【初心者】スレッド立てる前に質問を Part2【歓迎】

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1日本@名無史さん
とりあえず立てました。
というわけでよろしくお願いします。

【過去のスレッド】

素朴な疑問質問のスレ
http://mentai.2ch.net/history/kako/969/969624784.html
日本史版質問統一スレッド
http://mentai.2ch.net/history/kako/974/974738924.html
★くだらない質問、近現代史編★
http://mentai.2ch.net/history/kako/985/985320244.html
くだらない質問はここに書け
http://mentai.2ch.net/history/kako/981/981044823.html
くだらない質問はここに書け その2
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10051/1005111739.html
日本史なんでも質問コーナー Part6
http://mentai.2ch.net/history/kako/1016/10166/1016622804.html
日本史よろず問い合わせ処 其ノ七
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1024836631/l10
雑談スレ
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/973427193/l50
2日本@名無史さん:03/01/04 14:37
【世界史板】

世界史なんでも質問コーナー3
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1022151987/
高校生用質問スレ Part 3
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1020659057/

三国志・戦国時代板

@雑談・質問スレッド@
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1020330373/

3日本@名無史さん:03/01/04 14:41
前スレ
●初心者歓迎:スレッド立てる前に質問を●
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1026810759/
4日本@名無史さん:03/01/04 16:21
リンクも貼ってあるし、こちらを本スレということで。アゲ
5日本@名無史さん:03/01/04 18:04
家によって多少違うのかと思いますが、侍大将とか足軽組頭といった
地位の順や種類を大まかにでも知りたいのですが教えて貰えませんか?
6日本@名無史さん :03/01/04 18:58
ガイシュツかもしれませんが質問させてください。
遣唐使の廃止以来、大陸との国交が疎遠になりいわゆる国風文化が現れますが
遣唐使を廃止せず、さらに唐の滅亡後も積極的に大陸と通じていた場合その後の文化・歴史に
どれ程の影響が現れたのでしょうか?
7日本@名無史さん:03/01/04 21:42
>>5
近代からの整った軍ならともかく、戦国時代は特に決まってないでしょ。
8日本@名無史さん:03/01/04 23:47
>>1
日本史よろず問い合わせ処 其ノ八
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1036379545/l10

は、わざと落としたですか?

一本化したほうがいいですら。
91 ◆AOvP0B7AO2 :03/01/05 00:42
>8
素で見逃してました。
ごめんなさい。
10日本@名無史さん:03/01/05 11:05
>>6
イフですので、答えはいくらでもあるかと思いますが。
どこぞの学者が言ってたのは、海洋国家・交易国家として発達し、民族もまざり
明治以降の偏狭なナショナリズムが防げたのではないかと言う意見が面白かったです。
逆に、中国ナイズが強まり、天命思想による天皇王朝交代や銭流入の膨大化による
経済圏化も考えられますね。
従属関係になることはなかったでしょう。地理的位置からも、あと、中国には東方楽園
思想があって、日本を朝貢から多めに見てたようです。
「あそこは、特別だからぁ」って感じかな。

さらに、平安国風政治・文化は、ある意味では中国律令制の本当の意味での
日本化、消化された中国化という見方もあります。
11日本@名無史さん:03/01/05 23:22
↓のスレを立て、ここに誘導されてきました。
いつから「倭」の国が「和」の国になったの?
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1041735193/

以下が質問の内容です。

「倭」の国だったものを、同音で意味の判りやすい
「和」とする、つまり、「和」というのはまとまりを意味する言葉なので、
ナショナリズムを形成するのに一役買ったのではないのでしょうか。
つまり、昭和までの政治家が「日本は単一民族国家である」という
プロパガンダを利用してナショナリズムを輪郭化していたのと同様の
効果を狙っていたのではないかと。
もしくは狙わずとも結果的にそのような効果を及ぼしていたのでは
ないかということです。
実際いまでも「和の心を大事にしろ」という論調が若者の間でも
使われるじゃないですか。これはかなりナショナリズムを形成する
かなり大きなファクターなんじゃないかな。

みなさんどう思います?
12日本@名無史さん:03/01/05 23:43
>>11
「倭」が「和」に変わったのはいつだというのはわかってるのか?
「和」が今のような意味で用いられるようになった頃はわかってるのか?
それとも「和」という言葉をナショナリズム形成に利用したのではという考えはどうだ、というのか?
結果的にそうなったと思うがどうかと質問したいのか?
そういうことになったのはいつ頃でどうしてそうなったのか質問したいのか?

そういうことは全部わからないが自分の考えはどうか?というなら
「わからん」としか答えようがないと思うぞ。
そもそも主張をしたいのか質問をしたいのかわからんし。
13日本@名無史さん:03/01/05 23:48
戦時中ってアメリカ人に山本五十六って東条以上の悪人と思われてたの?
あと今では再評価とかされてるの?

山本は確実に死刑だったな、復讐裁判だし
ある意味運がよかったかも
死刑じゃ山本の人間像がアメリカによって徹底的に好戦家として歪曲されていたかも

1411:03/01/06 00:19
ちっ、まともな反論だぜ。

朝廷が意識して「和」という言葉を使い始めたのは辞典によると
元明天皇のころ、らしい。オレの知識はそこまでです。「和」という
言葉自体が今のような意味で使われ始めた時期はわかりません。
しかし、元明天皇の頃にはやはり「和」=「調和、まとまり、統一」
というような意味で使われていたのではないでしょうか。

僕が知りたいのは元明天皇のころ(定かではないが)に、どのような
目的で「倭」から「和」を用いるようになったのか。それがはっきりしない
のであれば、結果的にこの「和」という言葉はナショナリズムの形成上皇家に
とって都合のいい言葉として機能したのか。また、「和」が用いられ始めた
時期に、「倭」という言葉と「和」という言葉は同様の意味を持っていたのか
(つまり、同様の意味を持っていなかった場合、「倭」から「和」へのすり
替えは作為的なものとなる)。また、「和」が使われ始めた時期として
元明天皇の頃以外に説はあるのか、ということであります、村長!
15日本@名無史さん:03/01/06 00:25
「倭」「和」の言葉の意味とその変遷に関しては古文板の方がいいのでは。

ちなみに「和をもって貴しと為す」て誰が言ったか知ってますね?
16akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/06 00:28
>>13
「アメリカ人」とひとくくりに言っても軍上層部や一般の将兵、はたまた
米国市民とでは感触に大きな隔たりがあるかと思います。

米国軍上層部にとっては山本は在米武官の時期を含め相当に
研究去れ尽くされていた最重要人物です。ブーゲンビルでの山本暗殺が
決定されたのも、山本長官程の人物にとって替わる人材が居ない
(山口多聞が替わり得たかもしれないが当時既に戦死)という判断に
基づいて決行されていましたから。

米国海軍の一般の将兵にとっては、山本長官はまさしく憎悪の対象でした。
「山本」姓の兵が捕虜になる都度、「お前は山本五十六の親戚か」などと
尋問されたそうです。また参考になるかどうか分かりませんが、
1944年に行われたプリンストン大学で行われた前線に出る訓練を
行っている兵士に対するアンケートでは、
「ドイツ兵を心から殺したい」と回答した兵士は6%、これに対して
「日本兵を心から殺したい」と回答した兵士は44%でした。
米国将兵の意識がかいま見えるアンケート結果かと。

また、一般市民にとっては山本の「ホワイトハウスまで追いつめないと
いけない」という発言が反日キャンペーンに利用され大きく
物議をかもしだしました。

山本長官に対する再評価については勉強不足でちょっと回答できません。

以上、「太平洋戦争の失敗・10のポイント」 保坂正康氏
17日本@名無史さん:03/01/06 00:30
>>15
蘇我馬子 (w
18日本@名無史さん:03/01/06 00:33
>>16
山本の撃墜はやっぱ暗殺として認識していいの?
1914:03/01/06 00:42
>>15なるほど、元明天皇より古いですな。
ということは作為的な世論統一ですな。
我々は曖昧にすり替えられたことば「和」を心のより所に
してきたわけですな。単一民族論やら和やらこの国は
そういうの多いですね。

もともと「和」の心、なんてものは存在しないのだ。
20日本@名無史さん:03/01/06 00:43
>>18
吉村昭『海軍乙事件』に収録されている「海軍甲事件」を読むとよろしい。
21日本@名無史さん:03/01/06 00:50
みょうなスレタイが目立つのですが何故ですか?
22akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/06 00:56
>>18
主観ではありますが私はきっぱりと暗殺と考えます。
23日本@名無史さん:03/01/06 02:56
>>22
そう考える理由は?
24akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/06 03:02
>>23
政治的・戦略的な理由で敵国の要人をひそかに狙って殺す事だからです。
gooの国語辞典の受け売りですけど。
25日本@名無史さん:03/01/06 03:11
「ひそかに」の部分をどのようにとるか。
殺害計画が対象に知られないように、ととるなら山本撃墜は暗殺とみてよい。
殺害計画者が対象にに知られないように、ととるならこれを暗殺とみることはできない。
26日本@名無史さん:03/01/06 03:13
>>19の一行目の前提から二行目の結論への飛躍がさっぱり意味不明なんですが
どういうことですか?
27akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/06 03:32
>>25
7:00起きなのでこれで寝てしまいますが、すみませんが>>25の3行目でいわんとすると事が
ちょっと飲み込めていないかもしれません。誤解があったら失礼します。

山本長官の前線視察の飛行日程やコースは事前に米軍に知られていました。
要人の乗った視察機を計画的に撃墜する事は暗殺以外の何者でも無いと思いますが?

殺害計画はもちろん対象に知られないない様に進められていましたし、
殺害計画者(ここはニミッツ提督・レイトン中佐と仮定しますが)が対象(山本長官と仮定します)に
知られない様に当然進められていましたが。これは暗殺以外の何者でも無いと、私は考えています。
28日本@名無史さん:03/01/06 03:54
えー、わかりにくくてすいません。
山本機撃墜の場合、米軍が戦争相手の司令官を殺害することによって相手の戦闘力を減殺する目的で
襲撃したことは明らかであり、米国政府もこれを秘匿したりしないわけです。米軍マークの戦闘機で襲うわけですし。
つまり首謀者が殺害を計画した事実を隠していない(もちろん実行するまでは隠しますよ)。
これに対し例えば次期大統領候補が早く大統領になりたいために現職を暗殺したとします。
この場合、次期候補は当然自分の仕業だと知られないようにするわけです(発覚したら後釜に座るどころじゃ無いですからね)。
つまり首謀者が事後においても殺害を計画した事実を隠している。
暗殺の定義にはそこのところの違いを勘案する必要があるのではないか。ということです。

29akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/06 07:12
>>28
ああ、なるほどいわんとするところが飲み込めました、どもです。
つまり行為を秘匿していなければ暗殺ではないのではないかという事ですよね。
これに対して私の見解は要人の殺害そのものを意図的に計画して実行した事は
行為の秘匿いかんに関わらず暗殺としか呼び得ないのではないだろうか、というものです。
戦時ゆえの事とはいえ、非常にアンフェアだと思いますなあ。
30日本@名無史さん:03/01/06 11:17
>>11
桓武天皇も自国の事を「倭」と呼んでたと記憶します。
しかも、誇りを持って。(司馬本より)

あと、和の精神は強者が弱者に許容する時に使われてきたと考える。
ウマヤドノオウジの和を持っても、大王=蘇我氏中心にと解釈できる。

自国を和と呼ぶのは、少ないような。天武帝からは対外的には倭から「日本」だし、
内部的には「日ノ本」とか使われだしている。

ところで、みなさん、ここはアゲ義務スレですよー\(^O^)/
31日本@名無史さん:03/01/06 17:36
明確な区切りは無いのかもしれませんが、
古代、中世、近世、近代、現代、は一般にどこで区切られてるのでしょうか?
もし明確に示すのが無理だったら、アバウトな区切りでも良いので、
教えて頂けないでしょうか?
32日本@名無史さん:03/01/06 18:06
一般的には、日本史では

古代=奈良・平安時代
中世=鎌倉・室町時代
近世=江戸時代
近代=明治から第二次世界大戦敗戦まで
現代=敗戦以後

です。
3331:03/01/06 18:25
>>32
安土桃山はどうなるんでしょうか?
34日本@名無史さん:03/01/06 18:28
35日本@名無史さん:03/01/06 18:42
古代の前に原始もありますよ

でも奈良の一つ前の飛鳥は原始時代になるんですか?
なんかイメージと違うなぁ。中大兄皇子もウンバボといっしょってことですか?
36日本@名無史さん:03/01/06 18:52
>>35
原始=考古学の時代(縄文、弥生、古墳)
古代=歴史の時代(飛鳥、奈良、平安)
37日本@名無史さん:03/01/06 19:24
適当なスレッドが見当たらなかったのでこちらでお尋ね申し上げる
以下の文は寛文期の大名への貸し付けの「覚」なのですが
どうにもはっきりした意味がわからなくて困ってます。

『戌六月七日五年三拾壱文渡に弐年済
 十三貫文   有中務太輔様
  内三百文    宗     子ノ年返弁
  内八百文    天五    丑二月廿日
  内五百文    又     うけ取相済  
                     以下略』
久留米藩の四代目の有馬さんに十三貫文をみんなでバラバラと
貸してあげているというのはわかるのですが
「戌六月七日五年三拾壱文渡に弐年済」の部分の意味がいまいちわかりません
解る方、どうかご教授ください。
38日本@名無史さん:03/01/06 19:43
>>33>>36
一般的な年表区分では、

安土桃山は近世ですね。戦国末から近世が斜めに入ってきて、
これは信長・秀吉の統一政権に入ったところから近世の意味と思います。

縄文時代は原始時代で、弥生時代の途中から斜めに古代が入ってきます。
大和連合政権に入った地域から古代に以降の意味と思います。

よって、
原始=旧石器・縄文・弥生前半と後半の一部
古代=弥生後半の一部・古墳(含む飛鳥)・奈良・平安(後半部分的に中世)
中世=鎌倉(前半部分的に古代)・室町(戦国時代後半から漸次近世)
近世=安土・桃山(前半一部中世)・江戸時代(ペリー以降一部近代)
近代=ペリー以降の一部の江戸時代・明治から第二次世界大戦敗戦まで
現代=敗戦から今日まで
と、考えられます。
39日本@名無史さん:03/01/06 19:48
>>37
ローンの一部返済の意味かな?
古典板ではいかがでしょうか?
40日本@名無史さん:03/01/06 23:58
なんか蒲池スレ・大友スレ両方とも落ちてるんで

蒲池久直(嵯峨源氏出身)
  略
  ↓
蒲池行房(久直四代孫)
  ↓
蒲池圓(嵯峨源氏松浦党出身)行房婿養子
  ↓
蒲池久氏(圓実子)一時、外祖父宇都宮氏の婿養子となった
  略
  ↓
蒲池武久(久氏五代孫)
  ↓
蒲池久憲(宇都宮氏出身)武久婿養子

蒲池圓の子、蒲池久氏の母親は、圓の正室、行房娘ではなく
圓の側室(?)宇都宮某娘ってことじゃないの?
41日本@名無史さん:03/01/07 00:09
日本史学界は政治的に、どちらかというと「左」に寄っているように思います。
この板でも、秦郁彦や伊藤隆ら保守派の歴史学者が、しばしば罵倒されます。
私の見方は間違っているでしょうか?
42日本@名無史さん:03/01/07 00:18
今の多くの歴史学者は自虐史観崇拝者どもだな。これだから支那とか朝鮮が図に乗るんだろうな
4333:03/01/07 00:46
>>>38
詳しき説明、恩にきります m(__)m
44日本@名無史さん:03/01/07 00:56
>>41
間違ってないと思います。

が、余計なことですが一つ書かせて下さい。
もしあなた自身の考えと、この答えをもって
単純に左だとか右だとか片付けようとするならば、
その前に、なんで日本史「学界」はそうなのか、そうなるのか、
そのへんをよく考えて下さいねん。
45日本@名無史さん:03/01/07 05:14
清洲会議の後の
織田の三法師って
その後どうなったのですか
どなたか教えて下さい
46akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/07 07:38
織田秀信 1580〜1605
後の織田秀信となって関ヶ原の折りに老臣の諫言にも関わらず西軍に属してしまい、
かつ岐阜城から野外戦を挑んでしまい敗北、高野山に謹慎するハメに。
関ヶ原のたった5年後に死亡し織田の直系は絶えました。
47日本@名無史さん:03/01/07 09:23
>>44
ご丁寧なお答え、ありがとうございます。
よく考えてみることに致します。
48日本@名無史さん:03/01/07 11:43
>>41=>>47さん
>>44さんは、大人だから、ああ答えたけど、違う言い方もある。
数年前から、日本の戦争や植民地支配は全て正しかった、南京では1人も死んでない
などが小林氏や自由主義史観者の影響であらわれ、極端な人は西尾氏の文を借りて、
歴史に値するのは欧米と日本だけだとまで言い出す。
「ちょっと、まってよ」と資料を出すと、ブサヨクだとか自虐だと叫ばれる。
中立の人がどんどん「左」ってことにされてしまう。
秦氏は右にも左にも意見してるから、一定の評価は受けているよ。

そこら辺の世の流れを、>>44さんは、言いたかったのかと思うのだが・・・。
49日本@名無史さん:03/01/07 11:44
このスレは、age義務スレだぜ、baby.
50日本@名無史さん:03/01/07 11:59
仕切り厨、ウザ過ぎ。
51日本@名無史さん:03/01/07 12:22
仕込み中は、ウサギだぜbaby。
52日本@名無史さん:03/01/07 12:27
>>51
warota!!!
53日本@名無史さん:03/01/07 14:15
時代劇で使われる「鼻毛抜かれやがって」はどんなニュアンスなんでしょうか?
「鼻の下のばしやがって」よりも強い感じ?
どういった過程でできたかも教えてください
54日本@名無史さん:03/01/07 16:50
表高と石高の違いがわかりますぇん
教えて下さい。
55日本@名無史さん:03/01/07 16:55
検索くらいしろ
56日本@名無史さん:03/01/07 17:01
>>54
石高というのは単に農業生産量を米量換算であらわしたもの。

表高というのは上級支配者に対して軍役などの賦役の基準に使われた名目上の石高のこと
それに対して実高というのがその領地の実際の石高をあらわす
57日本@名無史さん:03/01/07 18:49
>>39
お答えありがとうございます。
やはり、板違いだったか…
58日本@名無史さん:03/01/07 21:52
>>57
本来板違いではない。
しかし近世関連スレの燦々たる状況を見る限り
近世に精通する奴は来てないと思われる。
自称詳しい奴は来てるかもしれんが。
59日本@名無史さん:03/01/07 22:52
日本史よろず問い合わせ処 其ノ八
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1036379545/
上が本スレです。移動してください・・・
60日本@名無史さん:03/01/08 07:15
>>46
ありがとうございます。
織田秀信か。ひいおじいさんの
名前をさかさまにした名前ですね。
若死にだなあ。本能寺なかったら
徳川家光みたいなもんだったろうに。
61日本@名無史さん:03/01/08 12:33
>>53
女性にあしらわれる、手玉に取られる、骨抜きにされるってニュアンスですかね。
尻の毛まで抜かれるってのもありますね。こんなのもありました。
>●鼻毛をよむ…女が自分に惚れ込んでいる男の弱みにつけ込んで、
>男を自由にあしらうこと
62日本@名無史さん:03/01/08 20:33
徳川慶信って大政奉還のとき泣いたのかな?どーでもよかったのかな?
63日本@名無史さん:03/01/09 12:23
大政奉還の時ですか?
天皇を活用して、大統領的役職について、日本再建と、やる気満々。
鼻息荒かったんじゃないですかな。
小御所会議で王政復古が決まり、鳥羽伏見で賊軍となって、大阪城抜け出た時は、
いじけてたかも。
64日本@名無史さん:03/01/10 01:13
なんで信長が死んだら部下の秀吉が最高権力者になったのですか?
後見人として権力を盛ってたとしても織田家の部下は部下じゃないのか?
いつのまに主従逆転したの?
結局は織田家を裏切ったてこと?
65akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/10 01:18
>>64 ちょうどお風呂タイムに学研M文庫の「日本戦史 戦国編2」 賤ヶ岳編での
秀吉の清洲会議〜初期の政戦両略のあたり読んでました。
真偽はともかく、一読して調査ポイントのとっかかりにはなるかと。
66日本@名無史さん:03/01/10 02:01
>>64・65
ジサクジエン?
67日本@名無史さん:03/01/10 12:12
>>64
明智に勝ったからです。織田家より力を持ってたからです。
強い者が指示するのは当然の風潮。裏切りは当然の風潮。
ま、会議の前に根回ししてたけど。
68日本@名無史さん:03/01/10 14:40
609 名前:名無し三等兵 :03/01/10 11:23 ID:???
武家って、最近の説では
荘園にいた低階層者の自警団みたいなものが発端っていわれてないか?
日本史板で見たんだが・・・


--------------------
これについて教えてくだされ
69日本@名無史さん:03/01/10 14:42
本能寺で信長と一緒に死んだ森蘭丸って
信長の寵童らしいけど、ふつうの養子とは違うの?
森可成の遺児であるが
18歳なのに信長の命令で子供のままの髪型にさせられ
衣服も子供のまま。
あの時って家臣はみんな大忙しだったのに
信長と一緒にいたってことはボディーガードみたいなこともしていたの?
けど、格好からしてそんなはずはないわな。
70日本@名無史さん:03/01/10 16:19
>>68
最近の説、っていっても他の説など知らんのだが・・・。

貴族や大寺社などの荘園領主は、班田収受制が崩れたことによって流民化した農民を集め、「苗(みょう)」という耕作単位ごとに監督責任者をおいて開墾を行わせた。
優秀な担当者は、より多くの苗を任されるようになる。これらは大苗(大名)と呼ばれ、やがて治安維持や徴税の円滑化のために武力をもつようになった。
彼らは自分の担当する苗の名前を名乗り(苗字)、また自分の苗の支配権を確実なものとするために、積極的に中央の貴種を婿に迎えた。
この貴種たちは家格の低いものがほとんどであったが、婚家の経済力によってにわかに朝廷内での発言力を高め、やがて武家と呼ばれる新家格を形成するようになった。
71akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/10 19:23
>>66 違います
72日本@名無史さん:03/01/10 22:02
ageます。
本能寺関係のスレが多いようなので貼らせていただく。
もし本能寺でスレを立てようとしている方がいらっしゃいましたら、
一度下記スレを見て重複がないか調べてみてください。

高【電波度】
↑本能寺の変の真犯人は誰だ?
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1029600794/l50
│【常識を】 本能寺の真相を語る 【覆せ!】
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1041754925/l50
│本能寺の変、信長暗殺は時代の謀議によるもの。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1041697082/l50
│明智光秀ですが、とりあえず信長を討ちますた
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1041508881/l50
│本能寺の変時の織田家臣団石高
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1017586588/l50
│是非におよばず・・・・・・・・
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1040257346/l50
│明智光秀ですが、いまから信長殺しに行きます
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1022782282/l50
│明 智 光 秀 放 火 5 秒 前
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1040141609/l50
│本能寺の変の真の黒幕は誰じゃ!!!!
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1036036000/l50
高【ネタ度】
73日本@名無史さん:03/01/11 13:04
>>69
森蘭丸 1565‐82(永禄8‐天正10)
もりらんまる

>織田信長の近臣。名は成利,系譜では長定。乱法師と称する。森可成の三男。
>幼年から信長に仕え,その才幹を愛されてつねに側近にあり,長谷川お竹等と
>ともに奏者として活動し,1581年(天正9)近江の内で500石,翌年美濃岩村5万石
>を与えられた。本能寺の変で弟の坊丸(17歳),力丸(16歳)とともに奮戦のすえ
>戦死した。   

奏者をしてたみたいね。秘書かな。小説などでは、信長が言うまでもないことは、
蘭丸がかわりに下知している。
何を吹き込まれるかわからないので、みんな蘭丸の機嫌をうかがってたようす。
信長と男色関係もありとも言われている。
74日本@名無史さん:03/01/11 13:09
>>68
>>70
最近は、朝廷周辺に職能集団としての武芸貴族が派生し、
それが地方に国司などとして派遣され、地方有力豪族層と結びついたと
の説も有力。

個人的には、京都特別職芸集団としての武士貴族と、
地方豪農層の武装化が絡み合ってると思うが、
各地の反乱軍退治などには、京都から職業武士貴族が出発し、
地方で援軍は受けるだろうが、勝つと凱旋し、人気者になっている。
75日本@名無史さん:03/01/11 13:10
力士の四股名についての著作権(?)、肖像権は相撲協会にあるのでしょうか?
みやげ店に力士の絵を描いたカップや団扇などが売っていますが、
 売り上げ金の一部は力士に渡されるのでしょうか?
76日本@名無史さん:03/01/11 13:12
>>75 板違い
>売り上げ金の一部は力士に渡されるのでしょうか?
若乃花曰く本人にはまったく入らないと
77山崎渉:03/01/11 16:39
(^^)
78日本@名無史さん:03/01/11 18:47
>>74
なるほど。
79日本@名無史さん:03/01/11 19:03
歴史学の論文では、「関ヶ原の戦い」
と書いた場合は日本全国の戦いを表わすのですか。
80日本@名無史さん:03/01/12 05:06
>>79
「関ヶ原戦役」「慶長5年の争乱」とかいう言い方をすることもあるが、あまり一般的ではないので。

ただ、
「関ヶ原の戦いで所領を没収された立花宗茂は・・・」というのは修正の必要がないだろうが、
「関ヶ原の戦いで丹羽長重は小松城に籠城し・・・」というのはやはり聞き苦しいので、適宜別の言い方を使うべきかと。
81日本@名無史さん:03/01/12 07:04
スレたてようと思ったんですが、ちょっと無理でしたので質問させて下さい。

藤木久志は『雑兵たちの戦場』で、
秀吉の平和によって戦場が閉鎖されたことで民衆エネルギーのベクトルが戦場から
都市へと向かったと言ってます。
そのためかつて雑兵だった人間が日雇・日用へと変質し都市へ流入したということらしいんですが、
中世・戦国期って日用層は都市には居なかったもしくは非常に少なかったってことですか?
中世社会には彼らに対する需要が低かったためなんですか?
吉田伸之は都市に日用層が存在していたから近世の都市建設が可能だったみたいなことを言ってるけど、
どうなんでしょう?脇田(旦那の方)さんもそんなこと言ってたような気がするんですけど…
中世史と近世史の見解の相違だけが原因なんでしょうか?
82日本@名無史さん:03/01/12 15:02
質問させてください。旧戸籍法上「妾(めかけ)」の地位登載があった、時期
があると記憶してますが、確か明治10年ぐらいと思いますが?詳細示教いただ
ければ、有難うございます。
83日本@名無史さん:03/01/12 15:42
北海道の先史時代の特徴を教えてください。
板違いだったらスマソ。
84日本@名無史さん:03/01/12 16:11
>>81
戦国期、各地に村がありました。小都市も村と呼ばれてました。
城下町だけを町と呼びました。
そこには、武士層・商人層・農民層が住んでました。日雇い層もいたでしょう。
雑兵だった小農もいました。

秀吉の兵農分離で、各地の農村や小都市から武士が城下町に引きはがされました。
商人も城下町に生計を求めました。日雇い層も城下町へ行きました。
村には農民が残りました。

武士か農民かの選択を迫られた後、貧農武士層で、都市日雇いの道を選び、
城下町に行った層もいたでしょう。もともとの日雇い層に加え、雑兵の中で
城下町を選んだ人々、あるいは、選ばざるを得なかった階層が、城下町日雇
い層を構成してたと考えます。
当然、中世城下町にも、非雇い層は存在したと思いますが、質・量とも
少し違う感じがします。
85日本@名無史さん:03/01/12 16:20
>>83
アイヌ人は、かつては本州の北端部から樺太(サハリン),千島列島にか
けた広大な地域に居住し,樺太のアイヌはギリヤーク(ニブヒ族),
オロッコ(ウイルタ族),ウリチ族,キーリン(エベンキ族)と,
千島列島のアイヌはカムチャツカ半島のカムチャダール(イテリメン族)
などの諸民族と接触交渉を持っていた。

 アイヌ民族の起源や初期の歴史についてはいまだ不明な点が多い。
現在の考古学の知見では,続縄文文化(紀元前後‐7,8世紀)までは
さかのぼることが可能で,次の擦文文化(8,9‐13世紀)は後代のいわゆる
アイヌ文化の先行形態と解されている。もっとも,今のところ擦文文化に
はアイヌ文化に特有な熊送り儀礼(イオマンテ(熊祭,熊送り))の痕跡が
みられないことから,擦文文化からアイヌ文化への移行過程については,
今後解明すべき問題が多く残されている。擦文文化期には樺太および
北海道のオホーツク海沿岸部から千島列島にかけた地域に,大陸の靺鞨
(まつかつ)・女真文化と深いかかわりを持ち,熊送り儀礼がみられる
オホーツク文化が存在した。12世紀前半ころには擦文文化とオホーツク
文化の融合が進んだ。次いでオホーツク文化を吸収し,北海道全域を覆
いつくした擦文文化の社会は他方で日本産製品の多量な流入と日常生活
での定着を媒介としながら,以後14‐16世紀に近世的なアイヌ文化の
社会へと急激な変容を遂げていった。なお,オホーツク文化の担い手に
ついては諸説があるが,現在のところギリヤーク説が最も説得力のある
見解のようである。

これ以前は、縄文文化です。その前は石器文化でしょう。
86日本@名無史さん:03/01/12 16:28
>>82
↓参考になるかもしれません。読んでいくうちに見えてくるかもしれません。
http://members.jcom.home.ne.jp/hitosen/kakonan.b76.html
8783:03/01/12 16:53
>>85
勉強になりますた!
たびたびすまんが先史文化(特に遺跡、遺物)に関する特徴のほうも
おながいします。
88日本@名無史さん:03/01/12 17:11
アイヌの先史ってのは概念が難しい。君の意味してるのは、石器時代?
縄文遺跡?続縄文文化?擦文遺跡?どのへんなのかな。
8983:03/01/12 17:22
レスどうもです!
よければ続縄文時代のほうをおながいします。
90続縄文文化の1:03/01/12 17:58
>>89 熱心な83さんへ
>続縄文文化
縄文文化に続く北海道地方を中心とする文化。本州の縄文文化が弥生文化
へと移行する一方で,北海道地方を中心に,縄文文化の伝統を濃く残した
文化が続くと考えられ,それに〈続縄文〉という名が与えられた。
この文化の内容は,近年になって土器の編年序列がほぼ判明したが,
なお究明すべき点が多い。現在,時期的に東北地方の弥生文化に相当する前期と,
同じく古墳文化に相当する後期とに大きく分けられる。
91続縄文文化の2:03/01/12 17:59
前期の文化は大まかに道南を中心とする恵山式土器を伴うものと,
道央・道東・道北でそれぞれ若干の地域色を示しながらも前北式から後北式
にかけての土器を伴う一群とに大きく二分される。

前者は台付土器や甕形,壺形,鉢形など東北地方の弥生文化と共通する
土器の組成をもちながら,豊富な石器,骨角器を伴い,狩猟に加えて
沿岸漁労にも深くかかわっていたとみなされる文化である。
とくに土器の口縁部に熊の形態を模した把手をつけることや,魚形石器
と呼ばれる,小型の石棒を伴う点に特色がある。代表的な遺跡には恵山町
恵山遺跡,白老町アヨロ遺跡などがある。

後者は土器の組成に壺形や台付土器が少なく,耳付土器が加わり,深鉢
形のものがはなはだ多い。
石器,骨角器も組成は違うけれども豊富である。新冠町大狩部遺跡,
厚岸町下田ノ沢遺跡,江別市江別太(えべつぶと)遺跡なども著名である。
これらの前期の住居には前時代から引き続き出入口の明確に掘り込まれるものがある。
墓は土壙墓で,土器や石鏃,石べら,コハク玉や碧玉の管玉などを入れる例が多い。
柄の付いた石べらなどの豊富な木製品の出土した江別太遺跡では,
この時期の河川漁労にかかわる遺構や,サケの骨なども発見されている。

後期の後北式後半の土器は平底の深鉢形と注口土器をおもな組成としているが,
小型の鉢や片口,皿もある。器種の構成は前期とは一変し,以後終末の
北大式にまで継続する。この時期の住居跡は未発見。墓は土壙墓で,
内部に人頭大の石を入れるものが多い。遺物には鉄製の刀子やガラス玉,
漆塗の竪侯(たてぐし)などもあり,古墳文化との交流を示す。
代表的な遺跡には余市町フゴッペ洞窟などがある。

近年、割と出てるから、アマゾン検索か図書館検索で「蝦夷」「アイヌ」
などで本を調べてみたら?東北との関連とか面白いよ。
9283:03/01/12 18:36
>>90-91
激烈サンクス!
本当に勉強になりますた!今度図書館で調べてみることにしまつ。
93オマケ・擦文文化の1:03/01/13 17:10
>擦文文化(さつもん)
擦文土器の使用を指標とした文化。北海道の続縄文文化が東北地方の古墳文化
の影響をうけて変容,成立した文化で,北海道一円から東北地方北部にも広がり
をみせている。この文化の初期に注目される遺構として,江別市や恵庭市など
道央部に発見されている,いわゆる北海道式古墳がある。律令政府とかかわりの
あった人が被葬者と考えられている東北地方の末期古墳と同形で,出土遺物も,
土師器(はじき),直刀,蕨手(わらびで)刀,鉄斧,鉄鎌,年帯(かたい)金具,
勾玉や和銅開珎など似たものが多い。古墳そのものの分布は地域が限られてい
るが,その文化的影響は広く全道に及んでいる。土器製作のうえでは,縄文文様
が失われた擦文土器が盛行し,また石器の使用がほとんどなくなり,鉄製の利器が普及する。
鉄器は本州からの移入品が多かったであろうが,鞴(ふいご)の羽口の出土例があるところから,
野鍛冶程度の技術があったと考えられている。鉄器のなかには,鍬先,斧,鎌など農耕具があり,
大麦,アワ,ソバなどの種子の発見とあわせて,生業は前代の続縄文文化当時の狩猟・漁労を
ベースにしながらも,初歩的な農耕のあったことも考えられている。
94オマケ・擦文文化の2:03/01/13 17:11
住居は方形の竪穴式で,1辺が4〜5mから7〜8mのものが多く,屋内の中央部の炉のほかに,
東側の壁に,煙道が戸外に通ずる竈が付設されているのが多く,海岸や内陸部の河川や
湖沼に近い段丘上に大住居群を残している。この文化が盛行していたころ,道東北部では,
オホーツク海岸を中心にしたオホーツク文化が,一部は根室半島を越えて北海道太平洋岸
の東部や,宗谷岬を越えて日本海岸の北部の利尻・礼文の島々にまで広がっており,
両文化は互いに影響し合っていた。道東のいくつかの遺跡では,擦文土器と,
オホーツク式土器の融合した,いわゆるトビニタイ式土器が発見されて,
北海道の土器文化の終末期の様相を考えるうえで注目されている。
最近は,アイヌ文化を擦文文化までさかのぼらせる見方が定着しつつあり,
アイヌ文化のなかの,ある種の漁・狩猟儀礼の祖型をオホーツク文化に求める
説もある。また,日本海岸の奥尻町,小平町,天塩町などの遺跡から出土した
擦文土器の杯の底面に記号様の刻文のあるものがみられるが,
アイヌの父系印として伝えられているエカシ・イトクパにつながるものとして
留意されている。
95日本@名無史さん:03/01/13 20:03
鎌倉武士の「やあやあ我こそは〜」の全文を教えてくれませんか?
96日本@名無史さん:03/01/13 22:26
勧進って簡単に言えばどういう意味なんですか?
97日本@名無史さん:03/01/13 22:55
おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなすものは 心なりけり
高杉晋作の辞世の句なんだけど
下の句の意味がわからない
誰か教えて下さい
98日本@名無史さん:03/01/13 23:20
>>96
かんじん【勧進】
(1)仏の教えを説き,信仰に入らせること。勧化(かんげ)。
(2)寺社・仏像などの造立・修復のために寄付を集めること。勧化。
(3)出家の姿で物乞いをすること。また,その人。

yahoo辞書。
99日本@名無史さん:03/01/13 23:31
以下の文の読み方と意味を教えてください。解るのだけでもいいです。お願いします。

1、自今日築地上葺也
2、懸町々老可處罪科由加下知也
100日本@名無史さん:03/01/13 23:33
>>77
これって罠の被害者かなんか?
10199:03/01/14 00:02
だれかお願いします。それとも他にいいスレor板ありますか?
102日本@名無史さん:03/01/14 00:04
古文・漢文スレへどうぞ。
10399:03/01/14 00:05
>>102
ありがとうございます。行ってきます。
104日本@名無史さん:03/01/14 00:19
宿題か?それは活字本からか?間違えてる字ないか?
つか、出典出せよ。
105日本@名無史さん:03/01/14 00:21
あ、行ったのか。読んでやろうと思ったがやーめた。
106日本@名無史さん:03/01/14 00:21
刀伊やチョン系の海賊が日本周辺の島や九州の沿岸地方を襲撃して金品や奴隷とするための日本人を拉っする
ことが元寇あたりまでしばしば行われていたようですが、元寇以降はそのようなことは少なくなったのでしょうか?
また、これは「倭寇」と関連しているんですか?
10799:03/01/14 00:22
>>104
北野社家日記です。字の間違いはありません。
10899:03/01/14 00:23
>>105
向こうは過疎すぎて無理そうです。お願いします。
109日本@名無史さん:03/01/14 00:23
>>99
もしかしてさっき「勧進」とか辞書ひけばわかるアホな質問したヤシ?
11099:03/01/14 00:24
>>109
違いますよ。ここ来るのは初めてです。
111日本@名無史さん:03/01/14 00:26
>>99
記録苦手。読みくせとかわからんから間違ってもしらんよ。

1 こんにちよりつきじうわぶきなり
築地は辞書で調べろ。そしたらたぶん上葺も意味わかる。
11299:03/01/14 00:34
>>111
ありがとうございました。
113日本@名無史さん:03/01/14 00:37
2、懸町々老可處罪科由加下知也

町々にかけて「老」を罪科に処すべき由下知をくわうるなり
意味は、町々の老(名主とかの意味?)を罪科とするという下知が下された。
かな?

責任もたないよー
だって中世先行じゃないし記録なんて読まないから(笑
11499:03/01/14 00:42
>>113
處を所だと思ってたので解りませんでした。どうもありがとうございました。
115日本@名無史さん:03/01/14 11:14
  ∧_∧∩
  ( ´∀`)/
___∧__________
先生!http://www.nhk.or.jp/taiga/cast/img/p_otsu.jpg
江戸時代より前の女性は時代劇や大河ドラマで見る限りこういった髪型が多いのですが
http://www.tv-asahi.co.jp/hacchobori/contents/cast/img/manda.jpg
江戸時代になるとこんな感じになります。
どうしてこういった髪型になったのか教えてください
116日本@名無史さん:03/01/14 11:16
おいお前ら!武士道って何ですか!
117日本@名無史さん:03/01/14 17:09
先生!なぜ日本では馬車が発達しなかったのですか?
118日本@名無史さん:03/01/14 17:13
馬車には馬車道を整備しなければならなかったから。
119日本@名無史さん:03/01/14 21:25
120日本@名無史さん:03/01/15 13:40
もしも戦後の国会が「GHQ案を元に作られた」憲法の採用を否決していたらどのような事態が生じたでしょう。
121日本@名無史さん:03/01/15 13:41
>>106
これはお互い様みたいな感じですね。海の民です。
倭寇は日本・半島・中国沿岸の海の民です。
前期倭寇は南北朝〜室町前半。後期倭寇は室町後半。
もともと交流のあった、海の民です。
貿易禁止政策が生み出したともいえます。
122日本@名無史さん:03/01/15 17:42
>118,119
さっそく見てきました。同じようなことを考える人がいるもんですね・・・
123山崎渉:03/01/16 08:44
(^^)
124日本@名無史さん:03/01/16 09:03
山崎渉のスクリプトをやってる馬鹿をアクセス禁止にしてください。
沈んでたスレを引き揚げて、現行のスレを沈めちまいやがった。
125akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/16 13:07
現行のスレって、書き込みが無くて過疎化してたスレですよね。
何もそんな目くじらたてんでも。
126日本@名無史さん:03/01/16 20:00
むしろ、糞スレが淘汰されてスッキリ。
akuY氏と同じ意見。
127日本@名無史さん:03/01/16 23:50
???
やつは書き込みをする時、「上から順に」してったの。
だから結果的に「最初に一番上にいたスレが最後には一番下に沈めた(dat落ちではない)」の。
この意味分かるよね?
128akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/17 00:00
そうかなー、別の板じゃそれまで気がつかなかったいいスレに気づかせてくれたよ
まあ、なんかもう辞めるらしいしいいんじゃない?
129日本@名無史さん:03/01/17 12:37
>>120
否決はありえないでしょ。根回ししてましたから。(講談社「日本の歴史24」)。
不徹底な民主憲法案(松本案だっけ?)が、GHQ案提出の原因ですね。
質疑応答は結構やってたみたいよ。
共産党が自衛防衛権を要求し、保守の吉田首相が「自衛戦争と言って、今まで侵略戦争
やってたから戦争はみんなだめだ」と答えているのが笑える。
130日本@名無史さん:03/01/17 21:30
天皇を象徴から元首への修正案が出ましたが、憲法改正特別委員会ができてから
修正案を撤回してますね。この委員会は非公開・採決方式でなく懇談会方式
ですね。
政府原案がGHQ提案ということは、ふせられてた、政府案としてたようです。
わかったのは、数年後かな?
131日本@名無史さん:03/01/17 23:49
突然ですが、伊達政宗の側室の一人って外国人説がありますよね?
一体、どこの国の人なんでしょうか?
132日本@名無史さん:03/01/18 02:50

アンボンでオーストラリア兵の捕虜が沢山殺されたって本当ですか?
日本兵は捕虜の扱いは、良かった気がするのですが。。。。
どうなんでしょう?

それと、反日教育で左に傾いた人の教えはいりませんので、アシカラズ
133日本@名無史さん:03/01/18 12:54
>外人の側室が居たなんて話まである(英雄色を好む…(汗)。
>でも外国人の側室は与太話です)方ですが
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Ink/8177/kibou/busyou.html

実話ではない感じも・・・。
134日本@名無史さん:03/01/18 13:08
>>132
泰郁彦『昭和史の謎を追う』下巻、文芸春秋社、1993年所収の「第31章
 BC級戦犯たちの落日ーアンボンで何が裁かれたか」(pp.151-167)で
詳しく検証されています。以下、泰氏の論文を要約します。

ラハ事件
日本軍のラハ攻略の激戦の後、日本軍の報告ではオーストラリア兵約
200名(後の報告では250名)が捕虜となった。多くの捕虜はアンボン
に送られたが、よりわけられたオーストラリア兵に対して銃剣の刺殺に
よる集団処刑が行われた。後に、数珠つなぎになった50体ほどの遺体が
発掘されたが、全貌の解明に届かなかった。豪側は、ラハの死者を300人
ほどとしているが、戦死者と処刑者の内訳はつきとめられなかった。
泰氏は、戦死者は20名程度で、あとは処刑されたのではないかと推測
している。ラハ事件では、最高責任者はすでに戦死しており、1人が死刑、
2人が禁固20年の有罪判決を受けた。

アンボン収容所の捕虜虐待
アンボン攻略直後は、収容所は管理がゆるやかで、労働も課せられなかった。
監督者が交替した1942年6月から待遇が悪化し、暴行、処刑などの「捕虜いじめ」
が頻発した。特に1944年以降は補給が絶たれ、日本兵も慢性的飢餓にさらされて、
捕虜の待遇もさらに悪化した。アンボン収容所での捕虜の生存率は、
23%であった。飛行士処刑も含め、起訴された者は100人を超えたが、
死刑13名、有期刑43名の結末となった。
http://opinion.nucba.ac.jp/~kamada/H14Koceania/oceania14-7.html

作る会教科書賛同者で、愛媛県教育委員会が作る会を4校採択したのを
新聞で賛成コメントを書いた秦氏の意見なら聞くかい?

バターン行進や泰緬鉄道(日本軍によれば,日本兵1000人,捕虜1万3000人,
労務者3万3000人が死亡したとされる)など考えると、日本軍は捕虜の扱いは
あまりよくなかった印象だが。
第一次世界大戦のときは良かったが。
135日本@名無史さん:03/01/18 14:02
>日本兵は捕虜の扱いは、良かった気がするのですが。。。。

むしろこの根拠が聞いてみたい…
136日本@名無史さん:03/01/19 05:09
奥崎ケンゾウはまだ陛下のお命を狙っているのでしょうか?
137日本@名無史さん:03/01/20 10:43
出家後の名前(〜院○○など)からその人物の出家前の名前を調べられる本を教えてください。
138日本@名無史さん :03/01/20 19:04
江戸は本当に世界最大の都市だったの?
中国やインドにはいくらでも江戸以上の都市がありそう。
139日本@名無史さん:03/01/21 06:51
質問があります。
私は現在までの最短命内閣を調べているのですが、どの資料を見ても
第三次桂太郎内閣が歴代一位ということは変わりません。
しかし、在任期間を見ると52日〜64日で微妙に資料によって違います。
なぜなんでしょうか?
また、二位・三位もこれまた資料によってバラつきがあって、
宇野・羽田・石橋・・・・が資料によってマチマチです。
いったいどの順番が正しいのでしょうか?
140日本@名無史さん:03/01/21 11:42
>>97 :日本@名無史さん :03/01/13 22:55
>おもしろき こともなき世を おもしろく
ここまでは高杉のセリフ。ここで、息が止まった。

>すみなすものは 心なりけり
ここからは、誰か違う人がつけた。
高杉晋作の辞世の句は、正確には、上の句で終わり。

意味は、「おもしろくもねぇこの世を、おもしろく」
「生きていくのは(その人の)心しだい」
って感じかな。

個人的には上の句だけで、十分カックイイ!下の句は各自が考えるというのが
いいな。
141日本@名無史さん:03/01/21 12:00
>>136
1956年  不動産業者を傷害致死罪で懲役10年。
1966年  大阪刑務所を満期出所。
1969年1月2日  新年皇居参賀で「ヤマザキ天皇を撃て」とパチンコ玉を撃つ。
1976年  天皇ポルノ写真事件。
1980年 参院選全国区に出馬
1983年12月15日 衆議院兵庫一区から立候補中、大竹市で旧軍隊時代の上官の長男に発砲。
1983年12月17日 殺人未遂容疑で、神戸市で逮捕
1987年12月17日 殺人未遂で懲役12年の判決
1998年8月20日  府中刑務所出所

奥崎は、ニューギニア戦線で多くの日本人を餓死・病死させた
責任者を狙ってる。(現地人や下級日本兵が食肉にされたとの話も)
昭和帝や、元上官を捜し当てて殺人未遂。(「ゆきゆきて神軍」映画になった)
でも、昭和帝にはパチンコ玉だからね。殺す気なら狙撃か爆弾でしょ。
ただし、彼は天皇「制」が巨悪の根源と理解してるようだから、
可能性はあるかも?

「奥崎 天皇」の検索で沢山出てくるよ。
「奥崎 映画」でも出てくる。

俺は、奥崎の気持ちがわかるよ。人肉を食い合う地獄を見た正義感が強すぎる
男って感じ。戦争中も、理不尽な上官命令には抗議していたらしい。
142日本@名無史さん:03/01/21 12:25
>>138
唐の長安は100万人都市。
中国の杭州は元寇前で100万人都市。
10世紀のバクダッドは150万人都市。

まあ、ものの見方によるな。
143日本@名無史さん:03/01/21 12:31
>>138 >>142
17世紀、ロンドン・パリが50万のころ、江戸は80万、
亨保のころには100万を超し、
1800年頃ロンドン86万人、パリ67万人のころ江戸は120万人だった。

参考までに。
144日本@名無史さん:03/01/21 16:39
質問ですが・・・日本が占領したパラオ共和国ではどうして
カタカナしか教えなかったんですか?
先生は差別意識から、と言っていましたが・・皆さんはどん
な意見ですか?
教えてください。 
145日本@名無史さん:03/01/21 17:16
漢字を教える前に戦争になったから
14697:03/01/21 21:53
>>140
ありがとう!

もうひとつ
「三千世界の烏(からす)を殺し
 ぬしと朝寝がしてみたい」

三千世界=仏教ではこの世以外に2,999の世界があると考える
烏は何?
気に入らない物、人のこと?
からす=うるさいってことかな
147日本@名無史さん:03/01/21 22:04
>>146
イメージで割り切ってください。
「風の中のすばる、砂の中の銀河、ってどういう意味?」とか中島みゆきに訊いたりしないでしょう?
148日本@名無史さん:03/01/22 02:17
すんません。
珍敷塚古墳っていつごろできたとされてるんでしたっけ?
149日本@名無史さん:03/01/22 02:27
すいません、山川の詳説日本史のAとBの違いって何でしょう。
現代史に重きを置いてるのがA, 教科書として広く使われてるのがBなんですか?
150日本@名無史さん:03/01/22 10:54
>149
現在、高校の日本史は、近現代史を中心とする日本史A(標準単位
数2)と、全時代を扱う日本史B(同4)に分かれます。
大学入試では、日本史Bを範囲とするところが多いこともあり、日
本史Bが一般的で、そのなかで最もシェアが高いのが、山川出版社
の「詳説日本史」で、これは全時代を扱う日本史B向けの教科書で
す。
山川は他に、B向けを3種類、A向けを2種類、教科書として作っ
ています。なお、「詳説 日本史B」、「詳説日本史A」という教
科書はありません。参考URLは以下のとおり。
http://www.yamakawa.co.jp/textbooks/index.html
151日本@名無史さん:03/01/22 11:34
>>146
あなたの家のまわりにからすはいませんか?
朝方のからすはカーカー鳴いてうるさいのです。
それに三千世界というのは、
八百万とか八百屋とかいうのと同様に数が多いというイメージです。

たくさん本を読みましょう。まずはそこから。
152日本@名無史さん:03/01/23 02:26
西郷隆盛は「維新志士」といっていいですか?
153日本@名無史さん:03/01/23 02:44
>>146
>>151
さんぜん‐だいせん‐せかい【三千大千世界】
〔仏〕須弥山(シユミセン)を中心に、
日・月・四天下・四王天・三十三天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天などを含んだものを一世界とし、
これを千個合せたものを小千世界、
それを千個合せたものを中千世界とし、
それを千個合せたものを大千世界とする。
大千世界のことを三千大千世界ともいう。
一仏の教化する範囲(一仏世界)。
われわれが住む世界の全体。三千世界。三千界。一大三千大千世界。


カラスの鳴き声=カーカー→かかぁ=自分の妻。
ですから歌の意味は、自分の妻を殺し、ぬし(=浮気の相手)と朝まで一緒にいたい、と。
浮気を希望した歌です。
朝カラスがうるさい?歌ってのは、もっと深読みするモノですよ(笑
154日本@名無史さん:03/01/23 05:45
日本人の名前(×姓)スレー歴史的に
ってスレ、たててもいいでしょうかね?

名前(名乗りでもいみなでもよい)の変遷、名前のコンセプトが変化した時代
女性の名、その時代らしい名、らしくない名、武士らしい名、歴史的な珍名奇名、
名づけの方法など。

話題が広すぎて拡散しちゃいますかねえ???

このスレの前スレでもちょっと聞いたのですが、類似スレはないようです。
歴史板に来て数ヶ月なので、需要があるかつかめないし、あまり資料持ってないので
1として木目細かなケアができないのですが。
155日本@名無史さん:03/01/23 08:39
学校で「武士道」について調べてるんですが、「武士道」って何ですか?
156日本@名無史さん:03/01/23 12:34
>>152
一応、言えると思います。苦労もしたし。
157日本@名無史さん:03/01/23 12:42
武士道
広く武士の心組み,生き方を意味する場合と,狭く心組み,生き方の一
つの立場を意味して,士道に対する武士道として用いられる場合とがある。
 武士が王朝貴族の生き方に対して武士独自の生き方を自覚したとき,
〈弓矢とる身の習(ならい)〉という言葉が生まれた。
〈弓矢とる身の習〉は〈大将軍の前にては,親死に子討たるれども顧みず
弥(いや)が上に死に重なって戦ふ〉(古活字本《保元物語》)ことで,
主君への残るところのない献身である。だがまた,戦闘員として名を惜しみ
死をいさぎよくすることである。この〈弓矢とる身の習〉は武士社会に
その伝統として受け継がれたが,戦国時代において,武士は単に戦闘員
であるだけでなく,同時に為政者的性格をもつことになった。下剋上を
しのいでその地位を保持しようとする者も,また下剋上の波に乗って主君
にとって代わろうとした者も,人心を自己に引きつける指導者的徳性を
求めることになった。戦乱がおさまった近世の武士社会に,戦闘員として
の心組みの伝統と,指導者的徳性を重んずる伝統とが持ち込まれた。
指導者的徳性を重んずる伝統は,近世においては儒教と結びつき,
人倫の道の自覚を根本として,人倫の道を天下に実現することを武士の
職分とする思想に結晶した。武士のこのようなあり方を説く立場は,
一般に士道と呼ばれ,近世の武士社会において主導的な役割を果たした。
158日本@名無史さん:03/01/23 12:42
これに対して,太平の近世に,鎌倉時代以来の死のいさぎよさを重んずる
伝統を中核として受け継いだ流れがあり,この傾向が,多くの場合,
先の士道に対して武士道と呼ばれた。士道も武士道も武士社会に武士の
心組み,生き方として自覚されたものであり,武士の思想としての共通
性をもつが,武士道は儒教的な士道に対して批判的な立場をとるものであり,
士道が人倫の道の自覚を根本とするのに対して,武士道は死のいさぎよさ,
死の覚悟を根本とする。
[士道論と武士道論]  近世の士道論を代表するのは山鹿素行であり,
狭義の武士道論を代表するのは《葉隠》である。まず両者の死に対する
姿勢をとり上げると,素行はつねに〈死を心にあて〉るべきだとし,
《葉隠》は〈武士道と云は死ぬ事と見付けたり〉という。両者は一見同
じことを説いているようにみえる。だが素行の場合は,人間はいつ死ぬ
かもしれない,だから今の一刻を慎み人倫の道に生きよという意味である。
ところが《葉隠》のほうは,事に当たって間髪をいれず死地に突入する
ことを説くものであり,またつねに死と一枚になり死身に徹することを
説いたもので,死狂,死身に徹するときに初めてそこに忠も孝もおのず
からそなわると考えるものである。武士道論者は,士道論は己の私心を
飾り隠す理屈であり,死ぬことにおいてのみ純粋が保たれると説く。
太平の時代であるがゆえに,死のいさぎよさが,逆に死狂,死身として
いっそう強烈に武士の生活のすべてにわたる心組み,生き方として説かれ
たといえる。
159日本@名無史さん:03/01/23 12:43
 士道と武士道とは主従関係のとらえ方においても異なる。
主君に対する諫言(かんげん)について,士道は諫言をいれない主君,
つまり道を実現する可能性のない主君の下にとどまるべきでないという。
これに対して武士道では,諫言をいれないときにも,いよいよ主君の味方
となり,主君の悪が外部にもれないようにし,主君の悪を己にひきかぶり
つつ諫言をつづけるべきであるという。武士道において主君あるいは主家
との契りは情的であり絶対的である。
 士道においても武士道においても,ともに武士たるものの強み(威厳)
が重んじられた。戦国武将はそれぞれ一城の主として相対峙したが,
この姿勢は武士一般の基本的な姿勢となった。すなわち武士は,味方朋輩
との関係にあっても,精神的にみずからの城郭に立てこもって他者と対峙した。
つねに勝負の構えに生きた。武士が矜持(きようじ)を重んじたのも,
武士のこの基本的姿勢を理解することによって納得される。武士が相互
に一歩もひけをとらないとするところに矜持の根本があった。ところで
このように勝負の構えに生きた武士は,他者に勝つことを求めるが,
それは武力的,腕力的に他者を圧することではなく,武士が標榜(ひようぼう)
したのは精神的な優位であり,しかも自己に勝つ者が初めて他者に勝つと理解した。
士道では人倫の道の自覚に徹するとき,武士道では死の覚悟に徹するとき,
おのずから他者を圧する強みが形成されてくるとした。強みは容貌,
言語,起居動作においておのずから表現されるべきものである。
礼儀正しさも武士の強みの一つの表現であった。武士社会における礼儀
の尊重は封建社会の階層的秩序への随順をのみ意味するものではない。
〈甲冑ハ辱ム可カラザルノ色ナリ。人ハ礼譲ヲ服シテ以テ甲冑ト為サバ
誰カ敢テ之ヲ辱シメン〉という佐藤一斎の言葉は,近世武士社会における
礼儀尊重の精神を語るものである。
160日本@名無史さん:03/01/23 12:44
どうして伊達遠江守家中ってコテハンは思い込みでしかカキコできないんでつか?
もしかしてこいつは相当頭が悪いのでしょうか。
どのスレ見ても「思い込みで書くな」って叱られてるみたいなのですが。
で、どういう部分を見ると思い込みって見抜けるんでつか?
161日本@名無史さん:03/01/23 12:46
簡単に言うと、鎌倉期の武士道は名誉を重んじ、
戦国期は、強い方について、裏切ってでも自分の一族を守るのを重んじ、
江戸中期に空想理論の世界として、主君のために死すとの考えが出てきた。
162日本@名無史さん:03/01/23 16:26
>>154
あなたの名字の由来教えてください
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1017675160/l50
を使いましょう。
163日本@名無史さん:03/01/23 21:02
偽善フェミファシストによるモラルハザードフェミファシズム悪法
平成の治安維持法 児童売春促進法(焚書法)の改悪に反対する意見書

http://www.picnic.to/~ami/repo/k_ikensyo.htm
16497:03/01/23 21:14
>>153
多謝!よくわかったよ

>>146
たくさん本を読みましょう。まずはそこから。

16597:03/01/23 21:19
間違えた

>>151
たくさん本を読みましょう。まずはそこから。
166日本@名無史さん:03/01/23 22:33
>>154
そこまで調べてスレ立てたいと思うならたてればよいのでは。>>162のように姓の話
をしたいわけではないのでしょう?
盛り上がるかどうかはわからん。レスがつかなければ沈むだけ。
167日本@名無史さん:03/01/23 22:38
>>154
民俗板の方がレスが付いたりしてうまくいくとおもう。
168 :03/01/23 22:57
謀反と下克上は何がちがうの?
169日本@名無史さん:03/01/24 13:21
謀反
天皇,朝廷,君主,主人など国家,為政者,権力者に対する反逆

下尅上
〈下克上〉〈下刻上〉〈下極上〉とも記され,
〈下位のものが上位のものにうち勝ち,現状を否定して,ほんらいの順序を逆転
させる言動〉といった意味で鎌倉時代以降さかんに用いられた語。
170日本@名無史さん:03/01/24 14:55
ちょい質問
日本はいつ頃から海外にも国がある事を知っていたの?
もともと大陸から来たと言うことで最初から知ってたの?
171 週間月曜日 :03/01/24 16:57
ちょっと教えてくださいな。

武士って刀を2本差してますよね、大小と。あれって何のためなんですかね。
 折れた時の予備?

もう一つ、ちょんまげの起源って冑かぶっていると蒸れるから剃ったというの
が定説らしいんだけど、その事で極東板で「西洋だってかぶってるけど頭
剃らないぞ」って言ったら、西洋のは肩で支えるタイプだから日本の頭で支える
タイプと違って蒸れないんだと言われてしまいました。

 西洋にだっていろんな冑があると思うし、インドみたいにターバン巻いてる
方がよっぽど蒸れるだろうに。 こちらのみなさんのご意見はどんなもので
しょうか?
172日本@名無史さん:03/01/24 23:20
>>171
世界史板の住人ですが、蒸れる蒸れないについて。
気候条件を考えてみる必要があるのでは?
ヨーロッパには梅雨がありませんぜ。
173週間月曜日:03/01/25 01:22
>>172

なるほど、一般的にヨーロッパは湿度が低く空気が乾燥しているというよね。

でも、東南アジアとかは?
174日本@名無史さん:03/01/25 07:48
「大使閣下の料理人」の巻は忘れましたが小村寿太郎は外交で命を縮め
重光葵は爆弾で片足をなくしたとか言ってますが本当ですか?小村
が命を縮めたのは納得できるんですが爆弾で片足をなくしたのは
大隈重信ではないかと思ってしまいました。
175154:03/01/25 10:54
名前スレについてですが、ありがとうございます。>>162、166、167
スレ建てちゃえとおもってやったら、Proxy規制でたてられませんでした。
たいへんにおさわがせしました(泣)
大学のサーバー経由なんだけどなー。アメリカなんでjpドメインじゃないけど。
ま、ぼちぼち関係有りそうなスレで話ふっていきます。
176日本@名無史さん:03/01/25 13:32
>>174
32年、上海・虹口公園で天長節祝賀会開催中、同地の大韓民国臨時政府の
尹奉吉が投げた爆弾で足を負傷した。

「重光葵 爆弾」で検索しる!
177日本@名無史さん:03/01/25 13:52
日本史学における歴史哲学の扱いを教えてください。
西洋では、〜派(アナール派等)あるようですが、
日本ではその辺はどうなってるのでしょうか。
178日本@名無史さん:03/01/25 23:16
よく日本史の教科書にのってる、織田信長の自画像だれが書いたのか
大至急教えてホスィ。
できれば絵の題名のきぼん
179日本@名無史さん:03/01/26 03:38
自画像??
180日本@名無史さん:03/01/26 03:44
ワラタ
181日本@名無史さん:03/01/26 05:05
〜守と国司ってどうちがうの?
時代でちがうなら時代別にきぼんぬ
182日本@名無史さん:03/01/26 07:44
国司というのは国を司る役人。
4つのランクがあって、上から守、介、ジョウ、目
183日本@名無史さん:03/01/26 08:26
平家物語で忠盛は備前守から但馬国守に命じられた時に
初めて昇殿した、とないますがそれは?
184日本@名無史さん:03/01/26 09:09
>>176
ありがとうございます。調べてみました。
185日本@名無史さん:03/01/26 11:08
>>178
[紙本著色 織田信長像 国指定重要文化財・長興寺蔵]のこと?
たぶん、狩野元秀だよ。
186日本@名無史さん:03/01/26 11:24
>>177
…ないようなのでちょっとだけ
日本史では、あまり歴史哲学といういいかたは聞かないような気が…
思想史とか歴史社会学のカテゴリにはいってしまうのかも…
ただ、当方このへん全然詳しくないので間違ってたら申し訳ないっす。

>>178
長興寺所蔵のやつかな?狩野元秀筆らしい。詳しいことは自分で調べて。
しかし最近信長関連の変な質問多いな。ホームページでも作るんかいな。
187日本@名無史さん:03/01/26 11:30
>>185
あ、かぶった。ごめん。
188日本@名無史さん:03/01/26 14:10
防人について正しい文を一つ選びなさい
1、防人は主に西国の農民中心である
2、防人のなかには東北征伐に加わる者もいた
3、防人になれば調、庸などの税が免除された。
4、防人は食料や武器などが支給された。

教えて下さい。
189日本@名無史さん:03/01/26 14:49
現存してる会社で一番古いのはふとんの西川ですか?
190日本@名無史さん:03/01/26 14:52
>>189

よく知ってるな。偉い偉い
191日本@名無史さん :03/01/26 14:55
ふとんの西川が昔からあることは常識なので、えらくもなんともありません。
192日本@名無史さん:03/01/27 21:23
>>188
自信ないが3かな?
変な問題だね、どこの問題?
193日本@名無史さん:03/01/27 23:47
卒論です。タイムリミットです。経済史です。
結局日本の財閥ってなに?第二次大戦中なにしたの?どうして解体されなきゃならなかったの??
中学生の知識から一向に進歩してなくて、どうにもこうにも論が発展せずに締切があさってです。
助けてください。
194akuY ◆c0IRE/HCS. :03/01/28 00:41
>>193
なんでこの時期まで卒論をほったらかしているの・・・
助けになるか分かりませんけど「財閥解体 何故」の具具った結果です。
http://www.google.co.jp/search?q=%E8%B2%A1%E9%96%A5%E8%A7%A3%E4%BD%93+%E4%BD%95%E6%95%85&ie=UTF-8&oe=UTF-8&hl=ja&lr=lang_ja
頑張ってね。
195日本@名無史さん:03/01/28 04:31
幕府がなくなって、大日本帝国憲法が施行されるまで20年以上あるようですが、
それまでは法律(?)とかってどうなってたのですか?
天皇主権にした意味は?

あと、倒幕の為に働いた人っていうのは、
当時としてはやっぱり相当な異端者扱いを受けてたのですか?
外国の脅威に幕府が対応できない、って感じたのは、当時としては一般人レベルでは
とても考えつかないものだと思うんですけど。その情報元は外国から来たものだったんでしょうか?

昔は全然興味なかったのですが、経済の勉強をしても、政治の勉強をしていても
この辺の時代は関係してくるので、色々調べてみたのですが、当時の状況がわかりません。
誰か教えてください。

196日本@名無史さん:03/01/28 04:43
なんでウヨ・サヨがこんなに跋扈してるんだ? この板は。
197日本@名無史さん:03/01/28 12:43
>>195
前半
高校の教科書を再読することをお薦めします。

後半
高杉は上海のビルを見た瞬間、攘夷論から開国論に変わったと俗に言われてる。
一般には、下関戦争・薩英戦争で外国との差を実感し、開国路線に転じ、
薩長同盟あたりから倒幕が見えてきた。
各藩は、安全パイとして、過激勤王派を蟄居とかで保存してたようだね。
倒幕が見えてきたら、使っている。
198日本@名無史さん:03/01/29 06:32
明治維新後、薩摩や長州などの地方は栄えたのですか?
栄えて、今のような感じ??
首都を東京にしたとしても贔屓はしなかったのかなぁ?
199日本@名無史さん:03/01/29 12:38
>>198
さほどの発展はなかったようだが。
鹿児島は西南戦争敗戦後までは、独立国的存在だったったようだ。
200日本@名無史さん:03/01/29 16:23
日本史(通史)のお奨め書籍を教えてください!
201日本@名無史さん:03/01/29 18:51
個人的には、講談社「日本の歴史」だが。超初心者だと難しいかな?
初級なら、頑張れば読めると思う。
202日本@名無史さん:03/01/29 19:47
明治になってからの植民地獲得政策は
島津斉彬が発案したものを元にしていると聞いたんですが本当ですか?
203日本@名無史さん:03/01/30 12:39
征韓論的発想と、日清戦争的発想は断絶があると思うのだが。
204日本@名無史さん:03/01/30 14:24
遅レスですが
>>153
「三千世界の烏」とはどういう意味か君の解釈をききたいね。
>>97
153を信じるのは勝手だけど、
自分のことは棚に上げていうのはやめようね。まずはそこから。
205ハン板でも聞いたんですが・・・:03/01/30 20:41
あっちでは答えてくれる方がいませんでした。マルチです。すいません。

万宝山事件で、半島各地で朝鮮人暴徒が朝鮮在住中国人を虐殺したそうですが、
それについて(特に左翼系のhpや韓国人は)
「日本が朝鮮人を扇動したからであって、責任は日本にある」
との説明がなされているようです。
朝鮮日報にもそう書いてある(日本大使館に指示されて記事を書いたと謝罪)
そうです。
真相についてご存知の方、どうか教えてください。
また、事件の詳しい経過についてお勧めのhpや
本があれば教えてもらえないでしょうか?

>謝罪文が朝鮮日報に掲載された当日15日に、李利三記者は吉林市で吉林総
>領事館職員によって暗殺されてしまったのです。日本総領事館に関与を暴露さ
>れた腹いせに暗殺を実行したのでしょう。また新たな事実が露呈することを恐
>れたのに違いありません。
これも本当なんでしょうか?
206日本@名無史さん:03/01/31 14:41
>万宝山事件
>まんぽうざんじけん
>1931年7月2日,中国吉林省長春市郊外の万宝山で起きた朝鮮移住民と中国農民
>の衝突事件。
>日本の植民地朝鮮では,東洋拓殖株式会社が中心となって没落農民の満州移住
>が進められ,31年には63万人に達した。
>移住民は日本の手先と見られ,中国側の反日の矢面にたたされた。
>日本は朝鮮での反華報復をあおり,両民族の離間策の中に満州侵略の機運を
>盛り上げた。満州事変は直後に起きた。            田中 宏

百科事典には、こう載ってますね。
扇動かどうかはわかりませんが、両民族の反目を利用はしたようですね。
当時の関東軍は、統帥権無視状態でしたから、日本政府の責任と言うよりも、
関東軍の責任かな?ま、第三者から見れば、日本の責任となっちゃうけどね。
207日本@名無史さん:03/01/31 18:20
関東軍じゃなくて総督府の責任じゃないのか?
208日本@名無史さん:03/02/01 12:07

どちらも小説か何かで読んだ話しですが、本当の話なんでしょうか。
教えて下さい。


<疑問その1>
 北ノ庄城落城時、柴田勝家の姉と勝家の娘が降伏してきたけど
 秀吉は保護せず、解き放ったとか。
 結局、お姫様育ちのふたりは何も出来ず、山で餓死したとか

<疑問その2>
 石田三成は、意地を張って切腹死した千利休の妻と娘を捕まえて
 蛇でいっぱいの瓶にいれて殺したとか。
 ほんとうの話しなんでしょうか。

209日本@名無史さん:03/02/01 12:15
210日本@名無史さん:03/02/01 12:23
>>209
放置がよろしいかと。
211日本@名無史さん:03/02/02 13:03
そのホストじゃ立てられないと言われました(´Д⊂
誰か変わりに立ててくれませんか?

受験勉強に役立つHPを集めるスレッド

まずは私から。

■日本史

要点、原点、重点、など問題形式になっていて、プリントアウト
したらそのまま使えそう。
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~ryoukan/index.htm
212211:03/02/02 13:06
嗚呼…。誤爆です…。すいません。
213日本@名無史さん:03/02/02 21:08
韓国併合時の「一心会」は、対等合併論で利権集団化してきたので日本政府
は、本心は邪魔だったが、朝鮮に植民地化賛成論者がいることをアピールするために
残しておいたらしいのですが、利用価値のなくなった一心会に解散命令が出てますが、
併合条約以前と以後の両論があります。どっちでしょうか?(変な日本語スマソ)
よろしくお願いします。
214214:03/02/03 02:27
今度、史学史についてのレポートを出さないといけません。日本、世界の史学史についての
良書はありませんか?よろしくおねがいします
215日本@名無史さん:03/02/03 02:33
誰か秀郷流の武家について語るスレたててください。
216日本@名無史さん:03/02/03 16:01
>>208
>どちらも小説か何かで読んだ話しですが、本当の話なんでしょうか。
歴史小説やメディアで流れる説は、売る為に定説を脚色するものです。

> 北ノ庄城落城時、柴田勝家の姉と勝家の娘が降伏してきたけど
> 秀吉は保護せず、解き放ったとか。
> 結局、お姫様育ちのふたりは何も出来ず、山で餓死したとか
晩年以外は、秀吉はそんなひどい事をするキャラでは無いと思います。

豊臣家は秀吉の人柄で持ってたようなものだと思う。

> 石田三成は、意地を張って切腹死した千利休の妻と娘を捕まえて
> 蛇でいっぱいの瓶にいれて殺したとか。 ほんとうの話しなんでしょうか。
三成ならやりかねないけど、多分作り話です。
217ccc:03/02/03 16:02
http://jsweb.muvc.net/index.html
★☆★幸福になりたーい!!★☆★
218216:03/02/03 16:06
ところで、徳川家康公嫡男の松平信康の子(2姫?)は、
どのような生涯だったのでしょうか?
219akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/04 00:58
>>208, >>216
秀吉は賤ヶ岳では織田信孝の再挙時に彼の母を磔刑に処した程の男ですから
推して計るべしかと。三成のその話は初見ですがいかにも後日三成を
悪党と仕立て上げたい勢力が都合よく作った話に感じます。
220日本@名無史さん:03/02/04 12:22
>akuY ◆c0IRE/HCS
だから、アゲ義務スレだっての。
221日本@名無史さん:03/02/04 12:30
秀吉は中国攻めの際、篭城中の山名家臣の家族を目の前で磔にし、次は山名豊国(?)の
家族だぞとおどしたって、日経の連載小説で見たことあるぞ。
ひどいやつだと思った。

おっと、これも小説か・・・
222日本@名無史さん:03/02/04 12:58
秀吉は、頭がいいと思う。経済政策や、兵農分離政策など。
近年、朝鮮出兵は信長以来の膨張主義の流れ上に説明されていたりもするが、
戦国エネルギーの外部放出策も捨てがたい。

いかがなものでしょうか?アドバイスを。
223日本@名無史さん:03/02/04 13:01
>>220
本人じゃないけど、メアド欄見てから書けや。
224日本@名無史さん:03/02/04 13:04
>>214
史学史(それも世界も含めてって?)て一言じゃ広すぎ。

>>222
何についてのアドバイスを何故求めてるの?
225日本@名無史さん:03/02/04 13:07
朝鮮出兵の理由を知りたいのです。
226日本@名無史さん:03/02/04 14:00
>>225
日本国内に戦場がなかったから。
227日本@名無史さん:03/02/04 14:20
>>225
んなもん自分で結論だせや。

どっちも学者が書いた説だろ。村井と藤木だっけ?
両方あるかもしれんしどっちかかもしれんし。
結論出したきゃ自分で勉強して導き出せや。
228日本@名無史さん:03/02/04 16:24
>>226
どうも。

>>227
ま、そりゃそうだが、他人の意見も参考にしたくてねw。
229日本@名無史さん:03/02/05 10:22
>>228
すでに他人(学者)の本を見てる時点で他人の意見を参考にしてるのだということ。
230日本@名無史さん:03/02/05 18:34
韓国の歴史教科書読んだら、偏見だらけでした(本当の意味での偏見か否かは不明)
文化の劣る日本(江戸時代)の〜ってな書き込みなど。

たぶん、中国、インド、アメリカ、イギリス等々の教科書も微妙に自国有利に
書かれているんでしょうね。日本の教科書もちょっと疑う必要ありそう。

外国の教科書読んだりした人っています? やはり偏見だらけ?
231akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/05 20:22
>>220, >>223
レス遅れてすいません&補足サンクスです、その後別の板に行って寝ちゃったもので。
この板に質問スレ2つありますけど、そこではメール欄で"age"る様にしっかり気をつけております。
今後も注意しますね。
232名無し募集中。。。:03/02/05 20:58
>>231
まぎらわしいことしなければいいんじゃない。
233日本@名無史さん:03/02/05 23:25
質問です。
戦国や江戸時代なんかは骨折ってどう治療してたんでしょうか?
複雑骨折や、折れた骨が皮膚の外に飛び出すような場合は治療不能な気が。
一生、折れた腕や足が使えないまま過ごすのでしょうか?
234日本@名無史さん:03/02/05 23:29
>>233
何だか非常に誘導されそうな質問だな・・・
235日本@名無史さん:03/02/05 23:37
>>234
いやいや、深い意味は無いです。
あの時代の武士は落馬したり、斬り合ったりで骨折する機会も多かろうなと。
そんで折れたらどうするのかなあと。
236akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/06 01:10
>>233さん
「戦国時代 骨折 治療法 活法」
で具具ると7件くらいヒットしますが、はてさて。
237日本@名無史さん:03/02/06 03:08
インスタントラーメンを発明したのは、皇后陛下のお父様って本当ですか?
238日本@名無史さん:03/02/06 08:33
>>230
ドイツの読んだが。ポーランドなどと共同執筆。
ナチスには手厳しいね。課題学習がアウシュビッツ見学旅行。
広島原爆が日本のより詳しいw。
過去の自国の過ちを正視する姿勢が貫かれている。
逆にそれが、ドイツ再生への誓いのニュアンスを含んだ愛国心へと連なる。
あそこまで書いてあれば、近隣諸国から文句は来ないわな。

あと、ドイツの教育制度でヘェーと思ったのは、中等教育からオチこぼれした
人用に、敗者復活戦の道が制度的に確保されてるとこ。実態は知らんが、いいね。
社会が寛容なんだろな。
そこまでやっても、ネオナチがでるけど。小林信者みたいなもんか?
239日本@名無史さん:03/02/06 08:35
>>237
あ、何か聞いたことあるな。日清系企業だろ。
そうかもしれんが自信がない。「インスタントラーメン 発明」とかで
検索してみれば?
240日本@名無史さん:03/02/06 11:45
>>238
でもドイツはナチスをスケープゴートにしているからね。
ドイツ人のほとんどは、自分はナチスと直接関係ないとか思っているらしいから。
ドイツ国防軍の犯罪でもナチスのせいにしているらしいよ。
241日本@名無史さん:03/02/06 12:37
ドイツ国防軍は、ナチスに忠誠を誓ってたんじゃないかな?
なんか宣誓式みたいの見た気がする。
日本のスケープゴートは戦犯かな。

242日本@名無史さん:03/02/06 12:43
小林信者でないつもりだけど、盲目的に日本の歴史教科書は正しいと思って
いた、戦争の責任はほとんど日本にあるって信じてた、洗脳されてた自分を
解き放ってくれていた契機となったよ、小林よしのり著の本などが。

外国の教科書見て、中立だなぁって思ったものはなかった。
やはり、日本の教科書だって完璧ではないと思う。
243日本@名無史さん:03/02/06 13:09
ふーん。じゃ、満州事変なんかも日本に責任はないの?

俺は、右翼と言われもする秦氏の意見に賛成で、
日本の侵略度は、
満州事変が100%
日中戦争は80%
対英米戦は60%
だな。
244日本@名無史さん:03/02/06 14:13
>>243
ほぼ同意だね。
満州事変が100%←そもそも、あちらに戦争できるほど国力無し。
日中戦争は80%←進出(?)されりゃ、そりゃ戦うだろう。
ただ、対英米戦は50%くらいだと思う。
日本の大義名分を考えるなら40%でも良いかもしれないが、結局は国同士の
利権獲得戦争だし。
245日本@名無史さん:03/02/06 14:50
>>244
対英米戦は、帝国主義同士の殖民地再分割戦争だからね。
そこだけ見ると、50%だね。
秦氏が日本の正当度を40%にした理由はわからないが、
東南アジアでの蛮行など含めてるのかもしれん。
246日本@名無史さん:03/02/06 15:35
>>239
おひおひ、日清製粉(正田家がオーナー)と日清食品(安藤家が
オーナー)はまったく別の会社だよ。 正田家のほうは明治から
ある企業、いまよりずっと大きい会社だった。それにあやかって
昭和30年代にインスタント・ラーメンを開発した華僑の安藤百福
氏が日清食品という会社をつくった。 237のような誤解に
よるイメージアップも狙ったのかは わからないが、そう誤解した
まま有難がって食べていた爺婆が居たことは確かだ。
247日本@名無史さん:03/02/06 17:07
???????????????????????????????
248モンテ食品:03/02/06 17:08
「マ・マー・スパゲッティ」は,日清製粉(正田)だね.
ナポリタン用に最適(w
249日本@名無史さん:03/02/06 19:05
日本史において、hyakutakeってどんな人がいたか教えて貰えませんでしょうか?
侍従長がいたってのは、知ってますが、他にも軍人とかいたって聞きましたけど。
250日本@名無史さん:03/02/06 19:07
陸軍に百武中将がいました。
たしか薩摩出身ですが、先祖は佐賀の竜造寺四天王です。
251日本@名無史さん:03/02/06 19:31
>>250
有難うございます。大将の下が中将ですよね。
中将って何人くらいいたのですか?
252日本@名無史さん:03/02/06 19:59
 百武中将って何処で戦ってたのですか?
253akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/06 20:04
>>251さん
多分、軍板で聞くか米国資料をあさった方が早いと思います。
254akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/06 20:06
>>252さん
googleで「百武中将」で13件ヒットしますので目を通してみては?
http://www.google.co.jp/search?q=%E7%99%BE%E6%AD%A6%E4%B8%AD%E5%B0%86&ie=UTF-8&oe=UTF-8&hl=ja&lr=lang_ja
255日本@名無史さん:03/02/06 20:16
まことに有難う御座いました。
256質   問   男:03/02/06 21:35
>>1
質問

慶応4年1月15日を新暦になおすと1868年の2月9日であっていますか?(25日足すんでしたっけ???)
257日本@名無史さん:03/02/06 21:53
知らなかった・・・

カップらーめんの巨万の富で天皇家と近づきになったもんだと
思ってた… まったくの別会社だったのか…
258日本@名無史さん:03/02/06 22:18
>>240
最近は、変わってきてるよ。
そりゃみんながみんなそうだとは言わないが。

しかし、そういうことを言い立てること自体が、それこそスケープゴートにし
てやしないか。
少なくとも、そういう点でドイツの方が、他国との歩み寄りを順調にすすめて
いることは確かだと思うが。日本でもある程度すすめている団体があるが、そ
れはドイツで動いているものほど大きなものではないし。
259日本@名無史さん:03/02/06 22:26
>>240
>>258
ここ十年で、一般人のナチス協力者まで責任を追及されてるね。
フランスのナチ協力者も追求されローマ法王も謝罪している。
「ナチスだけが悪い」から、「協力者・加担者・不抵抗者も悪い」に、さらに追及が深まっている。
これが、ドイツやフランスの若者自身によって行われている点が、
近隣諸国の評価につながってるんじゃないかな。
260日本@名無史さん:03/02/06 22:56
十五年戦争で日本は
捕虜の虐殺や細菌兵器の研究など
戦時国際法に違反する行動をしていましたが
それについて当時の日本の軍人や学者や、政治家はどう解釈してたのでしょうか
261akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/06 23:10
>>256さん
ネットをうろうろしていたら2月8日という記述を見つけましたが
ソースとして公開できる程かどうか自信が・・・。
262日本@名無史さん:03/02/06 23:24
>>260
第二次大戦でアメリカは
国際法で保護された阿波丸を撃沈し、核兵器で民間人の大量虐殺をしましたが・・・

どこの国でも勝つために必死なんだよ、で勝った方が正義になるだけでは?
263日本@名無史さん:03/02/06 23:42
>>262
あの、輸送艦撃沈は誤認じゃないの?
264日本@名無史さん:03/02/06 23:48
>263
確かに誤認説もあるけど、戦争が終結すれば賠償問題を審議すると明言したのに
戦後GHQは賠償権を放棄するよう日本に要請してきたでしょ
勝ち負けが逆ならこうはならないはず
265日本@名無史さん:03/02/06 23:51
1じゃないけど>>256

>慶応4年1月15日を新暦になおすと1868年の2月9日であっていますか?

 1868年2月8日のようです。

>(25日足すんでしたっけ???)

 う〜ん、よくわかりません。でも、こういうすごいページがあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/index.html
ここから、暦の変換 (暦相互変換フォーム) の日本暦日を選んで変換し
てみてください。旧暦だと月の変わり目に注意が必要ですね(大の月は
30日、小の月は29日、閏月。おまけに大・小は不定)。
266日本@名無史さん:03/02/07 00:54
>259
258だが、そういう事例を指して書いたのではない。
だいたい、教科書の話だろ?

しかしこれ以上書くとスレ違いだ。やめる。
267日本@名無史さん:03/02/07 01:27
勝ったヤシが正義! アメリカ・中国の正義確定!!
負けたから日本は不正義! これで一件落着!! 
268日本@名無史さん:03/02/07 01:36
>>267
このスレで燃料入れないでも・・・

その勝った正義のヤシが、戦後保障をしっかりやってたりするわけで。
まあ勝って金が有るから、当然といえば当然だが。
269旧暦ってややこしいね:03/02/07 01:41
>>265

>>1じゃないけどさん。かなりたすかりました。レス サンクス。
270268:03/02/07 01:42
別に、コメやナカがと言うのでは無いが。
271日本@名無史さん:03/02/07 11:49
>>259
当時ナチスの協力者でないドイツ人がどれくらいいると思う?
ドイツ国民のほとんどが多かれ少なかれ「協力者」なんだよ。
ましてや>「協力者・加担者・不抵抗者も悪い」となると全員じゃないか。
ドイツ人のほとんどがそう思っているなら、あれほどドイツの退役軍人会が政治的に力を持っているわけがない。
272日本@名無史さん:03/02/07 12:32
2ちゃんねら競艇選手池上裕次(埼玉)を笹川賞人気投票1位に
みんなの力貸して下さい。(投票期間1/25〜2/23)
■笹川賞インターネット投票■  http://www.kyotei.or.jp/kn/03sasakawa/vote.htm
■ネット以外の投票■ http://www.kyotei.or.jp/kn/03sasakawa/info.htm
■競艇オフィシャルHP■     http://www.kyotei.or.jp/index2.htm
ギャンブル板スレhttp://gamble.2ch.net/test/read.cgi/gamble/1044418996/l50
●池上本人が立てたスレッド 『【競艇】開会式で何て逝ったら面白い? 』(過去ログ)
http://curry.2ch.net/gamble/kako/1021/10210/1021043809.html
池上横断幕です。
http://heketan.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/data/heketan319.jpg
3245 池上 裕次(2チャンネラ選手)http://www.kyotei.or.jp/JLC/PROFILE/32/3245.htm
3857 阿波 勝哉 http://www.kyotei.or.jp/JLC/PROFILE/38/3857.htm
3352 小川 晃司 http://www.kyotei.or.jp/JLC/PROFILE/33/3352.htm
上の2名はギャンブル板推奨選手でつ。この3人に投票願いまつ
※田代砲は無効になりますので使用しないで下さい
273日本@名無史さん:03/02/07 13:48
>>271
ま、日本よりは、落とし前のつけ方を、きちんとしたのは事実だな。
274日本@名無史さん:03/02/07 13:57
>>273
はいはい。
でもたわごとはそれくらいで。
275ccc:03/02/07 13:59
http://jsweb.muvc.net/index.html
★もうすぐ春ですよ★
276日本@名無史さん:03/02/07 14:22
うちのばーちゃんなけなしの貯金で「天皇陛下一族の写真集」?豪華版
なんてのを買ってました。洗脳教育ってすごいですね。
277日本@名無史さん:03/02/07 14:26
>>274
何か意見書けば?
無理なら無理強いはしないけど(藁
278日本@名無史さん:03/02/07 14:28
>>276
家の死んだじいちゃんは、日本の土地は全部が天皇陛下から借りたもの
と信じて、死んでいきますた。
ほぇ〜。
279日本@名無史さん:03/02/07 14:48
>>277
>ま、日本よりは、落とし前のつけ方を、きちんとしたのは事実だな。
これがたわごと以外の何だと言うのだろう(プ
280日本@名無史さん:03/02/07 14:59
>>279
だからさぁ、何か書けば?
ま、無理なら無理強いはしないけど(藁
あ、そうか、ヒントがないと無理かな?
281日本@名無史さん:03/02/07 15:02
>>280
何か書けば?
282日本@名無史さん:03/02/07 15:03
>>280
書いてあるのが読めないらしい(藁
283日本@名無史さん:03/02/07 15:04
>>281
オマエモナーw。
284日本@名無史さん:03/02/07 15:09
>>283
>オマエモナーw。
ツマラナイ煽りは止めようよ。見苦しいから。
285日本@名無史さん:03/02/07 15:18
何か場違いの雰囲気なんですが、質問していいですか。

日露戦争の時、戦争用に英米にもらったお金は、返したんですか?
もらったんですか?
286日本@名無史さん:03/02/07 16:46
チグハグながらも、上手く行ってりゃ文句はない訳だが・・・
妄想というのは厄介だな。

>285
資金協力だったと思うのですが。
287日本@名無史さん:03/02/07 16:54
>>285
成金景気のときに返したんじゃなかった?
288日本@名無史さん:03/02/07 17:11
>287
えっ?あれって返したの?
289bloom:03/02/07 17:14
290akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/07 18:30
>>285さん ここ何か参考になりますか? ttp://www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/88fleet1934_file04.html
291日本@名無史さん:03/02/07 19:52
akuY ◆c0IRE/HCSさん。
申し訳ないのですが、読み取りできません。
アドレスをコピーして、貼ってくれると、助かるのですが。
292日本@名無史さん:03/02/07 20:29
>>280
また思い込み病の再発でつか、伊達タン(w
293akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/07 20:48
>>291さん
直リンすると何かとアレなので先頭のhを省略しておりました。
http://www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/88fleet1934_file04.html
ここの「インターバル」という項は何か参考になりますか?
294日本@名無史さん:03/02/07 21:04
>日露戦争で同盟関係にあり幾多の支援を行った大英帝国に対して、同盟への
>感謝の意味を以て利権の一部を無償で譲り渡す。
>しかし、講話の調停を行ったアメリカ合衆国に対しては、日露戦争の前後し
>て結ばれたアメリカとの口約束(鉄道に関連する利権)を、民間レベルだった
>口約束だった事もあり、土壇場でこれを断り、以後の日米関係に大きな影を
>落とす事になる。
>また、多額の借款(戦費そのものは20億円以上にのぼっていた)をしていた
>日本政府は、満州、韓国の権益を大英帝国との共同保有を行い、膨大な借款
>の返済に当てる事となる。
>さらに、勝利したものの、ひどく陸軍力を消耗した日本は、その肩代りを一部
>英国に依頼せざるおえない状態となる。これも、大英帝国に韓国・満州の市場
>を解放しなければならない理由ともなっている。
>これらの大英帝国への市場開放と、それによる朝鮮半島での日本勢力減退を
>国民に説明するために、英国には莫大な戦費の借款がありこれを返済するのは
>当然で、さらに同盟国にあるのだからと言う論法を以て『日英協調』を日本の
>国是として強調するようになる。
>また、この戦争の勝利によりアジア、アフリカ各地域の独立運動家や独立運動
>グループが日本をあてにするようになり、これが後々欧米主導の国際社会から
>の孤立を深くする事になる。
>だが、英国はアジアの番犬として日本を位置付けていたのである程度は容認
>されていた。
>そしてロシア帝国は、この戦争により想像以上に疲弊する事となり、次の大戦
>で、早期に崩壊するきっかけの一つとなる。
295日本@名無史さん:03/02/07 23:04
>>293akuY ◆c0IRE/HCSさん
>>294さん
ありがとうございました。
イギリスには、権益で返済し、アメリカにはしなかったということでしょうか。

どう検索したんですか?
私は「日露戦争 援助」で、わかりませんでした。
296akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/07 23:30
>>295さん、akuYです。
検索条件は・・「日露戦争 借款 イギリス 返済」で
上から7つ目くらいで見たページでした。
297日本@名無史さん:03/02/08 12:39
>>296
なるほど。ありがとうございました。
298日本@名無史さん:03/02/08 16:23
昭和まで、日本人も犬を食べてたって話を聞きましたが。
本当でしょうか?
299日本@名無史さん:03/02/08 16:34
>298
赤犬ですか?
食べたらしいですが、どんな人が食べてたのか知りません。
ググってみては?
300日本@名無史さん:03/02/08 16:40
「貧困の時代には日本人も犬を食べてた」というのはありました。
戦後しばらくの時期までですかね?
301日本@名無史さん:03/02/08 19:18
>>1

すみません。はじめてお邪魔します。
伊藤博文と豊臣秀吉と吉田松蔭が日本にやってきたのは西暦何年ですか?
教えて下さい。


302ぶりぶり左衛門◇ ◆dgIZ0Zksvo :03/02/08 21:53
>伊藤博文と豊臣秀吉と吉田松蔭が日本にやってきたのは西暦何年ですか?
>教えて下さい。
日本人が日本にやって来たというのはどういう意味ですか?
303ぶりぶり左衛門◇ ◆dgIZ0Zksvo :03/02/08 21:54
すごい偶然ですが、初代総理大臣「伊藤博文」は
いったいどのくらいの年代の少女が大好きだったのですか?
(一般に女好きらしいのですが、小学生なのか高校生なのか気になった)
304日本@名無史さん:03/02/08 22:15
>>1
すみません。はじめてお邪魔します。
朴松蔭と林俊輔と朴(木下)藤吉郎(さる)が日本にやってきたのは西暦何年ですか?
教えて下さい。

305P:03/02/09 08:26
あまりにも下らないかもしれませんが、どうかよろしく。
明治生まれの祖父が(もう随文前に死んでます)私たちが小さい頃に
よく子供の頃の日露戦争の話をしてくれたのですが、
その中にとんでもない「しりとり歌」がありました。
フシがついてるしりとりでした。
なにぶん小さかったのでほとんどおぼえていないのですが。
その一節「クロパトキン、金玉」と続く部分だけ(あまりな歌詞のため)
鮮明におぼえています。最後のククリ部部も「パパダッポン、ポンノスケ」
みたいのではなかったかと思います。
どうかどなたか御存じであれば、どんなものだったのか教えていただけませんでしょうか。
よろしくお願いします。これがわからないと死んでも死に切れません。
306日本@名無史さん:03/02/09 13:40
>>305
ピッタリの全歌詞が載ってるページはなかったんだけど、一応ぐぐった結果

http://www.google.com/search?hl=ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%83%A1%E3%80%80%E3%83%A1%E3%82%B8%E3%83%AD%E3%80%80%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%A4%E3%80%80%E3%83%A4%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%82%AF&lr=

いくつかバージョンがあったみたいだけど。
307日本@名無史さん:03/02/09 15:11
この板に少し前まであった火縄銃のスレッドどこいきました?
知ってる人います?
308P:03/02/09 19:51
>>306
有り難うございますた。完全バージョンがないのは残念ですが、
少なくとも祖父のつくった歌ではない事だけはわかったので満足です。
いまおもえばもう少し日露戦争について聞いた話を
メモするなりなんなりしておけばよかったなとおもうのですが、
なにぶんこちらも子供の事ゆえ。
文字をもつと言うことは「聞きおぼえる能力」を我々から奪っているのですな。

ありがとうございますた。
309日本@名無史さん:03/02/09 20:53
>>307
ここで検索してみれ
2ちゃんねる全文検索システム
http://www1.odn.ne.jp/mimizun/
310akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/10 00:32
age
311日本@名無史さん:03/02/10 01:33
太平洋戦争では、主要官庁や国会・皇居は空襲にあわなかったのでしょうか?
もしあってなかったらその理由を教えてください。
そっちの方が、無差別に民間人を殺すより有効な戦術だと思うのですが
312311:03/02/10 01:38
あとこの板凄いレベルが高い気がするんですけど、
皆さんバリバリの現役生の方が多いのでしょうか?
とても一般人のレベルとは思えません。
313 ◆AOvP0B7AO2 :03/02/10 01:47
>>305
僕が聞いたのは「金○、棒でたたけば〜」って続いて、最後が「万々歳」で終わっていました。
小学校の頃、塾の先生が一度だけ歌ってました(日露戦争の項目で)。

314akuY ◆c0IRE/HCS. :03/02/10 01:54
>>311さん
皇居は5/27に空襲を受けています。国会議事堂が空襲の標的となった期日は正確には
私には押さえられませんでしたが、当時の米空軍は無差別爆撃をしていた訳で、当然被害を被っていると
思いますよ。軍事板の方が正確に教えてもらえるかも。

続いて>>312
日本史を単に趣味としている方、現役の学生さん、院生さん、日本史初級者の方、プロ市民(?)などなど
色んな人が居ると思います。ここをメインに(?)色々と楽しんでいってください。
315日本@名無史さん:03/02/10 02:20
「幕末から明治初頭において活躍した架空の人物を列挙するスレッド」を立てたいのですが、
板違いでしょうか?
鞍馬天狗とか、るろうに剣心とか、ガンズ&ブレイズとか。
新撰組の架空の隊士だけでも何十人と名前が挙がって面白いかも、と思っているのですが。
316日本@名無史さん:03/02/10 10:10
いいんじゃない。幕末はレスつくよ。多分。
317日本@名無史さん:03/02/10 23:05
>>312
私はみるからに一般人が多いと思うんだが。

院生の先輩も「2ちゃんねる?一度見たけど何がおもしろいのかわからん」とか
「ひでー板だ」と言っていた。
318ぶりぶり左衛門◇ ◆dgIZ0Zksvo :03/02/10 23:52
>「ひでー板だ」と言っていた。
おまいもねらーじゃんかよ。
319ぶりぶり左衛門◇ ◆dgIZ0Zksvo :03/02/10 23:52
どなたか303おながい!!
320日本@名無史さん:03/02/11 00:02
殺人鬼ベスト1は毛沢東。2位はスターリン。3位はヒットラー。らしいですが
うちの将軍様ヒロヒトラーは何位ですか?
321日本@名無史さん:03/02/11 00:55
>>318
うん、そーよ。

自覚して書いてるよ。だから?
322ぶりぶり左衛門◇ ◆dgIZ0Zksvo :03/02/11 02:09
>自覚して書いてるよ。だから?
ちがう、これは院生の先輩に言ってるの!!

でなきゃ板なんて言わないでしょ。
323日本@名無史さん:03/02/11 11:10
>>322
あ、板ってのは自分の表現かも。
だいぶ前だし、台詞なんてはっきり覚えてないよ。
324日本@名無史さん:03/02/11 23:18
軍服って、プライベートな時にも来ていてよかったんですか?

映像で、近衛兵になったお祝い(宴会)を近所の人達でしてるシーンで
肩に綱みたいのつけてる服(これってそもそも軍服なのかな?)着て
るのを見て、ふと思いました。
325日本@名無史さん:03/02/12 01:24
小和田家の家の坪数と資産価値教えて下さい。
326日本@名無史さん:03/02/12 04:52
日蓮が竜の口で首を切られそうになった時に、雷がなって阻止された(多分そんな話だったと思います)
という逸話は、「まんが日本の歴史」などにもでて来ますが、
この話を正式に伝える(裏付ける)幕府の文書などは、
本当に残っているのでしょうか?
また、残っているとしたら、その名前を知っている人いませんか?
327日本@名無史さん:03/02/12 12:30
>>324
軍人の外出時は、制服着用が義務です。
328日本@名無史さん:03/02/12 13:09
えなりかずき、上智大学合格
http://ex3.2ch.net/test/read.cgi/campus/1044955546/l50
329日本@名無史さん:03/02/12 23:14
>>327

休みの日も軍服で外出しなきゃいけないんですか?
330日本@名無史さん:03/02/13 10:39
後醍醐天皇の子孫ってどうなったんですか?
南北統一以降
331日本@名無史さん:03/02/13 10:50
戦後の首実検について質問です。

たとえば「敵方の総大将」のように重要な人物の首が、
砲弾を浴びて脳髄がさらけ出されていたり、馬蹄に踏まれて形が歪んでいたりして(首だけでは)本人と判別できなくても、しっかりと人前にさらされたのでしょうか?
332日本@名無史さん:03/02/13 14:02
>>330
1392年(元中9‖明徳3)の南北両朝合一後に興った南朝系(大覚寺統)の朝廷。
合一の条件〈両統の迭立(てつりつ)〉を北朝側(持明院統)の後小松天皇と
これを擁する足利義満とが履行しなかったため,これに不満な旧南朝の
後亀山上皇は1410年(応永17)吉野に遷幸した。
上皇はやがて帰洛したが,上皇の吉野遷幸を機に南朝の遺臣らは大覚寺統
の皇胤を奉じて南朝の再興をはかった。これが後南朝で,その主となったの
は多く後村上天皇の皇子説成親王(上野宮)の子孫であった。
しかしその勢力は微弱で,14年(応永21)伊勢の北畠満雅が後亀山上皇の
招きに応じて挙兵したことはあったが,28年(正長1)満雅が再度の挙兵で
敗死してからはまったく無力となり,その後の後南朝側の動きとしては,
43年(嘉吉3)将軍義勝夭逝の隙に乗じて禁裏に夜討ちをかけ神器を奪取した
事件,44年(文安1)の説成親王の子円満院宮円胤の紀州における挙兵などが
目につく程度で,ほとんど見るべきものはない。67年の応仁の乱以後は
大覚寺統の皇胤はあらわれなくなり,後南朝は自然消滅の途をたどった。
333日本@名無史さん:03/02/13 22:21
日本史を二分する出来事はなんでしょうか?
たとえば、明治維新が日本史をそれ以前とそれ以後で大きく二分するとか…
334日本@名無史さん:03/02/14 01:25
2ch前とそれ以後で大きく二分…(ry
335日本@名無史さん:03/02/14 11:52
>>326
幕府の文書は残っていないと思いますが、日蓮が弟子に当てて書いた手紙によると、
「首を切られる直前に江ノ島のほうから鞠のような光り物が光り渡ったため、
首切り役が恐れて倒れ臥してしまった。
その後、相模国の依知へ送られ、本間六郎左衛門に預けられた。」
といった趣旨の事が書いてあります。
(『種種御振舞御書』で検索してください。)

"鞠のような光り物"とは隕石か何かが落ちたことを指すんでしょう。
斬首の刀に雷が落ちて刀が折れて一命を取り留めたと言う話は多く伝わっていますが、
これを読む限り後世の誤解だと思います。
336日本@名無史さん:03/02/14 14:45
>>333
応仁の乱から日本史は始まったと極言する人もいるが。
確かにそういう面もある。日本史のターニングポイントだ。
337日本@名無史さん:03/02/14 20:04
系図屋って具体的にどんな商売形態なの?系図の転売?
それとも、買い入れた系図(譜)を蓄積編纂して情報を売るの?
338日本@名無史さん:03/02/14 20:55
今日こんなスレが立った。同じスレがこれで4つ目だよ。
金曜の晩と土日は常にageとけ!

アンチ信長!!今川義元派。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1045212555/l50

今川義元【東海一の弓取り】
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1041837258/l50
【貴族大名】今川義元
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1039290434/l50
今川義元を語る
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1037376733/l50
339日本@名無史さん:03/02/14 21:20
もののけ姫の時代背景を教えて下さい
室町後期らしいが。
340日本@名無史さん:03/02/14 21:54
質問です。
細川護煕元首相と戦国時代の細川ガラシャの間に、血縁関係は存在
するのですか?
途中で養子が入ったから断絶したという話を聞いたような気がするの
ですが・・・
341 :03/02/15 08:12
>339
そうとしか言いようがありません。
裏設定集でもあるなら話は別ですけど、あの野伏せり(地走り)やジコ坊の雇い主である「あさの」という領主に帝の勅書を得られるだけの力があるのか、など謎もあります。

よくあるファンタジーでは魑魅魍魎に対して人間が無力でなすすべがないですが、
この作品では銃を手にしたことにより力関係が逆転する。
こんな発想は欧米人には理解されないでしょうね。
342  :03/02/15 08:49
>>340

血はつながっていない。
肥後細川家は細川忠興(ガラシャの夫)の三男忠利に始まるが、この忠利はガラシャの子。
が、その後本家は途中で途切れて、分家の肥後宇土藩から養子をもらっている。
この肥後宇土藩は忠興の4男を祖とするが、この人の母はガラシャじゃないから。
343日本@名無史さん:03/02/15 10:01
>>339
基本的には室町後期をイメージしてたけど、作ってる内にそうでもなくなってきた、
と聞いたような。
パンフレット?には網野善彦の文が載ってたから、そのへんの世界を参考にしてる
のかもとは思う。
村どうしの争い、自力の村、タタラ、被差別民…細かいところでそれっぽいところが
出ていたような気はする。
344日本@名無史さん:03/02/15 12:48
主人公の出身地は蝦夷(えみし)かな。あるいは、山間部の縄文系文化地域。
山を切り開いて、鉄と鉄砲の生産。自然破壊せずには生きていかれぬ人間の業
を描いているのかと思うが。
ハンセン氏病が、特別技能集団という設定がいいね。中世っぽい。
345日本@名無史さん:03/02/15 15:38
この人は天皇・皇室・南朝・後崇徳院小倉宮竹内家とどういう関係があるのでしょうか。

竹内睦泰の日本文化情報局 J−CIAネットワーク
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/

竹内睦泰の古神道・後南朝ネットワーク
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/hidari.htm

後崇徳院小倉宮日記
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/gosutoku.htm

竹内睦泰の「小倉宮日記」
http://diary.cgiboy.com/d01/jcia/

【あの人は今】元代ゼミ日本史 竹内睦泰
http://www.milkcafe.net/cgi-bin/readres.cgi?bo=yozemi&vi=1044420649
346日本@名無史さん:03/02/15 15:41
なんか獣の皮をかぶったり、Bのルーツ的な臭いも描かれているよね
浅野公方がでてくることろから、舞台は滋賀や福井あたりなのかな?

>もののけ姫
347340:03/02/15 16:25
>>342
分かりました。どうもありがとうございました。
348日本@名無史さん:03/02/16 13:59
大学の宿題で「江戸幕府の政治と朝廷について」というレポートを書かなければいけません
どこか資料になるいいサイト教えてください!!
349日本@名無史さん:03/02/16 17:06
>>348
こみいった話だから、本のほうがいいんじゃないか?
専門書のある本屋へ行くべし。
検索なら「江戸幕府 朝廷」とかで検索してみたら。
ところで、君はその授業に出てるのかねw。
350ウケ弾正高坂:03/02/16 17:46
受領国司なら地方大名でも行なえそうだけど
武田信玄の大膳大夫は正式任官?
一度も上洛してない信玄には職務を遂行できないとおもうんだけど
代理で誰か家臣を上洛させたりしてたんかな
351日本@名無史さん:03/02/16 17:50
>>345
そいつのこと学生時代からよく知ってるよ。ただの電波。
352日本@名無史さん:03/02/16 21:33
>>350
形骸化してただけでは?  興味があるから祈願あげ。
353日本@名無史さん:03/02/16 22:08
>>348,349
 ネット上だと、そのホームページに書かれた内容の信憑性が問題でしょうね。
その辺はよくわからないので、とりあえず、高埜利彦『江戸幕府と朝廷』<日本
史リブレット36>(山川出版社、2001)¥800<税別>あたりを参考にしては?。
 なお、参考文献リストなら、こんなページもあります。
http://www.infoseek.livedoor.com/~kazuya0807/kenkyu.htm
 レポート作成にあたっては、引用・出典表示など、きちんとやってくださいね。
354日本@名無史さん:03/02/16 22:47
「日本」という固定名詞は何時の時代についたのでしょうか?
355日本@名無史さん:03/02/16 23:22
「海道一の弓取り」って 昔の慣用句ですか?
あるいは「海道一」が慣用句?
ていうか「弓取り」ってなに?
356日本@名無史さん:03/02/16 23:37
ある人のご先祖が東北の藩の下級武士だったそうなので、
武鑑を調べたいのですが、保存状況についてご存知の方、
教えてください。
(幕府のものはかなりあるようですが...)
357日本@名無史さん:03/02/17 02:07
>>354
どっかの猿が言ってた気がします。
>>355
東海道一の戦上手とか軍事力と言った感じです。
今川義元や徳川家康がそう呼ばれていました。
本当に当時呼ばれていたかは知りませんが。
358日本@名無史さん:03/02/17 06:08
江戸時代、将軍が江戸から京都の二条城まで行くのって
何日ぐらいかかったのでしょうか?
なんだかレベルの低い質問ですみません。
359名無し募集中。。。:03/02/17 11:21
>>354
天武・持統朝のあたりで「日本」という呼び名が決まったと聞いたような。

>>357
>どっかの猿?ってどういうこと。>>354って罠?

>>355
「弓取り」文字通り弓を取る者、つまり武士、侍の意。
360日本@名無史さん:03/02/17 11:24
時代劇で、悪者の女は髪を切られて仏門へ行く場合が多いのですが
当時、仏門に入るのはどうのような意味があるのですか?
教えてください。
361日本@名無史さん:03/02/17 12:20
>>360
何が聞きたいのかよくわからないけど。
時代劇では、単純に(刀を持たない、あるいは非力な)女性は殺さないという意味のみでしょう。
362日本@名無史さん:03/02/17 12:28
管轄が町方から寺社奉行へ移る
一般の村、都市での生活から切り離される
そのほか寺社方の諸法度に制限される身分になる
363360:03/02/17 12:39
>>361-362
ありがとう
あまり深い意味はないようですね・・
364日本@名無史さん:03/02/17 12:46
>>354
天武・持統朝です。
中国に申し出て、認められています。
365日本@名無史さん:03/02/17 13:09
>>356

武鑑は基本的に幕府の人員録ですので、諸藩の分は藩主とか相当な重臣しか
載っていません。藩の分はそこの県史や市史に分限帳が載っている場合が
あります。詳しくは該当の市役所や図書館へ問合せされたし
366328:03/02/17 13:12
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http://www.geocities.jp/kgy919/deai.html




367日本@名無史さん:03/02/17 21:07
今川氏真の名前の由来ってわかります?
368354:03/02/17 21:16
>>359
>>361
thank you
369日本@名無史さん:03/02/17 21:38
朝鮮戦争下における日本の状況に関して調べているのですが
あまりに資料が見付からないので困っています。
誰かお詳しい方、色々と教えて頂けないでしょうか?
もしくは詳しく掲載されているサイトなどありましたら
教えていただけると幸いです。
370日本@名無史さん:03/02/17 21:38
知らない間にこんな状況になってました。
シャレになりません。

http://sagisou.sakura.ne.jp/~deai2/cgi/rank.cgi?fdeai
371日本@名無史さん:03/02/17 22:42
普通名詞のjapanは漆のことらしいんだが、不思議と漆器や民芸品を語るスレがない
朝鮮や中国とのつながりを論じるスレは多いが、
じゃあ具体的にモノの結構や流通からつながりを語りましょう、
ゼニや陶器磁器から語りましょう建築からみていきましょうといったような広がりもない
半島を基軸に、中原の位置座標、ツングース・匈奴圏との兼ね合いを割り出して日本の外交史・貿易・文化を語るスレもない
それどころか満足に外交史を扱っているスレすら乏しい

日本人の国際感覚のなさがよくわかる板だ
372356:03/02/17 22:45
 T
m(..)m ありがとうございます >365殿 
やはり問い合わせないとわかりませんね
373日本@名無史さん:03/02/17 23:19
聖徳太子がいた時代は、まだアメリカ大陸と南極大陸が発見されてなかったのに、
何故聖徳太子が作った地球儀にはアメリカ大陸と南極大陸があるんですか?
374日本@名無史さん:03/02/17 23:46
久光の率兵上京の1000名ってそんなに大きな兵力なの?
375日本@名無史さん:03/02/17 23:48
373新大陸発見される前に新大陸の地図が欧州でみつかった話しってる?
オ−パ−ツてこういうのをいうのだけど。
ただし聖徳太子じたい捏造と個人的にはおもってる。
376日本@名無史さん:03/02/17 23:58
日本の国史である代表的な書物の2つで漢字4文字のってなんですか?
377日本@名無史さん:03/02/18 00:36
日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録
の前二つじゃなくて?
378日本@名無史さん:03/02/18 02:04
>>377
ありがd
379日本@名無史さん:03/02/18 14:50
この下の「偽糧」ってホントですか?
ホントだとしたら当時の日本軍が許せないんですけど。
子供だましまでして・・・ 卑怯です。新聞に投書したい気持ち。


311 :社会科教員です :03/02/18 14:43
仲謀 ・・・ 三国志で有名な孫権の字(あざな)です。
 参考 ttp://www56.tok2.com/home/supuu/musou/sonken.html

偽糧 ・・・ 戦前戦中に「天皇から前線に授与された」と銘打って兵士たちに
       支給された生活物資のことです。実際は軍部が用意したダミーで、
       支給式典の後に「ご神仏に奉納する」といって没収されてしまう
       のですが、兵士の士気高揚には一役買ったそうです。
380日本@名無史さん:03/02/18 17:03
>>379
そんなの聞いたことがないし 偽糧という言葉さえ造語みたいだけど。。。
それだけでは調べようもないし、いつ頃のことかわからん?
当時生活物資は日本からではなく満州から直接送ったんじゃなかったかな?
満州には食料とかが腐るほどあったみたいだし。ただ運べなかっただけで。

戦前戦中に「天皇から前線に授与された」と銘打って兵士たちに
       支給された生活物資のことでを偽糧と言うの?
文脈が変
381日本@名無史さん:03/02/18 17:05

         ソ ー ス は ど こ ?
                            ∧⊂ヽ
      ∧_∧∧_∧            ∩(,,゚Д゚)ノ
    卩(´Д`三 ;´Д`)Ψ     ∧∧  彡  /
    ⊂    三    つ     (゚Д゚,,≡=    )
   ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          (ξ';;::;;)          (ξ';;::;;)
382日本@名無史さん:03/02/18 18:22

          \ニダ━━━━━━━━━!!!/ /:::::::ヽ___
━でお待ち下さ\  \◆ノ\◆ノ    / 丿 ::.__  .:::::::::::::
      ∧_∧ \へ■   ▼へ  /  / /。 ヽ_ヽv /: 
ち下さい<丶`∀´>  \  > <  /  /   ̄ ̄√___丶
 ∧_∧ ( つ  つ   \∧∧∧/━━| \::::::::  //tーーー|ヽ
<丶`∀´>そのままニダ- < 激 >    | .:::|:  ..: | |     |
( つ  つ         <  し >    | :::    | |⊂ニヽ|
そのままニダ━でお待ち<  く  >/ /| :     | | |:::T::::|
──────────< ニ >──────────
ニダ━━━━<゚∀゚>━━< ダ >            ┏━━┓┏┳┓
ニダ━━━━<゚∀゚>━━< │ >┏━━━━┓ ┃┏┓┃┗┻┛ 
ニダ━<゚∀゚><∀゚ ><゚  >< !!! >┗━━━━┛ ┃┗┛┃┏━
ニダ━━━━━<゚∀゚>━/∨∨∨   \       ┃┏┓┃┃
ニダ━━━━<`∀´> / _∧   ∧_\ ━━┓┗┛┃┃┗━
ニダ━<゚∀゚><゚∀゚></< `∀´ >━ < `∀´\ ━┛    ┃┃    
ニダ━━━━━</━∪━━∪━∪━━∪ \      ┗┛  
ニダ━━━━ /━ しばし ニダ━━━━━!!!!\
383日本@名無史さん:03/02/18 18:42
神戸淡路大震災の時の英語学校で、衛星放送を見ていた遅番の先生から電話が入った。
「大変だ。神戸が燃えている。」
大地震に遭った不幸な隣人に同情を示す西洋人教師に対し、韓国人学生からは
「日本人はいい気味だ」「天誅だ」などという発言公然とされた。
日本人の血が混じる女性教師は怒りのあまり、その場で自分の出自を初めて明らかにしたと、
これまた日本人の妻をもつアメリカ人教師は激怒しながら、
「他人の不幸を喜ぶ韓国人は人間じゃない」
この日、地下鉄の新聞売りが「いいニュースです」と叫びながら、神戸の地震を告げる新聞を売っていた。

病としての韓国ナショナリズム・ 伊東 順子著・洋泉社・価格 \740-
384日本@名無史さん:03/02/18 18:47
>>383
ん?中学生?
阪神大震災では、朝鮮学校は敷地を解放して、被災者の援助に勤めたよ。
よく、関東大震災時の朝鮮人虐殺と比較され、歴史の題材となる。
385日本@名無史さん:03/02/18 18:51
>>384
朝鮮学校は韓国じゃないだろ。
386☆ 『韓国って、どんな国?』 ☆:03/02/18 19:14
 ・阪神大震災の第一報見出しが「天罰だ!」だったというあの国
・天皇陛下に包丁を送りつけたヤツのいるあの国
・娘のお見合いの時、母娘揃って整形受けるのが当たり前という奇天烈な風習を持ったあの国
・アイドル歌手が盗撮されて、その写真がネット上でばら撒かれると言う事件の起きたあの国
・レイプ犯罪率世界3位、殺人事件が日本の3倍、暴力事件に至っては
 日本の100倍以上起きるというあの国
・中田英寿は在日三世と紙面に堂々と載せて、あとで中田側からクレームがついて、
 噂で書きましたと謝罪した新聞のある国
・剣道の話題が載るときは必ず「剣道は日本の侍のイメージがあるが 実際にはわが国こそが
 剣道の起源である」という一文が入る、あの国
・自国のコインを10倍の値打ちにして日本で不法使用する、あの国
・日本人が事故にあうと、警察がロクに相手にしてくれない、あの国
・「日本のしたことの中には良い事もあった」と言う主張のHPを作った人が告訴される、あの国。
・日王(天皇)賛美のHPを作った高校生がイキナリ逮捕される、あの国。
・犬食いの風習を海外から非難されると韓国の歴史ある伝統だと主張する、あの国
・犬の肉を柔らかくする為木の棒で犬を叩いて殴り殺す、あの国。
387日本@名無史さん:03/02/18 21:36
天皇号は「後一条天皇」「後花園天皇」など「後」がつくのに、女院号はどうして
「新上東門院」とか「新中和門院」などの「新」なのですか?
388日本@名無史さん:03/02/18 21:47
>>374
大名(およびその親族)が参勤交代に武装した配下を江戸に
引き連れてくることは前例がなかった。
しかも、久光一行には朝廷から使者が幕府への
政治改革要求を持ってやってきた。
それまで朝廷は幕府に対して意見をするようなことがなかったので
これも前例がなかった。
すなわち幕府と大名の関係、幕府と朝廷の関係が
それまでと大きく変化したことを如実に示す事件だった。

大体OK?
389日本@名無史さん:03/02/18 21:55
>>333
大和朝廷の成立、律令国家の成立、鎌倉幕府の成立、
応仁の乱、江戸幕府の成立、明治維新、対米戦争敗北、
そして平成不況

以上が日本の歴史における大きな社会変動と言える
二分できるほど日本の歴史は浅くない
390日本@名無史さん:03/02/18 22:10
基本的なことで恐縮なんですが
石取りの武士の場合、たとえば100石というときは年間100石の収入があると考えてよいのでしょうか。
それとも100石相当の田から相応の率で年貢を徴収したときの値が年収になるのでしょうか。

島津兵>
京都守護職の駐留兵と同数の兵力となるわけですから。
今の日本に在日米軍と同じ量の中国兵が突如現われたらギョッとしますよ。
391日本@名無史さん:03/02/18 22:16
392日本@名無史さん:03/02/18 22:17
393390:03/02/18 22:17
ちょっとたとえがまずいですね。
たとえたいことはわかってもらえるといいけど。
394日本@名無史さん:03/02/18 22:26
395日本@名無史さん:03/02/18 22:30
>>285
外国債という形での資金援助だったので、
当然払い戻し期限までには返済しております。

幕末にも幕府がフランスから資金援助を受けていますが、
これも明治政府になってから返済しております。
396日本@名無史さん:03/02/18 23:14
>石高
レスありがとうございます。
新しい疑問もいくつか湧いたのでもうちょっと調べてみます
397日本@名無史さん:03/02/18 23:22
石高と貫高の違いを教えてください
5000貫は何石になります?
398日本@名無史さん:03/02/18 23:29
>>397
米の相場による。
1貫が1石なら5000貫は5000石だが、
1貫が2石なら5000貫は2500石になる。

西国では領地の収入を石高で表し、
東国では貫高で表していた。
室町時代に東国では相当銭が流通していたので
そのような形になったようだ。
399日本@名無史さん:03/02/18 23:37
>>398
ありがとうございます 米の量ではないんですね

1560年前後の関東での相場ってわかります?
400日本@名無史さん:03/02/19 00:08
1貫文(1000文)=金1両
貫高制(土地生産力を銭で換算)→石高制(土地生産力を米で換算)
「利家夜話」に元亀の頃の前田利家の収入が2450貫文、石高に直すと6000石余とあり、
ここから、織田家の知行高を表す「貫」は、石高2.5石で計算することができます。
401日本@名無史さん:03/02/19 00:55
米相場の乱高下があると武士か稲作農民が苦しんだ。
幕府はこれを防ぐために米価安定政策を取った。

http://www.asahi-net.or.jp/~xr6k-msd/japan/yosimune.html
402374:03/02/19 01:19
>388,390 ありがとうございます。
人口30万人の京都に1000人の軍隊ってそんなに大きいのかなあと思ったんです。
それに第二次長州征伐のときには幕府軍は10万2000人になっています。
403日本@名無史さん:03/02/19 01:26
>>402
人数の問題ではなくて武装した雄藩が
上洛したインパクトね。
この段階で幕府がこれを受け入れてしまい、
その後幕府の威信を大きく減じたという政治的な問題。
鳥羽伏見の段階でも軍事的な問題だけで言えば、
幕府側が圧倒的に優勢だったのに
政治的敗北を喫したために慶喜は抵抗を諦めた。
404日本@名無史さん:03/02/19 01:35
無位無官の国父が1000人引きつれて歩いていたとしたら、
(勅使を奉じていなかったら)街道沿いの大名はこれを阻止できる規模ですよね?
405日本@名無史さん:03/02/19 01:48
>>404
軍事的にはね。
問題は久光上洛に至った経緯。

阿部正弘が列強が次々と日本に開国を迫る中で、
雄藩の意見を聞こうとしたことがきっかけだった。
雄藩が開国・鎖国に関する意見を直接幕閣に
述べるようになった。
これは雄藩による幕政への介入を意味した。
しかも、列強の日本接近により対外問題に関して、
一部の国学者・蘭学者が幕政批判を始めたり、
幕藩体制そのものについて徐々に懐疑的になり始めていた。

そういった中で久光(薩摩藩士)は自らの政治的発言力を
強めるための工作を行っていた。
その一つが朝廷の威光を借りた幕政への介入だった。
そしてその工作は実り、薩摩一行に勅使を加えることになった。
幕府としてはこれを拒否するのが難しい状況で、
ついに久光主導の文久の改革を行う結果になった。
406日本@名無史さん:03/02/19 02:10
尊攘過激派の活躍を許したのはある意味阿倍正弘でしょうか?
阿倍老中以前にも(ペリー以前)攘夷はともかく尊王派ってそんなに盛んだったんでしょうか?
407日本@名無史さん:03/02/19 02:20
>>406
>尊攘過激派の活躍を許したのはある意味阿倍正弘でしょうか?

結果から見ればそう。
阿部自身が雄藩との関係を利用しながら
幕政をリードしようとしていたけど、
それは「雄藩による幕政による介入のおそれ」というリスクを
犯すものだったから。

あとは幕藩体制は小中学で教えられていたほど、
固定化され停滞した時代ではなかったという
原因もあると思う。
江戸初期においては養子縁組なんかについて厳しかったけど、
中期以降はかなりゆるくなって、
身分制は建前ではあっても相当融通が利いたし。
学問に関しても吉宗の時に蘭学を部分的に解禁したことで、
様々な分野で西洋の知識がかなり流入していた。
国学も幕末の最末期まで過激化しなかったから、
幕府もさほど問題視してない。

社会的状況が幕藩体制崩壊へと向かいつつあったところへ、
リベラルな阿部が登場したので雄藩が台頭し
攘夷運動を誘発したと言えるのでは。
408日本@名無史さん:03/02/19 03:52
阿部をリベラルと評価するのはどうかと思う。
ただの優柔不断なアフォにすぎない。
409日本@名無史さん:03/02/19 10:53
>>408

いや、俺は評価できる。
 それまで幕政は譜代大名の特権であったわけで、そこに切り込んだのだから。
 今の官僚を見ても、政治参加の特権を奪われることへの抵抗はとても大きい。
 おそらく当時も譜代大名からは相当の反発があっただろう。
 で、出てきたのが内政についてはがちがちの抵抗勢力である井伊直弼。
410日本@名無史さん:03/02/19 11:32
有名な武田信玄の画像(ちょっと右向いて座ってるやつ)が信玄ではないという説は本当なんでしょうか?
411日本@名無史さん:03/02/19 11:45
武田信玄であるという信憑性にかけるといはれてますよね。
あの出家した像は家臣の像だという説があるらしいです。
412日本@名無史さん:03/02/19 14:33
>>408
雄藩との関係についてどう思う?

幕府内は財政難・列強の開国要求など
重要な問題に柔軟に対応するために、
かなり思い切った人材抜擢も始めている。
しかし、列島全体の海防と通商の問題に大して、
幕府のみで対処することは不可能だと判断して
水野忠邦も様々な試みをした。
しかし、保守的な幕閣によって阻まれ失脚。

阿部は水野の二の舞にならないように、
雄藩との関係を強化し
彼らの力を背景に具体的な政策を取ろうとした。
それが結果として雄藩の政治力の強化を生んだ。

413日本@名無史さん:03/02/19 14:47
聖徳太子は何天皇の摂政となったのでしょうか?
ご存知の方、いてたら教えていただけたら嬉しいです。
414日本@名無史さん:03/02/19 14:50
>>413
推古天皇。こんな基本中の基本は、自分でまず調べよう。
調べるということは、人に聞く、ということではqないよ。
415413:03/02/19 15:08
>>414

ありがとうございました!
これからは基本的なことは調べてみます。
416日本@名無史さん:03/02/19 15:56
最終氷河期以降の温帯の狩猟採集社会や稲作について語りたいのですが、
ここの板では板違いでしょうか?
民俗・神話学板いくべきでしょうか・・・?
417日本@名無史さん:03/02/19 16:02
↓で聞いた方が早いかも

■■■考古学雑談■■■
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1028807072/
418平清盛:03/02/19 19:15
戦国時代の鉄砲の値段を教えてください
419日本@名無史さん:03/02/20 12:11
420日本@名無史さん:03/02/20 14:39
>>419
HPを論拠にして叩かれてたヤシが日本史板にいたので信憑性はどうかな?
と思ったんだけど評価が微妙だね。
このHPを「公認」している「国友鉄砲の里資料館」自体のの評価はどうな
んだろうかね。
一部の刀剣基地外に見られるようなデムパな人がやってる館(那須の某軍事
資料館の展示品紹介はデムパというか捏造だが)みたいな所だったら、全く
論拠として用いることはできないのだが。
421平清盛:03/02/20 21:29
>>419
ありがとう
422おば:03/02/21 01:52
板違いかも知れないんですが、
江戸時代の旧五街道って、今ではどの道になるんですか?
詳しいルートを教えて下さい。
(☆☆道の東京〜○○は国道××号線 みたいに)
423日本@名無史さん:03/02/21 03:18
>>422
 いくつかの国道事務所のHPに関連記述がありますが、ここが一番詳しいかな。
http://www3.kcn.ne.jp/~mohnishi/nara-tokyo/popwindow/gokaidou.html
 あくまでも目安ということで(東海道で宮−桑名は海上<七里の渡し>)。高速
道路の方だと、より精度が落ちます(東海道は三重の亀山経由)。
424日本@名無史さん:03/02/21 03:35
>>422ではないですが、他も知りたいです
山陽道・・・2号線
北陸道・・・8号線
山陰道・・・9号線
くらいは知ってますが
425日本@名無史さん:03/02/21 03:49
永井路子について語り合うスレはないんでしょうか。
426日本@名無史さん:03/02/21 09:13
日光街道・・・4号線
大祖母は民権家の行進を目撃し、
祖母は戦車部隊の移動を目撃した。
427日本@名無史さん:03/02/21 23:49
この板の方々はなぜこんなに深く豊富な歴史の知識をお持ちなのでしょうか。
やっぱり大学等で専門に勉強・研究している(されていた)方が多いのでしょうか。
428日本@名無史さん:03/02/21 23:50
>>427
好きだから
429日本@名無史さん:03/02/22 00:00
>>428
レスありがとうございます。
好きだから自分で調べたりして詳しくなる、ということでしょうか。
私も自分では歴史は好きな方だと思います。
なかなか詳しくなれませんが、学歴などを気にするのは愛が足りないのかもしれませんね。
430日本@名無史さん:03/02/22 00:09
>>429
学歴は学歴。
好きは好き。
そんだけ。
自分が知りたいことを調べたり考えたりと、
他のことまで知ってしまう。
ついでに知ってしまったことの中に新たな興味が沸く。
だからまた調べたり考える。
それの繰り返しでいつの間にか詳しくなる。
最初は誰も何も知らなかったのよ。
431日本@名無史さん:03/02/22 00:40
>>430
好きなことに対する姿勢についての貴重な助言ありがとうございます。
物事に対する心構えは、目的となる知識や技術(ここでは歴史の知識)でもないので
専門書を読んでも手に入らないと思いますので。
まだ知識が少なくても好きなんだからそれでいいやと思えるようになりました
(時間は掛かってもいつか詳しくなれるんだとも)。
これから少しずつでも興味のあることを調べていこうと思います。
432日本@名無史さん:03/02/22 01:45
>大学等で専門に勉強・研究している(されていた)方
よりもフツーにただ好きな人の方が多いと思う
433日本@名無史さん:03/02/22 02:30
日本の美術では、花鳥風月として自然の美しさの中でもとりわけ
鶴を筆頭に、鴨やおしどりなどの鳥は絵の題材として愛され、多く
書かれていますが、今現在日本にもそれらの鳥とともに飛来する
白鳥は、西洋ではあれだけ愛されてきた鳥であるのに、日本やアジア
ではそれほど絵の題材としてとりあげられていないと思いますが、
これはどうしてですか?

白鳥はあまり日本人にとって美しいとは思われなかった?
それとも昔は日本には飛来していなかった?
または、私が知らないだけで昔から美術などでも取り上げられていた
のでしょうか
434日本@名無史さん:03/02/22 02:42
>>433
美術関係は素人なので個人的な感想みたいなもんだけど。
日本の美術は仏教と密接な関係にあったと思う。
白鳳期〜平安期は特に
仏様と鳳凰や孔雀はセットみたいになってることが多いよね。
これは貴族や武士などの支配階級が文化を独占していた状況と
かなり関係があるんじゃないかな。
支配階級の人たちが中心になって形成された文化だったから、
どうしても実際の人や動物が美術で表現されず、
知識として入ってきた仏様や神獣が表現された。

鎌倉末期から室町ぐらいになると文化の担い手が商人などにも広まっていくので、
実際の生活の場面を描いた絵巻物なんかが増えてくる。
彼らの対象は動物ではなく人。
様々な業を背負って生きている人間が最も強く興味を引いた。
だから動物そのものが描かれることが少なくなった。
この傾向は江戸期になっても引き継がれていった。

まあ、無知な俺の感想みたいなもんです。
すんません。
435日本@名無史さん:03/02/22 08:09
うちの祖先は豪農だったらしいんですが豪農ってなんなんですか?
誰かご存知の方教えて下さい。
436日本@名無史さん:03/02/22 09:58
>>433
美術的にはどうか分からないけど、白鳥は古代から飛来してたし、神聖なものとされていた
古事記や日本書紀には、口が聞けなかった垂仁天皇の皇子が白鳥を見て声を発したとか、ヤマトタケルが死後白鳥になって飛んでいったとか
儀式とかで朝廷に献上する品目の中にも白鳥はよく出てくる
437日本@名無史さん:03/02/22 10:21
>>435
君、前も質問しなかった?
国語辞典や百科事典で引けばいいのに。

18世紀半ば以降,小商品生産の展開に伴って成長していった村方地主をいう。
経済的には作徳地主として小作人から小作料をとり,買占め商人として前貸し
によって小生産者の生産した商品を手に入れ,みずからも生産者として年季
奉公人を使役しながら,穀作とともに商品生産を行っているという,
三つの性格をもっている。社会的には,村落共同体の代表者として共同体的
規制関係の頂点にあるとともに,村役人として農民支配の末端機構に組み込ま
れて階級的強制関係の先端に位置づけられていた。
これらの豪農には,それまでの名田地主・作徳地主が転化したものと,
商業活動や商品生産によって成長してきたものとの二つの系譜があり,
後者は多くの場合,村方騒動によって村方地主としての地位を獲得していった。
この村方騒動は中期村方騒動と呼ばれ,18世紀半ばころに各地に起こった。
(続く)
438日本@名無史さん:03/02/22 10:22
豪農は,幕藩領主と結んで殖産興業政策の尖兵となったり,都市商人と結んで
商品集荷機構の末端機能を果たしつつ,商品生産をいっそう進展させ,
それを編成していった。小商品生産の展開は,小農民経済の自給性を大きく
崩していった。小農民にとって貨幣の生活の中に占める比重が大きくなるに
つれて,商品の価格の意味が変化していき,労賃が上がり,商品価格が上昇した。
他方,主要な市場である都市を核とした全国市場は幕府の強い統制下にあった
から,その価格上昇が全国市場の商品価格を直接規定することはできなかった。
こうして19世紀初めの価格・労賃騰貴問題が起きた。この過程で豪農は,その
地主的性格を強めていき,小商品生産者にたいしては前貸しの性格を強めながら
問屋制的編成の道を推し進めていった。この間に,農民層の分解が進み,
一方で豪農が成長するとともに,他方に労働力販売によって生活の大部分を
賄わなくてはならないような半プロレタリアを広範に生み出していった。
この豪農−半プロの矛盾関係を基軸として展開したのが,幕末維新期の世直し
騒動である。
 明治初年,政府は各地の有力な豪農たちを軸にして地方行政の体制を作ろう
とした。このことは,豪農たちを政府に結びついた有力豪農と,それ以外の
中小豪農とに分裂させることとなった。生産者的性格を保ちつづけていた
中小豪農は,内に半プロとの矛盾関係をはらみつつも,農民たちと提携して
生活と生産の擁護と発展のために運動することとなった。この動きは,
まず地租改正・徴兵令・教育令に対する反対運動として現れ,ついで自由民権運動
に連動していく。民権運動が終息し,明治国家体制が確立する過程で,
豪農は寄生地主制の中に組み込まれていった。一部はついえて小農民となり,
一部はみずから寄生地主となり,一部は巨大地主の手代的地位を与えられると
いう方向をたどり,豪農は解体していった。
439日本@名無史さん:03/02/22 15:05
日本史的に文献にでてくる白鳥は=スワンの事ではなく、その筆頭は鶴
つまりは白っぽい鳥全般を白鳥と言っていたらしいぞ
440日本@名無史さん:03/02/22 18:31
古くは〈こひ〉〈こふ〉〈くぐひ〉などといい,文献にみえる〈白鳥〉は,
鶴やサギなどを含める場合もあった。
全身純白の羽毛でおおわれた優美な姿は,いかにも霊鳥という印象を人々に
与えた。
《古事記》には倭建(やまとたける)命の霊魂が化して〈八尋白智鳥(やひろしろちどり)〉
(紀では白鳥)になったとあり,宮城県蔵王町の白鳥大明神(苅田嶺(かりたみね)神社)
をはじめ,この〈白鳥伝説〉を縁起にもつ神社が各地に散在する。
白鳥は穀霊神ともみなされたらしく,白鳥を主人公とする〈穂落し伝説〉や,
蛭が白鳥に化して飛び去ったという〈蛭化白鳥譚〉は各地に見られる。
白鳥に関する伝承は東北地方に多く分布し,秋田県角館地方では彼岸に
鳴き渡る白鳥の群れを〈大宅の若勢子〉と称した。
441日本@名無史さん:03/02/22 18:46
>>437,438
 おつかれさまです。初心者には、出典を明らかにしてくれるとありが
たいかと。
 で、435は、私が「雑談スレ」から誘導しました。だって、この質問
(豪農とは何か)について、
>オーストラリアから日本へ出稼ぎにきた小作人のことです。
とか
>毛が濃い人。              それは剛毛だ。

 と、おちょくられてるんだもん(苦笑)。

 確かにこれくらい自分で調べればわかるでしょうが、難しい説明、
わかったかな?
442日本@名無史さん:03/02/22 18:57
>>435
>>441
あ、そうだったの。どこかで見たなぁと思ってたんだ。
おつかれさまですた。
ちょっと、難しいかな。
出典は
佐々木 潤之介(平凡社大百科事典)です。

国語辞典だと、
「広大な農地(山林)を有し、勢力のある富農。大百姓」だね。

443427:03/02/22 23:46
>>432
遅レスですが。みなさん非常に詳しいので専攻された方ばかりだと思ってました。
そうとも限らないようで少し安心しました。
444日本@名無史さん:03/02/23 09:14
俺は、史学科でさえないw。
445日本@名無史さん:03/02/24 02:27
別に笑うところでもない
446日本@名無史さん:03/02/26 10:19
あげ
447日本@名無史さん:03/02/26 18:23
>>427に釣られまくるヴァカ多数発見!!!
448日本@名無史さん:03/02/26 18:39
>>447
釣られると言うか普通に答えただけだと思うけど。
それだけこのスレには善良な人がいるということで。

色んな質問をしてください。
質問した以外の人も参考になるので。
449日本@名無史さん:03/02/26 19:49
>>448
だめだめ、447が釣りなんだから
450日本@名無史さん:03/02/27 00:15
ほとんど東南アジア止まりだったでしょうが、
江戸以前、南蛮貿易等で南蛮に出入りしていた日本人っていたんですか?
支倉使節団や天正少年使節を除いて。
451日本@名無史さん:03/02/27 00:35
>450 いまくりーのだっつーの
452日本@名無史さん:03/02/27 00:50
何か極度に返答というかカキコのレベルが低下してないか?
453日本@名無史さん:03/02/27 01:43
>>448
南米に100人前後(もっと多かったかも)の日本人がいたことが確認されてる。
自ら赴いたのか、奴隷として売られていったのかは不明。

もう知っているだろうけど南蛮船は奴隷輸送船でもあった。
倭寇の流れをくむアジア系の海運業者や、
ヨーロッパ系の商船の二系統があったみたいで、
豊臣秀吉や徳川家康は何度も奴隷売買の禁止を布告している。
454日本@名無史さん:03/02/27 01:43
>>453>>450へのレスばい。
455450:03/02/27 02:05
>>451>>453
レス、サンクスです。
奴隷の件は少しは知っていましたが、100人程度もいたとは驚きです。
456日本@名無史さん:03/02/27 02:22
「オマンコ」は果たして本当に存在するのか?
女性の又の間にあるらしいんだが、もちろん俺は実物を見たことがない。
いや、それだけならまだ存在を信じることもできるんだが、さっき気がついたんだ。
「オマンコは存在しない」んだと。
 その根拠を幾つか述べよう。
1.女は絶対に「オマンコ」を見せたがらない。それも不自然なほど隠す。
  あの嫌がり方は尋常ではない。女子小学生ですら見せるのを嫌がるではないか。
2.AVを見ていても「オマンコ」の部分には必ずモザイクが
  かかっており、われわれは「オマンコ」を目にする事が出来ない。
  これこそが「オマンコ」が存在しない何よりの証拠ではないだろうか。
3.日常生活で「オマンコ」という言葉をひとたび発すると、
  法律で禁じられた行為であるかのような嫌悪の視線を受ける。
  しかも公共放送でも「オマンコ」は放送禁止用語となっている。
  これも明らかにおかしい。
   俺は確信した。「オマンコ」は絶対に存在しない。
 ・・これでもあなたは「オマンコ」を信じますか?
457日本@名無史さん:03/02/27 02:58
>456 アポロは月へ行きましたか?
458日本@名無史さん:03/02/27 11:14
>>456
はやく大人になろうね。
459日本@名無史さん:03/02/27 15:46
アジア・太平洋戦争当時の日本国の国名は「大日本帝国」ですか?
辞典を引くと、当時の日本の国号とあるのですが、
ポツダム宣言を見ると、
http://www.246.ne.jp/~s-sampei/potsdam.html
大日本帝国ではなく、日本国となっています。
これはなぜなのでしょうか。
英語のポツダム宣言をみると、Japanとなっています。
なぜ、Great Japan empireではないのでしょうか。
460日本@名無史さん:03/02/27 18:05
通常、japanと、呼称されていたのだと思います。
461日本@名無史さん:03/02/28 00:51
世界各地に日本人奴隷がいたならば、
国ごとにある程度のコミュニティーはあったはず。
先祖は日本人っていう人は今でもいるんでしょうか?
462日本@名無史さん:03/02/28 03:03
>>461
17世紀あたりには東南アジア各地に日本町ができたはず。
あれは奴隷とは関係ないか
山田長政は奴隷じゃないしな
463日本@名無史さん:03/02/28 04:09
山田長政は実在の人物ではないという説もある。
464日本@名無史さん:03/02/28 18:47
http://homepage3.nifty.com/chrotubo/noad/data/wlda0044.html
>1577 新大陸に達した最初の日本人、奴隷としてラ・プラタ地方のコルドバに売られる。
この人、可哀想だな。日本人で初めて南米大陸訪れたのに名前が残ってないなんて…
465日本@名無史さん:03/02/28 20:27
>>464
弱いソースだな。
466日本@名無史さん:03/03/01 15:16
age
467日本@名無史さん:03/03/02 12:21
468日本@名無史さん:03/03/02 18:29
山田長政は、戦争期に創作された人物らしい。
http://www2.airnet.ne.jp/shibucho/yamada.html
469日本@名無史さん:03/03/03 15:07
>>468
このHPの作者に教えてやれ
オランダ東インド会社の商館長J・ファン・フリートの報告

こいつが朝日新聞の購読者であるのに100モナー
470日本@名無史さん:03/03/03 16:29
>>469
「山田長政」という名前の人物の実在がわかる文献のソースでも出せば?

あと、朝日がどうのは、糞ウヨレベルに頭が悪いと思われるから止めた方がいいよ。
471日本@名無史さん:03/03/03 16:29
>>469
「山田長政」という名前の人物の実在がわかる文献のソースでも出せば?

あと、朝日がどうのは、糞ウヨレベル程度に頭が悪いと思われるから止めた方がいいよ。
472日本@名無史さん:03/03/03 19:19
>>471
お前のほうが頭おかしいと思うぞ
朝日新聞にそんな記事が載ってたと思ったからそう書いたんだが

もしかして在日サンですか?

473日本@名無史さん:03/03/03 19:38
金地院崇伝編の『異国日記』に「山田仁左衛門長正」という名前と簡単な履歴がある。
山田仁左衛門長正は沼津城主大久保冶右衛門忠佐の駕籠を担いでいたとの記述
山田長正が逞羅国(シャム)の大臣の立場で、江戸幕府の老中であった土井利勝と本田正純宛に、元和七(1621)年四月十一日付で「逞羅国王が日本の
将軍に国書を送ったので その取りなしを頼む」と言う内容の書簡を送っていたとの記述
将軍秀忠は「山田長政なる者の届けし火薬を試せ」『砲烙実記』より

あとは元日本人町に住んでいた智原五郎八の『羅記事』天竺宗心の『天竺徳兵衛物語』など

タイの大臣になったという日本人の存在はタイ語資料でも確認されているよ。
おそらくこのような海外で活躍した、名前の残っていない日本人と山田仁左衛門長正の話を全部足して、
なおかつ脚色されて生み出されたのが戦前の山田長政であろう
474日本@名無史さん:03/03/03 20:52
初めてこの板来たんですが、
天智御落胤説
ってなんですか?
475日本@名無史さん:03/03/03 21:06
>>472
>おそらくこのような海外で活躍した、名前の残っていない日本人と
>山田仁左衛門長正の話を全部足して、
>なおかつ脚色されて生み出されたのが戦前の山田長政であろう
わかった?
こういうことなの。

自分に合わない意見の相手を朝日とか在日とか言うと、
小林信者のバカウヨっていわれるよ。
476日本@名無史さん:03/03/03 21:08
>>474
大鏡にのってるらしい

天智天皇が鎌足に娘をあげた。その娘は、
天皇の胤を宿していて、天皇は鎌足に男なら鎌足の子とせよ、女
ならばわが子と、約束した。そして生まれたのが男
だったため、鎌足の子とされた。それが藤原不比等見たいな話。
477469=472=473:03/03/03 21:10
>>475
おまえあほかーーーーーーーーーーーーーーーーーー

469=472=473=476
478日本@名無史さん:03/03/03 21:13
>>475
おまえ、日本史板で天皇をクズとか氏ねとか罵るだけの糞スレあげている厨か?
こんなところにまで出てくるな。うぜーんだよ。
479日本@名無史さん:03/03/03 21:16
>>474
藤原不比等(史)  ふじわらのふひと  (658〜720)
父は藤原(中臣)鎌足。
母は車持国子君女・与志古娘(よしこのいつらめ)
不比等の父が実は天智天皇だという説が、かなり昔からまことしやかに
流れておりまして、大鏡なんかにはドキッパリと
「御子の右大臣不比等のおとど、実は天智天皇の御子なり。
されど鎌足のおとどの二郎になりたまへり。」
などと書かれています。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/fudenoato/fuhito.htm

事実かどうかは?
>>476さん、かぶってスマソ。
480日本@名無史さん:03/03/03 21:22
>>477
おまえにはまけるよーーーーーーーーー

>>478
おや、図星だったか?
481日本@名無史さん:03/03/03 21:26
>>476
>>479
センクス

ググっても出てこなかったからビクーリ。
大鏡って鎌倉幕府の正式史じゃん。感心ですよ。
482名無し募集中。。。:03/03/03 21:32
>>481
>大鏡って鎌倉幕府の正式史じゃん。
吾妻鑑か何かと勘違いしてない?
483日本@名無史さん:03/03/03 21:33
484日本@名無史さん:03/03/03 21:43
>>483
天智御落胤説で検索してたよ…

>>482
普通に吾妻鏡と勘違い。

あまりに痛いので回線切って逝ってきます
485日本@名無史さん:03/03/03 21:44
イ`
486日本@名無史さん:03/03/03 21:48
>>484
五摂家でもまじめに信じてるところあったみたい
487日本@名無史さん:03/03/03 21:52
チョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へ
ョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチ
ンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョ
はハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョン
ハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンはハングル板へチョンは
488日本@名無史さん:03/03/03 21:56
>>480
( ´,_ゝ`)プッ
489日本@名無史さん:03/03/04 08:54
>>488
(´,_ゝ`)プッ
490日本@名無史さん:03/03/04 21:30

                          __,,:::========:::,,__
                        ...‐''゙   .  `  ´、 ゝ   ''‐...
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                  /                          \
                ...‐''゙ .                    ` ´ ´、 ゝ   ''‐...
               ..‐´      ゙                           `‐..
             / 痛みを知らない子供が嫌い           ]      \
  .................;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::´    心を無くした大人が嫌い                  ヽ.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;.................
゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙       .'                    チョソは死ね                   ヽ      ゙゙゙゙゙゙゙゙  ゙゙゙゙゙;;;;;; ;;;;......
          /                      バイバイ  (゚∀゚)キユ         ゙:                        ゙゙゙゙゙;;;;;;
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         ノi|lli; i . .;, 、    .,,            ` ; 、  .; ´ ;,il||iγ
              /゙||lii|li||,;,.il|i;, ; . ., ,li   ' ;   .` .;    il,.;;.:||i .i| ;lili;||i;;;,,|i;,:,i|liil||ill|||:;il|l||;(
491携帯からです:03/03/05 02:17
皇族・武家はなんとなく解るのですが、平安以前の貴族や公家って何ですか?
後、武士が台頭する以前の戦争の規模や形態を教えて下さい。貴族が刀を振り回していたのですか?
492日本@名無史さん:03/03/05 03:48
>>491
その通りです 聖徳太子も刀を振っていました
493日本@名無史さん:03/03/05 04:14
貴族が戦争をしなくなったのは仏教思想が本格的に普及してきたからです
奈良時代になり仏教が盛んになってくると、動物を殺して食べると言う行為さえ
罪悪視するようになり、天武天皇、聖武天皇などの時代には殺生を禁じる法令が
何度も出されました。律令制度も上手くいき貴族同士の戦いもなくなってきます。
しかし、過酷な租税調庸取り立てはやがて貧困と治安の乱れを生み、道長の邸で
さえ賊に襲われ火を放たれるなどの事件が起きていた。鎮圧する側の貴族や国司
と結びついて武士は歴史に登場した。
494>>326で質問した者です。:03/03/05 10:39
>>335
ありがとうございました。
ヤフー規制やブラウザの関係で、返礼が遅れました。

では、やはり鎌倉幕府がわの史料は残っていない線が濃いみたいですね。
参考になりました。御所も見てみます。
では。
495日本@名無史さん:03/03/06 02:30
新撰組は朝廷に背いた逆賊とされたのに、なぜ斉藤一は警視局に入れたのですか?
496491:03/03/06 03:19
>>492>>493
有難う御座居ます。
鎌倉時代の公家・武家・寺家の鼎立状況から、江戸時代までに武家の一元支配に成る過程において、
武家が公領を侵略する時に朝廷はなんの対策も打たなかったのでしょうか?
というか、鎌倉時代から江戸時代までの朝廷の役割がわかりません。何をしていたのでしょうか?
497日本@名無史さん:03/03/06 03:39
>>494
会津藩士藤田五郎を名乗ってたから
警視庁では賊軍となった薩軍に対して、最も敵意を抱いている者は、
東北諸藩士族だから参加者を募集した。これに参加したと思われて
いる。
498日本@名無史さん:03/03/06 04:37
>>469 朝廷には鎌倉室町幕府の地方の行政官である守護の任命権がなかった。
ただ征夷代将軍の任命権と権力のあまりない国司の任命権があっただけ。

1185年,源頼朝が弟の義経(よしつね)をとらえ,国内の治安をまもるという理由で
後白河上皇の許しを得て諸国に守護を,公領や荘園に地頭をおいた。これにより国司の力
が弱まった。

承久の乱1221年
1219年,源実朝が公暁に殺され源氏将軍の滅亡後,後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権奪
回を試みるが北条氏が送った大軍の前に大敗した。乱後,後鳥羽上皇が隠岐に流されるなど
朝廷の権力はうしなわれた。
499498:03/03/06 04:53
>>496
建武の新政
後醍醐天皇は1333年に鎌倉幕府をほろぼした。鎌倉幕府は、御家人としてその土地の所有権
をみとめ(御恩)、その代わり幕府への忠誠を義務づけた(奉公)。将軍と御家人は御恩と奉公の
関係でむすばれ、幕府をささえる重要な柱となった。しかし、新政府の方針は公家中心になりがち
で、公家を重く用い、恩賞も公家の方が多いなど,武士の要求を満たすことができなかった。足利
尊氏と新政に失望した武士たちは武家政治の再興をくわだてて、1336年に後醍醐天皇を吉野に
追い(南朝)、べつに光明天皇を皇位につけ(北朝)、1338年、征夷大将軍に任じられて、京
都に幕府を開いた。

このように対策は講じてるが失敗している。
500日本@名無史さん:03/03/06 07:27
>>497
ありがとうございます。
501日本@名無史さん:03/03/06 10:35
>>496
鎌倉後半以降、天皇家・公家は自力で次の皇位を決められなくなり、
幕府に仲介してもらっていた。
これは、幕末まで続く。
502日本@名無史さん:03/03/06 22:17
鎌倉時代が終わったのはいつ?
503502:03/03/06 22:18
間違えた。
室町時代が終わったのはいつ?
504日本@名無史さん:03/03/06 22:27
広義には,1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡のあとをうけて,同年の建武政府
の成立から,
1573年(天正1)南山城の槙嶋城における室町幕府の崩壊までをいうことが多い。

しかしこの見解も,終期に関しては異説もあり,1568年(永禄11)の
織田信長上洛までとする意見,
1576年の安土築城までとする見方などがある。
いずれも次の安土桃山時代ないしは織田・豊臣時代(略して織豊期ともいう)
へと続く政治史上の時代区分であるとの認識では一致している。
中世後期という場合は,この広義の室町時代を指すのが普通である。
織田政権を全国統一を目ざした近世的権力とする見方に立てば,
終期は1568年に置くのが妥当であろう。
505日本@名無史さん:03/03/07 07:15
>>498>>499>>501
有難う御座居ます

武家が台頭する時に、朝廷の軍勢は何をしていたのでしょうか? 何故、朝廷の軍勢に組み込まれずに、
独立した武家社会を築いたのでしょうか?
506日本@名無史さん:03/03/07 09:58
年代のゴロあわせやってるスレありませんか?
507日本@名無史さん:03/03/07 10:27
>>505
朝廷は成年男子に兵役を課しこれを軍事力として持っていた。
それは防人として九州に行ったり、蝦夷征討に行ったりしていた。

武家は元々、各地域に土着した有力者が武装したもの。
高校の教科書で言えば、開発領主と言われたの農民や
海賊と言われた漁労民・海上交易に従事する人々。

朝廷は京都から地方に役人を送って、
地方行政を行おうとした。
しかし、地方には様々な有力者がいて徴税ができないような地域があった。
そこで、役人はその地域の有力者に徴税を請け負わせ、
税収の一部を手数料として与えたり
彼らの持っている特権を認めた。
開発領主や海賊はこうして独自の経済基盤と支配基盤を確立し、
のちの源平のような武家となっていった。

質問の答えになった?

>>506
俺はしらね。
508日本@名無史さん:03/03/07 11:02
あの〜明治天皇の時代に普通の百姓出の平民でも近衛兵になれたのでしょうか?
509日本@名無史さん:03/03/07 13:54
>>505
朝廷は、武士の反乱に武士を使い撃滅したり、反乱武将に官位を与えて
懐柔したりしていた。
それに対し、京都の価値基準を拒否し、政治制度として武家から異議申し立てを
したのが頼朝。
武士階級の利益代弁者となった。
510日本@名無史さん:03/03/07 13:59
511日本@名無史さん:03/03/07 14:13
>>508
最初は、
>明治4年に薩摩藩・長州藩・土佐藩藩士からなる「近衛兵」約6千

西郷下野で西郷についていってしまい、補充
>薩摩出身の近衛兵が減ったことにより、徴兵令によって徴兵された
>平民出身の兵士に入れ替えられ、近代軍隊化していく

の、ようです。
512>>505:03/03/07 21:12
>>507>>509
同じ様な質問に何度も答えて頂き、有難う御座居ます。
まとめると、以下の様な事で良いですか?
朝廷の支配地域は全国に及んだが、全ての民と人民を管理してはおらず、支配の及ばない集落等もあった。
彼らは武装して自治を行なっていたが、朝廷の権威を否定する様な存在には成りえず、税を納める事を引き替えに
その自治を認められた。(領主化していった)
他方、地方に派遣された国司たちも私有地を拡大し、その支配の為に武装集団を抱えた。(領主化していった)
 こうして全国各地に独立した小規模武装集団が乱立していった。
513>>505:03/03/07 21:42
続き
こうした時期に、島国で外敵を持たなかった朝廷は、人民からの兵役を無くし(直属の軍勢の廃止)、
彼等の様な武装集団に軍事警察権を与え、全国を統治した。朝廷の軍勢に代わる、領土を持つ人民という武家の誕生。
 こうした武装集団は、自らの領土の安泰の為に主従関係を結ぶ事となり、その中で台頭したのが源氏と平氏であった。
彼等は互いに争ったが公領や貴族の荘園を侵す事は無かったので朝廷は無視した。しかし、
頼朝が幕府を開くと地頭が置かれ、元寇により庶子家に公領や荘園を与えて対応した為に、
514>>505:03/03/07 22:04
続き
しだいに、朝廷と幕府の支配勢力(公領や荘園と武家の領土)の逆転が生じた。
鎌倉幕府が滅びた後に、これを是正しようと朝廷は建武の新政を行なったが失敗し、朝廷の権力は失われた。
しかし、武家の権力の正統性が官位によるために朝廷が滅びる事はなかった。また、武家の実力者に
バランスよく官位を与えた為に戦国時代までは権威を失わなかった。

だいたいこんなかんじで良んでしょうか?携帯からな為、文章が見苦しいと思いますが、ご容赦を。
515日本@名無史さん:03/03/07 22:19
平安中期・後期から、国司は武装代理人に税収を請け負わせていた。
武装代理人は、モロバの剣。領地を侵略していく。
しかし、朝廷・公家には他に手がない。

南北期から室町前期は朝廷の権威は最低。つぶれる寸前だった。
戦国期に足利氏が権威を落とし、朝廷が売官で権威を復興した。
信長とやりあった末、秀吉が復興した。あるいは、復興してしまった。
516>>507:03/03/07 22:43
>>505
大体そんな感じだと思う。

大和朝廷が成立した時、その支配が及んだのは畿内・中国・四国・九州北部だけだった。
その後、律令体制を整え、徴税システムを作り上げ、兵役も課した。
しかし、九州南部や関東・東北には土着の勢力が存在していた。
大和朝廷は彼らを隼人・蝦夷などと呼び、
彼らの支配する地域を獲得しようとした。
しかし、土着勢力はやすやすと負けなかったので、
出羽国や陸奥国などを設置したものの実効支配できなかった。

517>>507:03/03/07 22:43
開発領主の誕生について。
朝廷は口分田を良民(奴隷身分じゃない人)に与え、
その土地からの収穫の一部を税として納めさせることで、
財源を確保し中央集権体制を整えようとした。
しかし、当時は稲作だけでなく他の農産物の生産や
交易に従事する人も多くこの方法は上手くいかなかった。
そこで、三世一身法などで私有地を認めるようになり
貴族や寺社など特権を認められた者たちが農地整備に積極的に乗り出した。
貴族や寺社は京都周辺に居住しているので、
遠方にある土地は開発領主と呼ばれる現地の有力者に管理を任せた。
私有を認めたことで農地開発は進んだが一方で
その土地の占有権を巡って貴族・寺社・開発領主の間で対立が起きた。
彼らは自分達の権利を守り、新たな土地を得る為に武装した。
これが武士と呼ばれるようになる。
特に畿内から離れた地方では朝廷の影響が少なかったことと、
実際に土地を管理しているという実務面での強みによって徐々に朝廷から距離をおく。
平家も源氏もその基盤になったのは畿内から離れた土地であり、
そこで武力・経済力を蓄え中央へ乗り出した。
朝廷は彼らの力を利用しようとするが、
平清盛や源頼朝等は傑出した力と政治センスで反対に朝廷を利用する。

アナタは中世についてある程度知識を持っているようなのでこの辺で。
518日本@名無史さん:03/03/07 23:19
一時どうなるかと思ったけど、何とか方向が修正されたね。良かった
これからも偏向厨は、無視でおながいします。
519日本@名無史さん:03/03/08 06:49

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520日本@名無史さん:03/03/08 13:33
すみません。満州事変について質問させていただきます。

満州事変は「関東軍が奉天郊外の柳条湖で満鉄線路をみずから
爆破し(柳条湖事件),これを中国軍のしわざとして奉天にお
ける張学良軍の本拠を攻撃し,満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した。」
との説明が一般的ですが、日本の「自作自演」であるという
はっきりした証拠があるのでしょうか。

最近、世界で起きる様々な事件についてユダヤ、CIA陰謀説など、
ちまたでいろいろな怪しげな解説が語られております。しかし、これらは
あくまでも、一部の人間が「実は…なんだって」と、こそこそした語り方
をしているだけで、社会的に主流の説明となる訳ではありません。

そういう意味では、「日本軍による自作自演」という満州事変について
の解説も、「もしかしたら、確たる証拠もないままに、敗戦後、
史実ということにされてしまったのかしら」と最近考えるように
なっております。

どうか詳しい方教えてくださいませ。
521日本@名無史さん:03/03/08 13:44
柳条湖事件

満州事変の発端となった謀略事件。かねて満州(現,中国東北部)の武力
占領を画策していた関東軍幕僚の板垣征四郎,石原莞爾(かんじ)らは,
1931年6月末,南満州鉄道沿線にある中国軍(東北辺防軍)兵営の北大営
付近の柳条湖で9月下旬に軍事行動を起こすことを計画した。
しかし企図が政府側にもれたため,予定を繰り上げ,9月18日午後10時20分
ころ,独立守備歩兵第2大隊第3中隊の河本末守中尉が柳条湖の満鉄線路
に爆薬をしかけ爆発させた。線路への被害はほとんどなく,直後に列車が
無事通過した。爆音を合図に演習と称して,付近に出動していた川島正大尉
の率いる第3中隊が北大営の中国軍を攻撃した。板垣,石原らは,
事件を中国軍が満鉄線を爆破し日本軍を攻撃したものと偽り,
関東軍を出撃させ,満州事変を引き起こした。

※満州事変の日本軍の自作自演を疑う人は、いないんじゃないかな。
※証拠がそろいすぎ。
522520:03/03/08 13:49
>521

レスありがとうございます。

つまり、河本末守中尉など実行部隊の方たちの証言等があるのですね?
523日本@名無史さん:03/03/08 14:07
「別冊 知性」 昭和三〇年十二月号 河出書房

当時「関東軍参謀」であった、花谷正が、満洲事変は、関東軍の謀略に
基づくもであったことを、証言している史料。
当時の関東軍関係者が、満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであった
ことを認めた唯一の証言。
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/thisei_0.htm

島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、鉄道線路巡察の任務で部下数名
を連れて柳条溝へ向つた。北大堂の兵営を横に見ながら約八百メートル
ばかり南下した地点を選んで河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を
装置して点火した。時刻は十時過ぎ、轟然たる爆発音と共に、切断され
たレールと枕木が飛散した。
といつても張作霖爆殺の時のような大がかりなものではなかつた。
今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか、満鉄線を走る列車に
被害を与えないようにせねばならぬ。そこで工兵に計算させて見ると
直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても尚高速力
の列車であると一時傾いて、すぐ又走り去つてしまうことが出来る。
その安全な長さを調べて、使用爆薬量を定めた。
爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届く。
地点より四キロ北方の文官屯に在つた川島中隊長は直ちに兵を率いて
南下北大営に突撃を開始した。
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/thisei_6.htm

いろいろあるので、読んでください。
524520:03/03/08 14:24
ありがとうございました。>523
525高校生のための日本史講座:03/03/08 17:55
 当時、幣原喜重郎外務大臣ら一部の政治家は、奉天総領事からの連絡
で、関東軍が怪しいということは察知していました。
 しかし、花谷の「告白」によって、国民は、柳条湖事件が関東軍の謀
略であるということをはじめて知ったのでした。
 石原が満州事変の首謀者である。
 このことを、昭和天皇も知っていました。
 いつ知ったのかはわかりません。
『昭和天皇独白録』に次の天皇の石原評があります。
「いったい石原という人間はどんな人間なのか、よくわからない。満州
事件の張本人でありながら、このとき(二・二六事件時に参謀本部作戦
課長の石原が反乱兵の討伐を天皇に進言したとき)の態度は正当なもの
であった。」
 天皇の弟であり、海軍軍人(1942年海軍大佐)の高松宮宣仁〔の
ぶひと〕親王〔1905−1987〕も、満州事変から5年後に、日記
のなかで次のように述べています。
「今ロンドンでやっている海軍軍縮会議(第2回。第1回は1930年)
に対する日本の態度について、私は根本的に不快を感じている。それは
日本すなわち海軍全権(個人でなく)の主張が、行かぬ前から「まとめ
る」気のない、ただいかにして会議の不結果のソシリをのがれようかと
いう口実を 見出すかに頭をつかって出かけていることである。・・・
日本が軍備のない支那に無理をいって今やりつつある、また、つい数年
前やった満洲事変は、この無誠意を模範示しているではないか。」
(出典:『高松宮日記』)

http://homepage2.nifty.com/mazzn/130136.htm

当時から石原が首謀者と思われてたんじゃないか?
526日本@名無史さん:03/03/08 18:45
1910年の日韓併合は合法なんですか?
527日本@名無史さん:03/03/08 19:03
むかしむかし
朝鮮半島を自分の領土にしようとする奴らが居ました。
ロシアと中国です。
   ,,,,,,,,,,,,,
   ミ    :ミ
   ミ,,,,,,,,,,;;ミ  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (#´D`)<お前の半島
  ( ~ ̄| ̄) |よこせ〜(イック      ∧_∧こ、怖いニダ〜
   ) ) γヽ \______     <`Д´; >
  (__)\__ノ               (( つ  )プル
    ∧∧                   〉 X < ((プル
   / 中\  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     〈__フ<_〉 プルコギ
  (  `ハ´)<属国は命令に
  ( ~__))__~) |従がうアル!
  | | |   \______
  (__)_)
でも韓国は弱いから怯えて何も出来ません。
領土を奪われるのは時間の問題です。
528日本@名無史さん:03/03/08 19:03
半島がロシアや中国の領土になったら
次に狙われるのは日本です。
    ∧∧                     ミ"""""ミ
   / 中 \ ∧_∧         ∧_∧  ミ,,,,,,,,,,;;ミ
  (`д*(⊂ (´∀` ≡      ≡∩ ´∀`) (´D`; )
   (  ⊃⊃ヽ  と≡       ≡ヽ ⊂  )三≡)|  ̄~)
    ) ) ) く く\  ≡     ≡〉 ,´    / /  /
   (__)__) (_ニ(__三      ヽ__)   (_(_/
だから日本は半島に攻めて来た二つの国を
次々とぶっ飛ばしました。
529日本@名無史さん :03/03/08 19:26
縄文、弥生時代についての名著を教えてほしいんですが。
530日本@名無史さん:03/03/08 19:56
>>526
合法・違法がよく話題になるのは、1910年の併合条約よりも、1905年の
保護条約ですね。
合法論の根拠としては、条約は締結された・国王の批准を要件としていない
などです。
不法論の根拠としては、国王の認可印が押されていない・大臣を脅迫している
などです。
韓国側は「不法論」が多く、日本側は「合法だが不当論」が多いです。

思想がらみの問題なので、複数のサイトや本で学習されることを進めます。

531日本@名無史さん:03/03/08 19:58
>>527-528
朝鮮を狙ってたもう一つの国、「日本」を忘れてますよ。
532日本@名無史さん:03/03/08 21:10
    ∧_∧ 
   Σ(´∀`) かわいそうだモナー
    (    )
    |   |  |
   (_(__)


   ___.∧ ∧   _  ________________________________________
/\ <*`−´>\   | 注:エサを与えないでください|  
\/| ̄∪∪ ̄|\  |____________ ___________________________|
  \|  ニー|          ||
    ̄ ̄ ̄ ̄  
_________________________________________________________________
↓その後、朝鮮の人口は2倍以上に増加した。
          

  ∧ ∧ ∩     Λ_Λ      ∧__∧
 <`∀´>ノ    <丶`∀´>    <ヽ● ` ー ´ >
 (|   |      (    )   (      姦 )
〜|   |     | | |      \  /  /
  ∪ ∪     <_フ__フ     〈_フ__フ
 ミニニダー     ニダー(元祖)  ニッチ


   ∧_∧ 
  ( ´Д`;)増やしすぎた・・・ドウシヨウ
  (      )
   |   |   |
  (_(__)
533日本@名無史さん:03/03/08 21:15
   _____            ___.._
 /:::::::::::::::Y:::::::::::::ヾ       /::::::::::::::::::::::::ヽv_
/::::::/  ̄⌒Y⌒ ̄ヽ::::ヽ    /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
|::/ ο       ヽ::::|    /::::::::::::::::::::::///|  \::::ヽ
|:|    .  |  .   |::|    |:::::::::::::::::::::/ |      |:::::|
_|| i _.   ._ i .||_    |:::::|:|:|:::::|| |       /.|::::|
| .|  ´/・  | .・ヽ`   |. |   |:::::| /         ヽ |:::|
ヽヽ  ´ /| |ヽ   / /   .|::::ヽ_>。.    .。<_ /:::|
 し|ヽ   ( !_;.)  /|J     .ヽ(   ̄´ ./| |ヽ ` ̄ )/
   |    .iill_llii.|  |       しヽ.   ( !_;.)    /J
   \    σ ノ/         .| ヽ /._.\ ./ |  
    .\__lllll_/           \l  ー `ノl/ 
     | i  ̄ノ |             .\___/   
     /|\_.._/|ヽ             |i  ノ|
  /| |∨▽∨| |\     .      /|\_.._/|ヽ
 /|  >|  ∧  | < |ヽ   ./| ̄ ̄ ̄| |∨▽∨| | ̄ ̄ ̄|ヽ
 | | .\|  | .|  |./ | |   .| | __   >|  ∧  | < ┌┐| |
      |\                 |\
/ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄ ̄ ̄
|在日のみなさん、自宅への嫌がらせやめて下さい!お願いしましゅ。
\_________________________
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200210/27/20021028k0000m040028000c.html
534日本@名無史さん:03/03/08 21:52
>>530 ありがとー
世界史板で国際法を聞いてくるよ
535日本@名無史さん:03/03/09 14:32
>>529
講談社「日本の歴史」の該当巻はどうかな?
評価は分かれているが。
536日本@名無史さん:03/03/09 22:45
537日本@名無史さん:03/03/09 23:40
>>529
 縄文時代の名作。個人的には、WEB上ならこれ(3月末まで?)。
縄文A子ちゃん(さかいひろこ)
http://www.e-machi.gr.jp/history/akochan/index.html
欠点は、参考文献とかがないので、ここから深められないこと。
なお、トップページに行くと、「絵で見る考古学」にも行けます。

538505:03/03/10 04:07
>>515>>516>>517
返事が遅れてすみません。有難う御罪ました。
539日本@名無史さん:03/03/10 18:55
すみません
第二次世界大戦後、最初に首相になった皇族の人の名前を
教えてください。(読み方も)
540日本@名無史さん:03/03/10 19:17
>>539
東久邇稔彦 ひがしくになるひこ(ひがしくにのみやなるひこ ともいう)
541日本@名無史さん:03/03/10 19:26
>>539
東久邇宮 稔彦王, ひがしくにのみや なるひこおう
542日本@名無史さん:03/03/10 19:38
>>540-541のどちらでもOKだよ。
ただ、>>540は 1947年10月に皇族の身分を離れた後と考えたほうがいいかも。
543日本@名無史さん:03/03/10 22:12
東久邇稔彦 1887‐1990(明治20‐平成2)
ひがしくになるひこ
旧皇族,軍人。第2次大戦直後の首相。久邇宮朝彦親王の第9王子として京都
で生まれる。陸軍士官学校卒業。1920年以来,フランスに7年間留学し,
自由主義の気風を身につけた。陸軍の内部で皇道派と衝突,左遷された経験
をもつ。
敗戦直後の45年8月17日に最初の皇族内閣を組閣し,降伏文書調印,軍隊の
復員・解体などの終戦処理にあたったが,占領軍との連絡調整に限界を感じ,
組閣後2ヵ月で総辞職した。
47年10月皇族の身分を離れた。その後,新興宗教(ひがしくに教)の教祖に
まつりあげられたこともある。    
544日本@名無史さん:03/03/10 22:43
「邪馬台」は当時の魏の発音ではどんな音ですか?
魏の役人はどんな音を聞いてこの字をあてたのでしょう。
545日本@名無史さん:03/03/10 23:04
《魏志倭人伝》の版本に〈邪馬壹国〉とあるので,〈邪馬壱(壹)国(やまいちこく)〉
とするのが正しいとする説があるが,中国の古い諸書に引用された
《魏志》には〈邪馬臺(台)国〉とあるので,〈邪馬壱国〉説は疑わしい。

やまと、もしくは、やまたい。かね。
546544:03/03/10 23:40
>545
ありがとうございます。
しかし、日本と違い中国では時代を限定すればひとつの字にはひとつの
読み方しかないはずです。魏に限定すると
どの場合が「やまと」になり、どの場合が「やまたい」になるのでしょう?
547日本@名無史さん:03/03/11 12:14
「ジャバダイ」と聞いて当て字をしたそうです。
http://homepage3.nifty.com/random/rekisi/yamatai/yama2.htm
やや、あやしいサイトですが。
「邪馬台 魏 発音」で検索しました。
548日本@名無史さん:03/03/11 15:32
本当に素朴な質問なんですが、高家、交代寄合クラスの旗本は、喜連川家を除いて
徳川家、万石大名、京都のお公家さんと親戚の家はいるんでしょうかね?
549日本@名無史さん:03/03/11 15:33
訂正
高家、交代寄合クラスの旗本は、→高家、交代寄合クラスの旗本の中には
550日本@名無史さん:03/03/11 17:11
史学科の人に質問します。
すごい厨な質問で悪いんですが、
他学部のことなんでサッパリわからないんです。

史学科って何をするんでしょうか?

(1年)まず通史みたいな概論をやる
(1〜2年)次にある時代の史料などを読む
(2年後半)専攻する時代を決める
(3〜4年)研究して、卒論を書く

みたいな感じでしょうか?
551日本@名無史さん:03/03/11 18:05
>>550
大学によって科目名はちがうが、概ねそんなところだ。
1年 基礎演習、史学概論、日本史の概説など
2年 史料講読、各時代や各分野の講義
3年〜4年 演習
552日本@名無史さん:03/03/11 19:42
>>551
どうもありがとうございます(・∀・)
院で日本史やりたいなーと思ったので、
学部ではどんなのやるのかなーって思ったんです。どうもでした。
553日本@名無史さん:03/03/11 20:06
パイナップル、漢字でなんて書くんでしょうか?
554日本@名無史さん:03/03/11 22:54
>>553
ははは、やっとあったぞ。
「鳳梨」じゃ!
http://www.usiwakamaru.or.jp/~doraemon/jyuku/foodyomi.htm
555日本@名無史さん:03/03/12 03:08
日系移民史のスレありますか?

ハワイ、北米、ブラジル、アルゼンチンなど、各地に散らばった
日系移民について語りたいのですが

556携帯:03/03/12 04:56
江戸時代について教えて下さい。
官位と位階は比例しますか?
武家の官位はどうやって決まったのでしょうか、家柄?石高?幕府内での役職?
公家の官位はどうやって決まったのでしょうか?また、持つ事にどんな意味があったのでしょうか?
官位の下の者は、上の者に頭を下げないといけないですか?
武士の領地(知行地)に対する権限はどの位あったのでしょうか?年貢は全部自分の物ですか?領民を私役に使えますか?初夜権は!
557 :03/03/12 05:08
             ∩
        ∧_∧   | |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       (  ´Д`)//  < 先生!こんなのを発見シマスタ!
      /       /    |
     / /|    /      \  http://saitama.gasuki.com/kaorin/
  __| | .|    |         \
  \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\     \_____________
  ||\             \
  ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄
  ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
     .||              ||
558新大学1年:03/03/12 06:00
史学の入門書ってどんなのが有名ですか?
大学に入学する前に、どんなものか知りたくて。
559新大学1年:03/03/12 06:02
竹内誠 他 編「教養の日本史」ってどうですか?
560544:03/03/12 07:40
>545>547
ありがとうございました。
しかし、疑問が更に深まってしまいました。
漢字が、一字一音であり、上古音韻まで解明されているのに
「邪馬台」のよみが確定しないのは、何に起因するのでしょう?
561日本@名無史さん:03/03/12 08:04
>>560
九州人が反対するから
562日本@名無史さん:03/03/12 08:04
漢字の一字一音には原則ですが例外もあるんです。
「邪」がそうです。漢文ではこの字が語尾にある場合「や」と読むことがあります。
文章の調子を整えたり、強調のために使われます。しかしこれは語尾に限定されます
(琅邪など)。邪馬台のように語頭にあって「や」とよむ例はしりません。
563日本@名無史さん:03/03/12 08:19
少なくとも記紀以降江戸時代までは、邪馬台は「やまと」と読むという
完全な合意があったんだが。誰がヤマタイなどと言い出したのやら。
564日本@名無史さん:03/03/12 08:24
「よこしま」の意味の時と疑問の助詞の時で発音がちがうのは後世の話。
上古音では音はいっしょ。
565544:03/03/12 08:33
>564
「いっしょ」で、どんな音だったんですか?
566日本@名無史さん:03/03/12 09:59
「やまたい」が正しいかは別として、研究によってそれまでの「常識」が
覆る例はいくらでもあるよね。
567日本@名無史さん:03/03/12 11:19
そうですね。

音韻研究が進んだ結果、「やまたい」という古来の呼び方、
「やまい」という俗称がゴミ箱行きになりましたね。

その結果として、「邪馬壹」が現行魏志の誤写・誤刻であることもはっきりしました。

研究によって“それまでの「常識」”が覆る例はいくらでもありますね。
568日本@名無史さん:03/03/12 15:56
>>555
移民史のスレはないみたいだね。
たててみたら。
でも、米国日系移民オタクが集まってくるような予感も・・・。
569日本@名無史さん:03/03/12 16:04
>>556
一つづつ、本やサイトで調べることをお薦めします。
570日本@名無史さん:03/03/12 18:18
>>569
クールだ
まあ、本やサイトである程度調べられるだろうけどね。
571日本@名無史さん:03/03/12 22:09
>>540>>541>>542>>543
レスありがとうございました。
572556:03/03/12 23:34
>569>570
なにか良いスレを紹介して頂けないでしょうか?
573数字神 ◆pDYsdUf.Is :03/03/12 23:41
邪馬台を朝鮮語で読むとハカタになるらしい
574日本@名無史さん:03/03/12 23:47
>>572 556さん
質問が漠然としてるから、こういうあたりから探してみたら?
あと、日本の近世シリーズで「身分と家格」なんて本もあった記憶が。

http://www.google.com/search?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=%90g%95%AA++%8A%AF%88%CA++%8D%5D%8C%CB%8E%9E%91%E3&lr=
575556:03/03/13 00:04
>574
わざわざありがとです。でも、PC持って無いんですぅ(>_<)
576日本@名無史さん:03/03/13 00:08
>>575
厳しいなー。
図書館で本を探すのが一番安くて手っ取り早いかも。
市立図書館は専門的な本が少ないけど、
新書や各時代のシリーズなどは結構揃っているので
参考になる本が見つかるかと思う。
577日本@名無史さん:03/03/13 00:23
>576
>図書館
普段利用しないんで思いつかなかったです。今度行ってきます。
丁寧に有難う御座居ました。
578日本@名無史さん:03/03/13 02:19
征韓論に伴う政変について質問したいのですが、一般的には
「不平士族の不満を国内からそらす為に韓国に出兵しようとした西郷一派と
今は外国どころではないと主張した大久保一派の争い」
というように言われていると思います。
しかし、西郷は別に韓国に出兵する意志はなく、
ただ単に無礼な扱いをする韓国に遣使として自分を派遣するように頼んだだけであり、
大久保がそれに反対したのは「西郷が行っては確実に殺されてそれこそ戦争になる」
という理由で、どちらかと言えば征韓論というより遣韓論による意見の相違であったという話も聞きます。
これはどちらが正しいんでしょうか?
579日本@名無史さん:03/03/13 02:51
>>556
 武家(大名)については、少し古いけど、児玉幸多『大名』<日本の歴史18>
(小学館、1975)あたりが基本。普通の図書館にもあると思うよ。
 最新の成果では、橋本政宣編『近世武家官位の研究』(続群書類従完成会、
1999)、橋本政宣『近世公家社会の研究』(吉川公文館)。ただしハイレベル。
朝廷関係なら高埜利彦『江戸幕府と朝廷』<日本史ブックレット>(山川出版
社、2001)が入門書かと。
 ただし、いずれもずばりとは答えてくれないと思う。よくわかっていない点
も多いから。
580日本@名無史さん:03/03/13 05:17
ガイシュツかもしれませんが、質問です。
六波羅探題の六波羅は地名でしょうか?それとも、仏教の流派や何かの思想なのでしょうか?
また、六波羅に意味があるのなら教えていただきたいです。
581日本@名無史さん:03/03/13 10:14
>>578
西郷死して戦争に持ち込む即時征韓論と、
(西郷は、自分が行って殺されれば、戦争の大義名分ができると計画してた)

国力を整えてからせめる後日征韓論の、
違いでしょう。
582日本@名無史さん:03/03/13 10:19
>>580
現在の京都市東山区内,北は松原通から南は七条通に及ぶ賀茂川東岸の
地名。
葬地である鳥辺野に近く,珍皇寺,西光寺などの寺院が建てられていた。
空也が開いた西光寺は,その没後六波羅蜜寺と改称された。
平安後期の1110年(天永1)平正盛は六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したが,
このころから六波羅の地名が多く行われるようになった。
583日本@名無史さん:03/03/13 10:23
六波羅の地名の由来

六波羅は北は建仁寺より南は五条通りまで、西は鴨川より東は東大路
に至る東西700メートル、南北350メートルの地域をいう。
もとは六原とかき、鳥辺野と同一地域をいい、その名の起こりは、
霊の多く集まるところに因る。すなわち六の「ろく」は霊の古語で、
「六」の字を当てたのは、六の訓「む」が墓地に関係ある語とされた
からである。
墓所(むしょ)がなまって六所となったごとく、霊の多く集まる原野
ということから六原の名が付いた。
http://www.kit-net.ne.jp/wonder/topic/rokuhara/rokuhara.html

本当かな?
584日本@名無史さん:03/03/13 10:30
>>578
征韓論は遣欧派と留守政府派の権力闘争の道具でしかない。
征韓論だけを見ているとその辺りのことは分かりにくいけど、
太政官政府の制度変更や版籍奉還〜廃藩置県、
それに絡む大蔵省や司法省などで薩長と土肥その他の対立を見れば
征韓論そのものは重要でないことに気付く。
585日本@名無史さん:03/03/13 10:31
>>568
そうですか
スレ立てれないので、どなたか日系移民スレお願いします
586天守・2:03/03/13 13:19
幕末・明治初年の朝鮮侵略論をいい,とくに明治6年(1873)10月の政変の原因
がいわゆる征韓論争にあったことから,一般にはこのときの対朝鮮論をさす
ことが多い。
幕末期の征韓論は佐藤信淵や吉田松陰などにみられるが,大島正朝(友之允,対馬藩)
や木戸孝允(桂小五郎,長州藩)などの主張を経て,一方では勝海舟(義邦,幕臣)
の欧米勢力に対する日清韓3国の提携構想となり,他方では戊辰戦争直後の
木戸や大村益次郎(蔵六,長州藩)らの軍事出兵を背景とする征韓論となる。
おりしも明治新政府の国書の形式からする朝鮮側の受理拒否問題から端を
発し,1869年(明治2)から翌70年にかけては,外務省派遣の佐田白茅(素一郎)
や森山茂らの対韓出兵論,あるいは柳原前光(さきみつ)(外務大丞)の対朝鮮積極論
などが出され,これに対しては賛否両論があった。この場合,征韓論は日本の
国家統一とからんで発想されていることは注目してよい。
 明治政府は1872年5月,これまでの対馬と朝鮮との関係を絶ち,対朝鮮交渉
は外務省の専管とし,ついで8月,外務大丞花房義質(よしもと)らを釜山草梁館
に派遣して折衝させたが,不調に終わった。翌73年に入り,朝鮮側の排外鎖国
政策は〈洋夷〉への反感と相まって高まり,日本との修交を依然がえんじなかった。
かくして三条実美太政大臣は閣議に対朝鮮問題を論じた議案を付し,そのなかで
〈今日ノ如キ侮慢軽蔑之至ニ立到リ候テハ,第一朝威ニ関シ国辱ニ係リ,
最早此儘閣(お)キ難ク,断然出師之御処分之(これ)無クテハ相成ラザル事
ニ候〉(一部読下し)といい,当面,陸海の兵を送って韓国の日本人居留民を
保護し,使節を派して〈公理公道〉を朝鮮政府に説くことを提議した。
587征韓論・2:03/03/13 13:20
参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず,使節にみずからがなろうとし,
板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,大隈重信,大木喬任の諸参議が賛同
していったん内定はしたものの,正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこ
ととした。しかし使節団帰国後もこの遣使問題は延引され,大久保利通と
副島種臣の参議就任をまって賛否両論がたたかわされた。岩倉具視や大久保,
木戸らは強硬にこれに反対し,その結果,三条に代わって閣議をリードした
岩倉のもと,大久保,木戸に大隈,大木も同調し,10月24日西郷の遣韓使節
は中止が決定された。西郷,板垣,後藤,江藤,副島はいっせいに下野した。
いわゆる征韓論分裂であり,明治6年10月の政変といわれるものである。
 この征韓派と非征韓派の対立を,異質の政治勢力(その程度の差で諸説は分
かれる)とみるか,同質の政治勢力の対抗ないし政府主導権の争いとみるかで
多くの見解が出されており,また,西郷はあくまで交渉による朝鮮との修交
を求めたもので,これまでの彼の征韓論者的イメージを否定する意見も出され
ている。
この征韓論争に勝利し,大久保を中心として固められた大久保政権は1874年に
は台湾に出兵し,翌75年には江華島事件を引き起こし,朝鮮に対し軍事力を行使した。
征韓論争の内実は,こうしたその後の日本の対朝鮮行動と合わせ総体的にとら
えなければならない。
また,この征韓論が近代日本の対アジア観の原点となっており,
その延長線上に近代日本の大陸侵略政策があったことも留意しなければならない。      
588元常連 ◆QOYuzJdqhs :03/03/13 18:22
武家官位

松平秀治「大名家格制についての問題点‐官位制を中心に‐」(『徳川林政史研究所研究紀要』昭和48年度、1973年)
宮地正人「幕藩制下の官位官職制度」(1976年、のち『天皇制の政治的研究』)
宮澤誠一「幕藩制的武家官位の成立」(『史観』101、1979年) 
深谷克己「領主権力と武家官位―幕藩制と天皇―」(『講座日本近世史T』、有斐閣、1981年、のち『近世の国家 ・社会と天皇』、校倉書房、1991年)
上野秀治「徳川時代の武家の官位」(『歴史公論』107、1984年)
藤井譲治「日本近世社会における武家の官位」(『国家‐理念と制度‐』、京都大学人文科学研究所、1989年)
池享「武家官位制の創出」(『大名領国を歩く』、吉川弘文館、1993年)
水林彪「武家官位制」(『講座前近代の天皇3 天皇と社会諸集団』、青木書店、1993年)
下村效「豊臣氏官位制度の成立と発展」(『日本史研究』377、1994年)
米田雄介「徳川家康・秀忠の叙位任官文書について」(『栃木史学』8、1994年)
堀新「岡山藩と武家官位‐池田綱政の少将昇進をめぐって‐」(『史観』133、1995年)
589元常連 ◆QOYuzJdqhs :03/03/13 18:22
武家官位

堀新「近世武家官位の成立と展開」(『新しい近世史@国家と秩序』、新人物往来社、1996年)
池享「武家官位制再論」(『日本歴史』577、1996年)
堀新「近世武家官位試論」(『歴史学研究』703、1997年)
笠谷和比古「徳川家康の源氏改姓問題」(『日本研究』16、1997年、のち同氏『関ヶ原合戦と近世の国制』、思文閣出版、2000年)
藤田覚「近世後期の武家官位と天皇」(『国史談話会雑誌』38、1997年、のち『近世政治史と天皇』)
藤田覚「武家官位の価格」(科研報告書『近世武家官位をめぐる朝幕藩関係の基礎的研究』、1997年、のち『近世政治史と天皇』)
藤田覚「近世武家官位の叙任手続きについて‐諸大夫成の場合‐」(『日本歴史』589、1997年)
橋本政宣「近世の武家官位」(『近世武家官位の研究』、1999年、1999年)
山本博文「将軍宣下と幕府・朝廷」(『近世武家官位の研究』、1999年、1999年)
深井雅海「将軍宣下に見る公家・大名・寺社方の格式」(『近世武家官位の研究』、1999年、1999年)
山口和夫「近世初期武家官位の展開と特質について」(『近世武家官位の研究』、1999年)
590元常連 ◆QOYuzJdqhs :03/03/13 18:23
武家官位

橋本政宣「江戸幕府における武家官位の銓衡」(『近世武家官位の研究』、1999年)
鶴田啓「近世大名の官位叙任過程‐対馬藩主宋義倫、義誠の事例を中心に」(『日本歴史』577、1996年、のち『近世武家官位の研究』、1999年)
佐藤孝之「加賀藩年寄の叙爵をめぐって」(『近世武家官位の研究』、1999年)
松澤克行「近世前期の武家官位叙任手続きと朝廷」(『近世武家官位の研究』、1999年)
箱石大「幕末・維新期における武家官位の変質」(『近世武家官位の研究』、1999年)
小宮木代良「『武家補任』について」(『近世武家官位の研究』、1999年)
堀新「近世中期武家官位叙任の実態‐外記平田家文書を素材に‐」(『近世武家官位の研究』、1999年)
堀新「大名の官位と「家政」「国政」‐武家官位の在地効果説をめぐって‐」(岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』、岩田書院、2000年)
591日本@名無史さん:03/03/13 20:16
細かすぎないかい?
592日本@名無史さん:03/03/13 22:07
ちょっと質問ですが、
江戸時代に外国人(特にコーカソイドやニグロイド)が日本に漂着して、
そのまま定住したという事はあったんですか?
593日本@名無史さん:03/03/13 22:17
>>592
小笠原なら聞いたことあるが。
http://www.fsinet.or.jp/~umi/saku/noga2.htm
国際的に日本の領土と認められる以前は、日本、アメリカ、ポリネシア
などから多くの人が小笠原にやって来て、共同生活を行っていたようです。
日本の領土となった後に日本へ帰化した外国人の子孫が、今でも小笠原
に住んでいます。島の人々の中には、白人系、ポリネシア系、日本系と
のハーフなど、様々な顔立ちの人がいますし、セーボレーさんなど
カタカナ名の人もいます。

594日本@名無史さん:03/03/13 23:31
>>592
蝦夷地と言われた北海道とシベリアは樺太経由で
人と物が来していたみたいね。
ロシア人が定住していたかどうかは知らんが。
595日本@名無史さん:03/03/14 01:31
>>593
小笠原は漂着じゃなく、移住です。
596578:03/03/14 04:45
>>581>>584>>586-587
ありがとうございます
597日本@名無史さん:03/03/14 04:58
>>582-583
詳しくありがとうございました。やはり地名なんですね。
現在の地名もわかって感謝感謝です。
598日本@名無史さん:03/03/14 06:10
ヤン・ヨーステンって漂着じゃなかった?
599日本@名無史さん:03/03/14 07:36
ドラマの話で申し訳ありませんが。
「王様のレストラン」に登場する食材係役の名前、
ジェラール・ディヴィヴィエは、
源頼朝と何か関係のある名前なのでしょうか?

他の登場人物は、すべて頼朝と関連のある名前か
それをもじった名前をつけられているので、気になっているのです。
600日本@名無史さん:03/03/14 07:52
>>599
「千石」は,弁慶と関係があるのでしょうか?
601599:03/03/14 07:57
>600
公式の情報ではないですが、
松山城(別名千石城)に由来する可能性があるそうです。
http://gooma.hp.infoseek.co.jp/namaekenkyuu.htm

このページでは、ディヴィヴィエは映画監督の名前に由来するかも、
とのことですが……。
602日本@名無史さん:03/03/14 08:05
源氏とは無関係、でいいんじゃないの?
601のページに

映画監督ジュリアン・ディヴィヴィエの作品に
「La Belle Equipe」というタイトルがある。

とあるし。
確かに名前の付け方から見たら、一人だけ法則無視だけど。
603599:03/03/14 08:10
>600,602
どうもありがとうございました。

来年の「新撰組!」の雰囲気を予想しようとしても
どうしても「王様のレストラン」のノリしか想像できない
駄目駄目な今日この頃です。
604日本@名無史さん:03/03/14 08:21
>>599
映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエと思われ.
なぜなら,「我等の仲間」の原題La Belle Equipe が
ドラマの部隊である料理店の屋号だから.

http://www.tdx.co.jp/movie/mpage/html/031/L91.asp
605日本@名無史さん:03/03/14 08:24
かぶってすまん
606日本@名無史さん:03/03/14 13:27
ヤン・ヨーステン ?‐1623
Jan Joosten van Lodenstijn
オランダの貿易家。1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号で,豊後佐志生に漂着した。
同船の航海士 W. アダムズ(三浦按針)と同様,徳川家康から江戸に住宅を与えられた。
八重洲の地名は,彼の名に由来するといわれる。12‐21年(慶長17‐元和7)の
間に朱印状を得て,シャム,パタニ,コーチシナ,カンボジア,トンキン
など,タイ,インドシナ半島の各地に10回船を派遣し,貿易に従事した。
1609年平戸にオランダ商館が開設されると,毎年江戸と平戸を往復し,
幕府との交渉を助けた。22年,東インド会社の船での帰国を願い出,
総督も許可していたが,バタビアでの交渉が進まず,日本に引き返す途中,
難破し昏死した。 
607日本@名無史さん:03/03/14 13:30
アダムズ 1564‐1620
William Adams
徳川家康の外交顧問。日本名三浦按針。イギリスのジリンガムに生まれ,
ライムハウス造船所に12年間勤めた後,イギリス海軍に船長として勤務。
1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊の一隻リーフデ号の
航海士となり,1600年(慶長5)豊後の佐志生に漂着。
大坂で家康に謁見し,来日の事情を説明,イギリスが日本と貿易を開き
たい希望を持っていることを伝えた。同じ船で到着したオランダ人
ヤン・ヨーステンとともに家康に信頼され,外交問題の顧問を務め,
幾何学,地理学,造船学などを教授した。イギリス型帆船2隻を建造し,
この1隻は上総に漂着したスペイン人のフィリピン前総督ロドリゴ・デ
・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るとき使用された。
相模国三浦郡逸見村(現,横須賀市)に領地250石,また江戸日本橋に邸宅
を与えられ,三浦按針と呼ばれた。このころイギリス東インド会社は
ジャワのバンタムに商館を設けていたが,11年アダムズがジャワにいる
イギリス人あてに日本の事情を知らせる手紙を書いたことが,イギリスの
日本貿易開始の契機となった。13年ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世
の国書を持ち,平戸に来航し,アダムズは彼とともに駿府で家康に謁見し,
貿易許可の朱印状を得た。イギリスは平戸に商館を設置し,アダムズ
は年俸100ポンドで,イギリス東インド会社と雇用契約を結んだ。
アダムズ自身朱印状を得て,15年(元和1)シャム,17年アンナン,
19年トンキンに渡航して貿易を行い,日本人妻との間に生まれた
ジョセフも朱印船貿易家として活躍した。セーリスの帰国の際,
アダムズも日本を出発する許可を得たが,そのままとどまった。
1618年将軍秀忠の時代となると,幕府との関係も薄くなり,
20年平戸で病没した。アダムズ夫妻をまつった按針塚が横須賀市
逸見町にある。       
608日本@名無史さん:03/03/14 15:13
>>559
>竹内誠 他 編「教養の日本史」ってどうですか?
「教養講座の日本史の概説、入門書としてどうぞ」ってどこぞに書いてあった。
609日本@名無史さん:03/03/14 16:15
age
610日本@名無史さん:03/03/15 08:24
竹内っておもしろいのか?
611日本@名無史さん:03/03/15 13:01
竹内文書?
612日本@名無史さん:03/03/15 13:58
分国法の
「朝倉家の城のほかは、国中に城を作ってはならない。
有力な家臣はことごとく一乗谷に引越させて、その郷村には
代官や下司のみすえおくこと。」

「許可をえずして他国へ手紙を書き送ってはいけない。」
この2つの分国法のねらいって何?
613日本@名無史さん:03/03/15 14:11
>>610
竹内誠です。
614日本@名無史さん:03/03/15 14:16
>>612
上段
本拠での下克上を防ぐ・人質的意味。

下段
他国との連絡による裏切り・謀略・機密漏らしを防ぐ。
615612:03/03/15 14:46
>>614
上段
戦国大名(朝倉氏)がトップにいることを強調し、支配を強めるため。
↑5点満点で何点?
616日本@名無史さん:03/03/15 14:50
>>615
何点?テスト問題だったのかw?
高校生ならマルかもね。
617612:03/03/15 14:58
うん。マル?マジでか?
これでか?とりあえずサンクス。
今回は90点とれてりゃいいが・・・・
618日本@名無史さん:03/03/16 00:25
九鬼ってなに?読み方はわかるけどなんのことなんですか?
なんかかっこいいなと思ったので質問させてちょ
619日本@名無史さん:03/03/16 00:37
九鬼氏
伊勢志摩九鬼水軍が有名です
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuki_k.html

620日本@名無史さん:03/03/16 00:44
追加
質問の意味が九鬼の語源だったら上記URL

> "くき"という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山・谷などを指すという。また"くき"のきは、柵の意で、城戸構えのあったところからきたともいわれる。
621日本@名無史さん:03/03/16 00:53
日本人て本当に8人の母親から生まれたの?
622618:03/03/16 01:04
どうもありがとうございました
ちなみに俺はどうやら読み方も間違えてた見たいっす
「くかみ」じゃなかったんですね
623日本@名無史さん:03/03/16 01:05
>621
去年9月にテレビ東京で放送された
「サイエンススペシャル 日本人は9人の母親から生まれた!?」
あたりが元ネタだね

ミトコンドリアDNAは母系しか遺伝しないため
女性は代々同じ遺伝子を受け継いでいくという
世界中では35種類 日本人は9種に遡れるのだそうな

つきつめるとアフリカの1種に遡るとかいう説も
いずれにせよ本当に日本人の最初に女性が1桁しかいなかったということじゃないです
624日本@名無史さん:03/03/16 01:08
「くかみ」って読み方もあるみたいです
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kodai-bunsyo3.htm
625日本@名無史さん:03/03/16 02:01
質問です。
日本最古の書が古事記なんですよね。
それできちんと読んだわけではないですけど、最古の書物としては結構な完成度だと聞きました。
ということは古事記以前のどのくらい古くから、書物や文章などの文化の積み重ねがあったと
考えられているのでしょうか?

よく、世界史では、時の権力者が自分の権力を増すためや自分を神格化するために、前時代の
書物などを書き換えたりしてますよね?
もし古事記以前の書物が誰かに隠滅させられたとしたら(まったくの空想ですが・・)、誰が犯人でしょうか?
626日本@名無史さん:03/03/16 02:02
627日本@名無史さん:03/03/16 02:07
>>625
天照や月読の性が入れ替わってる時点で、すでに書き換えられてますね。
628日本@名無史さん:03/03/16 07:55
>>625
これまで《古事記》は史書とされてきたが,全巻ひっくるめて本質的には
神話とみなした方がよい。
編纂が最初に企てられたのは天武朝(673‐686)である。
壬申の乱を経過して聖化された王権の由来を語るためにつくられた天皇家の
本縁譚,それが《古事記》である。
その点,それは律令国家の正史たろうとした《日本書紀》とはやや異質であるといえる。
《古事記》の編纂事情を語るのは序文だけである。それによると,
天武天皇が剰田阿礼(ひえだのあれ)に
資料となる〈帝紀・旧辞〉を誦習させたが,
完成せず,三十数年後,元明天皇の詔をうけて太安麻呂(おおのやすまろ)が
これらを筆録し,712年(和銅5)正月に献上したとある。
剰田阿礼は男性であったとする説もあるが,神の誕生を意味するアレという
名や《古事記》の内容からして,巫女とみた方がよい。

※天武期以後の国家的書き換えでしょう。
6291200:03/03/16 08:00
http://www.bunbun.ne.jp/~tk0608/
あややぽろりうp中
630read:03/03/16 11:00

文献を小まめに調べ、那須与一が屋島の合戦に参加していなかったと

発表した学者の名前をご存知でしたら教えてください。
631日本@名無史さん:03/03/16 12:46
>>623
丁寧なお返事、痛み入ります。
632日本@名無史さん:03/03/16 16:33
>>630
平家「物語」だからねぇ。
633日本@名無史さん:03/03/17 15:54
実話だと言う話はあったがねぇ。考えてみれば、不可能に近い話ではあるが。
634日本@名無史さん:03/03/18 11:03
何方か鎌倉幕府で将軍になっていた皇族の名前を教えていただけますか。
(読み方も)
635日本@名無史さん:03/03/18 12:17
age

636日本@名無史さん:03/03/18 13:41
>>634

鎌倉幕府においては、源氏将軍3代→藤原将軍(摂家将軍)2代
→皇族将軍(宮将軍)4代と9代続いた。                      

  氏名→補任→辞任
 1→源 頼朝→建久3年(1192)7.12→正治1年(1199)1.13 
 2→源 頼家→正治1年(1199)1.26→建仁3年(1203)9.7
 3→源 実朝→建仁3年(1203)9.7→承久1年(1219)1.27
 4→藤原 頼経→嘉禄2年(1226)1.27→寛元2年(1244)4.28
 5→藤原 頼嗣→寛元2年(1244)4.28→建長4年(1252)2.20
 6→宗尊親王(むなたかしんのう)→建長4年(1252)4.1→文永3年(1266)7.4
 7→惟康親王(これやすしんのう)→文永3年(1266)7.24→正応2年(1289)9.14
 8→久明親王(ひさあきしんのう)→正応2年(1289)10.9→延慶1年(1308)8.4
 9→守邦親王(もりくにしんのう)→延慶1年(1308)8.10→弘元3年(1333)5.1

これでどうじゃ!ガハハ\(^O^)/ 

637634:03/03/18 18:22
>>636
おお、ありがとうございます
638日本@名無史さん :03/03/18 18:26
>6→宗尊親王(むなたかしんのう)
「むねかた」だと思ってた。
639日本@名無史さん:03/03/18 20:06
宗尊親王 1242‐74(仁治3‐文永11)
むねたかしんのう
鎌倉幕府6代将軍。後嵯峨天皇第1皇子。後深草天皇,亀山天皇の兄。母は平棟子。
1244年(寛元2)親王となり,52年(建長4)元服,三品となる。同年幕府は将軍藤原頼嗣
を廃し,宗尊親王が鎌倉に迎えられて征夷大将軍となった。
親王将軍の始めである。60年(文応1)前執権北条時頼は故摂政近衛兼経の娘宰子
を猶子とし,親王の御息所(みやすどころ)とした。
64年(文永1)に王子惟康が生まれ,65年宗尊親王は一品中務縁となった。
親王は執権時頼,長時,政村の3代にわたり将軍職にあったが,66年病気の
ため護身験者として都から招いた良基と御息所宰子との間に醜聞が生ずると,
幕府はこれを利用し,親王に謀反の企てありとして都に送還した。
はじめ後嵯峨上皇は親王に謁見を許さなかったが,やがて幕府のとりなしで
親王は上皇に対面した。
72年出家,法名行証または覚恵。和歌に通じ,《初心愚草》《柳葉和歌集》
《瓊玉和歌集》などの歌集がある。    上横手 雅敬

「むねたか」でした。謝罪と訂正します。
640日本@名無史さん:03/03/18 20:48
織田家って尾張の守護=源氏ではなかったのですか?
ルーツを教えてけろ。
641日本@名無史さん:03/03/18 20:51
>>640
守護は織田氏じゃないと思う。
たしか織田は守護代。
守護は斯波(三管領の一家)だったはず。

で、織田氏は平家の末裔って言ってたはず。真偽は不明。
642日本@名無史さん:03/03/18 20:56
>>640
織田家は平氏を自称していただけで、素性は不明。
一応系図がここにあります。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oda_keiz.html
源氏とは無関係。
643日本@名無史さん:03/03/18 20:59
ああたしか守護は京都に住んでいて実際の領国の経営は守護代がやってるんだったな。
上杉謙信も元は守護でなく守護代だと思った。
644日本@名無史さん:03/03/18 21:14
>>640
織田氏(うじ)の略歴を記します。

近世大名。姓ははじめ藤原で,のち平姓を称するようになった。
古く越前国丹羽郡織田荘に拠り,織田を称するようになったと考えられる。
越前守護斯波氏に仕え,斯波義重が尾張守護を兼ねると,織田常昌が
尾張守護代となる。
斯波氏の分裂抗争とともに,織田氏も春日井郡清須城に拠り下四郡を
領する一家と,丹羽郡岩倉城において上四郡を領する一家とに分裂し
互いに争う。
天文年間(1532‐55)になると,清須織田家の三奉行の一人織田信秀が
しだいに力を強め,主家をしのいで隣国にまで勢力をのばすようになる。
その子信長は1568年(永禄11)足利義昭を奉じて入京,室町幕府を再興する。
 (久留島 典子)
645日本@名無史さん:03/03/18 22:25
>>640
まあ平氏系の津田氏か、近江佐々木氏系の津田氏の流れとも言われているよ。
しかし、信長の代になっても越前の織田剣神社を氏神として祭っていたとも
言われ、やはり織田荘出身なのは確実と思われる。
ここの織田氏の出自と言えば、伊部(忌部・斎部)という神人の氏族の流れ
とされ、尾張織田氏もこの流れとされる。
説の中には、越前織田氏の出自を大中臣とするものもあり、これを後に信長が
藤氏を名乗った理由とも言われている。
まあ神官と言っても、荘園の豪族と同じようなものだけどね。
646日本@名無史さん:03/03/19 02:51
ひらがな・カタカナって誰が作ったの?
647625:03/03/19 13:58
>>627
>>628
レスどうもありがとうございます。

ということは現存する書で古事記が最古だとしても、あとで改編された可能性はかなり高いのですね。。。
当時の天皇家を神格化するために。(だからといって天皇家を批判するわけではないです)
発掘許可が出ていない天皇陵には、さらに古い文献などがありそうですね。

漢字だけで書かれているとは言え、文そのものは日本語。
大陸から伝わった漢字を、日本語をあらわす文章として昇華したのは古事記より更に三世紀ぐらいは
さかのぼりそう・・・(根拠無しですが^^
648v:03/03/19 14:02
★男はココを見るべし★女と金と???★
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.pink-angel.jp/betu/linkvp2/linkvp.html
649日本@名無史さん:03/03/19 14:33
>>646
誰ってことはないようです。年月の積み重ねのようです。
発生の歴史は、百科辞典かサイトで調べてみてください。
「仮名」がいいかな。
650日本@名無史さん:03/03/19 15:03
吉良上野介は、きら こうずけのすけ れすよね?
651日本@名無史さん:03/03/19 15:04
>>646
649だが、こんなのがあったよ。

カタカナは平安時代初期の天平勝宝年間(西暦749-756年)に、吉備真吉備が
50音図と共に選定したと伝えられています。
しかしこれはあくまでも伝承で、実際には当時の多くの学者が協力して
選定したと思われます。
そして「片仮名」という呼び名は、漢字の一部を取って作ったため、
「片方だけの仮名(仮の文字あるいは借りた文字)」からきているとされています。
http://homepage1.nifty.com/snap/room04/c01/nihon/nihon04.html

ひらがなは、カタカナ選定の少し後に、弘法大師が万葉仮名の草書体から作り、
同時にその普及のために「いろは歌」も作ったとされています。
しかしこれも伝承にすぎず、実際には色々な人々の手によって作られたと
思われます。 奈良時代後期から平安時代初期にかけて、和歌などの非公式な
文章には、万葉仮名を草書体にした「草(そう)」という万葉仮名が用いられる
ことが多くなります。
そして草をさらに簡略にしたものを「女手(おんなで)」と呼び、主として
宮中の女官達によって作られ、女性の間で用いられていました。 これが後の
「ひらがな」です。
http://homepage1.nifty.com/snap/room04/c01/nihon/nihon05.html

>>650
その通り。赤穂事件の被害者じゃの。
653日本@名無史さん:03/03/20 10:29
あのう、元就と戦った小笠原長雄と信玄と戦った小笠原長時って、
同じ一族なのでしょうか。気になります。
村上武吉と村上義清は流石に違う気がしますが。
654日本@名無史さん:03/03/20 13:15
自信ないが、同じ一族ではない気がする。
655日本@名無史さん:03/03/20 16:43
>>653
同じ清和源氏義光流だよ
石見小笠原氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ogas_iwa.html
深志小笠原氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ogasa_k.html

656日本@名無史さん:03/03/20 16:47
657日本@名無史さん:03/03/20 17:30
>>655>>656
ありがとうございました。
しかし、小笠原氏でも村上氏でも、それぞれ遠い親戚のようですね。
658日本@名無史さん:03/03/21 01:20
アズマって何ですか?
659日本@名無史さん:03/03/21 01:22
>>658
東のことです
660日本@名無史さん:03/03/21 02:15
>>658
会津人と彦根人とアズマと朝鮮人
というスレがあるんだけどこのアズマ
というのが知りたいんですが
661:03/03/21 02:49
質問します。

皇室をカトリック化しようとして失敗した。美智子皇后と侍従まで送り込んだのに。
美智子皇后を利用までして日本のカトリック化を企むとは、いい根性していると思う。
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1048174330/3

これってほんとうですか?よく知られてることなの?ちょとーびくりー。
確か皇后陛下はカトリック系の学校出身であられたと(聖心?)おもいますが。
662日本@名無史さん:03/03/21 04:50
スレ立て規制食らってスレ立てられねえよ。
ここの管理人ふざけすぎ。死ね!
663日本@名無史さん:03/03/21 08:19
>>660
アズマ=関東人・東北人=東国人
日本史板では、西国薩長の明治維新を認めない、東国中心史観主義者。

>>661
>占領期の宗教史研究家、ウッダードは当時のことをこう語っている。
>「天皇がキリスト教を国家宗教にする意志のあることを、内密に表明した」

昭和天皇のGHQへのおべっかのようですが、近臣に止められてます。

>さらに昭和37年、皇太子の弟である義宮(常陸宮)が、毎日の就寝前に
>「父と子と聖霊よ〜」と祈り、問題になった。
>まさに入信一歩手前といったところ。しかし入信することはなく、
>皇室の神事にも熱心であった。
>義宮付きの村井教育侍従は無教会派だつた。そして神道には、キリスト
>教の−愛と寛容」が必要という持論を述べている。これはまさに、
>天皇一族の暗黙の気持ちを代弁しているともいえるだろう。
>これまで見てきたように、皇族は、キリスト教に急接近した。
>それは皇族が「天皇中心の神国」という神道から脱皮しようとしたから
>ではないか。それは「超容神道」とでも名づけられよう。
>つまり、世界に開かれた神道を目指したということだろう。
>この世界宗教化を志向した新しい神道は、今の皇室にも、目に見えない
>形で受け継がれている。そして、キリスト教の息吹は、今も皇室に
>脈々と生きつづけているのである。
http://www.asyura.com/sora/bd7/msg/601.html

>>662
内容を書けば、誰か立ててくれるかも?
664日本@名無史さん:03/03/22 21:46
age
665日本@名無史さん:03/03/22 21:51
遺跡の発掘って具体的にどうやってるの?
最初から最後まで人手でスコップや刷毛もってやってたら
おわんねーし、シャベルカーとかでどかどかやって
間違って壊しちゃったりしたら元も子もね―し。
666日本@名無史さん:03/03/22 22:00
シャベルカーも使います。
667:03/03/22 23:55
>>663
ありがとう。
今上天皇の家庭教師はたしかクウェーかー派でしたよね。
プロテスタントは組織力がないが、
カトリックなら皇室を手に入れることで一気に日本の植民地化+洗脳が可能になる。
秀吉や家康が警戒したのと同じ意味合いで考えると面白いなと思ったのです。
668日本@名無史さん:03/03/23 00:00
皇室はクリスチャンに憧れてるんじゃないかな?
欧州びいきだしね。
特に、今上天皇は、クリスチャン的に感じる時がある。
669日本@名無史さん:03/03/23 00:07
>665
 宅地造成とか、何かのキッカケで一部が露呈したところで
 始めることが多いみたいなので、それである程度は分か
 るはずですね。
 そうではないばあいには、最初に当たりをつけるのに、ボ
 ーリング(細い穴を掘って調べる)をしたりするはず。
670日本@名無史さん:03/03/23 00:10
 そういえば、シュリーマンがトロイの遺跡を発掘するのに、重層に
 なってどんどん出てくるので、闇雲に、より古い状態を知ろうとして
 どんどんハガしたけど、本人が一番知りたがっていた時代の層は、
 ハガしちゃった途中にあったので、失われてしまった、なんて話が
 ありましなね。お気の毒というか・・・・・
671日本@名無史さん:03/03/23 01:22
例えばA市から指定区域内の縄文遺跡の調査を依頼されたとします
研究団体としては費用や期限が2週間とか区切られますので
一気にその層まで重機を使って掘り下げます
しかし、狭い日本で人が住めるところというのは近代まで限られてるので
古代や中世の遺跡があることも多いです、
目的の層までの間に遺跡が発見されたらどうなるか?

A、泣く泣く満足な調査もできず破壊します
(史料価値が高くないと判断された場合)

これが現在の日本の文化投資の限界です
672日本@名無史さん:03/03/23 17:51
「最後の仇討ち」臼井六郎事件ですけど、臼井六郎が一瀬直久こそ仇だと知ったのはどのような経緯だったのでしょうか?
臼井亘理夫妻を襲った干城隊のメンバーの中で一瀬が実際に手を汚したとでもいうのでしょうか?

また、一瀬判事の遺族は(遺族給付金をもらえなかったり、など)不当な扱いをうけたりしたのでしょうか?
673日本@名無史さん:03/03/23 18:34
マサコも高校はデンフタでカトリックだね・・・
674日本@名無史さん:03/03/23 19:02
>>672
>「イヤ不思議な事もある。自分が水戸表にて判事をして居た時分に、
>同僚なる一瀬判事が左の手首に傷瘡あるを認め、其傷は如何したのか
>と問うて見た所が一瀬答ふ. ..」(判事仲間の会話)
と言ういきさつで、露見し、伝聞したようです。

675日本@名無史さん:03/03/23 19:21
>673
 私の後輩のことですか?
676日本@名無史さん:03/03/24 00:29
江戸時代って15歳で成人だったんですよね
ということは、その頃にはもう結婚していて子供作るためにセクースするわけで
女の子なんか初潮きてなかったりとかするんじゃないんですか?
677笹川良一(偽名):03/03/24 00:39
子供はそういうことは知らないでよいのです。
お父さんお母さんを大切にしよう!
一日一善!

なんてね。
678日本@名無史さん:03/03/24 02:05
畠山重忠と畠山政長・義就って同じ一族なの?
679日本@名無史さん:03/03/24 03:16
吉村貫一郎てだれ?
680日本@名無史さん:03/03/24 04:22
>>678
前者は平氏、後者は源氏です。
但し女系で繋がってます。
前者が滅んだあと後者が名跡を継いだって感じかな。
もっと詳しい人いたら
681日本@名無史さん:03/03/24 09:09
>>679
吉村貫一郎
(天保十一年〜慶応四年)
奥州南部出身。北辰一刀流剣術。
慶応元年四月、江戸で入隊。諸士取調役兼監察、撃剣師範、目付を歴任。
慶応三年六月、幕臣に取り立てられ、見廻組並の格を受けるが、
鳥羽・伏見の戦いに敗走後、大坂で脱走。
出身の南部藩邸に出頭し、帰藩を求めたが、
諫められ、切腹するというエピソードが残る。
享年二十九歳。
鳥羽・伏見の戦いで戦死した嘉村権太郎と同一人物の可能性がある。
一般に伝えられる吉村像は、
南部藩の下級武士で妻子五人を抱えて食うや食わずの生活を送っていたが、
たまりかねて文久二年に脱藩し、大坂にやって来たところ、
翌年春に新選組の募集があり、渡りに舟と入隊した中年隊士、とされている。
しかし、現実には年齢も入隊時期も異なっている。
また、南部藩邸での切腹に際して遺品を故郷の家族に届けるよう血文字でした
ためた、というエピソードも含めて、これまでの吉村像はフィクションに塗り
固められている。
682源頼朝:03/03/24 22:27
>畠山
>680 で言われているとおり
重忠未亡人の北条氏(政子の妹)が
足利家から入り婿をもらい以後畠山は足利の一族となったと言われています

はっきり断言しないのはこの時点で重忠夫人はかなりの高齢のためその娘との説もあります。
また婿の名前も諸説あり、足利家に嫁いでいるのも同じく政子の妹のため、
このあたりかなり血族関係が入り組み系図の注釈のみからでは
断定ができないのです。

個人的には重忠を滅ぼした黒幕は北条ではなく三浦だという説に賛同しています
この時点で北条が畠山を無理してまで滅ぼす意味はそれほどないと思うので
683日本@名無史さん:03/03/24 22:29
↑あう・・・名前消し忘れた
684682:03/03/24 22:56
自己訂正です、婿に入ったのは足利義兼の子 義純で確定っぽいです
足利義兼 の正妻は前述のとおり北条氏ですが
義純の生母ではないようです。

連続カキコすみません
685日本@名無史さん:03/03/25 18:14
age
686日本@名無史さん:03/03/25 19:27
北条政子は何で源頼朝と結婚したのに源政子にならんかったの?
687日本@名無史さん:03/03/25 20:46
age
688日本@名無史さん:03/03/25 21:37
>>686
日本が夫婦同姓になったのは明治以来
それまでは夫婦別姓でした
http://www.jinja.or.jp/jikyoku/bessei/bessei8.html
というより平安時代の妻訪い婚の風習の色濃く残るこの時代
政子を例に出すまでもなく夫婦間での女性の力は強いものがありました
689日本@名無史さん:03/03/25 21:39
吉田茂がバカヤローと言って解散になったというのは知っていたんですが
国会図書館の議事録で調べてみたら
そんなに騒動になるような事言ってるとは思えませんでした。
何故解散になったのですか?
690日本@名無史さん:03/03/25 22:47
>>689
与党自由党が、吉田派と鳩山派に別れていたのが大きかったようです。
しかも吉田派からも離反者がでたとか。
要するに与党内の政争の結果。
691日本@名無史さん:03/03/25 23:11
>>689
追加
占領体制から脱出した日本の保守政治は,55年に保守合同を成立させ,
自由民主党を誕生させたが,この段階で吉田の指導性は瓦解し,
自民党の領袖としては,公職追放を解除された鳩山一郎や岸信介
が選ばれるようになった。反動的再編成の開始である。
1953年3月,反吉田の気運が高まり,首相懲罰動議の可決,衆議院解散
(〈バカヤロー解散〉)という国政上,類例のない事態を招いた。
692日本@名無史さん:03/03/25 23:16
西村「何がばかやろうだ。ばかやろうとは何事だ。これを取り消さない限りは、
私はお聞きしない。(中略)取り消しなさい。(下略)」
吉田「私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」

西村氏は取り消し発言を了承して質問をつづけた。一時は一件落着に
見えたが、そうはならなかった。講談社刊『昭和2万日の記録』10、
p.50によると――
 「右派社会党は同夜、首相の懲罰動議を提出(中略)。この動議が
採決に付された時、かねて反吉田色を強めていた自由党(当時の政権党
――森田)の民同派(鳩山一郎派)と同志クラブ(農相広川弘禅派)
が欠席戦術をとったため、191対162で国会史上初めての首相懲罰動議が
可決された。3月13日、野党(改進党、左右両派社会党、日本共産党
は議席零)は内閣不信任案を提出した。自由党民同派は鳩山以下22名
が離党し、分党派自由党を結成したため、翌14日不信任案は229対218
で可決され、同日、首相は衆議院を解散した。これが世にいう
『バカヤロー解散』である」
 吉田内閣が退陣したのは、それから1年9ヵ月後の1954(昭和29)
年12月のことだった。代わって登場したのが鳩山一郎民主党内閣だった。
翌1955(昭和30)年11月15日、民主党と自由党が合同して自由民主党
が誕生した。保守合同である。
693日本@名無史さん:03/03/26 20:49
http://www.getda.com/evweb/ad/WIN002_q013/img/who.jpg

この銅像は誰か教えてください。
694元常連 ◆5bPHc0xjTw :03/03/26 20:56
>>692

へんな改行やめてくれ。
読みにくくて仕方ない。
695日本@名無史さん:03/03/26 23:14
>>693
場所とか時代は?
帽子が半島風のような感じも・・。
696四月から高三:03/03/27 00:28
史学科志望なのだがこの板の住人(歴史オタ…ry)ほど歴史に詳しくないのだが大丈夫だろうか?とりあえず信長の野望でもやるべきだろうかw現役の方いたら情報希望ヌ
697日本@名無史さん:03/03/27 00:31
>>696
今は詳しくなくても好きなら良いんじゃない?
どんなに詳しくても好きじゃないなら止めとくべきだろうけど。
で、好きなの?嫌いなの?どっち?
ハッキリしてよっ!
私待てないっ!
698日本@名無史さん:03/03/27 01:05
ふふ…短気な仔猫ちゃんだな…。まってな、いま俺の熱い○○を××に△△して…
699日本@名無史さん:03/03/27 13:11
いま、俺の熱い○○○を○○○させて・・・ではないのかと。

好きならやるべし。やってりゃ自然に詳しくなるべし。
俺もやりたい学部学科で大学選択してるよ。
就職は厳しいがなw。
700日本@名無史さん:03/03/28 00:08
あの、年毎に官位の偉い順に名前を書き連ねた名簿、
何て言いましたっけ?
確か四文字で・・・
701日本@名無史さん:03/03/28 00:21
>>700
「公卿補任」か?
702日本@名無史さん:03/03/28 01:08
そう、それー!さりげなく700ゲットでこんな質問して
すいませんでした。ごめんなさい。
703日本@名無史さん:03/03/29 22:26
ageru
704日本@名無史さん:03/03/31 12:56
源頼朝が挙兵した直後くらいに彼と戦った伊東氏について、その出自や頼朝に
破れた後どうなったのかはわかりますか。子供の頃、洩れの一族は彼らの末裔
だと聞いたのですがちゃんとした系図などを見た事がありません。
705日本@名無史さん:03/03/31 19:17
大日本帝国の公式文書は、漢文と言うのは本当ですか?
万世一系ノ天皇ガ というのが読み下し文と聞いたのですが
何故でしょうか?
706日本@名無史さん:03/03/31 19:25
707日本@名無史さん:03/03/31 19:27
>>704
http://www2.ocn.ne.jp/~itoh/itoh.html

検索したらこんなのが
708日本@名無史さん:03/03/31 21:36
伊東氏なら下記が詳しいです
工藤氏が伊豆伊東に土着し鎌倉直前(伊東)祐親と(工藤)祐経とが
総領地をめぐって争い、結果祐親が勝ち、祐経は平氏を頼って京都にいました。
ところが祐親流が頼朝に滅ぼされると、何時の間にか祐経は頼朝の側近に収まります
伊東の地も祐経に大部分流れたと思われます。
そして曽我兄弟の敵討ち、伊東の地はそのまま祐経の子供に受け継がれます。
簡略化するとこんな感じ、曽我物語読むと分かりやすいかも。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/itou_k.html
http://hitosugi.hp.infoseek.co.jp/jinsugi.html

709704:03/04/02 00:36
>>706-708
ありがとうございます。父の話が本当なら祐親で間違いないでしょう。ただ、うちの家紋は紹介された
どのWebサイトに載っていたのとも違って四角い渦巻きのような紋だったと思います。なお、洩れの
曽祖父は幕末に山陰地方のどこかの藩の江戸屋敷に勤めていたそうです。
710日本@名無史さん:03/04/02 11:44
>>705
>大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
これが原文だよ。漢字は旧字体だけど。
カタカナ使いとの勘違い?
711日本@名無史さん:03/04/02 18:45
すいません。最近の日本史板(世界史板とマスコミ板もだけど)でレスが何百もついている
大きなスレ(「歴史群像シリーズ」とか「THE佐竹一族!」など)で「全部」を押しても
レスが一部しか表示されないのですが、どうすれば全部表示できるのでしょうか?
スレを保存するときに困っているのでどなたかお教え願います。
712日本@名無史さん:03/04/02 18:47
>>711
2chブラウザ使いなさい
http://www.monazilla.org/
713日本@名無史さん:03/04/02 20:52
名前について質問です

1)親子で実名が同じ−親・信長、子・信長
2)兄弟で実名が同じ−兄・政宗、弟・政宗
3)兄弟に異字同訓がいる−正信、昌信、正延、将信、昌延・・・
4)兄弟で通称が同じ−太郎や三郎兵衛が兄弟に複数人いる
5)親兄弟で字の訓みが違う−親・成氏(シゲウジ)、子・成政(ナリマサ)

これらのケースは系図所伝の訛伝なんでしょうか
それとも実際にこういった事も在りえたんでしょうか
714日本@名無史さん:03/04/03 22:09
あげ
715日本@名無史さん:03/04/04 08:40
>>710
ちょっと答えになってないような気がするのですが
旧字体は中国で普通に使ってう漢字で、それにカタカナをはずせば、漢文になると親(日本史教師)に聞いたのですが
公式文書は漢文で、読み下し文にしたから、こういうのになった。と聞いた事があります。
なぜ、漢字とカタカナなのでしょうか?
716日本@名無史さん:03/04/04 12:21
>>715
旧字体というのは、当時の日本が使ってた漢字で、中国の漢字というわけでは
ありません。

明治憲法の原文はカタカナ交じりの漢字文です。
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1889C.html
http://duplex.tripod.co.jp/kenpo.htm

カタカナを使った理由は、神聖な男文字だからという(「ひらがな=女文字」)理由。
憲法のカタカナ文に濁点がついてないのは、神としての天皇の言葉(文字)
だからと言う理由です。

聖徳太子(存在したとしてw)の十七条の憲法は漢文です。
>一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。
>然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。


717日本@名無史さん:03/04/04 22:42
あげ
718日本@名無史さん:03/04/06 14:12
役所に受理される名前とされない名前
悪魔は× じゃあ
1.悪がつく名前→悪源太・悪七郎兵衛etc
2.不敬?な名前→睦仁・裕仁ets
3.鬼がつく名前→鬼太郎・鬼平・鬼六etc
4.官途風な名前1→内蔵助・蔵人・主税
5.官途風な名前2→左衛門・勘解由・玄蕃
6.有名人の名前→入鹿・蝦夷・家康・誠三秀吉
1とか2はアウト?
719日本@名無史さん:03/04/06 15:36
>>718
2はアウトにはできないでしょう。アウトになったら、マスコミが大騒ぎでしょう。
1と3は、物によってはアウトになるんですかねぇ。
個人的には、親に権利があると思います。天使ちゃんとかいるしねw。
720日本@名無史さん:03/04/06 15:41
基本的には親より子供の将来優先だろ。
アホな親に変てこな名前をつけられる子供の身になってみろ。
昔みたいに改名できれば問題ないが、いまは裁判所の許可がいるんだぞ。

親の権利なんて軽々しく言うなよ。
721日本@名無史さん:03/04/06 15:44
名前は一生ついてまわる。親の趣味や一時の流行で命名されては迷惑。
722日本@名無史さん:03/04/06 15:45
でも役所にとやかく名前の良し悪しの鑑定をする権限があるのか
といったらそれはまた別問題だと思うなあ。
723日本@名無史さん:03/04/06 16:11
>>721
何を以って流行の名前とするか
オレは一文字だけど二字の名前に憧れる
けどイマドキの拓哉とか海Xとかそーゆのは勘弁
724日本@名無史さん:03/04/06 16:15
生命保険の会社が発表する「今年の名前ベストテン」みたいな名前はイヤ。
なんかアニメの登場人物みたいな名前ばっかりだから。
725日本@名無史さん:03/04/06 18:30
日本史で大学受験をするものなんですが、山川の教科書がつまらないので
何かいい教科書みたいな新書はないですかね?
12冊ぐらいまでなら読みます。よろしくお願いします
726日本@名無史さん:03/04/06 18:45
日本史Bの場合、検定教科書はどこも似たり寄ったりです。
一応、山川が一番詳しいみたいだから、そのまま勉強してください。
727日本@名無史さん:03/04/06 18:47
あ、新書についてでしたね(汗
通史といえるものは、岩波から出てる「日本社会の歴史」くらいですかね。
728日本@名無史さん:03/04/06 19:54
>>727
日本社会の歴史はちょっと微妙じゃないだろうか。
飽くまで網野氏の仮説を述べているのであって、
教科書に沿っての本ではないから受験勉強には向いてないと思う。
729日本@名無史さん:03/04/06 21:34
岩波ジュニア新書の日本の歴史シリーズで良いじゃないか
まあ、アレも偏ってるけど
730日本@名無史さん:03/04/06 21:35
かなり古いけど、井上清の「日本の歴史」(岩波新書)がある。
あと、中公文庫で「日本の歴史」シリーズ。

比較的最近のものなら、石ノ森の萬画「日本の歴史」シリーズがあるね。
731日本@名無史さん:03/04/06 23:24
小学館の体系日本の歴史はどうでしょうか?
講談社の買おうと思ったんですけど、ちょいと値が張るもので・・・・・
昔から日本史は大好き(小2で漫画日本の歴史読破)で、
常に成績は良かったんですけどしばらく、通史からは離れていたんで・・・・・。
732日本@名無史さん:03/04/06 23:40
>>731
趣味と割り切って読むならいろいろ読んで良いと思うよ。
でも、受験てあくまで受験勉強が必要だから、
実績のある参考書で受験勉強をした方が良いと思う。
テクニックなんだよな。悲しいけど。
好きな本は大学で好きなだけ読めるぞ!
733日本@名無史さん:03/04/06 23:43
そうですよね。私はメインを政経で行くつもりなので
日本史はセンターしか使わないかもしれません。
だけど、通史を勉強するいい機会だと思ったので
偏ってない感じの本を読んでみたいと思いまして、教科書だとつまらないので
734日本@名無史さん:03/04/07 18:06
>>713
結論をいえば、「何ともいえない」が正しいでしょう。
間違いの可能性はあるが、正しい可能性もある。
具体的な例をあげて見ると

>1)親子で実名が同じ−親・信長、子・信長
例えば、長岡藩牧野氏は「忠成」が二代続いています。

>2)兄弟で実名が同じ−兄・政宗、弟・政宗
これは知りません。

>3)兄弟に異字同訓がいる−正信、昌信、正延、将信、昌延・・・
同じ読みとは限りません。「正:まさ、ただ、なお等」「昌:まさ、よし等」
同じ漢字でも読み方はいくつもあります。

>4)兄弟で通称が同じ−太郎や三郎兵衛が兄弟に複数人いる
具体的な例はすぐにはわかりませんが、弟が後を継いだりすると、名前も継ぐことがあります。

>5)親兄弟で字の訓みが違う−親・成氏(シゲウジ)、子・成政(ナリマサ)
例えば、譜代大名の青山氏(初代幸成)の家は「幸」で「ゆき」「よし」両方あります。
735日本@名無史さん:03/04/07 18:56
>>731
小学館の大系日本の歴史は文庫で出てたね
結構読み易かった記憶はあるんだが
736日本@名無史さん:03/04/07 23:25
あの〜、厨房なんすけど、寺社と社寺の違いとはなんですか?
737日本@名無史さん:03/04/08 00:08
>>736
寺は寺でしょ。
社は神社でしょ。
寺社、社寺は国語辞典的意味においては同じだよ。
日本史的な意味においては分からんけど、同じだと思う。
738736:03/04/08 09:59
>>737
有難う御座いました。後で聞いたら寺社は史料と同時代語、
社寺は廃仏毀釈派のDQN語なのだそうです。
739日本@名無史さん:03/04/08 13:36
両方とも、正式な名称としてありますよ。

しゃじ【社寺】
「神社と寺」の意の漢語的表現。

じしゃ【寺社】
寺と神社。

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
740日本@名無史さん:03/04/08 13:41
大学にいって日本史の勉強をしたいのですが、
どこの大学がいいですか。
またそこの大学にいくのは何の勉強をしたらいいですか。(中学生)
741日本@名無史さん:03/04/08 14:07
どこの大学でもたいてい日本史(国史)学科はあるよ。
ただ、「日本の勉強をしたい」といっても漠然としすぎているな。
何かとくに研究したいテーマとかはあるの?
742日本@名無史さん:03/04/08 14:13
大阪の陣と楠木正成と真田一族について興味があります。
743あぼーん:03/04/08 14:14
   ,.´ / Vヽヽ
    ! i iノノリ)) 〉
    i l l.´ヮ`ノリ <先生!こんなのがありました!
    l く/_只ヽ    
  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
http://saitama.gasuki.com/koufuku/
744なんてね…:03/04/08 14:53

日本の歴史は、古代から現代に至るまで、ほぼ間違い無く武断政治の歴史であった。
国民性も、武芸を尊び、学問だけの秀才を青白きインテリと称して軽蔑する風潮は
現代でも脈々と受け継がれている。

唯一例外が、平安時代と、鎌倉時代に至って骨抜きにされたまま、いままで生き残ってきた
京都の朝廷であるが、ボクは、このことは、誰も言ってないが日本史の奇跡であると思う。

何故平安人とその末裔たる天皇貴族が文弱に流れたか、諸賢の考察を願いたい。
745日本@名無史さん:03/04/08 15:07
>>744
口ではバカにしていても、内心インテリにあこがれてんのが日本人てヤシらさ。
746日本@名無史さん:03/04/08 15:16
>>742
レスが遅れてスマソ

まずは本を読むことが大切。
関心のあるテーマについての研究書を分かりやすいものから読んでいくこと。
同時に、大手の出版社が出してる概説書でおおまかに通史を把握しておくことが必要かと。
まあ、興味のある時代だけ読んでもいいんだけど、いちおう流れをつかんどいた方がいいからね。
まだ中学生だから視野を拡げる意味でいろんなもの(歴史関係以外も)を読むべし。
研究書についてどんな本を読んだらいいのかは学校の先生に聞いてもいいし、
大きな図書館や歴史資料館に問い合わせるもよし。
本を読む以外にも、史跡や博物館などへ足を運んでみるのもいいね。

あと、ふだんの勉強も自分のやりたいことと関係ないと思っても
人並みにはやったほうがいい。専門バカになってもしょうがないし、
なにより高校、大学へと行くためには必要なので。
747日本@名無史さん:03/04/08 17:00
>742さん
ありがとうございます。
748日本@名無史さん:03/04/08 17:02
>746さンの間違いでした。すいません。(742)
749ネオ麦茶R:03/04/08 19:21
明治新政府に生り全臣民が苗字を持つ事に為りましたが、此の時に何か制限は有ったんですか?
例えば、有名な苗字は名乗ってはいけない(源平藤橘其の他)等。
宜しく御願い致します。
750日本@名無史さん:03/04/08 20:30
>>744
あなたの考える「武断政治」ってなに?
律令体制や室町幕府、江戸幕府は「武断政治」って言い切れるんかな?
751日本@名無史さん:03/04/08 20:49
>>740
746さんの意見に同意です
まず第一に多くの本を読むことです。
自分の興味のある所から、少しずつ深く、また広く他分野にも。
今の興味は>>742だけでも、もっと強く興味を持つものが出てくるかも知れないし。
僕は元々戦国史に興味があったけど、大学入ってから古代史に目覚めたので。
時間はあるから、今は自分の知識を広げることに頑張ってください。

また個人的ですが、大学を選ぶ基準は3種類
・学びたい学科・専門のある大学
・感銘を受けた・直接教わりたい教授のいる大学
・東京や京都の大学(近くに史料が豊富)
参考にしてみてください
752日本@名無史さん:03/04/08 21:03
>>740
あと、常に独善的な考えを持たないように注意することだ。
それができないヤシが、伊達遠江守家中(チョソ)や嶽原のように、思い込み厨
と呼ばれる。
前者に至っては、思い込みなカキコのみならず人格まで遡って否定されてい
るから目もあてられん。
君が思い込み厨と呼ばれないような、立派な見識を持った学徒になれること
を願っているよ。
753日本@名無史さん:03/04/08 21:04
>>744
武断政治のほうが少なかったのでは?
江戸は5代綱吉から文治政治と言われてるしね。
逆説的には、天皇公家は武力実力者に頼って生きてきた。
754日本@名無史さん:03/04/08 21:08
鷹司は藤原氏じゃねえか。
日本の氏神の考えは血縁じゃない。
氏神の祭祀をやる資格があるかどうかなの。
藤原氏に養子に行った時点でアウト。
天皇家の万世一系は氏神の祭祀が続いている上に、
それが父系血脈でも相承されているのがポイント。
女帝が立った場合、
配偶者は旧宮家から選ぶしかない。
755日本@名無史さん:03/04/08 21:22
>>749
なんか役所の方で決めた苗字が多かったとも聞きましたが。
「おまえんちは、山の方だから山田だ」とか。
756日本@名無史さん:03/04/08 21:48
>>749
そこで、平民にも苗字を付けさせて、徴兵を手際よくやろうと考えたわけです。
この苗字をつけるという法律に対して、国民の反応はあまりよいものではあり
ませんでした。皆、徴兵のことが頭にひっかかったようです。

それでも政府は強引にこの法律を進め、ぐずぐずといつまでも苗字を付けない
家は、勝手に付けた苗字を標札にして打ち付けていくようなこともやったそうです。

当時、苗字は親族会議などを開いて付けたようですが、菩提寺の和尚さんに付
けてもらった人も多く和尚さんの方でも頭を悩ませ、山の中に住んでいるから
「山中」といったような、ずいぶんといい加減な苗字を付け方もあったようです。
757日本@名無史さん:03/04/08 23:21
>740です。いろいろ教えてくれてありがとうございます。
ところで、伊達遠江守家中とはなんでしょうか。教えてください。
あと、英語や地理が苦手ではいけないでしょうか。また、歴史は、かなり
くわしい知識を持っていないと大学の授業についていけませんか。
758日本@名無史さん:03/04/08 23:48
>>757
とりあえず受験のためには全教科できるようになっとかないと
日本史やるなら英語は別にいいだろうけど、地理は最低日本地理の地名や位置関係は把握してる方がいいわな
大学の講義はとりあえず概論→史料購読→演習という風にステップアップしていくから、
今のうちから深く詳しい知識を持ってなくても大丈夫だと思う。やる気さえあれば
「伊達遠江守家中」は多分日本史板でみかけるコテハンかと。気にしなさんな
759日本@名無史さん:03/04/09 01:45
>>749
それは俗説の類です。
日本では江戸時代に苗字がなかったというような話は、
この日本史板でもよく出てきますが、根拠はありません。
ただ公式に名乗ることが許されなかったのであり、
明治に名って公式に苗字を名乗れるようになったというだけです。
760日本@名無史さん:03/04/09 11:55
>>749
元地侍などの豪農や富農など有力者は苗字を持ってたようです。
小農は、苗字の変わりに同じ名で家を相続し、家の連続性を保ってたようです。

苗字,帯刀が武士身分の基本的属性をなしていた。もっとも,中世には上層農民
の中にみずから武装し苗字を名のる者があったが,近世に入って兵農分離,刀狩等
の一連の国家の政策によって,苗字帯刀が原則として武士身分に固有の特権で
あることが制度的に確定される。
しかし,例外があり,幕府,藩は特別の場合に士身分以外の者に苗字帯刀を許し,
士身分に準ずる権威を与えていた。身分的には農民であったが中世には地侍で
近世に入っても在村の名望家として統治の一部をゆだねられていた者,その他
さまざまの国の行政に協力して功績の大であった者などがそれである。
このような苗字帯刀の特許の政策は,近世権力が在地に浸透してゆくための一つ
の有力な手段をなしていた。
なお近世中期に〈小農〉のレベルでも〈家〉が確立するにつれて,小農も家業
としての農耕,家産としての土地とともに家名を欲するようになり,苗字の禁
の中で,通名相続(当主が代々同じ名を名のること)がその役割を果たした。
維新後はすべての家が苗字を有することができるようになり,帯刀は武士身分
の廃止,武力の国家への集中策によって,一般的に禁じられるにいたった。
761日本@名無史さん:03/04/09 13:41
日本史とは直接関係ないのですが、
歴史を研究する人なら必ず属するような
情報交換のための組織はないんですか? 教えてください。
762あぼーん:あぼーん
あぼーん
763あぼーん:03/04/09 13:50
あぼーん
764日本@名無史さん:03/04/09 17:05
必ず属す物はないようです。各自が選んで参加・加盟してるようです。
765日本@名無史さん:03/04/09 19:06
質問です。1世紀ごろ大陸から日本にもたらされた淡水魚が
いるそうなんですが、そのころの人間の行き来はどんな感じだったんでしょうか?
行き来はあったのか? その目的や規模、頻度、船の形態
などなんでもいいので教えてください。
766日本@名無史さん:03/04/09 20:24
>>758
>「伊達遠江守家中」は多分日本史板でみかけるコテハンかと。気にしなさんな

「みかける」と「コテハン」の間に「史上最低の思い込み厨な」が抜けているぞ。
まあ「人間のクズ」でも当たっているとは思うが。
767日本@名無史さん:03/04/09 20:26
>>765
1世紀ですか?弥生時代ですね。
もう縄文時代から、半島や大陸と海の民の交流は活発にありました。
弥生人は大陸からの移民と言う説も有力です。

交流の目的は、移民・難民・交易などでしょう。特に交易は縄文期から
盛んで、半島と列島にまたがる生活圏が「倭」と呼ばれていたようです。
弥生時代には、倭の幾つかの国から中国へ使者が出てますね。卑弥呼も
出したようです。

船の形態
日本の船はよく知られているように丸木舟で始まった。出土品は縄文時代
前期までさかのぼることができるから相当古い歴史をもっている。
紀元前後の弥生時代には丸木舟を縦に二つ接いで大型にするくふうが見ら
れるようになり,鉄器の使用で工作の程度がよくなる。

淡水魚は何という魚ですか?
768日本@名無史さん:03/04/09 20:48
>766
遅くなりましたが、ありがとうございます。
また、ここはじめてみたんですが、また教えてください。
769日本@名無史さん:03/04/09 20:55
>758さん
いろいろありがとうございます。
きのうは遅かったものでもう寝てしまい遅くなりすいません。
768だぶったみたいになりすみません。
きょうはその時歴史が動いたがあるのでみます。
明日はテストなのですが。
770765:03/04/10 02:39
>>767
情報サンクス。時代背景はモレがイメージしていたのと
だいたい同じですが、船はまだそんなのものなんですね。
構造船はまだまさ先かぁ。
丸木舟は縦なんですか?         例1
横棒を介して横に並べるんじゃなくて?
                   ========
                    |   |
                   ========
                  
                   例2
                  ====
                  |  |
              ============
両方とも上から見た図。
動力は純人力ですよね?
風を補助動力に利用するところまではいっていない
ですよね。
ある魚とはコイです。
日本原産のコイもいたが、この1世紀〜遣隋使までに大陸から
きたコイによって入れ替わったそうです。で今そこらへんに
いるコイは中国原産のコイだそうな
771日本@名無史さん:03/04/10 10:23
>764
そうなんですか。教えてくださってありがとうございます。
772あぼーん:03/04/10 10:53
あぼーん
773あぼーん:あぼーん
あぼーん
774あぼーん:あぼーん
あぼーん
775あぼーん:あぼーん
あぼーん
776日本@名無史さん:03/04/10 12:06
>>770 :765
横つなぎは縄文期で、弥生期になると縦つなぎで大型化ということではないのかな。
動力は、人力ですね。
鯉ですか。へぇー、なるほど。

>構造船
4〜6世紀の古墳時代には朝鮮半島との往来が盛んになり,船も玄側に板を
接ぎ足した準構造船――丸木船からふつうの木構造船への移行過程――に
なってより大型になる。

古墳時代でも準構造船のようですな。
777日本@名無史さん:03/04/11 00:35
へぇー。
778日本@名無史さん:03/04/11 00:49
戦前の枢密院と貴族院と衆議院のちがいって何ですか?
779日本@名無史さん:03/04/11 12:56
枢密院
枢密院は当初まず欽定憲法である帝国憲法草案の審議にあたった。
続いて議会開設後に予想される藩閥内閣と民党との間の憲法争議にあたって
大権中心の〈憲法の番人〉となることが期待され,初期議会での予算審議権等
に関する紛議でその役割を果たした。1898年に大隈重信,板垣退助の憲政党内閣
ができたあと第2次山県有朋内閣は文官任用令等を改正して政党の官界進出を封
じたが,1900年には天皇の御沙汰書によって枢密院への諮詢事項を拡大し,
内閣各省,台湾総督府の官制,官吏制度と教育制度の基礎に関する勅令を加えた。
異例のやり方で政党が内閣をとっても,これらの制度をすぐには改正できないよう
にしたのである。
780日本@名無史さん:03/04/11 12:58
貴族院
1890‐1947年大日本帝国憲法下で衆議院とともに立法府を構成した機関。
国民代表的性格をほとんどもたない点で,一般の〈上院〉や戦後の参議院
とは根本的に異なる機関である。その構成は,成年に達した皇族男子と
30歳以上の公・侯爵の全員,30歳以上の伯・子・男爵の各5分の1(互選),
〈国家ニ勲労アリ又ハ学識アル者〉から天皇が任命する勅選議員(30歳以上),
および各府県の多額納税者の上位15人から1人を互選する多額納税議員から
なり,公・侯・伯・子・男の有爵議員が議員の半数以上を占める定めとなって
いた。このうち,皇族と公・侯爵議員は世襲,伯・子・男爵と多額納税議員
は7年ごとの互選,勅選議員は終身であった。第1議会に臨んだ各種議員の
数は,皇族10,公爵10,侯爵21,伯爵14(定員15),子爵70,男爵20,勅選61,
多額45,合計251であった。
781日本@名無史さん:03/04/11 12:59
衆議院
国民が選挙。はじめは税金で制限選挙。1925年から男子のみ普通選挙。
782日本@名無史さん:03/04/11 13:18
枢密院(続き)
枢密院は天皇の諮詢によって活動を開始し,原則としてまず議案の審査
報告をつくり,これを配付したのち天皇親臨の本会議が開かれ,各大臣
も職権上顧問官としてこれに参列し表決にも加わった。そのため顧問官
の数は重要で,当初の12名が1890年に25名に増加された。
院議は天皇に上奏され,天皇の意志で採否が決せられた。議案の審査に
は書記官長または精査委員会があたったので,書記官長の役割は重要で
あった。初代書記官長は井上毅で,伊東巳代治,平田東助らが続いた。
枢密院への諮詢事項のおもなものは帝国憲法と予算に関する疑義,
外国との条約・約束,戒厳宣告,緊急勅令・緊急財政処分等で,
議会の審議外にする大権事項のうち重要な国務をとくに枢密院に諮詢
してその意見を求める仕組みであった。のち政党が進出すると,
諮詢事項が拡大され,内閣とくに政党内閣の民主的政策や国際協調
外交を牽制することに活動の重点がおかれるようになる。
783日本@名無史さん:03/04/11 21:07
>>734
丁寧なレス感謝します
713の疑問を抱くに至った理由を
1)−小山田信茂の父と兄が同じ名前(信有)
  信茂の兄信有は甲斐郡内ではなく、北条領内の武蔵小山
  田を領したとされてます
  その牧野氏の例は家督も継いでるとおもいますが
  小山田氏の場合、父の名を継ぎながら本領は継いでない
  というのは些か疑問が
2)−1)があるならこれもという疑問
3)−平良望・良持・良茂兄弟
4)−ウチの先祖とされる人物、同じ通称で実名が○×と○△
  本などでは同一人物の別名とされてます
5)−3)に掛かる疑問
  将門記には平高望・良望などが高茂・良茂と書かれてい
  るらしいので、良望の弟良茂の訓みについて

追加質問
6)−2代続けて当主の弟に同じ名前の人物がいる
  由良氏(当時はまだ横瀬氏)−8代目成繁と9代目国繁に
  繁勝という弟がいる(7代目泰繁には勝繁という弟も)
7)−兄弟の実名がテレコ
  横瀬氏4代目国繁と繁国、下総と九州の千葉氏分割期の
  当主兄弟・胤貞(1288-1336)と貞胤(1291-1351)
実際に(系図など)ある以上、あったとしか言えないけど
こういった名付け方をするものだったんでしょうか
いくら普段実名を使用しないといっても不便な気がします
784日本@名無史さん:03/04/11 21:25
遠い存在といえば
貴族院>>>>枢密院>>>衆議院
785日本@名無史さん:03/04/12 15:13
hageじゃなくてage
786質問です。:03/04/12 20:19
昭和の時代に皇太子と呼ばれていた今の天皇陛下は明仁(あきひと)という名前で、
昭和天皇は裕仁(ひろひと)という名前でしたよね?
今の皇太子は昭和の時代はヒロノミヤさまという名前で呼ばれていましたが、
次の元号で天皇陛下になった時にはなんという名前になるのかは、もう決まって
いるのでしょうか?
あと、昭和の時代、今の平成天皇は生まれたときから「皇太子」だったのでしょうか?
「ヒロノミヤ」に匹敵する名前は付けられていないのでしょうか?
…ということを一通り教えて下さい。

????→????→裕仁
????→皇 太 子→明仁
ヒロノミヤ→皇 太 子→????
787日本@名無史さん:03/04/12 20:25
ミチノミヤ→皇太子→摂政→裕仁
ツグノミヤ→皇太子→明仁
ヒロノミヤ→皇太子→徳仁
788日本@名無史さん:03/04/12 20:38
>>786
浩宮→徳仁(現、皇太子)
継宮→明仁(現、天皇)
迪宮→裕仁(昭和天皇)
では、ないのかなと思うのだが。
789日本@名無史さん:03/04/12 20:46
徳仁=後主、末代皇帝
790日本@名無史さん:03/04/13 11:52
age
791日本@名無史さん:03/04/13 13:00
徳も仁もないのに徳仁とは、これいかに?
792日本@名無史さん:03/04/13 13:57
不徳不仁のナルヒトラー
793日本@名無史さん:03/04/13 14:12
犬養毅は、輸血されて死んだって本当ですか?
794日本@名無史さん:03/04/13 14:14
 あー、板違い覚悟で質問です。

 江戸、室町、鎌倉、平安、といった昔で、
 調剤や医療を取りしきった部署名と、所属する役人の役職名、職業名をお願いします。

 平安時代なら陰陽師? それで陰陽寮?
 多少時代の前後はあっても構いませんので。何種類か教えてください。

 専門の部署が無い場合、関係してそうなのでも構いませんので〜
795日本@名無史さん:03/04/13 14:32
>>794
律令期→,医療制度も唐を模倣した〈医疾令〉にのっとって,中央に典薬寮
や内薬司,地方に国学が設けられ,国家による医者の養成が行われるように
なった→貴族には官医、民間は僧医

南北朝期以降、特に戦国期
→金創医。武士を兼ねた金創医は創傷治療を主としていたが,助産や婦人病,
さらに小児病などをも治療の範囲としていたから,必然的にこの分野の専門医
を生み,実質的な医療の分化をうながした。戦国大名がお抱え。後半に、南蛮
渡来が入ってくる。

江戸時代
→江戸幕府の奥医師制度、漢方医、蘭方医

ちょっと答えがずれてしまったが、後は辞典やネットで検索してくれ。



796日本@名無史さん:03/04/13 14:38
犬養 毅(1855〜1932)
岡山県の人。慶応義塾に学ぶ。第一議会以来、連続して代議士。国民党
・革新倶楽部の党首を経て、1929年政友会総裁、31年首相。昭和7年5月
15日午後5時半、首相官邸で7名の1団に射撃され、輸血の効もなく、11時
すぎに死亡。葬儀は5月19日、首相官邸のホールで行われた。たまたま日本
に来ていた喜劇王チャップリンも、首相の葬儀にあたって次の弔電をよせた。
「憂国の大宰相犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す、チャールス・チャップリン」。
遺骨は青山墓地に納められている。(77歳)

輸血の効果もなくってのはあったが、輸血のせいで死んだってのはなかった。 

797794:03/04/13 16:25
>>795
 ありがとうございます。助かりました。(礼)
798日本@名無史さん:03/04/14 12:37
どういたしまして。
799日本@名無史さん:03/04/14 12:46
古事記と日本書紀どちらが正しい?
800日本@名無史さん:03/04/14 13:03
どちらも創作が入ってます。古代大王への評価がいろいろで、どちらとかとは
言えないのではないのかなと。
801日本@名無史さん:03/04/14 15:49
>>786
質問しているあなたは小学生のようですが、
現在の天皇は「平成天皇」ではありません。
性格には「平成天皇」という人は未だいません。
802日本@名無史さん:03/04/14 16:44
>>783
細かい質問なので、いちいち答えられる資料が手許にありませんが、
まず系図の類はまず信用してはいけません。
他の一次史料で確認できるものや、その他の史料で確認する必要があります。

それから平国香の兄弟については、
良将、良持、良茂、良望、良正、良文といわれていますが。
実は誰が正しく、実在の人物かはわかっていないようです。
特に読み方で「よしまさ」という人物が二人、「よしもち」が三人考えられますし、
「将」と「持」は誤字と考えられます。
803日本@名無史さん:03/04/14 18:08
>>799
どちらも基本的に作られた当時の王朝の正統性を表そうとしたものなので、完全に正しいとは言えません
ただ古事記は物語性を重視しているのに比べ、日本書紀は正史としての記録として書かれているので
書紀の方が歴史的記述として正確な面が多いと思います
804日本@名無史さん:03/04/14 22:38
ちょっとした疑問ですが
軍人や貴族など政党政治家以外が首相になった場合
政党が全部反対すれば首相としてやっていけないのではないのでしょうか?

たとえば第一次伊藤内閣や黒田内閣にとって
政党とはどういう存在だったのでしょうか?

戦前って第一政党の党首が首相ではないですよね
その場合、第一政党が数で全部否定したらやっていけないのではないのですか?


805日本@名無史さん:03/04/14 23:04
地誌の編纂ていくらぐらい掛かって、どのぐらい売れんのか
各地の図書館には譲渡なのか販売なのか
1冊3千〜1万円で販売したとして元はとれてんの?
以前あった武功夜話スレには地誌編纂に従事してる人もいたけどどうですか?
806日本@名無史さん:03/04/14 23:08
>>788
何考えて「継」宮なんてつけたんだろう
「継」って字の意味ってあんまり良くないんでしょ?
807日本@名無史さん:03/04/14 23:41
『ドラえもん』でスネオ役で出演している肝付兼太さんって
大隅の戦国大名・肝付氏のご子孫なんでしょうか?

ちなみにご本名は「肝付兼正」だそうですが。。。
808日本@名無史さん:03/04/15 00:18
>>807
オレも昔思ったw
関係ありそうだが
809日本@名無史さん:03/04/15 09:02
>>804
超然主義
大日本帝国憲法下で,藩閥官僚政府が政党の影響をうけずに政治を運用しよう
とした政治姿勢をいう。1889年2月12日,ときの黒田清隆首相が地方長官を鹿鳴
館に集めて演説したなかで,〈政府は常に一定の方向を取り,超然として政党の
外に立ち,至公至正の道に居らざる可らず〉とのべたことから“超然主義”が一
つの政治姿勢をあらわす言葉として使われるようになった。
大日本帝国憲法は政党内閣を制度として認めておらず,藩閥官僚,とりわけ山県
有朋系の官僚内閣に政党をいみきらう傾向が強かったが,政党の政治的力はしだ
いに強まり,日清戦争後になると超然主義を持続することは困難になった。   

内閣は議会を無視してたんだよね。だけど、憲法だと予算が議会を通らないとまずい。
だから議会対策はしてたけどね。
810日本@名無史さん:03/04/15 16:46
昭和天皇が、アメリカのバラエティー番組に出演したって本当ですか?
詳しく知りたいんですが・・
811日本@名無史さん:03/04/15 19:00
>>くぐったが見当たらなかった。バラエティに生出演はないんじゃないかなぁ。
インタビューや外国訪問や儀式の様子がバラエティで取り上げられたのは、
ありかもしれないが。
頼りないが・・・。
812日本@名無史さん:03/04/15 19:09
馬鹿な質問でゴメンナサイ。
新撰組など幕末期って時代区分としては近代ですか?それとも近世?
どこでわければよいんでしょう?
813日本@名無史さん:03/04/15 19:28
>>812
大政奉還でしょ
814日本@名無史さん:03/04/15 19:34
日本史の教科書では、ペリー来航からが近代になっている。
815日本@名無史さん:03/04/15 20:01
ついでに古代・中世・近世の分かれ目も教えてください
816日本@名無史さん:03/04/15 20:02
>>812
幕末って幕藩体制の末期なわけだから、まだ近世なんじゃない?
817日本@名無史さん:03/04/15 20:31
>>815
一応、高校の教科書では、こうなっている。

古代 ヤマト政権〜平氏政権
中世 頼朝挙兵〜戦国時代
近世 織豊政権〜天保改革
近代 開国以降
818日本@名無史さん:03/04/15 21:26
>>809
昭和の226以降って、政党とは遠い軍人首相の下で
選挙する意味ってあったのですか?

あと元老の首相を決める基準ってあったのですか?
斉藤とか米内の時とかなんで彼らがなったのかわからん
819日本@名無史さん:03/04/15 21:33
近代開始は、
1、天保の乱
2、ペリー来航
3、明治維新(大政奉還)
の3論あるね。

年表だと斜め線になってる。
鎌倉時代が1185年(守護地頭設置)か1192年(征夷大将軍・幕府開幕)か
みたいに、学者の説も分かれるね。
最近は天保からが近代が増えてるかなぁ。
820807:03/04/15 23:25
きになるのでもいっかいあげてみまひょ。誰かいないか〜(w)
821日本@名無史さん:03/04/16 21:30
忍者って実際には何をした人々なんですか?
忍者博物館みたいのには手裏剣とか展示してあって。マジでいたというのはなんとなく予想がつくけど。
ようするに工作員なんですか?実際に戦場で戦ったりしたんでしょうか?そして強かったんですか?
忍術は実際にどんな術があったのでしょうか?
822日本@名無史さん:03/04/16 21:36
>>821
北朝鮮の工作員と同じかと。
拉致、諜報、破壊工作、戦闘参加もあったかと。
823日本@名無史さん:03/04/16 21:48
>>821
忍者には主に、忍び込んで情報を盗むなどスパイ活動をする「素破(すっぱ)」と、放火や暗殺など破壊工作をする「乱破(らっぱ)」の二種類がいました
忍術というのも、城に忍び込むテクニックの他、薬の調合や治療などが普通でした
824日本@名無史さん:03/04/16 21:55
GOD戦闘工作員(仮面ライダーX)
825日本@名無史さん:03/04/16 22:17
隠密
おんみつ
主家などの密旨をおびて探索に従事する者をいう。忍者,間者。はやくも南北朝
時代に姿をあらわすが,その活躍の盛んになるのは戦国時代からである。
甲賀者,伊賀者が有名である。江戸時代に入ると,幕府,諸藩は隠密を用いて
諸方面にわたる情報収集につとめたが,彼らはいずれも軽い身分の者であった。
幕府には目付の指揮下に徒(かち)目付,小人(こびと)目付があって表裏の活動をし,
また将軍以下老中,若年寄,側衆,大目付,目付などの命をうけて探索に従事
した者に御庭番があった。
このほかにも,江戸の町奉行配下には隠密廻りと称する同心があって,市中の動静を探索した。
826日本@名無史さん:03/04/16 22:45
「はらたかし」と「はらけい」
「やまもとごんべい」と「やまもとごんのひょうえ」
どっちが正しいのですか?
827山崎渉:03/04/17 13:08
(^^)
828日本@名無史さん:03/04/17 15:48
>>826
事典ですと、原は「はらたかし」。
山本は「やまもとごんべえ」が索引になってました。
ただし、山本の欄には「名は・ごんのうひょうえ・とも」と、ありました。
829日本@名無史さん:03/04/17 15:56
>>826
通称として、音読みすることは良くあります。
例えば、山下は”ともゆき”ですけど、大体の年寄りは”ほうぶん”と呼ぶでしょう。
830日本@名無史さん:03/04/17 16:18
>>818
林内閣は、解散総選挙で敗れて、あぼーん

斎藤は、中正穏健な軍人だから。
米内は三国同盟反対だから。
831日本@名無史さん:03/04/17 20:17
>>818
西園寺公望
大正末期からは最後の元老として後継首相推薦の重責を双肩に担い,興津の別邸
坐漁荘には政客たちが絶えず,〈興津詣で〉と呼ばれた。元老としては当初総選挙
を公平に行わせようと中間内閣を推したが,1924年の護憲三派運動以後は政党内閣
を推す慣行となり,〈憲政の常道〉と呼ばれた。
さらに立憲政治確立のため宮中や枢密院の人選にも配慮したが,政党とくに政友会
は政権獲得のため特権勢力とも結託して西園寺を嘆かせた。
大恐慌の渦中で満州事変がおこり軍部ファシズムの嵐が広がると,国民の不満を
皇室に向けないように意を用い,五・一五事件後には重臣と協議して中間内閣を
作らせ,事態の鎮静を期待した。
だが二・二六事件で軍部が実権をにぎり宇垣一成の組閣も阻止されると,西園寺
は元老辞退の意を強め,後継首相の推薦も逐次内大臣中心の方式に改められた。
第1次近衛文麿内閣のもとで日中戦争がおこりファシズム体制が進むと,彼は
批判を強め,40年の第2次近衛内閣の成立には同意を拒んだ。ついで日独伊三国
同盟が結ばれるなかで西園寺は91歳の生涯を閉じ,国葬をもって葬られた。
832日本@名無史さん:03/04/18 00:16
>>829
「いとうはくぶん」
「やまがたゆうほう」
「かとうこうめい」
「のぎきてん」

とかも、そうだな
833日本@名無史さん:03/04/18 00:19
やっぱ
一個人が政治の最高指導者をきめるというシステムが
日本を滅ぼしたんだな
834日本@名無史さん:03/04/18 04:07
 住居に関する質問です。よろしくお願いします。
竪穴式住居は江戸時代まで利用されたそうですが
江戸時代に竪穴式住居を使用していたのはどのような人々なのでしょうか?
835日本@名無史さん:03/04/18 11:23
>>834
江戸時代にはなかった様子ですが。遅い地域で鎌倉時代くらいまでのようです。

竪穴住居の全国的な普及は古墳時代末までで,6世紀ころからまず畿内先進地域
の集落は,竪穴住居から掘立柱住居に変わる(掘立柱建物)。
この変化は西日本では急速に広まるが,東日本では,中部・東海地方は8世紀,
関東地方は10世紀ころ,東北・北海道の寒冷地帯や中部山岳地帯は13世紀ころ
まで竪穴住居の集落がみられる。
836834:03/04/18 19:14
>>835
 回答ありがとうございます。江戸時代には作業小屋等として利用され住居として使用されていなかった
ということでしょうか?
 いくつかの文献で竪穴住居は江戸時代まで住居として利用されたというのを見たのですが
どの地域でどういう階層の人が利用していたかについては見つけることができなかったのです。
 竪穴住居そのものは明治以降も利用されています。例えば長野では「あなぐら」という名称で
形態がまったく変わることなく、冬の作業小屋などの用途に使われています。住居としての利用が
あったかどうかは分かりません。この「あなぐら」は記録写真等にも残っています。
837日本@名無史さん:03/04/18 19:36
どうして、埴輪は「おそまつ君」のイヤミみたいに「シェー!!!」
のポーズをしてるんですか?先生?!
838日本@名無史さん:03/04/18 20:13
>>836
作業小屋としてなら戦前まで使われていた模様
「作業小屋」「戦前」というキーワードから察して、
農業に関係する作業じゃなかろうか。チト短絡的だがw
839日本@名無史さん:03/04/18 20:47
>>802
どうもです

人物の実在性って子孫を称する人がいるから
論じ難いとかあるのかな
氏族単位(小山田氏や由良氏)だと個人(家)
の誹謗中傷に繋がりかねないし
国香の兄弟なんか当り前のように
良将、良持、良茂、良正、良文が並んでるけど
範囲が平氏まで広くなると
子孫は何百万人もいてこれまた厄介な感じ

落人村ってのも腫れ物なのかなあ
840日本@名無史さん:03/04/18 20:50
>>837
踊る埴輪ですね。違うポーズの武人などもありますよ。
841日本@名無史さん:03/04/18 20:56
土下座してる武人の埴輪を見たことがある
842日本@名無史さん:03/04/18 21:08
>>836 :834
アイヌの住居が少し似てますね。これだと昭和期もあったかもです。
本州では、江戸期頃からは作業用の小屋ではないでしょうか。
843749:03/04/18 21:15
阿多忠景の乱を起こした阿多忠景の父伊作良道は誰の子ですか?
844日本@名無史さん:03/04/19 14:15
そのころ醍摩半島南部を中心に阿多平氏とも伊作平氏とも呼ばれる鎮西平氏一族
が繁衍しており,1138年(保延4)に阿多郡司としてみえる阿多忠景は醍摩権守
を称し,大隅にまで勢力をのばした。

845日本@名無史さん:03/04/19 14:16
a
846日本@名無史さん:03/04/19 17:49
・正丁(49)←戸主
・耆女(74)
・丁妻(47)
・少丁(19)
・少子(6)
・少女(16)
・少女(13)

この戸が負担する租(税)はいくらですか?
端数を切り捨てて、○束○把というかたちになります。
よろしくお願いします。
847日本@名無史さん:03/04/19 19:40
>>846
>706年(慶雲3)に〈束〉の量を律令制以前の制度に戻し,
>1段の田地から1束5把,2段(律令制以前の100代に相当)から3束の租稲を徴収
あとは、高校の教科書でも見て、計算してください。
ただし、
>田租は成年男子に対して課せられる調庸とは異なり,田の面積に応じて課せられ,
>しかも田租の負担者は,田主(口分田の場合には班給された人)ではなく,
>佃人(実際の耕作人)であった。
です。
848749:03/04/19 20:01
>>843にも書き込みましたが、阿多忠景の祖父は誰ですか?
849山崎渉:03/04/20 01:47
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
850805:03/04/20 16:32
史料編纂所スレとかで聞いた方が早い?
851日本@名無史さん:03/04/20 18:10
史料編纂所スレあんなに内容のないスレだったなんて
スレタイに騙されてた感が
852日本@名無史さん:03/04/20 20:23
>>851
きゃはは。じつはわたしもだな(以下略)

ちなみに史料編纂所リアルHP、データベース検索をおこなったら
ほとんど空だった鬱
メアドも入力しちまったよ〜(汗)
853日本@名無史さん:03/04/20 21:01
地元の地方史は、地元などの公共機関には無料配布ではないでしょうか?
854日本@名無史さん:03/04/21 18:14
飛脚というのがいたでしょう。あれは走っていたんですよね。
なぜ馬を使わなかったのですか?
855日本@名無史さん:03/04/21 21:22
>飛脚の取扱品目は書状,現金,為替,生糸,農産物などで,通信のみでなく
>物資輸送にも従事した。
>馬方のついた幾匹かの馬に1人の宰領がいて指図している。

馬も使ってたみたいね。
赤穂浪士での浅野家への知らせは早駕籠だったね。
早馬が走ることもある。

>飛脚の語は,だいたい平安時代の末ごろから現れ,中世以降頻出する。
>初めは鳥を用いない通信使すなわち脚力と同義に用いられることが多いが,
>一般には乗馬の急使を指すようである。室町時代の《下学集》には飛脚すなわち急脚とある。
>この意味で飛脚と早馬,早打などとの区別はつけにくい。
実は、馬はわりと使われていたかもしれない。
ただし、江戸期に民間の手紙には早馬禁止令があったかどうかは不明です。
856749 :03/04/21 21:43
済みません度々…。
平貞時(伊作平次)は誰の子ですか?

>>826
本当はごんべえですが、晩年の方は自らごんのひょうえと名乗って居ました。
857日本@名無史さん:03/04/21 22:41
平沼首相の辞めた本当の理由は何ですか?
毒素協定は辞める理由付けじゃないのですか?
858日本@名無史さん:03/04/21 22:55
平高望−良持−伊佐平次貞時

平高望−良文−貞道−孝輔−伊作平二貞時

平高望−良望−繁盛−維幹−伊佐為賢

正直わかんねー
859訂正:03/04/21 22:56
平高望−良文−貞道−孝輔−伊作平二貞言(貞時)だったかな
860日本@名無史さん:03/04/22 11:26
>>857
普通は、独ソ不可侵条約を「複雑怪奇」と評して辞職と言われてるがな。

満州事変後には首相候補者として右翼・軍部から期待されるようになったが,
元老西園寺公望は彼の右翼色を忌避した。
平沼も36年枢密院議長への昇任に際して国本社会長を辞し,ついで国本社を
も解散。
しだいに親英米派とも妥協的となり,39年1月第1次近衛文麿内閣のあとを
うけて首相に推されたが,独ソ不可侵条約調印を機に8ヵ月で内閣を投げ出している。
861日本@名無史さん:03/04/22 11:32
>平貞時
はっきりしてないみたいね。

平貞時の系譜については、いくつかの所伝があるが、活動年代や
周辺の名前から考えると、
高望王の子の良文か良持かの「子」
(養子・猶子の場合も含む。前者の場合だと良文−貞道、その弟・貞時か)
で、将門征討に功績のあった平貞盛の従兄弟ではないかと推される。
862日本@名無史さん:03/04/22 18:01
将門の父親って良持?良望?良将?良正?良茂?
読み方はそれぞれ「よしもち」「よしもち」「よしまさ」「よしまさ」「よしもち」?
「持」と「将」は似ているし、
誰が実在して誰が架空の人物なの?
863749:03/04/22 19:12
ハキーリしませんか…ハァ鬱だ。

>>862
将門の父は良将です。
864日本@名無史さん:03/04/22 20:41
藩の名前と位置が分かる地図探してるんですけど知りませんか?
865日本@名無史さん:03/04/23 08:43
高校の教科書にも載ってるのでは。
くぐって出るかな?
866日本@名無史さん:03/04/23 18:11
>>863
良持じゃないの?
そもそも良将っていうのは、将門の父だから間違えられただけじゃないの?
当時まだ親子で同じ字を使うのはあまりないと思うけど。
867日本@名無史さん:03/04/23 18:19
質問。
この板って本当に学問板ですか?
868日本@名無史さん:03/04/23 18:25
>>867

よいところに気付きましたね

ここはバカニュースです
869日本@名無史さん:03/04/23 19:11
1尺とか1寸とかっていまでいうと何センチくらいですか。教えてください。
870日本@名無史さん:03/04/23 20:18
1尺は約30.303cm
1寸は約3.03cm
871日本@名無史さん:03/04/23 22:00
>>870さんありがとうございます。
おかげで時代小説がよりわかるようになります。感謝!
872日本@名無史さん:03/04/23 22:51
浜口首相はなんであんなに金本位制の復活にこだわったのでしょうか?
また逆に原内閣から若槻内閣まではなんで金本位制をストップしたままだったんでしょうか?
873日本@名無史さん:03/04/24 06:50
ペリー来航とその時代の日米関係について詳しく教えてください
874日本@名無史さん:03/04/24 07:45
江戸時代において、農民は「年貢」という形で税を納めたわけですが
町人はどのように税を納めたのでしょうか?
豪商等はその能力に応じた負担が色々あったとは思いますが
時代劇等で蕎麦屋を営んでる人達には一体どうやって税をかけたのでしょうか?
まさか江戸の町に暮らす町民が無税と言うことは無いと思いますが。。。
875日本@名無史さん:03/04/24 14:20
>>872
浜口内閣の井上準之助蔵相は,厳しい財政緊縮方針を実行に移し,在外正貨の
充実,クレジット契約締結と準備を進め,1929年11月に翌年1月11日より金輸出
を解禁する旨の大蔵省令を公布した。旧平価による金解禁であった。
井上は,古典的な金本位制に絶対的な信頼をおき,金本位制によって通貨価値
と為替相場の安定,国際収支の均衡が自動的に保たれるとの確信をもっていた。
金本位制停止が続いたために八方ふさがり状態におちいった日本経済は,緊縮政策
と金解禁によって一時の苦悩を味わうが,産業合理化を進めて国際競争力を強化すれば,
やがて真の好景気を迎えることができるというのが井上の主張であった。
1920年代の日本経済が,金本位制停止下にあって国際競争力の弱さと国際収支の
赤字に悩んだ事態に対処して,日本経済と企業経営を鍛えなおそうとするのが
井上財政であった。

876日本@名無史さん:03/04/24 14:20
>>872
高橋是清蔵相(1918年9月〜22年6月)は,対中国政策の観点から金保有を重視し,
金解禁をおこなわなかった。
19年以降,貿易収支は大幅な赤字に転じ,為替相場は平価(100円=49圖ドル)を
下回る円安傾向を示したが,高橋蔵相は在外正貨(政府・日本銀行が国外に保有
する正貨)の払下げによって為替相場の下落を一定限度に抑えた。
大戦中の巨額な在外正貨の蓄積が,しばらくは政友会内閣(原敬・高橋是清内閣)
の金本位制停止下の積極的経済政策を可能にしたのである。
しかし,貿易収支の大幅入超の継続は在外正貨の急激な減少をもたらし,政策
転換が必要になった。市来乙彦蔵相(1922年6月〜23年9月)は,緊縮政策への転換
を試み,金解禁の準備を進めたが,加藤友三郎首相の病死で内閣は交替した。
23年9月の関東大震災は,金解禁を当面は不可能にした。
為替相場は大幅な円安となり,相場変動も激しく,25年8月からの憲政会内閣
(第2次加藤高明・第1次若槻礼次郎内閣)は,金解禁を政策目標としたが,
27年3月の金融恐慌の勃発で機会を逸した。
877日本@名無史さん:03/04/24 14:34
>>874
浮役
江戸時代の雑租の一種。戦国時代に浮役とは,浮役衆または浮勢(うきぜい),
浮備(うきそなえ)ともいわれて予備軍を指すが,近世には年貢の一種と理解されている。
年貢は田畑にかかる正租の本途物成(ほんとものなり)と,それ以外の
山林,原野,河海などにかかる雑租の小物成に大別することができ,
小物成はさらに毎年,定額でかかるものと,臨時にかかるものとに分かれるが,
臨時にかかるものを浮役という。地方によっては浮物成とも,浮小物成,
散(ちり)小物成ともいう。
具体的には,水車運上,浦運上,酒運上,質屋冥加,川役,網役などや,
商業,漁業,山林業に従事するものから収穫高・売上高の何分の1かを納め
させる何分一役に至るまで,多くの雑租はこの浮役に属する。
浮役とは浮動して定まらない雑租の意味で,多くは金納であった。
領主によって財源の一つとして注目され,種類も多様化した。
明治になって雑税として存続したが,地租改正の進行によって消滅した。                  吉永 昭

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878日本@名無史さん:03/04/24 14:40
>>873
1852年,東インド艦隊司令官(准将)に任命,大統領フィルモアから親書
を託され日本遠征を命じられる。訓令では,日本人との条約交渉において
〈断固とした決然たる態度〉が必要としつつも,なるべく〈平和的〉手段
にとどめるよう制約を課していた。
ペリー自身,時代の膨張思潮マニフェスト・デスティニーを体現し,日本
を欧米キリスト教文明の恩恵に浴させることこそアメリカの歴史的使命
だと確信していた。
日本について周到な調査研究のうえ,旗艦ミシシッピ号ほか3隻を率いて
琉球,小笠原諸島に寄港したのち,53年7月浦賀沖に投錨。幕府は江戸湾
からの退去を要求したが,ペリーは峻拒,〈体面〉を重んじて最高位の
日本役人との面会を強要,軍隊上陸を示唆して威嚇した。しかし結局,
大統領親書を手交しただけでいったん退去した。翌54年2月再び江戸湾に来航,
軍艦7隻の威を借りて交渉した結果,3月31日,神奈川条約が調印された。
同条約では,下田・箱館の開港,薪炭の供給,遭難船員の保護,領事駐在の
約束などを認めただけで,通商条項は含まれていない。
遠征中ペリーは高度の戦略的観点から琉球の占有を具申して,本国政府に
却下されたが,55年帰国後も太平洋支配をめざすイギリス,ロシアの勢力
拡張や闘争について警告した。彼の膨大な《遠征記》(1856)には,日本の
経済大国化や日米通商競争を予言するなど,日本人の特性への鋭い洞察が散見される。
879日本@名無史さん:03/04/24 18:35
>>878
ありがとうございます
880日本@名無史さん:03/04/24 21:01
>>875-876
なんか浜口内閣の評価が高いのが疑問なんだけど
経済面においては確実な失政続きで、のちの国民の軍部熱狂の原因を作ったのは
こいつじゃないのか?

金本位制なんて世界恐慌のあとにやるなんて確信的に状況を見誤った
その時は良かれと思ったと言い出したら、全ての政治は正当化されるよ

真珠湾攻撃もその時はこれしかないと思ったけど、結果的に破滅に導いたし
881日本@名無史さん:03/04/24 21:58
>>880
そうだね。じゃ、結末までいくか。結論は愚かな政策だった。

しかし,1929年秋には世界経済を長く深刻な恐慌にみちびくアメリカの恐慌が
はじまった。金解禁によって開放経済体制に移行した日本経済は,世界恐慌の
大波をまともにかぶることになった。旧平価解禁によって円高で安定した為替
相場は,世界市場の縮小とともに,日本の輸出産業にとって重い足かせになった。
昭和恐慌が深刻化するなかで,井上は,なおも緊縮財政を維持しつづけたが,
1931年9月の満州事変の勃発は,軍事費の増加を不可避なものとした。
さらに満州事変直後に,イギリスが金本位制を停止し,国際金本位制は崩壊の
危機に直面した。
日本の金輸出再禁止を予測して,為替市場にはドル為替の買い注文が殺到した。
このドル買いに対して,井上は,無制限にドル為替を売るよう横浜正金銀行に
指示するとともに,思惑買い筋の資金調達を困難にすることを狙って日銀公定
歩合を引き上げて高金利政策を採用した。
金本位制を維持しようとする井上の堅い決意の前に,ドル買い思惑は失敗寸前
にまで追いつめられた。
しかし,内閣は閣内不一致で倒れ,31年12月13日に成立した政友会の犬養毅内閣
は,即日,金輸出を再禁止した。円相場は急落し,ドル思惑買い筋が凱歌をあげ
るなかで(ドル買事件),日本の金本位制時代の幕は閉じられた。
882日本@名無史さん:03/04/24 22:26
>>881
やっぱ浜口の評価が高いのは理解できない
浜口内閣の断固たる意思は認めるけど
883日本@名無史さん:03/04/24 23:22
>>882
ふむ、浜口内閣は軍に屈せず政党政治の一頂点と呼ばれ、当時高い人気だったが?
軍部熱狂の満州事変は彼の死後だし。

浜口内閣
1929年7月田中内閣総辞職のあとをうけて民政党内閣を組織し,その容貌から
〈ライオン首相〉とあだ名され,重厚・清廉な人柄で人気を集めた。
蔵相には井上準之助をあてて緊縮政策を推進し,30年1月金解禁を行った。
一方,外相に幣原喜重郎を起用して協調外交を展開,日中関係の改善をはかる
とともに,イギリスの提唱に応じてロンドン海軍軍縮会議に参加し,若槻元首相,
財部彪海相らを全権として派遣,財部不在のあいだ海相事務管理の職につき,
軍部大臣武官制の例外をつくった。
日米妥協案に対する加藤寛治軍令部長らの強硬な反対を抑え,元老西園寺公望の
支持と30年2月の総選挙でえた絶対多数の力を背景として,4月ロンドン海軍軍縮
条約に調印,
統帥権干犯を叫ぶ政友会や右翼の攻撃に屈せず,条約否認の構えをみせた枢密院
にも断固たる態度で臨み,10月条約を批准させ,戦前政党政治の一頂点を築いた。
しかし,これに不満をもった愛国社員佐郷屋留雄(さごやとめお)に11月14日
東京駅で狙撃されて重傷を負い,31年4月総辞職,8月26日死去した。
884日本@名無史さん:03/04/24 23:27
>>880
浜口内閣の評価がどうして高いのは知らんけど
確実な失政と糾弾するのも後付の屁理屈にしか見えんけどな。

金解禁の準備は世界恐慌のだいぶ前から行われたし、世界恐慌直後もここまでの大惨事になるという
認識をしていた人はほとんどいない。

885日本@名無史さん:03/04/24 23:27
>>883
ハマグリの死因って銃で撃たれた事が直接の死因?
日本の首相で暗殺されたのは原と犬養だけと思ってたけど
886日本@名無史さん:03/04/24 23:33
浜口があのまま生きていても
結局はあの入念に計画された満州事変を止めれたとは思わないし
だいたい、十月事件かなにかで結局は暗殺されただけ
887日本@名無史さん:03/04/24 23:34
>>880
別に真珠湾攻撃が破滅に導いたわけではないが。
所詮、始めてしまった戦争の最初の戦局に過ぎん。
888日本@名無史さん:03/04/24 23:35
>>885
間接的だが原因は原因。命は取りとめたが、傷口からばい菌が入って死んだ。

浜口雄幸(おさち)(1870〜1931)
高知県人。蔵相・内相を経て、民政党初代総裁として首相となり、緊縮
政策を断行、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。昭和5年11月14日、岡山県
での陸軍特別大演習に参加する途上、東京駅のホームで右翼の銃に狙撃された。

幸い一命を取り留め、手術後静養していたが、翌年8月傷口に繁殖した菌
によって腹部に膿がたまり、それが肺を破って、26日に死亡した。

葬儀は8月29日、日比谷公園で「党葬」として行われたが、日比谷公園
に至る沿道や式場一帯は、最後の別れを惜しむ大衆が21万5000人にも達した。
墓は東京青山墓地の加藤高明の墓の隣りにある。(61歳)

889日本@名無史さん:03/04/25 13:39
10月事件は未遂だが、満州事変不拡大をつぶした原因の大きな一つと言うが。
890日本@名無史さん:03/04/27 00:01
なんで日本の首相は戦前も戦後もちょっとした事ですぐに辞めるのですか?
軽すぎる

皇太子が狙撃されたぐらいで辞めたり、
外国の外交が自分たちの考えてたものと違うから辞めたり、
天皇に怒られたぐらいで辞めたり、
閣僚に不祥事があったぐらいで首相自ら辞めたり
閣僚との意見が違うからと言ってあっさり辞めたり

外国から見たら考えられないんじゃないですか?
ドイツって出来てからまだ6人ぐらいですよね?
891日本@名無史さん:03/04/27 00:33
ドイツもワイマール共和国の時代は短命内閣ばかりです。
ドゴール以前のフランスも同様です。
892日本@名無史さん:03/04/27 00:45
ドイツって
西ドイツからだと
アデナウアー
キージンガー
ブラント
シュミット
コール
シュレーダー
ぐらいか?
893日本@名無史さん:03/04/27 00:48
1920年代の時点で考えれば、日本の内閣も独仏の内閣も大差ない。
894日本@名無史さん:03/04/27 12:48
戦後は中曽根以後あたりから短命化か?
・東久邇宮稔彦王
・ 幣原喜重郎
・吉田 茂
・片山 哲
・ 芦田 均
・吉田
・吉田
・吉田
・吉田
・鳩山一郎
・鳩山
・鳩山
・石橋湛山
・岸 信介
・岸
・池田勇人
・池田
・池田
・佐藤榮作
・佐藤
・佐藤
・田中角榮
・田中
・三木武夫
・福田赳夫
・大平正芳
・大平
・(臨時代理)伊東正義
・鈴木善幸
895日本@名無史さん:03/04/27 12:49
・中曽根康弘
・中曽根
・中曽根
・竹下 登
・宇野宗佑
・海部俊樹
・海部
・宮澤喜一
・細川護煕
・羽田 孜
・村山富市
・橋本龍太郎
・橋本
・小渕恵三
・森 喜朗
・森
・小泉純一
896日本@名無史さん:03/04/27 12:54
戦前は現役武官制で、軍がつぶしたこともあったような。
897日本@名無史さん:03/04/27 15:24
ペリー来航時に「アメリカ軍艦見物禁止令」ってのが出来たらしいんですけど
これの目的を詳しく教えてください
898日本@名無史さん:03/04/27 15:35
なんで日本史板って世界史板と比べて荒れてるんですか?
899日本@名無史さん:03/04/27 17:16
>>898
世界史は他人事だから
900_:03/04/27 17:17
901動画直リン:03/04/27 17:17
902805(850・851):03/04/27 18:28
>>852
小便チビりそうになった
ROMりに行ってる掲示板で見かける"凄い人"に似てる気が

地元の公共機関には無量配布だとして
他地域の図書館や一般向けの頒布で、編纂に懸かった費用の元は
とれてるのかなぁ、売上げが大してないなら
県史をWEBで公開してる福井県に他県他市町村も続いて欲しい
あと資料だけではなく史料も家庭のPCから無償利用できたらいいな
903805:03/04/27 18:44
まぁ>851も>902も素人の戯言ですんで
904日本@名無史さん:03/04/27 20:50
>>897
1854年1月16日にペリーが2度目の来日。
2月3日アメリカ軍艦見物禁止令。
理由
1、見物客がすごかった。防衛に不便。交渉に邪魔。
2、前年度の吉田松陰のようなアメリカ人との接触が起きないように。
が、考えられます。
905日本@名無史さん:03/04/27 22:39
           /~゙ヽ
           !;;;;;;;;;゙,
            l;;;:;;;;;;i
            ';;;;:;;;;;;i
         _`_ 、';;;:;;;;;| , - '''_'‐-、
.      ,r<、r,';;;;;;;;;`;;-、|',、-''" ヽ. ヽ
     ,L;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l`''ー   ゙, ゙、
    /  `''''ー――'''''i'"^、     |  |
.   /           'i;;;;;;',  .  |  |
.  ,'_,,,,、          !;;;;;;|    |  |
.  |     ``'''ー-  /;;;;;;;;!    ,'   !
.  !=' /  、、,,,,_   i;;;;;、〈    ,'  .,'
  !  ./   `'゙゙'゙゙'   !'").l .  i  i
  | /          ,__;ノ    !  !
  ', ''ー `        ';;'     |  |
   ゙、 ‐=-         ゙,-、   ' 、 !
   ヽ      ,、r'  ,r<´\__~
、、、、,,,,,,`i 、、,,、.-'"  /  >ィ´
   / ',  `'ー-‐'''"  / /
  /   `-、,,,___,,、r '"  /

         ↑
 これ 誰のAAでしたっけ?
 幕末の人で、誰かこういう写真があったような?
 松平容保?
906日本@名無史さん:03/04/27 22:40
かもしれん。
907日本@名無史さん:03/04/27 22:47
昭和初年銘の金貨が高値で取引されるのは金解禁のおかげ。サンクス。
908日本@名無史さん:03/04/27 22:48
>905
 事故RESですが、孝明天皇?!
 容保は似てるけど、まゆげが案外張ってる??
 慶喜も似てるけど正面の写真しかない?!
909日本@名無史さん:03/04/27 22:55
慶喜よりは孝明帝似かな?
910日本@名無史さん:03/04/27 23:00
小早川秀秋じゃないの?
911日本@名無史さん:03/04/27 23:18
そうだ、そうだ。小早川秀秋だよ。
912日本@名無史さん:03/04/27 23:21
>910
 あれ? そう・・・ なんでしょうか?
 もしかすると、こういったアングルの画がありますか?
913日本@名無史さん:03/04/27 23:23
>911
 あ そうなんですか。。。
 孝明天皇にしては、冠の後ろの跳ね(?!)が違うとか?
914日本@名無史さん:03/04/28 01:31
915日本@名無史さん:03/04/28 06:25
>>904
ありがとうございます
916日本@名無史さん:03/04/28 11:38
>>914
あんたは偉い。小早川ですた。
917堕天使:03/04/30 06:48
918日本@名無史さん:03/04/30 06:55
頭がバカな僕に教えてください。
西暦が始まる頃からその5000年前暗いの日本はどんな時代だったのですか?
どうか教えてください。
もしくはそれがわかるデータベースみたいなのがおいてあるHPはありますか?
919日本@名無史さん:03/04/30 10:10
あげ
920日本@名無史さん:03/04/30 10:39
>>918
>西暦が始まる頃からその5000年前暗いの日本はどんな時代だったのですか?
紀元前5000年ということかな?
もう少し分かりやすい日本語を覚えてからの方が良いのでは?
921日本@名無史さん:03/04/30 11:04
>>920
西暦が始まる前は紀元前っていうんですね。
紀元前5000年くらいの時は日本はどんな時代だったのですか?
922日本@名無史さん:03/04/30 12:31
>>921
「どんな時代だったのですか?」というのは何を聞きたいの?

質問の仕方が悪過ぎる。
あなたは初対面の人に「あなたは何ですか?」と聞かれてどのように答えますか?
何を答えたら良いのか分かりませんよね?
ですからこの時代の何を知りたいのかをハッキリと示してください。
例えば「住居はどのようなものだったのでしょうか?」とか、
「どのような衣服を着ていたのでしょうか?」とか、
「日本列島以外の人との交流はあったのでしょうか?」とか。


あなたの「どんな時代だったのですか?」という質問では答えようがありません。
この時代について全く知らないのならば、
初学者向けの本を読んで下さい。
ここで質問するのはそれからでも遅くありません。

本に関しては↓のスレで質問することをオススメします。
日本史の良書 2
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045662544/

923日本@名無史さん:03/04/30 12:47
まあまあ。
縄文時代ですよ。
紀元前8000年くらいから紀元前300年くらいまでは縄文時代。
「縄文文化」「縄文時代」「古代社会」で事典を調べて、なお質問があれば
してみてはいかがですか?
924日本@名無史さん:03/04/30 15:48
上のお二方ありがとう。
全くわからなかったんです。
925日本@名無史さん:03/04/30 16:11
すいません。再来年の大河ドラマの北条早雲の原作をご存知のかたいますか?
探しているのですがわかりません。親切なかたおねがいします。
926日本@名無史さん:03/04/30 22:18
>>925
「大河ドラマ 北条早雲 原作者」でヒットしたよん\(^o^)/
南原幹雄と永岡慶之助の2名です。
アマゾンでも見てみたら、南原氏は北条早雲、永岡氏は北条氏康を書いてますね。
927日本@名無史さん:03/05/01 00:20
>>926さんありがとうございました!激しく助かりました。
928日本@名無史さん:03/05/01 12:49
感謝age!
929日本@名無史さん:03/05/01 14:16
正倉院のHPのご意見ご感想が激しく荒らされているんだけど
これは有名ですか?日本史板にはこないんだけど
たまたま見つけたから聞いてみました。

http://www1.kcn.ne.jp/~joykun/
930日本@名無史さん:03/05/01 15:03
>>929
こわくて踏めません・・・
931日本@名無史さん:03/05/01 16:06
>>930
普通のページだった。ただteacupのBBSがあれている。



vdfhklsdfhklsdfhklsdfhklsdfhklsdfhklせr、 投稿者:おぬ  投稿日: 3月12日(水)14時04分03秒

dksmfk;dsbgvdのdfんhmwびlんlんwlんwlんwlんwlんwbghう゛ぇいpうぇいpうぇいpうぇいpwbhjrtv.21354898989m56y7うん、ひこ
国産み神話の蛭子とおのころ島は、固まりかけの溶岩の姿を模したものと思ったのですけれど、先達の方はどうお考えなんでしょうか。
今、NHKでガラパゴスの溶岩地形を見ていて気になったもので、書き込みました。

933日本@名無史さん:03/05/01 21:07
海の民(海人=あま)の大和との関係などと言われたりもします。
934__:03/05/01 21:09
935日本@名無史さん:03/05/01 21:16
s
936日本@名無史さん:03/05/01 21:57
昔、中国に硫黄を輸出していたそうですが、何に使ってたのですか?
937日本@名無史さん:03/05/01 22:04
ちょっとした疑問なのですが、お願いします。
元寇で元が使用した兵器「てつはう」
なんでこれ、旧仮名で表記されるのでしょうか?
938日本@名無史さん:03/05/01 22:26
>>936
硝石,硫黄,木炭の混合物で黒色火薬が作れます。
あと、薬もできます(皮膚薬)。

>>937
蒙古襲来絵詞(鎌倉時代)に旧仮名で書かれているからでは。

939日本@名無史さん:03/05/01 22:42
>914
> 検索ぐらいしろよ
> この戯け者が
     ↑
 2ちゃんねるはこうだからね。
 もうちっとマシな言葉遣いが出来ないかな?
940937:03/05/01 22:51
>>938
ええ、それにばっちりと(後世の書き加えって聞いたことありますが)「てつはう」と書かれているのは存じています。
疑問はなぜ「てつはう」だけが旧仮名で書かれるのかってことなんです。
全ての名詞は文献の表記のまま、とか統一されているなら何の疑問も無いんですが。
941日本@名無史さん:03/05/01 22:57
>940 「てつはう」
 音響手榴弾のようなもの、という説もあったようで、ともかく、
「鉄砲」ではない別のものだったと考えられるとかで、故意に
 表記をそのまま流用しているのかも?
942日本@名無史さん:03/05/02 00:06
音で馬を驚かす物で、鉄砲とは別物と聞いたが。
「てつはう」は、漢字がわかんなかったんじゃないかい?
943日本@名無史さん:03/05/02 01:31
>>939
検索すればすぐに出てくるようなことを質問するのもにちゃんねるで
それに厳しくに答えるのもにちゃんねる
スレ違いなレスにもちゃんとレスをするのもにちゃんねる
嫌ならにちゃんねるを利用しなければ良い
944937:03/05/02 01:43
>> 941-942
もちろん「てつはう」と表記される物が現在の「鉄砲」と別物(又は原型?)だってことは理解しています。
でも「てつはう」は素直に現代読み、表記すれば「てっぽう」で、なんでそこだけ古文やねんって思う訳です。
たとえば教科書などは、てっぽう又は鉄砲と書いて脚注とかで解説ってのがスジじゃねーか? アアン? と思っちゃうのです。
945937:03/05/02 01:47
あ、せっかくですので「てつはう」の写真です。
ttp://www.chunichi.co.jp/tokusyu/kouko/t20011020.htm
946日本@名無史さん:03/05/02 01:49
>>944
歴史的な人・事・物で更に同じ音のものがあるなら表記を差別化するしかないのでは?
947日本@名無史さん:03/05/02 10:52
こんなのがあったが?

それは絵の中央上方に書かれた「てつはう」の文字と、その右側、竹崎季長の
名前が書かれた字です。
どうですか。かたや「てつはう」と言われればそう見えなくもない様な変体仮名に対し、
綺麗な楷書の様な季長の名前。明らかに別人の字でしょう。
変体仮名の「てつはう」は文字から、実は後世、江戸時代頃に書かれたものだと言われています。
江戸時代なら、鉄砲伝来後ですから、鉄砲を意味する「てつはう」の文字が書かれても何の
不思議もありません。
ただ、蒙古軍の「鉄砲」については『八幡愚童記』という書物で「鉄砲」として
説明されていますので、当時の日本でそう呼んでいた可能性はあります。
http://www.h3.dion.ne.jp/~oneone-p/tetsuhau.html
948日本@名無史さん:03/05/02 12:06
すいません。昭和天皇について知らない事があるので教えて下さい。

「昭和天皇は最低のクズ」というスレッドで
「アメリカのバラエティー番組に出た」
というのは本当ですか?

アメリカ訪問時に
「原爆の投下に対しては残念と思っている。
広島市民にはまことに気の毒なことだったが戦争中だったから仕方なかった事だと思う」
こんなこと言ったというのは本当ですか?
>>933
ありがとうございます。
950日本@名無史さん:03/05/02 15:33
>>948
バラエティ番組はわかりません。インタビュー場面の事かもしれません。

原爆の発言は言ってますね。昭和50年の訪米時のインタビューに対してです。
以下、関連しそうなことを貼っておきます。

>昭和50年10月31日の記者会見
記者「陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」
というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、その戦争そのもの
に対して責任を感じておられるということですか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、
どうお考えになっておられますか。」

昭和天皇「そうゆう言葉のアヤについては、私はそうゆう文学的方面はあまり研究
もしてないので、よくわかりませんから、そうゆう問題についてはお答えができかねます。」

>沖縄占領の件
1947年9月20日、寺崎英成を通して、「沖縄に関する軍事占領を継続する
事を希望する」「25年ないし50年という長期が良い」と要望した覚書をGHQ顧問
からマッカーサーに提出。
951日本@名無史さん:03/05/02 15:34
>三種の神器の心配
「寺崎英成 御用掛日記 昭和天皇独白録」
寺崎英成 マリコテラサキミラー編著 文芸春秋杜 より抜粋。
1、昭和20年7月25日
「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが
捕虜となることも考えられる。そうなれぱ、皇祖皇宗よりお預かりしている
三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。
もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」

2、「同年8月9日ポツダム宣言受諾の''聖断"」をのちに回想して
「‥‥当時私の決心は第一に、このままでは目本民族は亡びて終ふ、私は赤子
を保護する事が出来ない。第二には国体護持の事で木戸も同意見であったが、
敵が伊勢湾付近に上陸すれぱ、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、
神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、
故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」

952日本@名無史さん:03/05/02 15:50
>>948
天皇は1975年の訪米の際の記者会見で次のように述べている。
(1) 戦争責任について「そういう言葉のアヤについては、私は文学方面はあまり研究
していないので、その問題についてはお答えできません。」
(2) 原爆投下について「遺憾には思っていますが、戦争中のことであるから、止むを
得ないと思っています。」
953天井の虹:03/05/02 23:23
額田王は葛城(中大兄)皇子の妻ではなかったって説、どのくらい信じられてまつか?
参照: http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/gamouno.html
954日本@名無史さん:03/05/02 23:50
>943
> 嫌ならにちゃんねるを利用しなければ良い。
 何ほどのこともしていない輩に限って、このような図々
 しいことを公言すると。
 ま、そんなところですな。
955937:03/05/02 23:55
>>947
レス、ありがとうございます。
しかし、質問前に「てつはう」でググったので、そのテクストは既読です。
956日本@名無史さん:03/05/03 00:09
>>953
正式には妻でなく、中大兄(天智)に近江大津宮に召されただけでないかな。
その前に、大海人(天武)と結婚してる。(日本書紀・万葉集)

しかし、謎が多く、何もわかってないといっても過言ではない。
957日本@名無史さん:03/05/03 00:17
>955
 ここは「ご要望承りスレ」ではないので、その点をよろしく。
958日本@名無史さん:03/05/03 00:32
>>954
スレ違いはいい加減にしろ。
sageもせずにわかったようなことを言うなよ。
自治スレかラウンジでも行ってこい。
959日本@名無史さん:03/05/03 00:41

わるいみほん
960>>958:03/05/03 00:47
他のみんなゴメンな、スレ違いの粘着を呼び込んだのは俺だったわ。
>>959よ自治スレに書き込め。
こっちは初学者も来るからスレ違いの書き込みは迷惑だ。
961日本@名無史さん:03/05/03 00:53
>960
 スレ違いの書き込みをしないように、今後、しっかり注意してください。
962日本@名無史さん:03/05/03 00:55
ここで質問しても大丈夫ですか?
963日本@名無史さん:03/05/03 00:59
>>962
そんな下らないレスをする前にさっさと質問しろってんだ!
964日本@名無史さん:03/05/03 01:02
>>963
あなたに質問しようとしているのではないです。
もう1人の方にしようと思っているんです。
965日本@名無史さん:03/05/03 01:08
新スレのテンプレを作ってみました。
確認や加除訂正のうえ、どなたかスレ立てお願いします。

【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】
とりあえず立てました。
というわけでよろしくお願いします。

【インターネット検索】
Google  http://www.google.co.jp/
Yahoo!  http://www.yahoo.co.jp/
Goo   http://www.goo.ne.jp/

【過去のスレッド】
 >2-5辺り
966日本@名無史さん:03/05/03 01:09

【過去のスレッド】
素朴な疑問質問のスレ
http://mentai.2ch.net/history/kako/969/969624784.html
日本史版質問統一スレッド
http://mentai.2ch.net/history/kako/974/974738924.html
★くだらない質問、近現代史編★
http://mentai.2ch.net/history/kako/985/985320244.html
くだらない質問はここに書け
http://mentai.2ch.net/history/kako/981/981044823.html
くだらない質問はここに書け その2
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10051/1005111739.html
日本史なんでも質問コーナー Part6
http://mentai.2ch.net/history/kako/1016/10166/1016622804.html
日本史よろず問い合わせ処 其ノ七
http://academy.2ch.net/history/kako/1024/10248/1024836631.html
雑談スレ
http://academy.2ch.net/history/kako/973/973427193.html
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part2【歓迎】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1041658641/l50
967日本@名無史さん:03/05/03 01:18
昭和天皇の崩御について
世界の報道ってどういうふうに報道されていたのですか?
そういうサイトとかってありますか?
968日本@名無史さん:03/05/03 01:31
よく真珠湾の奇襲について野村のへタレとかいってるけど
あれってたとえば宣戦布告後に真珠湾を攻撃したとして何か違ったのですか?

どっちにしろアメリカ人は「奇襲まがい」と怒っただろうし
ルーズベルトは徹底的に利用したし
マレーとかの状況も変わってなかっただろうし
その後の戦争の展開もまったく変わらなかっただろうし

結局は何も変わらなかったのではないのですか?
969日本@名無史さん:03/05/03 03:46
通州事件はあったの?
あったなら、被害者(日本)側以外の第三者証言なりレポートなりの史料は何故無いの?
970天井の虹:03/05/03 09:41
>>956 返答多謝。
十市が大海人と額田の娘というのは信じるとして、その額田を中大兄が「奪った」っていう
”通説”?がどこまで本当なのか興味ある。額田←→大田+鵜野(後の持統)の1:2トレード
だったっていう俗説もあるらしいけど、、、(藁

「天智天武スレ」がたってるから、続きはそっちでよろしこ。
【暗殺?】天智と天武【兄弟?】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045471651/l50
971日本@名無史さん:03/05/03 12:46
>>967
残念ながら、戦争責任追及の声が一斉にあがってましたね。
特にアジアでは、東アジアから東南アジアでも新聞雑誌に戦争関連の記事
が多く、それを特集した本が日本で売れたほどでした。
新聞のマンガにも、生物学者風の故昭和が数多くの骸骨頭部をルーペで覗く
ようなのが、いくつか載りました。
ヨーロッパでも、最後の戦争責任者の死というニュアンスが大衆新聞などで
なされたようです。

日本でも、死後、一斉に戦争責任を考える本や雑誌の特集やアンケートが
出ました。3日間の全テレビ番組中止による昭和天皇特集も逆に国民感情を
反発させたようです。

サイトはわかりませんが、「昭和天皇・死(崩御)・外国・報道」などを
組み合わせて検索なされてはいかがでしょうか。
972日本@名無史さん:03/05/03 12:47
>>968
間に合ったかどうかわかりませんが、ハワイの全戦艦や全航空機が迎撃体制を
取っていれば、戦果は変わったかも?
どっちみち、アメリカ国民は売られた喧嘩だと、燃えたと思いますが。
マレー上陸も奇襲なんですよね。
973日本@名無史さん:03/05/03 12:47
>>969
通州事件
日中戦争勃発当初の1937年7月29日に日本の傀儡政権で北京のすぐ東の通州に
ある冀東(きとう)防共自治政府の保安隊が挙兵し,同地の日本軍人や居留民
を襲撃・殺害した事件。蘆溝橋事件ののち日本軍が7月28日に華北で総攻撃を
開始すると,日本軍飛行機は通州の近くの中国軍兵営を爆撃するとともに通州
保安隊兵舎を誤爆して死傷者をだした。通州の保安隊のなかにもかねて抗日救国
の意識が広がっていたが,この事件で刺激されて翌29日未明に挙兵した。
そして冀東政府長官殷汝耕(いんじよこう)を捕らえ,日本軍守備隊,特務機関,
日本人の料亭や家屋等を襲撃した。
冀東政府のお膝もとだと油断していた特務機関長以下の軍人や居留民など200余人
(うち約半数が朝鮮人)が殺された。30日には日本軍が出動し,殷は救出された
が長官を辞任した。
この事件については日本軍の責任が大きいが,日本ではこの事件を中国への
敵愾心(てきがいしん)をあおりたてるように利用した。    

第三者のレポートはわかりませんでしたが、事件をおこした冀東政府長官は、
事件後も日本軍と共同行動をとり、戦後中国に漢奸として処刑されてます。
974日本@名無史さん:03/05/03 12:48
>>970
額田の存在自体が謎ですからねw。
975日本@名無史さん:03/05/03 18:29
なんか水曜の夜中に放送してたNHK教育の番組で、
橘女子大(うろ覚え)の先生さんが、何かといえば
「王の何々(杖とか弓」って言ってたんだけど、
大王の墳墓は調査してないんじゃないの?
その番組でその先生自身も天皇家の古墳は未調査って
言ってたんだけど・・・。
大王の古墳の数分の一の規模しかない古墳から出た
副葬品を、なんで何でもかんでも「王の〜」って言うの?
976日本@名無史さん:03/05/03 18:34
地方豪族=王
大王=地方豪族連合体の長
でよろしいかと
977日本@名無史さん:03/05/03 18:47
メスリ山、茶臼山・・・
978日本@名無史さん:03/05/03 19:13
>>976
なるほど、でも
当時の地方豪族の王たちは、首都たる大和に埋葬されてたんですか?
979日本@名無史さん:03/05/03 20:18
ペリーは「蒸気機関の父」といわれてるらしいですがこの理由を教えてください
980bloom:03/05/03 20:21
981日本@名無史さん:03/05/03 20:22
昭和天皇と明治天皇はどっちの方が重要人物ですか?
982日本@名無史さん:03/05/03 20:31
新井満子は今でもこのスレにいるの?
983_:03/05/03 20:36
984日本@名無史さん:03/05/03 20:59
独学で中世古文書を読めるようになりたいのですが、
何から手を付ければよいですか。また、テキストは何がいいか
教えてください。
985日本@名無史さん:03/05/03 22:20
旧参謀本部/編纂の「日本の戦史」って信用できますか?
講談本からの引用が多くて、あんまり信用できるものでは無いと
聞いたんですが。
986動画直リン:03/05/03 22:21
987日本@名無史さん:03/05/03 22:35
>>979
1853年(嘉永6)開港を求めて長崎に入港したロシア使節 E. V. プチャーチンは
蒸気機関車の小型模型を披露し,
翌年2度目のペリー来朝のときには将軍家定へフィルモア・アメリカ大統領から
蒸気機関車と客車の模型が献上され,横浜の応接所裏でアメリカ人による運転
が行われており,55年(安政2)には佐賀藩によって模型の製作,運転もなされた。
988日本@名無史さん:03/05/03 22:39
>>981
後半の明治天皇は、政治調整役として、割と上手だったようです。
昭和天皇は、軍部に独断を許しすぎたり、その独断を褒賞したり、
作戦に口出ししたり、調整役としては今一歩ではないかと。
ま、時代も違いますからなんともいえませんが。
989日本@名無史さん:03/05/03 22:59
>>985
旧参謀本部ですからね。編纂が。
古い時代の戦記から編纂してますから、どうしても俗説が入ってしまう
のではないかと。
近代の戦争では「戦史叢書」が正確とか。
990日本@名無史さん:03/05/03 23:04
ところで次スレは立ったの?
991日本@名無史さん:03/05/03 23:26
立ってないね。ワシは無理。
ところで、
http://academy2.2ch.net/history/index.html#4
で、一本化ではなんか問題あるのかな?

世界史板だと、一般質問スレと中高校生用スレの2つあるけど。
992日本@名無史さん:03/05/04 00:54
>>984
 定番は、佐藤進一『新版 古文書学入門』(法政大学出版局)でしょう。
ただし、「入門」とあるものの、レベルは高いです。
 独学が厳しければ、地域の古文書講座などで学ぶのもいいかも。
 あと、興味ある時代・地域・分野をいってくれれば、答えやすいかもしれ
ません。たとえば、鎌倉時代政治史の活字史料なら、吾妻鑑・御成敗式目が
定番です。
993日本@名無史さん:03/05/04 06:26
諸国の大名戦々恐々
次は山名か赤松か
次は赤松討たるべし

‥うろ覚えなのですが、嘉吉の乱直前に流行ったとされるわらべ歌は
これでよかったのでしょうか。検索しても引っかからないのですが
フルテキストをご存知の方いらっしゃいましたらご教示ください。
994日本@名無史さん:03/05/04 13:39
次はここでいいよ

★★日本史よろず問い合わせ処 其ノ九★★
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1050207840/
995984:03/05/04 15:39
>>992
ありがとうございました。
996日本@名無史さん:03/05/04 16:24
>>991
明確なコンセプトの違いがあればね。
>>994は検索しにくいから、
ここの後継スレ立てなければどうせまた別の質問スレが立つよ。
997歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw :03/05/04 17:30
997
998歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw :03/05/04 17:32
白装束の998
999歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw :03/05/04 17:33
電磁波が気になる999
1000歴史学博士の俺様 ◆5bPHc0xjTw :03/05/04 17:33
そして最後の1000
10011001
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