【九州説】邪馬台国畿内説ni議論を深めよう【厳禁】

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952日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:08:19
>>950
向野田古墳
953日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:15:08
それは前方部がマキムク型よりは発達した普通の前期古墳だが。
また出土埴輪や石棺型式から4世紀後半から末(前期末)の古墳ですが。
954日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:37:54
マキムクの段階で、西日本全体をまとめ上げるような統一国家の成立を見るのは、
寺沢の単なる夢想ではないのか?
前方後円墳体制とは、強力な統一王権が誕生したことによるためではなく、
各地のオウたちがそれぞれ自発的に、魏のバックアップを受けた畿内文化を
取り入れたに過ぎないと思われる。
この頃の畿内王は三輪山の宗教的権威(鬼道)で君臨し、軍事的に圧倒していたとは
思われない(鉄の分布からも)。あくまで紛争の仲裁者、各国間の利害調停者ぐらいでは
なかったか。

倭王に任じられた畿内王は、対外的に倭国の代表となり、外交権を掌握。
半島を通じて得られる舶載の文物・技術などは畿内王により一括管理され、
相対的に北部九州の緩やかな地位低下をもたらす。
各地のオウたちは前方後円墳を造ることで、「自分たちのバックには倭王=畿内王
がついているぞ」との権威付けになり、各々が地域支配権強化に積極利用したのではないか、
と思う。
9551001:2006/03/14(火) 01:06:15
>>954
私もそんな感じだったと思います。
ただ、倭人伝で語られる「倭王」の権威は絶大です。
その権威は遅くとも三世紀初頭には確立されていたとも思います。
そして、それは宗教的要素だけでは生み出されないとも思います。
私は畿内勢力が権威を掌握できた原動力を私は生産性の向上に求めます。

相当程度の治水・土木技術を有し、中河内で低湿地の水田化に成功した集団。
九州・瀬戸内との交通・輸送手段も有し、瀬戸内ルートで鉄器を確保できた集団。
八尾に多い龍刻土器などのように外来の神仙思想を弥生文化に取込める集団。
庄内式を生み出した高い技術力を持つ集団。

そういった条件を満たす集団が、河内や播磨などから大和に進出し、
唐古などの在地勢力の抵抗の少ない未利用地(纏向)を開発。
多大な生産余剰を生み出せる新興「国」が誕生したとします。

その「余剰」を求めて、開発が飽和状態になっていた周辺地域から
さらに人々が集い、再び技術力・生産力が飛躍する。
そうして出来た大勢力が、西日本全体の求心力となり「権威」も獲得した。
そんなところが私の描く邪馬台国モデルです。
956日本@名無史さん:2006/03/14(火) 05:53:11
その開発の出資元に北部九州勢力の一部がいたのでは?
957日本@名無史さん:2006/03/14(火) 05:58:30
なぜ巍のバックアップを北部九州を通り越し受けれたか疑問>>754
北部九州や吉備、山陰の他の勢力が田舎の畿内勢力の王にすんなり服するのが疑問
外交、交易を掌握する過程も疑問を
958俺等05772:2006/03/14(火) 07:15:11
>>939
九州の中で、銅剣銅矛を祭器として使っていない領域があります。武器としての
細形銅剣銅矛は除きます。佐賀のかなり、長崎全域、熊本県(除一部)、大分南部、
祭祀を行うのに、こうした無駄な労力をかけなかった文化圏です。

石包丁の形式でいうと、「半月形外彎刃」ではない文化圏で、人種でいうと
縄文系弥生人の多く住んでいる領域です。
私の推測では渡来系弥生人の一部が、土着の縄文系弥生人を娶って北九州から
次第に南下し、領土を広げたと考えています。
959プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 07:22:34
>>754
そのレスの内容何処かで見たような?
960日本@名無史さん:2006/03/14(火) 07:32:02
>>958
祭器段階でも、
佐賀は検見谷の研ぎ分け銅矛16本などあるし、安永田あたりで作ってるが
豊後は広型銅矛かなりありますよ
961>>957:2006/03/14(火) 07:35:13
962日本@名無史さん:2006/03/14(火) 07:39:11
石包丁で勢力圏言うのは無理
しかも古い時代だし
政治勢力や祭祀圏を示す共通した遺物や遺構でないと
963プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 07:50:00
>>961
ありがとう
964サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 09:01:43
>>949,959 佐賀県小城にある桜ケ岡です。ただこの岡はまだ古墳と認定されていません。
形状が前方後円墳にみえるということだけです。ここに、女性が埋葬されているかどうかの問題はさておいても、古墳かどうかは、今後
調査する必要はあるとおもいます。
96516歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 09:18:30
サガミさん、それはまず貴方が小城が邪馬台国だと
いう先入観にとらわれているので、桜ヶ丘とかいうところが
卑弥呼の墓に見えてるだけでしょうwもっと客観的になってください。
966サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 09:30:51
客観的にみた結果が古墳に見えるということです。
967安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/14(火) 10:48:52
サガミ氏にちょっとしたプレゼントを・・・
ttp://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?latitude=33.29015&longitude=130.19645
968日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:10:25
あの丘そのものは考古学かじった私には古墳には見えないが。地形図でも無理かと。
丘陵上には小型の前方後円墳はあるが。
969安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/14(火) 12:36:12
桜ヶ岡自体は、国土地理院の地図を見る限り千歩譲って古墳だとしても「前方
後円墳」には見えないかと。
970サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 15:28:54
小城市の小城の桜城館にエド時代の小城の模型があり、その桜ケ岡を西側からみると
纏向型前方後円墳にみえます。また、戦前まで岡の北に周濠のような池がありました。
以上から、古墳ではないかと考えるわけです。
971安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/14(火) 15:44:02
「周濠のような池」と言われましても、ただの池だった可能性の方が高いわけ
で。丸い地形に沿って池を掘ればそれは「周濠」のように見えないこともない
でしょう。
972日本@名無史さん:2006/03/14(火) 17:58:29
>>970
マキムク型の特徴って分かってる?
向野田古墳がそれとか言ってたぐらいだから怪しいが。
その小城の桜岡の上には茶先塚という50mくらいの前期前方後円墳がある。
自然丘陵に前期古墳が作られるパターンだ。3世紀中頃の卑弥呼墓のすぐ後にその上に古墳が作られるとは考えがたい。
また丘陵自体を古墳とするには、盛土の未検出、墳裾整形ラインの欠如、周溝の欠如(池は単なる池で周溝状に巡らないし、その痕跡も無い)からありえない。
973俺等05772:2006/03/14(火) 18:12:05
>>960
>佐賀は検見谷の研ぎ分け銅矛16本などあるし、
>豊後は広型銅矛かなりありますよ

知ってますよ。でも佐賀は武器である細形銅剣が多い。
豊後にも広型銅矛はあるが、ある領域を境に南側には出ない。
それで、建日向日豊久士比泥別についてもう一度考えてみたのですが、建日向・
日豊・久士比泥別と分けて、日向、日子領の豊、阿蘇の麓の肥国と解釈しては
どうだろう。

>>962
石包丁の分布は、古い故に、住民の出身母体を表しているのでは? 筑紫は、
「半月形外彎刃」だが、中国江南の石包丁と同形だし、南九州の石包丁は両端に
きざみ目を入れた包丁だが、縄文系弥生人が使用し、台湾と同じ形のものだし、
近畿地方の石包丁は「半月形外彎刀」「半月形直線刀」「紡錘形」と様々な型
のものが使われているが、「紡錘形」は遼東半島に出土している。
だから、近畿地方は徐福集団の末裔と考えられるのではないか?

北九州に渡来した除福集団は、後発で耕作地が残っていなかった故に南下し、
肥国や日向の土着豪族と婚姻を重ねて、同化していったのではないか?
974俺等05772:2006/03/14(火) 18:22:33
残り、30を切っています。
誰か新しくスレ立てしてくれませんか。私は暫くスレ立てが無理な
ようです。>>1の後半の文は削除してください。

タイトルが長すぎ、受付られないようですので、以下でどうでしょう。
【九州説】邪馬台国畿内説議論を深めよう2【厳禁】
975日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:35:08
弥生前期や早期の石包丁は江南直接でなき韓国西南部経由です。
また石包丁自体時期により変化しているのでいきなり、大陸の各地と対比するのはダメです。
また佐賀もそうですが筑前の福岡平野早良平野も細型は多いですよ。
佐賀(肥前)は弥生では筑紫と同じ文化圏です。成人用カメ棺圏だし、漢鏡分布圏です。
また豊後や肥後北部までは青銅器(矛型祭器や小型倣製鏡、鏡片)から弥生終末までは北部九州圏の影響が強い縁辺です。
残りの日向と肥後は、土器も全く違うし、首長連合を示す独自の墓制や威信財が分布するわけではなく、
何か独自の祭器が共通するわけでもありません。
976サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/14(火) 18:41:07
詳しくありがとうございます。
977日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:59:48
ていうかサガミハラは九州説だし、しかも小城だとか言う説は別スレでやってくれ。
ここは畿内説スレだが。
邪馬台国が畿内とした場合に、例えば狗奴国が南九州かもしれないという議論はありだが。
978俺等05772:2006/03/14(火) 19:05:18
>>975
「半月形外彎刀」の分布を見る限り、江南→北九州→韓国以外
には考えられないでしょう。第一、華北では稲作は無理です。


また、大阪府和泉市教育委員会は、弥生時代の大規模環濠集落跡、池上曽根遺跡と唐古・鍵遺跡から
出土した約2200〜2300年前の炭化米のDNAを分析した結果、遺伝子のタイプが中国大陸で
栽培されている水稲の品種と一致したと発表しました。この炭化米は朝鮮半島では見つかっていない
タイプで、イネが中国から朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝わったルートが存在したことを裏づけ
る証拠にあたるとして注目されています。これも渡海したことを証明する補強材料になります。
http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0108_3.html
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku195.htm
979俺等05772:2006/03/14(火) 19:14:54
>>975
>佐賀(肥前)は弥生では筑紫と同じ文化圏です。

私が言おうとしていることは、北九州の渡来系弥生人の一部が、
縄文系弥生人の豪族と婚姻を重ねながら、南下していき、狗奴国
を造ったと主張しているのです。だから起点が筑紫と同じ文化圏
であっても構わない。
980日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:17:55
品種自体は渡来の波があり得る。
その石包丁は韓国無文土器中期以前にもあり、韓国からの伝播は明らか。日本から伝播は無理な解釈。
また華北でも山東は稲作が古いことが分かりつつある。
水田も韓国で古いのが検出されだした。
また弥生開始時は稲作だけでなく、他の作物農耕も一緒に入っている。韓国南部でワンクッションおいて入っている。
中国から直接渡来なら入っていない文化要素が多すぎ。
また徐福は弥生開始よりはるかに新しい時期で、倭に来たという話自体が中世以降のこじつけ。
981日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:23:49
肥前、肥後、日向が同一勢力という根拠に欠けますね。
まだ日向だけとか肥後だけとか、絞って考えられるなら実際的だし、ありえないとは言えないし、まだ議論が生産的です。
なお肥前は完全に奴国などの北部九州勢力の一翼と思いますから、省く方がいいでしょう。
肥の国という区分はむしろ古墳時代中期から後期の動向からだと思います。
982日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:35:54
日向なら西都原や生目古墳群が一定の勢力を示すでしょう。
また肥後なら中部から北部の弥生後期から古墳初めの大集落が多く、鉄器や鍛冶も北部九州に準じますので、奴国の南で北部九州勢力に対峙してもおかしくないです。これらの集落は環濠が多く、鉄器が鏃などやたらでているみたいですし。
ただ以上の日向と肥後はそれぞれが一勢力圏で両者のつながりはないでしょう。
983俺等05772:2006/03/14(火) 19:56:20
>>980
別に徐福は、弥生開始よりはるかに新しい時期ということは否定しませんよ。
でも、下の年表対比でみると、渡来弥生人という観点からは、徐福は重要な
役割を果していると考えざるを得ません。

日中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ

中国側戦国時代の年表             日本側弥生時代薄明期の年表
前473年 呉が越に滅ぼされる       約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷
前379年 越が呉に遷都する
前334年 越が楚に滅ぼされる       約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人
                           約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺)
                          約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる
前223年 楚が秦に滅ぼされる
前222年 燕・代、秦に滅ぼされる
前221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一
前219年 徐福、第2回出航
                          約2200〜2000年前 唐古・鍵遺跡に先進的な総柱構造


唐古・鍵遺跡は徐福集団の第2回出航の時期と対応する。つまり、江南人もそれ以前に小数入植
しているものの(池上曽根遺跡)、畿内を中心とする銅鐸文化圏は、徐福が率いた山東半島周辺
からの渡来者が創った可能性が強い。(邪馬台国の始り)
984日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:13:37
銅鐸は朝鮮半島系小銅鐸からの変化です。
唐古の大型建物は総柱か屋内棟持ち柱か議論があります。
それはさておき、唐古の大型建物は2様式ですから、
昨今の実年代見直しからは(どこまで遡るかは疑問もありますが)、紀元前3世紀以前か少なくとも紀元前3世紀前半にはなってしまう可能性がきわめて高く、
徐福以前になってしまいます。
また再度強調しますが、中国からの多数の直接渡来は、当時の中国文化要素の欠如が多すぎ(畿内は北部九州以上に希薄)、まずなさそうです。
985俺等05772:2006/03/14(火) 20:14:10
>>981
古事記の記述
『 次に筑紫島(九州)を生みき。この島も又身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故に、
筑紫国を白日別といい、豊国を豊日別といい、肥国を建日向日豊久士比泥別といい、熊曾国
を建日別という。』

この「面四つ有り」という記述をどう考えますか? 素直に解釈すると国が4つに
分かれている、ではないですか?
「肥国を建日向日豊久士比泥別といい」となってますが、何故「肥国」だけ国名が
長いのでしょうか? また、「建日向日豊久士比泥別」の意味は何だと考えますか?
986日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:01:05
古事記の記述はそうだが、その認識や地理区分が弥生や古墳前期のものかは別問題では。
ある時期の認識でしょうが
あと日向と豊が無理に一緒にしたか、あるいは日向は豊かクマソのどちらかに本当は入るかも(特に日向南部は歴史的にも考古学的にもクマソの一部かと)
987日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:09:12
日向と豊が無理に一緒→日向と肥後が無理に一緒にされた
988日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:11:57
前漢後漢の鏡の共伴例が増えてくれれば・・・
989日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:35:18
八幡神社古墳群:“仏”入り三角縁神獣鏡が出土 国内7枚目−−神戸・北区 /兵庫
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/hyogo/news/20060314ddlk28040507000c.html

> この形式の鏡が中国製なのか、日本製なのかは論争があるが、日本への仏教伝来より前に造られており、
>この鏡は中国製の可能性が極めて高い。
990俺等05772:2006/03/14(火) 22:56:24
>>986
ある時期の認識とは何時の時期の認識でしょうか?
弥生や古墳前期のものかは別問題といいながら、弥生の前なのか
後なのか、古墳前期の前なのか、後なのか全く曖昧で、誤魔化して
いるとしか思えません。
991日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:40:12
ごまかしではなくわからないものはわからない。
少なくとも古事記の4面の記述は3世紀前後の地域区分には不適切。
むしろ敢えて言えば後世かと。肥前ふくむ肥の国が認識された古墳時代中期以降かと。肥君以降。
992日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:45:59
狗奴国の議論と離れてますが。
狗奴国が例えば東海なら無意味な議論です。
古事記の九州の記述に狗奴国があるとか、いきなり間の論証がありません
993日本@名無史さん:2006/03/15(水) 06:00:45
狗奴国は、熊野(南近畿)じゃないのだろうか?
それと、神武東征というのは
政権が東征したのではなく
ただ単に、南九州出身(熊襲?)の神武が
南近畿の豪族の入婿になっただけの話だろう?
994俺等05772:2006/03/15(水) 06:42:56
>>991
>古事記の4面の記述は3世紀前後の地域区分には不適切。古墳時代中期以降かと。

肥前ふくむ肥の国が認識された古墳時代中期以降という認識は、何を根拠になされ
ましたか? 古墳時代中期以降に、何故肥国だけ「建日向日豊久士比泥別」という
長々しい名前で呼ばれたと思いますか。

私は、肥国のみ正式な名称で呼んだからだと思います。そして記紀神話のうち九州に
係ることは、以下の理由により、5〜6代の天皇の時代に纏められたと思っています。

天皇家の寿命
−−−−−
ある日、邇邇藝命は、見目麗しい乙女に出会った。名を問うと、大山津見神の娘で木花之佐久夜姫
であるという。邇邇藝はこの美しい姫神に求婚し、父の大山津見神のもとに赴いた。大山津見神は
たいそう喜び、姉の石長姫も一緒に嫁がせた。しかし邇邇藝は器量の悪い石長比売は親元へ返し、
木花之佐久夜姫だけを留めて一夜を共にした。

これを知って大山津見神はいたく嘆き、「私が姉妹揃って嫁がせたのは、石長比売によって天神の
御子の命が常盤の石の様に揺るがぬよう、木花之佐久夜毘売によって御子の未来が花のごとく栄
えるようにと祈ったからです。しかし石長比売を返された天御子の命は、木の花のようにうつろいや
すくなるでしょう。」 邇邇藝の子孫である天皇の寿命が短命になのはこのためという。
−−−−−
上記の話は5〜6代の孝昭・孝安天皇頃の時代に造られた話と思われる。もし、天皇の寿命が2倍
年暦で数えられているなら、綏靖が 22才、安寧が 24才、懿徳が 22才の寿命であり、まさに上記の
記述通りだからである。この場合、父子継承は成り立たない。

1代 神武 137 → 68、 2代 綏靖 45 → 22、 3代 安寧 49 → 24、 4代 懿徳 45 → 22、
5代 孝昭 93 → 46、 6代 孝安 123 → 61、 7代 孝霊 106 → 53、 8代 孝元 57 → 28、
9代 開化 63 → 31、 10代 崇神 168 → 83、 11代 垂仁 153 → 76、 12代 景行 137 → 68、
13代 成務 95 → 47、 14代 仲哀 52 → 26
995太国:2006/03/15(水) 08:14:21
俺等さん、貴殿は2倍暦論者ですか?
996日本@名無史さん:2006/03/15(水) 08:29:33
敢えて言えばですが。肥前を含む有明海地域に肥後系石室など肥後系古墳文化が広がります。
文献でも肥君の勢力が強くなる時期です。
肥前は古墳前期までは筑紫的です。
なお肥国の名前が長い理由はわかりません。ただ日向は肥国と文化的には異なっています。
日向はもともとは南部はクマソに、北部は豊ではと。
地下式横穴墓はクマソの領域かもしれません。
997俺等05772:2006/03/15(水) 08:31:24
>>995
魏志倭人伝に見る倭人の寿命
「其の人寿考、或は百年、或は八、九十年」←このような長寿は古代では考えられない。
半分にして40〜50才なら納得いく寿命になる。
ちなみに、縄文時代の寿命は30代前半。信長の頃が 50年。

上記の文は後世に文献を捏ね繰り回して、書いた文献ではない。
当時の「現在時点」での記録であり、非常に信用できる。
二倍年暦説を否定するのなら、「百年、或は八、九十年」という倭人の
寿命の根拠を合理的に説明する必要がある。
998日本@名無史さん:2006/03/15(水) 08:37:27
神や人の名前がなぜそうかなどは答えようがない話です。
3世紀に例えば肥前肥後日向が同勢力だとかは古事記の筑紫面四つで立証できる話でないし、それが狗奴国だとか根拠不明です。少なくとも考古学的裏付けを求めます。
999日本@名無史さん:2006/03/15(水) 08:55:22
銅鏡の銘文ではその鏡を持つことにより王になれるやら寿命は萬年に及ぶやら
色々ありますが・・・
1000太国:2006/03/15(水) 09:25:45
>>997
2倍暦で、俺等さんは半信半疑のようですね。w
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