【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】
952 :
日本@名無史さん:03/08/22 00:03
>>949-950 カギ括弧がついているところを見ると、引用のように思われますが
引用元を明らかにしていただけませんか?
>949
>950
>951
丁寧な解説有難う御座いました。
参考になりました。
もう一つ質問なのですが。
平安時代の双子は不吉の枠に入るでしょうか?
当時にもし双子が生まれたとしたら、どういう処置をとったのか
ご存知でしたら教えて頂きたいです。
重ね重ね申し訳ないです。
954 :
日本@名無史さん:03/08/22 09:11
>>952 >>950は長島信弘氏
>>949は大藤ゆき氏
で、出展は平凡社大百科事典。
>>953 947氏
かつては男の三つ子が生まれれば泰平の世が来るとされ、衣類を贈っている。
文武天皇も双子を大舎人に取り立てた。日本武尊も双子であるし、畜生腹と
いう禁忌は後年のものである。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/2954/zatu.html というのがありました。
奈良時代あたりまでは蔑視はされてなかったといえるのでしょうか。
江戸時代には「畜生腹」という言葉が使われたのは確認されてるようです。
平安時代はわかりませんでしたが、江戸時代などでは双子は、片方を養子に出して
いたようです。
個人的には、双子はあまり歓迎されてなかったのではないかと推測しますが、
根拠となる分権はわかりませんでした。殺すことはなかったと思います。
よそに預けたのではないでしょうか。
なお、現在でも「畜生腹」と言う言葉を使う人はいるようです。
>>954 丁寧に有難う御座いました。
参考になりました。
956 :
日本@名無史さん:03/08/22 21:47
近藤勇は農民の出だった、とよく書かれていますが、八王子千人同心の家系のはずです。
それなら、武士だったのではないでしょうか。
957 :
日本@名無史さん:03/08/22 22:05
宮川家って八王子千人同心でしたっけ?
958 :
日本@名無史さん:03/08/23 01:51
>>956 八王子千人同心は人別帳に記載されます。
つまり百姓身分です。
ですからふだんは苗字を名乗ることができません。
>>958 お答えありがとうございます。
「千人同心は武田家の家臣たちだった。江戸の西側の防備を固めるために家康が連れてきて移住させた」と
聞いていたので、ずっと士分だと思っていました。
社会が安定するにつれて防備の意義が薄れて、農民扱いになってしまったんでしょうか。
960 :
日本@名無史さん:03/08/23 09:50
>>959 八王子千人同心は幕府の郷士です。
村上直編『江戸幕府八王子千人同心 』という本が出ていますので
詳しくはこちらをご覧下さい。
961 :
日本@名無史さん:03/08/23 09:54
>>959 >武田家の家臣
そういう家もあったようですが、ごく一部のようです。
962 :
日本@名無史さん:03/08/23 09:58
>>960 幕府には郷士という身分も職制もありませんが。
963 :
日本@名無史さん:03/08/23 10:00
>>962 表現が舌足らずでした。
藩領における郷士にあたるものと書くべきでしたね。
964 :
日本@名無史さん:03/08/23 13:48
>>958 人別帳に記載される点はご指摘の通りですが
一方で彼らは一般の御家人と同様に目安箱への投書を禁止されており
この点では武士身分と同じ扱いを受けています。
したがって基本的には兵農未分離状態の特殊な階層とみるべきでしょう。
965 :
日本@名無史さん:03/08/23 20:12
>>964 うろ覚えですがたしか
江戸も中期になると武士としての待遇をもとめて罰せられています。
そのときの罰も武士のそれではなく百姓町民のそれだったと思います。
966 :
日本@名無史さん:03/08/23 20:40
>>965 >>964に書いたのは享保期の状況です。
あなたが指摘される事件が何なのかよくわかりませんが
たしかに安永6年のいわゆる「苗字一件」の結果
千人同心は人別帳をはじめ地方の諸書物に苗字を記してはならないこととなり
その地位は低下したとされています。
ただし寛政7年には人別帳に千人同心という肩書きをつけることは許されていますので
やはり純然たる農民身分ではないと言うことはできると思います。
967 :
日本@名無史さん:03/08/23 22:31
ご存知の方がいらしゃったら教えて下さい。
平安時代の姫君の実際の名を知るのは夫と母親だけ
とネットで見かけたのですが、それはいつからいつの時代までなのでしょう?
見かけたところでは、その事を「名乗り」と記してあったのですが…。
ご存知の方、御願い致します。
968 :
日本@名無史さん:03/08/24 00:06
>>956 近藤勇の生家宮川家は農民、近藤家が八王子千人同心で養子に入った。
969 :
日本@名無史さん:03/08/24 00:50
>>968 近藤勇の養父、天然理心流3代近藤周助は八王子千人同心ではないと思いますが。
2代近藤三助の孫登右衛門は千人同心となり、後に組頭もつとめていますが
天然理心流の宗家は門弟で多摩郡小山村の名主島崎休右衛門の三男であった周助が継いでいます。
したがって近藤勇は千人同心の家に養子に入ったというわけではないと思います。
歴史の先生が足軽だと言ってたよ
972 :
日本@名無史さん:03/08/24 01:06
道場主というのは農民身分なんですか?普段は士装してないの?
973 :
日本@名無史さん:03/08/24 01:13
>>972 天然理心流初代近藤内蔵之助は遠州出身ということ以外、その出自はよくわかっていません。
2代近藤三助は多摩郡戸吹村の名主坂本戸右衛門の長男として生まれ、20歳前後で内蔵之助に入門、その死後2代目を継いでいます。
どうなってんだよ、みんな全然噛み合ってないじゃん。もう少し注意して日本語読もうよ!
どうなってんだよ、みんな全然噛み合ってないじゃん。もう少し注意して日本語書こうよ!
976 :
日本@名無史さん:03/08/24 10:08
要するに近藤家は八王子千人同心の家ではない。
977 :
日本@名無史さん:03/08/24 10:27
>>967 姫というのは、上級公卿の娘をさすのでしょうか。
自信はありませんが、上級公卿では江戸時代でも続いたかもしれません。
ただし、武門では、女子の土地相続等の関係で鎌倉期には名を名乗ってた
と思います。
詳しい方いましたら訂正をお願いします。
978 :
日本@名無史さん:03/08/24 13:24
忌み名ってやつですか?
ご丁寧に有難う御座いました。
参考にさせて頂きます。
>>977 そうです。
上級公卿の娘さんの事を指します。
説明不足で申し訳ないです。
やはり○○姫というのが愛称であって、
本名は母親と夫のみが知るというのは事実のようですね。
>>978 忌み名、そうですね、忌み名の事なのかもしれません。
見かけたサイトには名乗りと記してあったので、
そればかり頭にあって、忌み名の存在を忘れていました。
981 :
日本@名無史さん:03/08/24 17:03
>>980 八王子千人同心の原型は、武田氏の小人頭に率いられた同心集団です。
武田の家臣団編成は在地の名主層(有力農民)を家臣の末端に組み入れる寄親−寄子・同心制がとられていることが多く、
この同心集団も名主層で構成されていたと考えられています。
すなわち兵農未分離状態にあります。
武田氏の滅亡後、徳川家康は、甲斐・信濃の支配にあたって武田旧臣をできる限り登用しますが
甲斐9口の防衛にあたっていた小人頭とその配下の同心集団も、徳川の家臣団に組み込まれ、国境警備を続けます。
天正18年家康の関東入国とともに小人頭は約250名の同心を引き連れ、八王子に移ります。
翌19年小人頭を1名増やし、また新たに諸家の浪人250名が召し出され、同心500人(1組50人)の体制となり、
慶長5年関ヶ原の戦いに備えて諸家の浪人を召し出して500人が増員されます。
このような経緯をたどって千人同心成立したわけですが
武田氏時代の兵農未分離状態を引き継ぎ
同心は30俵1人扶持から10俵1人扶持の俸禄を支給されるものの
公務に携わるとき以外は代官・領主の支配を受けています。
豊臣秀吉は太閤検地などのいわゆる兵農分離政策で
それまで必ずしもはっきりしていない部分があった武士と農民の区別をはっきりつけたわけですが
郷士や八王子千人同心のように、区別がつけられないまま残った者もいたのです。
ある方向からみれば武士、ある方向からみれば農民
極めて大雑把に言うと、そういうものだと考えればよいと思います。
983 :
日本@名無史さん:03/08/24 17:21
うちは武田信玄の旧臣で江戸期は信濃の名主でした・・・なぜうちは登用されなかったんですか?戦国期は一城の主でしたけど。
せめて郷士ぐらいにしてくれなかったの家康ちゃん。
984 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:13
「長門等の国」という記述を見たのだが、何処のことだ?
そもそも何て読むかもわからんし・・・。
985 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:15
986 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:16
>>984 長門国とその周辺国、みたいな意味での「等」じゃないの?
987 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:32
>>984 >天平11年3月、甕原離宮行幸。同年5.25、三関国(伊勢・美濃・越前)、陸奥・出羽・越後・長門等の国、及び大宰府管掌諸国を除いた国々の兵士を停止(天平18年12月旧に復す)。
ググってみると、こんなのに当たりましたが、これのことでしょうか?
988 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:40
>>983 家康の誘いに応じなかったのかも知れませんね。
天正10年10月に家康は武田旧臣から起請文を集めて、遠江国秋葉神社に奉納しています。
これが「天正壬午甲信諸士起請文」ですが
『新編甲州古文書』(角川書店、1966〜69年)に収録されていますので
ご先祖の名前が出てくるかどうか確認されてはいかがでしょうか。
またこの起請文については
柴辻俊六「『天正壬午甲信諸士起請文』の考察」(『古文書研究』3、1970年)という論文があります。
合わせてご参照下さい。
989 :
日本@名無史さん:03/08/24 18:51
>>984 「ながと(長州=山口県西半分)」とう(など・ら)のくに
>>987 、989
すみませぬ。正確には「長門等の国司」、「長門等の守護」(前に他の国
がつかないで)といった記述を見つけ、ググってみて987のやつを見つけた
ので「国」だと思ってかいたのですが・・・。
991 :
日本@名無史さん:03/08/24 19:01
>>988 >>家康の誘いに応じなかったのかも知れませんね
そうかもしれませんね!あの辺の名主層は武田家旧臣なんでなんかあったのかもしれませんね!ありがとうございます。
調べてみます。
992 :
日本@名無史さん:03/08/24 19:05
993 :
日本@名無史さん:03/08/24 19:07
次スレまだ?
994 :
日本@名無史さん:03/08/24 19:35
梅田
うめ
ume
1000
1000
1001 :
1001:
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