★★日本史よろず問い合わせ処 其ノ九★★

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
くだらない質問スレを立てる前にこのスレに質問しる

過去のスレッド

素朴な疑問質問のスレ
http://mentai.2ch.net/history/kako/969/969624784.html
日本史版質問統一スレッド
http://mentai.2ch.net/history/kako/974/974738924.html
★くだらない質問、近現代史編★
http://mentai.2ch.net/history/kako/985/985320244.html
くだらない質問はここに書け
http://mentai.2ch.net/history/kako/981/981044823.html
くだらない質問はここに書け その2
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10051/1005111739.html
日本史なんでも質問コーナー Part6
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1016622804/
日本史よろず問い合わせ処 其ノ七
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1024836631/
日本史よろず問い合わせ処 其ノ八
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1036379545/
2日本@名無史さん:03/04/13 14:15
ゲッツ!
>>1さん。乙かれー。
3日本@名無史さん:03/04/13 14:58
★★が4つもあって、イィ!!\(^O^)/★★
4日本@名無史さん:03/04/13 22:36
お願いします
http://www6.airnet.ne.jp/takano/s5k306.htm
>東御苑内の防空壕。人ではなく、皇帝の証である三種の神器を守るため
>に作られた物だという。
>三種の神器は溥儀が偽満州国皇帝即位の際、日本神道を押しつけるため
>伊勢神宮より下されたレプリカだそうである。

この文の意味がよくわからないのですが。
皇居内の防空壕に三種の神器を持ってきてたのですか?
それとも、溥儀に上げたレプリカを持って返ってきてたのですか?



5日本@名無史さん:03/04/13 22:56
江戸時代の独身男性の性処理はどうやってたの?
やっぱ遊郭?
6日本@名無史さん:03/04/14 12:35
>>5
遊郭&夜這い&祭りの無礼講&男色
7日本@名無史さん:03/04/15 09:04
>>5
好色本、錦絵
8あぼーん:あぼーん
あぼーん
9日本@名無史さん:03/04/15 23:15
>>5
後家さん
10日本@名無史さん:03/04/16 12:51
agedasidouhu
11質問:03/04/16 14:20
ときどきスレで、戒名について
院号付きの居士は幕府の直臣や藩士等の組織に属した武士、院号無しの居士は郷士
とあり、幕末の戒名は金次第とありますが、江戸初期や中期にはどの程度あてはまるの
ですか?先月、墓参りに、行ったとき読解できる、一番古い墓で正保2年から
OOOO居士で幕末はOO軒OOOO居士となっていました。先祖が郷士という話は
聞いたことがありませんから、よほど金積んだんでしょうか?
12日本@名無史さん:03/04/16 14:31
江戸時代における民間寺院の葬儀で実用された位使贈号の原則のおおよそは,
関東の西多摩郡大悲願寺(もと醍醐寺三宝院末,1899年長谷寺末に転宗)の
江戸期の活版僧として知られる如環が書いた〈《和国葬礼奠法属釈由来》〉
に一括整理されている。以下に抄出紹介する。( )内はその注である。
〈院殿号・居士号(普門品の疏に曰く,多く財貨を積み居業豊盈なるを以て
之を居士と謂う)
・大姉号(貴姉称美の通して大姉と号す)
・法師号(八戒十戒已上は法師号にして出家の部也)
・入道号(剃髪染衣の号)
・信士男(在家五戒の得号)
・信士女・清信士男・清信士尼
・浄信尼(八戒十戒の尼女,剃髪染衣の号なり)・禅定門(略には禅門)
・禅定尼(略に禅尼)(按ずるに尊氏将軍御治世頃より関東に此号多く用いる,
禅宗に事夥き故に漸く諸宗に此風相続して世上一同の官号とすると云う
なり,是は禅家の位号なり)・童子男(略しては童男)・童子女(略しては童女)〉云々。
その前後の時代を含めた運用の実際については別の問題であり,他宗と
の差異についても同書は〈是は古来より其宗旨寺格の私官なる故に一山
の定格なれば他山の格とは相違すること多し〉と注している。

金次第もあるし、その時期の景気や、時代風潮の違いもあるのでは。
13さとこ:03/04/16 17:58
うちの祖先の墓(江戸時代中期から末期)に「少僧都」とありました。この
時代の少僧都って偉いの?それとも僭称?
14日本@名無史さん:03/04/16 19:14
奈良時代以後に制定された僧官。僧正・僧都・律師の三階を、
さらに大僧正・僧正・権僧正、大僧都・権大僧都・少僧都・権少僧都、
律師・権律師の九つに分けたもの。

現代ではこんな感じ、
全国に末寺七千か寺を抱える浄土宗(総本山・知恩院、京都市東山区)
の位は僧階と呼ばれる。
七段階があり、得度した直後は高校卒で「律師(りっし)」、大学卒では
一つ上の「少僧都(そうず)」。最高位の「大僧正(そうじょう)」に
は本山の法主(ほっす)クラスしか就けないが、ナンバー2の「正僧正」
までなら寄付が道を開くことも。

偉いかどうかは価値観にもよりますが、歴史的には上を狙う僧が多かった
そうですが、最近は気にしない僧がふえてるそうです。
江戸時代では9段階中6段階目って感じかな。
15さとこ:03/04/16 19:19
>>14
ありがとうございました。
そのころのお墓が6個ほど並んでいてみな同じ形でした。
野球のバットをぶっとくしたような形。親は代々お坊さんだったんだよ
といっていました。山の中にあって長年風雨にさらされたらしく、
はっきり字が読めるところが少ないです。
今度の休みにでももう一度行ってみて何とか読んでみます。
16日本@名無史さん:03/04/16 19:45
みんな急げ!

笑わせてくれた人に乳晒すよ♪
1 名前:優香16歳◆qIyuKaRIN 投稿日:03/04/17 15:22 ID:32jzkS4D
優香がホンキで面白かったと思う人だけだよ

2 名無しさん@お腹いっぱい。 :03/04/16 15:22 ID:qwLNdZ3a
2ゲットズサー

3 名前:猫男爵 ◆CATe2wkeew 投稿日:03/04/16 15:23 ID:jQ4aLppV
うぉーマジかーーーーーー
http://music2.2ch.net/test/read.cgi/mendol/1050485395/l50
17日本@名無史さん:03/04/16 22:18
>>16
いやぁ、ありがとう。えがったよ。
18質問:03/04/16 23:07
>>12 ありがとうございます。ようするにあまり深い意味はないということですね。
19山崎渉:03/04/17 13:07
(^^)
20日本@名無史さん:03/04/17 15:49
スレを救助してきました
21日本@名無史さん:03/04/17 16:50
ところで新渡戸稲造の「武士道」の要約を教えて下さい。

「明治維新の成功は支配者階級である武士の倫理観を一般庶民に植え付けたからだ」
というようなことが記載されているくだりはありますか?
22日本@名無史さん:03/04/17 19:01
>>21
図書館に必ずと言って良い程おいてある本だから自分で読め
人が読んだものを聴くと、読んだ人の考えが入るから誤差が大きくなる
どうせレポートの提出を求められたんだろ?
23日本@名無史さん:03/04/17 19:24
江戸期における鎌倉についておしえてください。鎌倉時代以降歴史には
登場していないようですが、今と同じようにただの観光地ですか?
鎌倉という土地じたいは天領?それとも鶴岡八幡宮支配?
鎌倉幕府のあった場所ですから江戸幕府はなにかしら保護していたのですか?
24日本@名無史さん:03/04/17 20:06
邪馬台国って今はどの説が有力?
25日本@名無史さん:03/04/17 20:07
>>23
これと言って保護はしてないみたいだね。

京都の幕府との対立抗争などで,鎌倉府の勢力がおとろえるにともなって,
都市としての鎌倉も衰微し,1455年(康正1)幕府からの追討軍によって鎌倉御所成氏
が鎌倉を追われ,下総の古河を拠点とするに及んで,政治都市としての生命は終わってしまった。
以後の鎌倉はまた農漁村の集落にもどったが,それでも仏師や刀鍛冶をはじめ
かなりの手工業者が残って,かつてのなごりをとどめていた。
江戸時代に入ると,ようやく江戸の近郊の観光遊覧地として発展するように
なり,名所旧跡の遊覧や社寺の参詣の客が増加して旅宿が並び,地誌,案内記
や絵図の出版も盛んに行われ,十橋,十井,五名水などの名所が整えられたが,
基本的には東海道藤沢宿の在の農漁村にとどまった。
26日本@名無史さん:03/04/17 22:55
>>1さんに質問

どうしてスレタイに、検索しやすいように『質問』の二文字を入れなかったんですか?
どうして質問スレは一つに統一できないんですか?
2723:03/04/18 10:25
>>25 ありがとうございます。
28日本@名無史さん:03/04/18 11:16
>>24
やはり、両論のままですね。
今年シリーズが完結した「日本の歴史」講談社の該当巻では、
大和説でした。
学者の出身地や所属団体が影響するとかと言うなさけない話も聞きます。
29日本@名無史さん:03/04/18 12:53
古代、中世、近世、近代、現代って区分は
いまはいいけど300年後ぐらいにはどう表記するんですか?
近代まではまぁ100歩譲っていいとして
問題は現代。
現在は今を現代とするけど
300年後の現代は当然300年後。
とすると300年後の2000年代前後はどう表記されるのでしょう?
近代に含まれるの?
すると人類の歴史が続く限り近代に含まれる時代が増えるんですか?
30日本@名無史さん:03/04/18 12:55
北条早雲のことを調べているのですが、
早雲時代の末期から氏康時代の前期の重臣
大道寺盛昌のことを早雲の従兄弟とか氏綱のいとことか
書かれていることがあります。
どういう関係なのか、ソースとなる資料が何なのか
わかる方、ご教授願います。
31日本@名無史さん:03/04/18 13:37
>>29
1945年以後は「現代」がずっと伸びていくだけでしょう。
ただし、世界的規模の核戦争とかが起きた場合は、それ以後を「新現代」
とかいうかもしれませんが。
32日本@名無史さん:03/04/18 19:05
自分の住んでいる土地の歴史について調べているのですが。
「山城国愛宕郡の西側」について土豪や国人や守護代や地頭など誰か名前のある人が出てきますか?
調べたりしたんですが、平安京が出来るまではカモ氏が久我に住んでいて、出来てからは七野と呼ばれる御猟区だったらしく、近代に入ってからは賀茂六郷と呼ばれる上賀茂社の社領になっているんです。
中世の文献を当たっても大徳寺や応仁の乱しか出てこず、誰も出てきません。
もし知っておられたりしたら教えてください。
33日本@名無史さん:03/04/18 20:34
>>32
この地名による古代姓氏の小野臣は、神話時代から続く大族として知られて
います。
 その本流は、山城国愛宕郡および宇治郡の発祥で、洛北の高野川沿いに伸び
た古代氏族です。孝昭天皇(5代)の後裔春日氏と同族で、春日小野臣から小
野臣に分かれました。
http://www.melma.com/mag/41/m00051541/a00000014.html

これはダメかな?
3432:03/04/18 20:53
>>33
ありがとうございます!
すごい、小野さんて有名な小野さん勢ぞろいですね・・・
しかし、どちらかというと愛宕郡の西側・・・加茂川の方を探しているのです・・・
カモ氏・出雲氏は色々文献にも出てくるのですが・・・
35ネオ麦茶R:03/04/18 21:34
阿多忠景の乱を起こした阿多忠景の父伊作良道は誰の子ですか?
36日本@名無史さん:03/04/19 14:20
そのころ醍摩半島南部を中心に阿多平氏とも伊作平氏とも呼ばれる鎮西平氏一族
が繁衍しており,1138年(保延4)に阿多郡司としてみえる阿多忠景は醍摩権守
を称し,大隅にまで勢力をのばした。

薩摩平氏まではわかったんだが。
37山崎渉:03/04/20 01:51
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
38日本@名無史さん:03/04/20 09:23
あげ
39日本@名無史さん:03/04/20 12:20
>>32さん
じもぴ〜なら京都府立資料館には行った?たしか地域別の歴史の資料もまとまってあったと思うが。。。
私も鴨川西岸の中世史については詳しく分からない。お力になれなくてごめんに。

40日本@名無史さん:03/04/20 12:34
薩摩つながりで便乗。

島津家久(義弘の息子の方)をちょっと調べているのですが、どうも疑問が解決しない。
彼は「1624年(寛永元年)他藩に先駆けて妻子の江戸居住を実施している」と説明に
よく書かれているんだが、正妻の亀寿を調べてみると「1630年(寛永7年)死ぬまで
20年現鹿児島県国分市の舞鶴城に居住」とある。
となると、家久が江戸居住させた「妻子」というのは何もんなんでしょうか?
41日本@名無史さん:03/04/20 14:54
島津亀寿(しまづかめじゅ)
1571(元亀2)〜1630(寛永7)
島津久保夫人。久保死後は忠恒(家久)夫人になるが不遇であったという。
島津義久の3女。母は種子島時尭の娘。時明夫人(ジメサア)という。
器量には恵まれなかったらしいが、優しく明るい人柄で慕われてた。
1587(天正15)年秀吉のもとに人質として送られる。
秀吉治世中は大坂に、江戸幕府成立後は江戸に住んだ。
http://www4.plala.or.jp/uzuland/ayakagami/kamejyudouzou.html

だそうです。
42日本@名無史さん:03/04/20 14:57
>>39
区の区史編纂質か教育委員会に訪ねては?
私の市の史料編纂質には、鬼のようなコンピューター頭脳で、教えたがり屋の
専従職員が一人います。
ほとんどなんでも知っている。
ただで教えまくりますw。
4340:03/04/20 15:17
>>41
実はそこのHPはすでにぐぐったのだ(汗)
もう少し詳しいネタを、、、って、図書館逝った方が早いのかな(涙)
しかし、島津氏。案外資料や本ががすくねえ。なんで?
44日本@名無史さん:03/04/20 20:57
>>43
鹿児島県の関係機関に電話せよ。
45日本@名無史さん:03/04/20 22:10
藤原実資がまとめた平安時代の儀式書って公務員として整理した公の資料なのか、それとも私人として整理した私物なのか。
他家の貴族は閲覧できたのか、藤原家にお願いしないとみせてくれないのか。
(勤務時間中に、公務員としての立場を利用して整理したと思われるので私物だとすると納得いきませんが)
46日本@名無史さん:03/04/20 22:52
小野宮年中行事
おののみやねんちゅうぎょうじ

藤原氏小野宮流の年中行事の儀式作法を説明し,有職関係のことなどをあわせ
記した書物。1巻。著者は藤原実資。
実頼(実資の養父)と師輔の兄弟は,父忠平の教命を受けて,それぞれ小野宮流,
九条流の有職を確立した。実頼は日記《清慎公記(水心記)》以外にとくに行事
に関する書物は作らなかったため,実頼の儀礼を小野宮流として完成させたの
は実資の本書である。《弘仁式》《貞観式》をはじめ,多くの日記類等を引用
するが,そのなかには現在散逸して伝わらぬ書も少なくない。《群書類従》所収。
4732:03/04/20 22:55
んー、一応京都府立資料館と、中央図書館には行ったのです。
戦国守護大名が載っている本では、細川・山名・赤松なんかが山城国守護をしているのです。
山城八郡中、下五郡(北側・愛宕郡含む)を見ると、守護代として結城氏や香西氏の名前が見えるんですけれど、
彼らもまた他の国出の任官なのです。鎌倉時代では六波羅探題が山城国守護を兼任していたそうです。
要するに自分が探したいのは、中世及びその少し前に愛宕郡大宮郷付近より出た人物か
愛宕郡大宮郷付近で勢力を誇っていた家系の人で、武士になり、ある程度の活躍と歴史を残した人なのです。
けれど、どうやら、該当する人がいないようなのですよね・・・。
48日本@名無史さん:03/04/20 22:58
>>47
民草がおるではないか。国の宝ぞ。
49日本@名無史さん:03/04/20 22:59
『小右記』のこと?!
これは「日記」なので、私物ですな。、、、うーん、そういうのも何か変だ。

実は平安時代の貴族の「日記」というのは、毎日の行事とかその中での儀式の順番
などを書いておく”備忘録”的な役目があって、、、つまりだな、貴族の日記とは
「私的」な物であるんだが、将来は子孫に伝える「公的」な物でもある。
こういう背景があるので「日記」は一種の「秘伝書」みたいな意味もあり、そう簡
単に他人には見せる物ではなかった、様な記憶が。

あんまり上手く説明できんかった。スマソな。
5049:03/04/20 23:03
あ、これは
>>45
に対するカキコでした。
それと46さんの言うことが正しいので、これはスルーしてくれ。
しばらく回線切って逝ってきます
51日本@名無史さん:03/04/21 17:52
有職故実は貴族の必須アイテムだからな。
各氏が、必死こいてたかも知れんな。

そこに藤原が出てきて、リーダー性を発揮すると・・・。
5240:03/04/21 22:16
そーかー、資料館にはもう行かれたのですな
それはすまんこって。

京都は鎌倉とか室町の辺りの細かい状況がもう一つ不明瞭かも知れないな。
応仁の乱とかでいろいろ焼けたからかも知れないけど。
愛宕郡大宮郷かあ、、、豪族がいても、京都は政治の舞台になったところ
だから単独で大きな勢力は育ちにくい鴨ね。
53日本@名無史さん:03/04/22 11:38
区史編纂室か区教育委員会が良いって。多分。
54日本@名無史さん:03/04/23 08:43
age
5540:03/04/23 21:08
結局自分で調べてしまいました(トホホ)
以後事後報告

亀寿は慶長17年(1610年)〜寛永7年(1630年)は大隅国国分(現・鹿児島県国分市)
の舞鶴城に在住。
寛永元年(1624年)に江戸に行ったのは実は側室の島津忠清の娘(名前不明)。世継ぎの
次期藩主・島津光久の実母。但し、彼女は翌年には江戸で病死。

ということのようです。
56日本@名無史さん:03/04/23 21:22
江戸期の浪人は、明治後、士族?平民?
57日本@名無史さん:03/04/23 22:24
次の文の感じだと平民かな?

多くの浪人らは学術の修業に精励し,そのなかから新井白石や荻生徂徠をはじめ
当代一流の学者が輩出した。なかには松尾芭蕉や近松門左衛門のように文芸,
演劇の方面に進出した者もあり,身過ぎ世過ぎに町道場を開き武芸の指南を
こととし,あるいは寺子屋を営み手習(てならい)の師匠として庶民教育にあたる
者などもいた。これをみると,浪人らの江戸文化の発展に果たした役割がいかに
大きなものであったかがわかろう。このほか幕末には,政治運動に参加し,
歴史の動向に影響を与えた人々のあったことも忘れてはならない。
ちなみに,浪人の名儀は,維新に際会して消滅した。
また浪人らは,士籍を失ったのちにも苗字帯刀を許されて武士のような体裁
を保ったが,町方にあっては裏店(うらだな)の借家に住居し,身柄は町奉行
の支配下におかれるなど,その法的身分は百姓,町人らとなんら変わるところ
はなかった。
5856:03/04/24 00:01
>>57 ありがとうございます。武田浪人などありますけど、上記の浪人と同じ
部類ですか?
59日本@名無史さん:03/04/24 15:03
どの藩にも召抱えられていなければ、同じだったと思います。
60日本@名無史さん:03/04/24 16:34
今論議されている憲法改正が成立すると、時代の1区切りになるのでしょうか
それとも元号で区切るだけでしょうか
61日本@名無史さん:03/04/24 17:22
日本で最初に立てられた神社は何ですか。それは何を祀っているのですか。
62あぼーん:あぼーん
あぼーん
63日本@名無史さん:03/04/24 20:03
義経はジンギスカンなんだろ?
64日本@名無史さん:03/04/24 20:04
云亭とはこうろかんとは?
65日本@名無史さん:03/04/24 20:12
1、なぜ戦後いともたやすく戦争にたいする洗脳が解けたのか?
2、日本人がアレだけ殺されたのにもかかわらずギブミーチョコレートといって占領軍にチ被けたのか?
3、非常に憎いアメリカへの報復手段としてプロレスという大衆的娯楽になったのはなぜか?また
力道山は恨みをこめてガチで試合をしていたのか?
4、アメリカは日本を植民地化しなかった理由は?また残虐的に扱わずよい方向へもっていこうとしていたようにもおもえるが?
66日本@名無史さん:03/04/24 20:14
平安の貴族は豪華な暮らしをしていたそうだが
今にくらべると
電気、ガス、水道などないのに今より豪華といえるのだろうか?
67日本@名無史さん:03/04/24 20:14
>>61
今みたいに社殿のある神社の嚆矢は出雲大社ではないかと言われている
祭られているのはご存じのだと思いますが大国主命です。

>>64
「云亭」
奈良時代後期に存在した「日本最初の図書館」と言われる。
作ったのは石上宅嗣という当時の高官。
「香櫨館(こうろかん)」
奈良時代〜平安時代初期に存在した公設の迎賓館。
発掘により、平和台球場の辺りに建っていたことが判明。
68日本@名無史さん:03/04/24 20:24
福井藩松平家と津山藩松平家ってどっちが本家なの?


69日本@名無史さん:03/04/24 20:32
>>67
芸亭じゃないの?
5TAKUの答えはそうだった。
70日本@名無史さん:03/04/24 20:49
あ、その通りです
誤字だ鬱陀氏農
71日本@名無史さん:03/04/24 22:23
平安時代の市って誰でも参入できたのですか。それとも許可制ですか。物の値段は市場価格で決められていたのですか、それとも公定価格ですか。
72日本@名無史さん:03/04/24 22:25
>>60
元号は変わりません。天皇とセットですから。時代区分なるかは変更の内容によるでしょう。

>>63
そういう伝説があります。

>>65
>1、なぜ戦後いともたやすく戦争にたいする洗脳が解けたのか?
戦時後半から厭戦気分が国民に広まってきてた。物資不足に空襲に家族の死。
戦後の新聞で、満州事変の嘘や、大本営発表の嘘がばれて、反発をかった。
天皇が平和勢力に鞍替えした。

>2、日本人がアレだけ殺されたのにもかかわらずギブミーチョコレートといって
>占領軍にチ被けたのか?
腹が減ってた。アメリカが自由を運んでくれたと言う実感も少しづつ広まった。

>3、非常に憎いアメリカへの報復手段としてプロレスという大衆的娯楽になったのはなぜか?
>また力道山は恨みをこめてガチで試合をしていたのか?
プロレスは、当時の流行。だいたい、ホーム側のレスラーが善玉で、外人が悪役。
力道山は、在日朝鮮人。北朝鮮に力道山のマンガがある。

>4、アメリカは日本を植民地化しなかった理由は?また残虐的に扱わずよい
>方向へもっていこうとしていたようにもおもえるが?
第一次世界大戦後のドイツへの復讐的条約がヒトラーを生んだとの経験。
民主主義を教え、害のない国にしようとした。
殖民地にするよりは発達した国民国家だった。
最初は東洋のスイス、後に反共の防波堤にしようとし、発展させた。

66 :日本@名無史さん :03/04/24 20:14
平安の貴族は豪華な暮らしをしていたそうだが
今にくらべると
電気、ガス、水道などないのに今より豪華といえるのだろうか?
73日本@名無史さん:03/04/24 22:34
>>68
福井藩じゃないかな。本家争いとかしてるようだけど。
http://www.google.com/search?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=%95%9F%88%E4%94%CB++%92%C3%8ER%94%CB+%96%7B%89%C6&lr=
74日本@名無史さん:03/04/24 23:09
>>66
豪華とかは、その時代ごとの相対的なものですから。

>>71
大寺社などが管轄し、座の原始的な職能集団の許可で参加できたと思われます。
意外と、市場価格でしょう。
75日本@名無史さん:03/04/25 00:40
郷士と浪人の違いは?浪人が帰農すれば郷士ですか?
76日本@名無史さん:03/04/25 01:09
日中戦争と太平洋戦争が起こった理由を簡潔に説明できる?
思想的に偏り無くしかも中学生に教えるような感じで。俺にはできん。
77日本@名無史さん:03/04/25 13:31
>>75
郷士は武士よりは下ですが、農民(平民)より上です。
浪人は、平民扱いです。帰る土地がありません。土地ゲットで農民です。
78日本@名無史さん:03/04/25 13:34
>>76
大国の思惑の違い。

簡潔過ぎるな。
79日本@名無史さん:03/04/25 13:36
>>76
「むかーし昔、中国が欲しくなって、攻めに行って日中戦争となりました。
そのあと、南の国の資源が欲しくなって、ハワイと東南アジアを攻めに
行って太平洋戦争となりました。
負けました。終わりです。
詳しくは、自分で勉強してね」
これじゃ、小学生向けかw?
80日本@名無史さん:03/04/25 14:02
>>76
「持てる国と持たざる国の戦争」ライシャワー

でもこれでは第二次大戦の説明かあ。
81日本@名無史さん:03/04/25 21:33
ライシャワーの言葉だったんでっか?
82日本@名無史さん:03/04/25 22:57
>>81
元々は分からん。
でも、ライシャワーはこの表現をよく使った。
83日本@名無史さん:03/04/26 01:28
巴御前は実在したのでしょうか?
ググッてみても、実在した、実在しなかった、不明、と人によって言っていることがバラバラで、
その根拠も書いてないので、よく分かりません。
ご存知の方、教えてください。
84日本@名無史さん:03/04/26 14:04
「高麗版大般若経」とはどのようなものなのですか?
重要文化財となるほどのものなので、日本史的にも価値があるもの
だと思うのですが。

http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kako/200107/23.html#09
壱岐の重文経典盗難事件が時効

 一九九四年に壱岐芦辺町の安国寺から国の重要文化財「高麗
版大般若経」が盗まれた事件は、二十三日午前零時で七年の時
効が成立した。酷似した経典三巻が九五年に韓国で国宝に指定
されたことが判明。外務省が韓国側に調査協力を要請したが、同
一物か確認できないまま終結となった。
85日本@名無史さん:03/04/26 14:13
>>83
よく売れてる百科事典にはこう書いてありました。
巴御前
平安末期〜鎌倉初期の女性。生没年不詳。源義仲の乳父中原兼遠の娘で,
木曾四天王といわれた誇口兼光・今井兼平兄弟の妹。
武勇をもって知られ,義仲に従って合戦に参加したが,1184年(元暦1)
正月,義仲が敗死すると信濃に帰った。
《源平盛衰記》によれば,源頼朝に召喚されて鎌倉に参上し,斬首される
ところを和田義盛の請により免れ,その妻となり,朝比奈三郎義秀を生んだ。
和田合戦で義盛・義秀が討たれると,越中国石黒に行き,出家して91歳まで生きたという。
by小田 雄三
86日本@名無史さん:03/04/26 14:24
>>84
高麗時代に作った版木ですった大般若経ですね。
経典は、当時の印刷技術などからすると貴重品でしたから、
日本史的にも価値があると思います。
般若経は、奈良時代から日本で盛んに写経されています。

ただ、事件の真偽は闇の中ですね。証拠がない限り韓国を疑えないし、
韓国は植民地時代の関係でに文化財には敏感とそのサイトにもありますね。
87オレは将校:03/04/26 14:33
>84
じこうといっても犯人が海外にいるときは時効停止だから
まだ追求中だよ
韓国は盗品展示で国辱をさらしているだけだ。 いかにも韓国らしいが
関係者も日本に着たら逮捕だよ
88日本@名無史さん:03/04/26 17:14
>>67
ありがとうございます記憶が定かでないもので
89日本@名無史さん:03/04/26 17:21
東洲斎写楽は実在してないそうだが?
90日本@名無史さん:03/04/26 17:24
原爆の標的は、長崎、広島のほかにあったのか?またアメリカは遺跡を守るために京都を
空襲しなかったのか?ナゼ沖縄にもあるのに空襲したのか?
大久野島の真実を語れますか?
91日本@名無史さん:03/04/26 17:24
>>72
よくわかりました
92日本@名無史さん:03/04/26 17:28
>>90
ファットマンの本来の投下目標は小倉、それ以外にも原爆投下候補地として新潟、初期は京都もあったとか。
また遺跡があったから京都を空襲からはずしたというのは戦後の作り話
93日本@名無史さん:03/04/26 22:24
>>90
5ヶ所以上はあったようです。京都は5は爪の原爆投下予定地です。10月ごろ。
>>92さんの言うとおりに、遺跡で空襲からはずしたと言うのは虚説です。

大久野島
おおくのじま
広島県竹原市に属する芸予諸島の一島。面積0.7km2。本土より3kmの位置にあり,
現在国民休暇村(1963開設)の島として親しまれているが,〈毒ガスの島〉の異名がある。
明治中期に呉軍港のための砲台が置かれたが,大正末に撤去された。
1927年旧陸軍は国際条約による使用禁止にかかわらず,この島に毒ガス工場を設置し,
機密保持のため数戸の農家を立ち退かせ,以来第2次世界大戦敗戦まで一般の立入りを厳禁した。
工場の最盛期は日中戦争が勃発してからで,従業員は2000人をこえた。
びらん性猛毒イペリット,青酸ガスなどが生産され,もれた有毒ガスで全島の立木は枯れ,
ネズミも死滅した。国家総動員法で集められた従業員は敗戦までに5000人とも6000人ともいわれ,
後年毒ガス障害に苦しむことになった。
その実態は52年以降広島大学の研究によって明らかにされた。
94日本@名無史さん:03/04/26 22:29
>>89
少し前の説ですが。

生没年不詳。1794年(寛政6)5月から翌95年1月までの正味10ヵ月間(途中
閏月がはさまる)を活躍時期として,役者絵,相撲絵の版画140余図とい
う多くを発表。当時おおいに人気を得たらしいが,その後は浮世絵界と
の交渉をまったく絶ってしまった謎の絵師。
《増補浮世絵類考》(斎藤月岑編)に〈俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀
 阿波侯の能役者也〉と記されているところから,一時阿波蜂須賀侯お
抱えの能役者説が行われたが,その後これを否定する見解が支配的となり,
葛飾北斎など当時の知名人に仮託する諸説が提出されてきた。
ところが近年〈写楽斎〉と号する浮世絵師が八丁堀の地蔵橋辺に居住し
ていたことが知られるようになり(《諸家人名江戸方角分》),
旧説への関心が高まりつつある。
ともあれ写楽の役者絵,相撲絵は,すべて蔦屋重三郎(蔦重)を版元と
して刊行されており,喜多川歌麿や十返舎一九を育てたと同じように,
蔦重の炯眼なればこそ発掘し得た異色の新人であった。
95日本@名無史さん:03/04/26 22:31
「海鼡腸」ってなんて読むんですか?
96日本@名無史さん:03/04/26 23:03
>>95
これ、「海鼠腸」が、本当の字じゃないかな?
読みは「このわた」。「こ」はナマコ、ナマコのはらわたの塩辛。
ナマコで海鼠、コノワタで海鼠腸とパソコンでも変換する。
献上品か何かに出てきたんじゃない?
97日本@名無史さん:03/04/26 23:29
>京都は5は爪の原爆投下予定地です。10月ごろ。

45年当時、米軍は核を何発保有していたの?
98日本@名無史さん:03/04/26 23:43
>>95,96
 コノワタですね。延喜式では、能登からの貢納物です。
 ちなみに、現在も売ってます。塩辛い&生臭いけど、機会があれば
食べてみてください(って余計なお世話ですね)。
 ついでにいえば、「鰒」はアワビです(現在は「鮑」が一般的)。
99日本@名無史さん:03/04/27 03:20
>>97
七月の時点では三発。そのうち一発(長崎型?)は米国内で爆発実験に使用され、
残りの二発が日本に投下されました。
100日本@名無史さん:03/04/27 05:18
日本にある食物はほとんど海外から伝来したもので元からあるものはないんですよね?
101日本@名無史さん:03/04/27 05:19
>>93
>>94
ありがとうです
102日本@名無史さん:03/04/27 12:03
>>100
刺身、海草、天ぷら(南蛮渡来ではないらしい)、寿司、カレーライスなどはどうかな?
103日本@名無史さん:03/04/27 20:52
age
104日本@名無史さん:03/04/27 22:50
建武の親政って何処で行ってたの?
105日本@名無史さん:03/04/27 22:59
>>104
1333年(元弘3)5月に鎌倉幕府を滅ぼしてから,36年(延元1‖建武3)10月
に足利尊氏に降伏するまでの後醍醐天皇の政治は、京都にて行う。
10683:03/04/28 00:01
>>85
レス、サンクスです。
それだけプロフィールがはっきりしているのに、実在しなかった説があるのが不思議ですよね。
もしかして、巴御前のプロフィールのソースって、平家物語や、源平盛衰記などの物語のみなのかな?
もう少し詳しく調べてみます。
どうもでした。
107日本@名無史さん:03/04/28 16:22
どういたしまして。調査結果を楽しみにしています。
108日本@名無史さん:03/04/28 22:29
age
109日本@名無史さん:03/04/29 21:36
oe
110日本@名無史さん:03/04/29 21:49
天皇は鎌倉幕府〜江戸幕府のあいだ
毎日何をしてたんですか?
111日本@名無史さん:03/04/29 21:52
自称歴史学者のスレで質問すましたが、肝心の彼のお方ははゴールデンウィークで不在のようです。
頼りになりません。
のでどうかこちらで宜しくお願いします。

私の知りたい事は以下のことです。↓
織田信長が比叡山の焼き討ちした頃の比叡山の状況はどうだったのでしょうか?
自分的には、
@僧侶は権力の亡者となり、金満・淫乱・強欲坊主と化していた。
A僧兵は名前には僧の1文字がついているが、実際はただのやくざ・極道並の用心棒であった。
B密教独特の禁欲的生活など無く、里からさらってきた女・子供は性奴隷と化していた。
C喜捨や献金だけではその豪奢な生活は維持できるはずも無くなかば実質的には
僧兵は強盗団と化していた。

112日本@名無史さん:03/04/29 21:53
森蘭丸は信長を抱いたんですか?
それとも抱かれたんですか?
113日本@名無史さん:03/04/29 21:57
今日環七走ってたら、
葛西城祉公園てあったんだけど
あんなとこに城があったんだね。
湿地帯に城があってのかね?
名前通り葛西氏の城ですか?
114日本@名無史さん:03/04/29 22:13
>>111
延暦寺焼打
1571年(元亀2)9月12日,織田信長が比叡山延暦寺の根本中堂,山王二十一社
をはじめとする諸堂社をことごとく焼き払った事件。
前年9月,三好三人衆,本願寺顕如に呼応して南近江に兵を進めた浅井・
朝倉軍の一部は叡山に拠って信長に対抗した。
信長は,翌年,この敵対的行為の報復として全山を一気に攻撃,焼亡させた。
このとき,王城の鎮護として広く信仰されていた叡山の堂宇以下寺宝・
古文書類はほとんど灰燼(かいじん)に帰し,この信長の行為は多くの驚き
と非難を集めた。
しかし,この焼打ちは,堕落しつつも依然宗教的権威であり,大荘園領主
あるいは金融・流通支配者として絶大な力をもっていた叡山をまっこうから
否定するものであり,中世から近世への移行過程の中で重要な意味をもつと言える。
延暦寺は信長の死後,復興に着手され,豊臣秀吉・徳川家康の寺領安概も受けて,
寛永年間(1624‐44)にはほぼ旧観に復するが,昔日の勢力は失った。

比叡山は、鎌倉期に法然,親鸞,日蓮,道元などを輩出し、戦国期でも大土地所有者
であり、大金融貸屋であり、宗教的権威・学問的権威もまだ強かったようです。
ただし、内部では昔から出世競争の派閥争いが激しく、世俗権力とのからみも
強く、それが信長の怒りをかったようです。  
115日本@名無史さん:03/04/29 22:28
>>110
[鎌倉・室町幕府と天皇]1185年(文治1),源頼朝は〈日本国総追捕使,
日本国総地頭〉に任命され,全国の軍事警察権を一手に掌握し,武士勢力を直接,
間接に支配するに至った。頼朝はさらに奥州征伐を前にして征夷大将軍の任命を
奏請したが,後白河上皇はこれを許さず,上皇の没後,ようやくこれに任ぜられた。
ただそのときにはすでに征夷の実質はなく,名目的な職名にすぎなくなっており,
頼朝はわずか在職2年にしてこれを辞任した。しかし頼朝の後継者は,
征夷大将軍の任命を佳例とし,武家の棟梁にふさわしい称号として重んじ,
代々その任命を奏請した。
一方,社寺を含む公家勢力は,一応京都の公家政権の支配下におかれ,
公武両政権併立の外観を呈したが,承久の乱(1221年)により公家勢力は
鎌倉幕府に屈服を余儀なくされた。
しかし一面では,公家政権は幕府の監視と保障のもとにかえって安定し,
院評定(天皇親政の場合は禁中議定)と伝奏および文殿(ふどの)(親政の
場合は記録所(きろくじよ))を中核とする政務運営も定着して,公家
社会を支配した。
ついで後醍醐天皇の公武一統の政権が成立したが,まもなく崩壊して
南北両朝の抗争に突入すると,北朝の公家は武家政権のもとに組み込まれ,
両朝の対立も,世人は宮方と武家方の抗争とみなした。しかし武家政権
内部に続発した内紛の原因の一つが,南朝の存在にあったので,室町幕府
は南朝を抹殺する方策として,両朝合一を図った。かくて50年にわたる
南朝の抵抗,さらにその後の後南朝の抵抗は,国内統一に果たす天皇の
権威の重さを武家にも強く認識させることになった。
116日本@名無史さん:03/04/29 22:29
>>110

[江戸幕府と天皇]織田信長,豊臣秀吉のいわゆる〈尊皇〉も,もちろん
国内統一の最も有効な手段として標榜されたもので,徳川家康にもそれは
引き継がれた。
しかし信長にしても,秀吉,家康にしても,みな自己の実力をもって
政権をかちとったものであり,天皇ないし朝廷から与えられたものではなかった。
家康が法度を作って,天皇をはじめ公家の権限,行動を強く規制しても,
朝廷がこれになんら抵抗できなかったのも当然である。
天皇にわずかに残された権能である官位授与権,元号制定権,暦制定権すら,
形式的・名目的な範囲を出なかったし,朝廷内部の公縁,廷臣らの支配さえ,
幕府の干渉をまぬがれることができなかった。しかし泰平がうち続き,
文運が興隆するなかで,学者の間に,天皇の立場の過去と現在を調和
させる試みとして,武家は天皇から政権を委譲されたものとする大政委任説
があらわれた。もっともその論者の一人である熊沢蕃山も〈武家の人の
帝位に上り給はんと,王の天下をとり給はんとは,共に無分別たるべき也〉
と述べて,朝廷の政権回復を否定しているが,やがて大政委任説は幕府当事者
の間にも普及し,政権奉還を唱える政治運動も起きた。
ことに幕末,外交問題の処理に窮した幕府が,これを諸藩に諮問し,
朝廷に奏上するに及び,幕府の独裁制に大きな亀裂を生ずる一方,
武家の棟梁の標識にすぎなかった征夷大将軍の職名に,現実の攘夷の
役割が押しつけられ,将軍と幕府を苦しめた。かくしてついに大政奉還
をうけた天皇は,さしあたり将軍に代わって,〈同盟列藩の主〉と称し
て内外に対処したが,ついで版籍奉還,廃藩置県により列藩体制は崩壊し,
近代天皇制の成立へ向けて歩みはじめた。
117日本@名無史さん:03/04/29 22:38
>>113
≪城郭の歴史≫
 山内上杉氏が築き家臣大石氏が在城したとも言われるが不明である。
室町時代半ばから戦国時代初期までは大石氏がこの城にあった。
 下総と武蔵国境にある葛西城はたびたび争乱が起きている。康正2年(1456)
の古河公方足利成氏による千葉氏の内紛では、千葉実胤が大石石見守に
より葛西城で保護された。
 戦国時代、後北条氏の支城となるが、太田氏一族により落城したという。
永禄5年(1562)に本田正勝が少人数で奪還し、本田氏は北条氏により
城番に抜擢された。
 北条氏滅亡後は徳川氏の鷹狩り御殿として整備され、明暦3年(1657)
に廃されている。
118110:03/04/29 23:59
>>115-116

うーん、そういうことじゃなくて、天皇は当時、毎日なにをして過ごしていたかどういう生活してたのかというか、
例えば和歌でもよんだりしてのんきに世俗とは離れて暮らしてたんでしょうか。
119日本@名無史さん:03/04/30 00:21
>>118
天皇の仕事は今も昔も農作業
118がお腹イッパイに御飯(五穀)が食べられますようにって、彼方此方にお願いしてるんだよ
120日本@名無史さん:03/04/30 00:40
>>111
ネタスレで聞いた後、、、、、、
真面目な質問か、111が某オンダイの言うところの黄昏君なのか判断に迷うが、、、

工房がテストとかの解答を求めているのなら、
>>114さんの記述でかまわないと思う。
>延暦寺の根本中堂,山王二十一社をはじめとする諸堂社をことごとく焼き払う
これは比喩だから。文字どうりにウケトラナイデネ。

信長を米国に例えるとイメージしやすいと思うが板違いになりそうなので、略。
学部生ならもう少し質問の意図を明確にしてほしい。
121日本@名無史さん:03/04/30 13:14
>>118 110
割と忙しかったんじゃないの?
年中行事に、重臣会議。
権力者・有力者との付き合い宴会も仕事のうち。
病気になっても、在任中は針・お灸禁止だったしね。

パターンとしては、即位儀式のあとしばらくは、
新政策案やら考え、やる気を持ち、
そのうち、回りがそれを阻むのがわかり、やる気無くすみたい。

わが子に皇位を継がすのが、最大の願い・仕事だったかな。
継承権は鎌倉後半から武家に握られてたけど。
122日本@名無史さん:03/04/30 23:11
>>112
後ろから掘られたってイメージw。
123日本@名無史さん:03/05/01 12:53
戦国期の近習との男色は普通だったらしい。ある意味、命預けてるからね。
124日本@名無史さん:03/05/02 00:16
age
12575:03/05/02 16:55
77さん ありがとうございます。お礼が遅れました。
 また、郷士シリーズで質問です。戦国時代の武士が帰農したら郷士になるのと
名主になるのがありますが、違いは何ですか?よく地侍が帰農すると名主、正規の
武士が帰農すると郷士などとありますが、長野など行くと武田信玄の武将などが帰農
した名主など多数存在しますけど、地方差があるんですかね。
126日本@名無史さん:03/05/02 21:38
>>125
出自の違いではないかなと思うのですが。
そうなると、当然、経済発展の段階による地方差があると思います。
以下参考になれば。

>中世末期において,地侍や名主百姓はともに在村して農業経営を行い,多数の
>従属労働力を抱え,みずからも武装していた。

>旧名主も村落の乙名(おとな)沙汰人ら指導的上層として生き残り,それを基盤として,
>国人(こくじん)地侍(じざむらい)ら新興領主層が成長した。
>戦国大名権力はこれらの勢力に支えられて発展した

>土佐藩における郷士の成立は,1600年(慶長5)新藩主山内氏入封時における,
>旧国主長宗我部氏家臣団の積極的・消極的抵抗に端を発している。
>山内氏は彼らを懐柔するため13年に長宗我部氏遺臣の中からいわゆる慶長郷士
>を登用した。その後百人衆郷士,百人衆並郷士を取り立てた。これらはいずれ
>も旧族郷士である。下って1763年(宝暦13)に幡多(はた)郷士,1822年(文政5)
>に仁井田,窪川郷士を取り立てたが,これらは新田開発による取立郷士である。
>また他譲郷士といって,郷士身分を他から譲り受けるようなこともしだいに
>広まった。
>日向延岡藩の小侍,郷足軽の起源は明らかでないが,1747年(延享4)入封した
>内藤氏は前藩主牧野氏からこの制度を引き継いだ。この年延岡藩には小侍49名,
>郷足軽93名がおり,各村に散在していた。彼らは藩境の番所の番人や藩の下級
>地方(じかた)役人として活動した。彼らの給地は多くは1石程度であった。
127日本@名無史さん:03/05/03 13:50
GW!

戦前には祝日として四方拝(1月1日),紀元節(2月11日),天長節(4月29日),
明治節(11月3日)の四つ(以上は官庁,学校で祝典式を行い,四大節と呼ぶ),
皇室の大祭が行われる大祭日(たいさいじつ)としては元始祭(1月3日),
新年宴会(1月5日),春季皇霊祭(春分),神武天皇祭(4月20日),秋季皇霊祭
(秋分),神嘗祭(10月17日),新嘗祭(11月23日),先帝祭(大正天皇祭。12月25日)
の八つがあって,年中合計12日が祝祭日とされていた。
128日本@名無史さん:03/05/03 14:05
単なる偶然だが、廃止された祭日も近い日が祝日になってるな。

新年宴会→成人の日
神武天皇祭→憲法記念日
神嘗祭→体育の日
先帝祭→天皇誕生日
129日本@名無史さん:03/05/03 17:29
単なる偶然だろうか・・・・。
「海の日」でさえ天皇関係だし。
130日本@名無史さん:03/05/03 17:34
日本が国としてなすとともに天皇家は続いてるわけで、
よそのことと考えずに我々日本人のことと考えればOK。

〜嘗祭も、日本という稲作の国での豊穣を祝う祭りでしょ?
131日本@名無史さん:03/05/03 23:19
神嘗祭と新嘗祭以外は,全て明治以後に創制されたもの。
神嘗祭と新嘗祭も、日本民衆の豊作を祈ると言うより、
天皇家のエネルギーを再生するとの感覚が強い。
132125:03/05/04 04:20
126さん ありがとうございます。もう少し詳しく知りたいのですが、郷士
については薩摩や土佐が幕末に活躍したことにより有名ですが、まあ人数
が多いので特殊とはいえないかもしれませんが、成り立ちは他藩とはかなり
違うように感じられますが、どうなのでしょう?例えば、天領などの郷士
(上州の郷士などは良く聞きますが)などの成り立ちはどんなものでしょう?
133あぼーん:あぼーん
あぼーん
134日本@名無史さん:03/05/04 11:38
>>132 125さん
郷士にはさまざまな種類があり,類型化は容易ではないが,大きくは
(1)旧族郷士,(2)取立郷士に分けられる。

(1)旧族郷士は,元来は正規の武士になるべきものが,近世初頭あるいはその後
になんらかの事情により郷士となったもので,薩摩藩の外城(とじよう)衆,
土佐藩の郷士,津藩や近江甲賀郡の無足人,十津川郷士などが知られている。
日向延岡藩の小侍,郷足軽もこれにあたる。

(2)取立郷士の種類はさまざまだが,多額の献金や新田開発などの功により
郷士の格を与えられたものである。

一藩内において旧族郷士と取立郷士が混在している場合も少なくない。
薩摩藩や土佐藩の郷士は,若干の給地(無年貢地)を受け,それに百姓地(年貢地)
を加えて農業経営を営み,かつ軍役を負担するものが多いが,こうした性格の
郷士を郷士の基準型とすることができよう。

このような郷士のほか,給地がごく少なく身分的にもあまり高いとは思われない
もの(延岡藩の小侍や郷足軽),給地・給米のないもの(無足人),軍役を負担しな
いもの(十津川郷士)など,その性格はさまざまである。

・天領は、年貢負担も楽で、富農も多かったと聞きますので、「取立て郷士」
が多かったのではないでしょうか。

あと、これ以上は、あまりわかりませんので、個別の地域に絞っていって、
検索もしくは、その地域の県・市の教育委員会や県・市史編纂室に聞くと
良いのではないでしょうか。
135前スレより:03/05/04 18:20
諸国の大名戦々恐々
次は山名か赤松か
次は赤松討たるべし

‥うろ覚えなのですが、嘉吉の乱直前に流行ったとされるわらべ歌は
これでよかったのでしょうか。検索しても引っかからないのですが
フルテキストをご存知の方いらっしゃいましたらご教示ください。
136あぼーん:あぼーん
あぼーん
137あぼーん:あぼーん
あぼーん
138日本@名無史さん:03/05/04 19:57
日本書紀はかなり改竄されてるって聞きました。どこまで信用できる
物なんですか?
139日本@名無史さん:03/05/04 20:44
>>138
文体は漢文による潤色が著しく,漢籍や仏典をほとんど直写した部分もある。
記述の体裁は巻三以下を中国の歴史書にならって編年体,すなわち記事を
年月日(日は干支で記す)順に排列したために,暦も記録もない古い時代については,
物語をその進行に従って分断し適当な年月日に挿入する始末となり,
史実としての疑わしさを増し,物語としてのまとまりを失わせた。

しかも神武即位を西暦紀元前660年にあたる辛酉の年に設定したので,
初期の天皇は不自然な長寿となり,神功(じんぐう)皇后紀でも皇后を
《魏志倭人伝》の卑弥呼と考えたので,また120年ほど年代を繰り上げている。

編集に使われた資料は《古事記》のように特定の帝紀(ていき)や旧辞(きゆうじ)
だけでなく,それらの異伝も〈一書に曰く〉として注記し,また諸氏や地方の伝承,
寺院の縁起,朝鮮や中国の歴史書なども参照している。
7世紀初の推古紀のころからはようやく書かれ始めた朝廷の記録も利用し,
7世紀後半には個人の日記も加えて,今日から歴史的事実を究明するための
資料は豊富となった。

ただ大化改新以後も天智紀までは潤色や記録の錯乱があり,ほぼ史実と認めら
れるのは天武紀と持統紀である。

(潤色=おもしろさ、印象を強烈にするため、事実に無い事を付け加えたり 事実を誇張したりすること)
140日本@名無史さん:03/05/04 22:07
古墳時代、古墳には大量の埴輪を置いたわけですが何のため、また何をしないようにするためですか?
141日本@名無史さん:03/05/04 23:13
古墳の周りに最初に置かれたのは円筒埴輪+朝顔型埴輪と言われています。
この二つは、元々は死者に供えるお酒などを入れた壺とその置き台が形式化
+大型化した物と言われています。

形象埴輪(人物や動物など)は、故人の事績を表したり、あるいは供え物の
代わりとされていたようです。
142日本@名無史さん:03/05/05 01:04
治承・寿永の乱はどこからどこまでですか?
ググってみましたがよく分かりませんでした。
143125:03/05/05 02:15
134さん ありがとうございます。
144日本@名無史さん:03/05/05 12:59
>>142
1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を受けた諸国源氏の挙兵から,
85年(文治1)3月長門国壇ノ浦(下関市)に平氏一門が壊滅するまで,
主として源平両氏による決戦のかたちをとって進行した全国的規模の内乱。

当時の年号を冠してこう呼び,たんに治承の乱,あるいは源平の合戦(争乱)とも称する。
145日本@名無史さん:03/05/05 13:15
>>143 125さん
こんなのがあったので、古本サイトか、大学や地域の図書館はどう?
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon_result
仁位郷給人奉公帳-対馬藩郷士制度史料 中村正夫他編、九州大学出版会、1984
佐須郷・豆酘郷 給人奉公帳―対馬藩郷士制度史料― 安田正夫ほか、九大出版、1986
戊辰戦争と多田郷士 宮川秀一、、昭59
一薩摩郷士の生涯 宇都宮 肇、石風社刊、1 、昭和62
近畿郷士村落の研究 吉川秀造編、昭39
壱岐郷士史 後藤正足、歴史図書社、昭53
古代郷士史研究法 郷士史研究講座2 朝倉書店、昭49
仁位郷給人奉公帳 対馬郷士制度史料 中村正夫/梅野初平、昭和59年刊
豊崎郷給人奉公帳 対馬郷士制度史料 中村正夫/梅野初平、昭和63年刊
一薩摩郷士の生涯 宇都宮肇、石風社、昭62
高岡衆中高帳・高岡郷士高帳高岡町教育委員会・天ケ城歴史民俗資料館、1999
郷士制度の研究 小野武夫、大岡山書店、1925
薩摩国谷山郷士名越家耕作萬之覚 芳即正校註ガリ版摺り誤字訂正書き入れ背補、昭26

日本の古本屋サイト
http://www.kosho.or.jp/index.html
古書検索から、部分一致「郷士」で検索しました。
146125:03/05/05 13:30
>>145 わざわざすいません。古本屋サイトなどあったんですね!さっそく
図書館などで探してみます。
147142:03/05/05 16:33
>144
ありがとうございます!
148日本@名無史さん:03/05/05 18:36
なぜ日本の武士は弩(いしゆみ)や毒矢を使わなかったんでしょうか。
中国では古代から常識的な武器だったようですが…
149日本@名無史さん:03/05/05 21:33
弩に関しては、技術の発達を支える科学的合理的精神の発達段階が関係するのでは。
鉄砲などはすぐ飛びついてますからね。流入があればマネは得意だったのでは。
ちなみに、弩は、長弓に負けてますね。
>百年戦争におけるクレシーの戦(1346)では,弩を使用したフランス軍(ジェノバ
>人弓兵)をエドワード3世の率いる長弓隊が打ち破った。その原因は,弩を使用
>した傭兵の未組織性と訓練不足にもあったが,弩が長弓に比して貫通力,射程距離
>(最大射程は弩の約360mに対し,長弓は約255m),命中精度のいずれにも優ったにかかわらず,
>長弓が毎分約6本(最大12本)発射できるのに対し,弦の巻上機を使用する弩が,
>毎分約1本しか発射できなかったためであろう。

毒矢に関しては中・大型動物に対し、狩猟民族がよく使うようです。
そこら辺が関係するかもしれません。
>弓矢は飛道具として卓越したものであるが,投槍に比べると破壊力が小さく,
>その欠陥を補うために,多くの場合,毒が併用されている。小鳥や小動物の
>狩猟には一般に毒は用いられないが,大・中型動物の狩猟には,矢の先端部
>に,蛇毒,植物性毒,毒虫などから抽出した毒液を塗りつけて,その効用に
>より動物を弱らせ,あるいは死に至らしめて捕らえるところも多い。
150日本@名無史さん:03/05/05 22:42
軍事板からコピペ馬鹿の荒らしが来ちゃうよ〜

このあいだまで世界史板であばれてたぞ〜

151148:03/05/05 23:32
>149
ありがとうございます! 大変勉強になりました。
152日本@名無史さん:03/05/06 15:37
初歩の質問でもうしわけありません。
「網野史学」ってなんですか?
「司馬史観」の「司馬」は司馬遼太郎ですよね。作家なのに「史観」って
なんですか?
153日本@名無史さん:03/05/06 15:47
>>152
網野史学って言葉はあるの?
多分、網野善彦の考え方をさしているかとおもうけど。
検索すればある程度わかるかと。

司馬史観に関しては、作家であろうと学者であろうと
その人なりの歴史の見方はあるんだろうから
「史観」という言葉をマスコミや他人が使おうが関係ないと思う。
「司馬史観」を受け入れるかどうかはまた別の話しだろうし。
154日本@名無史さん:03/05/06 16:25
>>152
>>153
網野史学で166件もヒットした。立派。
司馬史観は、明るく成功した明治と、失敗した暗い昭和軍国主義って感じかな。
自由主義史観も出発点は司馬史観だったが、大東亜戦争を肯定するために
道が分かれた。

>>152
この辺がわかりやすいんでは?
http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/just-nikkeishinbun-aminoshigaku.htm
155日本@名無史さん:03/05/06 16:32
東アジアの古代史(邪馬台国から白村江ぐらいまで)を、
各国の史料を公平に使って客観的に解説してる本ってありますか?
3000円ぐらいで。おすすめあったら教えてください。

世界史板より日本史板の方が、東アジアの古代史関連のスレが
多いのでこっちで聞きました。
156152:03/05/06 16:48
>>153.154
ありがとうございました。
今日図書館で「週刊 読書人」っていうのを読もうとしたら
一面に「網野史学」のことがのっていて、そこに載っていた人(永原なんとかって
いうひと)が「網野史学」を否定してたんですけど、根本がわからなかったので
質問してみました。
157日本@名無史さん:03/05/06 16:52
>>155
ここらへんを図書館でまず下調べして、
よさそうなのを買ってみては?

論究・古代史と東アジア 上田正昭/著 岩波書店 1998.1
海の古代史 東アジア地中海考 角川選書 千田稔/編著 角川書店 2002.4 書籍
日本の古代国家と東アジア 古代史選書 佐伯有清/著 雄山閣 1986.11 書籍
東アジア古代史 三国志夷狄伝・訳 ヒデミ・フミノ/訳〔著〕 新人物往来社 1986.10 書籍
東アジア世界における日本古代史講座 1 原始日本文明の系譜 井上光貞/〔ほか〕編集 学生社 1980.3 書籍
東アジア世界における日本古代史講座 3 倭国の形成と古文献 井上光貞/〔ほか〕編集 学生社 1981.3 書籍
東アジア世界における日本古代史講座 4 朝鮮三国と倭国 井上光貞/〔ほか〕編集 学生社 1980.9 書籍
東アジア世界における日本古代史講座 5 隋唐帝国の出現と日本 井上光貞/〔ほか〕編集 学生社 1981.9 書籍
東アジア世界における日本古代史講座 6 日本律令国家と東アジア 井上光貞/〔ほか〕編集 学生社 1982.9 書籍
東アジア世界における日本古代史講座 7 東アジアの変貌と日本律令国家 井上光貞/〔ほか〕編集 学生社 1982.1 書籍
東アジア世界における日本古代史講座 第9巻 東アジアにおける儀礼と国家 井上光貞/〔ほか〕編集 学生社 1982.10
2・8巻も出てると思う。
158日本@名無史さん:03/05/06 17:28
大学の授業で八母音説について調べてるんですけど
いい文献またはいいサイトありませんか?
159日本@名無史さん:03/05/06 17:47
>>112
に関連して質問です。
男色は個人の趣味でやっていたのでしょうか。
それとも政治的な意味があったのでしょうか。
(例えば忠実な家臣を作るためとかで別に趣味ではなく義務でやってたとか。)
160日本@名無史さん:03/05/06 18:22
著書の中で絶えず「私はマルクス主義者ですが・・・
なんでやねんw
161日本@名無史さん:03/05/06 19:12
ちょっと下らん質問なのですが、
昔、京にあった門は、「羅生門」ですか、「羅城門」ですか。
自分は「羅生門」は芥川龍之介の小説名で、
本当の名前は「羅城門」だと思っていたのですが。
162日本@名無史さん:03/05/06 19:26
>>161
手元の本では平城京・平安京の門は羅城門になってる。
長岡京など他の宮城についてはわからん。
163日本@名無史さん:03/05/06 20:24
>>159
男色に高い価値観があったようです。

室町時代以後には僧院における稚児(ちご),喝食(かつしき)などが武士
の間にも愛され,後には少年武士が男色の相手に選ばれた。
とくに戦国時代には,尚武の気風からことさらに女性をさげすみ,男色
を賛美する傾向が強まった。その中から,男色における兄分(念者(ねんじや),
念人(ねんにん))と弟分(少人(しようじん),若衆)との間の倫理的契約
(義理,意気)を重んじた衆道(しゆどう),若道(にやくどう)の成立を
みるにいたった。
こうした男色流行は江戸時代の前期に受けつがれ,士,僧のほか一般庶民
の間にもその風がひろまり,若衆歌舞伎の発展はこれを助長するとともに,
男色を売る男娼――陰間(かげま)が出現するに及んだ。この男色志向を
反映して,独特の衆道文学とも呼ぶべき男色物の仮名草子や浮世草子が
多数つくられている。一方,男色関係にからむ殉死(心中),刃傷(にんじよう)
事件などが頻発したため,幕府は衆道,若衆風俗を禁止して抑制をはかったが
効果は十分でなかった。

芸術面でも足利義満と世阿弥などが有名だそうです。
164日本@名無史さん:03/05/06 20:31
江戸時代はどういう言葉を話していたのか?
大河ドラマのような言葉か?
今の言葉のなったのはいつ頃からか?車が入って来た当初道交法はあったのか?
取り締まりはなかったのか?
165日本@名無史さん:03/05/06 20:36
明治より前はこのようなものはあったか?
1、コンビニ
2、レンタルショップ
3、ディスカウントショップ
4、ファーストフード
166日本@名無史さん:03/05/06 20:41
>>165
本を貸す店はあったね。
本の値段が結構高かったので江戸期の武士は
本を借りて読んでいた人が多いみたい。
気に入った本は筆写していた人もいた。
167日本@名無史さん:03/05/06 21:00
紀元1年の前の年は紀元前1年でつか、それとも紀元零年でつか?
168日本@名無史さん:03/05/06 21:11
>>164
方言の差がはなはだしかった。
東京標準語は明治以降。本当に広まったのは、高度経済成長期。

道路交通取締法(1947年公布)が最初。
道路交通法は1960年公布。


>>165
>ファーストフード
江戸前握りずし屋台、そば屋台、うどん屋台など。

>>167
紀元前1年。
169日本@名無史さん:03/05/06 21:36
>>158
「古代国語の音韻に就いて・他2篇」・岩波文庫・青・151-1・橋本 進吉 (著)
「橋本進吉博士著作集 (第12冊)」岩波書店・橋本 進吉 (著)
が奈良朝8母音の定番みたい。

それに対して、古代は5母音で、渡来人が来て一時期8母音になりその後
また5母音に戻った。8母音は虚像という説が下の2人。
「古代日本語母音論(上代特殊仮名遣いの再解釈)」松本克己・ひつじ研究叢書(言語編第4巻)
1995年・ひつじ書房。
森重敏『上代特殊仮名音義』(正続)1984,1987・和泉書院
170日本@名無史さん:03/05/06 22:53
>>166
コピーみたいなものですか?
171日本@名無史さん:03/05/06 22:54
>>166
著作権なんてなかったんですか?例えば盗作などパク理等
172日本@名無史さん:03/05/07 00:04
版権はあったみたい。
貸し本屋や本屋はいくつかの印刷屋・製本屋にどの本を印刷してもらうか決め、
売上げによって著作者に著作両を払う。
ただ、個人で写筆するのは現在と同じように個人的使用なので
問題にならなかったと思う。
173日本@名無史さん:03/05/07 00:05
>>172訂正
「著作両」は「著作料」
174日本@名無史さん:03/05/07 00:17
>>163
丁寧な回答ありがとうございました。
昔の人の価値観て現代人とはかなり違ったものだったんですね。
175日本@名無史さん:03/05/07 00:55
>>157
ありがとうございました。調べてみます。
176日本@名無史さん :03/05/07 01:09
>>169
ありがとうございました。
調べてみます。
177日本@名無史さん:03/05/07 21:21
>>172
いろいろありがとうございます
178167:03/05/07 21:39
>>168 サンキュー
紀元前X年を紀元(−X)年として引き算しちゃうと1年ずれるんですね。

#たった10分で答が出てたとは!(感動)

179日本@名無史さん:03/05/08 04:41
自分の出身地の国分寺を調べろ、と大学に言われましたが、ボク出身が北海道なんですよ。 …北海道に国分寺なんてないっすよねぇ。
180日本@名無史さん:03/05/08 11:19
>>179
近いところで陸奥国の国分寺について調べては如何?
181日本@名無史さん:03/05/08 22:19
陸奥のはでかいらしい。2番目くらいか?
182日本@名無史さん:03/05/09 00:42
教えてください。
近現代史を学ぶのにもっともおすすめの本は何ですか?
教科書よりふみこんだもので、重要人物の人となりにも言及があり、近現代史を
面白いと思えるようなもので、あまり専門的ではない程度のものを探してます。
よろしくおねがいします。
183 :03/05/09 01:00
「西洋の没落」
184日本@名無史さん:03/05/09 11:09
>>182
講談社「日本の歴史」の該当巻
中央公論「日本の歴史」の該当巻
小学館ライブラリー「昭和の歴史」全10巻(?)
などはどうかな。

本屋か図書館かアマゾンで検索し内容を見て、面白そうなのを読めば?
そして、興味が出たら、巻末の参考文献を調べて、さらに読み増やしていくと。
185日本@名無史さん:03/05/09 14:17
133 :あぼーん :あぼーん
あぼーん
136 :あぼーん :あぼーん
あぼーん
137 :あぼーん :あぼーん
あぼーん

ここには何があったか気になるんですが?
天皇の戦争関係?
差別関係?
どなたか記憶のあるかた、ヒントを下さい。
そんな変な発言はなかったと思うんですけどね。このスレは。
186日本@名無史さん:03/05/09 14:35
まさか、これじゃないよね???

「寺崎英成 御用掛日記 昭和天皇独白録」
寺崎英成 マリコテラサキミラー編著 文芸春秋杜 より抜粋。
「同年8月9日ポツダム宣言受諾の''聖断"」をのちに回想して
「‥‥当時私の決心は第一に、このままでは目本民族は亡びて終ふ、私は赤子
を保護する事が出来ない。第二には国体護持の事で木戸も同意見であったが、
敵が伊勢湾付近に上陸すれぱ、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、
神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は
難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」

昭和50年10月31日の記者会見
記者「陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」
というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、その戦争
そのものに対して責任を感じておられるということですか。また陛下は、いわゆる
戦争責任について、どうお考えになっておられますか。」
昭和天皇「そうゆう言葉のアヤについては、私はそうゆう文学的方面はあまり
研究もしてないので、よくわかりませんから、そうゆう問題についてはお答え
ができかねます。」

187日本@名無史さん:03/05/09 14:37
まさかとはおもうけどね???

1975年10/31 昭和天皇が初の公式記者会見で「原爆投下は戦時中でやむを得ぬ
と思う」と発言する

天皇は1975年の訪米の際の記者会見で次のように述べている。
(1) 戦争責任について「そういう言葉のアヤについては、私は文学方面はあま
り研究していないので、その問題についてはお答えできません。」
(2) 原爆投下について「遺憾には思っていますが、戦争中のことであるから、
止むを得ないと思っています。」

1947年9月20日、寺崎英成を通して、「沖縄に関する軍事占領を継続する
事を希望する」「25年ないし50年という長期が良い」と要望した覚書をGHQ顧問
からマッカーサーに提出。

昭和20年7月25日
「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営その
ものが捕虜となることも考えられる。そうなれぱ、皇祖皇宗よりお預かり
している三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体
も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはな
いのではないか」
188日本@名無史さん:03/05/09 14:44
質問させてください。
明治維新になって、政府は銭湯の混浴を禁止しましたが、
それまではずっと銭湯は混浴だったんですか。
老若男女ごちゃ混ぜに入浴してたんですか。
よろしくお願いします。
189日本@名無史さん:03/05/09 15:12
>>188
銭湯では,江戸後期まで男女混浴が行われ,石榴口(ざくろぐち)内部は
灯火もなく,男女湯槽の仕切板も不完全なため,風紀を乱すこともしば
しばあったそうです。
寛政改革(1787‐93)では混浴の禁止が命ぜられているが,隅ずみの銭湯
まではなかなか行き届かなかったようです。
190日本@名無史さん:03/05/09 20:07
>>185
エロサイトへのリンクだったんじゃないの?洩れが覚えている限り、ここ数週間に
この板でそれ以外のネタがあぼーんされた事はなかったはず。
191日本@名無史さん:03/05/09 21:56
>>190
いや、エロサイトリンクは各地に残ってる。
天皇スレが5つくらい一気に消えてる。(また、別のができてるがw)

>>186-187あたりだよ。
天皇に関する歴史的事実が削除されていいのかい?
まじめな質問へのまじめなレスだよ。

誰か確認して、削除人に意見できないかな。
私は方法がわかりません(/o\)
192日本@名無史さん:03/05/09 22:34
藤原道長の時代近辺(10c-11c)を扱った歴史小説って何がありますか。
193日本@名無史さん:03/05/09 22:53
萌がさね―藤原道長室明子相聞
講談社文庫・鳥越 碧 (著)¥876

恋愛物かな?読んでないけど。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062649772/qid=1052487969/sr=1-3/ref=sr_1_2_3/249-3951645-4180311
194日本@名無史さん:03/05/10 02:39
http://qb.2ch.net/test/read.cgi/saku/1028282680/155-157
削除理由は

>8. URL表記・リンク
>   宣伝

になってるね。
195日本@名無史さん:03/05/10 07:58
>>194
ということは、なんだったんですかね?
どうやって調べるたんですか?お暇なら御教授を。
196日本@名無史さん:03/05/10 12:21
>>192-193
永井路子氏の『この世をば』も藤原道長の時代が舞台ではなかったかな。
197日本@名無史さん:03/05/10 12:25
よく室町時代(鎌倉かも)にでてくる
「守護は貨幣経済の波に巻き込まれ
没落形骸化していった」みたいなくだりがあるけど
これって字ずらの意味はわかるんだけど実感わかないんだな
具体的にとゆーか噛み砕いて言うとどういう意味なんでしょう?
198日本@名無史さん:03/05/10 14:02
>>196
そうですね。道長が主人公の小説のようですね。新潮文庫で上・下で出てます。


199日本@名無史さん:03/05/10 14:10
>>197
鎌倉時代では、元寇のあたりから、商工業発達=貨幣経済にまきこまれ、
御家人の生活が苦しくなってますね。守護・地頭とも苦しみます。
室町では、さらに貨幣経済は進んでいきますから、御家人とともに、
貨幣税徴収をできなかった守護は力を減らしていった、との意味では。
戦国大名は、鉱山を直轄地化して、貨幣経済を握ってますね。
200日本@名無史さん:03/05/10 15:09
古書店で国史略という本(5冊)を、震災のあったあとに神戸の古書店で購入
しました。
この本はどんな本なのでしょうか? 歴史書だという事は分かりますが、
どんな使われ方をしたのかどなたかご教授願います。
今日、片付けていたら出てきて、ふとこのスレッドでたずねようと思いつきました。
201日本@名無史さん:03/05/10 15:50
>200
自分で読んだらいいじゃないですか。
202日本@名無史さん:03/05/10 16:06
>>200
じゃ、使われ方について。

国史略・岩垣東園 ・1826年(文政9)/編年体の歴史書。
教科書的な物として使われた。十八史略にならって評論、人物伝、挿話
などに分類して比較的簡略な内容にした。広く教科書として使われたよう
である。5巻。 『増補点註国史略』にある。
203日本@名無史さん:03/05/10 17:57
>>199
レスさんくすです。
受験勉強やっててちょこっと気になってたもんで
助かりました
204日本@名無史さん:03/05/10 18:50
昭和初期、日本が軍国主義であったころ
弾圧された人や事件などについてまとめられた本ってあります?
特高が大活躍するような。
205日本@名無史さん:03/05/10 20:41
>>204
「日本の暗黒ー実録・特別高等警察」新日本出版社・下里、宮原著
アマゾンか古本検索でどうぞ。全5冊くらい。
あと資料は出てるが、3万とか5万円はする。
206日本@名無史さん:03/05/10 22:15
>>202 ありがとうございます。
尚、入手したのは安政時代の復刻版です。読めるように努力したい。
207日本@名無史さん:03/05/11 01:41
西尾幹二『国民の歴史』に以下のような記述がありましたが、本当でしょうか?
P.578
>人種問題に関する日本人の自由な感情は、リトアニアにおけるユダヤ人出国に
>際するビザの無制限発給において、再び証明された。
>杉原千畝の個人的な英断と誤解されているあの事件は、その後の調査で、
>ナチスドイツの人種差別政策に賛成し難い強い意思を抱いていた当時の日本の
>外交当局の、独自の政策のひとつであったことが判明している。

とあるのですが、本当にそんなことが判明しているのでしょうか?
知っている方がいらっしゃいましたら、どうか教えてください。
208182:03/05/11 02:30
>>184
どうもありがd
>>207 うそ
210日本@名無史さん:03/05/11 04:10
>>204
 概説というか入門書で、松尾洋『治安維持法と特高警察』(教育社歴史新書、
1982)あたりがよいのでは。統制反対の視点だとは思うが。

>>207
 とりあえず、こういうページがあります(頭のhを補ってください)。
ttp://village.infoweb.ne.jp/~fwjh7128/genron/holocaust/sugiharaFAQ.htm
杉原千畝FAQ集(松浦寛氏作成)
 杉原千畝の個人的な英断を、国家の政策にすりかえようとしている一部の人
(西尾氏も同類)への批判です。ほかにも、「杉原千畝」でぐぐれば、色々で
てくると思います。
211日本@名無史さん:03/05/11 05:23
江戸時代はなんにもなく平和なように伝えられてるけど。本当になんにもなかったのか?
大塩平八郎の乱くらいしか思いつかないが
212日本@名無史さん:03/05/11 05:26
最も短命な人物テ誰?
213日本@名無史さん:03/05/11 07:48
罰当たりな書き込みをしてごめんなさい。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。
214日本@名無史さん:03/05/11 10:05
>>209
このスレを荒らすことが目的ではないのなら
そういうレスはお止めなさい
215日本@名無史さん:03/05/11 10:26
>>207

>210さんのリンク先はTOPページでその主張が容易に判明するので、まだマシですけれども
ウヨやサヨの主張は強烈なベクトルがかかっているので参考意見に留めておいたほうが無難です。

あと、一般的にユダヤ人は「日本=ナチスの同盟者」というイメージがつよいので反日的な傾向があります。
216日本@名無史さん:03/05/11 11:23
>>211
大阪の陣、島原の乱、あとは各種飢饉・・・
あまり詳しくはないけどこの位?
217日本@名無史さん:03/05/11 13:04
>>207
西尾氏の間違いもしくは嘘です。小林氏も全く同じことをマンガで書いてます。
事実は、外務省はビザ発給を二度にわたって禁止命令をだしてます。

1940年8月16日
松岡外務大臣より在カウナス杉原領事代理宛電報第22号
電送第27465號
昭和15年8月16日 後8時00分
宛 在カウナス杉原領事代理   發 松岡大臣
件 避難民ノ取扱方ニ關スル件
 第二二號
最近貴館査證ノ本邦経由米加行「リスアニア」人中携帯金僅少ノ為又ハ行先國
ノ入國手續未濟ノ為本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ処置方ニ困リ居ル事例アル
ニ付此際避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ対シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ
且旅費及本邦滞在費等ノ相當ノ携帯金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサ
ル様御取計アリタシ
外交史料館所蔵記録 I.4.6.0.1-2 「民族問題關係雑件 猶太人ノ部」第一〇巻
(難民へビザの発給を禁じた外務省訓令)
218日本@名無史さん:03/05/11 13:05

1940年9月3日
松岡外務大臣より在カウナス杉原領事代理宛電報第24号
電送第29345號
昭和15年9月3日 後5時50分
宛 在カウナス杉原領事代理   發 松岡大臣
件 避難民ノ取扱方二關スルル件
 第二四號
貴電第六七號ニ關シ船会社カ帝國領事ノ通過査證ヲ有スル者ノ乗船ヲ浦潮ニ於テ
蘇官憲ノ命令ニ反シテ拒絶スルコトハ事実不可能ナルノミテラス右ハ我方査證ノ
信用ヲ害スルモノナリ現ニ貴電ノ如キ取扱ヲ為シタル避難民ノ後始末ニ窮シ居ル
実状ナルニ付以後ハ往電第二二號ノ通厳重御取扱アリタシ
外交史料館所蔵記録 I.4.6.0.1-2 「民族問題關係雑件 猶太人ノ部」第一〇巻
(難民へビザの発給を厳禁した二度目の外務省訓令)
219日本@名無史さん:03/05/11 13:06
杉原千畝氏自身は、その手記「決断(外交官秘話)」で次のように語った。

「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、
博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れ
ると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和二二
年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い
出に、つながるからであります」
(渡辺勝正編著「決断・命のビザ」大正出版 P288)

西尾氏が論拠としている、産経新聞の1998年3月30日の報道は、使われた資料名
を間違えるくらい問題の多いもので、内容的には単なる「誤報」に過ぎない。
産経新聞が報道している「猶太(ユダヤ)民族問題十三巻」あるいは「民族問題
雑件猶太(ユダヤ)人の部」などという資料はいずれも存在ない。
実際にあるのは「民族問題関係雑件 猶太人ノ部」。
220日本@名無史さん:03/05/11 14:59
終戦直後、没落した元華族の娘たちが占領軍相手に売春してたというのは、
本当ですか。
くだらない質問ですがよろしくお願いします。
221日本@名無史さん:03/05/11 15:33
様々な情報をありがとうございます。
西尾氏の間違いだったのでしょうね、勉強になりました。
面白そうなので、もうちょっと調べてみます。

>あと、一般的にユダヤ人は「日本=ナチスの同盟者」というイメージがつよいので反日的な傾向があります。
それは知りませんでしたが、とても興味深い内容です。
222207:03/05/11 15:34
↑は207です・・・。
223日本@名無史さん:03/05/11 20:25
>>217
リトアニアルートはともかく、満州ルートは
軍が認めてたんじゃないの?満州をユダヤ人の国にする
フグ計画とか
224日本@名無史さん:03/05/11 21:41
結局のところ政治というものをどう考えるかということでスタンスが決まるのではないだろうか。

ウヨは次のように語る。
戦後の日本外交が基本的に対米追従であるとしても、
中東にかんしてのみは必ずしも米の意向に随ってはいない。
政府としては米の政策に同調しようとしていたが、
民間が勝手に独走したという言い逃れを何度も行なっている。

戦前の日本外交においては人種差別政策は容認しないという国是があった。
そこにナチスドイツとの二律背反的な政策をとらざるを得ない素地がある。

一方サヨは外務省の文書を基に杉原千畝氏の功績であると主張する。
これは基本的には正しい。

ウヨが期待するような新史料がでない限り論争は無意味ではないだろうか。
自分はどちらの立場で語るのかということを表明するにすぎないと思う。
225日本@名無史さん:03/05/12 03:19
>>219
つうか、敗戦で、外交官の半分くらいがリストラされてなかったか。
そのことを記さなければ、伊豆的な情報操作による誘導になるんじゃない。
226日本@名無史さん:03/05/12 06:33
これ本当に三種の神器なの?
それともそれっぽいもの載せてるだけ?
http://www.kiku.com/electric_samurai/cyber_shrine/image/shrine_40.jpg
http://www.kiku.com/electric_samurai/cyber_shrine/
227日本@名無史さん:03/05/12 11:47
>>223
流民化したユダヤ人は満州までも難民化してきてましたが、1938年ごろ、
2万人の大集団が満州国に入ろうとして時、国境は閉ざされました。
それを救い、通過させたのが樋口少将です。
しかし、彼は、その件で、ドイツ・日本外務省・日本陸軍省に責任を追求されてます。

本問題に関する「私の態度」として、「(中略)もしドイツの国策なるものが、
オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、
それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策である。そして、日満両国が、
かかる非人道的ドイツ国策に協力すべきものであるとすれば、これまた驚くべき
問題である。私は日独間の国交の親善を希望するが、日本はドイツの属国でなく、
満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国
外交の正当なる働きに関連し、私を追求するドイツ、日本外務省、日本陸軍省
の態度に大なる疑問を持つものである」
 と述べ、私は何ら責任を負う立場にあらざることを主張したのであった。
(樋口季一郎 「アッツキスカ軍司令官の回想録」芙蓉書房 P353〜)
228日本@名無史さん:03/05/12 11:47
>>225
杉原氏は、外務省の人員削減の一環で免職になったのであって、訓令違反のため
に免職になったわけではないと主張も一部にあるが、これでは杉原氏が辞職
した理由が判らなくなる。
なぜなら、人員削減が理由の免職であれば、退職金が全額支払われるのに、
辞職した場合は、退職金は削減され、不利になる。
従って、これは、杉原氏が言うように、訓令違反による免職を言い渡された
と見て間違いない。訓令違反は懲戒免職の対象となり、懲戒免職の場合は、
退職金は出ないから、杉原氏が辞職した理由が明確になる。

それに、二度の外務省の杉浦氏への禁止連絡はまぎれも無い事実で、
もともとの質問は、それを日本政府の政策と書いた西尾氏はあってるのかどうかで、
答えは、間違っていると言うこと。
質問者スレなので、ここまで。
229日本@名無史さん:03/05/12 11:52
>>226
レプリカでしょう。
つか、勾玉でかすぎないか?w
230日本@名無史さん:03/05/13 18:23
>>228
>訓令違反のために免職になったわけではないと主張も一部にあるが、
>これでは杉原氏が辞職した理由が判らなくなる。

228は、杉原氏は金銭に意地汚い人間だと言いたいの?
個人を貶めるような発言は、いくら匿名掲示板だとはいえ
228自身の品性を疑われるという事実に気づいてほしい、、、
231日本@名無史さん:03/05/13 19:39
氏姓制度の氏と姓ってどう違うの?
232日本@名無史さん:03/05/13 19:48
>>231
ttp://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-4-4.htm
↑は結構分かりやすいと思う。

まずは検索サイトで自分で調べてみた方が早いよ。
233日本@名無史さん:03/05/13 20:27
>>230
ん?>>228は、>>219の杉原氏が自ら自伝で語っている、ユダヤ人救出のせいで
依願免官にされた、ということをただのリストラにしようとする意見への反論でしょ。
別に金に汚いなどと感じないが。少しも杉浦氏を貶めてない。逆に外務省命令に
さかっらてでもユダヤ人を助けた名誉な証拠だ。本人が述べていることだが?
>>219
>杉原千畝氏自身は、その手記「決断(外交官秘話)」で次のように語った。
>「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、
>博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れ
>ると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和二二
>年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い
>出に、つながるからであります」
>(渡辺勝正編著「決断・命のビザ」大正出版 P288)

234日本@名無史さん:03/05/13 22:00
>>230は、
「依願免官=辞職」の意味がわからなかっただけでないの?

>いがん(イグワン)【依願】
>〔命令・強制でなく〕本人の願いによる(形を取る)こと。
>用例・作例
>―免官

235日本@名無史さん:03/05/14 00:30
233=234の中の人も大変だ(W
236日本@名無史さん:03/05/14 01:55
日本の各省庁のトップの敬称が「卿」から「大臣」に変わったのはいつですか?
あとなんで敬称変えたんですか?卿の方がカコイイのに・・・。
237日本@名無史さん:03/05/14 11:51
>>236
1885年、みたいです。理由は、内閣制にして権力の集中と公家・旧藩主の排除のもよう。

このため太政官内閣は当初から宮中的性格が薄かった半面,その後一貫して
日本の内閣を悩ませる求心的統合力の不足に苦しんだ。これに対し内閣宮中化
の動きも一部に生じ,とくに参議による卿=各省長官兼務問題は政争と連動
して体制動揺を増幅した。
国会開設を5年後に控えた1885年,太政官制が廃止され,首班である内閣総理
大臣と各省長官を兼ねる9名の国務大臣からなる本格的な内閣制が発足する。
公家・旧藩主はまったく排除され,旧参議たる藩閥政治家が天皇を直接輔弼
する大臣となって名実ともに政府の頂点を占めた。内閣制の発足は,身分制
の清算や近代的立憲政治の導入のうえで大きな前進であり,同年の〈内閣職権〉
によって〈大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督〉すると定められた首相を中心
に政府の統合強化が図られた。
238日本@名無史さん:03/05/14 16:16
鎌倉仏教は、前代までの仏教とくらべて どんな違いがあるんでしょうか!?

239あぼーん:あぼーん
あぼーん
240日本@名無史さん:03/05/14 17:12
>>234
知性のあるサヨは絶滅したし、
童話にインテリはでてこない。
草加には最初から教養のある人がいないし、
在日は日本語が不自由。

必死こいて駄文を書きこんでいる某氏が妄想から目を覚ましたとき。
病院のベッドの上にいないことを願っているよ。
241日本@名無史さん:03/05/14 18:27
>>238
仏教が真の意味で民衆の宗教として確立したのは鎌倉時代。
浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗は,それぞれ教説に特色をもつが,その反面で
いくつかの共通点ももっていた。一つは諸経や諸仏や諸行のなかで,4宗とも
一つの経,一つの仏を選びとって,余仏・余経・雑行を徹底的に排し,念仏や
題目を専修することを主張する,いわば〈一筋の信仰〉だった。
二つには4宗とも貴賤・男女・貧富の差別なく,殺生を業とする悪人さえ往生や
成仏を認める徹底した民衆宗教だった。
三つには,したがって奈良・平安の貴族仏教が重視した戒律の意義を認めず,
民衆の日常生活のなかで信仰が維持できるよう,易行にして,在家成仏の仏教だった。
242日本@名無史さん:03/05/15 17:50
age
243日本@名無史さん:03/05/15 19:17
前から疑問におもっていたのですが、縄文弥生時代になぜ日本では文字が生まれなかったのでしょう?誰かおしえてちょうだい。
244日本@名無史さん:03/05/15 21:23
>>243
日本へは紀元1世紀またはその前後に,王裸(おうもう)の貨泉が渡来している
から,そのころには,漢字が知られていただろう。ただし,文字の機能まで
十分日本人が理解していたかどうかは疑問。
奈良時代になっても,史部(ふびとべ)その他,文字に関係ある部は,すべて
渡来人か渡来人の子孫で,文字が一般に理解されるようになったのは,ずっと
後世と考えられるから。
245日本@名無史さん:03/05/16 01:23
知人が右翼団体に入ったみたいで、
彼の彼女から右翼について聞かれたので、
教えるためにここにきました。
そこで質問させていただいてよいですか?
右翼の単一団体・菊守青年同盟とは
どういう団体なのでしょうか?
彼が入った団体が上記なのだそうです。
246日本@名無史さん:03/05/16 01:26
245です。戦前・戦後の日本右翼と暴力団 にも
質問なのに書いてしまいました。
247日本@名無史さん:03/05/16 15:16
検索をしてみてください。結構出てますよ。
248日本@名無史さん:03/05/16 16:30
豊臣秀吉と前田利家が若い頃に親友同士だった、
というドラマによくある設定は史実をもとにしたものでしょうか?
また、詳しいエピソードとか出典等はありますでしょうか?
249日本@名無史さん:03/05/16 20:33
肥前の戦国大名りゅうぞうじの漢字は「竜造寺」と「龍造寺」のどっちが正しいんですか?
250日本@名無史さん:03/05/16 20:42
滝川も瀧川
251日本@名無史さん:03/05/16 22:13
豊臣氏と前田氏とは織田部将時代の同輩であり,秀吉の室北政所(高台院)と
利家の室芳春院とは幼なじみ,しかも三女まあは秀吉の妾,四女豪と六女菊
は秀吉の養女という親族同様の関係にあった。秀吉の信頼はとくにあつかった。
同輩は事実。
252日本@名無史さん:03/05/16 22:16
>>249
漏れの事典では、「竜造寺」ですた。
253日本@名無史さん:03/05/17 06:10
明治時代、セックスって言葉はありましたか?
なければ、なんと表現していたのですか?
契り、ですか?契りだとあまりに固い気がするのですが・・普通に使われていたのでしょうか。
254日本@名無史さん:03/05/17 06:47
江戸期の名字帯刀について、名主・庄屋・本陣・御用商人など許されていた
そうですが(司馬遼太郎の『この国のかたち(二)の一風景』などに記述があり
ますが、これは大庄屋・大名主のことでしょうか?普通の名主などは許されていない
のですか?

 
255日本@名無史さん:03/05/17 21:07
>>221
こうゆう時は捏造って言わないニダか
日本語はむずかしいニダ
256日本@名無史さん:03/05/17 21:20
>>253
SEXする事は「交わる」で、SEXは「交わり」
257日本@名無史さん:03/05/17 21:35
墾田永年私財法以後の皇室領土はどのくらいだったんですか?
258日本@名無史さん:03/05/17 21:57
>>256
江戸時代は「生」がSEXをあらわしていたYO
259日本@名無史さん:03/05/17 23:17
熱湯に手を入れて爛れるかどうかで有罪か無罪を決めてたって本当?盟神探湯って言うやつ 鎌倉時代まで行われていたって聞いたみんな有罪じゃん大和民族は火傷というものも知らなかったの?
260日本@名無史さん:03/05/17 23:22
お伺いします。
江戸時代の古河公方喜連川氏の官位と、
江戸城での殿席無席となっていますが、
家格はどのようなものだったのでしょうか。
お教えいただければ幸いです。
261日本@名無史さん:03/05/18 00:11
日本人は白人の存在をいつ知ったの?また日本人が白人に初めて出会ったのはいつですか?奈良時代の唐の都長安に行った遣唐使たちは白人と出会ったりしていたの?
262日本@名無史さん:03/05/18 00:12
また黒人も
263日本@名無史さん:03/05/18 01:15
>>259
俺も習った時、「ただのイジメじゃないのか」と思ったが実際に行われていた模様。
平安期になると朝廷の儀式としてはなかったようだが、
地方では似たような制裁行為が行われていたそうだ。
264意味不明ですが:03/05/18 03:04
江戸時代に歴史を勉強した人は

鎌倉時代とか 平安時代て定義してそう呼んだんでしょうか

なわけないよね
265たま:03/05/18 12:40
あの、あべさだじけんってなんですか?
266日本@名無史さん:03/05/18 13:39
>>260
喜連川 
封地:下野国喜連川 5千石
10万石格 国主格
歴代当主は左右の兵衛督か左馬頭

実高は大身旗本級。
家格は大大名級 高家の中でも一段高い。
諸侯中唯一「御所様」の称号を許されていた。

ていうかググれ。20分でこの程度は分かるぞ。
ラストサムライの予告編ですが、日本史板のみなさんから見てどんなもんで
http://www.apple.com/trailers/wb/the_last_samurai/large.html
時代設定は確か明治維新後、1870年代かと・・
268日本@名無史さん :03/05/18 16:31
卒論で鎖国制の研究をやろうと思うの
ですが、最近の研究論文を見るには
どうすればよいのでしょうか。
269日本@名無史さん:03/05/18 16:43
>>267
スターウォーズみたいだ・・・(w
でもおもしろそうだね。期待してる。
270253:03/05/18 17:40
>>256
ありがとうございます。

>>258
「性」じゃなく「生」ですか???
使用法としてはどういう感じでしょうか。
271プリッツ:03/05/18 18:02
あのぅ、質問です。
たしか昭和初期の昭和7年以降の事件なんですが  ・  ・  ・
大阪の天神橋筋六丁目の交差点で信号無視した陸軍将校と、
それを注意した警察官が喧嘩をして、
最終的には天皇をも巻き込んだ事件ってなんでしたっけ?
2・26とか5・15みたいな呼び名があったと思うのですが。
誰か教えてください。
272日本@名無史さん:03/05/18 18:05
>>271
ゴーストップ事件
273プリッツ:03/05/18 18:07
>>272
有難うございます。
レス、サンクスです!
274254:03/05/18 18:32
>>254 誰か教えてくれ!
275あぼーん:あぼーん
あぼーん
276日本@名無史さん:03/05/18 18:55
製塩土器のルーツについて知ってることを書いてください。
277日本@名無史さん:03/05/18 19:17
>>268
とりあえず鎖国関連の本を読み、その巻末にある参考文献から芋蔓式に
さがしてみましょう。
あとは骨が折れる仕事になりますが、国立国会図書館から出ている
「雑誌文献目録」から鎖国関連の物を探してみましょう。
国立国会図書館はインタネットの検索もあるが、収録論文が199
8年以降?の物だけなので、お探しの物がヒットしない可能性もあ
ると思う。

他にハイテクな探し方wをご存じの方、後はフォローよろしこ。
278日本@名無史さん:03/05/18 19:30
>>254
 苗字帯刀は、幕府や藩との個別的な関係で認められる。
 大庄屋だからとか名主だからというように一律には決まらない。

>>259,264
 現代の感覚で考えるとおかしなことはいくらもある。ちなみに、戦国
時代の村落間相論でも「鉄火」という裁定方法がある。それぞれの村の
代表が熱い鉄をつかみ、長時間がまんできた人の村が勝者となる。勝っ
ても手のやけどがひどい場合、村が彼の生活を補償したとか。

>>264
 新井白石の「読史余論」あたりだと、その時期の支配者が基準。
時代区分として、上古・中世などはあり。源氏3代、北条氏の時代、
後醍醐天皇の時代、足利将軍の時代、信長の時代、秀吉の時代など。

>>268
探し方の質問?
雑誌論文なら、国会図書館の雑誌記事索引が便利(頭にhを補って)。
ttp://opac.ndl.go.jp/
あとは、史学雑誌の回顧と展望あたりが早いかな。
279あぼーん:あぼーん
あぼーん
280日本@名無史さん:03/05/18 20:18
>>276
 日本では縄文時代後期後葉に関東地方の履城県霞ヶ浦沿岸で初現し,やがて
東北の宮城県松島湾岸を中心に青森県下北半島・津軽半島にまで広がったが,
西日本では弥生時代中期中葉に,岡山県児島地方を中心に出現した。
東日本と西日本との系譜関係は今のところ知られていない。
 弥生時代後期には,岡山県,香川県,徳島県,和歌山県,兵庫県,大阪府
など瀬戸内東部に広がり,ついで古墳時代を通じて九州天草地方から太平洋
岸では,愛知県知多・渥美地方,日本海岸では能登・佐渡にまで拡大し,最盛期
を迎えるとともに,製塩土器の器形や遺跡構造などにおいて地域的特色を形成する。
281日本@名無史さん:03/05/18 20:20
訂正
×履城県
○茨城県
282日本@名無史さん:03/05/18 20:43
日本書紀等の歴史書は何部作られたのでしょうか。平安時代の役人はどのぐらいの人が閲覧可能だったのでしょうか。また、閲覧できなかった役人の間でも過去の歴史事件についての知識は共有されていたと考えていいでしょうか。
283日本@名無史さん:03/05/18 20:57
>>282
部数はわからないんじゃないかな?以下、参考までに。

朝廷では最初の正史として尊重され,完成後まもなくから平安前期まで
7回にわたって講書の会が開かれ(日本紀講筵(こうえん)),その記録は
《日本紀私記》,講書後の宴会での和歌は《日本紀竟宴和歌》として残
された。鎌倉時代には最初の総合的な注釈書として《釈日本紀》,室町時代
には《日本書紀纂疏》が書かれたものの,考証学的な研究は近世に入って
からであり,江戸中期以後《日本書紀通証》《書紀集解》《日本書紀通釈》
など,いずれも全巻にわたる注釈書が刊行された。
284254:03/05/18 21:29
>>278 個別的な関係とは?天領を例に説明してください、お願いします。
285日本@名無史さん:03/05/18 21:35
>>284=254
278ではないので、一般論だが、

幕府,藩は特別の場合に士身分以外の者に苗字帯刀を許し,士身分に準
ずる権威を与えていた。
身分的には農民であったが中世には地侍で近世に入っても在村の名望家
として統治の一部をゆだねられていた者,
その他さまざまの国の行政に協力して功績の大であった者など
がそれである。
このような苗字帯刀の特許の政策は,近世権力が在地に浸透してゆくため
の一つの有力な手段をなしていた。
286254:03/05/18 21:59
>>285 >>278 ありがとうございます。先祖が名主で名字帯刀が許されていたか、知り
たいのですがどうすれば良いでしょう。戦前までは郡下3大名家(と言われる
家は3軒以上ありますが)のひとつと言われていたそうですが、昭和大恐慌、
農地改革と衰退を重ね古文書等も親戚中に散らばり、どこに何があるかも分かりません。
その自治体などで調べても明治後の資料はたくさんありますが、江戸時代(唯一
、江戸初期に農地の開発についての記述がありましたが、それには名字は記され
ていなく4名の名主で検地を受け150石程の年貢を納めたとだけありました。)
に関してはそれ以上はわかりません。それ以前に関しては1550年頃の戦役感状
が分家の家のあるだけです。
287278:03/05/18 22:07
>>284
 私も一般論として書いてます。
 中世からの土豪・地侍以外では、幕末に幕府や藩に献金して、苗字・
帯刀を認められる例もあると思います。
 古くは「郷士」としての研究があり、近年では身分制・由緒論からの
アプローチがあると思います。

>>285
 サンクス。
288278:03/05/18 22:14
>>286
 すれちがいレスでしたね。
 地元の博物館・資料館・文書館にあたってみるのがいいと思います。
自治体史編纂の際に、直接表に出なかった資料がある可能性もあります
し、領主側の資料の所在などについても教えてもらえるかもしれません。
289268:03/05/19 00:23
レスしてくれた皆さん、ありがとうございました。
290日本@名無史さん:03/05/19 08:36
お願いです。
今、大学で 
夏目漱石が書いた手紙が彼の著書に与えた影響  を調べて
いるんですが、なかなかよい資料が探せず、困っています。
このテーマについて、語ることができる方、
このテーマについて書かれている本を知っている方、レスおねがいします。 
291日本@名無史さん:03/05/19 09:15
漱石書簡集ー岩波文庫(緑)。
漱石全集には書簡集があるよね。

文学板のほうが良いかも?
下のような本もあったけど。

心を癒す漱石からの手紙―文豪といわれた男の、苦しみとユーモアと優しさの素顔
矢島 裕紀彦 (著) 単行本 (1999/11) 青春出版社
価格:¥1,600

漱石先生の手紙
出久根 達郎 (著) 単行本 (2001/04) 日本放送出版協会
価格:¥1,500

夏目漱石の手紙
中島 国彦 (著), 長島 裕子 (著) 単行本 (1994/04) 大修館書店
価格:¥2,100




292日本@名無史さん:03/05/19 09:32
291さん
れす、本当にありがとうございます。助かりました。
今から大学の図書館にいって調べてみようとおもいます。

これらの本には、与えた影響なんかも書かれているのでしょうか、
実は先日、
大学図書館の検索ベースで、漱石 手紙 とキーワード検索してみましたら、
ヒットするものが少なかったんです。
293日本@名無史さん:03/05/19 09:39
290です。追記させて頂きます、
書くのを忘れえてしまいましたが、その手紙から読み取れる、
病の様子 についておしえてくださいませんか、
そのことが乗っている本でもかまいませんので、ぜひお願いします
294日本@名無史さん:03/05/19 09:40
訂正   忘れて  載っている
295日本@名無史さん:03/05/19 09:40
上の2冊は、「日本の古本屋さん」サイトで「夏目漱石 書簡」
下の3冊は、アマゾンで「夏目漱石 手紙」で、それぞれヒット。
影響については、よくわかりません。御健闘を。
296日本@名無史さん:03/05/19 09:46
お金がない学生なので、何とか図書館でさがしてみます
291さん ありがとうございました。
297日本@名無史さん:03/05/19 09:53
心を癒す漱石からの手紙―文豪といわれた男の、苦しみとユーモアと優しさの素顔
矢島 裕紀彦 (著) 単行本 (1999/11) 青春出版社
価格:¥1,600

夏目漱石の手紙
中島 国彦 (著), 長島 裕子 (著) 単行本 (1994/04) 大修館書店
価格:¥2,100

この2冊には、病気関係の時期の手紙の章があるようです。
ま、調べてみれ。文学部国文学科なの?
298日本@名無史さん:03/05/19 09:56
MARCH商学部です。レスありがとうございます。
299日本@名無史さん:03/05/19 10:26
>>265
>あべさだ
05 /18 ・今から63年前の今日、男性器を切り取られた死体が発見された。
犯人は、被害者の家で女中として働いていた 阿部定(あべ さだ)だった。
これは、戦前、戦後を通じて、あべさだ事件として有名となった。 裁判が
進めば進むほど阿部定の人格に問題はなかったということが はっきりしてきたからである。
裁判で、彼女は、減刑を望む どころか被害者への愛情を切々と語った。
小説家は、好んでこの事件の話題をとりあげ、ひとつの愛情の帰結だと、
はやし立てた。 映画(愛のコリーダー)にもなっている。つい最近もリメイクされた。
300日本@名無史さん:03/05/19 10:27
>>257
>墾田永年私財法の皇室領
皇室も私田を増やそうとしたでしょう。
あと、意外ですが、私有地増加は、国司の許可が必要で田租もとられたので
律令体制は強まったとの見方もあります。
301日本@名無史さん:03/05/19 10:28
>>259
>盟神探湯
やけどのひどさで決めたようです。恐怖で正直に言わせる期待があったようです。
形を変えて江戸時代まで続いてます(湯起請・鉄火(火起請))。
インドや中国でもあったようです。
302日本@名無史さん:03/05/19 10:28
>>261
>白人・黒人との出会い
長安には、東ローマの貨幣やキリスト教が着てますから出合ったかも?ですね。
一般には、種子島のポルトガル人とその後の南蛮交易でしょう。
黒人奴隷もこの時いたと思われます。
303254:03/05/19 13:24
>288 ありがとうございます。今度調べてみます。
    >>302 織田信長が黒人を見て珍しいとおもい(石鹸で手を洗わせた
が色が落ちなかった)家来としてもらいうけたとかいう話があったよね。
304日本@名無史さん:03/05/19 15:56
質問はこちらでしたか。


元寇についてはどのスレで語られているのでしょうか。
305日本@名無史さん:03/05/19 20:46
検索したけど、ないみたいね。スレたててみたら?
ネタふりや、流れによっては伸びると思うよ。
306日本@名無史さん:03/05/19 21:34
平安時代、天皇の詔勅原本は出された後、どこに保管されていたのでしょうか。(現在残っていますか)
307日本@名無史さん:03/05/19 22:31
平安京の平安宮の大蔵倉庫群に保管してたかなと思われます。

平安遺文があるので、原本かどうかわかりませんが伝わってはいます。

平安時代の古文書などを編年的に編集した史料集。竹内理三編。古文書編(11巻),
金石文編(1巻),題跋編(1巻),索引編(2巻)よりなる。
天応1年(781)より元暦2年(1185)に至る約400年間の5530通の文書を収める。
金石文編(1960)はおよそ600点の金石文およびその逸文など,題跋編(1968)は
およそ3000点の題跋を収める。

摂関期だけでも6〜7年に一度火事になってますが、内裏図などが鎌倉期・江戸期
と書き継がれています。
しかし、1227年に平安内裏は燃亡廃絶してます。
ただ、10世紀の延喜式は現存してますので、現存もあるかもしれません。
個別に調べるか、上の平安遺文でわかるかもしれません。
308日本@名無史さん:03/05/19 22:39
>>304
参考までに、過去ログと世界史板のモンゴル関係スレ

日本史板過去ログ

「神風」無しで元軍破った時宗
http://mentai.2ch.net/history/kako/979/979694463.html
神風について
http://mentai.2ch.net/history/kako/989/989164750.html
元軍が撤退した理由は?
http://mentai.2ch.net/history/kako/1000/10000/1000036174.html
【自衛戦争】「元寇」を語るスレ【本土防衛】
http://academy.2ch.net/history/kako/1022/10222/1022299059.html

世界史板過去ログなど

蒙古来襲
http://mentai.2ch.net/whis/kako/979/979959734.html
■NHK大河「北条時宗」を蒙古的観点から批評■
http://mentai.2ch.net/whis/kako/985/985585574.html
今のロシア人にはモンゴルの血が流れてる?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1025879631/
モンゴル帝国・金国・西夏・ホラズム
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1031997098/
【世界史上】モンゴル帝国最強伝説【最大版図】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1025384452/
309日本@名無史さん:03/05/20 00:54
弥生時代から日本で稲作が本格的に行われるようになりましたが、
(部分的には縄文時代から稲作は行われていたようですが、主要な食糧とは程遠いレベルですよね)
さて、この時、牧畜は伝来されなかったのでしょうか。もし伝来されたとして食糧にならなかったのはなぜですか。
310日本@名無史さん:03/05/20 11:29
>>309
遺跡的には、縄文・弥生期に家畜は飼われていたそうです。伝来はしたようです。
しかし、大規模な食糧源としての牧畜にはなりませんでした。
理由の推測をしますと、
1、魚介類(海・川・湖)・根菜類・菜っ葉類・イモ類・木の実類が豊富だった。
2、現在でもそうだが、栄養分の摂取が多国と比べ、魚介類が多い。さらに、
肉・魚介を合わせた動物性栄養素に比べ、植物性栄養素の割合が高い。
温暖湿潤気候で稲作・畑作が合うのかも。羊などは湿気に弱い動物です。
3、7世紀に権力が、牛馬を農耕用として確保のため、イケニエ(終了後に食していた)
を禁止した。つまり食用の禁止を狙う、そこに仏教の反肉食思想が追加された。
などが、考えられます。

オマケ・牧畜帝国には宦官が発生するとか。羊の去勢と関係するとか。本当かなw?
311日本@名無史さん:03/05/20 15:58
明治維新以降(?)、皇室典範ができて皇位継承順位が確立しましたが、
古代から江戸時代まで、天皇の継承順位は確定されていなかったのでしょうか。
312日本@名無史さん:03/05/20 19:58
>>286 150石って今の価値換算すると幾らぐらいですか。
313日本@名無史さん:03/05/20 20:25
ここの板って低知能なのにでしゃばるひとが多いですよね。
やはり学力・知識のある方が優先的に発言すべきでは?
だからこれからは英語による書き込み以外は無視することを提案します。
314日本@名無史さん:03/05/21 02:53
どうして旧日本軍はシンガポール人を5万人も虐殺したんですか??
教えてください。
315日本@名無史さん:03/05/21 07:54
>>311
大王制前期は、豪族の合意で相続、後期は天皇が任命したようです。
7世紀末までの皇位継承は、16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続、
仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,
夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。
645年に皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の形をとるまでは、死後相続。
長子相続とは限られなかったと思われる。
鎌倉期中盤からは、幕府が皇位継承の承認を実質的に持つ。系統対立で自己決定能力
がなくなった。
明治からは皇室典範で死後相続に戻った。

>>313
英語は道具では?
316日本@名無史さん:03/05/21 08:03
>>314
シンガポールの華僑人(中国系)ですね。虐殺6000人説から1〜2万人説があります。
理由は、華僑による反日運動が高揚するのではないかと考え、十万人近くを
調べたのですが、言葉の通じない憲兵が、やや適当に反日分子を摘発し、
殺害してしまったようです。
本当に反日分子だったのか、何かしたのか、抵抗の意思があったのかは、
今では調べようもありません。
317あぼーん:あぼーん
あぼーん
318日本@名無史さん:03/05/21 08:17
>>313
>There are many persons who take out a mouth in spite of being
>low intelligence in the board in this place.
>It should make a remark more primarily?
>And then, in the future, it proposes to ignore except English's writing-in.

I thinks that it is possible to discuss Japanese more deeply.
319日本@名無史さん:03/05/21 09:03
>>312
明治時代(十年代)=米一石(一五○キログラム)=約五円を
近似値として計算してみました。

貧しい我が家の米は10キロ=2000円wですから、
150k÷10k=15。2000円×15=30000円(3万円)。
一石≒3万円。
3万円×150石=450万円。

五公五民とすると、総年収は約900万円。4公6民なら総年収1100万円。
当時の物価水準を考えると、かなりのハイレベル階層では・・・
数学は苦手なので、ミスがあったら、フォローお願いします。
320日本@名無史さん:03/05/21 12:41
>>318
I look down on you because I'm sure that your English was made in English board.
That is to say,a fool cannot speak without asking the English translation.
In this way,stupid person is bound to be drive out from japanese history board.
321sage:03/05/21 17:21
室町時代の斯波氏と吉良氏の家格は
どちらが上ですか?
322日本@名無史さん:03/05/21 17:23
すいません、あげちゃいました。
323日本@名無史さん:03/05/21 19:42
>>320
I see too.
324日本@名無史さん:03/05/21 20:36
I kan not English.
325日本@名無史さん:03/05/21 22:45
>>324
ワロタw
326日本@名無史さん:03/05/21 22:48
Waratta
327日本@名無史さん:03/05/22 00:36
>>321
斯波氏と思うが。あと、ここはアゲ義務スレです。

328日本@名無史さん:03/05/22 00:37
地租改正の地券には、なぜ、天皇家の菊の紋と徳川家の葵の紋があるのでしょうか?
2枚持ってますが、2枚とも上に2つの家紋が載ってます。
違う意味なんでしょうか?旧勢力への懐柔なのでしょうか?
329山崎渉:03/05/22 02:40
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
330321:03/05/22 03:16
>>327
回答ありがとうございます。
次からはあげます。
331日本@名無史さん:03/05/22 10:01
異様に下がりすぎなんで、あげておきます
332日本@名無史さん:03/05/22 11:45
平安時代とか室町時代みたいに「〜時代」という呼び方は江戸時代までだよね
江戸以降は何時代になんの?
333日本@名無史さん:03/05/22 12:09
一般的には近・現代。
戦争終結までが近代、戦後が現代。
教科書などでは、明治・大正・昭和・平成を各時代と呼ぶのはさけているが、
つい、まとまりがいいので、明治時代・大正時代と使いがち。
334日本@名無史さん:03/05/22 22:45
>>333
説明不足だった
「将来、明治・大正・昭和あたりの時期を何時代と呼ぶようになると思う?」って聞きたかった
例えば帝国主義時代とか
335名無し:03/05/22 23:22
昭和天皇の最後のお言葉を探してるのですがどこか
全文(耐えがたきを耐え忍びがたきを忍び…)を表示しているHPがあったら教えてください
336日本@名無史さん:03/05/22 23:25
玉音放送 全文 で検索したらすぐ出てくるぞ

http://www.shuryosha.net/gyokuon.html
337日本@名無史さん:03/05/23 03:16
最後のお言葉って(w
338日本@名無史さん:03/05/23 16:10
>>334
帝国主義時代か。1945年までならありかもね。今も新帝国主義時代だがなw。
世界戦争時代もあるかも。そして、冷戦時代、グローバル時代となるのかな?
一時、文部省が帝国主義という言葉を教科書から抹殺しようとした時期があった。
冷戦時だね。資本主義の過去を美化しようとしてたんだな。総スカンでボツだったが。
1945年で、区切りは必要とは思う。
339あぼーん:あぼーん
あぼーん
340日本@名無史さん:03/05/23 18:00
有標音と無標音の違いってなんですか?
341あぼーん:あぼーん
あぼーん
342日本@名無史さん:03/05/23 19:18
有事法制に関する話題(確か天声人語だと。)で、
元寇が唯一こちらから仕掛けず一方的に攻撃された戦争だとかいうのは本当ですか?
刀伊の入寇は違うんですか?
343日本@名無史さん:03/05/23 19:33
質問なのですが、
5・15事件の三上卓ら、陸海軍士官は
刑期を終えた後は復職したのですか?
2・26事件の処刑された主犯格以外の実行犯たちは
その後の大戦などで最前線に送られたそうですが・・・。
344日本@名無史さん:03/05/23 19:42
縄文時代と弥生時代の線引きって稲作と土器の形だけ?
でも、縄文時代から稲作やっていたんでしょ?
345日本@名無史さん:03/05/23 20:45
>>344
それ言ったら、鎌倉時代と室町時代の違いだって、政権担当者の顔ぶれが違ってるくらいのもんなんだが・・・。

ともかく土器の様式が変わってなければ、稲作やってようが分業が高度化してるように見えようが、縄文時代後期と見なすようである。
346日本@名無史さん:03/05/23 22:32
>>342
刀伊の入寇は、女真族の日本への攻撃ですね。対馬・壱岐・大宰府・筑前が攻撃されました。
ま、短期で終わったから書かなかったのか、知らなかったのかはわかりません。
朝鮮は常に日本の喉元への刃だった、との論理へのアンチテーゼだったのかなと予想します。

>>343
「その時、歴史は動いた」スレに詳しい答えが出てましたよ。
347日本@名無史さん:03/05/23 22:50
>>340
よくわからんが、こんな文があった。意味が違うならスマソ。音韻関係でいいの?

両唇閉鎖音のうち,/p/と/b/の対立の根源は声帯振動による〈こえ〉があるか
ないかに帰着する。そこで〈こえ〉の標識をもつ/b/を有標項marked,もたない/p/
を無標項 unmarked と呼ぶ。
348日本@名無史さん:03/05/23 23:24
葵の紋は徳川家ですよね。なぜ、明治政府の書類に菊の紋と一緒に
使われてたのですか?
349日本@名無史さん:03/05/24 00:28
お聞きしたいのですが
「大日本帝国」という呼称を使いはじめたのはいつからなのでしょうか?
明治維新期からなのですか?それとも大日本帝国憲法が制定されてからですか。
もし後者なら明治維新期は自国の呼称はなんとしていたのでしょうか。
教えてください。
350日本@名無史さん:03/05/24 01:32
>>345
じゃあ、縄文と弥生の分かれ目って土器だけ?
351あぼーん:あぼーん
あぼーん
352日本@名無史さん:03/05/24 13:37
ニホン国・ニッポン国の両読みだったようです。
憲法制定後から正式文書には大日本帝国になったようです。
1930年代に、国語審議会でニッポンにしましたが、法律にはなりませんでした。
353日本@名無史さん:03/05/24 13:56
>>350
345ではないが失礼。
学会でも決着してない論争のようです。
土器決定派もいます。わかりやすいです。
しかし、これへの反論は「土器の研究が詳細に行われるに従って、土器
のうえで縄文土器・弥生土器を識別することが必ずしも容易でないこと
になった。両者の基本的な窯業技術が共通してしまう」から。です。
他は、採取より食糧生産が中心となる農業革命・金属器・階級成立など
を総合的に判断する立場があります。

先日の報道のように、弥生時代が紀元前10世紀までさかのぼるとすれば、
今まで縄文後期に稲作と言われたものが、実は弥生初期ということに
なるかもしれません。
345さん、失礼しました。
354日本@名無史さん:03/05/24 18:57
学者が功名心だけで時代を遡らせているだけじゃないの?
355日本@名無史さん:03/05/24 19:14

あれ?縄文時代って鉄器あったんだっけ?
356あぼーん:あぼーん
あぼーん
357日本@名無史さん:03/05/24 20:30
『日本史研究』『歴史学研究』の発刊物はどこかの大学の図書館で
閲覧できるのですか?
358日本@名無史さん:03/05/24 21:04
>>355
一般的には、鉄器は弥生時代からですね。

>>357
「叢書・歴史学研究」(法政大学出版局)ならいくつか区立図書館にありました。
史学科のある大学図書館ならあるのでは?
大学の図書館も最近はデジタル化され、かなり充実してるところが増えていますよ。
359357:03/05/24 21:14
ありがとうございます。ウチの大学はないものですから・・・
360日本@名無史さん:03/05/24 22:45
図書館がないの?史学科がないって意味ですよね?
一応調べてみたらどうですか?
他の大学や研究室と相互貸し借りしてるかもしれないし、閉架式には結構あります。
見つからなくて絶対見たいなら、国会図書館ならあります。
ヤフー検索で「国立国会図書館」サイトを見て利用ください。
361日本@名無史さん:03/05/24 23:09
単発質問ですが、幕末長州藩の医者の東条英庵とのちの陸軍の東条英教、英機
父子とは何らかの関係があるのですか?以前東条父子は南部藩の能楽師の出
だとか聴いたことがありますが、ここまで名前が似ているのと、長州主導の
日本陸軍体制を考えるとどうなのでしょう?
362日本@名無史さん:03/05/24 23:17
>>357
もしかしてWebcat(全国大学図書館総合目録)知らない?
アドレスは下記の通り(頭にhを補ってね。)
ttp://webcat.nii.ac.jp/
ここで検索して、あなたの図書館で紹介状もらって近くの大学へ
行ってね。
363日本@名無史さん:03/05/25 00:07
>>361
「東条英庵(東条英機の祖父)」との一文だけありました。
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/21_kawamotokomin/kawamotokomin.html
364日本@名無史さん:03/05/25 01:09
>>358
日本は他の国と違って青銅と鉄が一気に入ってきたと聞いたことがある。
高校の先生に。高校の時に。
365312:03/05/25 08:42
>>319 ありがとうございます。地主などの話題でOO町歩の地主だったなどあり
ますけど、150石だと何町歩ぐらい面積ですか?
366340:03/05/25 14:44
>>347
はい。音韻関係です。
どうもありがとうございました。
367日本@名無史さん:03/05/25 15:05
>>364
そう言われてます。文明圏の周縁地域の特徴かと思われます。
368日本@名無史さん:03/05/25 15:55
>>365 名前:312さん
319です。農家出身の老人に単位計算を聞いてみました。
1石=10斗
1俵=4斗
1町歩=10段
10段あたりの収穫量は、80俵〜45俵程度の差があります。
良い土地を持ってたと計算すると、約47町歩となります。
中程度の土地と計算すると、約90町歩となります。
下田を含むとすれば100町歩いきます。
かなりの地主といえると思います。
ちなみに、変な資料で見てみます。朝鮮総督府の1927年の土地所有比率
で見てみますと、30町歩以上の地主というのは、日本人地主では1,9%。
朝鮮人地主では0,2%です。つまり、農民の中で上位3%いないに入る
規模だということです。ただし、100町歩以上0,6%、200町歩以上0,3%
と、上には上がいますが。
日本の資料で調べてみれば、より階層ランクが明確化すると思います。
尚、私は数学が苦手なので再計算してみてください。
あと、単位や段(反)当たり収穫量は、時代差や地域差があります。
私のは関東の昭和20〜30年代の基準です。

失礼ながら、マッカーサー農地改革でどうなりましたでしょうか?
369日本@名無史さん:03/05/26 00:16
じゃあ縄文と弥生の差って、青銅・鉄器がないかあるかの差?
370日本@名無史さん:03/05/26 00:33
土器でわける派と総合的に判断してわける派があります。
総合派は、「採取より食糧生産が中心となる農業革命・金属器・階級成立など
を総合的に判断する」です。
一長一短ですが、弥生土器がでれば弥生時代とするとわかりやすいです。
金属器もほぼ同年代です。伝来と列島内製造証拠が出てます。
今回の検査では、いずれも紀元前10世紀前後のようです。
東アジア史を含め、縄文・弥生の確定には、数年かかると思われます。
371あぼーん:あぼーん
あぼーん
372312:03/05/26 02:32
>>368 ありがとうございます。町歩という単位になれていないのか、実感として広さが良く分かりませんが
田舎にいくと車で20分から30分程走っていると、この辺はいちめんうちのものだったと、父やおじから
聞いたことが何度かあります、見渡す限りいまでも田圃がひろがっているのがなかなかきれいです、
はるかかなたに山脈がうっすら見えて。
 農地改革の件ですが、農地改革というより、明治後少しずつ衰退していったという感じです。明治後は郡会
議長などを歴任し(いわゆる井戸塀政治です)立憲政友会などにも参加した模様です。そうして、いくつかの
銀行の重役をしていたとき、いわゆる昭和大恐慌にあい取り付け騒ぎで大変だったそうです。2代にわたって
お金を返したようです、そのときにだいぶ農地などを処分したそうです。今の銀行経営者とはだいぶ違ったようですね。
そうこうしているうちに農地改革にあい(これがとどめですね)戦後は山などは残ったそうですが、生活レベルがおとせないのか、兄弟たち
がたくさん借金をつくりそのたびごとに処分して行ったそうです。今ではなんの原形もとどめていないので話で聞いても実感がわきませんね。
373日本@名無史さん:03/05/26 09:14
>>372 :312さん
1町歩はだいたい1ヘクタール(100b×100b)です。
だから、312さんの家は、100bの正方形面積を50〜100倍ほど
所有していたことになります。
都市部のせまめの中学校のグランドの50〜100倍です。
東京ドームのグランド部分の50〜100倍??

銀行の借金を返したって事は、資本家層になってたってことだと思います。
農地改革は山林は免責でしたから残ってよかったですね。林業とか別荘経営とか
できないのかな?山並みは大好きです。家からは見えないので、見える土地へ行くと
なぜかホッとします。東北ですか?

374日本@名無史さん:03/05/26 11:47
最近,佐々木道誉の本を読んでいたら,
「足利尊氏の没4ヶ月後に義満が誕生した」というような記述があったのですが
NHKで放映していた太平記では,最終回に
「赤ん坊義満を抱いた佐々木(陣内孝則)道誉が足利(真田広之)尊氏と語らう」
シーンがあったように記憶しています。

史実的にはどっちなんでしょうか?
375日本@名無史さん:03/05/26 12:00
1358年4月 足利尊氏病死
1358年8月 足利義満誕生

ドラマは最終回だし演出のため、あえて間違えたんじゃないかな。
376日本@名無史さん:03/05/26 12:34
>>374
それはあなたの記憶違い

大河「太平記」では
義詮に子供が生まれるからその子供の名前をつけてくれと言われて尊氏が義満と名づけたって話を
尊氏と道誉がするってシーン。
赤ん坊の義満すら登場はしていない。

まあ、尊氏が義満と名づけること自体もうそだが。
377374:03/05/26 17:31
>>375-376
サンクス

道誉が義満を抱いて「これからは『義満』殿に寝返り致そうかな」とか
とぼけてたように覚えてたのは,その名前を書いた紙持ってただけだったのか

納得

大河ドラマ劇中人物の年齢設定は多少いじってある場合もあるという話を
「毛利元就」の時に聴いてたので,それかな?と思ってたのだ
378日本@名無史さん:03/05/26 19:52
縄文時代は石器だが、弥生時代には青銅器と鉄器がある、でいいじゃん。
379312:03/05/26 21:47
>>373さん 東北地方ではないです、信越地方です。山はもうほとんど残っていないです。
近場(田舎での近場という意味ですが)は銘木(というか有名)の産地ですが・・・・。
うちのところは雑木林かな?分かる人には、もうわかちゃいますかね。
又、質問ですが。近くの同じように名主だった家の記録なども読んだんですが、かなり遠い所に
山などを所有していたそうですが、江戸時代の山の所有形態(その家が江戸時代にその土地を持っていたかは知り
ませんが)はどうなっていたのですか、幕府や藩のとの兼ね合いというか、領地替えやなんやらで
その土地は幕領になったり藩領(記憶が定かではないですが江戸から遠いのでその藩が任されていた
という風に書かれてあったのかもしれません)になったり、庶民がそれほどの大規模な所有は江戸時代には許されていたのですか。
380日本@名無史さん:03/05/26 22:43
>>379 312さん
幕藩領主の年貢収取を中心とする支配は,耕地を経営する農民を主対象とし、
山はあまり対象になってませんでした。
平地住民にとって,山は経済的にごく有用な場。近世初期の都市造営と河川,
池,堤などの土木工事の盛行は,木材の需要を急増させ,奥山までも樹木の
伐採が進んだのち,大規模な植林策がみられた例が多い。
農業経営自体にとっても,肥料,牛馬品料の供給地として山は不可欠であり,
その利用権をめぐって,村々が争った記録は多い。山の耕地化が進み,18世紀
後半以後には桑畑の拡大欲などによる矛盾が紛争を生むこともあったが,紛争例
が多く記録される反面,相接して山野を利用する多くの村の住民が,そこで相互
交流の機会をもったことも見のがせない。山の口明けは,しばしば村民共同の
一種の遊楽としての印象を伝えている。山は肥料,品料,燃料や諸道具を生み
出すほか,木の実や皮,草の根,キノコ類,渓流魚や鳥獣などを含めて,食料
の供給地でもあり,飢饉のおりは,とくにその意味が大きかった。農民の領主に
対する抵抗の一つとしての逃散も,山の食料に支えられた。

つまり、江戸期は基本的には平地に近い山は、村民の共有地・共同所有でした。
西日本では共同使用してても名義的に寺社や個人の所有の山林が多く、
東日本には共同所有で誰の所属でもない山林が多かった。
(鉱山は幕府・藩の直轄地が多い)
明治になり、西日本の多くと、東日本の平地近くの山林は、地主の所有となり、
東日本の無主の山は国有林となりました。

大規模所有の件ですが、山形県酒田の本間家は、3000町歩(2000説もあり)
を所有し、「本間様には及ばぬが、せめてなりたや殿様に」と、藩主より豊かと
認識されていました。
5000石〜1万石の超超大地主です。華美な生活をこれ見よがしにしなければ、
大地主も認められたようです。
381312:03/05/27 02:28
>>380 ありがとうございます。さすがというか、本間様は格が違いますね。
5000石〜1万石ですか、すごすぎますね。
382日本@名無史さん:03/05/27 21:54
律令制の官位相当がわかるサイトか本はありませんか。式部卿は何位で、図書寮の四等官は何位とか。(いろいろな役職で偉い順番が知りたいのです)
383日本@名無史さん:03/05/27 22:09
>>382

ググれ! と冷たく切り離したいが
最近別板の 初心者質問スレで議論が起きて
やっぱりそういう冷たいのは格好悪いと思ったので

ttp://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/index.html

384日本@名無史さん:03/05/27 22:32
高師直ってなんで名字と名前の間に「の」が付くの?
385日本@名無史さん:03/05/28 09:12
>>384
平清盛(たいら『の』きよもり)
源頼朝(みなもと『の』よりとも)

理由は知らん
386日本@名無史さん:03/05/28 10:38
竹中半兵衛が記したと言われる「軍法極秘伝書」の内容が読める、
市販書籍はありますか?どなたか御存知の方、いらっしゃいましたら...。
387あぼーん:あぼーん
あぼーん
388日本@名無史さん:03/05/28 13:08
>>386
三進堂書店に 「軍法極秘伝書」竹中半兵衛, 昭62, \2000.とあったが、
この書店の検索ではありませんだった。電話で調べて聞いてみたら?

江戸時代本なら、あったが、値段が・・・。
「軍法極秘傳書」 大本全七巻 絵入 換表紙
竹中半兵衛、慶安2、1・和本21
洋学堂書店  350,000円





389日本@名無史さん:03/05/28 19:15
>>385
時代が違うじゃん
390日本@名無史さん:03/05/28 21:05
一条兼遐の読みは、「かねとお」でいいんですか?
391日本@名無史さん:03/05/28 21:25
>>385
歌舞伎・浄瑠璃の登場人物だからとしか・・・。
392日本@名無史さん:03/05/28 21:46
質問です。教育勅語に出てくる一節なんですが、
「父母に孝に兄弟に友に 夫婦相和(あいわ)し朋
友相信(あいしん)じ」というところがありますよね。
これって儒教てきな五輪五常のことをいっている
ように思われるんですが、どう思いますか?
393日本@名無史さん:03/05/28 23:05
>>384
 とりあえず、下記のアドレスを参照してください。
出自を示す氏の場合は「の」がはいります。足利義直(あしかがただよ
し)も、出自を示す「氏」を名乗る場合は、「みなもとのただよし」と
「の」がはいります。「高師直」の「高」は出自を示す「氏」です。
ttp://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/sei_uda.html
ttp://homepage1.nifty.com/tadahiko/GIMON/QA/QA172.HTML
上記、頭にhを補ってね。
それにしても、回答のレベル落ちてない? 失礼。 
394日本@名無史さん:03/05/28 23:24
>>392
自由民権運動の昂揚に危機を感じた政府はこれを直接弾圧するとともに,
ふたたび自由民権思想が起こらぬよう学校教育の統制に乗り出し,1879年の
〈教学聖旨〉で仁義忠孝を中核とした徳育を教育の根本にすえることの重要性
を説いた。
儒教主義の復活である。これを促進した天皇の侍講元田永孚が勅命によって編纂
した《幼学綱要》(1882)は,全国の学校に修身書として下付された。

この流れからわかるように。儒教主義の色彩が織り込まれています。
ただ、注意したいのは、「だから教育勅語には良い点がたくさんあった」という
理解は危険です。
教育勅語の徳目は全て、最終的に「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵(シタガ)ヒ一旦
緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に集約される
滅私奉公を黙って行う天皇臣民づくりが目的ですから。
以前、某有力団体が勅語の絵本を幼児児童向けに出しました。1980年代かなぁ?
最終ページは、日の丸と武器と軍人の絵でしたw。
395日本@名無史さん:03/05/29 06:52
任那の調って具体的にどんなもんだったの?
396日本@名無史さん:03/05/29 20:03
冠位十二階の制っていつまで機能してたの?
397日本@名無史さん:03/05/29 22:00
>>395
繊維系(麻・絹・綿)と海山の産物が考えられます。

>>396
603年(推古11)の冠位十二階は、広まるまでに数十年を要し、蘇我氏は与える側で
官位を拒否してたようです。
664年(天智3)には冠位二十六階が制定されたことになっているが,その具体相
についてはなお検討すべき点を残す。685(天武14)には爵位六十階が成立し,
飛鳥浄御原令に受け継がれた。
398日本@名無史さん:03/05/29 22:12
>>397
>664年(天智3)には冠位二十六階が制定されたことになっているが,
その前に大化3年(647)冠位制も大化5年(649)冠位制もあるぞ
大化5年冠位制の存在は木簡からも裏づけられてる
399日本@名無史さん:03/05/29 22:55
>>398
397だが、フォローサンクス。
400日本@名無史さん:03/05/29 23:07
思い込み厨の伊達遠江守家中の家にイタ電したいんですが、誰かヤシの自宅
か携帯の電話番号教えてくれませんか?
401日本@名無史さん:03/05/30 00:52
で、その官位制ってのは従三位とか、ああいうのに繋がって行くの?
402日本@名無史さん:03/05/30 00:55
僧旻ってのは、これでフルネーム?それとも旻ってだけの名前?
なんで坊主のうち、こいつだけ頭に僧なんてつくの?
403日本@名無史さん:03/05/30 01:05
氏姓制度って諸豪族の同族的集団が氏で、地位や職業に対して姓だよね。
例えば極端な話、同じ蘇我氏でも蘇我氏は一杯いただろうから、蘇我大臣の
奴と蘇我首の奴と蘇我連の奴がいたって事なのかな?
それとも一氏族は全部同じ姓で、それは代々全く変わらなかったの?
404386:03/05/30 06:38
>>388 遅レス、ごめんなさい! 有難うございました!
流石に35マソの方はツライですが、2000円の方、問い合わせてみます。
教えて下さって、本当に有難うございました。
405日本@名無史さん:03/05/30 09:25
>>403
まず指摘
わしのつたない記憶では、「蘇我」氏の姓は七色の制の制定前は「臣」
制定後は「朝臣」のみ(ちなみにこの時に氏も変わっていて「石川」氏になった)

同名の氏で異なる姓を持つ一族としては「紀」氏とか「物部」氏があげられる。
例)物部→物部連(七色の姓制定後は「石上朝臣」)、物部首…など
このように同じ氏を持つ集団は職制上は関係があったと思われるが系統上では
関係がないことが多かったりする。 
例で言うと物部連の子孫が物部首になることはあり得ないし、その逆の例も
無かったと思われ。

ということで
・一氏族は全部同じ姓ですか?→そういう氏族もいますが、違う氏族も多い
・先祖から受け継いだ姓は代々変わらないの?→基本的には変わらない
  (奈良時代後半以降になると功績などで姓を変更される氏族が多くなる)

後誰かフォローよろ



406日本@名無史さん:03/05/30 10:34
>>401
685(天武14)には爵位六十階が成立し,飛鳥浄御原令に受け継がれた。
ここでは,皇親の爵位として明(みよう)・浄(じよう)(12階),諸臣の爵位
として正(しよう)・直(じき)・勤(ごん)・務(む)・追(つい)・進(しん)(48階)
が設定された。律令位階制の骨格はここにおいて成立し,701年(大宝1)の
大宝令制に発展的に継承された。
[冠から位記へ]  
大宝令は逸文を残すのみであるが,その位階制は,養老令のそれと同一
であったとされている。皇親の位は親王のみに制限され,一品〜四品まで
とされた。諸王および諸臣の位は特別に品位(ほんい)と称されるが,
その対象は,正一位〜少初位下までとされた。一位〜三位までは正・従
に分けられ,四位〜八位までは正・従,初位は大・小に分けられたうえで
さらに上・下に分けられた。また位階をあらわすものとしての冠制は廃止
され,かわりに位記が与えられるように改められた。
407日本@名無史さん:03/05/30 10:41
>>492
正式な名前は、漢人旻(いまきのあやひとみん)

「日本書紀」で新漢人日文(にちもん)とあるが、中国から帰国した632年
(舒明4)以降はすべて僧旻と記す。
留学経験者とのアピールかな?名前からして渡来系っぽいし。
408日本@名無史さん:03/05/30 12:27
江戸時代の夫婦(庶民)はお互いに何て呼び合っていたんですか?
ダンナ?カミサン?
409日本@名無史さん:03/05/30 13:06
武家屋敷(庄屋屋敷)の門構えで格式が分かるという話は良く聞きますが
塀はどうなの、土塀、漆喰板塀、黒板塀などありますが、格式によって
違いはありますか?

410日本@名無史さん:03/05/30 20:33
http://www.getda.com/evweb/ad/WIN004_q018/img/whoho.jpg

この人は誰か教えてください。
411日本@名無史さん:03/05/30 20:34
先日、CS放送で「Gメン75」を見ていたのですが、
劇中の台詞『沖縄人が米国人の妻や娘を犯したら死刑』っていうのは、
本当の話ですか?
412日本@名無史さん:03/05/30 20:40
なんかどんどん疑問が湧いてくる。
八色の姓制定後は氏姓制度の姓と八色の姓は完全に入れ代わったの?

今でも姓持っている家ってあるのかなあ?
413日本@名無史さん:03/05/30 21:23
>>409
古くは禁裏,宮地,門跡寺院などでは白い横筋を入れた筋塀として格式
を示したが,のちには一般寺院などでも広くこれを用いるようになった。
練塀は江戸時代に大名屋敷や寺院に用いられた。石塀は自然石や加工した
石を両側に積み上げて築くもので,屋根は造らない。代表的な遺例に岡山
県の旧閑谷(しずたに)学校。

江戸初期までは表門に櫓門を構え,派手な彫物を飾るなど,華美を競ったが,
幕府の倹約方針に従って江戸中期以後は,3間または5間の平棟門を構えるよう
になる。中屋敷や下屋敷は上屋敷の堅苦しさを避けるため設けられたもので,
家族はだんだんこちらに住むようになる。
侍衆の屋敷になると,住込みの家臣や奉公人が少ないところから,長屋
のかわりに塀を設けるなど家囲いも簡略なものになり,住宅も,書院を
中心にした表構えと家族の生活のための奥構えといった,小ぢんまりと
した規模になり,門も1間の棟門になる。
 地方の城下町になると,武士はみな居屋敷を拝領しているので屋敷内
にたくさんの長屋を建てる必要はなく,家囲いも土塀や板塀あるいは生垣
などを用い,門も長屋門や薬医門あるいは貫門などを使うことが多い。
敷地の広さに比べて住宅の規模はあまり大きくなく,上層農民の住宅程度である。
414日本@名無史さん:03/05/30 21:38
1953年以降、日本へ復帰するまで、裁判権や適応法はアメリカのもの
でしたので、裁判になると日本人が不利になる場合も多かったのでしょう。
それで、そういう発言があったのかと思われます。
実際には、日本人には不利とはいえ、一応、法律に則って裁判して
もらえたと思います。
復帰後は、米兵への裁判権で、近年の米兵による少女暴行事件での
県民の大反発・大集会以後、日本の主権が次第に尊重されてきてますね。
415日本@名無史さん:03/05/30 21:45
>>412
「日本書紀」天武13年10月条に「諸氏の族姓(かばね)を改めて,八色の姓を作りて,
天下の万姓を混(まろか)す」とある。

684年の段階で,八色の姓を制定したことは,姓の制度の面において,
天皇の近親氏族を真人として,その第1位に置き,以下,朝臣,宿衝に
有力氏族を配し,整然とした姓による政治的秩序づけを意図し,さらに
その制度の上に天皇,王族が位するという律令国家体制確立のための
一つの足がためをねらったものと考えられる。
416日本@名無史さん:03/05/30 22:16
第二次世界大戦中に日本国内(植民地は除く)に、
外国人捕虜の収容施設はあったんでしょうか?
417日本@名無史さん:03/05/30 22:54
>>416
確かあったと記憶
広島・長崎の原爆の時に、アメリカ人捕虜が収容所で死んだとか言う話を聞いたことが
418大 野 達 也:03/05/30 23:02
【 質 問 】
以前から不思議に思っていたことがあります。
江戸時代以前の、未だ西暦が広く知られていなかった頃の我らのご先祖様は
歴史上の時間の観念をどのように持っていたんでしょうか?
我が国も無論皇紀を持っていますけれども、近世以前の書物や資料には殆どといってよいほど用いられていない様に思います。
それらにはもっぱら享保や寛永などの「元号」で表記されていますよね。
ということは古人達は神武からの元号を順通りに全て、さらに各元号ごとにそれらの年数を全て記憶することによって歴史時間に一串を通していたのでしょうか。
どなたかご教授願えれば積年の疑問が解消してすっきりできるのですが…。
419日本@名無史さん:03/05/30 23:26
>>418
何年前とか考える場合は「丙午」とかそういう(干支?)のを使ったのかも・・
12進法なのかな?
420日本@名無史さん:03/05/30 23:29
@道鏡と称徳天皇が不適切な関係にあったことA恵美押勝の娘が多数に乱暴されたこと
は、日本書紀や続日本紀に記述があるのですか。もしなければどこが話の出所なのですか。それとも完全な出鱈目なのですか。
421日本@名無史さん:03/05/30 23:48
>>418
十干十二支で60年が一周期
いまの「世紀」の感覚か
4222ch乗っ取り計画:03/05/30 23:52
逆説の日本史投入したい。
423日本@名無史さん:03/05/30 23:57
次の文章を素人でもわかるよに翻訳してください。

蓮窓寺(浄土真宗東本願寺派) 台東区今戸2-27-3

寛永3年里見家が真宗に帰依し、青山の地に一宇を建立し、釋了玄を開山第一祖として、
王法為本・専修念佛の道場を開く。延享3年4月1日類焼のため古記録・古文書等が
焼失し、詳細は不明。また、明暦の大火により現在地に移転、法燈連綿師資相承が
今日に至る。現住職は第十四代として活躍。
4242ch乗っ取り計画:03/05/31 00:13
↑辞書引けば
4252ch乗っ取り計画:03/05/31 00:22
逆説の日本史キボン   
426日本@名無史さん:03/05/31 00:39
>>418
だからこそ暦博士に価値があったんじゃねえの
昔は学問ってのは閉じられた世界で秘伝で受け継いだものだからさ
427大 野 達 也:03/05/31 00:47
>>419
>>421
返答レス有難うございます。
確かに干支については考慮の外でした。
またよく考えたら、近世以前で歴史時間に一串を通す必要性に駆られるのは皇室や学者など特殊な階級の人々に限られていて、
その他大多数の農民にとっては年サイクルの天候の変化の方がよっぽど関心が高かった筈だったでしょうし…。
428日本@名無史さん:03/05/31 02:16
>>420
正史には載ってません。
山芋の話は『古事談』、恵美押勝の娘の話は『水鏡』が出典だったはず。
429428:03/05/31 02:19
いけねえ・・
山芋じゃなくて道鏡でしたね。
そっちは知らないや。どなたかご存知の方はよろしゅう。
430日本@名無史さん:03/05/31 16:18
>>420
>道鏡と女帝の性愛

道鏡失脚後に、藤原氏が自らの立場を正当化するため、孝謙天皇と道鏡をおと
しめた。(と、「道鏡の名誉を回復する会」は言っている。会員100名もいるそうだ)

後世に記録された文献は、九世紀の「日本霊異記」や十一世紀の「日本紀略」。

ここに描かれた二人の関係は中国渡来の好色本をまねており、「道鏡好色説」
が後世に伝わった。(と、道鏡の名誉を回復する会、は言っている)

毎年、道鏡の命日の四月七日には、栃木県南河内町の龍興寺で供養祭を催しいるそうです。

>>428
山芋ってシモネタの山芋?激しくワラタヨ!!


   

431困っています:03/05/31 18:24
突然お邪魔してすみません。今この↓スレ↓で荒らしが暴れています。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1054302336/l50
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1053783706/l50
犯人はどうやら「思い込み厨の伊達遠江守家中」というヤツです。
こいつに関する情報を探しています。ご存知の方がいたら教えてください。
432困っています:03/05/31 19:07
突然お邪魔してすみません。今この↓スレ↓で荒らしが暴れています。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1054302336/l50
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1053783706/l50
犯人はどうやら「思い込み厨の伊達遠江守家中」というヤツです。
こいつに関する情報を探しています。ご存知の方がいたら教えてください。







433日本@名無史さん:03/05/31 19:24
age 
434日本@名無史さん:03/05/31 21:34
あの称徳天皇は井上内親王などの政敵を[厨厨子」とか「なんとかの狭虫」とか改名させたらしいですが、蘇我蝦夷って、こうした例のような改名させられたものではないでしょうか。
実力者が名乗るような名前ではないと思いますが。
435日本@名無史さん:03/05/31 21:54
和気清麻呂→称徳天皇に別部穢麻呂と一時、改名される。

蝦夷は毛人とも書き、勇猛さを表現してたようです。
西国人戦士10人は、1人の東国戦士にかなわないといわれてました。
436日本@名無史さん:03/06/01 04:32
友人によると戦後日本史においてもただ一件だけクーデター計画があったらし
いのですが、それはどのようなものだったのでしょうか。
事件のあらましについて教えてください。
ちなみに三矢計画事件とは違うそうです。
437日本@名無史さん:03/06/01 10:44
>>436
三無事件(さんむじけん)

元軍人らの国史会グループが,池田勇人内閣の閣僚を含む政府要人の暗殺や,
国会,警察などの襲撃を企てたクーデタ未遂事件。
初め国史会事件と呼ばれたが,グループの主張から三無事件と呼ばれるようになった。
1961年12月12日までに,元川南工業社長川南豊作,元陸軍少将桜井徳太郎,
元海軍中尉三上卓(五・一五事件の首謀者),元陸軍士官学校生徒小池一臣ら
13人が逮捕され,つづいて4次まで検挙がおこなわれた。
国史会グループは川南の主張する〈無戦争・無税・無失業〉の三無主義に共鳴し,
現在の政府では共産革命を抑止することができないと,元同僚の自衛隊幹部
にも呼びかけ,国会の開会する12月9日,国会の周辺を騒乱状態にして,閣僚や
国会議員を暗殺する計画を立てた。
自衛隊への働きかけに失敗したことが,発覚の端緒となったといわれる。
東京地方検察庁は12月29日,初めて破壊活動防止法を適用し,政治目的の殺人予備,
騒乱予備の容疑で10人を起訴した。1964年5月30日,東京地方裁判所は破防法
違反として,川南に懲役2年,小池に1年6ヵ月など6人に有罪,4人に無罪の判決
を下した。ついで67年6月,東京高等裁判所の判決では,破防法に関しては無罪
とされ,川南の懲役2年など4人が有罪となり,70年7月,最高裁判所の判決に
よって高裁判決が確定した。
            
自衛隊に働きかけると、大抵失敗するね。直属上官以外からは指示を受けないと
徹底教育されてるのかな?三島由紀夫の自衛隊突入演説も、隊員のブーイングで
誰も聞いてなかったらしい。自衛隊にとって、ウヨクは迷惑なのかもしれない。
やっと、広がってきた好感度が消えちゃうからね。
438436:03/06/01 21:41
>>437
丁寧な回答、ありがとうございました。
439日本@名無史さん:03/06/02 09:08
庄屋のなかにもランクがあるそうだけど、そのへんのところ詳しく教えて!
440日本@名無史さん:03/06/02 09:34
郡中惣代(ぐんちゅうそうだい)とかのこと?違ってたらスマソ。

江戸時代の各地に散在する幕領(天領)に,宝暦・天明期(18世紀後半)以降
存在した村役人の代表。個々の代官所支配管下全体(=郡中)の庄屋(名主)
を代表する〈惣代〉の意味で,郡中惣代庄屋(名主)と呼ばれる。
形式的には代官による任命のかたちをとるが,実質的には村役人の中での
入札で選出,推薦される。原則として任期は1年間で世襲制をとらない。
分散・錯綜する所領形態をとり,かつ現地の支配機関としては脆弱な代官所
しかもたない幕領において,代官所と各村々とを仲介し,現地支配を実質的
に補完する重要な諸機能を果たした。各地の幕領により,人数(1,2〜十数名),
名称,機能,性格に若干の違いがある。
郡中惣代は1713年(正徳3)幕領に対して出されたいわゆる〈大庄屋廃止令〉以後,
大庄屋の代りに置かれたものとされたり,藩領の大庄屋,大肝入などと同質視
されたりするが,別系統のものである。大庄屋が武士的身分を有し,支配機関
としての性格が強いのに対し,郡中惣代は身分上,経済上の特権がない場合が多く,
郡中各村の庄屋(名主)との間の書簡往復,寄合(〈郡中寄合〉)開催などの
恒常的な連絡ルートによって全庄屋(名主)の総意を代表しうるなど,
郡中村役人の代表=〈惣代〉としての性格を強くもつことが重要である。

各地の藩では以下のようなところもあったようです。
大庄屋→租税(年貫)、普請、林務、布達、請願等の取扱い
宗旨庄屋→寺社、戸籍、宗門改め、人事等を担当し、特にキリシタン信者には注意を怠らなかった。
中庄屋→中期以降に設置された役で、大庄屋の補助役とし、主として年貫を担当したようである。
その下に、村方庄屋。
不作の時は、大庄屋が自腹を切らざるを得ず、三代で家がつぶれるといわれたとか。
441439:03/06/02 10:19
>>440 ありがとうございます。幕領において大庄屋が廃止されたのはなぜですか?
あと、割元庄屋という用語も小説などに出てきますが、これはなんですか?
もうひとつすいませんが、ランクと名字帯刀の関係はどのようになっていますか?
442日本@名無史さん:03/06/02 10:38
田舎に行くとある庄屋門のうち長屋門や薬医門は、ほとんど明治になってから
建てられたって本当ですか?
443日本@名無史さん:03/06/02 10:39
>>441
大庄屋の幕領での廃止理由は以下を参考。
割元は、大庄屋のように支配者側にたって百姓の多額の給米で生活し、
独断専行が許された職種のようです。これは、歴史大事典などで確認してください。
大庄屋は永代名字帯刀です。以下のコピペを参考にしてください。

大庄屋(おおじょうや)
江戸時代の地方(じかた)役人の一つ。農民身分としては最高の地位。
領主は,領内を組,筋,手永(てなが),宰判(さいばん)などに大区分し,
それごとに大庄屋を置くことが多かった。
ただし幕領では,1713年(正徳3)諸国代官への通達(全13条)の11条において,
大庄屋,割元,惣代などを廃止した。その理由は,彼らへの多額の給米が
村の負担となること,彼らの専断により百姓が難儀する場合が多いこと,
の2点にあった。
(続く)
444日本@名無史さん:03/06/02 10:39
(続き)
藩領では,幕末まで大庄屋制度を維持したところが多い。長州藩(外様大名)
では領内を宰判(幕末には18宰判)という行政区域に分け,宰判ごとに代官と
大庄屋を置いた。各宰判はおおむね20〜30ヵ村を含み,大庄屋が各村庄屋
を統轄した。各宰判の中心役所を勘場といい,大庄屋はそこに詰めて勘場
の諸役人を指揮した。
大庄屋の多くは永代苗字帯刀御免で,その民政上の実力は藩の下級役人より
も強かった。加賀藩(外様大名)では大庄屋にあたるものを十村(とむら)といい,
改作奉行の下にあって10ヵ村前後を統轄した。会津藩(家門)ではこれを郷頭(ごうがしら)
といい,代官の下にあっておよそ1万石程度の村々を支配した。
大庄屋の権限は非常に強く,百姓一揆にあたっては攻撃目標にされる場合もあった。
以上はいずれも大藩の事例だが,譜代中藩にも大庄屋が置かれていた場合が少なくない。
出羽山形領では1645年(正保2)領主松平直基が,15万石の所領に大庄屋
18人を置いたのがはじめとされており,以後の領主は若干の改廃を行ったが,
大庄屋制度そのものは維持された。山形領の大庄屋の多くは戦国大名最上氏の遺臣で,
同氏が改易された後土着したものだといわれている。日向延岡藩(内藤氏)
でも組ごとに大庄屋が置かれていた。

大庄屋の大部分は苗字帯刀御免であり,広大な屋敷地と豪壮な住居や土蔵
を持つ最上層農民であって,その民政上の影響力はきわめて強く,領主は,
彼らの持つ伝統的な力に依拠して領内支配をすることが多かった。  
445439:03/06/02 10:47
>>443 444 ありがとうございます。
446日本@名無史さん:03/06/02 14:14
>>442
長屋門は農村においては名主,庄屋など村役人を務める上層の農民だけに建てる
ことが許されていた。
現在各地に残る農家などの長屋門の多くは,じつはこの規制がなくなった明治以後
に建てられたものであり,長屋門による家格の表現が大きな意味を持っていたことを物語る。

と、某大事典にありました。薬医門はわかりませんでしたが、これも家格表現の
一種のようなので、同じかと推測されます。
447日本@名無史さん:03/06/02 14:26
庄屋なら無条件で長屋門を建てられたのですか?地方によって長屋門がある地域
と全然見ない地域があると思うのですが。
448日本@名無史さん:03/06/02 14:30
質問です。
江戸時代の身分制度と職業観について興味があります。以下の質問について教えて
ください。
@足軽って、武士身分だったんですか?
A医者は武士身分なのでしょうか。世襲制だったのでしょうか。
現在のように社会的地位が高い職業だったのでしょうか。
Bちょんまげは身分によって形が違うようですが、これは強制的な
ものなのでしょうか?
C「おかっぴき」は、社会の憎まれ役であるためヤクザやエタ・ヒニンに
やらせていたというのは本当ですか?
長屋の賃貸人(大家)に町役人という仕事をさせていたと高校の
日本史で習ったんですが「おかっぴき」と同じ物でしょうか。
449日本@名無史さん:03/06/02 15:20
@世襲を認められ苗字帯刀を許された徒士同様の者から,一代限りで
帯刀はもちろんのこと苗字さえも許されない,なんら庶民と変わらぬ
者までがあった。後者は多くは農民の出身であった。後者を身分上武士
に加えてよいかどうかは疑問がのこる。
明治維新をむかえて,足軽はすべていったんは卒族に編入されて士族と
は区別された。だが,のちに譜代の者は士族に加えられ,他は平民に編入された

A身分制度の枠外の存在。でないと、皇族や将軍を手当てできない。
世襲もいたし、世襲でないのもいた。藩医などは世襲。

B武士・町人に区別があったようです。しかし、男女とも様々な流行が
江戸時代には何度も起きてますので、変化はしてます。
チョンマゲを結わえるものが武士は絹素材、農民は綿、賎民はワラとされた
地域・時期もあったようです。町人はわりと流行を追っかけてます。

C目明しですね。江戸時代に諸役人の手先になって,私的に犯罪の探査,
犯罪者の逮捕を助けたもの。岡引(おかつぴき),御用聞,小者,手先ともいう。
幕府は1712年(正徳2)以来,禁止令を出しているが,犯罪者を捜査に使う
ことはなかなか根絶せず,また犯罪者でない通常人も手先に使うことが
ひろく行われるようになった。
非人の仕事のひとつに、犯罪者の市中引廻し,処刑場での雑役などがあります。
岡引とは少し違います。
町役人は行政事務を行い、岡引とは違います。最下部の町役人は、直接住民に接し,
町奉行および上層役人の指示によって触(お触れ)の徹底,訴願の取次ぎ,
出頭のさいの付添い,不動産取引など契約の確認,トラブルの調停など
多様な業務を処理した。町役人は町共同体から選出された事務官であるから,
上からの支配業務を行うと同時に,それら共同体の維持にかかわる下からの
要求の窓口としての役割も果たした。

中央公論社から「日本の近世」全18巻がでてますので、興味のあるのを
図書館ででもいかがでしょうか。
450日本@名無史さん:03/06/02 15:30
>>447
武家屋敷の門は格式によって形式が定められ,とくに大きな国持大名は
独立した門を建てられるが,一般は長屋門で,10万石以上は左右に唐破風
あるいは切妻の出番所付,5万石以上は葺下(ふきおろし)屋根の出番所,
分家では5万石以上も片方出番所,片方出格子,1万石以上は両方とも
出格子の番所と定められている。

庄屋の長屋門は届け出制で、許可が下りれば立てられたのではと推測されます。
地域差は、東日本・西日本文化の地域差と、各藩の農民指導政策による地域差
(庄屋を支配者機構の側と見るか、しょせんは百姓と見るか)と推測されます。
451447:03/06/02 19:04
>>450 サンクス!!
452日本@名無史さん:03/06/02 19:25
旧陸軍、海軍には軍法会議で有罪になった軍人などが入る軍刑務所がありましたよね。
こうした軍刑務所に入っていた服役囚は、敗戦後どうなったのでしょうか?

一般の刑務所に移送されたのでしょうか?
また、一部の政治囚などは釈放されたり、刑期の短縮などがあったのでしょうか?
どなたかお教えください。
453日本@名無史さん:03/06/02 20:41
うちの田舎にいくと、藩領だったところは白塀が多く、天領だったところは
板塀なんですけど、どうしてかな?
454日本@名無史さん:03/06/02 21:07

在日がいろいろ人種工作やってるけど、真相はかなり違う。

大雑把に、
頭示数が、韓国人は短頭〜過短頭、日本人は中頭〜短頭。
鼻示数が、韓国人は中鼻、日本人は広鼻〜中鼻。
二重の出現率が、韓国人は約3割、日本人が約7割。

一般的に韓国人の顔は、ツリ目が多く、鼻は低く目立たず、彫りが浅い。
頭は絶壁頭の傾向が強く、その分頬骨が高い。体毛が薄いのに比例して
眉毛や髭などが薄い。全体的に見て平坦な印象。形態もさる事ながら、
中国人ほどではないが遺伝子の方もかなり違う事から考えれば、
韓国人は人種的に日本人とはかなり違った異人種であるという事が分かる。

http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
455日本@名無史さん:03/06/02 22:27
>>452
共産党非転向派は、1945年の10月ごろ治安維持法廃止で釈放。
5・15関係者は、刑期短縮で戦時中に釈放され、右翼系の団体に入ってたような記憶。
戦後、軍法会議その他の軍の司法権は一切否定されたからクーデター関係で
入ってた人がいたとしたら放免じゃないかな。
456日本@名無史さん:03/06/02 22:36
>>453
推測だが、藩領の方が庄屋と農民の格差をつけ、
天領は、庄屋にあまり高い格式を許さなかった。
幕府は、人民に優しい統治者としての見本を見せる必要があったから。
天領農民は年貢も軽く、藩領農民から極楽生活と見られてたとか。
457452:03/06/02 22:58
>455
政治犯などについては、わかりました。ありがとうございました。

ただ、軍隊内で殺人、傷害、窃盗、敵前逃亡、命令不服従などを犯して軍刑務所に入った一般囚?についても、敗戦後に(恩赦による?)釈放、刑期短縮などがあったのでしょうか?
それとも、単に刑期はそのままで一般の刑務所に移送されたのでしょうか?
458日本@名無史さん:03/06/02 23:11
>>457
一般の囚人で、軍以外の裁判所で判決を受けたものは継続。
軍法会議で判決を受けたものは、釈放されたと思います。
特に上官命令拒否・逃亡関係は、釈放されたと思います。
軍及び軍法会議が否定されましたから。
軍隊内殺人・傷害・窃盗についても同様の釈放措置がとられたと思います。
特別権力関係が破綻しましたから。
459457:03/06/02 23:36
>458
素早いお答え、ありがとうございます。
特に軍隊内殺人・傷害・窃盗を犯した者については、敗戦後、一般の刑務所に移送されて、刑期もそのまま継続されたのかと思っていましたので、大変、参考になりました。
ありがとうございました。
460日本@名無史さん:03/06/03 00:26
井上馨って誰に暗殺されたの?
461日本@名無史さん:03/06/03 09:36
>>459
きちんとした根拠に基づいてないので、正確には書籍や法学部教授に
聞いてみてください。
例えば、南方戦線で弱った兵を殺して食べたとか異常事態での犯罪ですよね。
さらに、上官が先に食べ物食べちゃって、兵隊が飢え死にした場合、上官は
過失致死罪になるのかなど、一般法令では判断できない者と思われます。

南方で、上官への反抗か戦闘拒否をした一兵士は、わざわざ内地から来た特高
かなにかに、治安維持法違反で逮捕され、45年の秋のGHQの維持法廃止命令
で出所してます。この人は「軍裁判所 釈放」あたりでヒットしたような記憶が
おぼろげにあります。
462日本@名無史さん:03/06/03 09:47
>>460
79歳まで生きてます。1934年9月1日死亡。病気じゃないかな?
463448:03/06/03 12:46
>>449
ありがとうございました。さっそくご指摘の本、読んでみます。
464457:03/06/03 15:03
>461
いろいろご教授いただき、ありがとうございます。
465日本@名無史さん:03/06/03 15:49
>>456 ありがとうございました。
466日本@名無史さん:03/06/03 16:01
江戸時代の浪人は、身分としてはどう扱われたのですか?
その浪人の息子は?
467日本@名無史さん:03/06/03 17:07
>>466
もう一つのスレにレスしました。
なお、同じ質問を2ヶ所以上で同時にすると、「マルチ(マルチポスト)」
と言われ、怒られたり、答えてもらえなくなることがあるので注意しましょう。
468日本@名無史さん:03/06/03 17:08
江戸時代の公家のお墓って現存しているんですか?
469日本@名無史さん:03/06/03 20:08
ペリーの白旗って本当何ですか?
東大の学閥が資料判断できなくなっているという説もあるのですが・・
470日本@名無史さん:03/06/03 20:12
大奥のスレはないでごわすか?
471日本@名無史さん:03/06/03 20:58
平安京(市街含む)の地図で残っている一番古い物って何ですか?
&それは何処で見れますか?
472歴史学博士の俺様:03/06/03 21:21
>>469 宮地説が正しい


473日本@名無史さん:03/06/03 21:31
>>469
いろいろ意見はありますが、なかった派のほうが優勢に思えます。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekiken/archives/ebara_2002.html
474日本@名無史さん:03/06/03 22:04
庄屋門と武家門って違うの?
475日本@名無史さん:03/06/04 19:07
御殿医は、明治後は士族ではないのですか?親戚に御殿医がいるのですが、
昔の戸籍を見たら平民となっていました(ただ分家筋ではありますが、江戸時代に
分家したそうです)、家も武家屋敷町にあるのですけど。
476日本@名無史さん:03/06/04 22:03
>>475
医者は身分の外に生きた存在だから、御殿医と言えど、武士身分ではなかった
から、平民じゃないのかな?
477日本@名無史さん:03/06/04 23:25
>>476 森鴎外って平民なの?
478日本@名無史さん:03/06/05 10:37
>>477
父が禄を離れ平民となったから、息子の鴎外も平民からの出発と思われ。

父森静泰(せいたい)(のち静男)は津和野藩主亀井家の典医だったが,維新後は
禄を離れて上京し千住で診療所を開いた。
479日本@名無史さん:03/06/05 19:41
明治新政府が目指したものって何だったんですか?
一通り教科書読んでみたんですけど、イマイチぴんと来ない。
480日本@名無史さん:03/06/05 19:58
>>479
よーしパパ西欧列強に負けない国作っちゃうぞ〜

よーしパパ日本が植民地にされないように国力強くしちゃうぞ〜
481日本@名無史さん:03/06/05 20:44
江戸時代には、武士も農民も、長男以外は独身者が多かったと聞きました。

江戸末期には、全国平均で大人人口のうち約何割くらいが独身者だったのでしょうか?

482日本@名無史さん:03/06/05 21:16
戦国期の武士や地侍は江戸幕府がひらかれて多くは庄屋になったそうですけど、
どういう風に、つまり、江戸幕府が開かれましたから今日から、あなたたちは
刀を捨てただの農民になりなさいと言われて、すぐそうしたのですか?当然
反発のようなものがあると思うのですが。
483日本@名無史さん:03/06/05 21:57
>475(あやふやな記憶でスマソ)
当時の医師はお茶坊主並みの扱いだったとどこかで
聞いた気がする。
武鑑を見たら御典医がかなり後ろの方に載っていた
と思う。

明治以後も、しばらくは医師の地位が低く、森鴎外(?)が
憤慨していたと思う
484日本@名無史さん:03/06/05 23:30
>>479
中央集権国家による富国強兵。

>>481
うろ覚えだが、講談社「日本の歴史」19巻<文明としての江戸システム>に、
農村の既婚率や離婚率が出てたと思う。
記憶では、独身が増えたと言うよりも、晩婚化が進み少子化となった。
離婚・再婚は、予想外に多い。
485日本@名無史さん:03/06/05 23:35
>>482
秀吉の兵農分離作で、在郷の武士は、城下町の武士となるか、
村の百姓となるか選択を迫れらた。
庄屋は特権も多く、普通の百姓よりはワンランク上で、所有地も広く、
生活も上級で、それなりの名誉職的満足感もあったと思われます。
486481:03/06/06 00:47
>>484
挙げられました参考書で調べてみます。
ありがとうございました。
487日本@名無史さん:03/06/06 11:16
>>485 庄屋の特権てなんすか?
488日本@名無史さん:03/06/06 15:06
>>487
>庄屋、名主の特権
身分としては百姓であるが,一般村民よりは一段高い階層に属し,その屋敷に
門を構えたり,母屋に式台を設けることができ,着衣や履物にも特例を許され
ていた(武士階級の絹物や雪駄の着用)。
主要な仕事は村民の統制と保護,村を代表しての他村との交渉,領主への請願
等多岐にわたった。
その役職への報酬として給料を受けた。その給料は村入用の一部として村民に
割り当てられた。
またみずからの所持地のうち年貢のかからない土地を領主に公許される場合もあり,
これを名主免といった。1872年(明治5)新行政区画としての大区小区制の発足により廃止。
489日本@名無史さん:03/06/06 15:08
2CH見ながら小遣い稼ぎ
 さあ マネーゲームの始まりです。メール1通送るだけで1000円
この情報で月100万円ぐらい稼ぐ勢いだよ みんな真似して転売しよう
http://user.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/bei1155?
http://user.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/kazusan1192jp?
http://user.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/onoderashigeaki?
490日本@名無史さん:03/06/06 16:07
http://www.getda.com/evweb/ad/WIN004_q019/img/who.jpg

↑の人は誰でしょうか教えてください。
491日本@名無史さん:03/06/06 17:06
>>488 よくわかりました、ありがとうございます。
492日本@名無史さん:03/06/06 22:35
喫茶養生記に書かれているお茶は現代で言えば何茶なんでしょうか?
(抹茶とか煎茶とか

また、鎌倉時代には
昼間に人が来たときって(お酒を出さない時って)
白湯を出すんでしょうか?
現代のお茶に相当するものは、あったのでしょうか?

当時 お茶は 薬でしかなかったのでしょうか?
493日本@名無史さん:03/06/06 23:12
>>492
抹茶のようです。

栄西は1191年(建久2)7月,再度の渡宋から帰朝したが,その際,当時の
中国にひろまっていた新しい抹茶の茶法とともに茶種を将来したとされる。
この茶種は,おそらく種子ではなく苗木であったと思われるが,それは
肥前の平戸島や筑前の背振山に植えられ,さらに山城栂尾(とがのお)
高山寺(こうざんじ)の明恵(みようえ)に贈られた。やがて栂尾はじめ
各地でチャの栽培が進み,それと表裏をなして抹茶を飲む風習がひろがった。

それまで茶は寺院を中心におおむね薬用として飲まれていたが,
抹茶は薬用以上に嗜好飲料として愛好されるようになり,闘茶のような
競技的遊戯的茶会が盛行した。
そうした条件下で室町時代には,茶の湯という日本独特の芸能が形成されていった。

ちなみに、日本に喫茶の風習が伝えられたのは,平安初期の入唐僧たちに
よってで、その後途絶えました。

煎茶は江戸時代の隠元が伝えたようです。
494日本@名無史さん:03/06/06 23:57
名前の読み方についての質問です。
藤原道長、源頼朝、平清盛・・・など、発音するときに苗字と名前の間に「の」が入る人名が多いですが、
この「の」には何か意味があるのでしょうか?またどうして「の」が入る人が多いのでしょうか?
495日本@名無史さん:03/06/07 00:05
氏と姓は遺制として強卑に残っており,叙位・任官のような公式の場合には
氏+姓+諱(いみな)で記名された。
室町幕府の将軍足利尊氏は一般に鎌倉大納言と呼ばれ,公式には源朝臣尊氏
と記されたが,決して足利尊氏(家名+諱)と言われることはなかった。
なお秀吉が1586年(天正14)に勅授された豊臣朝臣(とよとみのあそん)は
氏と姓であって,家名ではなかった。

氏と姓の間に入るようです。
家名と諱(いみな=名前)の間には入らないようです。
496日本@名無史さん:03/06/07 00:44
>>494
 384で同じような質問があり、393に回答があります。過去レスも参
考にしてください。

>>495
 氏と諱の間にも「の」が入るとすると(藤原道長など)、豊臣秀吉
はややこしそう。
497日本@名無史さん:03/06/07 11:55
>>496
そうだね。法則的にはあってると思うんだが。
フォローサンクス。
498日本@名無史さん :03/06/07 12:03
尾崎秀美はなんでゾルゲに加担したのでしょうか?
どういう利点が彼に有ったのかがよく分からないのですが
どなたか教えて頂けますか?
499日本@名無史さん:03/06/07 15:16
荘園の発生以後の皇室領はどのくらいあったんですか?
500五百旗頭(いおきべ):03/06/07 15:36
>499
江戸時代は三万石くらいじゃなかった?
公家領込みで12万石の高松藩と同じ規模だったらしい。

平安、鎌倉頃は知りません。
501日本@名無史さん:03/06/07 16:15
大変恐れ入ります。

http://science.2ch.net/test/read.cgi/nougaku/1028895345/48
以降、このスレッドには一揆が起きるのを期待し、そして騙されて
多くの方々にお越し頂きました。

一揆というものを起こす場合の注意点や規則と言ったものがあれば
ご教授頂けませんでしょうか。

よろしくお願い致します。

#三戦板への相談も検討中です。
502日本@名無史さん:03/06/07 16:16
当方、このような経験は初めてですので何分知識がありません。
どうか、重ね重ねよろしくお願い致します。
503.:03/06/07 16:38
平安朝では死刑罰がなかったというのはホントですか。
もしそうなら、復活したのはいつからですか。
504日本@名無史さん:03/06/07 16:44
>>499
500さんのいうとおり、江戸時代は約3万石。
しかも、御料のすべてを幕府が管理し,京都代官が差配。

それ以前は、石ははっきりしませんが、以下の文を参考にしてください。
平安初期に勅旨田や勅旨牧の設定が盛行し,皇族らにも与えられた。そのうち
とくに後院(ごいん)(離宮の一種)にあてられたものは,殿第とともに〈代々の
わたり物〉として天皇に伝領され,1036年(長元9)の渡文は4殿第・4荘牧を載せている。
ついで院政が始まると,後院領は天皇・上皇を問わず,時の“治天の君”が管領し
,ことに保元の乱(1156)後,没官領(もつかんりよう)42ヵ所を加えて急増した。
また院政時代は皇室領荘園が飛躍的に増大した時代である。寄進地系荘園の設立
が本格化し,院政権力のもとに荘園の寄進が集中したためであるが,天皇・上皇・
女院(によいん)等の御願寺建立の盛行がそれに拍車をかけ,御願寺領荘園として
皇室の所領を拡大した。鳥羽上皇建立の安楽寿院領48ヵ所,後白河上皇建立の
六条長講堂領90余ヵ所などは,その代表的なものである。また一条天皇の母后
東三条院に始まる女院も,院政時代以降急激に増加したが,とくに皇女の女院に
皇室領が伝領される例が続いた。鳥羽上皇の皇女八条院が安楽寿院領その他を
伝領し,後白河上皇の皇女宣陽門院が長講堂領を伝領したのはその顕著な例で,
さらに持明院・大覚寺両皇統の分立後は,それらの伝領をめぐって両者の対立が
深まった。
一方,院政時代以降院宮分国も急速に増大し,鎌倉時代に入ると天皇・上皇を
はじめ皇后・女院等にも分国があてられるのが常態となり,さらに播磨国が
持明院統に,讃岐国が大覚寺統に相伝されたごとく,分国が伝領の対象となって,
その国衙領の荘園化をいちだんと進めた。しかし南北朝時代以降の政治・経済体制
の大きな転換のなかで,皇室領荘園も院宮分国もしだいに消滅していった。
505日本@名無史さん:03/06/07 16:47
キレイな娘集めました。。。
http://endou.kir.jp/moe/linkvp.html
506日本@名無史さん:03/06/07 16:48
>>499
時期によっても違うし、皇室領の定義によっても違います。

たとえば「播磨国衙領」
12世紀ころは当然国衙領で、荘園ではありません。
しかし、15世紀になると、明確に皇室領のひとつとなります。
(伏見宮家領だっけ?)

それから『岩波日本史辞典』の巻末に「荘園表」がのってます。
そこを参考に「
「領主」が皇室かそうでないか、
「出典」から、その荘園がいつの時代か、
を吟味しながら集計なさるしかないか、と。

あと、戦中の本ですが『皇室経済史の研究』という本があります。
ただ、不勉強で内容はしらないので、ご希望の情報があるかどうかはわかりません。
507日本@名無史さん:03/06/07 16:52
>>498
尾崎は社会主義者でした。当時の社会主義者の多くはソ連派で、
ソ連の利益になる行動が、社会主義国家ソ連の生存・防衛のため、
さらに、そのことが世界社会主義革命へといつか広がり、日本及び世界の
人民の幸せのためと信じていたのだと思います。
ゾルゲの影響も、もちろんあると思いますが。
508日本@名無史さん:03/06/07 16:59
>>503
死刑の執行には天皇の勅裁を必要とし,かつその奏上は原則として3度行う。
死刑の執行は市(いち)において公開されるが,皇親や五位以上の者は家で
刑部省官人の立会いのもとで自尽することを許し,七位以上の者および婦人
の絞は公開しない。市での執行は,弾正台および衛府の官人が立ち会い,
もし囚に無実の疑いがあれば直ちに執行の停止を命じ,奏聞する。
死刑は原則として秋分以後,立春以前に行い,立春から秋分までの間,
および大祀・斎日等には,その執行を停止する。
日本では,平安時代の弘仁年間(810‐824)から1156年(保元1)まで約340年間,
死刑の執行が停止された。

保元の乱での武士に対する措置は厳しく,薬子(くすこ)の乱(810)以来
とだえていた死刑が復活され,平忠正とその子息たちは清盛によって
六波羅で斬られ,ついで源為義とその子息たちが義朝によって斬首された。
509日本@名無史さん:03/06/07 18:42
徳川宗家第16代当主・徳川家達について詳しく紹介されている本、若しくは
彼の人となりが分かる史料はありますか?
510日本@名無史さん:03/06/07 20:59
>>507 さん

お礼の返信が遅れて申し訳有りません。
なるほど〜。
お金とかそういうことではなくて、
単なる思想だけで、見返りが具体的に無い行動を
取ったのですね。
ソ連は日本の事を野蛮とか見下していたようですけど、
そういう国でも、思想が有れば尽くしてしまうのでしょうね。
511499:03/06/07 21:10
回答ありがとうございました。皇室は貧乏であったというイメージが
強かったのですがある程度の領地はあったのですね。
512日本@名無史さん:03/06/07 21:27
>>511
応仁の乱から、信長による擁立までは、かなり貧乏な時期もありました。
皇室領が各地の土豪に取られてしまったのです。
禁裏の塀の修理をいくら催促しても、将軍にも大名にも拒否さも直して
くれなかったり、お金がなく大嘗祭を行ってない天皇や、葬儀ができなく
御所で腐敗しはじめてしまった天皇もいました。
513日本@名無史さん:03/06/07 21:33
>>510
当時の社会主義者やマルクス主義者にとって、ソ連は、ある意味で、
人類の希望でした。スターリンの大粛清の情報もなく、コミンテルンの
指示は、世界社会主義革命達成のための崇高な任務でした。
ソ連は中国革命の方に期待を寄せ、日本はその下に見てたようですが。
世界恐慌後の日本の感覚では、右も左も「資本主義はもうすぐ崩壊する」
というのは、かなり事実を持ってせまってきた実態だったようです。
514日本@名無史さん:03/06/07 22:08
>>509
筑前書店という古本屋に15,000円で「徳川家達自筆書簡」というのはあった。
サイトは「日本の古本屋」
あとは、国会図書館でもヒットしなかった。

徳川家達 1863‐1940(文久3‐昭和15)
とくがわいえさと
徳川家第16代当主,政治家。田安慶頼の三男。明治維新後,徳川宗家を
相続,1869年(明治2)版籍奉還により静岡藩知事となる。廃藩置県後,
77年イギリスに留学,82年帰国し,84年公爵となる。90年議会開設と
ともに貴族院議員となり,1903年から33年まで議長を務める。
その間,14年山本権兵衛内閣辞職の際,組閣の内命があったが固辞。
日本赤十字社社長,済生会会長など数多くの名誉職に就き,ワシントン
会議にも全権委員の一人として列席した。
515日本@名無史さん:03/06/07 22:26
律令官制の各省、各寮の定員の変更はどのようなプロセスで行なわれたのですか。
(現在は各省が財務省、総務省に要求するようですが)
516日本@名無史さん:03/06/07 22:43
>>515
各省からの要求で太政官が決定したと推測されます。
517日本@名無史さん:03/06/07 23:46
軍人の肩書きでお尋ねします。

予備役に入った軍人(例:少佐)の場合、肩書きは
やはり陸軍少佐○○、等となるのでしょうか
(元少佐でしょうか?)
初歩的な質問ですいません
518509:03/06/08 10:43
>514
回答ありがとうございます。経歴はかなり参考になりました。
しかし書簡が15,000円ですか。どうしようかなぁ・・・・

それと、重ね重ねご迷惑をおかけしますがもう一つ質問させてください。
家達は514さんの経歴によるとわずか14歳で英国留学をしていますが
これは当時としては珍しいことなのでしょうか?
ざっとぐぐって見たところ、大体2・30代で行った人が多いようなので
気になりました。
519日本@名無史さん:03/06/08 11:00
>>517
軍人は終身官なので、現役を離れても階級は残ります。
520日本@名無史さん:03/06/08 12:09
>>518 名前:509さん
書簡は買うのはもったいないと思う。画像見たら、ただの手紙で、
内容は実務的な物が一枚あるだけ。書簡「集」ではなく、ただの手紙
の実物です。あまり、彼の情報にはならないのでは。
古本と言うより、骨董品の値段ですね。趣味ならかまいませんが。

>14歳留学
将来有望と認められた人やバックのある人は、10代でも行ってたようです。
語学習得には有利だし、その後のキャリアアップにもつながります。
1871(明治4)年の岩倉使節団での留学生のうち、津田梅子は8歳か9歳でした。
521492:03/06/08 18:46
493さん
回答ありがとうございます。

重ねて質問がありますので、お願いします
>それまで茶は寺院を中心におおむね薬用として飲まれていたが,

とありますが、それ以前も 抹茶を高級品として飲んでいたという
ことですよね?

で、つまり そこまで身分が高くないと
人のおもてなし(?)には お白湯ってことですよね

たびたびスミマセンです
522日本@名無史さん:03/06/08 22:17
>>492
493です。
栄西の抹茶伝来以前は以下のような飲み方と推測されます。

《日本後紀》に見えるこの記事は日本最初の喫茶史料というべきものだが,
当時の唐風文化にあこがれる知識層の間に喫茶が流行したことは,《凌雲集》
以下の漢詩文集でうかがうことができる。
当時の茶は中国からもたらされた団茶法によるもので,団茶を火にあぶってから
粉末にし,湯に投じて煮たものであった。

栄西以後は、抹茶が薬用よりも、飲料として飲まれるようになったということです。
抹茶方式により、一般化していった物と考えられます。
お茶が買えなかった人が、何を飲んでたかはわかりません。
水よりも白湯であったろうとは思いますが。根拠はわかりません。

お茶は日本の気候に合う作物ですから、大量生産化はわりと素早かったのではないかと
推測されます。江戸時代には煎茶が一般化しています。
523攻防:03/06/08 23:28
1392年に南北朝の合一、勘合貿易が出来るじゃないですか。
その時に建てた寺って「相国寺」ですか??
(3代将軍足利義満の時です)
524日本@名無史さん:03/06/08 23:41
>519さん
517です、ありがとうございました。

重ねてでみませんが、
いったん予備役になってから、大きな戦争に出征している
軍人で、有名な方(伝記のあるような方)をご存知でしたら
教えてください
525日本@名無史さん:03/06/08 23:45
>相国寺
足利義満が祖父尊氏の天竜寺建立にならって当寺建立を発願,1382年
(弘和2‖永徳2)仏殿,法堂(はつとう)の工事に着手した。義満は春屋妙葩
(しゆんおくみようは)のすすめにより,春屋の師,夢窓疎石を勧請開山
(かんじようかいざん)とし,春屋は2世となった。86年(元中3‖至徳3)
五山第2位に列せられる。

>勘合船
1404‐1547年(応永11‐天文16‖明の永楽2‐嘉靖26)のあいだに17回84隻
が渡航。

>天竜寺
1339年(延元4‖暦応2)足利尊氏が夢窓疎石のすすめによって,吉野で亡く
なった後醍醐天皇の冥福を祈るため,北朝の光厳上皇の院宣を得て建立に
着手したのが起源である。尊氏は多くの荘園を,北朝は売官による成功
(じようごう)の収益を,それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣してその
貿易利益を当寺に寄せ,造営費用にあてた。

相国寺完成は、勘合貿易開始以前。
失礼ながら、天竜寺船(=元に派遣した貿易船。当時は造天竜寺宋船とよばれた)
による天竜寺建設と混同してませんでしょうか。
526攻防:03/06/08 23:54
>>525
ありがとうございます。
学校からもらった日本史のプリントをやってるんですが、
どうしても答えが埋まらなかったんです。

1392年 3代将軍(    )のとき幕府の全盛
       ・南北朝の合一がなされる
       ・明との貿易 (  )貿易という
       ・(   )寺を建てる

この場合って天竜寺ですかね?(聞いてばっかりですみません)
527日本@名無史さん:03/06/09 00:01
>>526
525さんではありませんが、その問題の答えは

1392年 3代将軍(足利義満)のとき幕府の全盛
       ・南北朝の合一がなされる
       ・明との貿易 (勘合〈日明〉)貿易という
       ・(鹿苑〈金閣〉)寺を建てる

になると思う。
528日本@名無史さん:03/06/09 00:10
>>526
525です。>>527さんの答えどおりと思います。
教科書よく読めゴルァw。
529攻防:03/06/09 00:28
>>527>>528
おお、どうも親切にありがとうございます!
実は日本史の先生が嫌いで、授業もサボりまくってて
全然分からなかったんですよ。(爆)
それで逆に勉強して先生を見返そうと思って
猛勉強してたんですが難しいです。(笑)

教科書>
学校に置いて来てしまいました・・・すみません。

どうしても最後にお聞きしたいことがあります、
どうかお知恵を貸して下さい。

1467年 (応仁)の乱が始まる 8代(足利義政)のとき
       ・(  )寺を建てる

      戦国時代の始まり

      主な戦国大名
      (    )甲斐  (    )越後
      (    )中国  (    )薩摩
      (    )東北

一応自分で埋めれそうな所は埋めたんですが・・・。
どうかお願いします。
530日本@名無史さん:03/06/09 00:32
>>529
勉強してるんなら自分で調べな。
531攻防:03/06/09 00:58
>>530
Googleで検索して調べてみたんですが、
欲しい情報がなかなか見つからなくて・・・。
最後にどうかお願いします。
532日本@名無史さん:03/06/09 01:00
教科書みろ。
533日本@名無史さん:03/06/09 01:00
過去ログからのコピーです。http://natto.2ch.net/mass/kako/974/974478132.html

489 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/04/11(水) 17:25
 一般人なのに盗聴される、じゃなくて、「一般人だから盗聴される」んじゃないのかな?
 基本的にネタ集めのためにやってんなら、有名人のネタを盗むと、有名人は告発できるし、
そんなことされても当たり前だと思われるので告発しても信じてもらえる。
 そうでない人は、ここの途中の書き込みにもあったように「電波」扱いされるだけ。

 ただで、ネタを仕入れるんなら、一般人に限るでしょう。
 マスコミは自分らの無能さを恥じてほしいです。

 ちなみに私が盗聴されはじめたのは、芸能人にストーカーされ始めてからでした。
 そこからマスコミに広がって行った。
 だから余計「妄想」とか思われそう。
 友人に話したら完全に病気扱いされた。ストーカーって言葉がない時代だったしね。
 書いておいておいた小説のネタが、他人の原作でドラマ化されたときにはきれまくっ
たなあ。(一度や二度のことじゃないけど)
534日本@名無史さん:03/06/09 01:01

甲斐・薩摩・越後 と 中国・東北

へんなの。。。
535攻防:03/06/09 01:24
すみません、私の考えが甘かったですね、
極度の教えて君でした、本当にすみませんでした。
まわりの人に聞いてみたり、もう一度調べて見ます。
どうもありがとうございました。
536日本@名無史さん:03/06/09 02:04
人と言う字は「人」と「人」が支え合って出来ている
537日本@名無史さん:03/06/09 02:15
それじゃあ「人人」じゃん
538日本@名無史さん:03/06/09 02:47
戦前、郡会なるものがあったらしいけど、どういう役割を持っていたのですか?
又、どういう人が議員に選ばれたのですか?
539日本@名無史さん:03/06/09 10:51
>>538
長文ですが、複雑な背景がありますので・・・。

1871年(明治4)の大区・小区制の下で旧来の郡は否定されたが,78年の郡区町村
編制法によって行政区画として復活し,郡役所と郡長がおかれた。
郡長は官選で,府知事・県令の下にあって町村を監督し,もっぱら上命下達に
たずさわった。当時郡長は警察とともに国家権力の象徴的存在とみなされ,
各府県会ではしばしば郡長公選が建議された。
90年の郡制公布によって郡には郡会がおかれ初めて地方自治体となったが,
課税権もなく,府県知事や内務大臣の強い監督権下におかれ,自治体としては
不完全であった。郡会はその3分の2の議員を各町村会が選挙し,残り3分の1は
地価1万円以上の土地を所有する大地主が互選でえらぶこととされ,地主層中心
の議会となった。99年に大地主議員と町村会からの複選制は廃止され,直接国税
3円以上を納める者を選挙権者とし,同じく年額5円以上を納める者を被選挙権者
とする改正がおこなわれた。大地主議員はプロイセンにならった制度であるが
日本の実情にあわず,また複選制は町村の政争を激化するというのが改正理由
であった。
しかし,その後も郡は自治体として不十分であったため地方制度合理化の見地
から問題視され,日露戦争以後たびたび郡制廃止が議論の対象となった。
郡制廃止問題の背景には,官僚支配の牙城である郡制を維持しようとする貴族院
の山県有朋系勢力と,廃止を機とし内務省内の山県閥を弱めようと策する原敬ら
政友会勢力の対立があった。
廃止法案は衆議院を何回か通過しながらも貴族院で流産させられ,成立したのは
原敬内閣下の第44議会(1921)である。1923年4月1日郡制は廃止され,郡は純然たる
行政区画となった。
さらに26年7月には,地方行政整備と地方財政緊縮の見地から郡長以下の官吏が
廃止され,郡役所もそれに伴って姿を消し,郡は単なる地理的名称となった。
540日本@名無史さん:03/06/09 11:46
アイヌ民族と琉球民族の顔ってよく似てるような気がするんですが(顔が濃い)、
知り合いのアメリカ人は、アメリカの開拓民がインディアンを
蹴散らして(半殺しにして)移動させたのと同じで、
日本人の祖先も、北と南に元々住んでいる人を追いやったんだ、といっています。
本当ですか?
541飛び入り解説者 :03/06/09 12:36
>>537
文字の「人」じゃなく、本物の「人」の事だろ!?
よくCMで組体操みたいに、アルファベット作るだろう、
2人でもたれ掛かったら、「人」になるじゃん!!
542日本@名無史さん:03/06/09 12:47
昔、外国人(できれば非アジア系)が日本に来て、日本を見てのこれが驚いた!
と言うような事が書いてあるホムペはないですか?
本も色々有るとは思いますけれど。
日本人は礼儀正しかったとか、清潔好きだったと言う話を聞いたことが有るような気もするけど、
逆の話も聞いたことが有るので。
543538:03/06/09 13:17
>>539 ありがとうございます。
544日本@名無史さん:03/06/09 14:26
>>540
そうですね。弥生人に追い出された縄文人と考えられやすいし、
顔の特徴もよく似てます。
しかし、残念ながら、言語学上の一致があまりにもないそうです。
遺伝子学的にも、もう一押し足りないようです。
アイヌ人は、北方バイカル方面から来た縄文系。
琉球人は南方スンダランド系ではないかと推測されます。
545日本@名無史さん:03/06/09 14:32
>>544
さっそくありがとうございます。
なるほど、必ずしも同じ人種が分かれた、という訳ではないんですね。
それでは「本州に住んでいたのに蹴散らした」訳ではないんですよね。
(なんかアイヌの人たちに凄いひどい扱いをした、と言う風にその人に言われたので)
546日本@名無史さん:03/06/09 14:34
>>542
イエズス会のフロイスが《イエズス会日本年報》《日本史》《日欧文化比較》
《大航海時代叢書》ほか年報,書簡多数。
フロイスを絡めた語句検索でヒットするんじゃないかな。
本のほうが良いとは思いますが。
547日本@名無史さん:03/06/09 16:29
ここで質問しる
http://fukuoka.cool.ne.jp/otogibook/
548日本@名無史さん:03/06/09 16:42
 主な戦国大名
      (武田 )甲斐  (長尾 )越後
      (尼子 )中国  (種子島)薩摩
      (最上 )東北
549日本@名無史さん:03/06/09 22:37
>>545
江戸時代中期以降そして明治にひどいことはしています。
特に明治政府は、同化政策と言う名の民族的抹殺的政策を取り、
強制移住などを行い、命の支えだった山や川や海を日本商業資本へ
一方的に譲り渡しています。伝染病などで人口は激減しました。

1885年釧路のアイヌが阿寒郡のセツリ川上流に,88年網走のアイヌが市街部
東端の海浜に移転させられるなど,移住和人の増加や市街地の発展にともない,
他の地へ強制的に移住させられた。
86年の〈北海道土地払下規則〉や97年の〈北海道国有未開地処分法〉によって
和人に対する大規模な土地払下げが行われるなかで,アイヌは和人の入植地や
市街部から離れた〈保護地〉と称する原野に強制的に移転させられた。
550日本@名無史さん:03/06/09 22:40
>>548
その先生のレベルだと、
越後→上杉、中国→毛利、薩摩→島津、東北→伊達。レベルでないかな。
551日本@名無史さん:03/06/10 00:39
2chISPからさえ此処の板に新スレが立てられないのですがなんでしょう。
考えられる理由を教えてください。
552日本@名無史さん:03/06/10 09:16
>>551
私は、何回かスレを立てたら、それ以降は一切立てられません。
ある特定のサーバーや、プロバイダーを規制して、乱立を防いでるようです。

初心者板で、依頼すると立ててくれるスレがあった気がします。
あと、ここでも依頼すれば、妥当と判断されれば、
親切な人が立ててくれるかも知れません。
553日本@名無史さん:03/06/10 09:49
>>549
確かに近代に入ってはしてますね・・・。
その辺は少し歴史の授業でも習った気がします。
ありがとうございました。
アメリカ人のネイティブアアメリカンに対して程はひどくない気がするよ・・・。
554日本@名無史さん:03/06/10 10:00
>>553
アメリカの先住民追放政策を、明治政府はかなり参考にして、
マネをしたようです。

政府は1898年になって,アイヌ1戸当り5町歩の土地の給与と〈旧土人〉
小学校の設置を決めた〈北海道旧土人保護法〉を制定した。
しかし肥沃な土地の多くはすでに和人の手に渡っていたため,〈給与地〉
として与えられた土地は,多くの場合地味の悪い土地であっただけでなく,
給与地に対する権利も相続以外の譲渡は禁止されるなど,本来的な所有権
からはほど遠いものであった。

なお,近年,この〈北海道旧土人保護法〉と1887年アメリカで制定された
インディアン一般土地割当法(ドーズ法)が,その内容や歴史的性格において
すこぶる類似していることが指摘されている。
555日本@名無史さん:03/06/10 18:58
シャクシャインの頃よりも近代の方が酷いの?
556大奥板より質問:03/06/10 20:59
トクコのこの「飯は1セットだけでいい」という話は実話ですか???



トクコのワガママな振るまいは事実ですか???

誰か歴史に詳しい人、答えてください。

557492:03/06/10 21:18
522さん
ありがとうございます。

ずっと 疑問におもっていたのが、分かって嬉しいです。


558日本@名無史さん:03/06/10 21:24
あなたが探してるのってこれだよね?この中にあったよ♪
http://endou.kir.jp/betu/linkvp/linkvp.html
559日本@名無史さん:03/06/10 21:55
>>555
>シャクシャインの頃
事の本質は次の2点にあった。
第1は,松前藩の成立と展開,とくに商場知行制と蝦夷地における砂金採取場
や鷹場の設置によって,アイヌ民族の収奪や漁猟場の破壊が一段と進み,アイヌ
民族はかつてない民族的危機に遭遇していたこと。
第2は,アイヌ社会自体が収奪と抑圧の嵐にさらされつつも,和人との関係は
いまだ交易を主体にしていただけに,アイヌ民族本来の共同体はまだ破壊されていず,
条件さえ整えば共同体首長のもとに立ちあがれるだけの力を内包していたことである。

>明治以降
共同体は崩壊させられ、下請け狩猟労働さえも奪われ原野に移住させられ、
民族自体を抹消するような政策を取った。

江戸時代→アイヌ人を海川山でこき使う
明治時代→アイヌ人を原野に囲い込み、自然(生産手段)から切り離す。
560日本@名無史さん:03/06/10 22:05
お勧めの歴史の教科書はどれですか。
561日本@名無史さん:03/06/10 22:43
中学?高校?大学?
中学・高校は、どれも似たり寄ったり。検定済み教科書だからね。
1社だけ現場の動向がわかってないのがあるがw。
562日本@名無史さん:03/06/11 00:34
すいません。質問していいっすか?
「天正五年織田信長洛中五條馬市場定書」の中に、「馬の乗ちかへ雖在之」という
語がでてくるんですが、「乗ちかへ」という語句がどうしてもわかりません。
どなたか知ってる方がいたら教えてくださいませんか?
563日本@名無史さん:03/06/11 00:35
乗り違え?
564日本@名無史さん:03/06/11 00:41
>564 そうです。
「馬の乗ちかへ雖在之、穏便に其ことハりを可申事」という風に書かれています。
565日本@名無史さん:03/06/11 00:45
>524
乃木さんは?(休職かな?)
566日本@名無史さん:03/06/11 00:51
>564
古文書はわからんが適当に推測するに
・他人の馬に間違えて乗る
・いい馬だと思ったら実はダメな馬だった、とか?
567日本@名無史さん:03/06/11 08:30
>>524
>>565
乃木は中将・第2師団長として台湾征討,96年台湾総督となったが統治に失敗して
98年辞職。
1904年日露開戦後,休職中から起用されて大将・第3軍司令官となり,旅順攻撃を指揮。
ですね。

斎藤実は予備役後、朝鮮総督になってますね。
568真希:03/06/11 10:42
質問です
学研の「天皇の本」に工藤天皇ってのが書いてあります。
長野県で明治天皇の直系曾孫を自称したらしい。
昭和天皇と会見し、「明仁をよろしく」っていわれたらしいけど、
「朕は即位するつもりはなイ」って言ったんだって。
この人は今も生きてるの?知ってたら教えて!
569_:03/06/11 10:44
570日本@名無史さん:03/06/11 11:19
いくやまいまい
おやいかさかさ
かやおては
たかやきかわた
はわいさお
ひはこひは
よことこすひし
○○○○○
いきいさたみふ
、、、、、

誰が続き教えてください。
571日本@名無史さん:03/06/11 14:47
>>568
もうだいぶ年か、亡くなられたかですよね。
しかし、その「昭和天皇と会った」という話は真実性が乏しいかもしれません。
「明仁をよろしく」と昭和帝が言うことは通常考えられませんから・・・。
572日本@名無史さん:03/06/11 15:03
>>570
よけいなお世話ですが、あまり利用価値のない記憶では?
趣味ならかまいませんが。

いくやまいまい
おやいかさかさ
かやおては
たかやきかわた
はわいさお
ひはこいあ
よことこすひし
よかあよは
いきいさたみふ
おすなたうかみ
ほむはおもこ

573日本@名無史さん:03/06/11 15:23
574Doctor.No:03/06/11 18:15
そうですか…
まあ確かに工藤天皇のホラだと思います。
(昭和天皇と会ったって言うのは)
じゃあこのことはもう忘れます。
スレありがとうございました。
575日本@名無史さん:03/06/11 22:58
>>572
ありがとう〜〜
576日本@名無史さん:03/06/11 23:26
>567 ありがと〜
577日本@名無史さん:03/06/11 23:51
日本史の疑問といえるか分かんないけど質問

時折テレビで見る流鏑馬は小笠原流ばかりです
下河辺や波多野なども射芸に優れていたと思うんですが
他の流派は残ってないんですか?

柳生新陰流や鹿島新当流、香取神道流などの剣道道場はありますか?
578日本@名無史さん:03/06/12 01:41
>>552
どうもそのようですね。
ありがとうございました。
579日本@名無史さん:03/06/12 11:22
>>577
柳生新陰流に関して言えば、江戸柳生・尾張柳生両方とも流派が残っています。

大和柳生新陰流(江戸柳生)
ttp://www.eonet.ne.jp/~yamatoshinkage/
新陰流宗家(尾張柳生)
ttp://www.interq.or.jp/sun/shibata/yagyu-official/aisatsu.html

その他の流派の道場はここで探してください。
インターネット道場サーチ
http://dojos.org/
580日本@名無史さん:03/06/12 12:12
>>577
1、
>小笠原流
室町幕府の崩壊とともに小笠原両家(京,信濃)も衰運の途をたどったが,
一族赤沢経直が小笠原姓に復して徳川幕府に仕え,吉宗のころ貞政が世に出,
幕府の弓馬礼式をつかさどり,以来礼式家としての小笠原の名を今日に伝えている。

江戸幕府公認が大きかったのではないでしょうか。
下川辺氏は、鎌倉中期に北条氏に領地を取られ、衰退。
波多野氏は、織田信長に滅ぼされています。
581日本@名無史さん:03/06/12 12:12
2、
>柳生新陰流
現在、当流は柳生会により弘流に努めている。稽古場は、名古屋では名鉄体育館
(西区松前町二-六〇)を中心に六箇所、東京は中野区立体育館(中野区中野四丁目)
と二箇所、大阪は豊中市立武道館「ひびき」と二箇所あり、いずれも定期的な稽古
を実施していて柳生延春宗家が指導している。
なお、毎月一回、古来伝承されている兵法口伝書について柳生宗家の講義が行われている。
名古屋は第一土曜日(七時〜八時半)熱田神宮内龍影閣。東京は第三土曜日(一時〜二時半)
新宿区上落合の合気道養神館。大阪は第四土曜日(四時〜五時)豊中市武道館「ひびき」である。

>香取神道流
現在も香取神宮奥の宮近くに居を構え、築約300年の道場を守り、第20代の宗家
となしております。昭和35年6月、千葉県無形文化財に指定されています。

>鹿島新当流
香取新当流から塚原ト伝が開いた流派で、現在は香取流に吸収されているか
途絶えているようです。

2については、
http://nippon.zaidan.info/index.html
のサイトの右上に検索サーチがあって、出てきたテーマをさらに開くと、
各流派の現在の活動状況などが紹介されてます。

あなたは武者修行希望の武士ですか?w
582名無し:03/06/13 00:00
第2次世界大戦時ベトナムと日本の関係はどうだったのですか?
日本は植民地化に失敗したのですか?作戦を断念したのかそれ
とも負けたのか?果たして真実は…最近ベトナムの方が日本企業に
進出されてるように見受けられます。歴史なくして語らい無し…
583日本@名無史さん:03/06/13 09:30
>>582
基本的には植民地的扱いで支配してます。

40年日本軍がインドシナに進駐するや,共産党はバクソン蜂起によって軍事組織
をつくる一方,翌年ベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成して,日・仏二重支配
に抵抗した。
45年三・九クーデタにより日本軍はフランス領インドシナを解体し,バオダイ帝
の独立を認めたが,もはや封建王朝ではベトナム人の支持を得られなかった。
おりから日本軍の調達や天災,南北途絶により北部に200万人が餓死するという
大飢饉が起こった。
ベトミンは日本軍からの粋奪還を叫んで,急速に勢力を伸張した。8月15日の
日本軍の降伏とともにバオダイ政府はベトミンによって解体され,9月2日
ベトナム民主共和国の独立宣言がホー・チ・ミンによって朗読された。
584日本@名無史さん:03/06/13 09:33
(続き)
三・九クーデタ
第2次大戦末期,フランス領インドシナ(仏印)のフランス勢力を打倒するため,
駐仏印日本軍第38軍(司令官土橋勇逸中将)が起こしたクーデタ。明号作戦ともいう。
1940年の日本軍の北部ベトナム進駐,41年の南部進駐以来,仏印は事実上
日本軍の支配下にあったが,政治・経済・軍事の主権は依然として仏印政府が握っていた。
44年のパリ解放以来,仏印政府内部にド・ゴール派が台頭し,これとインドシナ上陸
が予想される連合軍との連絡を恐れた日本軍は45年3月9日,突如ハノイ,サイゴン等で
フランス駐留軍を攻撃して政庁を接収し,軍隊を武装解除した。
3月11日,アンナン保護国皇帝バオダイはベトナム(越南)帝国の独立を宣言し,
チャン・チョン・キム内閣が生まれた。翌12日にカンボジア,4月8日にラオスも独立した。
しかしベトナム帝国は日本軍の完全な傀儡(かいらい)政権で,財政・軍事権を
もつことも許されず,日本軍降伏とともに消滅した。
その一方で,フランス権力の消滅は,ベトミンの主導するベトナム民主共和国臨時政府
の樹立(9月2日)を助けた。
585日本@名無史さん:03/06/13 20:49
なんかこの板キャッシュが残んなくなってない?
586日本@名無史さん:03/06/13 23:57
平安貴族は、官位は父親から受け継ぐが、
生活は妻の実家が面倒をみる と きいたことがあります。
つまり、親の財産は 彼の姉妹にいってしまう。
だから、一生懸命 よい妻を求めて恋文を出しまくるとか

一方、北の方になれば 男と同居して男の財産も分与して貰える
ともきいたのですが

ここら辺のことをお分かりのかた教えてください。
587日本@名無史さん:03/06/14 00:43
しばらくお待ちください。
現在書き込みがしにくくなっております。
588日本@名無史さん:03/06/14 06:55
真珠湾攻撃で、宴会で宣戦布告するのを遅らす大失態やらかした
外務省の職員はその後どうなったんですか。とりあえずその後も出世した
ということだけは聞いてるんですが。もちっとくわしく。それについて書いてる本もあれば教えてくらさい
589日本@名無史さん:03/06/14 07:50
第二次世界大戦で被爆前の長崎の被害ってどうだったんですか?
ひどかったんですか?
590日本@名無史さん:03/06/14 10:44
>>586
財産相続についてであるが,この期の相続法である大宝令の戸令,応分条と,
養老令の戸令,応分条には,きわめて大幅な相違点が見られる。
これは従来,嫡子の単独相続から諸子均分的方向への修正とみなされてきた。
しかし両応分条はその原理を異にしており,大宝令文は主として〈氏〉の財産
の相続を規定したものと思われる。したがって,上述の地位継承における嫡系
継承の理念に対応して,嫡子による一括相続を規定してはいるが,実際には,
それは族長による管理統轄権の継承を意味している。この管理権の下で,他の
成員には実状に応じた分有が認められていた。〈氏〉の財産の中では,奴婢と
宅とがとくに重要なものである。戸籍の奴婢所有注記が,中国のように各戸の
所有としてではなく,各個人の所有として記されていることは,こうした分有
に基づく。
ただし奈良時代中期には,〈氏〉の財産とは区別される個別産の成立もみられ,
それは任意に処分された。養老令文にはこうした〈氏〉の財産相続法としての
性格はなく,観念的色彩が強い。その中で支配層にとっての現実の財産にかか
わる規定として,氏賤は氏上が相続し,功田功封は直系の男女によって相続された。
後者は家の財産の形成につながっていく。
大宝令文には女子の財産相続権の明記がない。しかしそこでの〈妻家所得〉は,
特殊な財産分与としてのいわゆる持参財(持参金)ではなく,実質的には男子と
同様に〈氏〉の一員たることに基づく分有である。したがってこの意味で女子
の相続権も存在していたのであり,それは女子の子孫によって相続された。
戸籍には,母から娘への奴婢相続を推定できる例がある。つまりこの期の支配層
の財産相続は,男女ともに〈氏〉の一員としての資格に基づき,しかもそれを
父方母方双方から相続しえた点に特質が存する。こうした相続原理は当時の婚姻
とも大いに関係があろう。
591日本@名無史さん:03/06/14 10:45
>>586
簡単に言うと・・・。

貴族の世界では,平安時代以降私領(荘園)が財産の対象に加わっても,
それは家地・動産類とともに婚姻の有無にかかわらず女子に男子と量的差別
なく譲られ,後の処分も女性の意志にゆだねられ,妻となった女性はそれを
依然しばしば夫と別財とし,独自の政所(北政所)の下に経営することが多かった。
592日本@名無史さん:03/06/14 10:53
>>589
長崎に原爆が投下されるまでに,長崎市は5回の空襲を受けています。
第二次空襲では長崎駅,大波止に乗車,乗船を待っていた多数の市民が
空爆で死亡,重傷を負いました。
第三次空襲では大橋町にありました,現在の教育学部の前身,長崎師範
学校の校舎が爆弾により破壊されました。
昭和20年8月1日の第五次空襲は最も大きな規模のもので,三菱造船所,
三菱製鋼所などが被害を受けましたが,大学の附属病院には多数の大型
爆弾が投下され,診療各科は殆ど機能麻痺に陥りました。病院の屋上には
ペンキで赤十字のマークを大きく書いてありましたが,爆弾はそういう
ものを無視し,投下されました。このとき,学生3名が死亡し,負傷者も
多数出ています。
593_:03/06/14 10:57
594日本@名無史さん:03/06/14 11:49
>>588
世紀のミスを犯したとされる外交官たちも戦後、省内でみな出世して、
そのうち三人もが事務次官の栄をきわめた。

>責任者は井口貞夫氏と奥村勝蔵氏
非常事態のときに大失態を演じた井口貞夫参事官が何の処罰も受けない
ばかりか、戦後になって事務次官まで上りつめ、おまけに勲一等まで授与
されている。
井口貞夫という人は吉田茂直系の人物だったようで、彼を外務省に呼び
戻して外務次官に据えたのは、時の総理大臣吉田茂その人であった。
今だったら復活はなかったと思うけど、当時は今のように報道網が確立
していない時代。マスコミにたたかれるコトもなく、井上さんはその後の
サンフランシスコ講和条約や日本の国連加盟などでは大きな役割を果たしている。
勲章はこれらの功績によって授与されたものだと思うけど。
奥村氏も次官、勲章をもらった様子です。

595日本@名無史さん:03/06/14 11:50
>>588
(続き)
作家堺屋寝太一が「諸君!」平成14年1月号で紹介していた。日米開戦
にかかわる真珠湾「騙し討ち」の直接の原因を作った人物2名、つまり
「最後通告」手交遅延を引き起こした直接の責任者2名井口貞夫参事官と
奥村勝蔵一等書記官が戦後外務次官になり、勲一等の勲章を受けたこと
に対して、この勲章は今からでも剥奪すべきでないかと、外務省関係者
に話したところ、次のような回答が返ってきたという。
「外務省の人事は他から干渉されるべきではない。井口、奥村両氏は、
戦後の混乱期に外務省の権限と人事を守った大功労者だ。」

本はわかりませんでしたが、ちゃっかり戦後に国連加盟関係の本を監修してます。

日本外交史32 講和後の外交(3)国際連合 
井口貞夫監修・鹿島平和研究所編、鹿島研究所出版会、S47
悠山社書店(古本屋) 2,000円

検索しまくれば、本名がでてくるかも。
あるいは、「諸君!」の平成14年1月号。
596589:03/06/14 18:39
>>592
ありがとうございます。
できればその5回の空襲での総被害者・死者数はご存じでしょうか?
あつかましいかとは思いますが教えてください。
597589:03/06/14 20:18
あと,できれば
その全5回の日時も教えてくださるとありがたいんですが・ ・ ・ ・ ・
598 :03/06/14 20:20
忍者関係詳しくのってるサイトおしえれ
インチキじゃないやつな。
599日本@名無史さん:03/06/14 21:23
>>596-597
長崎市の空襲による死者数20245人・負傷者33739人。
日時は、第5回の8月1日しかわかりませんでした。
7月末までは、ほとんど空襲がなかったと言う記録もありますので、
大きな空襲はこの時期に集中してたのかもしれません。
原爆予定地は、空襲を控えていたとも言われてます。広島や京都。

「長崎原爆戦災誌」と言う本に載ってるそうです。
「長崎市史」にも記録があるはずです。
長崎市役所市史編纂室に聞けば教えてくれると思います。
近場なら、市役所に行ってみては?遠ければ電話か手紙。
600日本@名無史さん:03/06/14 21:26
>>598
ていねいに聞かないと、誰も答えてくれないよ!
商売じゃないんだからw。
601589:03/06/14 21:31
ありがとうございます。本当に親切な人ですね。

遠いので(倉敷)いろいろと調べてみます。
これで良いレポートが書けそうです。ありがとうございました。
602日本@名無史さん:03/06/15 00:44
琉球やアイヌの人たちは日本を恨んだりしなかったのですか?
603日本@名無史さん:03/06/15 09:50
>>602
>琉球
琉球の税金は田畑の収穫に掛けられ,王府への分,薩摩への分,それに間切・村
の行政経費の分を差し引かれた。薩摩税がとられてます。
人頭税は、沖縄全域で実施されたが,とくに宮古・八重山でこの税制度が典型的
な形で現れた。
過酷な税制度であったため各地に悲劇的なエピソードが伝わっているが,中でも
宮古の〈人頭税石〉,与那国(よなぐに)島の〈久部良割(くぶらばり)〉は有名である。
前者はその石の高さになると人頭税が課されたと伝え,後者は税負担に耐えかねて
島中の妊婦に割れ目をとばせ人口調節を行ったと伝える。

奄美などの周辺の島になるほど、人頭税をうらんでたようです。
今でも、ヤマトの侍を恨む労働歌みたいのが伝承されてますね。
「こんなに働いて何になる。いくら働いても、みんなヤマトの侍のため」みたいな感じ。

>アイヌ
室町時代からヤマトへの抵抗がおき、江戸期にも何度か大規模な抵抗戦争
がおきています。当然、ヤマト侵略者勢力に対しムカついていたと思います。
604日本@名無史さん:03/06/15 10:14
江戸時代におとりつぶしになった藩の藩士たちはどうなったのですか?
みんな浪人になったらすごい数になると思うのですが、簡単に武士の
プライドを捨て庶民になれるものでしょうか?
605586:03/06/15 10:51
590さん、591さん

回答ありがとうございます。

なにかの物語で、妻の実家が没落して夫の世話をできなくかったら
妻が身を引く。。。という話がありました
また、道長の衣装は姑が差配していたという記述があったので

てっきり 妻側が全部握っているだとばかり思っていました。
606603ではないけど:03/06/15 11:10
>>603につっこみ。
江戸期のアイヌの反乱で、一時期成功して松前藩の勢力を追い出すことに成功したことがある。
ところがそのあと一気に瓦解する。
理由は簡単で、松前との交易がないと飢えるから。
つまり、それだけ松前と強く結びついていたわけで。
単に「ムカついている」ではなく、
「ムカつくけどあいつらいないと困るしなあ」と言ったところなのでは?
607名無し:03/06/15 12:06
>>583>>584の方勉強になりました。ありがとうございました。
608日本@名無史さん:03/06/15 12:28
>>604
江戸時代における浪人発生の最大の要因は,幕府による大名の改易,
減封にあった。関ヶ原の戦や大坂の陣で敗者となり,また幕府の忌諱(きい)
に触れ,幕法に違反し,あるいは世嗣の断絶などによって,徳川家康・
秀忠・家光の3代,すなわち幕初の50年間に改易,減封となった大名は,
実に217家,石高にして875万石余にのぼり,家光の晩年の1650年(慶安3)
までに

40万もしくは50万の浪人が発生したと推定されている。

加えてこの時期には,主君の意に背き,法に触れ,単なる人減しのため
に召放(めしはな)たれ,また主君の仕打ちに不満を抱き,家中を去って
浪人となる者などが跡を絶たなかったという。

大人数が浪人となってますね。政治不安定要因なので、幕府は次第に、
取り潰しを減らします。
大小を差していても、身分上は平民です。
609日本@名無史さん:03/06/15 12:39
>>606
松前藩及び日本商業資本により、
1、貿易の権限が取り上げられていた。
2、生産資本である山・川・海が、日本人資本に剥奪されていた。
3、部分的ながら強制移住などが行われ、共同体が崩れつつあった。
などから、アイヌの自立が阻害されていたことが、和人に頼らざるをえない
植民地的生産様式または奴隷的生産様式におとしめられたのだと思います。
本来的には、アイヌ人は交易も得意(沿海州・サハリン・蝦夷・千島列島交易圏)な、
採集民族でしたから。

以下少し、江戸期の流れを貼っておきます。
610日本@名無史さん:03/06/15 12:44
その後松前藩が成立すると,松前氏(旧蠣崎氏)は幕府より与えられた
アイヌ交易独占権を実現する方策として,蝦夷島をアイヌの居住地と
しての〈蝦夷地〉と〈和人地〉の二つの地域に区分し,アイヌ民族を
〈蝦夷地〉に封じ込めたうえで,商場(あきないば)知行制を介して
松前藩のみとの交易を強要していった。

交易場としての商場は多く領域としてのイオルに対応する形で設置された
ことや,藩政初期には河川での砂金採収に大きな力を注いだこともあって,
松前藩成立後,アイヌ民族は重大な民族的危機に遭遇することとなった。
そのため早くも1643年(寛永20)西蝦夷地のセタナイでヘナウケの戦があり,
69年(寛文9)には近世最大のアイヌ民族の反松前・反和人の戦いである
シャクシャインの戦をみた。シャクシャインの戦が敗北した後,松前藩の
アイヌ民族に対する政治的支配が一段と強化された。

611日本@名無史さん:03/06/15 12:45
また商場の経営が,商人による商場内での漁業経営(場所請負制)へと急速
に変化するなかで,アイヌ民族の立場も,交易相手から漁場の下層労務者
へと変質させられ,場所請負人によって酷使されるに至った。場所請負制
の発展過程のなかで反和人の武力闘争として戦われたのが,1789年(寛政元)
の国後・目梨(くなしりめなし)の戦であったが,当時のアイヌ民族は全体
として経済的に松前藩(日本社会)に依存した生活を余儀なくされていたことや,
有力首長層が松前藩側に協力したこともあって,いち早く松前藩に鎮圧された。

その後幕府はロシアの南下現象への対応策として1799‐1806年(文化3)
東蝦夷地と箱館付在々の和人地(松前地)を,次いで1807‐21年(文政4)
松前・蝦夷地全域を幕領とした。アイヌの親露化を防止するため,東蝦夷地
における場所請負制を廃止して直捌(じきさばき)とし,アイヌ交易の公正化
やアイヌの和風化策を積極的に進めた。しかし1812年には東蝦夷地の直捌
を廃止し,場所請負制を復活したため,以後東西蝦夷地の経営は松前藩政期
と同様,場所請負制に立脚したものとなった。松前藩復領後,同藩は蝦夷地
全域を藩主の直轄とし,各場所の経営を場所請負人にほぼ全面的に委任したため,
場所請負人は各場所の実質的な支配者と化した。その結果,場所請負人による
アイヌの酷使がいっそう顕著になっただけでなく,同一場所請負人の場所間
ではアイヌの強制連行も行われた。55年(安政2)以降の幕領期にあっても,
こうした事態は基本的に変わることがなかった。18世紀後半から幕末に
かけてアイヌの人口はしだいに減少し,とりわけ鰊(にしん)漁業のさかんな
西蝦夷地における人口減が著しかった。1807年2万6256人(うち西蝦夷地
1万3064人。以下同じ),22年2万3563人(8938人),54年1万7810人(4384人)。
612日本@名無史さん:03/06/15 13:18
で、今の琉球やアイヌの子孫も恨んだりしてるわけ?朝鮮の人たちみたいに。
表立たないのは単に人数が少ないから?

あと、日本史板で板違いかと思うが、例えば他民族に支配されている間って、
その民族はその地にとどまっているの?
元とか清とかの時、漢民族はどうしてたの?
613日本@名無史さん:03/06/16 22:08
>>612
沖縄の人は、長かったアメリカ占領時代に「日本復帰運動」や「日の丸運動」
とかしてますから、基本的には日本の一員としていきたいようです。
ただし、基地問題で、沖縄だけ本土のしわ寄せを受けているとの意識はあります。
実際、米兵の暴力事件とは日常茶飯事ですから止むを得ないでしょう。
戦時中の日本軍による沖縄眠殺害や、集団自殺の強制とかに、こだわりが強いのは
ご承知かと思います。天皇にも拒否感が強く、文部省の圧倒的強制前は、卒業式での
君が代斉唱率は0%で、校長の斉唱指示に対し全員卒業式会場から退場してしまった
高校も新聞をにぎわせました。複雑な感情は深層心理にあると思います。

アイヌでは、年配の人が出自を伏せて同化しようとするのに対し、
若い層がアイヌ人としての自己主張を明確にしたりする傾向もあります。
旧土人法改正のときは、怒りを主張し、謝罪を求める派もあったようです。

漢民族は何民族でも飲み込んでしまいます。
逆に言えば、漢字を使うと漢民族になってしますともいえます。
飲み込まれずに無事に帰れたのは、モンゴル人だけだとよく言われています。
614日本@名無史さん:03/06/17 01:13
どなたか教えて下さいな。
遣随使や遣唐使は向こうで何語をしゃべったんでしょうか?
まさか当時の日本語は大陸で通じたとか?
夜も寝れません。。。。
615日本@名無史さん:03/06/17 01:16
新羅人の通訳でも使ったんじゃねぇの。
616日本@名無史さん:03/06/17 04:21
日本、唐、新羅、渤海各国に、他国と交渉するための
訳語・通事などと呼ばれる通訳官がいました。
617日本@名無史さん:03/06/17 11:52
>遣隋使
派遣された人々の出身は主として帰化人系である

>遣唐使
長官は大使である。その上に執節使や押使の置かれた場合もある。大使の下に副使。
大使・副使は通常1名。その下に判官・録事若干名ずつ。
このほかに知乗船事・造舶都匠・訳語(おさ)・医師・陰陽師・画師・史生・射手・船師・
新羅訳語・奄美(あまみ)訳語・卜部(うらべ)・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生
・船匠・激師(かじとり)・域人(けんじん)・挟抄・水手らがあり,これに留学生・留学僧らが加わった。

訳語、新羅訳語、奄美訳語、といろいろ連れてってるね。
エリート集団だから、割と中国を話せた人もいたのでは。
空海などは語学が得意で有名だよね。
あと、漢文の教養で筆談もできる。
618日本@名無史さん:03/06/17 19:57
先祖調査したら明治初期に本陣から嫁に来た人がいるんだけど、昔は婚姻関係
は同じ格の家ということらしいけど、本陣ってどうなの?
619日本@名無史さん:03/06/17 20:06
>>618
商人身分だけど、豊かな階層でしょう。

規模の大きな宿駅(宿場町)では本陣,脇本陣が数軒あった。
本陣は旅館とともに他の商業を営むのが普通で,その建物は一般の商家
と同様に往還に面して主屋を建て,これに一般商家ではもてない御成門
や貴人の住宅様式である書院を加えたものと,主屋を一般商家のように
往還に面して建てず,広い敷地を構え,その中に武家住宅のように建て
る場合とがあった。
建築的には,本陣は庶民の住いである民家と,貴族の住宅様式である書院
とを併せもつものであった。
620日本@名無史さん:03/06/17 20:14
徳川家の四天王、本多忠勝と名字と家紋が一緒なんですが、関係ありますか?
先祖調査ってどうやるもんなんでしょう?
621618:03/06/17 20:19
>>619 ありがとう!!
622618:03/06/17 20:26
 >>620 うちの場合は倉庫から先祖の戸籍がたくさん出てきた。直系
先祖だけでなくわけ分からん人の戸籍まで、祖父ぐらいの世代なら話
が伝わってるでしょ!後は戸籍が発行された役所いけばいい。うちのは
わりと地方で有名らしいので、あーあすこの家だとなりましたが、普通は
難しいかもね。最近はプライバシーとかうるさいから。田舎なら住所見た 
だけでわかるらしい。
623日本@名無史さん:03/06/17 20:29
庄屋と本陣ってどっちが家格が上なの?
624日本@名無史さん:03/06/17 20:36
>>623
庄屋は身分としては百姓であるが,一般村民よりは一段高い階層に属し,
その屋敷に門を構えたり,母屋(おもや)に式台を設けることができ,
着衣や履物にも特例を許されていた(絹物や雪駄の着用)。

同程度な感じ。士>農>工>商を意識した人なら庄屋かな?
625日本@名無史さん:03/06/17 22:07
真田幸村の家臣ってどうなりました?
626日本@名無史さん:03/06/17 22:50
友人の実家が脇本陣だけど
庄屋の家格だとかっていってました。

あと 母の実家は庄屋でしたが、
(街道ではないので)

昔 宮様がとまったとか
627日本@名無史さん:03/06/18 02:51
>>620
他の家系調査スレに逝こう。

家紋と名字だけではわからないので、
まず戸籍とか調べよう。
628日本@名無史さん:03/06/18 03:48
>>622
それは、戸籍でなくて系譜とか系図とか検地帳かだろ。
戸籍というのは朝廷・政府が管理するものだから、江戸時代のものが
家にはないだろ。
629622:03/06/18 04:18
>>628 いや戸籍です。江戸時代のがあるとは書いてません。作られたのは
明治後期だと思われます(祖父の名前があるので)ただ江戸後期分も逆算し
てだと思いますが書いてあります。直系先祖は墓もありますしだいたいは
わかってます。
 先祖の姻戚関係を調べてみたのです。が、昔の人(江戸時代の人)は5から
6回ぐらい結婚しているらしく(出産とかで早く死ぬみたいです。男が産まれない
と実家にかえされることも多かったらしい。)ですから、戸籍に書いてあるところ
までが限度ですね!女性は!!墓にもOOの妻とだけあり、追跡不能です。
 戸籍がたくさんと言うのは親戚のまた親戚の戸籍まで出てきたと言う事です。
面白いですよ、そういう戸籍は曾祖母の実家と高祖母の実家の誰々が親戚だとか
割と近い家系で、しかも近すぎず親戚なんですね。ま、しかし調べても、もうその土地
に住んでる人はいませんでしたけど・・・訪ねる勇気もないですが。役所の人たちは
そういう家でもまだ分かりますから今のうちに調べておいた方がいいかもしれませんね!
まあ、田舎限定でしょうけどね。都会じゃわかんないだろうね!!
630日本@名無史さん:03/06/18 08:55
>>625
大阪の陣で、真田幸村が死亡したとき、家臣は一人も降参せず、
「日ごろの士の志のせいか」と徳川方を感心させたようなので、
討ち死にしたかと思われます。
なお、真田十勇士は、架空の人物です。
631625:03/06/18 11:16
>>630 ありがとうございます。家臣の家族はどうなったでしょうか?赤穂浪士
のように他藩に是非と言う感じで仕官していったのでしょうか?それとも帰農し
ましたか?でも上田でというわけにはいきませんよね!
632日本@名無史さん:03/06/18 12:05
家族まではわかりませんが、兄の真田信之は上田城に移り9万5000石を領し、
その後、松代に移封され,旧領とともに13万5000石を領し,松代藩の基礎を固めたので、
もしかしたら、そこに行った??
検索しまくれば当たるかも?
633日本@名無史さん:03/06/18 15:23
日本の皇室と、他国の王室の決定的なシステムの差を教えてください。おながいします
634日本@名無史さん:03/06/18 23:31
通常、王室は、政治が混乱すれば打倒される。
皇室は、矢面に立たないように振るまい、権力者が変わるとそこにすり寄る。
635日本@名無史さん:03/06/19 00:08
徳川家定って頭おかしかったんですか?
この人の2番目の正室も異常に背が低くてビッコだったんですか?
636日本@名無史さん:03/06/19 00:35
明治初期の頃も、やっぱ年号は「明治」と言ってたんですか?
何か、違う言い方とかしてないですよね?
東京の事を「とうけい」って言ってたとかって聞いたもので・・。
637日本@名無史さん:03/06/19 01:03
桓武の時の一紀一班により農民の負担がなぜ軽減されるか教えてください。
638日本@名無史さん:03/06/19 01:05
年号は明治に改元したんでしょ?
639日本@名無史さん:03/06/19 01:14
聖武天皇は死刑廃止したってまじですか?
640日本@名無史さん:03/06/19 02:51
学問の話ばかりのところ恐縮ですがどうか助けてください
生まれた子供の命名に、僕の名前の漢字1文字を使おうと思ってます。
ところが周囲から「それは親を超えられないと言われてる。
家康、秀吉・・・金日成、長嶋茂雄、野村克典・・・」と言われるのです。
僕は「そんなことはない。信長だって信をもらってるし、
父じゃないが家康の康だって」とは言うものの、
なるほどそうだ!という決定打がみつかりません。
博識なみなさま、「こんな偉大な人が父親の1文字をもらっていたなんて!」
っていう例をご存じないでしょうか?
どうかお願いします。笑われるかもしれませんが一大事なのです。
641日本@名無史さん:03/06/19 03:13
金正日
642日本@名無史さん:03/06/19 03:21
東條英教・英機親子はどうだろ?
643日本@名無史さん:03/06/19 03:36
>>642
それは超えてはいるが……
644日本@名無史さん:03/06/19 08:59
>>635
無能で、かつ脚気による心筋障害だったようです。
癲癇もちで言語不明瞭でもあったとか。35歳で死亡。
645日本@名無史さん:03/06/19 09:14
>>637
一紀一班は、班田を6年から12年ごとにするもの。
これは、農民の負担の軽減というより、律令制の維持が目的と思います。
その後、戻ってますし。

その他の政策として、桓武天皇は農民の負担の軽減を図っています。

農民の負担を軽減するため、
1、軍団制を廃止して豪族の子弟を治安維持にあたらせる健児制を採用
2、雑徭60日を30日に、公出挙を利率5割から3割に、減らした。
646日本@名無史さん:03/06/19 09:32
仏教思想の影響もあってか,弘仁年間(810‐824),死刑の執行が停止され,
以後1156年(保元1)にそれが復活するまで約350年間,死刑の執行が行われなかった。

810年の薬子の変以後、廃止というより、執行停止になっています。
このときの天皇は、嵯峨天皇です。
(聖武天皇の740年、藤原広嗣の乱で、広嗣は処刑されています)
死刑復活(再始動)は保元の乱からで、武士の権力の上昇が関係するのでしょう。
647日本@名無史さん:03/06/19 10:05
>>640
足利義満はどう?金閣作った人だよって言えば、押しが効くのでは?
ところで、奥さんの名前は入れないの?
女の子が生まれたら?

余計なお世話だが、名前は意味で決めたほうがいい気がする。
年頃になると、なぜそういう名前をつけたか絶対聞かれる。
小学校の宿題のこともあるw。
648640:03/06/19 17:04
>>647
どうもありがとう。聞いて良かった! 初代じゃなくて有名な人を探せばいいとは思ったんだけど、無知なので思いつかなかった。
あと、女の子だったら妻の名前付けるかも。「美」とかだけど。
意味から付けるというのも考えたんだけど、
どうしてもこれじゃなきゃ、というのがなくて
それなら僕の名前を取ろうよと妻に言われた。
子供とつながってる感じがしていいんだって。
僕も、もうこれで死んでも悔いはないや、って気がしてきた。
二男以下ができたらまた悩むだろうなあ。
649日本@名無史さん:03/06/19 21:12
>>648 640さん
子供が20歳になるまでは生きてあげなよ。生んだ義務だよ。
名前がつながってるのも良いかもね。奥さんも賛成ならGOでないかい?
俺は、みんな意味でつけた。字画運勢一切無視w。
○○ジュニアってのも、今は認められてるよw。
650日本@名無史さん:03/06/20 07:22
 板違いだったら申し訳ありません。
ガッコで源氏の賢木に就いて発表せんといけなくなりました…。
それで、当時の貴族ん家の家司の仕事に就いてだとか、貴族ん家の
宿直に就いてだとか、調べているのですが仲々うまい事見付かりません。
またそう言う、平安期の貴族ん家のシステムが解る様な資料や本を御存知の方、
オススメを教えて頂けたら嬉しいです。
651_:03/06/20 07:23
652日本@名無史さん:03/06/20 10:22
>>619 本陣は苗字帯刀を許されてるんじゃないの?特権階級じゃん。
653日本@名無史さん:03/06/20 10:28
>家司 (けいし)
〈いえつかさ〉ともよむ。律令制下で親王家,内親王家,職事三位以上家に置
かれていた家令(かれい)以下の家政所職員を家司と称していたが,政治的,社会的に
貴族家の占める比重が大きくなる平安時代に入ると,律令で定められた職員以外
のものが置かれるようになり,それらを総称して家司といった。
すでに奈良時代に四,五位家や散位三位以上家に〈事業〉などが置かれ家務を
つかさどるようになっていたが,平安期に入ると無品親王家にも別当が置かれ,
律令で家司設置規定を欠く貴族家にも設置されている。
さらに律令で家司を置くことになっている貴族家では質的,量的に拡充が図ら
れているのである。
家政機関の規模は貴族家の優劣に応じ大小があるが,最大の発達を示す摂関家
の場合を《拾芥抄》についてみると,執事,年預,弁別当,文殿,蔵人所,侍所,
御遠,御随身所,政所,御服所,進物所,膳部が列挙されており,それぞれに
家司があてられたのである。
とくに重要なのは政所(まんどころ)で,荘園関係の事務を扱い荘民に政所課役
や政所公事を課し,その徴収事務を管掌し,荘民たちの間に紛争事件がおきる
と裁判事務を行い,国郡や他貴族家との交渉に当たるなどした。
摂関政治は10世紀前半藤原忠平のときに確立したと考えられるが,この前後に
おいて摂関家の家司のあり方に画期が認められ,受領や出納ないし警察といった
国家の枢要な行政事務に精通した官人を別当に起用するようになっており,
それらの人たちが連署する家政所発給の牒や下文などの文書の権威もたかまってきている。
ただし,ときとして摂関家政所で家司らが国政を議したとする〈政所政治〉
なる把握が行われることがあるが,誤解というべきであり,家司らの任務は
貴族家の家政の範囲に限られていたとみるべきである。
上家司,下家司を称することがあるが,家令,別当が上家司に当たり,それ以外が
下家司である。
鎌倉幕府の政所,侍所,問注所なども家司制の展開として理解され,評定衆や
引付衆を家司と称している。   
654日本@名無史さん:03/06/20 10:34
>>650
日直=番
公式令によると,大臣以上と諸省の縁を除く長上の官人も,本司に分番
して宿直(とのい)(宿直と日直)することを義務づけられているが,平安
時代の記録類によると内裏や院御所では公縁・殿上人などの当番宿直が
行われ,これには6日ごとの勤番と5日連続の勤番が多い。
中世に整備されて近世にも存続する禁裏小番は,10番の事例もあるが5,6番が多く,
《言経縁記》によると,5番制の内々小番と6番制の小番とがあって,
武士と武官・弁官を除く大納言以下の公縁・殿上人は,散位をも含めて
原則としていずれかの番に編入されている。
655日本@名無史さん:03/06/20 10:51
>>652
大庄屋(大名主)は、永代名字帯刀御免。
本陣は主人になると、名字帯刀が許された。
656日本@名無史さん:03/06/20 11:17
>>624 >>655 普通の庄屋よりいいんじゃないの?本陣のほうが。
657日本@名無史さん:03/06/20 11:49
http://www.saganet.ne.jp/yamato/

これの「朝鮮半島の鏡を手にした王」って何のことですか?
658日本@名無史さん:03/06/20 13:56
>>657 これかな?
佐賀県二塚山遺跡出土品(さがけんふたつかやまいせきしゅつどひん)
国指定重要文化財/平成元年6月12日指定
佐賀市城内1−15−23(県立博物館)
考古資料
二塚山遺跡は、神埼郡東脊振村と三養基郡上峰町にまたがる遺跡で、
工業団地建設に伴い調査を実施し、弥生時代前期から後期にわたる甕棺墓・
土壙簿・箱式石棺墓などの墳墓252基と、その周辺で墓地祭祀関係の遺構
6カ所が確認できた。
墳墓内には多くの副葬品が埋納されており、佐賀平野東部の有力な集団
が営んだ墓地と考えられる。
副葬品としては、前漢から後漢にかけての中国製銅鏡4面、

朝鮮半島出土の鏡と同じ鋳型で作られた銅鏡1面、

日本製小型鏡2面、南海の貝を使った腕輪、鉄製の刀・剣・矛、ガラス
製玉類などがある。
http://www.pref.saga.jp/kyouiku/bunkazai/d_kouko.htm
659日本@名無史さん:03/06/20 20:52
苗字帯刀の話がでていますが、名主や本陣などは主人のみが許されていたのですか?
長男などは帯刀などは出来なかったのですか?
 武士についても次男、三男などは部屋住などと言われますが彼らの身分は武士
身分なのですか?帯刀などについてはどのようになっているのですか?
660日本@名無史さん:03/06/20 20:56
名目上、石高てのは農民が食う分も含めた全収穫量なんですか?
それとも藩の収入高なんですか? あるいは??
661日本@名無史さん:03/06/20 21:07
>>659
本陣は主人のみです。名主も主人のみと考えられます。名主は変わることも
ありますから。
次男・三男も、武士で名字帯刀です。長男に何かあったときのための
大切なキープです。
662日本@名無史さん:03/06/20 21:21
>>660
名目上は全生産高。しかし、フィクションの部分もある。

すべての土地は,田はもちろん,実際には米を生産しない畠・屋敷地も米
の収穫高に換算されて石高がつけられ,いっさいが石高に結ばれる。
この結果,石高が社会関係の統一的基準となり,武士階級の身分も,
たとえば10万石の大名,2000石の旗本,30石の切米取という形で序列化され,
百姓が所持する土地も面積ではなく石高で示され,高持百姓と水呑百姓(無高)に区別される。
武士階級の主従関係も,知行石高を基準とする軍役を媒介として成立し,
百姓が領主に納入する年貢も,所持石高に応じて課せられるように,
近世封建社会の内部は,すべて石高を基準として成り立つような形をとる。
これは,太閤検地の全国的施行を前提としていることはいうまでもない。

たとえば長宗我部氏の場合,1585年の秀吉の四国攻めに屈服したが,
その際に陣参3000人という軍役奉仕を条件に,かろうじて土佐一国を
安概された。9万8000石という土佐の石高は,検地の結果としてではなく,
軍役人数に即応する形で定められた点が特筆されよう。
同じく秀吉の九州攻めに敗れた島津氏は,御前帳徴収に先立って土地面積
と年貢の総収納量が調査され,そこから逆算して30万石という数値を得たが,
御前帳作成に携わった石田三成が8万石を加筆し,38万石の高が決められている。
伊達氏など東北の大名領では貫高制による検地が行われたが,91年に石高制
による検地が行われて御前帳の高がつけられ,まもなく貫高制に復している。
このように,石高の決定には,大名が豊臣政権に服属する際の条件や,
領内の特殊事情などが介在した事実もある。また,対馬(宗氏)や松前(蠣崎氏)
のように,朝鮮貿易や蝦夷地交易を公認され,貿易利潤によって財政を
成り立たせている大名には,その本領地の石高は無高とし,家格を表示
する石高を与えることでランク付けをしている。
これは,土地生産力に基礎をおかない貿易利潤と石高制との矛盾を解消し,
秀吉の軍役体系に包摂するためにとられた方策である。

663659:03/06/20 21:24
>>661 ありがとうございます。
664日本@名無史さん:03/06/20 21:30
>>662
THX!
665日本@名無史さん:03/06/21 00:35
>662
石高は、次第に実際の生産高とどんどんズレて行くと思いますが、
訂正するなんていうことはなかったんでしょうか?
666_:03/06/21 00:36
667日本@名無史さん:03/06/21 01:01
>>665
表向きの石高ってのは幕府が諸大名に軍役を課すためと序列をあらわすために設定しているものなので
大阪の陣以降、実高との乖離がそれほど需要じゃなくなります。

668 ◆Ze9CeoNxI. :03/06/21 01:38
信長の野望とかやってたら成績上がりますかね?
669日本@名無史さん:03/06/21 06:52
江戸後期になると苗字帯刀が金で買えたと言う話ですが、どのくらいの金額
だったんでしょう?その結果、苗字帯刀率?というのでしょうか、かなりの
人数にのぼったんではないのですか?
670日本@名無史さん:03/06/21 07:48
征夷大将軍の位階はなんですか?太政大臣も。
671日本@名無史さん:03/06/21 10:23
>>670
>江戸時代の将軍の慣例
4代家綱時代まではまず朝廷に奏上しその後に幕府が叙任する例であったが,
5代綱吉時代以後は幕府が叙任しその後に朝廷の位記口宣を申請するという
ものであった。
将軍および世子以下の官位昇進の次第は3代家光時代にその例規が定まり,
将軍宣下とともに正二位内大臣となり,のち従一位左大臣に進み,正一位太政大臣
を追贈され,世子は従二位権大納言となり右大将を兼ねるのを例とした。
源頼朝は、従二位かな。

>大臣
『太政官』のうちでも、最も上位にある「三大臣」(「太政大臣」と「左右大臣」)、
及び「内大臣」を総称。
位階は正一位〜従二位に相当。
672_:03/06/21 10:27
673日本@名無史さん:03/06/21 10:34
>>669
窮乏した下級武士が『侍株( さむらいかぶ=徳川将軍家・御家人や各藩
・藩士としての身分 )』を富裕な商人に売り渡す現象が見られた。
これは、武士が商人の次男〜三男を養子にした上で、自らは隠居を願い
出て養子に家督と家禄( これらには将軍家や藩の中での席次と義務が
付随する )を譲る形を採った。

つまり、隠居しての引退後の生活費相当と推測されます。

%は、通常、江戸期の武士階級は7%と言われてますから、
統計を動かすほどではなかったのではないかと推測されます。
674670:03/06/21 11:51
>>671 ありがとうさん!!
675669:03/06/21 11:54
>>673 答えてくれてありがとうございます。ちなみに武士身分以外、例えば
庄屋や豪農・豪商などの苗字帯刀はどうでしょう?
676日本@名無史さん:03/06/21 13:35
>>675
既出ですが、庄屋(名主)と本陣は名字帯刀。
豪農・豪商は藩の政策(新田開発など)に貢献すると名字帯刀が許される事も
ある。
いずれも、ご褒美というより、藩の丸め込み政策のような印象がします。
677669:03/06/21 13:51
>>676 ありがとうございます。
678日本@名無史さん:03/06/21 13:53
位階のことですが、江戸期の旗本や幕臣・藩士などではどのクラスから
いただけたんでしょうか?
679日本@名無史さん:03/06/21 14:21
>>678
大名の官位の最下位が「五位」でしたが、これに続く「六位」という
官位は無く、六位相当の『布衣(ほい)』と呼びます。この上に大名
並扱いの『布衣以上(諸大夫)』と呼ばれる大型旗本がありました。
また幕府の職に就かず(就けず)在地に住む者を『寄合』と言い、
大名並に参勤交代をしました。『布衣以上』、『布衣』が旗本で
『御目見以上』となります。三千石以上は『守名乗り』(備前守など)をします。

1 従3位 − 御三家、御三卿、加賀前田家
2 正4位上 幕末例外 御三家、加賀前田家の家督
3 正4位下 幕末例外 会津松平、越前松平
4 従4位上 昇殿が叶う 島津、伊達、高家
5 従4位下 4位以上は御所昇殿が叶う 他国持、準国持大名、高家
6 正5位上まで 幕末の特例
7 従5位下 諸大夫、大名 大半の大名、大身旗本
8 5位以下 諸大夫、布衣旗本 布衣旗本は老中支配、6位相当

旗本と御目見以下の家臣である御家人とを総称して直参(じきさん)また
は幕臣といった。ただし,同じく1万石以下の直臣ではあるが,名家の
子孫で幕府の儀礼をつかさどる高家(こうけ)と参勤交代の義務をもつ
交代寄合は別格であり,老中支配に属した。

680678:03/06/21 23:54
>>679 ありがとうございました。
681日本@名無史さん:03/06/22 10:24
>>679
「交代寄合」は一般的な旗本よりは、1万石に満たない大名と捉えた方が良い出自の者も
いるようですね。
682日本@名無史さん:03/06/22 11:38
>>681
そうですね。在地居留で大名並みの扱いを受けてるようですね。
大名家断絶時の跡継ぎパーツの家もあったようですね。

>交代寄合
江戸時代,武家の家格。老中の支配下にあった。知行高は1万石未満でありながら
大名なみの待遇を得,所領に居住して江戸に留守居を置いた。
隔年か数年ごとに参勤交代をし,江戸城中では帝鑑間,柳間に席を占めた。
表御礼衆20家(うち1家は1836年より新規),那須衆4家,美濃衆3家,信濃衆3家,
三河衆2家に分かれ,ほかに2家があった。制度的起源はつまびらかではない。
各家の由緒により,狐原氏(駿河久能),朽木氏,五島氏など軍事的要所守衛の
任務を帯びた家,大名の分家,菅沼氏・生駒氏・最上氏など大名家断絶後その
名跡を継ぐ家,山名氏・岩松氏・松平氏(三河松平)など古い血統を誇る家,
その他に分類できる。
たとえば那須・美濃・信濃衆は,幕府成立時,おのおの国境地帯を党として警衛
する任務を与えられたことを由緒としていた。また遠州の近藤氏は数多くの分家
を創出したが,そのうち気賀の関所を守る1家のみが交代寄合となったことは,
この家格のもつ歴史的意味の一つを的確に示している。
683日本@名無史さん:03/06/22 12:01
皆さん助けて・・・。

鎌倉・室町時代の商業の発達を述べた文として誤った文を選べ。ない場合は6番と解答せよ。

1.貢納手段として銭納も多くなり、安全のために為替も用いられるようになった。
2.京の米場、淀の魚市など特定商品だけを扱う市場も生まれた。
3.応仁の乱後は六斎市も一般化した。
4.輸入された中国の銅銭に加えて、日本でも粗悪な私鋳銭がつくられた。
5.円滑な商取引を妨げる撰銭を禁止するために、しばしば撰銭令が出された。

代ゼミ公式解答 5番  河合塾公式解答 6番

どっちだよっ!
684 :03/06/22 12:45
>>682 信濃衆について歴史的経緯など詳しく教えてください。
685日本@名無史さん:03/06/22 12:47
>>683
私が思うに、その問題で正解が6番ということはあり得ないかと。
686日本@名無史さん:03/06/22 13:09
>>685
6番が正解じゃないのか?
687日本@名無史さん:03/06/22 14:45
北条義時の息子達(泰時、朝時、重時、政村など)の
幼名が知りたいのですが、ご存じの方がいればお願いします。

(泰時は 金剛丸 だったような気がするのですが)

また 北条はいつごろから 幼名が○寿丸というふうに
なるのか、お分かりであればそれもお願いいたします。


688うり:03/06/22 14:57
日本史を勉強したい。大学受験の時地理をとっていたので・・一番良い(左にかたよってない)高校の教科書はどこのでしょう。今から買いに行こうと思いますので教えて下さい。
689日本@名無史さん:03/06/22 15:27
>>684
これかなと思うが、ちと自信がない。検索でもして確認してくり。

村上氏
中世,信濃国更級(さらしな)郡,埴科(はにしな)郡を中心とした地域に勢力を
有した武士。清和源氏頼信流の盛清が,信濃国更級郡村上(現,長野県埴科郡坂城町)
に住し,その子為国が村上氏を称したことに始まるとされる。
12世紀後半,保元・平治の乱および治承・寿永の内乱に際して,基国の名がみえ,
鎌倉幕府成立後は御家人となったとされる。しかしこの時期の村上氏については
不明な点が多く,村上氏の本領が信濃国であったとする点についても疑問視する考え方がある。
村上氏が信濃国の中世史上に現れてくるのは,南北朝時代末期からで,
この時期に村上から千曲川対岸の坂城(さかき)にその根拠地を移したといわれている。
以後村上氏は信濃の有力国人として成長した。1400年(応永7)村上満信は,
信濃国守護として善光寺(現,長野市)に入った小笠原長秀によってその支配地
を侵略されようとした。このため満信は信濃国人を糾合して守護使の入部を拒み,
大塔(おおとう)(現,長野市篠ノ井)の地で守護軍を破った。
この戦い以後村上氏は信濃国守護と対抗しうる勢力を有し,応仁・文明の乱(1467‐77)
を経,村上義清の代に至り,戦国大名への道を歩みはじめた。1541年(天文10)義清
は小県(ちいさがた)郡の中央に勢力があった海野氏を攻略し,小県郡へ進出した。
しかしこの年,武田晴信(信玄)が父信虎を追い,信濃国進攻を開始したため
村上氏の所領も不安定なものであった。48年の上田原(うえだはら)の合戦,
50年の戸石(といし)城合戦などの局地戦では武田氏に善戦したが,53年本城で
ある損尾(かつらお)城は落城した。義清は高井郡の高梨氏を経由し,越後長尾氏
(上杉氏)に助勢を求め,いったんは損尾城を奪い返したが,武田氏の勢力の前
に支え続けることができず,越後へ落ちのびた。その後上杉氏に従い川中島の戦
に参加したことが知られる。82年(天正10)武田氏滅亡後,上杉景勝に従っていた
義清の子景国は海津城(現,長野市松代)に城将として駐在したが,所領を信濃国
に回復することはなかった。
      
690日本@名無史さん:03/06/22 15:31
村上水軍は村上氏の傍流。
南部は小笠原氏の傍流。
691688よ:03/06/22 15:39
ヤマカワでもやれば
692うり:03/06/22 15:41
ありがとうございました 買ってきます
693日本@名無史さん:03/06/22 16:07
泰時→金剛
朝時→相模太郎、陸奥次郎 ??
重時→陸奥三郎??
政村→?

○寿丸→時宗の頃から。早死にが増えたそうだ。
694日本@名無史さん:03/06/22 16:14
>小笠原氏
甲斐出身の中・近世の武家。甲斐源氏加賀美遠光の次男長清が,甲斐巨摩郡
小笠原(山梨県北巨摩郡明野村と中巨摩郡侯形町との2説がある)に住んだの
に始まる。長清は父とともに源頼朝に従って平家追討に戦功をあげ,遠光
は信濃守,長清は信濃国伴野荘地頭に任ぜられた。後に長清は軍功によって
阿波の守護職を与えられ,守護職は子の長経を経てその子長房の子孫に
伝えられた。長経・長忠の嫡流は武田氏とともに由緒ある御家人として
幕府に仕え,とくに騎芸乗馬礼法の家として尊重された。元弘の乱(1331)
に際し貞宗は笠置攻めに参加し,のち足利尊氏に従って手柄をたて信濃守護
に任ぜられ,国内に多くの所領を得て居館を筑摩郡井川(長野県松本市)に移した。
しかし当時信濃には村上,諏訪,高梨らの豪族がおり反抗したので,
領国経営は思うにまかせず,地位は不安定であった。政康は一応国内を統一したが,
その没後持長と政康の子宗康が争い(嘉吉の内訌),宗康は弟の光康とともに
府中を去り伊那郡松尾(長野県飯田市)に移り,光康は松尾小笠原氏の祖となった。
持長の子清宗は林城(松本市里山辺)を築き住んだ。松尾小笠原氏は信嶺
のときに武田信玄に属し,武田家滅亡後は織田・徳川に従い,1590年(天正18)
に武蔵本庄に1万石で封ぜられ,その子信之は下総古河,その子政信は同関宿,
さらに貞信のときに美濃高須を経て,1691年(元禄4)越前勝山2万3000石に移封
され幕末に至った。
695日本@名無史さん:03/06/22 16:14
(続き)
一方,府中小笠原氏は長棟を経て長時が1548年(天文17)に
信玄と戦って敗れ,のち上杉謙信のもとへ走った。長時の子貞慶は豊臣秀吉
に属し,その子秀政は徳川家康に仕え,90年に下総古河3万石に封ぜられ,
ついで信濃飯田,同松本に移封された。大坂の陣で秀政・忠脩父子が戦死
したために,忠脩の弟忠真が家を継ぎ播磨明石10万石,さらに1632年(寛永9)
には豊前小倉15万石(小倉藩)へ加増移封され幕末に至った。同時に忠脩の子
長次は播磨竜野から豊前中津に,忠真の弟忠知は豊後杵築に,同じく弟で能見松平氏
を継いだ重直が豊前竜王に入り,小笠原氏は徳川譜代の九州進出の先兵と
なったが,転封により,幕末にはそれぞれ播磨安志藩,肥前唐津藩,豊後杵築藩主となった。
明治に至り小倉藩主家のみ伯爵,他は子爵となった。
一族には武家礼法の小笠原流を伝えた家があり,江戸時代には旗本であった。
696日本@名無史さん:03/06/22 16:52
清少納言や紫式部って、本人自体に官位が与えられていたんでしょうか?
少納言とか。

それとも、旦那さんが、少納言だから、清少納言?
697日本@名無史さん:03/06/22 16:55
【多摩地区(特に町田・八王子)の自由民権運動について】

@なぜ多摩地区(町田・八王子)自由民権運動が活発に行なわれたのだろうか?
 地理的条件や産業、運動の担い手などに注目して考えよ

A多摩地区民権運動は、やがて武相困民党を中心とする「激化事件」を
 引き起こすに至る。
 なぜこのような事態に至ったのか、またどのような行動を引き起こすに至ったのか
 当時の経済状況やこの地域の産業に注目して考えよ。

B自由民権運動の高まりはどのような成果をあげたか、あるいはあげなかったか?
 十分その目的を果たせなかった点、逆に成果と言える点があれば
 それはどんな点だろうか?

C町田の民権家が歩んだ道をこれからの日本でどう生かしうるか? 
 

レポート課題になっていて自分も調べ中なのですが
どうやってまとめればいいのかいまいちわからなくて困っています・・・
すみませんが、どなたかお手を貸してください (´・ω・`)

  
698日本@名無史さん:03/06/22 17:19
>>697
どこの大学の、何という先生のレポートですか?教えて下さい。
それが分かれば、出題者の著作を反映した回答を準備できます。
699697:03/06/22 17:29
>>698
ううう・・・ありがとうございます(´Д⊂
大学じゃなくて工房なんです
日本史のレポートでこんなん出されてしまいますた・・・
700日本@名無史さん:03/06/22 17:34
>>698
もしや関係者?
701日本@名無史さん:03/06/22 18:14
江戸時代の貧農史観は古いとか、いやそんなことはないとかいう話を見かけるのですが、
実際のところどうなのか知りたいので、今の主流の考え方やバランスの取れた良書がありましたら教えて下さい。
702日本@名無史さん:03/06/22 18:45
>>696
父親の官位ですね。
703日本@名無史さん:03/06/22 18:53
>>697
授業でやったはずでは?地元の高校ではないのですか?
704((≡ ̄♀ ̄≡)):03/06/22 18:54
いやらしいリンク集作った
http://cg.iclub.to/link/buruma/
705日本@名無史さん:03/06/22 19:19
>>702
ありがとう^^
706697:03/06/22 20:59
>>703
地元の高校です
ビデオを見せられたのでメモしながら見ていたのですが
早くて書き切れず、また書いているとビデオの内容には注意がいかず・・・
というカンジになってしまいました・・・
どなたか詳しい方いたらお願いします。
707日本@名無史さん:03/06/22 23:40
>>706 697くん。資料館があるよ。近いんじゃないの?
http://www.city.machida.tokyo.jp/shi/shisetsu/cul/cul_2_2.html

http://www.city.machida.tokyo.jp/shi/shisetsu/cul/cul_2.html

時間がなければ、このサイトはどうかな?
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/konnminn/k-tennjikaisetsu.htm
BCは、全国の動向も視野に入れ、総合的に考えるべし。
言っとくが、地域教材を授業に取り入れるには、教員の地域掘り起こし研究と、
教材化などにおける、教員の力量が必要。
そのビデオは先生の手製か?資料館や教育委員会のものか?
手製ならたいした先生だ。借りてきて見せるだけでも偉い。有名人かもよ??
708日本@名無史さん:03/06/22 23:46
>>701
「幕末農民生活誌」 同成社江戸時代史叢書・山本 光正 ¥2,800

内容(「BOOK」データベースより)
房総の一農家に発見された日記をもとに幕末期農村に暮らす人びとの
生活をありのままに描き出し、一揆や飢饉のイメージにからめとられ
た近世農民像に修正をせまる。

新書でいいのがあるらしいが名前忘れた。
「日本史の良書」スレで聞くと出てくるかも。
709日本@名無史さん:03/06/23 00:15
質問です。勘合貿易の、明の国書の中の
「日本国王源道義」なんですけど、
「源」とはどういう意味ですか?
義満の名字が「源」だということでしょうか?
ご存じの方教えてください。
710日本@名無史さん:03/06/23 00:33
>>709
武家の棟梁たる「源氏」って意味。
ちなみに足利氏は源氏一門。
711709:03/06/23 00:41
>>710
ありがとうございます。
なんで「足利」なのに「源」なのか疑問が氷解しました。
712日本@名無史さん:03/06/23 00:52
そういえば源平藤橘などと言われますが橘氏は橘諸兄以降歴史に登場してましたか?
記憶にはないのですが、この一族はどのようになったのですか。江戸期に橘氏系の大名
などいたのかな?
713日本@名無史さん:03/06/23 00:57
立花道雪
714日本@名無史さん:03/06/23 02:24
>>709>>710
ちょっと違います。
これは「氏」と「名字」の違いに起因する問題です。
足利は「名字」で源が「氏」。
「氏」はその後「姓」と混同されていきます。
「姓」とは本来「氏」の格を示すものです。
公式文書には本姓を記すので、「源」と記したものです。

715日本@名無史さん:03/06/23 02:28
>>712
大名はいないと思います。
旗本でもたしか甲斐庄氏はたしか橘氏。
716日本@名無史さん:03/06/23 03:42
>>712
政治では橘逸勢が承和の変で陥れられてから力失った。
それからは文学で名前見るぐらいだね。

>>714
確かに公式文書だから本姓記したって意味もあると思う。
でもそれ以上に天皇を除いた最高権力者として「源」を使えた、
使うことを認めさせたことに意味がある。
事実上の日本国主として認めてくれたと義満喜んだ、そうだ。
717日本@名無史さん:03/06/23 05:17
>>712
>そういえば源平藤橘などと言われますが橘氏は橘諸兄以降歴史に登場してましたか?

奈良麻呂…諸兄の子。黄文王、道祖王らと共に藤原仲麻呂の排斥を企て誅される。
逸勢…奈良麻呂の孫。三筆の一人。延暦23年の遣唐使に加わる。のち承和の変で流罪。
嘉智子…奈良麻呂の孫。嵯峨天皇の皇后。仁明天皇の母。檀林寺や学館院(氏院、大学別曹)
を創設。檀林皇后と称された。
広相ヒロミ…奈良麻呂の玄孫。文章博士から参議へ立身するも、阿衡事件の責任を問われ、失脚。

以上の4人はけっこう名が知られていますね。
橘氏は、嘉智子が嵯峨天皇の皇后となったことで藤原氏に並ぶ有力貴族となりましたが、
広相の孫である大納言好古あたりを最後に公卿に登る者はいなくなってしまいました(ただし、
室町時代には薄家という橘氏の公卿がいたとか)。

歌人で有名なのは、和泉式部の娘で、百人一首の「大江山〜」で知られる小式部内侍や、
「あらしふく〜」の能因法師(俗名は永トナガヤス)、佐為(諸兄の弟)の後裔の忠幹など。
腕っ節のたつ人としては、藤原純友を追討した遠保、清少納言の夫で『今昔物語集』にも
登場する則光などがいます。西国の武家には遠保の後裔を称するものが多いのだそうです。
718日本@名無史さん:03/06/23 05:57
あと、近世の国学者に橘姓を称する人が結構いるような・・・
橘千陰、橘守部、橘曙覧とか。
なにか理由があるのだろうか。
719日本@名無史さん:03/06/23 07:10
相模の鎌倉郡に本拠を置いた鎌倉党について。
わからないことばかりなのですが、特に気になってい
る箇所についてお教えいただければ助かります。

系図に鎌倉太郎こと鎌倉景明なる人物がいるのですが、
横に「或作景忠又景経」とあります。
    ↑
  これは「さく」と読んで苗字と考えればよいので
  しょうか?ということは信州の佐久と何か繋がり
  があるのではと思うのですが・・・・・・?

景明のいとこは後三年の役で片目を射られた権五郎景
政です。

よろしくお願いします。
720712:03/06/23 08:39
>>713 715 716 717 718 こんなに、答えてくれるとは!!!!ありがとう!!
 橘曙覧の姓は井手だそうですけど、これは徳川などが源と名乗るのと同じこと?
井手氏は橘系ということかな。
 そういえば、信州佐久に多い井出氏は橘氏だそうだ(何故知っているかと言えば
日本酒を検索してたら橘倉なる蔵元がありホームページに書いてあった)。
721日本@名無史さん:03/06/23 09:30
>>719
長尾氏は坂東八平氏(三浦、千葉、梶原、土肥、鎌倉、秩父、上総、大庭の各氏)
の一つで、鎌倉氏の一族、村岡景明が相模の国(神奈川県)長尾庄で長尾氏を
称したのが始まり。

鎌倉時代末期、上杉家の家老となり、上杉氏が関東管領になると共に長尾氏も
発展。
上杉氏が上野国と越後国の守護となると、上杉氏の本拠地は鎌倉だったので、
長尾氏は守護代として上野国や越後国で不在の守護に代わって実務を代行。

長尾氏は関東、越後にあって多くの支族に分かれましたが、もっとも有名なの
が越後長尾氏。

信州との関連性は見出せず。
1507年長尾為景(?-1536)は守護の上杉房能・顕定と戦い、これを死に追いやり事実上の越後の支配権を確立します。

722日本@名無史さん:03/06/23 14:10
>>719
>横に「或作景忠又景経」とあります。

「あるいは景忠また景経につくる」と読みます。
他の史料や系図では、「景忠」「景経」という名
になっているということでしょう。
723697:03/06/23 14:46
>>707
資料館の存在は知っているのですが、そこまではちょっと遠い&時間がもうないので
サイトを参考にさせていただきたいと思います。
ビデオはたしか教育委員会とそこの資料館の合同制作だったみたいです。
先生はたぶん有名人ではないと思います・・・
どうもありがとうございました。
724日本@名無史さん:03/06/23 15:03
>>720
京都府の井手町は橘諸兄の本拠地があったところと言われています。
今でも諸兄の墓と伝えられている場所もありますし、
橘諸兄は万葉集などでは「井手左大臣」と書かれていました。

そういうところから関連づけられたのでは。
725719:03/06/23 21:46
>>721
詳しいご説明、ありがとうございました。
支族が多くてなにがなにやらわからなくなりそうですが、
信州とは関係なさそうですね。

>>722
作は「つくる」ということなのですね。
単純な勘違いで、お恥ずかしいです。

ありがとうございました。
726日本@名無史さん:03/06/23 22:08
693さん
ありがとうございます。

金剛は知っていたんですが。。。
朝時の 相模太郎って まるで跡取りみたいですね。

北条って、八幡とか 善哉とか ○寿丸という名前のオンパレードかと
思っていました。
太郎、二郎、三郎。。。けっこう地味なんですね
727日本@名無史さん:03/06/24 02:59
>>716
>天皇を除いた最高権力者として「源」を使えた、
>使うことを認めさせたことに意味がある。
「源」には「天皇を除いた最高権力者」という意味はないし、
単純に足利氏の本姓が源氏なので「源」としただけです。
それに義満が認めさせた相手は、明の皇帝です。
明の皇帝にとって日本国王の姓が「源」かどうかに意味はありませんよ。
それに少し勘違いをしているようですが、中国や朝鮮には名字というものはありません。
つまり必ず姓を書くのです。
728日本@名無史さん:03/06/24 04:31
姓と氏だね。秦漢くらいで既に混同されてたみたいだけど。
729てつ:03/06/25 01:13
戦国時代の合戦のやり方ってよくTVとかでは「うりゃ〜!」って
切り合いしてるけどあまり強くなさそうな秀吉とかの足軽時代は
どうやって生き残ったんだろう?
730日本@名無史さん:03/06/25 01:59
部下に戦わせたんだろが
731てつ:03/06/25 02:14
でもぺーぺーの時はどうだったのでょうか?
たいした、腕がなくても生き残れるような感じなのかな?
732日本@名無史さん:03/06/25 06:16
戦国期の地侍は正規の武士とはどういうところがちがうのですか?
後、よくサイトで戦国期は兵農分離がされていないから武士と農民の区別は
あまりないなどと書かれてありますが、どの程度の区別があったのですか?
それと、郷士と地侍って何が違うの?
733日本@名無史さん:03/06/25 06:28
だいたい地侍は中世、郷士は近世
ほぼ同一
734日本@名無史さん:03/06/25 08:48
戦国時代は、大家臣でも自分の支配地(農地)を持ち、そこの領主。
そこの農地の内部のさらに、部下がいるが、彼らも所領(土地)を
持っていた。つまり、大きな区分では、武士なのだが農地からは切り離せない
存在。それを分けたのが、兵農分離。

>地侍
中世後期の村落における上層身分の俗称の一つ。地士とも表記される。
研究史上では,土豪・上層名主(みようしゆ)・小領主・中世地主などとも
いわれ,とくに一揆の時代といわれる戦国期の社会変動を推進した階層
として注目される。
中世社会の基本身分は侍・凡下(ぼんげ)・下人(げにん)の三つから成って
いたが,中世後期の村落でも〈当郷にこれある侍・凡下共に〉〈当郷に
おいて侍・凡下をえらばず〉(〈武州文書〉)というように,侍と凡下は
一貫してその基本的な構成部分であった。地侍はこの村の侍の俗称であり,
凡下の上に位置していた。侍はふつう百姓とは別のもの,武士の同義語
と考えられがちであるが,〈人夫のことは百姓役なり,百姓の儀におい
ては侍・凡下をいわず,その地につきての役所なり〉(1473年,《大乗院寺
社雑事記》)とされたように,村落において領主の耕地をもつかぎり,
侍も凡下もともに領主からは百姓とみなされた。
735日本@名無史さん:03/06/25 08:49
(続き)
戦国農村の侍には,〈奉公人,物作らず〉(〈河毛文書〉)と〈主をもも
たず,田畠作らざる侍〉(〈平野荘郷記〉),〈奉公をも仕らず,田畠を
もつくらざるもの〉(〈浅野家文書〉)というように,領主を主人にもち
軍役をつとめる侍と,主人をもたず軍役をつとめない侍とがあり,村落
のなかでは自分では田畠を作らず,とくに前者は夫役などの負担免除の
特権を与えられている場合が多かった。一般百姓も〈中間(ちゆうげん)〉
から〈かせ者〉へというようなコースで主もちの侍身分に取り立てられ
るのが名誉とみなされ,戦功の恩賞とされることがあった(〈児野文書〉)。

しかし戦国大名はやがて〈百姓等,武士へ奉公すべからず〉(1536年,
〈安養寺文書〉)というように,武士と百姓(主なしの侍・凡下)の間を
切り離そうとする政策をとるようになり,戦国末期には,大名に奉公し
軍役をつとめる侍・凡下が軍役衆=兵であり,主なしの侍・凡下が百姓=農
であるという新しい基準をもつ,いわゆる兵農分離の身分制度の形成
される方向が現れてくる。この方向を制度として展開したのが豊臣政権で,
〈侍・中間・小者・百姓〉などの奉公人が主人に無断でその関係を変更すること
は禁止され(1588年,〈浅野家文書〉),〈主をももたず,田畠作らざる
侍共〉は農村から排除さるべきものとされた(1590年,〈平野荘郷記〉)。
この政策は江戸幕府に受け継がれ,村には侍株・侍分など百姓と区別される
家柄は残るが,中世的な侍の身分と主なしの地侍の存在は公の体制としては
否定された。近世初期の村落にすむ主もちの侍は,〈侍・中間・小者・
あらしこ〉などと一括して呼ばれたように,武士身分でも百姓身分でもなく,
武士奉公人中の上位者(若党か)の呼称とされるにいたる。      
736732:03/06/25 12:30
>>734-735 ありがとうござりまする!!!
737日本@名無史さん:03/06/25 12:32
こういった情報はいかがなものでしょうか。

http://www.goodkey.net/~yuryoudeai/open.html
738日本@名無史さん:03/06/25 12:43
司馬遼太郎の本の庄屋門に関する記述で、庄屋門とは地侍がそのまま帰農した
場合は別として、普通は長い期間の献金の結果苗字帯刀の許しを得たら建てることが
出来ると言う記述がありましたが、田舎に行くと結構庄屋門(元庄屋で見せてる)
見ますけど、そんなに献金した家が多かったの?
 地侍がそのまま帰農したら、苗字帯刀許されていなくても門が建てられるという
ことですか?その理由を教えてください。(元地侍優遇に関して)
739日本@名無史さん:03/06/25 13:56
足利家って江戸時代は何やってたの?旗本かなんかになったの?
740日本@名無史さん:03/06/25 15:12
>>739
喜連川氏で調べてみてください
741日本@名無史さん:03/06/25 15:26
742日本@名無史さん:03/06/25 15:40
くだらない質問だと思いますが坂田金時とか金平とかって人は
実在の人物だったのでしょうか?
その功績(?)はともかく存在はしていたと信じてたのですが
某所で否定され改めて疑問になったもので。
743739:03/06/25 16:49
>>740-741 ありがとう! ついでといちゃーなんだけど執権北条家は?
744本の受け売りですが:03/06/25 17:46
>>742
とりあえず、坂田金時こと下毛野公時は実在の人物です。

近衛府の下級官人で、『今昔物語集』などでは源頼光の従者となっていますが、
藤原道長の随身も務めていました。『小右記』には「騎射堪能」とあり、
道長の『御堂関白記』にも「只今、両府の者中第一の者」とあって、
武藝に相当秀でた人であったと分かります。
745日本@名無史さん:03/06/25 20:34
>>744
アリガdヽ(´▽`)ノ
746日本@名無史さん:03/06/25 21:11
農民が浪人を雇って村を守る、なんて『七人の侍』みたいな話は現実にあったんですか?
747日本@名無史さん:03/06/25 21:13
>>738
現存の庄屋門のほとんどは、明治になって制限が取れてから、豊かな農民が
見栄で作ったものだそうです。
748日本@名無史さん:03/06/25 21:23
家のじいちゃんが頑固に主張しています
本当はどうなのでしょうか?

・坂本竜馬は新撰組に殺された

・殺されたのは池田屋事件の時である
749日本@名無史さん:03/06/25 21:38
江戸時代、
京〜江戸 の交通で、東山道(中山道)と東海道と、どっちが主幹線道として
交通量が多かったのでか?
また、徒歩や馬で速く着くのどっちですか?
750日本@名無史さん:03/06/25 21:54
>748
坂本竜馬は同じ土佐藩の後藤象次郎の命を受けた者が
殺しました。(仮説)
近江屋の間違いです。
751748 :03/06/25 22:09
どうも、仮説って事は
他にもあるんでしょうね。
坂本殺しの話が。
家のじいちゃん、説明しても
納得してくれないんですよね。
大変です(w)
ありがとうございました。
他の仮説も調べてみます。どんなのがあるのかなー。
752日本@名無史さん:03/06/25 22:18
東海道のほうが多かったでしょう。早く着くのも東海道です。
東海道は、江戸・京都間が126里6町余。
中山道は、江戸・京都までは135里34町余,東海道に比べて9里28町余長い。
中山道は日光例幣使や皇族の東下のおりにも利用された。
宿の施設は東海道が一番、二番目が中山道。
753701:03/06/26 14:48
>>708
遅レスですが、ありがとうございます。

ついでに>>746
リアルな侍を描こうと資料をつついているうちに、そういう話を発見して、そこから映画を作った、という話をどこかで聞きました。
754日本@名無史さん:03/06/26 23:34
>>746
農民は武装してたでしょ。あれは、戦国期でしょ。
国人や地侍がいたはず。豪農なら、武装集団を抱えていた。
755日本@名無史さん:03/06/26 23:35
五代厚友ってどのくらい有名ですか?
織田信長を100して相対値でお願いします?
756日本@名無史さん:03/06/26 23:50
>>755
失礼ながら五大友厚ですか?
それなら、一ケタでしょう。普通の人はほとんど知らない。
757709:03/06/27 00:46
亀レスすみません。
う〜ん、名字とか姓とか氏とか色々とややっこしいんですね。
実は姓と氏とかよく違いが分からないんですが…w
とにかく回答してくださった方々ありがとうございました。
758日本@名無史さん:03/06/27 16:31
日本刀って、どれぐらい斬れるもんですか?
使い手のもよると思いますが。

石灯籠斬ったとか、備前長船で、重機関銃斬ったとか、耳にしたことが
ありますが、ソースが見つからないし、イマイチ根拠に欠けるのできいてみました。

それと、良く耳にする事ですが、3人くらい斬ったら、血と油で斬れない。
とか聞きますが、誰かが実験?とか証明とかしたのでしょうか?
759日本@名無史さん:03/06/27 16:39
戦国と幕末(明治維新)ってどっちの時代が人気あるんでしょう?
760日本@名無史さん:03/06/27 19:22
>>756
ん?五代友厚は五代友厚じゃないの?
北海道開拓使払い下げ事件とかに関係した。
まあ確かに 信長100:1五代 ぐらいの知名度だろうけど。
761日本@名無史さん:03/06/27 19:55
>>759
男=戦国
女=幕末

なような気が。
全体的には戦国の方が人気はやや上かなぁ。
762日本@名無史さん:03/06/27 21:52
>>758
石や機関銃は、常識的には切れないでしょう。
何人切れるかは、切り方にもよります。
深く内臓まで切ったり、骨を切れば、切れ味は落ちます。
捕虜を並べて、頚動脈だけ刺していくのなら結構な人数はいくでしょう。
首を切り落とす必要は、戦国時代ならあるでしょうが、近代戦ではないですから。
763日本@名無史さん:03/06/27 22:05
>758
石灯篭や機関銃を切ったのは緋村抜刀斎です。
刀は備前長船ではなく、新井赤空(あらいしゃっくう)作の逆刃刀です。
764日本@名無史さん:03/06/28 09:56
緋村抜刀斎ってのは、アニメのキャラかな?
765日本@名無史さん:03/06/28 11:01
小林一茶の俳句で「堪忍袋やぶれたか」と詠まれているのは、
どの鳥の声ことでしょうか?
766日本@名無史さん:03/06/28 15:38
>>742
亀レスですが、坂田金平のほうは草双紙や浄瑠璃で活躍する架空の人物です。
喜多川守貞の『守貞謾稿』(嘉永六年成立)によると、次のとおり。

「百五、六十年以前より、金平と云ふ物を作り出し、冊子にも浄瑠璃等にも、
専ら行はれしものなり。この金平と云ふは、頼光の四天王と称すは、貞光、
季武、保昌、綱、公時を加ふ。頼光の□□頼義の時、前の四天王の子と号し、
武綱、貞兼、季宗、金平と云ふ名を作り設け、なかんづく金平剛力無比のこと
を著述する物多し」
767日本@名無史さん:03/06/28 17:43
>>765
「鵙の声 かんにん袋 破れたか」 小林一茶
鵙=百舌鳥・百舌=もず

「もず」のようです。
768高校3年:03/06/28 18:04
大学で日本史専攻をとりたいのですがよっぽどの覚悟がなければやめておいたほうがいいでしょうか?

769日本@名無史さん:03/06/28 18:07
>>768
覚悟って何の覚悟?

大学卒業するだけだったら大して心配する必要もないと思うが
770日本@名無史さん:03/06/28 19:44
日韓国交正常化交渉をした首相って誰ですか?教えてください
771高校3年:03/06/28 19:57
>>769
あんまりむちゃくちゃ苦労はしたくないんで・・
けど歴史は好きなもんで
772日本@名無史さん:03/06/28 20:24
>>770
日韓条約の調印は1965年12月。
1964年11月から首相は佐藤栄作(1期)。
773日本@名無史さん:03/06/28 20:36
>>772
ありがとうございました。助かりました。
774日本@名無史さん:03/06/28 20:40
>>771
何を持って無茶苦茶な苦労というのかわからんので答えようもないが
他の分野を専攻している人並みのことができれば大学は出れるよ。

文章や論文読むのはいやだとか文章能力にまったく自信がないというならちょっと苦労するかも知れんけど。

それと歴史好きと歴史研究がすきになるかはわけて考えた方がいいんじゃない。

誰かが調べたりまとめたりしたことを吸収するのがすきでも
調べたりする方に回れるかは別の話しだし。
775高校3年:03/06/28 22:48
そうか・・・
地理学と日本史学をかなり迷っていまして。。。
法学部とかいったら修羅場になりそうやから・・
776日本@名無史さん:03/06/28 23:04
北海道に開拓に来て地主になり、戦後お上に没収されたものの
子孫ですが、北海道では地主と小作人の差はどこで生まれたの
でしょうか?開拓者という点ではスタート地点では同じだと
思うのですが。



777日本@名無史さん:03/06/28 23:33
没収?買い上げじゃねーの?
778日本@名無史さん:03/06/28 23:35
>>777
買い上げといっても全然割にあわない額で国に買い取られたわけで。
779日本@名無史さん:03/06/28 23:46
>>775
地理と日本史ですか。
理数系を極度に嫌ってないなら、地理の方が将来旨みがありそう。
よう知らんけど、地理に行っても相応の日本史は学べると思うし。
それに地理から日本史なら応用できるしね。
780日本@名無史さん:03/06/29 00:13
ペリー来航後の貿易や条約について教えてください。
日本修好通商条約ってなんですか?
781日本@名無史さん:03/06/29 00:45
>>778
その前に高利貸しで地主に取られたんで無いの?
782日本@名無史さん:03/06/29 00:52
776と778は同じ人間です。表現が良くなか
ったようで別な点にレスが来ていますが、
聞きたいのはその後ろの部分なのでお願いします。

北海道では地主と小作人の差はどこで生まれたの
でしょうか?開拓者という点ではスタート地点で
は同じだと思うのですが。

783日本@名無史さん:03/06/29 00:55
夏です  病気が怖い  そんな時はこれ
簡単に誰でも自宅でなめるだけのエイズ検査薬・キット、oraquickはここで
在庫に限りあり月300個までの限定、お申込み出来ない場合翌月に!!!
彼氏を、彼女の浮気をチェック!?1本の赤線ならokです!
http://www.labora.jp/hiv/index_pc.html
http://members.goo.ne.jp/home/oraquick
784日本@名無史さん:03/06/29 00:58
・公爵と子爵って同じものですか?それとも違うものですか?
・公爵や子爵の家系を調べるには、どのような本が最適でしょうか?
 事典みたいなものがあればよいのですが
785日本@名無史さん:03/06/29 01:03
侯爵公爵伯爵子爵男爵
公爵は一番目か2番目で子爵は4番目。
786日本@名無史さん:03/06/29 01:09
公侯伯子男の五爵は、周の爵位。堯や舜も五爵だったらしいけどね。
787日本@名無史さん:03/06/29 01:39
>786
華族令(明治40年皇室令第2号). 第一条 凡ソ有爵者ヲ華族トス 2 有爵者ノ家族ハ華族ノ族称ヲ享ク. 第二条 爵ハ公侯伯子男ノ五等トス.
日本でも公侯伯子男の五爵だとおもったが。
788日本@名無史さん:03/06/29 01:59
>>786は起源の話れす。北斉や後周も公侯伯子男でしたし。
789日本@名無史さん:03/06/29 08:34
>>780
>日本修好通商条約
まず、教科書や辞典で調べてから再質問を。検索でもあるだろうし。
790日本@名無史さん:03/06/29 08:46
>>782
政府の思惑は、独立農民と大規模農民の創立だったようですが、
開拓に大資本を投下した人が地主となってしまい、結局、内地の
構造の再生産になってしまったようです。金だけ出して、小作を働かす
開拓投資家がいたようです。これが地主となったようです。
つまり、かなり初期から、農民内で階層の差があったようです。

自由な土地取得と大農経営による開拓という方式は実現せず,土地生産力
の較差を考えれば内地農村と大差ない小規模農業と,
開拓投資者という性格を含めた大地主の支配下の小作制とが現実化した。
外来技術および農法の影響といっても,それは限局されたものであり,
基本的には日本農業および日本の社会組織の一般的な特質に規定された。
791日本@名無史さん:03/06/29 09:08
>>784
華族一覧表。
http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku.main.html

国会図書館検索
1. 皇胤志. 第4巻 / 木村信行. -- 日本歴史研究所, 1996.5
2. 昭和新修華族家系大成. 上 / 霞会館諸家資料調査委員会. -- 霞会館, 1982.3
3. 昭和新修華族家系大成. 下巻 / 霞会館諸家資料調査委員会. -- 霞会館, 1984.4
4. 昭和新修華族家系大成. 別巻 / 霞会館諸家資料調査委員会. -- 霞会館, 1985.8
5. 平成新修旧華族家系大成. 上巻 / 霞会館華族家系大成編輯委員会. -- 霞会館, 1996.9
6. 平成新修旧華族家系大成. 下巻 / 霞会館華族家系大成編輯委員会. -- 霞会館, 1996.11



792日本@名無史さん:03/06/29 10:14
漠然とした質問で悪いのですが
昔の人の「名前」ってどうなっていたのでしょう。

結構ころころ改名してるしミドルネームのようなものもあるし。
足利義教はその前に義宣って名乗ってるし。
この名前は気に入らないから今日から変えようって今では簡単に出来ないけど
昔は出来たんですか?
それに明智十兵衛光秀とか、この十兵衛ってミドルネームは何なんで
しょうか。
武士ではない人の名前はどうなんでしょう。
漫画「犬夜叉」みたいに反骨とか変な名前も多かったんですか?
793784:03/06/29 12:22
>>785-788>>791
どうもありがとうございました。
とても勉強になりました。
794日本@名無史さん:03/06/29 12:24
>>792
ここに名前専用擦れありまつ
 ↓
◇◇◇名前の歴史◇◇◇
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1052548268/
795日本@名無史さん:03/06/29 12:53
>>790
どうもありがとうございました。勉強になりました。

796日本@名無史さん:03/06/29 12:58
安部公房の榎本武揚が世間で言われている榎本と違って面白かったが、
この本での榎本は事実なのだろうか?読んでみると榎本ははじめから
負けるために戦っていたというのだが。

797日本@名無史さん:03/06/29 13:43
まぁ、そこが歴史小説の面白いところでもあり、いろいろ解釈や想像力
が膨らんで楽しいのではないかな。
榎本武揚は、列強相手に幕府との交戦団体として認めさせるために、
いろいろ技を使って、北海道政権を認めさせようとしてるから、
わざと負けたってことはないと思うが。
北海道に、政府参加後も、こっそり慰霊碑を作ってた記憶が。
798日本@名無史さん:03/06/29 13:44
あ、ほんとだ。>>794 ほとんど80%ぐらい問題解決。
有難うございました。
799日本@名無史さん:03/06/29 13:56
>>792
日本では特に複名が多く,諱(いみな)(名乗(なのり))のほか,幼名(童名(わらわな)),
通称,字(あざな),別号(候名(さぶらいな),芸名,源氏名,筆名,雅号,
画号,俳号,狂名,等々),渾名(あだな),法名,戒名,諡(おくりな)等々が
同一人に対して用いられることが多い。
滝沢馬琴の公式の名は源興邦(おきくに)であるが,彼は本名のほか34の名
をもっていたことで知られる。
西郷隆盛についていえば,氏姓は平朝臣(たいらのあそん),家名は西郷,
幼名は小吉,諱は隆盛,通称は吉之助,雅号は南洲である。

鎌倉時代から南北朝時代にかけて上流社会の男性は,公家,武家とも,
氏名+諱を公式の名とし,家名+通称を日常の名とした。
男性には,通称(呼名)がつけられた。元来これは,実名敬避の習俗を
背景としているが,太郎,次郎,三郎など排行(はいこう)(年齢順の数
による称呼)が古い型式の通称であった。
平清盛の通称の〈平太〉は,平氏に生まれた一男の意味である。

十兵衛は通称でしょうか。

室町時代から江戸時代にかけて,庶民は家名を失い,名だけで呼ばれた。
江戸時代において商人の場合には,屋号を名の上に冠したが(越後屋八郎右衛門,
俵屋藤兵衛のように),家名を称するには許可が必要であった。
徳川三百年の泰平にあって文運が隆昌するにつれて諱や通称のほかに,
多種多様な異名が用いられた。
800日本@名無史さん:03/06/29 14:50
 天領は藩領より、格式が高くおかれていたそうですが、天領における庄屋
や郷士は藩領のそれと比べてなにか特権のようなものは、あったのでしょうか?
801日本@名無史さん:03/06/29 15:01
>800
別に無い
802日本@名無史さん:03/06/29 16:22
「庶民で武士と同様に名字を持つことを許されたのは、由緒ある郷士」とありま
すけど、由緒無い郷士って何者?
803高校3年:03/06/29 18:27
けど日本史専攻とかしても就職ないですよね・・・・?
804日本@名無史さん:03/06/29 18:58
>>799 ふわ〜〜〜〜。そんなにたくさん名前が〜〜〜〜〜〜。
ややこしい〜。
有難うございます、保存しておきます。

イギリスの昔のケルト民族が本名を知られると支配されるからと
普段は隠していたとか聞いたし、安部清明も名前を付けるって
呪をかけることだって言ってたし(漫画と映画で)(^^;ゞ
なんかあるのかな〜名前って・・・。
805日本@名無史さん:03/06/29 19:13
宮崎学の戦後のやくざなどを描いた突破物などの本はどの程度
信頼していいのでしょうか?
806日本@名無史さん:03/06/29 20:47
>>803=775
地理学に行けば就職あるとでも?(藁
807日本@名無史さん:03/06/29 21:09
意味の無い煽りだな
彼は一言もそんなことを言っていないのに
808日本@名無史さん:03/06/29 21:11
>>804
諱(いみな)
中国や日本などで,生前の実名をいう。死後,実名を忌んで口にしない風習
より生じた。秦代に始まるとするのが郭沫若の説。のち転じて生存中の名も
忌むようになる。
名を諱と称する例は漢代からあり,日本でも貴人を敬うときに認められる。
諱は,皇帝にかかわる国諱(こくき)についてとくに厳格だが,六朝時代には
家諱(かき)の風が流行し,嫌名(けんめい)(似た名の避諱)にまで及んだ。
避諱のために,一般には代字を用い,ときに欠字,欠画などを行う。

中国から来た風習のようですね。名前を使うと相手に失礼と言う意味合いと、
不吉を呼ぶとの意味合いがあるようです。
809日本@名無史さん:03/06/29 21:20
>>805
わりと信頼できるのかなと思います。
というのは、彼はつい少し前まで、某新左翼過激派のスパイを公安に
流していて、それがばれて、某過激から、「断固粉砕せよ」と糾弾されて
ます。
810日本@名無史さん:03/06/29 21:50
>>808
いみなって単に死後に贈られる名だと思ってましたよ。
生前の実名かあ・・・。そういう意味を含んでたんですね。
西洋にも昔は 「本名」というものにその人自身が縛られ
知られるとやばいってんで隠す考え方があったみたいだし
もしかしたら世界の古代?は「名」に対する不思議な力を
信じてたのかも・・・とか思ったり。違うかもしんない。

有難うございました。

811日本@名無史さん:03/06/29 21:54
忌み名、、、、俺子供の頃に親に聞いたけど忘れた
二っ度と聞いては駄目らしい(恐
812高校3年:03/06/29 22:38
そうですね
どっちみち多分就職はあんまないっぽいのでどっちでもいいか
813日本@名無史さん:03/06/30 02:03
実名を隠すのって世界的にあるよね。
万葉集でも女性の名前を聞くということは求婚を意味していたし。

いわゆる言霊思想のひとつでしょう。
口に出す、書き記すことでそのものに意味をもたせる。
814日本@名無史さん:03/06/30 09:01
>>810
死んだ後は「贈り名」なりよ。
815802:03/06/30 11:06
>>802 わからないすっかね?
816日本@名無史さん:03/06/30 11:33
孫逸仙 いっせんは本名、ご本人はそう呼ばれるのをいやがった。
文、あるいは 中山。


817日本@名無史さん:03/06/30 16:17
>>815
郷士は大体が名字帯刀でしょう。
中世からの旧族の郷士も、土地開発などに金を出した農民の取り立て郷士も
名字帯刀と思います。
維新後は、ほとんどが士族になっています。
818802:03/06/30 17:41
>>817 ありがとうございます。
  >>郷士は大体が名字帯刀でしょう。
  僕もそう思うから、不思議なんです。
819日本@名無史さん:03/07/01 03:16
>>802>>817>>818
郷士は必ずしも名字帯刀ではありません。
たとえば八王子の千人同心は、身分は百姓であり、ふだんは名字帯刀できません。
ふだん名字帯刀をして罰せられた例もあります。
「由緒」とは何か考えてください。

例に出ている「庶民で武士と同様に名字を持つことを許されたのは、由緒ある郷士」というのは曖昧な表現です。
厳密にいえば正しいといえません。
820日本@名無史さん:03/07/01 03:31
藩校小倉の日新館と会津の日新館は何か関係があるのでしょうか?
821日本@名無史さん:03/07/01 04:22
>>820
皇敵奸臣
822日本@名無史さん:03/07/01 05:01
由緒正しい郷士というのは、先祖が武家であった郷士。
823802:03/07/01 08:25
「         【小噺(六)】 〜苗字帯刀の特権〜

 戦国期を経て、武士の名字が世襲によって固定化する一方、徳川の幕府体制
の確立で、庶民の名字使用に制限が加えられました。

 秀吉の太閤検地と刀狩りで「兵農分離」政策が進みましたが、幕府は更にこ
れを徹底させ、「苗字帯刀(みょうじたいとう)」をもって武士の特権としま
した。いわゆる「士農工商」の身分制度です。

 庶民で武士と同様に名字を持つことを許されたのは、由緒ある郷士・庄屋・
町年寄・名主・御用商人・本陣などの役柄のある家、学問・治世の功労者など
に限られていました。

 しかし、武士から大百姓に転換させられた者や地主クラスは、依然として祖
先伝来の名字を私称する例が多く、それ以外にも、村の祭りや行事の寄進帳に
通称として名字を書く家も少なくありませんでした。           」
 あるサイト(メルマガか?)にこういう記述があったので、気になったのです。
あと、1年程前まであったあるサイトでは、上州の郷士は苗字帯刀が許されて
いたので維新後士族の班に列したと言う記述があったように思います。苗字帯刀が
許されていない郷士(上の記述でいえば千人同心)は士族には列しなかったのかな?
 もうひとつ、何某は郷士の身分ながら苗字帯刀が許されたという記述も時々
散見(これは何かしらの小説かもしれません)するので、???と思うので
質問してみたのです。詳しい方いらっしゃいませんか?
824日本@名無史さん:03/07/01 08:39
同心はかつての農民名主層で、江戸期では警察の下部組織。
江戸の町奉行配下の同心(町同心)について述べれば,定員は中期で南北各100名
(幕末には各140名),身分は御家人で,形式上は一代抱えであるが,
事実上世襲の職。
江戸の同心は、御家人身分。当然に名字帯刀。
825802:03/07/01 08:48
上述の庄屋・名主なども江戸の町名主などは苗字帯刀だったそうですが、
庄屋などを調べてみるとOOの功績により苗字帯刀が許されたなどの記述
があるので???なんです。
 壬生郷士を調べると、かつての名主層などと書いてあるので、又???
となってしまうのです。
826日本@名無史さん:03/07/01 09:58
庄屋層の新田開発などによる名字帯刀許可は、体制側による融和策でしょう。
壬生郷士のかつての名主層と言うのは、中世の有力権威権力層を、体制側に取り込んで
いったものと思われます。

超古い本でこんなのがあったが…。
「郷士制度の研究」小野武夫著・大岡山書店・1925
天地書房という古本屋で15,000円です。
国会図書館にはあります。内容はわかりませんm(_)m





827日本@名無史さん:03/07/01 18:45
「郷士家筋由緒アル者ハ士族ニ入籍(明治5年太政官布告第44号)」
こういうのがありましたが・・・。
 ttp://duplex.tripod.co.jp/kan/kan.htm
828日本@名無史さん:03/07/01 19:02
確か太政官布告に任官中の平民も士族として扱うってなかった?
この任官つまり官職ってどこから?
829日本@名無史さん:03/07/01 19:40
なぜ日本史の教師は一般的に言う右翼
世界史の教師は左翼になるのでしょうか?

日本と世界の考え方の違いということの問題なのでしょうか?
830日本@名無史さん:03/07/01 19:52
>>827-828
郷士取り立て中の平民も含めて、ほとんどの郷士は士族になれたようです。

>>829
一般化はできないのでは?
私の、高房時代の日本史の先生の机上には、ものすごく分厚くでかい
「戦う理論家・トロツキー」全三巻が、バーンとおいてありました。
日本高校教職員組合は反トロツキーだから、彼は極左だったんですね。

現場では、いわゆる右の自由主義史観シンパは、ほとんどいないそうです。
831日本@名無史さん:03/07/01 20:16
普通、高校教師って世界史も日本史も教えるだろ
832日本@名無史さん:03/07/02 02:22
>>825
>上述の庄屋・名主なども江戸の町名主などは苗字帯刀だったそうですが、
>庄屋などを調べてみるとOOの功績により苗字帯刀が許されたなどの記述
>があるので???なんです。
なにが???かよくわからないけど、「庄屋・名主=名字帯刀」ではありません。
基本的に農民は名字をなのれません。

> 壬生郷士を調べると、かつての名主層などと書いてあるので、又???
>となってしまうのです。
これもなにが???かわからないけど。
833日本@名無史さん:03/07/02 10:22
>>832 質問に答えてくれてありがとうございます。
 上記に関しては、司馬遼太郎(『この国のかたち(二)』 一風景)のなかに
「幕藩体制での名主(庄屋)は、ふしぎな存在だった。士農工商でいえば農なのだが、
晴れの日には、大小を帯び、武士の姿をする。むろん、多くは姓も公称した。
しかもその屋敷たるや、小藩の家老屋敷のように大きく、土塀をめぐらし、
長屋門(ながやもん)などをかまえていた。門を入ると、玄関があり、
式台(しきたい)があり、また、座敷は書院造りだった(ただの百姓屋敷は、
門も玄関も書院座敷もゆるされなかった。それらが付属しているということが、
「苗字帯刀」のしるしだったのである)」
とあり、>>823 に名字をもつことが許された庶民に名主があったので、庄屋・名主=名字帯刀
ではないかと思ってしまったわけです。


 


 
834日本@名無史さん:03/07/02 10:31
 下記に関しては、
 ttp://james95.hp.infoseek.co.jp/photo/kyoto/photo-mibudera.htm
 に壬生郷士と称するかつてのこの地域の名主層とあるので、今でもよく
わからないのですが、この名主層というのは庄屋郷士のようなもの?
835日本@名無史さん:03/07/02 10:47
>>834
中世の名主「みゅうしゅ」階層だったということでしょう。
中世での在地武士層が近世で郷士となったのではないでしょうか。

あと、現存する長屋門は、ほとんどが明治に作られたものだそうです。
庄屋・名主(なぬし)で、新田開発などの貢献が大きかったものや、中世に地侍
だったもので支配機構として協力したものには名字帯刀が認められたようです。

地方役人として農民では最高身分の「大庄屋(おおじょうや)」は、永代名字帯刀御免です。
1713年に天領では廃止されましたが、藩領では幕末までいたようです。
藩によっては、下級役人より実力が上です。
836日本@名無史さん:03/07/03 11:10
age
837日本@名無史さん:03/07/03 18:02
>>835 詳しく、ありがとうございます。
 でも、庄屋=苗字帯刀と思ってる人、結構いますよね!!叔父なんか家は
名主だから苗字帯刀だなんっていってましたけど、名主だからといって苗字帯刀という
ことはないんですね!!(戦前まで蔵一つ全部刀だったらしいですけど!何に使ったん
でしょうね?刀狩にあわずに大昔のが残っていたんですかね?)
838日本@名無史さん:03/07/03 18:49
大至急教えてください!
ヤマト王権時代、何故ヤマト王権が屯倉に田部を配置したことで
地方豪族への支配を強めたのですか??

教科書には、ヤマト王権は大君やその一族への奉仕や貢物をおさめさせる
名代・子代を設け、直轄地である屯倉には田部を配置して、地方の豪族への支配を
強めた。としかないんです…
839日本@名無史さん:03/07/03 19:31
840日本@名無史さん:03/07/03 19:35
>>838
租税をもれなく遅延なく納めさせることが、支配強化でなくて何というんだ?
841日本@名無史さん:03/07/03 19:48
>>840
ありがとうございます。

もう少し聞きたいんですけど、何故田部をおくことが
租税の確保につながるのでしょうか?
842日本@名無史さん:03/07/03 19:59
>>841
田部は屯倉の田地の耕作者として,その周辺の地方豪族配下の農民を
恒常的臨時的に割きとったものであると考えられる。

つまり、豪族の農民を取っちゃったってことかな。
843日本@名無史さん:03/07/03 20:12
>>839
長屋門は怒られるから、門長屋ですか。
なるへそね。人民は強しですね。富農だったんでしょうね。
庄内平野の本間様の屋敷ってどうだったんですかね。見てみたい。
844日本@名無史さん:03/07/03 20:22
>>697
町田や八王子は街道筋であり、産業としては養蚕業が盛んだった、
というのが重要だと思う。
困民党事件が起きたのは、生糸の相場が崩れたから。
自由民権運動は、その後、右翼活動と左翼活動に分れる。
右翼活動は頭山満が代表的。国権的運動となり、1920年代以降の
軍の暴走を民間から支援することとなる。
左翼活動はアナキズム運動と共産主義運動に至り、大正期には
かなり広範な活動となるが、1920年代末、世界恐慌の元、日本国内では
弾圧され消滅する。
845日本@名無史さん:03/07/04 07:57
お公家さんの言葉ってどんなものだったのでしょうか?
お公家さんは皆自分のことを「まろ」って呼んでたのですか?
「・・おじゃる」「・・・おじゃります」って言ってたのですか?
「私」「おれ」とかは使わなかったのでしょうか?
846日本@名無史さん:03/07/04 09:13
>>845
使ってたみたいですね。室町前半に御所言葉が定着したようです。
以下、参考に。あまりのってませんが…。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/1346/family.htm

http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/gengo/petit/petit_04june2001.htm
847日本@名無史さん:03/07/04 10:26
幕末に庄屋格なるものが献金(十両前後)によって、手に入ったそうですけど、これって
何かメリットはあるんですか?
 もうひとつ、割番格(二十両前後)ってなんですか?
848日本@名無史さん:03/07/04 10:40
名誉職および、共同体内での権威づけでしょう。
番格と言うのは禁裏の同心の下っ端みたいな感じです。
そこから類推するに、奉行組織の下部構成員ではないでしょうか。
849日本@名無史さん:03/07/04 11:30
>>848 サンクス!!
850日本@名無史さん:03/07/04 11:48
>>846
有難うございます。見に行ってきました。面白かったでおじゃります。
851日本@名無史さん:03/07/04 14:20
>>850
どういたしましてで、おじゃりますw。
852日本@名無史さん:03/07/04 17:13
二人称でも三人称でも「まろ」とは驚いたでおじゃるよ!
853日本@名無史さん:03/07/04 17:34
「私とあなたと彼は友だちです。」という言葉は
「まろとまろとまろは友達でおじゃる」となるのか?
訳わからんがな。
854日本@名無史さん:03/07/04 23:11
>>845
お父様はおもう様
お母様はおたあ様とか呼ぶそうな
855拍手君:03/07/05 22:53
拍手の由来や使い分けを教えて下さい。
お寺の説教では拍手は禁止?
能は禁止?
他の演劇など?
拍手は日本古来のものではない?
詳しい方よろしくお願いします。
8569107:03/07/05 22:54
857日本@名無史さん:03/07/05 23:21
創氏改名について聞きたいのですが、
これは、実際は苗字を作っているだけで、氏では無いですよね?
本来、氏というのは本貫と同じようなものだと考えて良いのでしょうか?

それと、創氏であって、本貫が廃止された訳ではないと聞きますが、
ということは、例えば本貫が金海金氏の人が金本と言う氏を作った場合、
金金本なにがし、というのが正式名称に成ったという事なんでしょうか?
858聞きかじりさん:03/07/06 06:25
>>857
韓国の姓名・家制度は日本とは違って、妻は実家の姓を名乗る。
同姓不婚ですからね。

日本では、婚姻すると同じ姓を名乗り、一つの「家」を作る。
日本の「家」制度は明治民法で規定された、国家機関の末端だ。

創氏改名は、韓国の血族制度を否定し、日本の「家」制度に組み込む、
という点にポイントがある。
はず。
859聞きかじりさん:03/07/06 06:26
もっと詳しい人がいたら説明してあげてください。
860日本@名無史さん:03/07/06 10:24
>>855
かしわでは、日本独特のようです。古代に天皇即位儀式に、35回打つとありました。
新羅の客人が来たときは、客に気を使い回数を減らしたそうです。

>柏手(かしわで)
神を拝むとき,両掌を打ち合わせて音をたてる作法。単に拍手(はくしゆ)あるいは
開手(ひらで)ともいう。
拍手は元来歓喜,感動などの表示とされるが,度数や形式を定めて行うのは
世界にも類例のない神拝作法であるという。一般の神社祭式では2度打つのが
普通であるが,伊勢神宮のように八開手(やひらで)と称して8度打つ場合もある。
古くは朝儀にもこれを行い,賜物,捧物(ほうもつ)などの場合や飲食をとるに
あたってもこれを行った。
    
861日本@名無史さん:03/07/06 10:27
拍手は、中国伝来のようです。

>拍手
一般に両手を打ち鳴らす拍手は,歓迎,共感・賛意・賞賛,誓約,歓喜・
感激・感謝などの感情を表現する身体的動作で,手拍子(てびようし)も
拍手の一種である。
古代中国の《周礼》九拝の第四には〈振動〉といって両手を打つ礼があった。
密教儀礼の壇上作法の一つである拍掌(びやくしよう)は,魔を除いて諸仏
を歓喜せしめる意で,3度両手を打つ。最初の2度は軽く手を合わせるだけで,
最後は音をだして打つ。
3度打つのは修行のさまたげになる惑(わく)・業(ごう)・苦(く)の三障(さんしよう)
を取り除くことを意味する。
神道では神拝作法で,ひらで(開手,平手),やひらで(八開手),てうち,
かしわでともいう。
折口信夫によると,平安期の大饗(おおあえ)と名付けられた饗宴には正客
が正席につくと,列座の衆が拍手するのが本式で,宴(うたげ)とは
〈うちあげ(拍ち上げ)〉で礼拝を意味したが,時代を経るにしたがって
饗宴全体をあらわし,ついには酒宴をさすようになり,これが饗宴の主要部
を構成すると考えられるようになったという。
862日本@名無史さん:03/07/06 10:37
>>857
戸籍上、氏を変えたわけですから、氏が変えられたと言うべきではないかと。
金本という氏に変わったということです。
ちなみに、創氏は100%、改名は8%前後です。
洪を洪のまま、氏にした人もいます。家族が洪という戸籍に入るわけです。

1939年11月朝鮮民事令改正という形で創氏改名が公布され,翌年2月から
施行された。
創氏改名は,(1)氏の創設,(2)朝鮮人が日本式に名を改める道を開く,
という二つの部分からなっていた。
(1)は,従来朝鮮社会が男系血統とその血族団体を基本構成とし夫婦別姓
であったのを改め,戸主を中心とする家の観念を確立するものとされ,
(2)は同時にその際日本式に改名するものとされた。
(1)は全朝鮮人に適用され,(2)は任意とされた。

1945年8月15日に、半島ではいっせいに全員が放棄して戻しましたから、
反感は感じてたようです。
また、創氏後も内部では、日本官憲のいないところでは、もとの朝鮮名で
呼び合ってたようです。
863日本@名無史さん:03/07/06 11:39
創氏改名の問題は、まず前提として日本と朝鮮の「氏」の捉え方の違いを考慮する必要があると思います。
日本では明治以降、氏・名字の区別がなくなりました。
つまり本来の氏である、藤原、源がほかの田中、宮本などの名字と同列となりました。
朝鮮では名字はありませんので、たとえば氏を変えるということは基本的にありませんので、
区別をする意味で本貫を重視するようになりました。
いわゆる創氏改名は、日本領になった朝鮮において、日本式の戸籍制度を用いようとするものです。
ですから、氏を変えるという意味ではなく、むしろ氏のほかに苗字を創出する行為と捉えるべきです。
もっとも日本においては氏と苗字の違いは無くなっていますので、氏と苗字の違いをどうこう言う意味はないかもしれませんが。
864日本@名無史さん:03/07/06 13:29
ちょっと混乱しがちなので念のため。

創氏改名問題における「氏」というのは、苗字すなわち日本式のイエの呼称のこと。
一方、朝鮮でいう「氏」は、父系血統を示す「姓」と同じ意味ないしはその姓を称する
血族集団という意味で使われているようです。
ついでに、本貫は始祖の出身地を示し、「金海金氏」なら「金海」がそれにあたります。
865857:03/07/06 14:00
聞きかじりさん、862-864さん、ありがとうございます。
氏の意味合いの違いというのがややこしくて、混乱してました。

話は変わりますが、江戸時代は別姓が普通だったそうですから
きっと明治になって、武家の反発とかもあったんでしょうね。
武家の環境変化から言えば、それぐらいは些細な事だったのかな。
866日本@名無史さん:03/07/06 14:19
江戸時代も、嫁ぎ先に苗字を変えてないかい?
江戸時代でも養子に入れば、普通に武家でも苗字をかえるでしょう。
姓の概念が日本では消えてたからね。
だから江戸時代の系図はみんな偽作で、そんなに廃止にこだわり持たなかった感じだけど。

中国的概念では、姓は出生とともに身についた命と不分離なもので、
それを変えることはできないし、変えたとしたらものすごい屈辱なんだそうだ。
朝鮮半島は、この概念を受け入れていたからね。
867日本@名無史さん:03/07/06 16:50
もともと一字の姓は中国の真似だからね。
868日本@名無史さん:03/07/06 20:35
数代前の先祖(祖父等)が帰化人だった場合、戸籍を調べれば帰化した事が分かりますか?
戸籍を良く知らないものですから…。
869日本@名無史さん:03/07/06 21:02
今年大学入試なんですがおすすめの問題集教えてください!!
870日本@名無史さん:03/07/06 21:07
>868
明治以降に帰化したのなら、戸籍に書いてあるはずですが...
古い戸籍の調べ方は家系調べの本やサイトを探してくれ
871日本@名無史さん:03/07/06 21:58
>>868
それ相応の心の準備をしてから調べたほうがよいと思われ。
一人の人間の決断として、国籍取得を冷静に判断できるなら調べれ。
で、知ったなら、民族的出自を誇りに持ち、〜系日本人として、
ともに建設的に生きていきましょう。
872868:03/07/06 23:17
>>871
否、友達の話です。
漏れは正真正銘の日本人!
873日本@名無史さん:03/07/06 23:33
他人の戸籍見るのって犯罪じゃね?
874日本@名無史さん:03/07/07 09:07
>>872
友人に任せましょう。君が手を出さないほうがいいよ。他人は基本的にダメだし。
友人の人生がかかってるかもしれない話ですよ。
875名無誌さん:03/07/07 21:38
南北朝時代の分かれた天皇2人の名前を教えてください
厨房でスマ祖
876日本@名無史さん:03/07/07 21:55
>>875
1318年から後醍醐天皇。1331年に鎌倉幕府は光厳(こんごう)天皇を擁立し、
後醍醐は1332年に島流し。1333年、鎌倉幕府滅び、後醍醐が建武の新政。
1336年足利尊氏が光明(こうみょう)天皇をたて、後醍醐は吉野へ。
南北朝時代は、この1336年から。
だけど、北朝の初代は、光厳天皇から。
877875:03/07/07 21:57
>>875 誰か答えてくださいです。。。
878875:03/07/07 22:00
あっ、すみません。
年号、推移まで丁寧に答えて頂いて有難うございます。
879日本@名無史さん:03/07/07 22:55
>>872
氏ね
880インテグラル:03/07/07 23:20
>879
872がむきになってしまうのもわからんではないがやっぱ不適切だな。

朝日新聞1943年7月17日の「おいもは大切な主食物!」の画像が
欲しいんだけれど、どうすれば手に入るだろう。
ひょっとしてまだ朝日が利用権持ってるのか?
881日本@名無史さん:03/07/07 23:21
>>880
図書館所有のバックナンバーとかマイクロフィルムでないでつか?
882インテグラル:03/07/07 23:40
オンラインでぱぱっと利用出来るようなやつ。
883日本@名無史さん:03/07/07 23:40
明治時代ごろ描かれた歴史画ってなんて言うんでしたっけ?
884日本@名無史さん:03/07/07 23:46
>>883
明治に錦絵新聞てのが一時はやりました。
885日本@名無史さん:03/07/07 23:52
>>884
>錦絵


それです!!ありがとうございました。
886日本@名無史さん:03/07/07 23:55
>>883
「歴史画」
887日本@名無史さん:03/07/08 00:29
>>880 :インテグラル氏
一昔前は、私は朝日新聞に電話して、該当の日時と記事を言って、
コピーして送ってもらってました(有料)。
最近は、デジタル化してメールでも送ってくれるかも??
電話してみたら?
版権はたぶん朝日のものかな。
888日本@名無史さん:03/07/08 00:57
>872
本人以外だと、正当な理由がなければ戸籍は取れないと思う。
何世代か前の戸籍となればさらにチェックは厳しくなるはず
(原則、直系の子孫でないと難しいのでは)
そこまでして、他人の戸籍を調べたい理由が何かあるのか?
889日本@名無史さん:03/07/08 01:39
日本人として日本の歴史をちゃんと知っときたいと最近思うようになり、まずは明治以降についての
あらましがわかるような本を購入しようと思っているんですけど何かお勧めの本、あるいは定番本なんて
ものがあれば教えていただきたいのですが何かありますか?

自分は高校時代は世界史を選択していたので、日本史を習ったのは中学時代が最後でしかも
かなり記憶が薄れてきている程度のレベルです。
890日本@名無史さん:03/07/08 03:11
>>888
>他人の戸籍を調べたい理由が何かあるのか?

おいおい日本語読めないのか?
だれも戸籍を調べたいとは書いてないだろ。
872は戸籍でわかるかどうかを訊いているんだ。
日本語がわからないのか?思い込みがはげしいのか?
891日本@名無史さん:03/07/08 03:22
そういう香具師は放置汁
892日本@名無史さん:03/07/08 05:04
戦前の教科書では縄文時代とか弥生時代とかは説明されてたんでしょうか?
それとも神話だけ書かれてたんでしょうか??
教えてください。
893日本@名無史さん:03/07/08 06:53
「戦争(戦い)」「役」「乱」「変」「事件」「騒動」

みたいに武力衝突(?)の場合名称が色々分かれますが、
その名称になるための定義はそれぞれ何なんでしょうか。
それとも適当につけてるんですか?
894日本@名無史さん:03/07/08 08:17
>>889
中公新書か講談社の「日本の歴史」の該当巻がよいのではないかと。
スタンダードさは中公、最新の分析は講談社かな。
895日本@名無史さん:03/07/08 08:27
>>892
神武即位が紀元前7世紀頃ですから、そのとき縄文時代だと話が合いませんので、
そのまま大和朝廷の歴史に入っていったような記憶があります。
復刻版が出てますので、実物を図書館などで目にされては?
896日本@名無史さん:03/07/08 08:43
>>893
戦争ー現代では国家間の争い
戦いー覇権を賭けての―
役ー「戦争」の意の古語的表現「西南のー」
乱ー叛乱(ハンラン)・内乱を指す。「壬申(ジンシン)の―/応仁(オウニン)の―」〕
変ー動乱・兵乱・内乱「桜田門外のー」
騒動ー秩序が乱れること。特に、権力争い。
事件ー成功しなかった反乱

大きさや内容によって分けてるようだけど、別名があったりして微妙だよね。
西南の役は、最近は西南戦争になってるが、前9年・後3年の役はそのまま。
シャクシャインやセポイは戦いの正当性が評価され、乱から抵抗や戦いに
変わってきている。
897日本@名無史さん:03/07/08 11:11
>>894
ありがとうございます。
チェックしてみます。
898日本@名無史さん:03/07/09 00:09
>832
小学校の国史では、神武天皇以下、歴代天皇の事跡を
紹介していて、考古学的な話はなかったと思います
899日本@名無史さん:03/07/09 01:16
888どす。スルーしよかとも思ったんだが・・・

>890
>おいおい日本語読めないのか?
>だれも戸籍を調べたいとは書いてないだろ。
>872は戸籍でわかるかどうかを訊いているんだ。

客観的に言えば、そういう解釈も成り立つ。
まあ、本人以外にはどちらとも断言できないはずだが・・・・(w

それよりも、872の
>漏れは正真正銘の日本人!
という言い方に何となく悪意が感じられたんでね・・・・

まあ、早とちりであれば、「思い込みがはげしいヤシ」と笑って
もらえばよいだけのこと。
(俺はこの件終了にします。スマソ)
900日本@名無史さん:03/07/09 03:08
>>899
思い込みがはげしいヴァカ
901日本@名無史さん:03/07/09 04:41
質問です。
南北朝で連想したのですが、現在の天皇家は北朝ですよね?
いわゆる天皇家は、室町以降、北朝の血統なのですか? 
902日本@名無史さん:03/07/09 05:17
>>893
乱は予め武力衝突を予測し準備を整えた上での武力闘争・武力戦争。
変は不意打ち。
本能寺の変は信長から見れば不意打ちではあるが
光秀が政権を奪い取ろうとして起こした軍事的叛乱であるから
変とするのは整合性を欠き、明智光秀の乱とすべきである。

承久の乱は大正中期までは乱だったのが、皇国史観の立場から
政府が積極的に変という呼称を使わせた。現在では一社を除き
教科書では乱が用いられている。

乱という言葉自体「乱れ」と通じ、現政権の維持が優先され
それに対する政治上・軍事上の権力闘争は倫理的に許されないもの
であるかのような印象を与え問題である。

役は外国・辺境との戦争に用いられる。征伐・征討とともに
この語は国家権力に背く者を攻撃するという、あくまで
国家側にたった、国家側が善であるという前提にたった
価値判断・評価を伴った語であり、歴史用語として用いるのは不適切である。
903日本@名無史さん:03/07/09 09:05
>>901
南北朝以来の北朝です。これはもとをたどると、鎌倉時代に分裂した
持明院統です。

>>902
以前は征台の役が今は台湾出兵。西南の役が西南戦争。戊辰もかな。
そういえば、大昔は、日清・日露も明治〜年の役か。昔の顕彰碑にそうあるね。
シャクシャイン・セポイ・太平天国の乱は、乱が消えた。抵抗や戦いになった。
前9年・後3年の役にも辺境蔑視があるのかな。これは変わらないね。
ところで、1社の「承久の変」てどこの会社ですか?
作る会かなと思ったが、市販本は承久の乱だった。高校?
904日本@名無史さん:03/07/09 09:14
>>903
>南北朝以来の北朝です。これはもとをたどると、鎌倉時代に分裂した
>持明院統です。

んーと、室町時代以降、日本の天皇は、北朝で世襲されたのでしょうか?
仮に北朝で世襲されたとなると、室町以降の天皇は、正統ではない天皇が
続いている、ということになるのでしょうか?
905パシッチ ◆mWYugocC.c :03/07/09 10:08
>>903
正統ではない、という言い方が少し引っかかるな。
元はと言えば後嵯峨が、嫡子の後深草を廃して嫡子でもない亀山を天皇に据えたのが問題で、
北朝は後深草の子孫なんだけど。
南朝が正統とされる理由は、北朝が室町幕府という「武家」に擁立されたからに過ぎない。

それはともかく、南北朝を合一させたのは足利義満で、南朝の後亀山天皇は廃され北朝の後小松天皇が唯一の天皇になった。
合一時の約束では、以降南北朝から交互に天皇を出すということになっていたのだが、
後小松天皇の跡を継いだのはその子の称光天皇。
以後ずっ北朝が世襲する。

南朝方は怒り狂って何度も反乱を起こす(この南朝を「後南朝」という)んだが、結局うまくいかなかった。
906日本@名無史さん:03/07/09 10:55
>>903
言いたいことはわかる気がします。
江戸中期以後の国学や皇国史観は南朝を正当としてますからね。
明治に混乱したのを、明治天皇を使って「南朝が正当じゃ」と言わせてます。
しかし、明治天皇は北朝の末裔です。

南北朝で両立してた時期に関しては、南朝が正当。
足利義満が統一させてからは、南朝も北朝もなく、皇位は再び一本化された。
よって、義満以降は、南朝も北朝も関係なくなり、正当な皇統にもどった。
こう理解されてたと思います。
こう考えれば、後醍醐や楠木を祭り上げて尊敬させ、かつ、同時に
明治天皇や昭和天皇を尊敬させられますから。

正当を言い出したら、天武系が滅びて天智系にもどったり、仁徳系が
滅びて応神系の継体に5代とびでいったり、きりがないといえばきりがない。
日本の皇室は万世一系しか存在理由のよりどころと売りがないのですから、
生暖かく見守ってあげましょうw。
907日本@名無史さん:03/07/09 12:28
この板で伺うべきことではないのかもしれませんが、
ほかにふさわしい板がわからないので……。
明治民法施行以前の、男女の最低結婚年齢について調べています。
民法施行で「男子17歳 女子15歳」と書かれていたのですが、
それ以前が何歳だったのかがわかりません。
ご存じの方がいらしたら教えてくださいませ。
908日本@名無史さん:03/07/09 18:39
朱子学者についてここで質問してもいいですか?
909日本@名無史さん:03/07/09 18:45
思想板に行ったら?
910日本@名無史さん:03/07/09 18:52
政治思想板?

あそこはちょっと・・・((( ;゚Д゚)))
911日本@名無史さん:03/07/09 19:18

治9年3月17日太政官指令

妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)。





明治政府は,妻の氏に関して,実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」
を国民すべてに適用することとした。
912日本@名無史さん:03/07/09 19:35
旧民法の施行を1892年に延期しそれまで戸籍については、おおかた
論議があったので正確なところお願いします。なにかイマイチ封印された
部分があまりにも、おおいンです。
913日本@名無史さん:03/07/09 22:23
12歳のガキが殺しをする現代ですが、江戸期には児童に対する
処罰の限界はあったのでしょうかね?
人を殺めた時の原因・状況・に加え、年齢による量刑の度合いは
違ったのでしょうが、12歳で火遊びして火災起こしたら火炙り
とかになるんですかい?
914日本@名無史さん:03/07/09 22:30
>>907
何歳でも、親のきめた通りでよかったようです。
915907:03/07/09 22:32
>914
そうだったのですか! 
手がかりもなく、困っていたところです。
どうもありがとうございました。

道理で検索かけても引っかからないわけだ……。
916日本@名無史さん:03/07/09 22:37
>>911
1871年戸籍法(壬申戸籍)に始まる戸籍制度の発展,および民法旧規定
(明治民法)の成立を経て,日本国民は一定の〈家〉に所属することと
なった。
旧法では氏は〈家〉の象徴であり,〈戸主及ヒ家族ハ其ノ家ノ氏ヲ称ス〉
(746条)の規定によって,個人の氏は必然的にその人が属する〈家〉
(それが家籍として戸籍簿に表現されている)の氏によった。
そして〈家〉を同じくする者の間で,親権,扶養,相続などの権利義務関係
が発生した。
その状態は,戦後の民法改正による〈家〉制度の廃止まで続いた。
917日本@名無史さん:03/07/09 23:03
>>912
長くなりますが…。

>民法と戸籍・1
1890年に公布された民法典および商法典の実施可否をめぐって,延期派
と断行派に国論を二分するはげしい論争が起こった。この法典論争は,
個別に〈商法典論争〉あるいは〈民法典論争〉とも呼ばれるが,論争の
焦点が民法典の実施可否に置かれていたこともあって一般に〈民法典論争〉
と通称されることもある。
1880年以来本格的な編纂が開始された民法は,90年4月にフランス人ボアソナード
の起草になる財産法の部分が,同年10月に日本人委員の起草になる身分法
の部分が,いずれも元老院・枢密院の審議,修正を経て公布され,ともに
93年1月1日から施行されることになった(旧民法)。
この間,1881年ドイツ人レースラーを起草者として編纂が開始された商法は,
90年4月に全編公布され,翌91年1月1日から施行されることになった(旧商法)。
918日本@名無史さん:03/07/09 23:04
>民法と戸籍・2
一般に民法・商法は,資本主義生産関係を規制する私法の基本法として
国家法体系の成立に欠くことのできないものであるが,条約改正交渉と
の関連や帝国議会開設前の編纂完了を目ざして制定が急がれた結果,各機関
での審議が十分に尽くされなかった。このため,従来の民俗慣習に対する
顧慮が不十分であるとの批判をはじめ,民法と商法に統一性を欠くこと,
さらに条文上の技術的欠陥が存することなどが指摘され,とくに民法人事編は,
日本固有の淳風美俗たる家族制度を破壊するものであるなどの理由をあげて,
両法典の実施断行に強い批判や反対の声があがった。
89年5月,帝国大学法科大学の卒業生で組織するイギリス法学派の法学士会が,
《法典編纂ニ関スル意見書》を発表し,法典編纂の速成急施を改め慎重を
期すべきことを主張すると,これが導火線となって法律家の間で法典の
実施可否をめぐる論争がくり広げられた。
折しも,実業界では商法の実施可否について延期を主張する東京商工会
と断行を主張する大阪商法会議所などを中心に論争が起こり,90年11月
に開かれた第1帝国議会に実業界から《商法実施延期請願書》が提出されると,
これをうけて衆議院・貴族院の両議院は,91年1月1日から施行予定の商法
も民法と同じく93年1月1日から施行することに決定した。
919日本@名無史さん:03/07/09 23:05
>民法と戸籍・3
これをきっかけに延期派は勢いをえて,論争は一段と激しさを増すことになったが,
こうした状況の中で,延期派に属する穂積八束は《民法出デテ忠孝亡ブ》
(《法学新報》第5号)と題する論文を発表し,日本固有の家父長制的家族制度
を美俗ととらえ,近代的家族法原理を批判した。
この論文は〈群集心理を支配するに偉大なる効力〉(穂積陳重《法窓夜話》)
を発揮し,論争に多大の影響を与えることになった。民法・商法の施行が
翌年に迫った92年に入ると論争は最高潮に達し,延期・断行両派の論潮は激越
を極めていった。
江木衷,穂積八束ら法律家11人の名をもって《法学新報》第14号に社説と
して掲載された《法典実施延期意見》は,この時期の延期派を代表する論文で,
家父長制的イデオロギーに基づいて旧民法の市民法思想ないし個人主義
思想を批判し,また資本主義に内在する諸矛盾をとらえて資本による自由
競争原理に危惧の念を表明した。
他方断行派は,岸本辰雄,磯部四郎らの起草になる《法典実施断行ノ意見》
(《法治協会雑誌》号外)を発表し,フランス法の知識を背景とした市民法理論
をもって反論したが,すでに憲法を頂点とする天皇制国家の基本原則が定まり,
急速に形成されつつある日本資本主義の矛盾が顕在化しつつあったこの時期の状況は,
延期派の論調にとって有利に作用することになった。
920日本@名無史さん:03/07/09 23:06
>民法と戸籍・4
激烈なる両派の応酬の最中,論争は帝国議会において政治的に決着づけられることになった。
この年5月に開かれた第3特別議会において貴族院議員村田保は,民法・商法
両法典を〈其ノ修正ヲ行フタメ明治二九年一二月三一日マデ其施行ヲ延期〉
する旨の法律案を貴族院に提出した。同年11月24日〈民法商法延期法〉(略称)
が公布され,ここに法典論争は延期派の勝利という形で終結をみることになった。
その後両法典は,延期派・断行派を含む法学者,行政官,司法官,弁護士,
実業家によって構成された法典調査会(93年3月設置)で審議・修正され,
民法は98年7月16日から,商法は99年6月16日から施行された。

ボアソナードで調べるとあたるかもしれません。法政大学の祖ですね。
法政大学は、今も「進取の気性、質実の剛」が校風です。
921日本@名無史さん:03/07/09 23:06
>民法と戸籍・5
1898年の戸籍法 法典論争により,1890年民法(いわゆる旧民法)は施行
が延期され,93年に設置された法典調査会が新たに民法を編纂した。
その結果98年に公布・施行された民法(いわゆる明治民法)の親族編,相続編は,
〈家〉制度を中心として構成されていた。
〈家〉制度は,戸主権と家督相続を要素とするが,それは1871年の戸籍法
の運用過程において,戸籍上の手続として積み重ねられてきた親族的身分
関係の諸規制を,民法上の制度として再編成したものにほかならない。
また,そのことによって戸籍法は,民法を支える親族的身分関係の公証
制度としての性格をいっそう純化した。98年の戸籍法は明治民法とともに施行された。
その実質は,1886年の戸籍制度をよりいっそう整備したものであるが,
原理的に重要な改革点は次の3点である。
第1に,身分登記簿と戸籍簿が併用された。身分登記は,実質的には1886年
の戸籍制度における登記目録であるが,個人の親族的身分関係そのものを
公証する公文書である。戸籍は〈家〉を表示するものであり,身分登記に
表示された身分関係の変化が,〈家〉の変化に結びつく場合には,身分登記
に基づいて戸籍の記載の変更が行われる。戸籍における戸主と家族の記載
順序は,1871年戸籍法と同じであるが,附籍の名称は廃され,
〈戸主ノ親族ニ非サル者〉とされた。
922日本@名無史さん:03/07/09 23:09
>民法と戸籍・6
第2に,身分登記および戸籍の親族身分関係の公証機能に対応して,それを
掌るものとして戸籍吏および戸籍役場がおかれ,その監督には,従来の
ように内務省ではなく司法省があたることとなった。しかしこれによって,
身分登記と戸籍が,統治のために国民を把握するもっとも基本的な手段で
あることをやめたわけではない。戸籍吏と戸籍役場を兼ねた市町村長および
市町村役場は,行政手段としてのこれらの運用にあたり,内務省の監督に
服したのである。したがって,以上の2点の改革は,近代的な私法制度の
確立の要求にこたえるという面が強い。
第3に,従来行われていた戸籍の屋敷番号ないし戸番号による編製から地番
編製主義への転化が行われた。戸籍の所在地である本籍と現実の居住の場所
である住所とは,ここで判然と分離した。これは,現実の家屋および家族関係
から戸籍を解放するものであり,一方では〈家〉の抽象的普遍性を保障し,
〈家〉観念培養の基礎となるとともに,他方では戸籍の身分公証制度として
の性格を強化するものであった。

長レス、失礼しました。
923日本@名無史さん:03/07/09 23:30
>>913
「7歳までは神のうち」で、15歳から共同体参加で大人なみだったようです。
15歳に達すれば一人前の人間として扱われることは戦国大名の家法の条文
をはじめ,江戸時代の幕府法にもしばしばみられる。
たとえば《今川仮名目録》は〈童部(わらわべ)あやまちて友を殺害の事,
無意趣の上は,不可及成敗。但,十五以後の輩は,其とがまぬかれ難歟〉
と15歳を境に人間を区分している。
これは江戸時代の《御定書百箇条》で〈拾五歳以下之者御仕置之事〉と
いう条を設けて,同じ犯罪であっても15歳以下の者の処罰を大人よりも
軽く規定していることに受け継がれている。
また,1689年(元禄2)に出された〈幼年之もの乗物に乗候年数之儀〉は
武士の子どもについての規定であるが,15歳までは駕籠に乗ることを認め,
16歳の正月からは馬に乗ることを指示している。
15歳で人間を区別し,それ以上を一人前として扱うことは〈十五・六十〉
という表現に示されている。百姓一揆においてしばしば15歳以上60歳まで
の男子が動員の対象とされている。

「八百屋お七」は、16歳で火刑ですね。
924日本@名無史さん:03/07/09 23:36
>>913
江戸後期に尾張領内で、大名行列を横切った3歳の子供が
処刑されたって話は聞いたことがある。

しかし、尾張藩は「自領の住民を勝手に処断するとは
何事か、しかも幼児ではないか」と大激怒。
当の大名に対して、「今後当領の通行はご無用である」と
通告した。
つまり、参勤交代の際、通らないではいられない東海道の要衝、
尾張からその大名は締め出されてしまったのだ。

で、その後どうなったかというと、尾張を通るときはその大名は行列をとき、
みな、水戸黄門ご一行のような格好に着替えて通らざるをえなくなった。
さらに数年後、その大名は、幼児の父親の猟師により狙撃され、
「馬鹿殿は木曽路の露と消えた」という。

結論:やはり、「幼児を処罰するべきでない」という社会通念は
あったと思われる。
925913:03/07/10 00:02
>924
壮絶な話ですね。
その話、確か何か東映の時代劇映画の本ネタになったと何かで
読んだんですが、何だっけなあ?
926日本@名無史さん:03/07/10 00:25
質問
明治以前に石炭の利用ってありましたか?

中国では北宋時代にすでに、庶民の調理に利用されてたようですが・・
927日本@名無史さん:03/07/10 02:46
>>899
伊達君ハケーン!(w
928日本@名無史さん:03/07/10 07:46
>>902
ずいぶん古いレスに反応して申し訳ないんですが、
>役は外国・辺境との戦争に用いられる。征伐・征討とともに
>この語は国家権力に背く者を攻撃するという、あくまで
>国家側にたった、国家側が善であるという前提にたった
>価値判断・評価を伴った語であり、歴史用語として用いるのは不適切である
ということは
今や日本の学会でも「文禄慶長の役」はOUTで「壬辰倭乱」というのが正解なんでせうか?
929日本@名無史さん:03/07/10 09:25
>>926
中国では紀元前1000年ごろから使っていたと言う話も。

日本では日本書紀とかに記述がありますが、本格利用は江戸時代のようです。
17世紀に木材代わりに使い出したが悪臭であまり普及しなかった。
18世紀に塩作りの燃料として使われ、九州石炭が瀬戸内海に販売されてます。
幕末には、蒸気船の燃料とされてたようです。
18世紀に九州高島炭鉱で、五平太という者が開発にあたり、
それ以後、九州では石炭を五平太というそうです。
へぇー、へぇーw。
930日本@名無史さん:03/07/10 09:43
>>929
教科書類や一般書では、しばらく前から「朝鮮出兵」か「朝鮮侵略」ですね。
学術書では、テーマを「朝鮮出兵」とし、内容では「日本では文禄の役と呼び、
朝鮮では壬辰倭乱と呼んだ」と併記して書いてるようです。
2回目は、第二次出兵か、「慶長の役(丁酉再乱)」と両側の呼び名を
使ってるようです。

当時の用語使用が必要な場合は、「日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰倭乱・
丁酉再乱」と併記し、
当時の用語にこだわらず書いてもかまわない場合は、「朝鮮出兵(第一次・第二次)」
か「秀吉の朝鮮侵略」のようです。
931日本@名無史さん:03/07/10 09:49
元寇も韓国で認識されてるように
「日本征伐」と併記してほしいもんだね。
932日本@名無史さん:03/07/10 15:44
>>931
> 元寇も韓国で認識されてるように
> 「日本征伐」と併記してほしいもんだね。

元の後継国家がそう書くならまだしも、パシリの子孫の国の教科書が「征伐」はねーだろ。
韓国的に正確な表現は「元の日本征伐にパシリ・弾除けとして参加しますた」だろが(w
933日本@名無史さん:03/07/10 16:00
韓国国定教科書では、本文・図表とも「高麗・元軍の日本遠征(第一次遠征・第二次遠征)」
という語句を使用してるね。原文のハングルのニュアンスはわかりません。

モンゴルでは、ながらくチンギス汗やフビライ汗は侵略者として歴史の暗部
扱いだったが、再評価されて、今はどう書いてるのかね。
モンゴルの教科書を読みたいものだ。

元寇は、日本の教科書や学術書では、最近は「モンゴル(蒙古)襲来」と書いてるね。
文永・弘安の役と、日本人が自分で役と呼んでたのは、価値観からではなく、
小戦という表現なのかな。
934928:03/07/10 18:11
回答ありがとうございました。
935インテグラル:03/07/10 20:00
>887
感謝です。パロディに使おうと思ったのですが自分で模写するしかないですね。

民法といえば、削除された第一章第一条って何が書いてあるんですか?
現行の民法には人の定義がありませんけれども、削除された条文にあるんでしょうか?
定義出来るものかは別問題ですが。
936日本@名無史さん:03/07/10 22:51
>>929

ありがとうございます。
日本では、塩作りのために石炭ですか・・
製鉄、陶器とかもっと有用な利用方法があるだろうに。
937日本@名無史さん:03/07/11 09:55
民法の第1編「総則」の第1章第1節「人」は第1条ノ3から始まってるね。
「出生とともに権利が生じる」ってやつかな。
1条ノ1と2が知りたいね。検索にも当たらないなぁ。
938日本@名無史さん:03/07/11 10:26
■イラク復興支援に自衛隊は行くべきなの?■
http://money.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1054790005/l50
是非一度覗いてみてください。
939日本@名無史さん:03/07/11 10:47
三位一体は渡来人の基本思想ですか、
940日本@名無史さん:03/07/11 10:54
>>933
> 韓国国定教科書では、本文・図表とも「高麗・元軍の日本遠征(第一次遠征・第二次遠征)」
> という語句を使用してるね。原文のハングルのニュアンスはわかりません。

その順序だと、まるで元が高麗のパシリみたいな印象を与えるな。笑止。
もしそういう印象を与える意図で書いてるのなら、日本はモンゴルではなく韓国に謝罪と補
償を(ry
941日本@名無史さん:03/07/11 10:54
はじめて質問させて頂きます。
松平忠輝の配流後についていろいろ検索してみたんですが
いまひとつはっきりわかりません。
そもそも配流、幽閉というのはその場所から一歩も出られない
監禁のような状態なのでしょうか?
くだらない質問ですみませんがお教えいただければ嬉しいです。
942日本@名無史さん:03/07/11 11:35
941です。
質問するスレを間違ってしまいました。
すみませんでした。
943日本@名無史さん:03/07/11 23:30
配流と言っても一歩も出られないってことはなかろう
944日本@名無史さん:03/07/12 02:33
>>941>>943
忠輝はいわば軟禁状態です。
建物から一歩も出られません。
945日本@名無史さん:03/07/12 02:53
946日本@名無史さん:03/07/12 03:39
>>945
バレバレ
947日本@名無史さん:03/07/12 10:13
次スレは、
★【質問】日本史よろず問い合わせ【受付中】★

いいんでないかな。
検索の「質問」にひっかかるように。
948日本@名無史さん:03/07/12 15:10
救出アゲ
949日本@名無史さん:03/07/13 09:59
旧民法の第1編1節「人」1条の1と2が知りたいです。どこにも載ってません。
950日本@名無史さん:03/07/13 10:01
test
951日本@名無史さん:03/07/13 11:35
>>949
1条 1条の1 1条の2 全く別の条文になります。1条と2条の
間に新しい条項を作成しなければまらぬ時のテクニックとしてーーの1
なる条規が挿入されます。もし条文中に入れたければ2項 3項ーー
として同条文として作成されます。
952日本@名無史さん:03/07/13 16:04
>>951
と、いうことは??
民法、第1編・総則の第1節「人」は1条の3(出生による権利発生)から始まるのですが、
1条の1と2には、まったく別のことが書いてあったのですか??
具体的に改正(削除)前の文を教えてくださるとありがたいのですが。
よろしくお願いします。
953日本@名無史さん:03/07/13 16:13
1条の3(出生による権利発生)が改正前の1条
954日本@名無史さん:03/07/13 17:57
このスレと
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】
との違いがわかりません。なぜ同じようなスレが並立しているのですか?
955日本@名無史さん:03/07/13 18:16
初心者歓迎か、そうでないかの差だろう。なので、おまいはスレ違いw
956日本@名無史さん:03/07/13 20:08
>>953
ありがとうございました。
サイトか資料を教えてくれれば幸いです。
よろしくお願いします。
957日本@名無史さん:03/07/13 20:41
六分の一殿ってだれやったっけ。山名なんとか?
958日本@名無史さん:03/07/13 21:04
山名時氏かな。
だけど、正確には一族合わせて11ヶ国だから、
山名氏一族が「六部の一衆」と呼ばれた。
959日本@名無史さん:03/07/13 21:20
博学ですな。有難う。
960日本@名無史さん:03/07/13 21:30
戦国時の北条氏が、対外的に消極的だった理由を
お聞かせ願いたい。
961日本@名無史さん:03/07/13 21:54
>>960
それなりに対外政策はしてたようです。派手ではありませんが。

1552年に山内上杉憲政を上野から越後に追って関東の経略が一段落した後,
54年に駿河の失地回復のため駿河に攻め入り,これが契機となって相甲駿
の三国同盟が結ばれた。
55年(弘治1)には北武蔵で検地を行うとともに再び税制を整備し,59年(永禄2)
には《小田原衆所領役帳》を作成している。
59年末に氏康から氏政への代替りが行われたとみられ,このころその支配体制
も確立されたとみてよい。
氏康・氏政父子は61年に長尾景虎(上杉輝虎,謙信),69年に武田晴信(信玄)
の来襲をそれぞれ退けたが,氏康は71年(元亀2)に没した。
氏康の生前には輝虎と結び晴信を敵としていたが,その死の直後に氏政は
岳父の晴信と結び輝虎を敵とした。その後,武田勝頼および上杉景勝の代
になってからは,両氏に対抗するため徳川家康,織田信長に接近して
遠交近攻策をとったが,80年(天正8)氏政は隠居し氏直が家督を継いだ。
82年の武田氏滅亡,本能寺の変ののち関東管領滝川一益の上野駆逐,
ついで家康と対陣,講和締結など激動を経たのち,豊臣秀吉との対決を
さけられず,90年小田原の戦に敗れ,氏政とその弟氏照は切腹,氏直は
高野山に追放となって5代100年にわたった後北条氏は滅びた。
民政に留意した好学の大名。
962日本@名無史さん:03/07/13 22:13
なるほど。どうもありがとうっす。
963日本@名無史さん:03/07/13 22:49
test
964日本@名無史さん:03/07/14 00:39
平安時代は初期と中期と後期と、いつが豊かだったんですか?
965日本@名無史さん:03/07/14 00:44
後期かな?
966日本@名無史さん:03/07/14 01:05
生産力は発達し続けるだろう。
967日本@名無史さん:03/07/14 01:31
日本史の論文検索ができるサイトってありませんか?
968日本@名無史さん:03/07/14 08:32
>>967
ここは、どうだろうか。
博士論文は、すべて入ってるようだ。

http://opac.ndl.go.jp/index.html
969日本@名無史さん:03/07/14 17:47
>>968
なるほど。ありがとう。
他にはないですか?
特に史学雑誌等の雑誌の中に掲載されている論文のタイトルを直接検索できるものがあると嬉しいのですが。
970日本@名無史さん:03/07/14 18:04
日本の和弓の射程距離はどれくらいでしたか?
971日本@名無史さん:03/07/14 21:48
>>969
968のなかの、「雑誌記事索引の検索」から入ってみては?
一応、すべての出版物はあるというのがウリだからw。
http://opac.ndl.go.jp/Process
972日本@名無史さん:03/07/14 21:59
>>970
種子島に渡来した鉄砲が100mちょっとだそうです。
各大名がこれを争って求めたと言うことは、弓矢より威力があったということです。
問題になるのは単に飛ぶ距離ではなく、相手のヨロイを貫く殺傷力ですから、
鉄砲を100mちょっととすれば、それ以下だったと推測されます。
何かの雑誌の記憶では、鉄砲の飛距離の7割くらいまでなら、
弓矢でも同様の殺傷力があったようです。

14世紀イギリスの長弓は、有効射程距離150mだそうです。
973日本@名無史さん:03/07/14 22:23
>>971
本当に有り難う!
かなり役に立ちます。
974日本@名無史さん:03/07/14 22:37
>>973
>>968から入ってい雑誌記事検索へいくと、かなり出てくるね。
「史学雑誌」で、年代絞るか、題材か、著者絞ると、かなーりヒットするね。
ここで、確認して、大学か図書館でゲットできるといいね。
975日本@名無史さん:03/07/15 08:27
四本柱でたっている門は薬医門ですか?先日田舎にいったら四本柱でした。
1830年代に建てられた庄屋門ですけど、薬医門と長屋門ってどちらが
格式が高いのですか?
976日本@名無史さん:03/07/15 09:03
>>975
4本柱は、四脚門・薬医門・向唐門などあります。
薬医門のほうが古くて、御香宮神社表門など。

武家の長屋門はいろいろな格式のがあります。立派なのは大名屋敷みたくてすごいです。
「とくに大きな国持大名は独立した門を建てられるが,一般は長屋門で,
10万石以上は左右に唐破風あるいは切妻の出番所付,5万石以上は葺下
屋根の出番所,分家では5万石以上も片方出番所,片方出格子,1万石以上
は両方とも出格子の番所と定められている」
と、ありますので、薬医門の方が格式が上と推測します。
977山崎 渉:03/07/15 11:33

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
978日本@名無史さん:03/07/15 11:43
救出!
979日本@名無史さん:03/07/15 13:54
手ごわし山崎!
980 :03/07/15 14:48
もし大正天皇に子供がいなかったら誰がその次の天皇に
なってたんでしょうか?
981975:03/07/15 15:24
>>976 ありがとうございます。
982日本@名無史さん:03/07/15 21:55
>>980
イフの話だが、どこからか連れてきて生まれたことにしたことでしょう。
983日本@名無史さん:03/07/15 23:55
>975

横から見たときに、左右対称でなければたぶん薬医門でしょう
ttp://ltis.pref.shimane.jp/see_jpeg/ezu/ezu_yashiki/kakudai/e93.htm
( ↑↑ 柱の位置を見る)
農家によくある長屋門は明治以降に作られたものが多い
ようですよ
江戸時代に作られた門なら貴重なものと思いますので、
大事にしてくだされ。



984参勤交代:03/07/16 00:18
教えて下さい。
江戸時代に「〜守(〜のかみ)」と言う役職名がありました。例:大岡越前守。
これは鎌倉・室町時代の守護職の名残だと思いますが、これは江戸幕府が任命していたのでしょうか?またこれは世襲ですか?
それから役職の国名と実際の領地は因果関係が無いと思いますが、どうでしょう?
もうひとつ−加賀前田藩の重臣にも「〜守」の役職名を持った人がいました。
加賀藩は大藩とは言え、国名は70程しか無いわけで、各藩の家臣にまで割り振ると、国名が足らなくなると思います。
同じ時期に同じ役職名を持った人が複数いたのでしょうか?
宜しくお願いします。
985日本@名無史さん:03/07/16 02:05
>984
朝廷にもらったのでは
986日本@名無史さん:03/07/16 02:52
>>984
1.「守」などのいわゆる受領名は守護ではなく、律令に基づいた国司のものです。
2.本来は朝廷が任命するものですが、江戸時代の武士については幕府が代行していました。
3.本来世襲ではありませんが、同様の受領名を名乗ることが多いようです。
4.実際の領地と直接関係はありません。
5.初期はともかく、一部を除いて基本的に陪臣は名乗れません。
6.もちろん複数人が同じ受領名を持つ場合があります。
細かく言えば他にもルールはありますが、概要はこんなところです。
987日本@名無史さん:03/07/16 07:14
庄屋に軍役負担義務はあったのですか?田舎に行くと先祖の刀や槍、弓など
があるのですが・・・・。
988パシッチ ◆mWYugocC.c :03/07/16 11:40
>>984
「〜守」以外の役職も名乗るので、70以上あると思いますよ。
浅野内匠頭なんかその例ですね。
989日本@名無史さん:03/07/16 11:49
正も「かみ」と読みますね。
ところで、介、助は「丞」の代わりなのでしょうか。それとも別の字?
990日本@名無史さん:03/07/16 17:47
>>989
「すけ」(介、輔など)が次官、「じょう」(丞など)はその下
991日本@名無史さん:03/07/16 18:31
あ、中国とは違うんですね。ありがとうございます。
992日本@名無史さん:03/07/16 19:56
名字帯刀者は、身分上義務があったのかもしれませんね。
外様などでは、輜重(輸送兵)は百姓が割り当てられてます。
993参勤交代:03/07/16 22:42
985さん、986さん、988さん、ありがとうございます。
なるほど国司の名残なんですね。
確かに吉良上野介などは旧国司の役職名ですもんね。
同時期に、例えば能登守が二人いたりするとややこしいですね。
でも実体は無かったとは言え、国司の役職名を複数に任命するのは、無茶な話ですね。
ところで鎌倉室町期のように守護が地方を治めていた時代にも、
朝廷は形式的にではあれ、国司を任命していたのでしょうか?
また宜しくお願いします。
994:03/07/16 22:51
お邪魔します☆

明治維新の唯物史観という歴史観とはなんでしょうか?
教えてください。
どうしてそういう歴史観が生まれたのか、まで分かればいいんですけど。
宜しくお願いします。
995日本@名無史さん:03/07/16 22:51
鎌倉時代に入って幕府の手で諸国に守護が置かれると,国司制はこれに
圧迫されてますますその実質を失い,後醍醐天皇が一時これを復活しよ
うとしたが,室町時代から戦国の争乱に至ってまったく消滅することとなった。

戦国からなくなったみたいね。
ただ、戦国中も地方勢力が、権威付け正当性づけのため金で朝廷から
もらってるのも、部分的にはあるが。
996日本@名無史さん:03/07/16 23:23
>>994
明治維新を下からの草莽の王政復古と見る歴史観のことについて?
それとも、明治維新がブルジョワ民主革命か絶対主義の成立かという、
日本資本主義論争のことについて?

明治維新が下部構造(生産力)の経済発展による、上部構造の変化をもたらした。
ってことかな。マルクス主義の流入以後の考えですね。
マルクス主義は、大正・昭和と学会を席巻してました。

明治維新の理解にかかわる意見は2派閥。
講座派は天皇を頂点とする中央集権的国家機構の樹立,土地変革の不徹底性に
起因する半封建的地主階級の強固な残存,藩閥的軍部・華族勢力の台頭,人民の
政治的未解放などを理由に,明治維新はブルジョア革命では決してなく,絶対
主義の成立にほかならないと主張した。
これに対して,労農派は地租改正によって半封建的な土地所有の成立発展は
不可能となり,それにともなって封建的絶対主義勢力の物質的基礎も取り除かれ
たこと,維新政権によって資本主義の育成がはかられたことをもって
明治維新=ブルジョア革命説を主張した。

で、講座派はブルジョワ革命が日本に必要と説き、
労農派は、社会主義革命が必要と説いた。ともに、弾圧され潰されたが遺産は
大きかった。
997日本@名無史さん:03/07/16 23:27
>995
今谷氏の本に官位をほしがる戦国大名の話が書いてあったよ
998日本@名無史さん:03/07/16 23:36
>>997
そうですね。読みました。天皇家権威復活の理由とされてましたね。
ただ、全国的な国司制度としての国司任命は、室町前期がやっとで、
戦国には朝廷は京都の支配権さえ失って何とか天皇がいじけて怒ってたね。
だから、戦国期の国司任命はあくまで、天皇側からの政治としての任命ではなく
戦国大名に求められての財政政策?みたいなものでは。
999日本@名無史さん:03/07/16 23:52
次スレは?
999ですが。
1000日本@名無史さん:03/07/16 23:59
次スレ

【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1052089841/
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。