそ婆」というラベリングをする
ことは、はたして正義だとか武器だとかいうレベルだと思う?
わしだったら、子ども部屋を壊しちゃえばいいというアドバイスを
しちゃうレベルなんだけどね。
マッチョを自称するわりにはなぜにコピペなのだろうか?
はっきりいって、通用しません。
もうちょっとだ。猫。少なくとも地上にはいる。自分の足で立とうね。
クララ。クララが立った〜。という感動をぜひわしらに。
171 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 14:46:50 ID:EsmqWGSY
>>163 お前のように、相手の目をしっかり見て与太話をするのがいのか?w
心配するな、視線がカス「だけ」に向けられていないからといって
何も見てないわけじゃーない。
>>150 のようなトンチンカンな応援歌しかないのはどういうことだ??
お前の言ってることなんか、誰にも伝わっていないぞ。というか、支離滅裂だからな。
しかしなー、150が誤解曲解しかしていないということは分かるぞ。
お前も本性がいいように受け取られてラッキーな奴だな。
しっかり、教育というハラスメントを主張しろよw
目を見てww
172 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 14:51:16 ID:EsmqWGSY
>>170 家族にマターリさせるために
お父さんは激務に耐え、ハラスメントに耐えているんだ。
そんなことも分からんのか?足りん奴だな。
ここのぬるさでは未来永劫「マターリ」は来ないさ。
>子ども部屋を壊しちゃえばいい
ほんま、アホ
現体制を壊しちゃえばいい、とどこが違うんだ?
もっと大きなものを壊せ。子ども部屋は資本が必然させるものだぞ。
173 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 14:53:56 ID:EsmqWGSY
>>150 のようなカスが「マターリ」を奪っているということを何度も
丁寧に言っている。そのあたりはどうだ?「あ」君よ。
174 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 15:01:50 ID:EsmqWGSY
おっちゃんへ
あなたの発言において
「全的」であることと「論的=部分的」であること
この二つを分けるものは何ですか?
既に問うたものです。ぜひお聞きしたく思います。
人を愛し、例えば結婚すること。これはもう全的以外は現実的ではないですよね。
ならば、振って「友達でいようね」って、これも全的なものではないですか。
なぜ、前者だけ全的であることが称揚され、後者が部分的である(ありうる)という
嘘が可能なのですか。
私はあなたから学びたいと思います。
私の学びとは闘いです。あなたを契機として内部と闘いたいですから。
(「あ」君、これは邪魔しないでね♪)
175 :
また変なの:2007/07/15(日) 15:33:46 ID:quHMUDTY
とまあ、二人とも読まずによくここまで話せるもんだ。
おまえら題名だけに反応してるだろ。
まあいいから読んでみって。
と、読んでる途中のおれがいうのもなんだが。
176 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 15:51:53 ID:EsmqWGSY
>>174 そこまで言うなら脳内ストックに入れとく。
で、当方のおススメも読んでくれるのかなw
177 :
また変なの:2007/07/15(日) 16:01:28 ID:EMQ6EGST
>176
うむ。ハヤカワの何だっけ? あれを読んであげよう。
買ってはるんだよ。ただ、あれ無茶苦茶字が小っちゃくねえ?
>>170 みたいなことを家族にいうのもハラスメント。
現体制を壊しちゃえばいいって…やってみれば、やってみてからいってみそ。
資本が必然としようが、ひきこもるだけの場所ならなくしちゃえ。
その上でお金も権利書ももっていなくなってしまえ。
いいか。二十歳すぎてまでパラサイトさせるのはパラサイトする方だけが
悪いのではない。
猫の紹介した日曜社会学のテキストには次のようなところがある。
>
寛容の戦略は、周知のように、ひとつのアポリアに直面せざるをえない。
すなわち、相手に対する寛容の態度を取らない者を、どの程度寛容に遇するべきか、
という問題である。土屋はこの問題に対して、ロールズに依拠しつつ、おそらく実際上
唯一可能であろうと思われる答えを与えている。すなわち、そのような相手に対しても、
可能な限り(つまり、寛容を可能にする体制が脅かされる恐れがない限り)寛容な態度
を取るべきである、と。「……どこまでいったら不寛容な者を否定するのかは、結局、自
由の条件、自己保存の権利が、どこまでいったら危機にあるということになるのかを決
めなければ、決断することはできない。/きわめて具体的で繊細な条件の設定が必要
なのだ」[ibid.:122]12。繰り返すが、実際にはこれ以外の解答はありえないだろう。しか
しあえて言えば、ここではすでにある種の倒錯が生じているのではないか。
>
※アポリア=難問。
われわれは、まさに猫の存在によって常にこのアポリアに直面している。
猫が他者には寛容を訴えながら、自身は決してそれを身につけ、そのように振舞わない
ことを<正義>の名を使って根拠づけることを日常的に観察している。
われわれはこのような振る舞いのものをフリーライダーとよぶ。キセル野郎でもかまわ
ないけれど。
ぬるいのではなく寛容なのだと気づけるなら猫も社会化されてきている。
社会化などされてたまるものかというなら行動あるのみでこんなところに
書き込むべきではない。
社会化=飼いならされることだと思うならである。
しかしながら、大勢の人間がそのように社会化し社会を実体化している
おかげで、命を維持できているのである。
社会化などされないということは当然そのような恩恵も手にしてはなら
ないはずだ。(まさに正義の名において)
そのことを理解しないのであれば、社会学などに触れてほしくない。
社会学というのは、基本的にそのような名もなき社会を支える人間たち
のことを指すのであるから。
猫へ
おっさんさんは部分的=論的などといってない。
第一、論的ってなんだ?論=主張だとすれば(主張の含まれない論など存在しえないだろう。)
主張のようなものは部分的なものである。ということは何も意味できないのじゃないか?
したがって破棄しなさい。
「全的」というのは
>
言葉によって感じ、想像し、考える子です。
思考は重視しますが、全的な反応を求めたいと思います。
茂木の「クオリア」が気になると以前書いたのもそのためです。
・自分の感じたこと、想像したこと、考えたことを表現する子です。
・他と交流し、自らの反応を豊かにする子です。
>
このような活動の特徴を指していっているのであって、たとえば分析的であるだけとか、
ことばを解釈しているだけ、感想を交換しているだけとか、いうことを部分的としているん
だよ。
でも全的をトータルということばに置き換えてしまった方が日本語の内部ではおそらく
意味を形づくることができる。全的な読みといっても多分通用しずらいが、トータルリーディング
としてしまえば、コンテキストを形成することができる。
…だけでなく、…まるごとの、読み取り活動であること。
それに対してのキミの問いは酷すぎる。問いになってない。
どこにも「ことば」が関係してないだろ。それ。
人生という総体から考えれば、それを全的に価値付けることができるのはその出来事から後
のことになる。
振られようが、結婚しようが、それでどうなったのかがわからなければ自己評価(それまた意味
がないことだが)は成立しない。
そのときはそれを悲しんだり、喜んだりすることが全的な反応である。あ、間違ってる、反応なんて
常に部分対象に対して行われることだ。この場合は、自分の全部で悲しんだり、喜んだりしていると
記述すべきだろう。
価値は後回しにすべきだ。
※なんで猫がテキストをきちんと読めないのか、それが問題だ。いつも考えてみる。それで、どう考えても
そうとしか読めないように書こうとするのだ。その場合、彼がするのは罵倒であり、ラベリング。お前は何も
わかってない。わしは、ええ、猫のことは何もわからないよ。ことばが成立してないからね。
他人のことばを他人が使ってたようにオウムするのは…ことばではない。思考がないからだ。
もしかしてわしは「全人的」ということの説明をしているのかもしれない。
全人的医療とは病気を診るのではなく、病人を診る医療といわれる。体の不調だけでなく病気と共生する心の
ケアまでということなのであろう。
全人的教育とは知識だけでなく情緒も…というか、簡単に言えば知徳体ということだ。
全的な読みが登場してきた流れにはわしが国語科で【情緒教育】まで引き受けるのはもうやめようという意見
があったからかもしれない。
それならば「全的」ということばが登場してあの例や活動例がでてくるのはよくわかる。
どんなことが書いてあるのか。そのことからわかることは何か。そしてそれを気持ちに結びつけていく。
情から知そしてまた情へと広げていく、結果として行を求める考え方なのだろう。
でもそれって、猫がこれまで否定してきた道徳なんじゃなかろうか?道徳と倫理の大きな違いとはなんなのだろう。
183 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 21:30:02 ID:EsmqWGSY
>>177 それだけお買い得なわけだ。でも、それを買ってくれたことは感謝するよ。
おススメの頑張って「ハラスメント」は読むようにするから。
185 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 21:39:56 ID:EsmqWGSY
「あ」の馬鹿へ
あれだけ邪魔するなって言ったのに・・
あのな、「殺す側」から「殺される側」に寛容を求めるのは糞なんだよ。
その逆のベクトル「だけ」を方法論として主張する立場に立っている。
非対称ということの意味をまるで考えない。いつまでも学ぶことをしない。
>>
「全的」というのは
>
言葉によって感じ、想像し、考える子です。
思考は重視しますが、全的な反応を求めたいと思います。
茂木の「クオリア」が気になると以前書いたのもそのためです。
・自分の感じたこと、想像したこと、考えたことを表現する子です。
・他と交流し、自らの反応を豊かにする子です。
>
>>
まさに、そういう意味でお前には反吐が出る、腐臭が臭うっていうことだ。
そうだな「クオリア」の問題かもしれんよ。
思考や言語以前にお前は糞なんだろうね。分かったか?
186 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 21:46:12 ID:EsmqWGSY
>>177 一つ聞きたいんだが、あなたには立場というものはないのか?
「あ」の馬鹿のように自分の教師としての立場以外はピョンピョン飛び跳ねて
妄言のパッチワークするのはもううんざりだ。保守するのは自分しかないのが
透けて見える。あなたにはそれが見えないか。
日本的なものを保守しているように思うか。
「あ」のいう日本的なものは一貫しているか。あなたが見なしているものと
一致するか。
あなたの”気持ち”や”日本的”なものを、我々が等しく共有しているのか。
そう見なすことの暴力=ハラスメントは最も根源的だと思うけどな。
猫 ふざけてはいけない。
「殺す側」は決して「殺される側」に<赦し>を求めたりしない。したがって「殺す側」にしか<寛容>という態度は
求めることはできない。
即ち、前提がもはやなりたたない。
猫のことばを借りれば「糞な前提は糞な結論しかもたらさない。」じゃあ、なぜこんな糞な前提が登場してきてしまう
のだろう。猫が自分を「殺される側」だと勝手に規定しているからである。つまり、猫の論は利己的なのである。
それに「殺す」という現象を「搾取」と同一にみたり、「疎外」と同一にみたりすることは飛躍である。これらは同じでは
ない。「殺す」は行為であり、間接、直接、問わずに相手の可能性を決定的に奪うことである。
「搾取」とは利得の発生構造である。複数の価値体系の差異から利得を取り出すという意味。生存にAというコストが
かかる存在がB生産量を作る力能をもっているとする。A>Bなら生存は不可能である。また、A=Bもまた生存不可能
である。(子孫が残せない。)A<Bであるときだけ生存が可能である。このBの値をなんらかの方法で大きくすれば、
AとBとの間の差は広がる。そしてA’として表すことができる生存コストだけ支払うことでのこりの生産物を交換につかう
ことができる。うんぬん…飽きたので割愛。
「疎外」とは心的な認識である。孤立感や離人感にも近い。疎外された。と感じるためには、疎外されていない自己を
前提にしなければならないが、実はそんな自己は想像上の産物である。疎外というのは基本的な存在形式なのである。
誰かが悪いから疎外されているわけではない。
持ってる者を攻撃するよりも持ってる者になろうとすることの方が遥かに人生を豊かにするだろう。そして、そのように
行動しようとしたときに初めて「寛容」の問題が出てくるのである。勉強してよい成績をとっても試験を受けさせてももらえ
ないのは非寛容である。
それとも何、傷つけられたらやりかえすってだけのことをいいたいのかな。
だから、傷つける=悪なのかっていってるの。ふざけちゃいけません。
俺は傷ついただからその表現としてお前をお前よばわりして、糞といい馬鹿にする。ざまあみろ。
ってこと。
傷つけたくせに、悪口いうなっていうな。バカ。俺には正当な権利があるんだあー。って?
で、何がそれで解決するの?合理的な行動とは思えない。第一傷つくだけじゃ、そんなのその
根拠になりゃしない。
そんな君が論理を口にするからおかしな話になってしまうわけだ。
合理性がないからその行為は倫理的にも道徳的にも否定される。これは論理的な結論だ。
それを無視して、相手を非難(批判ではない)するのは、感情的ってことだよ。
論理的の対義語が感情的である。というわけで猫は全然論理的ではないということが論理的に説明できた
と思う。
Q,E,D
190 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 22:27:30 ID:EsmqWGSY
>>187 その議論の系譜を十分に考慮している。素人談義は止めてくれ。
お前と違って、ハッタリや強弁を言わない。
「殺す側の論理」(本多勝一、単行本 初版 あとかぎ)より
『「殺される側』という表現には、もちろん直接的な意味で虐殺される場合も
含んでいますが、より広くは侵略する側・差別する側・支配する側・管理する側・
調査する側・搾取する側・食う側・総じて「意味する側」あるいは「整理する側」
に対蹠する側としての、侵略される側・差別される側・支配される側・管理される側・
調査される側・搾取される側・食われる側、総じて「意味される側」あるいは整理
される側」、結局は権力と対峙する側の象徴として「殺される側」を代表させたつもり
です。」
当方は常にこの定義に基づいて発言してきた。
そして、本多の言うようにそのどちらかの立場に立つ以外はないという認識も共有している。
従って、中庸を気取って行司のような振る舞いをするのは一番の糞ということになる。
「あ」は誰と何を共有しているんだ?
じゃあ傷ついたときの合理的な行動って何なのかって?
そもそも何に傷ついたのかをはっきりさせなさいよ。
論の誤りや穴を指摘されて傷ついたのなら、まってよ、そんなの当たり前のことでしょ。
傷ついたのは何なのさ。君の自尊心か?
じゃあ、君が読み手に期待してたことって何なのさ。
それが実現できるように行動するのが合理的だよ。
原因があった結果がある。原因が相手にばかりあったり、自分にばっかりあるわけじゃない。
もし相手の言い方について、つまり「そんな言い方は酷い」と伝えたいだけなら、相手の真意を
確認して、できれば「こんな言い方で指摘していただけるとわかりやすいです。」と誘導する。
ともかく認めてほしいなら…ごめんそんな読者は想定外だ。相手のニーズを知ることから始める
んだな。
本多かよ。
それやめた方がいいよ。代弁主義だもの。本を書くという立場はもうすでに本多の考え方からいえば
社会的には「殺す側」だよ。「殺す側」のくせに「殺された側」からの発言をするっていうのは単に商売
のスタイルでしかない。
55年体制だからそんなのんきなことがいえたんだよ。すっぱり縁を切ること。
今時、本多なんか持ち出したら失笑を買うですめばいいけど、目新しい落ちをもってくるんじゃないか
と誤解されちゃうよ。
本多が考えたように支配/被支配みたいなのは間違ってる。社会っていうのはそんな単純じゃない。
相互依存的であるし、相互作用的だ。自分は○○な立場でなんていうのは原理主義。
あるのは観点だけだよ。一貫した説明をするためには観点がずれるとできない。
お前だって殺す側だろ。じゃなきゃ、お前は自分の作った米を食って、取った魚を、育てた鶏を殺して食べて
生活しているのか?
それらの労働に関わる人々が裕福に暮らせない現代社会において、2chでほざいてられる君が殺される側
だなんて誰もみとめないよ。
っていうかその二分法は間違っている。
(とはいえそんな一次労働者だって国家を通じて、税金の分配にありついているので、一面的に殺される側だと
はいえない。そのような共犯関係こそ社会的な関係というべきかもしれない)
194 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 22:42:38 ID:EsmqWGSY
>>192 お前、読んだことないだろw
心配するな、新しいものもシッカリ視野に入れている。
195 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 22:45:33 ID:EsmqWGSY
>>193 >っていうかその二分法は間違っている。
やはり、お前は糞なんだよな。
今現在において社会のリアルな問題は格差の再生産なんだがね。
教育の現場においても二極化が叫ばれ続けている。のん気な奴だな、お前は。
で、お前が守りたいものって何だ?
>>134 だからそれが無駄なんだよお。新しいとか古いとかいう問題じゃない。本多なんか最初からその態度が批判
されてきたよ。
新しい=正しいなのか?そうじゃないだろ。そして、新しい言い方だけコピペするだけなんだから止めなさい
って。オウムのいうことなんか誰も評価しないんだよ。
わかっていってるわけじゃないんだからさ。
>>195 格差が怖くてパンが食えるか。さっきもきちんと示したように生存にかかるコストAよりも大きなA'という報酬
がなければ生存はできない。
生存ができなくなれば、いっておくが、そういう人間の労働を当てにしたり、そういう人間の機会的行動を使って
資本を回収したりしている人々も困る。
個別にみていけば、悲惨だったり凄惨だったりする現実もあるが、統計的にみれば、なんということだろうか、
日本はいまや戦後最大の長期経済成長をしているのである。
(でも、きのう1こ買えたパンが今日は1こと0.01g買えるみたいな成長であるが。成長であるのは間違いない。)
そしてあらゆる政策の評価は「それで世の中がうまく回るかどうか」だけだ、そのためのセーフティネットである
し、社会保険制度なのだ。
わしの立場を聞かれれば、「貧乏は正しい」「みんな貧乏になれば解決する」そして、貧乏を恐れることは別に
ない。ということである。
いっておくが、今の日本は十分に豊かだよ。
弱者救済のために政府(公的システム)は存在していない。
<日本では憲法に第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】 が示されているので、
そこを全面カットすることは憲法違反になる。}
そこでも生存するっていうのはどういうことなのかという解釈の問題が常に問われている。
まさに正義の執行だよ。
で 貧乏だから結婚もできないって世の中は間違っている。
貧乏でも生活できる。結婚もできる世の中にしないと…はっきりいって、コスト高で社会が回っていかなくなる。
社会資本として考えられる一番のものは構成員間の信頼だ。
貧乏で結婚もできないって若者が増えると、反社会的な行動が引き出される。
その結果、えらく何をするにも基本コストが高い社会ができあがる。
それじゃ困るから道徳的行動を身につけさせようと考えるタコが現れる。(道徳的行動をとってたのはみんなが
貧乏だったという明治・大正・昭和の現実を無視してね。)でも、現実的に道徳が教え込んでいた幸福が約束され
なければそんな行動をする人間は存在しなくなる。
貧乏が増えると金持ちの義務が増えるのである。でもって、今やグローバルとかボーダレスっていわれる意味を
考えてみよう。
不良で貧乏な人々が増えるのは当たり前であるな。当たり前のことなのに、それを防ぐ方法なんか考えるだけ
無駄である。あいつらに義務を果たす仕組みをつくればいいだけである。
>>199 古臭いってバカにせずにとりあえず藤田省三でも読んだら、そんな戯言吐かずにすむんじゃない?
その手の格差肯定の妄言は、自民党のバカ議員だけで十分だよw
と一切流れを読まずに書いてみたよ!
格差容認じゃないんだなあ。これ。
もともと格差はあったよ。でも終身雇用のおかげで、いいかいここが大事。大勢の人間はローンでものを買うという
ことが可能になった。
(いくらお金を稼いでも個人事業主でかつ虚業ということでカードも作りづらければ、ローンも組みづらいという人も
いることをお忘れなく。)
結局、そのようなあるはずの未来を担保にして自分の価値の吊り上げを図るという手法は使えなくなった。
そこが大きな違いなのだ。
それでも日本の貧乏は北朝鮮の貧乏とは違う。とりあえず、食べるものは手に入るのだ。働けば。
(働かなくても手に入る人がいるのだから間違いない。)だから豊かになりたくても物がないというような量の貧乏
ではない。
じゃあどんな格差=貧乏が広がってるかといえば質の貧乏である。車は駐車場がないから買えない。買えても
軽だ。ブランドの服なんて一着もない。…ちょっとまった、えーとそれって貧乏ですか?
まあ貧乏だということにしておこう。別のところから眺めてみよう。大学進学と収入の関係だが…これって結局、
自分で調べてみてもらえばわかるが、恣意的にみようと思えばみれる程度の話で、金がなきゃ東大にはいけない
ってわけじゃない。もっと大事なのは受かるだけ勉強すること。(というか行こうという気持ちになること)
で学歴も結局は終身雇用を保証するものではないし、ましてや、就職時の給与を特別あげてくれるものでもない。
大学まで進学する人間が減ったからといって社会的には何も問題がない。
(返ってよくなるかもしれない。)
じゃあ格差ということばで何が本当は問題になってるのか、不可能性の拡大への不安である。できないことがどん
どん増えていくのじゃないかという思いである。もともと資産運用するだけの資本なんかもってないはずなのに、あり
もしない生涯賃金を計算して不安になるというようなことである。
そして、その解決についても触れた。
貧乏でも生活できるようになればそれでいいのである。そうすれば、よく考えてみればできることの数はそれほど減っ
てない、やる気しだいであることがみえてくるはずである。
政府はそのために、お金をもってるやつらと交渉すべきであるし、お金を持ってるやつらはみんなのためにこんなん
してますわと宣伝するようになるべきである。
202 :
良寛:2007/07/16(月) 02:33:23 ID:wp7QulKd
>>162 : ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/15(日) 13:58:45 ID:EsmqWGSY
>現場でまともに考える人間は医師免許を持つ人を勧める。
>心療内科とか精神科とか。それで何か解決すると思ってるめでたい人間はいない。
>ただ、加持祈祷よりマシだと思うからね。
逆でしょ。加持祈祷の方がよっぽどマシですよ。
そこが、猫の限界。
とにかく、お前の言っていることには、劣等感と育ちの悪さが滲み出ている。
ルサンチマン猫だな。早くまともな方法で世に出てこいよ。
>>195 さて種あかし。
猫がわしの書き込みの反応しているこのスレだが。
実はわしの発言は<「全的」というのは>の部分
あとはおっさんさんの以前の書き込みを引用した。
でも猫はそのことに気づかない。ということは…はい。
みなさんよくわかりましたね。まったく適当にしか読んでないし、
記憶もしていないのです。
自分が食い込めそうな単語。いいですか単語ですよ。文じゃ
ないんですよ。が出てきたら、ウッキーになって自分でもよく
わからないことを書き込んでるんですね。
だってさ、この場合、何よりも「論的」って何か説明しなきゃ
ならないでしょ。わしがわからない。って指摘してるんだから
おっさんさんもわからないよ。そんな日本語ないんだから、
部分的なことは論○的 論理的?違うは。論理的に全体構造
を検討することなんかできる。いったい何がいいたかったんだ。
204 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/16(月) 11:29:24 ID:UObsoAVE
>>203 たったそれだけ書き込むのなら書き込まない方が賢そうなのに。
アンカーがなければどこにでも書き込み出来そうなその反応。
猫仕様っていっていいですか。
命名。猫仕様
内容:あほ、はくち、などが内容で、それ以外の内容がない。
挑発という論理的でない要素によって相手の反応を引き出そうとする
書き込み。
しかも、通常は論理的であることを相手に求めている。
あるいは印象批評を非難しておきながら、自分は印象批評にとどまる。
矛盾をダメなものとしておきながら、自分の態度や発言は矛盾だらけ。
そのような構造体の仕様。
例文。
それやると猫仕様になっちゃうから止める。
猫仕様じゃ価値がない。
相手のことを考えない猫仕様は淘汰される。
これぐらい書き込んだらどうだろう。猫仕様にならないでさ。
さて在庫整理がすんだら、もともとのところへ戻るほうがいいだろう。
授業の話でもしておこう。
「ごんぎつね」を距離というものさしで読み取らせる目的はたった一つの発問にある。
『では、兵十とごんの距離は0になったか。0になるということはどういうことか。』
人と人との距離が0ってどういうことだと考えますか?
0になれば幸せなのでしょうか?
はたして「ごんぎつね」は悲劇なのか喜劇なのか悲喜劇なのか?
参照
映画「Crush」を参照されたし。距離0って…。
本当は4年生じゃ難しい。答えがじゃなく答えを表現することがである。
知っていることと表現することは別だからだ。でも何かこうあるときに浮き上がってくる何か
になるってことを求めたっていいじゃないかと無責任に思う。笑い飛ばすしかない現実って
やつを小学生だって生きているのだ。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 19:58:39 ID:Ox+IM128
どうして「あ」は結婚できないのか?
>貧乏だから結婚できない
いや違う。
>今の日本は十分ゆたか
だそうだから。
結論
本人に多大な問題があるから結婚できない。
>>207 猫に家庭があるように、わしも家庭の人である。
したがってその推論はまったくの間違い。
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 21:12:34 ID:WN34QSRY
あ
には
華麗にスルー
210 :
ヤマさん:2007/07/17(火) 12:43:40 ID:MgdwkOMh
家庭、課程、家庭、過程、仮定、下底、嘉禎?
まぁ、ことのほか同音異義語が多いね。
これが英語ならばライスの発音で「ご飯」か「虱」だが、
同じ文節では普通使われないらしく同居できるらしい。
まぁ、表音文字の限界か?
どこかで猫さんが言ってたけど、「プリーズ」と「フリーズ」を
聞き分けられずに、ズドン!
しかし、この物語っておかしいと思いません?
何故って、ズドンされた人に聞いたの?って思いません。
そうかも知れませんが、なんだか創られた話しのようにも思えます。
発音は大事なのはわかりますが、この話しは日本人を英語に関して
萎縮させる要素がありはしまいかと思います。
イギリス、フランスに限らず植民地を持った国は植民地に自国の言語を
輸出?していますよね。だからと言って日本が朝鮮半島、台湾に行った行為を
肯定するものではありませんのでご容赦の程をお願いしておきます。
さて、植民地ではブロークンな英語、仏語が使われますよね。
でも、それは果たしてブロークンと呼べるのでしょうか?
ブロークンにならないように教育しなかったからでしょ。
しかし、教育したとしてもブロークンに成らざるを得なかったのでは
ないでしょうか?
ただし、ブロークンでもなんとか通じるらしいですね。
だから、日本人がネイティブの発音に拘る必要があるのか、ないのか、疑問に
思いませんか。(まして誰からみてのネイティブなのか?オーストラリアのネイティブは、
アメリカではどういうあつかいをされているか。)
さて、日本ではどうでしょう?
果たして、ブロークンな日本語を容認しているでしょうか。
容認できる人もいればそうでない人もいるでしょう。
あなたはどうですか?
特に、「猫」さん、「あ」さん。
いがみあってないでなんとかなりませんかね。
ですよねO先生。
ヤマさん。日常会話ならブロークンな日本語でもう<用が足りる>でしょう。
用が足りればそれでいいのです。わしは端から日本語の論理は合理性というものに貫かれているといってます。
用が足りればそれが<正しいことばのつかい方>として認めたっていいのです。
あとヤマさん事実誤認です。イギリスもフランスも言語は輸出していません。成り上がるためには、そのことばを
現地の人が習得する必要があったのです。つまり、自由意志は尊重されました。宗教も強制はしていません。
日本が行ったのを同化主義といいます。
このような植民地経営は非常にめずらしいのです。
植民地で使われたのは、ピジン語とかクレオール語といいます。ブロークンなものではありません。中間言語とよばれ
たりします。
というように事実に反していることについては、つっこみますが、その誤った事実を語ることばについてはつっこみを
いれてませんよね。ヤマさんにいいたいことは、分かるからです。
(でも、ヤマさん、もう少し文章を書く練習をした方がいいかもしれませんよ。)
212 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/17(火) 20:43:49 ID:1ig7PqrH
>>210 ブロークンによって表そうとしていることは雰囲気では分かるのですが、
論の展開はクネクネ、グチュグチュです。
1)第一言語か第二言語か
2)ブロークンに対置する”正統”なるものをどう前提させているか
3)記述的/規範的ということをどう考えているか
4)ブロークンを勧めるとして、それはある正統を前提させてしまうという
論理構成上の陥穽
私は反国語的な規範主義です。この規範とは社会構成/構築主義のオーソドックスな
意味における積極的な意味での構築です。ただし、周縁的なものを射程に入れた上での
導きの方向性を考えます。
言葉は武器です。「思考と行動における言語」の示唆するような意味において、
武器の使用に関しては熟知するべきです。
言葉が武器だというのは、第一に認知(recognition)においてはその使用は発信者の
手中にあるのです。彼らがブロークン(ヤマさんのムード的な意味で)な言葉を偶発的に
使うわけではありません。
彼らは時には戦略的にあえて”ブロークン”であるかもしれませんが、ヤマさんのいうブロークンとは
正反対のものです。
ヤマさんのオプティミズムは一種の自爆です。発するためにだけあるのではないです。
発するさいの仕様なんてどうでもいいかもしれないのです。ポイントはいかに受けるか、
その一点をプライオリティは要請します。
我々が聞く、読む言葉とは、我々の支配にはないのです。
従って、彼らの支配を系譜学的に読める頭が必要です。
単純化すれば、粗雑なブロークン擁護は白痴養成の第一歩ですね。
騙されやすい阿呆を作ることを楽観するのは私には無理な相談です。
213 :
おっさん:2007/07/17(火) 21:49:39 ID:NrjInZun
以前あげておいた『国語という思想』によれば、
保科は、植民地の統治政策において、特に言語による同化政策を主張した。
その際、プロイセン=ドイツのポーランド人への同化政策を手本にした、そうです。
(矢内原忠雄の論文によって、フランスの同化政策についても紹介されています。)
その本の中で、笑ってしまった内容があります。
昭和14年、16年と文部省によって、植民地等における日本語教科書の編纂のために
「国語対策協議会」が開かれたそうです。
その中で満州国代表の大塚なる人物の訴えが紹介されています。
「既に大陸に在留して居ります日本人もそうでありますが、
今日大陸に進出する日本人の言葉の無統制は実に甚だしいのであります。
北満の地において二百名程の日本人のお互い同士の話が分からなかった
事実があったのであります。・・・
学校に於ける日本語建設が社会面において破壊されている。
その破壊者が日本人である。それではどうにもならぬと思うのであります。
大陸に発展する者は何れも日本語の不具者であります。」
>
私は反国語的な規範主義です。この規範とは社会構成/構築主義のオーソドックスな
意味における積極的な意味での構築です。ただし、周縁的なものを射程に入れた上での
導きの方向性を考えます。
>
あきらかに意味がわかってないと思われる。
なぜって日本語の論理でみたって意味不明な文だから。
反国語的な規範主義。反国語というのは結局、反国家って意味だろう日本語だって 日本じゃないのかね。
反国家的な規範主義において規範の基準はどこにあるのだろう。反国家的であること?
おいおい、国家なんかいらないというアナキストなのかい?
規範が 社会構成/構築主義のオーソドックスな意味における積極的な意味での構築です。
まったなんじゃこりゃ。酔っ払いが適当にキーボードの上でもぐらたたきでもしたのか。
意味が二つも使われてるのが始末におけない。
述部から解析を進めよう。 構築です。 何が構築なんだよ。 規範が構築です。 が…が…なのか格助詞
話にならないね。主題はなんなんだ。
猫氏は殺された。猫氏が殺された。同じだってか?ふざけちゃいけません。もうこれだけでいい加減だという
ことがわかる。が、それはまずおいておこう。もう。くらくらしてきたよ。
じゃあ補語の構造をみてみよう。
社会構成/構築主義の-----
オーソドックスな意味における-----
積極的な意味での----
構築です。
社会構成主義で通常使われる意味で、より積極的に用いられるってこと?でそれってまさに構築の説明だよね。
規範は構築されるもんだっていいたいの?
それってまさに社会構成主義/構築主義なんじゃないの?じゃあこの一文っていらないじゃん。
こういいたいわけ?
国家が規範を定め「ことばの正しいつかい方を決めるような」国語主義には異を唱えます。
しかし、だからといってことばに正しい使い方なんてないんだというような考えではありません。
正しい使い方を定めていくのは社会の構成員すべての言語活動であり、その結果生まれてくるものが規範であるべき
だと思っています。
でも、じゃあその規範を規範として認識させていく、学ばせていくってことはどうなるわけ?結局、文章的なマニュアル
文法書のようなものを作って基準化していくことになるんじゃないの。国家がやらなければOKって発想は安易すぎる。
俺がやってやるとでもいいたいのだろうか?
215 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/17(火) 22:21:02 ID:1ig7PqrH
>>213 イ・ヨンスクは保科に注目していますね。
時枝などに比べてもかなり阿呆だったようで戦後においても妄言垂れまくりです。
1948年発行『国語学』創刊号
「これを要するに、国語に対して統制を強化することは、いまや絶対に必要である。
(中略)
民主日本の建設を契機として、国語の純化運動を大がかりで起こすべきである。
(中略)
民主日本の国語としては、これまでの様相を改めて民主的なものに改めていかねばならぬ。
これまでの国語には、超国家的な用語や表現形式が多分に存在するので、これを一掃して
民主的なものに改善することが、今日の時勢上もっとも急要とするところであるが、
これに対しては、有力な国家機関の力にまたなければならないことはいうまでもない。」
戦前戦中戦後において国語審議会の幹事長であった彼の 戦後 とはこんなものだった。
こいつの頭はずっと戦前だったようです。悲しき国語・・
216 :
おっさん:2007/07/17(火) 22:52:18 ID:NrjInZun
保科の提言は、結局、全然政治的にも力を持たなかったんですよね。
その内容のつまらなさも格別ですが、
その文章は、現在でも実にすんなり読めてしまうところがなんだかすごい、
と思ったりします。
今ある日本語を作った力とはなんだったのか?
不思議に思います。
217 :
おっさん:2007/07/17(火) 23:02:06 ID:NrjInZun
「全的」というのは、「あ」さんの解説してくれた文脈で出した言葉でした。
内容も「あ」さんの解説でいいと思います。
自分なりの理屈はもう少しつめてみたいと思います。
概念的な説明が何もなく、例を出したため誤解があったかもしれません。
218 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/18(水) 00:13:07 ID:N7BLojEn
>>214 国家主義の権化、アメリカでも国語なんて言い出そうものなら大変なことに
なります。国家=国語っていう発想が問題なんですね。
で、規範ですが、ここでいろんなものを取り上げています。
三森らや一般意味論のことなどなど。石原の著書も別の可能性を出しています。
そういうものを統合する方向はそんなにいけませんかね。
国家が決めるのは、そういうものじゃーないと思います。
少なくとも諸外国では「武士道」みたいな文脈で言語教育を語ってはいないでしょ。
世界基準でお願いしますw グローバルが好きな日本なんだから。
219 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/18(水) 00:22:58 ID:N7BLojEn
おっちゃん
保科って、結局「統制」が大好きなだけみたいですね。だから何も大したことは
言わないし言えない。掛け声だかだから今でも十分いける。
今の日本語って合成ベクトルだと思いますよ。
だから、「国家の力」(保科)も一つの大きな要素です。ただし、保科は合成を考える
だけの知恵がなかった。でも、ある意味保科の意向はその程度には達成されているんですね。
その大きな要素として今も機能しているとは思います。「国家機関」w
論理力と情緒「力」wのキメラ。その内容はいかなるものか、展開に興味を持っています。
おっちゃんが煮詰めて出してくるものにワクワク。
>>218 ブロークンなうんぬんの語りのあとご自身がこのような表現ではいかがなものか?
また意味がわからんことば使いである。
>
そういうものを統合する方向はそんなにいけませんかね。
国家が決めるのは、そういうものじゃーないと思います。
>
そういうものを統合する主体は何なのか?猫なのか?嘘つけ。お前はそんな研究をしてないし、そんな研究をしても
発表する立場にない。発表する立場になければそんなことしたってそれこそ意味がない。
つまり、そういうものを統合することを請求することしかできない。誰もしくは何にだろう。
国家が決めるのは<そういうもの>じゃーないと思います。
代名詞が何を指しているかわからない。普通なら、統合して新たに作り出す規範と読むべき。だけど、それは国家はしない。
ってじゃあ前の文の主体がよけいわからない。
国家は武士道とかいっちゃうとかいってるし。?????
学生じゃないんだから、きちんと自分の現場からなんとかしてほしい。こういう文章じゃだめだろ。
アメリカは国家は国語といえる日本をうらやみこそすれ、奇異とは思わない。
アメリカはそれができないからこそ、星条旗と憲法と国歌を国民に習慣づける。
宗教は押し付けられないからだ。
古い国々はアメリカというのは<実験国家>だと思ってる。だから、アメリカを基準になんか考えない。
フランスなんかは国家は国語だといってもたぶんびっくりなんかしない。ドイツも。
グローバリズムとコスモポリタニズムの違いに注目されたし。
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 07:01:29 ID:5+G+OgJ2
ウヨ
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 13:07:09 ID:+1tTkdWC
>>219 合成ベクトルは許せて、パッチワークが許せない基準がわからん。
そもそもが反対のベクトルの合成はどうなるのかわかってるのだろうか。第一ベクトルには量と方向はあっても
内容はない。
言語を合成ベクトルと考えるときにその土台となる次元とは何でどんな方向を想定しているのか皆目見当がつ
かない。
一見、具体的でイメージがもてそうなこんな言説こそ破棄されなければならないものじゃないだろうか?
論理的という見地からは。
225 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/18(水) 19:12:07 ID:N7BLojEn
>>221 >アメリカは国家は国語といえる日本をうらやみこそすれ、奇異とは思わない。
そういうネオコンなどのウルトラウヨはいるでしょうが、それが「アメリカ」だと
断定する頭のできが心配です。アメリカでは少数言語などを保護する政策を取っています。
馬鹿ウヨはどうでもいんです。「アメリカ」だと断定する根拠を知りたい。
ま、デタラメだから無理だろうけれど。
>アメリカはそれができないからこそ、星条旗と憲法と国歌を国民に習慣づける。
>宗教は押し付けられないからだ。
この場合の「アメリカ」とは国民全体に超越し、なおかつ国民と対峙し強制支配
するようなものだと前提させているな。どこかで見かけたぞ。うっ、保科クリソツw
要は国家「権力」というものなんだろうね。国民とは関係ない、権力装置とそれを
実質で支える階級を国家だと前提させているようだ。
ま、頭が悪いから仕方ないけど、アメリカはそんなものじゃーない。
というか、そういう視線を内蔵したウヨ=ナショナリズムって醜いんだよね。
「戦後の思想空間」まんまの痴態。恥ずかし
>古い国々はアメリカというのは<実験国家>だと思ってる。だから、アメリカを基準になんか考えない。
嘘連発w
古い国ってどこ?ヨーロッパか?あそこはEUという方法で国境を薄める作戦に出た。
もちろんどこでも馬鹿ウヨが反対したけど、結局はそういう方向に行った。
通貨だけじゃーないぞ。共通の言語として英語を別格にすることは方便として容認している。
そのための言語教育の検討をかなり早い時期から始めた。詳論が要るか?w
アジアの国はどうだろうか。
金融テロと指弾したマハティールなどの話は知らんのかな。無知はこれだから困る。
どこも米帝を唾棄している。だが、お前のように「実験国家」などいうトンチカンな蔑視で
誤魔化すことを決してしない。なぜなら、米帝は今ここにある最も実質的な脅威だからだ。
見くびる、お前のような馬鹿ウヨスペックが日本を滅ぼす。
しかも、大澤が丸山や江藤らを援用して言ってるように、お前自身が完全にアメリカ隷属の
結果なんだよ。困ったもんだね。最後に、国家を叫ぶのは完全に西洋なんだよ。
その西洋は先に国家の揚棄に向かいつつある。その実験=賭けがEUなんだよね。
阿呆は餌を撒いてくれるからラッキーだ。頑張れw
226 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/18(水) 19:34:53 ID:N7BLojEn
>フランスなんかは国家は国語だといってもたぶんびっくりなんかしない。ドイツも。
>グローバリズムとコスモポリタニズムの違いに注目されたし。
出たぁー、白痴スペックw
そういう仏独がどういう方向に向かっているか、全く知らんようだな。無知は環境破壊の典型w
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9 >EUの中心メンバー
>ヨーロッパ中央銀行ヨーロッパ連合(英語表記ではEU、但しフランス語表記での略称は
>UE-Union européenne-フランス語:ユニオン ウロペンヌ となることに注意しなければ
>ならない。本項目では特に断りがない限りEUと表記する)の歴史的創立メンバーの
>1国であり、特に隣国ドイツとの経済的・社会的統合を推進している。
http://www.japantimes.co.jp/shukan-st/kids/lesson_english/la20050201a1.htm >僕たちの国は、おいしいもので有名で、きれいな言葉を話しているとよく言われます。
>パパやママが子供のころは「英語が通じない国」として知られていたそうです。
>今は、小学校でも英語が教えられています。ヨーロッパにある、僕たちの国は一体
>どこでしょう?
>えはフランスです。フランスといえば、かつて『最も英語が通じない国』や
>『国民が最も英語を話したがらない国』として有名でした。ところが、
>今では英語教育を小学校からはじめ、さらに第二外国語を中学校で習わせるなど、
>言語教育に力を注いでいます。
http://blog.goo.ne.jp/ofuransunokosodate/e/29e8e5f87767a08c90d7073ab6cfc6f9 >この伝統的な外国語教育に加えて、フランスはこの十年くらいで低年齢の児童対象に、
>積極的に英語教育、特に会話の授業を導入し始めました。我が家の子どもの長子と末っ子では、
>小学校や中学での英語の授業の時間数が全然違っていました。語学教育の基本方針を変更した
>フランスでも外国語、特に英語を話せる人の数はこれから倍増していくと思います。
☆ もちろんEUにおいても「言語帝国主義」という懸念から、多言語主義を唱えている。
しかし、具体的な言語政策として母語以外にEU言語二語を習得することを提唱
している。このことが実質的に意味することは英語での共通理解である。
もはや英語は「国家ー民族ー言語」という枠ではなく、一つのツールとして
自立/自律するアポリアが求められているということだ。
またことばの問題。
アポリア=問題。
一つのツールとして自立/自律するアポリア?なんじゃそりゃ?
クオリティ?さすがに想像のガイーブである。
どうして英語なの?英語が多言語なの?単に植民地における成り上がりの必要にすぎないのでは?
グローバリズムが進むと必ずや国語みたいなものへのゆり戻しがやってくる。
しかも、ここでは英語帝国主義なんじゃないの?コスモポリタニズムが対置されなければ、そんな自立/自律
(これも意味不明、言語が自立したり、自律したりするわけがない。使用する人間そして社会というものが消去
されてるんじゃないか。)
あと国民国家の説明をしなきゃならんのなら、メンドクサクテやってられない。
「アメリカ」こそまさに、形式としての国民国家を追求した姿だよ。国家権力の出自について考えをめぐらすこと。
「アメリカ」に王はいないぞ。
あとWikiの説明に
「コミュニケーション能力を中心とした国語<こくご;コクゴ>の授業が…」って書いてありますけど。
もしもし。
本当に読まないのね。ハァ。(ため息)
>ふらんすの英語教育のHPには
フランスの人が
「もちろん人にもよりますが、概してあまりないと思います。英語のみならず、ほかの言語に対しても正直言って
、あまり関心がない人が多いと思います。ただ、英語のできる人を企業がどんどん採用するようになってきたこと
に伴い、人々の関心も以前に比べて高まってきた気がします。」
どこがツールだ!<○○○汚いことば>
よく読んでからリンクしようね。(ま、無駄か。ハア…首の後ろをトントンする。)
230 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/18(水) 23:41:20 ID:N7BLojEn
「メディア・リテラシー―世界の現場から」 (菅谷 明子、岩波新書)
を読んだら、授業は全部 English とかだけど、便宜上「国語」って表現して
書きますってあった。ま、そういうことだ。「英語」にするとなんだか外国語、
第二言語っていう感じで受け取る人が多くて誤解されるから。
要は日本の事情を投射して翻訳したっていうこと。西欧で「国語」なんて白痴
でも言わない。常識w
EUでの英語についても言いたいことは一杯あるけど今日は疲れた。
せいぜい頑張れ。みなさん、「あ」君の言動には注視している。その期待に答えるべく
どんどん垂れ流してくれよッ♪
だから、日本が使ってる国語っていう意味の説明をされてもフランス人は驚かないよ。
公用語教育として受け止める。国語を他言語で公用語教育として相手に説明するとして
相手はどんな理解をするかだよ。
(公用語というものを認めない。母語しか認めないという国があれば、それこそ奇異に
思うだろう。)
猫よ。いい年なんだから、もう少し視野を広げて考えるといい。そもそも、教師でもない
君が国語科教育にかかわって<社会的メリット>をもたらすことのできる内容ってなん
だ?
君が塾の講師なら、はっきりいって、国語とか日本語とかこだわっていたって仕方ない。
学校とは違って塾には隠れたカリキュラムは必要とされてないから、模試か学校の成績
ではねかえらなければ、即刻、首だ。
ネイティブではこう言うのが普通だ。などといっても、教科書に載ってないものは教えない。
なぜなら、採点で×されるのが当たり前だから。採点者の知らないことを書いたってしかたな
い。
お金を取って、相手に実験教育を施すようなそんな塾は、すぐさまつぶれる。」
そういう切羽詰った地上戦こそ本来はここで話会われなきゃならないことだよ。
君は「殺される側」の立場に立つといったが、どう考えてもエクセプトミー、神の視点に立とうと
している。
言語教育上における殺される側とはいったい?どう考えたってそんな二分法は成立しないよ。
相互作用のようなもの、相互依存のようなものが除外されてるだろ。
ともかく書き込みもそうだけど<よく読む>ことを実践されたし。これはもう絶対、君に欠けて
いるところ。(ママンもね。)
232 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/19(木) 22:52:10 ID:P6gPqQ6E
>>231 さすが、シッタカ白痴スペックw
>だから、日本が使ってる国語っていう意味の説明をされてもフランス人は驚かないよ。
いや、驚愕だよ。「国語」なんていう概念どこにもない。
極右がそういう妄想を振りまくことはあるだろうけどね。
>だから、日本が使ってる国語っていう意味の説明をされてもフランス人は驚かないよ。
国語と公用語を味噌糞にする阿呆。思想的に歪んだ人間はとにかくまっしぐら。
事実なんてどうでもいい。大事なのは自分の「主義」・・・トホホ
言語教育の文脈で「国語」なんて使っている国なんて日本以外にないことがすべてだ。
例えば、教科としてどういう名称が用いられているか、その点は重要だと思うけど。
それから、どうも塾講師とかを卑下しているとしか思えないようだが、そのような心性は
いかがなものか。さて、私は自分を塾講師だと言ったことがあるか?勝手に決めるなよ、カス。
ノータリンの教育公務員を基準に考えるあたりが絶望的でんな。
それからな、予備校などをかつて支えたのは左翼の闘志だった。これは誰でも知ってる話だ。
つい最近まで知性とは左翼にかぶれることだったんだ。ただ、それだけでは足りない証拠だという
名言?を2ちゃんではよく目にする。だが、それはチャーチルの言葉じゃーないんだよ。
ちなみに、私はすべての左翼党派とは距離を持ってるし、かつて属したりシンパだったことも
ない。労働運動や市民運動とも基本的に無縁だよ。日本の労働運動に関しては「原則」常に批判的だ。
このあたりは一貫している。しかしなー、今でも知性はマルクスでもレーニンでも無視できないんだよ。
乗り越えを考えないといけないんだ。
お前は知性とも矜持とも関係ないようだから、ネト検索だけで生きればいい。
読まん本を薦める、その頭を疑うけど。
233 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/19(木) 23:05:56 ID:P6gPqQ6E
>(ママンもね。)
ママンちゃんは、今静観しているよな。
彼はよく知らないことだから「黙る」と言って寡黙だ。
お前とは違ってパッパラ言ってない。
そのような人間をことさら言及する意図が邪悪だな。
おっちゃんが「全的」に関して、お前の説明で終了だと言ったね。
実はあれには噛みつきたいことがある。でも、今はその方向ではないから黙ってた。
事後的に都合がいいということと、最初からそういう動機があったということは無関係だからな。
ま、いい。お前はお前の妄想を吐け。餌に感謝する。頑張れ
234 :
おっさん:2007/07/19(木) 23:54:46 ID:RGETuy4+
>おっちゃんが「全的」に関して、お前の説明で終了だと言ったね。
終了ということではなく、あの時点の整理としては、
「あ」さんの説明でいいということでした。
ここ十年ほど、自分なりに試行錯誤してきたことを、
とりあえず「こんな子に育てたい」ということを言葉にするとああなりました。
理屈については、それほど考えていません。
いい機会なので、少し考えてみたいと思います。
と言っても、なかなか自分からは考えが進まないので、つっこんでくれれば、
それに応える形で考えられるかもしれません。
噛みついてください。
235 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 00:12:55 ID:8wSsSJvc
>>234 私は道徳空間での「全的」しか感じませんでしたが。
しかも、「全的」は「善的」という前提があるように思いました。
仮にそれを前提するとして、「全的」なものは国語ではなく日本語に
親和性があるという私の感性と論理はどうでしょうか。
あるいは、国語であれ日本語であれ、そもそも母語第一言語だけで「全的」
というのはどうでしょうか。
他者・・・とまで言わなくても、せめて第二言語との格闘が不可欠だと思います。
閉じた「全的」など、何かの再生産、意図された反復でしかないように思います。
おっちゃんの「全的」は道徳空間においてだけ有意味・・輝きがあるように思いました。
「全的」という魅惑。それなら、赤子が最高でしょう。彼らは常に全的です。
「全」とは既に閉じて満たされた前提があるように感じました。
子どもの「全」とは常に部分でしかないという見なしは危険あるいは過酷ですか。
236 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 00:16:54 ID:8wSsSJvc
おっちゃんは慎重に論を、そして話題=対象を選んでいる方のようです。
もっと「全的」に反射して欲しいと思っています。
ピカソのように子どもを目指したいと思いませんか。
私はまだそこまでいってませんが。だからミケランジェロです。
237 :
おっさん:2007/07/20(金) 01:34:59 ID:HROXtdFP
「全的」という言葉もとりあえず使ったもので、固執はしません。
僕の実践の履歴から言うと、
ずっと発問を中心に授業を構成し分析的な読みを行わせてきたのですが、
そうした授業からの脱却が課題となったのです。
まず、子供たちを自ら言葉に反応するようにさせたかった。
子供たちの反応を引き出す言葉の側の機能を考えると、
これまでの分析的な読みにおける知的なものだけに限定できないと考えました。
特に低学年ではそうです。まさに「全的」です。
(しかし、教育の場では、大人がそこに回帰して「全的」になりたい夢であるよりも、
「未分化」としてもとらえるべきです。)
「道徳」の問題が出されましたが、今はそれほど意識していません。
『ごんぎつね』の一文の読みの例から、内容的な志向を感じたのかもしれません。
問題は、あの一文を子供たちがそれまでに獲得した読みの力でどう読み、
さらにそこに僕がどう働きかけるか、です。
内容的に「善的」かどうかは、あまり関心がありません。
(ただ学級に作品の内容が格別に意味を持つ子がいる場合、内容を重視します。)
「国語」というのはかなり怪しいものだと思います。
「国語」ではなく「日本語」を、というと、その怪しさが消去されてしまうような気がします。
怪しい「国語」でいいんじゃないかな、という気もするのですが、
確信あったのことではありません。
また、第二言語との格闘が不可欠というのもわかるようでわかりません。
漱石なんか思い浮かべますが・・・。
しかし、その一方で保科みたいな人間が大量にいたわけですよね。
さらに、現代では、「格闘」と言ってしまうと、
それは、それで物語になってしまうんじゃないかな、と思ったりもします。
僕自身は、結局、英語も日本語の古典も読めません。
そうした自分を根拠に語るつもりはありませんが、
猫さんの断定だけではピンときません。
猫よ。ものすごくがっかりだよ。
マルクスは労働価値説を批判するだけでその理論的な根拠は崩壊する。マルクスの説では交換に先立つ所有が説明
できない。(それを労働に帰結することはできない。労働価値説とはそのようなものでなく。等価交換において等価に投下
されているのは何かということの説明。)拾うという労働によって所有は発生しない。しかし市場にそれを持ち込めば、交換
できてしまう。(価値はだから市場における商品体系によって決定されると考えるしかない。)
レーニンはまたいで通ることができる。
猫よ。君がいってるのは知識人にすぎない。前にもリンクしたが、
よい子の知識人
ttp://www.thought.ne.jp/html/text/socio/13int01.html よりにもよって今ごろかよ。藁。
>労働運動や市民運動とも基本的に無縁だよ。
まさに批判者でしかない。プロ市民になった方がはるかにまともな考えである。何かしでかしたやつのところに行って
「ああ、やっぱりね、それだめだと思ったんだ。俺の考え方は正しかったな。」とニヤリと笑ってみている人間。
そのどこに倫理があるのよ。
そんなボルシェビキこそロシア革命において真っ先に攻撃の対象になったんじゃないかね。
それとどうも世界的な認識と君のそれとはまったく違うらしい。公用語は国語の概念を含んでいるぞ。
公用語
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%94%A8%E8%AA%9E それにはっきりいっておく。わしは反共だが、左よりである。
(だからといって、ある理想のためには事実を無視したり歪めたりして、何かを押しつけたり<精神的自由の疎外>や
論理的には正しいからこうすべきであるというような形式的な押し付け<注入主義>には断固として反対なのである。)
何かの考えが社会的に大きな力を持つことは<感染>によって行われなければならない。人々が、まさに、日本語で
いうところの<かぶれる>ことそれだけを信じるしかない。
(わしは真の左翼とはそういうものであるべきだと思っている。)
大きなかぶで
「かぶの気持ち」を考えさせるということがある。これは前提として「かぶ」と「ひっぱる人々」は何らかの関係にあるという
認識にあるからである。
おじいさんは、抜いてみたいくて抜いているのではない。もし、そうなら、おばあさんがきて抜けなかった時点で、
「つかれたから」やめようといってもいい。
抜いた後にこそ目的があるから抜くことにこだわるのである。(そもそも、そのためにたねをまいたのだ。)
「あまい、あまいかぶになれ。おおきな、おっきなかぶになれ。」
抜く方の考えは決まっている。さて、抜かれる方には分裂があるのである。
「応援=おいしいから早く食べてね。がんばれがんばれ。」
「拒絶=食べられてなんかやるものか。」
これは論理的には決定できない。この話をどのようなトーンで理解しているかということに帰結するだけだ。しかし、こちら
側を考えることは「ことば」を中心にこの話を考えるならとても大切なことである。
また、自然と触れる機会の多い子どもたちはこの話に含まれるもう一つの矛盾=お話だからな。に気がつく。
まごまでつれてくるのはわかる。しかし、その後のメンバーの序列には明らかに「ひそみ」がある。
犬と猫が共同生活をしているというのだろうか?猫とねずみが?おじいさんとねずみがなかよし?疑問におもっても、お話
ということで解決してしまうことだが、本当はここにこの話が語りつがれてきた秘密があるはずである。
それは道徳的なことなのか、倫理的なことなのかは微妙である。
低学年においてはそれ以上にこの作品の語り口、ことばのおもしろさこそがすべてであろうが。
深く読むということを考えた場合、おおきなかぶをもう一度高学年で行ってみるというのはとても面白いと思う。
(発問や授業構成を考えるのは難しいが)
桃太郎における。犬と猿。ブレーメンの音楽隊における犬、猫、おんどり。
これらの話が実感として語られ/聞かれたときにはそこに今にはない何かが付帯されていたはずである。
今だとお話の中のキャラクターにすぎないが。
(そもそも、なぜにこんなに対立が隠蔽された生活なのだろう。だからこそ、より衝撃度が大きな対立が
降りかかってくるような。え?これを<去勢された>と表現したいと!それはどうだろうな。それじゃあ、
女の立場がないよ。男は対立するもんだって?いやあ女こそ対立するんじゃないか?)
ぷは。読書量1万を超えると本の目次を見ただけで買う買わないがわかる。
ただそれだけのことだよ。なぜ、目次があるのかがわからない精読派に何をいってもしかたないかもしれないが。
少なくとも、いろんなことをあいまいにしたまま精読した。といって権威化するよりはるかにましだろ。
はっきりいっておく、マルクスを経済学的に読むこと。レーニンを科学的に読むことは意味がない。
柄谷はマルクスが経済学という意匠を取るために隠蔽したこと。隠れている建築にこそ、マルクスの可能性の中心が
あると語ったのであって、マルクスの経済学などというものは認めていない。
(あれは誰でも理論的に間違っていることを指摘できるから。)
同じようにレーニンが科学的という意匠を取るときに隠したものを読むことはためになるかもしれない。
(個人的にレーニンはそんなに偉大な思想家ではなく、政治家だと思ってる。そのような読み方もしたくない。)
>>236 また理想化してる。相手にそんな自分の思い込みを投射するな。
お前がそうなることを目指せばいいい。
相手と等身大で向き合うこと。
なんでピカソなの?ピカソは偉大なアンチミストでデッサン家だった。
その上、お前がミケランジェロを語るな。ピカソ>ミケランジェロで、
しかもミケランジェロとお前を重ねるなど…美術史家としては、
絶対に認めない。
ミケランジェロとダビンチの確執すら知らないだろうし、ミケランジェロが
なぜピエタにこだわったり、奴隷像や苦悶する人々の像に向かい続けたのか。
そして、ダビデはなぜ静止しているのか。
ともかく、君が美術を引用するのだけはやめてくれないだろうか?
エコールドパリで君の美術認識は終わってるようだし、とても、困るんだな。
天才の世紀みたいな扱いをされちゃうのがさ。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 18:23:44 ID:xzwk34t+
あ
一万 越えた
ホラ
244 :
おっさん:2007/07/20(金) 20:29:21 ID:bKehYBHB
>おっちゃんは慎重に論を、そして話題=対象を選んでいる方のようです。
もっと「全的」に反射して欲しいと思っています。
二人の論争は、読み流していることが多いです。
ひっかかりのある部分に反応しています。
猫さんの柄谷的なお話は僕が記憶する枠内に収まるような気がします。
ただ今、自分が刺激を感じるのは、枠組みや知識ではなく、
具体的な思考なんだと思います。
「あ」さんの枠組みはちょっと伺いしれません。
1万冊の半分も僕は読んでいないのかもしれませんが、
1万冊読むと「あ」さんが理解できる、というのとも違う気がします。
>柄谷はマルクスが経済学という意匠を取るために隠蔽したこと。隠れている建築にこそ、マルクスの可能性の中心が
あると語ったのであって、マルクスの経済学などというものは認めていない。
僕の読んだ記憶と「あ」さんのこうした見解の対応が図れませんし、内容も理解できません。
この間、茂木のクオリアを持ち出しましたが、
ちょっと読み返してみて、そのままでは使えないことがわかりました。
茂木の概念も脳科学的な知見(ミラーミューロンの発見など)もおもしろいのですが、
自分の概念のシステムとの調整を図らなければ使えません。
これは目次を読んだだけではわからない、問題です。
例えば、そんな興味の持ち方なのです。
245 :
おっさん:2007/07/20(金) 20:45:10 ID:bKehYBHB
例えば、「ミラーニューロン」の話題などは、
他者理解とか言語における表出や喚起の機能につながるのかもと考えます。
それは、「全的」な言語機能とそれに対する反応ということを説明にとって
有効かもしれない、そんな見込みがあります。
しかし、あわてる必要もないので、じっくり考えようと思います。
こうした発想は、僕の中にある概念のシステムに基づいてのものなので、
そのシステムは、それほど特異なものではない、
と自分では思っているのですが、自信はありませんね。
「あ」さんが「論理的」に対して「合理的」を顕揚する。
その時、「論理的」を形式論理に代表されるものとし、
「合理的」を日本語的、日本人的なものとする。
例えば、形式論理に代表される「論理的」に対する概念として、
西欧的な知の中でも次のようなものが思い浮かびます。
・パトス ・トポス ・レトリック ・対話、弁証法
日本語的、日本人的というと、これらとは違っているのでしょうか。
そんなことが気になったりします。
246 :
おっさん:2007/07/20(金) 21:09:31 ID:bKehYBHB
「大きなかぶ」、自分にも言及できそうです(笑)
「あ」さんの具体的な思考が展開されているようにも思います。
しかし、その最初からわからないのです。
>大きなかぶで「かぶの気持ち」を考えさせるということがある。
これは前提として「かぶ」と「ひっぱる人々」は何らかの関係にあるという
認識にあるからである。
(ぼくは「かぶの気持ち」を考えさせませんが)
かぶの気持ちを考えさせることにとって、「かぶ」と「ひっぱる人々」は何らかの
関係があるという認識が前提になる・・・ここからピンとこないのです。
当然両者には関係はあるでしょう。
そのことは当たり前すぎて、
「かぶの気持ち」を考えさせる前提になると言われてもピンときません。
かくかくしかじかの関係があると内容があれば、違うのかもしれません。
抜くほうの目的に関しても、
「おじいさんは、抜いてみたいくて抜いているのではない」
なんてことをわざわざ問題にするようなことではないと思えます。
>さて、抜かれる方には分裂があるのである。
「さて」がわかりません。
これまでの論理展開とどうつながるのか、全く理解できません。
「かぶ」には分裂がある、と断定する理由もわかりません。
>これは論理的には決定できない。
それはそうだ。
>この話をどのようなトーンで理解しているかということに帰結するだけだ。
しかし、こちら側を考えることは「ことば」を中心にこの話を考えるならとても大切なことである。
「論理的」ではなく「トーン」とは?
「ことば」を中心にこの話を考えるなら・・・そもそも「かぶの気持ち」は問題にしないででは。
>また、自然と触れる機会の多い子どもたちはこの話に含まれるもう一つの矛盾=お話だからな。に気がつく。
わざわざそんなことに「気づく」(?)のは、自然と触れる機会の問題ではなく、
中途半端に「虚構」を理解していないからではないでしょうか。
昔実感を持って語ったという人々は、自然に触れる機会が少なかったのでしょうか?
>その後のメンバーの序列には明らかに「ひそみ」がある。
・・・それは道徳的なことなのか、倫理的なことなのかは微妙である。
「ひそみ」という単語の意味がわかりません。眉をしかめること?
「それは」についての「あ」さんの考えを明示してほしいと思います。
247 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 21:35:28 ID:8wSsSJvc
おっちゃん
柄谷のみならず、概して私の見解に関しては納得してもらえると思います。
是非ではなく、腑に落ちるというような意味で。以前にも白状したように、
オーソドックスなことを基にここでは意見を述べています。ですから、
懐かしい話、見慣れた地平、陳腐な殺し文句・・・そんな感想でしょう。
全くそうなんですね。ただ、それが今でもホットであるという部分もあります。
「あ」の柄谷やマルクスは読むだけ無駄です。彼はそもそも何も読んでないのですから。
茂木及び脳神経科学は大好きな領域です。認知科学もよろしく。
できれば、スキーマ理論などにも言及してください。具体的な話で盛り上がればいいなって
思います。
248 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 21:42:23 ID:8wSsSJvc
>具体的な思考
その意味で、おっちゃんに問うたことがあります。
おっちゃんはある意味で彼岸に立った。その彼岸までの軌跡をすっ飛ばして
いきなり彼岸から始める子どもを 思 考 してみてください。
私は、そこに至る経緯が重要だと思います。
加齢とは常にそういうものです。
従って、逆に言えば子どもとはそうあるべきじゃーないと思います。
249 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 21:48:39 ID:8wSsSJvc
おっちゃん、
>>246 などを見ると、あるいは他の発言においても私の目指すものを感じています。
意外と/当然
論 理 的
なんですよね。だから、おっちゃんが「全的」とか言ってもけっこう安心しています。
ま、読めば分かります。十分、論理的分析的です。でも、そういう御自分に対する自意識が
何らかの乗り越えを模索させるのでしょうね。
もっともっと、おっちゃんの発言を聞きたいと心から思っています。
250 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 21:52:52 ID:8wSsSJvc
クネクネぽん
宿題の御本はまだ手に入れてません。忙しいのと他の課題がたまっていること、
その上遅読であるということで手間取ります。すいません。
ただし、気にはしてます。もうちょっとたったら、また督促してください。
ネト遊びが元凶でしょうが。
めちゃくちゃ話を拡大すれば、
育てられたものは育てた人の所有されなければならないのか?という問題がかくれています。
(たかが昔話なのにそんなに深読みするなよ。ということは脇へおいておきますが。)
かぶは食べるために植えられたのだし、そのために抜かれるわけです。
しかし、当のかぶに精神があるとしたら、(そんなことはありえないので、まあ投射したら)かぶはぬかれること、
食べられることをどのように考えるか。
金子みすずの大漁でいえば、まさに浜は祭りのよう<だけど>のだけどからの反転にあたる部分ですね。
けれども、この話をのんきなおとぎ話でありハッピィエンドを楽しんでいれば、かぶさえもぬけてよかった。
やくだってよかったということになる。一種の寓話として読み取れば、ハッピィエンドの影をなんとなく感じざるおえない。
それは結局、読みの基本トーンの話だってことです。しかし、問わなければ、そんなことがあるとも思わないし、そうい
う考えに触れることもできません。
問うことで、<ぬく>ということばが裏に<ぬかれる>ということばを含んでいることを認識できるようになるわけです。
それは<かぶになってみる>ことでしか問うことができません。
ひそみは誤用ですね。申し訳ありません。そりゃ、眉間にしわをよせたってしかたがないことです。ハイ。
このおおきなかぶを読んで、ふしぎに思う(思った)ことが一つあります。
おじいさん、おばあさんの次がなんで<まご> むすめじゃなくて…。そして牛とかじゃなくて犬、猫、ねずみ…。
そして明らかに敵対関係にあるだろうものがある一つの目的で協働している。
トルストイ版には、そのためのおちがきちんとついてるのです。まあ、なんたって道徳的教義を子どもたちにわかりやすく
教育するために昔話を収集し、語りなおした人ですからね。
しかし、娘あるいは息子はどこへ行ってしまったんでしょうね。(トルストイだけに戦争?なのでしょうかね。出稼ぎ?)
この作品は<読む楽しみ>以外にも<考える楽しみ>が隠れていると思います。そして考える楽しみに接することは
ことばを練り上げることではないでしょうか?そう私は思っています。
252 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 22:04:18 ID:8wSsSJvc
253 :
おっさん:2007/07/20(金) 22:22:49 ID:bKehYBHB
「大きなかぶ」の解釈、おもしろすぎます。
「大きなかぶ」という作品に道徳性があるのは確かでしょう。
西郷は、かぶを抜く存在が大きなものから小さなものへと変化していくことを指摘しています。
そして、最後はぬずみという小さな存在の力が加わったことによって抜けたことに意味を見出しています。
「あ」さんの解釈もまた道徳的、あるいは価値注入的ではないでしょうか。
そのこと自体、全面的に否定はしませんが、「ことば」を中心とした読みとしては問題があると思います。
「ことば」を中心に読むということは、物語では作品の仕掛けに即することでもあります。
この作品では、「かぶ」は人物ではありません。
内容的な予断があるからこそ、「あ」さんのような解釈が成り立つと思います。
「大漁」は作品自体にそう読ませる仕掛けがあります。
え? かぶは人物ではない?
それ自身は何もアクションを起こさないから?
じゃあ「ゴドーを待ちながら」のゴドーは登場人物ではないのでしょうか?
語られるだけで、実際には出てきませんよね。
かぶは抜こうとする人々の<対役>でありますし、このお話の実は主役
なのではないでしょうか?
この話は大きなかぶが抜けた話なのです。そのかぶが人物ではないと
いうのにはちょっと疑問を感じます。
もしこの話をおじいさんを主役にすると、ちょっと変ですね。
主役はおじいさん一家であるというのも…やっぱり変です。
変化したのはかぶだけなんです。
やっと、かぶはぬけました。
やっと、かぶをぬきました。ではないのです。そのことは案外決定的ではないでしょうか。
おじいさんはかぶのたねをまきました。(原文に忠実だと、おじいさんはかぶをうえました。です。
まくとうえるでは気持ちが違うという批判もあるようですが…異本間のテキスト比較が大切では
ないので…ここではパス)
ぬける(ぬく+可能だとしても)
やっと、かぶがぬけました。なら、わかりますが。
あくまでも かぶ<は>ぬけました。なのです。ことばにこだわって読むっていうことはこういうことだと思うのですが?
257 :
おっさん:2007/07/20(金) 22:57:26 ID:bKehYBHB
定義の問題かもしれませんが、通常「人物」とは人格化された登場する存在です。
<主役>と<対役>というのは、
「人物」間の葛藤などの関係が作品にとって重要である場合、有効な概念です。
物語では対立する勢力が重要なことが多いのですが、それは「人物」間であるとは限りません。
この作品のように「かぶ」が重要な場合、「人物」とは区別して取り上げることがあります。
例えば、「かぶ」に「自然」を象徴させようとする場合、
「人物」にしてしまうとその象徴が見えなくなってしまいます。
258 :
おっさん:2007/07/20(金) 23:10:03 ID:bKehYBHB
「は」と「が」については、諸説あります。
それを使って説明もできると思いますが、作品の「かぶは」を「かぶが」に
書き換えると違和感がありますよね。
それは、「かぶ」が「人物」だからでしょうか?
また、「大漁」に「浜は祭りのようだけど」とありますが、
もちろん「浜は」は人物ではありません。
「は」の用法としては、「かぶは」もこれと同じだと思います。
「が」ではなく「は」だから「人物」というのは根拠が薄弱です。
259 :
おっさん:2007/07/20(金) 23:18:30 ID:bKehYBHB
「ゴドーを待ちながら」、読んだことも見たこともありません。
ただ間接的に知っている知識から言うと、
とても「おおきなかぶ」の「かぶ」と同列にはあつかえません。
ベケットには、従来の物語が自明としている「人物」という存在への
批判的な視点があるのではないでしょうか?
用語法として「人物」とは思いや行動など人格化をともなった存在であるということから
かぶは人物ではないということは納得しました。
しかし、わたしはやっぱり「ぬく」―「ぬかれる」の関係はこの物語で押さえておきたいと思います。
安易な人間中心主義に陥らないためにも。
あと「は」と「が」については私は三上章氏の「日本語の論理 はとが」にもっとも考え方が近いです。
261 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 23:47:10 ID:8wSsSJvc
「あ」は三上あるいはそれ以降をまるで知らない。ハッタリ
「は」と「が」 情報構造 旧情報 話題
検索しろ、カス
262 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/20(金) 23:56:46 ID:8wSsSJvc
>安易な人間中心主義に陥らないためにも。
と言いながら、「かぶ」を人間にしたがる阿呆。
主役を人間にしたがる白痴。
「かぶ」とは国民国家のメタファーぐらいにすると面白い。
国民養成の道徳注入としての「かぶ」
「かぶ」とは革命の象徴ぐらいにすると歴史を予言することになる。
プロ賛歌としての「かぶ」
「かぶ」とは共同体の礎にすると回帰する。
土着のエコロジーとしての「かぶ」
か ぶ
とは超越性の内在w
263 :
おっさん:2007/07/20(金) 23:56:50 ID:bKehYBHB
三上さんは、「主題」と「主語」という考え方だったでしょうか。
この場合は、おじいさん(たち)「は」ひっぱる。しかし、かぶ「は」・・・
という関係だと思います。
浜「は」・・・だけど「海の中で」「は」・・・と同じではないかと思います。
対照的な関係を示すときに使う用法ではないでしょうか。
「安易な人間中心主義」を批判することと
対象に「安易な人間主義」ではない内容を見出すこととは区別すべきだと思います。
作品自体が「人間中心主義」であるならば、まずそのように読むべきです。
その上で批判すべきでしょう。
安易な人間中心主義をもった作品そのものに反人間中心主義を読んでしまうと、
かえって批判すべき相手が見えなくなるのではないでしょうか?
264 :
おっさん:2007/07/21(土) 00:09:19 ID:2eukZ4iy
「猫」さんの解釈もおもしろすぎです。
「あ」さん同様、大人の遊びではないでしょうか。
それはそれで、おもしろいので、僕もそうしたことはやりますが。
やはり内容的な予断を持った読みではないでしょうか。
「あ」さんの言う通り、1年生でこの作品を読むと、
内容的なものよりも反復される語り口に反応します。
そうした反応は大切だと思います。
「ピカソ」的かも。
二人とも大人ですね(笑)
265 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/21(土) 00:12:59 ID:smM7pPhz
>>263 >浜「は」・・・だけど「海の中で」「は」・・・と同じではないかと思います。
>対照的な関係を示すときに使う用法ではないでしょうか。
正解。かぶ「は」は旧情報、話題。異なる用法
「かぶ」の話はどう考えても人間中心主義だね。
だけどデカルト主義を撃ってることは間違いない。
反理性としての人間中心主義。もはや、人間はデカルトのコギトではない。
「かぶ」で脱構築された人間。
しかし、差異ではない。ふたたび人間中心主義に回収された同一性。
その同一性に対する「暗闇での跳躍」的な信頼。デリダの友愛w
満塁ホームランより決勝点のスクイズが光る瞬間。
主砲ではなく地味な職人がお立ち台に上がる光景。
道徳とは勇気の源泉にもなる、という根拠で教科書へ。
人間とはコギトを欠いたものだとする脱構築。
回収されるべき新たな人間が構築する「意志」
コギトを欠いた 意 思
演繹しない「コギト」
我思う故に他者あり
様々な契機となる か ぶ
266 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/21(土) 00:18:35 ID:smM7pPhz
>>264 遊びです。
>内容的なものよりも反復される語り口に反応します。
同様なことをよく目にします。リズム・・
斉藤などの身体論につながる・・・・・・危険性?w
無意味なものに惹かれるという無垢。
無垢という別のオウム。
「全的」という浮遊 離脱
遊びです。すいません。。
無意味とはバルトの終着
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 00:21:48 ID:quQ3o0Xe
おっさん。
理屈とこう薬はどこにでも付く。
あら捜しはいくらでもできる。
反論をしようとすればいくらでもできる。
違う視点からみようとすればいくらでもできる。
書いた本人が何を言おうとしているかを読み取る姿勢、能力がないようですね。
おっさんが猫と同じとやっと解かってきました。
違いはおっさんは物分りがよすぎる、と言うか、寛容すぎる、と言うか・・・。
猫はその逆。
いづれにしても、尊敬はできませんね。信用はできませんね。発言の内容ではなく、姿勢が。
言葉遣いの点では、猫より遥かにましですが・・・。
新しい主題=が 古い主題=は というのは批判も多いはず。
述語からの分析を基本とする三上の論理の方が適切だと思う。
その上で三上ラインが批判されるとしたら「表記の問題」の部分。
269 :
おっさん:2007/07/21(土) 00:27:09 ID:2eukZ4iy
最近の斉藤さんは、つまらないです。
昔はもう少しましなことをやってたと思うのですが。
子供が作品の音声的なものに反応する、
その事実は重要だと思います。
それは、「身体性」に関わるのだとも思います。
しかし、流通している言説は、安易に身体を持ち出すことで
思考停止しているものが多すぎると思います。
川島さんの音読とかと同根の思考停止があるように思います。
270 :
おっさん:2007/07/21(土) 00:39:36 ID:2eukZ4iy
>>267 なるほど、そう感じますか。
「あ」さんが言いたいことは、僕なりに考えています。
それは、あまり小さなことではないのです。
交通整理が必要だと思います。
僕自信は、「論理的」と「合理的」、「足し算的」と「引き算的」
という「あ」さんの問題提起を持ち続けています。
信用はされなくてもいいのですが、
考える話題を出してください。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 00:46:27 ID:quQ3o0Xe
>270
猫とママンの言葉遣い。
272 :
また変なの:2007/07/21(土) 03:02:17 ID:s6prCToR
>265-266
ヘイヘイ、猫、体言止めを連発は、お前がやばくなる兆候だ。
あと一歩間違えると、また嘘をつくことになるぜ。
お前は体言止めと主語の省略はやめとけ。
俺からの忠告だ。
>>267はわしじゃないので誤解なきよう。
論理的と合理的ですか。
合理的の一部が論理的である。 感情的であることも合理的でありうる。ということでご理解していただきたいのですが。
いじめの初期の段階において、論理を用いて語ることよりも、いじめられた相手が<怒り>を爆発することによって解決
することもあります。
そして、何よりも指導者の感情に裏打ちされた指導によって禁止できるのです。
ここでは、感情的である方がいじめをやめさせるという目的にとっては合理的なのです。
合理的は、エネルギー低下(効率)と合目的という二つの視点でみられるときにみいだされるものだと思います。
日本語のことばの論理とは合理的なのです。世界で一番短い会話として知られる
「どさ」
「ゆさ」もその典型ではないでしょうか?英語ではwhere自体を短縮なんかできません。youを発音からUと表記する
ことはできても、発音じたいを短縮することはできないのです。
ですから、日本語の論理は英語の論理を表現しえますが、英語の論理では日本語の論理を表現しえないことが
でてきます。(意味内容を写し取ることしかできない。)
説明における引き算、足し算についてはよいホームページがありましたのでリンクしておきます。
ttp://blog.livedoor.jp/zep716/archives/11853705.html
おおきなかぶに話をもどせば、私がこだわったのは、
<よんできました。>と<よびました。>の違いです。
この話では、省略されていますが、誰かが誰かをよびにいき助けをたのむことが
この一文から推量できます。
二つ かんがえてみる問題があります。
一つ目は、なぜ、みんなでよびに行かないのか? 引っ張っている回数から考えれば、一番元気のいい人が
呼びに行くのだと考えられます。
もう少し限定的にかんがえれば、一番の知り合いがよびにいくということも理由としてなりたちます。
どちらにしても、えがかれていない。<ひっぱった後の様子を考えるにはよい発問だと考えます。>
二つ目はよぶのではなく、よびにいくということから、頼み方と返事のやりとりを考えさせることです。
一年生だと。
「おねがい」
「いいよ」というパターンになりがちですが、中学年あたりからはもう少し広がるのではないでしょうか?
まごむすめが反抗期だとか。
犬と猫なんだから、最初はにげたんじゃないのかとか、おどかしたのかもしれないとか。
たった一つの文から、幅の広い学習活動を計画できる点でもこの作品は非常に教材として価値が
あると考えています。
>>273 日本語で面白いというか述語、述部、述べ立てこそが核なのだなと思うのは、
「さ」という一語をもって、行くという動詞の代わりと、か?という疑問を表す助詞の
代わりをしてしまうという合理性です。
おなじように「だ」もである。などの動詞の代わりの働きをしています。
「ぼくはうなぎだ。」は「ぼくはうなぎをたのむ。」という意味ですが、「だ」ということば
は断定ということではなく、「たのむ」ということの代わりに使われていると考えた方が
自然です。
英語には DOや BEがありますが、案外に日本語の方がそれらの働きをもった語
がたくさんあると感じられます。
日本語の論理には、語り手を「私という等身大」にとどめおくシステムが内在してい
るような気がします。英語のように「神の視点」へと押し上げていくことをことば自身が
回避しているようなのです。
それはなぜか、どうしてなのかは私以外の専門化の研究に期待したいと思いますが、
実感として、「もののあわれ」や「写生」がカウンターカルチャーとして飛び出してくる背景
にはそのようなことが感じられます。
話がとびとびになって申し訳ないが、気がつかれないとちょっとアレなので。
引き算としての説明ではなくて、引き算としての表現として考えると
「おおきなかぶ」はとても秀逸なモデルである。
絵画であれば、余白ということであろう。彫刻であれば手を作ることによって、
持っているものを暗示すること。抽象であれば、空間を空けることで、空間の
かたちを作って暗示すること。
それらは足し算ではなく、あきらかに引き算です。
別スレで一般意味論についてでてきていたのですが、ここでも役だつと思いますのでリンクしておきます。
ttp://www.kh.rim.or.jp/~masa-sem/ 地図と現地の比喩がここでも登場しますね。
277 :
チョメチョメ:2007/07/22(日) 02:20:39 ID:NlEDuFQa
言語事項で『読むこと』についてレポートを書こうと思ってますが、音読指導などで、うまく行くいいアイディアないすか(´A`)『
音読の前に言語事項であれば、姿勢、口形、発声、発音の4観点しかないはずです。
それぞれについて<正しい>規範は示されています。
したがって、どう児童に理解させ、定着させるか、意識化させるかということだけです。
どう考えてもそこから音読へ持っていくのは難しくありませんか?音読には抑揚、役柄による声を変えるなど、読解の
表現として考えられるものです。
低学年であれば、文字とことばがストレートに結びつかないので、音声化して初めてことばになるということもあります。
登るべき山が違うのか、登るべきルートが違うと思います。(だから、アイデアで詰まるんです。発想が逆ですよ。)
教師でない人のための解説
指導要領に定められた「話す、聞く、話し合う」「読む」「書く」以外に「ことばにかかわる事柄」を「言語事項」といいます。
言語事項には
発音発声・文字・表記・語句・文および文章の構成・言葉遣い・書写・文語調の文章(高学年・中学校)の分野があり
ます。
音読にかかわるものは、発音・発声になります。読むことというのは領域です。
音読指導で何がどうなれば<うまくいった>と考えるのですか?
それが示されなければ、合理的にも論理的にもアドバイスはできません。
つまり、それが具体化されてないのではないですか。読んでいる子どもの声を通して説明できますか?
できれば、そのために必要なスキルを学年順に考え、ある一社の教科書の単元を通して、それがどの
ように配置されているかを検討すればよいのです。
その上で、そのスキルが定着するための指導・訓練・実用としてどのような工夫がされているのかです。
教科書を批判するのはかまいませんが、残念ながら、教科書を作っている人々は現場での実践も含めて
教科書を使ってるだけの人たちよりも数段上で考え行動している人たちです。
教科書を無視して、メソッドを作りました的なレポートは、独りよがりにしかすぎません。小手先の技術の
並列になります。
(お面をつくって、役柄になりきるだとか。ペーブサートを使って物語の場面をより具体化するだとか。
…でもこれだって教科書や指導書にきちんと載っていますよ。)
281 :
ヤマさん:2007/07/22(日) 05:56:16 ID:8Hk/Ncss
質問です。
1足す3は4です。
では、
4は1の?(だったか1に○です。)
って質問、小学校1年生にホントにしているのでしょうか?
どうでしょう?
まず話の順番がめちゃくちゃです。
まず数と数字と量の連合を教えます。
□はいちで1と書く。□□は、にで2と書く。というようなことです。
次に数の性質としての、分解、合成を扱うのです。
□(1)はこれ以上分かれない数です。つまり、基礎となる数ですね。あらゆる自然数は1の累加として表現できます。
□□(2)は□と□からできてるとみることができます。1と1で2。2は1と1ということです。加法や減法をしてはいけま
せん。あくまでも量を分解し、合成してください。
□□□になると□と□□、□□と□の二つが生じます。そうですね。N-1通りあるわけです。
□□□□は1と3 2と2 3と1の3通り。(この辺りで普通は表と裏に気づきはじめます。)
5は1と4 2と3 3と2 4と1です。(ここまでが基本となる分解と合成です。)
6から先は特に重要なものとして5と1 1と5 (後は2と4 3と3 4と2)
7は5と2 2と5(後略)
8は5と3 3と5
9は5と4 4と5
10の分解はすべてが重要です。
なぜ5と○が大切かというと数を量にあらわした図としてタイル図やドット図がありますが、このような形式で直感的に
数の理解がなりたつように表現されています。
6□□□□□■ ○○○○○
○
このような図によって数を操作する(シェーマ)のためにはこのような分解が必要なのです。
ご理解いただけたでしょうか?
その上でN+Mが何の分解であるのかというのが次の理解なのです。
□□□+□(3と1でいくつ)ということです。この図が頭の中に浮かぶようにするための練習なのです。
283 :
ヤマさん:2007/07/22(日) 06:57:34 ID:8Hk/Ncss
>>282 それを馬鹿かといってます。
ちなみに、元教員ですが・・・。
起きたら詳しく聞いてみます。
284 :
ヤマさん:2007/07/22(日) 07:16:19 ID:8Hk/Ncss
足し算しながら引き算してませんか?
285 :
チョメチョメ:2007/07/22(日) 07:33:24 ID:NlEDuFQa
様々な意見ありがとうございます。えっと…すみません。まだ教育について勉強したばかりであまり難しい話は出来ないんですが、レポートは言語事項の指導の在り方について書かなきゃいけないんですよ(・ω・;)(;・ω・)
一応自分は、小学校1、2年生の指導で、発音・発生について限定して書こうと思ってます。指導要領には『姿勢、口形などに注意して、はっきりとした発音で話すこと』と書いてありますが、そういう風に子供達を指導するとは具体的にどうすればいいのかわからなくて困ってます。
>>284 足し算とか引き算とかを使ってはいけません。
足し算という意味や引き算という意味。それが数をどのように操作することかを教えていません。
<分ける> <合わせる>という概念で操作させてください。
上級としては、いいですか。生活の中には実は加法よりも減法的な考えの方で数の変化を見ているです。
あといくつは明らかにいくつ足りないかです。おつりも減法ですね。加法とは、一般的に数えなおし(合わせてから
1、2、3と数えること)をすることで解決してきたことなのです。しかし、大きな数を扱うようになると数えなおしでは
労力が大きいので、合理化するために生まれたのです。
小さな数では加法は誰も必要としません。
>>285 まず指導する必要があるかを確認すこと。児童の実態をきちんと捉えることです。
場面を限定してきちんと児童を捉えてください。
「あいさつ」「しりとりあそび」などではっきりと発音しているか、相手に聞こえるように話してるかどうか
そこから問題点を洗い出し、取り組みを開始しなければなりません。
注意することは、発音は親の発音を聞いて覚えているので、何が間違いなのかわからない子がいる。
舌を随意に使えないので、発音が未発達の子がいる。という個人差を踏まえて「できないこと」を意識さ
せすぎないことです。
発音の治療は
ttp://www32.ocn.ne.jp/~gaido/hatsuon.htm ここを参照のこと。
その子だけを取り立てて指導することを考えるのではなく、全体として言うこと(聞くこと)を通して正しい発音を
認識させていくことが大事です。
詩の暗唱や歌うこと。あいさつの指導。あは、ありのあなどの文字指導を通して自然と行うことが大事です。
間違ってもいいんだよという姿勢で、やわらかく指導していくことです。いいですか。これって実は母語の修正
なのです。 父親や母親がきちんとした発音や発声をしない人であれば、そういうものを正しいものとして学校へ来ている
んですから。
288 :
ヤマさん:2007/07/22(日) 08:14:39 ID:8Hk/Ncss
>>286 >小さな数では加法は誰も必要としません。
ホンマかいな?
>>288 必要としないでしょう。現実の行為で考えてみてください。
目の前のものを集めていくつか数えることで解決してしまいます。
何人かで集めたものを一箇所にあつめていくつなのかについても
山を作って、集めてきた人たちで10の山をつくっていけば解決します。
(しかもそれはもう小さな数ではない。)
わたしたちは5ずつならべたりして、加法の手間をはぶいています。
というか加法を必要をしないのです。
空白とつまったもの(枠との関係)において数量を操作する方が簡単
です。
1ダースという12進法が古くからあることを考えてみてください。
加法というものはとんでもない量を扱うようになったからこそ数の操作として
必要となったのです。(農業や採取における貯蓄量の問題。あるいは、それ
は何日分、何人分の食料なのか)
アメリカ、イギリス・フランスなどでは計算が苦手な人々が多くいます。
それは個人差というよりも文化的な特徴ではないかと思えるぐらいです。
それはやはり、数えるという行為が計算の代用であり、それで日常は
すんでいるってことなのでしょう。
電卓があるわけですし、表計算ソフトもあるので現在ではたぶんもっと
一般的には計算ができない人が多いのではないでしょうか?
教科書にもとりあげられてますが、おつりの計算はこうやります。
100ドルで35ドルのものを買った場合。
5ドルを置いて40と数え、10ドルずつ50、60、70、80、90、100と
100ドルになるまでお金を置いていきます。50ドル札を置くのはよっぽ
ど見えている人です。
数えるtこはは計算ではありません。
混同しないようにしてください。
292 :
チョメチョメ:2007/07/22(日) 08:46:27 ID:NlEDuFQa
なるほど…ただ、自分は発声などに関しては1、2年生であれば多くの子があまり出来てないように思えるので、全体的に発声の指導をしていく必要性って必ず出て来るような気がするんですが、どうでしょうか?(今回は、障害などによる困難に関しては抜きでお願いします)
293 :
ヤマさん:2007/07/22(日) 08:52:51 ID:8Hk/Ncss
>>290 石原都知事がフランス語は数も数えられない言語と評して、
不評をかったことを思い出しました。
あまり出来てないというのはまったく実態を捉えていません。
ですからレポートにするときは、こんな発音の子がいたらこうするという書き方の方がいいと思います。
まず。音自体をあなたはどのようにとらえていますか?
促音、長音、拗音、拗長音、破裂音、母音、鼻濁音などの音に関わることばを正確に理解し使うtことが
できますか?
まずはそこから整理し、あなたが一年生ではできてないと思われる音をきちんと確定させてください。
そこからしか話は始まりません。
はっきりいえば問題のとらえがあまりにも大雑把です。ワンポイントにしぼることが必要です。
たとえばラ行とダ行の混同についてだとかに絞らなければ結論は、正しい音を示し、くりかえし練習させる。
といった答えのバリエーションにしかなりませんよ。
問題の立て方についてきちんと学んでください。レポートっていうのはいいですか。
なにについて述べるのか(問題の提起) 動機、 問題の解決、 解決にとりくんでみえてきたこと(課題)の
ように書くんですよ。できれば、レジュメを表紙の前に添えること。(こんなことを大学生に教えなきゃいけない
時点でいった大学では何を教えてるのかが大問題であるな。レポートの書き方くらい昔は自分で参考書を見て
調べたものである。)
発声について
腹式呼吸。以上。これについて検索して調べ。じゃあどのようなトレーニングがあるか
それは教室でどのようにどんなことで実現可能か考えよ。以上。
発音の不明瞭さは障害にもとづくものではありませんよ。
一番だめだめなのは<矯正>という視点で考えていることです。
だから、どのようなことができる子どもに育てたいのかが前提でなければなりません。
どんな発声をもとめていたり、発音をもとめているのかが不明瞭です。その不明瞭さがレポートを書くことの
障害になっているのです。
ありていにいっても書こうとする対象についての知識が少なすぎるのです。もう少し関係文献を読みましょう。
それが普通です。
学問に王道なし。覚えておきましょうね。
少なくとも教科書は手に入れましょう。
学校の図書館や指導教官に相談してみましょう。まともな教育課程がある学校なら用意してあります。
当たり前のことです。(ついでに指導書もあるかどうか聞きなさい。)
まさか、明日提出だとか言うんじゃないでしょうね。
無理です。ふざけています。大学へ行って何してるんですか?
少なくとも国語科教育法でつかったプリントぐらいは目を通してください。
(出席もしていない。ノートもとってない。そのくせに単位をくれなどという
甘ったれた気持ちでは教員免許を取ることは出来ません。その上更新
制になるので更新で引っかかりますよ。)
どうしようもなかったら、どんな観点でどのようなつまづきを見つけるかというレポートを書くこと。
その方がはるかに上等です。
理由、まず自分ができてる/できてないという基準をはっきりもってないという動機から始められる。
でわかったことを書けばよい。課題は、問題が見つかったときの具体的な対応である。
レポートのアウトラインがこれだけ単純なら誰でも書けるでしょ。
あーわしって、こんなことまでサポートして…。もうお人よしだよ。
300 :
チョメチョメ:2007/07/22(日) 10:38:34 ID:NlEDuFQa
確かにあなたのような専門的な人から見たら、知能の低いバカ学生です。でも…わからないことを教えて下さいと言って何が悪いんですか……それに単位だけ取ろうなんて事はしてませんよ。でも色々と参考にはなりました。ありがとうございます。
301 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 12:41:25 ID:4jkkgpPF
>>269 おっちゃん
同意です。斉藤や川島あたりは怖いですね。向山・西郷などの方が数百倍マシです。
出口や他の進学塾(国語塾)の方がよほどいい。
例えば、「身体性」ということで言葉を考えたとき、私はヘレンケラーの言語習得を
思います。それは同時に、おっちゃんの「全的」に通じるものもあると感じています。
このあたりから話が進むことがあればいいですね。
(* いつのまにか、おっちゃんは猫並み認定ですね。姿勢や態度に問題があると。
「あ」と議論すること自体がそういうことになるんですね。私はそれを国語の本性だと
にらんでいます。こういう議論することを拒否する態度=道徳注入を目指すのが
国語だという絶望が私の動機でもあります。)
302 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 12:52:33 ID:4jkkgpPF
>>270 「あ」の馬鹿が言う合理性なんて、単に「腑に落ちる」という程度のものです。
理屈はデタラメのつぎはぎです。私は「腑に落ち『ない』」ということを重視したい
と思っています。腑に落ちないことを奨励することがあってもいいんではないですか。
それが、低レベルの批判にならないようにするのは難しいでしょうが、非常に重要です。
論理にこそこだわるべきです。合理性というのは、共有の拒否あるいは強制でしかない。
「日本(人、語)に合っているから」という話は全くトンデモです。
宣長が万葉集ではなく、(新)古今こそを称揚したのは技巧を素直に認めたことと
同時に、日本人の『心』そのものも万葉から変っていると認めたことも重大です。
そもそも、万葉の内面も既に十分大陸的で文字的だと思います。ある種の反復であり
確認です。オリジナルな内面こそは引用なんですね。ただし、新しい「織り」が新奇に
見える部分があるだけのことです。
日本では、そもそも大陸の模倣を重視しました。その事実をナショナリズムから認めない
のは恥ずかしい。”歌”の本意とは猿真似だったんですね。そこまで言い切ってからが
スタートではないでしょうか。
>>302 そんなら「一般意味論」なんか持ち出すな。
> 理屈はデタラメのつぎはぎ
何てこった理屈をベクトルの合成で示そうとした人間にこんなこと言われるとは?!
低レベルの批判?!
一般意味論における抽象性の度合いってやつはどうなっちゃうわけなんだろう。
えっと、和歌が大陸の模倣っていうのは、唐代が過ぎてからじゃないと言えないわけで
あ…もういいや。遣隋使、遣唐使も視野に入ってない人間に何をいってもしかたない。
まあ、古事記でも読むことだね。日本書紀でもいいけどね。はい。
うーん。わし中国の漢詩の歴史まで講釈はしたくないっす。お金ももらってないのに。
>>300 バカ学生じゃなくて、怠慢だっていってるんだよ。
わからないことがわかってないって指摘してるの。
わからないことを訊いて何が悪い。
っていうのは、何を知りたいかがはっきりしてる人がいえる台詞なの。
課題の何がわからないのかがわかってないからどうしてあげようもないのさ。
ピンポイントで訊けないというのは、結局、何もわかってないんだよ。
バカじゃないんだ。レポートの書き方を勉強しなよ。レポートにはきちんと形式
があるんだ。
ともかく、必ず近所に「ことばの教室」があるから取材に行くのもいい。
ネットで解決しようとしないというもの大事な経験だよ。
万葉な古今に内面を求めるのは、現在の我々の投射にすぎないよね。
言えることを言ってるだけだし、内面を表現しているわけじゃないよね。
江戸の俳諧と勘違いしてないだろうか?
芭蕉は明らかに漢詩の本歌取りをもくろんで詠んでます。
一茶の
めでたさも中ぐらいなりおらが春。ってどんな漢詩なんだ?
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士のたかねに 雪はふりつつ。
って何が内面なの?まんまだよね。ともかく俺は負けてない。俺は負けてない。
ってぶつぶつ言うのを止めること。勝ち負けではない。
牽強付会は気をつけよう。
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 16:10:18 ID:spuKRSFd
ここのスレではいつもそうですが、例えば合理的という言葉が出てくると、
その言葉の意味はこうだ、だれそれがこう言っている、この本を読め、URLはここだ・・・、
と言葉が独り歩きをさせられる。それどころか、全く違った話にすりかえられる。
主張とは無関係に不毛な論議になる。
>>273 合理的より合目的的の方が明確になると考えます。
>>302 生半可な知識や論理は聞き飽きたし、無意味。
全ては目的達成に役立つかどうか、合目的かどうかです。
お互いに異なった目的の下に何を議論しても無意味。
にもかかわらず、話が続くのは知識のひけらかし以外のなにものでもない。
同じ本を読み同じ知識を得れば同じ結論になると考えているようだが、幼稚過ぎる。
以後、本や知識やURLの紹介は必要なし。自分の頭で考えろ。実践をしろ。
その結果を書け。
ここでの一義的な目的は「国語教育」。
その上で、自分の目的を明らかにして議論をすべき。
>>307 ご指摘はごもっとも。でも、ここはある意味では猫という天使をきちんと地上に降ろすための儀式の場でも
あるのです。
(ご親切なこったという批判は当然であります。)
そもそも猫が国語をうんぬんして改善する立場にはありませんから、批判しかできないのです。
もちろん、その批判が前進とか、パラダイムシフトを要求するのであれば意味があるのですが、
そうではないから始末が悪いのです。
で、基本的には身近な日本語の実践しかないし、教えるってことで考えるしかないので、猫が
そこに着陸するのを待つしかありません。
例えば、柄谷が書いた。
>
たとえば、日本の前近代の文学において、あれほど風景が主題化されているにもかかわらず、
ひとびとはわれわれが見るような意味で風景を見ていなかった。
彼らが見ていたのは、先行するテクストであった。「風景」は、言文一致に収斂される認識論的
な転倒のなかで発見、というよりむしろ発明されたのである。
>
ですが、先行するテキストっていうのはいつの時代の何なのでしょうか。そのテキストもやはり、
何かの先行するテキストつまるところ概念を表現したものなのでしょうか?
と考えると、柄谷は近代以前は風景は社会の反映といってるだけなのです。個人の内面の反映
ではなく。
だからこそ山といえば富士山になる。富士山といえば雪となる。花といえばサクラであるように。
そういうことが読めないとこのテキストはまったくの教義になってしまい。
柄谷流のデーデキント的な切断がみえてきません。(デーデキントあるいはデデキントについて
は検索のこと。)
それを字義通りに実在するテキストであると思い込むような読み方こそ批判されなければならない
はずです。
漢詩にそれを求めるのは間違ってます。具体的なテキストなんかではないのです。
309 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 16:40:53 ID:4jkkgpPF
>合理的より合目的的の方が明確になると考えます。
全く意味が違う。
310 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 16:47:04 ID:4jkkgpPF
>柄谷は近代以前は風景は社会の反映といってるだけなのです。
そんなことは言ってない。文字を見ているだけということにすぎない。
そこでは意味が先取りされ、文字が裏打ちし、風景をもたらす。
>個人の内面の反映ではなく。
意味不明
>基本的には身近な日本語の実践しかないし、教えるってことで考えるしかない
ほんま、お前は阿呆やな。
その身近なものって何よw
単に最近に作られたもの、いろんな「力」がまぜこぜになってできたもの。
それは遠くからやってきた。ないモノから生まれた。そういう性質を有してる。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 16:47:13 ID:spuKRSFd
>>309 そこが論理偏重の猫の限界。論理のための論理は無意味。
312 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 16:49:20 ID:4jkkgpPF
>ここでの一義的な目的は「国語教育」。
>その上で、自分の目的を明らかにして議論をすべき。
笑わせる。
国語教育の「目的」が支配しやすい国民養成にあることを認めろと。
いや、違うというのなら詳しい話が聞きたい。
313 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 16:50:32 ID:4jkkgpPF
>>311 目的に合致していても合理的ではないことはたくさんある。
議論以前のお粗末くん
続き、柄谷は
だから日本中に富士山があるし、銀座があるのだってことを言ってるだけ。
この説明であの文章のいいたいことがわからないとしたら大問題だよ。
わからないこと=ものすごいことだっていう信仰は止めようね。
わからないこと=単に前提が共有されてないってことかも知れないんだからさ。
そういう世間的なものに対置された近代文学ってことがあの論考なのだよ。
でそういうものだったのにいつの間にか近代文学が世間的なもの(自然)に
なっているじゃないのさという批判であるよ。
(わかりやすすぎて有り難味がないかい。でも、そうなんだもの。)
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 16:52:11 ID:spuKRSFd
>>312 理解力の無い人間に何を言っても無駄。
縁無き衆生とはよく言ったもの。
>>313 いや、それは間違っている。合目的な行為はすべて合理的だよ。
理が違うだけだ。
論理というのは理の一種でしかない。整理整頓の仕方の哲学なのだ。
それにはいろんな流派がある。というだけの話。
また簡単すぎるかな?西洋流(デカルト的な観念論や、数理理論)
だけが論理ではないし、論理だけが理(ことわり)ではない。
女性をナンパする際の合理性は論理的ではない。
しかし、明らかに合目的である。
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 16:57:15 ID:spuKRSFd
>>313 >目的に合致していても合理的ではないことはたくさんある。
目的に合致していれば、それは論理的にも合理的なの。
合理的と気付かないだけ。
議論以前のお粗末くん
柄谷のこの文章を読めばそのことが分かるというか、わしの文章をガイドラインにして読めばあっさり分かる。
>
私が意識していた問題の一つはこうである。当時は、1960年代からの急進的な政治運動が破産し、その結果として、「文学」に向かうということが生じていた。
あるいは「内面」に向かうことによって、あらゆる共同幻想から「自立」することが可能であるかのように考えられていた。これが実際にはラディカルなポーズをし
た保守主義にすぎないということは、その後に実証されている。私はその傾向に反撥を感じていたが、たんに「政治」をいうことによってそれを否定することはでき
ないと思った。もっと根本的な批判が必要だった。私が気づいたのは、それが明治20年代から繰り返されてきたということである。
たとえば、日本の標準的な文学史では、坪内逍遥が『小説神髄』で「勧善懲悪」を否定し近代文学の理念を確立したことになっている。しかし、それは実はきわ
めて政治的な立場からなされていたのである。「勧善懲悪」とは、徳川時代の儒教的文学ではなく、明治10年代に自由民権運動と直結して書かれていた大量の
「政治小説」の傾向を意味していた。坪内逍遥がいう近代文学の「神髄」は、そのような「政治」から自立することである。しかし、現実には、自由民権運動は挫折し
ていたのであり、そのかわりに外形だけの憲法や議会が与えられたのである。明治20年代の近代文学は、自由民権の闘争を継続するよりはそれを軽蔑し、闘争
を内面的な過激性にすりかえることによって、事実上、当時の政治体制を肯定したのである。1970年代にはそれが違った文脈で反復されていた。私が「起源」に遡
って批判しようとしたのは、このような「文学」、このような「内面」、このような「近代」であった。
>
文字っていうのはさ、何かを意味しなきゃいけないよね。その意味が文字に内在しているとでも思っているわけ?
百回言えば真実に聞こえるって問題じゃないでしょ。
その文字の意味は社会の方にあるじゃないの。梅にうぐいす。月に雁。すすきに満月。波に星。
321 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 17:10:33 ID:4jkkgpPF
チョメチョメさん
あなたの注釈に反して、私は、例えば「障害児のことばとコミュニケーション」
(玉井
収介、教育出版)などの本をすすめます。これはちょっと古い本でしょうが、
同じようなものは他にもたくさんあります。
フロイトの精神分析は「狂気」を 合目的的wに目指した結果、我々の正常さを疑うことに
なりました。すなわち、無意識ですね。同様に健常ではない人や子どものことばや伝達行為から
言語の本質が垣間見えます。一番少なく見積もっても、自然科学の対照実験的な意味があります。
それ「だけ」では、結局何も見ないことになるんですよ。
上掲書に
「会話というのは、これからくり返し述べるように、表情とかまなざしとか身振りとかの、
直接の言葉以外のもの、言いかえれば、情感でわかりあうようような部分に多分に依存している。
だから言葉になっている部分を切り離して文章としてみた場合にはきわめて不完全なものである。」
このような non-verval なものを情感と断定的にするあたりが学問的にはお粗末ですが、
だからこそ逆にこのような要素をどう扱うか、非常に興味あることが浮かび上がります。
他にもヒントはたくさんあります。文字が読めない人、逆に聞こえない人の production が
どうなるのかっていうことなども。健常者は、やはり文字を聞き発話しているということも
よく分かります。
手話に関する研究もぜひチラ見してみてください。興味を引く話題や教授のヒントが
あると思います。
>>321 本人が障害というものじゃなくてって言ってるのに、、、
読めよ。頼むからさ。
彼はそんな次元で知りたいわけじゃないんだよ。
単にどうやって教えてるのってききたいだけさ。
でも、何を教えるのにだ?
教えるってことがみえてない。言語事項ってことは少し調べたようだけどね。
それに、フロイトは狂気を目指したわけじゃない。
どうしてわれわれは理屈に合わないことをするのかということを論理的に考えて合理的な説明の体系を虚構した。
そこでは、狂気は納得できる理屈があれは社会的なものであるということを証明する一方で、理屈づけられない
ものは恐ろしい狂気として機能してしまうことも同時に証明してしまったんだ。
そして狂気の説明(物語)として家・家族をもってきて物語を構成した。トラウマというのは実は近代だからこそ
成立する概念で、現代みたいなふにゃふにゃな自我が対象だと成立しない。フェティシズムの方がより説明とし
ては有効になってくる。
ただそれだけの話。無意識とは理性(論理)に対するもう一つ別の情報処理系のこと。もう一つの理(ことわり)
である。
324 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 17:23:04 ID:4jkkgpPF
デゥルーズのアンチ・オイディプスってそれぐらいのことさ。
>>324 したって意味ないよ。わしのいったことがガイドラインなんだからさ。
下らないことをいう奴だなあ。
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 17:28:55 ID:spuKRSFd
>>324 >>324 また始まったか。
何回読んでも、猫の理解力では無駄。
仮に同じ理解力があっても同じ結論にはならない。
そんなにURLを紹介したいのなら、紹介に徹して自分の日記は書くな。
328 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 17:33:00 ID:4jkkgpPF
おっちゃん
探し物をしていて、「国語教育本質論」(大久保忠利、一光社)なるものを
見つけました。昔、一生懸命読んだようで赤線や書き込みまでありました。
ただ、どういう人間が書いたとか、そんなことは興味なかったので覚えていませんでした。
その第一部では人間の「全面」発達としての国語教育/国語教師が熱く語られています。
おっちゃんの「全的」はこのあたりに少々関係あるように思ったのですが。
どうでしょうか。
マルクス「ドイデ」の引用から始まるあたりにはちょっとビックリですw
「支配階級の思想は、どの時代にも支配的な思想である。すなわち、社会の
支配的な物質的な力であるところの階級は、同時にその社会の支配的な精神的な
力である。」
引用はまだ続きますが、止めときましょうw
探し物は見つかりませんでしたorz
>>328 だからそうだっていってんじゃなんかさ。
内言/内外言/外言という関係で捉えるともっとよくわかるわ。
まあ、そういう話。
330 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 17:44:59 ID:4jkkgpPF
>>329 そうか、そうか、分かったからw
国語教育の目的とは、そういう支配的な思想を撃つ人間の全面発達を目指すw
331 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 17:48:33 ID:4jkkgpPF
「社会そのもの変革」を目にしてビックリw
「資本主義の中で骨抜きにされた」で驚愕w
大久保さん、なかなかやるね。
オイラはちょっとビビルよw
>>308 >字義通りに実在するテキストであると思い込むような読み方こそ批判されなければならないはず
これはわけわからねー。お前はいつまで経っても勝手なことばかりじゃのう。
柄谷は明らかに「先行テクスト」と言っているじゃねーの。
近代までの日本の言説空間では、参照テクスト/カノンとしての漢籍および日本の古典への言及が
きわめて重要であったのは否定できんだろ。例えば湖と言えば西湖、美人は楊貴妃、旅先の見所は
和歌に詠まれた名所旧跡といった形式が強固に存在し、また風景および人物の描写としてそれらに
まつわる多くの慣用句が存在した。漢詩がその意味での「先行テクスト」だなんてことは当然のこった。
それらの先行テクストへの言及と比較によってそれぞれの描写・表現が成り立つという言説空間のあり
方から、言文一致による「現前性の高い」描写への変化を「風景の発見」と言ってるんじゃねーか。
>.>331
でもね。結局主体、あるいは主体者意識、主体性っていうものに収斂させちゃおうっていうのは
間違いだったんだよね。
国家と個人あるいは連帯を対置するだけのことなのよ。そこら辺が時代の限界ってことだと
思う。
それって思い切り左翼的言説に回収されちゃってる。どうでもいい。
「ことば」なんだよ。政治は後からにしてくれっていえばカッコよかった。
そこが知識人(僧侶)の限界だったわけよ。
どうせなにをしたって社会と関わるってことは政治なんだしね。ことさら何かをもったいづける必要はない。
>>332 いーや。そんな文学的なテキストがここでは対象となってるんじゃないよ。
まさに紋切り型。通俗的なもの。東海道といえば五十三次というようなもの。
伊勢参りこそ旅行みたいなこと。そういうことを成り立たせている社会的な
テキストこそが先行テキストなのさ。
そのように読むと○○の時代のときは○○の時代というようなリニアな時系列
に縛られない。
つまり「歌を詠むその前に存在したすべての社会的な言説」ということであって
具体的に何ということではない。
それを近代ということばがあるからといって時代区分的に考えるのは明らかな
誤読だよ。
そういうものから近代文学は個人的な価値へと転倒させたといってるのさ。
独歩が見たのは、まさに新しいテキストだったのさ。北海道=植民地
新世界のようなものを他でもない独歩だからこそ、空知の川岸に見出した。
しかし一端語られてしまえば、独歩の風景として同じように扱われてしまう。
バスガイドが声爽やかに、
「この景色を国木田独歩は…」みたいにね。
たったそれだけのことなんだよ。そしてそのように語ることができたのは
言文一致という失敗した政治のおかげだったってだけ。
神田に新しい風景を見出しているのはそのように書く誰かがいるからにすぎない。
ってことさ。
そして、そのような書き方を近代以前はあまりしなかった。(全くなどといっては北斎や広重
が可哀想だ。)
一方で柄谷の論議はこのような美術と言説との関係を抜きにして語っている。
であれだ、いいかね。先行するテキストの中には「ある事件があったところ」という語りも
含まれる。
わざわざ関が原へ行って、
夏草や兵土どもの夢のあとと詠むのはそのためだ。
たったそれだけのことなんだよ。あーあ。わからんのはどうかしてる。
>>332 一番おかしいのは和歌に詠われた名所旧跡なるものはさ、じゃあその和歌はどんな先行テキストによって
詠んだのかってことになるってことだよ。
そんなテキストなんかじゃないんだよ。
わしの解釈ならそんなものいらない。その時の人々の言説そのものが先行テキストだからだ。
その当時の人々が適当にいい散らかして社会的に感染度の高い概念との共犯関係にすぎないよ。
いいかい文学なんかなかったって柄谷をいってるんだぜ。
それなのに漢籍とか和歌とか文学的(後に後づけされたもの)なものからの引用だなんてださすぎるよ。
社会的言説の一つにしか漢籍も和歌すぎないの。
そしてだからこそ、意味があったの。
文学みたいな囲い込みによって…以下略。
しっかし、あの本を十何年も誤読してしかもそれが真実みたいな読み方をしているのは
どうかと思う。
もっとあっさり読めば単純なことしか言ってないよ。柄谷は。
そもそも柄谷は誰に向かってものを言っていたのかってことさ。そいつらの言説に対して
こそあの言い方は突き刺さるだろうにさ。
問題が共有されてないから、真実みたいな受け止め方ができるんだよ。
>わしの解釈ならそんなものいらない。
>その時の人々の言説そのものが先行テキストだからだ。
お前の「わしの解釈」であることがわかっていればよい。
その「言説そのもの」にはお前が否定する「漢詩」だってしっかり含まれているという
ことにどうして気づかないのかね?「先行テクスト」が冊子という形態をとるものだけだ
とは言わないが、お前がそれらを逢えて除外する意図がさっぱりわからない。
>和歌に詠われた名所旧跡なるものはさ、じゃあその和歌はどんな先行テキストによって
>詠んだのか
はぁ?質問の意図がわからん。何を問題としたいわけ?
341 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 19:20:43 ID:4jkkgpPF
大好きな松岡さんの言ってることを無視したらいけないよ、「あ」君w
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0955.html >ひとつは、ルソーやヘルダーなどが「遠くの言語の起源」(古代)に向かったのに対して、
>われわれは「近くの国語の起源」(近代国家発生前後)を見なければならないだろうということ、
>もうひとつは、ソシュールが確立した言語学による「ラング」の適用では、ネーションステートが
>ほしがった「国語」の問題は解けないだろうということだ(ソシュールは言語の本質を国語から
>切り離してしまった)。
これは「日本近代文学の起源」の延長にある「日本精神分析」に関するものだが、
柄谷(の論)に対し包括的に述べているので整理整頓にはピッタリだよ、
馬 鹿 な 「あ」 君w
342 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 19:25:14 ID:4jkkgpPF
柄谷は記紀でさえも大陸の翻訳だった(かもしれない)と言ってる。
(正統!な)歴史を残すということ。文字で記録するということ。
そういうことは完全に大陸発だというのは間違いない。
んで、分析対象を大陸に移して、さあどうするんだべさ、「あ」君w
遠い起源への視線とは一つの歪んだ意図、腐った目的
近い過去において作られた国語の『目的』を考えようとしないのはなぜか。
そう、国語とはそういう思考それ自体を奪うことを目的とされている。
それが道徳の中身だよ。
>>340 あーママンわからなかったのか。
はいはい。Aの時代→過去Bの時代和歌をなぞる。
過去Bの時代→過去Cの時代の和歌なぞる。
ってそれじゃオリジナルこコピーの焼き直しだよ。
どこかにオリジナルを設定しなければならなくなる。
だからそんな解釈は破棄すること。
第一、漢詩を含むとだけとは大違いだろ。その差異が
わからないようじゃもう結構。
>>342 藁。そんなこと当たり前だろ。それはオリジナル/コピーという問題ではない。
歴史という考え方が輸入されたっていうことだ。日本には歴史という考え方や技法がなかったのさ。
前にも説明した地中海世界と中国にしか歴史というものは生まれなかったってね。
もう忘れたのかい。
つまらない反論だな。それ。
じゃあなぜ歴史書のようなものを作ったのか。誰もしくは何に対して作ったのか。中国だね。
なにせ日の出ずる国の太子がでっかい爆弾をしかけちゃったからね。
まったく今回の件とは関係ないね。はい。ご苦労さん。
>>341 で何がわしと違うの?第一わしは日本語はランガージュだっていってるじゃんか。
合理的な反論じゃないね。それ。ここでも話しことばのと書き言葉の共犯関係が問題に
なっているだけだよ。
つまんねえなあ。全然だめだね。論点がずれてるし。
346 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 19:38:41 ID:4jkkgpPF
おい、白痴ごまかすな
例えば、
>それを近代ということばがあるからといって時代区分的に考えるのは明らかな
>誤読だよ。
これが重大なんだっていう話なんだよ。
お前、松岡のコメントを読んだのか?
ま、いいんだ。いつものことだけど、お前のことは重要ではない。
お前「で」語ることが大事なんだ。読むのはお前とお前の後ろでくすぶっている
ようなカスばかりではないからな。
さあ、どんどん右往左往してくれ。
はあ。○○の相手をするのは疲れるね。
あのさ。わしがいってるのは近代ということばがあるからといって
「先行するテキスト」なるものを時代的な後先で考えるのは読み違え
っていってるんだよ。
で本来引用するのはこっち方だろ。○○だから。
>
ともかくも柄谷は日本が独自の国語をもつことになったのは、西田や丸山が想定したような理由からではなく、
きっと歴史的幸運がはたらいたからだろうとみなしたのだ。
幸運は3つある。
日本の古層が壊れなかったのは、異民族による侵略や抑圧がなかったからだということ、
中国・モンゴル・ロシアと日本列島とのあいだに朝鮮半島があったということ、まずこの2つだ。
3つ目は、もともと万葉仮名の原型は朝鮮半島で考案されていたにもかかわらず、これが日
本の“発明”に集約できたことである。朝鮮半島に万葉仮名が成長しなかったのは、朝鮮語は
母音も子音も多いため、子音と母音をアルファベットのように組み合わせるハングルに飛び火
したせいである。そのかわり、母音も子音も少ない日本語が万葉仮名から仮名文字に進むこと
ができた。
この朝鮮と日本のことについて、柄谷は坂口安吾の先駆的な見方をいくつか紹介する(第873夜)
。文末にも『堕落論』を引用して、この論考は終わっている。
>
なんだかわしがずっと言ってるようなことだけど一衣帯水とかさ。もう。別にいいだけどさ。
自分だけの柄谷を作って崇拝するの止めたら?
それこそ否定的な超越におぼれ込んでいく誰かみたいじゃないの。アーアー。
第一そのような見方はその本の中で柄谷がひっくりかえしてみせた歴史主義的普遍性に
のっかってみているじゃないか。
本当に○○だなああ。もう。
349 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:01:05 ID:4jkkgpPF
伏字が反対にエログロw
>>343 はぁ?オリジナル?
そんなものを実体として求めてどーなると言うのだね。くだらねー。
独創性を重要視する態度そのものが近代的思考の副産物だという話で終了。
ここでは伝統の拘束からの自由について論じているのであって、そもそもその伝統が伝聞および反復の中
での変化を経つつ継承されてきたものである以上、伝統の「起源」などをうんぬんしたところで仕方ねーだろ。
漢詩や和歌は近代まで引用の織物におけるきわめて主要な縦糸のひとつであったわけだ。
あのう、どうやったらこれらを無視できるのかね?さっぱりわからねーわ。
>>350 じゃあ先行するテキストってやつはどうなるわけ?
わしのようにその当時の場所に対する概念だっていうんじゃないなら、
あのね君たちは漱石の風景に対する柄谷の説明に引きずられすぎなんだよ。
漱石が属していたもの=社会の先行テキストが漢詩的であったというだけなんだ。
漢詩的なテキストだけが近代以前の風景を支えていたわけではない。
>ここでは伝統の拘束からの自由について論じているのであって、
どひゃーそんな話はひとつも出てこないよ。なに勝手に作ってんの?
○○からの自由だってさ。
それこそ文学じゃないか。
352 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:11:27 ID:4jkkgpPF
西洋の論理に徹底することで終了。
日本的という妄想を止めよう。
そもそも国語とは一つの政治、一つの実験、一つの恣意性の合成、一つの悪意w
「あ」から学ぶことはホント何もないw
漱石が属していたものが漢詩的であったわけは単に漱石が旧武士階級、士族に属していたからにすぎない。
ただそれだけの話なんだよ。
わしはきちんと漢詩も含んで説明したんだがなあ。あいかわらず読めないねえ。はあ。
>>352 根本的に間違っている。国語だからではない。
ことばというものはすでにそういうものなのだ。英語はそれから逃れてるとでも思ってるわけ?
モンゴル語だってバルバル語だって同じだよ。
足りないねえ。本当に。
355 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:17:04 ID:4jkkgpPF
>>354 あっ、そうっw
なら日本語でいい。国語っていらねー
使用言語と民族を同一視したいというのが民族学の考えだった。
でもそんな無理だったよ。クレオール語という存在が具体的に否定してくれちゃったからね。
まさに民族というのは虚構だってことがあきらかなんだ。(あるいは構築っていうべきだろうか。
しかし構築というとき、無意識の内に構築者=設計者を用意してしまう。社会学的構築主義は
そのような存在を否定するところから研究が始まっているはずなのに。)
>>355 それで何がいえるわけでも、何が変わるわけでもない。なぜなら、多くの人々は自分は日本語を話している、
使っていると思っているのであって、国語を使っているなどとは考えていないからだ。
つまり、「遅れてきた青年」でしかないね。
まったく現実の蚊帳の外だよ。
358 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:20:51 ID:4jkkgpPF
>まさに民族というのは虚構だってことがあきらかなんだ。
誤魔化さずにw
国 語 っ て 虚 構
だと言ってしまおう。スッキリするけどw
359 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:21:44 ID:4jkkgpPF
>>357 なら、よけいに 国語→日本語 でいいわけだ。終了
360 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:24:30 ID:4jkkgpPF
「あ」君、ヨレヨレでんがなw
それ以上に日本語とは何か。日本語とはどんなことばかという問いの方がはるかに深く、国際的である。
でそれに答えようとしたのが国語という概念だったのだが。(まあ流産しちゃったわけだけどね。)
実はそれに答えうるフレームを用意したのが三上章であるし、その影響を受け外国人のための日本語教育
に生かした(まさに日本語とは何か)寺村秀夫である。
362 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:26:05 ID:4jkkgpPF
>国語を使っているなどとは考えていないからだ。
黙読百回、音読千回w
363 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:29:21 ID:4jkkgpPF
>それ以上に日本語とは何か。日本語とはどんなことばかという問いの方がはるかに深く、国際的である。
>でそれに答えようとしたのが国語という概念だったのだが。
ホンマ、阿呆やなあー
国際的な文脈が「日本語」を要請するんだよ、「あ」君w
>実はそれに答えうるフレームを用意したのが三上章である
関係ない。事後的にそういうことを見出す輩がいるだけ。
三上で終了か。なら、国語は要らんね。
彼は従来の国語というフレームを壊したかった。違うか?
364 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:31:08 ID:4jkkgpPF
しかし、まー、急に三上に心酔かw
柄谷といい、あわてて読むのは大変だね。
>>359 そんなことにわしはこだわってないが?何いってんの?
っていうか誰にいってるの?
仮想敵にすんの止めてくれないかな。わしは国語絶対なんていってないし、
勝手に思い込んでるだけじゃん。
どっちだってわしゃかまわんよ。くだらない。ハア。
松岡がばかにしてた
>今では、世界に向けての日本語などという発想すらなくなって、英語公用語主義に猛進中である。
という猛進中の人なのかな。
366 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/22(日) 20:34:13 ID:4jkkgpPF
>しかし構築というとき、無意識の内に構築者=設計者を用意してしまう。社会学的構築主義は
>そのような存在を否定するところから研究が始まっているはずなのに。)
お前、何を根拠にそういう嘘を連発するんだ。
社会構成主義って、そう「意志する」ことに焦点を当ててる。
だから社会変革wなんだって。引用して連投しようか?w
設計者=構築者の要請を正当化するのが構築主義
>>363は独り言。
モノローグにしかすぎない。根拠だ。根拠といっていた人間がこれである。
目を覆いたくなるような知的貧困であるな。がっかり。
三上が「主語という用語を使って日本語は説明できないとした」のは十分国際的だよ。
わしゃ、君の脳髄のサンプルの方も国際的価値があるかもしれないと思い始めている
ところだよ。
>>366 ぶはあははあはは。苦しい。笑わせないでくれ。
それって権力者ってことになるじゃんかさ。つまり君のいう殺す側だ。殺す側にならなければ、殺し合いをしなきゃ
構築はできないっていってるようなもんだぞ。
君は殺される側じゃなかったのかい。そういうことを迂回する方法を見出そうとするのが社会構築主義だったはずだ
よ。そういう権力的なものいいを骨抜きにするような方法でさ。
あーおかしい。
猫をおフランスちゃんにならって、エングリッシュちゃんとでもよんでおけばいいだろうか。
西洋論理主義でOKだそうだ。しかも、その西洋ってって英語のことだぞ。トホホ。
しまったトップメニューだ
哲学からみた国語教育うんぬんを読んでね。そーりー。謝謝。申し訳ない。
猫さん質問です。子供(小4)に医学部を突破出来るほどの英語力を身につけさせたいのですが、
どのように学習させていけばいいですか?
まだ英語には全く手を付けていません。
国語力は普通の小学生並で、英語の構文や文法理解などをドンドンこなせるレベルにはないです。
自分としては習い始めたら一気に構文や単語をたたき込み、
英文を読んだり、ヒヤリングをしたりと、とにかく使う機会を組み込み、
英語もある生活に変えていくのがいいのではないかと考えています。
学習を始める時期や効率的な学習法を教えて下さい。
猫じゃなくてごめん。
医学部に受かるために必要なのは英語だけじゃないと思うけど。
英語を習った方が(つまりお金をかけた方が)早道だと思う。
親が勉強を教えるっていうのは、少し難しい。基本線は間違ってないけど、
親レベルにしかならないというか、親レベルまで行かないのが普通。
つまり、あなたが医学部に行けるだけの英語力をお持ちなのかということが
ポイントになってしまいますが。
方法だけじゃ意味がないのでは?
小学校で行う英語の授業は一般的に慣れる程度、コミュニケーションツールとしての英語を扱っています。
受験のことは全然考えません。
COLORを読めなくても、カラーと発音していればOKみたいな感じです。
受験英語は特殊な領域なので専門家に任せた方がいいんじゃないですか?
カァルァー
>>374 餅は餅屋ってことですよね。
俺はパンピーレベルの英語力しかないんだけど、それでも
高校生対象の参考書なら理解できる。それでは
間に合いませんか?親子で一緒に英語学習って無理なのかな?
あと英語は独習が基本だと思う。だから、最初の方向付けさえしっかり
やっておけば、チチローや横峰パパみたいな指導は出来るんじゃあないかな。
難しいレベルは専門家にお願いするにしても、
初期段階は親でも間に合うって考えは甘いですかね?
>>373 英語圏に移住
子供ならすぐ覚えるでしょ
国語能力もつけさせといた方がいいよ
英語理解できるけど読解できませんみたいなことに陥るかもw
現代文できる奴はセンスで英語長文こなしたりする
379 :
おっさん:2007/07/23(月) 19:04:46 ID:PYmaVZ4G
また白熱の議論が…さて、どこから
>>275 いわゆる奥津さんの「ウナギ文」(=「ぼくはうなぎだ。」)のことですね。
手元にある『日本語はどんな言語か』(小池清治)をみてみます。
○「メニューを選ぶ」という場面で
・質問「君は何を食べるのか。」
・答え「ぼくはうなぎだ」(=「ぼくはうなぎを食べる。」)
○奥津説
・ウナギ文は多義的であり、一見非論理的(「ぼく≠うなぎ」であり一義的ではない)である。
ぼくは うなぎ/だ
ぼくは うなぎ/を 食べる
ぼくは うなぎ/を 釣る などなど
・「ぼくはうなぎだ。」は「ぼくはうなぎを食べる。」を変換したものであり、
「だ」が述部を代行している。
この本では、奥津説への北原や尾上の批判が紹介され、著者自身の批判も述べられています。
「あ」さんは、基本的に奥津説をとるのですね。
(「だ」以外にも「さ」「よ」「か」に代行の機能があることを指摘したのは、北原だそうです。)
きっとこうした考えが「日本語は論理的であるより合理的である」、「引き算的な説明を」などの「あ」さんの主張の背景になっているんですね。
380 :
おっさん:2007/07/23(月) 19:10:21 ID:PYmaVZ4G
先の本の批判を読むと、奥津説は、ふたつの恣意性によって成り立っているのだと思います。
(このふたつの恣意性という整理の仕方は、僕自身の考えで怪しいのですが)
○質問文の恣意性
「ぼくはうなぎだ。」という文を答えとする質問文は、「君は何を食べるのか」だけではなく
「君が食べるものは何か?」でもありえる。
後者の場合、「ぼくはうなぎだ。」は、「ぼくが食べるものはうなぎだ。」の省略であり、
もとは「ぼくが食べるもの」=「うなぎ」という論理的な関係が成り立ち、「だ」は何も代行していない。
○答えの文としての恣意性
「君は何を食べるのか?」という質問文に対しては、次のような答えの文も考えられる。
・「ぼくはうなぎ。」、「ぼく、うなぎ。」、「うなぎ。」
(必須な要素は「うなぎ」であり、「だ」はなくてもいい。)
ウナギ文が文だけを見ると多義的で非論理的なのは、場面や文脈に依存しているからです。
特定の場面や文脈では、特定の問いに対する答えとして一義的で合理的です。
(文としての非論理性、場面における合理性、と言ってもいいかもしれません。)
「君は何を食べるのか?」という質問に対しては、最低「何」に対応する「うなぎ。」という一語文でも通じます。
複数の者がいて、それぞれの注文をとるときなどは、「ぼく」、「うなぎ」が必要な要素となり、
「ぼく、うなぎ。」という文で答えることができるでしょう。
(実際多くの場面では、「ぼく」自身は、発話者であることで省略も可能です。)
「あ」さんの主張する「合理性」や「引き算的」という考えは、こうした場面や文脈への依存を前提にしているのではないでしょうか。
また、それを踏まえて論の適応範囲を限定することでより有効なのではないでしょうか?
381 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/23(月) 21:11:56 ID:1jSDPydV
>>373 期待に沿うようなお答えができないかもしれません。逆に気分を害するような話に
なるかもしれませんがお許しください。
1)どうして「医学部」なのでしょうか。
単に英語力の目安として出たとは思えません。純粋に英語力なら、例えば英検一級とかに
なるはずです。そういう親のせいで歪んだ人生を歩まされた子どもをけっこう見ています。
ただ、全面的に否定しているわけではありません。こういうところに最も深い部分が出ると
いうことだけは言えるでしょう。
2)家であなたが指導することが前提ですか?
>自分としては習い始めたら一気に構文や単語をたたき込み、
>英文を読んだり、ヒヤリングをしたりと、とにかく使う機会を組み込み、
>英語もある生活に変えていくのがいいのではないかと考えています。
間違いなく、子どもは破壊されるでしょう。この発言には教授法や早期教育に対する
自分なりの考えが全く感じられません。子どもに教える以前に、自分がどのように勉強
しているか、そのあたりも詳しくお聞きしたいですね。
>親子で一緒に英語学習って無理なのかな?
ですから、あなた自身はどのように勉強されているのですか。
プロパーかどうか、そんなことはどうでもいいことです。ただし、ご自分が
勉強してなくて、教えられるはずはありません。そんなに甘いものではないですよ。
3)入門期の難しさをどのように考えておられるのでしょうか。
>チチローや横峰パパみたいな指導
普通の素人にはできないレベルだと考えます。また、同様の指導ができたとして
潰れる割合が圧倒的だという可能性をどう考えますか。
天才に賭けるということは潰す覚悟が必要ですよ。
5)理論的なことに関して
>学習を始める時期や効率的な学習法を教えて下さい。
思春期(13才前後)が臨界期というのはほぼ確定です。これは「脳の学習力」でも珍しく
はっきり断定されています。この臨界期は音韻体系と文法の習得に顕著のようです。
意外なんですが、語彙はその後でも学習力は衰えないようです。ただし、覚え方は違ってくる
かもしれません。文法習得の臨界期に関しては、”自然”に習得する臨海だとお考えください。
単純に言えば、機能的に習得することを優先させる方法論に拠れば、ということだと思います。
臨界期以降は、演繹的な方法論とのバランスが重要になります。
また、個人差もあります。これを言語教育・言語習得においては「適性(aptitude)」と言います。
先のバランスはこれを考慮しないといけません。一斉授業ではなかなか難しい点です。
気になることは何でもお尋ねください。ただし、スレ違いになるという非難があるので
より適切なスレに誘導をお願いします。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 21:17:59 ID:YFyYraFM
おっさんへ
逃げないで、真正面から答えてください。
以下は再録です。
267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 00:21:48 ID:quQ3o0Xe
おっさん。
理屈とこう薬はどこにでも付く。
あら捜しはいくらでもできる。
反論をしようとすればいくらでもできる。
違う視点からみようとすればいくらでもできる。
書いた本人が何を言おうとしているかを読み取る姿勢、能力がないようですね。
おっさんが猫と同じとやっと解かってきました。
違いはおっさんは物分りがよすぎる、と言うか、寛容すぎる、と言うか・・・。
猫はその逆。
いづれにしても、尊敬はできませんね。信用はできませんね。発言の内容ではなく、姿勢が。
言葉遣いの点では、猫より遥かにましですが・・・。
270 :おっさん:2007/07/21(土) 00:39:36 ID:2eukZ4iy
>>267 なるほど、そう感じますか。
「あ」さんが言いたいことは、僕なりに考えています。
それは、あまり小さなことではないのです。
交通整理が必要だと思います。
僕自信は、「論理的」と「合理的」、「足し算的」と「引き算的」
という「あ」さんの問題提起を持ち続けています。
信用はされなくてもいいのですが、
考える話題を出してください。
271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 00:46:27 ID:quQ3o0Xe
>270
猫とママンの言葉遣い。
383 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/23(月) 21:25:11 ID:1jSDPydV
>>373 追記
あなたのプライオリティをお聞かせ下さい。
英語力ですか。英語ならどういう力ですか。大学入試を突破する力ですか。
医学部に入ることが優先するんですか。医学部じゃーなくても学歴を第一に考えているのですか。
経済的余裕があるのなら、中高一貫の私学をお薦めします。
いろんな学校があるので学力と相談の上、選んでみてください。なお、地方であまり選択の
余地がないところもあるでしょうが、それでも中高一貫がいいと思います。
児童対象の英語塾もありますが、期待できるところは少ないでしょう。
ちなみに、東大京大国立医学部に行く生徒で早期英語教育がプラスになった生徒は
1%以下です。私の知る範囲において。中学入学時、英語学習を新鮮に感じることが
できず馬鹿にして半年くらいたって急降下する生徒は腐るほど見ました。
帰国子女などで、そのメリットを長く享受する子どももあまり多くないですね。
その上、国語など他教科はパッとしないことも・・・
バイリンガルなどにも関心がおありですか。
知人で旦那さんが米国人の方がおられ、お子さんの言語習得の実際をお聞きしています。
両親共に言語教育に携わる方です。バイリンガルに関する理論的実践的なことも
よくご存知です。その方面に関することもコメントできると思います。
おっさんさんへ。えーと言語学的にそういう質問ははたして採取可能なのでしょうか?
実践されてるのは
「何にする」
「俺、うなぎ」ぐらいじゃないでしょうか・。
そしてまさにこれこそ合理的な応答ですよね。一文ではなく応答の中で論理がなりたっているわけです。
そもそもが質問と答えがセットになって初めて応答というものが論理として成り立つのではないでしょうか。
A⇒B(AならばB)ではなく A=Aのような論理でしょう。
これらは批判は「だ」などが用言の代わりをするという批判ではなくて、それを表現する<方法>への
批判です。
ですから、うなぎ文ではない。例をあげればいいわけです。
『狼だ』とさけぶとき、だは「いる」の代わりをしてますよね。あるいは、「来た」の代わりを。
二つの批判はスルーできますよ。
私がいう引き算は説明を聞く相手がいねければ成り立ちません。
事前に誰に何を説明するのかを考えなければ引き算による説明は不可能ですし、その相手とのやり取りなしには
難しいでしょう。
その場合は、推論の道筋を示し、あえて結論を書かない。というような方法が取られるかもしれません。
論語が、師曰くという誰かに向かっての説明であるために、論語全体は多義性にあふれています。
しかし、その多義性は誰にということを考えて整理するときちんと収まるところに収まる多様性なのです。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 21:49:37 ID:BjWcHc7O
おっさん
猫とママンに敵対すれば
ネ申
になるよw
言葉遣いも遠慮いらないようになるw
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 22:00:28 ID:OstpZRRM
裏側では日本語の話をしてるな。
表現とはまさにメタファーなのだみたいな話。
なめらかな(触覚)味(味覚) 恋が芽生える(植物の成長)みたいな話。
引き算で説明する例
円の面性は円周率×半径×半径
紐をくるくるまいて作った円を示す
円の中央から円周に対して直線を引きそれにそって切る。
紐を直線にして並べると三角形になる。
三角形の面積は底辺×高さ÷2
この三角形の底辺は円周と同じ
高さは半径と同じである。
半径だけを使って表してみることができるだろうか? (そのような問いかけで終わる説明というものは引き算である)
>>381>>383 問題の立て方を二つ三つに分けたほうが良かったですね。
まず医学部云々は、子供に幸せになって欲しいという大きな文脈
のなかで、親が出来るサポートの中で出てきたことです。
また子供の将来を親の生き甲斐にするような馬鹿なことはしないつもりです。
ただ、その誘惑には絶えずさらされています。
英語を私が指導すると決めていたわけではありません。実力もさることながら、
やはり専門家に任せたほうが無難みたいですね。ただ、これまで算数の指導では
それなりの成果が上がっています。その自信の延長で英語についても考えていました。
一緒に学習していく覚悟は持っているのですが、そういう意識だけの問題ではないみたいですね。
中高一貫校が最適なのは分かりますが、田舎ですので新興の一貫校しかありません。しかも、
大学受験の実績もなく、塾系の学校です。できれば、地元の公立からの進学が理想です。
また都会での一人暮らしは、性格的にもまだ無理だと思います。
純粋に効率的な英語の学習法をお教え下さい。自分では先ほど聞いた中学以降の新鮮さと
ともに学習するという方針を採ると思います。
公立から難関突破を果たす上で大事な点を教えてくれませんか。
また戻るようですが、親の押しつけや親の学習指導などに関してお考えを聞きたいです。
>>390 医者の子ども以外が医者の選択をすることは肉体労働者になるのと一緒ですよ。
よほどの覚悟がないとできません。(まず大学の授業料は国公立でもとんでもないものです。)
インターンなら、ほとんど無収入なのに、仕事は本職と同じくらいあります。
でその後国家試験(!)に受かってはじめて医者の資格が得られるわけです。
その上で開業医になるためには借金を背負って始めなければなりません。
よほどの腕がなければやってられませんよ。
で医者というのは単なる比喩だとしておきますね。
英語を教えるよりもっと簡単でかつ、効果的なこと。
海外旅行にともかく行く。日本以外を見る触れる。
その上で人に使われる人間になるのか、人を使う人間になるのか。人から求められる人間になるのかという
選択にしぼりこむ。
起業家になるのに英語は必要でしょうか?英語が話せる人をブレーンにすればいいだけの話ですよね。
○○大という学歴が必要?それよりもビジネスモデルをうまく説明して投資家から投資をしてもらうことの方が
もっと大事ですよね。
人から求められる人(スキルを持ってる人)は売るためのスキルをつけることが大事なのであって、大学の看板
は必要ないわけですよね。
じゃあ…結局、人に使われる人間にしか学歴は影響しないってことになりますよね。医者は免許制ですから、
大学へ行く必要があります。ただそれだけです。(教師もそうなんだけど、今じゃありがたみはそうとう薄くなってます。)
進路を考えるっていうのは、どの学校へ行くかではないはずです。
392 :
おっさん:2007/07/24(火) 00:04:30 ID:0vxroNRD
ウナギ文問題について
奥津は、そもそも「ぼくはうなぎだ。」という文によって、
英語の「A is B」とは異なった日本語に特徴的な形式を問題にしたはずです。
それで、「ぼくはうなぎだ。」を「ぼくはうなぎを食べる。」という文からの変換とし、
「だ」を「を食べる」の代行と考えたのです。
「狼だ」は「狼がいる。」、「狼が来た」と同じになるのでしょうか?
後者は主−述の関係にあり、ウナギ文とは違うのではないでしょうか?
※質問文は、奥津が「ぼくはウナギを食べる。」に対応させるため
文の形式をそろえたのではないでしょうか。
奥津自身の著書はないので確認できませんが、そうだとすると、
場面の設定とともに自説を展開するために恣意的であった、
と言えるのではないでしょうか。
「あ」さんの「合理論」「引き算論」にとって、
ウナギ文問題には固執はしません。
「あ」さんの主張が対話的な場面に限定されることが確認できました。
円の面積の例は、対話になるのでしょうか?
通常の説明や「発問」とは違う「引き算的」特色がわかりません。
「足し算的」とどう違ってくるのでしょうか?
我々の業界でいう「発問」はまさに引き算でしょう。
そもそも発問は正しい答えを言うことに価値があるのではなく、そのように思考することのためになされる行為です。
一方で解説は足し算です。
これは正しい。定説である。と隙間を埋めて覚えなさいというようなものです。
円の公式を、操作とすでに知っていることを確認して、そうなることを教えるのではなく引き出す点で解説とは
異なっています。
平行四辺形への変形でもよいのですが、例の直線じゃなくて曲線だろっていう突っ込みをさけるために紐と
三角形にしました。(あの説明はまさに発問が禁じられたものです。普通に考えたら、細かく分けたら、ほとんど
直線!という考え方(近似値、微積分)にはやはり抵抗があるはずです。
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 02:29:31 ID:fV/Ffg97
270 :おっさん:2007/07/21(土) 00:39:36 ID:2eukZ4iy
>>267 なるほど、そう感じますか。
「あ」さんが言いたいことは、僕なりに考えています。
それは、あまり小さなことではないのです。
交通整理が必要だと思います。
僕自信は、「論理的」と「合理的」、「足し算的」と「引き算的」
という「あ」さんの問題提起を持ち続けています。
信用はされなくてもいいのですが、
考える話題を出してください。
271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 00:46:27 ID:quQ3o0Xe
>270
猫とママンの言葉遣い。
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 06:39:26 ID:uRPbVbsZ
猫ママンを
早く攻撃しろ!
内容ではなく姿勢が大事なんだから
>395
そういう踏み絵を踏ませるような物言いをしとったら猫と変わらんですよ。
あんた、それでええんですか?
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 05:54:26 ID:fTPoYBS4
踏み絵は
お前w
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 23:09:10 ID:n/tZxaMJ
そのとおりw
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 23:10:49 ID:n/tZxaMJ
さあ、みなさん。早く猫マンマを攻撃しましょう。
おっさんはどうなったのかな。
400 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/25(水) 23:20:03 ID:FYSvY4HY
>>390 >ただ、その誘惑には絶えずさらされています。
全くないなどという人は信用できません。あなたは誠実な方だと思います。
誘惑との距離を意識し続けることが大事です。子どもを潰す例はたくさん
ありますから。
やはり一貫校を勧めます。寮を持っているところもあります。いろいろ検討
してみてください。最近は集団生活に異常にストレスを持つ子ども多いとは思います。
いろんなトラブルもあります。ちょっとしたことでイジメだと大騒ぎになることも
あるでしょう。
しかし、それでもやはり勧めます。集団の効果はいろんな意味で軽視できません。
また、私学は公立より先生がいいと思います。少子化で私学は非常に厳しい状況を
生き抜いていこうとしています。公務員は基本的に甘いですから。
401 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/25(水) 23:38:35 ID:FYSvY4HY
英語学習に関してですが、まず日本語が大事だと考えます。
できるだけたくさんの読書をさせてみてはどうでしょうか。
公文の国語も悪くはないと思います。出口の論理トレーニングも。
小学校の教科書を他にも購入して読ませるのもいいと思います。
推薦図書の類を必ず読ませるとか。
三森の著書をご覧になりましたか。参考になります。
そこでも推薦図書があがっていますよ。
毛筆(書道)もやってみてはどうですか。貴重な財産になります。
さて、英語学習ですが、幼児用の教材は高価なだけで駄目です。
小学校高学年からNHK基礎英語など御一緒にどうでしょうか。
本格的にするなら、Progress でしょう。一貫校向けのテキストは他にも
ありますが、やはり採用が最も多く伝統もあり信頼できます。語彙も十二分です。
専用の機器を購入する必要がありますが、自習用の教材としても優れています。
教師用のマニュアルやワークブックも手に入れることができます。また、準拠の
問題集やドリル類も出ています。
塾などで採用されている問題集の類もだいたいすべて知っていますが、それを最初から
メインにするのは考えものです。一貫校でもそういう問題集に重きを置くところはけっこう
あります。しかし、食傷気味になり後々の伸びはありません。
補助で使うのが有効です。
Progress では pattern practice が方法論として採用されています。
これは昔流行ったのですが、意味のない機械的な練習だということで廃れました。
しかし、有効です。GDMでもNatural Approach でも素人が個人的には無理です。
中学生用の文法書や辞書でも今はいいものが出ています。
それを参考にすれば十分対応可能です。
まず、音声に慣れさせるということだけにでも徹底するのもいいでしょう。
子ども向けの英語塾はほとんど遊びです。まず、好きにさせるというのは単に
営業トークであって遊びだと割り切るのならかまわないと思います。
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 01:09:54 ID:IZg1dewd
ありきたりの事を、知った風に得意げにトウトウと書く。
知識・情報のみに頼るとこうなると言う見本。
わざわざ教えてくれて有り難う、としか反応のしようがない。
学力は余すことになるが地元にある一貫校はダメですか?
集団生活が人格を培う力はわかるのですが、いかんせん
子供が幼い、自律性が低い、自分の殻が固い。
相当なストレスが子供にかかるように思う。
厳しい環境が子供を鍛える前に潰してしまうのではないかという
不安がよぎります。
国語に関しては作文力の弱さが目につきます。
読書量は普通レベルです。読書指導はたぶんできない。
と言うか基本的に本人の興味に乗っかって行かざるを得ないし、
非常にマジョロイ感じがする。
それならば塾テキストなどを使って集約的に国語力の伸張を図ってやりたい。
作文は論理や方法や視点などを意識させて力の向上を図りたいが、
これも指導には自信がない。自分自身が明確な技法に則って文章を
書いているわけではないし、論理のなんたるかがわからないと、
人に分かる文章が書けるはずがないし、そもそも小4のこの時期に
論理の徹底を図るのはまだ早いのではないかという疑問すらある。
作文指導できる本を探しています。工藤順一、三森ゆかり、宮川俊彦あたりを
うろついています。
三森さんに関しては「外国語を身につけるための日本語レッスン」を読みました。
ただ小4相手だと少し難しいように思います。宮川俊彦さんの「家庭で出来る10分作文」
はどうでしょう?
英語に関しては、前回のスレでは中1から始めるのが新鮮さとも相まって
適当であると言う結論であったように思うのですが、今回のスレはこちらに歩み寄った
形で高学年からでも可であるようなニュアンスですよね。
教材に関するご意見は非常に参考になりました。猫さんの意見をそのまま取り入れる
と思います。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 02:36:29 ID:IZg1dewd
もしかして、自作自演か!
順番が間違ってます。観点があるから書けるっていうのはその通りなのですが、それはプロレベルのことで、
修行の段階でそんなことを目指すことはできません。
そもそも観点とは「切り口」のことです。つまり、ある事柄や事物、作品を何を中心に評価するかでというとい
うとてつもなく高度な知性のことなのです。それは、作文を書いて書いて書きまくってレトリックが一通り身につ
かないと出てきません。
この場合レトリックというのは、現実の文節化です。わたしたちの意識というものは連続したものです。持続と
もいいます。文というのは、この意識を一つ一つのフレーズに分けて、なんらかの配置をしなおし、それによって
自分の意識を他者に再現させていく道具なのです。
「てにをは」の選択と語の順番がその基本です。
「きょう」「たべる」「ぼく」「かつどん」という単語カードがならんでも日本語なら一つの文に<できてしまうのです。>
きょう、たべよう、 ぼくの かつどん。
きょう、ぼくは かつどんを たべる。
きょう、かつどんを ぼくは たべる。
ぼくは きょう かつどんを たべる。
ぼくは かつどんを きょう たべる。
ぼくは たべる きょう かつどんを。
ぼくは かつどんを たべる きょう。
たべよう ぼくは きょう かつどんを
無理やりにでも 文として構成し その効果と 用言の活用、助詞の使い方を実践的に<整理する>ことが大事です。
次に物語文から作文力を養うのであれば、私を使わず、登場人物になりきっていろんな立場から、「わたしが○○なら
」という観点で物語を私小説に書き換える作業も有効です。
ごんぎつねなら、兵十、かすけになってこの事件を記述するということになります。
兵十はごんがうさぎをぬすんだこと、おっかあが死んだこと、そうしき、いわしが投げ込まれなぐられた。くりがおかれる。
ねんぶつのよる。ごんを殺すということを再構成し、つじつまが合うようにエピソードをつけくわえたり、思いを書き込んだり
しなければなりません。
かすけはさすがに上級です。
ムラの一員としては見たこと聞き得たことしか知らないのですから。
兵十のおっかあがなくなったこと。そうしきのこと。ごんという悪ぎつねがいること。兵十からのそうだん。
ごんの死。それだけからこの事件をかすけがどう受け止めたかを考えなければなりません。
こうなるとごんぎつねでのこの作業はあきらかに高学年向けなのだということがわかります。
ですから低学年向きのやさしい物語からこういう作業をすると国語力は身につきます。
日本語は融通のきくことばです。これはこう書くと教えるのはあまりよくありません。
どのようにも書けるが、このように書いたという意識がもてれば日本語意識としてはとてもいいと思います。
(無理やり英語レベルに下げたい人もいるようですが、わしは英語のように日本語を使うことはどのように
も書けるということの一つのバリエーションにすぎないと思いますよ。)
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 06:21:47 ID:SISdfPEX
やっかみw
日本語には文法がないというのはたぶん間違いです。
日本語は文の中に要があってすべてのことばがそことの結びつきによって一気に意味作用する構成なのです。
ですから、<要>の働きの分析によって、日本語の文法というものはきちんと整理できるはずです。
三上ラインは<要>を用言にしぼりました。その方が多くの文に対応できると思ったのでしょう。
する。しない。ある。ない。である。という中心からどのように各語が距離を持っているのか。
飲むという用言とビフテキははるかに距離がありますが、でもビフテキを飲むという表現が成り立たないわけ
ではありません。ビフテキは食物という集合では飲むと接点があるからです。
しかし、針という食物でないものも、針を飲むという表現が成り立ちます。これは比喩です。比喩の多くは、
借用として本来距離が測れないものを近づけることによって、その対象の何かを借りているのです。針を飲
む場合。煮え湯を飲む場合。それぞれ痛い、熱いという針、煮え湯の特質を借用しているのです。
そして助詞助動詞こそが、「係り」として「要」と各語の位置をつなぎとめているのです。
日本語における助詞助動詞の研究は同じところで足踏みをしている様相がありまだ、あまり進んではいません。
(というか対象化するためのことばが作り出せないでいるのかもしれません。)
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 20:22:48 ID:SISdfPEX
あ
を聞いてる奴いるか?
反応している君じゃないかな。
事実関係からいうと。
410 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/26(木) 22:40:05 ID:Cenc1bcJ
>>403 >厳しい環境が子供を鍛える前に潰してしまうのではないかという
>不安がよぎります。
正直、過保護の感が拭えません。ただ、あなたはそれだけの決意があるように
思います。そこは尊重したいと思います。
>学力は余すことになるが地元にある一貫校はダメですか?
いいえ、公立中学校よりいいでしょう。
お住まいはどのあたりですか?だいたいでもいいですから教えていただけませんか。
>作文
宮川さんはよく知りません。工藤さんはなかなか面白いことをされてるし、けっこういろんな
ところで紹介されているように思います。いずれにしろ、親が子どもを指導するのは大変なことです。
頑張ってください。できれば、誰か他の人に任せるような環境がいいかもしれません。
>英語
Progress 以外にZ会でも同様なものが出ています。手に入れて参考にしてください。
具体的には、ABC以前から東大入試まで何でも相談して下さい。私にできることは
何でもお話しします。
私は、あなたにキツイ問いをしました。それで確かめた部分もあります。
その結果、「歩み寄り」ということになったのかもしれません。
ぜひ、田舎で頑張ってください。
田舎の公立トップ校は地元の国立に入れることで満足します。しかし、そこは
都会からみれば、落ちこぼれが行くところなんです。実際、医学部はどうでしょうか。
県外からの入学者が多いことが問題となっていませんか。
カッペの頑張りを応援します。
ふと思ったんだが、猫は公立高校出身じゃないのか?
身の周りの過保護には敏感なのですが、自分も過保護と言われてみると、
さもありなんです。と言うか娯楽の少ない地域(山陰)ですので、子供の将来
を楽しみにしている人達って、意外と多いんですよ。ただそのやり方となると、
都会ではとうの昔に廃れたメソッドが亡霊のごとく生き残っています。
明らかに情報格差があります。
英語は猫さん推薦の教材を外す理由が何もありません。ただ開始時期に関しては
悩ましいですね。まず人格形成や持続的な学習意欲の確保なども考慮に入れなくては
いけないですね。ただ単に「先んずれば制す」とはいかないですね。
田舎の公立トップ校は猫さんの仰るとおりです。難関校になると個人差はありますが
周りからそうとう浮き上がった存在にまで自己を追い込んでいかないと無理な感じです。
いまは夏休みに入り、小4なんですが、小学1,2年生対象の「算数脳トライヤル」というものを
やらせています。朝日小学生新聞とサピックスの共同企画の問題集で、多くの問題が
いろいろなゲームをやっていると言う設定で作られており、与えられた条件を整理する
読解力や、関係性を見つけることに主眼を置いた演繹思考、具体的に
いろいろ拾い出してみる帰納的思考などの思考法の違いを意識させる問題や、
扱う対象として図形パズル系の空間認識力を鍛える問題や、代数系の問題など、
正しく考えることと多角的に考えることという数学の2大要素をキチンと押さえた構成となっています。
多角的発想は年齢的な壁もあると思いますので、いまのうちに何とか身につけさせたいです。
作文力はホント頭が痛い。小1から連絡帳に日記を書く習慣になっているのですが、
全く上達が見られない。初めのうちは書くだけでもめっけものだと思っていたのですが、
書くことや表現に興味を持つ子立ちの上達ぶりを見ると、これはもう性分だから何とか我が子にも
興味を持たせてというわけにはいかない。何らかのテクニック的なパターンを授けて
表現の豊かさを確保して行かざるをえない。またそこから多角的な発想が広がることを期待する。
これからどんどんいろんな知識を吸収していくうえで、論理力は必須でしょう。しかし我が家では
今一度多角的な発想に焦点を当てて指導していきたい。などど、エラソーに書いてみる。
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 01:38:27 ID:WkiTi7IA
>>412 ここは国語教育のスレ
自作自演にしてもテーマを考えること
作文には三つある。
事実を正確に記述する→記録文
主張をする→主張文
面白く語る→創作文
案外、子どもは創作文か記録文から入った方が書けるようになる。
記録文は材料を集めるのが楽。
創作文は結局、うそを上手につくことだから、子どもにとっては夢を
書くようなもの。
表現力はさまざまな表現をするか、触れるかしないかぎり身につか
ない。
日常会話程度の表現力では作文の表現はうまくなりようがない。
表現力を鍛えるのは、詩、短歌、川柳がよい。字数が制限されると
いうことはことばを吟味し比喩を使わなければならないからだ。
論理力は
AならばB A=A ぐらいしか必要ない。
論理的な構成力なら
序論、 本論、 結論。で十分。主張の根拠を示すだけでよい。反論についてまで考えるのは、中学校でよい。
ディベートで鍛えるのが一番手っ取り早いが、その場合審査する人間の技量に左右される。
416 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/27(金) 22:02:35 ID:st0A3H7I
>>412 地元の一貫校を第一に考えるのでいいかもしれません。しかし、寮がある一貫校も一応考えて
みてください。お住まいから(比較的)近いところで選ぶ際にはご相談下さい。そのあたりなら
コメントできます。
親が子どもの勉強を見るのは本当に難しいですね。
小さい頃から二人三脚なら抵抗は少ないでしょうが、大きくなってからは無理です。
英語は小学校5・6年生あたりから基礎英語などを始めるのはどうでしょうか。
ご一緒に勉強するのもいいと思います。CDも比較的安価です。
音韻体系は圧倒的に臨界期(=思春期=13才頃)までが有利です。
基礎英語を音声だけで勉強するスタイルもあると思います。これはおすすめです。
また、他にもいい教材が結構あります。ただし、訪販の教材はいけません。ディズニーとか。
小学校4年生なら、やはり日本語でしょうね。頑張って高学年の本を読むとか、することは
いくらでもあると思います。読書は後々になって利いてきます。幅広く、かつ持続する読書を
する生徒は伸びます。例えば、少々数学が不得意でも東大くらい受かりますよ。
逆に数学一本はかなり危険です。よほどできないと普通になります。
文科省の審議会の動向を見ていると、情緒力と論理力の両輪が模索されています。
実質的には論理力がかなり重視される方向に向かうことは決定的です。情緒力は一種の
掛け声でしか機能しないでしょう。歴史や伝統を否定することが資本主義の本質です。
ですから、本質的に矛盾しているわけです。あなたのお住まいのあたりは、まだ十分に
「情緒」が息づいていることでしょう。それは資本「主義」がそれだけ浸透していない
ということに他なりません。昔のままの田園という文句に騙されてはいけません。
資本はそれを蹂躙することでしか利潤を生み出していないのです。それは痛いほどお分かり
だと思います。
カッペに必要なのは 論 理 です。
白痴な都市住人の癒しの場として機能することを拒否しましょう。
都市住人が賢いわけではありません。ただ、機会が不平等に与えられているにすぎないのです。
頑張ってください。とにかく、カッペは頑張らないといけません。
私が直接指導したいなって思ってしまいました。。。
417 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/27(金) 22:24:05 ID:st0A3H7I
ちなみに、三森のパトロンは文科省です。
基本的な考え方が明瞭になっていくようでもの凄く有り難いです。
読書についてお聞きしたい。
本人の好きなジャンルの本をドンドン読ませるやり方と、
ある程度歯ごたえがあり、読解力の向上やスキーマの形成に資する読書の
二通りを思いつきます。
好きなジャンルの本だと、感想文や月間に何冊などのノルマを課すような形を
取らないと成果が見えにくく指導しにくいように思うのですが、どんなものでしょう?
もう一方については、ある程度歯ごたえのある文章として塾テキストを読むことを思い浮かべます。
問題を解く負担を軽減しつつ、繰り返し本文を読むことで論理力や日本語力、世界観などが醸成
される感じがします。
思春期にグッと世界を押し広げるような読書をして欲しいです。手当たり次第岩波新書や
中公新書などを読破するような読書です。
物語文や小説などについてはよく分からないですね。心の栄養や癒し娯楽、感動など
感情に働きかける作用は想像できるのですが、学習効用という点では時間を割かれる
分マイナス面もあるように思います。もっとも思春期ですから人格陶冶の観点から、
そちらのほうが大事だとも思えるし、、、よくわかんないですね。
読書が大事なのは常識だとして、もう少し分け入った議論が聞きたいところです。
読書でどんなことを求めるかによって違うでしょう。
小4だとレファレンス力があれば十分。
小学生は博物誌的に世界をとらえるので数と図とつながりが勝負。
分類の系統を頭に作ることができればそれで十分です。
リファレンス【reference】
1 参照。照会。照合。「―ブック」
2 図書館の参考調査係。
つまり何はどんな本のどこに記載されているにちがいないという
検索能力です。
説明文の読み取りって…そんなに必要ないですよ。
説明文の目的は知らせることです。ですから理解できない説明文なんてものは無価値なのです。
主張文の読み取りが問題なだけです。主張と根拠の構成が読み取れればそれでOK。
形式段落を機能別の群として扱えればそれでことたります。
難しく考えすぎです。難しいことをやれば力がつくと思ってませんか。そんなことはないのです。
赤木かん子さんの調べ学習の本を読めばレファレンスとレポートの関係がよくわかりますよ。
あと感想文を書いたり、なんだり読書をコントロールしようというのはお止めなさい。
変な人間を育ててしまいます。人間というのは人にはみせたくない箱をもって初めてキャラ立ちするのです。
やればやっただけ伸びるだとかいう信仰も指導する人間は捨てなければなりません。
指導される人間がそう思うのは勝手です。
意味のない努力は疲れるだけで疲れるからこそ、だんだん逃避を生みます。
意味のある努力こそ必要なのです。
それにしてもあせりすぎじゃないですかね。プレジデントファミリーの読みすぎって気がします。
まあ、そういうニーズがあったから、あんな本やそんな本が出版されるってことなんでしょう。
ちょっと現場の人間としてはうんざりしています。
>>418 猫じゃなくて悪いけどさ、ちょっとレスしてみるよ
新書なんて大学行きゃもっとマシなもん幾らでも読める/読まされるんだから、
今のうちにまともで面白い本しっかり読んだほうがいいんじゃないの?
たまたま手元にある「和俗童子訓」(のコピー)が、何かその辺に絡みそうだから抜粋
「畢竟肝要ハ、小児ノ中ヨリ書籍ニナジミヲツケ、書物ヲ厭ヒ嫌フ事ナク、
書ヲスキコノム心ヲ養ヒ立ツルト云ガ主意ナリ」
貝原益軒は、幼児教育早期教育といって、幼少から四書を叩き込もうとする当時の知識階層の風潮を堅く戒めてる。
歴史物でも絵草子でも何でもいいから、おもろいもん読ませろ、と言ってる。
ま、300年前の教訓をどう考えるかはまた別だけど、当時は今以上に読書自体が学問の中核だったわけで、
そういう時代の読書への必要性から生まれた教えには、ある程度価値を認めていいんでないか。
つーわけで、新書=論理、文学=情緒とか、人格陶冶とか、そんな頭でっかちなことは言わず、
あなたが面白いと思う本をばんばん紹介してみたらいいんでないのかな
子供の読書体験に関しては、親の本棚(広く言えば読書体験)ってダイレクトに大事だと思うよ
「読マザレバ父兄ニ叱ラルルコトノオソロシサニ、是非モナク(=仕方なく)ヨムトイフニナリテ、
書籍ヲ厭フヤウニナル、コレ学業不成就ノ根トナリテ、大キニヨカラヌ事ナリ」
当たり前のことなんだけど、300年前の爺さんに言われると妙な説得力があるね。
今 さら なぜに 学校ブランドに こだわる層がでてきたのかが一番の疑問。
学校の校章が生きるのは入り口まで、中に入れば一切通用しない。しかも、労使の関係や会社と社員の関係が
これからどうなるのかよくわからないのに、そんなところに救いを求める時点で<?>なんですよ。
で結局、
「お前公務員だ」みたいな感じになるんだとしたら…。やってらんねーすよ。
公務員を減らそうという流れに対して、公務員になろうという流れ。いったいどうしたいんだか。
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 08:01:37 ID:0+mYrhGn
あ
を誰か かまってやれw
424 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/28(土) 09:04:22 ID:TRYI10/H
>>418 そんなにあせらなくてもいいんじゃないですか。
小学校なら名著名作と呼ばれるものを読む。
できれば、読んだあと感想や意見などを書く読書ノートを用意する。
それに対してコメントする中で文章の書き方や読む本を誘導することが可能です。
話を聞いているともう少し収斂させることが必要かもしれないと思います。
子どもさんが、例えば少年野球をしたいと言ったならどうします?
結局は<自分というブランド><自分というメディア>を社会の中で確立するというのが、
残念ながら、これからの教育のメインストリートになりそうです。
だからこそ<能力開発系>の取り上げられ方をされるわけだし、ハウツウ的な記事が
あふれるわけですよね。
でも、これって他人に対して何が提供できるのかという問題に集約されちゃうんです。
評価=価格決定は常に相手がすることで自分がすることじゃないんですね。
同じ質なら値段の安い方、仕事のはやい方に頼む。など人と人との関係が次は市場化されるってこと
なんです。ネットはそういう情報のやりとりの場所になっていくでしょう。
それが<いい><悪い>ということではなく、転がし出しちゃったものは止まるまで行くしかなんだろう
ということです。
競争の前には、友愛が、自由の前には尊重が置かれているはずなのですが、どうなることやら。
学生のころ読んだ「国語学概論」の教科書を見つけたので読み直してみました。
国語・日本語の対立やら包括やらを最初に書いてました。
小林英夫氏の
「学の対象を対象そのものの必然性において把握せず、それを言語とはむしろ外的関係しかもたぬ
国家なる観念と結びつけて考へるところに錯誤がある。(国語学方法論考)」を引いていました。
なるほどそっちは本来は社会学であるよなあと。思った次第です。
その辺ごっちゃになってますな。今。言語学に国語学が吸収された形ですな。別にいいわけですが、
そこに政治があったということだけは覚えておきましょう。(真理がどうだということではなのです。それこそ
構築なのです。)
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 16:55:19 ID:0+mYrhGn
あ
右往左往してすりよるw
だが効果なし
一段落したようなので…授業の話をどうぞ。
ことばづかいの正しさを教えるのが国語の授業だと思うか?
それとも、ことばを使って考えたり、ことばを使って何かを成し遂げることができるように
するこが授業だと思うか。
今年は低学年なので、語彙を増やしたり、助詞が使えるようにしたりするのがメインなので
どうも勝手が違う。
文節で文を考えずに、句で考えるというのに大賛成。
どうして、「くっつき」が理解できないのかがやっとわかった。
何にくっつくのか、そもそもくっつきというイメージがもてないのだ。
入り子図や枝分かれ図のような係りを中心にした理解ができなければ
格助詞、係助詞、副助詞は実感できない。
体言と 用言だけを示し、助詞をおぎなって文を作る練習問題
(そもそもなぜ、国語=日本語には練習帳じゃがないんだ。グラマーノート
がないなんておかしな話である。)をたくさんやることで、句の係り方を整理
することができる。
三上を再度検討されたし。
あの文の体式の図はだめだめだ。連用とか連体とか…分析できてないって
ことじゃないか…。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 19:50:47 ID:rNaaDvc5
あ
急に三上マンセーw
いつから言い出したか、気にしてはいけない
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 20:25:34 ID:+FFXRHjT
単に教科研文法でも時枝文法でも一年生には教えられないって事実があるからだよ。
藁。
でもまあ、読んでくれればためになる。読まれたし。
432 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/07/31(火) 21:26:52 ID:kFfKGsKs
>>432 過去の事件でも自分たちの今の主張のためには利用しようとするそんな人々のいうことは無視すればよい。
これはあきらかな内政干渉であり、国際政治上のルール違反である。なぜなら、このことはもう終わってしまったことで
あり、現在においてあの国の脅威になることではない。
では、なぜこれを今更やってるのか。国益があるからに過ぎない。アメリカの戦略パートナーシップは中国である。
ただ、それだけの話だ。日本の外務省やシンクタンクはアメリカに対して寝技はつかわなかったらしいことがよくわかる。
その上で、安倍首相が間違えたのはアメリカへ行ったときに<あんな>発言をしてしまったこと。
日本には原稿を書ける人間がいないらしいことがよくわかった。こういう問題は国として一貫した態度をとるべきであり、
そのための組織をもっておかなければならない。事実広告を打ってしまう議員団や向こうへ行って簡単に誤解されるよ
うなことを言ってしまう首相。話にならない。
その上でアメリカがいってるんだぞという畜群。アメリカが言ったらなんでも正しいか?イラク戦争に反対したたのに?
利用できるものは何でも利用するってか?
日本の政治不在を改めて感じるだけだよ。下らない。戦争責任とあり方といいこの国じゃあ済んだことで済ませてしまっ
てきている。そのつけを今直面しているだけ。一つだけいえるのは、生命線ともいえる外交ができないのに、教育に口を出
すバカ政治家、お前たちに国家戦略たる教育を語る資格なんか一切ない!
わしの政治理念はきちんと一貫しており論理的なのだ。
目標 日本は独立国家としての機能をもち、かつ、国益によってはありとあらゆる選択肢が取れるようにする。
手段 報復国家であることの宣言。(非武装中立なるマヤカシの否定:教え子を戦場に送らないためには、
わが国が戦場にならないことも考えなければならない。武力の意味とは報復にあるのであって、侵略
のためにあるのではない。)
日米安保の見直し。
アジア経済圏の自立 対中国牽制組織の樹立
中国との経済・政治交流の活発化
アメリカの保護主義を煽る。
豊かさとは何かを国民的議論として定着させる。(文化的生活とは何か?生存権の問題。)
はっきりいえば、わしは保守であるが、右翼ではないしタカ派でもない。
保守の本道というものは国家は信用しないというのが本当である。国家(ネーションステイツ)というものは
革新がつくったものなのだ。(この辺りのことがわからない人は読み流してよし。)
どちらかといえばわしはリバタリアンなのである。
435 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/01(水) 19:34:31 ID:ywOSV7tr
>この辺りのことがわからない人
お前w
>リバタリアン
それじゃー、「分配する最小国家」ということだなw
あんまりシッタカせん方がいいぞ。阿呆ばかりではないからな。
で、結局「新自由主義」ってことだよな。
437 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/01(水) 20:41:53 ID:ywOSV7tr
>>364 遠慮なく罵倒してください。それ相当の輩です。
>>435 だからそうだっていってるのに〜。その上で社会的分配のチャンスというのは教育の機会平等なの。
その上で国家が教育の中身に口を出すのが当たり前だ。なんて輩が跋扈しないように、コミュニティスクールや
ホームスクールの合法化(そもそもが法律で教育が適正かどうかを定めること自体が問題なのかもしれないが、)
かつ、支援の体制(簡単にいえば、うちは家で教えるホームスクールをする。子どもが○人おり、そのために大人
一人がかかりきりになるので○円の支援支給を<要請>する。ということが当たり前になること。)
パトリやホームの方に暮らしの重点が置かれる社会づくりこそが唯一資本主義的な改革や共産主義的な革命
に対抗できる思想実践なの。
その上でわしは(新)のつかない自由主義者だよ。ネオコンじゃないからね。わし。ネオコンは資本主義改革者。
その上で夜警国家という考えがあるように最小国家というのは警察と軍隊のことになっちゃうよ。最小国家という
より監視されつづける国家のイメージの方を優先してもらいたいもんだ。
誰が主人かという問題が保守の問題なんだよ。(西洋じゃ保守はだから神が主であるということになってしまう
わけだ。保守ならそうでなければならない。社会契約説は革新そのものだからな。)
しかし、藁、なぜに猫はこんなに偏った情報しかもってないのだろうか?
アナルコキャピタリズムしかリバタリアンは成立しないとでも思っているのだろうか?
(それは、社会学スレの範疇であるけれど。)
パッチワークというのは自分自身ではないのか?わしは端から自由主義者だって
いってるよ。どちらかといえば左派のリバタリアンだけれども。
(それってアナキストでしょ。っていう突っ込みは甘んじて受けるけれども。日本だと
自由主義者はアナキストにしか見えないっていうのが不思議な話さね。)
それもまた日本語(日本語こそアナキスムじゃないのかね。本当は)の問題なのか
もしれない。
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 02:38:41 ID:3gcxKOHH
東大生が書いた「国語」のことを感動的に好きになる本
というのが出た。内容はこのスレでさんざんいいつくされたこと。
まとめてみるのには丁度いい。
論理とは、個人個人のやり方ではなくて、みんなで決めたやり方で
説明すること。本文中は
「では、論理とは何でしょうか?
たとえば、元巨人軍の長嶋茂雄さんに、野球でヒットを打つコツを聞いたとしましょう。
おそらく答えは、「それはね、球がビューっと飛んできたのを、これだなって思うときにザッとバットを振りはじめて、
ググっと力をこめてダーンと打つことなんですよねぇ」といったようなものになるでしょう。ご本人ならこれで分かる
かもしれませんが、ほかの人には、さっぱりわかりません。
今度は、バカボンのパパに、イラク戦争について聞いてみましょう。「さんせいのはんたいの、そのまたさんせい
なのだ。これでいいのだ」。全然よくありませんね。意味が分かりません。
このように、その人独特の直感や考えを感覚的に表現されると、多くの人には伝わりません。どんな人にも伝わ
るようにするには、筋道を立ててきちんと説明するしかありません。 筋道を立ててきちんと説明することを論理とい
う のです。」
という長い説明になる。(これこそがまさに解説と伝えたいことの関係)
この本を読めば(この枕ことばもあまりにもつかいすぎだ。)猫がやっぱり国語力がないことがよくわかる。
ついでに「東大生の親に聞いた「頭のいい子」「集中力のある子」の育て方」も買って読むといい。
インタビュー
ttp://www.all-todai.com/interview/takahashisan/ 受験うんぬんを論じていてここのアドレスが紹介されない、このスレはやっぱり、「受験用の」国語スレではなく、
もうちょっと日常よりで、教えるということが軸になってると考えてもよい。
(そうあるべきってことだ。)
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 21:26:02 ID:umhCbTnU
かつやに勝つや
おしい
かつやにやっか。が正解かと。
444 :
おっさん:2007/08/08(水) 07:07:59 ID:bhgqrP7L
昨日から石原千秋の『国語教科書の思想』を読んでいます。
投げ出そうと思いつつ我慢しながら読んでいます。
とてもくだらない本だと思います。
あと4分の1ほど残っていますが、この感想は変わらないでしょう。
現場に向けて、実践を問う本じゃないですからね。
そもそもが教師や保護者に向けて書かれたとは思えません。
一定の社会学派みたいな人たちにむけて書かれたのでしょう。
(理由、道徳で押し切る、根拠もなしに正しい内容を押し付ける
そんな授業は基本的に成立しえない。)
446 :
半さん:2007/08/08(水) 18:06:00 ID:YbVLvny8
>>444 その気持ちわかります^^
私も最初これ読んで
「マジで大学教授が書いたのか?」って思いましたもんw
あれこれこき下ろして結局言ってることは
現場教師のガンバリズムに丸投げってことだったのでは?
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 18:40:36 ID:0Et/QnTo
あの本は国語の指導に活かすための本ではないことは明白なのに、「使えない」ってのは全く批判になってない。
内容が大したことないのは同意するにしても。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 19:38:01 ID:vdkeyvFl
てかあのおじさん「髪を撫でる」とかきもすぎーw
日本人に相手にされてなくて外国人とか好きなんだってーw
こっちに一方的に関わってきてすごいきもかったー
449 :
半さん:2007/08/08(水) 20:38:39 ID:YbVLvny8
>>447 誰も「使えない」なんて批判はしてないぞ?
国語教科書の思想ってことで国語教科書を作る側が暗黙のうちに前提しているもの=指導要領主義を批判してる
んだろうけど、だからっていって、それに代わるだけの系統的発展的なものを一般の学校も教師ももってない。
石原が批判して代案にもちだしてきていることなんか、実際は現場で日常的にやられてること。
つまり教育を行っている人間ではなくて、教育という政治をみつめる人間に向けて書いた本だっていうこと。
…そういう意味で読んでも代案がだめだめなので…それこそ使えない。
もしあの批判を徹底すれば、学校制度そのものの批判に行きカリキュラムのような計画を設定して行う教育そのもの
の否定にならなければならない。(イリイチみたいに)
脱学校の社会
http://www.valley.ne.jp/~ichinose/bk_deschool.html
451 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/08(水) 23:19:07 ID:QAByA9kd
おっちゃん
石原を擁護しますww
最新が新潮選書から出てますが、まだ読んでません。
石原とは一つの噛ませ犬です。捨て駒でもいい。
とにかく必要なものです。それが都市に住むボンボン臭を漂わせていても、です。
これからもドンドン宣伝していくつもりですw
452 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/08(水) 23:26:13 ID:QAByA9kd
半さん
448あたりは何も分かってないよ。
石原のその手の本がちくま新書をはじめ、NHKブックスや新潮選書から出ている
ことは大きいと思っています。
石原や小森は流行の人だからやっかみがあるんでしょうが、彼らは勉強してますよ。
ただし、石原の入試問題の解法はまだ甘いと思っています。
おっちゃんに読んでもらえて宣伝効果があったと思って喜んでいます。
453 :
おっさん:2007/08/08(水) 23:59:39 ID:bhgqrP7L
『国語教科書の思想』の冒頭に新聞報道批判があります。
そこで石原は、教科編成に関わる法的・行政的な措置と教科書の実際に触れ、
新聞報道の誤りを指摘しています。
これはまっとうな方法によるまっとうな指摘です。
これと同様のことを自説に適応すべきです。
「構造分析」や「言説分析」が自らの方法だと言うのかもしれませんが、
どこにそんなたいそうな方法による分析があるのか首を傾げざる得ません。
某政党や某団体の教科書批判以上のものとはとうてい思えませんでした。
454 :
おっさん:2007/08/09(木) 00:28:05 ID:UhQfzkB5
一つ例をあげておきます。
石原は、小学校の国語教科書に動物を題材化・人物化した作品が多いことを指摘し、
そこに「動物に戻ろう」という思想を読み取るのです。
「こうして見ると『賢いのは動物の方で、人間に許されているのはせいぜいのところ
頓知ぐらいでしかない』かのように思えてくる−そんな仕掛けが隠されているのが
国語教科書なのだということがわかってくる」
「いや、ほんとうは『動物に戻ろう』と言いたいのかもしれない。」
「東浩紀は、(中略)ポストモダンの『オタク化』した現代人の大衆消費社会を
『動物的』と評した。(中略)文字通り『動物化』することを求める小学校国語教科書
のメッセージは、受動的で与えられた環境に対して従順な『人格』を作り上げることに
一役買っている可能性が高いのだ。そういう操作されやすい『人格』が誰にとって便利
なのかは、改めて言う必要もないだろう。権力者にとってである。教育は、まさしくソフトな
イデオロギー装置として機能している。」
一瞬ジョークかと思ったくらいの文章です。
「かのように思えてくる」「かもしれない」程度の自ら読み取り。
(思い込みと変わらない程度。冗談でなしにまじめに堂々と主張するには恥ずかしい内容です。)
それが、東やコジェーブという虎の衣を借りて、「可能性が高いのだ」となり、
さらに「改めて言う必要もないだろう」ことなどを引き出し、「まさに…している」になってしまう。
しかも、その内容たるやあまりにも陳腐なもの。
こうした人間が「他者」なんて語ってもとうてい信用はできません。
猫ちゃん、おっちゃん
おお、二人ともいるのね。
石原の話を読んでいて思ったんだけど、どうして国語科では読解の話ばかりが前景化する
のかねえ。地味だけど、文法教育とか、作文教育にもっと焦点を当ててもいいと思う。
読解は国語科で扱う多くの中のひとつだということになれば、どの単元が選ばれたかみたい
なことで政治的な意図を持ち出していちいち大騒ぎすることも(なくなるとは言わないけど)
少なくはなるような気がするよ。
われわれは日本語文法を、英語教育を通じて知った側面はないか?
(文の成分およびその順序、英語の重文と複文との違い、句とか節の違いが日本語にある
のかないのかなどということについて国語科の時間にきちんと習うのか)
英語教育は、日本語との共通点と差異を明確に意識してカリキュラム編成しているか?
(もし意識していたら、be動詞は最初期ではなく、もっと後で扱われるべきだろう)
作文、小論文の体系的な導入および評価に割く時間はほとんどないという実態をどう思うか?
教科書を見ると、評論、小説、詩歌ばかり並んでいて、基本的に「読解」することになっている。
文法などはコラムとしてちょこっと載っているだけで、明らかにどーでもいいらしい。
石原が問題になるのも、読解偏重でしかも教師による読みの押し付けが堂々とまかり通ってる
からでしょ。国語科では技術として何を教えるのかがはっきりしていないし意識されていないから、
単元として選ばれた文章の内容が必要以上に重要になるんでねーの?読解能力を磨くことが
目標なのであれば、基本的には内容などどーでもいいはず(全くどーでもいいとは言わないけど)。
単元を踏まえて作文・小論文を書かせるなら、その内容を批判するものだって当然出てくるし、
その意味ではきわめて健全な授業が運営できる。単に「正解(定説)」を教師が披露して終わる
ような授業を前提に話が進んでいるような気がするね。
文法教育は成立してない。なぜなら日本語の文法をきちんと表現した理論がまだできてないから。英語流じゃ
かえって理解できない。文節の関係なんてやったって無意味。混乱するだけ。
日本語はコトを文で表現し、英語は関係を文で表現する。みたいなとらえ方でコトバ Paets of facts の関係
として日本語の文法をきちんと作る必要がある。日本語では用言と助詞こそが主役であって、語順とかそうい
うものは特に関係がない。
日本語には複文はないともいえる。切れ目のないコトの連続の表現であって、切れ目をわざわざ、くっつけ
た、切り離したというような英語的な解釈は成立しないという考えだ。
英語は英語だし、日本語は日本語である。無理して同じところを見つけてなんとかするよりもそれぞれで学べ
ばよろしい。
英語はGDMがあるじゃないのよさ。Graded Direct Method。あれをやれば英語の論理性はきっちり把握でき
る。(受験には向かないが。)
>われわれは日本語文法を、英語教育を通じて知った側面はないか?
だからこそ問題だ。っていわれているわけなんですけど。三上章を読まれたし。
はじめてのにほんごテキストでもいいけどね。
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 15:41:51 ID:W6sBLcDv
克哉は就活中
>>456 >文法教育は成立してない。なぜなら日本語の文法をきちんと表現した理論がまだできてないから。
>英語流じゃかえって理解できない。文節の関係なんてやったって無意味。混乱するだけ。
はぁ?これが文法を教えない理由なわけ?
存在しない理論は教えようがないのは当然だが、だったら橋本文法でも何でもいいから教えろよ。
ゼロよりましだろ。形容詞と副詞の区別すらできんような中高生を育ててどーすんの。
>英語は英語だし、日本語は日本語である。無理して同じところを見つけてなんとかするよりも
>それぞれで学べばよろしい。
だからだめなんじゃねーか。
母語以外の言語を習得する際には母語の干渉があるわけで、それを無視して教えることの非
効率さを知らんのかね。適当なことばかり言うなっての。日本語は直接法で教えなければいかん
などと言って(それ自体はかまわんが)、現地語を学ぼうともしない海外の日本語教師と同じだな。
何万語を費やすより、この部分はあなた方の言語のこれと同じですよと言われれば即座にわかる。
逆に、学習者には難解な部分を、簡単なはずだからとすっ飛ばされたらかなわんだろ。そういう
軽重の置き方すらもわからんネイティヴ教師に教わるより、多少へなちょこでも日本語を習得した
現地人に教わる方がよっぽどわかりやすいとはよく言われることだ。日本人の英語教師が日本語
文法を知らん悲劇がわからんのかね。
>だからこそ問題だ。っていわれているわけなんですけど。
どうやらお前さんは別の意味で問題視しているようだ。私はその現状がよいなどとは言ってない。
>はじめてのにほんごテキストでもいいけどね。
私は未見。ところでそこから何がわかるんだい?
0よりましなわけはない。マイナスって座標が抜けてる。
日本語の文章理解において英語型の文法は邪魔になるだけ。そもそもが文章が英語的な論理に貫かれていない。
主張を探し、根拠を探し、という用に文法ではなくてセンテンスや段落を中心に考えた方が遥かにましだ。
形容詞は語尾が「い」と教えればよい。で形容詞がわかったからといって何ができるというのだ?実際は連用とか
連体の形で(そもそもが連用とか連体などという言い方がでてくる時点で文法としては不出来である。)文章にはでて
くる。
形容動詞は語尾が「な」 副詞は係りが用言につき、それだけで命令形に変換できる。ゆっくり歩く。→ゆっくり歩け。
でもそんなこと全然関係ない。藁。そんな文法的知識で読解が深くなるわけがない。
ことばとことばの係りを教えた方がもっと有効だ。用言(活用のあることば)と体言の違いを教えた方がいい。
母語の干渉うんぬんなどといってては外国語は理解できも使用することもできない。GDMを示しているのにまったく
調べようともしなかったな。
はじめてのにほんごはGDMの日本語版だ。その人の母語は一切使わないで教える。あなた、わたしからだ。
主格からはじめて存在文へすすむ。日本語教育のテキストだよ。
英語型の論理に貫かれていないから日本語の論文はだめなのだ。というのは的外れ。
日本語の論文は日本人が読む。日本人が理解できれば用は足りている。変に翻訳型の
無理をして英語型の文章で論文を書くとクドイ。
かえっていいたいことがわからなくなる。日本語で書くということは日本語を使える人に
標準を合わせること。
でなければ英語で書けばいいのである。それこそグローバルに発信するならそうすべきだ。
461 :
半さん:2007/08/09(木) 18:53:08 ID:4IGMFJtd
>>452 ちくまを軽くみてるわけではないんですが
「国語教科書の思想」って
先に岩波が発行した石原の論文が母体となってるんでしょ?
それで岩波新書から出版されないとなると
いきさつはよくわからないんですが
岩波がダメ出ししたものと見ちゃうんですよね
新潮を読めば見方が変わるかもしれません
>日本語の文章理解において英語型の文法は邪魔になるだけ。そもそもが文章が英語的な
>論理に貫かれていない。
そんなこと当たり前だっての。英語の文法知識を経由して日本語の文法を間接的に体得する
しかない現状を問題視すべきだと言っとるんですけど。
>母語の干渉うんぬんなどといってては外国語は理解できも使用することもできない。
はぁ?0歳児教育かっての。母語の干渉は紛れもない事実だろ。何を言っとるんだね。
それに文法はもちろん発音の練習はどうすんのよ。母語との関連は避けて通れんよ。
国際音声記号でも覚えこませるつもりかね?
>GDMを示しているのにまったく調べようともしなかったな。
母語の干渉がどーでもいいという人の推薦なら私は食指が動かんよ。
そんないいものがあるならどーして国語科で使わないのかね。
それを応用して日本語文法書でも編んだらいいんじゃねーの?
>>460 何の話だい。誰がそんなこと言っとんのよ。妄想はやめてね。
>日本語の論文は日本人が読む。日本人が理解できれば用は足りている。
日本人が日本人向けに日本語で書いた文章が、多くの場合論理的でない件に
ついてはどう思うんだね?
ネイティブは日本語をどう使ってるかということを教える考え方なのに、それをもってネイティブに教えるのかい?
そんなバカな。
<自然な>日本語とは何かということを使用の面からつきつめた考え方だよ。
文法的(形式的)な理解なんかしてないんだよ。
>英語の文法知識を経由して日本語の文法を間接的に体得する
しかない現状を問題視すべきだと言っとるんですけど。
だからそんなこと役に立たないからしなくていいといってるの。一般的に文法を基準に
語られることが日本語ではめったにない。
通時的な説明がほとんどだ。(このように使われてきた。だからこのように使うのが正しい。)
日本語の文法を教えるなら、体言 用言のカードをつくり適当にならべ、助詞、格助詞をつかって
文にしてみればよろしい。日本語の文法のほとんどがそこででてくる。どんな係りを設定すれば
文=こと=factが成立するか。日本語のしくみはそこにある。
><自然な>日本語とは何かということを使用の面からつきつめた考え方だよ。
>文法的(形式的)な理解なんかしてないんだよ。
ああ、そうなの。私は詳細を知らんよ。君の書き込みの情報だけで判断してる。
しかし、文法的な理解がいらんというのはすごいな。
そんなのを使って外国語教育がゼロからできんのかね?
聞いたことねーわ。
論理的でなくても何かは伝わってるならいいんじゃないの?
読者がそれで納得する文だけが生き残るわけだから。
何も問題はない。
論理的であれば分かりやすいのではない。論理的とは根拠→主張の関係にすぎない。
それが的確に述べてあれば十分用は足りる。
日本語の場合の根拠→主張の→の部分がアナノジーになりがちだというだけの話である。
論理的でないから、この文章で問題は解けないというのは受験が終わった後に騒ぐしかない。
でも、何らかの形で答えを書くわけだから、論理的かそうでないかというのは問題の外の話である。
そもそもが、問題を出してる人間は何を尋ねているのかを考えるしかない。数学を解くように誰でも
が同じように指摘できるところ、ことだけを問題に出しているなら必ず解ける。それを解く方法は存在
する。だけど、文法とは無関係だよ。
英語の文法による文法理解ではなくて、基本的には古文を理解する際に支えとなる文法の方が文法として
役に立ってる。ママンが高校の先生だというのに古文や漢文から転移される文法について思いが回らないの
は、よっぽど怪しい。本当に高校の先生なのだろうか。(現国の教師はそんなこと勉強しなくてもいい…のなら
話にならない。文法なんて口に出すべきではない。)
日本人は文法を知らなくても日本語を使ってるよ。もちろん英語を使う人々も。
ネイティブだということじゃなくて。おそらくは、文法的説明をしてくれといわれたらほとんどの人ができない。
文法なんかで考えてないからだ。
むかでが自分でどう歩いてるのかを説明しようとするときでてくるのが文法なのだ。でもそんなことは、他人に見てもら
えばいいのだ。その方がよっぽど正しい。
>日本語の文法を教えるなら、体言 用言のカードをつくり適当にならべ、助詞、格助詞をつかって
>文にしてみればよろしい。日本語の文法のほとんどがそこででてくる。どんな係りを設定すれば
>文=こと=factが成立するか。日本語のしくみはそこにある。
なんじゃそれは。試行錯誤で探れとでも言うのかよ。あほ草。
単純化したいのか特殊化したいのか知らんが、日本語を特別視しすぎ。
そんなカード遊びで文法が体得できれば誰も苦労しねーよ。
できる。できないというのは間違い。日本語はそういうしくみ。
ぼく たべる カレーライスという三つのカードをランダムにならべるパターンは次のものですべて。
ぼく カレーライス たべる。
ぼく たべる カレーライス。
たべる カレーライス ぼく。
たべる ぼく カレーライス。
カレーライス ぼく たべる。
カレーライス たべる ぼく。
省略。活用。助詞。すべてを駆使するときちんと全部が成立する。そこに日本語の文法の要素のほとんどがでてくる。
付け加えるなら、「ていねい」に言う(敬語表現)が残る。
レスが前後したね。
>>467 なんだかおかしいと思ったよ。
君の言ってるのは文法いらねーという話なのね。
ネイティヴだろうが何だろうが、文法を勉強しなければ文法を語り得ないのは当然のことだろ。
話せる、書けるといった言語運用能力があるということと、文法的な知識があるというのは全く
別のことだ。きわめて当たり前のことじゃねーか。
母語話者が文法知識なしに高度な運用能力を持っているからと言って、非母語話者もそれ
でいいはずがねーだろ。非母語話者は当該言語の文法体系をしっかり把握しないことには、その
言語の正確な運用能力は身につかん。「アメリカでは子どもでも英語が使える」などと言う話が
非母語話者には何の関係もねーのがわからんのかね?
翻って、母語だからその文法知識なんていらねーというのは、きわめてさもしい話だ。母語でない
言語を学ぶ際に、母語の正確な文法知識がどれだけ役に立つと思っているんだね?
>>469 >そこに日本語の文法の要素のほとんどがでてくる。
はぁ?
じゃあそこからどんな要素が出てきたのか列挙して説明してくれや。
そしてそれらは「日本語の文法の要素のほとんど」なのね。あほ草。
なんだ、「あ」かよ。
道理でつまんねー話ばかりだと思った。
ハンドルネームつけてくれ。相手にしないから。
石原の話の腰を折ってしまって申し訳ない。
どうぞ続けてつかあさい。
↓
>>470 まったく役になど立っていない。
文法的な知識によって言語が理解できるようになるのではないからだ。コードよりもランガージュこそが言語の実体
なのである。
それが証拠に、単語をならべただけでもネイティブと意志の疎通は可能なのだ。理解してやろうという協同的な関わり
の方がすっと大事である。
そういう主知的なやり方こそ日本の英語教育だったのではないか?でもって十何年やったところで「話せない、聞けない
」という自意識を持たざる負えない。それならそういうやり方が間違っていたのだ。
はっきりいえば、グラマー中心なのはテストの採点のためである。それも日本式のグラマーは恐ろしいことにネイティブ
には理解不可能なのだ。(じゃあいった何語の文法をわれわれはやっているんだろう。)どうでもいい言い回しに○と×で
線引きを引いて無理やりこじつけてるのが日本の英語文法。やればやるほどバカになる。
よくわからんがお前の言ってるのは文法のテストのあり方なんじゃねーの?
そんなものと文法知識そのものの重要性を混同するな。
お前は本当にどうしようもないやつだな。救いようがねーわ。
少しは考えてからものを家。
ね。協調的な姿勢が理解をもたらすのであって、コードや知識が理解をもたらすものじゃないことは↑ママンの書き込み
を見ればよくわかる。
文法的な知識(英語)が必要とされる場面などテストのときしか日本ではありえない。英語圏でグラマーとは作文のこと
である。
>よくわからんがお前の言ってるのは文法のテストのあり方なんじゃねーの?
よくわからなかったら、○○のところがわからないと聞けばいいのである。わしはテスト以外に文法なんか使わないし、
日本の英語教育が文法中心なのはテストのためだといってるのである。文法のテストが問題なのではない。
文法を中心に英語のテストを作るしかないということが問題なのだ。意味が通る、分かるよりも○か×かが先行してい
るし、○か×かの基準がはっきりしてないといけないからだ。しかも国語との差異を出さなければならない。
でなければ、国語のテストをしているようなことになってしまうからだ。
少しは考えてからものを家←考えた結果らしい。 orz
その上でママンの一番の誤りは、日本語の文法が問題になるのは古文の理解だ。
こっちが先。第一用言の活用を英語だと時制と複数しかない。これじゃ困る。
係りがない。関係代名詞があるからだ。
古文には関係代名詞はない。
ママンが本当に高校の教師であればそのことは自明だったはずだ。現国だけを
教えてるとしたら…ずいぶん余裕のある学校だな。それ。じゃあ受験対策なんか
てんでばらばらになってしまうだろ。
>文法的な知識(英語)が必要とされる場面などテストのときしか日本ではありえない。
英文法が必要とされる場面はテストの時しかあり得ない??
非母語話者が英語を話す、書く、聞く、読む時に英文法が必要ないとでも言うのかね?
お前はいったい何の話をしたいんだ?わけわからねーよ。頭大丈夫か?
>よくわからなかったら、○○のところがわからないと聞けばいいのである。
私がわからんというのは皮肉だということすらわからんかったのね。あほ草。
>日本語の文法が問題になるのは古文の理解だ。
だったら橋本文法で何の問題があるわけ?お前の発言は矛盾しているだろ。
それに、古文だろうが英語だろうが役に立つことははっきりしているのに、
何を必死になって反論しようとしているかさえ不明。端的に言って、お前の
話を聞いていてもつまらんよ。なんとかしてくれや。
橋本文法では有題つまり○○は〜○○する。などが説明できない。○○が〜○○するとの違いなどができないの。
古文の解釈にももちろん使えない。きれ字は文節じゃない。かかり結びがあつかえない。枕詞が浮く。など
だめだめなんだよ。
ママンの書き込みの方がわしにとっては下らないのだが、英文法から日本語文法にくるあたりからがっかりだよ。
仏文学科とか英文学科から国語科教師なのかあるいは、近代文学畑からなのか…。ともかく古文の文法がでて
こない当りいったい何を教えてるのかと思っちゃうよ。(給料泥棒じゃないのか?)
英文法は<必要ない>。そもそもが目的を表すTo不定詞だとか、なんだとかいろいろ分類しながら、結局わけ
わからなくしている。単純にTOは→でよい。 IN oeder to〜 も結局は TOの強調と考えればよい。ニュアンスの
問題は後回し。
でもそれって文法なのか?語用論ではないのか?
>
文法(ぶんぽう)とは、ある言語において、その言語のより小さな単位を連結してより大きな構造を作る際の規則である。
自然言語の文法は二つに大別できる。
すなわち、ある言語の規範を示し言語政策や言語教育における基準となることを目的とした規範文法と、
学問における研究対象として言語の持つ一定の法則を記述・説明することを目的とした記述文法である。
>
どうも文法というものの混同がみられると思う。日本語でいえば「は」の後に「が」はくることはあっても、「が」の後に「は」
が来ることはない。は文法である。(あったら示してみてしほしい。)
日本で英文法として教えているのは「言い回し」にすぎないよ。
英語の構造なんて、5文型しか教えてないだろ。
その上で他動詞、自動詞の違いや時制そのものの意味など教えてなんかいませんがな。
批判のための批判。どーしようもねーな。
お前のレス「が」おかしいの「は」勉強不足だからだわ。
適当なことばかり言っていて楽しいのかね。
そんで、お前が何を言いたいのかわからん。
私の445に対して、結局何を主張したいわけ?
どーでもいい話で横道に逸れた挙句、わけのわからん批判をされても困る。
>>481 ママン。話にならないのはママンだよ。なぜってママンの話はたった二つの文だけなんだ。
日本語の文法は教えてないのは困る。困るから困る。
文法を知らないと何が困るのか根拠がない。単に思いつきだよ。英語の問題のような国語の入試問題が成立するだ
ろうか。
推量をあらわしているのはどれか。
1今日は雨だ。
2今日は雨かもしれない。
3今日は雨だろう。
4今日は雨だそうだ。
文を完成させよ。
わたしたちは犬を飼いたい( )、ペットショップへ行った。
ふざけてるよね。これじゃあ。したがってママンはよく考えもしないで思いつきでいってるにすぎないよ。
高校の現国の授業で「形容詞だから〜」「副詞だから〜」なんて馬鹿らしい。それこそ○○的な用法
ですむ。
日本語は<係り>が本質なの。強いていって「が」ではなくて「は」なので、これはすべて○○のこと
について述べている。「が」がついているので○○する××がどうしたということをいいたい文である。
などの言い回しになるが…古文じゃあるまいしそんな授業意味ないでしょ。
批判のための批判…言い逃れのための言い逃れじゃないかねえ。それ。
そもそもが文法が役に立つということをママンは実例を含めて述べなければならなかった。
英語理解のための日本語文法などという展開をするなら、古典はどうなるのかという問題が残る。
そんなもののために日本語を習うわけではない。
ことばによる思考・表現能力を高めるために学習するのだ。
それを実現するために文法とはどうでなければならないのかという論点でしか展開できないはずである。
その上で間違っているのは英語は<技能教科>なのである。だから文法なんかやってるの。
本当にママンが高校教諭だとして高校教諭っていうのは専門馬鹿なのだろうか?あまりにも知識や考え方
が狭すぎないか?同じ国語分野の古文漢文へのにらみがなかったりするのは大問題だろ。なんで英語な
んだ?(答えは猫に振りたいから…えー。そんな理由かよ。それはつっこまれるだろ。思いつきすぎるよ。)
「は」「が」「を」「に」「へ」を扱うのが日本語の文法だよ。高校でそれをやるっていうのはどうだろう。
しかもやったからっていって何が変わるわけでもない。ネイティブにとっては、ああ、確かにそういう規則が
あるねえ。むかでがああ右の一番前足と一緒に右足全部が動くのか。みたいな話だけである。
そして、それは日本語について聞かれたときに説明ができるってことだけ。
もう一度書くけど、grammar ってそもそも英語圏は作文の時間だぞ。
で日本の国語教育が読解中心なんてのも、勉強不足。
読解を進める上で、書くことで整理したり、書くことで意見をまとめたりするという言語活動が前提になってる。
どんな授業してるんだ。こっちがびっくりだよ。指導要領ぐらいは読んでるんだよね。できれば小、中、高の国語
科指導要領を通して読んでみてほしいもんだ。
こっちがびっくりしちゃうんだよ。うーん。いったいどんな高校なんだ?生徒がそのレベルじゃないっていうんなら
身につけさせたい技能の整理からはじまって、どう教科書の教材文を生かして言語活動させるかってことになる。
指導案も書いたことないんじゃないか?何か授業のいろはが成立しないぞ。
読解の授業を教師や定説の解釈の押し付けなんてとらえる国語教師なんて存在しうるのか?じゃあ、そいつは
卒論はどうしたんだろう。信じられないことばかりだよ。わしは。
美術・美学畑でわしはよかった。基本的にサイバネティクスだからね。「もの」と「おもい」と「かたち」の関係だもの。
それぞれは「自然」「意識」「社会」に対応してるんだけどさ。
なぜそんなこというのかというと前から疑問だったのだが、今高校には現国という時間はないのだ。
えーといわれる方もあるだろう。高校の教師なら当たり前のことなのだ。
じゃあどうなってるのといえば、必修の国語表現←どこが読解中心なんだ!国語総合、現代文、古典、古典講読
という構成なのだ。
でママンは何を教えてるんだ。実は教えてるんじゃなくて、教わってるのか?
ちなみに必修なのは国語表現の2単位のみ。あとは選択ということになる。
なんでわしが今の高校について教えなきゃならんのだ。
よくもいままでいけしゃあしゃあと語って(騙って)これたものである。
そのくせ生徒のレベルが低いだあ。とんでもない。キミはそのレベルからスタートするかわりにお給金をもらっているの
だ。
学校とは違うのだから。ほんとうにママンは○○○○だなあ。
488 :
半さん:2007/08/10(金) 15:35:34 ID:6ceJaZqX
>>487 こっちのスレの話ですが
キリ番のことは気にせずカキコして構いませんのでw
あーそういうアシストだったのですね。意味がわかってなかったです。いえいえヤマさんに900は踏んでもらいましょう。
あのような問題は牛のように行うことがとても大事ですからね。
>>491 ママン。わからなきゃ、書かなきゃいいのに…。ここの話じゃないので気にしなさなんな。
ほう。それはよかった。一時は国語表現だけみたいな方針が打ち出されていたから。必修二単位が総合と表現に
なってよござんした。
でなんで一貫校の私立校ばっかり集めてきたのだろう。NHK学園のものがたぶん標準的じゃないだろうか?
で時間はあるじゃないか。藁。しないのは学校の責任だし教師の責任だろ。
地方では予備校みたいなこと=受験対策を学校がしなけりゃならないってことを押さえたって、その必要性はある
んだから<ずべこべいわすに計画を立ててやれ>。
物語の読み解く視点を設定して自分で読み解かせることだね。ママンそんなレベルの授業をしてちゃダメダメだよ。
主人公の気持ち…まだ、そんなことやってんの?!。
わしがふきだしを使うのは低学年だからだし、気持ちの表現技術を鍛えたいからだ。主人公の気持ちを書かせる
ような客体化した書き方をさせるわけではない。
おおきなかぶであれば、おじいさんはどんな願いをこめてたねを植えましたか。→これは書いてある。だれでもが
押さえなければならないこと。「あまくて、おおきなかぶになるように」 ※岩崎京子訳では「まいた」になっているが、
原作はひとつのたねを植えた。という書き方になっている。まいたは複数を予想させる点でこの訳は問題がある。
いいかぶにするのはどんなことをしなければならないでしょう。板書。ノートに書かせる。
みずやり。くさとり。ひりょう。おせわ。たいせつに そだてる。
するとどんなかぶができましたか。→「とてつもなく」おおきなかぶ。とてつもなくを動作化させイメージを膨らませる。
じゃあ、そのときのおじいさんになって一言、いってみよう。ふきだしに書いてごらん。
よろこびや、おどろきをが中心になる。話の筋を知っている子はぬいて早く食べようなどということも書くだろう。
どんなことばを使ってそれを表現し、そのことばはどんなカテゴリーに位置しているのか図解しつつ、感情表現の
語彙を広げたり、使ったりできるようにする。
ねらいである「おおきなかぶを みたおじいさんのことを みんなで 考えよう」はこのように実践される。
気持ちをどうとらえたかと結びついた表現が大事なのである。
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 17:40:43 ID:6ceJaZqX
>>489 >あのような問題は牛のように行うことがとても大事ですからね。
禿同
494 :
半さん:2007/08/10(金) 17:44:44 ID:6ceJaZqX
↑私です
ハンドル保存忘れてたorz
ちなみにママンが高校の国語教師ではないのが決定的だと思う。
国語総合は…きちんと国語表現を含んでいるのだ。そんなこときちんと教科書を使っていれば誰でもわかっている事実。
つまり、教科書を使わないで教えるという現場の人だ。
三省堂 「国語総合」の目次。
「祝福」のことば(現代文)
水の東西(現代文)
スピーチ「わたしのこと」を話そう(表現)
古典の響き
古文入門(古文)
田舎の児、桜の散るを見て泣くこと
後の千金のこと
大江山
漢文に親しむ(漢文)
五十歩百歩
借虎威
蛇足
羅生門(現代文)
少女(現代文)
こんな人に、こんな本を(表現)
情報流(現代文)
命はだれのものなのか(現代文)
地球の有限性と人間(現代文)
討論ゲームをしよう(表現)
新聞に投書してみよう(表現)
詩(現代文)▼ レモン哀歌▼ およぐひと・猫▼ 骨▼ 崖
富嶽百景(現代文)
手紙を書いてみよう(表現)
徒然草(古文)
漢詩八首(漢文)
その子二十──短歌十五首(現代文)
いくたびも──俳句十六句(現代文)
伊勢物語(古文)
土佐日記(古文)
ものとことば(現代文)
ネットが崩す公私の境(現代文)
道順を説明してみよう(表現)
ことばを見つめる(表現)
平家物語(古文)
鶏鳴狗盗(漢文)
復活(漢文)
待ち伏せ(現代文)
紫紺染について(現代文)
文学の表現(表現)
和歌二十首(古文)
万葉集・古今和歌集・新古今和 歌集
雑説(漢文)
余暇について(現代文)
見る──考える(現代文)
奥の細道(古文)
論語・孟子(漢文)
発表「○○って、何?」(表現)
となっている。どうして文法が英語からやってくることになるんだろうか?
それでもこれじゃあ中学校の教科書だよなあ。…。
それでも表現の方が大事なのだ!というならきちんとそのことを交渉して国語総合だけでなく国語表現も必修にして
もらえばよい。
なんだかなあ。全部自分に返ってくる話だよ。ママン。あ、学校でやってるわけじゃないから別にいいか。
好きなようにやったらいいじゃんかさ。模試の成績が上がればいいだろ。
(ママンの日本語につきあってたらとても伸びるとは思われないが。結論だけがあって根拠がないもの。)
>でなんで一貫校の私立校ばっかり集めてきたのだろう。
そんな面倒くさいことするかっての。
検索順だと言ってるだろ?人の話聞けや。
>わしがふきだしを使うのは低学年だからだし、気持ちの表現技術を鍛えたいからだ。
お前がふきだしを使おうがふんどしを締めようが知るかよそんなこと。
どんな文脈でこの話なんだっての。わかるように書け。
>じゃあ、そのときのおじいさんになって一言、いってみよう。
お前は私の高等学校の話を受けておいて、小学校の実践の話にしている。
私の話と、お前の小学生低学年の話と、どう結びつくのだね?
そして、それを私の445に対してお前がどう考えるかという論点でまとめてくれ。
唐突におおきなかぶの話をされて終わられてもわけわからんのだよ。
あのねえ、高校では教科書を始めから終わりまで虱潰しにやることはないの。
授業を担当者がいろいろデザインできるように多くの単元が含まれているんだろうが。
そして、手紙を書こうだの道順を教えようだなんてのは国語表現でやることとは比較に
ならんほど初歩的だ。しかも、担当者によってはすっ飛ばされることが多いだろう。
お前とはまともな話ができんよ。
問題を勝手に自分に引き付けて、どーでもいいことをぐちゃぐちゃ言うのはやめてくれ。
お前のレスを見ていると、確実にプレゼンとかスピーチとか苦手なタイプだと思うぞ。
いつも「で、結局何をおっしゃりたいんですか?」と聞かれてるんじゃねーの?
話題の軸をしっかり把握しつつ、常にその軸との関連で話題を展開することができていない。
話題が展開するとそちらに気をとられてしまって、軸なんかどーでもよくなってしまう。
もしくは、意図的に自分の都合で勝手な方向に話題をスライドさせていく。
その結果、いつも自分の体験談めいたものに収斂してしまうんだな。
そんな話は相手にとってどーでもいいことにすら気づいていない悲しさ。
で、話題の軸から遠く離れて文脈も何もなくなり、相手はわけがわからなくなって終了。
お前との話し合いはこのパターンがきわめて多い。
だからつまらんのだよ。
>>498 おいおい 未履修かい。あのな。カリキュラムっていうのは時間割じゃあねえ。
あれは時間割。
カリキュラムというのは教育計画だよ。なにかいお前さんの学校は適当に各担当が教えて
やったものを報告してるのかい。
校長の首がとぶぞ。そんなことしたら。教科書のしらみつぶしにやらなくてもいいが、領域
はきちんと押さえなければならない。転勤などもあるから学校の指導計画は教科書をもとに
作らなければならない。
そんないい加減なことやってるから、レベルが低いんだよ。学校ってところが分かってない。
それを許してる学校長はもっと問題だ。差し替える置き換えるというのはすごい大変なこと
なんだよ。
だいいち<やる時間がない>っていってたのは、お前だろ。時間があるんだから、これこれ
こういう内容で何時間、教科書のここの代わりに行います。計画はこれこのとおり(ばさっと
資料)っていうのが当たり前のことなんだよ。
だから学校はいい加減だっていわれるんだ。がんばってやってる同業者の足を引っ張るんじゃない。
>>500 いやそれは違うだろ。そもそもママンのぼやきじゃないか。
文法ぐらい教えておいてくれ←お前がやれ。
書く力を鍛える時間がない。←設定してお前がやれ。
ってつっこみだってば。なんで社会的な原因があるみたいな方向にもってくんだよ。
そんなことあるかい。
お前がしなきゃならんのだ。自覚が足りないよ。鍛えられてない。
結論 お前がきちんとやれ。
根拠 それがお前の仕事だから。
これ以上わかりやすくはできないよ。
前にママンに
そこまでいうなら指導案を提示してほしいもんだといったができなかった。
たぶんできっこない。指導案を書いたことがないのだ。
だってカリキュラムがわかってないんだぞ。
信じられませーん。本当に同業者だとしたら今すぐ首にしてください。
>>504 だから小、中、高って国語科の先生のレベルは下がってるっていってんの。
小学校と同じようなことやって平気なセンスや知性で先生でございって…そして一番給料は多くもらってるだろ。
わしはずっとそう指摘してきたし、そう思ってる。実際にそうだ。
自らリンクして証明してくれたし。
ダメダメだあ。
>>504 またぼけぼけだあ。それ古文だぞお。つまり一段階解釈がはいるからだろ。
いい加減にきちんと読め。それ全部読めば、お前さんのいってることがどんなにとんでもかわかる。
そして教科書会社も、できないことをこんなんが正しいのですよ、と提示することはできない。
教師のレベルに合わせて、それこそ<やってみたい。><これならやれそう。>というものを例示する
しかない。
そんな例示をされて怒るならまだしも、教科書だってこれぐらいっていうのは矜持がなさすぎる。
一つ高度な活動が入るから、着地点はなれているところに設定しているだけ。
本当に読めてない。ちっ。
>>501-503 はぁ?お前、何か勘違いしてるだろ。
あのう、私はお前に授業案の作成を相談しているんじゃねーんだけど?
455では一般的な問題としてこの現状をどう思うかって聞いているんだろ。
その「現状」把握が妥当なものかどうかということも含めて。
教師としてこの現状どうしましょうかなどとスレで相談しているわけではない。
つくづく思うんだが、お前は私と、小学校と高等学校の国語教育どちらが優れているか
コンテストか何かをしているつもりなんじゃねーの?くだらなさ極まりないから、やめてくれ。
お前の興味関心とは関係ない話題の時は、それなりの対応をしたらどうだ。
勝手に小学校の話を持ち出して、それが生産的ならともかく議論とかみ合わない
どーでもいい話にしかなっとらんじゃねーの。そんなら黙っとけっての。
うへえ。
くだらん話はホントどーでもいいので、
>>455に話題を戻せよ。
私の意図は
>>509で示した通りだ。わかっただろ。お前のアドバイスなんかいらんのだよ。
455に対して、結局お前は何を言いたいのかと私は何度も聞いている。
それ以外のくだらん話なぞ聞く暇はないし、聞きたくもない。
今はお前しかいないようなのでお前に感想を聞いているわけだが、答えたく
なければ答えなくて大いに結構。
私はいろいろ考えて書いたレスだから、お前みたいなのに潰されてしまうのが
惜しいだけ。おっちゃんの石原の話題だって実際に著書を読んでの感想だから
面白かった。猫ちゃんとも石原バトルも楽しみだ。これ以上邪魔すんな。
わしもママンに授業案の作成の仕方を指導するつもりは毛頭ないよ。
どうしてそんな勘違いになるんだ。
学校というところは計画に基づいて指導をするところ。
授業は年間学習計画(カリキュラム)に基づいて行われる。
カリキュラムの作成は<学校>が行う。
各学校はカリキュラムを教育委員会に報告し指導要領が示す基準にあってなければ作成しなおしを命じる。
それで教育の機会均等を国民に保障していますよ。
ということになってるんだが。
だから、一般的もくそもキミがやる仕事なんだよ。この現状なんてキミは一般的なことを全て把握してんのか?
現場を知りもしない一冊の新書本を読んで、それを批判しもしないでその尻馬にのって<読み中心>批判をして
る。
<読み中心>にしているのは高校教師だ。文科省はそれを避けるように指導要領で懇切丁寧に解説してる。
それを切り替える腕がなければ、少なくとも「教科書通り」に進めろ。その方がよっぽど正しい。
<読み中心>としてとらえるのはおかしい。現在の国語は変わってきてるとういのが現場の人間の感想だと
思うけどね。それがそうならない時点でダメダメだっていってんの。
きちんと授業をしろ。それが答えだよ。
石原が取り上げてるのは義務教育のそれも読みのテキストだけ。それで国語教科書の思想などというのは
わらわせてくれる。
あれは国語のことを出汁にした社会学(社会批判)の本。
現場がわかってない。という一言で学校現場では退けられちゃうね。
>この現状なんてキミは一般的なことを全て把握してんのか?
と言いつつ、
>現在の国語は変わってきてるとういのが現場の人間の感想だと思うけどね。
と小学校教師が高等学校の現場について語るわけね。
ホントどーでもいいわ。
>キミがやる仕事
私が教師かどうかなんて全く本質的ではねーってことにいつになったら気づくのかね。
それから、お前の小学校での実践例がお前の高等学校に関する意見の根本にあるなら考え直した方がいいな。
>>513 人の話聞いてねーのか。だめだこりゃ。相手するだけ無駄だわ。
キミが教師でなければ、さらにダメダメだ。キミが教師であるかないかは本質的なこと。国語を教える立場なのか
批判しかしない立場なのか。
>>1にもどってこのスレの目的を考えてみるんだな。
もし石原の本を読んだのなら、わしが、なぜ、「おおきなかぶ」を提示したのかがわかる。
人の話も文章もきちんと読まない(読めないの)はキミだよ。感想文のやりとりでよくわかった。
ただイッチョカミしたいだけなんでしょ。学校の勉強をきちんとしなよ。学校に行かないでそんなこと言っていられるのは
高等遊民だよ。まさに唾棄すべきプロレタリアートの敵だね。ボルシェビキだな。
>>514 わしは一般的であるようにきちんと資料を示して述べているわけだが。思い込みでなどで述べているわけではない。
そして、指導要領が変わったのだから、本来現場は変わってなければならない。
変わってないのだとしたら、それは<教師>の問題である。どうして指導要領が変わったのか。を理解もしてないし
しようともしないということだ。ただ自分のいままでのやり方通りやって、できないのは生徒のせいってことにするんじゃ
ないだろうか。
指導計画なんていい加減なんだよみたいな発言が飛び出したりするのは自覚という点で大いに問題がある。
いきあたりばったりで…考えただけでも恐ろしい。
あのう、論者の立場によって議論が変わるような話がどうして「一般的」なのだね?
お前の話はその意味で既に一般的な話なんかじゃねーわけ。
どうしてわからんのかがわからん。
ボリシェビキ?あほ草。もうどーでもいいわ。
うははは。一般的には「何」を言ってるかではなくて「誰」が言ってるかの方が判断の基準になってますよ。
当たり前のことじゃないですか。教師なのにこんなことも知らないのと、教師じゃないからこんなこというんだ
では知らないということは一緒でも、まるきり受け取られ方が違いますよね。
あなたが国語教師ではないらしいから、懇切丁寧に説明しましたが、こんなの常識だと思います。
そんなのはおかしい、中身が問題だというのはわたしではなく世間にいってください。
わたしは、みんなはそうしてるよという記述をしただけです。
あなたの一般的というのは2ch用語でいうと脳○らしいですね。
論者の立場によって意見が異なるから議論になるのである。
こんな当たり前のことをいまさら指摘しなければいけないだろうか。わしにはとても疑問である。
この理解力のなさをどこから来てるんだろう。
猫と同じ帰国子女?(←差別的思い込み発言。帰国子女で日本人学校へ行ってた人間よりも、現地の学校へ行って
た人の方が国際学力テストはいいらしいぞ。だからといって賢いことにはならないが。)
懇切丁寧に。
ママン わし
日本語文法をきちんと教えてない。←教師ならお前がきちんとやれ。教師でないなら、日本語文法が確立してないので
教えても役に立たないし、何のたまに教えるのか意味がわかりません。
作文教育にもっと焦点を当ててもいいと思う。←教師ならもう今そうなってるだろ、きちんとやれ。教師でないなら、今の
指導要領は そうなってます。
われわれは日本語文法を、英語教育を通じて知った側面はないか?←教師なら古文を教えてないのかい。馬鹿。
教師でないなら、そんなことはありません。用言の活用など英語の文法とは明らかに
違ってます。古文の勉強によって日本語の文法に触れるのが一般的です。
英語教育は、日本語との共通点と差異を明確に意識してカリキュラム編成しているか? ←あ!きちんと指導計画という
意味でカリキュラムを使ってるぞ。何なんだ?英語は技能教科の位置づけですか
ら日本語との共通点よりも英語ならこう言うということに重点がおかれています。
作文、小論文の体系的な導入および評価に割く時間はほとんどないという実態をどう思うか? ←教師なら、じゃあお前が
計画を立ててきちんとやれ。教師でないなら現状は改善の途中です。
教科書を見ると、評論、小説、詩歌ばかり並んでいて、基本的に「読解」することになっている。←教師ならじゃあ言語表現
の教科書を使えばいいじゃんか。第一、現代文、古文といっぱい高校は教科書使うだ
ろ。読解が書くとも言うとも関係ないと考えるのはあやまりです。
文法などはコラムとしてちょこっと載っているだけで、明らかにどーでもいいらしい。 ←古文の教科書もそうですか?という
よりそれは最初にもどってますね。日本語の文法が確定的ではないのではっきりとし
た形がないのです。
石原が問題になるのも、読解偏重でしかも教師による読みの押し付けが堂々とまかり通ってる ←それはその通り。だけど
からでしょ。国語科では技術として何を教えるのかがはっきりしていないし意識されていないから、 キミはその授業をする立場じゃないのかい?
単元として選ばれた文章の内容が必要以上に重要になるんでねーの?読解能力を磨くことが だったら石原のこの展開はおかしいとか
目標なのであれば、基本的には内容などどーでもいいはず(全くどーでもいいとは言わないけど)。 それこそ批判の対象湯だろ。
単元を踏まえて作文・小論文を書かせるなら、その内容を批判するものだって当然出てくるし、
その意味ではきわめて健全な授業が運営できる。単に「正解(定説)」を教師が披露して終わる 基本的に批判的な読み、技術的な読みをする
ような授業を前提に話が進んでいるような気がするね。 ように文科省は進めてる。(cf:三森)
くだらねーなあ。
どーでもいいけど、批判されたら自分の意見を「みんなはそうしてるよ」などとごまかすなっての。
そうしてない人がいないとでも言うのかよ。それに仮に「みんなそうしてる」としても、お前が
ここでそれに追従する必然性はねーし。結局は恣意的な話だ。
私のことを何も知らないお前が、資格をどうこうすること自体おかしい。
話者の資格を問わなければ、つまり小学校教師であるという肩書きがなければ
何も語れないようなお前と話すことは何もねーわ。
>>519 なんだこれ。
しかし、これまでのどーでもいいレスと比べればある意味、進歩だ。
私のレスに対して直接的な反応をしようとはしているからな。
これまでのくだらんレスは何だったわけ?
とはいえ、内容はまた別だな。
結局、お前は自明の事実関係をうんぬんするのみ。
それに私は、私はどうしたらいいでしょうなんて聞いてねーの。
教師かどうかで返答を変えているつもりのようだが、私はお前を含むレス住人の意見
を聞いているのであって、事実関係なんて聞いてない(事実誤認があれば別だが)。
>古文の勉強によって日本語の文法に触れるのが一般的です。
はぁ?それがどうしたわけ?
それについてどー思うんだって聞かれてるんだろ。
>現状は改善の途中です。
途中って、どう改善してるんだ?
そしてその方向性および速度は正しいのか?
そういうことは論じられんのか。
>読解が書くとも言うとも関係ないと考えるのはあやまりです。
なんで?
他はこちらからコメントする価値なし。
>>520 おやおや感情論ですか。よわりましたな。一般的とはどういうことかという説明をしただけですよ。
どーでもいいなら。それでいいよ。といえばよい。どーでもよくないことに限って、枕にどーでもいいけど
とつける日本語の文法は係り結びという考えなしには説明できない。
だれも追従しろなんていってないって。話をずらしてるのはママンだよ。っていうか理解してない。
教師という肩書きがなくたって語れるでしょ。でも国語科について語るスレで教える立場にあるかどうか
はとっても重要なことでしょ。じゃなきゃ、とリビアか空中戦(イデオロギー批判イデオロギー)に始終し
ちゃうでしょ。
論理的を叫ぶことが感情的なように。
というより、こちらのレスの全てに何か答えようという姿勢がそもそもおかしいんだって。
自分が知らんことや興味のないことまで無理に答える必要はねーのよ。
お前の意見を家とは言ったが、そうやって無理して答えるところからおかしな話が始まる
ことが多い。知らんなら知らんと言えばいいし、興味ないなら無視して放っておけばいい。
誰もそれに対して怒りはせんよ。
>>521 ぷ。わかった。ママンは情報の整理ができないんだ。だから、読めないのか。
だって今まで書いてきたことをまとめただけだよ。それ。
ネイティブであるわれわれが文法を意識て使うことはない。推敲の際にまさに
「てにをは」をどうするのかということで語用論は成立する。
しかし、古文になると「われわれとは違った日本語で書かれているので」整理して
解釈しなければならない。その整理の仕方が文法だ。そしてそれでわしはいいと思
ってるよ。
途中ってどう改善してるんだ。←ほら、読めてない。
>途中ってどう改善してるんだ。←ほら、読めてない。
悪いけど、あんなぐちゃぐちゃの中でお前が何を言っていたか問われても知らんよ。
私のレスに答えるという文脈じゃなかったのだから、そんなことまで責任持てんわ。
改めてどうぞ。
>>523 ただ単に教える立場なのにこの書き込みはちょっとなあってだけだよ。
で今回わかったこと。ママンは教える立場にあったとしても、どーでもいい人だ。
だって、どーしたらいいかということを議論するスレでそれはないだろ。
批判のための批判じゃなくて、マジに批判なの。
教える立場にない、つまり、ただのイッチョカミなら、いわなきゃいいのに…ってだけ。
空中戦になるわけだよ。そういう立場同士で議論しても。
高校生のお前しってか?
お前こそしってか?
レベルとまったく変わらないことになる。それこそことばの無駄遣いだ。
>>526 それは論者次第だろ。お前だったら難しいだろうが。
私は、資格を問うことで議論の幅を狭くしたくないだけ。
要はバランスだ。
>>527 お前のレベルはそれか。
じゃ、お前はやめとけ。
529 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/10(金) 23:40:40 ID:2N63Rf0P
半さん
今は新書でも岩波より「ちくま」が元気ですよ。ま、そのあたりはどうでもいいことですが。
石原の名前は「読むための理論」ではじめて知ったんですが、彼は専門でも生産的な仕事をしているし、
歯に衣を着せぬ物言いが気にっています。噛ませ犬は彼ほど威勢がいいのがいいんですよ。
おっちゃん
石原の趣味が出ているのはその通りだと思います。都市生活者のボンボンの臭い。でも彼は
正直だと思います。動物の話の分析も、そんな風に読めるんだという視点の提供だけでもいいじゃ、
ないですか。噛ませ犬は少々癖がある方が面白いし『強く』なるんです。
「あ」の馬鹿
お前、読んでから言え。読んでないだろ?w正直に生きろよwwwww
他の駄文も罵倒の価値さえない。
ママンちゃん
馬鹿が何と言おうと文法は重視される方向に行かざるをえないでしょう。
西洋ではもっと文法重視です。ただし、橋本うんぬんという低レベルではなく、
文文法だけでなく談話文法など新しい枠組みで構築されるでしょう。
三上章が秀逸なのは、彼は既に文文法を越える視線を持っていたということです。
白痴の相手、ご苦労さん
530 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/10(金) 23:48:27 ID:2N63Rf0P
「あ」の馬鹿へ
お前。英語なんか何も分かっていないんだから黙った方がいい。
なんなら逐一詳しいレスを付けようかw
例えば、五文型に関して。お前はどれだけ分かっているんだろうねw
531 :
おっさん:2007/08/11(土) 00:11:51 ID:249muWHT
石原さんのあの本はいただけません。
動物を題材とした作品や動物を人物化した作品が多い。
だから「動物に戻ろう」が『国語科教科書の思想』だなんて
笑うしかないじゃないですか。
この程度の思い付きがいつのまにごたいそうな説に変身させてしまう
論述もいかさまにしか思えません。
「自然に帰れ」とかを批判する姿勢とかが「都会的」なのでしょうか?
全然「都会的」な感じはしませんが。
資料などで勝負するタイプではなく作品の読みそのもので勝負するタイプ
だとか自称し、あの論述では、情けなくなります。
532 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/11(土) 00:39:42 ID:F1CfOIAL
おっちゃん
彼の嫌味がいいんですよ。
>「自然に帰れ」とかを批判する姿勢とかが「都会的」なのでしょうか?
いや、彼のような人間は意外とガーデニングとか趣味だったりするかもww
ま、本質はそういう表層ではなく、ゲームに興じる若い奴らこそが「動物化」
しているというヒネリを読まないといけないと思いますよ。
実際、子どもはゲームやテレビで自然を確認するんでしょうね。
貧乏人のカッペは、都市生活者にあこがれ、かなわないというネジレから
自然を愛するように仕組まれています。
「自然に帰れ」も、その欺瞞を撃つのも両方とも都会の脳天気です。
カッペは余儀なく愛するのです。
北朝鮮の人たちも祖国を郷土を愛するように。
選択や変更こそは都市の視線が生み出すものです。
カッペの自然はそれを拒否します。農奴とは受動的存在です。
受動性を能動性だと信じる存在です。信じざるをえない存在です。
カッペは道徳など真善美によってカッペであるのではないんです。
石原が駄目なのは、「あ」の言うような社会学になってないところです。
例えば、資本の運動こそが最大であるにもかかわらずそこまで踏み込みません。
「自然に帰れ」とは既に資本の餌食です。トヨタ単独提供の番組がどうか。
おっちゃん、どんどん石原批判を展開してください。
細論をお待ちします。
533 :
おっさん:2007/08/11(土) 03:00:30 ID:249muWHT
問題は、あの本の実際の論述のレベルの低さです。
石原が東や柄谷を知っていることはわかります。
しかし、ずっと例にあげてきたような石原自身の論述は問題外です。
動物がいっぱい出てくるから「動物に戻ろう」という思想がある、こんな程度の論述なのです。
近代における観念的転倒とかポストモダンとかそんな高級な次元での論述にはなっていません。
ルソーのキャッチフレー「自然に帰れ」そのままのレベルでの批判です。
ルソーは偉いと思いますが、今はそのレベルで主張したり反論したりしても茶番でしょ。
東の「動物化」も自分の思い付きを粉飾するため使われているにすぎません。
東の「動物化」と、動物がたくさん出てくるから「動物に戻ろう」という話では、全然次元が違います。
嫌味や冗談を言ってるのだろうと思って読んでいたら、実にまじめだったりして、気恥ずかしい気がしました。
本当に嫌味を述べているところも正に嫌味でしかないレベルで、蓮實なんかには到底届かないと思います。
本業の方の仕事ではないとは言え、本業での自らの姿勢や方法を貫くと言ってるわけですから、
あれでは本業も信用できないな、と思いました。
著者自身が教科書(どこですか)の編集の経験があるのだから、
まずその教科書でまじめに論述すべきだと思います。
あのレベルでは教科書会社としての政治的な背景を疑われても仕方ないのでは(笑)
534 :
半さん:2007/08/11(土) 06:53:53 ID:GbAEQhK+
>>529 岩波のイメージは手堅い「定説」で固めるってイメージです
ちくまのように大胆な仮説や問題提起を扱うのも面白いと思ってます
(偏見かな?)
書物に著わす「歯に衣を着せぬ物言い」は相手が言い返さない一方通行ですからね
その「威勢」が彼の持つ「格」なのか「虚仮脅し」なのかは
口頭での論争でどれだけ口が立つかを見極めてからですなw
確かあの本に「自分のテクスト分析は時代遅れ」との旨の
述懐がありましたがあんな感じで何でもかんでもバッサバッサ斬りつけてれば
そりゃーナマクラになるでしょwww
「噛ませ犬」ってのはそういう意味でしょうか?
535 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/11(土) 09:05:53 ID:F1CfOIAL
>>533 以前、おっちゃんと少し話題になった「反日本語論」は鈴木孝夫あたりにも噛みつく。
純潔の不純さを手際よく露にしてくれます。確かに、そのレベルに比べるとゴミかもしれません。
斉藤あたりの流行に対しては石原仕様の煽りも必要だと思っています。
先日、本屋さんに行ってウロウロしました。出口の論理と三森の論理に基づくプリント教材を
ちょっと見比べたりもしました。出口のそれではみすずの「あのw」詩で、いきなり作者は
どう感じているのでしょうか、そういう問い「だけ」があってビックリしました。
「脳科学に基づく国語教育」(正式なタイトルは忘れた)というのは興味惹かれました。
TOSSの人が書いているものです。
できれば、本屋に並んでいるものを全部掌握して論じたいんですが、そういうわけにも
いきません。
私が石原を取り上げるのは、一つには大衆的だと思うからです。
「反日本語論」に言及しても(文庫本になっているのにもかかわらず)反応が他からは
ありません。残念な限りです。
今は、「社会構成主義の理論と実践」
http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~c54175/research/theoretical_study/T-0015.htm をちょびちょび読んで考えています。第11章「意味の共同起源」というところでは
意味は関係性に拠る変数として提示されています。おっちゃんの「全的」に通じるものが
あると思うのでぜひ一度目を通していただいて感想を聞きたいなって思います。
ただし、かなりの理論書でどうも訳、特に文と文の連結がスムーズじゃーなく分かりにくい
ところがあります。大著で値段も高い。よろしければ。
例えば、出口や三森のプリントを検討することがいいと思う、スレに合っていると
思う人もいるでしょう。
私は、実は反日本語論やガーゲン以上で議論したいと思っています。
おっちゃんが石原を見おろせるのは、それ以上のおかげでしょ。
子どもに登らせようとしているにもかかわらず、自分は登ろうとしない。
こんな教師が大杉です。まず自分が登ること。そのために発言しています。
さて、例えば「あ」との議論が石原以上のものになりましたか。
学ぶ側ぬきに、教育内容も教育方法も決定することはできない。レベルなんていう発想は、どれほど学ぶ側の構造に
したがっているのかという度合いでしか意味がない。
>おっちゃんが石原を見おろせるのは、それ以上のおかげでしょ。
子どもに登らせようとしているにもかかわらず、自分は登ろうとしない。
こんな教師が大杉です。まず自分が登ること。そのために発言しています。
登る方向が間違っている。また、上るが正しい。見下ろすから批判できるという考えは貧しい。正面衝突という我々が
日常当たり前にみる現象が観念されていない。我々は何かを見下ろしたように語るが、その多くは対象より上にいる
のではなく、批判とはそのようなものいいで語ることだという習慣からである。
この文を書いているわしは猫を見下ろしているわけではない。ただ、猫はとんちきであると思っているだけだ。
現実はブラウン運動なのである。衝突に上も下も関係ない。そういう階層を決めていくという発想が有効なこともある。
猫が某所でふれた「創発」というシステム論はそのような階層性についてのアイデアである。
猫はカオスに触れて創発が行われる。←こんな嘘をいっている。創発ということがわからないで創造的なうんたらか
んたらと思っているのではないだろうか。創発というのはそういうことではない。単純なルール(カオスじゃない。)で
システムを作る。そうするとあるパターンはそのシステムが別のシステムを作り出していることがある。
よく使われるのが「ライフゲーム」というプログラムである。ドットをユニットとし隣接、孤立によって持続、消滅、増殖
をルール化してある。(何と単純なルールだろう。)ところがあるパターンをとって、ただ持続、消滅、増殖をというルー
ルを表現しているだけのものが、グライダーガンという別のシステムになっていることに気づく。グライダーと呼ばれる
形態を次々に生産するシステムが誕生しているのだ。このシステムは、確かにあのルールから生まれているが、あの
ルールには完全に還元できない。別のシステム論でなければ説明することはできない。
そのようなとき階層性を我々は認めるのである。
批判しかしないと人々が「何様」と批判するのは当たり前のことであるな。(自戒もこめて。)
ワークシートは授業じゃない。そのワークシートを使った授業を提案してくれなければ意味がない。
?の人もいるかな。
登るは見わたす。 上るは見下ろす。 はしごは上る、下りる。 エレベーターは昇る、降りる。
でこんなのは文法じゃない。語用論の範疇。
登る降りるを使うのは山ぐらいだろ。はるか下界を見下ろせば…なるいいかたはヤマの上を天界
になぞっての言い方。(アジアには須弥山のような世界構造として天を山に例える伝統がある。
まったく余談だが須弥山の頂上を有頂天という。有頂天が舞い上がってるという意味に使われて
いるのも無理はない。)
山を世界構造にもってくるのは山には合目という考えがあり、裾野にむかってひろがっておりヒエ
ラルキーの表現に都合がよいからである。
539 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 10:02:33 ID:QwXJ1qaJ
>こんな教師が大杉です。まず自分が登ること。そのために発言しています。
算数では、幾何学、代数学、統計学。。。に精通し
理科では、天文学、地学、化学。。。の論文を読み
音楽では、ショパン、ベートーベン。。。を演奏し
体育では、ボールゲーム各種理論、陸上のコーチングに精通し泳いだらトライアスロン級
絵を描かせたら個展を開くほど、美術批評をさせれば・・・
家庭科では栄養学に詳しく、プロの家政婦なみの仕事をこなし
・・・
やっぱり教師はこのくらいでないといけない。
↑そして親も同じことを要求されるとすれば、…いやあ、すごいなあ。人類はそれこそ<超人>ばかりだあ。
ってここで、あまりものがよく分かってない猫がまたごちゃごちゃいうと訳がわからなくなるので。
猫がいいたいのは、ニーチェの「力への意志」のこと。これって競争は自分とするものだ。つなわち、向上心
に代表される変革される/する=変わることを望む覚悟のこと。それをもってない教師が大杉だっていいたい
わけだが、本を読んでわかって気になってる猫にそんなこといわれてもねえ。白けるばかりだよね。
実際には授業という場面については小学校の教師はそのような意志を強くもってる。だから、○○式とか
やり方の流行が小学校にはある。(変わる意志がなけりゃそんなことない。)中学校は授業は脇において
おかれる。なぜって、進路指導こそが中学校の本質だから。受験というのは私事なのだ。小学校と違い
中心にあるのは授業ではなく、教師と生徒の関係である。関係作りについては、小学校の教師は、中学校
の教師にはかなわないところがある。(そして、中学校ではこの部分においてつねに新しい取り組みが行わ
れている。)
で一番だめなのが高校である。ある高校は大学受験までの通過点にしかすぎないし、ある高校はそれこ
そ3年経ったら就職しかない。というところもある。その中で教師はいったい生徒とどう向き合ってるのか?
よく見えない。はっきりいえば、生徒と生徒が勝手に学んで勝手に卒業していってるんじゃないか?
(もしかすると、それが一番の理想なのかもしれないが?専科であるし、そこが進学校であるのかどうかでも
まったく取り組みが違う。学校長が一番大変そうなのも高校だろう。
単純に他者はすべて教師たりうる。でよい。(反面教師ということばを忘れてはいけない。)
541 :
539:2007/08/11(土) 22:17:38 ID:QwXJ1qaJ
>本を読んでわかって気になってる猫にそんなこといわれてもねえ。白けるばかりだよね。
白けることはないです。
私自身◆yk/JpL/Z9U氏の書き込みによって触発されたりAmazonで注文した本は数知れず。
知っていること、勉強をしていること、考えることのできること、それらについては尊敬しています。
ただ、現場教師を批判する発言を目にするたびにがっかりもします。印象批評を嫌い、徹底的に
論理と知識で考えることを実践しているはずの人間が印象によって避難している姿を
見せるたびに、結局は責任を持つつもりはないんだ、とまあ勝手に落胆するわけです。
そもそも期待するほうが間違っているわけですが。
>中学校は授業は脇においておかれる。
どうでしょうか。
私自身は小中両方とも経験はあるが、中学での問題点は多岐にわたっているように思います。
しかし、どこでも共通しているのは「荒れ」でした。荒れてるいるおかげで
体育会系の声のでかい人が重宝され、人権感覚の醸成などは後回し、治安維持と授業規律に
ばかり目を奪われたり、荒れの回避のために膨大な時間とエネルギーをさいてイベントを行う。
あるいは、中学教師は専門の大学を卒業していることもあり、授業内容については
お互いに干渉しない雰囲気がある。したがって、とりあえず静かに授業が行われていれば
それ以上を望むことなど考えもしない。
今、日本の中で一番治安の悪いのは実は公立中学校ではないかと思うこともたびたびあります。
教師が私物(文房具など)を職員室の机の上に置いたままで席を離れることができない状態で
授業の質の向上に目を向けるのは至難の業でしょうね。もちろん、授業の質によって学校を
よみがえらせることが一番正しいやり方ではあります。
542 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/11(土) 23:45:23 ID:F1CfOIAL
>>541 >現場教師を批判する発言を目にするたびにがっかりもします。
>結局は責任を持つつもりはないんだ
このあたりを詳しく仰ってもらえないでしょうか。
印象批評で批判しているつもりはないんですが、そう受け取られているようで
残念です。遠慮なく、直球でご批判をお願いします。
現場の苦労から見出せることもぜひお聞きしたく思います。
ただし、教師でなくても語ることは許されるし、何も問題はないと思います。
「あ」のような立場なら、別のスレが適切だと思います。
「集まれ、先生」みたいなスレ
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 23:54:33 ID:IZ5iqWcg
>>540 >本を読んでわかって気になってる猫にそんなこといわれてもねえ。白けるばかりだよね。
全くその通り。
>>541 >白けることはないです。
私自身◆yk/JpL/Z9U氏の書き込みによって触発されたりAmazonで注文した本は数知れず。
あなたが知らなさ過ぎるのでは?猫の紹介本なんて、ブルーバックス、新書レヴェルですよ。
>知っていること、勉強をしていること、考えることのできること、それらについては尊敬しています。
猫が考えることができるですって?
あなたが考えなさ過ぎなのでは?
544 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 00:00:28 ID:TmyPCm8E
「あ」の馬鹿
お前、ニーチェを知らんのだから黙ってた方がいい。
ほんま阿呆やな。変革とはまさに「力への意志」をいかに超克するかって
いうことなんだよ。正反対、トホホ
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 00:06:26 ID:RfPJd6y2
>>544 「猫」の馬鹿
お前にニーチェは語れない。
知識では理解できないのがニーチェ。
おまえはニーチェとは真反対にいることが解らないのか。
全て知識や勉強で理解できると思っているお前には無理。
>>539 その荒れにどう対応するのかということが中学校の課題になっちゃってるってことですよね。
思春期ということもありますしね。自分の無価値さに気づいたり。(気づかないのはどうかと思う。ありのままの自分に
価値があるなんてことは、命は<どれも>尊いと同じくらい詭弁ですからね。)
ゼロトレランス(非寛容)=決まりだから決まり通りに扱います。
カウンターによるソーシャルスキルトレーニング(自己開発プログラムみたいな気もするが)
結局、生徒とどうつながるかということが見えなくなってるし。つながることから生徒が逃げてる部分もあるような気が
する。それこそ、東がいう「動物化」かもしれませんが。
古くからの神話で教育とは「ヒトを人間にする仕事」といわれていますよね。ヒトにすらなってないと思われるとき、じゃ
あどうするのかというところで中学校は大変だと思います。
<公立>だからというのは、義務教育である以上、資格を問わずに入学させるからですし、小学校で本来はその子の
育ちについて親との共通理解を図っておかなければならない子に限って普通の子として卒業させてしまっているからで
す。
知的に発達の遅れ。情緒の発達の遅れ。自己コントロール力の発達の遅れ。そういう遅れをきちんとその子の課題と
して保護者と共通認識をもつ難しさがあります。それをしてこないと中学校へ行っていきなり困難が出てきたり、疎外さ
れてると思ったりすることになります。
中学校というところはそういう<選別>(ことばは悪いけれど、結局、そう考えなければにっちもさっちもいかない。)は
小学校で終わってるということになってますから。一律、中学生として行動することを要求したい。(前はした。今は、
したい。)
そういった意味では特別支援教育をうちだしたことは意味があることだと思っています。
中学校ではそれを支点にして授業改善が進むとよいと思っています。あまりに中学の授業はおそまつです。国語の
授業にいたっては、どうして教室にこの人数を集めてそんなことしなきゃならんのか?と議論をふっかけたくなるような
授業が平然と<身に来てる人がいるのに>行われています。
小学校でそんなことをしようものならそれこそ、即効に<荒れる>のです。そのことに中学校の先生も気づいてほしい
ものです。
高校は本格的に選別をして入ってくるので、まさに学校ごとって感じでしょうね。でも学校は授業をするところなんです。
もしくは集団生活を学ぶ場。そこのところを大事にしてほしいものです。
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 00:13:43 ID:YVUts+hk
543は情けない奴だなあ。
具体的に議論に参加できないからってそれはないだろう。
猫に恥をかかされたのか?
だいたい、539氏に失礼だ。
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 00:16:46 ID:RfPJd6y2
>>547 議論をしてわかる事と解らない事がある。
それ以前に、議論をして解る人間と解らない人間がいる。
おっと失礼、猫は人間ではなかったな。
猫は度し難い。
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 00:23:15 ID:YVUts+hk
だったら黙ってたらいいことでしょ。
一番見苦しい
550 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 00:30:22 ID:TmyPCm8E
粘着ストーカーはスルーしよう
>>544 >変革とはまさに「力への意志」をいかに超克するかっていうこと
一見何事かを語ってるかのように思えるこの文をまさに文法的に切り刻んでみよう。
超克(ちょうこく)ということばの置き換えをしておこう、これは困難をともないならがらも対象をのりこえること。
変革とはまさに「X」をいかにのりこえることである。と変換できる。
変革(へんかく)新しいものにすること。
新しくすること、作り変えることは「X」をいかにのりこえるかということである。
さてXというものに入りそうなものは→古い自分、慣習、思い込み、など今の自分を外側から、あるいは内側から
限界づけているものであろう。
でなければ、何かが障害になっているからそれに打ち勝ってという言い回しは不適切である。
で猫はこれを「力への意志」といしているのだが?「力への意志」が変革への障害になっているのだろうか。
意志が自分を外側から抑圧してる?まさか、意志というものは内部にしかありえない。
じゃあ内側から自分を規定してるのか?
結局、「力への意志」というものが何なのかがわからなければこのテーゼは不定である。
一般的というかニーチェの文献に書かれている意味での「力への意志」とは
「所有し、さらにより所有しようと欲すること、一言をもってすれば成長――これこそが生自身である。」(F・ニーチェ[原佑訳]『権力への意志』[ちくま学芸文庫、1993]134ページ)、
「自己保存ではなく、我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲が。」(同書下巻、216ページ)
「おのれをより強いと感じること――ないしは言いかえて、歓喜――は、つねに比較を前提とする。(しかし、必ずしも他人との比較ではなく、おのれ自身との比較であり、
生長の状態のただなかにおいて、しかも、最初は比較しつつあると知らずにである――)。」(同書下巻、425ページ)
「それは、多感なのらくら者へと働きかける異国趣味(見知らぬ時代、習俗、激情)の魔力にほかならない。全地平を新しい色彩と可能性でもって色どっておいた書物によって
そこへの通路が開かれているところの、広漠とした遠い異国の太古の土地に踏み入るときの歓喜」(同書下巻、342ページ)
「意志の倦怠。それだけますます欲望は、新しいものを感じ、思い描き、夢見ようと逸脱する。」(同書下巻、同ページ)
脱皮できない蛇は滅びる。その意見をとりかえていくことを妨げられた精神も同様だ。
―「曙光」―
などのことばから考えられたし。どう考えても猫のは頓珍漢だろ。
かわることは、新しくなろうとする意志=生への衝動をいかにのりこえるかなのだ。
それって死ねってことじゃないか?
552 :
おっさん:2007/08/12(日) 01:03:02 ID:v6gWmu04
>>535 石原さんについては、あの本だけの評価なので、本職の仕事の方も少し読んでみようかと思います。
向山は、大変先見の明のある人物(笑)で、脳科学についてもかなり早くから着目していました。
まず着目したのが春山の『脳内革命』だったと思いますが(笑)
そうした「科学」を本気にしてしまう信者も多数いるようです。
彼の才能は、運動家としてのものではないかと思っています。
「社会構成主義」に関する本、手に入れようと思います。
猫さんの紹介から、僕の廣松への関心に通じました。
廣松は、意味を関数的な関係構造においてとらえています。
また、それを共同主観性の存立と関連づけています。
こうした廣松の論とどのように交差するのかはわかりませんが、無関係ではないでしょう。
このスレに参加している僕の基本的な立場は、国語の授業に関心の中心がある小学校教師です。
あの石原本への評価は、その立場からの評価以前に論述がひどすぎると思ったからです。
小学校教師としては、斉藤孝へのカウンターになるかと言えば、ダメだと思います。
斉藤は、教育論について素人ではありません。
かつて、けっこういい本も書いています。
石原は、教育論については素人だと思います。
あの本では、主張の基本の部分で自らの専門性が疑われる怪しげな論述を行い、
その上で自らの専門外の教育論(国語の編成論など)を行ってしまっていると思います。
教育に関して、もちろん国語科教育に関しても、様々な立場や視点から意見があっていいと思います。
しかし、立場や視点、あるいは問題があいまいだったり、論がむやみに拡散してしまったりだと、
あまり意味のないやりとりになってしまうように思います。
僕自身は教養がないので猫さんや「あ」さんの議論はほとんど理解できません。
様々な情報を提示してくれるのは大変ありがたいと思っています。
理解できずとも関心が持てる部分だけその関心の程度に応じて受け止めています。
553 :
おっさん:2007/08/12(日) 01:10:39 ID:v6gWmu04
そもそもは猫さんの意図を「あ」さんが推察してニーチェを出したんだから、
ニーチェそのものはいいのではないでしょうか?
そのように議論が拡散してもどうなのかなと思いますがね。
554 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 09:52:16 ID:TmyPCm8E
>>551 「あ」の馬鹿へ
最初に言っとく。次は、ここをはずさんように。
「力への意志」と「永劫回帰」の整合性を自分なりに消化してから引用した方がいいぞww
『力への意志』 * 翻訳によっては力は権力とさることもある。むしろ力とは権力だということだ。
「力への意志が、解釈の働きをするのである。(――或る機関の形成のさいに問題なのは、解釈である。)
すなわち、この力への意志は、度合を、力の差異を、区別し、規定するのである。たんなる力の差異は
それだけではまだそれとして感じ取れないかもしれない。そこには、成長しようと欲する何か或るものが
現存していなければならない。このものが、ほかの成長しようと欲するものをことごとく、それぞれの
価値の点から解釈するのである。この点でおしなべて――実は、解釈とは何ものかを支配して主人となる
ための手段そのものである。(有機的過程は、たえず解釈を前提している。)」 『(権)力への意志』
「およそ「認識」という言葉が意味を持つかぎり、世界はたしかに認識されうるものではあろう。
けれども、世界は別様にも解釈にも解釈されうるのである。世界は自分の背後に意味を持ってはいず、
むしろ無数の意味を持っている。――「遠近法主義」。
世界を解釈する主役をなすものは、われわれの欲求である。つまり、われわれの衝動と、その衝動
の賛否がその主役である。いずれの衝動もみな、一種の支配欲であり、どの衝動もみな、それなりの
遠近法を持ち、その遠近法を規範としてほかのすべての衝動にこれを強制したがっているのである。」
『同上』
☆ 力とは遠近法的倒錯の視線によって外部の世界の布置を決定することである。
もちろん「物自体」の改変ではなく、価値の改変によって世界を変貌させようとする。
世界の価値と意味は解釈によって別様に現前することとなる。
意味や価値の原理とは支配「する/される」という一つの真理一つの正しさによって
だけから立ち上がるんだとニーチェは言う。この真理や正しさとはニーチェがくり返し
否定し唾棄する真理ではない。(ニーチェが喝破した)我々の本性であり、生物学的必要悪
とい見なせる(隠れた)本能である。
ここで、重要なのはニーチェもまた一つの解釈――強力そうな解釈を示しているかも
しれないのだと見なそうとする「意志=力」への信憑である。ニーチェの超克とは、
ニーチェ的な力によってニーチェが暴露した(強力な)解釈の乗り越えを考えることだ。
実は、このニーチェ的問題こそが最大の関心事であり、実に現実を彩り疲弊させ困惑させる
最強の”解釈”なんですね。これが「社会構成主義」を必然させることを理解してもらうには
どれだけ長文連投しないといけないことか。
555 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 10:27:26 ID:TmyPCm8E
『自己超克と力への意志』
「あ」の馬鹿は、トンチンカンな引用しか示さんから困るw
「私が生あるものを見出したところ、そこに私は、力への意志を見出したのだ。
そしてさらに、隷従して奉仕するものの意志の中にさえも、私は主人になろうと
する意志を見出したのだ。弱者が強者に奉仕するのは、弱者の意志が弱者に説得する
からなので、この弱者の意志たるや、実はそのようにして自分よりももっと弱い連中の
主人になろうと欲しているからなのだ。この喜びだけは、弱者といえども手放せないからだ。
そして、小さな者が大きな者に献身するのは、実はそのようにして自分より小さい者に対する
支配の喜びと力ををうるためなのだが、ちょうどそれと同様に、最大の者もまたさらに献身
して、力をうるために―― 生を賭けて冒険するのだ。
最大の者の献身は、冒険であり、危険であり、死を賭けての賭博である。
そして、犠牲と奉仕と愛の眼差しのあるところ、そこにもまた、主人になろうとする意志がある。
そこでは、ひそかな道を通って、弱者は強者の城内に忍び入り、強者の心の中にまで忍び入って
――こうしてそこで力を盗み取るのである。
そして次のような秘密を、生自身が私に語ってくれた。「よいか」と生は言った。
「私は、常に自分で自分を超克していかざるをえないものなのだ。
もちろん、君たちはそれを、産出への意志あるいは目的への衝動、より高次の
より遠い、より多様なものへの衝動と呼んではいる。けれどもこれらのすべては、
同じ一つのことであり、ただ一つの秘密につながっているのだ。
私は、このただ一つのものを断念するくらいなら、いっそのことむしろ没落した方が
よいくらいだ。ところが、実は没落のあるところ、そして落葉のあるところ、よいか、
そこでは生が自分を犠牲にして実は――力を狙っているのだ! (中略) 」
このように、かつては生は私に教えた。だから、君たち最高の賢者たちよ。これに
基づいて私は君たちの胸裡に潜む謎をも解き明かしてしまうのだ。
まことに、私は君たちに言う。不滅の善悪などは――存在しない!と。善悪というものは
それ自身のうちから繰り返しおのれを超克してゆかざるをえないのだ。
君たちは価値評価をする者たちよ。善悪に関する君たちの価値や言葉でもって、君たちは
支配的威力を発揮している。そしてこのことが、君たちの隠された愛であり、君たちの魂の
輝きであり戦いであり沸騰なのだ。
けれども、君たちの価値の中から、それよりももっと強力な支配的威力が、そして新しい
超克の働きが、生い育ってくる。それでもって、卵がそしてその卵の殻がこわれてしまうのだ。
556 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 10:55:41 ID:TmyPCm8E
(引用続き)
そして善悪において創造者とならねばならない者は、まことにまず破壊者
となってもろもろの価値を破砕しなければならないのだ。
だから、最高の悪が、最高の善のためには必要なのだ。この最高の善とは
実は創造的なものだからだ。――
君たち最高の賢者たちよ。われわれは何としても以上のことを語っておこう。
このことを語らざる得ないのは具合の悪いことなのだが仕方がない。沈黙する
ことは、もっと具合の悪いことだからだ。秘め隠されて語らない真理は有毒に
なるからだ。それに、われわれの真理に触れて破砕するものならば――そうなり得る
すべてののものはみな、破砕してしまうがいいのだ!まだ建てるべき家が、いくつも
あるからだ。!――
このようにツァラツゥストラは語った。」(『ツァラツゥストラ』)
☆ 自己超克とは力への意志が放射する遠近法によって善悪の彩を絶え間なく
撃破し、世界を価値において更地にすることだ。もちろん、そこには自らの
王国を築くことになる。
力への意志が超克するもの”自身”とは何のか、「あ」の馬鹿はまるで分かってない。
僧侶階級は意味や価値を転倒させ、弱者こそが善であるという「真理」により弱者を
支配した。畜群の内面は倒錯によって満たされることになり、喜んで別の支配に身を
委ねる。神や天国あるいは救済という数々の装置は支配の道具として畜群を骨の髄まで、
心の襞まで縛ることになった。彼らもまた善に向かって天国に向けて一心に自らを
超克する、告白する。
ニーチェの言う超克とは、そのような倒錯(別の被支配)の全体性(捏造された正当化)を
破壊することに他ならない。
我々が目指すべき超克とは、そのニーチェ的解釈は既にある種のニュートン力学である
という前提に立つことなんですね。あの時代ではそれでよかった。ミクロ的にはそうだったかも
しれない。例えば、人間の自然収奪的行為と環境破壊の問題などはもはや認識や解釈の
問題ではない。不可知な物自体からのしっぺ返し・・そういうものを自覚せざるをえない。
今この地平に立って、ニーチェ的問題を回収しつつより大きな枠組みで考えないとならない。
このあたりは、おっちゃんとのやり取りでより詳しく述べることになるだろう。
557 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 11:14:45 ID:TmyPCm8E
ここで執拗に道徳を語る阿呆がいる。そう言うと、そではなく嘘を暴いている
だけだとまた口実を垂れる。お前なんか、大した知識などない!と吠える。
しかし、すぐさま知識だけじゃー駄目なんだと負け惜しみを吐露する。
このように人は、それそのものもではなく別様に語ることで転倒させようとする。
「強弱」に歯軋りする。その怨念のエネルギーは自らの成長には向かわず、
価値の転倒で勝とうとする。その典型が「善悪」だ。もはや道徳は、みじめったらしい
カスが自らを倒錯的に満たす道具としてしか使われない。
ニーチェが明らかにした恥を撒き散らしながら、ニーチェを分かったように言う。
自称だから引用もないし、具体的に論じることもしない。できない。
だからよけいに転倒させようと躍起になる。
これは「あ」の馬鹿に対してじゃーない。もう一人いるだろw
「あ」は強弱の転倒を第一として目論まない。保守らしいからw自由主義者らしいからw
その意味でニーチェ的ではあるだろうww
だが、そのニーチェ的であることの限界が突きつけられているのが現代だということが
まるで分かっていない。
名無しの馬鹿はニーチェが暴露した恥を振りまくだけ。だから、まだニーチェ=ニュートン力学
が有効な人間も多いということになってしまう。
問題は、そのような取り残された人間が足を引っ張る状況なんだ。
無知とは本当におそろしいものだ。
558 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 11:54:26 ID:TmyPCm8E
おっちゃん
石原は私の娯楽本ということでw(新潮選書から出た新しいのも読むでーw)
できれば、反日本語論は引用して論じたいなって思っています。あれなら文句ないでしょw
で、ガーゲンの本よろしくです。上野の本は網羅的ですが、ガーゲンの方が面白いというか
原理論的で勉強になります。また、これも引用して論じたいと思っています。
おそらく、私よりもおっちゃんの方が参考になるだろうし生かせるかなって思いますよ。
もちろんすぐ授業で使えるものなんて一つもないです。でも、おっちゃんが探しているものと
同調する部分は多いんじゃーないかと判断しました。私にはちょっと立派すぎるかなw
廣松だけでなく、丸山や吉本などもしっかり勉強する(し直す)ことが必要かもしれないですね。
吉本の「共同幻想論」「言語にとって美とは何か」などなど持っていたはずですが、見当たりません。。
以上、三人に関しては私は語るほどのことを持っていないのでよければいろいろ教えてください。
ガーゲンから一つだけ引用します。
「意味の関係性理論は、意味生成を繊細かつダイナミックな過程と見る。そこでは、他者の言語(ないし、
行為)の理解は、調整がうまくいく――ローカルな判断基準によって――ことの結果である。
つまり、理解は、心の中で生じる心的行為ではなくて、公共領域で生じる社会的達成である。
同時に、ローカルな調整のそれぞれは、それが埋め込まれているより広い社会的過程の変遷に依存して
おり、それゆえ、再構成が失敗する危険にさらされている。このように、理解の達成は、「私」の
個人的思考の結果ではなく、調整された行為の結果である。すなわち、理解は、われわれが埋め込まれて
いる社会的過程による、われわれの達成である。同時に、集団内における意味の達成は、それぞれ、
不安定化と理解の失敗へと向かう力をもたらす。実際、コンセンサスとコンフリクトの間には、
密接な相互依存的な関係があることがわかる。社会的理解の生成は、その崩壊の可能性をも懐胎している
のである。」『社会構成主義の理論と実践――関係性が現実をつくる』pp.361-362
意味とは、テクストでもなくあなたでもなく私でもなく、それらが交錯する「場」において
生成されるということですね。そしてそのような社会的過程における達成が意味となる。
カウンセリングが何かの伝達を意味しているわけでは実はない。恋人が傍目からは何か
意味あるやり取りをしているわけではない。
一方、意味が社会的な達成であるということは単に文脈に縛られるということだけではない。
逆に文脈の再構成でもある。これはガーゲンも言ってます。相互干渉ですね。
別の解釈によるのではなくwww、コンテクストである社会の構造を別のあり様として逆規定
することになるでしょう。この本の帯には「社会を変革する・・・」と大きな文字が躍っていますw
おっちゃんの感想を楽しみにしています。。
559 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 12:02:35 ID:TmyPCm8E
忘れてました。向山の件
「脳科学から考える国語教育」(正式なタイトルは失念)の参考文献を見て愕然としました。
ほとんど低レベルなハウツー本!!まさに脳内革命スペックw
「脳の学習力」(岩波)では、そいういうハウツーの危険性を丁寧に説いています。
ただし、TOSS本をパラパラ見た限りではありきたりのことが書いてあった。
だから事後的に根拠付けるために利用しただけだと感じた。でも、興味あるのでまた
読もうかなって。
おっちゃんのおススメがあったらドンドン紹介してください。
ママンちゃんあたりも待ってると思いますよ。
>>554 ええと。
はじめに、ニーチェは客観を否定してる。同時に主観も。主客は一体。なぜって、生が解釈することによって世界が
成立しているから。生が現れたとたんに世界もまた出現する。そのときに解釈へ向かう生の衝動を権力への意志と
いったりする。ということを頭の中に入れてからニーチェの文章を読むこと。
☆以下がさて上記のニーチェの<解釈>たりうるかである。
第一文からして、まったくおかしい。客観的認識お解釈のひとつにしかすぎないといってるのに、わざわざ客観的認識
をひっくりかえすことだけが力といっている。そうではない。そのようなわざとらしいことではない。生きているということ
はカエルはカエルの世界を作り出すように、そのあり方で解釈をしているのである。そして、それは、結局、生にどう影
響しているかということでしか評価されないとニーチェはいってる。社会変革のことに無理やり援用するのは間違って
いる。
したがって、第二文も無効。第三文もすでに生が世界を作り出しているのにも関わらず、それを解釈しなおして…
つまり永劫回帰そのものに反する考えである。第4文はどこをどう読めばそうなるのか示されたい。わしには読めない。
前提が間違ってるのだが、ニーチェ的にニーチェを乗り越えるっていフレーズだけいいたかったんだろう。
でもそんなのかっこつけのものいいにすぎない。
561 :
おっさん:2007/08/12(日) 14:57:31 ID:v6gWmu04
>>558 引用されたガーゲンの文章を次のように理解しました。
まず基本的なおさえ。
A例えば、私とあなたとの会話(ローカルな過程)。
私があなたの言語を理解するとは、私とあなたと間におけるローカルな判断基準による調整の達成である。
(理解とは、私やあなたの個人的思考=心的行為ではない。)
そして、ローカルな調整過程は、より広い社会的過程に埋め込まれその変遷に依存している。
したがって、私があなたを理解するとは、社会的過程におけるわれわれの達成でもある。
こうしたことを基本として、次のようなことがこの引用された文章のポイントだと思います。
B私とあなたとのローカルな意味生成の達成や失敗が社会的意味の再構成や崩壊をもたらしうる。
猫さん好みでもあり、僕にとっても興味のある内容です。
562 :
おっさん:2007/08/12(日) 15:04:05 ID:v6gWmu04
僕の整理の仕方に問題もあると思いますが、この引用だけからは、Bの具体的な内容がわかりません。
調整の判断基準とは、何か。
たぶん社会的な過程においては、言語規範などのコード、あるいはラングだと思いますが、
ローカルな過程での判断基準とはどのようなものなのか。
そして、ローカルな過程での理解の失敗は、どのようにしておこるのか。
二人の関係に固有な面と社会的な過程との関係における面、
それぞれ入り組みながらもその二つの面があり、それぞれの説明が必要だと思います。
また、遡って言えば、ローカルな判断基準そのものがどのように生成され、どのような構造を持つのか。
そして、それは言語規範などのコード、ラングとどのような関係にあるのか。
さらに、言語規範などのコード、ラングは、どのように生成され、どのような構造を持つのか。
これらは、先の引用のポイントを答えることと同じことになるとは思いますが、
言語記号そのものの説明を入れなければ明らかにならないと思います。
引用された文章では、言語記号はオミットされているように思います。
僕の知っている範囲での言語学や記号論では、達成されたコミュニケーションをモデルにしているように思います。
達成の過程そのものや、さらにそこでの失敗などの動的な過程が理論づけられることは、
授業を考える上でも魅力的なことです。
既定の教育内容を教えるだけでなく、事件として教育内容の創造(既定の教育内容の崩壊)の可能性も見えてくるように思います。
563 :
おっさん:2007/08/12(日) 15:16:27 ID:v6gWmu04
『反日本語論』、すっかり内容を忘れています。
息子が鉄道マニアで日本には「乗り入れ」があることを自慢している
そんな話がぱっと浮かんできましたが・・・
たぶん最初に読んだ蓮實本だったと思います。
話題を出していただければ、思い出し反応できるかもしれません。
たて続けに読んだのが『表層批評宣言』でした。
同じような装丁で一緒に買ったんだと思います。
たぶん、こちらの方が蓮實的文体だったんでは。やられました。
石原本と同時に柄谷の『日本精神分析』も買ってみました。
第1章の「言語と国家」だけしか読んでいませんが、やたらおもしろい。
むしろおもしろすぎます。
今の僕にとっては、武器であるよりも、娯楽なのかもしれません。
しまいこんだ柄谷本、蓮實本を引っ張りだしてみようかと思います。
564 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 16:39:12 ID:JGCM8qYX
>>555 一人一人がそれぞれの解釈された遠近法の中に住みこんでいて、かつ、他者にもそう解釈させようとする。
って指摘で何かをニーチェはいいたいわけではない。そうだよね。といってるだけ。(ニーチェと書くのもメンドクサイ
ので以下N)
いかなる弱いものも何かを支配しようとしている。Nはいう。
そして、真の強者っていうのは行動するものだ。といってるだけだ。何かを語って君の行動をコントロールしようと
してるのは自らは行動することのできない弱者なのだ。とN。
Nの語ることは基地外の空言とし、そして、面白がられることこそNの本望だった。でなければこんな散文形式で思想を
語ろうとはしない。<かぶれさせること>そのことだけが目的なのである。笑われるNの高らかな哄笑。
真理ではなく、アジテートでありつづけようとすること。
>>556 N, 価値はどんどん作り出される。価値はどんどん破壊される。破壊することを恐れる必要はない。
☆ここから自己超克へもっていくのは無理だろ。これは行動しろ。考える前にとんでしまえ。というアジテートだ。それで
何かを破壊することになっても気にするな。行動によって価値は作られるのだからということである。
自分の中の古いものを壊してなんていってはいない。行動しようとするものたちにあてた叫びなのだ。
したいからする。楽しいからする。獣と呼ばれても、獣として死ねばいいのである。Nがいってるのはそういうこと。
社会主義的な社会変革みたいな運動と結びつけようとするのはそれこそNの意図を盗んで別のところで違った利用をして
いるだけだ。
僧侶階級うんぬんはもはや独り言。っていうか日本はキリスト教の国じゃない。
儒の話であっても、そうは問屋が卸さない。仏教だってある。そのように並列的に保存してしまうことこそ日本のやり方なの
である。
日本ではそのようなものに誰もしばられまいとすればしばられることはない。っていうか猫が非難するコンビニ前にたむろ
する若者の方がN的に生きている。そのことに無意識的に怯える猫は明らかな弱者である。邪魔なら邪魔だからどいてと言
えばよろしい。(それこそ古い自分の破壊だろう。肉体も破壊されちゃうかもしれないが。)
>>557への批判は上記のことで十分であるな。
ニーチェ的限界とやらに達してもいない猫くんはさっそくコンビニ前にいって強者たらんと欲するがよろしい。
じゃないなら、Nって馬鹿といって読んで笑っていればよいのだ。その方が遥かにNも喜ぶN的な方法なのである。Nのことばは
捨ててそのスピードだけ受け取ればいい。
<そのように、意図された書物なのだが…>
567 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 21:17:13 ID:TmyPCm8E
おっちゃん
さすがです。ガーゲンの本はおっちゃんが読んでから議論したいなって思ってるんで
とっておきますね。逆におっちゃんに教えてもらわないといけないだろうから、おっちゃんが
読む前に要らんことを言わないでおこうと思います。
で、ホントに小学校の先生ですかw
「日本精神分析」を読んだんですか。あれ、いけるでしょ。
その最後の方に、システムにおける「くじ引き」が論じてあるんですが、そのあたりも
よければ感想をお願いします。「くじ引き」をシステムとすることにより、ニーチェ的問題
を(多少なりとも)抑えることができるかなって。
今は酒も入っていて、どうも頭が回りません。できれば、柄谷の時枝論などを話したいんですが、
止めときます。すいません。
568 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 21:22:53 ID:RfPJd6y2
>>567 再録
お前にニーチェは語れない。
知識では理解できないのがニーチェ。
おまえはニーチェとは真反対にいることが解らないのか。
全て知識や勉強で理解できると思っているお前には無理。
569 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/12(日) 21:49:54 ID:TmyPCm8E
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 21:53:57 ID:RfPJd6y2
その反応、だいぶ気になっているようだが・・・。
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 22:30:07 ID:RfPJd6y2
>>569 その反応、だいぶ気になっているようだが・・・。
だとしたら、少しはまともか?
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 00:07:07 ID:5SCBA+f4
久しぶりにきたが、猫がまだいることに驚きを隠せない
新しい奥さん見つけたか?
それに力への意志だけの説明で終わってる。まさか永劫回帰を踏まえれば…。
力への意志の意味はこうなるはずだ。といいたいのか?
全然、力への意志の定義をしてないのだが、こういうところが猫のわからないところ
なのだ。わしにいわれる所以である。
Nは力への意志をどういってるかということは引用によってしめせばいい。
普通はそして、だから力への意志ということはこういうことだと要約すればいい。
誰がそこから権力論を展開するのだろう。
Nがいってるのは性善や性悪?そんなの関係ねぇっていってるさ。どちらにしても
つながろうとする欲求、相手を従わせようという欲求なのだといってるだけ。
で永劫回帰とどう関係しようってのだ。彼が主張したことをやろうと思ったら。
権力への意志とはこれこれの意味、永劫回帰とはこれこれの意味。
その二つはこういう関係になるというのが<論理的>な説明である。
猫はNを語るなというよりも、自分がいったことをきちんと実行しろ。というべきである。
永劫回帰といえば蛇の頭を噛み切って生き延びる話であろう。
異物に打ち勝つということで気がついたこと。それが喜びなんだそうだ。さすがにそこ
から永劫回帰へいたるのは基地外の面目躍如である。
にしても、そんなの関係ねえ、でも、そんなの関係ねぇ。っていってる方がN的。
そもそもが自分なりに消化してっていうのは解釈である。
解釈には、論理的解釈も、非論理的な解釈も、誤った解釈もありうる。
N的には基地外だって解釈しているのだから。
解釈は正しいとか正しくないとか<行動>を介してしかいうことができない。
正しい解釈であればうなくいくだろうし、正しくない解釈であればうまくいかない。
しかし、その解釈が論理的かどうか、つまり、言語の使用として妥当かどうかは
いうことができる。
ことばのつかい方をチェックすればいいのだ。
どうもそのチェックで猫はひっかかるのだ。言語の意味が本来の意味で使われない。
詩的な方向にずれてしまうところがある。
…で論理が大事だなんていうんだから、それはわしと衝突するだろ。
しない方がおかしい。
もし、猫は俺のいうことは適当だ。嘘かもしれん。デタラメに違いない。でも俺はそう思った。
だから思ったとおりに書くと宣言しておけば、わしも、面白い面白くないで対応するし、他の
人もまたはじまった。と聞き流せば(読み流せば)よい。
…でも、猫は自分が真理の配達人であるように語る。覚醒をさせるのだと。…白昼夢から
覚醒すべきなのは自分なのに。…。もういい加減いい年なんだから、誰あるいは何者たちが
自分を結局は生かしてくれているのかを考えた方がいい。猫がいう畜群が目覚めたら、まっさき
に殺されそうである。
本当にもうそろそろ言葉遣いの問題なのだということに気がついて欲しいものだ。
575 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 20:30:28 ID:zovZkJVW
あ
とうとう開き直りw
しかし言ってることは右往左往
>解釈は正しいとか正しくないとか<行動>を介してしかいうことができない。
まずはこの前提をどうにかしろよ。
何だ「正しい」解釈ってのは。思想の正しい解釈なんかあるかっての。
行動がどうとかなんかさらに何の関係もねーわ。
>思ったとおりに書くと宣言しておけば、わしも、面白い面白くないで対応する
そもそも「正しい」解釈なんかないのだから、個々人の意見を「思ったとおり」に書く以外ありえんだろ。
自明のことなんだから、宣言なんかする必要がどこにあるんだっての。それとも、お前の対置しようとして
いる「解釈」がより「正しい」とでも言うのかね。ぷ。
>本当にもうそろそろ言葉遣いの問題なのだということに気がついて欲しいものだ。
あのねえ、言葉遣いみたいなくだらん問題に矮小化すんなっての。あほか。
問題は、お前がわけのわからん一人相撲を延々と続けていて、いつまでもそれに気づいていないところ
にあるんだっての。低レベルすぎて、反論にすらなっとらんのだよ。
いつも思うんだが、自分のレスについて後からくだらん言い訳や自己弁護を始めるくらいなら、最初から
黙っといたらいいんじゃねーの?中途半端に足を突っ込むから見苦しい終わり方になるんだよ。
、
正しい解釈は<ある>。
Nだってそれを認める。ただし万人にとっての正しい解釈はない。
考えなんてものはどうせざるで作った水おけなのであって、どれほどの水が汲めるかが勝負どころ。
論理的にどんなに間違いであっても、それを<信じて>(え、そんな馬鹿なと思ったそこのキミ。言語コミュニケーションの
大前提は人の語ることを聞く人は基本的には信じるというスタンスで聞いている。ってことなんですよ。)行動するとき、
結果として自分にとって喜ばしければ、その解釈は正しかったのだ。
ざるの目が細かいとか、大雑把だとかは実は関係ない。わしはプラグマティズム的であるし、もともと、サイバネティクス
なのだ。フィードバックが大事だよ。
論理的なんてものはことばの確からしさからしかスタートしない。わしが辞書を引用するのは当たり前のことである。
ママンが教師でなくてよかった。
国語の教師がことば遣いみたいなくだらなん…なんていってたら、誰が正しくことばを使うことを教えるのだろう。
論理というのは正しいことばのつかい方にほかならない。
東大の教養課程の教科書で申し訳ないが、「論理学」の始めは、こういう問題からはじまる。
三角形の内角の総和は180度である。という定義を聞いて信じない子どもの話である。
彼は自分で三角形を書いて測ってみる。179度であった。(実測、観察)→当然彼は信じない。実測を正確にやったところ
で意味はない。
それで角を切り取って合わせて一直線(180度)になることを→彼はこの三角形については180度であることを認めるが、
証明してやる。(証明。実物) すべての三角形については疑義をはさむ。
幾何学においては、内角の和が180度になる三頂点の図形を三角形→定義をしめす。これはきまりだからきまりなのだ
とする。であれば和が179度や181度になる図形は三角形ではない。 ということ。さすがにこれには子どもも黙るしか
ない。
トートロジーこそ論理の基礎。
ことばの正しいつかい方とは定義に寄り添うこと。論理的に正しい解釈もまたありえる。
もし、ママンが教える立場であるとしたら、相当無能である。あきれかえるばかりである。思い込みも解釈であるが…
思い込みであるということは否定できない。
で一番がっかりなのが、こいつが根拠っていいまくってたかと思うと…つまりは、やっぱり俺根拠なんだなあと。
最初に179度だと叫んだ時点の子ども止まり。
579 :
おっさん:2007/08/14(火) 07:14:15 ID:WIV0Cz+E
>>567 柄谷の「入れ札と籤引き」論読みました。
今の自分は、柄谷らしい「非常識」な着眼に対して、
「ああ、おもしろかった」ですませてしまいたいところです。
感想を求められたので、ちょっと考えてみました。
なんかすっきりしません。
まじめに考えると、
いくつも検討しなければならないことがでてきて大変なことになりそうです。
ひとつだけ考えてみます。
柄谷はこう書いています。
菊池は、内容ではなく「形」が人間を規定するということをアイロニカルに書いています。
…「形」とはこの作品の場合、秘密投票というシステムです。
この作品が興味深いのは、秘密投票を導入することがいかに個人を内面的に変えてしまうか、
というより、内面性そのものを作り出すかということです。
常識的には、個人の内面がまずあって、
それを保障するために秘密投票というシステムが作られたと考えるところでしょう。
そんな常識を柄谷は転倒させています。
実に柄谷らしくて、すっきりとかっこいい。
しかし、もう少しつっこんでぐちゃぐちゃと考えて見なければと思うのです。
この国定忠治の子分たちのケースの場合、
選ばれる者と選ぶ者とが全く同じメンバーです。
しかも上下関係なども含む子分同士という濃密な人間関係を持った集団です。
これはかなり特殊なケースではないか。
選ぶ者と選ばれる者とは異なり、それぞれに日常的な関係がない場合が一般的だと思います。
「秘密投票」というシステムだけではなく、
上のような特殊な条件を抜きに九郎助の内面的な葛藤はありえません。
全ての子分は選ばれたいと思っていたのだから、
明示されてはいないが、「自分以外の者を選ぶ」というルールがあったはずである。
この場合、「無記名=秘密」という条件によって、このルールの違反をチェックできない。
そうしたシステムだったから、九郎助は、ルール違反へと誘惑され、
実際に違反し後悔することになったのは確かである。
しかし、こうした内面的な葛藤は、「無記名=秘密」という条件だけのせいでおきたのではない。
「自分以外の者の名前を書く」というルールとセットになったからこそ起きたことである。
「無記名=秘密」という条件は変えずに、3名の名前を書く(自分の名前も書いてよい)というルールにすればよいのである。
・・・この件についてもまだ考えることがありそうです。
さらに考えていくと、他にもきっとたくさん疑問が出てくると思います。
580 :
おっさん:2007/08/14(火) 07:38:40 ID:WIV0Cz+E
猫さんの発言
子どもに登らせようとしているにもかかわらず、自分は登ろうとしない。
こんな教師が大杉です。まず自分が登ること。そのために発言しています。
それについての「あ」さんの発言
猫がいいたいのは、ニーチェの「力への意志」のこと。これって競争は自分とするものだ。つなわち、向上心
に代表される変革される/する=変わることを望む覚悟のこと。それをもってない教師が大杉だっていいたい
わけだが、本を読んでわかって気になってる猫にそんなこといわれてもねえ。白けるばかりだよね。
ここから始まり・・・どこへ行くのでしょうか?
>>580 猫が教師に上らせようとするなら、自分はどんな上りかたあるいは何に上るのかを明らかにすればいいんじゃないの?
教える→学ぶってことが分かってないと思うがね。教える側と学ぶ側には予め情報の不均等がある。
(じゃないと教えられない。)で情報の不均等を更に大きくすれば学ぶ側はもっとよく分かるのだろうか?
わしは否っていってる。教える→学ぶという中で、まさに、教える→学ぶということを学ぶ以外にその目的は達せない。
それは上るって話じゃない。Nの言う力への意志の社会的な表れでもある。
で猫は、他の人からも指摘されてるのに我流の力への意志論を展開したのだが、力への意志とは何かという問いに
対してきちんと答えられていない。ただ、それだけの話。
論理がまずはことば遣い(ていねいなという意味ではなく、正しく使うという意味で)であるということを踏まえられない
のに、論理が大事だという主張は結局、彼がいいたい覚醒へは導かない。すてゴマにもなりはしない。逆に足を引っ張る
ことになるのではないだろうか。
とりあえず猫が上らなきゃならないのは、
相手のいいたいことを確認し、その際にもし用語の使い方に疑問があれば明確にする。
その上で反論するのであれば、どのことに対して反論したいのか述べ、その根拠をつけて反論する。
ぐらいの形式的な順序を守るぐらいのお立ち台には上ってほしいと思うけど。
知識人(ディレッタントな高等遊民)の立場で他人様の仕事をうんぬんするなら、
真理を盾にして語られても白けるばかり、しかも、知識人としての価値を社会的に高める活動をしてない
のだから、<本当は>とかいわれても…。
質問という一番の武器を放棄して、こうだろうよという上から目線に賭ける(挑発→覚醒という思い込み)
三森を援用しながら、自分の方はちっとも論理的には語れない。そんな人物でなければ教師でなくたって
話せたり、聞きだせることはいくらでもある。
今、話し合いってどうなってんのとか?話し合いなんてしなくたっていいんじゃないの?とか普通の話題
はいくらでもある。
国語じゃなくて日本語であるべき。なんてこんなところでいってどうする。それこそご自身のHPでも作って
きちんと広報した方がいいだろうさ。そんなこと教える立場のわしには無意味だよ。
583 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/14(火) 22:31:58 ID:hv+SqoYp
>>579 無記名投票=秘密投票が日常の関係性にノイズももたらすと同時に、あるいはその結果
内面が無意識のうちにもあらたに誕生するわけですね。その日常がどのようなものであろうと
無視できないほどのノイズを生成させるということが重要でしょう。
おっちゃんが言う「選ぶー選ばれる」の非対称性とは政治家の選挙なんでしょうが、果たして
そうでしょうか。立候補するまでの過程にはアテネのような対称的な関係における「選ぶー選ばれる」
ということがたくさんあります。そのような全体性においてどうなのか。
また、非対称な場での無記名投票であっても、その意味は大きいと思います。
候補者とは顔見知りではないかもしれない。だが、投票場で誰に投票したかが逐一露になることを
想像すれば分かるでしょう。記名投票になると我々は明らかに別の内面を持つでしょう。
柄谷は、無記名投票によって我々の内面はみすぼらしいものとなる、そう言ってますね。
ならば、記名投票ならいいのか。そうではありませんね。
彼は「くじ引き」という偶然性をシステムに組み込むことにより、そのような陥穽を回避する
ことを提案します。もちろん、何でも「くじ引き」ではないです。総理大臣が上位三人によって
くじ引きされるシステムがどのような意味を持つか、それは非常に大きいと思います。
>特殊な条件を抜きに九郎助の内面的な葛藤はありえません。
特殊な条件の問題ではないと思います。もちろん程度に多少の差はあるでしょうが、
無/有記名投票やくじ引きは我々一人一人にとって、そのシステムが要請する内面を
もたらすでしょう。
システムのあり方が内面を規定するということが大事です。
正確には、内面に大きく影響するということ。それを「創る」と表現するのは
一つのレトリックとして許される範囲内だと思います。もちろん、そのような影響をもたらす
外部は重層的だと思います。制度という人為が大きな要素として内面を規定するという点には
注視したいと思います。
係る問題は、実はガーゲンの論も大きく関係します。私もまだ途中で、よく消化していません。
柄谷本のようにちっとも面白くないし、議論が抽象的でつかみにくい。スパッとしていないように
感じる部分も多いです。
しかし、ガーゲンは道徳によって内面が矯正されるという考えは時代遅れであり、
害であるとも言います。嘘をついてユダヤ人をアウシュビッツから救うことは誰もが賛同する
正しいことであったという例から、言説はその結果によってだけ判断されているということを示します。
システムによって新しい関係性が生まれる。新しい関係性によって開かれる地平がある。
我々の内面もまたシステムによって誕生するものだという認識は、テクノロジーによって
多重な現実を生きる我々にとっては当然あろうと思います。
もう少し自分なりに煮詰めたいんですが、その問題意識は当分変らないでしょう。
ガーゲンもまだかなりページが残っています。。考えます。
584 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/14(火) 22:42:41 ID:hv+SqoYp
>>580 教師のためだけのスレではないでしょ。
また、自分のために「登る!」というのは文字通りそうであって、そのような
私自身の振る舞いによって直接的間接的に他の方が触発されるかどうかは
全く別の問題です。もちろん、私自身を反面教師とするような影響も含めて。
また、畜群の覚醒も単純化すると自分自身のためだろうと思っています。
生徒のためって、軽々しく口にする教師ほど胡散臭いという身にしみた思いもあります。
結果として、そうなるのはいいことだけど。
585 :
おっさん:2007/08/14(火) 23:49:24 ID:WIV0Cz+E
柄谷の着眼は相変わらずで、おもしろいのです。
しかし、今自分が考えるとすると、あの程度の具体性の中で考えたいわけです。
ただああして検討していくと際限がなくなってしまうので、さわりだけでやめました。
たぶんあのように考えていくと、何かが見えてきそうだなという予感はあるのですが、
予め明確な結論的な考えはありません。
ただ最終的には、次のようなことを漠然と考えたいなと思っていました。
「くじ引き」では、「選ぶ−選ばれる」という関係は消失しており、「選ぶ側」は排除されてしまうことです。
例えば、4人の中で誰かを選ばなければならないとして、
4人が全く違う考えや立場の人間であった場合、果たして「くじ引き」でいいのか疑問です。
掃除当番みたいなやらなければならないことが決まりきったことならば、「くじ引き」でもいいのでしょうが、
思想や立場が反映する役割などを決定する場合はどうでしょうか。
自民党的な人間、民主党的な人間、公明党的な人間、共産党的な人間がいたとして、
その中から一人を決めるとき、国民・市民など意向とは無関係に「くじ引き」でいいのでしょうか。
「無記名投票」は、選ぶ側を「1」票という数に還元することで、
自由で平等な「個」の意思に基づく決定という擬制を虚構します。
しかし、「くじ引き」には、(偶然によって)選ばれる者についての抽象化、虚構がないでしょうか。
わしが社会変革を説く柄谷をまったく信用しないのは、彼が起こしたNAMがまったくの頭でっかちな肉体のない
三文芝居の「新しい村」であったことにつきる。
このNAMはQという地域通貨組織と二人三脚の関係を取ろうとしていたが、NAMメンバーの人間性の低さ、
Qの側からみると、院生崩れ、革命家気取りの人々が頼まれた仕事をきちんとできない(←それこそアソシエイト
的にはどうなんだろう。それって)ところからNAM以外の会員の不満や不信が事務局に殺到したことが始まりで
ある。
要は知識人なんか社会の寄生虫なのだ。僧侶になれなかった落ちこぼれガ司祭ごっこをするのは、傍迷惑。
僧侶を目指したんなら、最後まで目指せばいいのだ。あきらめたならすっぱりと違うことをする。そういうまっとう
さが柄谷を中心とする言説空間には満ち溢れてしまっている。
くじ引きが成立するのは、メンバーが誰がきてもそれを支えるという仕組みができているから。要はくじで選ばれ
た人間は「顔」なだけ。…そこまで書いてそれが象徴天皇制(いや、本当は天皇制そのものかもしれない。)と同じ
ことだと感じる。それはハタシテ民主的なのか?民主的なら必ずうまくいくのか?
結局は自由主義しか残らない。それこそ集合離散まで含めてバラバラな実践がいくつもあることの方が大事だろう。
どんなにえらそうなことをいっても活動家としての柄谷は、若い頃、敵意を持って批判していたそれにそっくりになって
きている。文筆家としての彼はどうであるかはわしは知らない。多くのロクデナシに変な根拠じみたものを与えている
ならまったくもって罪な話である。
行うこと。行うことを通して信用(それこそが本当の通貨である。)を獲得すること。そしてその信用があるからこそ感染
としての伝播が行われていくこと。それしか方法がないはずである。
>>584 教師だけのスレではない。勿論だ。しかし国語科のスレである。国語(日本語)にもとめるものや疑問を話題にして
行えばよろしい。
>また、自分のために「登る!」というのは文字通りそうであって、そのような
私自身の振る舞いによって直接的間接的に他の方が触発されるかどうかは
全く別の問題です。もちろん、私自身を反面教師とするような影響も含めて。
ひどいいいわけである。なら自分のBlogに書いてればいいじゃん。という反論をまったく予想してない。というかわざと
具体的な意味を回避して書いているのではないか?
上る行為(しつこく登るという誤用をするのは、どんなもんだろう。)が2chに書き込むこと…なんていうのは本当に質
の低い労働だろう。そしてそんなの自分の日記でやればいいのである。
>また、畜群の覚醒も単純化すると自分自身のためだろうと思っています。
生徒のためって、軽々しく口にする教師ほど胡散臭いという身にしみた思いもあります。
結果として、そうなるのはいいことだけど。
畜群の覚醒とやらでどんな得を猫がしようとそんなことしったことではない。
生徒のために教師はやっているのではない。仕事だからやってるのである。こういう仕事をなめきった態度。
仕事=自己実現みたいに考える態度が結局、畜群の覚醒みたいな考えにつながっていくんだろう。
仕事というのは自己満足はできない。他人からありがとうといわれたり、喜んでもらえたりする=評価されるものだ。
わしが猫のような人間に口を酸っぱくして、お前は金を払ってものを消費しているだけ。それを作ってる人との関係を
どう考えてるのか?端的に誰のおかげでおまんまが食えるんだと当のはそのせいである。
共産主義になればいるだけで、時間と取引するだけで社会的な資源を使う権利が得られると思ってるんじゃないかと
邪推したくなるのである。汗かいて働け。話はそれからであろう。
まっとうさがまったく無いが正解です。申し訳ない。
588 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 00:51:50 ID:cv4hhX95
>>
アテネの民主政を見ると、その根底に、権力を志向する「人間性」が変ることが決してない
という、強固な確信が見えてきます。たとえば、橋場弦は、つぎのように書いています。
このように、役人や公職者の行動に対しては、きわめて重層的・網羅的な監視装置が
設定されていた。ここで注目すべきは、アテネの市民がいわゆる「公民の倫理」のような
ものに最初から期待していないどころか、むしろ露骨に不信感を抱いていたことだろう。
A・H・M・ジョーンズの表現を借りれば、「権力の誘惑に抵抗する人間の能力」というものを、
彼らは一切信用していなかったのである。 (後略)
『丘の上の民主政』
彼らが人間性を変えようとか、道徳性を高めようとするかわりに、そのような欠陥があっても破綻しない
ですむようなシステムを作ろうとしたのは、そのためです。それが籤引きでした。
「日本精神分析」pp.155-156
>>
このあたりで柄谷はニーチェに言及してませんが、明らかに「(権)力への意志」を念頭に
おいていると思います。だから、ニーチェはある意味で人間の本質暴いたことは確かなんですね。
だからといって、その本性に単純に拠りかかるだけでは駄目なんですね。薄っぺらな開き直りでは
いけない。ニーチェの煽りのまま、そのような本性をむき出して生きればいいのか。
そうでもない。その本性によって破綻することがない社会にデザインし直す、システムを考える
べきなんです。
柄谷はポパーを批判して、議会制民主主義がファシズムやスターリニズムを生み出したことを言ってます。
このあたりは共産板で議論したことあるんですが、サヨクな人はどうも認めたがらない。しかし、それは
もう間違いないことなんですね。大衆=畜群とはそういう性質を本性としているものです。
これは古くはフロムが明らかにしたことです。大澤真幸「戦後の思想空間」は、このあたりを
もっと辛らつに面白く書いている。ヒトラーの「闘争」には大衆の扇動の仕方、騙し方が書いてある。
それを読んだ大衆が我先にと騙されていったんだと。
さて、柄谷は現実的な方法として、無記名投票で上位三人に絞る。その後、籤引きで決めるという
具体的な提案をしています。ベストではないかもしれないと、彼には珍しく断って書いてますw
しかし、その断りは重大な意味を持っていると判断します。
ベター、そしてベターそういう志向が大事ではないでしょうか。ベストという発想自体がある意味
否定されないとならない。危険性がある。
くじ引きとはそういうものを回避する不安定なもの、偶然なもの。それが全体をちょっと健康に
してくれる。我々の本性が全体の破綻に向かわないようにしてくれるということだと思います。
589 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 00:54:58 ID:cv4hhX95
続き
>自民党的な人間、民主党的な人間、公明党的な人間、共産党的な人間がいたとして、
>その中から一人を決めるとき、国民・市民など意向とは無関係に「くじ引き」でいいのでしょうか。
柄谷の本意をこれに当てはめて考えると、たとえば自民党の上位三人をくじ引きによって決める。
安部、谷垣、麻生あたりとか。もちろん、自民という枠組み以前から無記名投票で三人に絞り
そこでくじ引き。公明や共産から上位三人に残ることはないでしょう。
「> 国民・市民など意向とは無関係に」と断定するのはいかがなものでしょうか。
>>
無記名投票か、籤引きか、というのは二者択一の問題ではないのです。つまり、先ず
複数の候補を無記名選挙で選んで、最後に籤引きをすればいいのです。
>>
彼の本意を正しく受け取るべきでしょう。
また、彼が詳細に衆愚政治を論じている点は、国民マンセーという態度の陥穽を
睨んでのことです。ナチズムが民主的に国民に支持されたという歴史から学んだ結果も
くじ引き擁護に傾きます。
すなわち、くじ引きによって衆愚、大衆の本性による破綻=たとえばナチズムなどを
回避できると思います。
民意がまずあって、その結果として・・・
そういう考えこそが危険です。大衆も民意も作られるものです。フロムもハヤカワもそれを
懸念してサイレンを鳴らします。
>>
私は権力を志向する人間性は変らないと思います。しかし、同時に、人間性がまったく変らない、
とも考えません。「人間性」は、菊池寛がそう考えたように、ちょっとしたシステムを変えるだけで
かなり変ってしまうものです。(p.172)
>>
道徳などによって変ることのない人間の本性。それはシステムによって変る。
具現させないという意味において容易に変るのだと私は理解します。墓まで発症しない
ならそれは健康であったと見なせると。
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 00:58:07 ID:InB1yqLc
あ
お前さんにはいっこうにレスが付かないことをどう考えるんだい?
591 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 01:02:02 ID:cv4hhX95
「くじ引き」には、(偶然によって)選ばれる者についての抽象化、虚構がないでしょうか。
よく読まなくても、柄谷は「くじ引き」ですべて解決するとは思ってないよ。
ベストではないにしても、そう柄谷が謙虚!!に言うことを聞いたことありますか?
私もそのようなくじ引きによって、二番手が選ばれる可能性を十分に承知しています。
だけど、それが全体を大衆を緊張させ、よりベターな志向へと向かわせるものだと判断します。
ベストの思考とは、単に独裁でしょww
592 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 01:07:33 ID:cv4hhX95
おっちゃん
私が国語ではなく日本語にこだわるのは、それがシステムだからです。
日本語とは一つのくじ引きです。国語とは一つの(無)記名投票です。
ま、それもですね、時間の問題だと見なします。
国語国文というのは虫の息ですから。
それでも残る「国語」とは一つの滑稽です。決して誇りにはならないでしょう。
システム、 国 語 こそが内面を捏造する。だからこそ、躍起になる為政者。
国民養成の装置が彼らに仕組まれないようにしたい。そこからしか教育はスタートしない。
593 :
おっさん:2007/08/15(水) 01:45:28 ID:Mmddyx/C
柄谷が「無記名投票」との組み合わせという現実的な配慮をしていることは、承知していました。
断りませんでしたが「無記名投票」で上位3人(4人と間違えてしまいましたが)に絞られた上での
問題提起のつもりでした。
(無記名での予備投票では、「無記名投票」の問題はそのまま残されるでしょう。)
「籤引き」で選ばれる者がどのような存在なのか?
アテネという歴史的な場と現在とでは全く違っているのではないでしょうか?
現在の日本ならば、予備投票で先に挙げたようなことになってもおかしくないと思います。
まあ、あんな状況なら「籤引き」でもいいかもと思いもしますが。
(「籤引き」の継続によって、状況が変わっていくことも考えられますが、
それについては柄谷は言及していたでしょうか?)
「籤引き」によって、権力の固定化は回避出来るのかもしれません。
そこでは、選ばれる者は、それぞれが全く違った思想を持ち、異なった立場にあろうとも、
みな同じ確率3分の1という抽象的な存在になります。
この抽象化には問題はないのでしょうか。
また、選ぶ者からは、国民・市民・大衆は排除され、偶然に変えられてしまいます。
偶然によって選ぶことに意味があるとして、
国民・市民・大衆が排除されることにも意味はないのでしょうか。
現在ある選ぶ者としての国民・市民・大衆の問題を解決する、
というより抑圧することにはならないでしょうか。
※本当は、議会制民主主義の問題を絡ませなければならないのでしょうが、
荷が重く脇によけておきます。
594 :
おっさん:2007/08/15(水) 02:10:01 ID:Mmddyx/C
予備投票について、猫さんと僕とで想定したいたことが違っているようですね。
猫さんの場合、個人への投票ではなく党への投票になりますね。
僕の場合、個人への投票を考えていました。
それで、全く思想や立場に異なった候補が残ることを想定しました。
党への投票となると、死に票が多すぎ、国民の無関心は深まると思います。
他党へ投票した人間にとっては、「籤引き」で緊張感など感じるないでしょ。
自民党内での総理選びが自民党員以外の国民に持つ意味と同じになってしまいませんか。
595 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 02:16:21 ID:cv4hhX95
「くじ引き」を含むシステム自体は国民の支持によって成立し維持されるでしょう。
すなわち「くじ引き」自体に国民の意思は尊重されていると見なすべきです。
国民の支持によって選ばれた人間が国民を裏切り続けるという現実と天秤にかけて
国民がそういうシステムを選ぶかどうかが重要です。
>みな同じ確率3分の1という抽象的な存在になります。
>この抽象化には問題はないのでしょうか。
一人一人の思いを載せた一票も死んでいます、死票。
候補者は意外と違いが小さくなるんではないですか。
選択されたシステムが捨てるものと拾うものを「同時に」考慮すべきです。
半分冗談ですが、いつも共産党に入れている人は自分の意志は現実的には無視され
続けるわけです。でもくじ引きなら、まれに上位三人に残っていれば選ばれる可能性は
あるわけですw
多数原理「だけ」による制度が捨てるもの、その暴力性を多少なりとも解消できるはずです。
共産党が政権を取っても、いつひっくり返るか分からない。というか、次はもうないw
そんな大胆なことはできないでしょう。自民党なら、もう癒着なんかできない。
次に暴かれることは必須だから。私は半分は大真面目で支持してます、くじ引き。
596 :
おっさん:2007/08/15(水) 02:19:21 ID:Mmddyx/C
猫さんは、「国語」と「日本語」を厳密に区別して考えているですね。
猫さんのそれぞれのおさえ、区別の基準がよくわかりません。
例えば、今、僕がレスしていること、
それは、国語、日本語とどう関わるのでしょうか。
僕自身は、「国語」と「日本語」との区別を全く意識せず、
話したり書いたりしています。
そして、授業をしています。
意識しなければならないのでしょうか。
意識するとどう変わっていくのでしょうか。
597 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 02:22:35 ID:cv4hhX95
>>594 いいえ、予備(記名)投票も個人でOKです。
現実に今ならどうなるでしょうか。おそらく、安部は残らず
麻生、福田、小沢(民主)あたりでしょう。ぜひ、くじ引きさせたいものです。
小泉が手を挙げれば、彼も三人に残るはずです。
598 :
おっさん:2007/08/15(水) 02:33:47 ID:Mmddyx/C
「籤引き」が「無記名投票」とは違った意味や可能性を持つ、
そんな気はするのです。
しかし、今ひとつピンとこない。あえて疑問を連ねました。
※実は、向山が学級の組織づくりにおいて同じようなこと(じゃんけん制)を実践し提言しています。
アテネの「籤引き」にもきちんと言及しています。
僕自身も実践しました。
教育的に検討すべき内容を持っていると思います。
柄谷は、リコールも必要条件として述べていますよね。
これとセットにならなければ本当はだめなんだと思います。
吉本は、当番制を主張していました。
現状批判ではかなり共通するものがあるのかもしれませんが、
志向する方向についての思想は、かなり違っていると思います。
「籤引き」と「当番制」とを対比してみると
それぞれの原理的な意味や思想的な特色がより理解できるのかもしれません。
599 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 02:53:23 ID:cv4hhX95
>>596 国語は既に空気のように漂い、かつ、しみ込んでいます。
だから、その自明性や自然さを意識することは特に学校ではないでしょう。
しかし、一般には日本語の方が自然ではないですか。
「その日本語ちょっと変だぞ」って、国語はおかしい。
そもそも国語が日本でないといけない理由は実はない。だから、かつてフランス語を
国語にしようなどという意見もありました。
仮に国語をフランス語にしたとしましょう。
大事なのは日本語です。母語ですから。国語によって隠されたものが明らかになるでしょう。
国語は国家すなわち為政者や権力とすこぶる相性がいいです。しかし、我々の道具となるような
志向はあまり出てきません。たとえば、三森の著書には確か国語という名称は出てこない。
ただし、私のアジは一つの冷水です。大量の熱湯には焼け石に水でしょう。
それも織り込み済みです。しかし、国語を繰り返し指弾することでちょっとはその自明性や
自然さが歴史的に「最近!」作られたものであることへの注意を喚起する。
賛成されなくても、関心は持ってもらえる。
でもね、謙虚にどちらでもいんじゃーねえ?って言ってたら、誰がこんなことに
興味を持つでしょうか。
私は自分自身が一つの噛ませ犬だという自覚も多少あります。
それによって、国語が国語のままであり続け日本語にならずともちょっとは
揺るがしたかもしれない。それは健康な方向へ揺るがせるんだという確信は
あります。微々たるものでしょうが。
国語をフランス語にしようと大真面目で絶叫した「小説の神様」をいったい
何人に国語教師が知っていることか。彼は心底、日本語を唾棄したんですよ。
と、こんなことを言って、また関心を持ってもらおうかなって下心。。告白
600 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 03:10:15 ID:cv4hhX95
>>598 当番制ですか。実際、しっかりした二大政党制になれば英米のように、
結果としてそうなるでしょうwかわりばんこ
籤引きも当番も、「選ばれる」側への批判だけでなしに「選ぶ」側への批判も
十分に組み込まれるわけです。
国民全員からすべて等しく籤引きで決まるわけでない。ならば、成熟した日本の
ような国では次の民主形態が模索されてもいいんではないでしょうか。
(ちょっとは興味だけでも持ってもらいたいw)
その吉本ですが、柄谷は彼の弟子筋だったらしいんですが、何かの理由で
距離を持つようになった(らしい)。そのあたりを詳しくご存知でしたら
教えていただけないでしょうか。
右手に吉本、左手にジャーナル。こんなフレーズありましたよね。
私は最後のジャーナル世代です。だから、おっちゃんとは近いと思いますよ。
なお、私はどんな党派にも属してはいません。ジャーナルもずっと愛読してはいませんw
難しくて面白くないからw
601 :
おっさん:2007/08/15(水) 03:19:45 ID:Mmddyx/C
『国語という思想』でイ・ヨンスクさんは、
「国語」の政治的、権力的な性格を暴こうとしたのでしょう。
しかし、僕が読んで何より印象に残ったのは、
むしろ政治的、権力的な試みがことごとく失敗してしまうことであり、
その失敗にもかかわらず、明らかにそれまで存在しなかった「国語」は作られ、
存在してしまっていることの不思議さでした。
それは、「日本語」と呼んだほうがいいのかもしれません。
正しい日本語や美しい日本語を唱えるより、
志賀の戦後の日本語嫌悪の方が感覚としてはまともなのかもしれません。
602 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 03:25:50 ID:Zd8ySXJn
>>599 >国語は国家すなわち為政者や権力とすこぶる相性がいいです。
So what? だから、何なの?
私は自分自身が一つの噛ませ犬だという自覚も多少あります。
うぬぼれもいい加減にしませんか。
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 03:26:29 ID:Zd8ySXJn
>>599 >国語は国家すなわち為政者や権力とすこぶる相性がいいです。
So what? だから、何なの?
>私は自分自身が一つの噛ませ犬だという自覚も多少あります。
うぬぼれもいい加減にしませんか。
604 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 03:27:23 ID:cv4hhX95
向山がそんなしゃれたことをしたんですか。ちょっと見直しました。
科学的とかなんとか、中途半端な脳科学よりずいぶんマシなことしますね。
学級役員は籤引き・ジャンケンというのは面白いし、なかなか教育的だと思いますよ。
無記名投票。開票で名前に「正」の字を書いていく。あれはどうしても好きになれない。
面白半分やイジメで最も不適切な人間に投票するような内面が誕生する。私はそんなことを
目前で起こることはないよう事前に「かまし」ますが、そういうことを放置する人間がいるんですよね。
民主的に!!!決まったから仕方ないとか、なんとか。そういうダヴォ教師がいますね。
籤引きをまずは学校で実行しよう!
605 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 03:43:30 ID:cv4hhX95
>>601 「「国語」の近代史―帝国日本と国語学者たち 」(中公新書、安田 敏朗)
は、そのあたりを包括的に説明してくれます。 構築されるべき国語は揺れ動きます。
それは様々な位相においてぶれます。たとえば、台湾や朝鮮半島に送られる国語教師は
九州や東北のなまりで教える。だから朝鮮語を母語とする生徒から、先生の国語はおかしいと
嘲笑されたようです。教科書と違うってw
「国語」構築の学者も呉越同舟で、いろんな意見があったようです。簡易化やローマ字化から
保守維持派まで様々です。もちろん、メディアや出版物、サブカル的な影響もあるでしょう。
いろんなベクトルが交錯し、国語は誕生したんでしょう。
しかし、学校教育の役割は決して小さくないと思います。
先の嘲笑が逆に照射しています。
学校が規範を示し導くこと自体は否定しません。
その中身が問題です。審議会のアピールが「情緒力」と同様に「論理力」を
強調しているのは注目すべきです。馬鹿な委員の言いなりにならなかった。
私は、むしろ期待しています。
606 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 03:45:32 ID:cv4hhX95
>正しい日本語や美しい日本語を唱えるより、
>志賀の戦後の日本語嫌悪の方が感覚としてはまともなのかもしれません。
真意が分かりかねます。詳しく敷衍してください。すいません。
607 :
おっさん:2007/08/15(水) 03:46:23 ID:Mmddyx/C
吉本のいう当番制は、市民によるものですね。
詳しくは展開していないと思います。
陪審制度みたいなものではないかなと思っています。
吉本と柄谷との関係は、わかりません。
もともと弟子筋とかではないのでは。
柄谷が文芸批評でデビューし活躍しましたよね。
吉本の「共同幻想論」「言語にとっては美とは何か」「心的現象論序説」は、
出版当時の状況からは、異様な理論書だったのだと思います。
それを評価したのは、柄谷たちの世代だったのでは。
柄谷も吉本の仕事の評論を書いています。
その後、柄谷は、アカデミックな場に軸を移しましたよね。
吉本の仕事を認めた上で、「吉本も大学に入って研究すればいい」みたいな発言をしていました。
多分そうした発言の背景には、吉本の仕事のローカル性への批判があるのかもしれません。
吉本は、吉本で、外国思想の輸入業者への批判を持っていました。
中上(柄谷の友ですよね)をめぐっての評価も途中で吉本と柄谷で分かれていきました。
中上も構造主義以降の思想にやられたところがあり、
そうした動向を吉本にはおもしろくなかったのかもしれません。
何か具体的な事件があったのかもしれませんが、それはわかりません。
今日は、これで。
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 04:32:13 ID:Zd8ySXJn
>>604 >向山がそんなしゃれたことをしたんですか。ちょっと見直しました。
>>606 >真意が分かりかねます。詳しく敷衍してください。すいません。
みっともないから止めたら。
それから二人とも、ニーチェだ吉本だ柄谷だ蓮見だといい加減に止めたどうですか。
如何に、自分の思想が貧しいかを暴露しているだけですから。
それから、おっさん、逃げを打つのはやめましょう。猫への遠慮でしょうか。
二人とも、このスレにかこつけて、読書の自慢話は不愉快なだけですよ。
どちらにしても、モラルの語源である見られている意識。そして見ようという意識がなければ、権力を公的にどう使っ
ていいかわからずに、私的に権力を使うようになる。
誰のための、何のための権力であり、それは具体的にどんなことを今求められているのかということだ。
でもって一番やっかいなのが、統治する側とされる側の情報不均衡と目的の不均衡。
される側が私的なことばかり要求するのであれば、統治する側はそれを無視するようになるだろう。もっと悪くすれば、
言わせないようにするし、聞かないようにする。君主は厨房に近づかず。
統治する側が全体的な課題ばかり説明すれば、統治される側は自分の暮らしとの接点が見出せない限り、自分たちの
課題=行動の要請だとはこれっぽっちも思わない。される側は、統治を独りよがりでごまかしの多いものだと思うだろう。
国家と国民の関係をもう一度、共有することなしにどんな政治システムも結局は官僚主義(ビューロークラシー)の効率
と組織力の隠れ蓑になるだけだ。柄谷は結局、アノミーの起源について語っただけなのではないだろうか?
(実際に彼はビューロクラシーを築いてしまい。君主-側近の形式化が行われ失敗している。この論考の後なのだから、
代表ということがわかっている素振りをしていながらである。NAMの総括なしに柄谷は本来は何も発表できないはずだ。)
向山の実践はジャンケンによる候補者からの選出とリコールの否定。
リコールする側の無責任さ(人民裁判)を否定した。何かを進行したり、まとめようとしたりする経験は<学習>である。
学習はすべての児童に<意欲があれば平等に機会が与えられるべきだ。>ってこと。
学習とは協調的集団においてもっとも効果を上げる。だからこそリコールを否定したのだ。彼がやるんだったら、自分は
何ができるかを要求したのである。
でもそんなことができるのは担任はくじ引きされたわけじゃないから。絶対的な権力(権威ではない。)を背景に要求でき
ることであり、本来、権力とはこのようなことのために付託されているのである。
アノミーの起源はもう一つある議員になったときから選んでくれた人々の思惑に左右されないという判断の独立性で
ある。(政治ということを考えれば、これは当然である。これでアノミーを起こすなら自分が立候補しなければならない。)
NAMで柄谷はくじ引きも輪番制も考えら得る方策をとったが、柄谷天皇制だけは結局温存することになってしまった。
それでいて、事務局は官僚主義だといって柄谷は批判していた。その運動の総括をまったくしないで自分は誘われた
だけだ。みたいな言い方をする。
自分が参加すればこのような問題が起こると思わなかった方が変。岩波から定本も出るそうだが、以前から出ていた
自著は全部絶版って…何それ。
結局、商売人だ。
NAMを調べてから、くじ引きとかいうこと。問題はそのような単純ではない。
612 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 10:40:41 ID:cv4hhX95
しかし、まー何でもネト検索で分かったようにおしゃべりするのは立派だよ。
ニーチェの引用までw しかし、ヒントが少なくて検索できないときは困るようだし、
その後に手がかりつかむとやたらと増える口数w
>岩波から定本も出るそうだが
さすが、パーw
とっくの昔に出てるよw
まあ、頑張って阿呆の憂さ晴らしに貢献してくんなw
613 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 11:12:09 ID:cv4hhX95
ルソーが変態で倒錯者だったことは有名で自著では告白もしている。
未亡人の性奴隷を生きがいとした。露出狂だった。
その上、実子は捨て子にした。無茶苦茶な日常と実践w
生涯を弱弱しく生きたニーチェ。一度も強く生きたことはない。
彼の思想とは彼の日常の裏返しにすぎない。というか、その弱さの深度が
思想を生んだ。周りの友人の配慮で生かされたニーチェ。ワーグナーにストーカー
した情けない奴。発狂だけが彼の栄光だというのは皮肉にも悲しい。
ラッセルって知ってるか?
彼のフリースクールは近所の迷惑を生み出しただけだった。そして壊れた人間を
作り出す実践だった。
さくらパパの教育論あたりが参考になるんだろうなw
>>612 NAMのこと知らんかったのかい?知ってていってたならペテンの一種じゃないだろうか?
誠実なんて論理判断とはまったく関係ないことだけれど、リアル柄谷の行動には賛意は示せない。
くじ引きにしろ輪番にしろ、それをささえる何かがあるからこそできること。
それをささえる何かがなければ結局、一番それに近いのは市場ということになるが、市場だってまったくの
オートマチックではない。
代表民主制の起源にあった畏れをみのがしてはいけない。
>>613 ルソーか、だからフランス革命は血があんなに流れたのじゃないのか。
それゆえに保守という干満な改善主義が誕生することになった。
ニーチェの詩に対してはベルクソン。
ラッセルのベーコンヒルスクールについてはよく白ね。でも善意ってやつはそれをただ乗りするフリーライダーに
コストやリソースを独占されやすい。きちんと調べなきゃわからん。したがって保留。
で柄谷を擁護しようっての?わしは実践においての失敗の現場にいたにもかかわらず、それをネタにしない。
って学者としての態度そのものを批判してるんだが。
上記の三人にはそんなことないぞ。ネタにしてるじゃんかさ。
616 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 11:47:01 ID:cv4hhX95
>>614 何でもお前と一緒にするなw
NAMねー、以前仰山板でタップリ議論したよ。運動周辺というか裏事情をよく知ってる人とも
議論した。なんならイロイロ教えてやろうか?ww
>ネタにしてるじゃんかさ。
はあ?? お前な、柄谷読んでから言え。
実践って、その実践について「書かれた!」もので判断してるだけだろw
もう少し論理的に考えられんかな。
で、擁護もなにも、『ネタとして面白い』かどうかだけだよ。
お前はつまらんし何の参考にならん。だから誰も相手にしなくなった。ここでもあそこでもw
どこでもwwwww
くじ引きをしようが、輪番制にしようが、アソシエーションは成立しないという現実を前に、じゃあ何を語るのか
ってことだよ。
天皇制しか対象はないはずなんだが。それも一木一草天皇制のような観点から、主体化される対象という
ことを語らなければいけないはずなんだが。
結局、弱者は足を引っ張る、弱者なんかいなけりゃいいのになんて結論にならないことだけ祈っている。
ネタとして面白い。じゃあブログで書け。面白いと思う人とだけ交通してればいいだろ。
ブログにはトラフィックだとかリンクしていくツールがあるから、意味があればお客さんだってきてくれるだろう。
某所の過去ログを読んで…何が裏事情だ。
orz
会費を払わなくて除名されました。アハハハだああ。馬鹿。社会人たれっていう組織において…
てな人たちが多かったので地域通貨としてQは信頼されずに終わっちゃったわけです。
人間を大事にしない人にかぎって、柄谷にいかれちゃうのはなぜなんだろう。そこが問題だ。
柄谷に大きな物語をみちゃうんだろうな。それじゃダメなんだって柄谷がどれほどいっても。
そこが問題なんだけど、たぶん柄谷は語れない。そんなの俺のせいじゃない。って。
それは確か。だけど、観察すること記述することを商売に選んだんなら、ここはどれくらい時間が
かかっても記述しなきゃならんだろ。
そういう責任はないにしてもだ。
真理病に感染してはならない。目の前の女にいい女がいなければいろんなところに出かけみるがいい。
自分にとってのいい女に掘れることができれば、何かが変わるかもしれない。真理なんか必要ないんだ。
620 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 12:31:35 ID:cv4hhX95
>>607 私の話のソースは『ニッポンの知識人』(桂秀美、高澤秀次、宮崎哲弥 KKベストセラーズ)
です。
吉本は柄谷だけでなく、蓮實や浅田らを知の三馬鹿って言ってますね。宮台は本物の馬鹿。
現代とは吉本でなく河合はやおを求めたというあたりが何か悲しいですね。
話に出た中上の作品はぜひ読まないといけないと思いながら、読んでいません。
やることがいっぱいです。
ニーチェについては永井均の「これがニーチェだ」を読んでおけばよい。
そうすれば、猫がどんなところに留まっていて、あがくでもなく、身悶えてるだけかがよくわかる。
永劫回帰に駱駝、獅子、子どもが登場しないなんて…っていうかまっとうな人は永劫回帰を生きておる。
心配しなくたって…。それぞれ 馬鹿、かっこつけ、無知に対応しているのかもしれないが…。
622 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 20:28:27 ID:InB1yqLc
あ
誰にも相手されてないw
猫のアンチだから放し飼い
ただそれだけの人間
623 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 21:33:36 ID:Zd8ySXJn
624 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 22:56:02 ID:InB1yqLc
しつこい ってかww
よく言うよな
625 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 22:59:00 ID:InB1yqLc
あ
もう賞味期限切れだな。アンチだけで存在意味を持つのはキツクなってきたようだ。
お前にはレスがつかないよw
626 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 23:00:03 ID:InB1yqLc
次は もうちょっと
利口なのがいい
627 :
ヤマさん:2007/08/15(水) 23:58:07 ID:OIApUhtB
>>621 基本的な質問で失礼、ニーチェの永劫回帰をひとことで言うと仏陀の永遠の生命に
なるんじゃあるまいか?
とすれば、とすればだよ、漱石が過剰に東洋哲学(特に仏教)を持ち出してニーチェに
反駁を試みた理屈もわかるんだけどね。
つまり、ニーチェは東洋人としての漱石にとってはあたりまえだったんだよ。
欧米人にそのような感覚があること自体が漱石には新鮮だったのでは?
ま、そこまで(仏陀の域まで)ニーチェが考えていたかどうかはわからんけどね。
(僕もわからんが・・・スマソ・・・orz。)
どうだろう?
628 :
おっさん:2007/08/16(木) 04:55:49 ID:egbYvAOk
>>606 戦中、国体と結びつけて国語の伝統を主張した人間がたくさんいた。
戦後、そうした人間が国体は変わっても、
国語には何もなかったように美しい日本語とかを語ってしまう。
また、保科などの国語観は、最初から傷つかない抽象的なものでやはり同じように語ってしまう。
そうした連中に対して、志賀はとち狂ってしまった。
志賀は、本当はどこにも存在しない国語によってずっと小説を書いてきた。
それは、存在しない国語を信じることによって、過酷にリアルな言葉を生き、
国語を実現することでもあったのではないか。
志賀が抽象的な国語とかその伝統とかを抽象的に思考してきただけだったら、
戦後、論理的な、あるいはいかにも小説の神様らしいまともな主張もできたのではないだろうか。
あまりにも愚かすぎる主張に志賀を追い込んだ、日本語への嫌悪感、
これは、生生しく言葉を生きる、志賀の小説家としての優れた資質を証するものなのかもしれない。
途方もなく馬鹿なことに対しては、利口な立場からいくらでもケチをつけることができるけど、
そんなことをしても無駄であり、とらえられない何かがあるような気がする。
これは、僕の勝手な思い付きです。
しかし、僕が志賀のフランス語国語論をはじめて知ったのは、
蓮實の「反日本語論」か「私小説を読む」か、どちらかだったと思います。
蓮實は、志賀を動物として評価していたと思います。
この事件についても、たぶん蓮實らしい屈折した物言いで評価するように思います。
蓮實が実際どんなことを書いていたか思い出せないのですが、
上の志賀に関する僕の思い付きには、たぶん蓮實の影響があるように思います。
629 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 05:20:05 ID:PkofBm6m
630 :
ヤマさん:2007/08/16(木) 07:27:18 ID:o/Y9VubP
>>627 Nが永劫回帰に撃たれたのは、蛇に口から入り込まれた農夫を幻視したときだそうです。
農夫は生き延びるために、蛇をかみ殺し、蛇の頭を吐き出し大喜びして叫びます。
そこから永劫回帰を思いつくんですから基地外の考えることはわかりません。
苦しみがなければ喜びもないと思ったのか。そもそもが蛇が空いてた口に入り込むような目にあうなんてってことなのか
そんなことが一瞬でスパークしたのでしょう。
人生は「そんなバカな」に満ちている。そんな人生への態度を三つの状態に例えているっていうのが教科書的な説明
になりますよ。
駱駝→バカなに耐える
獅子→バカなに朝鮮する
子ども→バカなとも思わない。ただ…ありのままに受け止める。
永井はこれを三つの空間を移動する主体みたいに説明してます。
@理想(道徳)の生まれるところ(駱駝)汝なすべき。
貴族と僧侶の価値対比。ルサンチマン。
A理想よりも優れた理想(メタ)(獅子)われ欲す
力への意志 力を欲するということはすでに弱者?
B反理想という理想(子ども)われ在り
永劫回帰。
ということで、力への意志と永劫回帰は位相が違うので矛盾して当たり前だ。という説明をしています。ハイ。
だからコンビに前にしゃがみこむ奴らの方が猫よりも…なんですよ。N的理想に近けりゃいいのかってことですよね。
これを地理的な移動と考えれば
砂漠(キリスト教の生まれたところ。戒律による生き死にのコントロール)
↓
サバンナ(生き物が溢れ闘争によって生き死にする)
↓
森林(すべてがつながりあって生き死にもつながりのひとつ)みたいな移動と考えてもいいかもしれません。
駱駝はやっぱり仏教ではなくキリスト教で、子どもが仏教に近いのではないでしょうか。
632 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 09:38:59 ID:grn2aQU1
>しかし、まー何でもネト検索で分かったようにおしゃべりするのは立派だよ。
阿呆猫が常日頃やっていることではないか。
阿呆猫の場合は、入門書を呼んで「分かったようにおしゃべりする」ことも含まれる。阿呆猫にとっては、こっちは立派な行為なのだろう。
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 10:20:12 ID:lzjF4IBS
お前の嫉妬が見苦しい。ちーとは精進しろ。
面白い話しが出てきそうになると必ず腰を折る奴がいる。
634 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 11:07:54 ID:rDMgsaju
「あ」という馬鹿
>ということで、力への意志と永劫回帰は位相が違うので矛盾して当たり前だ。という説明をしています。
そんな説明してない。お前は丸アホか。該当する箇所をページ付して引用してみな。
>だからコンビに前にしゃがみこむ奴らの方が猫よりも…なんですよ。
ほれ、何も分かってないじゃーないか。子どもで「ある」ことではなく、子どもに「なる」
ことが大事なんだね。そのあたりが全く分かってない。
>N的理想に近けりゃいいのかってことですよね
だから、そう言ってるだろって。
下の「おすすめ」に載ってるニーチェスレで永井本にダメだしされているけど、
そのあたりはどうなんだい。そこで紹介されてる他の解説本も読んだのかな?WWWWW
もっとも、オイラは永井を評価してるけど、それはお前のようなものとは正反対においてだ。
まあ、いい。分かる人間には分かる。最初から阿呆は考えてないから。
>633
どうして、あの手の話が「面白い」と思えるのか。
あれを面白いと思ってしまう自分を反省したほうがよかろう。
>632 を「嫉妬」とみなす根拠は?
636 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 12:05:17 ID:rDMgsaju
>>628 おっちゃん
志賀の話はいたるところで目にしますね。
蓮實が志賀を評価することがあれば、それはかなりレトリカルな謂いであり
アイロニーとしか理解できないものでしょう。蓮實の志賀への言及はちょっと
探したけど見つかりません。そのうち見つかるでしょう。
「そこで私は此際、日本は思ひ気って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、
その儘、国語に採用してはどうかと考えてゐる。それにはフランス語が最もいいのでは
ないかと思ふ。」(「国語問題」1946年、志賀直哉)
「反=日本語論」で蓮實は、鈴木孝夫がリヴァロルに言及し、フランス語の明晰性とは
対照的な日本語の性格を嘆いていることに噛み付いています。『明晰性の神話』
蓮實が安易に志賀を評価するとは思えません。
いい機会ですから、以前から強く推奨していたこの本からいくつか取り上げて考えたいと
思います。
まず、蓮實の現実が我々とは違って日本語の自明性や自然さが”空気”ではなかった
ことに留意しておくべきです。彼の奥さんはフランス語母語話者であり、その二人の
子どもが母語を獲得するということは、我々におってはあまりにも自然なプロセスを
大きく揺り動かすものであったということです。
我々は、そのような周縁によってしか自明性の愚かさに気づかないんですね。
実は民主制の原理である”多数”が自然さを形成し押しつけるんだということも確認して
おきたいことです。したがって、今やろうとすることは根本的なアポリアに向かうことでも
あるということは重々承知しているつもりです。
「われわれが日々実践している言語的体験は途方もなく貧しいし、なし崩しの無秩序がいたる
ところで肯定されてゆく。だが、この混乱は、秩序によって統禦され、正しく美しい体系へと
おさまってゆくときに姿を消すものとは思われない。というのも、かりに言葉がおさまるべき
理想的な秩序があったにしても、その秩序の全貌を一目で把握しうるものは誰ひとりとしておらず、
われわれが目にしているのは、たえず露呈した言葉の表層にすぎないからだ。秩序と思われた
ものは、ごく局部的な世界で凝固したかにみえる言葉たち、つまりは慣用というやつだ。そして、
どうやら一定の秩序におさまっているかに見える慣用についてなら、その慣用を共有する人びとに
とっての美しさなり正しさなりは口にしうるだろう。だが、その美しさと正しさの背後には、たえず
凝固することのない言葉のうねりが、無秩序に渦巻いている。美しい日本語への郷愁も、正しい
日本語への展望も、凝固する言葉の背後へと視線を注ぐ姿勢をとりあえず忘れたふりを装うことに
よってはじめて可能となるにすぎない。だが、怖ろしいのは、このとりあえず装われた忘却が、
いつしか真実の忘却へと変容してしまうことだ。
われわれが「文化」を語る場合に陥りがちなのは、どんな「文化」であれ必然的にはらみ持っている
だろう負の局面、たとえば醜かったり、滑稽であったり、貧しかったり、愚かしく思われたりする
局面を、一定の時がくれば常態に復するはずの一時的な錯誤、やがては快癒して秩序へと帰従する
束の間の混乱とみなして視界の外へ追いやってしまうという欠点である。
こうした姿勢は、先天的であれ一時的であれ病気に冒されたものを、人間の範疇から除外して健康者
のみを人間とみなそうとする差別者の視点にほかなるまいが、この無意識の差別を弄ぶ人たちの思考は、
当然のことながら抽象的たらざるをえまい。この書物は、いま、いたるところでくりひろげられている
美しさという名の抽象を、正しさという抽象への一つの批判として提出される。そのことが、
このいささか大げさな『反=日本語論』という題名をわずかなりとも正当化してくれればと思う。」
『反=日本語論』pp.23-25
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 12:10:15 ID:lzjF4IBS
>>635 あなたはあなたが面白いと思うことを言えばいい。
あなたの言いたいことは何ですか?
文句だけ?
やはり嫉妬?www
638 :
おっさん:2007/08/16(木) 13:20:52 ID:egbYvAOk
志賀の論そのものはとてつもなく愚かなものですよね。
だから、論の内容そのものは、いくらでも馬鹿にできる。
しかし、そうした振る舞いというのは、相対的な賢さの中にある。
当然、蓮實も志賀の論を評価するはずはないと思います。
蓮實が評価するならば、相対的な賢さには理解しがたい
志賀の動物的な振る舞いでしょう。
それは、相対的な賢さからは、救いようのないほどに愚かに見える、
相対的な思考を超えた絶対的な何か。
竹馬に乗った志賀のことも書いていたように思います。
・・・こんな思考の仕方を僕は蓮實から学んだように思います。
実際蓮實が志賀についてどのように書いているのか、記憶にないのですが、
猫さんの言うようにアイロニカルなものでしょう。
しかし、アイロニカルに志賀の愚かさを否定するのではなく、
志賀の愚かさのあるその場所に賢さが届かない何かをアイロニカルに見出す、
そんな振る舞いを蓮實ならするのではないでしょうか。
相対的には圧倒的に賢い蓮實の嫌味な振る舞いだと思いますが…。
639 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 13:31:48 ID:rDMgsaju
蓮實のリアリティとは、日本語論者が捨ててしまうようなことにこそあるようだ。
その意味で、彼は決して志賀を擁護しないと思う。レトリカルなアイロニー以外では。
「われわれの周囲に裸の表層を露呈する言葉は、いま、この瞬間、美しさや醜さを超えた
生なましい現実としてあるからだ。」(同上、p.25)
言葉とは本来、
「決して正しく美しい日本語を語りはしない妻と、日本語とフランス語とを
母国語として操る子供と、母国語ではないフランス語を、家庭的な必然と
職業上の必要から語り、かつ教えつつある筆者」(p.25)
のような人のものであったはずなんですね。
はるか昔から単一民族単一言語であるという伝統を異常に形成する状況を空気とする
われわれに言葉がはたして見えるのか。
「渡来人」が日本!の中核をなしたという起源はどうなのか。
漢字→仮名が単にそれだけの借用でなく、語彙と意味は当然ながら音声や統語規則まで
大きく変容させたという起源の事実はどうなのか。
明治期、今現在使っている抽象語のほとんどが翻訳によって作られたという起源はどうなのか。
語彙だけでなく、文体や統語規則まで翻訳によって方向付けられたという起源はどうか。
明治最初の「国語教科書!」はアメリカの教科書を翻訳した異常!な文体によって誕生し、
それによって統制されることが始まったという起源はどうか。
おっちゃんは、蓮實は志賀を評価すると言いましたね。
正しさと美しさを宣揚する多くの日本語論者は結局、志賀なんですよ。
彼らにとって大事なのは「支配」なんです。本音では日本語なんてどうでもいいんですよ。
保科は戦前戦中戦後と「統制」をただただ叫びます。統制される方向に関しては
意味や価値を持ってない。だから、簡単に転向し戦後は民主的な国語へ統制しようと
絶叫し続けます。封建的な言葉遣いが残っていることを指弾します。
「正しさと美しさに対して、誤りと醜さを顕揚せんとするものではない」(P.25)
という蓮實の意図とは何か。言葉を語るものが既に言葉以外によって犯されている
と彼は言い当てています。彼が「言葉とは本質において不自然な何ものか」(P.26)だという
のはそれが本来美しさや正しさとは位相を異にするものだったからに他なりません。
たとえば、国語は方言を卑しみ憎みました。
しかし、帝国において国語を強要された半島大陸において、その国語を教える国語教師は
九州や東北出身の者が多く、誰も「国語!」を話せませんでした。日本語を母語としない
子供たちに「先生は国語を知らない!」と嘲笑されるわけです。
キツイなまりを母語とした彼らが国語を話し語る不自然さとそれを指摘する第二言語学習者の
正しさ、そのような倒錯的場面が映し出すものは何か。
「この自然さと不自然さとの大がかりなすりかえを操作するものの解明においてはほかにない。」
(P26)と蓮實はします。
おっちゃんは国語は国体であったことを強調しました。もっと、はっきり 天 皇 (制) だと
確認しておきましょうw 天皇の名において国語を強要されたんですね。
しかし、国語(学者)はその不自然さを隠蔽するための理論をいろいろ捏造します。
国粋的イデオロギーに彩られ、鬼畜米英の魂を具現化する言葉としての国語。
その理論は西洋語の分析を無理に当てはめて生まれたキメラだったんですね。
そのボスの上田の理論に苦しんだのが、帝国の最前線で国語を現実に強いる立場に
あった時枝です。
いかに国語はグチャグチャなまま今に至っているか。
国語の純化こそを叫ぶ阿呆によって日本語はどれだけ右往左往七転八倒したことか。
640 :
おっさん:2007/08/16(木) 13:42:00 ID:egbYvAOk
志賀への評価というのは、その論に対してではないのです。
愚かさへと志賀を追い立てた動物的な何かに対してなのです。
むしろ蓮實なら志賀の愚かさをより鮮明に炙り出し、
そして、その愚かさを批判することの安易に賢い連中を撃つでしょう。
「猫」さんの蓮實擁護論さえ、ナイーブな相対的な賢さに収まってしまう、
そんな嫌味なところが僕にとっての蓮實です。
641 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 13:54:44 ID:rDMgsaju
続き
おっちゃんは、国語の「統制」がその思惑通りに言っていないことに注意を促します。
私は、その逆に思惑通りではないにしても、かなり成功したのが日本だと考えます。
簡易化の流れなどは、教科書でもメディアなどでも即大きな影響をもたらします。
地方では標準語を話す人が確実に増えています。それは教育の結果ではなく、メディアに
よるものだとする者もいます。メディアとは教育の結果だし、資本の運動なんですね。
今は、方言という水平方向での差異はそのメディアによって解消されたかもしれません。
そのことの是非を論じることとは別に、メディアは垂直方向への差異を煽ります。
それは世代や格差というカテゴリーによって明らかにされたと勘違いされてしまうような
単純なものではないでしょう。
古くは丸文字、最近では携帯の絵文字や変形文字(なんて言いましたかね、わざと崩した
文字)、2ちゃん特有の言葉遣い・・・そういうローカルな差異は常に量産されています。
この新しい垂直の差異はテクノロジーの産物なんでしょうが、国語が射程においてこなかった
ものではないでしょうか。国語は方言の抑圧として(だけ)大きく機能しましたからね。
もちろん、教育の場において、そのような言語運用は厳しく戒められるでしょう。
でも、例えばテレビや電車の吊広告のキャッチコピーが”正しさ”からの逸脱によって
別の”美しさ”=新奇さを獲得しているというようなことを深く考えさせません。
もちろん、資本の運動と人間の心理に関する深い洞察まで掘り下げません。
子供の逸脱は禁じられますが、それを煽る資本の逸脱は逆に隠蔽します。
それが教育です。
その教育ですが、私は一つの方便として、一つの武器として論理を強調します。
具体的には三森らは大筋で同意です。(細かな違いは別にして)
出口らはそれまでの一つの方策としてあるかなっていう感じ。
大久保らの方向性も大筋で、イデオロギー性は別にして、同意します。
向山や西郷らも決して悪くはないでしょう。(詳しく知りませんが)
石原とは、そういうものの一つなんです、私にとっては。別にマンセーではないw
教育の場では、技術の一つとして論理的な言葉の使用、そしてそれに関わる論理的思考を
目指すべきではないでしょうか。実は、それは審議会のアピールとさほど変らないものなんです。
しかし、なぜか受け入れられないw
ここでは、言葉遣いを執拗に問うレスが無意味に繰り返されますね。
言葉遣いの問題が一般化されて問われないよう狡猾に出てきますw
ぜひ、広い問題として俎上に上がって欲しいと思います。
642 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 14:06:34 ID:rDMgsaju
おっちゃん
蓮實の賢さですか。
彼が自らを周辺に立たせたところから論を発しているのは一つの強力な戦略
でしょうね。実際、彼は東大の総長にもなったw
中心にいて、なおかつ周縁として振舞うという見えざるダブスタを抉るような
論を発する人間は少ないw
周縁にいて、中心として振舞いたい「と見えてしまう」私の滑稽さと嫌味が
招く憎悪に潜む本性を暴露することからしか、蓮實は撃てないwwww
という皮肉なやり取りが彼にはお似合い??
蓮實も柄谷も面白いし、思考の活性化にとって必要だというだけで十分
薦められるべきだと思います。
カッペはカッペとして開き直るという倒錯的美学が、例えばサヨクから出たとして、
それを発する前衛の僧侶階級としての言説の意味を問わないわけにはいきません。
やはり、いきがる程度がカッペや貧乏人には必要です。
その武器として柄谷や蓮実は実に重宝なんです。面白いし。
で、蓮實論を続行しましょw
643 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 14:21:17 ID:rDMgsaju
>動物的な何かに対してなのです。
彼が日本語をいとも簡単に捨ててフランス語を国語にしようとしたのは、
彼が自意識から小説を書き、伝統や歴史というものに価値をあまり見出して
いなかったからでしょうかね。
蓮實なら、志賀が実はそれらにズッポリとらわれていて自明性のまま気づいていない
だけのことだと言うでしょうか。
志賀批判の論者はナショナリズムというイデオロギーを隠し持って、因縁を付けている
ことを蓮實は撃つでしょうか。
志賀が動物的だとするのはボンボンの自然志向のような気がします。ガーデニング?
本当の動物性は マンマ 以外を求めません。
志賀はじつに都会的です。私の印象では。
要は上下の問題。本物のの上澄みはフランス語でいいんですよ。
成り上がりが何か意識せざるをえないものを彼はサッパリ置くことができる。
志賀とはガーデニングを自明とする上澄みに巣食う馬鹿wです。
心底うらやましい愚か者です、私にとっては。
644 :
おっさん:2007/08/16(木) 14:22:47 ID:egbYvAOk
志賀にしろ、中上にしろ、あるいは大江にしろ
蓮實が評価するのは、相対的な賢さの視野の外にある何かに対してですよね。
つまり彼らは、「理性的な人間」ではなく、「動物」だ、と。
相対的な賢さに収まってしまうことを「凡庸」と呼び、
それに対して蔑みつつ、執拗に炙り出しても見せ、愛着さえ語りますよね。
おもしろいのです。
しかし、そのおもしろさによって、自分が連れ出されている場所は?
平仮名がどうしても読めない子にどうしても教えなければならない、
そんな場面の繰り返しの中で自分は蓮實も柄谷も忘れていったのだと思います。
645 :
おっさん:2007/08/16(木) 14:44:09 ID:egbYvAOk
ボンボンなのか成り上がりなのか、
都会的なのかカッペなのか、
そうした見方も相対的なものです。
蓮實はそうした見方の「凡庸さ」をしつこく指摘し、
そこに露呈しているにも関わらず、凡庸な見方によって見えなくなっている
生生しい何かに目を向けさせます。
蓮實にとっては、志賀とは、そうした生生しい何かを露呈した言葉のことなのでしょう。
646 :
おっさん:2007/08/16(木) 15:30:03 ID:egbYvAOk
決死の覚悟で納戸の奥にある本を探してきました。
汗だくです。
『私小説を読む』は行方不明です。
『反=日本語論』はありました。
p258に「志賀直哉の自由」がありました。
647 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 16:01:56 ID:rDMgsaju
おっちゃん
そのような凡庸さの地平線上において相対的な”賢さ”が見出しものが「野生の思考」であり、
生なましさだと思います。
野生や生なましさ、それ自体は意味づけを拒否します。驚きや齟齬さえ拒否しています。
志賀や蓮實、ストロースは野生において生なましく行きてはいません。
蓮實の生なましさとは、凡庸さの果てにおいて賢さが異化させたものです。
ここで大事なのは野生でも動物でも生なましさでもない、それ自体ではないのです。
その「見出し」にだけ意味はあると思う。意味の誕生とは、知覚認識するとはそういうものです。
また、生なましさも動物的なものも実は相対的なものです。
私は最初に「多数決」を出しました。その民主的な暴力性への注意も付記しました。
単に少ないということに他なりません。他は事後的なものでしょ。
>おもしろいのです。
>しかし、そのおもしろさによって、自分が連れ出されている場所は?
>平仮名がどうしても読めない子にどうしても教えなければならない、
>そんな場面の繰り返しの中で自分は蓮實も柄谷も忘れていったのだと思います。
私の結論は意外にも単純です。
動物的だとかで、称揚されようともやはり第一に相対的な賢さをどうにかして身に付ける
ようしなくてはならないと思います。このあたりは慎重に説明しないといけないことで、
誤解曲解されるかもしれないなって。
でも、ちょっと横道に長く入りそうなので、絞って論じます。
仮名を読めない子供、それに向き合うおっちゃん、それらと全く同じ地平に柄谷も蓮實も
いるんだと思います。我々は、凡庸でかつ相対的な賢さの恩恵を存分に受け取っている柄谷たちを
イソップのキツネのように言ってはいけないと思います。
その仮名の読めない子どもを「裸の大将」のように讃えることを憎みます。
おっちゃんがそういうことをする人間だとは思いません。そういうカスがいますからね。
仮名が読めない子どもはなんとか読めるようにする。その援助をおしまない。
決して、別の意味や価値を見出してあげない!
それが大事です。柄谷や蓮實から分かることは凡庸で相対的に賢いことの重要性です。
彼らが見出した野生や奇抜さ、転倒ではなく、それの見出しを可能ならしめた凡庸なる賢さです。
私が、周縁が中心を揺るがすことの重要性を繰り返すのもこのような意味においてです。
我々周縁カッペ畜群貧乏人は、中心の意味や価値においてその中心を揺るがさないといけません。
我々は彼らの「ため」にあるのではないのです。
中心は我々を別様に見出します。それに乗じて、「同様に」中心に迫りたいというのが私の戦略です。
仮名の読めない子どもから、逆に蓮實や柄谷、あるいは志賀の相対的賢さの必要性を感じます。
ちょっとでも中心に迫るよう、心からお願いします。
別の意味や価値において転倒的させられることで満足したくはありません。
余談ですが、どれだけ勉強のできない子どもでも意外に日本語には不自由しないようになります。
それは日常生活を送る程度にです。人間の言語能力とは驚愕に値します。でも、臨界期を過ぎてから
学ぶ第二言語、具体的には英語ではその言語能力が自然には機能しません。一般学習能力との相互協力
によって進行します。社会に出る時、ABCが最後まで言えない子どもがいます。
「私は・・」を、いつまでも「My・・」とする子どももいます。で、高校卒業!です。
そういう子どもは、コンビニのバイトで宅配の処理ができず、他のバイトに任せるらしい。
簡単な計算もできない。レジは計算不要ですからね。
この世の中、いかに凡庸で相対的な賢さによって支配されているかです。
それを別の意味や価値を見出して転倒するのは欺瞞です。
転倒させるのは価値ではなく、社会の構造ですw
648 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 16:24:54 ID:rDMgsaju
>>646 納戸にあるというのはいいですね。私は以前かなり処分しました。
三分の一ほど、紐でくくってまだ置いてある。そこから、たまに引っ張り出すことが
あります。
「志賀の自由」ページ数、ありがとうございます。汗だく感謝します。
この著書でもかなり難解な箇所ですねw さっと読んだだけでは深いところでの
咀嚼はできません。
ただ、繰り返しますが、志賀もやはり凡庸な賢さの果てです。
カッペの貧乏人はフランス語を夢見ることは不可能です。
したがって、蓮實の「動物」という謂いは同じ地平でしかありません。
実際、蓮實は志賀の「動物」を、都会のボンボンのガーデニングのように
言っています。
志賀の「夢」や「自由」とはそういうものだと思ってしまいます。
自由の王国として夢想するガーデニング。。
すいません、消化不良でのリフレインです。
Nは楽しむもの。ということをわしは基本的に変えない。
たばこは体に悪い。だからといって止められない人々がいる。
Nに出会ったのが運のつきだったのかもしれない。
わしは残念ながら、笑って読める方なのでNは娯楽でしかない。
決して薬にしようとは思わないし、処方箋であるとも思わない。
今月号のVoiceで石原都知事と宮台が対談しているが、宮台は
わしの意見とほぼ同じである。守るべき日本とはパトリオット、地
域性なのだ。
カッペがカッペを止めたかったら都へ行けばいいのだ。それぐら
いの冒険はなんでもないし、都はそんなカッペで満ち溢れている。
(だけどそんなことしないのは、カッペの中の方が希少性を維持で
きるから。進学校に行った学級1番が学年100番以下になって荒れ
てしまうみたいなものだろうか。)
おっさんさん。
字の読めない子、字の書けない子に対応していくのがわしらの仕事です。
そして一般的には仕事を通じて社会に参加するようになると、仕事から世の
中をみるようになるし、判断するようになります。
それが間違いだとはわしには思えません。NAMの失敗はそれがなかったから
書生の遊びごとでは何も変わらない。切ったら血が出るのか?と問われて逃げ
出すようでは話にならないのです。
650 :
おっさん:2007/08/17(金) 00:53:36 ID:qlVYVWay
>そのような凡庸さの地平線上において相対的な”賢さ”が見出しものが「野生の思考」であり、
生なましさだと思います。
>凡庸さの果てにおいて賢さが異化させたもの
蓮實の言説の仕掛けは、それですよね。
(いわゆる「脱構築」的な思考のパターンなんだと思います。)
自らの凡庸さを忘れ賢しらに語る連中を撃ちながら、
凡庸な賢さではとらえられない何ごとかを顕揚する。
そんな蓮實の振る舞いは、凡庸を批判された者にとっては蓮實の賢さの優位を
顕揚された者にとっては賢くはない=馬鹿であることを感じさせるものです。
その嫌味が蓮實らしい。
「多数決」については、5年生の教室で次のようなことがありました。
何の役目だったか、それを1名決めることになっていました。
最初に立候補者を募ることになり、複数の者が立候補しました。
そこで、この中から1名をどのように決めるか話し合いました。
子供たちからは、「多数決」「籤引き(あるいはじゃんけん)」という方法が出されました。
それぞれの方法について話し合いをしました。
立候補した一人が言いました。
「籤引きがいい。多数決だと僕は選ばれない。」
その他、意見が出し尽くされ、どちらの方法がよいのか決めることに。
議長が「では、多数決がいいと思う人挙手してください。」と言い、
多数の子の手が挙がった時、さきほどの子が泣きながら訴えるのです。
「それだと僕はやっぱり選ばれない。」
・・・こんな時、どうしたらいいものでしょう?
651 :
おっさん:2007/08/17(金) 02:29:47 ID:qlVYVWay
猫さんも僕も「正しい日本語、美しい日本語」を信じてはいない。
「国語」なるものをめぐっては、視点が違うようですね。
>おっちゃんは、国語の「統制」がその思惑通りに言っていないことに注意を促します。
私は、その逆に思惑通りではないにしても、かなり成功したのが日本だと考えます。
二葉亭四迷は、一旦ロシア語で書いてから日本語に直して小説を書いたそうですよね。
今僕たちは、そのように書き方を意識することなく、実際このように書いています。
二葉亭にとっては苦闘しながら作り出さなければならなかったものが
現在の僕たちにとっては自然に使えるものになった。
僕にでも使えるようになったのは、学校へいき、そこに「統制」があったからでしょうね。
しかし、その自然に使える国語というものがどのようにしてできあがったのか、
そこでは「統制」は、せいぜい表記などに関する事柄でしか確実な貢献はしてこなかったのではないでしょうか。
なんだかわからないけど、いつのまにか出来上がってしまったらしい、というのが実態だと思うのです。
そん本当は定かならぬ国語によって、僕らは自然に書いたり、読んだりしているように思います。
1年生での読みでは、「すいか」を「ス・イ・カ」と読むのではなく、
「スイカ」とひとまとまりに読めるようにすることがひとつの重要な課題となります。
一字一字を拾って読む(拾い読み)だけでは、語としての意味をとらえられないからです。
そうしたことがけっこう一般的な問題となっており、学習指導要領でも学習内容とされています。
一方で、こういう子がいます。(以前も書いたかもしれませんが)
「すいか」を「スイカ」と読める。「すし」を「スシ」と読める。
しかし、「す」を「ス」とは読めない。
その子にとって、言葉とは語や文で、それ以下には分解できないのです。
音や文字の単位では、認識が成立しないのです。
「裸の大将」としてその子を見るなんて問題になりません。
また、「中心−周縁」とか「統制」とかも考えません。
何故読めないのか、どのようにして教えるか、
それについて学び、考えて教える側が賢くなるしかありません。
ただそれだけのことです。
ただそれだけのことを積み重ねていきたいと思ってもいるのです。
しかし、ただそれだけのことが底に穴があいていたり地盤が弱かったりします。
とりあえずの正しさを足場にしながら仕事をしている、そんな感じです。
「国語」、そしてその教育は、僕にとってはそのようなものです。
「統制」の強さを感じそれを解体するよりも、確かなものを構築するほうが課題だと感じています。
652 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/17(金) 10:03:49 ID:x7qWlGXz
>>650 凡庸さ、相対的な賢さ VS 野生、動物、生なましさ、表層の戯れw
前者が後者を見出しているという点がすべてです。
後者が自らを見出していません。自らを見出すのは既に前者の地平を手にしているわけです。
ストロースがブルバキのヴェイユの助けを借りた。群論だー、そんな”野生”ってww
総長はかつて正しさや美しさという権威を徹底して撃った!カックイイィーw
子どものままであるということ、これはもう恥辱であり悲劇なままです。
子どもにあえて「なる」という転倒のかっこよさは凡庸の果てにおいて相対的な賢さが最高に熟した
結果です。ピカソは12・3歳の頃、すでに写実的には完成された絵を描いたという自負を持って
いました。だからこそ、子どものような絵を描けるようになるには随分時間を要した、と言った
のがカックイイんですよね。
柄谷や蓮實のかっこよさとは凡庸さの輝きである。少なくとも同じ地平である。
私は嫌味をあまり嫌味だとは思わないようです。そういう嫌味がないものにこそ嫌味を
感じてしまいます。ここで道徳や言葉遣い「だけ」を主張するカスの嫌味は、もうホント
徹底して暴く覚悟です。
例のガーゲンの本では、現代というテクノロジーで重層的な関係を生きる我々を道徳で
縛るのは害悪だとしています。だけど、「調整」がローカルに機能する原理を簡単には示して
いません。原理論的な本だから仕方ないのかなあ。
>5年生の教室
多数決、民主制が根本に持つ暴力性を考えさせるいい機会だったことでしょう。
じゃんけん、くじ引きもまた別の暴力を持っていますね。それを対比的に考える
ことは非常に勉強になると思います。
ぜひ、偶然性を試してみてください。実験も勉強だと思います。
653 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/08/17(金) 10:05:24 ID:x7qWlGXz
>「統制」の強さを感じそれを解体するよりも、確かなものを構築するほうが課題だと感じています。
蓮實が注意を促しています。決して醜さを宣揚するものではないと。
私は「統制」を否定してアナキーなものを望んでいるわけではありません。
また破壊に価値を見出しているわけではありません。
統制や構築は何を目指すか、何を基盤とするか、そういうことが大事です。
民主的な国語が叫ばれてからも、国語とはやはり国体の国語、天皇の国語という
側面は否めません。そういう過去を現在の国語から取り除くことも現実的には
不可能でしょう。しかし、自明性に拠りかかり当然だとするのはいかがなものでしょうか。
可視化することも意識しつつ、我々の日本語を構築するべきですね。
私は指導要領を批判しますが、すべて悪いとは思っていません。審議会の委員の中には
かなりの阿呆もいるようですが、事務方すなわち官僚はバランス感覚を持ち、論理的科学的に
検討できる人間が少なくないようです。ちょっと情けないことですがね。
おっちゃんが子どもに対して「確かなものを構築」するのは、国語の習得によって天皇の赤子
になるためではないですよね。国民養成の装置でもないですよね。
共産党は何でも平和、何でも戦争反対、何でも非暴力?w・・・・
しかし、彼らは暴力革命を正当化する理論を持っているし、かつてはそういう実践?もしていた。
国語の伝統と歴史に対峙する我々の日本語を構築することは何にも悪くない。
そのためなら、教室で暴君となろうともwww
えっ、心配しなくても、数ミクロンこっちに引き寄せるだけの結果にしかならないですよ。
その数ミクロンのためには暴力革命も辞さないという「覚悟」は要る??wかも。
おっちゃんが言うように国語とは誰か一人の意図によって成る、成ったわけではないです。
たくさんのベクトルが合成された結果でしょう。その一つとして、一つのベクトルの可能性を
考えるという程度の謙虚なものでもいいでしょう。
少なくとも、合成ベクトルを自分は体現するんだというお馬鹿な頭は、その合成ベクトルでさえも
理解できないし、教えることはできないと思います。
私は、今「社会構成/構築主義」を考えます。構築!!ですよね。
654 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 19:32:06 ID:42O2GZDb
>>650 1人ずつその役に持っている意欲を言ってもらう。その後、多数決という方法を
とるようにクラスを導く。選挙ですわなw
漏れた子には1人ずつお話をする。泣いたもん勝ちも間違いだし、
やろうという意欲を「できなかった」だけでそいでしまうのも間違いだわな。
立候補する子は、みんなやりたいんだ。完全な子供任せも間違いだわ。
必要な所は、大人の意見が暗に反映されるべきだわ。それが担任のお仕事。
またでたベクトル。合成の誤謬になるからやめろそれ。
交通によって作られ、かつ交通の痕跡をそのまま保存するというわれわれのあり方が今の日本語を作った。
と考える方がわかりやすい。
日本では仏教、神道、キリスト教(バテレン)、拝火教などまったくびっくりするほど、そのままの形でうけいれ
そのまま保存しながら並存させる。
漢字の読みがいくつもあるのもそれが原因。
そのように保存して平気な<余裕>について語れるものなら語りたいが、それはどうしてかわしには分からん。
ともかくそのようにして平気なのだ。
だから方言も標準語もどっちも母語だと思えたり、日本語にだっていろいろあるとものすごく低エネルギーで
反応する。仕切りをどこかに作ろうとしたりはしない。
いろんな思惑があっても交通を遮断することも独占することもできない。教え込めばどうにかなるという発想が
間違っていた。
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 20:56:03 ID:e6Uro4zm
脇を固める人、ガンバレw
猫はいつもながらの調子だからいいとして、
おっさんさあ、猫と話かみ合ってんの?
かみ合ってるように見えんのだけど。
658 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 03:33:06 ID:Pp71ZQGg
かみ合ってはいませんね。
お互いに妙な気を使いながら、自慢話に終始しているようですしね。
659 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 09:28:22 ID:yK38zaIb
脇役いらね
ん。わし? よんだ?猫語の翻訳?いいけどお。
>>653 第二段落まで… こんなに長く書く必要はない。これは推敲が杜撰。蓮実を持ち出す意味が無い。したがってそこは
削除。私は以降が肝。なんだけど。
いいたいことがあいまい。統率を否定してアナーキーを求めるわけではなく。破壊すればいいというものでもなく。
(じゃあ何がしたいのだ。)
統率や構築は何を目指すか何を基盤にするかが大事。←まてええ。誰にとってだ。もし猫にとってなら、大事です。
ではなく、大事に考えていきたい。またはそれについて考えています。が文としては正しい。この言い切りは、あなたも
そう考えますよね。ということになる。で、何を基盤に構築するかって…社会でしょ。構築自体が社会を通じて社会を形
成するということなんだから。だから、脱社会という現象が起こってる今は、統率によって社会という基盤に載せてしま
わなくてはならないという議論も出てくるわけなんだから。
そんな当たり前のことも分からないで社会構築主義だとかいってたのか?よしんば、国語という統率が何をもたらす
かということに限ったとしても…じゃあ、何、日本語って言い換えようという主張はいい加減だったのか?ってことになる。
国語の目的や基盤が認識できているから日本語にっていえたわけでしょ。でそのような言説が以下に続くわけだが…
じゃあ今までの枕はいらない。文の無駄遣いだああ。国語国字問題を示せばよろしい。
で自明性によりかかりうんぬんとなるわけだが、教えるということがわかってない。これは正しいと思わなきゃ教えられ
ない。メタな発想として国語批判が正しいと思うから猫はここで語ってられる。国語批判批判が正しいと思う人はそれに
ついて語れるのだ。(デカルトの決断、断絶がよくわかってない。)
三段落。まったく意味がない。国語がどう形成されたのかがわからないとしながら、<構築するべき>という要請をして
いる。上からの国語作りを否定しながら…国語作りそれ自体は肯定する?バカな。で結局、上からもあり!俺が認める
ものに限りあり!俺が基準だ。ということになる。
四段落。おっさんがいったことがわかってない。そのようなイデオロギーは社会の側がもってるのだ。リテラテシー習得
の結果、どうなるのかは社会に左右される。おっさんはリテラテシーを習得させるのが仕事だっていってるだけ。
五段落。言語そのものの機能を忘れてる。言語を通じて社会的存在になるのが人間。母語ということそのものの意味。
と公用語というものの意味。わしらがやってるのはリテラテシー。文法がうんぬんという話と矛盾する。規範文法を扱う
のが学校なら、公用語のリテラテシーしかやってません。
六段落、矛盾。自分基準だからなんだろう。合成の誤謬がわかってない。
結論、ワシ好みの言語になってほしいのよ。それが正解。ってことだね。
でもそのワシ好みっていうのがどういうものなのか具体的な絵はない。というか猫の日本語がそれだとすれば、指導者
としてはそんな日本語を教えるわけにはいかない。
近代小説が日本語作りに如何に働いたかを述べた柄谷を読んでいながら、教育にものをいえばそうなるという
安易な考えがとても杜撰。
柄谷は小説は終わったといった。同じように評論も終わってる。
日本語が機能する社会からこぼれおちている人々がすごく多くなってきてるのだ。
じゃあどうするんだろうね。
ラッセルはスクールの顛末を語りながらそこで学んだことを
教育には規制が必要だと述べている。無駄ではなかった。自由を行使するためには自己規制も必要だと気づいただけ
でもとても立派である。
Nを子どもになるととらえるのは、孔子の欲するところを行って則を越えずと一緒。
子どものときにもっていて失ったものをとりもどそうと考えるなんてNは言ってない。間違っている。そのような抽象的な
子どもではない。まさに、猫がけぎらいしている存在でいい。
Nが時代の何に向けて語っているかがわかってない。知ったかぶりして何もしない知識人(力への意志の人)じゃなく
ギャング(結果すら考えないバカ)でいいといってるの。Nを持ち上げすぎなんだよ。
そういうものを排除することでかりそめの安定を図ることへの嫌悪ってことも考えなきゃいけない。
662 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 10:53:59 ID:yK38zaIb
子どものままがいいと言って規律かw
次スレを誰がどこに立てるか、ちょっと興味がわく。
>>662 わしはNは漫才のつっこみの教科書としてしか認めてない。あそこに真理を求めるのは意味の無い路線変更につなが
ると思う。
だ・か・ら・商売上も思想としても規律や基準というものを扱うわけやね。
Nをそのように読んでミソ。