「神風」無しで元軍破った時宗

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1タコです。
日本を襲撃した元、高麗連合軍は台風のために
日本上陸に失敗したのではなく、日本軍に上陸
を阻まれて、2ヵ月も九州北岸を漂流した挙げ
句、台風に襲われて大損害を被ったそうです。

http://www.asahi.com/paper/aic/Mon/aera.html
2タコです。 :2001/01/17(水) 10:24
 文永の役では暴風雨のシーンを出さないNHK
大河ドラマの筋立ては次の理由から多分正しい。

 1:元軍が博多湾岸に上陸した旧暦十月二十日
はいまの十一月二十六日に当たり、台風の季節で
はない。これは気象庁の気象研究所長の荒川秀俊氏
が昭和三十三年(一九五八年)に指摘したが、多く
の歴史学者は「現代の気象統計が七百年前に適用し
うるか疑問」などと主張し「暴風」説を唱え続けた。
だが大宝元年(七〇一年)から明治十九年(一八八六年)
の気象に関する記述を調べた「日本気象史料」によっても、
大風の記録は太陽暦の七月下旬から十月中旬にほぼ集中し、
今日と変わっていない。

 2:博多湾は四方をほぼ陸地で囲まれ、当時でも島根県の
宍道湖程度の水面で、暴風時でも外洋航行の可能な船が覆没
するような大波はまず立つことのない地形だ。

 3:博多湾と外海を結ぶ志賀島と能古島の間の水路は二キロ余
の幅しかない。もし元の船団が博多湾内で大量遭難したなら水死
体と難破船が湾内を埋めるはずだが、「八幡愚童訓」は、翌朝に
海を見ると
「蒙古の船皆々馳せ戻りけり。こはいかに、後合い(背中合わせ)
に落つる(退却する)ことこそ心得ね(わけが分からん)」
 と泣き笑いしたことを書き、
「異賊の兵船一隻、鹿の島(志賀島)に掛りて」
 と座礁して日本側につかまったのが一隻だけだったことを述べ
ている。いまだに文永の役に関して
「元軍が暴風雨に襲われ大半の船と兵を失ってしりぞいた」
 と教科書などに書く人々は水死体と難破船がどこへ消えたのか、
説明する義務があるだろう。

3イカです。:2001/01/17(水) 10:28
一方、この七年後、弘安の役で元船団が大損害を受けたのは、
新暦で八月二十三日だから台風であることは疑いない。だが
元軍は日本側の防戦の結果九州本島に上陸できず、約二カ月
も九州北岸をうろついた後、台風に遭っている。毎年七月から
九月にかけては平均二・四回台風が日本に上陸し、近海をかす
めるものを入れると八・三回も来るのだから、夏に二カ月も九
州近海に漂えば台風に襲われたのは当然だ。これは天祐ではなく、
上陸を許さなかった軍事的勝利の結果にすぎない。

 弘安の役では蒙古、高麗連合の「東路軍」(大型船三百隻、
約四万人)が再び合浦を出港し、また降伏した旧南宋軍主体の
「江南軍」(大型船おそらく千二百隻、約十万人)が中国の慶元
(寧波)などから出て六月十五日以前に壱岐島で合流し、博多湾
に侵攻する計画だった。

 東路軍は夏の南風になる前、早くも五月三日(新暦同月二十九日)
に出港し、対馬、壱岐をへて六月六日(同月二十九日)に単独で博
多湾に侵入した。壱岐には泊地がなく、近海はしけていたからそう
するしかない。日本側は文永の役の後、博多湾南岸に全長約二十キ
ロもの高さ約二メートルの石垣を築き、九州、四国、関東などの武士、
従者おそらく三万人程度が待ち構えていた。

 東路軍はやむなく九州本島と砂州でつながる対岸の志賀島に上陸
したが、砂州「海の中道」を使っての日本武士団の連日の猛攻撃と、
小船による湾内での水上襲撃に遭い、一週間後に再び乗船して、
壱岐沖や伊万里湾口の鷹島付近へ退避した。

 一方、江南軍は夏の南西季節風を待ってか、壱岐での会合予定
日の六月十五日より遅れ、十八日頃に慶元を出港し、目的地も平
戸に変更した。その頃、すでに出航後約二カ月たった東路軍の船
内ではすし詰めの兵の間に疫病が発生し死者三千人以上が出ていた。

 東路軍と江南軍は六月末、平戸で合流したもののすぐに九州に
上陸せず、平戸島などに砦を築いて船団の集結を待った。日本軍
が防備を整えている博多湾へ真正面から突入しても、小船に乗り
かえ上陸する際に石垣の上から矢が集中し、大損害を受ける可能
性は高い。旧南宋の降将で江南軍の司令官だった范文虎は「遅疑
し(ためらい)発せず」一カ月を空費した。
イカです。
以上アエラより。

4日本@名無史さん:2001/01/17(水) 11:26
>1
週刊読売今週号にその記事載ってたな。
5名無しさん:2001/01/17(水) 11:58
どうして元寇軍は博多湾上陸にこだわったんですかね。

平戸からでは大軍の展開に問題があるし、良港と九州の中枢を速やかに
手に入れるという意味で博多と大宰府を狙うのはよくわかる。でも
それならば宗像あたりから侵入して陸路博多と大宰府を落とせばいい。
鎌倉軍の石塁は博多湾とその西側類縁地域だけなので、北九州付近
はなんか無防備のような気がする。本州からの援軍を防ぐ意味でも
宗像沖より上陸->博多、大宰府制圧->関門確保
というのがいいような気がする。まあ現代からはなんとでもいえるけど。
6日本@名無史さん:2001/01/17(水) 12:12
まあ要するに、
神風は、公家の連中のプロパガンダであったと、そういうことだな。
7世界@名無史さん:2001/01/17(水) 12:43
弘安の役の時、江南から発した軍は実は兵ではなく
移民であっり、ほとんど武器らしい武器は持っていなかった
という説も有るね。
実際博多湾の奥深く入って前線で戦っていたのは、
高麗軍だからね。
8名無しさん@1周年:2001/01/17(水) 12:49
今思うと、あれだけの兵力で日本を征服しようというのは無謀では?>元
鎌倉の主力なんてほとんど登場する前におわっちまったよ。
9日本@名無史さん:2001/01/17(水) 12:52
大陸から攻めてくるのって、
元寇が初めてじゃないよね。
なんか、平安時代にも無かったっけ?
10日本@名無史さん:2001/01/17(水) 13:00
1019年に刀伊の入寇があったが、これは女真族の海賊集団と言う類で、
国ぐるみでの攻撃ではない。
11日本@名無史さん:2001/01/17(水) 16:32
どこかで元寇周辺の出来事を詳しく解説したページがあったよ。

高麗から日本への使者が地理を詳しく調査したので、
元軍は北九州各地を始め、周防にも上陸。
日本側は主に狭い盆地に誘い込んで
周囲の山から攻め降りる手法で各個撃破したらしい。
平野での騎馬戦の得意な元軍に対して
歩兵の多い日本軍が
山岳の多い地形を活かして有利に戦ったというのは
一般的にされる説明とは全く逆。
これは、竹崎末長(?)の描かせた絵で、
功を主張するために苦戦をかなり強調しているのを
後世の史家が真に受けたのが原因らしい。

文永の役では、元の将軍の間に慎重論が強くなり
体勢建て直しを決断して退却、
その帰り道で暴風雨に遭ったとか。
これは日本・高麗・元の
それぞれの歴史書の日付から明かなこと。
元寇に関して八幡宮の御利益を宣伝する書物でも
文永の役の話は出てこないなど・・・
後世の史家が勝手に弘安の役とごっちゃにしただけで、
文永の役の暴風雨は、元の退却後であるのが史実らしい。
12日本@名無史さん:2001/01/17(水) 23:07
なんだ、実際はらくしょーだったんじゃねえか。
センコーの言うことはあてになんねえな。
13日本@名無史さん:2001/01/17(水) 23:13
田中芳樹が
「日本が元に勝てたのは南宋の人たちがサボタージュしてくれたおかげ」
とかほざいてたのにはワラタ。
14日本@名無史さん:2001/01/17(水) 23:58
まあしかし、あんまヤル気があったとも思えん。
15日本@名無史さん:2001/01/18(木) 00:28
凄いページ発見!(藁

http://fjctweb.fjct.fit.ac.jp/yama-lab/den/gen.htm

このページがgoogleで「元寇」と検索すると3番目に出てくるんだから世の中わからん。
16名無しさん@1周年:2001/01/18(木) 01:03
神風云々はともかく、時宗が元を破ったというより、元が
勝手に負けたといった方が正解であることは間違いない。
別に時宗は偉くもなんともないよな(w
17日本@名無史さん:2001/01/18(木) 01:13
うむ、たしかになー とーちゃんやその先代たちとくらべると
時宗にはブリリアントな能力がなかったように見える。
しかし、この坊やが死んでしまうと社会が混乱しちまったのも確かなような。

18世界@名無史さん:2001/01/18(木) 01:38
元寇、特に、文永の益に関しては、日本側の抵抗がかなり過小評価されている
様に感じることが多いです。集団戦にたいして一騎打ちで突っ込む鎌倉武士が
苦戦したのは事実でしょうが、接近戦では、日本刀で槍の穂先をおとされると
か、皮や部分的に鉄板を打ちつけだけの元や高麗軍の鎧は太刀や薙刀が届けば、
あっけなく切りさかれとという解説を読んだことがあります。何より、おかし
いと感じたのは、元軍の短弓の方が射程距離が長いという解説です。確かに
鎌倉武士の長弓は扱いに熟練が要るでしょうが、竹と木を張り合わせた和弓は
重く長い矢を長い弓でより長い時間加速しながら発射するので間違いなく軽く
て短い矢を使う元軍の弓よりも射出時の運動エネルギーは大きく遠射も可能な
はずです。なれない戦法で苦戦したことと必要以上の神風の強調で、まるで
鎌倉武士が一方的にやられっぱなしだった様な解説はもう沢山と言う感じです。
彼我の武器の破壊力と乱戦になった場合の白兵戦での強さとかもっと科学的に
考えるべきと思います。
19名無しさん@1周年:2001/01/18(木) 01:49
>集団戦にたいして一騎打ちで突っ込む鎌倉武士が苦戦した

それは文永の役まで
20日本@名無史さん:2001/01/18(木) 05:08
まあなんにせよ、日本が高麗みたいな元の
パシリにならなくてよかったな。それも
大国に断固とした態度をとったあの若僧
のお蔭よ。俺は大したもんだと思うよ。
しかし高麗は元に征服されたおかげで
焼き肉、ハングル、チマチョゴリなんか
が生まれたんだからモンゴル人には謝罪
なんか要求するなよ。檀君神話も元の侵略
の産物らしいな。
21日本@名無史さん:2001/01/18(木) 11:58
>15
凄いページ発見!(藁
小児経資?
22名無しさん@1周年:2001/01/18(木) 13:18
>>15のリンク先の人って日本語が不自由な方みたいですね。
23ギャルゲーオタ:2001/01/18(木) 13:54
>日本軍は上陸してきた元軍との戦闘になると、兵器が粗末で(日本は弓、元軍は鉄砲)敗退するばかりであったが

おいおい
24やぁやぁ我こそは品性下劣永田寿康:2001/01/18(木) 14:04
鉄砲って手榴弾風の武器でしょ。
25ギャルゲーオタ:2001/01/18(木) 14:10
そうだす。
26日本@名無史さん:2001/01/18(木) 17:02
しかし、このAERAの記事を読むとヨーロッパの弱さが際だつね。
当時のヨーロッパはそんなに弱かったのでしょうか。
世界史板に書くべきことかもしれませんのでsageます。
27日本@名無史さん:2001/01/18(木) 18:49
>>27
当時の欧州の騎士の鎧は、鎖帷子式で案外簡単に矢が通ってしまうことと、
槍を持って突っ込んでいく戦方法だったので、乱戦になった時の柔軟性も
欠いていたと思います。勿論、装備の重さによる機動力なさも原因でしょう
けど。倭寇の時代でも、刀剣での接近戦での切りあいでは明の守備隊は
太刀打ちできなかったとの記録もあるので、鎌倉武士の個人レベル戦闘力は
やはり高かったのではないでしょうか。
28ありなっち:2001/01/18(木) 19:17
>>27
それは豊臣秀吉の朝鮮侵攻も同じ。
明は白兵戦ではまったく対抗できなかった。
ただしその理由は日本刀の性能にあり、体格・体力では
日本側が劣っていた。
29亀山天皇:2001/01/18(木) 19:28
ドッキリ大成功
30日本@名無史さん:2001/01/19(金) 14:21
>>26
ヨーロッパ人口少ないし、なにもかも遅れてるし・・・
31【^▽^】ジョーカー:2001/01/19(金) 14:25
我が日本民族は西洋人もモスレムも支那人も女真人も
敗北した蒙古を撃退したのだ!
つまり日本民族は世界一強力な民族である!
32日本@名無史さん:2001/01/19(金) 14:56
昔から、野蛮な国ほど戦うと強いんじゃないか?
33日本@名無史さん:2001/01/19(金) 15:52
>>28

日中韓の武術比較で、刀術の日本、拳法の中国、弓術の韓国という
ことを聞いたことがある。元々は中国の方で言われていたことらしい。
日本刀が優れた刀剣であったことだけでなく、使いこなす日本の
武士の技術も優れていたのではないかな。
受け売りだけど、元寇の時の元軍・高麗軍とも、皮鎧とか細かい鉄板
を表面に貼っただけの綿甲冑を装備していたらしいが、これらは、
後の戦国時代より作りが丁寧であった鎌倉時代の日本刀なら、簡単に
突き破れたらしい。一方、元や高麗の刀剣は鋳造品だから、日本軍の
冑に当ると簡単に折れたり曲がったりしたらしい。
34やぁやぁ我こそは品性下劣永田寿康:2001/01/19(金) 16:17
>>33
元や高麗の刀剣が鋳造品って本当?
元の時代にどういう刀剣を使っていたかは知らないけど、
清時代の青龍刀は鍛造品だったよ。
鋳造品だとしたら本当に簡単に折れちゃうよ。
空手なら素手でも折れる。
素人でも足なら折れるよ。
35世界@名無史さん:2001/01/19(金) 17:01
>>34

日本では砂鉄を木炭で溶かすたたら製法では、鉄を完全な液体状に
するまで加熱するのは不可能でしたが、中国では石炭を燃料に一種
の溶鉱炉で鉄鉱石を精製して製鉄をしました。火力があるので液体
状になるまで溶かせたので刀剣類も鋳造することが出来ました。
ただ、単純に鋳型から取り出したものに歯をつけたのはなく、鋳型
から出したある程度は鍛えてます。但し、完全な鍛造品の日本刀に
は鋭利さと強靭さでは遥かに劣ることになります。
36日本@名無史さん:2001/01/19(金) 20:30
いや、あの。
刀が実戦の主力兵器じゃないてこと、
何度もこの板では出ていた話だと思うんだが・・
37日本@名無史さん:2001/01/19(金) 20:41
>>36
 鎌倉時代と戦国時代では、戦術の洗練さが違うんでないの?
 最初の文永の役の頃って、名乗り上げてるところを蒙古軍に射られ
たりしてたんだし。
38初心者:2001/01/19(金) 20:53
>何度もこの板では出ていた話だと思うんだが・・

URL教えて
39ありなっち:2001/01/19(金) 22:14
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=accuse&key=979900320

戦史板の要望出してきた。協力してほしいにょ。
40日本@名無史さん:2001/01/20(土) 00:01
>>37

個人レベルの戦いの錬度は鎌倉の時代の方が高いと思う。戦国時代は、長槍とか
火縄銃の様に相手と距離を取れる武器が主流となっていたから、矢を射尽くした
後は薙刀なり太刀なりで切りあいをせざる得なかった源平合戦から鎌倉時代に
かけての方が個人レベルの戦闘は鎌倉武士の方が強かったと思う。条件は違うが
ドイツ・ポーランド諸侯連合軍とのリーグニッッツの戦いでは、鎧袖一触で
ドイツ・ポーランド諸侯連合軍は敗れ去ったのに、文永の役でも先方の違う敵を
相手に一日持ちこたえ、相手の上級指揮官(劉復享)に重症をあたえたというのは、
それなりに戦果を上げていたと思います。弘安の役では、元の軍船に小船で乗り
付け果敢にアボルダージュを仕掛けているが、二千石積位の大型軍船にせいぜい
数十名程度で乗り込んで被害を与えた上で犠牲を出しながらも生還するのは、
かなり驚異的だと思います。例え奇襲としても自分の数倍の敵が乗り込んでいる
船にアボルダージュすれば大概は返り討ちにあいます。実際、スペインの無敵
艦隊は大型ガレー船で敵の船に接舷し、敵船上船員に匹敵する陸兵を乗り込ませる
ようにしたから、レパント沖の海戦でも打撃を与えることができたそうです。
奇襲による相手の油断を差し引いても敵の10分1程度の少人数でアボルダージュ
してそれなりの戦果を上げられたのは、やはり乱戦時の鎌倉武士の白兵戦での
強さがなければ不可能だと思います。集団戦法は、錬度の低い兵士でも固まって
いることで防御力を発揮できるのですが、一旦乱戦になれば、一騎打ちに慣れた
鎌倉武士でも組討の腕さえあれば、有利に戦えたでしょう。
41日本@名無史さん:2001/01/20(土) 01:15
>>40
あなたのカキコは文字がごちゃっと固まっていて読みにくいのですが、
敵味方がごっちゃごちゃになった戦いの時には、下手に集団戦法を身につけた足軽よりも
一騎打ちを得意とする鎌倉武士の方が強いってことでOKでしょーか?

42日本@名無史さん:2001/01/20(土) 13:24
>>41
というか、乱戦状態では集団戦法のメリットが発揮できないから、結局は
個人レベルでの武術(刀剣での切り合い、組討)の強さが物を言うということです。
43日本@名無史さん:2001/01/20(土) 14:10
一騎打ちにならない
44日本@名無史さん:2001/01/20(土) 15:39
元はインドネシアへの侵攻にも失敗している。
日本とインドネシアとは地形の点で共通点が多いと思う。
45日本@名無史さん:2001/01/20(土) 15:39
大河ドラマでは
日蓮の法力で元を破ったような描き方をしないか心配。
46名無しさん@1周年:2001/01/21(日) 21:08
信長軍             曹操軍
織田信長            曹操孟徳 荀逝
柴田勝家  竹中半兵衛     夏侯惇  荀ユウ
明智光秀  黒田官兵衛     夏侯淵  郭嘉
羽柴秀吉            曹仁   カク
丹羽長秀            曹洪   程逝
前田利家            許楮   司馬慰
池田恒興            張遼
                典ヰ
47日本@名無史さん:2001/01/21(日) 21:14
文永の役は、南宋後略作戦の一環。
弘安の役は、占領した南宋の失業軍人対策。
どっちも、元にとってはそんなに意味のある戦いではなかった。
さすがに怒って三度目は本気で攻めようとしてたら、国内で内乱。
結果オーライだったからよかったけど、一歩間違えてたら・・・
48名無しさん@1周年:2001/01/21(日) 21:59
ネットで見てたんだけど頼山陽いいね

弘安4年5月、「弘安の役」
筑前博多の海はあたかも暴風の時の暗雲が天魔で黒くしているように凶々(まがまが)しい。
海を蔽わんばかりにやって来た者はどこからの何処の賊軍だ。
蒙古軍がやって来る。北からやって来る。蒙古は着実に東西の国を呑み尽くそうとしているのだ。
南栄の老未亡人ともいうべき楊太后を嚇して国を取り、それと同じやり方で日本をも嚇しうると思い、その余勢をかって日本という男児の国へやって来たのだ。
どっこい!相模太郎時宗の肝っ玉は甕のように大きくビクッともしないのだ。
海岸を守る将士たちもそれぞれ全力を尽くして戦った。
蒙古軍がやって来る。我が軍は怖れない。
我が軍が恐いのは命令が山の如く厳然としている関東鎌倉の執権北条時宗なのだ。
その命令とは、「まっしぐらに進んで敵を斬り、後ろを振り向くな」というものだ。
(この戦で河野通有は)自分の小船の帆柱を倒して敵の大船によじ登り、敵将を捕虜にして勝鬨を上げた。
ところが残念なことには、折りから大風が起って、一吹きするや敵船は大波に呑まれてしまい、
羊の臭いのするような生臭い血を持った者を、ことごとく日本刀の膏(あぶら)にできなかったのである。

49名無しさん@1周年:2001/01/21(日) 22:19
やあやあ、遠からん者は音にも聞け、我こそは・・・
この先のセリフを教えてください。
(よこすれでスンマソン)
50日本@名無史さん:2001/01/22(月) 07:00
われこそは、ネコである。
名前はまだない。
51世界@名無史さん:2001/01/22(月) 09:42
>>49

我こそは、〜の住人、「姓」、「受領・官職名」、「名」順序じゃないかな。
それと、本姓が「源平藤橘」の何れかならそれも名乗りに入れたと思う。
52日本@名無史さん:2001/01/28(日) 02:37
>>1さん、それって常識です。

神風が(そしてその神風を起こしたのが我らが・・・)と言うのは
某日蓮宗関係の人たちです。

53日本@名無史さん
「神風」無しで処女膜破った時宗