【初心者】スレッド立てる前に質問をPart15【歓迎】
4 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 23:19:34
南極物語のタローとジローって日本に帰ってきたの?
タローは帰って来た
6 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 23:30:42
>>4 帰ってきましたよ。
タロは北大の博物館でジロは上野の博物館で今でも会えますよ。
ちなみに上野の博物館にはパンダのランランや渋谷の忠犬ハチ公もいます、
会いにいってあげてね。
7 :
4:2005/12/05(月) 23:32:25
・・・
えーと、「生きて」帰ってきました?
タロは生きて帰って来た
9 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 00:37:21
質問なんですが、歎異抄の時代とそれ以前の仏教の差を
知りたいのですが、いまいち解りません、ご教授戴ければ幸いです。
昭和33年2月悪天候のため収容できなかった南極犬15頭は
鎖につながれたまま置き去りにされた。
その翌年観測隊が基地につくとタローとジローの兄弟が現れた。
ジローは昭和35年7月南極で死亡。
タローは翌年6年ぶりに帰国した。そして北海道大学植物園で飼われ、
昭和45年8月15歳で死亡した(人間では90才ほどである)。
南極観測に参加した22頭の名前は以下。
トム、リキ、テツ、デリー、アカ、ビップのクマ、ベス、ベック、クロ、風連のクマ、
紋別のクマ、ジャック、ポチ、シロ、ゴロ、アンコ、モク、深川のモク、タロー、ジロー、
ミネ、シロ子。
11 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 00:50:51
タロ・ジロ以外の連中はどうなったんだ?
歎異抄が知られるようになったのは明治時代、であってます?
13 :
10:2005/12/06(火) 02:02:29
鎌倉時代ではないんでしょうか…明治なんですね。
とりあえず、それ以前の仏教の違いと言うか差みたいなものを
知りたいのですが、調べても解りません、解る方いたらお願い致します。
天草四郎に関連したスレはありませんか?
16 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 02:12:49
>>16 ありがとうございました。
天草四郎は世界のキリスト教から見たらどんな人なんでしょう。無名?
宗教板で聞いたほうがいいのかな?
18 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 02:33:48
19 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 06:23:16
板違いかもしれませんが・・・先祖が従四位勲四等瑞宝章をもらってるんですが、遠戚が正五位勲三等瑞宝章とあったのですが
位階と勲章の連動性は関係ないのですか?
小牧・長久手の戦いにおける徳川家康方の軍勢は1万6000人程度だったとされています。
三河・遠江・駿河・甲斐・南信濃を領有する太守でありながら、なぜ、こんなに少ない
軍勢なのでしょうか。
>>13 お調べになられる気がおありでしたら、『佛教史学研究』第21巻1号や、
『新しい歴史学のために』bP92に浄土教研究史の総括がありますが。
一般人には入手し難いのが困難。在学中の方なら、閲覧可能でしょうが。
22 :
13:2005/12/06(火) 19:41:31
皆さん助言ありがとうございます。
明日、図書室にでも行き調べてみます。
23 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 06:58:20
本居宣長、のことでお聞きしたいです。
本居宣長は、小津家の次男で、兄が死んだから、小津家を継いで
医者になったと聞いたのですが、
そしたら、小津宣長ではないのでしょうか?
いつから、本居になるのですか?
本居宣長は、ペンネーム?なのでしょうか?
24 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 11:41:34
25 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 13:26:23
日本刀に興味があるのですが、知識はありません。
もし詳しい方がいれば、これは知っていたほうがいいという名刀の
情報を教えてください。
実在した日本刀で、1番の名刀は、五大名刀に数えられる
”童子切安綱”だと聞いたのですが、この刀はそんなにすごいんですか?
日本刀といえば正宗だと思っていた自分が、恥ずかしいです
27 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 17:14:29
28 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 17:22:00
戦国武将毛利勝永の肖像画のある寺はどちらか判りますか?
池波氏の短編小説「紅炎」で「肖像画が滋賀の寺にある」と書かれているのですが
調べても判りません。
29 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 21:24:12
貝原益軒・シンユハン・雨森芳洲・アーネストサトウのうち誰かを描いた歴史小説があったら教えてください
30 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 21:34:36
戦国時代に官職を自称するのはよくあったようですが、何か基準みたいなのはなかったのでしょうか?
織田上総介の家臣が林佐渡守ってのは問題にはならないのでしょうか?
31 :
今堀:2005/12/07(水) 23:44:32
今堀地下掟の 犬かうへからす事 とういのがるのですが、そのいぬをかってはいけない理由がわかりません。
サーチエンジン、日本史サイトは一回りしたのですが見つかりません。どなたかご回答おねがいします。。。
32 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 02:39:56
旗本のある特定の家について調べたいのですが、どのようにしたらよいのでしょうか?
33 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 02:49:55
>>32 そのような質問をされても、どのようにも答えようばない。
34 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 03:04:33
従軍慰安婦は、ただの韓国人売春婦
キチ外日本兵は、偽日本兵の中国人
虐殺は、日本から金巻き上げるでっちあげ
中国、韓国側の証人は、詐欺師
その教育を洗脳するのは、日教組
日教組は、在日及び左翼
この国を食い物にしようとする宗教は創価学会
朝日新聞、TBS、NHKは創価メディア
公明党は、創価学会
創価学会は、在日多数
てかこれらは、まじだぜ ほんとにわかってるか?
いよいよ日本やばいよ、本当に
2以降は、これからの青少年にこれだけは伝えておかねば
ってことを、伝えてください
こんだけ情報操作すすむと、もー何がなんだか
わかんなくなっちゃうでしょ
韓国、中国と友好関係の前に真実だけは理解しとけ
35 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 03:13:39
36 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 14:09:24
九州地方にあった流刑地の管理をまかされた武将で〜池という武将が
いたと思うんですが、なんという武将か分かる方いませんか?
37 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 14:28:30
蒲池?
38 :
32:2005/12/08(木) 18:14:34
>>38 家名なのか家格なのか役職なのか、
最低でもその辺の情報が出ないと答えようが無いでしょ
40 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 19:44:08
>>39 調べられること全て。
出自は? どういう経緯で旗本になったか? 禄高は? 系図は?
とにかく何もかも。
42 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 20:52:53
宋書に倭王武の上奏文というのがあるが、朝鮮或いは南蛮諸国に関して
似たような感じで当時の国情を仔細に記した上表文を書いて中国の正史に
記録されてる国家とかはなかったのでしょうか?
もしないとすれば、何故日本のそういう国書だけが残ってたのでしょう?
#他の国がそういうお国自慢をしてなかったとも思われないし。
44 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 00:59:53
家康って、得川の子孫を自称したそうだが、誰それ?
日本史全く勉強した事が無いんだけど、日本史に興味あります。
やっぱり教科書を買った方が良いのでしょうか。一般書でお勧め
な本はありますか? どなたか教えてください。
47 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 12:28:13
続いて自作自演がまたまた出てきますw
48 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 13:28:48
大正さんの生母「早蕨典侍」こと柳原愛子の実家たる
柳原家の当主は今日では松平家の血統になってしまっている
と聞いたことが御座居ます。
いったい此の松平家というのは、どの系統の松平の出身で、いつから
如何様な事情で柳原家を継承するようになったのか教えて頂けませんでしょうか?
国史音痴の私にも理解出来るように易しく御教示下さいませ。
なにとぞ宜しく。
49 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 09:19:34
人の心に洪水、火事のような自然災害、または戦争、監禁、虐待、強姦といった人災によって生じる
衝撃的な傷が加えられると、心的外傷後ストレス障害PTSDになる場合があるそうですが、
と言うことは平安末期や戦国時代のように災害だの騒乱だのが多発していた時代の日本には
多くの心的外傷後ストレス障害患者がいたと推測出来るでしょうか?
本多正純について知りたいんですが最近の認識ではどうなんでしょう?
釣り天井事件はトンデモとしても
例えば福島正則改易の時も実は正則を弁護したとか
千姫事件の時も家康の意を受けて千姫の嫁ぎ先を坂崎出羽に探させたとか
何かの本で読んだんですが
とにかく家康死後は秀忠派の政敵によって潰された感じがしますが
51 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 22:14:04
やはり図書室で本が見つからなかったので
再度質問で、申し訳ありませんが
>>15さんの御返答の通りだと
江戸で再発見される以前には鎌倉時代には仏教はなかったと
考えるべきでしょうか?
もし歎異抄より以前に仏教があったら
歎異抄とどの様に違ったのか、解る方いたらご助言お願い致します。
52 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 22:25:04
53 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 22:27:26
仏教と関係があるかと思ったので…
こりゃあんまりだなぁ。
そもそも『歎異抄』は真宗の中でも重要なものではないものだった。
親鸞聖人の著作でもないし。
>>51 ていうか、まず高校の教科書でも読めよ。
歎異抄自体は蓮如が「読んだら危険。あんまり他人に読ませんな」って言ってたくらいで、
真宗や本願寺内部では昔から論争のネタとしてずーっと存在してて、
別にいつの時代に再発見されたわけでもないし。
>>50 高木昭作「出頭人本多正純の改易」(同『日本近世国家史の研究』岩波書店、1990年)
を読んでみてはいかがでしょうか?
57 :
51:2005/12/11(日) 19:05:11
とても参考になりました、あとは自力で考えたりしてやってみます
サンクスでした
58 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 19:27:11
誰か一揆研究の研究史について語ってくれ。
有名どころの論文と、おおまかな流れについて
59 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 19:29:17
>>58 ここは質問スレであって、議論スレではない。
それすらわからん奴は死ね
61 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:48:03
62 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 21:17:51
>>62 有名どころの論文と、おおまかな流れについて教えろ
てことでしょ。いちいちageてるところみると自演はおまえj
64 :
58:2005/12/11(日) 22:30:14
よそで聞いたら解決しますた。
>>59とか
>>62はとりあえず童貞捨てたほうが良いと思うよ。考え方が可笑しいもん。
65 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 23:16:49
>>63 一応ここはage基本のスレなのでageを理由にするのは可哀想かと。
66 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 00:41:26
江戸時代のことが詳しく書いてある本で何かいい本はありませんか?
67 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 02:47:30
大東亜戦争における作戦立案書って、どこかで見れない?
何の作戦でもいいんだけど。
68 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 11:31:21
このスレで自作自演してるやつって、気持ちが悪い
例の天皇オタだろw
69 :
50:2005/12/12(月) 13:29:50
>>56 さんありがとうございます。
探してみます。
70 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 16:16:14
ざーっと69件のレスを読んでみたけど、スルーされてる質問がかなり多くて笑えるな。
質問に答える能力を持った奴なんてほんの一握りで、あとは自演とそれを批判するキモメンだらけじゃねーかよおっぱい
71 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 17:23:07
確かに質問者ばかりだな。誰か勉強して回答側にまわらんと(俺除いて)
72 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 22:12:09
ねー。スレ立てる前に質問しても誰も答えてくれなかったら意味ないじゃーん、
73 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 08:03:13
大正さんの生母「早蕨典侍」こと柳原愛子の実家たる
柳原家の当主は今日では松平家の血統になってしまっている
と聞いたことが御座居ます。
いったい此の松平家というのは、どの系統の松平の出身で、いつから
如何様な事情で柳原家を継承するようになったのか教えて頂けませんでしょうか?
国史音痴の私にも理解出来るように易しく御教示下さいませ。
なにとぞ宜しく。
74 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 10:33:27
>>73 天皇オタはどうしてこのスレにしかいられなくなったの?
75 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 11:15:28
愛子の弟前光の子義光に男子がなく、大原重朝三男博光が継いだ。
博光にも男子無く、松平忠籌二男承光(霞会館理事)が継いだ。
承光も男子なく内藤政恒二男従光(宮内庁掌典職)が継いだ。従光も(ry
織田信雄が内大臣に就任したのはいつの話ですか?
また、職を失ったのはいつの話ですか?
77 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 19:55:05
善隣国宝記の復古の規法の事って、遣隋使じゃダメなの?
答えが遣唐使だったんだけど・・・orz
78 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 20:04:55
御家人って…なに?
79 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 20:24:34
伊達騒動って今どういう評価?
原田甲斐ってやっぱ悪人?
評定中に刃傷事件起こして何で仙台藩は改易されなかったの?
81 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 09:09:03
番衆ってだいぶ身分低いですか?
藩にもよるだろうけど何石くらいもらえるんでしょう。
82 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 20:42:27
助けてください。
埼玉県史31巻の総ページ数を知っている方教えてください。
何で国立に無いんだよOlZ
84 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 07:41:59
アホな質問で申し訳ないんですが、農民一揆でけっこう農民が強いときが
ありますよね??一揆は飢饉のときが多いと思うのですが腹減ってるし戦いの
専門家じゃないのにどうして善戦できるんでしょうか?
体制側に備えが無い不意打ち(奇襲攻撃)のようなものだから
人数が多いからだろ
あと略奪目的だから
87 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:36:17
>>84 ほんとにアホな質問だな。
局所的苦戦なら
どんな最強軍隊にだってありうる。
敵の弱点を適切に狙うなら
装備で劣る部隊であっても優勢に戦える。
分かったら
回線切って首でも括ってくれ。
88 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:57:46
>>84 どの時代の、どの地域の一揆を対象としたものかが分からず、また「強い」と
判断された根拠も不明ですので、これではお答え出来ません。
ただ、一揆というのは支配体制の打倒というよりは、行動を以って要求の受
理を求めたものですから(中世〜近世初期は特にそうです)、領主側も余程無
茶な内容で無い限り、受理して手打ちに到ったという事はあるでしょう。
江戸時代中期以降には、基本的に一揆に対して領主側が飛び道具を使用する
事は禁止されていました。ルール内での交渉です。
島原の乱の場合、まだ中世の残り香があった時代に、「キリシタンの容認」と
事実上の国教(というか藩教)化という無茶な要求をした為に、引くに引けな
い大事件になった訳で。
91 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:45:50
外野から失礼します。
>>江戸時代中期以降には、基本的に一揆に対して領主側が飛び道具を使用する
事は禁止されていました。ルール内での交渉です
これは幕府が禁止令を出したと言う事ですよね?飛び道具禁止令を出した理由は何でありましょうか?
やはり民衆に対する本格的な武力行使というのは今はもちろん昔も敬遠されると言う事でありましょうか?
飛び道具では死傷者が出るからではないでしょうか。
農民が死んでしまっては統治に差し障りがでますから。
日本では戦においても人口の減少を避けるため殺し合いにならないようにしていたそうです。
一回の戦に勝っても兵が多数死んだら国は滅びますし、一揆の鎮圧で農民が大量に死んでも統治はできません。
ちなみに信玄や謙信が強いと言われた理由の一つは金抗で得た資金で他国の人間を雇い兵士にした為、
兵の損耗を余り気にせず戦をする事が出来たからともいわれます。
なんにせよ、人的資源が大事だったのは確かです。
秩序というのは、武士の側が好き勝手やらかしても崩れますからね。
切捨て御免というのも自由に出来た訳でなし、出来るだけ穏便に済ませたか
ったのは、領主側も同じでしょう。
逆に言えば、発砲に到るのは余程の事です。尾を引きますし。
94 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:04:01
この板で、比較的間口の広い雑談すれを教えてください。
>>95 ありがとうございました。
とりあえず行ってきまーす!
97 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:07:59
キバヤシ「天智天皇と、天武天皇は実は兄弟じゃなかったんだ」
「なっなんだってー」
って主張をしている人がいてそのためには
天武天皇は自分は天智天皇の弟だという(その時代の人にはバレバレの)嘘をついたと言うことになるのですが
理解できないのですが、解説いただけないでしょうか?
98 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:09:18
質問です。
犬公方の綱吉公が、成長異常で身長が130cmくらいしかなかった、というのは
本当ですか?
99 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 23:21:24
質問です。英語で書かれた日本史の本、できれば通史で、
おすすめのものってありませんか?
英語しか読めない友人が趣味で日本史を学びたいということで
おすすめを私に訊いてきたのですが。
>>102 ありがとうございます。
日本で見る本と微妙に力点の置き方が違っていたりして
面白いですね。自分に買っちゃおうかな。
105 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 21:17:48
106 :
91:2005/12/16(金) 23:56:18
レスありがとうございました。
やはり支配する側も民衆と良好な関係を維持できればそれが何よりですよね。。
物凄く馬鹿な質問なんですけど…
サンキンコウタイ(漢字すら忘れてしまった)ってなんでしたっけ??
ちゃんと習ったし テストも出来てたはずなのに…脳みそって使わない事は抹消されちゃうもんなんですね…
参勤交代。
各地の大名が、国元と江戸に1年ずつ滞在する制度。
109 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 11:06:29
110 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 11:59:57
どうして2チャンがすべての人がいるんですか?
天皇オタの人ですか?
日本語
112 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 19:15:05
戦国時代以前は武田信玄などのように隠居後出家する武将というのはざらだったと思うのですが
江戸時代以降、出家した大名の話を寡聞にして聞いたことがありません。
1)江戸時代以降、出家した大名はいるのですか?(隠居後でもかまいません)
もしいたら具体的な名前もご教示下さるとうれしいです。
2)江戸時代以降出家した大名というのがいなかったとしたら
その理由は何故なのでしょうか。
113 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 20:04:16
日本にはたくさんブラジル人がいるみたいなんですが、
帝国時代に日本軍が拉致してきたんでしょうか?
114 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:28:02
>>112 こんな人もいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%85%BC 戦国は只でさえバンバン殺しあう時代だから仏道に入って罪業を贖うと
いうことがあったろうし、親子間でもそうだ。ヘタすると取り巻き同士で
存亡を賭けた御家騒動になりかねん。何しろ、隠居してもまだ家中には
いるということだからね。あとは、門徒をたくさん抱え独立勢力化していた
土地の仏教勢力と縁を持つため。
江戸時代になると殺しあう事はなくなるし跡取りは公認制。加えて幕府に
よって寺社は統制され出家する意義が少なくなったと。そもそも坊主だと
生活を楽しむことも制限されるし(w) 例に挙げた青木重兼のように、
個人的に仏門に傾倒することがなければ、敢えて出家する人はいなかっ
ったんじゃないかと。
116 :
112:2005/12/19(月) 12:05:45
>>114-115 ご回答ありがとうございました
出家する武将の減少は幕藩体制の完成に原因があるようですね
とある大名家の家系図をみていて安土桃山時代を境に
急に出家者がいなくなるのを不思議に思ったので質問いたしますた。
江戸時代に東日本では金、西日本では銀貨中心となったのはなぜでしょうか?
始まりを教えてください。
このお話のはじまりはイザナギイザナミに遡ります。
・
・
・
富本銭が(ry
119 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:14:03
質問だけど
結局なんで秀吉は兆戦出兵したの?
通説通り 明の領土を狙ったの?
120 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:18:11
>>113 「帝国時代」(日本人にしては珍しい言葉遣いだなw)に拉致も強制連行も
やったことなんてないよ
朝鮮人は勝手に来ただけ
121 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:50:11
122 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:52:52
>>120 独りだけ文章が低レベルだからみんなにばれてるんだけど、
極東板なら君も目立たないよ。
123 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:25:30
遣隋使派遣の意義とはなんだったのでしょうか。
遣唐使と比べるとやや重要性は落ちるように思いますが・・・
124 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 23:46:04
今現在、皇国史観って日本史学会ではどんな立場にあるのでしょうか?
小室直樹は平泉 澄を絶賛してますが。
>>123 結局のところ、新羅・百済を朝貢国に留める為、半島利権維持の為の交渉です。
制度・文化の取得という意味もありましたが、基本的には後の遣唐使と目的は
同じです。新羅が攻勢に出なかったら、隋や飛鳥王朝がそれからも長く続いたら、
遣唐使と同様の歴史的価値を認められた事でしょう。
126 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 14:16:19
>125
百済実在説をまだ信じているヤツがいるのか orz
×百済実在説
○百済利権実在説
129 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 20:06:18
北九州の小倉って、細川氏が来る前の戦国時代以前は、
どういう所だったとでしょうか
九州三国志は知名度低いんだなあ orz
>そもそも坊主だと
>生活を楽しむことも制限されるし(w)
当時でも生活をエンジョイしていたナマグサ坊主は沢山いたわけだが。
そうそう、小僧を寺に引き込むのに観音様がどうのこうの
大日如来のなんとかだの無理やり理屈をつけて。
おまけに引き込んだ小僧のアナルを巡って先師達がいがみ合う。
ああ嫌だ嫌だ。
134 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 14:24:24
話は変わりますが、平安時代末期の日本の勢力図を見たのですが、源氏
平氏、奥州藤原氏の三大勢力がありました。よく見てみると、今の島根県
あたりでしょうか三大勢力の支配に入ってなかったです。他の資料図を見ても
同じでした。他の別の勢力が支配してたのでしょうか?誰か知ってる方がいれば
教えて下さい。
>>117 つ【灰吹法】【石見銀山】
と書けば余りに不親切なように感じるかもしれんが、
このキーワードを調べるだけで大体判ってしまうと思う。
137 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 18:10:41
>>136 ぐぐれとか言うんだったら
最初からやめちまえこんなスレ
軍国天皇オタ君とそっくりな人が荒らしてますね
楽しいの?
139 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 21:30:06
今、戦国武将が大勢載っているスレに行きたいんですが
どなたか誘導してくれませんか?検索とかって分からないんです。
好きな戦国武将を語るスレとかでいいので、
どなたかお願いします。
140 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 21:31:42
>>138 忠告が荒らしに見えるようでは
救いようがないな
ネットより人格形成からやり直しな
141 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 21:42:29
( ゚д゚) 今日はクリスマスイヴか・・・・
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_
\/ /
 ̄ ̄ ̄
143 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 21:52:13
age
144 :
139:2005/12/24(土) 22:22:22
145 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 11:04:11
第二次世界大戦時の質問です。
米兵などは、死んだ日本兵の頭蓋骨を土産に持ち帰っていたというのを聞いたことがあるのですが、これは本当でしょうか?
それともただの都市伝説?
ただの伝説
148 :
145:2005/12/25(日) 12:08:59
149 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 13:54:19
150 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 01:48:13
質問です。
江戸の街には神田上水や玉川上水が引かれていましたが、これはただの川の水で、ろ過も殺菌もしてませんよね?
江戸市民はその水を生水のまま飲んでいたのですか?
それとも一度煮沸してから使っていたのですか?
江戸時代初期(家光の頃)について質問します。
@三味線の糸は、何が素材なんでしょうか?今と同じですか?
強度は1本何キロくらいまで耐えられるんでしょうか?
A駕篭かきは夜などに客を乗せる時、提灯を持ったりするんでしょうか?
Bこの時代に鹿威しはあったんでしょうか?
152 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 12:25:32
生水だよ
153 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 16:51:06
>>150 飲料水は井戸水。
川の水はその他の生活用水。
>>153 江戸の井戸は掘り抜き井戸じゃなくて上水を引いたものじゃなかった?
>>154 だね。
江戸は井戸を掘っても塩水しかでなかったから、
上水の整備がなされた
江戸では同じ量の水と酒じゃ酒の方が安かったとか
と言っていたのは故・杉浦日向子氏だ。
ほんまだったのかジョークだったのか。
>>151 B あった。こんな伝説がある。
添水(そうず)
詩仙堂の石川丈山の考案による添水は、僧都という人のことです。奈良時代の終わりから平安時代にかけて、
玄賓僧都という高徳の僧が天皇に召されました。しかし玄賓は名声を嫌い、奈良の「山の辺」を出て、丹波や
備中の田舎を転々とします。世間では、山田を転々とする玄賓僧都の事を山田僧都と呼ぶようになりました。
備中国・湯川寺に滞在していた山田僧都は、収穫の秋になると、農夫のいでたちで、雀やカラスを追い払い、
農民たちに大変感謝されました。「山田の案山子(かかし)」とは、案山子役のを引き受けてくれた山田僧都の
事を農民たちが親しみを込めて呼んだものです。石川丈山は、この故事により、鹿や狸を追うこの道具を、
玄賓僧都の陰徳を偲んで「僧都」と名付けました。ししおどしとも言いますが、これは昭和32年に苔寺で
同じものが作られ、「鹿おどし」と表示されて以来、拝観者の多かった苔寺での呼び名が一般化したという事です。
http://www.naruhodo-taxi.co.jp/know.htm ただこの「添水」という言葉の由来は少々難しくて…
この「ししおどし【鹿脅】」なるものを「そうづ」と呼び、この製造者玄賓僧都の「僧都」という称号をもって「僧都」と
いう表記で呼ばれ、この「僧都」と以前からあった「かがし(案山子)」の古名「そほづ()」とが結合して鎌倉時代
頃から、「僧都」と書いて二つの「そうづ」が巷に生じてきたようだ。
http://user.komazawa.com/hagi/ko_tame12.html
>>151 @ 絹糸。それも生繰糸と呼ばれる乾燥行程を省いた絹糸だ。
今ではナイロンやテトロンなどの合繊も使われるが、絹糸はまだ主流らしい。
今では太さで何号何号という規格があるので、強度は答えられん。
「必殺仕置人」の芸の検証でもしたいのかもしれんが、本気で知りたければ
実際に和楽器屋に足を運んで、古流で使う糸について訊いてみて、
ついでに一本買って強度試験してみるといい。
>>150 元々の水質が良好で、途中も上水として管理されていて、下水が混入しているとかはない
水流なら、そのまま飲んでも特に問題ない。
ただし、海外の水質の悪い場所でも、生まれたときから飲み続けている地元民は何でもない、
ということもあるから、多少は水質が悪くても慣れていれば障害が発生しないという面もある。
>>155 それは海沿いのいわゆる下町ね。
台地上の山の手は、当時の技術では手が出ないほど深く掘らないと水が出なかった。
元々水田とかがあったくらいで、川もあるにはあったけど、すぐに不足したので、
始め神田上水、後で玉川上水が追加された と。
161 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 07:55:24
質問スレがあったので、質問します
毛利元就九男秀包についてです
彼は、隆景の養子なので、隆景に対しては「兄上」ではなく「父上」って呼んでいたのですよね?
では元春に対しては何と読んでいたのでしょうか?「兄上」?それとも「伯父上」?
同母兄の元清、元政に対しては何と読んでいたのでしょうか?「兄上」?「叔父上」?
その他の兄弟は?
162 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 09:09:37
航空機や人間魚雷で体当たり攻撃を展開したのって何て言いますっけ?
それと硫黄島など各地で何による全滅を招きましたか?
163 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 11:45:31
江戸の上水路ってなかなかのできだよね
各町を網目のように網羅している
>>161 養子とはいえ基本的には形式だけのことであり、家督の相続権を得た人という意味に過ぎない。
呼称で混乱が起こるようなら秀包はそのまま「兄上」で通してただろう。面倒臭いし。
だが、1567年生まれの毛利(小早川)秀包と、1533年生まれの小早川隆景。年の差何と34歳。
こうなったら(少なくとも対外的には)「義父上」で通したほうが格好がつく気がするんで、
「義父上」で通したほうが自然なんかな。
実際にどう呼んでいたのかは知らない。
秀包から隆景に宛てた直筆の書状からしか、答えは見出せまい。
166 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 13:28:30
何で秀包は秀包なんだ?
小早川家の通字は「平」(沼田)、「景」(竹原)なんだから
「秀平」とか「秀景」の方が良いと思うのだが
秀吉から偏諱を受けた時は、隆景の養子として知られていたんだろ?
あと、秀包って一発変換出来ないから困る
>>166 よくは知らんが、大方烏帽子親が秀吉だったんで申請するのも
メンドクサかったんじゃないか?あの徳川秀忠ですら、結局は
秀忠で通したんだし。
169 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 15:52:26
>>168 秀忠の場合は
家康の「康」を結城秀康が使っていて
「家」を宇喜多秀家が使っていたから
仕方なく広忠の「忠」を使ったんじゃないか?
織田秀信、織田秀雄、毛利秀元は通字or親の一字を使っているのに
>>169 秀包の初名は元総だそうだ。通字を使っている。
それから秀吉に「秀包」って改名させられている。
171 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 20:17:43
>航空機や人間魚雷で体当たり攻撃を展開したのって何て言いますっけ?
特攻。またはスーイサイド・アタック。またはカミカゼ・アタック。
>それと硫黄島など各地で何による全滅を招きましたか?
よく質問の意味が分からんが
離島での主要敗北原因は
制海権を米軍にとられて補給も増援も途絶えた上に
兵力差もあって次々「玉砕」。
172 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 00:46:00
すみません。歴史関係の絶版書物を国会図書館で閲覧しているのですが、コピーって1回80ページと制限がありますよね。
これは、何回かに分けて1冊の本をコピーするのは可なのでしょうか?
絶版本なので古本屋にもなかなか出回ってないのでコピーしか手がありません。
歴史関係の調査をしているかたはどのようにされているのでしょうか?
>>172 そもそも国会図書館にしかその本無いの?
174 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 00:59:29
175 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:01:06
>>150 一応上水を引いた汲み井戸の下に沈殿槽のような物がありました。
健康な人は川の水をそのまま飲んでも病気にはならなかったようですが、
病人には白湯(一度沸かした水)を飲ませたりしているようなので上水は
あまり清潔ではないという意識はあったのでしょう。
トリビアとして、井戸には鯉や鮒を放していました。
井戸に落ちた虫やボウフラを食わせるためです。
176 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:01:26
どうしたら全部コピーできるかを答えてあげてから逆聞きしなよー
177 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:04:16
>>172 80ページ制限は、コピー機の専有を避けるための制限です。
178 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:27:41
著作権は口実?
一冊丸ごとコピーするのは著作権にひっかかる
つーか真面目に申告せずに何回かに分ければすむはなしでは?
(1)居住地域の自治体図書館所蔵のものなら借り出し→全コピー可能(著作権的はアウトだけど)
(2)自治体図書館でも相互貸借を申し込んで他の自治体図書館や大学図書館の本を取り寄せられた
はずだが、借り出せたかどうかは知らない。→借り出しできれば(1)に同じ。借り出せない場合も
自治体図書館の規定は国会より緩いのが通常なので、1/3までならコピーできたはず。
(3)近年は大学図書館でも地域住民に開放して貸し出しまで認めている所もあるので、そこが使えると
さらに選択肢が増える(例:
ttp://kswlib.kobe-shinwa.ac.jp/koukai.htm)。
(番外)試したこと無いので、できるかどうか分からないが・・・。
自治体図書館から大学図書館宛てに紹介状を書いて貰って閲覧する。大学によっては図書館内に
セルフコピー機が設置してあり、自由にコピーできる所がある(東大とかでかい国立大は無い所が多い)。
181 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 18:45:54
ただでさえ
コピーの濫用で貴重な本の痛みが激しいんだ。
犯罪をそそのかすようなことするなクズども。
182 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:05:56
でも自分はコピーするんだろ?それとも買うのか?
183 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 00:31:40
大阪の陣で敗れた豊臣氏の一族で、豊臣国松は殺されましたよね?
確か国松は8歳でしかなくて、まだ子供でしたよね?
日本史上に置いて、
敵将の子供が殺されるのはそう珍しい事ではないのですか?
豊臣国松以外にも、殺された子供って誰が居て何歳だったのですか?
184 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 00:33:02
185 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 01:19:25
186 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 01:22:48
鎌倉、室町、戦国時代の女性は髪を後ろにたらすか、纏めるくらいの簡単な髪形です。
これが複雑に結った日本髪に移行するのはいつごろですか?
>>187 寛文頃から
『日本髪の世界』(石原哲男著)という本に詳しい。
189 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 16:42:00
>>182 全コピーをそそのかすようなことすんなっつってんだよ。
そのくらいも理解できんのか低脳。
190 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 21:43:09
柳沢吉保ってドラマとかでよく悪の親玉として描かれますけど、史実の柳沢タンはどんな人物だったんですか?
確かに当時は生類憐れみの令やら赤穂浪士の討ち入り・打ち首やらスキャンダラスな事件があったとは思うけど、なんでもかんでも柳沢タンのせいにするのはあまりに(´;ω;`)カワイソス
191 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 22:43:27
黄門様が柳沢嫌っていたって本当?
194 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:05:30
史料を公開する場合、この板の住人としては、どんな状態が一番望ましい?
.txt? .jpg? .pdf? .html? それ以外?
195 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:41:43
日本史と関わりのある世界遺産を教えて下さい。
196 :
195:2005/12/30(金) 16:51:33
すみません。日本以外の世界遺産でお願いします。
198 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 22:13:14
一体どこの板でたずねて良いやらわかりません。
誰か少しでもわかる方に教えていただけたらと思い書き込みます。
5〜8年ほど前、京都は金閣寺に観光で訪れた際、
屋根の葺き替えをするとかで屋根となる板になんでもメッセージを書いて良いという催しのようなものをやっていました。
当時私は中学生だったため詳しい記憶がなく、
いつそれが使われ、いつ戻ってくるのか全くわからないままになってしまいました。
ところが金閣寺の屋根は、つい2年ほど前に葺き替えられているということを知り、
板に書いたという記憶そのものも怪しくなってきました。
本当に金閣寺の屋根となる板に筆で文字をかいたのか…
なにかわかる資料サイトなどわかれば教えて下さい。
もしくは、どういうカテゴリのスレで尋ねれば良いのか教えて下さい。
きっと単独スレをたてるほどのことでもないんですよね…?
201 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:09:25
大名が改易された時などに見られる「誰それの身柄は何々藩預かりとする」という裁定。
この「預かり」とはどういう内容なのでしょうか。
預かり先の大名が責任を持って処刑するとか、あるいは死ぬまで座敷牢に閉じ込めておくといった具体的な処分なのでしょうか。
または幕府が追って沙汰を示すまで管理しておけ、とでもいったことなのでしょうか。
202 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 21:00:22
>>201 管理。
命令されれば死刑の管理なども。
203 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 22:36:51
官位について質問です。
ある程度実力をつけた戦国大名が手土産持参で上洛して官位を申請した時、
信長が秀吉や光秀らに筑前守、日向守といった官位を“(私称ではなく)正式に”与えるよう朝廷に申し出た時、
また秀吉が一族や大大名たちに対し内大臣や大納言といった官位を(以下同文)時のことです。
官職には定員が決められていますが、彼ら武士に対して官職が与えられた時、同じ数だけの公家が罷免されてしてしまったということなのでしょうか。
江戸時代には「武家に与える官位は別物」となっていたようですが……。
204 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 22:39:10
こんにちは質問です。
土一揆の土ってどういう意味ですか?
土民の土
206 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 22:56:13
戦国時代にも脱走兵の追及は行われていたのでしょうか?
直属の侍大将や同郷の足軽が全滅していたら、村に逃げ帰ってもばれなさそうな気がするんですが。
>>203 そんなところ。
特に秀吉は関白太政大臣という公家のトップでもあったから。
この時勝手放題されたんで、当時公家に残されていた唯一の
特権である任免権も奪われ、公家の力はほぼ完全に殺(そ)
がれてしまった。
>>202 201ではないけど、質問です
その預けられた人間の生活費は、誰が負担するのですか?
「預かり」を引き受けた藩ですか?
大久保長安の子供たちはそれぞれ各藩に「預かり」になってその後切腹させられていますけど、
どうして幕府がまとめて処刑しなかったのでしょうか。
彼らの死の責任(祟り先)を各藩におしつけたということなのでしょうか。
210 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:58:38
>>207 質問は「代わりにクビになった公家はいたか?」だぞ。
日本語読めないなら無理に回答すんな。
211 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:10:54
>>208 藩
>>209 幕府がやるって、どこでやるんだ? 庶民と同じように、小塚原でやるのか?
江戸城内でやったら、どんだけ費用がかかるか考えろよ。
212 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 20:03:18
はじめまして。
質問させてください。
私の先祖らしいのですが、戦国時代の「和田安房守昭為」の墓ってどこにあるかご存じの方いらっしゃいませんでしょうか?
213 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 20:04:32
「和田安房守昭為」なら、近所の寺にあるかも〜
214 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 20:07:22
213>>さん、レスありがとうございます!
それはどこにあるお寺なのでしょうか…?
215 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 00:00:23
>212
切腹や斬首ってそんなに費用がかかるの?
てっきり、座敷牢に押し込めて脇差と死に装束を渡すだけかと思ってたんだけど(介錯人も必要かな)。
216 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 00:16:29
>>215 切腹させたあとは祟りがあるとして、その建物を破壊して、また建て直す。
それが物要りなんだよ。
217 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 01:14:15
>>212さんのご先祖、和田安房守て佐竹家臣の人ですよね?すごいですね。
話は変わりまして質問です。鎌倉公方や古河公方と関東管領って立場的にはどっちが上なんですか?関東管領は漠然と関東を仕切ってた役みたいに頭にあるけど、鎌倉公方とかの『公方』て将軍を指すんですよね?
織田上総介(自称)の家臣が林佐渡守(自称)ってのは、信長を馬鹿にしているとかって話にはならないのですか?
>>217 一応公方が上で関東管領はその補佐役かな?
元々は管領職しかなかったんだけど管領が公方と称してその補佐役が管領に繰り上がった
むしろ備後守を自称しなかったことの方が興味深い・・・
信長は斉藤家を憚ったのだろうか?
221 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 06:24:27
222 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 10:34:28
官位について便乗質問。
丹羽長秀が伊予守か何か、中国四国系の官職を授けられようとしていたのに断ったって本当なんですか?
それとは反対に、「他の重臣は官職をもらっているのに長秀は姓をもらうだけだった」として「丹羽長秀は軍団長クラスの重臣ではない」と主張する本を読んだのですが。
徳川家光の弟である忠長は、バカ殿だったのですか?
それとも、実は有能ながら、家光を守り立てるためにわざと記録では悪くかかれているのですか?
>>218 国としての格は上総のほうが上だし
上総守は皇族が任命されるしきたりがあったので(だから介止まり)
そういう話にはならないのでは。
225 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 17:29:22
リットン調査団の提言を無視して政府が国際連盟を脱退したのは何故?
満州事変で政府は不拡大の方針を出していたんでしょ。
満州国が認められなくて困るのは関東軍だけなんだから、
追認して国際的に孤立するような愚は犯さないと思うんだけど。
小村寿太郎元外相はポーツマス条約から帰国して暴動が起きたが、
松岡洋右元外相は国際連盟を脱退して拍手で迎えられた。
でも、後世の評価は逆。
後知恵ならなんとでも言える。
>>226 聞きたいのは一行目です。議論が目的ではないので
ご了承下さい。
>>227 世論が満州国の非承認を受け入れなかったから
230 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 22:49:10
>>225 アメリカの策略。
背後には中国とそれに踊らされた
アメリカの親中人脈が暗躍していた。
231 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 23:54:53
「〜しまいか」とか「〜やりまいか」なんてのは古語なんでしょうか?
大正時代の華族階級の生活、しきたりがわかるような
文学作品(できれば昭和以前に書かれたもので、文庫化されたもの)
ご存知でしたら教えてください。ジャンルは問いません。
よろしくお願いします。
233 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:59:59
『斜陽』
あれはあくまで太宰の空想の産物だから。
太宰の愛人って普通の人で、別に華族でもなんでもないしね。
諸兄のご教示を請います。
秀吉が関白になった理由は、「源氏でないと征夷大将軍の宣下を受けられない」
という氏族の制限だけが理由なのかどうか? というのが質問です。
以下、私の質問の内容です。
私が、「通説」として聞き及んでいるのは、以下のような図式です。
征夷大将軍職は源氏にしか宣下されない → 秀吉は、僭称ながら、平氏と称していた
→同時に宮中工作として、「母は萩の中納言という公家の娘で、秀吉は天皇のご落胤」
とかいう噂をながして、脆いながらも、関白宣下のための根拠の一つとした→
結局、関白宣下された。
という図式です。
いずかたにせよ、氏の制限により、なりたくてしかたない征夷大将軍をあきらめて
関白になった ということなんですが。。。
ちょっと腑に落ちないのは、「大政所は萩の中納言なる公卿の娘で、かつて
宮中にて尊上のおてつきとなり、身ごもったのが秀吉」などという荒唐無稽な
噂までを関白宣下の根拠の一つとしてだすぐらいなら、この根拠をなぜ
征夷大将軍宣下の根拠としなかったのかというのがひっかかるのです。
親王が征夷大将軍の宣下を受けている前例はいくらでもあると思うのですが?
どなたか、小生の蒙を啓いていただければ幸いです。 よろしくお願いします。
236 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:07:03
なんで神風特攻は世界的に有名なのに、ウラー!と叫んで突撃するのはあまり有名じゃないんですか?
237 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:14:14
質問ッス(__)。
織田信長で有名な幸若舞の一説「人間五十年 下天のうちをくらぶれば〜」の『下天』なんですが、どゆ意味ですか?『化天』ではないのでしょうか?
238 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:51:10
オランダからの風説書でアヘン戦争や欧米によるアジアの植民地化を
知ってただろうに、幕府は黒船来航するまで何の対策(軍備、外交)も
してなかったのですか?
>>235 平信長に征夷大将軍就任の勅使が下行したことはご存知かと思いますが、
征夷大将軍は源氏皇族どころか、それ以外でもなれたのです。(例:鎌倉摂家将軍)
ですから、もし秀吉が征夷大将軍を欲していたならば、いわゆる源平交代説の
尻馬に乗って平氏の末でも名乗っておけば十分でしょう。現実、秀吉は平氏を吹聴
しました。無理のありすぎるご落胤の風説を、この時点で敢えて流す必要など
ありましょうか。
1583年柴田勝家を倒してから毛利が秀吉に接近し、毛利が匿っていた義昭と秀吉は
接触を試みようとしたかもしれません。
しかし、太政大臣で信長に協力し、以後は秀吉と家康の間で立場が危うかった
近衛前久(蛇足ですが、義昭の母方の伯父でもある)の猶氏に納まり、秀吉は
1585年関白、翌1586年太政大臣に任ぜられているのです。
秀吉が征夷大将軍を望みはしたかもしれませんが、はたしてどこまで熱意があったのか
疑問が残るところです。そんなものより遥かに上の、関白太政大臣にあっさりなれて
しまったのですから。
どっちでもいいからあとを継ごうと猶子にしてくれと現職に頼んだら義昭は断り前久は受けたと
そんなところじゃない?
241 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 21:06:16
古墳時代に大王に仕えていた豪族の私有民は「かきべ」だと思うんですが漢字は「部曲」でいいんでしょうか?
242 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 21:09:00
曲部じゃなかった?ごめんわかんないわ
>>237 国語辞典
げてん【下天】
(1)天上界のうちすべてに劣っている天のこと。
(2)人間界のこと。
「人間五十年下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり(幸若・敦盛)」
244 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 23:55:38
源氏でないと征夷大将軍の宣下を受けられない
なんていう慣例は本当に存在したのでしょうか?
平安時代には帰化人系の坂上田村麻呂が任命されていましたし、頼朝以降でも藤原氏や親王が将軍になっています。
室町15代のうちにそんな慣例ができたなんて不自然に思うのですが……。
>>244 朝廷・公家にとって征夷大将軍は、いわゆる関東公方のイメージがあったと思う。
つまりは朝廷の息がかかっているアズマエビスっぽい連中に任せるべきもんだと。
権限をみる限りこれは全く正しい認識だと思う。だから源氏だったり藤氏だったり、
後醍醐天皇のように親政したければ自分の身内に就かせるもん。
加えて、源平時代のアズマエビスで朝廷に反抗的な源氏と朝廷に親密な平氏の
イメージも手伝っているのではないかな。足利尊氏も南朝にとってはあくまで
反抗者だし、京都には成り行き上、居らざるを得なかっただけだし。
要は、慣例というよりも、更に制度的拘束性の薄い「雰囲気」のレベルだったと思われ。
もし後北条氏が武田や上杉や葦名や伊達を悉く潰したら、征夷大将軍の宣下が
来たんじゃなかろうか。
>>238 アヘン戦争の結果に幕閣はかなりの衝撃を受けてたよ。
247 :
237:2006/01/05(木) 06:10:05
>>243 でしょ!?国語辞典にもwikiにも「下天」と書いてるし。
でも、以前に幸若舞の本を読んだ時には「化天」と書かれていて「化天」とは何かという注釈まで載っていたから、日本史専門家の意見はどうなのかなと思い質問してみました。
248 :
244:2006/01/05(木) 11:19:49
>245
ご回答ありがとうございます!
なるほど、朝廷としては室町の世に至っても、幕府に対して「関東の地方政権に毛が生えた程度」という認識だったと考えると分かりやすいです。
となると徳川氏の「禁中並公家諸法度」施行はものすごい衝撃だったのですね。
なまじ織田や豊臣が天皇家に対し(比較的)寛容だっただけに。
>>238 どういう本読んで、そう思ったんだか。歴史ドラマの見過ぎか?
アヘン戦争の結果を知ってたから、軽々に戦争を起こさないように
外国船打払令を緩和して、外国船が来たら薪水の補給をしてあげるよう全国に伝えてたし、
ペリー来航の7年前にもビッドル提督というのがまったく同じ目的で浦賀に来てるし、
1853年にペリーがやってくるのもオランダからの通知で知ってた。
そういう流れがあって開国を決めたの。黒船見て慌てふためいて即座に決意したんじゃない。
250 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 15:42:42
251 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 15:57:26
>>249 それにしちゃ
黒船がやってきたときだって
ろくな戦力なかったじゃんか。
今までお帰り願うことに成功してたから次も大丈夫と思ったんでしょ
254 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 17:27:28
>>251 戦力揃えようにも、当時の日本には剣と槍と火縄銃しかないじゃんか。
それとも全国の武士を沿岸に集めて土塁でも築かせるか?
そんなの何の役にも立たんのに、彼らに飯食わせる金が掛かる。
大体、英米が本気で戦争しかければ大清帝国だってひとたまりも無かったんだぜ。
国民に竹槍持たせて本土決戦しようとしてた、どっかの時代の指導者と違って、
江戸時代の幕閣の人間はそれよりは国際感覚があったという証明。
256 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 18:37:36
いきなりすいません。共産主義と社会主義との違いがわからないので教えてください(..)
>>256 社会主義は共産主義の準備段階。
資本主義→社会主義→共産主義と発展していく。
経済や生産技術が発達しきった段階で共産主義社会へ到達するとされる。
生産と配分の手段・方法を、社会の成員全体で共有するという点では同じ。
258 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 19:14:23
江戸時代の藩の区分がされている地図が載っているサイトありませんか?
>>244 というか、大将軍なんていかにも偉そうではあるけど、「軍事政権が権威付けに利用した」
から「全国を席巻した軍事政権自体が持っていた権力」と混同して錯覚しているだけで、
貴族としては下っ端の「辺境向けの使い走り」にすぎないから、「誰もが欲しがるような
高い位ではない」ということはありますよね。
260 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 04:45:06
小野妹子と遣隋使のときに一緒に帰ってきた裴世情ってなんて読むんですか?
261 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 07:16:40
もしタイムマシンがあって過去にいけるとしたら今我々がしゃべってる現代語は何時代まで通用するのでしょうか?
江戸時代は通用すると思うけど平安時代とかになってくるとどうなのでしょうか
262 :
256:2006/01/06(金) 10:07:32
263 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 10:58:40
>>261 江戸時代でも、通用しない場合もある。
ある藩では、与えられて初めての入国の際、何人かの通訳を雇った記録がある。
言葉が通じなくて、浪曲みたいに歌ってやっとか意思疎通できたとか話もあるね。
浪曲じゃなくて狂言じゃなかったかな?
266 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 17:15:49
>>266 つ 【末期養子の禁】
これの内容および緩和された経緯についてはご存知のことと思いますが、
これは大名だけに留まらず、旗本にも適用されていたのです。
>>267 な……なんと、旗本にまで適用されていたとは知りませんでした。
幕藩体制を確固たるものにするため徹底してたんですねぇ。
それで由井正雪が反乱を企てた。それそのものは失敗に終わったけれど、
幕府も方向転換を余儀無くされ、結果、末期養子の禁が緩和された……と
いうわけですね。
ありがとうございました。
>>268 旗本版武家諸法度である「諸士法度」(寛永九年(1632)制定、寛永十二年(1635)改訂、
天和三年(1683)武家諸法度と統合、廃止)に、旗本末期養子の禁を定めていた筈。
禁を解いたのは慶安四年(1651)、事件直後のことだったかと。
270 :
268:2006/01/06(金) 19:16:27
>>269 ご丁寧に補足説明ありがとうございました。
>>255 「アヘン戦争の結果に衝撃を受けた」だとか「ペリーが来るのはわかっていた」
って言っても結局根本的な対策(軍備や造船)はやってないんでしょ?
>戦力揃えようにも、当時の日本には剣と槍と火縄銃しかないじゃんか。
>江戸時代の幕閣の人間はそれよりは国際感覚があったという証明
オランダ風説書で海外の事情を知っている、海外と比較しての日本の武装の
質についてもわかっている(刀剣、火縄銃)、首脳部に国際感覚もある。
それなのに根本的対策を取らなかった幕府って・・。
>257
正確には退化です。
進歩ではありません。
273 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 20:32:47
>>271テストと同じでしょ試験日は分かっていても・・・
親が江戸時代に生まれた人物の子供ってまだ生きてる人いますか?
276 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 20:50:17
1867年生まれの男が70歳で若い女に子供を産ませたとしたら、
その子は1937年生まれということになるから、可能性はゼロではない。
277 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 20:54:29
よく読んだら、江戸時代(〜1867)に生まれた人物の子供じゃなくて、
「親が江戸時代に生まれた人物」の子供だから、高齢者にはいくらでもいるな。
>>237 >>243の(1)「天上界のうちすべてに劣っている天のこと」に注目して下さい。
下天というのは仏教用語で、元々は天(天界)の下という意味ではなく、
最下位の天(天界)という意味です。「四王天」「四天王衆天」ともいいます。
三界(さんがい)の中の欲界(よっがい)の一つ、六欲(ろくよく)天の最下位の
天で人道界のすぐ上の世界であり、須弥山(しゅみせん)の中腹にあります。
ここの主がいわゆる「四天王」。この天界の一昼夜は人間界の五十年に当たり、
住人の定命は五百歳とされています。
化天も仏教用語で、六欲(ろくよく)天の第五位、下天より一クラス上の天です。
「楽変化天」「とう利天」ともいいます。須弥山(しゅみせん)の頂上にあり、
ここの主がいわゆる「帝釈天」。この天界の一昼夜は人間界の八百年に当たり、
住人の定命は八千歳とされています。
余談ながら、信長が自称したという「第六天(悪)魔王」とは、六欲(ろくよく)天の
第一位「他化自在天」の主のことです。「魔王」「悪魔王」ともいいます。
要するに、人間の快楽欲望の総支配者のことです。
>>237 さて、信長公記らの『敦盛』では「下天」、現存する幸若舞の『敦盛』では
「化天」と書かれているそうですが、説明したように本来の意味は似て
非なるものです。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり…」という言葉も、
「化天」ならば『人生は精々五十年というが、化天の中では下天でいう
一昼夜にもならんじゃないの』という意味になってしまいますが、
「下天」ならば『人間界の五十年って、下天の中では一昼夜じゃないの』と
いう意味にもとれます。こういった解釈で意見が分かれているようです。
http://www.asahi-net.or.jp/~zb5y-wd/nobunaga.htm
280 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 21:10:56
>親が江戸時代に生まれた人物の子供
三笠宮崇仁親王
親(大正天皇)が嘉永生まれの明治天皇の子供
281 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 23:16:33
>>279さん
詳しい解説どうもありがとうございましたm(__)m。
なるほど〜専門家でも意見が分かれてるんですね。
幸若舞の底本だけではダメなんだ…日本史って難しいですね。
ありがとうございました。
>>268 直参旗本といってもどこぞの旧家や外様大名の支族は多く、
外様大名といっても幕府将軍の直臣に変わりはないのでして、
本質的には石高と格の違いでしかなかったのですから、
こういった扱いにおいて差があろうはずはないのですよ…
283 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 00:26:43
>>264 武士の共通した教養とされていた「能・謡曲」風の言葉遣い。
「これは(自分は)武蔵の国、隅田川の渡し守にて候」とか。
>>279 なるほど。
ただ、「音が同じ漢字を互換使用することがある」のは、漢字の本家である中国に倣ったのか
どうかは分からないものの、古来の風習ですので。
286 :
近代史なので板違い:2006/01/07(土) 00:55:39
>>238 だから「無能なので見限られた」わけです。
>>271 家内制手工業レベルの国が
いきなり産業革命起こった国と軍備でためを張れるレベルになれるかボケ!
しつこく粘着する前に常識でよく考えろアホ!
>>287 何を怒っているんだ。
俺はあなたを否定しているわけじゃない。
疑問や問題提起をしているだけじゃないか。
それともこのスレの流れや意見全体が自分色に染まらないと満足できない性質なのか?
「西欧が産業革命をしました」と昨日今日いきなり知って、「さぁ明日からタメを張りましょう」と
いうのは不可能かつ非現実的であり指導者に責任も問えないが、西欧の事情をオランダ風説書で
継続的に知ったうえで具体的に何もしなかったのは指導者の責任が問われるんじゃないかと
言ってるんだよ。
まぁ、
>>273 や
>>286 のような意見を言われると返す言葉もないけどね。
結局幕府は倒れたんだから。
高島秋帆や江川英龍くらい知らんのか。観音崎にも砲台あったし。
まあ、当時の日本の砲術で観音崎からいくら弾撃っても、
軍船が東京湾に侵入してきたら弾届かないのに気付いて、佐久間象山は放心するんだが。 w
大体当時はロシアによる蝦夷地への侵入のほうが重要事で、
松前崇広に松前城作らせたり、蝦夷地全部を直轄領にしたりとか大忙し。
290 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 02:43:44
薩長土肥の肥って何したの?
291 :
日本@名無しさん:2006/01/08(日) 02:48:57
パリ万博で、幕府・薩摩藩・佐賀藩が出展した。
大砲製造とかで地味に活躍してる。
言わば兵器廠だった。
目立つ人物は少ないけど軍事力は大きい。
田中光顕が80歳になってから妾に産ませた子供ってまだ生きてるんですか?
>>289 そいつらが洋学を勉強できる環境を整えたり、
列強を中心とする国際情勢を調べさせたりしたのが実は水野忠邦だってのはあんまり知られてないな。
すみません、質問させて下さい。
今年になって始まったTVCMで信長と利休がでてくるのですが、
「今年は2006年」=西暦が理解できる設定になっています。
日本に「西暦」が入ってきたのは何時ごろなんでしょうか?
ウィキでは「明治時以降に使われ始め」となっていて、
入って(知られて)きたのは何時かについては触れていません。
キリスト生誕を基準としているんだから、西暦の概念が日本に入ったのは
キリスト教が伝来してからでしょう…
>>296 ありがと。
確かにそうですね。だったら、知っていてもおかしくは無いのか…
298 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 23:47:06
西暦が定着する前は歴史を通年で表記する場合
紀元節を使ってたの?
299 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 00:08:01
300 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 00:20:25
キリスト生誕年は紀元前4〜6年頃なんだけどな。
紀元節って暦でもなんでもないがな。
戦国時代有名だった・・・武田家は幕末まで残れなかったのですか?
分家とか、何らかの形で江戸幕府には組み入れられなかったのでしょうか
教えてください・・・・m(__)m
武田フェチの家康が武田家の後胤を見つけ出さないわけがなかろう。
盲人だった信玄の次男の家系や勝頼の同母弟の仁科盛信の子とかが旗本として残ってる。
304 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 00:44:20
>>303.304
わかりました、有難うございました・・・・m(__)m
>>288 > 指導者の責任が問われるんじゃないかと
「後知恵で口先だけなら何とでもいえる」という見本。よくいるよね、この手の。
308 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 21:43:49
度量衡で、5x5x2.5分だった一升を4.9x4.9x2x7分に変更したのは誰でしょうか?
織田“三郎”信長の三郎は烏帽子名?と呼んでいいの?
310 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 01:14:54
大河ドラマ『功名が辻』のなかで、千代と一豊が初めて出会う場面で
一豊が自分の名前を砂の上に棒で「一豊」と書きましたが、
あれは「一豐」と書くのが正しいのではないのですか?
あるいは「豊」という俗字は当時すでに使われていたのでしょうか?
ご存知の方、お教えください。
>>309 烏帽子名ってのは諱のことじゃなかった?
312 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 23:41:47
山野野衾が2人いるんですが、どちらがホンモノですか?
質問です。
水戸光圀公が名君ではなく、とんでもない暴君だったという噂は本当ですか?
314 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:16:00
>>313 本当です。
放漫財政で藩財政を破綻に追い込み、領民には重税をかけ、仏教を弾圧して多数の寺院を破壊しました。
失政の責任をとらされるかたちで隠居に追い込まれています。
>>313 古文書でありさえすれば
フィクション、ノンフィクションの区別なく「ソース」にしてしまうほうが本物。
>>313 光圀が無茶苦茶したせいで、水戸藩は藩士からの借金無しでは
藩の経営ができなくなり、光圀の養子は藩主失格の烙印を押された末に、
水戸藩からは将軍を出さないという伝統までできてしまいましたとさ。テラヒドス
そりゃまー「大日本史」の編纂に藩財政の1/3を使ってたんじゃ破綻寸前までいくわ
318 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:08:47
大日本史の編纂に携わっていた助さん格さんのモデルの家臣は、
晩年不遇だったというね。
やっぱり藩財政使い込んだ事恨まれて?
319 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 01:26:40
平家物語と平治物語に描かれる頼朝の違いを教えてください。
320 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 09:37:16
学校の選択科目で日本史と世界史があるんです。日本史は漢字覚えるん大変そうやから、世界史にしようと思ってるのですが、世界史もカタカナ覚えるって大変そうなんです(>_<)どっちにしようかかなり迷ってます…どっちがオススメですか??
321 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 11:52:44
>>320 自分の好きなほう。興味の持てる方、やってて楽しい方
自分でそれだけかいてて
どっちにしろ覚えなきゃいけないことに気付かないのか?
そんなクソ低いレベルで躓いてないで、もっと先をみろ
ローマ五賢帝の名前と中国各王朝建国者の諱を言えたらほめてやる
ワンヤンアクダを漢字で書けとかいわれるとつらいね
323 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 15:32:22
324 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 15:33:15
>>317 それが水戸藩の役目だから仕方がない。
光圀が勝手に始めただけなら、ただでさえ財政圧迫しているのに、明治後期までやるわけがない。
>>323 仏教の経典とは基本的にすべて釈尊の説法を文章化しているというのが前提。
でも、実際には釈迦が死んでから何百年も経ってから作られたものもある。
また仏典がサンスクリット語が中国語に翻訳される過程で当然変化も生じる。
その流れの中で大乗仏教のような新たな解釈も生まれてくる、
また日本でも鎌倉仏教に代表されるような新たな解釈や思想が生まれている。
で、それぞれの解釈を持っている人間同士で、
オレのほうが釈迦の真意に適ってる、いやオレのほうが正しいと言い争うワケ。
こういう状況は原理主義的な立場に立てば、釈迦の真意から離れ、
勝手な解釈を追加しているだけにしか見えないわけだな。
326 :
323:2006/01/12(木) 22:16:26
>>325 なるほど、ご丁寧にありがとうございました。
加上説というのは、思い切り咀嚼して言えば「仏教徒たちは皆、勝手な加上をして
るだけじゃねぇか」という考え方なわけですね。
じゃあ、富永仲基は原理主義的な立場から、
当時の仏教や儒教を批判したのかというと、これまた違うから注意が必要。
どんな思想や宗教だって、時代の流れや社会状況の変化で、
解釈が変わるのはある意味当然なわけ。それぞれの時代で正しいことは違うんだしな。
逆に言えば、その解釈が変わっていく内容(加上の過程)を見ていくと、
それぞれの時代の社会で正しいこと、当たり前のことが見つかると考えたワケだ。
で、その方法で正しいこと、当たり前のことが見つけることができるのなら、
もう仏教や儒教なんて必要ないじゃーん。
と、とことん合理主義者だった富永仲基は考えたと。
328 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:30:01
大化の改新が645年だということはどうやってわかるの?
ソースは?
329 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:37:46
645年は乙巳のクーデターが起こっただけで、大化の改新などと呼べるものはなかった
数研チャート式日本史編者門脇禎二
(勝手な)解釈の積み上げで今の仏教があるって大きな声で言ったら、
そりゃあ仏教側も反発が来るわな。で、叩かれたと。
でもまあこういう考えは仏教側にも無いワケではなくて、
明治以降に特に思想の近代化が進んだ真宗大谷派の一部には
これに近い考えを持つ学者もいた。
あと付け加えるなら、富永仲基の話をややこしくしたのが平田篤胤で、
彼が仏教叩きのために富永仲基の考えをねじ曲げて利用したのよ。
331 :
323:2006/01/12(木) 23:27:37
>>327 >>330 ものすごく解りやすいです。どうもありがとうございました。
富永思想は想像していたよりも面白いですね。
今お話を伺った限りでは、復古神道などよりはずっと高度な思想性を持ち合
わせているようです。今度、本でも読んでみようかと思います。
宗教の解釈論は荒れる元だから
ほどほどでやめれ
333 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 12:11:33
全国で士族の子孫てどれくらいいるの?
ただし父方か母方までで。
>ただし父方か母方までで。
他に何方があるの?
335 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 12:33:07
日本史に限りませんが、高校で歴史を習って思ったんですけど、
歴史は面白いほど怖いくらいに、自分の利益しか考えない人たちによって動いてきたんですね。
〜友好条約と言っても、それは友好な関係を築くためじゃなくて、必ず裏に利己的な目的が働いています
人間はそんなもんですが、それが国家レベルでもさも当然のように行われているのは怖いと思いませんか?歴史の先生も事実は教えてくれても、そういった歴史倫理?みたいなのは教えてくれません
私は、今の世界を動かしている人間に対して、皆さんも恐怖を感じるのかどうかを聞きたいです
336 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 12:36:07
当然。国益とは他国より利益を得ること。
337 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 12:46:50
>>336 当然かもしれませんが、それが怖いとは思いませんか?
338 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 12:53:26
歴史倫理の意味が分からない。
すみません適当な言葉を書いて
歴史を学ぶうえでの倫理感みたいな…自分もよく分かりません
340 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 13:36:17
>>335 どこが怖いのかさっぱり解らん。
利益を追求するのは当たり前だろうが。
341 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 14:55:22
そうですね…首相さんたちはいつも笑顔で握手してるけど、腹ではそれぞれの思惑があるんだなと思うと、怖くないですか
ほう。人はすべて本音で話をしろと。それは画期的な意見だ。
でも、そんなことをしたら、麻生あたりはライスと会談すると
「この黒○ぼおフ○ラ豚め。日本はいつまでもお前のケツマ○コを舐めてると思うなよ」
とか言い出しそうだ。w
おめーには建前と本音の使い分けができねーのか?
笑顔=好意とかガキっぽいこと思ってんじゃねーぞ。
>>335 彼も我も人のうち。似たような欲があり、似たようなことを企み、似たようなことをする。
要は勝てるか勝てないか。それだけ。ましてや経済(商売)の世界は周囲全てが自分
から何かを吸い取ろうとたくらんでいるもの達しかいないし、相手からどれだけ利益を
得られるかが生き残る道というもの。
まぁ外交といってもいろいろさ。
文化的なものなら敵などありえないし、また経済(商売)的なものだと敵しかいない世界。
政治的なものだと、味方と敵をどう区分けし付き合うかになろう。それが複合的に絡み
あっているのが、彼らの世界。
日本は一応全包囲善隣外交というのが建前であるが、本質的には自由貿易がありさえ
すれば食っていけるという自信があり、自由貿易だけが日本が生きる道だと自覚している
からに過ぎない。日本が世界を相手に軍隊を展開したのも、本質的には貿易相手を
求める為のもの。
怖いとか何とか、馬鹿馬鹿しい。殺されたって他人なんだからどうだっていいじゃない。
345 :
342:2006/01/13(金) 15:17:34
というのは冗談にして、一応真面目な話するか。
近代国家においても、正義や倫理なんてのは国際社会での共通言語になりえない。
ってのは20世紀前半の歴史で世界が学んだ貴重な経験なの。
大体、正義や倫理なんてのは個人、社会、時代によってまったくバラバラのものだし、
(20世紀半ばには「ユダヤ人は絶滅すべし」という正義感を持った指導者まで現われた)
それよりもっとタチが悪いのは本音を隠すカムフラージュになるという点。
偽善者と銭亀の2人のタイプの人間がいたとして、どっちの人間の行動の方が予測しやすいと思う?
346 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 15:35:32
世界が複雑になる程、正義や倫理は通用しなくなって、建前が必要なんですね…
みんな必死で生きようとしてるだけなのかな。ガキな私には分からないけど、きっとこれからも分かろうとしないだろう
347 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:03:16
質問です
文献史分野の都城研究の特徴
長所と短所はどんなものがあるでしょうか?
>>346 これで最後にしとくけど、アンタがこの世界の仕組みを理解することを放棄し、
自分の幼稚な正義感や倫理の世界に今後も閉じこもることを
>>346で宣言したのと同じく、
世界中のほとんどの人間が他人にとっての正義なんて、どうでもいいと心底考えており、
それどころか自分がやった行為の延長線で、他人が自ら望まない死を迎えたとしても
まったくの無関心であるのが現実なの。結局。
そして、この現実を理解していない人間には少なくとも政治をやる資格はない。
>>348 抽象的すぎて言ってることが解りません><
350 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 19:38:21
日本史の教科書の始まりは炭素測定法やら貝塚なんかで大雑把すぎて日本史の始まりっぽくないです。
具体的に日本人が日本人として歴史を刻み始めるのは239年の卑弥呼の親書になるみたいですが
魏志倭人伝より前には日本人は歴史に登場しないのでしょうか?
神様が矛でこねくり回して地球上に日本だけを創って〜とかの神話は作り話なので除外して
歴史事実としての資料で最古の日本や日本人の登場するものがあれば教えてください。
351 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 19:42:21
中学受験する小学生でも漢書・後漢書の記述は必須なのだが
>342
>黒○ぼおフ○ラ豚
前は“ん”だろうけど後ろは?
人間はそんなものと言いながら、たくさんの人間が所属して基本的には多数の人
の意見を取り入れて運営する国と言う組織がやってるのが怖いというそのあなたの感覚が怖い。
みんな誰だって自分の身がかわいいわけだしね。それ否定するってのがどうかと思う。
まぁ、哀しい現実ながらそういうお人よしでは個人としては社会ではやっていけないわけだし。、
ただその中で、利己的な行動と取れる物が大勢な歴史の中で、他人の利益を考えた
自己犠牲を行った人やその出来事が光となってみんなの心を暖かくしたり勇気づけたりするんじゃない?
354 :
353:2006/01/14(土) 02:21:30
まぁ、それ以前に、歴史を今の価値観でというか自分自身の倫理観で裁いて、あーだこーだ言うほど自分は
聖人君子な人生を送ってるのだろうか?と思わずにいられないな。
355 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 06:57:53
いつか国境をなくしたい
結局、私は戦争を止める方法が知りたかっただけかもしれない。
さらに結局、その悪に立ち向かうことで輝こうとする自分の正義が、その方法の不在を証明した気もした。
>357
歴史の中での出来事に文句を言う前に、そもそもスレ違いな話題を自分のことしか考えずだらだらと続けて
周りに迷惑をかけてた行いを反省しろ。
文句いえないじゃんお前がw
>>357 そりゃ聖徳太子や小早川隆景だって聖人じゃない
生きる為に必死だった
360 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:09:52
江戸時代に蔵屋敷が大坂に集まった理由を教えてください。
大坂が以前から市場として売買が盛んに行われ、商業都市として栄えていた
という理由が一つだとおもうのですが、他に更に説得力のますような理由はあるのでしょうか?
幕藩体制の下では年貢を一度蔵屋敷に集めて米を売却して換金し、
それを各大名・幕府に送金するという財政制度をとっていました
幕府は江戸にあるのだから、大坂に一々送らずに江戸で換金できた方が
(又は江戸・大坂の2ヶ所に米市場があれば)都合がいいのではないか、と思いました
当時は海流と風頼みの帆船しか無いのをお忘れか?
今の地図しか見ずに語ろうとするから、ワケわからなくなる。
東北のものも北陸のものも山陰山陽のものも多くは大阪を通ってから江戸に入るの。
あと、江戸時代の商取引は現金でやっていたとでもお思いで?
米売った代金を実物の金か銀でおっちら運んでたワケじゃありませーん。
友よ、天皇陛下の御名のもと美しい日本国を築こうではないか。
.,.v-ー''″ ミ,
,,/ ,,,, ミ
.,/ ,,|||||||,, ミ.
,!′ ,,||||||||||||| .゙゙!;
ノ ||||||||||||||||| ゙`!; 日本人だけの特権!
.\., "|||||||||||||" ..ミ 世界の中心で天皇陛下万歳を叫ぶ!
.\ "|||||||" ,.,v-r|i
) "" ./ ′ .ミ,
.) .,r'′ ミ.
.゙'ー‐'¨¨″ フ∧_∧
r(,,゚Д゚)
〉日本つ
⊂、 ノ
し'
天 皇 陛 下 万 歳 !
日出づる処の極東板より
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/asia/1135328170/
363 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:47:32
豊臣秀保は戦歴はないもんでしょうか?
>幕藩体制の下では年貢を一度蔵屋敷に集めて米を売却して換金し、
それを各大名・幕府に送金するという財政制度をとっていました
初耳だの、根拠を示して頂戴。
>>365 激しく同感であるが、寝小便布団のようなAAは国辱もの、はよう始末せい。
366 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:03:36
>>361 >東北のものも北陸のものも山陰山陽のものも多くは大阪を通ってから江戸に入るの。
東廻り海運といって東北から江戸に入るルートがありました。
このことは高校の教科書レベルで載っている事項です。
それから単純に潮流にのればすぐに江戸に着くでしょ?
>>367 銚子沖には強い黒潮があるんだよってば。銚子のほうから東京湾に入るのは結構大変。
海路を安全に進むなら下田経由で東京湾に入る必要がある。
さすがに仙台〜青森までの米は東廻りだけど、これは江戸で消費されてしまう。
だから、大規模な米の商取引は自然と大坂に集中するの。
失礼します。
「検非違使」や「勘解由」なんて字づらをみると、つい暴走族の落書きを想像してしまうのですが。
実際にこれらの官名が「ケビーシ」「カゲユ」という音が元にあってそれに当て字したものであるという学説はないのでしょうか?
>>360 蔵米札とか米切手とか調べて三井。
たーーーけが。
373 :
370:2006/01/16(月) 17:14:41
>>372 そうですか。
中国に「警備士」があって、それを聞いた日本人が首都の警察に「ケビーシ」という名前をつけた可能性もあると思ったのですが。
374 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:19:16
>>373 〔警備士〕と〔検非違使〕の音が似てるのは日本語だろうが
375 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:38:10
sage←って何なんですか?よくわかりませんので理解ある方教えて下さいm(__)m
仙台人の感覚では、婦女暴行や窃盗は良いことに属するので
「強姦有理」、「一日一盗」などの慣用表現もある。
377 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 18:53:51
>>375 2ちゃんねるのスレ防御機能の一つ。
メール欄にsageと書きこむと、スレッドの順位が上がらない。
上がらないことによって、スレッドが荒らしに遭いにくくなる。
またーりスレを持続させたい時に使う。
対義語
age age推奨
age真理教の教義の一つ。
メール欄にageと書きこむとスレッドが1番上まで上昇する。
人がいなさすぎるので注目してもらいたいと思ったら使う。
大抵はage真理教信者か、荒らしが使う。
378 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 19:36:23
379 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:16:58
>>377さん
有難うございます。
これで問題が解決しました。(o^o^o)
380 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 23:10:16
質問スレは原則sageないことが了解事項になっています
381 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 00:12:45
関ヶ原の戦いより昔に、関ヶ原の場所で天下分めの戦いがあったそうなんですが
何の戦いかわかりますか?
382 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 00:50:02
時時で良いですから北畠顕家の青野原の戦いも思いだしてあげてください
>>383 ありがとうございました!
ちょっとしか見れなかったですが、わかりやすかったです
386 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 08:59:42
NHK大河ドラマで武士がヒロインの母を殺すシーンがあったんだけど
戦国時代の戦って武士以外の農民たちも簡単に殺されてるのが当たり前だったの?
>>386 あのシーンでは、女とはいえ短刀で相手に
切りかかってるから、時代とか関係なく、殺されても仕方ないと思われ。
それはともかく、当時の戦場になった農村は、略奪の対象。
抵抗すればそりゃぁ殺されたでしょうな。
とはいえ、どっちかというと、女はつかまって売り飛ばされるほうが多かったはず。
逆に「落ち武者狩り」という習慣もあって、
「戦で負けた武士に対して、農民(武士との区別も微妙だが)
が略奪・暴行・殺人を働いてもよい」というルールも存在したわけで。
例えば足利義昭もその対象になってる。
彼が落ち武者狩りにあった、というのは当時評判になったわけだから、
彼を「狩った」連中は当然「公方さま」ということを認識したうえで、
略奪を行ったわけで。将軍さまでもそのルールは厳密に適用されたわけですな。
388 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 12:01:29
池波正太郎著『戦国幻想曲』を読んでいると、阿閉〔あべ〕となっており、光栄の歴史ゲーム『信長の野望』では阿閉〔あつじ〕となっております。
正しい読みはどちらなのでしょうか?
>>388 天智天皇皇女で軽皇子らの母である阿閉皇女はアヘノヒメミコと訓む。
だからアヘ(アベ)がオリジナルと思われる。
その一方で、滋賀県伊香郡高月町(イカグンタカツキチョウ)に阿閉(アツジ)という地名がある。
浅井家の家老阿閉貞征はここを苗字としているということで、アツジと書かれているのだろう。
浅井のアサイ→アザイの読み変えに倣ったものかもしれないが、当時あの地や貞征が
アツジと呼ばれていたのかまでは、寡聞にして知らない。
390 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 15:02:49
つーかゲームに一定の信憑性を期待する姿勢ってどうよ?
ここはいつから三戦板になったのかと小1時間(ry
391 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 15:59:58
質問です。
「江戸時代」と言えば、徳川将軍が実権を握っていた時代。
「明治時代」と言えば、明治天皇が即位していた時代。
一般に、江戸時代が終わった後に明治時代が始まった事になっていますが、
大政奉還の年と明治元年の年が同じなのは何故なんでしょうか?
別に江戸時代最後の天皇のままでも良かったんじゃないですか?
それとも新時代を象徴する意味で天皇と元号をリニューアルしたかったのでしょうか?
日本の歴史上で金の亡者で有名な人っていますか?
なんと言うか、代名詞みたいな感じで。
特に目的も無いのに、ただただ金を溜め込んでいる様な人です。
辞めた会社の会長が、日経ビジネスで「趣味は金儲け」とかスッパ抜かれれて
まるであの会長は○○みたいだ、みたいな感じで皮肉りたいのでw
日本にいなければ海外の歴史上の有名人でもいいです。
393 :
392:2006/01/17(火) 16:19:43
ちなみにその会長は人材派遣会社の会長です
だから、民から不当に金をむしりとっているみないな歴史上の人物なら
なお良いです。
394 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 16:51:24
>>392 ここはお前さんの支援を晴らすためのスレじゃないぜ。
395 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 17:30:25
>>391 明治天皇の前の孝明天皇が1866年12月25日に“偶然にも”急死している
その後
1867年1月9日:睦仁親王(のちの明治天皇)践祚
1868年8月27日:明治天皇即位
1868年9月8日:明治改元
と続く
元号に関しては孝明天皇の急死がなくても新時代を象徴する意味で
リニューアルというのはあった可能性は高い
天皇のリニューアルに関しては謎
396 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:43:47
>>392 たおるる受領はつちをもつかめ
だっけ?
397 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:54:04
なるほど。回答ありがとうございます。
でも孝明天皇が急死したのは本当に偶然なのかという疑問が残りますね。
「明治天皇の方が利用しやすい」と考えた新政府の人間によって
殺された可能性なんてまさか…
ガクガクブルブル
>>397 孝明天皇の病状に関しては、かなり詳細な記録が残っていて、
その症状は明らかに天然痘によるもの。
当時から暗殺説はあったけれど、これは討幕運動が盛んであった時期の急死であることと、
孝明天皇がいったん回復しかかった後に急に病状が急変して崩御されたことからきた
噂話らしい。
天然痘はいったん熱が下がって二回目の発熱時に
呼吸不全で死ぬケースが多いので
病状としては有ってますな。
そもそも孝明天皇をたとえ殺したとしても、
その後に都合のいい状況を作れるとは限らんしな。
逆に殺したという話が漏れ伝われば、それだけで状況が反対になりかねない。
明治天皇替え玉説はさすがにお笑いネタ。
宮中の口さがない女官や公家の口を全部塞げるわけねーべ。
401 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:51:01
明治6年の政変に関して教えてください。
私は下記のようなことを原因として考えてます。。
・留守政府が新政策の実施などで使節団との約束を反故
・欧州列強と日本の国力評価の相違からくる対立
・西洋近代政治と東洋的政治哲学の対立
・長州閥の汚職問題
しかし、留守政府に用意周到な政権奪取の計画があった、
というお話しを聞いたのですが、それはどういったものなのか、
お手数おかけしますがご教授戴ければ幸いです。
また、何か良い書籍でも御座いましたら紹介してください。
>>400 どっかの大電波として、「明治天皇は孝明天皇の子供じゃない、薩長によって取り替えられた」って言う笑い話を見たことがある。
「孝明天皇の皇太子」は孝明天皇と同じ時期に暗殺(孝明天皇も)されたそうだw
404 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:33:25
鎌倉幕府の御家人として活躍した安達家はその後どうなったのですか?
元弘の乱で北条と共に滅びたのですか?
405 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:13:24
406 :
404:2006/01/20(金) 22:24:15
>>405 いや、霜月騒動後も時顕らが残ってるじゃん?
んで時顕死んだ後、高景はどうなったか
また、庶家はどうなったかってこと
戦国時代の兵農分離って身分制度ですか?
>>407 実際には人員構成が常時流動化していたので、身分制度というより専業化制度。
409 :
日本@名無しさん:2006/01/21(土) 02:48:20
>>392 ちょいと大店の主だったら、一昔前ならケチなのが当たり前のコンコンチキ。
ですからして歴史上の有名人など居る筈もないんでがんす。
落語には、ケチを喩えた言葉がとても多いでがんす。
ちょいと文化人を気取って、適当に言葉を捜し使ってみては如何かと。
410 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 05:48:59
徳川将軍の列伝には「徳川十五代史」がありますけど林大学頭の列伝というのはあるんでしょうか?
411 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:44:19
質問します。
大河ドラマ「功名が辻」の第1回目で
いわゆる「今川義元の上洛戦と桶狭間の闘い」をやっていましたが
あれは最近の説では上洛ではなく
単なる遭遇戦だったとも聞きました。
現在ではどちらの説が優勢なんですか?
412 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 19:46:30
院庁下文と院宣の区別が用語集ではどうも釈然としません。
この間テストで<院庁の職員が上皇の命令を奏して出す文書は
何か?>と出題されて、院庁下文と書いて間違えました。
どの点に着眼すれば明確に区別できますか?宜しくお願いします。
413 :
392:2006/01/21(土) 21:43:01
>>409 うーん、俺の知識ではうまい言葉が見つからないなぁ・・・
派遣会社の会長だから、代わりに世界史の板あたりで
有名な奴隷商人でも聞いてみるか。
414 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 21:43:01
生きているうちに正一位の官位をもらった人はいるのですか?
415 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:32:59
416 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 02:26:10
米軍の空襲で被害を受けた日本の伝統建築などの文化財は500近くにも
上ると聞きます。これらのうち何割ぐらいが修復や再建できたのか?
また完全に失われたのは何割ぐらいなのでしょうか?
有名な話では大阪城などは鉄筋コンクリートで再建されたと聞きましたが。
詳しくお知りの方、もしくは詳しいサイトを知っている人がいましたら
是非おしえてください
>>416 文化庁編 『戦災等による焼失文化財―20世紀の文化財過去帳』 戎光祥出版 2003/11
ISBN: 4900901342
図書館などで捜してみれ
>>417 ありがとうございます。
そちらの本探してみます
どうも!
420 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 12:42:17
織田信長と宣教師ルイス・フロイスが謁見したとき何語で話したのか教えていただけませんか?
前に日本語の話せる黒人が通訳したと聞いたのですが本当でしょうか?
421 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:39:11
織田信長の七男・信高は、千石(のち二千石に加増)の旗本だったそうですが、信長の弟・信行の玄孫・信高は、禄高いくらの旗本だったんでしょうか?
422 :
421:2006/01/22(日) 19:47:27
玄孫じゃなくて、曾孫だった……orz
423 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:55:20
足軽大将や侍大将など戦国の軍位てどんなのがあって役割はなんですか?
424 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 19:55:55
425 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 20:58:31
日本史A と 日本史Bってどう違うの??
426 :
404:2006/01/22(日) 22:28:27
>>425 確かAはやや近現代重視だったはず
医学部とかはAは選択出来ない大学が多いので要注意
>>all
出来れば404お願いします
それか、そういうことが書いてある本を紹介して下さい
調べてみると泰盛や顕盛の兄弟に時盛というのがいて
時盛―時長―師之―師長―長盛―盛行
世代的に室町まで生きていそうですが、どんな人かは知りません
427 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:39:04
どなたか
これ教えてください・・お願いします
孝明天皇から明治天皇への代替わりは幕府に対してどのような政治的影響を与えましたか。
以下の観点をふまえ、プラス面、マイナス面の両面から説明しなさい。
1、孝明天皇の遺命 2、摂政の設置 3、大赦の実施
428 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 03:03:07
孝明天皇の遺命を継ぎ幕府を武力成敗しようと明治天皇および薩長は考えたが、
制度上「政治を一任」されている幕府が、天皇がまだ若いことを理由に摂政を設置
天皇が成長し、改めて武力行使されるのを恐れた幕府の大政奉還を促した。
その後、徳川家に出された大赦により、武力行使を阻止された薩長の一部士族の不満が引き金となり
各地で士族による反乱が相次ぎ、最後には西南戦争へと続く一連の政治不安を引き起こした。
>>427 わかったか。
430 :
427:2006/01/23(月) 11:44:44
431 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 14:32:52
こんな解答バツですが
432 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 15:01:04
問題自体がおかしいような
434 :
ぴかちゅう:2006/01/25(水) 12:49:38
今海外の大学に留学していて、
今回日本史のペーパー(15枚)書かないといけなくなりました。
1600年以降の日本史で、15枚書けるようなトピックって
何か無いでしょうか・・・?英文の資料を多用できるトピック
が良いのですが、、、、
>>434 英文の資料を多用したいのなら、幕末の日米外交交渉やその前後の逸話しかないんじゃないか。
「この頃、アメリカから○○が渡来しました」というテーマなら、書いてて面白いかもよ。
436 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 13:45:36
>>429 >孝明天皇の遺命を継ぎ幕府を武力成敗しようと
>明治天皇および薩長は考えたが、
孝明天皇は死ぬまで佐幕派。
明治天皇は発言権なし。
>徳川家に出された大赦により、武力行使を阻止された薩長の一部士族の不満が引き金となり
>各地で士族による反乱が相次ぎ、最後には西南戦争へと続く一連の政治不安を引き起こした。
士族の反乱の原因としては全く見当違い。
西南戦争の原因も違う
自作自演の○○ですかw?
軍事評論家の毛利元貞って、毛利元就の子孫?
>>436 ねただよぅ。
宿題として提出して怒られれば、
427も自分の頭で考えるようになるかなと。
それはそうとして、俺も427って言うか、摂政がどう影響したのか教えてほしい。
>>427はさすがに高校生ではあるまい。
おそらくは大学の講義のレポートの題なんだろう。
とすると、ここまで限定的かつ、文脈も読めるような
課題ならば、きっと講義の内容そのものを書けば
いいもんだと思うんだな。
つまり、
>>427がノートをきちんととっていれば、
必ずそこに正解があるはずとみたのだが、
なんで427はここで正解を聞いたのだろうか。
個人的にはその理由に興味がある。
440 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 00:38:32
>>434 日露戦争外交とかなら軽く書けるだろう。
442 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 08:47:51
>>439 もし大学のレポートなら
教授の考えと逆の答えを書いてみるのもいいぞ
443 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 13:52:07
>>441 俺受験生だけど東大でもさすがに
摂政の設置・大赦の実施、なんかきかない
444 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 13:59:52
もしかして、「摂政の廃止」の間違いじゃないか?
445 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 14:02:43
いや、太政官制を復活させるわけだから廃止はないんじゃない?
大体昭和天皇は虎ノ門事件の当時摂政の宮じゃん
446 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 15:19:19
明治維新での廃止は関白
摂政は皇室典範にも入っている
447 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 16:13:57
王政復古の大号令で摂関は廃止されてる
448 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:50:14
北条時頼と関係のない語句を選べ、
@宝治合戦A宗尊親皇B京都守護C寄合
と言う問題の答えはBでした。
寄合と時頼ってどーゆー関係があるんですか?
京都守護のが寄合よりよっぽど関係ありそうに思うんですけど…
449 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:52:32
450 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:43:15
宇喜多直家が備中や美作を支配してた三村の軍勢2万を破ったと聞きましたが…
三村の時代の備中や美作あたりに2万も兵がいるとは思えません。ガセネタでしょうか?
451 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:12:56
数は大袈裟に言うもの。
452 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:42:36
>>449 あ〜、そうでした!
がっつり忘れちゃってました。
どうもありがとうございますm(__)m
453 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 20:30:21
前から不思議に思っていたんだが、織田信長や徳川家康、明智光秀、源頼朝
などは授業(社会科、歴史、日本史)実名で教えられるのに、坂本龍馬は何故
通称で教えられるんだ? 博学の士よ、教えてくれえ。
454 :
453:2006/01/27(金) 20:34:56
訂正
授業(社会科、歴史、日本史)→授業(社会科、歴史、日本史)で
才谷屋の梅太郎と言えば満足かね。
>>453 聞いた話によると、
(苗字)(字)(諱)か
(苗字)(官位)(氏)(姓)(諱)
が正式な名乗りで、
(苗字)(諱)は明治以降らしい
木下秀吉→木下藤吉郎秀吉
吉川元春→吉川駿河守藤原朝臣元春
Wikiによると龍馬は坂本龍馬直柔(何て読むんだ?)
字で呼ぶか諱で呼ぶかは後世の人が勝手に決めたのでは?
457 :
453:2006/01/27(金) 21:12:58
>字で呼ぶか諱で呼ぶかは後世の人が勝手に決めたのでは?
その基準が知りたい。
458 :
456:2006/01/27(金) 21:23:17
459 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:32:52
ホリエモンを歴史上の人物に例えると?
ってなスレありますか?
いざ鎌倉の招集範囲って、どこからどこまでですか?
>>457 勝海舟とか号が通っている例も少なくないし、宗教家は俗名ではない法名が通っている
ほうが普通なのだから、「学識経験者が通りの良い呼び名を選んでいる」としか考えられない。
462 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 02:27:10
463 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 07:04:53
464 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 13:35:45
「日本」がなんで「ジャパン」なの?
465 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 14:27:48
>>464 「日本」という漢字の「伝わった当時の中国語の発音」がアルファベット向きに若干訛ったもの。
466 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:52:28
初心者です。携帯でスレ立てられますか?
戦国時代、及び江戸時代などにおける「秒」「分」の単位は、どういったものなんでしょうか?
干支と上刻・下刻 というのを組み合わせる、というのは調べたのですが…
469 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 02:19:00
470 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 02:43:08
私的な事ですが、とある新聞の連載小説が面白くはまりました。君達も読むようにしてくれ!
知 識 欲
【アペタイトの男】
小説・大隅 重信
山崎 光夫
現在第六話です。
話しのは幕末期の若者知識欲が高い話し 【佐賀藩出身武士 小出 千之助】が帰ってきたと話しが続く・・・・・
小出 千之助 は佐賀藩始まって依頼ね秀才といわれ評判の高い人物だった。
この小説面白いから読めよ!
作家:山崎 光夫
新聞連載
知識欲【アペタイトの男】
小説・大隅 重信
【小説家:山崎 光夫】
おめぇらも読めば必ずはまる
>>467 分とか秒とかいう単位自体は、1日を24時間に等分する「いわゆる西暦」の系列では?
また、時間を分秒単位でなるべく正確に測定する必要が生ずるのは、外洋航海のときに
天測では分からない経度をなるべく正確に知る目的だろうから、いわゆる鎖国時代の
日本ではお呼びでなかったんじゃないかな?
472 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 03:40:18
時代小説とかに、よく出てくる「うりざね顔」と言うのは、どんなかをナノでしょうか?
473 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:44:30
>>472 うりざね-がお ―がほ 0 4 【▼瓜▽実顔】
(瓜の種の形に似て)色白で鼻筋が通り、やや面長な顔。美人の一つの型とされる。うりざね。
474 :
472:2006/01/29(日) 03:52:38
>>473 ありがとうございます。
只、自分んで辞書見たりしてもイマイチ想像が付かないんですよ…
ウリの種なんか見た事ないし、キュウリの種みたいにあごが細い感じナノでしょうか?
芸能人とかに例えてもらえると、ありがたいです。
自分の勝手なイメージとしては、ともさかりえ何ですけど、それだとウリの種と言うよりは瓜みたいな顔だし…
475 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:57:50
庶民の顔は顎が張って硬い物もバリバリ噛み砕く、
顎が細くすぅーとしているのは、お柔らかい物しか食べない高貴なイメージ。
江戸時代の元服について、
元服する時は江戸城で将軍の名前を一文字もらって元服するとか聞いたことがあるんですが
大名はともかく旗本や御家人までそれを行っていたんでしょうか?
正式な元服の儀を行う前に、一足先に国許で元服を祝ったりすることもあったんでしょうか?
それと、藩主の嫡男は当主になるまで国許へは帰れないものなんですか?
477 :
◆tyGDXNtx.Q :2006/01/29(日) 14:26:31
旧皇族ってみんな後花園天皇の弟から分岐した伏見宮系ですが、
なんであんなに遠い血筋を昭和まで皇族として存続させたんでしょうか?
幕府が禁中並公家諸法度で規制してたんでなかなか新宮家を創設出来なかったんでしょうが、
閑院宮以外に、血筋の遠い伏見宮は臣籍降下させてでも
血筋の近い後水尾天皇や霊元天皇の皇子を門跡に入れないで宮家を作らせなかったのは何故でしょうか?
478 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 14:44:49
当時は何事も個人単位ではなく家単位の考え方だったたから、
当代の皇子より世襲親王家の方が優先されたのでは?
>>478 養子という形にしたら?
そうしたら皇族に近い血を残せていいんじゃない?
徳川家も宗家が御三家御三卿に養子出しまくっているわけだし
480 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 15:17:47
桂宮や有栖川宮は何回か天皇家からの養子があったんじゃないかな。
伏見宮は1回だけ天皇家から養子を入れたが、早世して伏見宮の血統にもどった。
481 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:21:35
麻生外相のDQN発言があったが、天皇が靖国参拝を止めた理由と時期はいつ?
またA級戦犯合祀には関係ないの?
483 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 17:32:35
実際は国益に反する発言を出してしまう国粋主義が結果的には愛国に反する。
わかりやすく言えば過度の盲目的な愛国心は結果的に国をおかしくし危機に陥れる。
分かるかな?
それより歴史事実としての
>>481の答えは漏れも知りたいが。
多分481は、A級戦犯がBC級より悪いって勘違いしてそう。
>>483 国益とは何かについて定まった考えはないけどな。
市場がどうのとは違うんだよ。
486 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 17:59:46
戦後、鳩山一郎が公職追放になる際に
議席もない吉田を指名したのはなぜですか?
外務大臣や大使という経歴による外交上の適性でしょうか
自由党内の反対をおしきってまで指名したそうですが
そこまでさせる鳩山の思惑、”吉田”という存在はどういったものだったのでしょうか?
487 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 20:01:55
結局、靖国天皇親拝の中断の理由は?
日本近代史板に質問スレ無いの?
489 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 20:23:53
あっちは過疎だからな
490 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 20:35:41
>>476 元服は知らないので別の方の回答を待つ
藩主の嫡男が当主になってないのに国元に帰った例は幾つかある。
例えば島津光久の嫡男・綱久は何回か鹿児島に帰っている。
但し、父親同様に参勤交代の行列を組まなければならず出費が大変だった。
491 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 20:42:05
「七支刀が何故石上神社にあるのか?」って問題が出たんだけど
まったく分からなかった。
何か、あの神社にあることに問題・由来があるのですか?
>>490 ありがとうございます。
やっぱり島津家はそういった特例がおおいみたいですね。
元服について調べた時も、島津の誰かが2・3回元服してるという
記述を見た気がします。
493 :
492:2006/01/29(日) 23:26:51
「七支刀が石上神宮に祭られている理由」
調べてみたけど全く分からん。
古代軍事氏族の物部氏が祭祀してたから?
494 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 07:22:30
>>481 戦後直後に大典があったはず。それで親拝は終わり。理由は、帝国軍の無条件的降伏によって大元帥がいなくなったから(天皇は祭祀してなかったのでは?あくまでも大元帥が拝してた)。そんなわけで、戦犯とは無関係。
間違ってたらスマソ
495 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 07:36:20
つう事は現在の「自衛隊の最高指揮官」が靖国参拝するのはますます持ってモーマンタイ
496 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 09:14:33
A級戦犯合祀までは参詣していたよ>昭和天皇
昭和帝の東條嫌いは有名。
それはともかく、そういう話題は、近代史板
の方が議論が盛り上がると重いまつよ。
498 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 12:09:10
499 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 15:12:56
んなのは近代板でやったらいいがとりあえず、
天皇が公式行事として靖国神社を参拝すれば憲法二十条の第三項に抵触することなるのではというところから
国会議事録確認すると、1975年ぐらいから国会でも審議されていた
500 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 15:23:00
ということはA級戦犯合祀の問題と(講和条約受託との整合性も関係か)、憲法二十条の問題(政教分離)により天皇親拝が中断したということで宜しいか?
昭和天皇の東条嫌いというのはあるかもしれないが、無条件降伏を受託した天皇としてはA級戦犯が合祀された靖国神社に参拝するのは具合が悪かったのではないか。
501 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 15:23:36
502 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 15:31:22
>>500 A級戦犯合祀問題が出てきたのは1985年に中曽根が参拝したことに対する
中国の抗議からだから、天皇陛下の参拝中断と関係あるわけがない
新撰組と南蛮人がチェスと将棋で対決してる画像ありますか?
504 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 19:10:01
ただし国内的にはA級戦犯合祀はすでに1978年に問題化しているのを見ると、天皇親拝の中断に無関係とは言えないのではないか。
505 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 19:30:57
ここは初心者質問スレです。
いちいち議論なんてやってたらスレが成り立たなくなってしまい他のみなさんに迷惑をかけてしまいます。
近代史板に東条スレがありますのでそちらでどうぞ。
興味ある初心者の方もそちらを参考にして下さい。
>>497 >>499 そうした私情で行動を左右する人ではなかった。
戦後、東條のことを私利私欲に走った人間という風に
非難した人がいたが、昭和天皇はそれを聞いて
「東條はその様な男ではない」と否定している。
508 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 20:37:58
>>476 > 藩主の嫡男は当主になるまで国許へは帰れないものなんですか?
「人質」を逃がすわけにいかないのでは?
>>491 どこの問題か知らないけど、何だか良く分からない問題ですね。
正確な由来といっても、一番肝心の「いつ誰から贈られてきたか」も、銘文の「解読」に
任されているくらいで、確定的な形で神宮に伝わっていなかったはずだから、「朝廷に
半島から公式に贈られてきたものだから武器庫に収められた」くらいしか答えようがないのでは?
512 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 23:10:56
>>504 青年の主張は板違い。どこかよそでやってちょ。
明治17年の大阪事件の裁判における児島惟謙が
果たした役割を教えてください。
515 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 10:39:27
大正時代の内閣は国内経済政策ではどのような政策をとっていたか。
また、この経済政策の内容は?(簡単でいいので)を教えてください。
お願いします
えっとすいません。高校時代だったと思いますが、17世紀(かその前後)
における世界最大の都市は「江戸」だったと本で読んだ記憶があります。
でもさ、最大の基準ってなんなんでしょう。「江戸」という地名の面積
でしょうか、それとも「江戸」という都市の人口でしょうか。いずれに
せよすごい曖昧な概念じゃないでしょうか。例えば、埼玉県ではさいたま
市が一番大きな市だと云えますが、これは浦和・与野・大宮・岩槻が
合併した結果であって、これに倣えば、理論上、巨大都市というのは
いくらでもつくれるような気がするのです。
518 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 15:50:57
519 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 17:05:35
>>517 >理論上、巨大都市というのはいくらでもつくれるような気がするのです
その通りだが?
>>517 それ、本じゃなくて時代劇の冒頭に毎回流れていたナレーションなんじゃ?
たしか大江戸捜査網だったかな?
>>518 なるほど。
>>519 やはりそうですか。
>>520 記憶によれば、どっかの大学の日本史の過去門でした。
レスくれたみなさん、ありがとうございます。
522 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 18:10:51
>>517 > すごい曖昧な概念じゃないでしょうか
部分的な例外はあっても、国なら国としてまとまっている地域範囲が原則として法律で明確に
なっているのと同じく、都市なら都市としてまとまっている範囲も、特定の機関の行政権力が
及ぶ地域範囲など、法律等である程度規定できるので、「曖昧」ということはないです。
どの時代のどの国のどの都市でも必ず同じ基準で確定的に、というわけではないですが。
> 理論上、巨大都市というのはいくらでもつくれるような気がするのです。
極端な話、別の国の土地を自分の国の都市の一部だと主張しても通らないわけで、
土地には、所有者とか、実際に住んでいる人とかがいるのだから、それらの意志を無視して
都市をでっち上げるわけにはいかないです。
戦争をしかけて分捕れば別ですが、それは、理論的にどうするという問題ではないです。
523 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 18:11:33
524 :
521:2006/01/31(火) 18:35:09
>>522 追加レスサンクスです。僕にはちょいと難解ですが、しかし、おおまか
な意味はわかりました。ありがとう。
江戸時代の町奉行所はどの藩にも設置されていたのですか?
526 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:20:45
>>525 町奉行が置かれてた藩は多いと思うけど、
ケースバイケース。
藩史大辞典で調べてみると良いと思うよ
時期が来たら政権を返すという約束をとりつけたのが吉田たから。
でも裏切られた。
それだけ。
531 :
476:2006/02/01(水) 10:21:36
>>510 長い間ではなく一時的に、例えば身内(祖父など)に不幸があった場合などは
>>490にあるとおり、行列を組んで国許へ帰る許可は出たんでしょうか?
532 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 16:21:01
藩というのは大名つまり一万石以上の領主が支配した地域を言うんですよね?では一万石未満の領主が支配した地域は何と言うのでしょうか?
533 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 16:58:51
すいません。どなたか読み方をご教授ください。
伊豆金山の地名で、大横谷、日向洞は、何と読めばいいのでしょうか。
普通に「おおよこたに」「ひゅうがほら」でよいのでしょうか。
よろしくお願いします。m(_ _)m
534 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 19:10:28
535 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 19:13:41
諸藩の町奉行所にも与力や同心はいたの?
536 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 19:21:38
>>532 実は「藩」が公式の呼び名になったのは明治2年の版籍奉還以後であり、
江戸幕府では1万石以上の大名の領地は誰それ(大名の名前)の「領分」、
1万石未満の旗本領は誰それ(旗本の名前)の「知行所」と呼んでいた。
537 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 19:21:55
538 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 19:23:44
また、江戸幕府の文書では、知行所を持つ旗本は「地頭」と表記されていた。
539 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 19:37:19
540 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 20:11:55
近世も「藩」という用語が遣われたが、大名領の漢語的美称にすぎない。
当時、藩や藩士のことは「松平加賀守領分」、「浅野内匠頭家来」など、
誰それの領地、誰それの家来と表現された。
541 :
532:2006/02/02(木) 21:09:56
皆様ありがとうございます。。
>>540 > 近世も「藩」という用語が遣われたが
> 近世も「藩」という用語が存在したが
~~~~
というニュアンスでしょうか。
544 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 14:51:21
>535
余談ですが
京都近辺の藩の中には
治安担当部門を検非違使と呼ばせていた
シャレ者の殿様もいたとか。
代官や郡代の支配する陣屋町の領民が領主に対して一揆をおこした例ってありますか?また、そうして領民に領主が殺された場合は陣屋は乗っ取った領民のものになるんでしょうか?
546 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 20:27:15
>>545 なるわけねぇだろ。全員処刑されるだけだ。
>>545 青木虹二『百姓一揆総合年表』(三一書房、1971)
とか、
『編年百姓一揆史料集成』、
保坂智編『近世義民年表』(吉川弘文館、2004)
を読めばたくさん出てくるよ。
しかし、たとえ陣屋の乗っ取りに成功できても、
一時的でしょう。
548 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 04:36:39
うちは戦国期小さな城の城主で江戸期は庄屋だったのですが、江戸初期(中期かな?元禄年間)の墓が大名墓と言われる
大きな笠のついたものですが庶民が勝手に建てよいんでしょうか?その辺の規制などは田舎までは行き届かなかったのでしょうか?
墓の規制は分からんが、そのような格式は身分制度の確立か質素倹約令の施行に
関わると思われる。刀狩りは一揆防止だろうが、農民化の徹底にある。
玄関、欄間、門を作るなという規制は農民に強制され、今でも田舎では門がなく
せいぜい生垣程度の家はたくさんある。都会でも古くからの農家には門がなく
耕耘機など道路からそのまま家の前の広場へ出入りできたりする。(門があると
家が新しいというのが分かる。今でもうちの親戚では、門を作ろうとすると
年寄りがそんな余分なものはいらんと抵抗するとこぼしている。玄関は作った
くせにネ)
NHK の「家族に乾杯」で地方の家を訪ねているのを見るとその様子がわかる。
銭湯などで宗教的な意味合いで、入り口が唐破風作りになっているのが面白い
といえば面白い。(よくテレビに出る、道後温泉の建物の構えなどお寺かと
見間違う位)
550 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 10:28:11
神武天皇の両親ってどんな人でしょうか?
また神話ではなくまともな資料で神武の記述はないのでしょうか。
>>550 秦(神)の国から来た徐福が神武なのだよ
552 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 12:17:21
玄奘の遺骨が1942年に日本軍によって発見され、持ち去られたと聞きましたが、真意はどうなんでしょうか?よろしくお願いします
554 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:39:08
「ソースは2ちゃん」(ぷ
>>550 神武天皇のころは(日本に)字が書ける人がいなかったので分からない。
神奈川県は逗子に神武寺ってのはあるな。
>>551 富士吉田に徐福の碑がある。よく分からんが、日中友好の趣旨らしい。
556 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:09:59
>>551 徐福が最先端の知識と技術を神の力だと言って日本人に見せたなら宗教的指導者になれた可能性はある。
フィクションとして小説にはなるが事実としてはみとめられない。
557 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:24:20
558 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:19:24
今日久しぶりに、高校の頃使ってた日本史の本を読んでみた。
ヤマタイ国のあたりを読んでいて、ふと閃いた。
ヤマタイ国近畿説として、ヤマタイ国を大和国、つまり大和朝廷の前身であるとする。するとヤマタイ国の長である卑弥子は、神武天皇の祖先になる。
ってことは、天照大神って卑弥子のことなんじゃないかなぁ?
>>558 浴びるぐらい既出。
ちなみに、多分一番古いのは書紀の「卑弥呼=神功皇后」説。
560 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:39:24
>>558 専門板でよくそんなくだらないレスができるな。w
お子様はオカルト板で遊んでもらえ。
561 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:24:29
石棺を開くと玉、銅器、磁器、貨幣とともに一七個の頭蓋骨が見つかり
ました。
日本軍指揮官稲田大佐は大喜して日本に持って行こうとしましたがこの
情報が漏れると世論の非難を浴びます。
当時の江精衛政府も黙認できず北平の知名の士,白隆平を派遣して日本軍
と交渉することとなりました。
白隆平は、遺骨を分けて供養することを提案し,一方は北平で塔を建てて
供養し仏教を広めると提案した。
日本軍もついに遺骨を日中で分けることに同意しました。
最終の合意点の内容は,
一部を南京に残し、玄奘湖五洲に塔を鐘て供養する。
もう一部を北平の弘福寺に送って供養する。
ほかの一部を日本に持っていく。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ikka/ikotu.htm
562 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 17:15:37
天皇家って天照大御神の子孫なんですよね
でも、天皇家だけじゃなくて千家が大国主大神の子孫の様に
神の子孫とされる家が日本にはいくつかあると。
どの位あるんですか?
そういう人達は宗教的に天皇家とタメなの?
って事が聞きたくて来たんですけど、この流れじゃ同一人物扱いされそうで聞き難いなぁ・・・
やさしい人いたらお願い、教えて(-人-)
563 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:07:14
大学受験生なんですが大野城と水城の違いって何?
564 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:44:42
565 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 23:13:48
553、561
情報ありがとうございますm(_ _)m
566 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 01:16:47
>>562 つーかまぎれもなく同一人物乙
しんでいいよ
567 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 08:04:53
室町時代後期には関白が将軍から偏諱をもらっていることがあるのですけど、
(近衛尚通とか二条晴良とか)
(近衛信尹は名前からして信長の偏諱っぽい)
何でですか?
身分は足利将軍家<関白家だと思っていましたが
568 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 10:08:03
>>566 いや、違うんだが。
やさしい人にお願いしたんで、君はレスしなくて良いよ。
>>567 世の中、持ちつ持たれつ。位が高いだけではメシは食えねえ。
名前を忘れたが、金がなくて即位の式を20年もできなかった天皇もいたという。
570 :
567:2006/02/07(火) 11:02:10
>>569 ありがとうございます。たしかに、将軍家が諱を売っていたと聞いたことがあります。
ちなみに、後柏原天皇が20年遅れで、後奈良天皇が10年遅れ即位式を挙げたのでしたね。
571 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 11:47:38
葬式が遅れた天皇もいたな
>>567 もしその点に興味があったら、
水野智之『室町時代公武関係の研究』(吉川弘文館、2005年)
を読んでみると良いよ。
偏諱と猶子について書かれているから。
573 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 12:16:51
574 :
567:2006/02/07(火) 12:20:30
575 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 12:20:44
戦国大名と守護大名の違いって何ですか?教えて下さい
577 :
569:2006/02/07(火) 17:47:04
>>572 高校時代にこういうこと知っていたら歴史の点数よかったと思うよ。
闇雲に憶えて損した。光圀が家光にもらったとかな。名前からどの
時期か推定できようってもの。クヤシイ。
官庁ですが、中古の国史大辞典を伝票で購入したいのです。
請求書で買える大手の業者ってどこかありますか?
579 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:58:35
江戸時代の為政者は
分地制限令や田畑勝手作の禁、田畑永代売買禁止令などを発令し
本百姓制度を維持させようとしていましたが
それはなぜでしょうか?
農民の零細化を防ぐ為、という理由はわかるようなきもしますが
仮に豪農が土地を集積しても
規定の年貢さえおさめられていれば幕府側にとっては問題ないような気がします。
秀吉の朝鮮出兵についてです。日本軍は防寒対策に唐辛子を持ち込んだ
とよく言われますが、唐辛子をいったいどのように使用して防寒対策
としたんでしょうか?
581 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 19:56:43
古代日本、だいたい白村江の戦いの頃の戦の仕方(戦術)
についての資料をご存知でしたら教えてください。
1870年代に地租改正反対一揆が頻発したのはなぜなのでしょうか?
江戸時代に代官の支配した陣屋町の人口はどのくらいだったのですか?
>>580 今度外出する時、靴の中に唐辛子入れてみるとよく判るよ。
585 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 00:00:13
「寒からじ」とはどういう意味なのでしょうか?
ウチにある古語辞典には載っておりませんでした。
ヨロシクお願いいたします。
586 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 04:57:24
アカヒ新聞の罪を思い出せ!!
〇雅子様男子ご流産
アカヒ新聞のスクープが災いして雅子様は男子(愛子様の兄)を流産してしまわれた事を思い出して下さい!
このアカヒ新聞が原因の悲劇さえなければ今日の禍根は何一つなかったのです
○黒田清子様ご成婚スクープ
両陛下と紀宮様が新潟地震被災者を気遣われご婚約をご内密にしていらしたのに、アカヒ新聞が暴きたててしまいました。
その結果ご発表予定が狂い、高松宮妃喜久子様は公式発表を聞けずに亡くなられ、その喪中により全ての日取りが延期になってしまいました。
※両方同じ記者です!
587 :
580:2006/02/08(水) 09:08:54
>>584 いやね、そういう利用法は、噂には聞いておりましたよ。だけどさ、朝鮮
半島に唐辛子が伝わったのは、この時じゃん。するってーと、朝鮮人って
のは、日本人が足の中に入れていたものを食べたってことになっちゃう
じゃんと思ったのです。
関ヶ原は当時でいう近江にあるんですか?
589 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 10:09:58
基本的なことで申し訳ないんだけど、
堀越公方の足利政知は、足利義政の弟(異母弟)ってことだけど、
生まれた年が政知の方が一年(正確には約半年)早いのに、
弟になるってことはよくあることなんでしょうか?
ちなみに
足利 義政(1436年1月20日生まれ)
足利 政知(1435年7月12日生まれ)
です。
成長して兄がいるのに対抗するような形で弟がいると、お付きの人間が騒いで
お家騒動になるので、弟を殺すのはままある。ために弟は出家する。
兄が死ぬとリリーフでまた復帰する。義政も復帰組だが、正室の筋なので
優先され、のち関東公方に政知も復帰で送られているので、義政の弟という
格付けにしたんではなかろうか。
真田幸村も信之の弟ということだが、腹違いだし、年は幸村の方が何ヶ月か
上という話もある。当時はメクジラ立てて騒ぐと殺されたんじゃなかろうか。
(幸村の父も養子に出され兄が死んで戻って来た)
弟を殺す話は、信長、政宗、家光、元就といろいろある。後生の悪い話。
元就の三矢の教訓には、兄弟争いの恐れを予感したこともあろうが、自分の
反省も入っていると想像している。
後味じゃね
592 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 12:53:27
もっとレベルの高い質問はないのか?
593 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 12:55:32
594 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 13:46:11
596 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 14:33:26
>>578 目当ての古本屋に直接聞かれたらよいのでは?
598 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 18:07:21
599 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 18:48:34
600 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 03:26:09
秀吉のことを「太閤殿下」って言い方するときありますよね。
関白や太閤の敬称って殿下なんですか?皇族じゃなくても。
601 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 03:37:52
秀吉の位は皇族ですよ。
602 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 03:39:08
>>601 ネタレスイクナイって言えばいいんですねそうですね、そうだと言ってください。
603 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 03:41:13
604 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 03:42:47
関白は武士には与えられない位ですから。
605 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 03:44:41
だからって皇族の条件は功績じゃあないでしょうに。
606 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 08:18:41
607 :
579:2006/02/09(木) 08:19:51
と、いうか、余剰生産を禁じることに疑念をいだいてるのではなくて
なぜ本百姓制度を維持しなければならなかったのか、が疑問なんです。
どなたか答えられる方、よろしくおねがいします
>>607 自分の土地がそこにあるから農民はそこに住む。
小作バタラキならなにもそこにいる必要はない。やってられないと逃散する。
余程小作に親切な地主がいるなら別だが、稀有だな。
福島の方の藩だったか、新田開発して越後から人を植民してやった例もある。
人がいないとどうにもならない。
二宮尊徳の話でも読んだらどうだ。
609 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 10:48:16
>>607 連帯責任がとれるのが本百姓だからじゃない?
>>609 知ったかで駄レス入れんな。
スレのレベルが下がる。
612 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 15:40:30
質問レスに答えられていないのが多いんだから、既にこのスレのレベルは低いんですよ。
いつから2ちゃんねるはレベルが高いっていうことになっている?
もっとお行儀が良くて高尚な話題のところはあるよ。面白くないがね。
614 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 16:28:20
海軍軍縮条約について。
艦隊派は専ら統帥権を(政友会と共に)政治利用したことで
批判されていますが、主張の軍事的な内容も条約派の方に
理があったのでしょうか?
(外務省は軍の意見を無視しすぎた、主目的は米英の建艦抑制なのだから
日本は蹴っても深刻な孤立は招かなかった、対米7割を条約に入れても
実際には作る必要はない、などの意見を聞いたことがあります)
財政規模と軍事費の比率や重工業の発達度合い、
軍事利用可能な石油量とかで考えたら対英米比が3:1でも長期戦を戦うのは不可能。
617 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 20:42:40
徳川家康の息子で結城秀康の双生兄弟に当たる永見貞愛は
「足が不自由だった」と聞きますが、どの程度の障害だったのですか?
たんに跛者(びっこ、ちんば)程度なのか、足萎え、いざり
といった歩行不可能な状態だったのでしょうか?
識者の教示を俟つ次第です。
宜しく。
618 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 20:48:01
619 :
607:2006/02/09(木) 21:41:30
>>608 ありがとうございました!
わからなかったところがすっきりしました。
つまり、人や土地が村外に流出してしまうと、
仮に幕府にとっての税収は確保できるとしても
支配体制が揺らぐ、ということでしょうか?
二宮尊徳って農村復興に貢献した人ですよね?
これとなにか関係があるのでしょうか?
自分の土地なら痩せてても年貢がきつくても歯を食いしばってしがみつく
他人の土地を耕すただの労働者なら簡単に逃げる
もちろん限界超えりゃどっちにしても逃げるけど我慢できる限界が違う
621 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 00:12:22
>>619 それじゃ宿題にならんでしょう。
薪を背負って大学を大声で音読しただけではないわけですよ。
622 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 04:39:50
>>614 日本にとって、八八艦隊は夢物語でした。(実行したら海軍だけで国家予算の7割、陸軍入れると9割以上が軍事費)
しかし、アメリカにとってのダニエルプラン(戦艦10隻巡洋戦艦6隻はともかく補助鑑定を含めると八八艦隊計画など比較にならん大規模計画)
は「やってやれないことはない」計画でした。結局、議会と陸軍の圧力で軍縮計画になるわけですが。
623 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 07:14:21
>>618 「大正天皇と同じ症状」と言うのは
どういう意味なのでしょうか?
幼児期に脳膜炎に罹り、「心身共に病弱だった」
という程の意味なのですか?
出来れば具体的に症状を教えて下さい。
宜敷く。
624 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 08:26:42
>>622 日英同盟を堅持する方法は無かったんだろうか?
625 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 12:29:09
>>624 対華21カ条がネック
中国に対し独占的利益を日本が狙ったため、欧米の反発を招いていた
何この近代史板なスレ…
627 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 16:38:57
ここは日本史板なんだから近現代であろうと日本史だろ
628 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 16:55:52
629 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 16:59:05
会津大罪スレがあっちに移ってるね。
でも、あのエネルギッシュなスレがないと日本史板って感じがしない
630 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:39:54
すいません、小作人てどういう人のことを言うのですか?
教科書に詳しく載ってないので・・・
goo でも行って国語辞典を引け
632 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:13:54
江戸時代の体制(鎖国をはじめ、農村支配など)は
現代の日本人にどれほど影響を与えたといえるでしょうか。
仮に戦国時代にペリーがやって来ていたら、近代化日本はどれほど違うものになったのでしょうか。
633 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 21:22:43
>>628 でも近代板は回答率がここより低いきがする・・・
635 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 02:04:38
大久保利通は、死んだ時に8千円の借金があったらしいですが、
現在のお金にしてどれくらいですか? 家が建つくらい?
636 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 02:10:25
>>635 このサイトを基に計算すれば、6480万
>>624 板違いだけど、日露戦争の海戦で勝ちすぎた因果だからね。
>>635 経済の規模自体が違うから単純ではないけど、たとえば当時の国家予算の何分の1かな?
ちょっと捜したところでは、たとえば明治20年度の1万分の1くらいみたい。
>>636 使いででいったら桁が違うような。
>>635 で
そんなことを聞いて何したいの?
くだらない質問を連発する手口の荒らしがいるけど
それやりたいんだったら他当たって
640 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 10:29:35
どう考えても荒らしにはみえないし
「そんなことを聞いて何したいの?」ってきくんだったら
このスレはおろか板まで消滅しかねないな・・・
641 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 12:08:16
>>618 「大正天皇と同じ症状」と言うのは
どういう意味なのでしょうか?
幼児期に脳膜炎に罹り、「心身共に病弱だった」
という程の意味なのですか?
出来れば具体的に症状を教えて下さい。
宜敷く。
643 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 13:31:23
秀吉が大陸制覇を構想するようになったのは何時頃から?
644 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 13:37:42
九州遠征した時に、朝鮮王に明を討つから従えみたいな使者を派遣してます。
実際には、信長が生きていた時からそれらしい発言はあったみたいです。
>信長が生きていた時から
まさかとは思うが
ソースはNAVERかハン板か?
>>644 信長が生きていた頃の発言は、法螺じゃないの?
647 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 14:58:07
信長にはそういう意志は無かったの?
649 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 20:09:02
酒造家についてなんですがサイト周ってると江戸時代から続く所は実はかなり少なく、ほとんどは明治期からなんですがどういった事情からでしょうか?
>>648 まあまあ。初心者歓迎なんだから
しかも639はほかに訊くべきスレはないんじゃないか?
まあ日本史板もID導入すべきだろうな
>>647 そこまで馬鹿じゃないだろう
651 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:44:13
>>646 法螺で言っているやつです。明をくれるなら自分だけでもやってみせるというやつです。後年、蒲生氏郷が同じ事を言って秀吉を笑わしています。
652 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 23:07:21
653 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 01:29:43
>>639 邪魔だからゴミ屑をまかないように。わかる?
654 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 01:31:49
>>652 その手のはQAボードに湧きがちな単なる性格異常者。
655 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 04:05:35
質問です。
武田義信と今川義元の娘の間に子供は居なかったでしょうか?
特に何か活躍したとか、姫がどこかに嫁いだというのは無いでしょうか?
義信本スレに書き込もうかと思いましたが、
先にこちらで質問します。
657 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 11:15:54
善意で誘導するなら略すな。
ただ答えたくないだけか答えられないなら
レスつけんな
郡代・代官が支配する陣屋町の百姓や町人が一揆をおこして陣屋を占領した場合、それを制圧しにいくのは近くの藩?それとも幕府自ら?
659 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 16:01:01
661 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 18:55:23
662 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 20:07:45
665 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 12:31:32
天オタの彼って誰のことですか?
666 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 12:33:40
667 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 19:07:41
平等院鳳凰堂が建てられたのは、何天皇のとき?
669 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:08:28
>>667 1053年
後冷泉天皇(即位1045-1068)
671 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:47:39
山川の教科書と用語集を使って勉強しています。
鎌倉時代に出てくる「関東御料」と「関東御分国」の
違いがよく分かりません。どなたかよろしければ
ご教授お願いします。
673 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 12:22:24
用語集に載ってないの?
674 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 12:43:30
>関東御領
鎌倉幕府の直轄領で将軍家家領ともいい,将軍が本所として支配した
荘園や国衙領。将軍は関東御領に対して御家人たちを預所や地頭など
に任命して支配を行い,年貢・公事などを徴収した。幕府財政にとって
関東御領からの収入は相当大きな割合を占めていたと思われるが,
残念ながら関東御領全体の規模や収益などを示す史料はまったく残さ
れていない。
鎌倉幕府の成立期の1184年(元暦1)初代の将軍源頼朝は,京都の朝廷から
平氏一族の旧領500余ヵ所を平家没官領として与えられ,これが関東御領
の主要な基礎となった。ついで1221年(承久3)承久の乱に勝利を収めた結果,
幕府は京都方の貴族や武士の所領3000余ヵ所を没収したが,このうち関東御領
に加えられたものも少なくなかったであろう。
675 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 12:45:53
>関東御分国
鎌倉幕府の将軍の支配していた知行国。当時の史料上では,幕府が直接
の基盤として特に強力な支配権を有していた東国の意味に用いられている
場合がむしろ多いが,現在の学界では将軍家の知行国の意味に用いるのが
普通であり,以下もその立場から述べる。
将軍家知行国とは,将軍が朝廷から与えられた国のことで,将軍は知行国
主として御家人を国司に推薦し,国衙を支配して国衙領からの収入を取得
した。その意味で関東御分国が幕府の重要な政治的,財政的基盤の一つで
あったことは間違いない。関東御分国の沿革をたずねると,1184年(元暦
1)源頼朝が朝廷から三河,駿河,武蔵3ヵ国を知行国として与えられたの
が最初である。翌85年(文治1)8月には,上の3ヵ国から三河国をのぞき,伊
豆,相模,上総,信濃,越後,伊予6ヵ国を加えた計8ヵ国となり,同年
末には伊予国を辞退して,豊後,下総2ヵ国を加えた。このときの総計9ヵ
国が,知られる限り,鎌倉時代を通じて最大の数である。その後,90年
(建久1)の頼朝知行国は7ヵ国で,1213年(建保1)の将軍源実朝の知行国
は遠江,駿河,武蔵,相模4ヵ国というように減少していった。それ以外
に関東御分国の全体をあげた史料はないが,断片的史料を総合してみると,
鎌倉時代のほぼ全時期を通じて将軍家知行国にとどまったのは駿河,武蔵,
相模と,1225年(嘉禄1)以後の越後の計4ヵ国で,そのほか,かなり長期
にわたる将軍家知行国と推定されるのが遠江,伊豆,陸奥の3ヵ国である
から,常時ほぼ4〜6ヵ国の関東御分国を維持していたようである。
どうでもいいが
引用するなら
どこから引いてきたのか書いたら?
ありがとうございます。
上記の内容を読んで、以下のように解釈しました。
関東御料:鎌倉幕府が全国に所有していた荘園。
関東御分国:朝廷から与えられて完全に鎌倉幕府のものとなった土地。
ここに鎌倉幕府を設置するなど政治的基盤ともなった。
この解釈は正しいでしょうか?
また、関東御料の「関東」も関東御分国の「関東」も鎌倉幕府を指して
いるのだとは思いますが、関東御分国が文字通り「関東」を中心として
広がっているのに対し、関東御料は「関東」に限らず全国に散在して
いるという認識は正しいでしょうか?
678 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 15:45:02
>>677 理解力が足りないお子ちゃまは
100なゆた回
声に出して読むと理解できるようになるぞ
680 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:14:36
681 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 03:12:17
うちに有名戦国武将の足軽大将から貰った感状があるのですが家の先祖って足軽?因みに江戸期は庄屋ですた。
>>681 平時は百姓として田畑を耕し、戦争になると
足軽として駆り出されたのだと思います。
兵農未分離の段階では良くあることです。
>>680 回答されても理解できないで逆ギレするおまえのほうが邪魔。
>>677 >朝廷から与えられて完全に鎌倉幕府のものとなった土地。
これってなんか違わないか? 国衙領からの収入が朝廷に行かず幕府に行く国ってことでしょ?
「完全に幕府のものとなった土地」ってどういう意味で言ってるかわかんないけど。
685 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 14:39:03
鎌倉幕府の将軍の支配していた知行国って意味なんだが、
>>677はすこし受け止め方が違うのかもしれん
686 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 14:46:28
>>682なんか嫌だな・・・足軽の子孫ってOrz・・・・・・・一応庄屋の子孫という事にします。事実だし
687 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 15:10:41
庄屋だったのなら足軽と言うよりも小作人を足軽に従えて戦にって幹事でしょ
太閤秀吉も出は足軽だったんだから、単に足軽でひがむことはないが、生涯足軽と
なるとひがむかな。
テレビの時代劇の同心は足軽階級だろ。皆がんばっているじゃないか。
何十年か経つと、フリータの子孫っていやだなとかあるかな。
689 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:07:42
>>684 違うのはお前の認識ww
日本は皇祖神が矛で作ったのであり当然所有者は皇室
土地も最終的には皇室のもとに帰る
個人の財産も突き詰めれば皇室の財産
690 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:14:22
低レベルの質問ですみません
室町以降民衆の間でひろまった田楽って何の為に、いつやっているんでしょう
目にしたことのある資料では田植えをしている人達の横で男たちが数人で
踊っているものでした。豊作祈願のような思惑もあるんでしょうが
農作業中なのだから、隣でおどってないで農作業を手伝えばいいじゃん、
なんておもいます。田楽の意義について詳しくわかることがあれば、教えてください。
よろしくおねがいします
691 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:19:50
>>690 田楽の目的を思いっきり四捨五入していいますと、
「豊作にしてもらうために、田んぼの神さまを喜ばす」
ということになります。
で、日本の神さまは、よく言うと非常に「人間的」と考えられていたので、
実際に田植えをするのは、「若いきれいなねーちゃん」にやって
もらったほうが喜ぶだろう、と考えたようです。
で、野郎どもはそばでお囃子担当をする、と。
ごついおっさんがアクロバテッィクなダンスを披露するよりも、
じょしこーせーがたどたどしくポンポンを振るほうがいいって
なもんです。
694 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 22:25:53
最上徳内の最終的な身分(旗本?)役職、禄高を教えてください。
日本の歴史って武士を中心に長い間続いていたけど・・・・
で、武士は刀のさやがお互いの相手に当ると悪いらしいから・・・・・それに町民なども武士の習慣を押し付けられるだろうし
・・・・昔から人は右側を基本的に歩いていたのですか・・・・・道路では
教えてください・・・・m(__;)m
>>695 これを書いたものです・・・・・左側通行のまちがいです・・・・m(__;)m
左側を昔は歩いていたのでしょうか・・・・?
>>695 > 武士の習慣を押し付けられる
いかにも武士が特権階級として暴威を振るって理不尽なことばかりやっていたかの如く言いふらす者がいるようですが、
「基本的には」、武士は、何かあったときに領民を身をもって守る存在として尊敬されていたんですよね。
698 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:06:23
>>693 わかりやすい説明ありがとうございます!
うまく言葉にできないけど、民衆に密接した信仰?ということでしょうか。
あの男たちはお囃子担当だったんですね。すっきりしました
最近雰囲気が悪いけど、まあそういうのはみなかったことにして
スルーするのがいいのかな…
699 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:22:02
東亜新秩序と大東亜共栄圏の違いってなんですか?
700 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:48:30
>最近雰囲気が悪いけど、
ヒント:春が近い
702 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 05:00:32
前に聞いた話を蒸し返すけど、秀吉の扱いって本当に皇族だったの?
本当だったらどうやって皇族扱いになったの?
703 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 10:51:34
>>700 ありがとうございます
"大"東亜新秩序と大東亜共栄圏は同義と考えていいのですか?
704 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 13:59:04
705 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 14:42:00
706 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 15:36:31
>>705 見てまいりました。
Q)秀吉が結局征夷大将軍になれなかったのは、身分が卑しいからですか?
A)なれなかったのではなく「ならなかった」のだという説が最近は有力です。
秀吉は「貧乏公方」と嘲笑された足利義昭の後継者になんかなりたくなかったのですな。
↑こんなんじゃ納得できません。’
707 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 15:41:46
>>706 ここでの答えはそれだ。
それがイヤなら、自分で研究しろよ。
708 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 18:50:51
江戸時代勤勉革命が起こって農村は豊かになっていたそうですが
そんならなぜ飢饉のたびにたくさん農民が死んだのですか?
蓄えぐらいありそうなものですが
一年で終わらなかったから
710 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:12:09
>>708 現代でも同じことが起きただろうが。
いまは簡単にタイ米とか中国米とか買えるから、特に餓死者が出なかっただけ。
711 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:57:28
前田とか島津、仙台伊達のような、大身の外様はどこまでの官位を極めることができるのでしょうか?
御三家は、水戸だけが中納言ですよね?
712 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 21:26:53
>>708 6公4民の税率じゃ蓄えなんて出来ないだろう。
(現在の日本は45%)
江戸時代の代官が治める陣屋町の人口は、どの程度だったのでしょう?
715 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 00:32:12
「代官 陣屋町」でぐぐれば出てくるじゃないか。
何を取りしきる町かで様子が分かり、どれ位の人がいたか位の見当はつこう。
例えば、役人が10人も常駐しているのに、住民が5人ってことはないな。
(町とはいわないだろうし)
鉱山などあれば人夫もいて女もいる場所もあって大賑わいだろうな。
(長く続いていれば、神社やお寺も出来て商家もできるだろうし)
年貢だけだと検見の時期とかは応援の役人もやってくるだろう。石高にも
よるが、常駐は少ないかも知れない。一揆などの気配があると役人側の人も
増えるな。
ってなことを想像したな。
717 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 19:04:16
某サイトで戦前の秀才コースは府立一中→一高医学部(現千葉大医学部)とあったんですが東京帝大医学部ってのは無いの?
719 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 05:01:52
戦前の大学(東大とか京大、早稲田や慶応も一応あったのかな?)は戦前の高校を出た人が行くのか、戦前の中学から直接(高校進学者以上の学力の持ち主が)行ったのかどっち?
720 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 05:23:28
戦前と言っても明治大正昭和で違うが
昭和初期なら
国民学校初等科→尋常科→高等学校→大学
国民学校初等科→中学校→大学予科→大学
国民学校初等科→中学校→高等学校→大学
の三通りかな?
詳しい人訂正よろ
南北朝の動乱はなぜ60年続いたのですか?教えてください
722 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:51:42
高校で日本史の勉強をしているのですが
用語集について質問です。
現在山川出版の詳説日本史Bという教科書を
使用していますが、用語集がほしいな、と近くの本屋に
行き、山川出版の「日本史B用語集」を買うところを、置いていなかったため
「日本史なんかどれも同じだバカヤロー」と実教出版の「必携日本史用語」
を買ってきてしまいました。
で、案の定心配になってきたのですが、やはり教科書とあわせた方がいいのでしょうか。
あと、山川出版の日本史B用語集が支持されている理由ってのはなぜでしょう。
単にみんな使う教科書が詳説〜だから、なのでしょうか。
723 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 15:45:25
「らんけいどうりゅう」って「蘭渓道隆」と「蘭溪道隆」のどっちなんですか?
724 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 16:15:24
戦国期の武将や庶民の日常生活が書いてある出版物をご存知ありませんか?
725 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:05:12
>>709-712 よく分からないんだけど
それはつまり
勤勉革命によって金余り現象はあったけど
飢饉の前には無力だったってこと?
それとも6公4民だったから
そもそも金なんか余ってネーヨ!ってこと?
2月22日、竹島の日
『嫌韓流2』ついに発売!
45万部のベストセラー『嫌韓流』をまだ読んでないやつは、今のうちに買って読んでおこう
727 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:03:46
>>725 1億円持ったまま無人島に流されているところを想像してごらん。
誰もが羨み、欲しがるような金額ではあるが、米がない以上は買えぬし、何の腹の足しにもならん。
>>723 「溪」が「旧字」で、「渓」が「その省略形」。といっても日本で作ったとかではない由緒あるもの
みたいだから、要するに同じ字の字形の違いだけ。
ちなみに、「蘭」は東の四角の中がV配列の斜め棒で、画数が1画多い字体もありますね。
また、「蘭渓(溪)」という中国の地名があります。
有吉佐和子の『華岡青洲の妻』に書かれていること、
特に嫁と姑との薬のみ競争、姑には本当のは飲ませてなかったこと、
嫁は盲になったが(外目には)幸福な晩年だったこと、義妹はすべて
知ってたこと、などは史実なのですか?
730 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 08:19:31
>>718-720明治期らしいんだが・・・一高医学部自体が明治期のものだが。やはり帝大医学部のほうが上だろうが
なにか種類が違うのかな?唯の無知?
731 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:13:31
倭寇が使ったという胡蝶陣とは具体的にはどんな戦法なんでしょうか?
大河独眼竜より前の伊達政宗の世間一般の評価はどんな感じだったのでしょうか?
1.誰それ?仙台60万石は知ってるが藩祖の名なんぞ知らん。
2.名前くらい知ってるが、何した人かさっぱり。
3.知ってる。関ヶ原、大阪の陣にもいたろ?
4.小説もあるから、大河放送後ほどではないがそれなりの有名人。
どの程度の位置にいた人なのでしょう?
歴史好きでも、DQnでもない一般的な人にとって。
733 :
732:2006/02/19(日) 11:56:50
関ヶ原には伊達いませんでした。失礼。
734 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:10:43
>>728 有難うございます。「溪」は旧字なんですね。でも何故「溪」は旧字なんですか?
日本史って他にも「遙」や「二点之繞の蓮」が出てきますよね。世界史だったら「遥」「蓮(一点之繞)」になるのに……。
735 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:54:24
大正デモクラシー期に吉野作造の民本主義によって唱えられた内容の一つに
言論の自由に基づく政党内閣制の確立がありますが
政党内閣制によってもたらされるメリットとはなんですか?
考えてみたのですが、
それまでの藩閥や官僚・軍人主導の政治を阻止するということでしょうか?
736 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:58:19
737 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 16:02:11
>>734 > でも何故「溪」は旧字なんですか?
宿題です。
739 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 20:16:18
江戸時代の鎖国体制のもとで通商の相手にほかの先進国よりもオランダを選んだのはなぜですか?
740 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 20:25:53
キリスト今日でしょ
741 :
736:2006/02/19(日) 23:06:03
結局
>>736よんでもいまいちピンとこなかったです。
どなたか
>>735への回答よろしくおねがいします
>>739 他の国が、キリスト教の押しつけがましい布教と植民地化を渾然一体化させていたのに対して、
オランダはその度合いが低かったとか。
743 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 00:57:33
>>739 スペインとポルトガルは反動宗教改革の国で、カトリックの布教を熱心に行った。
オランダ・イギリスはカトリックの国じゃないんで布教に熱心ではなかった。
イギリスはアンボイナ虐殺事件で東アジア・東南アジアから手を引き、オランダが残った。
>>739 オランダをチューリップと風車と、海に沈みそうなのだけが話題の
ただの小国だと思ってるから話が理解できない。
80年戦争で逆に力を蓄えたオランダは17世紀の一時期は海の覇王だったの。
ジャカルタに拠点作って、さらにマレーシアのマレーシアのポルトガル勢力も
追い落とそうとしていたわけだ。で、落ち目のポルトガルと新興勢力であるオランダと
どっちと手を組むかと言えばそりゃ後者だろ。特に江戸幕府は東南アジアでの紛争に
巻き込まれたくなかったわけだから。
746 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 13:18:31
>>735 超然内閣の克服。
議会第一党が政権をとる。
政権の常道。
747 :
739:2006/02/20(月) 14:25:46
井戸時代以前の小さな村とか集落みたいなところで
今で言う警察や議員、裁判官みたいな仕事をしていた人は誰ですか?
749 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:31:58
750 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:39:22
自検断とか地下検断というくらいだから、村の地侍の合議でしょ。
>>748 映画「七人の侍」を思い出したが、役割を持っている人がいるとか、類似の制度が
見うけられるとか言うと、地域や時代を限定しないとこれっという形では提示出来
ないんじゃないか。
752 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 12:49:38
地侍とは限らんのでは?
村の有力者の合議。
7人の侍みたいに、戦国の村は無力じゃないよ。
村の若衆は戦闘集団だった
753 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 12:55:16
よく落ち武者殺して鎧や刀奪って自慢しあったらしい
落ち武者殺しはスポーツ感覚
754 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 12:57:52
神社が登記所の代わりだったそうだけど
755 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 12:59:17
そうか 今の荒川区みたいなんだ
756 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 14:30:15
そのころのオランダって
インドネシア人の何割かをぬっ殺したり
餓死させたりしてなかったか?
よくそんなのと手を組めたな>江戸幕府
757 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 15:15:36
オランダがマタラム王国を制圧して完全にジャワ島を支配するのは18世紀後半、
悪名高い強制栽培制度が実施されるのは19世紀の前半。
いずれにせよ、幕府がオランダ以外の西洋諸国と関係を絶った17世紀よりあとの話。
>>752 西日本では、若衆は自警団でもあり、夜這いもしたという話があるが、
東日本がよく分からない。
759 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 16:28:17
質問です。初心者です。城スレッドから誘導されました。
わたしは天守閣内部の設計、構造に興味を持っています。
たとえば、階段はデパートのように、1階から最上階までジグザグ タイプに垂直な直通だったのか?
それとも、攻め込まれにくいように、1階登るごとに、天守閣の西のはし、東の端、と階段が移動していたのか?
畳の割合は どの程度で、木の床の割合は どの程度だったのか?
廊下(通路)のつくりは、どういう構造だった? たとえば、フロアの中央に十文字に木の通路があったのか、それともフロアの周囲にロの形に通路があったのか。
これらについて知っている人がいれば教えてください。
また、ネット検索しても、該当サイトが見つかりませんでした。
検索方法などをご指摘ください。よろしくお願い致します。
760 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:32:11
>>722 > 山川出版の日本史B用語集が支持されている理由ってのはなぜでしょう。
「頻度」がついてるから。センター試験は半分以上の教科書に載っている事柄を出題する
ことになっているので、山川の用語集が事実上の基準になる。
学校の先生も出題者もこれをみて問題を考えることになる。
761 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:42:01
大正天皇が崩御したときに殉死した人はいたんですか?
明治より前の天皇は生きてるうちにどんな諡号が送られるか予想はついたんですか?
763 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:53:39
明治の断髪令が出たとき、チョンマゲを切った人についての質問です。
彼らは月代がのびるのを待ってから切ったのでしょうか?
それとも、いったん丸坊主にしてから、のばしたのでしょうか?
まさか、月代を残したまま、先に髷だけ切ったとか・・・
今でも月代みたいな人いるじゃん。おかしくないよ。
765 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 18:54:50
自然の禿と人為的に剃った頭とでは、だいぶ見た目の印象がちがうと思うが。
766 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:06:34
幕末の大名や武士の写真を見ると総髪の人も多いから、そういう人はいまの力士のように
髷を落とすだけでよかったんだろうが、月代をバッチリ剃っていた人は困ったろうな。
明治初期の文明開化期の錦絵を見ていると、町人らしい人にチョンマゲがやたら多いんだが、
やっぱり月代剃ってる人はすぐには断髪できなかったのかな?
768 :
735:2006/02/21(火) 21:28:50
769 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:31:12
>>759 別冊歴史読本に城郭特集をくんでるものがあったとおもう
パラッっとよんだていどなので、どこまで詳しくのってるかわからないけど
とりあえず市内・区内の中央図書館で調べてみてください
770 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:09:38
759
ありがとうございます。大体わかりました。
771 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:20:10
772 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:55:05
>>748 良く知らないけど、刀狩りなどの兵農分離政策は、その辺の統治関係が村とかの単位で
細かくバラバラになっていたのを整理して、「公認の領主」の統治を強化するという
目的もあったのでは?
農村であれば名主とかは、元々はそういった「家」じゃないのかな?
少なくとも、徳川幕府が、何の土台もなしで、突然「この村ではこいつが名主をやる」と
命令して、それでスンナリ通るとは考えにくいような?
どうなのかな?
773 :
751:2006/02/22(水) 08:06:40
>>772 大体ご想像の通りだと思います。お役所の記録も少ないようで状況証拠しかない
と思いますが、
1.平安時代から上の役職の人は落下傘で来ますが、副職は現地の人を使う慣習
があった。(律令制がぐずぐずになるのは中央権力が浸透しなかったから)
2.源平の頃は落人が山の中へ逃げ込んで小さな集落を作った。
3.諏訪神社とか各地にあるのは同族が共同体維持の精神的支柱にしたと想像される。
共同体での取り決めを神前で行い実効を担保した。
4.江戸時代の代官も徴税業務は請負だったという話がある。上位の役所がこと細かに
手順の中まで監視していない。
5.応仁の乱の頃、山城で惣ができている。加賀の国では一向門徒衆の自治があった。
6.同時期京で僧による難民救済があったが、江戸時代の救済は天保の飢饉で全国に
広まった。逆にそれまで救済は稀だったから、自前でやっていた。
ということで、昔は結構自治能力に依存していた(逆に大家族だったのは生産手段のせ
いもありますが、生活保障の必要性もあった)と想像します。
別式女っていうのはいつ頃からいたんですか?
775 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:22:26
質問であります。
戦国時代にあった「釜いり」とは、どのような処刑方ですか?
水や油を大釜で沸騰させ、罪人を放り込んで茹で殺すものですか?
それとも熱した釜で、炒め殺すものですか?
加賀の国で前田利家が一揆の捕虜を「かまいり」で処刑した、との瓦文書があったので、
気になっているんです。
うろ覚えだけど、釜煎り=釜で炒め殺す方法だったはずだよ。
湯を沸騰させた釜に放り込むのは、釜ゆでだと思う。
777 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:48:14
>>775 >水や油を大釜で沸騰させ、罪人を放り込んで茹で殺すものですか?
そう。
ちなみに、その釜は脚を抱えるようにしないと入れないほど、小さなもの。
回答でも意見が錯綜していますなぁ。
茹で殺しか炒め殺しか。
779 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:49:47
釜いりは「釜煎り」ではなく、「釜入り」
780 :
772:2006/02/23(木) 02:21:00
>>773 なるほど。知らなかったです。というのは単なるこちらの不勉強ではありますが、具体的な実態の
研究というのは、非常に興味深そうですね。
> 加賀の国では一向門徒衆の自治があった
これは記憶にありますが、その「自治」というのが、特定の宗門を核としていたから特記されている
だけで、侍による統治も、実質的には似たようなものとか?
後北条の「小田原評定」とかも、最後には優柔不断の代名詞のようになってしまったものの、本来は、
連峰の合議制のようなものだったとか。
>>780 >>後北条の「小田原評定」とかも、最後には優柔不断の代名詞のように...
早雲は戦国の梟雄と号されますが、税率も(相対的に)低く、何やら今の共和制の
ような匂いがちょっとします。共和制の弱点は意思決定の遅さに現れるのだろうと
思いますが、当時としては秀吉の強権力の前に敗れた。
民度が低いと共和制も他との対抗上はうまく行かない例でしょう。ナポレオンが
権力を握ったのもそういう背景があったんだろうと思いますね。
身の丈の民主主義と言えばそういうことですが、今の国会の論議も他の国からは
オ笑いではないかとちょっと気になります。常任理事国は至難ですねえ。
余談ですが、昨夜3チャンネルで湯布院の町起こしをやっていて、町のどこから
も由布岳が見えるように高い建物を規制した話がありました。その言いぐさが
昔からご神木より高い建物は建てないという言い伝えがあると進出企業を牽制し
たということでした。お宮の権威を(マダ)利用しているんですねえ。
3チャンネル・・・
783 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 12:22:52
いきのいい質問はないのかな?
785 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 14:44:23
>>781 単に領主の力が領内の各種勢力に比べ
相対的に弱いってだけっしょ
上杉謙信ですら領内勢力の結集には苦労していて
武将達の反対によって
起こしたほうが望ましい戦闘を止めさせられたってケースもある。
786 :
初心者君:2006/02/23(木) 15:50:24
江戸時代の株仲間って具体的にどのように営業を独占したのですか?
787 :
初心者君:2006/02/23(木) 15:53:38
あ、あと両替商って金銀を交換して利益を得たっていうけど、金と銀
を交換するとどこで利益が発生するんですか?価値が少し高いものと
交換したってことですか?そしてその対照は町人ですか?すみません
連続で。
788 :
初心者君:2006/02/23(木) 16:14:17
すみません質問です。
江戸時代の庄屋、組頭、百姓代の違いはなんですか?
打ち壊しは米を買い占めた商人にどの身分が行ったんですか?
これは百姓一揆とは違い百姓が行ったのではないですよね?
789 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 16:26:49
天孫降臨の時、皇孫と共に降り立った神か二人いたが、片方の神は中臣氏の先祖
もう片方は忌部氏となった。
というのが伝説だけど、忌部氏の嫡流は今どうなってるの?
790 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 17:17:26
自分の先祖調べようと思ったら、まず何から調べれば良いですか?
家系図を調べようにも焼失したらしので、どこから手を付けて良いやら分りません。
誰か教えてください。
791 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 17:53:33
>>789 いちおう不明になっているけど、社家とかに残っています。
>>790 戸籍 過去帳 墓石 etc
792 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 23:03:51
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
795 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 11:45:26
796 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 11:46:26
忌部氏の子孫で有名な神社の家をいうと?
797 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 13:53:29
798 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 13:55:12
いきのいい質問はないのか?
799 :
金賞祝賀記念:2006/02/24(金) 15:43:35
もう過ぎてしまったが、2月の初午の日は江戸時代後半、江戸でどの家でもお祭り
騒ぎをしたようですが、本家の関西では静かなのに、なぜ江戸で流行したのでしょ
うか。イキ馬の目を抜く質問でなくすみません。
800 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 15:46:43
大義名分論というものがどういうものなのか、調べてもイマイチよく分かりません。
例えば、竹内式部は公家に天皇マンセーな論(大義名分論)を説きそのために重追放に
なったとされていますが、大義名分論と天皇マンセーがどのようにつながるのか教えて
下さい。
801 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 16:23:31
>>799 江戸ばかりでなく、関東・東北など東日本でさかん。
それは稲荷講が東日本でさかんだったから。
稲荷講が東日本でさかんなのは、土俗信仰と結びついたのではないかと
考えられる
802 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 16:25:05
>>799 江戸の中期後半に広まったのは流行神的要素がある。
803 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 16:29:30
>>800 「幕府、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を尊び、諸侯、幕府を崇べば、
すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。
夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す。甚だしいかな、名分の正しく且つ
厳ならざるべからざるや」
尊王思想だが、過激な勤皇思想とは違う。水戸学的な概念。
ただし、「大義名分」という言葉が普及したのは近代。近世ではあまり出てこない。
804 :
800:2006/02/24(金) 17:06:07
>>803 なるほど、よく判りました。
要するに、《各々が各々のあるべき立場をわきまえれば、世は丸く治まる》という
ことですね。ただ、この思想に基づくと天皇が幕府より置かれるので、当時の関白
を初め、幕府方が反発した……と。
どうもありがとうございました。
805 :
金賞祝賀記念:2006/02/24(金) 18:48:04
>>801-802 レスを有難うございます。しかし自然発生というのも不自然。
誰かが仕掛けたか、信仰上の新設を唱えるヤカラが出てきた、やって来たという
のがあるはずと思うのだが。
天保の改革前後は節約と浪費とが交互にやってきた時代で、みんな気狂いしたの
か。なら、関西はなぜ狂わない。大塩は騒いだけど。
806 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:33:47
807 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:42:51
江戸時代の朝鮮通信使は、来るだけですか?
日本側から王の代替わりなどに使節は行かなかったのですか?
鎖国のこともありますが、あのプライドまみれの國が、
自分たちだけ、臣下のように行列くりだすのは不自然だなと思いまして・・
808 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:58:10
戦前の国会で佐藤某という軍人が「黙れ」と発言した事件がありますがあの事件の
いきさつは?そしてその後の結末は?教科書か資料集に載ってた新聞の記事の端っこに、その
後発言を陳謝したと書いてましたが
810 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:58:57
>>807 対馬藩が担当して使者を派遣していました。朝鮮側はソウルまでの道程を日本に知られたくなかったため使者を釜山より内陸に入れずに応答が続けられていました。
812 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 14:03:25
>>806 「ハン板でやれ」ってはっきり言われないと分からんの?
人種差別でゆがんだ「愛国心」なんて
おなかいっぱいなんだよ。
>>808 しかも宮脇長吉も元陸軍軍人で、さらに佐藤賢了の元上官でもあったので
現役軍人の増長として大きな報道となったと。さらに言えば宮脇長吉は宮脇俊三の父。
父親が政治家で全国を鉄道で移動するのについて回ったおかげで息子は鉄となると。
>>787 引替手数料を徴収した。
これがかなりの額で、両替商の基本的な收入源だった。
通常は、改鋳されると相場が下落する為、為替取引きで收入を得ることは難しかった。
日本の銀行の手数料は外国に比べて高いといわれてきたが、この伝統があるため。
815 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 16:00:14
藤原氏五摂家の序列はどうなっているのですか?
筆頭は近衛家だと思いますけど。
>>815 筆頭は近衛なんだけけれど、江戸時代の名目上の禄高は九条が僅かに上。
でも、近衛の家領は池田とか伊丹とか商業地なので収入は一番だったとか。
いやいや日本人のバランス感覚とはなかなか複雑なもんですな。w
鷹司は近衛の分家、二条一条は九条の分家なので基本的には一枚落ちます。
817 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:40:07
>>816 回答ありがとうございます。
なるほどといった感じがしますね。
五摂家以外も藤原氏には有力な家がありますが、
序列では五摂家に劣るのでしょうか?
例えば西園寺、冷泉、京極、日野などなど。
818 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:43:16
「大義名分」論は幕府側に都合の良い論理。
文治政治で従わせるための理論武装。
その証拠に、幕府以外が天皇と結びつくことを、
幕末まで許していなかった。
819 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:49:05
こっちも藤原つながりで質問なんだけど
中臣鎌足は中臣氏の当主、嫡男だったの?
820 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:00:50
>>809 >>813 レスありがとう。その事件の後始末はどうなりましたか?なんらかの
形で佐藤は処分は受けたのでしょうか?
821 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:04:32
明治以前の天皇って神道ではなく仏教だったんですか?
822 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:08:20
Wikipediaから引っ張ってきたけど、
五摂家>清華家(徳大寺・西園寺等)>大臣家(中院等)>羽林家(冷泉等)>名家(日野等)>半家(高倉等)の順番みたい。
824 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:17:53
菅生事件て何ですか?
>>820 一応、杉山元に怒られたが特にお咎め無し。
その後も東條の一の子分として困った方向で大活躍。
A級戦犯として終身刑も出獄後は同じく東條の息がかかってた
五島慶太に拾われて東急の子会社の社長をやって寿命で死んだ。
辻〜んとならぶ石川が生んだ傍迷惑な陸軍軍人。
826 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:34:32
827 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:42:11
828 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:43:12
829 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:43:59
神道が宗教化したのは明治初年の神仏分離令から。
830 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:46:20
>>829 伊勢神宮は遥か皇統と共にあるんですが…
831 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:48:28
仏教伝来以来天皇家は仏教の擁護者として存在していました。
832 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:50:42
もともと神道は天皇及び皇祖神への尊崇が人々にあってそれが明治に形になったにすぎない。
俺の家も周囲の家も先祖代々神道だ。
神道信者でないのは外国からきた人だけ。
833 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:51:50
御寺(みてら)泉涌寺を知らんのかえ。
834 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:56:15
>>832 >>先祖代々神道だ。
神棚があって仏壇がある、それが日本の普通のかたち。
835 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:56:24
836 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:28:26
日本と中国、韓国との歴史問題がよくわかりません。
一冊でわかりやすくまとめているような本があったら、紹介お願いします!
太政官制度について、初心者が大まかに学べるような
本はないでしょうか?
官職要覧を手に入れたのですが、それよりもっと粗くても
よいので読みやすい本があれば、教えてください。
838 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 02:08:33
>>836 ハン板でやれって言われてんのにまだ懲りないわけ?
ヴァカはさっさと死んでくれ。
>>813 その辺は知らなかった。士官学校の教官:生徒ではなくて?
それはともかく、宮脇俊三の鉄趣味は元々の素質の問題ではないかと。
842 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 08:31:22
>>841 はいはい分かったからハン板に帰ってくれ
843 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 09:55:14
鎌足は中臣氏の嫡男・当主だったのですか?
これって本当ですか?
■やっぱり日本軍は鬼畜■
ドイツの連合軍捕虜死亡率 7%
ドイツ・イタリアの連合軍死亡率 4%
シベリア抑留の日本軍死亡率約10〜18%
日本軍クワイ河捕虜収容所の連合軍死亡率30%
アジア地域英軍捕虜死亡率25-28%
オーストラリア、カナダ、イギリス、ニュージーランド、アメリカ、オランダ
の連合国の捕虜総数132134名。死亡率27%
ドイツ軍収容所のソ連軍の捕虜死亡率50%
日本軍の捕虜の死亡率は高く ナチスドイツの捕虜と比べ7倍以上の死亡率を出した。
英軍が第二次世界大戦中に経験した苛酷な戦い、例えばノルマンディー上陸作戦や
ビルマ戦などと比較してもはるかに高い数値でした
>844
数字は出鱈目
それを書いた香具師は戦史の素人だというのは記述からみても明らか
846 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:32:41
球根栽培法って何ですか?
847 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:57:34
平安王朝時代の後宮について、以下の点が分かりません、どうかご教授を。
1.女御、尚侍、更衣、典侍の身分は、おおむねこの順番でいいのでしょうか?
2.女御や更衣は必ず位階をもらったのでしょうか?
3.女御、更衣は自分の身内や女房などの一グループで一つの殿舎をまるごと
独占できたのでしょうか?それとも他家のグループと区分したのでしょうか?
その場合一つの殿舎に何団体くらい入るのでしょうか?
4.後宮の殿舎に女君の親族はどの範囲まで入居してもいいのでしょうか?
母親や幼い弟、いとことかは? 成人した兄弟はダメですよね?
5.殿舎の格付けは決まってたのでしょうか?藤壷、こき殿はどっちが上とか。
古くは貞観殿が後宮の正殿だったそうですが、貞観殿は特別扱いされないのでしょうか?
6.掌侍は原則としてお手つきにならない職種と理解して良いのでしょうか?
848 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:19:18
近世の外様大名の出自を守護大名、旧族大名と織豊取立大名に分類した場合、
肥後細川家や久留米有馬家はどっちになるのでしょうか?
和泉半国守護や摂津有馬の分郡守護だった由緒と、信長・秀吉に取り立てられて
近世大名としてスタートした事実とどちらを重視すべきでしょうか?
エライ先生の主観による
明治維新で薩摩長州土佐は色々討幕運動とかしてたみたいだけど、
肥前は何故政権中枢に入ることができたの?軍事力?
西本願寺と東本願寺が300mほどしか離れていない
非常に近くにあることを初めて知ったのですが、
江戸時代からずっとこんなに近いところにあって、
本願寺派と真宗大谷派が争いを起こしたり
しなかったのでしょうか。真宗大谷派の内部抗争
比べて、実は本願寺派と真宗大谷派の関係の方が
ドライで関係ないんでしょうか。
852 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:47:57
>>851 江戸時代大谷派は官立なみ。本願寺派は民間。喧嘩すると「この紋所が目に
入らないか」と負ける。明治以降はまあ地域的な縄張りの違いもあった。
今まではどっちもオトナだった。
853 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:58:18
室町時代や戦国時代の「被官」とはどういったものですか?
御家人などとはどう違うんですか?
856 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:48:34
>>854 倒幕には必要なだけの武力が足りなかったので、肥州に頼んだ。だから。
朝廷またはその代行権限者から下されるのが被官じゃなかったか。
>>851 いろんな意味での蓮如の存在の大きさだろうねえ。
(親鸞が今のように重視されるようになったのは清沢の登場以降)
宗教団体である限りは決定的な対立は教義上のものによることになるが、
蓮如登場以降は、真宗内でそのレベルの対立に至ったことはない。
最近の大谷派の抗争だって本質は教義上の問題じゃないし、
その程度の集散は本願寺派だって明治以降に興正派という例もある。
859 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 01:30:00
宗教なんてみんなクソさ
860 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 01:45:23
861 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 01:55:48
江戸時代、鎖国中でもロシアとかイギリスとか来たりしてますが交渉が必要な際は
何語を使ってやりとりしてたのでしょうか?中国人を間に立てて漢文でしてたんでしょ
うか?
862 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 02:03:19
ちょっと皆さんと質問が異なるのですがお答えいただくと嬉しいです
これから大学に入学し日本史学を専攻することになったのですが
いわゆるこれだけは読んどけ!という良著はありますか?
逆説の日本史は3ぐらいまで読んだんですが
斬新な日本史の新説というより
正しい日本史の理解を求めているのでちょっと違うなぁと思いました
できれば入学までに終わるようなボリュームがいいです
初心者ですがよろしくお願いします
863 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 02:11:16
865 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 02:21:51
>>863 ありがとうございます
いやなんか素人目から見ても、んな無茶な…っていうのが多かったので…
明日あたりにさっそくログ掘りたいと思います
>>864 ありがとうございます
書店で探したいと思います
866 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 02:23:08
>>864 あっあとまだ入学案内が来てないのでレポートとかはわからないです
もしレポートがあるようでしたらまた相談にのっていただけたらと思います
>>861 ロシアとはアイヌ経由で交易してたから通訳の確保に特に困ることはない。
英語は太田雄三の「英語と日本人」という本を読んだほうがいいと思うけど、
国防上必要になった時点で当然学習を始めている。まあオランダ語とは同じ西ゲルマン語だから、
蘭学の素養がある人間なら一から学ぶほどの苦労はなかったろう。
> 入学前にこれを読めとか
> レポート(つーか感想文)を出せとかの案内はなかったの?
最近の大学はそういう小さな親切だか大きなお世話だかよく分からん
世話を焼くようになったのか?
869 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 14:31:06
870 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 15:24:49
もう新しくないってw
内容は低レベル
871 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:25:12
塘沽停戦協定には満州国の独立を承認すると言う文言(またはそのようなもの)は
含まれているのですか?
872 :
864:2006/02/27(月) 23:37:10
>868
スマソ最近では無く前世紀の話・・・
むしろ最近の学部生は最初に何を読んでいるのかのほうが864には関心がある
873 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:56:51
伊勢市の市長が自殺したっていうニュースを読んで思ったんだが、
昔の人(戦国時代〜近代)でも自殺は多かったのかな?
行政に携わる人、町人、農民など。
>>872 なるほどね。とっくに大学卒業したオレなんかから見ると、本を読むのももちろん大事だけど、
大学前の時期なら是非ともパックツアーでない長期海外旅行して欲しいと思う。
>>873 何かを仕掛けて敗れて、最早是までと死ぬのはあったんじゃあね。
いじけてあてつけに死ぬみたいな、命を粗末にするのは少ないだろ。
伊勢といえば長島の一向宗の門徒は信長に抵抗して凄惨な戦いをした。
自殺行為に等しいが、信仰に殉じるとか、子や孫の代にはいいことが
あるだろうとか、ここは一発噛まして置こうとかあったんじゃね。
876 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 07:59:32
秀吉の時代にキリシタン大名達が日本人女性を奴隷として50万人輸出してたと聞いたのですが、これは確証のある話なのでしょうか?
877 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 13:29:20
犯罪を手帳につけると思うか?
878 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 13:35:10
879 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 13:37:09
880 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 15:14:18
南京事件とはどういうものなんでしょうか?
881 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 15:21:31
882 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 15:36:39
884 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 17:43:48
日本史について語ってはいけない日本史板……
885 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 17:49:51
世界史の方だと思ったよ
人の好意を無駄にする方が多いインターネッツですね。
888 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:59:44
皇學館や國學院を受験するには皇国史観の日本史じゃないと駄目なの?
889 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:05:14
山川の日本史B用語集(少し古く1996年発行のものなのですが)の
浅野長政の欄に『秀吉の妻の妹婿。幼少より秀吉に従う。五奉行の
首座、検地に当る。秀吉の死後政局収拾に苦心。関ヶ原の戦いで
家康に従う。紀伊から広島へ転封。』とあるのですが、
広島に転封になったのは彼の子供の浅野長晟の時では
ないのでしょうか?ご存知の方、よろしくお願いします。
そう、元和5年。家康の娘を嫁にして5万石加増。
三浦アンジン・シーボルト・グラバーって子孫いないの?
シーボルトは母国にはいるらしいけど。
895 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 09:33:08
シーボルトって長崎グラバー邸のグラバーに関係あるの?
896 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 14:15:02
ぐぐれボケ
897 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 15:31:20
↓なにごともなかったように次の質問どうぞ
899 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 05:45:07
軍事版で聞きましたら、日本史版でお願い、といわれて、参りました。
よろしくお願いいたします。
不敬罪でつかまりたくはないのですが、
天皇陛下も、京都にいるときは、
「まろ」とか「でごじゃる」
とか、おおせになられたわけでしょうか?
明治天皇が江戸城に来て、東京に変わってから言葉も変わったのでしょうか?
突然次の日から、でしょうか?
明治政府成立早々、各地の反乱鎮圧をしていますが、
でもって、最高司令官は明治天皇ですが、
京都言葉で近代軍を指揮しているところが想像できません。
明治憲法成立で天皇が明記されたころからでしょうか?
陛下の一人称は朕じゃないかと。
901 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 11:36:07
>>899 >不敬罪でつかまりたくはないのですが
釣りですか?w
902 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 13:28:54
>明治政府成立早々、各地の反乱鎮圧をしていますが
実際は何もしてないよ。まだ若すぎた。
天皇が戦争で直接軍を指揮するわけないだろ
明治憲法云々は法律板でやったほうがよくね?
906 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:32:17
県犬養橘三千代みたいに氏が重なっているってのは、どういう事なんですか?
日本は父系で、父方の氏を名乗っているのではなくて、両親の氏を次々と加えていったんですか?
907 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:33:20
県犬養橘三千代 の場合は
「県犬養」が元々の氏
「橘」は天皇からもらった物で三千代一代限りの氏
「三千代」が名前
と言うことでかなり特殊な例です。
日本の場合、基本的には父の氏を名乗って母親の氏を名乗るのは例外かと。
908 :
名無し募集中。。。:2006/03/02(木) 23:38:48
オランダ人って二百年以上も出島貿易みたいなちまちましたことやってて途中で嫌気がさして貿易そのものをやめようとはしなかったのかしら?
日本から見ればそうでもオランダから見ると対日貿易を独占してたわけだから
910 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 01:46:14
スレ違いだったら悪い。
兵糧攻めの作戦を破る方法わかる奴いないか?
兵糧攻めをやらせない
>>910 まず備蓄の兵糧の用意。
そして後詰め部隊が包囲軍に対峙。
後詰めが来た事により、包囲軍は前後を狙われる状況になる。
包囲軍が大人しく引き下がれば放置もしくは追撃。
包囲軍が決戦を挑むならある程度の戦力を城の包囲に裂いた上で戦わなければならない。
包囲軍がしつこくそのままの状態を保ち続けるのはまずできない。
何故なら地元の後詰めのほうが持久が効く。
後詰め部隊が相応の戦力を用意できなかったらそう上手くはいかないが。
913 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 03:07:18
つ備中高松城水攻め
>>913 それは地理的条件を利用した秀吉が素晴らしかったわけで。
別にいつでも
>>912が通用するとは言って無いよ。
915 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 07:33:38
>>907 県犬養って一つの氏なの?
じゃあ、「あがたのいぬかい」じゃなくて「あがたいぬかい」って読むの?
>>915 「あがた(の)いぬかい」と括弧書きされることもあるようで。
一つの氏なのだから、仰る意味での「の」をつけることは不適当ではないかということでしょう。
917 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 12:49:39
いきのいい質問はないのか?
918 :
日本@名無しさん:2006/03/03(金) 14:20:14
>>917 「オッス!オラ悟空。
オラのオリジナルは『西遊記』の孫悟空なのは知ってると思うけれど、
日本で広く知られるようになったのはいつ頃で、どんなきっかけが
あったのか、教えてくれ!」
919 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 15:12:00
スレ違いだったらごめんなさい
「姉川の戦い」の姉川とは、現代の地名では何処なのでしょうか?
922 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 16:01:34
923 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 16:24:27
日本での「西遊記」の紹介は、江戸時代、1758年(宝暦8)に刊行がはじまった
「通俗西遊記」(口木山人など)がはじまり。
完訳は、なんと戦後w
924 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 16:52:45
>>923 あんな煽りまがいの質問になんか答えるなよ
三国志好きなんだけど、邪馬台国論争があると聞いてやってきた日本史板初心者です。
読んでみると魏志東夷伝て、かなりトンデモな内容ですよね。
邪馬台国がどこにあったかなんて、プレスター・ジョンの国がどこにあったか議論するくらいファンタスティックな話だと思うんですが。
なんで畿内説、九州説がもっともらしく語られているのですか?
日本の歴史の出発点として、歴史教育の初めに置くほどのものなんでしょうか?
927 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 20:08:51
928 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 20:09:58
臣民は命をささげる代わりに給料とかもらえるの?
929 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 00:14:47
中曽根元首相の経歴見ると、昭和16年に東大法学部でて内務省に入省しているのに
たった五年後の終戦時には海軍少佐になっているんですがどういう事?
経歴からすると、100%文官じゃないですか?
しかも、海軍学校も出ていないのに20代で少佐って凄くないですか?
930 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 01:39:32
>>929 海軍少佐にはなっていない。海軍主計少佐だ。
931 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 01:44:17
>>930 >>海軍少佐にはなっていない。海軍主計少佐だ。
その違いは?
>>925 信憑性に欠けるから語るべきではないと仰るか。違う。
間違いなく日本列島内にあった、国家と言える(そして、呼ばれた)勢力が魏に朝貢したと
当時編纂された正式な歴史書に書かれている。これだけは疑問の余地がない事実だから。
畿内か九州か、邪馬臺国か邪馬壱国か、卑弥呼か天照かの真偽が問題ではない。
これ以前は考古学の世界。例え、そのころの物語が後世に残されていたとしても、
神話伝説を超えられるものではない。
だが、この邪馬台国は記紀の中にあり、単なる物語ではなく当時事実として扱われている。
これは歴史学の世界。それも、この国が一番古く認められている。
だから邪馬台国が日本の「歴史」の出発点として語られているし、また語るべきなの。
>>933 邪馬台国はウリナラ半島に有ったニダーって意見を聞いたことあるけど、無視して大丈夫?
935 :
899:2006/03/04(土) 05:25:04
いろいろありがとうございます。
>>901 >>902 >>903 そんなにいじめないでください。
おっしゃるとおり、朕でした。
まろ、は公家ですね。
いえ、ただ、日本史は、まったく素人で申し訳ないのですが、
京都言葉で合戦したのって、今川義元ぐらいかなあと思いまして。
優雅な貴族、と、総力戦って、両立しにくいイメージが。
演出しようとしたのは別として、
実際あったのは、W.W.Iのドイツぐらいかなあと。
すみません、お邪魔しました。
>>933 丁寧な答えありがとうござる。
ここは議論のスレでないので、もう一つだけ聞かせてください。
私は日本史には信憑性の乏しい二つの出発点があると思います。
一方は邪馬台国。これは海外の滅亡した国の記録にあるだけ。
一方は天下り伝承。これは自国の記録にあるだけ。
共に信憑性に薄いのですが初等の歴史教育では、一方は取り挙げ、一方は明らかな伝説として扱われています。
どういう根拠から、このようになったのでしょうか?
937 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:30:38
>天下り伝承
戦前は教えていたよ。
今でもこれが科学的事実だと言う奴なんかいるのか?
938 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:42:00
>>929-932 中曽根元首相が少佐になれたのは「短現」だったから。
これは海軍がエリートを抱え込むための制度で、消耗品の学徒兵とはわけがちがう。
それから、少佐というのは敗戦後の一律進級によるポツダム少佐だろう。
あと、主計であれ軍医であれ少佐とか大尉とか階級名がつけば武官。
海軍部内の文官は海軍教授などで、軍人の階級はつかない。
939 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:49:19
そういうのは軍事板でやれ。
ここは学問板だぞ。
分かってんの?
940 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:30:40
聖徳太子は中国人か朝鮮人なんですか?
941 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:34:35
こういう考証も公家官位や武家の役職の考証と同じで、歴史学の範疇だろ。
942 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:59:27
海軍ってエリートな部分あったのは知ってたけど
>>938みたいな制度まで
あるのは知らんかった
944 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 12:47:59
>>944 帰化人の血が混じってたという事だと思う。
また荒らしが来た。つーか春厨か・・・
朝鮮ネタはハン板でやれ!
947 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 13:52:21
>>945 それは蘇我の血が帰化人と言うことですか?
それとも曽我とは関係ない帰化人ですか?
948 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 13:57:14
>>941 そんなことを言い出したらキリがなくなるだろうが。
アニメだってスポーツだって「日本史の一部」ではあるんだぞ。
この板で延々とガンダムの歴史とかやられたらどうするんだ?
それ専用の板があるならそっちでやってもらう。
それが筋ってもんだろうが。
949 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:07:41
応神大王が金官加羅から渡来。
蘇我氏も百済人。
950 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:24:09
韓国が、日本より後世に作られた前方後円墳を壊してると言う記事。
任那が日本の属国であった可能性の証拠隠滅をしてるってやつ。
http://members.at.infoseek.co.jp/konrot/bunka08.htm ところが、よくよく調べてみると、日本の前方後円墳が3〜5世紀に作られたのに対し、これらの韓国の前方後円墳は
5〜6世紀に作られていたことが分かってきた。
さらに韓国の前方後円墳の出土物に日本の埴輪に酷似した土器類が発見されたのだ。
常識的に考えれば、この韓国の前方後円墳が作られた当時に日本から有力な豪族がやってきて当地を治めたか、
若しくは日本からの何らかの影響が古代朝鮮にあったと推察される。
そう、だからこそ韓国ではこの古墳を黙殺しているのである。
さらに驚くべき事にこの発見が無かったことにするために国家による埋め戻し作業が行われたという話を聞いている。
951 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:28:48
韓国はベトナムで人を食べまくっていますよ
奴らが言うには出来るだけ殺した直後の生の肝臓が美味いらしい
爆撃跡のベトコンの死体集めを率先してやった韓国軍は
米兵からはグール(人食い)として蔑まれました
ベトコンの死体の写真に脇腹を裂かれいる写真が多いのは人食いの証拠
レイプと殺戮と人食いしたと自慢する韓国じいさんは多いですな
952 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:49:12
953 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:00:06
>>948 >この板で延々とガンダムの歴史とかやられたらどうするんだ?
それはそれでひとつの歴史なんだから、俺はいいと思うが?
>>951 まぁ、人間の肝は日本でも食われていたけどね。
食ってたって常食じゃねぇだろうに。
955 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:09:23
956 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:24:58
>>953 お前の印象なんかどうでもいい
「ガンダムの歴史」を日本史板でやってもいいという客観的なデータを見せろ
957 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:53:42
>>956 その前に「ガンダムの歴史」を日本史板でやったらいけないという客観的なデータを見せろ
958 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 18:22:00
>>257 日本の歴史じゃないから。
100歩譲って日本の近代における文化の縮図の歴史である、と屁理屈捏ねても近代のモノだからこの板じゃなし。
959 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 18:30:19
960 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 18:44:26
>>958 それならば
「日本における中曽根康弘の歴史」と
「日本におけるガンダム文化の歴史」とでの違いが説明できてないよ。
前者がOKで
後者がだめだという違いは何だ?
961 :
958:2006/03/04(土) 18:45:54
少なくとも「日本の歴史」ではなかろう。
地 球 連 邦 の 歴 史 で つ
ガンダムの中の歴史を言ってたのか
わかるわけねえだろ
963 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:01:32
>>961 ガンダムの歴史と、ガンダムの中の歴史の違いぐらいわからんか?
964 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:23:02
>>961 「日本でいかにガンダムが誕生し
日本国内にどのような影響を与え
日本国内でどういう発展を遂げたかの歴史」
と長く書いてやらんと分からんか?
965 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:29:30
ガンダムって幕末以前に放映されてたの?
んでその時代に歴史的ブームにでもなったの?
966 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:42:30
日本におけるアニメの歴史、SFの歴史
967 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:16:48
968 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:39:01
>>967 昭和史や戦後史は近代史板です。
2チャンネルは公共の場です。マナーを守ってたのしみましょうよ。
969 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:58:14
970 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:00:43
日本史板は近世以前板じゃない、日本史(全般)板だろ?
971 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:01:55
>>968 2ちゃんでマナーを守って云々は爆笑するところでしょうか?w
972 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:07:45
969から971はいつもの自作自演の天オタ
自分の意見に他人が賛同しないから自作自演
IDが表示される板は虚しくなるから行けない
973 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:15:36
日本史板を実質、近代天皇板にしたがってるヤツが多いよな。
>>964 >>958を良く嫁
>100歩譲って日本の近代における文化の縮図の歴史である、と屁理屈捏ねても近代のモノだからこの板じゃなし。
975 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 22:12:51
合戦の最初によくやる
「やーやーやー!我こそは●●の○○なり!」を源義経がやらなくなってから
合戦前の自己紹介はなくなったと聞いたんですが本当ですか?
976 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 22:44:59
>>974 お前こそよく読むように。
こちらは「中曽根史オッケー、アニメ史ダメー」の差は何なのだと聞いておる。
977 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 23:00:31
源義経、平知盛、織田信長、豊臣秀頼...
歴史上の人物って日本に限らずよく自殺しますよね?
何で敵に捕らわれる道ではなくて自殺を選ぶのでしょうか?
敵に捕らえられた場合、物凄い拷問、
又は辱めを受ける、又は串刺しにされて晒し首にされるのを嫌がるからですか?
978 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 23:01:32
串刺しにされて晒し首にされるのが嫌だから自殺するのですか?
979 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 23:16:24
勝海舟が日本人は何かあるとすぐ腹きれば済むと思っている。生きて事を成し遂げたのは山中鹿之助と大石内蔵助だけだと言ってたな。
>>893-894 ありがとうございました。
日曜にTBSで放送された竜馬の番組に倉場富三郎の自殺の逸話が出ていて
気になったんですが、ちゃんとご子孫はいるんですね。
グラバーの子孫は6代目か7代目ぐらいになるのかな?
ダブル・クォーターはよくいるけど1/64外国人の人って
どんな雰囲気の顔なんだろう。
982 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 16:19:50
大将ともあろう者が、雑夫足軽風情の手にかかって死ぬのは恥、と思っていた感があります。死してまで辱められるよりは、潔く散る。
散る桜残る桜も散る桜─良寛
984 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 21:30:46
>>981 倉場富三郎の妻もハーフなので、彼らの子(グラバーの孫)はクオーターではない。
987 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 23:29:30
そっちの板は質が悪スギ
回答者もろくなのいねえ&放置当たり前
>>987 こっちだって似たようなもんじゃねーか
学問板だとかプライドだけは高いけどなw
989 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:52:20
石田三成は隠れていた。捕まって家康に、なぜ自害しなかったのかと
聞かれたところ、再起を図るものは死なないと答え家康を感心させている。
こういう例外もいるけどね。
徳川慶光は公爵なのに、戦時中は二等兵として召集されていたそうですが
これは軍部による名門いじめの一環ですか?
991 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 10:31:23
東條の嫌がらせです
四代将軍家綱の二人の弟、甲府侯綱重と館林侯綱吉の苗字について質問させて下さい。
検索すると、松平○○・徳川○○、と両表記あるのですが
併用されたのでしょうか?それとも後に徳川姓を与えられたのでしょうか?
993 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 00:17:33
坂本龍馬か坂本竜馬どっち???
>>993 「龍馬」と「竜馬」についてですが、龍馬自身は「竜」の字は一度も使ったことがありませんので、
当館では「竜馬」という表記は絶対しないようにしていますが、当館以外では、「龍」という字が
難しく、常用漢字でもないという理由から、龍馬自身は一度も使ったことが無いと知りながらも、
使っている人や出版社もあるようです。特に小学生向けの出版物などでは、難しい字は使い
たくないということで、「竜」の方を使っている場合が多いようです。
「竜馬」が一般的になったのはやはり、司馬遼太郎氏が書いた「竜馬がゆく」の影響だと
思いますが、なぜこの字を使ったのかはわかりません。
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/framepage.htm 司馬はこれについて「従来の像にとらわれず、(そして実在の龍馬と区別する意味で)
態と竜馬と書いた」といっているそうです。