735 :
ヤマさん :2007/06/02(土) 21:08:32 ID:bN5Ihn8x
>>731 「不在」は「欠席」ですか?
>キミの価値も他人とっては不在(欠席)そのもの
意味不明になります。
>>716 >じゃあさ 猫 絶望して死んだら?
>そんな個人、とっとと死ね。
☆「空」を語るならば、
>こんな書きぶりにはならない。
と思いますがいかがでしょう?
(注)猫さんにもお願いしてます。
しかし、中身が問題であって僕は枝葉を言ってるのかも
知れませんね。
736 :
ヤマさん :2007/06/02(土) 21:13:38 ID:bN5Ihn8x
学校で「徳育」ができるのだろうか?
737 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/02(土) 21:15:33 ID:lqOEw5ni
英語の悲しいところですが、そうとしか表しようがありません。 というか不在ということに哲学的意味を盛り込みすぎているのが日本語です。 不在者投票のように、投票日にはいない。くらいが他の言語での不在なのでしょう。 とはいえ英語のabsenceにも 3 [U](…の)ないこと, 欠如;不足((of ...)) ・ the absence of evidence 証拠の欠如[不十分] ・ absence of mind 放心状態 ・ in the absence of ... …がないときには;…がないので(▼しばしばwithoutの改まった表現). という意味がありますから キミの価値は 他人にとっては欠如しているといえますね。 取るに足らぬぐらいですかね。
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/02(土) 21:17:41 ID:LuwFsGOp
>736 一部はできるんじゃねーの? 学校に行っている全員がおかしくなる訳じゃねーし。 家の中とか近所の人とか友達とか先生とか習い事の先生とか あっちこっちでなんつーか、共通する事が期待されるわな。 それが徳育か?
739 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/02(土) 21:21:26 ID:lqOEw5ni
ヤマさん。 それレトリックですね。 というような反論について考慮されていないと述べたいわけです。 生きるに値しない世の中なんか肯定できない。なんて言い出すためには そのための仕掛けをしておかないと、じゃあキミなんかいらないと言われる だけだよ。社会的にキミの価値なんてそんなものだろ。という反論が待って いる。といいたいのですね。 (勿論、それまたレトリックでいいたい放題なのは認めますよ。わしは。) 世界構造は空と思うからこそ、そんなものいいに対してこっ酷い反応をするんじゃないで しょうか?キミのために世界は回ってるわけじゃないが、世界はキミさえ存在させているって ことの自覚が空でもあるわけですから。
740 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/02(土) 21:26:20 ID:lqOEw5ni
ママン 詩として読むは詩を読むじゃないよ。藁。詩じゃないものを詩を読むようにして読んでみようということだね。 キミが詩学として解説したとおりでいいんじゃないかな。 表現を中心に読み取ってみるってことだね。 とくに反対することはない。
741 :
ヤマさん :2007/06/02(土) 21:58:40 ID:bN5Ihn8x
>>739 「他人のせいにしない」って昔、小学校の先生に
言われましたけど・・・。(古いのかなぁ?)
また、自分の発言の理由を想像してませんか?
>こっ酷い反応をするんじゃないでしょうか?
当事者じゃなく、第三者になってますよ。
まあ、僕も人のこと言えたものではないですが・・・。
742 :
ヤマさん :2007/06/02(土) 22:28:46 ID:bN5Ihn8x
>>738 その>「共通する事」ってなんなのでしょうね。
それを探すのは大変そうに思えます。
強いて挙げれば、
「自分がされて嫌なことは他人にするな」でしょうか?
ん〜ん、しかし、相手が嫌なことでも相手の利益になる
場合もあるしね・・・。
まあ、何か基本がないと例外もつくれないか!
「徳育」と「国語/日本語」が結びつくとどうなるのだ
ろう?ん?もう結びついているか?
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/02(土) 22:52:02 ID:Rxz1X4Cl
あ ゴマカシ 得意w
744 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/02(土) 23:32:51 ID:UC2mnxmP
>>718 希求することと既に存在しているかのように「肯定」することは決定的に違います。
大事なのは肯定することではなく、肯定するに値する日常なのです。
745 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/02(土) 23:36:09 ID:lqOEw5ni
自分で自分を語るときは間違いしか語れません。 論理論理っていいながら、印象批評は害悪から、批評は自分を語ることに変更してきた猫が やっぱりキライなんでしょうね。 一貫してないですからね。 勿論、態度変更の意思表明がなされればいいと思いますが、猫は自分に対する批判は印象批判として 勝手に貶めていましたからね。 自分が同じようなことをする人間であった。過去の自分は恥ずかしいという人間的な対応を求めているの かもしれませんね。今のところ、わしは猫には否定的な対応しかできません。そこまで寛大ではないです。 もし30代だとしたらゾッとします。こんなお坊ちゃんな認識で30代…一体今までの人生の時間どのくらい 損をしてるのかと。 空だからこそ、原理主義にならないで自由にやればいいんです。人生なんて適当で…。 それくらいの余裕がないと結局生きていくことを肯定なんかできないと思いますよ。
746 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/02(土) 23:40:08 ID:UC2mnxmP
「あ」の馬鹿へ 要は肯定するに値する日常をいかに構築するかにかかっているわけだ。 それと京大の現代文とは無縁のトンチンカン教室は気が済んだか? お前が構築主義を理解しているわけないだろw馬鹿な上に読みもしてないんだからw それとソシュールも分かってない。 お前、丸山あたりを読んだのか? 空の話は面白くないしなー お前はemptyの意味も理解してないようだ。 おつむがemptyだからか?w
747 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/02(土) 23:40:23 ID:lqOEw5ni
>>744 そんな日常の中心には自分が必ずいるはずです。
肯定するに値する日常を作り出そうとする自分だからこそ、価値があるんじゃないでしょうか?
absence of value.
748 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/02(土) 23:56:12 ID:UC2mnxmP
>>747 >肯定するに値する日常を作り出そうとする
そうだ、既成の日常を無条件に肯定することではないよな。
>作り出そうとする
変えるということだ。終了だな。
749 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 00:02:45 ID:Qr8xy4lF
「あ」の馬鹿w >absence of value ひょっとして the value of absence か?w
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 00:56:56 ID:djI1cZGF
いや そのまんま 価値の欠如だよ。って上で辞書そのものを引用してるんだけど。 欠如の価値じゃない。 あとエンプティだと、ある容器(枠)の中が空なのであって、その容器自体の存在が前提になっている。 空き室ありは、部屋はあるってことだ。空はそういうものじゃない。まだエンプティネスの方がいいだろう。 こちらは限定的に心の空虚などを示す。空間的なひろがりなどの意味ももつ。 空集合的な使い方ならヌルの方がいいかもしれないが…空はそういうものではない。 後 既成の日常っていうのは、いつから存在するんでしょうか? はっきりいえば異議申し立てには価値を見出せますが、ヤダモン攻撃には幻滅しか見出せません。 ご自身の活動自体が構築的ではないと他人の私から見ればそう思えますが? なぜなら、構築に取り組んでいる人間は結局は周囲を巻き込まなければならず、周囲を批判してなど いたら構築なんかできないからです。構築に取り組めば、少なくとも自分の周囲は肯定しなければなり ません。 すべての位相において肯定できなければなどということを言い出すはずはありません。 (構築主義はそんなことを目指しているのではない。)
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 01:04:33 ID:djI1cZGF
752 :
良識 :2007/06/03(日) 02:52:52 ID:D29ePR7i
ここは国語教育のスレですよね。 勘違いしないでもらいたいのは、教育者は職人だということ。 職人に屁理屈はいりません。 哲学をやりたいなら、哲学者になればいいでしょう。 言語学をやりたいなら、言語学者になればいいでしょう。 自分のプロにまず徹してください。 所詮、素人は素人にすぎません。 はっきり言って、劣等感しか感じません。 もう一度、言います。 教育者は職人です。
753 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 04:06:42 ID:P2/uw8PF
職人気質の教育者って厭だな。 失敗作を庭の石に叩きつけて壊しそうな気がしねえ? 「こんなもんを、わしの名で残すわけにはいかん!」とか言って。
754 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 07:16:19 ID:djI1cZGF
学校教育の中では、児童・生徒と向き合って(理解)教えたり、指導したり(教育)一緒に 活動したりすること。が教師の仕事ですよ。 国語科に限って言えば「ことば」を知り、うまく使えるようにすること。 うまく使えるというのは、自分にとってよいことを実現させるために ことばを使えるということ。 低学年だと事実を事実、思いを思いと区分けできる。 事実の順序性を表現できる。特に名詞の語彙を広げる。 抑揚をつけたり強弱をつかたりの音声表現ができる。 できるかできないかをみることが児童理解になります。 めんどくさいので中学年・高学年・中学・高校については 割愛。
755 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 07:30:01 ID:aVcbJTpv
良識 がない
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 10:07:39 ID:Qe0eQAQT
話を読解にもどせば。 テキストを読んでテキストを批評すること、批判することには、はっきり言って意味がない。 なぜなら、犬が餌を与えられて、その餌に文句を言うようなものだから。飼い主は、まあ、 でもこれしかないからと言ってしまえば食べる食べないは犬の自由。(犬に自由があるかどう かはともかく。犬には食べないなんて選択肢はないだろう。) なぜ、テキストを読むのかが大事。自分の問題を明らかにして、その解決のために役立つの かどうかの方が批評や批判には大事。知的生産性から考えても消費そのものには意味がない。 そうなるとテキストの価値というものは絞られてくる。 1)誘発・刺激 読むとアイデアが沸いてきた。反発にしろ書く気が起きた。 2)提案 書かれていることが役に立つ気がする。何かが見えた。 3)資料 問題を考える上で大事なデーターが見つかった。 それぐらいではないだろうか?わざわざ難解なテキストでそのような価値を求めるだろうか? 社会学のプロパーでなければ構築主義的なアプローチなんかしない。 女性の職場での地位向上にはどのようなレトリックが有効でどのようなメディアで発信すべき なのかというような戦略を<ひとりで>立てるのは意味がないことだ。そもそも社会的な構造 によって自分がマイナリティを背負い権利を侵害されているなんて状況はなかなか発見でき ない。それよりも友だち関係において、パシリにされがちである。とかいう悩みの方が多いで あろう。そんなとき構築主義的アプローチはまったく役に立たない。ジュブナイルな小説の方 が役に立つ。構築主義的に世論を形成して自分の身を守るって…パシリのお前がか?無理。 野ブタをプロデュースを読んだ方がいい。(今気づいたこれのびたをプロデュースというもじ りだったんだね。どらえもんか。)
757 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 10:52:29 ID:Qr8xy4lF
>>750 「あ」 白痴満開w
>あとエンプティだと、ある容器(枠)の中が空なのであって、その容器自体の存在が前提になって
>いる。空き室ありは、部屋はあるってことだ。空はそういうものじゃない。まだエンプティネスの
>方がいいだろう。こちらは限定的に心の空虚などを示す。空間的なひろがりなどの意味ももつ。
お前は英語がパーなんだから触れない方がいいと思うんだけど。
emptyという形容詞とその派生名詞であるemptinessの意味の差異を捏造して、何をくだらんことを
言ってるんだ。お前の頭がemptyなんだよ、vacantではなくEMPTY!
>構築に取り組めば、少なくとも自分の周囲は肯定しなければなりません。
社会構成主義/構築主義のどこからそんな妄言が出てくるんだ?
お前のような白痴の妄言からの覚醒を促すのが構成主義だ。
本質主義によって実体的に前提される周囲の自明性は、歴史的文化的な特殊性を帯びて
言語的に構築されたものだということを暴露し、その隠蔽の悪徳を系譜学的に描き出すのが
構成主義だ。
お前の示すサイトを読んでも分かる。ただ、その本はいくつかのアンソロージーであって
上野編「構築主義とは何か」では、その論文すべてに言及してあるぞw
何でもいいけど、お前はもうちょっと勉強した方がいい。
上掲書、p.278
『「世界が言葉で表現されているというよりも、言葉が世界を構成しているというべきで
あろう」という野口の前提は、「言語論的転回」を経由したすべての研究者に共有されて
いる了解である。』
構成主義/構築主義が「肯定」するのは未来である。
我々にとって物質的で自然性や自明性を持っていると考えるすべてのことは言語的に構成された
ものである。従って、あらたに構成し直すことが可能となる。そのような可能性を浮き彫りにし、
我々にその力があることを積極的に 肯 定 する。
758 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 10:58:46 ID:Qr8xy4lF
>>752 お前は職人を馬鹿にしているようだ。
職人とは理論的でもあるんだぞ、今では。
ま、いい。こんな電脳空間をうろついてないで現場を回って職人に妄言を
振りまけ。ここを覗き、いい加減なことを言うこと自体が自らの信念に反する
ということくらい理解できる頭を持っても損はしないんじゃーないか?
読解も大事だけど、テキストを素材として何を語れるかという 考え方がこれからの時代では大切だ。 批評を通じてそういう力を伸ばしていく必要がある。
760 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 11:15:38 ID:Qr8xy4lF
「あ」&良識 スペック の治療を願って 上掲書p.ii-iii 『社会の構築は言語を通じてのみ行われ、そして言語こそがつねに・すでに社会的 な存在だからである。ソシュールからラカンに至る構造主義の系譜をたどれば、言語 は他者に属する。そしてその他者に属する言語に隷属することを通じてのみ、主体は 成立する。したがって主体の集合が社会を成立させるわけでもない。言語のこの媒介性 を考えれば、「社会(的な)」という用語はもはや冗長にさえ響く。社会的な構築とは 正確には言語的な構築と言い換えてもよい。』 構築主義とは、そのような他者との連帯が言語によって必然されていることが前提される。 「あ」の馬鹿が言うような無条件の肯定ではない。肯定とは、未来の他者への肯定=応答責任 であるのだ。 上掲書p.iii 『脱構築とは、構築の過程を遡及して自然視(したがって本質視)されたものを、脱自然化する 実践のことである。その過程を通じて、わたしたちは「自然」と「本質」とは、 それ以上起源をさかのぼって問うてはならない禁止の別名であることを知るのだ。』 ☆ 我々の「肯定」とは、そのような「禁止」に従うことではない。 我々は否定を肯定して生きることはできない。倒錯だ。 肯定とは、そのような禁止に抗することでしか手にできない。 上掲書p.iii 『「現実」や「実体」は、言説実践の効果であって、原因ではない。 原因と結果 cause and effect を倒錯するところに本質主義が成立する。』
761 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 11:37:58 ID:Qr8xy4lF
>>726 「あ」ハッタリ君
>ソシュールの方が遥かに前衛的です。
>ランガージュによって言語は更新されるという認識は構築主義にとっては手痛い一打
>でしょう。
お前はどこまでもパーだなw クルクルパーw
ランガージュとラングをごっちゃにしている。必要なら引用あるいはサイトで示すけどw
それから、ソシュールが分かってないようだな、すべてにおいて。一つだけ言っておこう。
(必要なら、長文でいくらでも連投する。根拠を示して)
柄谷「日本精神分析」p.27
『ソシュールが共時的言語学と呼ぶものは、言語を、そのような国家の歴史と切り離された
ものとして見ること、しかも、言語を人間にとって根源的な条件として考察することを
目指します。』
上掲書pp.27-28
『ソシュールはフランスで言語学においてすぐれた業績をあげましたが、フランスに帰化
しないと教授になれないという制度があったため、それを拒んで、ジュネーブに帰り、
そこに留まりました。(中略)
二〇世紀における帝国主義の昂揚のなかで、むしろそれに抵抗しようとした仕事なのです。』
ソシュールの仕事は「あ」のような馬鹿に憤慨するなかで行われた。
「一般言語学講義」 彼が『一般』にかけた願いとは何だったのか。
白痴スペックは先人を平気で踏みにじる。許しがたいことだ。
762 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 11:39:40 ID:Qr8xy4lF
ソシュールが明らかにしたこと。 それは国語の罪なんだよ、白痴君。 もう少し勉強したまえ。
763 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 11:47:36 ID:Qr8xy4lF
>>756 矛盾の繰り返し、さすがパー
>テキストを読んでテキストを批評すること、批判することには、はっきり言って意味がない。
>文句
これはアカンと断定して
>そうなるとテキストの価値というものは絞られてくる。
> 1)誘発・刺激 読むとアイデアが沸いてきた。反発にしろ書く気が起きた。
が目的となる。批評・批判・文句は駄目で反発は目的となるのか??
批判と批評を区別して妄言を吐くこともあるしなー
意見や感想と違うということを力説することも多い。
お前、単に「批評」という言葉に反発してるだけだろ。引っ込みがつかないからww
情けない奴やなw
☆ 文句や批判と反発の違いを説明してくれ。誤魔化さずに
764 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 11:49:52 ID:Qr8xy4lF
おっと、 >なぜ、テキストを読むのかが大事。自分の問題を明らかにして、その解決のために役立つの >かどうかの方が批評や批判には大事。知的生産性から考えても消費そのものには意味がない。 これは批評や批判を前提させた話なわけだな。 お前の目的はカッコだけじゃーなかったのか?
765 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/06/03(日) 11:53:20 ID:Qr8xy4lF
>>759 実際、大人になればそれだけが意味あるんだけどね。
「あ」の馬鹿がこだわっているのは単に私やママンちゃんに対する反抗からに
すぎないんだよ。
構造分析に文句を言うのも同じ。
とにかく、反対w
あの馬鹿は肯定しないよw
肯定を説くのにねw
馬鹿は放置して、あなたの意見を詳しく述べてください。待ってます。
反対しようにもキミには主張がないんだが…? エンプティについてはこれが正しい。という内容が無い。 つまり代案なしだ。 お前はばかだ俺が正しいという文にどれほどの根拠があるのだろう? > ことばと事物は同時に生まれる。それは正しい。だけど、そのことば を生み出し使うのは誰なのだろう?猫のことばは猫のものだろうか? そんなバカな。 本質主義だけが自明な実体を使うのではない。当の構築主義的な アプローチも十分に既にできあがった仕組みを利用している。とい うか、そんなこと本質主義も構築主義も問題にしていない。 あるレトリックが有効なのは社会的にコードが安定しているからだ。 もし一々定義し、それを広めなんてことをやっていたら大変だ。 構築主義はそのコードを利用して<再定義を求める>その運動を研究 するのだ。(構築主義は運動するわけじゃない。運動の研究をする。 日本におけるクリスマスがもっている特性がどのように生まれたのかを 研究するようなもの。)
767 :
良識 :2007/06/03(日) 13:05:08 ID:D29ePR7i
>>758 >お前は職人を馬鹿にしているようだ。
全く逆。お前を馬鹿にしているのが解らないようだ。
>職人とは理論的でもあるんだぞ、今では。
理論は後付け。理論が無くとも物は作れる。
理論があっても腕がなければだめ。
768 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 13:09:54 ID:aVcbJTpv
あ 大ざっぱに言い訳する 関係ないことは詳しく言う
テキストを素材にして何を語る?はあ? じゃあ自分が生きてる現実(それさえも構築主義的に見ればまさに テキストなんだけど。)を素材にして語ることの方が遥かに大事な 技術だろ。批評なんて好き嫌いで何でもできちゃうじゃないか。 それは印象批評だという批判は受けつけないよ。キミは十分それ をやっている。 だけど、自分の問題を論述することはそうはいかない。好き嫌い なんて言ったって何も解決しないし、解決は行動によってしかなさ れない。構築主義っていうのはじゃあそのとき、どんな物語が選択 されどのように機能させたのかっていう分析でもある。 本質主義っていうのは○○とは××であるべきっていう考え方。 じゃあ何?あのすべての位相について肯定うんぬんというのはまさに 本質主義なんじゃないの? 俺にとってはこうであって欲しいからこのように行動する。という のが構築主義だよ。つまりあくまでの自分の問題から始まる。そうで ないと正義だとかいろんなレトリックに絡め取られて本質主義になっ てしまうじゃないのさ。
どうして猫もママンも大前提が読めないんだろう。 あてがいぶちのテキストを批判したり批評したりすることなんか 意味が無いっていってるの。 自分の問題をきちんと成文化した上でテキストを探し、それと自分 との関係で行動することが大事だよ。その際に役立ちそうなテキスト の働きは三つあるといってるの。 じゃないとどうなるかって「何でも批判する」えらい人が出来上が っちゃでしょ。関係ないことは関係ない。どうでもいいといえないと だめなのよ。
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 15:37:04 ID:Qe0eQAQT
ソシュールのことは全然話にならない。 論理的であるとは、一貫した明確な主張をはっきりとした事柄の関係をもって表現することだ。 共時=社会的 通時=国家的みたいなことをいいたいのであれば、それは今まったく関係ない。 一般言語学講義という題名はソシュールがつけたものではない。なのにこれを根拠にものをいう のは事柄の押さえ方が間違っている。 ランガージュ=言語を使う能力だけが言語を更新していくのだ。使用においてしか言語というもの は更新されない。「ら」抜きことばは正しくない。けれど、「ら」抜きが当たり前になっても不思議では ない。同じ機能を別の表現が受け持っただけの話だ。 「ら」を抜いて表現することが当たり前になればそうなる。転がる石に苔は生えないということわざ がどんな概念を表すのかもまた同じことだ。 (でも、議論というものは少なくとも同じ意味でことばを使う努力をしないと成り立たない。)
ランガージュがラング+パロールで言語活動(つまり言語の使用)といわれることもある。 ずっと同じことを主張してることがわかっていただけると思う。
773 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 17:17:01 ID:aVcbJTpv
あ ハッタリw 何をグズグズしてるんだ、猫は
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 17:40:10 ID:cINvdadO
猫はタイミングをはかっているんだ。 今、495KBまで来てるから、500KB越えたあたりで、 長文の連打で、スレを終了させるつもりなんだと思う。 そうすると、相手はもう書き込めないから、猫が勝った ように見えるだろ? で書きっぱなしで逃げ切ると。 この板も520KBで終了なのかどうかはしらないけど。
775 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 17:42:31 ID:cINvdadO
776 :
ヤマさん :2007/06/03(日) 18:26:07 ID:NgTo434J
>>745 >自分で自分を語るときは間違いしか語れません。
なんのために感想文の話しをしてきたのだか・・・。
読書感想文⇒自分語りに追い込む
と「あ」さん言ってましたよね。で、これ?
>自分で自分を語るときは間違いしか語れません。
ではどうすればいいのだろう?
まあ、確かに読書感想文には「あ」さん懐疑的だった
けど・・・。
777 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 18:41:16 ID:Qe0eQAQT
ええ。自分なんかほったらかして対象について語ってるときの方が自分が出ていると思います。 読書感想文は、 ぼくは○○と思いました。っていうのはやっぱり、あなたは○○とぼくが思ったと思ってるでしょ。 とか ぼくは○○と思った。と書いておけばいいか。よくわかんない。ってことになってしまうんですよ。 そこからどう逸脱するかっていうのも、労力の割りに実りが少ないと思うし、調べたことを論理的に記述せ よとか、今体験したことを三つの段落でわかりやすく記録しろ。の方が自分が出てくると思っています。 フレームワークというかどの視点から現実をどう切り取って、どんなことばで表現するかの中に初めて 自分の哲学というものが形になっているはずです。どうしてこの授業展開になったのかと聞かれれば、 最終的には「私が授業をしているから」としか答えられないはずです。 あらためて「自分」で[自分]を語る=内省という方法。 むかでがどの足から動くのか自分の記憶から導きだそうとすることは、よくない方法です。 他人に聞けばいいのですから。
778 :
ヤマさん :2007/06/03(日) 18:46:51 ID:NgTo434J
猫さんは自覚しての確信犯だけど、
「あ」さんは?
>>745 >論理論理っていいながら、印象批評は害悪から、批評は自分を語ることに変更してきた猫が
>やっぱりキライなんでしょうね。
☆「でしょうね。」とここでも第三者話法ですね。
>一貫してないですからね。
☆これって「あ」さん自身はどうなんでしょう?
好きだとか嫌いだとかの自覚はあるようですが・・・。
これも、どうでしょうか?
779 :
ヤマさん :2007/06/03(日) 19:01:16 ID:NgTo434J
>>777 >「自分」で[自分]を語る=内省という方法
日記などをつけることによって新たな自分を発見しませんか?
文章化してみて始めて気がつくことがありませんか?
人に話すことで悩みなどが解決したりしませんか?
内省して語ることは大切でしょ!
自然主義文学から私小説への転身は意味があったと
言っていませんでしたか?
どうでしょう?
780 :
ヤマさん :2007/06/03(日) 19:14:07 ID:NgTo434J
「外なるものに自己投影して自己を見出す」ことと 「内なる自己を対象化して自己を見出す」ことは、 同時に行うべきものではないですか? いつも、自己を他者によって見出そうとするのですか? どうでしょう?
781 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/03(日) 20:53:08 ID:Qe0eQAQT
私小説は自分の内面なんか描きません。自分の周辺雑事を描くだけです。 つまり自分から見たことを書くのであって、その中に自分は含まれません。 石ばかり拾ってきて並べてしまう私だとか。哺乳瓶を暖めすぎて奥さんに叱られてしまう私 だとかを描きます。つまり写生の小説版です。(自然主義の日本版だと勘違いされてしまう ようですが。) でそれって本当はフィクションなんです。 それと、心理学的にも他者を介さなければ自己なんか発見されません。 いつの間にか自分は自分であるという内面化がされてしまうだけです。 例えば、わたしはみなさんから「あ」と呼ばれていますが、わたし自身は 検索くんになろうと思ったこともありました。 そんなわたしの考えや行動とは別にあなたたちはわたしを呼んでいますよね。 つまり自己にとって自己(自己意識)というのは他人が私をどう見てるかということ を私がどう受け止めていいるかにすぎないのです。 これを、 ある自分、あるべき自分、ありたい自分、みせたい自分の分裂として考えている 心理学者もいますね。そしてそのバランスが崩れると自分に関する病が発症する という仮説を立てているようです。
783 :
ヤマさん :2007/06/03(日) 21:37:46 ID:NgTo434J
784 :
◆yk/JpL/Z9U :
2007/06/03(日) 22:09:53 ID:Qr8xy4lF 「あ」の馬鹿へ 1)京大現代文の曲解は知らん振りか? 2)ランガージュはチョムのUGとほぼパラレルなものだ。 お前のようにごちゃごちゃにしていることを正当化する根拠を示せ。 文献資料をよろしく。 3)「一般言語学」に関する講義が行われ、その学生のノートをもとにした。 どこがおかしいんだ? 4)empty と emptiness の意味を区別する根拠は何だ? 5)当方が一貫していない点があれば詳しく論じて欲しい。 お前のように矛盾を繰り返し妄言のオンパレードはしてない。